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ヒューマンエラーは裁けるか

 仕事上の「ミス」は、「罪」として罰せられるのだろうか?

ヒューマンエラーは裁けるか そのミスが、ただ一つの「原因→結果」として直結しているなら分かりやすいが、現実としてありえるのか。ミスを事故に至らしめた連鎖や、それを生み出した土壌を無視し、ミスを起こした「個人」を糾弾することは、公正なのか?「重大な過失」という判断は、誰が、何を基準になされるべきか?被害を受けた人や遺族の感情や補償は、どうケアされるのか?本書は、医療や航空の現場で実際に起きた事例を用い、こうした疑問に応えることで、議論の場をつくりだしている。

 たとえば、誤薬により業務上過失致死罪を受けたスウェーデンの看護師の事例。

 1. PCによる処方箋の作成の手間を厭って読みにくい手書きのメモを書いた医師
 2. メモを「見せる」だけで口頭で引継ぎ指示した夜勤の担当(後にメモは消失)
 3. シリンジの薬剤とバイアルの薬剤の箱を取り違えた看護師
 4. ダブルチェックした同僚と小児科のスタッフ
 5. 調剤の現場をサポートをした医師
 6. 容態が急変した患者の対応をした医師

 これらのプロセスを経て、規定量の10倍のキシロカインを含む薬剤が作成され、投与された生後三ヶ月の女児をが死亡した。たしかに、濃度の異なる容器を間違えたことは事実だが、ミスを誘発するような環境や、ミスを検出できなかったことはとがめられなかった。また、6. でキシロカインを繰り返し投与したことについてとがめられることもなかった。ただ、担当した一人の看護師の「過失」として扱われる。看護師は裁判を通じて、真実が明らかになることを求めるが、弁護士はこう言う。

それはできません。裁判所で求められているのは真実ではありません。求められているのは司法手続きと法的解釈であり、その手続きが正当であることと法的解釈が正しく行われ適用されるかどうかで、真実は二の次です。
 この事故が明るみにでたのは、3. の取り違えを看護師が自発的に報告したから。2. のメモが誤読(誤記?)された可能性も考えられるが、残っていない。看護師の記憶のみ拠っているため、信憑性は低く評価される。結局、看護師は病院を守るためのスケープゴートとして扱われ、似たようなインシデントを起こしていた同僚たちは「私でなくてよかった」と胸をなでおろす。再発防止策は「その場ではない」としてスルーされ、インシデントの共有という絶好の機会は失われる。

 同様に、パイロットと航空管制官の現場で、「あわや大事故」の事例を挙げている。インシデントそのものに着目すると、「ゴーアラウンドの失敗」や「離陸直前の横切り」といった当事者"だけ"に限定されているように見える。しかし、掘り下げていくうちに、「副操縦士の食中毒」や「設計パネルの不具合」、「内部通達上のミス」といったコントロール可能なものから、「燃料切れ」や「悪天候」といったコントロール外の要因が複雑にからみあっていることが分かってくる。しかし、そうした周囲の状況は無視され、司直やマスコミの糾弾により、エラーは「犯罪」として扱われる。そこでは、アクシデントはもはや accidental (偶発的)といった意味合いをなくし、一罰百戒のための厳罰化が横行する。

 著者はこうした状況に異を唱える。ヒューマンエラーを「犯罪化」し、事故の責任者を探し出して罰することでは、問題は解決しないと考える。民事訴訟も刑事訴訟もヒューマンエラーの抑止力として機能しない。そこから生まれる不安は、例えば防衛医療といった後ろ向きの対策に向かうというのだ。「真実」よりも「もっともらしさ」を求め、後知恵バイアスで歪められたストーリーの下では、関係者は「オメルタ」を守るようになる。「オメルタ」とは沈黙の掟のことで、和風に言うなら「キジも鳴かずば撃たれまい」だろう。

 人間である限り、ミスやエラーはつきもの。大切なのは、インシデント情報を共有し、活かすことで、次につなげないよう、事故を抑止するよう、システムを改善すること。そのために、インシデントを報告する「不安」や「恐怖」を取り除き、上司や管理者との信頼関係を築く「公正な文化」(Just Culture)が必要だと説く。著者は公正な文化のため、議論を次の三つの問いに集約させている。

  1. 組織において、ある行動が許容できる/できないの線引きをするのは誰か?
  2. 許容できる/できないの判断において、専門家が果たすべき役割は?
  3. 司法の介入に対して、どのようにインシデント調査を守るか?
 ある行為が許される/許されない判断は、そのときの状況によることは明らかだろう。パイロット採ったある行動は、完全にマニュアルどおりのはずがない。なぜなら、あるインシデントがまさに起きようとする時は、予め想定されていない状況なのだから。そして、その判断はわたしのような門外漢がするのではなく、同じ領域の専門家がするべきだろう。似たような状況のとき、他のパイロットがどうするかに沿った上で、判断されるべきだから。そして、類似事例とともにそうしたインシデントを「犯罪」とさせないためのルールが必要になる。

 著者は、この三つの問いかけが限定的に果たされる状況から、全面的に展開されるシチュエーションまでを想定し、専門家や司法がどのように対応するのかを検証する。そして、公正な文化をつくるためのアプローチを紹介している。

 これらの主張はよく理解できる。インシデントに対し口をつぐませるような文化は、結果的にその社会や組織の損失になる、という理由付けも説得力がある。しかし、どうしても議論が足りないと思われる部分が二点あったので、ここに記しておく。

 ひとつめ。専門職の治外法権について。「許容できる/できない」線引きは微妙なもので、専門家という第三者的な判定組織が必要だということは分かる。だが、その専門家というのはインシデントを起こした専門家(パイロット、医師 etc...)と同じ仲間だから、仲間同士でかばい合うということはないだろうか?本書の注釈では運輸安全委員会の報告書がそのまま警察に鑑定書として提出され、裁判の証拠となることを指摘している(p.191)。しかし、福知山線脱線事故調査の情報漏えいは、まさにその調査委員会の「先輩-後輩」の間柄でなされたことを思い出すと、著者・訳者の説得力は著しく下がってしまうだろう。「同じ穴のムジナ」とされないためのルール整備が必要になる。

 もうひとつ。「責任者を罰しても、インシデントはなくならないし、むしろ報告されなくなる」という指摘も分かる……分かるのだが、それにより引き起こされた犠牲者や、その遺族・周囲の人たちはどうなるだろう?著者は失敗した医療行為により破壊された医者と患者の関係を取り持つメディエーション(調停)を提案することで、患者や遺族への充分なケアの必要性を説いている。しかし、もっと重大な事故、大惨事というレベルのものだったならどうなる?密室内での調停では、とうてい納得できないだろう。大きな事故が起き、沢山の人が亡くなった後、「調べたけれど、"責任者"はいませんでした」はありえない。「大惨事は対象外」というのであれば、どの規模から大惨事となるのか?程度問題であれば誰が線引きをするのか……と考えると、ひとつ上のパラグラフにループする。議論は尽きない。

 ヒューマンエラーが悲惨な事故を引き起こしたとき、事故から学ぶために関係者を"保護"しようとする考え方と、遺された人の感情を思いやること……難しい。これは二択ではないし、ましてやバランスを取るといった教科書的な答えでは対処できない――というわけで、保留する。

 久々に、自分を測る読書になった。

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「WATCHMEN/ウォッチメン」はスゴ本

 これはスゴい。映画は未見だが観るゼッタイ。

WATCHMEN 予備知識ゼロで読み始め、ツカミの惨殺シーンに魅せられる。スーパーヒーローが実在し、現代史に干渉する「もう一つの世界」が舞台。かつて「正義の味方」いま「普通の人」が、一人また一人と消されてゆく。エグい。おそるおそる読み進めるにつれ、幾重にも伏線が張りめぐらされていることに気づく。象徴的な道具の使い方や、映画のようなアングルで、物語だけでなく「カメラ」も意識して進める。一人また一人と、ヒーローたちの「心の闇」が暴かれるにつれ、ヒーローもまた人なんだと感傷に浸ったり、人でなくなったヒーローを見いだしてゾっとしたり。

 圧倒される暴力描写と、その暴力を肯定する「正義」とは何か?考える。あるヒーローにとっては、破壊願望や性衝動を発散するため、合法的に「悪を懲らしめる」手段としての「正義」だ。あるいは、別のヒーローにとっては、社会への怒りや怨恨、嫉妬や羨望を体現するルサンチマンとしての「正義」になる。あるいは、政治に利用され、緊張緩和の手段として濫用される「正義」を見ていると、勧善懲悪の時代がノスタルジックに思い起こされる。これは、オトナが読むヒーロー譚やね。ヒーローが被るマスクは、そのまま偽善を隠す覆面であることが、分かってしまった人のための物語。

 いっぽう、「悪」のなんとチンケなことか。コスチュームを着たかつての「悪の権化」いま「ただの老人」も出てくるのだが、利用されるだけの弱々しい存在。コスチュームを脱いだ「悪」は、強盗や誘拐といったハデハデしいものではなく、麻薬密売や売春経営といった地味な犯罪でシノギをこなす。それは、「悪」というよりもむしろ、生き抜く術のように見える。欲望や憎悪に上書きされた「正義」を見せ付けられていくうちに、しだいに「悪」のカタチが曖昧になってくる。

 物語全体が練りこまれ、濃厚で緻密に作られているため、ページを「巻き戻し」て、伏線の妙に「あああっ!」と叫ぶこと幾度か。まちがい探しのようにコマを凝視することしばし。犯人探しのメイズに迷い込むこと数多。そして、最大のミステリ、「なぜそうするのか?」に込められたメッセージの重さに潰されそうになって息たえだえになる。「フロム・ヘル」[レビュー]同様、呼吸するのを忘れて読みふける。

   正義とは何か?
   正義の味方とは何か?
   どのようにして、平和な世の中をつくるのか?
   人類の全体最適が目的ならば、正義の味方はどうあるべきか?

 これらの疑問に究極的に応えている、「動機」が分かったとき、頭ガツンとやられた。意外だったからでもなく、異質だったからでもない。わたしが考えていたものと一緒だったから。わたしがときおり考える、世界から争いごとをなくすための、かなり現実的な手段だったから。

 黒く笑え、自分の黒さを嗤え。イヤだ、こんな読書。アメリカン・コミックで「逆」ヒーローものという二重三重に虚構の話だからつきあえる。「フロム・ヘル」では、切裂ジャックが悪行を代行してくれた。悪は彼に投影された影なので、(たとえ元がわたしのものだろうと)彼だけを安心して見ていられた。

 しかしこれは、強制的にわたしのダークサイドを見つめさせる。「こうだったらいいのにな的な正義の姿」を一個また一個と潰し、えぐり、刺しつらぬく。ここで殺されているのは、罪もない人たちだけではなく、わたしが社会に対して漠然と持っている、「公平さ」とか「真実」と名づけるべきなにかだ。偽史という「もう一つの世界」という緩衝があってよかった。

 狂気?ああ、狂ってしまえればどんなにありがたいことか。でもこれは違う、狂ってなんかいないんだ。パラノイアに取り憑かれた医師の凶行ではなく、きわめて論理的で、おそらく人類で最も聡明な知性がもたらした帰結なのだから。

 正義とは、「悪」っぽいものを対症療法的にやっつけるヒーローなどではない。「正義の反対は悪ではない、また別の正義」という至言を思い起こす。これは、オトナが読む「正義」の物語やね。正義の正体を知ってしまった人のための究極のブラック・ユーモア。amazonの惹句にこうある――「SF文学の最高峰ヒューゴー賞をコミックとして唯一受賞し、タイム誌の長編小説ベスト100にも選ばれた、グラフィック・ノベルの最高傑作」――たしかにその通りだが、ダメージも大きいぞ。

 目を背けること禁止な。ただし、黒く笑うのは可。

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【PMP試験対策】 プロジェクトマネジメント・フレームワーク(その4)

PMBOK4日本語 【PMP試験対策】は、PMBOK4版をベースに、PMP試験の傾向と対策をまとめるシリーズ。ずっと品切れ状態が続いていたPMBOK4日本語版は、現在在庫アリ。輸入モノなので必要な人はすぐに確保すべし。

 プロジェクトマネジメント・フレームワークの続き。機能型組織、プロジェクト型組織、マトリックス型組織について。

 完全に無風状態でプロジェクトが運営されることは、ありえない。会社の文化やマネジメントのポリシー、組織上の手続きといった、プロジェクトの組織構成に、いわば"翻弄"されるのが常だ。優れたPMは、そうした組織構成を見越して、プロジェクトを有利に持っていくもの……とRita本は言う。

 組織構造のタイプ(型)は、PMがどれくらいの権威(authority)を持っているかによって決まってくる。さらに、それぞれのタイプにおける得意・不得意を把握しておけば、試験対策は充分だろう。

 機能型組織について : 最も一般的な組織構成で、部門ごとに分割されている。つまり、経理部門や営業部門、製造部門といった分け方になっている。プロジェクトはふつう、ある一つの部門の中で発生し、完結する。別の部門の助けが必要な場合、いったん部門長(p.29の言い方だと「機能部門マネジャー」)を経由して調整されてくる。例えば、「営業部門に新規ITシステムを導入するプロジェクトで、収支決済を調整する必要が出てきた。部門長で話し合い、経理から担当がアサインされた」という事例など。

 機能型組織の利点は、スペシャリストが育ちやすい。経理専門、営業専門を思い浮かべれば、そればかりやっているから当然だよね。そして、メンバーはただ1人の上司に報告すればよい。また、似たようなリソースが集中しているため、その分野のプロ単位に組織化されているし、キャリアパスがはっきりしている。

 機能型組織の欠点は、プロジェクトの遂行よりも、目先の業務をこなすことに注力しがちになることが挙げられる。さらに、プロジェクトマネージャは、何の権威もなく、プロジェクトマネジメントのキャリアパスは育たない。

 プロジェクト型組織について : プロジェクト単位に組織されているのが特徴で、PMがプロジェクト組織を担っている。メンバーは帰るべきホーム部門がなく(no home)、プロジェクトが終結すれば、別プロジェクトにアサインするか、別の仕事を見つけてもらうしかないのだ。

 プロジェクト型組織の利点は、プロジェクト指向の組織のため、案件に対し最も効率のよい組織といえること。さらに、機能型よりもコミュニケーションがやりやすい(風通しがいい)ことが挙げられる。

 プロジェクト型組織の欠点は、プロジェクトが終結したら、「ホーム」がなくなること、(経理や人事などの)プロフェッショナルが育ちにくいことが挙げられる。プロジェクト毎に経理や人事などの仕事が重複して存在するため、全社的に見ると非効率的になっているのだ。人材の育成やリソースアサインの観点からすると、部分最適となっているのがプロジェクト型組織になる。

 マトリックス型組織について : 機能型とプロジェクト型の両方の強みを生かしたのがこれ。一言でまとめるなら、「マトリックス型組織とは、ボスが2人いる組織」になる。つまり、PMのボスと部門のボスの2人だ。当然、指示がちぐはぐだったりすれ違ったりする可能性もあるが、「(帰るべき)ホームもありながらプロジェクトにアサインされる」形態となっている。p.29-30 の「強いマトリックス」や「弱いマトリックス」は何を指すのだろうか?図だけを見ても分からないかもしれない。

 実はこれ、PMの権限のことを「強い」「弱い」で表現しているのだ。「弱いマトリックス」の場合、権限は機能部門マネジャーが持っており、PMはリーダーというよりもむしろ調整役になっている。なかでもプロジェクト促進係(project expediter)は権能が弱く、スタッフのアシスタント役か連絡係のような役割となっている。いっぽう、プロジェクト・コーディネーター(project coordinator)は、プロジェクト促進係よりも権能が強く、一部の決定権や上級マネージャーへの報告といった役割を担っている。

 マトリックス型組織の利点は、プロジェクトの目標が見えやすいこと、機能組織からのサポートが受けやすいこと、帰るべき「ホーム」があることが挙げられる。さらに、限られたリソースを最大限に用いる、リソース管理能力が育てられる。つまり、プロジェクト型だと(担当の重複で)リソースのムダ使いするかもしれないし、機能型だとPMの権限が少ないためリソース管理をさせてもらえないかもしれない。その両者の欠点を克服しているのが、マトリックス型組織になる。水平・垂直の両方向にコミュニケーションが取れる。水平は、プロジェクトメンバー同士。垂直は、プロジェクトマネージャ同士で、連絡が密になる。

 マトリックス型組織の欠点は、プロジェクトチームにとって、報告するべきボス・上司が2人以上いること、コントロールが複雑なところ、リソースの割り当てが難しいところ……と多数上げられる。優先順位づけがプロジェクト/機能部門で異なる場合、マネージャーどうしの調整が大変になる。また、仕事を進める上での方針や手続きが、両部門にまたがるため、やはり複雑なプロセスになる。

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PMBOK4日本語 【PMP試験対策】シリーズについて。

 ベースは、PMBOKガイド4版と、"PMP Exam Prep"、通称Rita本の2本立て。PMBOKガイドを傍らに一連のエントリを「読むだけで合格する」ようなシリーズにするつもりだ。過去の記事は、以下のリンク先が入り口となっている。PMBOKガイドの古い版が元となっているが、「PMIイズム」「PM的思考」は学べる。ぜひ参照してほしい。

   【PMP試験対策】 PMBOK2000版
   【PMP試験対策】 PMBOK3版

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「ヴァインランド」はスゴ本

 もちろん持ってますぞ、「V.」も「重力の虹」も新潮社の「ヴァインランド」も。

ヴァインランド そして、どれも最後まで読んでないwww たまに発作的に、「いつかは、ピンチョン」とつぶやいて、あのずっしり詰まったハードカバーを手にとるのだが、イメージの濁流に呑み込まれて読書どころでなくなる。注釈と二重解釈と地文と話者の逆転とクローズアップとフラッシュバックと主客の跳躍に翻弄され、読書不能。まれに、「読んだ」「面白かった」という方がいらっしゃるが、どうやって読んだのだろうあやかりたい頭借りたい。

 逃げちゃダメだ逃げちゃダメだと河出書房の新訳に手を出す。今回は池澤解説(ピンクの投げ込み)と池澤書評[URL]で予習したからバッチリさ――とはいえ、極彩色で蛍光色の【あの】60年代70年代を、ゲップが出るまでたっぷり喰わされる。ロック、ドラッグ、サイケデリックな【あの時代】を駆けぬけ突きぬけくぐりぬけてきた人なら、諸手をあげてラブ&ピース(「友愛」ですなwww)と讃えるだろう。訳者はご丁寧にも注釈で唆す――ネット動画検索等に役立つよう、固有名詞の多くを英語表記する――ので、Youtubeを傍らに読むとノれる。

 わたしといえば、【あの時代】の残滓と微妙にシンクロしており、「初体験リッジモンド・ハイ」のフィービー・ケイツのおっぱいを思い出して愉快になったり、「ブレードランナー」の大富豪のエレベーター(詰みチェスのシーン)もかくありやなむと感慨ぶったり。あるいは'84ゴジラの武田鉄矢「でっかい顔しやがってこの田舎もんがッ」を思い出すし、ピンクに染まった加藤茶の「ちょっとだけよ~」のBGM(テンテケ・テンテン・テンテンテン~)に浸る一瞬も!

 ページをめくるたびに登場する新キャラとエピソードと、複雑に折れ曲がってゆく展開と、現在、過去、大過去を一瞬で行き来する自由度、さらには、独白と会話と一人称と三人称と神の視点と信用できない語り手とピンチョンのコメントが入り乱れ、ついには誰の何の話なのかどうでもよくなる。原書読んでないけれど、訳文から察するに、何の断りもなく過去を現在形で書いたり、話の途中で主客を変換してるんじゃぁないかと。

 脇役が主となるエピソードの脇役が主となるエピソードの脇役が……という因果の連鎖が続き、人物や場所にまつわるエピソードから別の人物や場所にリンクさせるので油断ならない。カメラワークで物語を転がす映画的手法はありがちかもしれないが、この跳躍は尋常じゃない。タランティーノの「パルプ・フィクション」やガイ・リッチーの「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」のような、めまぐるしいシーンの切り替えに戸惑う。読み落として、なんでコイツがこんなことヤってるの???と不思議に思うこと幾度か。

 ちょうど、TVのチャンネルを替えるかのように話が変奏していくのだ。別のチャンネルにさっきの人がちゃっかり登場したり、あるいは、キライなCMを見ないようにチャンネル変えたらまさにそのCMが始まるところだった――といった感覚に囚われる。

 エピソードと人物の連鎖は、ちょうど物語の最深部、ロックンロール人民共和国の崩壊を境に、二つ折りのようにシンメトリックに並んでいる。ダブルミーニングやおふざけワードだけでなく、構成そのものからも仕掛けがある。ストーリー追いかけるだけなら単純な筋を二つ三つ押さえているだけでいいが、これは、物語性を蒸留したりナントカ思想を抽出するようなシロモノじゃないね(やったら死にまする)。ハマる音楽は「聴く」というよりも身を「委ねる」ように、これは読むというよりも「ひたる」「もぐる」感覚を楽しむべし。

 運命に抗おうというよりも波にノって上手くヤっていこう的なノリが【あの時代】の若者っぽい。けれども、ヒッピーをハッピーできるのはわずかな間だけ。いつまでも「若者」ではいられない。トシとっても子ども気分を味わっていたいピーターパンはゾイド・ホィーラ、逃げ回る母親役ウェンディはフレネシ・ゲイツ、海賊フック船長はブロック・ヴォンドにダブってくる。さしずめ、トリックスターのプレーリィは、ティンカー・ベルといったところか。この14歳のプレーリィがまたカワイイんだ、こんなイカすセリフを吐いているぞ。

(「入力と出力に責任をとれない人間は入れるべからず」という規則に)「口から入れるものは自分で稼げ、お尻から出すものは自分で始末しろ、ってこと?あたしなら大丈夫。もう何年もそれやってきてるもん」
欲望の赴くまま公権力を暴走させるブロック・ヴォンドの名ゼリフはコレ。
「いいかね、二つの世界があるんだよ。どこかにカメラがかならずある世界と、どこかにかならず銃がある世界。見せもののゴッコの世界とリアルな世界だ。そのはざまに、いまきみは立ったんだと思ってごらん。さあ、どっちの世界を選ぶんだね。ん?」
 パラノイアに満ちた読むドラッグに懐かしんだり酔っ払ったりしてるうち、カリフォルニアの架空のこの街「ヴァインランド」は、「ネバーランド」に見えてくる。あるいはヴァインランド(VINELAND)ではなくヴェインランド(VAINLAND=虚栄の世界)に空目してしょうがない。

 以下、訳者解説より引用した自分メモ。一昨年から出る出ると噂されていたピンチョン全集がじきに刊行開始となるそうな。現時点でのピンチョンの全著作の概要は、以下の通り。

V. 1956年のニューヨークを基地とし、謎の「女」の暗躍を追って世界史の複数の地点(サイト)に飛んでいく物語。1963年発表。

ナンバー49の叫び声 1964年か65年のカリフォルニアに、17世紀以来、歴史の陰で暗躍してきた対抗コミュニケーション・システムが浮上してきたようすが幻視される。1966年発表。

重力の虹 V2ロケットの降り注ぐ1944年初冬のロンドンから翌年初秋の焼け跡のドイツを舞台とするが、帝国主義下の軍と産業カルテルの進展を追いつつ、話の蔓はアフリカ、アラビア、ロシア、東欧、アルゼンチン、アメリカの便器の奥、地球内部、天国の死者たちへ延びる。1973年発表。

ヴァインランド 1984年のカリフォルニアを現在として、60年代闘争期にズームイン。1990年発表

メイソン&ディクソン 独立戦争前のアメリカに、後に国を二分することになった線を引いていく天文学者と測量技師の物語。面妖なキャラクターが実在の建国の父たちに混じって登場する。珍妙な擬古文体によるポストモダン歴史大作。1997年発表。

逆光 1890年代から第一次大戦直後まで、荒々しい資本主義発展期の地球を、複数の物語がかけめぐる。2006年発表。

Inherent Vice 1970年、カウンターカルチャーの「祭りの後」を舞台とした探偵小説。「内在する愚」と直訳されるタイトルは「もともと傷物」(なので保険の適用なし)という意味の業界フレーズ。2009年発表。

 本書の訳者、佐藤良明氏は、現在「V.」の新訳中で、その後「重力の虹」に取り掛かるという。「ピンチョン・コンプリート・コレクション」がそろうまでに、わたしの本棚の肥やしを読みきれるか――

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自分でエラーに気づくために「失敗のしくみ」

最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか 現場のリスクマネジメントの好著。「失敗」の原因と対策について、ケアレスミスから重大な過失まで幅広くカバーしている。見開き左右に本文+イラストの構成で非常に分かりやすい。

 仕事上、センシティブな情報に触れることがあるし、失敗の許されない作業もある(この「許されない」とは、失敗したら損害賠償という意)。クリティカルな作業は、複数人でレビューを経た手順を追い、チェックリストを指差呼称するのがあたりまえ。それでもミスを完全になくすことはできない。テストファイルを本番環境に突っこんだり、間違ったスクリプトを実行したり、ヒヤリハットは忘れた頃にやってくる。

 ありえないミスとして、単位の取り違えも有名だろう。1999年に起きた火星探査機の墜落事故は、メートルとフィートを間違えたことが原因だし、2010年早々に発生した「2000年問題」は、10進数(10)と16進数(0x10)を取り違え、2009年からいきなり2016年になったことが発端らしい。

 日常生活でもうっかりミスはある。わたしの場合、エレベーターに乗ってて扉が開く→降りる→違う階だった!というボケから、駐車券探すためにいったんエンジン止めて、見つけたのはいいけれど、今度はエンジンかからなくてパニック!(シフトがDのままだった)という恥ずかしいやら情けないやら。

 こうした日常生活や現場レベルでのミスを減らすには、どうしたらよいだろうか?

 さまざまな「気づき」が得られたのは、「絵でみる 失敗のしくみ」。ついうっかり「まちがえた!」「忘れた!」というとき、認識はどのように働いていたのか(いなかったのか)が、過去の事例とともに紹介される。つまり、「ドジ」「度忘れ」「勘違い」のメカニズムが明らかにされるのだ。

 著者によると、人は間違えるのが正常だという。「勘違い」とは即ち入力ミスであり、「度忘れ」は記憶や判断ミス、「ドジ」とは出力ミスだとカテゴリを分け、それぞれの防止策を解説する。本書によると、エレベーターで降りる階を間違えるのは、「出力ミス」になる。動作パターンを体が記憶しており、習慣化に慣らされた体が、逆にその習慣に乗っ取られた事例だそうな。対策はセルフモニタリング、自分の行動をふりかえる「癖」をつけよという。鍵かけ指差し呼称や、宛先はメール送信直前に入れるといった応用が利く。失敗が影響を与える前に気づき、検知する仕組みを習慣化するわけ。

 また、相手を巻き込む「確認会話」の提案は有効だ。わたし自身も実践しているテクニックだが、意外とこれでミスを発見できる。「確認会話」とは、「相手が使った言葉とは違う表現で返す」こと。たとえば、相手が「来週火曜の夜7時にしよう」といったら、「来週の火曜日は……1月26日の19時ですね」と応えるのだ。単なるオウム返しではない「言い換え」により、相手のいい間違いと、自分の聞き違いが一度に分かる。

 本書で知った事例なのだが、2008年に徳島で起きた医療事故が痛ましい。ホルモン剤を投与するつもりの医師が、間違えて筋弛緩剤を処方したため、患者が亡くなったのだ。ホルモン剤は「サクシゾン」という名称で、筋弛緩剤は「サクシン」という。

 病院は「サクシゾン」を常備リストから外すなどの予防処置をしていたが、医師は転勤したばかりで知らなかったこと、処方プログラムの先行入力(最初の数文字を入れると候補が出る)でカン違いしたことが重なったという。点滴を担当した看護師は不審に思い、「サクシンでいいのですか?」と確認したのに、医師は何を聞き間違えたのか、「20分でお願いします」と答えたとある。もちろん医師のミスであることは間違いないが、そもそもそんな紛らわしい名前にしていることの方が問題だろう。この事故の後、筋弛緩剤は「スキサメトニウム」と改名されている。

 著者が強く主張しているのは、「失敗を裁くな!」ということ。懸命にやった上でのミスは、懲罰では防げないという。ミスをした人が逮捕されたり、有罪になったりすると、同業者は意欲をなくしてしまうおそれがある。さらに、日本社会は、技術的エラーにもっと寛容になるべきではないか?と問いかける。

 もちろん、職務として与えられた役割を放棄していた(規範的エラー)のであれば、その怠慢は責められるべきだろう。しかし、行うべき職務を果たしたものの、結果が要求される水準より低かった(技術的エラー)場合を厳罰にするのはおかしいというのだ。「医療事故→医師有罪」を立式して煽るマスコミへ、釘を刺しているように見える。

最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか 大惨事のレベルになっても、ミスやエラーの本質が変わっていないのが興味深い。「最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか」では、飛行船墜落や原発事故、ビル倒壊など50あまりの事例を紹介している。誰がどのように引き起こしたか、食い止めたか、人的要因とメカニズムがドキュメンタリータッチで描かれている。「エラーを起こすのは人、くい止めるのも人」というシンプルな結論は、その対策も巨大化しているだけで本質は同じ。全てのエラーはヒューマンエラーになる。わたしのレビューは「最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか」を参照のこと。

 失敗を不必要に怖がるべきではなく、むしろ、失敗から学ばないほうが怖い。ミスを減らす特効薬は、過去のミスから学ぶことなのだから。転ばぬ先のなんとやら、日常/仕事を問わず、「ミス」を確実に減らしていきたい。

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【PMP試験対策】 プロジェクトマネジメント・フレームワーク(その3)

 【PMP試験対策】は、PMBOK4版をベースに、PMP試験の傾向と対策をまとめるシリーズ。

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 プロジェクトマネジメント・フレームワークの続き。制約条件、OPM3、ステークホルダーについて。

 「制約条件」について。プロジェクトを縛るものとしてさまざまな制約条件が挙げられる。スケジュール、コスト、リスク、スコープ(仕様)、品質、リソース、顧客満足度など、さまざまな要素がある。先に「縛る」という比喩を用いたが、見方を変えるとこれら制約条件は、要求達成度を測るモノサシとして定義することができる。つまり、制約所受けとはプロジェクトを縛るものではなく、測るものなんだ。

 制約条件には優先度が伴う。リリース日が譲れないのなら、機能を削減するか、コストを追加するといった対策が必要だ。そして、制約条件の優先順位を決めるのが、上級マネージャーの役目になる。

 あたりまえのことなんだが、これを理解できていないぼんくらは意外に多い。このぼんくらは、特に上司や発注元に集中しているのはナントカの法則ともいうべきだろう。スケジュールを短縮したら、コストや品質に悪影響を及ぼすなんて、常識以前の問題だろう。「すべて最優先で!」などと、精神力でナントカさせようとするその精神が狂っている。

 プロジェクトが開始された途端、制約条件は追加・変更される。制約条件が変わらないプロジェクトなど、ありえないといっていい。そして、変更要求が制約条件へどのような影響を与えるかを分析するかは、PMが責任を負っている。全ての変更要求は、統合変更管理を経て精査される。これは「べき」論ではなく、あたりまえの手続きだと受け取ったほうがいい。ぼんくらどもの要求圧力は、統合変更管理という公の場で吟味され、優先順位とトレードオフが決められる。舞台裏での「貸し/借り」は、ないのだ。

 「OPM3」とは、"Organizational project management maturity model" の略で、「組織的プロジェクトマネジメント成熟度モデル」と訳される。プロジェクト、プログラム、ポートフォリオをマネジメントする組織的能力や成熟度を測るためのモデルで、「標準化」「測定」「コントロール」「継続的改善」の4つの改善段階を踏むとされている。

 「ステークホルダー」について。ステークホルダーとは何ぞや?よく「プロジェクト関係者」と表されるが、要するにプロジェクトに影響を与える人や組織のこと。この「影響」はポジティブでもネガティブでも関係なく、PM、顧客、スポンサー、チームをはじめとし、マネジメントチームやPMOもステークホルダーとして含まれている。

 Rita本では、ここで注意が入る。「ステークホルダーとは、プロジェクトチームの手助けをする人たちだけではない」と忠告する。もし、「ステークホルダー = チームのアシスタント」と思っているのなら、大きな勘違いをしているそうな。PMP試験は危ういし、プロジェクトそのものの成功もおぼつかないとまで言う。

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PMBOK4日本語 【PMP試験対策】シリーズについて。

 ベースは、PMBOKガイド4版と、"PMP Exam Prep"、通称Rita本の2本立て。PMBOKガイドを傍らに一連のエントリを「読むだけで合格する」ようなシリーズにするつもりだ。過去の記事は、以下のリンク先が入り口となっている。PMBOKガイドの古い版が元となっているが、「PMIイズム」「PM的思考」は学べる。ぜひ参照してほしい。

   【PMP試験対策】 PMBOK2000版
   【PMP試験対策】 PMBOK3版


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「フォーサイト」の次は、これに決めた!

 新潮社のフォーサイトが休刊するにあたり、代替を探していた[URL]。たくさんの有益なアドバイスをいただき、とても感謝しています。リサーチと呻吟の結果、以下の雑誌を定期購読することに。

  フォーリン・アフェアーズ・リポート
  COURRiER Japon

フォーリン・アフェアーズ・リポート まず、フォーリン・アフェアーズ、これはスゴい。アメリカの外交問題評議会によって創刊された外交・国際政治専門誌で、最も影響力のあるそうな[Wikipedeia:フォーリン・アフェアーズ]。「フォーサイト」でいうなら、巻頭リポートに相当するネタが3倍入っている。さらに、ホット・イシューに対応する「特集」が3-4本の論文、フォーラム、対談形式で集められている。マネジメント層(しかもかなり上の)での政策決定の材料として充分。

 たとえば今号(2010年1月)の「中国の台頭の戦略的意味合い」を読むと、中国をステレオタイプに描く日経○○との差が際立つ。中国に対するパワーバランス形成を視野に入れつつ、エンゲージメント政策(軟)とリスクヘッジ政策(硬)を展開する米国、対日路線をソフトパワーにシフトさせている中国、国内問題に囚われ役割を果たせないでいる日本が、明快に語られている。

 この大局観はかなり参考になる。「アメリカが関与しなければ、基本的にアジアは、中国が支配的な影響力をもつ一極支配構造になっていく」という主張は、好む好まざるとにかかわらず、実現性の高いシナリオだ。もちろん鵜呑みは禁物だが、影響力ある多くの人がこれを読んで判断・決定しているということを忘れないように。

 ただ、悩ましいのが価格。2,200円/冊はフトコロに厳しい。近場の図書館にも置いてないし、通販オンリーなのもハードルが高い。わたしの仕事とはこれっぽっちも関わらず、単に好奇心とアンテナを満たす(磨く)ためだけに、これだけの出費は実に痛い。さも自分で発掘してきたかのような顔をして、このblogのネタにしようかなwww 書評とエロに満ちたこのblogに似合わぬ政治経済ネタが並ぶようになったら、元ネタはコレだと思ってほしい。

クーリエ・ジャポン お次は、COURRiER Japon、悩んだがコストパフォーマンス的に一番有効なのだ。決め手は山形浩生のエコノミスト解説と、町山智浩のアメリカ評。これまで山形コラムを立ち読みでごまかしてきたが、この際ちゃんと買って読もう。

 クーリエのいいところは、ワールドワイドのニュースソースを揃えて、「いいトコどり」をしているところ。フィナンシャル・タイムズ(英)、タイム(米)、レブブリカ(伊)、ガーディアン(英)、ディ・ヴェルト(独)、ジェニク(ポーランド)、エコノミスト(英)……ほぼニュースの数だけニュースソースがあると考えていい。これだけの多様性を束ねるメディアは面白い。

 要するに、世界のクォリティ・ペーパーの寄せ集めなんだ。それも、ただ集めるだけではなく、号ごとにテーマを決めて、それに沿った記事を集めてくる。編集者の技量と、ニュースの蓄積がハンパではない。「ワールドワイドに展開しているメディア」ではないところが重要なのだ。世界じゅうに広がるメディアではなく、それぞれの地域・経済圏で影響力を持つメディアの「積分」が、クーリエの強みになる。

 しかし、その一方で、「残念」もあった。昨年の何号か、著名人を招聘して「○○責任編集」と銘打った特集をしていたが、まさにこれが大便。名前はメジャーだが空っぽの芸能人のオヌァニーを、一誌丸ごと読ませるのかと思ってたら、局所的だったので許す。インテリ芸能人を呼ばないと雑誌が成り立たないのだろうか?またやるようなら、立ち読みに戻る。

 これで、国内情勢を知る雑誌がゼロになった。一時期は「フォーサイト」「選択」「FACTA」の3枚看板だったが、これを機会に"卒業"しよう。つまり、国内の方向性を決める要因は無い、と割り切るのだ。マスコミは煽るだけで、なんの判断材料も取ってこれない。国内ニュースの速報や確度はネットで充分。この国には、パワープレイヤーやトリックスターはいない。いや、昔からいなかったというべきかも。この国の方向を決めるのは、昔も今もガイアツ。漂えど沈まず、なるようになっていくだけなのだから。

 では、なぜ「日経新聞」なんて購読しているのかって?それはもちろん、上司と話を合わせるため。雑談の「あれ見た?」のネタのため。プロ野球の結果や流行りのドラマと同じように、一面や新製品情報に目を通す。いっぽう、ニュースの真相と深層を知るため、いわばニュースのオリジンをたどるため、フォーリン・アフェアーズを読む。これからは、人と合わせるための日経新聞、人を出し抜くためのフォーリン・アフェアーズとなるのかも。

 Foresight の代わり、どうする?でアドバイスをいただいた方に、薄謝をしたいと思っています。はてなポイントをお渡しするのが簡単なのですが……教えていただけないでしょうか?「はてな入ってないよ!」であれば、指定してくださいませ。

  Physさん
  terrorism583さん
  kdmsnrさん
  eveninglandさん

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大人のための数学「変化する世界をとらえる」

大人のための数学2

 やりなおし数学シリーズ。

 ガチャピンの名言に、こんなものがある→「すごい!うみには、ふしぎな生き物がたくさんいるね」。うむ、きみのほうがよっぽど不思議だ。同様に、微積分を易しくかみ砕きながら、「sinを追いかけるcos波の高さが、sin波の(接線の)傾きだということは、不思議だよね」という著者に、同じセリフを贈ろう。

 数学のプロフェッショナルでありながら、同時に数学へのワンダーを口にする、いわゆる「天然」なのだろうか。あるいは逆で、その「不思議さ」を感じ取れるように人だからこそ、数学の第一人者となったのだろうか。さておき、今回も愉しい数学の復習だった。わたしが高校生だったころ、微積分あたりから授業のペースについていけず、理解ではなく暗記ばかりでテストを乗り切っていた。その復習をしているだけで、なぜこんなにも面白いのか。

 まず、分かるまでくりかえす姿勢だろう。単に数式の操作だけで証明するのではなく、メタファーと例えを重ねることで、実感として納得させようとする。さらに、「○○は明らかだから」とサラりと流さず、しつこいくらいにやり直して考えさせようとする。微分・積分、三角関数、指数・対数、導関数……やっていることは数IIA(って今でもあるのかな?)のおさらいなのだが、分かりやすさは半端ない。そして、本質が分かった瞬間の快感は射精感に近いものがある。

 たとえば、自然対数の底(てい)をあらわした指数関数の感覚を、次のように想像させる。y=e^x のxに対する近似値をとるのだ。

x が

   1,5
   10
   20
   50

となるにつれて、y=e^x の値は、

   2.7
   148.4
   22026
   485165000
   5100000000000000000000

と、途轍もない値をとる。これは、グラフを見て想像する度合いをはるかに超えている。この「途方もなさ」感覚は、著者の手にかかるとこうなる。

1cm の目盛のグラフ用紙を使った場合、 x=10 のときの y=e^x のグラフの高さは 220m となり、 x=20 になると 5000km に近づく。これは、子午線に沿って赤道から北極までの半分くらいの距離になる。そして、 x=50 になると、地球から銀河系の近くに達するくらいまでの距離になる
 もちろん実証的に数式を分析する手は抜かないが、その一方でこのような感覚的な把握を促すような「たとえ」を用いてくれる。おかげで、微分と積分の本質がようやく理解できた。微分も積分も、変化する世界を測定する方法だったんだね。微分は瞬間(一点)を、積分は積上げで全体をとらえようとするアプローチの仕方が異なるだけで、やろうとしていることは同じだ。

 つぎに、数学は自由だ、というメッセージがビシバシ伝わってくるところ。教科書だと定理を導いたり証明したりして、はい、お終いになる。しかし本書だと、別のアプローチや、異なる概念の結びつきを重視する。例えば、sinを微分するとcosになることについて。ふつうは加法定理で示すらしいが、本書ではもっと直感的に、単位円上にsin(x)とsin(x+h)を記し、相似となる三角形から導き出す(p.70)。hがだんだん小さくなるにつれ、三角形が相似形になる様子が鮮明に浮かんでくる、すばらしい説明だった。

 ちなみに、「一般的な加法定理」のほうは、本書にはない(googleって分かったのだが、習ったはずだが忘れてた)。思い出すためには余弦定理(参考 : KIT数学ナビゲーション)まで遡る必要があった……このリンク先のサイトが典型的で、「数学的に正しい」ことを追求するあまり、無味乾燥な数式の羅列となっている。これらは簡潔で美しいともいえるが、追いかけるのは耐えがたい「作業」で、久々に数学の「辛さ」を思い出す。メタファーに満ち溢れた本書とは対照的だな。

 つまりこうだ。教科書的なやり方だと、sinの微分を求めるために、加法定理を使う。加法定理を使うためには余弦定理を、余弦定理を使うためにはピタゴラスの定理を理解する必要がある……積上方式なんだ。学校の数学とは巨大なピラミッドで、下のほうの石が不安定だと、崩れてしまう。これを、「教科書に載っているということは、どうせ"正しい"ことなんでしょ」と割り切って、基礎を「覚え」てしまうこともできる。すると、安定はするが、積み上がるものは限られてくる。

 いっぽう、本書の方法は違う。もちろんsin、cosの基礎はキチっと説明するが、あとはより図形的で感覚的なアプローチを用いる。本書の目標、つまり「微分と積分の本質を伝える」があるのだから、そこへ到る楽しいルートをたどる。面白くないわけがないのだ。

 思い起こすと、数学の授業は、いわゆるペースメーカーだった。質問したり「不思議」を感じる場ではなかった。デキる奴はさっさと大数(大学への数学)を進め、デキない奴は青チャートの暗記、そしてオチコボレは内職に精を出す。分かることよりも、(問題が)できることの方が優先された。理解よりもテクニックが優先され、それがよしとされていた。

 「分からなかった」のは、時間が足りなかったから(と弁明したい)。制限時間内で問題を解くのが数学ではない。自分のペースで探索し、すでに解決された定理を自らの手で再解決する「エウレカ!」を味わう。どうしても分からなければ、いったん飛ばして、あとで戻ってこればいいんだ。まわり道も無問題だし、道草上等、そんな数学が欲しかった。

 それをかなえてくれるのが、結城浩「数学ガール」と志賀浩二「大人のための数学」シリーズ。期末テストもセンター試験もないのだから、ゆっくり、じっくり、つきあっていこう。これは、暗記暗記で逃げていたわたしへの、ささやかな復讐なのだから。でも、この復讐、楽しすぎるんだけどww

 大人のための数学シリーズは、以下の通り。

すべてのテトラちゃんへ「大人のための数学1/数と量の出会い」

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「ファウスト」はスゴ本

ファウスト1ファウスト2

 「死ぬまでに読みたい」シリーズ。人生は有限だが、この事実を忘れることが多い。

 古典として名高い分、敬遠してきた。もちろん新潮・岩波に手を出してヤケドしたこと幾度か。けれどもなぜか、あらすじとあの文句は知っている→「時よ、とどまれ、おまえは美しい」。ためしにGoogleってみるといい。いつもならAmazonが鎮座ましまする最上位にWikipedia「ファウスト」が居るのは、それだけ皆が本を回避してきた証拠のようにみえてくる。

 それが、さっくり・すんなり読めてしまった。これには、ワケがある。

 実は、今回手にしたのは、歌劇であり詩劇ではなく、散文「ファウスト」なのだ。これは訳者・池内紀氏のおかげ。氏曰く、「ファウスト」には場面に応じたさまざまな詩形が使われており、それだけでもゲーテは天才だといえる。しかし、そいつを日本語にした瞬間、彼が苦心した一切が消えてしまう。韻律が極端に乏しくなり、まるで別の構造を持った日本語においては、詩句を踏襲しても、どこまで再現できるか、疑問だというのだ。

 そのため、詩句をなぞる代わりに、詩体を通して伝えようとしたことを、より柔軟な散文でとらえたのが、この集英社「ファウスト」だという。名前だけ知ってて読まれることのない『名作』を祀りあげる代わりに、「いま・ここ」の言葉であらわそうというのだ。スペクタクルなとこは山本容子の挿絵で広げ、最低限の知識のみ注釈で補う。ダブルミーニングや韻律の妙を細かく解説のではなく、まず読んでみなされ、と誘っているのだ。

 おかげで、裏読み・深読みの苦労は皆無だった。時空が錯綜する第二部もつまづくことなく、解釈の迷路に行き惑うことなく、ところどころに仕掛けてある韻文すら楽しむ余裕まである読書だった。そのいっぽう、詩としてとらえず、音感を無視した分、ビジュアル面が強調された読書となった。

 輝きと彩りとカタチにまみれたイメージの奔流と、英雄魔物半神怪物のどんがらがっちゃんのお祭り騒ぎが、いっぺんに挿入(はい)ってくる感覚。文字から得られるイメージは、映像の記憶を強烈に呼び覚ます。字を追っていくうちに、過去の映画のワンシーンが唐突に浮かんでくるといった、奇妙な体験をする。

 たとえば、嬰児殺しによる斬首が「首のまわりの赤い線」で暗示されているグレートヒェン。ここでは、映画「女優霊」でいるはずのないフィルムの中の女優の登場シーンをフラッシュバックのように思い起こさせる。あるいは、第二部ホムンクルスの章。エーゲ海を舞台した火と水によるエロスの祭典なんて、「崖の上のポニョ」の咲き乱れる魔法のシーンと重なってしょうがない。フラスコの中の人の雛形とビンに閉じこめられた人面魚がオーバーラップしてくる。

 極めつけはラストのファウストの昇天。ファウストの魂を奪い合う悪魔メフィストvs天使軍団の誘惑バトルは、量産型エヴァに喰われる弐号機を思い出す。もちろん「ファウスト」がモデルのはずはないのだが、わたしの記憶に勝手に接続してくるのは愉しいような恐ろしいような。

 ただ、なんでもかんでも二元論にもっていこうとするのに辟易する。韻律の基本「対比」に乗せることができるからだろうか、神と悪魔、創造と破壊、光と闇、男と女……いくらでも対比イメージが浮かんでくる。伏線や章立てや二部構成も、それぞれ照応するように書いてあるので、研究したらいくらでも掘れそうだ。

 わたしの場合、いたるところに「男と女(とエロ)」に満ちている、と感じた。ファウストとグレートヒェンといった分かりやすいものだけでなく、悪魔と天使のバトルすら交接のメタファーのように見えてくる。もちろんわたしがエロいからなんだろうが、ゲーテもかなり助平で安心した。これは、人生のそれぞれの読む瞬間(とき)に応じて、くみ出せるものが変わってくるんだろうね。

 なので、「死ぬまでに『もう一度』読みたい」スゴ本になっている。

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【PMP試験対策】 プロジェクトマネジメント・フレームワーク(その2)

 【PMP試験対策】は、PMBOK4版をベースに、PMP試験の傾向と対策をまとめるシリーズ。

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 プロジェクトマネジメント・フレームワークの続き。プログラム、ポートフォリオ、PMO、目的によるマネジメントについて。

 「プログラム」とは何か。プログラムとは、プロジェクトをグルーピングしたものであり、複数のプロジェクトの協調させ、調和が取れるようにマネジメントする。一例として、ロケット開発プログラムでは、ロケットエンジン、本体、衛星のそれぞれの開発プロジェクトを協調させながらすすめる必要がある。

 ただし、プログラムには反復的および周期的業務も含まれることに注意。PMBOK3版p.16の例によると、公共事業では、年次「建設プログラム」と呼ばれるが、これは毎年積み重ねで実施される一連の建設プロジェクトのことを指している。プロジェクトは周期性を持たないが、プログラムは周期性を持つ業務「を含む」のだ。

 「ポートフォリオ」とは何か。ポートフォリオとは、プログラムとプロジェクトをグルーピングしたものであり、ビジネス上の戦略的目的を達成するためにまとめられている。ひとつのポートフォリオに、複数のプロジェクト、プログラム、定常業務が含まれている、と考える。

 「プロジェクトマネジメント・オフィス(PMO)」とは何か。ともすると分散しがちなプロジェクトのマネジメントを集中化させるたに、次のような役割を果たすオフィス。①組織におけるPMポリシーや方法論、テンプレートを提供する。②組織においてプロジェクトをマネジメントするためのサポートやガイダンス、トレーニングを行う。③プロジェクトマネージャを提供し、プロジェクトの結果に責任を負う。

 PMOが超越的な権限を持っている人だと考えてはいけない、あくまでも一組織だ。そして、組織によって様々な役割を果たす。たとえば――プロジェクト間の相互依存関係を調整したり、プロジェクトを終結させたり、組織のルールとしてコンプライアンスをモニタリングしたり、教訓を収集して組織内で共有化したり、変更管理委員会として働いたり、ステークホルダーそのものとなったりする。

――とRita本にあるが、PMの吹き溜まりとなってやしないだろうか?かつては敏腕を鳴らしたPMでも、技術革新に取り残されたり、貢献に見合うポストが提供できなかったりの理由で、PMOに「安置」させられてやしないか?PMOを設置してこれで大丈夫だと胸を張る経営者を見ていると、そんな疑問が頭から離れない。

 そんなわたしの疑いに応えるように、Ritaはこう述べている。PMOは最近のトレンドだが、まともに働かせるためには、①役割の明確な定義づけ、②なんにでも関わらないこと、③有資格者(PMP)が携わること、④トップマネジメントのコミットメントと関与が必要などと述べている。そもそも、PMO自体が適切なプロジェクトマネジメントを要するので、「組織をつくればOK」という経営者が安易過ぎることがよく分かる。ああ、誰かさんに読ませてやりたいナリ。

 「目的」とは何か。プロジェクトマネジメントにおける「目的」とは、「そのプロジェクトの結果、生み出されるサービスや製品」だけではないことに注意。目的は、プロジェクト憲章など、プロジェクトを通じて生み出されるものを含む。目的は、立ち上げ時に特定され、計画時にブラッシュアップされる。つまり、そのプロジェクトで何を目指すのか?が最初に決められるのだ。

 目的が、「予定通り」であれば、それは上手くいっているプロジェクトと呼んでもいい。逆に、目的に適っていないプロジェクトは、それをやめさせる理由にもなる。そのため、プロジェクトに対する要求と目的は、トレードオフの関係になることがよくある。言い換えると、「目的」とは、作業が向かうべき方向であり、達成すべき目標であり、取得すべき所産や、産出すべきプロダクト、実行すべきサービスだったりする。

 また、「目的によるマネジメント」(MBO/Management by Objectives)とは、次の3ステップによる。①具体的な目的を確立し、②その目的に適応しているか、定期的にチェックし、③必要に応じ是正処置を施す。

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PMBOK4日本語 【PMP試験対策】シリーズについて。

 ベースは、PMBOKガイド4版と、"PMP Exam Prep"、通称Rita本の2本立て。PMBOKガイドを傍らに一連のエントリを「読むだけで合格する」ようなシリーズにするつもりだ。過去の記事は、以下のリンク先が入り口となっている。PMBOKガイドの古い版が元となっているが、「PMIイズム」「PM的思考」は学べる。ぜひ参照してほしい。

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「ブラッド・メリディアン」はスゴ本

ブラッドメリディアン アメリカ開拓時代、暴力と堕落に支配された荒野を逝く男たちの話。

 感情という装飾が剥ぎとられた描写がつづく。形容詞副詞直喩が並んでいるが、人間的な感覚を入り込ませないよう紛れ込ませないよう、最大限の努力を払っている。そこに死が訪れるのならすみやかに、暴力が通り抜けるのであれば執拗に描かれる。ふつうの小説のどのページにも塗れている、苦悩や憐憫や情愛といった人間らしさと呼ばれる心理描写がない。表紙の映像のように、ウェットな情緒が徹底的に削ぎ落とされた地獄絵図がつづく。

 感情を伴わない暴力は、自然現象に見える。しかも、その行為者が人間の場合、一種奇妙な感覚にとらわれる。即ち、その殺戮は必然なのだと。生きた幼児の頭の皮を剥ぐといった、こうして書くと残忍極まる行為でも、実行者は朝の歯磨きでもするかのようにごく自然に「す」る。もちろん行為の非道徳性を批判する者もいるが、どちらも感情が一切混じえてない会話・行動なので、読み手は移入させようがない。起きてしまったことは撤回されることはないのだ。

 たとえば「悔恨」という言葉があらわれたとしても、それは否定するために持ち出され相手を推し量るのは殺す・逃げるための力量であって感情ではない。自分の進む道が他の人間や諸国家の進む道と一致してようがいまいが関係ないと言い切る。思い煩うことは断固としてやめてしまった男でありどんな運命も定まった上でなおこの世界がある←その世界をも丸ごと引き受けようとするんだ。

 せいぜい読み手ができるのは、自分の護るちっぽけな世界と比較してうなだれたり、ナマの野性に食あたりするくらいだろう。ここには加工されていない野蛮が慎重に放置されているのだから。小説ばかり読んできて世界を分かった気になってる蛙たちはぺしゃんこになること請合う。あるいは理解を拒絶するだろう、今度は自分を護るために。

 そう、読み手に対して「描写」しているくせに、読者の判定を一切拒否っている。この書を手にする人の感情の一片をも割り込めないような強靭で的確でスケールのでかい記述にたじたじとなる。地の文と会話が区別なくよどみなく進み、接写と俯瞰の切替は唐突で、動作は結果だけシンプルに続く。人間のセリフだけが意味あるものとしてカッコ「 」に特権化されていないため、人の声も風の音も銃声もすべて等質に記述される。試しに引いてみよう。

公平だの公正だの倫理的な正しさだのの主張は問答無用で却下され両当事者の世界観などは無視される。生か死か、何が存在しつづけ何が存在をやめるかという問題の前では正しいかどうかの問題など無力だ。この大きな選択に倫理、精神、自然に関する下位の問題はすべて従属しているんだ。

上はホールデン判事の台詞。この人物、誰かに似ているなーと想像するに、コンラッド「闇の奥」のクルツだろう(訳者も同じことを指摘している)。次は絶望的なワンシーン。ただし、「絶望」だなんて勝手に判断するのは、読者なのだが……

二人が行く砂漠は絶対的な砂漠で特徴がまるでなく前に進んでいることを示す徴がなかった。大地はあらゆる方向に同じように離れていって曲線を描く限界に達しているがこの限界線に囲まれた二人はその円の中心だった。

読点が極限まで排されたなか、息をとめ潜行するような読書になる(句点で息つぎをする)。ところどころに光らない黒いナイフのようなユーモアがあばら骨のすき間に差し込まれ呼吸できないくらいのヒステリックな笑いにおそわれる。

 このどこにもない物語は、あたらしい神話と呼ぶのがふさわしい。

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