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「ロリータ」はスゴ本

ロリータ ロリータという幻肢。

 かつて読んだはずなのだが、「見た」だけだった。ストーリーをなぞり、会話を拾い、あらすじと結末が言えるようになることを、「読む」と信じていたことが、痛いくらいわかった。

 というのも、先日読了した「小説のストラテジー」[レビュー]によって、新しい目を手に入れたからだ。この感覚のおかげで、プルーストのコメントがようやく理解できた。曰く、「本当の発見の旅とは、新しい景色を探すことではない。 新しい目を持つことなのだ」。次から次へと、とっかえひっかえ読んでいても、「発見」はある。それは、かつて読了した記憶への反応であって、本当の発見にはほど遠い。

 じゃ、「本当の発見」とは何ぞや?

 今回の読書で発見したもの――それは、濃度と速度。

 「文章を味わう」といった自分でも説明できない言い方ではなく、物語や描写の濃度と速度そのものから快感を得る。アクセルを踏んでスピードがぐっとあがるときに感じる高揚感に近い。あるいは高速から下りた直後、視界が広くなると同時に、周囲が密集していることを感じるときにも似ている(スピード出していると、運転に関係しない情報は棄却される。逆に緩めると、世界が情報に満ち溢れていることに気づかされる)。

 ロリータを含めた過去を総括する形の記述上、描写の濃淡が記憶の密度と比例している。だから、物語的だった描写が一転し、ひとつひとつの事物を綿密にしだすとき、わたしは身構える。S.キングやJ.アーヴィングでおなじみだったが、ナボコフは転調の兆しとして、「色」を与えているところが一枚上手だ。

 喜劇を悲劇に転回するポイントで、突然、具体的な色をあたえられ、時系列で叙述される。「紫」に喪服の意味があることを知って読むのと知らないで読むのとでは、ダメージが違ってくるかもしれない。それくらい意味があるようだ。

 せっぱ詰まった状況なのに、いちいち目にとまる小物の詳細を書き分けている。ストップ・モーションを「読む」感覚。これは、主人公のあせりを演出するだけでなく、読み手の「それで?それで?」を急きたてる効果があることに気づく。技法としてはおなじみなんだが、今回は、狼狽している自分と、傍らで分析している自分の、両方を意識した。

 その一方、ロード・ノヴェル編ともいうべき中盤は、見知らぬ地名や見慣れたモーテルの調度に散文的に目を投げかける「みだれぐあい」に気を配って読む。記憶が散漫になっている印象が、そのまま読み手の記憶と化す。ロリータとの過去と、本作に触れている読み手の今との往還が断ち切れる。自己正当化が見え隠れするペダンティックな書き口から、光景そのものが立ち上がってくる。このリズムと転調がきもちいい。

 気持ちよさを意識して読むことで、何層も気持ちよくなれる。味蕾に集中した食事や、嗅覚を利かせた飲酒といった「たとえ」で示してもいいが、この快楽の追求方法は、セックスそのものに近い。

 漫然と交接してもそれなりに心地よいが、意識してテンポや深度・角度をアレンジしていくことで、より大きな快を得ることができる。Point of No Return を超えると、自他の区別がつかなくなる。快を創出・享受しているのはペニスかヴァギナか区別がつかない(隻手音声の実践といったらバチあたり?)。

 これをもっと貪欲に、さらに客観的にしていく。ただ、セックスならパートナーの了承を必要とする場合があるし、ひょっとすると、ひっぱたかれるかもしれない。が、小説は待っていてくれる。どんなアクロバティックな「読み」も、許してくれる。

 これが「物語」なら、いろいろやった。別の物語を外側に作り出した、かぶせ読みとか、「実は○○だった」という設定を妄想した電波読み、オチを先読みしたり、ナナメ上の超展開を想像したりと、イロイロ遊べる。

 しかし本作は、そうした物語の消費としての「読み」を拒絶する。絶えず読み手を挑発し、自分の内臓をとり出して(ホラホラ!)見せることで、感情移入を排斥する。学はあるが、みじめったらしい自分を隠そうともしない主人公に、かなりの読者は共感できないだろう。せいぜい、少女の足に踏まれたい谷崎川端願望というレッテルを貼るくらい。マグロ読みをしているかぎり、ここから快楽を得るのは難しい。

 事実、わたしの初読時は無理だった。どうして本作が傑作扱いされているか、理解できなかった。今回は、苦しい駄洒落や押韻や語呂合わせにつきあいつつ、イメージや描写のリズムとスピードを際立たせて読んだ。新訳ではロリータのキャラクターが「立って」いる。「イケてる」「キモい」というイマドキの言葉を連発する彼女に、踏まれたいと願う人も出てくるかもしれない。

天真爛漫さと欺瞞、魅力と下品さ、青色のふくれ面と薔薇色の笑いを合わせ持つロリータは、そのときの気分次第で、まったく頭にくるような小娘になることもあった。ときには思いがけなく、気まぐれに退屈そうなそぶりをしたり、わざと激しい不満を口にしたり、寝そべって、だらしない恰好で、どんよりした目つきになったり、いわゆる「ぐだぐだ」したり、といった発作的なふるまいをするのだ──

 そして最後。いや、ラストのカタルシスではない。「訳者あとがき」にある強いアドバイスに従って、彼女の運命を再読する──ああ、ああ、わたしはやっぱり読んでいなかったんだ。ロリコンの秘密がある、と勝手に決めつけ、開いて、失望した日のことを思い出す。あのときは、これほど豊穣な小説だとは見えなかった。

 語り手のロリータへの「愛」は、そう信じたものだと思っていた。が、最後のページを終えて、もう一度冒頭から読み直すと、印象がガラリと変わっている。これはやはり、愛そのもの。本作はその幻肢なのかも。

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スキとかキライとか、最初に言い出したのは、誰なのかしら→今からそいつを、これからそいつを、殴りにいこうか→「神のみぞ知るセカイ」

神のみぞ知るセカイ あらゆるギャルゲーを極め、「現実なんてクソゲーだ」と、断じる主人公は正しい。

 空から降ってきた小悪魔が主人公に課す試練。それは、「女の子の心のスキマを恋で埋める」こと。そのために、ターゲットとなったオンナの子を攻略し、キスをすることが必要となる。ところが問題が。主人公の男の子はコアなギャルゲーマー、つまり3Dの少女には興味がないのだ。

 あいや、待たれい。設定がギャルゲだからといって、ギャルゲーマー御用達だけとは限らないぞ。攻略対象を分析し、自分の現在位置を把握する。そのギャップを埋めるための施策を、実績あるパターンから取捨選択し、最も効果的な手法からステップを踏んで適用する――カッコイイ言い方していいなら、コンサルタントの Fit and Gap Analysis そのもの。

 しかも、打ち手の効果が見込めないとき、原因解析の着眼点が優れている。道具が適切で望む結果が得られないとき、最初に疑うべきは――そう、「前提」になる。「高飛車ハイソお嬢様」の一次攻略に失敗したとき、主人公が取った「変節」は、自信満々のコンサルタントそっくり。

 このマンガを面白くさせているのは、こんな「お約束やぶり」だ。ギャルゲ慣れしたユーザのパロディとしての作品なら一回の読みきりで「終わる」し、そして恋愛オクテの妄想のメタファーとして描いているなら競争相手で真っ赤っ赤の「ジャンル」となる。

 ギャルゲというコードに乗っかりつつも、「もしそれが現実なら…」という仮定の下にもたらされるカッコつきでお約束の「現実問題」が乗り越える壁としてあらわれてくる。しかも、その「現実」とやらもマンガの世界の話なので、読み手は二重の枠にハマることになる。「ゲームとしてのリアル」と「マンガとしてのリアル」のスキマを意識するんだ。

 主人公の性格として「触れられることを嫌う」ことが象徴的だ。ゲームのオンナの子はどんなことをしても、文字通りどんなことができたとしても、触れ合うことはできない。(このルールの外はレッド・オーシャン、なんでもあり)。その上で、恋愛シミュレーションをやりこめば、恋愛上手になる――のか?という、究極の答えが分かる。

 そう、テクニックは上達するが、それは恋をすることと別なんだ。床上手と愛上手は違うし、SEXマシーンはLOVEマシーンじゃない。キスが上手くなることと、キスしたくなる人を見つけることは、似て非なる。このテーマは、おそらく主人公が最後に攻略するだろうエルシィ でズバリ描かれるに違いない。

しゅごキャラ 最後に。まなめさん、教えていただき、ありがとうございます。好き物には、ごほうびのようなマンガですな。「心のスキマにつけこむ」ところと、その追い出し具合から、「しゅごキャラ!」をホーフツとさせられます。薔薇乙女好きとして、オススメします。

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