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「最近の若者はダメ論」まとめ

 近ごろ「最近の若者はダメ」が、(また)流行っているようなので、自エントリをまとめてみる。もし、「最近の若者は…」を見かけたら、ここを思い出してほしい。

 きっかけは、職場の飲み会。「近ごろの若い連中はダメだ!」と一席ぶつオッサンがいたこと。それって、昔から言われてますね、と返すと、「何年何月何日に誰が言った!?出典どこだよ?何の根拠でそう断定できるんだよ?」ってオマエは小学生か。そこで調べてみたところ…

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1. 近ごろの若者は当事者意識がなく、意志薄弱で逃げてばかりいて、いつまでも「お客さま」でいる件について [URL]

モラトリアム人間の時代 「最近の若者はダメだ」と昔から言われているが、特に今の若者はひどい。当事者意識が欠如しており、いつも何かに依存し、消費し、批判するだけの「お客さま」でいつづけている――という小論。出典を隠すと、内田某とか香山某がいかにも言いそうなネタ。ただこれ、30年前のベストセラーだったんだよね。弱いものたちが、人生の夕ぐれ時になって、さらに弱いものを叩く無限ループ。世代間に受け継がれる自虐ブルースなのか?

 これを「論文」として読むと支離滅裂で、記述の重複、無根拠の主張、非論理的展開、無意味な提案内容とお粗末極まりないチラ裏。こんなのがベストセラーになる当時の知的レベルをうかがい知ることができて、二度たのしめる。今どきの若い人は読んでおこう。「ネット」と「ニート」と「ひきこもり」を足せば、今でも売れるぞ。


2. 日本語壊滅 [URL]

 内田某が日本語の崩壊状況を語ってたことに反応したのがこれ。不思議なことに、このテの話の枕はメディア経由であって、自分のガッコの学生ではないこと。ま、「顧客」をダシに売名するようになったら終わりだが、それを「やらない」という線引きが彼の矜持のように見える。この点は非常に尊敬している。

 そういや内田さんって、ちょうど、「1. 近ごろの若者は…」で批判されていた年代だったはずじゃぁ…と思いを馳せると二度おいしい。「当事者意識が欠如しており、いつも何かに依存し、消費し、批判するだけ」…なんというブーメランって笑っている場合ではないな。もう一回転した刃先は、わたし自身にも向くのだから。

 ちょっと違った「日本語」を使っている人がいると、自分が「遅れてるゥ~(死語)」ような気になる。しかも、文筆で名を立てている人ほど、その思いが強いのだろう。さもありなん、枕草子や徒然草にもそんな「あせり」が見られるから。これは1000年前から変わってなかったんだね。

 自分と異なる運用の仕方をしたからって、「日本語がダメになる」と批判するのは早計かと。言語は変化しているであって、批判者は単に取り残されているだけ。時代に置き去りにされる恐怖がヒステリックに「日本語滅亡論」に直結するサマを眺めて楽しむのは、毎年恒例のお祭りだい。


3. 最も古い「最近の若者は…」のソース [URL]

 冒頭のオッサンの挑戦に応じたのがこれ。紀元前から言われていたよとか、ギリシアの哲学者が言ってたよとかと、常に「伝聞」の形で伝説のように扱われていたのがイヤで、ちゃんと調べて、参照して、引用した。

 ソースは三つある。ひとつはプラトン「国家」で、「最近の若者はラクなほうばかり追いかけて、年長者の言うことをちっとも聞かない」と憂える。でも本当にプラトンが言いたかったのは若者批判ではなかったようだ。その辺のことは、「たしかに、プラトンは『最近の若者は』と言っていた、が… [URL]」を参照されたし。

 二つ目はピュタゴラス伝にある。若者は勤勉さを厭い、不摂生や遊びを追いかけるものだという。これも単純に嘆いているのではなく、若いうちからの教育の重要性を解くための方便のようだ。

 三つ目は、古代エジプト。ただし原典まで辿れなかったのが残念。柳田国男が「木綿以前の事」にて、「…と聴いた」話になっている。発掘された古代エジプトの手録によると、「この頃の若い者は才智にまかせて、軽佻の風を悦び、古人の質実剛健なる流儀を、ないがしろにするのは嘆かわしいことだ云々」だそうな。


4. 学力低下の本当の原因 [URL]

 最近の若者はバカばっかりだそうだ。受験勉強ばかりでまともな教育を受けておらず、オチコボレか疲弊しきって人間性を欠如している奴らばかりで、このままだと日本が危うい。原因は親か教師かその両方で、放任無視か過保護のバカ親と、無能・無意欲のバカ教師が教育の荒廃を招いている――という、30年前の教育亡国論。

 ぜんぜん変わっていないのが笑える。しかも、そんな輩に育てられたのが、今どきの親なんだから噴飯モノだね(わたし含む)。じゃぁ、今どきのモンスターペアレントって、やっぱりそうなのか…?と思って調べたのが、「モンスターペアレントはどこにいるのか? [URL]」で、昔からいた「困ったちゃん」に新しい名前をつけただけなことが分かる。いわゆるバカ親たちの近現代史やね。

 どの職場・教室・コミュニティにも「困ったちゃん」がいるように、どの世代・年代にも理不尽な輩がいる。一部をクローズアップして全部となすのはメディアのお手盛り。不安感と危機感を煽って→部数と視聴率を稼ぐのがメディアの常道、惑わされないように自戒自戒。


5. 「最近の若者は本を読まない」本当の理由 [URL]

 最近の若者は本を読まないそうだ。「だから、まともな日本語が使えない」「だから、コミュニケーションができない」「だから本が売れない」と、これも枕詞として縦横に活用しよう。でもホントかな?と調べたのがこれ。

 結論はウソで、若者はよく読むし、今どきの若者ほど読書家だ。つまり、「30年前の若者」と比べて、今どきの若い人の方が沢山読んでいる。この辺は、「じゃぁ最近のオヤヂは、若いとき本読んでたのか? [URL]」を参照のこと。特にアサドク(朝の読書)の効果がめざましく、小中高生の読書率は近年にないほど高い。そして、読書の習慣はオトナになっても続き、「読書をする若者世代」が続々と社会に出てきているのが、いま。

 この根拠は統計情報として扱われており、誰も文句のつけようがない――と思っていたら、「本そのもの質が下がっているから比較できない」とか「ラノベや(最近の)新書が読書かよ(プ)」といった反論(?)が聞こえる。ううむ、数値化できないものをもってこられると、どうしようもないね。あるいは、詭弁のガイドライン第5条「資料を示さず持論が支持されていると思わせる」を思い出す(詭弁のガイドライン

6. なぜ最近の老人はキレやすいのか? [URL]

 最近の若者はキレやすいそうだ。すぐカッとなってナイフで刺す。感情の"こらえ"が利かない。命を粗末にしている。思いやりが欠けている――と言いたい放題ご満悦のご老人たち。本当かな?と調べてみたら、真逆の結果が得られた。

 結論から言うと、キレやすいのは若者ではなく老人、しかも、最近の老人ほどキレやすくなっている。これも統計から得られた結果なので、文句のつけようがないだろう――といっていたら、「高齢化社会になったから」だってさ。つまり母数が増えたから目立つようになったという理屈。しかし、高齢化を上回るスピードで起きている事実はどう説明するんだ?人口構成比を上回るスピードで高齢犯罪者の構成比が増えているのだ。つまり、老人が増えているからではなく、キレる老人が増えているのだということに他ならない。

 ただし、こうした調査は、「わたし」が「公開情報」を元に調べたものなので、いささか心もとない。「検挙率は警察のお手盛り」だとか「統計センスがないからダメ」だとか言われると、いかんともしがたし。「統計的センスがある人」がこねくり回すと、また違った結果が得られるのかね。

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 駆け足で紹介してきたが、「最近の若者はダメ」は昔から繰り返されてきたことは、確かに事実だといえる。

 しかし、(こっからが問題なのだが)これからも繰り返されるだろう、というのは、ちょっと違うみたい。世情が不安定になっていくのにつられてなのか、「よくできた若者」をよく見かける。わたしのミクロ視点がイヤなら、「読書する若者」が増えているという統計情報が、毎年更新されていることは否定しようがない。

 いっぽうで「最近ダメ」になっているのは、どうやらお年寄り世代のようだ。これも昔から繰り返されてきたかもしれないが、団塊世代は特異のようだ。この世代が量においても質においても悪い意味でのピークとなっている。三十年ぐらい未来から振り返ると、日本をダメにした張本人が、「今どきの若いやつ」なのか、あるいはそうでないのか、分かるだろう。その時は手遅れかもしれないが。

 もちろん、わたしが誤っている可能性はある(大いにある)。わたしの偏見のせいでサンプリングが歪んでいるかもしれないし、「人は見たいものしか見ない」せいかもしれない。自説に固執するあまり、周到に詭弁術を駆使しているのかもしれない。

 それでも、あらためていいたい。今どきの若者は、上の世代と比べ優れているってね。終わらない氷河期をくぐり抜けてきた若手社員のスキルと熱意は高いし、周囲に気を使える人、公共マナーが守れる学生さんは(高齢世代と比べると)圧倒的に多い。電車で見かける「マナーの悪い連中」は還暦に届きそうか越えた連中。人は枯れてくるなんてウソ、トシをとれば取るほど、感情的で傍若無人になる。まるで、老いるとは子どもに戻ることだと言わんばかりに。

 そんなわたしも、「最近の若いモンは…」と言い出したら、老人の仲間入りだろうか?あるいは、「最近の若いモンは…」を言わなくなる、最初の世代になるのだろうか?三十年後が楽しみだー(生きていればだけど)。

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「見えない都市」と銀河鉄道999

見えない都市 マルコ・ポーロが架空の都市をフビライ・ハンに語る幻想譚。

…なのだが、どうしても銀河鉄道999(スリーナイン)を思い出してしまう。というのも、999に出てくるさまざまな「惑星」は、いまの現実のいち側面をメタファーとしてクローズアップさせていたことに気づくから。

 「見えない都市」では、55の不思議な都市(まち)が語られる。死者の住む都市といえばありきたりだが、死者のために地上の模型を地下に構築する都市。全てのモノを使い捨てにし、周囲に堆積した塵芥に潰される運命を待つ都市。地面に竹馬のような脚を立て、雲上に築かれた空中都市。

 「銀河鉄道999」でも、奇妙な惑星(ほし)が出てくる。ルールや法律が一切ない惑星。すべてが化石となる惑星。密告を恐れて声をひそめる沈黙の惑星。命の尽きたペットが、主人を偲んで暮らす惑星。金属やプラスチック製のものが一切なく、すべてが枯木と枯葉だけでできた惑星。

 異様な都市、奇妙な惑星を眺めているうちに、いまそこにある矛盾の裏返しであったり、一部を拡大させた皮肉だったりする。異国の都市、あるいは別の惑星の物語を聞いているうち、実は自分の世界が語られていたことに気づく。個々のヴィジョンは濃密なので、ゲームでいうなら「Myst」や「RIVEN」のようなシュールかつリアルな感覚が得られる。ゲームの中で遊んでいるうち、中に入ってしまっていたようなもの。

 さらに、マルコ・ポーロの「東方見聞録」が下地なのに、「空港」やら「レーダー」といった言葉が何気に出てくる。いつの時代なんじゃぁぁ、とツッコむと同時に、これはなんでもありなんだということに気づく。都市という場所だけではなく時間すらをも超越しているというのか。

 おそらく999の原作者・松本零士は読んでなかったと思うが、人の想像力の行き着く先が似ているところがあって、面白い。だが、メタファーを喚起させる創造力は、カルヴィーノの方が一枚上手のようだ。

 たとえば、ツォベイデというでたらめな都市がでてくる。街路や建物の配置がバラバラで、まるで迷路のような構成となっている。そのわけは、都市の創設をめぐる物語になる。それはこうだ――

――さまざまな国の男たちが同じ夢を得たという。夜半に長い髪をなびかせ、見知らぬ都市を走り回る女の夢だ。女は素裸で、追いかけているうちに見失ってしまうのだという。男たちはその都市(まち)を探し回ったが、見つからず、ただ「裸の女を追いかけた夢」を見た男たちが出会っただけだった。

――男たちは夢に見たとおりの都市を築くことで合意し、街路や町並みの配置にあたっては、おのおの自分が追跡した道筋をそのまま再現させた。そして、おのおの女を見失った場所は、夢の中と異なり、城壁や広場を設けさせ、逃げられないようにしたのだ――

 これが、迷路のような都市ができあがった由来だ。読み手はそこに何を見出すのか?池澤夏樹の読みが面白い。裸の女を「アイドル」することで、この都市をさまざまなメディアに読み替えることができる。なるほどー、タネ明かしされた手品を見せられるようで、ちょっと悔しい。この都市のイメージは強烈なので、わたしの記憶の底に沈んだあと、なにかのきっかけで現実と結びつくだろう。そのとき、裸の女がどんな隠喩として扱われるか、楽しみだ。

 本書は、読んだ年齢や経験によって、さまざまな様相を見せる。人生の折々に見返して、そのとき想起されるイメージを楽しむもよし、本書から得られたイメージがリアルの「何か」の隠喩だったことに気づいて戦慄するのもよし、「小説」っぽくない楽しみ方がある。

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の~みそ、こねこね「数学ガール/ゲーデルの不完全性定理」

数学ガール3 脳がコンパイルされる読書。面白くて辛いスゴ本。普段と違うアタマの部位がカッカしていることが自覚され、ちょっと気味わるい。

 「数学ガール」とは、高校二年の「僕」が数学好きの美少女たちに翻弄される熱血恋愛バトル――というのはウソで、著者の言を借りるなら、「理系にとって最強の萌え」を目指した読みもの。ちょこっとラブ入りの物語ベースで、ガッコで学んだ数学とは一味も二味もちがう。

 今回のテーマは、「ゲーデルの不完全性定理」――とはいうものの、いきなり斬り込むのではなく、準備として攻略ポイントを解説する。「ウソつきのパラドクス」や「0.999…は1に等しいか」、「数学的帰納法」あたりは楽しく読めたが、「ペアノの公理」「イプシロン・デルタ論法」あたりになると、ついていくのがやっとで、メインテーマである第10章「ゲーデルの不完全性定理」は理解できなかった。

 もちろん、「何をやっているのか」は、登場人物の会話や独白で分かる。けれど、それが次々と繰り出される定義・公理・定理へと「どのように」つながるのかが分からない。いや、最初は懸命につき合わせて考えてみたけれど、怒涛の量にギブアップする。一覧表かロードマップのようなものがあれば…と作り始めたが、そもそも理解できないのに作れるはずもなく自壊する。実は、ひととおり説明された後に、ロードマップが示されている(p.358)のだ。証明の見取り図といってもいい。初読の方は、第10章に入ったら予めチェックしておくと吉。

 わたしの数学がらみのエントリを見ると、分かってないことを分かろうともがいていることが「分かる」。学生時代、「数学は暗記科目」といってはばからなかったのに、オトナになって、カジるのが楽しみになっている。

  あこがれとワンサイド・ラブ「数学ガール」
  数式なしでわかった気になれる「ゲーデルの哲学」
  数学ぎらいは幸せになれないか? 「生き抜くための数学入門」
  アフォーダンスを拡張する「数学でつまずくのはなぜか」

 下手の横好きのくせに、どうして(いまさら)数学をやりなおそうとするのか?その解が本書にあった。それは、意味を離れた思考をしたい、という欲望だ。数字を見れば「数値」や「数量」として扱ってしまうアタマから、いったん離れてみたいという欲求だ。

 数学ガール・ミルカさんは、算術の体系から形式的体系をつくりあげ、その中だけで定理を導き出す。馴染み深い「意味の世界」に対応付けられた「形式の世界」を渡るのは、ちょっと怖くて、とても愉しい。公理と推論規則だけで成立した世界――形式的体系から、形式的証明が生み出されるのは、美しいとすらいえる。わたしは、おかしなことを言っている。機械的に、コンピュータのように計算(というか置き換え)を繰り返していった先で、「美しい」とか「愉しい」といった感情に触れるような気分に陥るなんて。

 もうひとつ。「ゲーデルの不完全性定理」を生半可にかじってて、勝手に思い込んでいた「不安感」に終止符を打つことができた。それは、数学ガール・テトラちゃんのこの質問に集約されている。

『数学というもの』は、絶対的に確かだと思っていたんです。でも、第一不完全性定理の結果からは…証明も反証もできないものがあるわけですし、第二不完全性定理の結果からは…他の助けを借りなければ矛盾がないことを示せないわけです。だから、やはり『数学の限界』が証明されたように感じてしまうんです。
 言語は変化するのがアタリマエ。歴史は再解釈される。自然科学はパラダイムシフトするものだ。だが、『数学』だけは変わらない、確かなものだと「信じて」いた。「信じる」「信じない」にかかわらず、そうあるものだと考えていた――が、にわか勉強の不完全性定理で、その絶対性が揺らいでいたように思う。

 これが、ミルカさんの応答でガツンとやられた。彼女は、『数学というもの』を明確にせよという。「正確に定義できて、形式的に表現できる何か」なのか、あるいは、「なんとなく心の中に浮かんでいる数学っぽいもの」か、ハッキリさせようとする。前者なら不完全性定理の支配下になるが、後者はそうならない。ただし、「数学っぽいもの」は、決して、「数学的に証明された」ものにはならないという。

 これは、わたしにとって、痛恥ずかしかった。「数学っぽいもの」をありがたがってカジっていた自分が見透かされたように感じたからだ。数学の世界で展開される何かに意味を見出し、リアルに当てはめては悦に入っていたことが暴露されたかのような気持ちになった。数式に美なり快なりを見出すのは勝手だが、そいつを偉そうに開陳してきた自分が情けない。トドメのようにミルカさんのこの一言が刺さる。

要するに、『数学的な議論と、数学論的な議論は分けるべき』なんだ
 なんとキツい御言葉。言葉尻や駄洒落を捉えて一般化した気分になること、性質の似た部分を拡大して同類化して一席ぶつこと、それらがいっぺんに否定されている。「(分けずに)分かった気になる」ことの不毛さを思い知らされた。自重するべ。

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