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『いま・ここ』そっくりの閉塞性・切迫感「訴訟」

訴訟 理由を聞かされず逮捕された主人公が、どんどん窮地に追い込まれる話。不条理なのだが、閉塞的でせっぱ詰まった状況だけは、いま、ここ、と妙に似ている。

 「epi の十年千冊。」でカフカ「審判」の新訳が出ていたことを知る(epiさん、ありがとうございます)。しかもタイトルは「審判」の重々しいイメージとは変わって「訴訟」となっている。

 「審判」を読んだときは、ちっとも"ついてこない"読書だった。カフカは難解なものだとハナから決めてかかり、すべてのエピソードに寓意を求め、裏読みを探す読書としてしまっていた。不条理でアイロニカルな「何か」を見つけることが、カフカを読むことだと信じていた。結果。なぜ?どうしてそうなるの?結局それはどうつながるの?と疑問符だらけの消化不良になった。

 それが、epiさんの書評で変わった。曰く、「カフカを読むときはそのわけのわからなさが楽しめて、ときどき笑い、ときどき薄気味悪さにぞっとできれば満足」――ここにいたく共感して、あらためて、構えずに、読んでみる。そしたらこれが、妙にしっくりくる読書になった。評論家が不条理だとか実存だとか御託をならべたおかげで、自分がいかにメガネをかけていたかが、よ~く分かった。

 もともとこれは、完成されていない小説だ。解説によると、カフカ自身がこう語っているらしい――「訴訟はけっして最高審まで進むことはないので、ある意味でこの小説は、そもそも完成できないものであり、無限につづくものだ」。

 そう、ある朝いきなり当局から、「訴えられている」という事実だけ聞かされる。逮捕状もないし、拘留もされない。主人公はさまざまな手を使って原因を特定したり、訴訟を回避しようとするが、その努力がどのような効果を生んでいるのか、ついに知らされることはない。あまりにもシュールなので、延々と悪夢を見ているような気分にさせる場面もある。実際、ドゥルーズ/ガタリが推測しているように、「終わり」の章、(ネタバレ反転表示)つまり主人公の処刑は、彼の見た夢となる可能性も考えられる

 なぜなら、現実という地と、非現実という図の反転がくりかえしなされているから。たとえば、主人公にとって訴訟は、日常生活という地に挿入された理不尽な図として、小さいもの・無視するべきものとして当初扱われていた。しかし、追い込まれるにしたがい、頭の大部分を占めるもの、業務まで支障をきたすものにまで成長する。地と図のネガポジ反転だ。

 あるいは、勤務先のオフィス(=日常)という地に挿入された、鞭打ち刑(=非現実)が図であったものが、接待先の大聖堂という地に挿入された、聖職者の正体はもはや図ですらない。「重要顧客の接待」という地は捨てられ、聖職者についていく。ここにも地と図の反転がある(わたしは、聖職者の現実性を疑う)。つまり、非現実が日常にとって代わる話なのだから、「終わり」の章の出来事を現実とみなさないという読みができる。

 もう一つ。聖職者のたとえ話「掟の門」について、自分なりの結論にたどり着くことができた。これは、「訴訟」を手にする前に、「アメリカ」「城」を読んでいたことがプラスに働いたんだと思う。「掟の門」とは、主人公が裁判所について勘違いをしていることを分からせるために、聖職者が出してきたお話(カフカ短編集にも独立してあるはず)。

 それは、こんな話――掟の前に門番が立っていた。そこへ男がやってきて、掟の中に入れてくれと頼んだ。だが門番は言った。まだ入れてやるわけにはいかんな。男はじっと考えてから「じゃ、後でなら入れてもらえるのかい」と尋ねると、門番は「そうだな、でもいまは駄目だ」という。

――門の中をのぞこうとする男に向かって、門番は笑って、そんなに気に入ったのなら、俺の制止を無視して入ってみるがいい、と挑発する。さらに、俺には力があると脅し、それでも自分は下っ端にすぎず、奥に行くほど番人の力が強いという。

――男は何年も待ち続け、待ち続けているうちに、この最初の門番こそ、掟に入る唯一の障害だと信じ込んでしまう。ついに男の寿命が尽きようとするとき、男は門番にこう伝える。「みんな、掟のところにやってくるはずなのに、どうして何年たっても、ここには、わたし以外、誰もやってこなかったんだ」

――門番は死にかかった男に聞こえるように、大声でどなる「ここでは、ほかの誰も入場を許されなかった。この入り口はお前専用だったからだ。さ、おれは行く。ここを閉めるぞ」

 この解釈について、主人公と聖職者の間で問答がなされる。それを読むうちに、わたしは、掟とは「城」であり「訴訟」であることに気づく。「城」や「訴訟」が未読なら、良心、という言葉に置き換えてもいい。ただ、良心、というと道徳的だとか誠実さといった意味が伴ってくるが、そういう道徳性を抜いた、規範的なもの。善悪やら道徳を超えたところで、自分を律しているものだと考えてほしい。「掟」とは、いわゆるルールだとか法といった外的なものではなく、自分は「これだけだ」と認める限界のようなものなのだ。

 たとえば、身体的な能力で喩えるならば、ジャンプで届く(だろうと自認する)高さや、ダッシュで間に合う距離感が、これにあたる。精神的なものだと、やっていい(と自分で思っている)ことの限界が、これにあたる。正当防衛・緊急避難だと(自分で)判断している行為がその例だ。そして、人は日常において、自分でやれると見積もった能力や、自分でやってもいいと判断した範囲で行動を選択する。

 しかし、理不尽な状況に放り込まれたら、どうする?「城」が呼びつけたにもかかわらず、中へ入れてもらえない状況や、「訴訟」されているにもかかわらず、その理由を教えてくれない状況になったら?当然、「やれる能力」や「やってもいい範囲」を拡張しようとするだろう。もし、自分の良心そのものを疑い、問いかけることをしなかったならば、ただただ待ち続け朽ち果てるだろう。

 あるいは、自分の限界を疑い、それを超えようとしなければ、その前で終わってしまっていただろう。しかし、カフカの描く主人公は、無為に待つようなことはしない。積極的に行動し、良心を、能力を、法を超えようとする。自分の外側に存在する、物理的な「門」を破ろうとする前に、まず、それをやってもいい(仕方がない)と自分の内側で律しているものを解除しなければならないのだ。あたしのココロ、解錠(アンロック)というやつ。

 ただし、キャラなりするのであれば、「いままでのわたし」から変わる必要がある。「城」であれば、測量士としての立場を、「訴訟」であれば銀行家としての地位から離れなければならない。だが、「何」に成るのだろうか?測量士や銀行家でない立場になるんだ。日奈森あむの「なりたいアタシ!」へのキャラチェンジとは違うのだ。自己否定による自己実現なのだから。

 理不尽な状況から脱するために解錠(アンロック)しようとしたのに、今度は解錠(アンロック)することによって、理不尽だーと思っていた立場(測量士や銀行家)がなくなってしまう。じゃぁもう理不尽じゃないじゃん。解錠(アンロック)そのものが条理(=地)を越えた不条理(=図)なのだから。地と図の反転は、ここでも見つかる。「城の中に入る」「訴訟を止めさせる」目的のために取った手段が、その目的の前提を取り消しているのだから。

 自分で自分の「立場をなくす」――それも、かなり後ろ向きの理由で。自分を「否定」することによってなされる自己実現(なんという矛盾!)。現在の○○の状況(○○にはお好きな言葉をどうぞ)と似合っており、独り、深夜、ほくそ笑む。

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ゲームで子育て「バーンアウト・パラダイス」

BurnoutParadise 「ゲーム脳の恐怖」などと、まるでB級ホラーみたいなタイトルで脅しかかる人がいる。しかし、もし「ゲーム漬け」になるとしたら、わが子ではなく、間違いなくわたし自身だろう。徹夜プレイというよりも、落ちるまで頑張るからね。俺、息子が高校生になったらKanonやらせるんだー(死亡フラグ)

 ところが、困ったことに息子はあんまりゲームをしたがらない。いや、遊ぶことは遊ぶんだが、ちょっと壁があるとすぐあきらめてしまう。失敗することに臆病になっている、という感じだ。ゲームなんだから、何度でもやり直せるんだよ!と口酸っぱくしても、「どうせパパは上手だし」と引っ込んでしまう。

 これではいかん!ということで、急遽「Burnout Paradise/バーンアウト・パラダイス」を購入する(ホントはわたしがしたかったのだ)。いや~これはリアルだわ。架空の街「パラダイス・シティ」を疾走するレースゲームなんだけど、爽快と熱狂のないまぜにさせられる。自由で激しく緻密に作られた世界を、風圧を感じさせるスピードで轟音を響かせる。HDMIにつないだら、あまりのリアルさにビビる。

 レースやスタント、看板やショートカット探したりするのがたまらん。人のクルマにぶつけて壊して→ゲットだぜという極悪さがたまらん(シャットダウンという)。コンクリ壁や橋げたに激突→大破→空を飛ぶスクラップがたまらん。もちろんオープニングのガンズは絶叫しながら走る。

 わたしが好きなのはレースだが、息子はロードレイジがお気に入り。要するに、「クルマで鬼ごっこ」であり、敵車にぶつけてシャットダウン(破壊)する数を競う。クラッシュがド派手で見事にハマる。

 ところが、やっぱり「壁」がある。敵車が速くて強かったり、目標シャットダウン数に届かなかったり、逆に敵にシャットダウンされてしまったり、ボコボコにされる。息子涙目。これはゲームなのだから、この壁を越えられる/越えられないは全て自分次第だ。それが分かっているからこそ、悔しさにプルプルしている。

 そこで、とーちゃんが一席ぶつわけ。曰く、現実は一発勝負的なところがあるが、ゲームはやり直せるし、くりかえせる。ゲームで何度も失敗して、「どうすれば上手くいくか」を調べて考えて試す。そして、できない→できるに変わるときが、いっとう楽しいんだよってね。見てみろ、ふつう時速300kmで激突したら、生きてられないよ。でもゲームだからできる。失敗しても、いいんだよ。

 学校であれ友人関係であれ、なんとなく、「失敗を許さない空気」があるような気がする。常勝を求めるのではなく、逸脱を恐れる気持ち。ルールやらキソクやらで、予め囲われた中で、のびのびとやらせたい、というのは親のゴーマンかもしれぬ。も少し大きくなったら、その縛りを破ろうとするだろうが、今はまだ気づいていない状態だ。

 だから、せめてゲームの中だけも、「失敗してもいいんだよ」ということに気づかせてあげたい。そして、失敗しながらも目標に近づく方法を模索することに、慣れてほしいなーと思いつつ。現実世界ではそいつは、試行錯誤と呼ばれており、かなり強力な方法なのだから。試行錯誤を楽しめるのなら、必ずゴールにたどり着けるのだから。リアルだったら100回死んでる、でもゲームだから100回クラッシュしても大丈夫なのだから。

 息子は分かったのか分からないのか、うなずいた後に取り組む。なぜ上手くいかなかったのかを、ルート、走り方、車種に分けて幾度か試す→程なくして成功する→ニッコリ。ほら、とーちゃんの言ったとおりだろ!

 とはいうものの、やっぱり馬鹿親だったようだ。先週、ジャスコの駐車場で強引な割り込みをかけてきたクルマに向かって、息子が一言つぶやく。

 「パパ、あれシャットダウンしちゃいなよ」

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戦場を直視する「私が見た戦争」

私が見た戦争 戦場を直視する一冊。

 戦争はカッコ付きの「ニュース」として報道される。どこそこで戦闘行為があったとか、どこかを空爆をしたとかしか伝えられない。でなければ誤爆で何人死んだとか難民が何万人出たとか。それは人数や棟数や地名といったデータとして咀嚼され、マスメディアを通じて"消費"される。

 しかし、DAYS JAPANや本書などのフォトメディアにより、戦闘行為の結果そのものや、空襲の様子、地雷による血漿を、直接見ることができる。そう、爆弾が人体に当たった、飛び散りぐあいまで分かる。死者一名とカウントされる"彼"のアタマやウデのパーツは、べろべろになった皮だけでつながっている。人間ぽく見えない"それ"をぶら下げている米兵は笑っている。本国に帰ったら良き夫・良き父なのだろうというキャプションが付く。米兵も人間ぽく見えない。何か別の、人型の生物のようだ。

 記憶が頼りなので心もとないが、わたしが子どものころは、もっと現場に近い戦争が報道されていたように思える。現代の、プレス担当の軍人に誘導されたジャーナリズム・ツアーではなく、銃口を向けられる側から撮った画像だ。石川文洋「私が見た戦争」は、そんな写真ばかりで埋め尽くされている。

    ベトナム
    ラオス
    カンボジア
    ボスニア・ヘルツェゴビナ
    ソマリア
    アフガニスタン

 緊張に満ちた現場のショットから、眼を背けたくなるような行為がなされた映像まで、戦争の犬たちが通り過ぎた跡を、"安全なニッポン"から眺めることができる。ほぼ年代順に並んでいるが、やっていることは変わらない。帝国同士がそれぞれの傀儡を戦わせるか、再植民地化プロセスそのものは、たくさんの血を流し、たくさんの骨を残す。

 面白いことに、時代を追うごとに被写体との距離がだんだん広がっていく。バスト・ショットが近景になり遠景になり、望遠になってゆく。ベトナム・ラオスは同じ標的の立場から撮り、ソマリア・アフガンになると、まるでサファリパークのバスから取ったような写真になる。これは撮影者の意思ではなく、それだけ報道統制がとれている証左だろう(裏返すと、ベトナム戦争はジャーナリストが文字どおり最前線にいる、最初で最後の現場だったのかもしれない)。

 海外の戦争を撮る一方で、著者は、「そのとき日本は何をしていたのか?」という問いに自ら応える――オキナワを写すことで。嘉手納を撮り、コザ市(沖縄市)を撮り、ひめゆりを撮る。「集団自決」の生き残りを撮り、サイパンのSuicide Cliff を撮り、「集団自決」という言葉がいかに欺瞞にあふれているかを突きつける。戦争を直視することは、反戦のメッセージにつながる。数字や地名などのデータに還元されない、ナマの感情に突き動かされる。

 最後の第十章には救われた。延々と人の愚かしさを見せ付けられるかと思ったら――世界の笑顔ばかりを集めた写真に囲まれる。第十章は「命(ぬち)どぅ宝」というタイトルが付けられており、著者はこう述べる。

ネガを整理していると笑顔の写真が意外に多いことに気がついた。笑顔の撮影が目的で旅をしていたのではなく、何気なくシャッターを押したら笑顔が写っていたという感じだった。戦場で悲しみの表情をたくさん見ていたので、笑顔に合うと嬉しくなって反射的にシャッターを押していたのかもしれない。
 数字ではない戦争を直視できる。同時に、"ニッポン"は戦争に触れているどころか、昔も今もずぶずぶになっていることも分かる。

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