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外道限定「魔王」

 わたしの変態妄想のナナメ上を逝く外道の話。

魔王1魔王2

 カワイイ女の子と目が合ったら、「俺に気があるのかしらん…ヤベ、妻も子もいるのにどうしよう、とりあえず新しいパンツ買おう」と妄想と股間をたくましくするのは普通だよね?あるいは、大金持ちになったらローションのプールに裸の女を敷き詰めて飛び込みたいといった願望を抱くのも、そんなに常軌を逸していない…と思いたい。そういう、ささやかな変態趣味を打ち砕く話だ。

 時代は1940年前後、舞台はパリからプロイセンの森まで。主人公ティフォージュは、パリではまっとうな変態だった。小さな子どもを眺めたり担いだりするのが大好きで、自分で暗室をこしらえては盗撮した写真を現像するくらい。学校帰りの子どもがわーっと駆け抜ける路地に突っ立って、若い肉体の奔流を遡行する鮭のようにもみくちゃにされるシーンでは、「翼ある幸福」と名づけており、微笑ましい限りだ。

 しかし、少女暴行の嫌疑をかけられ拘留されるところから、彼の人生は狂い始める。いや、彼の望むほう望むほうへと流されていくのだから、「狂う」という表現はヘンだね。人生お先真っ暗!というピンチになると、なにかのチカラが働いたかのように、チャンスに取って代わる。そこに超次元的なものなどないのだが、その「偶然」を、徴(しるし)だと思い込んでしまう。つまり自分は選ばれし者で、運命のなかからその啓示を受け取る使命があるのだと。

 で、小説内の描写のほとんどが、この徴のメタファーに満ち溢れている。ゲーテのバラード「魔王」、誘拐・誘惑者「青ひげ」、幼子イエズスを背負う「クリストフォルス」を示す象徴が、あちこちに散らばり、埋め込まれている。読み手は主人公とともにそんな徴(しるし)を探すことに精力を費やされる。これがまた難解なのよ。だが親切なことに、著者ミシェル・トゥルニエは、わざわざ注釈を入れてくるほどの徹底ぶりだ。

 子ども達を散髪し、山のようにできた髪を布団や枕に詰めた「特製ベッド」でのたうちまわるとか、シャワー室に寝そべり、熱い湯を浴びながら子どもたちに踏みしだかれて随喜するとか、なかなか斬新なプレイを提案してくる。対戦車地雷を誤爆させ、霧化した子どもの血潮を浴びるトコなんて、完全にイッてたんじゃぁないかと。

 その変態傾向にもかかわらず、奇妙なことにソドミーは出てこない。青ひげよろしく幼児誘拐したり、少女の裸の人いきれを胸いっぱい吸い込んだりする「おたのしみ」はあれど、セックスとしての相手にはならないのだ。性器が非常に小さいせいなのか?その代わりのメタファーとして、牡鹿の角と睾丸の関係が延々と語られたり、馬の尻から出てくる糞をこと細かに描写したりする。たとえばこんなカンジ…

ある夕方、水肥のあまい香りのただよう馬屋の黄金色の夕闇のなかで、輝く尻が仕切りごとに波打つのを眺めているうちに、青ひげの尻尾がその根元からやや斜めに突っ立ち、もぐもぐうごめく、小さい、突き出た、固い、きっちり閉じられた、まるで輪金で締めた袋のように中央に襞のよった肛門が現れた。そして、すぐに、その袋は高速度撮影の薔薇の蕾が開くような速さで外側へむき、ジギタリスのようにめくれると、薔薇色の湿った花冠を外に開いた。その中央から、感心するほど形のととのった、光沢のある、まったく新しい糞の塊りが現れ、一つずつ、壊れずにわらの上にころがった。
 「バラの蕾」っつったら普通女性器を指すのに、そうしたお約束を外す心意気。しかも「入れる」のではなく、「出す」ほうだから意味が反転してしまっている。主人公ティフォージュは、そんな排便行為のみごとさに打たれる。そして、馬のいっさいの本質はその尻にあると喝破し、尻は馬を排便の神だという本質に達するのだ。

 前作「フライデーあるいは太平洋の冥界」[レビュー]は、ロビンソン漂流記の見事な倒置だったとするならば、「魔王」は、ホロコーストの倒錯した寓話になる(反転部分ネタバレ注意)。人を選ぶ小説でしょ?なので、上述の描写が響くのであればオススメ。徴(メタファー)に押しつぶされる読書になることを、請け負う。

フライデーあるいは太平洋の冥界

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【告知】 「本が売れない」ホントの理由を知るための3冊を、週刊アスキーにてご紹介

「出版不況は、若者が本を読まないから」はウソ。でも「本が売れてない」はホント。では、本が売れないとはどういうことか?そもそも「出版」て紙の話だけなの?あるいは発想を変えて、「本というオブジェクト」を売るためには?

そんな疑問に答えるための3冊を、週刊アスキー11/10号にて紹介。巷に数多の「ベキ論」「理想論」「希望的観測」を廃し、ファクトベース・実績重視で論じているものばかりを選んだ。字数制限のおかげで削りまくっているけれど、それだけ高密度の仕上がりとなっている。どの3冊でどんな話かって?それは実際にお確かめくださいませ。珍しいことに2Dが表紙、ハニカムのりっちゃんが目印ですぞ。

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被曝治療83日「朽ちていった命」

朽ちていった命 核爆発時の爆心地レベルで被爆した人は、どんな運命をたどるのか?

 1999年9の月に起きた、東海村の臨界事故。核燃料の加工作業中に、大量の放射線を浴びた男を救うため、日本最先端の医療チームが結成される。本書は、患者とその家族、医療スタッフという「人」に焦点を合わせ、壮絶な83日間をレポートする。

 運びこまれたときは"普通"に見えていた患者の染色体は、既に完全に破壊されていたため、症状が進行してゆくにつれ、臓器・組織・機能は深刻なダメージを受けていく。読み手は、放射線被爆の凄絶さとともに、前例のない治療を続ける医療スタッフの苦悩に向き合うことになる。

 もちろん患者の細胞は、ほとんど分裂しない。新しい細胞が生み出されることなく、古くなった皮膚が剥がれ落ちてゆくと、どうなるか?カラー写真で示された「右腕」が詳細に語る。入院当初の、ふつうに見える右腕と、被爆26日目の、ちょうどミディアム・レアに焼けた同じ腕の写真は、おもわずページから目を背けるほど。

 医療チームも闘いだ。これほどの放射線被曝をした患者の治療自体が初めてで、最高のスタッフとはいえ試行錯誤をしながらの治療だったという。再生をやめ、朽ちていく体。助かる見込みのない治療。病院を取り囲む報道陣(←この事実は、本書に書いてない)。現場のプレッシャーは相当なものだったろう。

 今なら取りざたされる終末医療だが、これは10年前。「おれはモルモットじゃない」と激昂したり「痛い痛い、家に帰してくれ」と泣き叫ぶ患者のQOL(Quality of Life)は存在しない(QOLの方針は立てられない)。最後は「とにかく"生きている状態"を少しでも長く保たせること」が目的化する。ぼろぼろになった臓器や皮膚を前に、「治療と称するもの」を続けていかなければならない。そして、自分がやっていることは医療行為なのか?――と疑問を押さえ込もうとする。ぎりぎりの状況での発言は、即、士気の低下につながるから。

 「朽ちていく」という上品な表現を使っているが、実質は、生きながら腐っていくカラダだったんじゃないかと。血液やリンパ液を注入しても、大半は流れ出し、包帯へしみこんでゆく。循環していない肉は腐る。本書から注意深く取り除かれていたけれど、治療室内の「臭い」はかなりのものだったと思う。

 当時を「がんばった」と評するスタッフは多い…というか、ほぼ全員そう述べる。歴史的な事故の犠牲者に対し、最先端の機器で最高のスタッフが不眠不休で「がんばった」。どんな状況でも「生きることをあきらめない」を至上とし、「がんばる」。171頁目は、1ページに6回も「がんばる」が出てきて噴いた。そのとき、患者は大量の麻薬物質を注入され、痛みも意識もない状態。

 そんな患者を「がんばった」とされると、ものすごい違和感にとらわれる。むりやり生かしたことに対する罪悪感を「がんばる」言葉でごまかしているように見える。いや、患者だけじゃなく、ケアは家族のためでもある、とも言える。そりゃそうだ。でも、「家族のためにがんばった」と思い込まないと、自分が許せなくなる看護師もいることも事実。NHK取材班が書いたのだから、「書いてないこと」に目を向けると、深くうなだれる読書になる。

 最後に : ゆりさん、いい本をオススメいただき、ありがとうございます。背筋をのばして、一気に、読みました。

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