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「プレゼンテーションZen」はスゴ本

 読むだけでプレゼンが上達する。いや、「見るだけ」で上手くなる。

 なぜなら、本書そのものが、優れたプレゼンテーションのお手本になっているから。

プレゼンテーションZen わたしはデザイナーではない。しかし、同じテーマについて、「まずいデザイン」と「うまいデザイン」が並んでいるなら、見分けることができる。デザインの原則――「コントラスト」「反復」「整列」「近接」を使って、凡庸なシートが、ダイナミックで統一感をもったものに変わっていく過程は、"見た"瞬間に理解できる。

 世界プレゼンコンテストで第1位のジェフ・ブレンマン[URL]とか、「でかいプレゼン」で有名な高橋メソッド[URL]、マレーシア大学薬学部教授の講義スライドを読むというより、"見て"いるうちに、優れたプレゼンのキモに親しむことができる。もちろんビジュアルもテーマも全然ちがうが、どのような効果を狙っているか?そのためにどんなデザイン戦略でいるのか?が伝わってくる。

 いっぽうで、いわゆる「ハウツー本」に慣れている人はとまどうかもしれない。特定のフォーマットやプロセスを見開き一頁で解説するようなものではないから。著者は、「メソッドではなく、アプローチ」だという。進むべき道や方向、心構えを意味し、時には哲学まで示唆する。プレゼンの本なのに、(比喩的とはいえ)禅や武道まで言及しているのがユニークだ。

 もっと面白いことに、

    「まず、パソコンから離れろ」

と助言する。12ポイントの箇条書きとデータに埋め尽くされた、悪夢のようなPowerPointは、全てをPCで行おうとする過ちの結果なんだ。スピーチに必要なのは、ストーリーテリング(物語り)。それは資料の作成よりもむしろ、ドキュメンタリー映画の技法と共通するする部分が多いという。そして、スライドはあなたの言葉をそのままなぞるものではなく、言葉を効果的に「演出」するものでなければならない。そのためには、紙とエンピツだけをもって、一人になって、次のことを突き詰めろという。

    「何が言いたいのか、なぜそれが重要なのか」

 もしPowerPointを使うのなら、空白のシートをプリントアウトして、ラフスケッチを作れとアドバイスする。空白のシートは、ファイル→印刷で印刷プロパティを出し、以下の設定で印刷する。

  ・ 印刷対象を「配布資料」
  ・ 配布資料の「1ページあたりのスライド数」を2~3
  ・ チェックボックス「スライドに枠を付けて印刷する」にチェック

 すると、白い枠と、その横に罫線が並んだペーパーができあがる。これにエンピツで自由に書き込む。ビジュアルをイメージしたり、要点を出すのに使える。どんなシートに何のスピーチをするのか、スピーチ全体のレイアウトを決めるのだ。

 さらに、ホワイトボードの活用を提案する。これも大賛成。ホワイトボードのおかげでチームで課題を共有することができるし、文字どおり「一歩離れたところ」から問題を眺めることができる。全体的にまとまりのないプレゼンは、この「一歩離れたところ」からの視点がない。PowerPointよりもホワイトボードを用いることで、解消できる。「これで全部」が一目で見えるから、それ以外のユニークな視点や新たな要素を吟味することができる。そして、この段階で、リラックスした気分で次の疑問を自問せよという。

  1. 持ち時間はどれくらいか?
  2. 会場はどんなところか?
  3. 時間帯はいつか?
  4. 聴衆はどんな人か?
  5. 彼らはどういったバッグラウンドを持っているのか?
  6. 聴衆はわたしに何を期待しているのか?
  7. なぜわたしにプレゼンテーションの依頼がきたのか?
  8. 自分は聴衆にどうしてほしいのか?
  9. 今回のプレゼンテーションの根本的な目的は何か?
  10. 今回のプレゼンテーションの究極的なメッセージは何か?言い換えると、「もし、たった一つしか聴衆の記憶に残らないとしたら、それは何であって欲しいか?」
 そう、「誰に」「どんな」メッセージを伝えるかは、作りながらである場合が多い(経験談)。そのため、場当たり的で、データや主張を詰め込んでいるうちに、なんとなく「形」ができているような気がしてくる。そんな「まずいプレゼン」にしないために、上の質問はリマインダーとして残しておこう。これらの質問の順番を逆転させると、プレゼンの中に「物語」を与えることができる。パソコンから離れ、ストーリーボードを作るのが先決なのだ。

 こんな心構え的なものに限らず、もっと実践的なアドバイスもある。ハッと気づかされたものを二つ、紹介しよう。「詳細は配布資料で、スライドはシンプルに」と「余白の使い方」の二つだ。

 まず、配布資料について。準備段階で、きちんとした配布資料を作っておけという。配布資料のおかげで、スライドやプレゼンはのびのびとやれる。よく、スライドをそのまま配布資料として用いる人がいるが、絶対にやってはいけないと警告する。スライドはスライド、資料は資料で、同じものではないという。

 つまりこうだ。スクリーンに出すスライドは、できるだけ視覚的なものでなければならない。すばやく、効果的に、そして強力に論点を裏付ける必要がある。いっぽう、配布資料は、(スピーカーがいない場で)プレゼン自体よりもさらに突っ込んだ内容や範囲を持った情報を提供するものなのだ。

 スライドの本質は、スピーカーである「あなた」を支援するもので、スライド単体では成立しない。もし、スライド単体で成立するのであれば、「あなた」が前に立っている必要などないとまで言う。配布資料を用意するだけで、何もかもスライドに詰め込まなければならないという思いから解放できる、これは大きい。

 次は、余白の活用について。うまいプレゼンの例は確かに余白を多用しているが、なぜ重要なのか?その答えがちゃんと書いてある。空白部分があると、見る人の視線は自然に空白以外の方向へ導かれる。新しいスライドが表示されたとき、聴衆の目は真っ先に画像(大きく、カラフル)へと引き付けられ、その後すぐにテキストへと移っていく。

 つまり、画像を使って視線を誘導するためには、余白がどうしても必要なのだ。そして、余白を使うための定石「グリッドと三分割法」を紹介している。シートのタテヨコを三等分に区切り、テキストはその線分上に配置するのだ。そして、画像の位置はタテヨコの交点に合わせる。全体をこの形に統一するだけで、余白を戦略的に活用したシートになる。はデザイナーにとっては常識らしいが、わたしには初だったのでありがたい。

 プレゼンの達人は、精進を怠らない。著者は、TED(Technology, Entertainmane, Design)でスピーチのお手本を探している[URL]。そして、スティーブ・ジョブズとビル・ゲイツのプレゼンテーションを比較して、こう述べる。ジョブズのスピーチに占めるビジュアルは、ゲイツよりも大きい、ほとんど不可欠な構成要素となっているという。

ジョブスは物語を演出するためにスライドを使う。そして、めったに聴衆に背中を向けることなく、そうしたスライドをスムーズに操っている。それは物語を語る手段なのである
 いっぽうゲイツにとってのビジュアルは「お飾り」や「添え物」であり、スライドを背景にスピーチするというよりも、スツールに腰掛けて自分の考えを話し、聴衆との質疑応答形式の方が得策なのだという。

 わたしがプレゼンをする場合のほとんどは、怒り狂う顧客を前にしてトラブルの説明か、乗り気でない顧客候補に新しいソリューションの提案をするかだ。前者には使えないが、後者には間違いなく役立つ。あるいはいつか、ピンで呼ばれてスピーチする日のために…精進すべし、精進すべし。

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「虚航船団」はスゴ本

虚航船団 賛否まっぷたつの怪書。

 批判する人の気は"知れる"が、楽しんで読めた。ただし、これを最高傑作と持ち上げるほど筒井作品を知らないので、なんともいえん。むしろ「文学部唯野教授」の方が面白いんちゃう?と、つぶやきたくなる。500超ページをひとことでまとめると、「巨大な寓話」。自意識過剰な文房具キャラの非日常的日常、イタチに置き換えた人類史の早回し、黙示録的戦争から神話の三部構成となっている。

まずコンパスが登場する。彼は気がくるっていた。
 文房具はどこかしら精神に異常をきたしており、現代社会の――というか自分自身をそこに見出しては、黒い笑いに襲われる。

 著者・筒井康隆は、寓意を隠さない。イタチたちの歴史は「人間」の歴史であり、文房具たちは「人間」のメタファーであることは、折々の自己言及で「人間」という表現を持ち出しているから。さらに、イタチの歴史を嘲笑(わら)うことはニンゲンを虚仮にすることだから、笑うの禁止ね(!)と自分で禁則事項を作って読むといい。満員電車でクスクスをこらえるというプレイで、腹筋が鍛えられるデ。

 さらに著者は、フィクションであることも隠さない。地の文に書き手の日常や妄想や欲望や怒りや情けなさが滲み出し、ストーリーを犯すところなんて圧巻。「わたし(読者)が追いかけているのは何なんだろう」と悩むこと必至。キャラとストーリーと(筒井の)脳内をごった煮にするために、周到に句読点「、」を外し、執拗に段落分けを回避する。

 著者がしゃしゃり出てくるなんて、昔の「語り」みたいだなー、筒井脳内のときだけ句読点「、」があるなー、などと油断していると、あっという間に侵食される。筒井脳内と文房具たちの運命が直接つながっているのだから。わたしは、これを筒井思考ダダもれ小説なのか、あるいは物語が著者を内包してしまっているか、どちらでも好きに読めてしまう。

 いっぽうで、解釈と物語がいっしょくたに並んでいるため、読み手である「わたし」がいなくてもいいのかな?かな?という気になる。もちろんダメで、「いまここ」でわたしが読んでいるのは事実なのだから、それは否定しちゃさすがにまずいだろ…と思いきや、後半のここらあたりで打ちのめされる。

荒唐無稽な「できごと」自体がおかしいのではない奇想天外なできごとが日常の時間を空間を局所的に変革していく不連続の転位その変化していく「できごと」の力学的な現象がおかしいのだ衣装のように着込んだ物語性や思いつきの意外性といった一切のものが役立たず無意味なのになお作品の形成に向かわなければならないといった現代が強いてくる不可避性への感受性というべきものがここには欠けている立脚すべき現実そのものを胡散くさいものとして描くことができるのは当時はサイエンス・フィクション以外にはなかったのでありその事情は現在もたいして変わってはいないSFハチャメチャ派などいまや「型破り」というもののひとつの「型」に安住しているだけなのだから――
引用の誤りじゃないんだ、句点(。)すら省略して一気に畳み掛ける密度で軽く窒息する。つまりこれは、わたしが感じたこと。実際は筒井が「虚航」内で自分を評しているのだが、わたしが読みながら(上述の箇所に到る『前に』)思ったことが『そのまま』の形で先回りされている!

 わたしが「虚航」について語ろうとすると、思考ダダもれの著者について話すか、著者を巻き込んでしまっている物語について語るかしかない。あるいは、そいつを読んでる「わたし」をもメタ化して、「虚航」の一読者か、「虚航」の批判者となればいいか。ああそうか、だから「虚航船団の逆襲」なんて続編(?)があるのか。これをどういう風に面白く読んだ/腐した人がいるか、楽しみだー

 とまあ、メタ、メタメタ、メタメタメタ風に読んでもいいが、キャラのスラップスティックを追いかけても楽しめる。とっつきにくい方は、「萌え絵で読む虚航船団」を入り口にするといい。これは「文具というデフォルメをさらに萌えキャラでデフォルメ」する試みで、登場人物は全員女子。異常性欲の糊だとか、同性愛の消しゴムだとか、小説のナナメ上を行く出来ですぜ、ダンナ。

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リトマステスト的読書「アメリカの鳥」

アメリカの鳥 19歳の若者の「よちよち」具合が面白い、といったら失礼か。

 も少し言葉を選ぶなら、自分の若かりし頃と重ね合わせ、彼の未熟さが引き起こす失敗や悩みを、一緒になって悲しんだり心配する。ただし、その失敗や悩みのいちいちがみみっちく、くだらない。リベラル的な発言は叩かれなれていないせいか、あっちへヨロヨロこっちでボカスカされる。

 そこに普遍性を見出したのか、選者の池澤夏樹は「傑作」だとほめたたえる。彼とは趣味がかなり違うことも分かっているし、わたしなんざ足元にも及ばぬほどの読書経験を積んでいることも分かるが…ホント?面白がるポイント外してた、ボク?と自問したくなる。

 主人公はアメリカの若者。カントの黄金律「他人の利益が自分のふるまいの目的となるようになせ」をよりどころにしている。時はベトナム戦争当時、所はアメリカの片田舎、パリ、そしてローマ。フランスという異文化でセイシュンやってる男の子の前に、さまざまな問題が立ちはだかる――汚すぎる公衆トイレの掃除をすべきか?慈善行為は隠れてすべきか?ワリカンになっていないことを指摘すべきか?

 次々と現れる些細な(すまん、本当にどうでもいい些細な)問題のそれぞれに、良心のレベルで思い悩む。好きな人なら食えるネタが、わたしにはひたすら青臭くてうっとおしい。その「若さ」を良しとするならば本作は良作だろうが、自らを偽善者だと名乗る弁明はウンザリさせられる。あこがれていた女子が処女か処女でないか気を揉んだり、そんな自分を激しく内省する姿なんぞ、読んでるこっちが痒ーくなる。

地下室の手記 もっと深掘りして、「偽善を名乗る偽善」(^を意識する偽善)で苦悩すれば面白くなるのだが、そんなメタ思考はアメリカ人の好むところではないらしい。ロシア人あたりが適当か。ドストエフスキー「地下室の手記」の強烈な自意識なんて、ヤケドするぐらいだぜ。過剰すぎてコミュニケーション不全を起こしているトコなんて、自分の(なかったはずの)黒歴史を強制的に見させられているような気分になるしw

 なんでこんな作品を選んだのだろうか?とGoogleると、小谷野敦がタネ明かしをしている。これには笑った。出典は「アメリカの鳥」書評 : 風刺消え「リベラル」肯定より引用。

なぜ『グループ』の新訳ではなくてこんな失敗作を選んだのか、といえば、この「全集」を1人で編纂(へんさん)している池澤夏樹が解説で、こちらの方が『グループ』より優れていると、驚くべきことを言っている。しかしそう思って読むと、主人公は池澤と同じ1945年生まれ、学者の父と演奏家の母の間に生まれ、両親は離婚し、少年自身は題名にもある通り鳥類好きのナチュラリスト、政治的にも池澤によく似ているのである
で、返す刀でこの文学全集シリーズ自体、「文学的価値よりも政治的意図で選ばれたものが多く、感心しない」と。いまどき文学全集を立ち上げている心意気を買ってやりたいが、本作については小谷野に一票いれたくなる。

 あと、「グループ」が読みたくなったではないか!池澤が価値なしと斬り捨て、小谷野が傑作だと持ち上げている。両者を測るリトマステスト的読書になりそう。待てよ、これは孔明の罠かもしれぬ、わたしの積読山を増大させるための。

 …ちょっと図書館いってくる。

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