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立花隆の読書術

ぼくが読んだ面白い本・ダメな本そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術 「知の巨人」の、かなり特殊な読書術。反面教師として得るところ大。

 一読した最初の印象は、「ごはんを美味しく食べてるだろうか?」。想像を絶する忙しさだろうし、「寝るヒマ・食うヒマもない」のは自慢の証だろう。でも、たまには時間をとって、味わって楽しんで食事することがあるのだろうか?と心配になる。

 というのも、その読書スタイルがあまりにも「もっと!」「イケイケ」で、あたかも生き急いでいるかのように見えるから。角栄、サル学、脳死で勉強させてもらい、その超人ぶりはあこがれでもあったのだから。

 たくさんの「気づき」を得られたが、その読書法は、かなり強引だ。

 いちばん大きいのは、「読まないと決めたら、その本は断固として読まない」こと。これは立花氏だからこそ言えるのであって、わたしがマネしてはいけない。たちまち世界をせばめてしまい、狭窄した視野で偉そうに語りはじめ、失笑を買うのがオチ。

 わたしの場合、歯が立たなかったり、合わなかったりする本は、いったん時間をおけばいい(再会できないのならそれまで)。いつまでも惹かれるならば、準備と訓練を積んで再挑戦すればいい。

 次に気づいたのは、「スタイルが対象を決めている」こと。立花氏は「全文通読が必要条件となっている本」を読まない。全文通読が必要な本とは、いわゆる小説やミステリのこと。最初から最後まで「とばさずに」読まないと分からないものは、付き合ってるヒマがないという。ノンフィクションですら時系列で書かれているものは対象外だそうな。

遅読のすすめ そういうタイムコンシューミングな(時間ばっかりくってしょうがない)本は、ヒマ人が読めばよろしいという。「遅読のすすめ」で、「そんなのは読書じゃない」「情報を摂取して排泄しているだけで、人生の無駄遣い」と叩かれていたが、ようやく腑に落ちた。

 文学作品というテクストから、これまでと違った「読み」を追求する「読書」と、情報新陳代謝体として大量摂取とスクリーニングをくりかえす「読書」とでは、まるで異質なもの。仕事上、期限と結果が求められる「読み」を強いられている限り、それは読書というよりも、「資料にあたる」と表現する方が適切かと。

 そうした資料読みの手法としては有用なんだが、かなりスタンダードともいえる。立花氏は、逐語的・逐文的に読むやり方を「音楽的読み」、パッと全体像をつかんでキーワードを追っていく読み方を「絵画的読み」と定義付けている。

  1. はしがきとあとがきを読んで全体像をつかみ、目次を構造的に把握する
  2. 音楽的読み/絵画的読みの配分を判断する
  3. とにかく頭から終わりまで、強引に目を通す。つながりが分からなくでも、パラグラフ単位で飛ばし読みしても、まず終わりまでいってから二度目の読みをどうするか考える
 どうやら、じっくり逐文的に読んでいるよりも、パッとつかんだ後は面白そうなところを探すように「見て」いるようだ。これは、膨大な資料読みをしてきた「目」があるからこそできるもので、わたしがマネすると危ない。わかるところだけを拾い読みして「読んだ」ことにするので、きわめて浅い読みしかできないだろう。

 さらに、自分の頭で考えず、情報(になりそうなもの)を吸い取るようなやり方なので、そういう「読み」を許すような本に限定されてくる。図やチャートが多く、分かりやすい主張が箇条書きにまとめられるような本ばかり読むようになる。

 もちろん、栄養補給としての斜読速読も必要だし、ちびちび味読惜読する深夜も捨てられない。速読もスローリーディングも大切なことは、あらためて言うまでもない。どちらの読書の腕前も、上げていきたいものだ。

 本は味わうものではなく、そこから情報を摂取するもの――その「哲学」を見ていると、味わうのはヒマつぶしだから養分摂るなら点滴サプリで十分でしょ、という「料簡」が見えてくる。「知の巨人」のスゴさとともに、いびつな部分もよく分かる。

これからの時代、人間が生きるとはどういうことかというと、「生涯、情報の海にひたり、一箇の情報体として、情報の新陳代謝をつづけながら情報的に生きる」ことだということが直観的にのみこめてくる。
 彼のような知的ブロイラーに感謝しないといけない。おかげで、飽書の時代からスゴ本を拾うことができるのだから。でも、ああはなりたくないものだとも思う、正直なトコ。

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嫁さんから三行半を叩きつけられたとき、思い出すべき二つのこと

 自戒エントリ。

 「あなたとはやっていけない」──こう切り出した時点で、すでにスーパーサイヤ人と化している。こっちは素、どころか仕事帰りで泥疲れなので、怒涛の口撃に理解するのも精一杯。「オレだって○○も△△もやっているんだよ!」と反論・自衛の一つも返したくなる。

 しかしだ、それは間違っている。いや、間違っていた、というほうが正確か。ここでは一般論を述べるのではなく、わたしの試行錯誤からの教訓を書くのだから。従って「あなたは役割を果たしていない」という批判に対し、具体例を挙げて反論するのは火にガソリン。

 そんなとき、思い出すべきことは、次の二つ。

1. 言ってくれて、ありがとう

 嫁さんが、本気で、「アンタとやっていけない」と決めたら、黙って出ていく。行った先で冷静に(人を介して)後処理を進めていくよ。少なくとも面と向かってなじったりはしない。

 だから、感情をぶつけてくる時点でまだ「救い」はある。言い換えると「やりなおし」は効く。UndoはダメだけれどRedoはいける。なので、自分も一緒に感情に流されないように。で、そこで踏みとどまれるのなら、コヴィーのメッセージを思い出せるはずだ。

  「刺激と反応」の間に意志があり、どう反応をするかを選択する自由がある
  「刺激と反応」の間で一時停止し、原則や望む結果ににもとづいた反応をする

 自分が泥状態だろうが嫁さんがヒステリックだろうが、ここでコヴィーの禿頭を思い出せないようじゃ、なんのために「7つの習慣」を読んだのさ。感情という刺激と反応の間を「待って」いてくれるのだから、まずはそこに感謝しよう。

2. 「旦那が役割を果たしていない」ことが事実か否かが問題なのではなく、「『役割を果たしていない』と嫁さんが思っている」ことは、まぎれもない事実であるということに気づく

 「どんだけオレが大変か、オマエこそ分かってるのか!?」というのは売り言葉に買い言葉、トドメの一撃になる。淡々と反証を挙げるのもNG、客観的にどうの、なんて知りたくも聞きたくもない。

 嫁さんは重荷合戦をしたいわけじゃない。役割の見直しをしたいわけじゃない。そうなんだ、役割云々を持ち出して、話の流れ上、分担内容の見直しになるかもしれない。しかし、激高している時点で分担が重荷だといいたいわけじゃないんだ。では何か?

 ただ、認めてほしいわけ。この事実(=「『旦那が役割を果たしていない』とアタシが思っていること」)を認めてほしいわけ。ここが出発点なの。ここから話を進めるの。それ以前のところで、前提云々で意見を言っても意味ないの。

 だから認める。そこは100パーセント事実だと。そして、そこから「どうすればいい?」と考える。わからないところがあれば、訊ねるんだ。よっぽど思いつめていたからこそ、ああいう言い方にもなったのだから、その「思い」をまずは聞くんだ。

――と、過去の自分に言ってやりたいことを書いた。テンパってるときは、なかなか冷静に思い出せないもの。だから二つに絞った。未来の誰かの予防接種になれば、うれしい。

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哲学、脳を揺さぶる

哲学、脳を揺さぶる 慣れ親しんだ世界が「揺さぶられる」感覚を訓練する。

 コクーンタワーのBook1stで呼び止められた一冊。「知の森」を髣髴とさせる、あの林立した書架から、警告のように伝わったぞ「俺を読め」って。ただこれ、タイトルどおり「哲学」のエリアに置いてあったけれど、中身はちがうような気が。むしろ自己啓発書として「使う」とユニークだろう。

 著者曰く、「学習」と「発達」を区別せよという。視点や観点の選択肢が一つ増えることは、学習の成果で、それに伴い知識も増える。けれども、能力そのものの形成や、能力形成の仕方自身を習得するのでなければ、テクニックが一つ増えたにとどまるという。

 たとえば、自転車。うちの子が四苦八苦しているんだが、なかなか乗りこなせない。どうすれば乗れるのかは、「わかる」のだが、「できる」ようになるまで発達していない。乗り方が知識として分かったところで、乗れるようになったわけではない。ところが、いったん乗れるようになると、子供用→変速機→ママチャリまで学習によって増やしていくことができる。

 つまり、「自転車に乗れる」という能力を形成するのが「発達」で、自転車の種類を増やすのが「学習」なのだろう。本書によると、現在流通しているかなり多くのノウハウ本は、学習の範囲にあるという。本来、課題になっているのは、能力そのものを形成することであり、本書の目的は、この「発達」を再度リセットすることだという。

 この能力獲得のやり方は、「洗脳力」(苫米地英人)に似ている。「洗脳力」は自分や他人への影響力を行使するための直接的な技術として大いに役立つ。いっぽう本書は、同様の能力を自分自身の身体・感覚を通して身につける、その方法そのものについて紹介している。

 とても大事なトコなので、別の言葉でくりかえすぞ。「思考技術や、フレームワークの紹介ではなく、あたらしい感覚・あたらしい経験を再獲得するやり方」が書いてあるんだ。「自転車の乗り方」が書いてあるのではなく、「自転車に乗れるようになるとき、何がはたらいているのか」が書いてあるんだ。

 料理のレパートリーのように「○○シンキング」が並んだ凡百の自己啓発本の横に、「鮪の獲りかた」「畜殺のコツ」があるとイメージしてほしい。「洗脳力」といい、本書といい、ゆるふわ啓発本に慣れた脳を「揺さぶる」こと請合う。

手は外に出た脳であり、身体は外に出た脳の容器である。頭蓋骨のなかに納まっているのは、脳の構造部材であり、この構造部材を有効に活用するためには、外に出た脳に有効なエクササイズを課すしかない。

 このエクササイズが面白い。

 たとえば、身体と呼吸の幅を広げるために、限界までの深呼吸を行えという。そのとき、息を吐ききったときの状態と、息を吸いきったときの状態をイメージしてみろと提案する。身体状態を記述するのでなく、その感じ取り方をなんらかのイメージと結び付けてみろという。意識の速度を遅くし、意識の動きがとまるような場面まで遅くすると、意識がそれとしてあることの境界がくっきりと見えてくるという。

 残念ながら、「意識の境界」まではたどりつけなかったが、身体とイメージングの連動は楽しめた。「身体状態→イメージ」ができると、その逆であるイメージから身体状態にもってくることが可能になる。「洗脳力」のレビューで紹介した「手を使わずにオナニーする方法」、「偽の記憶を上書きして遊ぶ」で実験済みだし。

 あるいは、表紙でもある「天命反転住宅」は本書で知った、目が点になった。荒川修作氏が設計した三鷹にある住宅で、「すさまじぃークレイジー」という言葉がピッタリ。色も形も、この世のものとは思えない。赤、青、緑、黄の原色が圧し、本来「四角い」はずのドアが円形だったり、そもそも「直方体」である部屋が球体となっている。スケールは小さいものの、このイメージはポンピドゥー・センターそのもの。おまえはリサか!

三鷹天命反転住宅 そこで普通に一泊した翌朝、著者は「いつもと違う」筋肉痛に悩まされる。著者の河本英夫氏は軟弱な哲学者ではなく、日々ランニングを欠かさないスポーツマンなのだが、どこかおかしい。これは、異常な住環境に身を置くことで、筋肉を使うこととは別の緊張度を強いたのではないかと想像する。この作品のなかで、経験を動かすことと、動いてしまった経験を動きのさなかで感じ取ることを考察する。

 さらに著者は、意図的に測度を変えることを提案する。測度とは要するに、「目盛り」だ。日常生活にあたって形成された目盛りを、いったん捨ててみろというのだ。一歩の距離をセンチメートル単位で測ったり、電子顕微鏡の世界を人間のスケールにあてはめて「言葉」で表現することで、感覚が変わっていく。それまで見えていなかったものが見えてきたり、逆に見えていたものが消滅するような経験が必要だという。

 これも、「洗脳力」のレビューの「ひとり遊び」で紹介したとおりだが、まさにこの「測度を変える」のにうってつけな道具を二つ見つけてきたので、紹介しよう。

PowersOfTen ひとつは、「Powers Of Ten」。最初、どこかの公園に寝転がっているピクニック中の男性の姿から始まる。正方形に区切られた映像は縦・横が1m×1mの範囲を見せている。次にカメラが上がっていき、映像範囲は10m×10mとなる。さらに上空から100m×100mの範囲をとらえる。これをこうり返していき、ついには宇宙の果てまで後退する仕掛けだ。いっぽう、逆方向もある。1m×1mの世界から0.1m×0.1m…とミクロから陽子や中性子の世界へ突入していく。書籍版だとページをめくる度に空間感覚が広がっていくのが怖くなる(アタマが開く感じ?)。

 もうひとつは、Nikonの「Universcale(ユニバースケール)」。大きさを「実感」できるユニークなサイト。極小の世界から宇宙まで、あらゆるものの「大きさ」を感じることができる。もちろん卵子の小ささも太陽の大きさもディスプレイに表せないが、「比」することはできる。画面を触らずに眺めていると、そのスケール感覚にめまいを覚えるかも。

 タイトルがシャレている。「Universe + Scale」、つまり「万物 + 尺度」だそうな。アシモフは宇宙に点在する小宇宙の密度をこう表現している。「32km角の大きな部屋にある、一粒の砂」――言葉を思い浮かべることでも、日常に慣れきった感覚・知覚がゆらいでくる。

 わたしが付け加えたものもあるが、著者が提案するのは感覚・知覚のエクササイズそのもの。カフカから物語イメージを活用し、イチローと松井の身体表現の可能性を探り、わかる前に注意が向くということを寺田寅彦から実演してみせる。

 そうした感覚のエクササイズに対し、既に知っていることと関連付けたり、今の知識に加えようとするのは禁物。学習の「前」に、その意味をカッコに入れ、自分の経験そのものを「動かす」ことを訓練してゆく。意味によって経験をラベリングするのではなく、再・経験する(創・経験する?)のだ。

 ガイドブックというよりも、練習帳。だから、知を得るために読むと、畳の水練となる。トレーニングから得たものを言語化するのはかなり難しいが、さんざんやった後、これは「オートポイエーシスの練習問題」だということに気づく。

 あるいは、オートポイエーシスを実経験する一冊なのだろう。

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