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設計された旅「パタゴニア」

パタゴニア・老いぼれグリンゴ モレスキンをこよなく愛した旅人が書いた紀行文。著者チャトウィンは、こんなセリフを遺している。

   Losing my passport was the least of my worries;
   losing a notebook was a catastrophe.

 彼にとっての「ノート」とは、モレスキン。モレスキンを無くすくらいなら、パスポートのほうがマシなんだろうね。これは、モレスキンのキャッチコピーでもあるそうな。

 チャトウィンは歩く旅人でもあった。「パタゴニア」には何度も歩く場面が出てくる。ヒッチハイクしようにも、だいたい車がないのだ。曰く、「僕の神様は歩く人の神様なんです。たっぷりと歩いたら、たぶんほかの神様は必要ないでしょう」。歩いた先で出会う人や会話との間に、歩いた場所でかつて起きた歴史を積み重ねるようにしてつむがれる。

 たとえば、ブッチ・キャシディとサンダンス・キッドの後日談。「明日に向かって撃て」で壮絶な最期を遂げたあの二人と言えばピンと来るだろうか。もし彼らが生きていたら?ではなく、彼らが生きのびていたという事跡を元に、パタゴニアでのエピソードが物語られる(騙られる?)。

 あるいは、アラウカニアの王になろうとした男の話。本物か狂人か、ついに読み手には分からないような書き口で描く。「王になろうとした男」といえばショーン・コネリーの同名の映画が出てくるが、こっちは未見。むしろ、ハリソン・フォードの「モスキート・コースト」を思い出す。ぜんぜんストーリーは違うのだが、その熱と圧はよく似ている。

 また、この地を訪れた、ダーウィンについても痛烈に語る。ダーウィンは、博物学者が犯しがちなあやまちを犯したという――複雑で完璧なほかの生物を賞賛するあまり、人類の見苦しさに顔をそむけたのだ。

ダーウィンは、フエゴ人を「見たこともないほど卑しくみじめな生き物」と感じた。ダーウィンは彼らのカヌーや言葉をあざわらった。「彼らの言葉に意味があるとは思えない」彼らが同じ世界に住む仲間とはとうてい信じられなかったと告白するのである。
 訪れた場所と、出会った人びと、そこから喚起される歴史とが、一つ一つのエピソードとしてぎっしりと折り重なるように詰まっている。それぞれのお話が実に興味深いのにもかかわらず、展開が早いので、「もう終わり?」と物足りなく思いながらページを繰ることになる。しかも話の転がり方が見えない。血なまぐさい移民史だったり古代生物ハンターだったり、思いもかけない方向へ飛び回る。

 その奔放さ、饒舌さはモザイク模様のようだ。いや違うか。モザイクなら「全体と部分」に分けられるが、エピソードのそれぞれを積み上げてもパタゴニア全体像にならない。だからこれは、その場所を様々な視点・時間軸で表現しなおし、再構成したものになる。チャトウィンはこの本のことを「あの土地のことをキュビズムの手法で書こうと思った」と言ったそうな。言い得て妙なり。

 しかも、(これは意図してのことだろうが)歩いたルートが時系列に記されていない。ご丁寧に冒頭に地図があり、旅は北部から始まるので、わたしは「南下する話だ」と信じ込んでしまった(実際は東西にジグザグしていくし、"跳躍"もある)。パタゴニアの地域史をいかに面白く見せるか考えた結果だろう。池澤夏樹が解説で、「"パタゴニア"は旅の前に充分に準備され、旅の後で巧妙に編集された旅行記でもある」と述べているが、その通りだね。

 徒歩の旅、旅と創作の組み合わせ、事跡と好奇心の交歓――ここから池澤は、「パタゴニア」の構成について、びっくりするような連想をしている。わたしは「なるほど」と思うほど連想先を読んでいないので、なんともいえない。ここでは明かさないが、読んだ方のお楽しみということで。

 良い機会だ、新訳も出ている「ソングライン」にも手をだしてみよう。


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嫁と「天元突破グレンラガン」

 未見の方に配慮して書く。先ずは結論から。

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男と女はどのように壊れるのか「軽蔑」

軽蔑 オシドリ夫婦が壊れていく話。

 「よくあることじゃん、現実にも」という方には、次の点を強調しておこう。この小説は、男性側から一方的に見た、「オシドリ夫婦が壊れていく話」なんだ。インテリであり作家である夫が告白する形式なのだが、その回想描写が正確であればあるほど、心理分析が的確であればあるほど、疑わしく思えてくる。なにが?なにもかもが。

わたしたちは愛し合っていた。この物語の主題は、わたしが依然として妻を愛し、妻を無批判に受けいれていたときに、どのようにしてエミーリアがわたしの欠点を見出し、あるいは見出したと思いこみ、わたしを批判し、ついにはわたしを愛さなくなったかを語ることである。
 愛さなくなっただけでなく、夫のことを軽蔑し、静かな怒りまで抱くようになったという。夫にしてみれば、身に覚えもなく、やましいことも一切していない(と思っている)。なので、最初は戸惑い、次に怒り、ついには泣きつく。

 読み手は、「なぜ妻はわたしを愛さなくなったのか」という夫の繰り言に強制的に付き合わされることになる。夫が見過ごしてしまった言動の中にその原因を探す、いわば探偵役としてストーリーに入っていく。序盤から中ほどまでは、この探す楽しみがミステリのようで面白い。ただし、出だしから不吉な通低音が鳴り響いているので、カタストロフを覚悟しながらの読書になる。

 夫は、過去の数ヶ月をさかのぼるようにして、当時においては何の意味もなく、自分でも気づかないまま過ぎてしまった出来事の痕跡を、忍耐強くまさぐり、再構成する。彼と一緒になって過去を分析するうちに、彼女に愛されていることそのものが実は幻想だったのではないかという疑いに達する。つまり、変わったのは妻ではなく、夫のほうではないのかという、恐ろしい仮定が浮かび上がってくる。

 二人の愛を疑うまいという彼の涙ぐましい努力は、そのまま彼を「信頼できない語り手」に貶める。妻は容姿こそ優れているとはいえ、教育のないタイピストであり、自分は教養のあるインテリなのだ――そんな思考の前提により、読み手が抱く「語り手への疑惑」が加速する。分かっていないのは、実は、夫なのではないか?

 最後に到達した「真実」が、彼女の真意であるかどうか、検証されない。ずっと理由を渇してきた読者は、喜んで飛びつくだろう、この男のように。しかし、この「理由」が、男サイドの独りよがりの可能性もあるのだ。語りのエピソード一部が幻想的どころか、ホントにお花畑しているのを見ると、そう思えてくる。にもかかわらず、解説者がコロッと騙されていて面白い。「どうしてアナタは○○なの!」を枕詞に女房に怒られ、戸惑い悩んだことがないのだろうか?

 女は、理由もなく怒れるもの。たとえその怒りに最初は原因があったとしても、そしてその原因が除かれたとしても、女は、怒り続けることができる。身勝手とかいうのではない、女は、理屈で怒らないのだ。理屈ドリブンではなく、感情ドリブンなのだ(ソース俺)。過去の「出来事」が原因でこじれた感情は、出来事をどう正そうとも直らない。別の感情で上書きしてもらうしかない。このへんの機微が分からない男性が不用意に読むと、主人公が「信頼できない語り手」であることに気づかないままラストで同意してしまう。

 そういう危険を秘めた、サスペンスフルな一冊。

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