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分かりやすさという罠「利己的な遺伝子」

利己的な遺伝子 かなり誤解を招きやすい教養書。

 わたしの場合、タイトルと評判だけで読んだフリをしてきたが、その理解ですら間違っていることが分かった。ああ恥ずかしい。このエントリでは、わたしがどんな「誤読」をしてきたかを中心に、本書を紹介してみよう。

 まず、「遺伝子が運命を決定する」という誤解。「利己的な遺伝子」なる遺伝子がいて、わたしの行動をコントロールしていると考えていた。遺伝子は、わたしの表面上の特徴のみならず、わたしが取りうる行動や反応を支配しており、そこから逃れることはできない――などと思っていた。わたしが利己的なのは遺伝子のせいなんだ、というリクツ。

 次に、「われわれは遺伝子の乗り物(vehicle)にすぎない」ことから、虚無的な悲観論に染まりきったこと。「ニワトリは、卵がもう一つの卵を作るための手段」なのだから、われわれは生殖さえすればよろしい。極端に言うならば、生殖しないのであれば、その人生は意味がない、ということになってしまう。これはひどい。

 これらは、ドーキンスが「利己的な遺伝子」で主張していると考えていた。すべてわたしの「読んだフリ」のせい。著者は似たようなことを書いているが、意図は激しく違う。注釈やまえがきなどで誤解を解こうとしているものの、誤読を招きそうな「演出」をあちこちでしているのも事実だ。

 ドーキンスの主張をまとめると、「生物のあり方や行動様式を説明するとき、遺伝子の自己複製というレベルからだと整合的に理解できるよ」となる。どうしてそんな特徴をもつ生物がいるのかという疑問に対し、「そんな特徴をもっている奴が生き残ったからだ」と説明できる。この「そんな特徴を持っている" 奴 "」がクセモノで、論者によって異なる。

 自然淘汰の単位を「種」に求めたり、種内の「個体群、集団」と考えたり、あるいは、「個体」を単位とする人もいる。本書で一番おもしろいのは、この単位を「遺伝子」としたところで、あたかもこの「遺伝子」が意志を持ち、自分の遺伝子を最大化するように個体を操っているかのように演出している。1976年版のまえがきが、本質を端的に物語っている。

この本はほぼサイエンス・フィクションのように読んでもらいたい。イマジネーションに訴えるように書かれているからである。けれどもこの本は、サイエンス・フィクションではない。それは科学である。われわれは生存機械――遺伝子という名の利己的な分子を保持すべく盲目的にプログラムされたロボット機械なのだ。
 怖いのはここ、太字はわたし。遺伝子に操作されたロボットとして、遺伝的決定を最終的なものと見なした瞬間、誤りに陥るのだという(p.417)。実際は逆で、後付けで行動を説明するために遺伝子が持ち出されているのだ。あたかもその行動が「決定」されたかのような書き方がなされているが、それ以外の行動をしたものが消えているだけ。統計的な「結果」にすぎないのを、予め「決定」しているかのように表現しているのだ。他にも、「遺伝子が組み込んだ」とか「遺伝子がプログラムした」という表現があちこちにあり、あたかも遺伝子が戦略的に計算をしているかのような印象を受ける。比喩として遺伝子を擬人化するのは、演出として上手いが、誤解を招くおそれも充分にある、両刃の剣なのだ。

 そもそも、「利己的」であるという「己」とは、一体何だろうか。"selfish"というからには"self"(自己・自我)がある。にもかかわらず、適用先は「個体」ではなく、「遺伝子」なのだ。自意識のない「遺伝子」を「利己的」だと形容し、「遺伝子の特定の部位」としたり、「遺伝子そのもの」としたり、「個体」としたり、範囲を伸び縮みさせる書き方が危うい。読み手は、自分に都合のいいように解釈するハメになる。

 案の定というか、利己主義の宣伝として本書を受け取る輩が出てくる。最初に述べたわたしの曲解「わたしが利己的なのは遺伝子のせい」がそれにあたる。ドーキンスは、そうした連中を「タイトルと最初の二頁以上は読まなかった」と批判しているが、タイトルからして誤解の招きやすい論を展開した著者も、釣師として自覚的であるべき。

 まだある。遺伝子には遺伝子、個体には個体でそれぞれの目的や戦略があるというのが、本書の主張の一つだ。一見「利他的」ともいえる個体行動も、「遺伝子を数多く残す」という観点から見るとつじつまがあう。個体としては不利で、命を危険にさらすような行動であっても、その個体の遺伝子を数多く残すという目的には合致しているのだ(個体の直接の子孫がいなくても、近親者はその個体の遺伝子と同じ部分を一部持っている)。

 しかし、遺伝子の「戦略」を説明するため、本来個体につけられるべき形容詞を多用しており、結果、遺伝子があたかも個体であるかのように受け取られかねないのだ。利己的、利他的、寛容、妬み深い、ジレンマ――戦略という言葉もそうだ。遺伝子を擬人化するあまり、遺伝子による説明を、個体に対する「原理」と読み違えてしまう。

 その結果、遺伝子の戦略――「淘汰を生き残ること」が、「産めよ殖やせよ」にすりかわる。裏返すと、二番目のわたしのカン違い「子孫を残さないのなら人生に意味はない」になる。どこかで「ドーキンス曰く…」と大嘘をタレ流していないかヒヤ汗ものだ。遺伝子の戦略は、わたしという個人にとって知ったこっちゃないの。

 例えば、「子殺し」「子捨て」という事例がある。前夫の子(継子)を殺したり、我が子を放り出して去っていく行動を、ドーキンスは、「遺伝子を最大化するため」という視点で読み解く。現夫の遺伝子は継子にない。継子を育てるためのコスト(時間・労力)をなくし、現夫の遺伝子を優先させるための「子殺し」というのだ。あるいは、子育てコストを配偶者に押し付けて、新たな(自分の)遺伝子を残す機会を最大化させるための「子捨て」という選択肢があるという(もちろん、夫婦のどちらが"捨てる"かにより、互いに搾取しあう構図も見えてくる)。

 こうした遺伝子の戦略を、「冷酷」だの「無責任」といった個体、もっというなら人を形容する言葉で表現するのは、おかしい。さらに、「ケダモノだもの」とか「虐待は動物世界にもある」といった論理にすりかえるのは、もっとおかしい。にもかかわらず、遺伝子の擬人化というメタファーに捕えられ、つい人間みたいに捉えてしまうのだ。かくいうわたしも、このエントリで、遺伝子をあたかも意志を持った存在であるかのごとく書いている。自分で「誤解を招く」といっておきながら矛盾しているんだけどね。

 つまり、ある行動を、遺伝子の立場からだと上手く説明できるからといって、その行動が正当化されたわけではないのだ。そして、遺伝子淘汰で説明できるからといって、遺伝子の「目的」がわたしの人生の「目的」に成り代わるわけでもない。これに気づかせてもらえただけで、本書を読む価値は充分に報われた。

 そして、この方法はかなり有効なことも分かった。「なんでもかんでも遺伝子」にする危険をわきまえながら、ある行動を遺伝子淘汰の観点で検証することは可能で、かつ、有効なことも分かった。自分の「道徳」「正義」に合わないからといって、遺伝子淘汰説を疎外することこそ、愚の骨頂なのだ。

 ただ、気になるのは、こうした議論が全て後付けであること。「そうした特徴を持っているのは、そうした特徴を備えた遺伝子が生き残ったからだ」とし、残ったものだけで説明を試みようとする。もちろん淘汰は再現できないし、過去は残された手がかりから想像するほかないのだが、強い恣意性を感じる。主張を裏付ける実験や、反証となる事例があまりにも貧弱なのだ。賛成側も反対側も、特別な行動をとる魚やコウモリを持ち出しては、自説の傍証としている。

 生物の多様性からすると、特殊な行動をとる魚と、特別な場所で生活すコウモリが、全く逆の行動をとったからといって驚くにはあたらない。さらに、そうした事例を反証する別の事例が(探せば)あるだろう。しかし、そいつを証拠として持ち出してくるほど特殊な話をしているんだっけ?という疑問に囚われる。賛成・反対、なんとでも取れてしまうほどの論旨なのだろうか、とツッコみたくなる。分かりやすさは大切だが、鵜呑みにすると危険。

 「分かりやすさ」を警戒しつつ、自分が試される読書だった。進化と倫理とジェンダーについて、気になる文献は以下の通り。ゆるり消化していこう。

  乱交の生物学(ティム バークヘッド)
  クジャクの雄はなぜ美しい?(長谷川眞理子)
  人が人を殺すとき(マーティン デイリー、マーゴ ウィルソン)
  男とは何か(バダンテール)
  進化論と倫理(内井惣七)

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「続・影響力の法則」は「影響力の法則」と合わせてスゴ本

 「正しい」根回しのやり方が分かる。

 「論理的に正しい」からといって、自分の提案が通るとは限らない。社内ルールに則っているからといって、その部門の協力を得られるとは限らない。社畜も長いことやっていると、「根回し」や「政治力」の勘所が分かってくる。仕事をまわす、ティッピングポイント。本書は、こうした暗黙知をノウハウのレベルまで噛み砕いている。

 米国はそんなの無用だろうと思ってたが、勝手な思い込みだったようだ。本書がバイブル扱いされているのは、必要性を痛感しているからだろう。動かないプロジェクト、死蔵される情報、コミュニケーション不全――ビジネス上の課題はどこも一緒ということか。

 そして、その対策も共通している。権力を使わずに人を動かす原則を一言で表すならば、「お返し」になる。何かイイことしてもらったら、お返しに何かを返したくなる気持ちこそが、肩書きや立場を離れて人を動かす動機となる。

 本書では、も少し難しい言葉で、「レシプロシティの原則」と呼んでいる。レシプロシティ(reciprocity)とは、互恵性、返報性と呼ばれる社会的通念のことで、人間社会に見られる「もらったら返さなければならない」というルールの源だそうな。さらに著者は、相手を動かし協力を引き出す戦略を、「カレンシーの交換」を定義づけ、カレンシー(currency)、すなわち通貨の交換になぞらえている。こちらが求める価値(カレンシー)を得るために、それに相当するカレンシーを用意して渡すのだ。

影響力の法則 なにをいまさら、と思うかもしれない。「困ったときはお互いさま」という間柄になるためには、日ごろから便宜してあげることが原則なのは自明だろう。あるいは、立場や肩書きを超えて協力しようとするときは、「アイツなら多少の無理を聞いてくれる」とか、「以前にお世話になったからなぁ」という気持ちになっている。日本では「もちつもたれつ」という言葉に代表される互恵関係が、非常に戦略的に、システマティックに語られる。

 その基本編が、「影響力の法則」になる。類書に「影響力の武器」があるが、これは人間関係の心理を基とした知見で、ひとり対ひとりの一般的なやつ。本書はビジネスに特化しており、グループ、部門といった一対多にあたる「影響力の兵器」というべきもの。わたしのレビューは「影響力の法則」はスゴ本を参照してほしい。

続影響力の法則 そして、応用編が「続・影響力の法則」だ。成功例・失敗例ともども使って、「カレンシーの交換」がどのように影響力を発揮しているか、生々しく紹介している。インターンで平社員の仕事を任された大学生が、周りを巻き込んでいった方法や、優秀な社員ゆえのプロジェクトクラッシャーの苦悩は、読み手がまさにその立場であれば福音のように見えるかもしれない。さらに、部門横断的チーム、変革の推進、間接的に影響を与える方法、組織に影響をおよぼす方法、強硬手段のとり方など、より応用的な方法もある。

 最後に文句をひとつ。「続編」と銘打っているが、実はコレ、"Influence without Authority"一冊の本の「基本編」「応用編」を二つに割って出しているのだ。何か都合があったのだろうが、あこぎな商売をしておる。

 プロジェクト・リーダーなら、「あたりまえ」の原則を明かした二冊。

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お尻を理解するための四冊 【紳士限定】

 女は尻だ。

 何度でも言う、女は尻が肝心だ。もちろん、おっぱい山頂への関心は否定しないが、お尻のあわい目への興味と比べるまでもない。なおかつ、男はおっぱい星人であるとともにオシリストにもなれる。お尻を賛美することは、おっぱいを否定することにならないのだ(逆もまた然り)。

蜜のあわれ 女の尻のすばらしさについては、室生犀星が「蜜のあわれ」で力説している。人間でも金魚でも果物でも、円いところが一等美しいのだという。そして、人間でいちばん美しいのは、お尻だと一気呵成にヒートアップする。太字化はわたし。

人間では一等お尻というものが美しいんだよ、お尻に夕映えがあたってそれがだんだんに消えてゆく景色なんて、とても世界中をさがして見ても、そんな温和しい不滅の景色はないな、人はそのために人も殺すし自殺もするんだが、全くお尻のうえには、いつだって生き物は一匹もいないし、草一本だって生えていない穏やかさだからね、僕の友達がね、あのお尻の上で首を縊りたいというやつがいたが、全く死場所ではああいういつるつるてんの、ゴクラクみたいな処はないね。」
 激しく同意、つるんとしたお尻に顔を乗せてまったりすることは、人生の至福の一つだ。この作品は美尻礼賛として称えるべきなのだが、世間サマではちょっと違っており、ロリ小説として有名だ。金魚が少女に変身する話なので、ロリだと考えがちなのだが、相方の「おじさま」がいい具合に脂が抜けており、あくまで形而上のロリ談義。むしろ上で引用したお尻問答を推したい。

 まてよ、お尻問答といえば、稲垣足穂を外すわけにいかない。「A感覚とV感覚」では、お尻をこのように定義している。「そもそも臀部とは人体にあって最も愛嬌のある、福々しい、いついつまでも齢を重ねないような部分」――そう、愛嬌と福福しさをそなえた、みんなの大好きポイントなんだ。

 そして稲垣は、お尻中心主義ともいえる、人間疎外をお尻から解消する視点を示してくれる。普段は気にも留めないような「その場所」が主張しはじめるとき、われわれは便所へ向かう。外部から隔離された空間で、人間が本来の自己を取り戻すことができる。全室が使用中だったときの、あのせっぱ詰まった感覚や、ようやく確保して間髪をいれず射出する瞬間の、えも言われぬような戦慄を経験した方であれば、あれは自己解放そのものだということに同意するだろう。あるいはウォシュレット初体験の「ア゛ッー!」という感覚を思い出してもいい。稲垣はそれを、A感覚と名づけた。そしてV感覚(膣感覚)との違いを、こう説明する。

膣感覚は、腸管における排出時の快楽の変形だ、フロイトがこのように説明するところは僕も賛成します。で、加えて次のように云えるでしょう。そもそもV感覚が成立するのは、それより先にA感覚が存在していたからだ。けれどもいったんV感覚として派生し、独立すると、たちまちそこに安住し、対象化され、自身を覗く機能を喪失してしまう――
 自分を再発見するため、A感覚を研ぎ澄ませるのだ。V感覚は子宮によって限界づけられているが、A感覚は無底、オフリミッツだというのだ。たしかにそうだね、弁や門があるものの、われわれの消化器官は一本の長大な管にすぎないのだから。

お尻とその穴の文化史 A感覚への動機付けは、「お尻とその穴の文化史」で加速することができる。本書は、偏見と差別を受けてきたお尻について、医学的・歴史的観点から考察している。アヌスの機能にはじまり、浣腸やスパンキング、ソドミーの歴史が、豊富な図表とともに概説されている。同時に、お尻やアヌスに魅せられた人びとの芸術的成果が、古今東西関係なく紹介されている。肉体の最も秘められた部位に関する知見をもとに、古代からある命題「アヌスは性器か排泄器か?」について、あらためて考えると興味深い。著者の定義によると、こうなる。

アヌスとお尻は、想像力のあまりない人間にとってすら魅力的な場所であり、すこし大胆な人間にとっては、あたらしい喜びを与えてくれる謎めいた穴であり、さらに大胆な人間にとっては、タブーを破ることでなおさら刺激的になる性の香辛料なのである。
 好奇心の入り口であり、美の象徴であり、時には地獄の門としても扱われるお尻、そしてアヌス。液・固・気体を自動判別し、外界とのエアロック役を果たすアヌス。巧妙精緻なインタフェースであるアヌス。そんなアヌスに、親しみを感じられるようになるに違いない。

アナル全書 A感覚への親近感を理解へと進めてみよう。「アナル全書」は、うってつけの一冊であり、類書が存在しない唯一のスゴ本でもある。本書は、アナル・エリアとその機能についての自覚を深め、アヌスへの否定的な感情や、苦痛・緊張を緩和する、もしくは取り除くことを目的としている。

 そして本書は、たんに読まれるだけではなく、経験されるように書かれている。受け身で消費するためではなく、能動的な利用のために書かれている。各章を読み進めるごとに、読者は、自らのアナルを用いて、探求のプロセスをたどることになるのだ。

 そう、アヌスとは自分の体の一部であるにもかかわらず、「ないこと」「意識させないこと」として扱われている。意識に上るときは切羽詰った事態か、何らかのトラブルが発生したときである。日常会話からは注意深く取り除かれ、口に上るときはたいてい罵倒句(**s hole!、ケ○を舐めやがれ!)になる。

 著者はまず、自分のアヌスに注意を払い、観察することを提案する。そして、アナル部位を健康に保つため、食習慣、排泄習慣、メンタルトレーニング、一定のケアが必要だと説く。興味深いことに、アヌスの状態は、われわれの抑圧された感情を表しているのだという。自分ではケンカしていないつもりでも、自分のアヌスが硬く締まっていることに気づいた娘の例が面白い。この娘は著者のセミナーを受けて、自分のアヌスに気を配ることにより、抑え込んでいた緊張や怒りに気づいたという。

 つまり、自分のアヌスに注意することは、自分の感情に注意を払うこと一緒なのだ。さらに、自分のアヌスを健康に保つことは、そのまま即ち、自身の体を健康にすることになるのだ。

 25年かけて得られた知識と経験の裏づけはダテじゃない。ホモフォビア、性役割、病気、そしてタブーへの葛藤――著者は、薄皮を一枚また一枚とはぐように取り除いてゆく。アナルの健康を維持し、精神的な抑圧を取り除くことで、アナルを自己の認められた一部として再獲得できるというのだ。そして、自律的にコントロールできるようになれば、エロティックな目的にも応用できるという。本書を読むことは、疎外された身体未開地の探求、即ち究極のラスト・リゾートの旅となるに違いない

 女の尻から自分の尻へ。お尻を理解することは、自分を理解することなのだ。

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