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自分の狭さを思い知る「若き日本人の肖像」

若き日本人の肖像 集合写真というのが苦手だ。

 撮られたわたしは、いつもヘンな顔をしている。シャッターのタイミングで必ず誰かが目を閉じて、幾度も撮りなおしているうちに、ダレてくる、疲れてくる。ウンザリしはじめた頃に撮ったショットが「ハイ、OK」となる。結果、不機嫌でボンヤリしたわたしが記念写真となる。撮られる側の空気が読めないから、みんなが勝負顔なのに自分だけ笑ってたり、その反対に、自分だけポーズ決めてたり。

 しかし、集合写真を見るのは好きだ。

 懐かしい人を好きなだけ見つめることもできるし、わたしみたいに"浮いた"誰かを探すのも愉しい。日付や背景からそのときのことを思い出す。たいてい痛テテな気分になる。過ぎてしまえばいい思い出なんて嘘、過去はいつも痛いもの。穴掘って埋まっておきたくなる。

 では、自分が写ってない写真はどうかというと、これまた見入る魅入る。

  ・劇団
  ・子供会
  ・青年団
  ・祇園祭
  ・お花見

 撮影者・吉永マサユキが10年かけて撮りためた、総勢3600人を超える集合写真集。さまざまなグループの、それぞれの記念写真・集合写真が並んでいる。ごくフツーの人たちの「ハレ姿」。よく目を凝らすと、そこに見知った誰かの顔を見出すかもしれない。あるいは、撮られた覚えのない自分の姿を見つけるかも。

 さらに、それほど身近でない同好会の集合写真も大量にある。世の中には、実にいろいろなグループがあるものだ。自分の世界の狭さに、あらためて驚く。メンバーそれぞれ、自分の生活があり、人生があるのだろうが、集合写真のフレームに収まるとき、見事なまでに同じ顔つきになる。この傾向はいわゆる「族」というカテゴリに属する人に顕著で、グループとしての「顔」があるようだ。

  ・拳法同好会
  ・ちんどん屋
  ・ボクシングジム
  ・闘犬会
  ・右翼
  ・レーシングチーム
  ・黒服会
  ・浅草ロック座
  ・矢沢永吉応援団
  ・ヤクルトスワローズ私設応援団
  ・ゴスロリ
  ・暴走族
   etc...

 グループの「顔」は、それぞれのチームカラーのように揃っている。例えば、青森ねぶた祭のカラスハネトの集合写真がある。カラスハネトとは、傍若無人の振る舞いをする連中を指すのだが、そのトレードマークは黒装束(=カラス)ではなくなっている。おそらく警察などのカラス族対策で、黒を避けたのだろうが、写っている顔は示し合わせたかのように一緒だ。夫婦の顔が似てくるように、族の顔つきも似るのだろうか。

 あるいは、ヤン坊たちのメンチの切り方が驚くほど似ている。上目遣い、顔をしかめる、手指のポーズ、(本人は独創的のつもりなのか)背中を向ける、ふりかえる…時代や地域を越えて、全くといっていいほど、変わっていない。これは、歌舞伎の大見得の亜流みたいなもんだと納得する。

 被写体のグループだけで通用する旗印や、内輪向けの惜しみない笑顔にとまどう。まるで、電車で隣り合わせた女の子のプリクラ手帳を見てしまったようだ。その一方で、いくらめくっても好奇心が尽きないのは、ファインダー越しにグループの連帯感が強烈に写りこんでいるから。

 自分の"狭さ"を思い知る一冊。

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体験を追走する「黄金探索者」

黄金探索者 喚起力がすばらしい。その場にいないとわからない感覚を、あたかも自身の肉体を通しているかのような読書にハマる。

 たとえば、台風が近づいてくるとき、じっとりと息苦しくなる。からだ全体が押し付けられたようになり、声がうまく出ない。物音の伝わり方がこもった感じになり、世界がまるで変わってしまう──そんな感覚に襲われたことがないだろうか。空や、風といった景色ではなく、もっと身体的な変化に驚かされることがある。

 これを、ル・クレジオは次のように書く。大型サイクロンが襲ってくる場面だ。

ぼくたちの体の一番奥深くに入ってくるあの静寂、悪い兆しと死を思わせるあの静寂こそ、忘れられないものだ。木々に鳥の姿はなく、虫もなく、モクマオウの枝を吹く風の音さえしない。静寂は物音よりも強く、物音を呑み込んでしまう。すべてが空ろになり消えてなくなる。ぼくたちはベランダでじっとしている。濡れた服のままでぼくはぶるぶる震えている。口を開くと、声は遠くのほうでふしぎな響きを立て、言葉はたちまち消えてしまう。
 終始こんな感じ。「静寂は物音よりも強く、物音を呑み込んでしまう」なんて、読んで初めて「あの感覚」だと気づかされる。西インド洋のちいさな島が舞台なのに、熱帯と戦場をさまよう黄金探索者の話なのに、なんだろうこの懐かしさ。

 「海賊の黄金を探す」という荒唐無稽な夢をリアルに生きる主人公に、共感よりも運命じみたものを感じる。モデルは著者の祖父だという。生涯を宝探しに費やした航跡をたどり、ル・クレジオは祖父と一緒に見た夢を小説の形で外化させる。ものすごくリアルな夢につき合わされているような感覚なのだが、主人公は必死だ。

 もうひとつ。黄金を探す主人公をよそに、読み手にとって美しい対称性がプレゼントされる。編者の池澤夏樹も、訳者の中地義和も言及していないので、わたしの妄想(?)と思ったのだが、せっかくだからこのblogで明かしてみよう。

 それはこうだ。物語の前半をなす主人公の生い立ちは、モーリシャス島が舞台。一方、海賊が宝を隠したとされているのは、ロドリゲス島になる。彼は、二つの島を行き来するため、ゼータ号で旅をするのだが、その航路がきれいにシンメトリーを成している。そして、物語の中盤で戦場に赴き、そこで地獄を見るのだが、その航路もまた対称的だ。さらに、最後の旅でふたたび訪れるルートも同様。

 お手元に本書があるなら、p.206の地図を開いてほしい。二つの島のそれぞれに重心があり、戦争をはさんだ線対称の軌跡を見出すだろう。それぞれの重心は、二つの島にいる女たちが抱いている。モーリシャス島の姉ローラであり、ロドリゲス島にはウーマがいる。「宝探し」や「召集」の名目で移動しつづけようとする主人公をひっぱる力が働く。表立って感情を出さない彼女たちが追い詰められ、吐露する瞬間に、この物語の対称性が浮かび上がってくる――これが、読者にとっての「宝」だ。

 では、主人公アレクシの目的は?黄金を見つけることができるのか?――もちろん物語は、彼にとっての宝を用意しているのだが、それは読んでのお楽しみ。ちなみに、(ネタバレ反転表示)池澤夏樹が不用意にウーマだとの出会いだと明かしているが、わたしはそれだけに限らないと考える。湾の形状と宝の目印、それに呼応する星座の対称性に気づき、宝の地図を完全に理解する瞬間がある。主人公とともに探索の旅を続けてきた読者は、その美しさにめまいを覚えるだろう。ここにも、シンメトリーが隠されていたのだ。

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レイプは適応か

 「人はなぜレイプするのか」について、意見をいただいた。真面目な話題であるにもかかわらず、猥談レベルだとか、不快なエセ科学だと判断した方がいるのは、全てわたしの責任。わたしの説明がつたないせいで、彼(女)らの思考停止を招いており、とても残念だ(わたしが、ね)。

 著者(ソーンヒル&パーマー)は「レイプに対し、適応から理由づけができる」と述べているが、だからといって、「レイプは"自然"である(即ち、肯定せざるをえない)」とは言わない。両者は別個の結論であるにもかかわらず、二つを直結してしまう人がいる。つまり、「もしレイプが"自然"淘汰によって選びとられたのなら、それは"自然"なものであり、したがって良いものであるか、少なくとも存在を許されるものになってしまう」(p.227)と思い込んでしまうのだ。

 わたし自身、そうした「思い込み」の中にいたからこそ、本書の主張を理解することにかなり抵抗があった。進化生物学から導かれる説明が、いわゆる「道徳」に当てはまらないという理由で、受け入れがたくなっている。むしろ、「レイプは適応などではない」という主張があるならば、そいつを信じるほうが精神衛生上ラクだ。まさにその趣旨の論文がある。ジェリー・.コインとアンドリュー・ベリーが書いた論文で、「人はなぜレイプするのか」に真っ向から反対している。

  Jerry A. Coyne and Andrew Berry
  Rape as an adaptation? [URL]

 その結論はこうだ。

 レイプは進化生物学上に起源を持つという理論があるが、これは決定的に間違っている

 そして、本書の説得力ある部分は、巧妙な修辞的レトリックに拠っているという。確かに本書では、二つの仮説「適応」「(偶然の)副産物」が展開されているが、実際の生物の行動を説明する段階では、「副産物」が全てではないかと指摘する。あらゆる人間のふるまいを副産物としてみなすのなら、ピアノを弾くのもレイプをするのも一緒で、即ち無意味だとしている。

 ソーンヒル&パーマーは「適応」と「副産物」を両論併記する形で述べており、「人間のふるまいを説明するための"適応"」という議論の余地を残していたはず。わたしの読みが不十分なのかもしれないが、上記の反論は違う次元から行われているように見える。

 コイン&ベリーの反論は続く。ソーンヒル&パーマーの適応から見たレイプの説明に対し、「レイプ被害者のトラウマは、相対的に生殖年齢層(12~44歳)に強い」ことに対し、疑いの目を向ける。生殖年齢以下である12歳未満の子どもの申告は、直接的なものよりも、その養育者からのものが多く、生殖年齢層の自己申告とそのまま比較するのは問題ありと指摘する。

 さらに、生殖年齢層のほうが、そうでない層(12歳未満、44歳超)よりも、強くレイプ犯に抵抗するという、コイン&ベリーの主張に対し、異議を唱える。生殖年齢層のほうが、レイプにより強い恐怖感を抱いているためだという根拠に対し、「幼女や老女は物理的に抵抗力が小さいから」と反論する。そして、自説に都合のいい説明に固執しており、馬脚をあらわしたと批判している。

 結局、「レイプは進化である」というのは主張であり科学ではないとし、根拠や再現性が薄い数字を並べただけの「ただそれだけの話(just-so stories)」だという。単なるお話だけというわけやね。人間のふるまいに対し、社会生物学的なアプローチは面白いかもしれないが、それは学問的な傲慢だという。

 コイン&ベリーの反論は、確かに説得力を持っている。わたし自身、「人はなぜレイプするのか」を読んだとき、「これはトンデモ」と判断したものもあるから。例えば、「男は女を性交の相手としてしか見ようとしない、売春婦やポルノグラフィがその証拠だ」(p.86)とか、昆虫や鳥類の雄の雌への攻撃的行動を「レイプ」という表現で包む(p.269)ところがある。研究成果や参考文献を大量に引用し、慎重にアプローチしようとする姿勢は、その分、勇み足・浮き足的な瑕疵もたくさん出てくることになる。

 しかし、そうした勇み足の一つを攻撃して、本書の全てを否定できたヤッホーと能天気に勝利宣言するほど、わたしはおめでたくない。あるいは、竹内久美子のエッセイのような「分かりやすさ」に飛びついてこと足れりとするほど、この分野の研究は進んでいない(はずだ)。だから、「進化・適応からレイプを説明する」可能性は残し、精進に励もう。

 最後に。steel_eel さんのブックマークコメントをきっかけとして、上記の「反論」にたどり着くことができた。steel_eel さん、ありがとうございます。邦訳のあとがきは長谷川真理子が解説しています。そこで展開される彼女の主張「女の発情期の隠蔽化」は面白いのですが、本書とは全然関係してないので、あしからず。以下のエントリでは、わたしのよりも、より深く正確な議論がなされていますね。

  訳書出現 人はなぜレイプするのか―進化生物学が解き明かす

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