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美女と宇宙

世界一の美女になるダイエット 「世界一の美女になるダイエット」のメッセージは、シンプルかつパワフルだ。

 曰く、「あなたは、あなたが食べたものでできている」。だから、美女になるためには、美女になるような食事をしなさいという。「ダイエット=減量」を信じ、修行僧のような禁欲的な食事をしている人には、まさに目ウロコだろう。「これを食べたら美しくなれるか?」と自問することで、栄養について学ぶのだ。

 「いま口にしたものが、10年後のあなたを決める」とか、「肌はあなたの内臓そのもの」といった、ドキっとさせられる(けど正論な)寸鉄と、ダークチョコレートやアーモンドを活用せよという具体的なアドバイスが詰まっている。世界一の美女をめざすならともかく、全部を実行するのはムリというもの。できそうなことだけを取り入れればよいかと。

 例えば、「白いもの」は避けなさいという。要するに精製されたものを指し、白砂糖だけでなく、白米や白いパンも含まれる。白いゴハンがどうして?と思っただが、血糖値が急激に上がるのはよくないそうな。だから玄米やライ麦パンといった「白くない」もので炭水化物を摂れという。

 食べ物を味方につけることで、美しくなれというメッセージは、そのまま、わたしは、わたしが食べたもので作られていることを強烈に思い起こさせる。リチャード・ウォーカー「人体」によると、人体細胞の寿命は以下の通り。

   小腸細胞 … 36時間
   白血球   … 13日
   赤血球   … 120日
   肝細胞   … 500日
   神経細胞 … 最高100年

 人間のカラダは数ヶ月で入れ替わっていると言われるが、脳や神経細胞は文字どおり一生モノ。30日間マクドナルド生活を続けるドキュメンタリー「スーパーサイズミー」の場合、小腸と白血球は完全にマクドナルド製に入れ替わっているのかね。

エレンの宇宙 では、そうした「わたしのカラダ」の元となっている食べ物はどこからやってきたか、そして、食べ物となる前の動植物の元はどこからやってきたか、さらには、物質の元はどこからやってきたか――を辿っていったものが、「エレンの宇宙」。ある少女の体内に宿る電子を「エレン」と擬人化し、彼女が過去を思い出す形で物語が進められる。

 エレンはかつて、少女が食べたリンゴの一部であり、そのリンゴの木が生えていた土の一部であり、その土は地球の一部であり、地球最初の生物であり、銀河を通ってきたガスの一部であり、宇宙で最初の星の一部であり――と、ビックバンまで遡及する。無から有はできない。わたしのカラダは宇宙の一部なのだから、「わたしは、宇宙でできている」という、至極アタリマエなのだが気づきにくい結論に、腹から納得できる。全は一であり、一は全なのだ。

 本書がユニークなのは、物理学的観点から見た「宇宙」を、逆向きに描いているところ。宇宙の誕生から始まって現在に至る時間軸・スケールで語るのではなく、「いま・ここ・わたし」から遡上するように視点が移っていく。ミクロからマクロへと莫大な広がりはあるものの、わたしの延長上であるというつながりを絶やさないように進めている。

 さらに、メタファーが面白い。宇宙空間の「濃さ」をマグカップに入った気体分子で喩えたり、銀河の渦巻きを「星が渋滞しているところ」と表現したり、直感的にわかりやすくなっている。余談になるが、著者のブログの「三毛猫はどうしてできるか」シリーズのわかりやすさは超絶的。ぜひご賞味あれ。

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このロビンソンが面白い「フライデーあるいは太平洋の冥界」

フライデーあるいは太平洋の冥界 デフォー「ロビンソン・クルーソー」をご存知だろうか。遭難した主人公が、南海の孤島で自然を開拓し、従僕フライデーとともに文明生活を築く話だ。

 では、ヴェルヌ「二年間の休暇」はどうだろう?無人島に漂着した少年たちが、力を合わせて生きていく物語だ。「十五少年漂流記」の方が膾炙しているのかもしれない。あるいは、家族版ロビンソンともいえる、「ふしぎな島のフローネ」はご存知だろうか?どれも、ロビンソン漂流記をアレンジしている。

 どの話も共通点がある。大自然に投げ出され、それなりに苦労もするが、文明人らしい生活を作り上げていく。自然の驚異や野生との共存といったテーマが描かれ、野性(採集・狩猟)から、文明(開墾・収穫)への歩みがストーリーのベースラインとなる。もちろん、狂気ルートへ逸脱する「蝿の王」や、テクノロジーの暴走が科学文明を築いてしまう「ふしぎの海のナディア(島編)」が成り立つのは、こうしたベースラインのおかげともいえる。

 だから、「ロビンソン・クルーソー」を下地にした本作は、似たような共通点を持っており、読み手はそいつを追いかけていくものだと信じてた――が、ぜんぜん違ってた。もちろんベースは「ロビンソン」だし、遭難してから島を開拓するところまで同じような展開になる。

 ところが、フライデーが登場してから話がおかしくなってくる。この若者、ロビンソンの言うことをぜんぜん聞かないのだ。勤勉さや文明、労働の価値といったものをまるで受け付けない。どころか、そういった権威を笑いのめし、茶化そうとする。開墾地や貯蓄物を台無しにする一方で、超人的な力を発揮して野生動物を仕留めたり、ロビンソンには考えもつかないような"遊び"を実現する。

 さらに、これまでの擬似ロビンソンで注意深く避けられていたテーマ、セックスや狂気が強調されており、とても興味深い。自然に還るのだから野性化してもよさそうなのに、(デフォーの)ロビンソンも、フローネも、ブリアンも、まるで"観客"がいるかのようにふるまう。けれども「フライデー」では切実だ。もともと"観客"はおらず、性の相手もいないのだから。ロビンソンが島と交合するところは、読み手が"笑う"番だろう。いくら高尚に飾りたてても、一種の信仰をそこに見て、そこに欺瞞を抱いてしまう。そしてハタと気づくんだ、「いま・ここ・わたし」とたいして変わらないじゃないかってね。

 デフォーが「ロビンソン」を書いたのは18世紀、そしてトゥルニエが「フライデー」を書いたのは20世紀だ。かつては無邪気に信じられていた「進歩と文明」に、大きな疑問符がつくのに充分な時を経ている。

 島じゅうが灌漑、牧場、耕筰地だらけになり、麦は貯蔵庫から溢れんばかりになり、ヤギは飼いきれないほど殖えまくる。それでもなお、収穫し、簒奪し、貯蔵する。自らの努力のむなしさに気づきつつ、努力をやめようとしないロビンソンは、かなりこっけいに見える。

 そのこっけいさは、物語で最初に「笑い」が表現されるまで、読み手は気づかない仕掛けとなっている。つまり、ロビンソンはフライデーと出会って初めて、笑いを――島に漂着して初めての笑いを覚えるわけ。ひとは一人では笑うこともできない。誰か笑いかける(笑いのめす)他者がいてこそ、笑いが成立するんだ。

 フライデーの笑いにより、ロビンソンが大事に持っていた権威は破壊される。西洋文明の権威とは暴力であり、武器だ。それが文字どおり大爆発して粉微塵になるんだ。そしてロビンソンは完全に変わってしまう。わたしたちが知っている文明の代表者の面を捨ててしまう。もちろんラストはぜんぜん違う。「驚愕のラスト」といいたいところだが、そこまで読んだ人には薄々分かっているラストに仕上がっている。

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