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あこがれとワンサイド・ラブ「数学ガール」

数学ガール もちろん高校んときを思い出して赤面しましたが何か?

 ゼータ関数、コンボリューション、テイラー展開――うむむ、さっぱり分からない。ここでいう「分かる」とは、同じ問題を自力で解けるかという意味で、だ。最初は「分かる」のだが、ひとつひとつ、イコールをたどるうち、数式の森にさまよいんでいく。

 それでも数学ガール(ズ)に手を引かれ、数式を追いかける喜びは感じたぞ。「分かる・分からない」というよりも、うつくしさを「感じる・感じない」というのに近い。のびた数式が「たたまれていく」快感や、「閉じた式」を探索するドキドキは、分かるより感じとった。

 分からないなりにも感じとれたのは、著者の力量だろう。手をとって、つれていってもらえる感覚や、知らない先から戻ってくる感覚が、たった数行の式を追うだけで味わえる。こんなの、小説や評論ではありえない。

 この感覚は、料理や音楽に近いかも。自分には出せないけれど、よさは分かる。ここに出てくる式がスラスラと分かる人を、尊敬する。それは、ジャズピアノが弾ける人にあこがれるのに、ちょっと似ている。

 わたしにとって数学は、「暗記科目」だった。

 試験問題を解くため、パターンの「暗記→あてはめ」を積み重ねだった。これは、受験数学の呪いだな。おかげで、せっかくゆっくり考えるスピードで展開している式に圧倒されてしまう。とまどい、うろたえ、結果だけを先にみようとしてしまう。これはもったいない。

 「答え」だけを求めようとするのではなく、数式の森をさまよいながら、手持ちの「武器」を使って仮説検証をくりかえす――これこそ数学ガール(ズ)が魅せてくれた愉しみなのかも。

 数学へのあこがれは、男の子が女の子に抱く思いに似ている――あとがきで著者はこう語る。たしかにそうなんだが、メガネっ娘はつくりすぎ、ドジっ娘はベタすぎで、戯画化が鼻につく。さらに、主人公の一人称がエロゲ並に強いので、恋物語のパートは独自の読みかたで楽しんだ。

 すなわち、これはぜんぶ「僕」の頭の中だけで完結している物語なんだ。銀縁娘も元気娘も最初からおらず、数学好きの孤独な男子高校生の願望が生んだ妄想というストーリー。すると、いっぺんにスリラーな気分になる(こういう変態読みはマネしちゃダメ)。キャラいじりはさておき、数式の説明パートは、文字通り噛んで含める丁寧さで、「数学へのあこがれ」を充分にみたしてくれる。

 ちなみに、この本、図書館の予約がずーっと途切れないという珍しい本でもある。いわゆる「最近のベストセラー」は、予約待ち三桁といったすごい行列だけども、本書はちがう。いつチェックしても、予約待ちが数人のまま、どこの図書館でもいっしょ。常に誰かが読みたがっている、めったにない本。こういう本は、ながく読まれ続けるだろうね。

 え?どうしてそんなにチェックしているかって…? そ、それは… 何度も何度も何度も挫折しては借りなおしてきたから…

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「読んでいない本について堂々と語る方法」はスゴ本

読んでいない本について堂々と語る方法 スゴいのは、本書が巧妙な罠だということ。

 タイトルは本を開かせるための釣りで、本書そのものに仕掛けがしてある。もちろん「未読本について語る方法」はあることはあるが、そいつを探しながら進めると、ホントの目的を読み流してしまう可能性が大。

■1 本書の、「表面」

 疑似餌となっている「読んでいない本について堂々と語る方法」は、本書のあちこちに散っている。なかでもズバリなやつは、p.169-170 だろう。すなわち、第一に、冒頭で作品を褒めることで、読み手の信頼感を抱かせろという。あとはひたすら一般的考察に逃げ、最後に次の記事で本に言及することを予告する。しかし、次の記事なるものがあらわれることがなく、その本を葬り去ることができるというのだ。

 そして、誰もが本を「読んだ」と思っているだけで、「ちゃんと」読むなんてことは、ほとんどありえないことを明らかにする。ほとんどの場合、ナナメ読みか飛ばし読みしているか、タイトルや評判から勝手に類推しているにすぎない。さらに、「読んだ」という人だってその記憶はどんどん(TPOと自己都合にあわせて)改変されているものだという。

 だから、本の内容に一言もふれることなく批評は可能で、未読の段階・批評の状況に関係なく、気後れせずに自分の考えを押し付けたり、必要なら本をでっちあげればよろしい。――というのが、本書の、表側の、趣旨。

■2 本書の「裏面」と、トラップ

 この論証のため、著者はかなりのページを使って「本を読む、つまり"読書"って、どういうこと?」を徹底的に検証する。モンテーニュ「エセー」やエーコ「薔薇の名前」を使って、「読んでいない」と「読んだ」とのあいだにある境界が、いかに不確かであやふやなものであるかについて突き詰める。これが本書の、裏側の、趣旨。

 ネタバラシじゃないかって?だいじょうぶ、著者は序章でバラしているのだから。未読本について語るためのテクニックのみならず、あいまいで、いい加減な読書行為の分析にもとづいたひとつの読書論を打ち立てるのが、本書の目的なのだという。

 ちなみに、「薔薇の名前」と「第三の男」は完全にネタバレしている。もちろん皆さん既読だからかまわないよね、という著者一流の皮肉とみた。実は、ここにも罠がある。ある箇所で「薔薇の名前」のラストを明かすのだが、それちがう!既読ならすぐ気づくぐらい大きな誤りなのにと思いきや、後でぬけぬけと誤りを認める。

 つまり、作品の援用にあたり、自分の主観的事実を述べたに過ぎないと、本書の仕掛けを実演してみせているのだ。地図の著作権トラップのように、最後まで読まない人をあぶりだす罠なのかと思ったぞ。

■3 読書とは何か――読書論

 その本を読む、つまり「読書」とは、いったいどういうことだろう。物理的な本はそこにあるが、「読書」とは、本を「所有」することではない。書き込みや線を引きながら"読んだ"といっても、その書き込みや傍線は「読書」ではない。読書ノートやブログでのコメントも、読書から生み出されたものであって、読書ではない。

 もちろんプルーストを持ってこなくても明白だろう。読書とは行為のひとつで、物としてのページと読み手のあいだで成り立つ経験のこと。読書という体験を経ることで、新たな知見を得たり、異なる思考様式をたどったりすることができるが、あくまでアタマの中でのこと。だからわたしたちは、ページに記載されたものを、視覚を通じて受け取ったと信じている記憶の形でだけ、「読んだ」といっているにすぎないんだ。

 これは、速読・遅読・斜読に関係なく、「読んでいた・読んだという記憶」でもって読書が成り立っている。この記憶がいかにあやふやで、改変されやすいかについて、著者は執拗に追求する。「読んでいない本について語らされる」小説のエピソードを通じて、この「読んだ」「読んでいない」境界線がいかにあいまいかを示してみせる。

■4 読者とは何か――読者論

 読者は、本を読んでいるあいだだけに存在するとは限らない。むしろ、本を読み終わった後に始まるといってもいい。読者は、さまざまな書物を渡り歩くことによって、そこに保たれていた自身の一部を再発見するという。これは、テクストを通じてあたらしい意味内容を創造的にリ・プロダクトすることと近しい。

 書物のなかに、自分を見つけ出すやりかたなのだが、不思議なことに、「読むことによって変わる"読者"」がどこにもいない。わたしのような「影響されやすい」読者だと、読んだら読んだぶんだけ知識なり思考が移動する。むしろ、読んでもピクとも動かないような本は、読まなくてもいい本だといっていい。

 そんなわたしにとっては、読み手を本に従属させまいとする著者の意見は新しくみえる。本に深入りしすぎて、読み手の創造性が奪われてしまうことのほうを危険視するあまり、本から汲み取る知識や思想のほうを低く評価してしまっているのではないか?この疑問は最後まで続く。

■5 書物とは何か――書物論

 本書をハウツー本のフリをした「読書論」だと思い込んだら、これまた罠にかかったことになる。読み手の独創性を守るため、書物から一定の距離を置くことが必要だと主張するためには、それを可能たらしめている理由――書物の役割こそが、もうひとつの柱なのだから。本書はハウツー本のフリをした「読書論」のフリをした「書物論」でもあるのだ。

 書物は単体で存在するのではなく、その著者、タイトル、出版社などによって、ジャンルやレベルのなかで位置づけられる。その位置さえ把握していれば、直接その本を読まなくても「堂々と語る」ことは可能だという。

 たとえば、みんなのだいすきな村上春樹の新作ならば、中の人が誰であれ、高いポイントをつけるだろうし。このときの「書物」は、存在すらしていなくても大丈夫。なぜなら、「本という物質はひとつだが、それを話題にするあらゆる関係性の結び目としてなりたつ」のだから。

 書物がいかにヴァーチャルな代替物として作り上げられるかについては、「薔薇の名前」で"あの本"について語り合う二人の会話を証拠として挙げている。その本は「存在」はするものの、ある理由により読めないのだ。そしてその「読めない本」(なんつー矛盾!)に書いてある内容こそがキモだったりする。"あの本"を読まないことこそが、謎を解くことになる――とても象徴的なエピソードだね。読書は、書物と読者のあいだだけでなく、その書物を話題とする(自称/詐称)読者たちのあいだにも、存在するのだ。



薔薇の名前1薔薇の名前2

■6 最大のトラップ

 だが、ちょっと待て。何かおかしい。

 著者は、書物を読むことと、それについて語ることは、別々の活動なのだということを見事に検証してみせているが、それは小説やエッセイ――すなわち書物だ――の事例をもってしてである。読まれる対象である書物もって読まなくてもいい証拠とする、なんというパラドックス。

 そして、著者は「薔薇の名前」を、ざっと流し読みしただけだというが、ウソだ。上述のトラップや「読めない本」をヴァーチャルな本だと見抜くところなんて、まさに精読・再読している証拠だろう。

 つまり、「読まなくてもいい」証明として扱うためには、その俎上にある本を熟読玩味する必要があるんだ。「読まなくても堂々と語れる」内容こそが、ちゃんと読んでいないと話せないのだ。「読まなくても語れる」ために精読したという、なんという自己矛盾。

 さらに、話題の関係性の結び目としての書物論や読者論についても、同様のことが言える。ある書物が全体の中での位置づけが可能だというならば、それ以前の書物を読んでおく必要があるはずだ。村上春樹の新作を位置づけたいなら、旧作や近いジャンルを読んでおく必要があることと一緒。

 いや、目録や他の言説(書評)、あるいは本の本があるではないかと反論されそうだ。しかし、その言説を信じるためには、やっぱり旧作や周辺を読まなければならない。「その書物を読まないために」きちんと読んでおくべき本が、必ず出てくるのだ。読書から得られる知見なり情報なり思考様式に裏付けられてこそ、「全体の中の関係性」をつかむことができるのだから。

 結局のところ、「読むために、読まない」ことを目指すと、どうしても「読まないために、読む」ことになる。本書をマジメに読もうとすればするほど、この自己矛盾の堂々めぐりに陥る。あ、あれ?あまりに拘泥して「書物のディテールに迷い込んで自分を見失う」ことこそ、本書で戒めていることじゃなかったっけ?

■7 もっと気楽に「読む」?

 つまり、二重三重の罠なのだ、これは。

 「読んでいない本について堂々と語る方法」が、「本」という体裁をとっている限り、どんな読み方をしても自己言及の罠に陥る。接近して読むと、「本当に読んだといえるのか?」というジレンマに囚われ、逆に読み飛ばして(あるいは読まないまま)テキトーに語ると、正鵠を射ていたりする(←これすらも本書に書いてあるという皮肉!)。

 もちろん、こうした深読み、裏読みをせずに、ただ漫然と流してもいい。あるいは、ざっと目を通すことで「読んだという記憶」を作り上げることも可能だ。その場合は、最初の「■1 本書の、表面」にまとめた内容なる(それはそれで著者の思惑どおりなんだ)。

 ただ、著者も訳者も罠の解説をほとんどしない。うっかり誉めたりすると、その「誉めかげん」によって、いかに読んでいなかったがバレる仕掛けとなっている。本書を深くするのは、書き手よりも、むしろ読み手。どこに「斉天大聖」と記すか、注意しながら読んでみよう。

 自分の「読むこと」への揺さぶりがかかる、かなり貴重な一冊となる。

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人類を救うためのトリアージ「五〇〇億ドルでできること」

五〇〇億ドルでできること ヒステリックな学者や、不安を煽るだけのマスコミに読ませたい一冊。

 「待ったなし」と表現される問題がある。地球環境、水資源や食糧の枯渇、飢餓と貧困、感染症の拡大などがそうだろう。しかし、「待ったなし」と言われてから、いったい何年、何十年経過しているだろうか?

 いや、こうした問題に取りくむ人々や組織・機関がサボってたわけではない。割り当てられた資源のなかでやりくりしながらそれぞれの責務を果たしてきたはずだ。では、どうしてこうした問題の解決が遅々としているのだろうか?

 資源が足りない?足りないのはどの問題も同じ。むしろ、問題に応じて割り当てられていないため、効果的に活用されていないのではないか。そのときの風潮を受け、場当たり的に資源の逐次的投入をしてきたためではないか──本書を読むと、そう考えるようになる。

 世界のためにあと500億ドル使えるとしたら、どの問題から解決するべきか?一流の経済学者たちが徹底的な学問的議論を重ね、世界が直面する難問を優先すべき順位の高い順に並べたリストを作成した。これが、コペンハーゲン・コンセンサス2008。提案された30の解決策と、最終的に残った13の解決策とその資金配分についてはリンク先が参考になるが、本書からまとめると、こんなリストになる。

──非常に良い
     1. 感染症 HIV/AIDSの抑制
     2. 栄養不良と飢餓 微量栄養素の供給
     3. 補助金と貿易障壁 貿易自由化
     4. 感染症 マラリアの抑制

──良い
     5. 栄養不良と飢餓 農業新技術の開発
     6. 衛生と水 小規模な生活用水技術
     7. 衛生と水 地域が管理する給水と衛生設備
     8. 衛生と水 食糧生産における水の生産性の研究
     9. 統治と腐敗 新規事業開始費用の引き下げ

──普通
    10. 移住 熟練労働者の移住に対する障壁の引き下げ
    11. 栄養不良と飢餓 乳幼児と子ども栄養の改善
    12. 感染症 基本的保険サービスの拡充
    13. 栄養不良と飢餓 出生時低体重の発生数の削減

──悪い
    14. 移住 非熟練外国人労働者の一時的雇用プログラム
    15. 気候変動 最適な炭素税
    16. 気候変動 京都議定書
    17. 気候変動 バリュー・アット・リスク炭素税

 ここでいう「良い」「悪い」とは、カネで換算した「費用対効果」「費用便益比」のこと。感染症対策と京都議定書を同じ土俵に乗せるために、提案の評価や順位づけにあたって、経済的費用と便益を判断の指針としている。つまり、提案によって供される便益の価値と、その提案を実行するために必要な資源を比較する。費やした分よりリターンが大きければ「良い」だろうし、カネばかりかかって効果が薄いものは「悪い」提案になる。

 唯一の環境問題である地球温暖化対策が最下位に位置付けられ、一ドルも配分されなかったことは意義深い。たとえば、p.24の「京都議定書による削減の費用と便益」によると、世界総生産に対する費用と便益比が時系列に表されており、費用が毎年、およそ1パーセントかかるのに対し、便益が費用を上回るのは2100年ごろ。文字通り国家百年の大計で、その効果が非常に長期にわたるため、費用便益分析では現在価値が低くなると判断されたわけだ。

 当然のように疑問がでてくるのは、「人命の値段」のこと。救われる人命に対する金銭的価値が低すぎるのではないか、あるいは、そもそもカネで人命を贖えるのかという質問の答えを探しながら読むことになる。

 そして、「人命の値段」はGDPをベースとしているため、先進国の一人の人命の「値段」と、途上国の「値段」も、当然のごとくちがってくる。人命を金銭ではかることについて、「人の命は地球より重い」というセリフが大好きな方は憤慨するかもしれない。それでも、すべての提案を共通の土台に並べるためには、万国共通、過去から未来、地獄から天国まで通用するカネという価値が基準になる。

救われる人命に付している金銭的価値が低すぎるという。人命の価値をはかることは、常に非常に難しい。問題の優先度を決める際に救われる人命を経済的便益とは別のカテゴリーで考慮する場合もある。いずれにせよこの要因も、対策の便益の過小評価につながっている。

 便益を過小に評価してもこのランキングなのだから、「人命を銭金で云々」する方は、なおさらこのリストを重視すべきだろう。最小コストで(低く見積もった)最大の人命を救えるのだから。

 世界を救うための経済学的「正解」として考えたい。全ての判断基準はオープンで、反論可能で、検証可能だ(じっさい、反論のための頁も割いている)。自転車置場の議論 (bikeshed discussion)ばかりで何かやった気分になったとき、あるいは、全地球的問題になると視野が狭窄してると感じたとき、このリストに戻ろう。

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