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サイエンス・コミュニケーションの種本「一粒の柿の種」

一粒の柿の種 息子の教科書を読んでて、ちょっと不安になるのが、「理科」の内容。

 受験にも直結する「国語・算数」はみっちり詰まっているのだが、「せいかつ」――いわゆる「理科」が薄すぎやしないか?教科書の厚みだけではない。知識としての自然科学は教えられるものの、安全面への配慮からか、ほとんど実験・実習はしないようだ。

 そんなバカ親の心配に乗じてか、「サイエンス倶楽部」[URL]なるものがある。「科学実験から広げる体験型総合教育」を謳っているが、要するに習い事だ。学校という現場からして理系離れが進んでいる証左なのか。

 「一粒の柿の種」を読むと、ちょっと嬉しくなる。ポピュラーサイエンスが、一般社会に与えてきた影響を、具体例でもって検証している。予想通りといったものもあれば、まったく新しい知見も得られた。ともすると「文系」に偏りがちなわたしに、いい刺激をもらった。

 たとえば、「遺伝子」や「DNA」などの科学用語が、人口に膾炙していく様子を、「本のタイトル」という切り口を使って鮮やかに示す。「遺伝子」や「DNA」といったキーワードが書名に入っている出版点数の推移をWebcat Plusで調べあげ、ドーキンス「利己的な遺伝子」の出版や、クローン羊「ドリー」の公開といったイベントと重ねてみせる。「モーニング娘。のDNA」、「トヨタの遺伝子」といった書名や、テレビ番組の「カンブリア宮殿」などを見るにつけ、メタファーとしての科学用語が浸透していることが分かる。

 あるいは、グールドの「歴代ミッキーマウスの身体測定」について語りだす。ミッキーが世に出てから80余年、設定ではティーンエイジャーのはずなのだが、時代を経るにつれ、手足や顔つきのバランスが「幼児化」しているという。丸顔で、相対的に頭と目が大きく、手足は短い。そんなミッキーをカワイイと思い、思わず抱きしめたくなる。

 そう思うのも当然で、動物行動学者ローレンツによれば、本能的な育児行動を引き出すための適応的な反応だそうな。つまり、幼児化したミッキーマウスに愛らしさを感じる反応は、本能をくすぐられている結果だということになる。さらに著者は、「鉄腕アトムの身体測定」を行い、歴代アトムの幼児化が進んでいることを示している。「本能」といわれればミもフタもないが、「萌え」にも通ずるところがあって興味津々になる。

 また、「ロウソクの科学」ならぬ「シャンパンの科学」が面白い。ビールやシャンパンの「泡」といった身近なものにも科学の"発見"が潜んでいるという。グラス一杯分のシャンパンの泡の数は、約200万個といわれるが、ぴかぴかに磨き上げたグラスに、チリひとつない状態で注ぐと、泡は一切、立たなくなるそうな。

 これは、シャンパン液の粘性(ファン・デル・ワールス力)に抗して二酸化炭素の泡が立ち上がるためには、核となるエアポケットが必要だからだという。そして、それを提供しているのが微細なチリやセルロース繊維の空洞なんだって。あの細かな泡のきっかけがチリや繊維だっとは…今度シャンパンを飲むときは、じーっと見つめてしまいそうだ。

 こうした親しみやすいポピュラーサイエンスも、いわゆるバリバリ最前線の科学者から言わせると、「ていどひくい」になるそうな。一般向けの解説は陳腐化だとか、正確さの削ぎ落としだという決め付けに、著者は異を唱える。世間における人気度と、専門コミュニティ内での評価とが反比例しているとし、その理由はグールドの次の返答をもってくる。

   「ジェラシーのせいさ!」

 著者は、そんなやっかみを「セーガン現象(Sagan effect)」や「セーガン化(Saganization)」と呼ばれていると言うのだが、著者自身の視線が垣間見えて面白い。大ベストセラー「生物と無生物のあいだ」が長々と引用し、「まるでネオハードボイルド小説の書き出しか、村上春樹のエッセイの一節みたい」と賞する。

この本がベストセラーになった要因は、ちょっと気取った流麗な文体と、巧みなストーリーテリングの才によるところが大きい。さらには、分子生物学本流に対する著者なりのアンチテーゼが一般読者の共感を呼んだのだろう。
 そして、逆にこの要因こそ、同業仲間や科学系のジャーナリストたちから「絶賛の嵐」が巻き起こっていない所以だろうと、意地悪く想像するのだ。その分析はおそらく"正解"なんだろうが、書き口が鞘当っぽくて人間味あふれてて◎。ベストセラーというのは、「ふだん本なんか読まないような人たち」が争って求めているからベストセラーなのだから、そんなに目くじらたてなくても…と思うのだが。

 著者はまた、一般の人が持つ科学者へのイメージについて着目する。「手塚治虫の描いた科学者の死亡率」の調査結果(死亡率30.1%、心身喪失13.3%)を元に、「科学者=危険な職業」という思い込みを浮かび上がらせる。マッド・サイエンティストだけではない。最近では「カッコイイ理系」もいることを、福山雅治主演「ガリレオ」や、米ドラマ「CSI――科学捜査班」などをひきあいにして指摘する。イメージ戦略は、流行を知ることから始まる。最近の科学者は、どう表現されているのだろうか。息子が身近な科学者といえば――ドクター・ヒヤリか、一匹狼のガオンか…

 ちょっと「子供の科学」買ってくる。

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怪物側の事情「サルガッソーの広い海」

サルガッソーの広い海 化学変化させる性質をもつ。併読すると劇薬の触媒と化す。

 あるイギリス紳士と結婚したクレオールの女が「狂っていく」さまが緻密に描かれる。一読するとサイコ悲劇と写るが、この「狂った」女が自分の記憶とつながった瞬間、いいようのない戦慄に犯されるかもしれない。

 ネタバレ系ではないので、まずこの小説の正体を明かそう。女の名は、バーサ・ロチェスター。英文学の最高傑作として挙げられる「ジェイン・エア」では怪物として扱われる彼女こそが、この小説の主人公となっている。

 メロドラマを面白くするには悪役が必要だ。その対比のおかげで、ヒロインは気高く、賢明に映えることができる。代わりに悪役の方は、狂気と醜怪を一手に引き受け、ヒロインの幸福を破壊する存在となる。C.ブロンテは偏見の材料を西インド諸島に求めた。わかりやすい偏見の観念として、髪の毛や肌の色の「黒」が強調され、飲酒と狂気に陥ったとはいえ、人外として容赦なく扱われている。光文社古典新訳の「ジェイン・エア」では、こう描かれている。
ジェイン・エア

「ぞっとするような恐ろしい顔でした――ああ、あんな顔は見たこともありません!色変わりした、獰猛な顔でした。ぎょろりとむいた赤い目と黒ずんで膨れあがったものすごいあの顔を忘れられたら忘れたいのです!」(下巻p.182)

狂人は彼の喉につかみかかり容赦なく締めつけ、彼の頬にがぶりと噛みついた。二人は揉み合った。大柄な女性で、背丈は夫と同じくらい、その上ぶくぶく太っていた。(下巻p.186)

 では、なぜ、こんなモンスターとなったのか? やはり、「ジェイン・エア」で説明されているように、呪われた家系や血のつながりこそが原因なのだろうか。「サルガッソー」を読むと、そこにクレオールへの蔑視の視線が混じっているように見えてくる。イギリスの貴族社会を成り立たせている植民地の実体とともに、この欺瞞があばかれる。彼女、および彼女の家系の「狂気」が、形成されていくさまが分かるにつれて、イギリス社会が覆おうとしていた嘘が、ロチェスター卿――ジェインとつながろうとし、バーサとつながろうとしていた男――を通じで展開される。次の一文が象徴的だ。ロチェスター卿はカリブの島で一種の「魔術」をかけられるのだから。
なににもまして彼女が憎かった。なぜなら彼女はここの魔法と美しさに属していたからだ。彼女はぼくを渇いたままほうり出し、そのせいでぼくは見つける前に見失ってしまったものを求めて渇きつづける人生を送ることになるのだ。
 彼女の狂気は、本物だろうか? もちろん、あるところからホントの狂気に陥っていることは分かるのだが、そこに至らしめたものは何・あるいは誰なのか――これは、裏返された「ジェイン・エア」。古典的なメロドラマを欺瞞に満ちたミステリに化学変化させる。

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白痴化する老人、無教養のサラリーマン、そして、あつかましい若者たち

 どうやら、一億総「無脳」化の時代らしい。自己中心主義で、感情だけで脊髄反射する、老人、若者、サラリーマン――どこにも知性や教養が見えない。美しい日本語が失われ、このままでは日本はおかしくなってしまう。

 たとえば、老人は、1日にどれくらいテレビを見ているか?

 ある調査によると、65歳以上の老人の実に8割が、1日に9時間ものあいだテレビを見ていることが分かった。1日9時間!これはあまりにも長すぎる。テレビばかり見ていると、想像力や思考力が低下してしまうという「一億総白痴化」によれば、老人の白痴化は粛々として進んでいるといえる。

 そして、社会を担うサラリーマンの教養はどうだろう?

 日本のサラリーマンが、1年間に自分で買って読む本の数は、単行本がたった3冊、週刊誌が12冊だそうな。これが1年間の読書量なのだ。あとはせいぜい会社から与えられた仕事の資料ぐらいしか読まない。これでは蓄積どころか、頭のほうはどんどん退化していく。国民がどんどん愚民化していくのは、まず本を読まないことから始まっているといっていい。

 では、若者たちは? これからの日本を担う若者たちはどうだろう?

 いわゆるいまどきの若いものは、一時的にキャアキャア騒ぐことにかけては名人だが、恵まれた時代に甘やかされて育っているので、箸にも棒にもかからないようなグウタラ人間もいる。暴走族といった、自分の不良性をテレビや雑誌でさらけだすあつかましい若者たちがいる。

気くばりのすすめ ――――――――というエッセイを読んだ。「気くばりのすすめ」というやつで、書いた人は鈴木健二。NHKのアナウンサーで、30代以上なら彼が司会の紅白歌合戦を見たことがあるだろう。初版は1982年で、400万部以上の大ベストセラーになったから、ご年配なら読んだ方も多いだろう。

 しかし、本書の魅力はここで尽きない。「ちかごろの若者はダメだ!」とか、「国民が幼稚化しているッ」といった憂国モノが流行っているが、本書はソコで留まらない。滑らかな言葉でバッサリ斬っていっちょうあがりの売文教授とは異なり、対策が具体的かつ自伝的に明かされている。

 では、どうすればよいか? タイトルにもなっているとおり、「気くばり」こそが国を救うそうな。

 気くばりや思いやりは、知識として頭にあっても、それが血肉化していない限り、何の意味もないそうな。最近の日本人には「やさしさ」が欠けていると言われているが、日本人の心が冷たくなったわけではない。社会的訓練や習慣に起因するのだという。つまり、気くばりや思いやりの気持ちを表すことに、単に慣れていないからなのだと。

 そして、気くばりや思いやりを表現することは、「技術」や「コツ」なのだという。子どもたちに知識を詰め込んでよしとするのではなく、思いやりを行動に移す訓練をつむことで、変えられると主張する。

 たとえば、会社で部下に声をかけるとき、「名前」をつけてみてはと提案する。部下というのは、上の人に名前を呼ばれている限り、「自分はこの人に信頼されているのだ」という実感を持つ。だから同じ呼ぶなら、「オイ!」や「そこの若いの!」といった代名詞ではなく、ちゃんと名前で呼んだほうが部下掌握の決め手になるのだという。

 また、教育は幸福になる決め手で、そのための安上がりで楽しい方法は、読書だという。NHKのアナウンサーという仕事上、週に最低30時間の読書をしているのだと豪語する。なかでも数学が最重要だとし、30時間の中で最低4~5時間は数学史の読書にあてているそうな。数学はもともと不得手だったが、物事を論理的・体系的に考え、まとめあげていくために、どうしても必要だという。

 そして、冒頭の白痴化する老人を作った原因は、「テレビ」だと断ずる。食事の時間、家族全員がそろうが、誰も口をきかない。行儀よく食べているからではなく、全員が顔をテレビの方へねじっているからだという。

 いまの家族はテレビという便利な道具を入れた反面、本来あるべき家族の団らんの時間を失ってしまったのだという。こうした家庭で育つ子どもに思いやりの芽が育つはずがなし、老人をいたわり愉しませる方法なんて、テレビ以外に誰も知らなくなったのだろうと想像する。

 御説ごもっともかもしれないが、テレビのアナウンサーにあるまじき発言なところがご愛嬌。とはいえ、言ってることは、かなりマトモ。あたりまえのことを、あたりまえのように言う態度は、時代を超えて共感できるところが多い。「人間は幸福になろうと努力している間が一番幸福なのである」なんて、ハッと胸を衝かれる警句に出会える。

 四半世紀前から老人は白痴で、リーマンは無教養で、若者は馬鹿者だった。今のいまこそ危機なら、まず彼我の差から説明してもらわないとピンとこない。なにをいまさら、というやつね。イマドキの、言いっぱなしでオシマイの警世放談とは偉い違う。上から目線を気にせずに、得られるモノはちゃんと吸収しよう。

 参考。近ごろの若者は意志薄弱で逃げてばかりいる件については、[ココ]。2000年前から若者は馬鹿者だったらしい。その証拠は、[ココ]をどうぞ。いつの世にも、自国を滅ぼしたがる警世気取りの連中はいたということで。おそらくこれは、トシとるとかかる、一種のビョーキのようなものなのだろう。

 わたしもトシをとってゆく。自戒を込めて。だから、「最近の○○はなっちょらん!」なんて言い出したら、遠慮なく罵倒してくださいませ。

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