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娘親限定「女の子が幸せになる子育て」

女の子が幸せになる子育て 親が読んで、ほっとする本。

 フェミニストが何と言おうが、男の子の子育てと、女の子の子育ては、ちがう。男女は、性差ではなく性格が性別に定着していくもの。つまり、「男の子らしさ」や「女の子らしさ」は、お互いもともともっており、成長の過程で(主として環境により)際立たせられていくものでないかと。

 しかし、ほとんどの育児本は、性差を意識していないか、あるいは「男の子限定」の内容となっている。なぜなら、育児本を手にするのはたいていママだから。「女の子=自分が小さかった頃」を考えて、自分を基準にしてしまうだろうから。

 そんなニッチにピッタリとあてはまる本を読んだ。なじみの図書館の予約待ち順位は、「100位」。amazonでは見えにくいが、本書がどれだけ望まれているか、よく分かる数字だ。娘を持つ親のためのアドバイスが満載しており、まさにいま読みたかった一冊。

 とはいうものの、デジャヴ感やライフハック臭もしており、そういうトコも人気を呼んでいるのかも。たとえば、ゴールをイメージした問いかけをせよという。「片付けなさい」とガミガミ叱っても、なかなか言うことをきかない。いっぽう、

  「きれいになったら、どんな気持ちがする?」
  「きれいになった部屋で、何がしたい?友だちが呼べるね」

…など、片付いた後のイメージが頭に浮かぶような言葉を掛ける。片付けるプロセスではなく、片付いた後のメリットを想起させるのだ。同様に、「私、こういうのできない」と子どもが言ってきたら、「もし、できたとしたら?」と返す。自分を卑下したり、諦めそうになったら、尻をたたく前にモチベーションをあげるのだ。まさに、ライフハックそのもの。

 いっぽう、目ウロコ、腑に落ちる指摘もある。たとえば、「子どもが勉強をしないのですが、どうしたらいいでしょうか?」という相談への返答。「勉強しなさい」と言えば、子どもが勉強するかといえば――親自身が知っている、そんなことありえないことを。

 ではどうするのか?曰く、「親の仕事は勉強する環境をつくる」ことだという。

 環境を整えることで、勉強する習慣をつけさせよという。具体的には、「三点固定の法則」という方法を紹介している。三点とは、「起床時間」「夕食時間」「就寝時間」のこと。この三つの時間を毎日きちんと固定することで、生活リズムが生まれ、前後の勉強時間も固定されるのだという。ポイントは曜日によって例外を設けないこと。休日、夏休み、冬休みも例外を作るなとチト厳しいが、「子どもの生活リズムを乱しているのは実は親」という裏側のメッセージも読み取れる。

 門限の重要性も納得できる。何時にするかが問題ではなく、「門限がある」という事実が重要なのだ。

 それは、子どもが家族の一員であり、信頼を裏切ってはいけないという「心のストッパー」の役割を果たすのだという。門限は規制ではなく心配のラインなのだということを分かってもらうつもり。同様に、携帯電話にも門限を設けよという。携帯電話を持つというのは、「家の中に外の世界がある」という状況を作り出していること。だから、「夜の何時以降は携帯をリビングに置いておく」ルールも理解できる。

 どこかの育児書で聞きかじったHackも出てくる。それは、「私が嫌だから、それはダメ」というやつ。わたしも嫁さんも、「あなたのためだから」が大嫌い(そんなCMがあったね)。この言葉に隠された欺瞞を知っているからこそ、子どもに向かっては言わない。譲れない一線は「ダメなものはダメ、私がダメだと決めたから」で押し切る。ヨソはヨソ、ウチはウチというやつ。

 詭弁スレスレ(でも有効)な問いかけもある。部屋の片付けをしない子に、「掃除は今日する?それとも明日する?」と聞くのだ。掃除をするのが前提となっていて、子どもとしては「今日」か「明日」しか選ぶほかはないという問いかけだ。ホラ、デートのお誘いで使えるワザ「今度の日曜日、映画に行く?それとも美術展?」と一緒。応用は、「何か、悩んでいることない?」と聞くのではなく、「困っていることは何?」と尋ねるのだ。

 ポジティブシンキングもあるぞ。子どもが短所だと思い込んでいる発想を転換するのだ。たとえば、子どもが「わたしは飽きっぽい」と思っているのなら、「好奇心旺盛だ」とプラスの言葉で表現してやる。さらに、両者を「そして」でつなげてあげる。つまり、「あなたは飽きっぽい。そして、好奇心旺盛なんだよ」と伝えるのだ。このとき「しかし」でつなげると、前者を否定しているようになるので、順接であることが重要だそうな。

 いちばん重要だと感じたのは、次の問いかけ。おそらく、そういいたくなる場面が何度もあって、ほんとうに訊くべき質問はこれだろうから。すなわち、

  「なぜ、そんなことをしたのか?」

  と問い詰めるのではなく、

  「本当は、どうしたかったの?」

と訊くのだ。「なんでそんなことするの!?」とバシッと言うと、子どもはすらすらと答えてくれるだろうか?なぜなぜと追い込むと、子どもは理路整然としゃべってくれるだろうか?そんなことないよね。むしろ、「そんなこと」を否定的に捉えていると子どもは判断し、ますます殻に閉じこもるか、萎縮するかだろう。

 人の行為の裏側には、必ず何らかの肯定的な意図があるという。一見するとネガティブな言動であっても、その背後にポジティブな意図が隠されていることが多いというのだ。反抗的な態度をとる裏側に、肯定願望があるのがその典型かと。叱って禁止することで、一時的に問題行動を抑えることができるかもしれないが、その奥にある本当の原因を知らなければ、別の問題と化すことは、自分の経験を振り返ってみても明らかだろう。

 「女の子を育てる」視点からの助言もありがたい。

 たとえば、女子校のメリット。それは、「男女の役割分担からフリー」であること。共学だと、重いものを運んだり、荒事・電気配線は「男の子」、被服・飾りつけ・飲食関係は「女の子」と振られてしまう。女子校の場合、すべて自分で行う必要が出てくる。その結果、共学では出会えなかった得意分野に気づく可能性が広がるという。なかでも一番育つのは「リーダーシップ」だという。なるほどなるほど。

 著者が校長を務める品川女子学院では、「二十八歳の未来から逆算した教育」をすすめているという。「幸せな将来」「子育ての方針」は漠としすぎているので、ゴールを「二十八歳」に決めているのだ。そのときにどんな自分になっているかを共有し、そのために「いま」何をするべきかを逆算して考えるのだという。たしかにその通り。子育ては期限つきなんだことを、いまさらながら思い知る。プリンセスメーカー(8年)やアイドルマスター(1年)だと非情なまでに戦略的に考えるのにね。

 リアルギャルゲのマニュアルとして、唯一の一冊。


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「自分を信じろ、好きを貫け」と160年前に言った人

自己信頼 それは、ラルフ・ウォルドー・エマソン。ソローやニーチェ、宮沢賢治や福沢諭吉などに影響を与えた哲人で、その第一級の論文「自己信頼」の新訳版を読んだ。

 これは自己啓発の原本・原液。今でもコピペされることもちょくちょくあるので、皆さんの目にとまることもあるかと。自己啓発好きなら、全ての行に強烈に反応するだろう。言い換えるなら、これが祖にして極意なので、本書をマスターすれば、コピペ本は要らなくなる。

 たしかに、D.カーネギー「道は開ける」や、S.コヴィー「7つの習慣」を思い起こすような一節もあったが、本書はもっとシンプルだ。そのキモはこれに尽きる――自己信頼(Self-Reliance)。自分の考えを徹底的に信じて、付和雷同せず、自己をよりどころとして生きろ、というのだ。

 さらに、社会が規定する「善」や「良識」といった名目に惑わされるな、と説く。それがほんとうに「善」かどうかを【自分で】探求し、内なる声に従えという。善や悪は単なる呼び名にすぎず、簡単に他の言葉と置き換えられる。正しいものは、自分の性質に即したものだけであり、悪いものは自分の性質に反したものだと断定する――淡々粛々としたアジテートに、読み手はヒートアップするかもしれない(書き手はいたって冷静)。

 そして、自己信頼から遠ざける原因として、一貫性への強迫観念を指摘する。過去の自分の行動に縛られ、今の自分の自由な立場を放棄するのは愚の骨頂だと。分別ぅ?なにそれ?オフィシャルでの言動に囚われ、記憶の屍を引きずり回すようなことをするなという。矛盾を恐れるな、常に現在の視点から検証し、日々あたらしい一日を生きよという激励は、読み手に向かっているというよりも、エマーソン自身のためのメッセージなのだろう。

 ただ、彼の主張を推し進めると、「この本そのものも捨てよ」になる。読むのは自由だが、それに囚われるな、自分の内なる声こそが神聖なのだから、となる。凡百の「成功本」は本書のコピペであったとしても、この本質まで透徹したものは、ほとんどない。100冊の成功本を読んで悦に入っているより、1冊の本書に背中を押されてみるがいい。

 人生に、突破口を。


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「詩学」は原則本

詩学 古典というより教典。小説、シナリオなど、創作にかかわる人は必読。

 著者アリストテレスは、悲劇や叙事詩を念頭においているが、わたしはフィクション全般に読み替えた。フィクションを創造するにあたり、観客(読み手)に最も強力なインパクトを与え、感情を呼び起こすにはどうすればよいか?構成は?尺は?キャラクターは?描写は?「解」そのものがある。

 これは、「現代にも通ずる古典」というのではない。二千年以上も前に答えは書かれていて、今に至るまでめんめんとコピーされてきたことに驚いた。本書が古びていないのではなく、新しいものが創られていないんだね。

 著者に言わせると、わたしたちヒトは、「再現」を好むのだという。この概念はミーメーシスといい、模倣とも再生とも翻訳される。現実そのものを見るのは不快で、その現実を模倣したもの――演劇だったり彫刻、絵画だったりする――を見るのを喜ぶのだという。彫刻や舞台を用いることで、これは「あの現実を模倣したのだ」とあれこれ考えたり語り合うことに、快楽をおぼえるのだ。

 ここからわたしの妄想ね。ヒトにとってリアルそのままは複雑すぎて理解できないのではないかと。全ての経験は言語化できないし、全ての視覚情報は処理しきれない。だからリアルをいったん移し換えて(写し変えて)、単純化する。

 たとえば、小説ならテーマに沿った描写や出来事に絞るだろう。出来事を全て描写しようとすると、破綻するから。再生させるための媒介を経ることで、リアルは(書き手の表現欲求に沿って)整理される。受け手は整理された「リアル」を再現させて、現実を把握できたと満足するのだ。因果に焦点をあて、現実を「わかりやすい物語」にしてもらうことで咀嚼できるようにする。あるいは、小説内の出来事や登場人物の感情を追体験・疑似体験する同じフレームで、現実を理解できたと誤解するのかもしれない。

 妄想はおしまいにして、本書の肝にはいる。

 悲劇とはなにか。アリストテレスはこう定義づける。

悲劇とは、一定の大きさをそなえ完結した高貴な行為の再現(ミーメーシス)であり、快い効果をあたえる言葉を使用し、しかも作品の部分部分によってそれぞれの媒体を別々に用い、叙述によってではなく、行為する人物たちによっておこなわれ、あわれみとおそれを通じて、そのような感情の浄化(カタルシス)を達成するものである。
 実践に使えるポイントは、二つ。この実践は、いわゆる劇作に限らず、小説や映画などにも効く。

 一つめのポイントは、「おそれとあわれみ」。この感情を受け手に与えると、その作品は成功したといえる。もちろんこれに限らず、すぐれた作品には、恐怖、怒り、憎しみ、嫉妬、喜楽、哀切など、さまざまな感情が渦巻いている。そして、登場人物が抱く激しい怒りや恐怖が、受け手に伝染することがある。

 しかし、それらはアリストテレスに言わせると、「劇中の人物がこれらの感情のゆえに誤った判断をして破滅する、または危機に陥ることを示すため」なのだという。作中の因果の輪の一部をなしたり、トリガーとして「強い感情」が働いているのだという。そして、「おそれとあわれみ」こそが、すぐれた作品にとって必須の条件となる。

 「おそれとあわれみ」を引き起こすためには、「不幸」の要素が必要となる。「幸福→不幸」もしくは「不幸→幸福」となるかはそれぞれだが、多かれ少なかれ不幸の要素がある。観客は自分に似た人物が不幸にあうのを見て、自分もまた同じ不幸にあうのではないかとおそれ、あるいはその人物が不幸に値しないにもかかわらず不幸に陥るとき、あわれみをおぼえるのだという。この感情を引き起こすことが、悲劇の目的なんだとまで言う。

 さらに、この感情を引き起こす効果的な方法まで伝えている。アリストテレスはまず、視覚効果の限界を指摘する。見た目を弄って「怖そうな仮面」や「痛々しい様子」を表現しても効果的ではないという。今風にたとえるなら、びっくり箱的な仕掛けや、どばーん血まみれの映画や小説は、怖いといってもすぐ慣れてしまうようなものか。

 では、どうすれば最も効果的におそれとあわれみを引き起こすだろうか。それは、予期に反して、しかも因果関係によって起こる場合だそうな。予想を裏切るような(でもその中でのリクツは合っている)出来事を見せられると、そこに「驚き」が生じるから。

 ここで、あるフィクションを思い出す。奇妙な死亡事故を調べているうちに、あるビデオを見てしまう男の話。実はそれは「呪いのビデオ」だったというやつ。このフィクション、わたしと友人との間で評価が真っ二つに割れているが、ようやくその理由が分かった。

 カギは、「呪いのビデオ」を信じるかどうかにかかる。少なくとも「ありそうだ」と思えるなら、「おそれとあわれみ」を驚きとともに効果的に味わうことになる。「見た人は一週間で死ぬ」という事実は、見ちゃった後に知らされるからね。そりゃ怖いし、かわいそうだよ。

 その反面、信じられないのであれば、本を投げたくなる。じっさいその友人は「カネ返せ!」と言ってた。「キリストの血統は実は続いてました、それはオマエだ!」なんて奴や、「平凡な少年が実は伝説の魔法使いだった」奴などが、これにあてはまる。自分を重ねられるキャラクターがピンチになったあと、そいつを覆す。危機も逆転も、そのキャラだから起こりうるもの(ビデオ、血統)であれば、より効果的に受け手の感情を引き出せるのだ。

 二つめのポイントは、「カタルシス」。これは注釈のほうが分かりやすい。訳者は二つの説を取り上げていた。ひとつは瀉出説、もうひとつは倫理的浄化(教化)説なんだが、瀉出説のほうがしっくりきた。昔の治療の一手段、瀉血からきているんだろう。

 これは、医療における有害物質の瀉出(除去)にもとづく解釈だそうな。悲劇はあわれみとおそれの感情を引き起こすが、それは結局、これらの感情を高めたうえで、この感情から観客を解放するためであるという。熱病患者には熱を加えて熱から解放する治療のような「類似療法」のようなもの。

 さらに、この効果は知的なものにとどまらない。なぜなら、まさにこの知的な働きによって、肉体も変化するからだという。つまり、肉体はアドレナリンを分泌し、心臓がバクバクし、手に汗をにぎり、目には涙があふれる。泣きゲーで涙を流したり一本抜いたりすると、スッキリするのはこういうこと――戯言兎角、一種の呼び水となっているのだろう、感情の水位を高め、あふれ出すための。

 エッセンスをまとめるとこうなる――観客が感情移入できるような、普通の人がピンチになるが、どうしてそうなったか、最初は分からない。その原因を探っていくうちに、その人は何かの因縁を持っていることが認知される(キャラと観客の両方に)。因縁は劇の外側にしつらえてあり、作中ではその結果や影響しか見えない。適切な不幸とそれに見合った解決で受け手をハラハラドキドキさせ、なおかつドンデン返しする。ただし、「いかにもありそう」な因果でなければならない。で、ラストにホロリと泣かせれば上出来。

 ベストのフレームはこんな感じで、あとはバリエーションの問題となる。そうそう、アリストテレスに言わせると、「みんなが知っているお話」を下地にするのはいいけれど、変えちゃダメだそうな。共有されていつ、大きな物語があるなら、それをベースとする。観客は舞台の「再現」を見ると共に、自分の記憶のなかでも「再現」させるんだ。この二重の再現こそが快の元なのだろう。「あ、知ってる知ってる!」という奴やね。

 ベースとなる神話があるなら、その登場人物は死ぬべきときに死に、戦うべきときに戦う。その構造はそのままにしたうえで、観客に「あわれみとおそれ」を呼び起こすような出来事を、予期に反して、しかも納得できる因果関係でもって引き起こすのがベスト。

 たとえば、いわゆる「時代物」が良例だろう。歴史にIFはないけれど、史実はそのままで、「実はあんな陰謀があったんだ…表沙汰にはならなかったけど」なんて話がぴったりや。「儂の死を三年隠すのじゃ」とか、「自衛隊が戦国時代にタイムスリップしちゃいました」なんてそう。史実を変えずに、どう着地させるかが見所やね。それにひきかえ、「自衛隊が第二次世界大戦にタイムスリップしちゃいました」の方は、偽史展開(パラレルワールド)なので、アリストテレスによると二流扱いとなる。

 人により、本書から受ける刺激が異なってくるかも。わたしが挙げた例よりも、もっと「それを言うならコレでしょ」という小説、マンガ、映画があるだろう。それくらい基本的なことが書いてある。

 創作のデザインパターンともいえる一冊。小説、シナリオなど、創作にかかわる人は、ぜひ読んでほしい。原則そのものがあるのだから。


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