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すべてのテトラちゃんへ「大人のための数学/数と量の出会い」

 やりなおし数学シリーズ。

■1 テトラちゃんという特異点

数学ガール テトラちゃんとは、「数学ガール」に登場する、がんばり屋でドジっ娘の女子高生。数学はちょっと苦手だけど、あこがれの先輩(ヒロシくんとミルカさん)に惹かれて数学の世界にハマる。

 「数学ガール」が素晴らしいのは、このテトラちゃんの存在だ。数学に関する「ふつうの」啓蒙書だと、「先生が生徒に説明する」形式になる。難易度や分野こそ違え、必ずバーチャルな授業の形をとるのだ。異様に飲みこみが早いバーチャル生徒に混じって、読者は教えを「請う」のだ。

 ところがテトラちゃんは、数学が苦手。公式を暗記してそこそこの点を取ることはできるのだが、「なぜその公式なのか?」が分からない。「数学は暗記科目」だったわたしと、かなり被る。そんな彼女が、「分かりません」というとき、暗記ではない数学が始まる。努力家なので、分かるまで手を動かす。数学の本質は抽象化なのだが、そこに飛躍するまでの滑走が、「手を動かすこと」に気づかされる。わたし的にはミルカさんに○○されたいのだが、どうしてもテトラちゃんにシンパシーを感じてしまう。

■2 制限時間がない「数学」

 どうして、「いまさら」、「腹の足しにもならない」、数学をやろうとしているのか?答えは簡単、楽しいから。「分からない→エウレカ!」の瞬間は快楽そのものだし、数学的に厳密に常識が覆されるときの恐怖は、他に比することができない。

 では、どうして、数学の楽しさに目覚めたのか?なぜいま気づいたのか?これも、「数学ガール」のおかげ。「数学ガール」では、分からないものは、分からないと言っていい。そして、できるまで待ってくれる

 これ重要。詰め込みで「分かったような気」だけでやってきた張本人とは、このわたしだ。自分がやってきた「学校の数学」は、一学期だとか数IIAだとか、期限や範囲が決まっていた。数学の問題とは、制限時間内に解くものだった。しかし、「数学ガール」では分かるまで具体化(手を動かす)すればいいし、分からないところはいくらでも戻ってやり直せばいいのだ。なんというパラダイムシフトー!制限時間がなくなるだけで、こんなに数学が面白いだなんて。

 ただ、「数学ガール」にも限界はある。「ゲーデルの不完全性定理」や「フェルマーの最終定理」といった大テーマに挑戦するため、どうしても紙数が足りなくなる。理解を確かめるために、練習問題に挑戦したいのだが、これは「物語」なので先へ進まなければならない。なので、分からないものは放置されてしまいがち。

 そんなテトラちゃんだった読者にオススメできるのが、この「大人のための数学」シリーズ。ものすごくものすごく丁寧に教えてくれる。「数と量の出会い」では、算数のレベルから微積分の入り口まで案内してくれる。ほとんど略すことなく、手を動かす経緯と結果がしつこいくらいに展開されている。基本的な部分こそ密にやっているので、まだるっこしく感じるかもしれない。しかし、飛ばさずに読むことで、数と量にまつわる深い理解を得ることができる。

■3 数と量の世界

数と量の出会い 本書の収穫は、わたしの長年の疑問がスッキリしたことと、それにより数への恐怖が高まったこと。

 長年の疑問とは、「どうして、数える数と、測る数が、同じ『数』なのか?」だ。「測る」は、「量る」や「計る」で読み替えてもいい。1,2,3... とカウントする自然数と、42.195kmなどの実数を一緒くたに「数」として数直線上にあらわすことに、違和感を抱いていた。

 なぜなら、実数とは、「いまそこで測った数」だから。1,2,3 とカウントするのなら、誰が数えても1ダースの卵はきっかり12コだ。だが、フルマラソンならどうだろうか?一定のルールに沿って巻尺で測っているものの、誰が・いつ測っても、同じ値になるだろうか?そんなワケない。42.195kmちょうどなんてありえなく、ちょっと長いか短いかだろう。だいたい地球は丸いしアップダウンもあるのだ。だから、わたしたちは測定したものを、「おおむね42.195km」としているにすぎない。その、「おおむね42.195km」を、誰がいつカウントしてもまちがいのない「12コかっきり」と一緒にするのは、おかしい。

 「いま測った、その数値」を、もっと一般化している「ある数字」と同じ扱いにすることはできない…そう感じていた。わたしは、実数をリアル・ナンバー(real number)そのままの意味で考えていた。そのため、後の集合論になって、「任意の区間の実数全体を各要素に持つ集合」とか「実数の集合から選択された集合」という抽象的な考えについていけなくなったのだ。もっと極端にいうならば、「実数を数直線上にプロットする」という言い方自体、矛盾してない?と思っていたのだ。

 このわたしの「割り切れなさ」を見事にあぶりだしてくれたのが、「数と量の出会い」だ。著者は「数える数字」と「量る数字」がいかに生まれ、出会っていくかを物語のように解説する。そこには、具体的な数式のほかに、「人の意識の歴史」が織り込まれている。

 たとえば、著者は「分数」が扱われなくなっていることを指摘する。新聞の見出しでもいいし、文中の表現でもいい。分数の代わりに、小数や比の数(割合)が多く登場してきている。これは何を意味しているのか?

 分数は、元となる全体があって、ある部分を表している数だ。だから、1/8とか1/6という一つ一つの表示に対して、固有の意味を持つ個性的な数なのだという。つまり、分数が出てきたとき、それが何の1/8なのかという意味が重要になるのだ。それが「ピザの1ピース」なのか、「ダブルソフトの1枚」なのかは分からないが、分数は常に具体性を持っており、「集団としての数のはたらきに融けこませないようにしている」という。

 そうした分数が使われなくなる一方で、小数が代わりに出てきている。来年度予算の1/6ではなく、およそ16.7% という表現になっている。これは、具体的な世界を正確に映す数ではなく、抽象的なところではたらくことができる数だという。小数を使えば、足し算やかけ算などの演算が自由にできる。ということは、小数が完全に抽象的な数の世界に「融けこんでいる」ことを示しているというのだ。

 いま息子がやっている算数に対し、わたしが抱いている違和感はこうだ。1メートルのロープと2メートルのロープをつないで3メートルになるということは、1+2=3 とは違う。1メートルに近いロープと2メートルに近いロープをつなげば、だいたい3メートルになるということにすぎない。それでも、と著者はいう。それでも1メートル+2メートル=3メートルという式は正しいと考えることができるという。そして、そこには、量の正確な値は近似という操作を限りなく行っていけば、ついにはとらえられるという直感がはたらいていると指摘する。

この私たちの直感は、誤差が限りなく小さくなっていく果てには、必ず1つの長さとして取り出される量があるということである。そこにはたらくのは「量の世界」の対象となる存在に対してもつ、私たちの先験的な認識に違いない。

無限はこのように、数と量のなかにまったく異なった姿をとって取りこまれている。もしこれを総合する道があるとすれば、それは抽象的な数も、測られる量として表され、近づくという性質を獲得することが必要となり、一方、「量の数」は個々の測る対象から離れて、抽象性を帯びて自由に数として演算ができることが望まれてくる。それは数学が新しい数体系の創造を目指すことを意味している。

こうして実数という数体系が数学のなかに生まれてきた。実数は数直線上にまったく抽象的な完結した「数の世界」として実現されている。ここでは数は長さという量によって測られるのである。ここには分数も小数もすべて含まれている。この実数こそ、無限大と無限小という対極的な概念を包み込んでいる実在の世界を表現する数であるに違いない。実際、実数は英語でreal numberというのである。
 ここに到って、ようやく「実数」を実感した。わたしの違和感は、違和感として残しておいてよかったことが分かった。ある値に「近づく」という性質は、そのまま無限の可能性をはらんでいる。わたしの「理解」は中学数学レベルかもしれないが、ようやく腹の底から「理解」できた。

■4 数と量の恐怖

 同時に、いままで深く考えず常識だと信じていたものがひっくり返り、恐怖に駆られることもあった。数直線上の「量」としてみなすことで、数と量を実数で包むことができた。しかし、その一方で、「絶対に正確にプロットできない数」というものが存在することも、「理解」できた。

 それは、√2などの無理数や、1/3などの循環小数だ。紙の上の数直線上ではなく、頭で考えたならば、メモリを1/10、1/100、1/1000... と、どんなに小さくしていっても、その場所を示すことができない。学校でやったときは、1.41とか0.33とか、「だいたいこの辺り」に適当に点を打ってごまかしていたが、どんなに目盛のスケールを変えてもたどりつけないことを、実感として「理解」したのだ。つまり、数直線上に「隙間」があることに気づいたにほからならない。

 もちろん無理数の性質として、知識としては知っていたが、それでも数直線とは、有理数がびっしりと詰まった線だと思っていた。0.333... は1/3にして、循環させなければ封じ込めるからね。しかし、「無理数は簡単につくれる」ことを知って愕然とした。しかけはこうだ。

   1/3 = 0.333...

 この循環小数の3の1番目、10番目、100番目、1000番目のところだけ3を4に変えてみると、この数の並びは決して循環しないから、これは無理数となる。また2、4、8、16番目と2のべき乗のところだけ3を1に変えても、同じように無理数になる

   0.33△3......3△3............3△3..................3△3........................3△

と、間隔が次第に大きくなっていくように△を決めれば、その△に3以外の好きな数字を入れるだけで無理数が作れる。そして、このように無理数を作ってみると、無理数は1/3のまわりに密集していることがよくわかる。著者曰く、「無理数の海のなかに1/3が浮かんでいるという感じさえしてくる」。これは手を動かすことで、イメージングできた。

 そうすると、いままでの数直線のイメージが変わってきた。有理数の隙間に無理数が入っているという感じではなく、これも著者の表現だが、「無理数は数直線上を濃い霧のようにおおって広がっており、その間に有理数が点在している」ようなものになる。逆なんだ、無理数の海の中に有理数の1/3が浮かんでいるかのように見えてくる。数直線のそこだけが隙間どころか穴ぼこだらけであることを、「理解」してしまうのだ。これは、怖い。この恐怖は、ひょっとすると独り相撲かもしれない。それでも自分の「アタリマエ」が覆される瞬間はゾクゾクさせられる。

 えらく長くなったが、こんな「気づき」が沢山得られた。時間を気にせず数学と向き合うと、自分の中で「発見」ができる。この快や恐れのために、数学をやりなおしてみよう。

 最後になったが、こんなオヤジになって数学をやりなおそうというきっかけをもたらしたのは、結城浩さんのおかげ。とても、とても、感謝してます。「大人のための数」シリーズを踏破した後、もう一度「数学ガール」たちと付き合ってみるつもり。だいじょうぶ、ミルカさんは待っててくれるはずだから。新作ではヒロシくんと進展するといいなぁ、と期待しつつ。それから、一人称「僕」に real name を付けてもらうことを期待しつつ。

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Foresight の代わり、どうする?

 新潮社のクオリティ・ペーパー「Foresight」が休刊する[参照]

 な、なんだってーΩΩΩ!一般紙と比べ割高とはいえ、良質の記事が並んでいるので重宝していたのに… そういやここ数ヶ月、「らしからぬ」妙な酒やら証券会社の広告が増えていたな。お約束のように、「昨今の厳しい出版事情」と「インターネットの台頭」が休刊理由として挙げられており、不謹慎ながら笑った。

 さておき、どうしよう。これで、「定期購読までして読みたい雑誌」が消えてしまうことになる。ほとんどの雑誌は立ち読み or 図書館 or 特集により購入で済ましてきたけれど、Foresight は一通り読んできたからなぁ。「今年の派遣村がないのは、指導者が国家戦略室に取り込まれているから」とか、「政治家のウソを組織的に暴く politifact.com が米国で人気らしい」といったネタが一誌で得られるのは、Foresight ぐらいだろう。

 Foresight 難民となったわたしが、代わりを探すために、つらつら書いてみる。◎は定期購読の有力候補、○は特集次第、△は微妙、×は間違っても買わない。あ、これらは、「わたしの財布で買うか?」という基準なのでご注意を。図書館にあるヤツは、(必要に応じて)図書館でチェックしているから。さらに、立ち読みで充分なヤツは、相対的に価値が低くなる(世評を逆評価するために活用)。

 ◎ Economist 英語力不足でナナメに読めない&ネット版でお腹いっぱい
 ◎ COURRiER Japon 特集次第で買うが、定期購読するほどの魅力は?
 ○ Newsweek(日本語版) ネット版とfinalvent氏のフォローで充分でしょ
 ○ 東洋経済 車内広告でもいいけれど、たまのamazonネタが面白い
 △ FACTA 玉石混交すぎる、玉1石9とも(ただし玉はスーパー特ダネ)
 △ 文藝春秋 芥川賞チェック用、書評だけなら立ち読みで充分
 △ 中央公論 山形浩生書評が復活し、他の評者が消えるなら買う
 △ ダイヤモンド 車内広告で充分、たまのビジネス書特集が便利
 × TIME これ読むなら Economist にするよ
 × 選択 内紛前は◎だったのに…日経に盾突いた代償は大きい
 × WEDGE 団塊世評を知るためだけの価値
 × 日経○○全て 上司が次にカマすことを予測するためだけの価値
 × エコノミスト 広告で充分
 × PRESIDENT 広告で充分
 × Forbes 広告で充分
 × AERA 駄洒落が一番

以下、未チェック

 - Newsweek(本家) 10月の全面刷新後は未チェック
 - エルネオス 未チェック(目次を見る限り不要)
 - テーミス 未チェック
 - THE21 未チェック(立ち読みした限り不要)
 - ベルダ 未チェック(一誌だけお試し読んだが、微妙)
 - 経営予測エイジ 未チェック
 - 国際ジャーナル 未チェック

 こうやって並べるとわかる。わたしが紙の雑誌に求めているのは…

  1. 即応性でなく分析力(斬り口・深度・加工技術)
  2. 国内より国際(この国を動かしているのは、昔も今もガイアツ)
  3. 2万円/年(情報にお金を出せる目安)
  4. 非コモディティ(約2-3ヶ月で国会審議に載るぐらいの確度と鮮度)
  5. 書評が秀逸・充実(←これ重要)
 そして、重要なのは、「紙のメディア」であること。「COURRiERはiPhoneで読めるよ」とか知ってるけれど、紙がいいのだ。必要なトコはベリっと破いてポケットに突っこんで読みたいので。「ネット経由で読める」というのは、この場合、むしろ悪材料。言い換えると、「紙に落とす価値がある」のと、「定期購読する価値がある」のは、裏表だったりする。

 いいのがあったら、アドバイス願います。大穴があったら、薄謝どころか厚謝いたしますぞ。あるいは、「オレは○○へ移ったぜ!」というのがあれば、参考にいたします。

 追記 : はてな人力検索でも募集してみる(ポイントはずみますぜ)

  「Foresight」の代わりになるような雑誌は何があるでしょうか?


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プロジェクト・アンチ・パターンの集大成「アドレナリンジャンキー」

アドレナリンジャンキー 一兵卒は必携、プロジェクトの腐臭を嗅ぎとれるようになる一冊。むしろ、「アドレナリンジャンキー」だったわたしに読ませたい

 「アドレナリン・ジャンキー」とは、モーレツ社員(死語)、もしくはモーレツ社員で構成された組織のこと。すべての仕事は最優先で、全ての送信メールは、【!緊急!】で始まる。作業の順番は重要性ではなく、切迫度によって決められる。したがって、長期的な見通しは存在せず、全ての仕事は、ある日突然、「緊急」になるまで放置される。

 こういう人や組織があることを知っておくと、「そこに染まりやすい」危険性も予測できる。だから、回避も可能だ。そもそも知らなければ、回避する/しないの判断をすることなく、あなたもアドレナリン・ジャンキーの仲間入りとなるだろう。

 あるいは、「死んだ魚プロジェクト」。人は結構いるのに、妙に静かなオフィス。入ったばかりのあなたに対し、チームメンバーは気の毒そうな顔で応ずるか、目をあわせようとしない。あなたは程なくして気づく。関係者は誰もプロジェクトの成功を信じておらず、納期・コスト・品質・仕様のいずれかか、全部を犠牲にしないと、どうにもならない。

 プロジェクトは既に死んでいるのに、社内を漂う腐臭に気づかない(気づこうとしない)上司。「できません」と言おうものなら、「証明してみろ。できない理由を説明してみろ」と問い詰められる。期日やスコープ(のデタラメ具合)を話そうものなら、泣き言だとか人のせいにするとか罵られる(でなければ、「善処する」という言葉で放置される)。

 本書は、こうしたプロジェクトのパターン/アンチパターンを集大成したもの。類書に「オブジェクト指向開発の落とし穴」や、「プロジェクト・アンチパターン」があるが、これはソフトウェア開発プロジェクトにひそむ罠を解説したもので、いわば「べからず集」というべき。

 いっぽう「アドレナリンジャンキー」は、そうした罠にハマったプロジェクトがどのような振る舞いをし、どんな傾向が見られるかをパターン化している。「このプロジェクトは最悪の事態に向かっている気がする」という直感から、「気がする」を取り除くことができる。だからといって事態は好転しないが、すくなくとも現状を正しく把握することはできるはずだ。

 さらに、救えるパターンであれば、その施策を処方してくれる。ポイントは、「救えるパターンであれば」というところ。いわゆる「詰んだ」パターンであれば、やれることは「みんな逃げて!」でしかない。さもなくば、そもそもそんな臭いのするトコには近づかない。そのための予防手段としても使える。

 たとえば、「悪いニュースが伝わらない」理由と対処が挙げられている。悪いニュースを告げる人に、「原因は?」「対処法は?」とやみくもに問い詰める上司がいることが元凶だ。あたかも、「改善策がないならば、悪いニュースはもってくるな!」と言わんばかりの態度を取り続けていると、メンバーは「真実をゆっくり告げる」ようになるか、または「スケジュール・チキン」的な行動をとりだす。「スケジュール・チキン」とは、自分の問題を、他人の問題の影に隠すことだって。

 どうすれば良いか?元凶を正すしかない。「伝える人を恨むべからず」という呪文を実践するしかない。マネージャーは悪いニュースをすぐに知りたいと「宣言」するだけでは不十分で、そのように「行動」せよという。

 そのためには、悪いニュースへの対処を二つに分けねばならない。(1) どう対処するかを決定し、それとは別に、(2) 何が原因かを考えるべきだという。そして、チームが回復プランを思いつき、適用することに集中しなければならない。建設的な是正措置に重点を置けば、批判や懲罰とは受け取られにくいため、将来、悪いニュースが隠されたりゆがめられたりする可能性は低くなるというのだ。「原因を徹底追及しないと、対処が分からない」と魔女狩りに勤しむ上司の下では、ニュースは改良されつづける。あるいは、伝達者は人身御供として扱われる。

 もう一つオマケ。株式会社「はてな」のユニークな経営形態に一石を投じるパターンがあったので紹介する。p.120 から始まるパターン40「裸の組織」だ。「はてな」の組織運営は、フラットで透明だと聞いたことがあるが、完全オープンの方針は、しだいに進歩を止めることになるという。

 つまり、メンバーは情報不安に陥り、多すぎる情報を抱え込んでしまうそうな。「情報不安」とは、他のメンバーが知っているのに、自分だけ知らないことへの恐怖だ。どの情報にもアクセスできるため、それを「見ている」と見なされてしまうのだ。「見ている」にもかかわらず、反論なり応答がなければ、「沈黙=同意」が成立してしまうという。「ファウスト的条件」といった小洒落たネーミングがついているが、要するに「なんでそのとき言わなかったの?」というカウンターへの不安感がついてまわるのだ。

 組織においてソフトウェア開発に携わってきた人なら、「あるあるwww」ばかりだろう。または、これからそうしたメンバーになるというなら、予防のため、ぜひ眼を通しておきたい。

 本書を一番オススメしたいのは、十年前のわたし。わたし自身「アドレナリンジャンキー」だったし、「死んだ魚」も「伝達者は人身御供」もみんな思いあたる。「逃げろ!」と警告するのではなく、本書を渡して、「いつ撤退するか、自分で決めろ」と伝えたい。

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「最近の若者はダメ論」まとめ

 近ごろ「最近の若者はダメ」が、(また)流行っているようなので、自エントリをまとめてみる。もし、「最近の若者は…」を見かけたら、ここを思い出してほしい。

 きっかけは、職場の飲み会。「近ごろの若い連中はダメだ!」と一席ぶつオッサンがいたこと。それって、昔から言われてますね、と返すと、「何年何月何日に誰が言った!?出典どこだよ?何の根拠でそう断定できるんだよ?」ってオマエは小学生か。そこで調べてみたところ…

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1. 近ごろの若者は当事者意識がなく、意志薄弱で逃げてばかりいて、いつまでも「お客さま」でいる件について [URL]

モラトリアム人間の時代 「最近の若者はダメだ」と昔から言われているが、特に今の若者はひどい。当事者意識が欠如しており、いつも何かに依存し、消費し、批判するだけの「お客さま」でいつづけている――という小論。出典を隠すと、内田某とか香山某がいかにも言いそうなネタ。ただこれ、30年前のベストセラーだったんだよね。弱いものたちが、人生の夕ぐれ時になって、さらに弱いものを叩く無限ループ。世代間に受け継がれる自虐ブルースなのか?

 これを「論文」として読むと支離滅裂で、記述の重複、無根拠の主張、非論理的展開、無意味な提案内容とお粗末極まりないチラ裏。こんなのがベストセラーになる当時の知的レベルをうかがい知ることができて、二度たのしめる。今どきの若い人は読んでおこう。「ネット」と「ニート」と「ひきこもり」を足せば、今でも売れるぞ。


2. 日本語壊滅 [URL]

 内田某が日本語の崩壊状況を語ってたことに反応したのがこれ。不思議なことに、このテの話の枕はメディア経由であって、自分のガッコの学生ではないこと。ま、「顧客」をダシに売名するようになったら終わりだが、それを「やらない」という線引きが彼の矜持のように見える。この点は非常に尊敬している。

 そういや内田さんって、ちょうど、「1. 近ごろの若者は…」で批判されていた年代だったはずじゃぁ…と思いを馳せると二度おいしい。「当事者意識が欠如しており、いつも何かに依存し、消費し、批判するだけ」…なんというブーメランって笑っている場合ではないな。もう一回転した刃先は、わたし自身にも向くのだから。

 ちょっと違った「日本語」を使っている人がいると、自分が「遅れてるゥ~(死語)」ような気になる。しかも、文筆で名を立てている人ほど、その思いが強いのだろう。さもありなん、枕草子や徒然草にもそんな「あせり」が見られるから。これは1000年前から変わってなかったんだね。

 自分と異なる運用の仕方をしたからって、「日本語がダメになる」と批判するのは早計かと。言語は変化しているであって、批判者は単に取り残されているだけ。時代に置き去りにされる恐怖がヒステリックに「日本語滅亡論」に直結するサマを眺めて楽しむのは、毎年恒例のお祭りだい。


3. 最も古い「最近の若者は…」のソース [URL]

 冒頭のオッサンの挑戦に応じたのがこれ。紀元前から言われていたよとか、ギリシアの哲学者が言ってたよとかと、常に「伝聞」の形で伝説のように扱われていたのがイヤで、ちゃんと調べて、参照して、引用した。

 ソースは三つある。ひとつはプラトン「国家」で、「最近の若者はラクなほうばかり追いかけて、年長者の言うことをちっとも聞かない」と憂える。でも本当にプラトンが言いたかったのは若者批判ではなかったようだ。その辺のことは、「たしかに、プラトンは『最近の若者は』と言っていた、が… [URL]」を参照されたし。

 二つ目はピュタゴラス伝にある。若者は勤勉さを厭い、不摂生や遊びを追いかけるものだという。これも単純に嘆いているのではなく、若いうちからの教育の重要性を解くための方便のようだ。

 三つ目は、古代エジプト。ただし原典まで辿れなかったのが残念。柳田国男が「木綿以前の事」にて、「…と聴いた」話になっている。発掘された古代エジプトの手録によると、「この頃の若い者は才智にまかせて、軽佻の風を悦び、古人の質実剛健なる流儀を、ないがしろにするのは嘆かわしいことだ云々」だそうな。


4. 学力低下の本当の原因 [URL]

 最近の若者はバカばっかりだそうだ。受験勉強ばかりでまともな教育を受けておらず、オチコボレか疲弊しきって人間性を欠如している奴らばかりで、このままだと日本が危うい。原因は親か教師かその両方で、放任無視か過保護のバカ親と、無能・無意欲のバカ教師が教育の荒廃を招いている――という、30年前の教育亡国論。

 ぜんぜん変わっていないのが笑える。しかも、そんな輩に育てられたのが、今どきの親なんだから噴飯モノだね(わたし含む)。じゃぁ、今どきのモンスターペアレントって、やっぱりそうなのか…?と思って調べたのが、「モンスターペアレントはどこにいるのか? [URL]」で、昔からいた「困ったちゃん」に新しい名前をつけただけなことが分かる。いわゆるバカ親たちの近現代史やね。

 どの職場・教室・コミュニティにも「困ったちゃん」がいるように、どの世代・年代にも理不尽な輩がいる。一部をクローズアップして全部となすのはメディアのお手盛り。不安感と危機感を煽って→部数と視聴率を稼ぐのがメディアの常道、惑わされないように自戒自戒。


5. 「最近の若者は本を読まない」本当の理由 [URL]

 最近の若者は本を読まないそうだ。「だから、まともな日本語が使えない」「だから、コミュニケーションができない」「だから本が売れない」と、これも枕詞として縦横に活用しよう。でもホントかな?と調べたのがこれ。

 結論はウソで、若者はよく読むし、今どきの若者ほど読書家だ。つまり、「30年前の若者」と比べて、今どきの若い人の方が沢山読んでいる。この辺は、「じゃぁ最近のオヤヂは、若いとき本読んでたのか? [URL]」を参照のこと。特にアサドク(朝の読書)の効果がめざましく、小中高生の読書率は近年にないほど高い。そして、読書の習慣はオトナになっても続き、「読書をする若者世代」が続々と社会に出てきているのが、いま。

 この根拠は統計情報として扱われており、誰も文句のつけようがない――と思っていたら、「本そのもの質が下がっているから比較できない」とか「ラノベや(最近の)新書が読書かよ(プ)」といった反論(?)が聞こえる。ううむ、数値化できないものをもってこられると、どうしようもないね。あるいは、詭弁のガイドライン第5条「資料を示さず持論が支持されていると思わせる」を思い出す(詭弁のガイドライン

6. なぜ最近の老人はキレやすいのか? [URL]

 最近の若者はキレやすいそうだ。すぐカッとなってナイフで刺す。感情の"こらえ"が利かない。命を粗末にしている。思いやりが欠けている――と言いたい放題ご満悦のご老人たち。本当かな?と調べてみたら、真逆の結果が得られた。

 結論から言うと、キレやすいのは若者ではなく老人、しかも、最近の老人ほどキレやすくなっている。これも統計から得られた結果なので、文句のつけようがないだろう――といっていたら、「高齢化社会になったから」だってさ。つまり母数が増えたから目立つようになったという理屈。しかし、高齢化を上回るスピードで起きている事実はどう説明するんだ?人口構成比を上回るスピードで高齢犯罪者の構成比が増えているのだ。つまり、老人が増えているからではなく、キレる老人が増えているのだということに他ならない。

 ただし、こうした調査は、「わたし」が「公開情報」を元に調べたものなので、いささか心もとない。「検挙率は警察のお手盛り」だとか「統計センスがないからダメ」だとか言われると、いかんともしがたし。「統計的センスがある人」がこねくり回すと、また違った結果が得られるのかね。

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 駆け足で紹介してきたが、「最近の若者はダメ」は昔から繰り返されてきたことは、確かに事実だといえる。

 しかし、(こっからが問題なのだが)これからも繰り返されるだろう、というのは、ちょっと違うみたい。世情が不安定になっていくのにつられてなのか、「よくできた若者」をよく見かける。わたしのミクロ視点がイヤなら、「読書する若者」が増えているという統計情報が、毎年更新されていることは否定しようがない。

 いっぽうで「最近ダメ」になっているのは、どうやらお年寄り世代のようだ。これも昔から繰り返されてきたかもしれないが、団塊世代は特異のようだ。この世代が量においても質においても悪い意味でのピークとなっている。三十年ぐらい未来から振り返ると、日本をダメにした張本人が、「今どきの若いやつ」なのか、あるいはそうでないのか、分かるだろう。その時は手遅れかもしれないが。

 もちろん、わたしが誤っている可能性はある(大いにある)。わたしの偏見のせいでサンプリングが歪んでいるかもしれないし、「人は見たいものしか見ない」せいかもしれない。自説に固執するあまり、周到に詭弁術を駆使しているのかもしれない。

 それでも、あらためていいたい。今どきの若者は、上の世代と比べ優れているってね。終わらない氷河期をくぐり抜けてきた若手社員のスキルと熱意は高いし、周囲に気を使える人、公共マナーが守れる学生さんは(高齢世代と比べると)圧倒的に多い。電車で見かける「マナーの悪い連中」は還暦に届きそうか越えた連中。人は枯れてくるなんてウソ、トシをとれば取るほど、感情的で傍若無人になる。まるで、老いるとは子どもに戻ることだと言わんばかりに。

 そんなわたしも、「最近の若いモンは…」と言い出したら、老人の仲間入りだろうか?あるいは、「最近の若いモンは…」を言わなくなる、最初の世代になるのだろうか?三十年後が楽しみだー(生きていればだけど)。

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「見えない都市」と銀河鉄道999

見えない都市 マルコ・ポーロが架空の都市をフビライ・ハンに語る幻想譚。

…なのだが、どうしても銀河鉄道999(スリーナイン)を思い出してしまう。というのも、999に出てくるさまざまな「惑星」は、いまの現実のいち側面をメタファーとしてクローズアップさせていたことに気づくから。

 「見えない都市」では、55の不思議な都市(まち)が語られる。死者の住む都市といえばありきたりだが、死者のために地上の模型を地下に構築する都市。全てのモノを使い捨てにし、周囲に堆積した塵芥に潰される運命を待つ都市。地面に竹馬のような脚を立て、雲上に築かれた空中都市。

 「銀河鉄道999」でも、奇妙な惑星(ほし)が出てくる。ルールや法律が一切ない惑星。すべてが化石となる惑星。密告を恐れて声をひそめる沈黙の惑星。命の尽きたペットが、主人を偲んで暮らす惑星。金属やプラスチック製のものが一切なく、すべてが枯木と枯葉だけでできた惑星。

 異様な都市、奇妙な惑星を眺めているうちに、いまそこにある矛盾の裏返しであったり、一部を拡大させた皮肉だったりする。異国の都市、あるいは別の惑星の物語を聞いているうち、実は自分の世界が語られていたことに気づく。個々のヴィジョンは濃密なので、ゲームでいうなら「Myst」や「RIVEN」のようなシュールかつリアルな感覚が得られる。ゲームの中で遊んでいるうち、中に入ってしまっていたようなもの。

 さらに、マルコ・ポーロの「東方見聞録」が下地なのに、「空港」やら「レーダー」といった言葉が何気に出てくる。いつの時代なんじゃぁぁ、とツッコむと同時に、これはなんでもありなんだということに気づく。都市という場所だけではなく時間すらをも超越しているというのか。

 おそらく999の原作者・松本零士は読んでなかったと思うが、人の想像力の行き着く先が似ているところがあって、面白い。だが、メタファーを喚起させる創造力は、カルヴィーノの方が一枚上手のようだ。

 たとえば、ツォベイデというでたらめな都市がでてくる。街路や建物の配置がバラバラで、まるで迷路のような構成となっている。そのわけは、都市の創設をめぐる物語になる。それはこうだ――

――さまざまな国の男たちが同じ夢を得たという。夜半に長い髪をなびかせ、見知らぬ都市を走り回る女の夢だ。女は素裸で、追いかけているうちに見失ってしまうのだという。男たちはその都市(まち)を探し回ったが、見つからず、ただ「裸の女を追いかけた夢」を見た男たちが出会っただけだった。

――男たちは夢に見たとおりの都市を築くことで合意し、街路や町並みの配置にあたっては、おのおの自分が追跡した道筋をそのまま再現させた。そして、おのおの女を見失った場所は、夢の中と異なり、城壁や広場を設けさせ、逃げられないようにしたのだ――

 これが、迷路のような都市ができあがった由来だ。読み手はそこに何を見出すのか?池澤夏樹の読みが面白い。裸の女を「アイドル」することで、この都市をさまざまなメディアに読み替えることができる。なるほどー、タネ明かしされた手品を見せられるようで、ちょっと悔しい。この都市のイメージは強烈なので、わたしの記憶の底に沈んだあと、なにかのきっかけで現実と結びつくだろう。そのとき、裸の女がどんな隠喩として扱われるか、楽しみだ。

 本書は、読んだ年齢や経験によって、さまざまな様相を見せる。人生の折々に見返して、そのとき想起されるイメージを楽しむもよし、本書から得られたイメージがリアルの「何か」の隠喩だったことに気づいて戦慄するのもよし、「小説」っぽくない楽しみ方がある。

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の~みそ、こねこね「数学ガール/ゲーデルの不完全性定理」

数学ガール3 脳がコンパイルされる読書。面白くて辛いスゴ本。普段と違うアタマの部位がカッカしていることが自覚され、ちょっと気味わるい。

 「数学ガール」とは、高校二年の「僕」が数学好きの美少女たちに翻弄される熱血恋愛バトル――というのはウソで、著者の言を借りるなら、「理系にとって最強の萌え」を目指した読みもの。ちょこっとラブ入りの物語ベースで、ガッコで学んだ数学とは一味も二味もちがう。

 今回のテーマは、「ゲーデルの不完全性定理」――とはいうものの、いきなり斬り込むのではなく、準備として攻略ポイントを解説する。「ウソつきのパラドクス」や「0.999…は1に等しいか」、「数学的帰納法」あたりは楽しく読めたが、「ペアノの公理」「イプシロン・デルタ論法」あたりになると、ついていくのがやっとで、メインテーマである第10章「ゲーデルの不完全性定理」は理解できなかった。

 もちろん、「何をやっているのか」は、登場人物の会話や独白で分かる。けれど、それが次々と繰り出される定義・公理・定理へと「どのように」つながるのかが分からない。いや、最初は懸命につき合わせて考えてみたけれど、怒涛の量にギブアップする。一覧表かロードマップのようなものがあれば…と作り始めたが、そもそも理解できないのに作れるはずもなく自壊する。実は、ひととおり説明された後に、ロードマップが示されている(p.358)のだ。証明の見取り図といってもいい。初読の方は、第10章に入ったら予めチェックしておくと吉。

 わたしの数学がらみのエントリを見ると、分かってないことを分かろうともがいていることが「分かる」。学生時代、「数学は暗記科目」といってはばからなかったのに、オトナになって、カジるのが楽しみになっている。

  あこがれとワンサイド・ラブ「数学ガール」
  数式なしでわかった気になれる「ゲーデルの哲学」
  数学ぎらいは幸せになれないか? 「生き抜くための数学入門」
  アフォーダンスを拡張する「数学でつまずくのはなぜか」

 下手の横好きのくせに、どうして(いまさら)数学をやりなおそうとするのか?その解が本書にあった。それは、意味を離れた思考をしたい、という欲望だ。数字を見れば「数値」や「数量」として扱ってしまうアタマから、いったん離れてみたいという欲求だ。

 数学ガール・ミルカさんは、算術の体系から形式的体系をつくりあげ、その中だけで定理を導き出す。馴染み深い「意味の世界」に対応付けられた「形式の世界」を渡るのは、ちょっと怖くて、とても愉しい。公理と推論規則だけで成立した世界――形式的体系から、形式的証明が生み出されるのは、美しいとすらいえる。わたしは、おかしなことを言っている。機械的に、コンピュータのように計算(というか置き換え)を繰り返していった先で、「美しい」とか「愉しい」といった感情に触れるような気分に陥るなんて。

 もうひとつ。「ゲーデルの不完全性定理」を生半可にかじってて、勝手に思い込んでいた「不安感」に終止符を打つことができた。それは、数学ガール・テトラちゃんのこの質問に集約されている。

『数学というもの』は、絶対的に確かだと思っていたんです。でも、第一不完全性定理の結果からは…証明も反証もできないものがあるわけですし、第二不完全性定理の結果からは…他の助けを借りなければ矛盾がないことを示せないわけです。だから、やはり『数学の限界』が証明されたように感じてしまうんです。
 言語は変化するのがアタリマエ。歴史は再解釈される。自然科学はパラダイムシフトするものだ。だが、『数学』だけは変わらない、確かなものだと「信じて」いた。「信じる」「信じない」にかかわらず、そうあるものだと考えていた――が、にわか勉強の不完全性定理で、その絶対性が揺らいでいたように思う。

 これが、ミルカさんの応答でガツンとやられた。彼女は、『数学というもの』を明確にせよという。「正確に定義できて、形式的に表現できる何か」なのか、あるいは、「なんとなく心の中に浮かんでいる数学っぽいもの」か、ハッキリさせようとする。前者なら不完全性定理の支配下になるが、後者はそうならない。ただし、「数学っぽいもの」は、決して、「数学的に証明された」ものにはならないという。

 これは、わたしにとって、痛恥ずかしかった。「数学っぽいもの」をありがたがってカジっていた自分が見透かされたように感じたからだ。数学の世界で展開される何かに意味を見出し、リアルに当てはめては悦に入っていたことが暴露されたかのような気持ちになった。数式に美なり快なりを見出すのは勝手だが、そいつを偉そうに開陳してきた自分が情けない。トドメのようにミルカさんのこの一言が刺さる。

要するに、『数学的な議論と、数学論的な議論は分けるべき』なんだ
 なんとキツい御言葉。言葉尻や駄洒落を捉えて一般化した気分になること、性質の似た部分を拡大して同類化して一席ぶつこと、それらがいっぺんに否定されている。「(分けずに)分かった気になる」ことの不毛さを思い知らされた。自重するべ。

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『いま・ここ』そっくりの閉塞性・切迫感「訴訟」

訴訟 理由を聞かされず逮捕された主人公が、どんどん窮地に追い込まれる話。不条理なのだが、閉塞的でせっぱ詰まった状況だけは、いま、ここ、と妙に似ている。

 「epi の十年千冊。」でカフカ「審判」の新訳が出ていたことを知る(epiさん、ありがとうございます)。しかもタイトルは「審判」の重々しいイメージとは変わって「訴訟」となっている。

 「審判」を読んだときは、ちっとも"ついてこない"読書だった。カフカは難解なものだとハナから決めてかかり、すべてのエピソードに寓意を求め、裏読みを探す読書としてしまっていた。不条理でアイロニカルな「何か」を見つけることが、カフカを読むことだと信じていた。結果。なぜ?どうしてそうなるの?結局それはどうつながるの?と疑問符だらけの消化不良になった。

 それが、epiさんの書評で変わった。曰く、「カフカを読むときはそのわけのわからなさが楽しめて、ときどき笑い、ときどき薄気味悪さにぞっとできれば満足」――ここにいたく共感して、あらためて、構えずに、読んでみる。そしたらこれが、妙にしっくりくる読書になった。評論家が不条理だとか実存だとか御託をならべたおかげで、自分がいかにメガネをかけていたかが、よ~く分かった。

 もともとこれは、完成されていない小説だ。解説によると、カフカ自身がこう語っているらしい――「訴訟はけっして最高審まで進むことはないので、ある意味でこの小説は、そもそも完成できないものであり、無限につづくものだ」。

 そう、ある朝いきなり当局から、「訴えられている」という事実だけ聞かされる。逮捕状もないし、拘留もされない。主人公はさまざまな手を使って原因を特定したり、訴訟を回避しようとするが、その努力がどのような効果を生んでいるのか、ついに知らされることはない。あまりにもシュールなので、延々と悪夢を見ているような気分にさせる場面もある。実際、ドゥルーズ/ガタリが推測しているように、「終わり」の章、(ネタバレ反転表示)つまり主人公の処刑は、彼の見た夢となる可能性も考えられる

 なぜなら、現実という地と、非現実という図の反転がくりかえしなされているから。たとえば、主人公にとって訴訟は、日常生活という地に挿入された理不尽な図として、小さいもの・無視するべきものとして当初扱われていた。しかし、追い込まれるにしたがい、頭の大部分を占めるもの、業務まで支障をきたすものにまで成長する。地と図のネガポジ反転だ。

 あるいは、勤務先のオフィス(=日常)という地に挿入された、鞭打ち刑(=非現実)が図であったものが、接待先の大聖堂という地に挿入された、聖職者の正体はもはや図ですらない。「重要顧客の接待」という地は捨てられ、聖職者についていく。ここにも地と図の反転がある(わたしは、聖職者の現実性を疑う)。つまり、非現実が日常にとって代わる話なのだから、「終わり」の章の出来事を現実とみなさないという読みができる。

 もう一つ。聖職者のたとえ話「掟の門」について、自分なりの結論にたどり着くことができた。これは、「訴訟」を手にする前に、「アメリカ」「城」を読んでいたことがプラスに働いたんだと思う。「掟の門」とは、主人公が裁判所について勘違いをしていることを分からせるために、聖職者が出してきたお話(カフカ短編集にも独立してあるはず)。

 それは、こんな話――掟の前に門番が立っていた。そこへ男がやってきて、掟の中に入れてくれと頼んだ。だが門番は言った。まだ入れてやるわけにはいかんな。男はじっと考えてから「じゃ、後でなら入れてもらえるのかい」と尋ねると、門番は「そうだな、でもいまは駄目だ」という。

――門の中をのぞこうとする男に向かって、門番は笑って、そんなに気に入ったのなら、俺の制止を無視して入ってみるがいい、と挑発する。さらに、俺には力があると脅し、それでも自分は下っ端にすぎず、奥に行くほど番人の力が強いという。

――男は何年も待ち続け、待ち続けているうちに、この最初の門番こそ、掟に入る唯一の障害だと信じ込んでしまう。ついに男の寿命が尽きようとするとき、男は門番にこう伝える。「みんな、掟のところにやってくるはずなのに、どうして何年たっても、ここには、わたし以外、誰もやってこなかったんだ」

――門番は死にかかった男に聞こえるように、大声でどなる「ここでは、ほかの誰も入場を許されなかった。この入り口はお前専用だったからだ。さ、おれは行く。ここを閉めるぞ」

 この解釈について、主人公と聖職者の間で問答がなされる。それを読むうちに、わたしは、掟とは「城」であり「訴訟」であることに気づく。「城」や「訴訟」が未読なら、良心、という言葉に置き換えてもいい。ただ、良心、というと道徳的だとか誠実さといった意味が伴ってくるが、そういう道徳性を抜いた、規範的なもの。善悪やら道徳を超えたところで、自分を律しているものだと考えてほしい。「掟」とは、いわゆるルールだとか法といった外的なものではなく、自分は「これだけだ」と認める限界のようなものなのだ。

 たとえば、身体的な能力で喩えるならば、ジャンプで届く(だろうと自認する)高さや、ダッシュで間に合う距離感が、これにあたる。精神的なものだと、やっていい(と自分で思っている)ことの限界が、これにあたる。正当防衛・緊急避難だと(自分で)判断している行為がその例だ。そして、人は日常において、自分でやれると見積もった能力や、自分でやってもいいと判断した範囲で行動を選択する。

 しかし、理不尽な状況に放り込まれたら、どうする?「城」が呼びつけたにもかかわらず、中へ入れてもらえない状況や、「訴訟」されているにもかかわらず、その理由を教えてくれない状況になったら?当然、「やれる能力」や「やってもいい範囲」を拡張しようとするだろう。もし、自分の良心そのものを疑い、問いかけることをしなかったならば、ただただ待ち続け朽ち果てるだろう。

 あるいは、自分の限界を疑い、それを超えようとしなければ、その前で終わってしまっていただろう。しかし、カフカの描く主人公は、無為に待つようなことはしない。積極的に行動し、良心を、能力を、法を超えようとする。自分の外側に存在する、物理的な「門」を破ろうとする前に、まず、それをやってもいい(仕方がない)と自分の内側で律しているものを解除しなければならないのだ。あたしのココロ、解錠(アンロック)というやつ。

 ただし、キャラなりするのであれば、「いままでのわたし」から変わる必要がある。「城」であれば、測量士としての立場を、「訴訟」であれば銀行家としての地位から離れなければならない。だが、「何」に成るのだろうか?測量士や銀行家でない立場になるんだ。日奈森あむの「なりたいアタシ!」へのキャラチェンジとは違うのだ。自己否定による自己実現なのだから。

 理不尽な状況から脱するために解錠(アンロック)しようとしたのに、今度は解錠(アンロック)することによって、理不尽だーと思っていた立場(測量士や銀行家)がなくなってしまう。じゃぁもう理不尽じゃないじゃん。解錠(アンロック)そのものが条理(=地)を越えた不条理(=図)なのだから。地と図の反転は、ここでも見つかる。「城の中に入る」「訴訟を止めさせる」目的のために取った手段が、その目的の前提を取り消しているのだから。

 自分で自分の「立場をなくす」――それも、かなり後ろ向きの理由で。自分を「否定」することによってなされる自己実現(なんという矛盾!)。現在の○○の状況(○○にはお好きな言葉をどうぞ)と似合っており、独り、深夜、ほくそ笑む。

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ゲームで子育て「バーンアウト・パラダイス」

BurnoutParadise 「ゲーム脳の恐怖」などと、まるでB級ホラーみたいなタイトルで脅しかかる人がいる。しかし、もし「ゲーム漬け」になるとしたら、わが子ではなく、間違いなくわたし自身だろう。徹夜プレイというよりも、落ちるまで頑張るからね。俺、息子が高校生になったらKanonやらせるんだー(死亡フラグ)

 ところが、困ったことに息子はあんまりゲームをしたがらない。いや、遊ぶことは遊ぶんだが、ちょっと壁があるとすぐあきらめてしまう。失敗することに臆病になっている、という感じだ。ゲームなんだから、何度でもやり直せるんだよ!と口酸っぱくしても、「どうせパパは上手だし」と引っ込んでしまう。

 これではいかん!ということで、急遽「Burnout Paradise/バーンアウト・パラダイス」を購入する(ホントはわたしがしたかったのだ)。いや~これはリアルだわ。架空の街「パラダイス・シティ」を疾走するレースゲームなんだけど、爽快と熱狂のないまぜにさせられる。自由で激しく緻密に作られた世界を、風圧を感じさせるスピードで轟音を響かせる。HDMIにつないだら、あまりのリアルさにビビる。

 レースやスタント、看板やショートカット探したりするのがたまらん。人のクルマにぶつけて壊して→ゲットだぜという極悪さがたまらん(シャットダウンという)。コンクリ壁や橋げたに激突→大破→空を飛ぶスクラップがたまらん。もちろんオープニングのガンズは絶叫しながら走る。

 わたしが好きなのはレースだが、息子はロードレイジがお気に入り。要するに、「クルマで鬼ごっこ」であり、敵車にぶつけてシャットダウン(破壊)する数を競う。クラッシュがド派手で見事にハマる。

 ところが、やっぱり「壁」がある。敵車が速くて強かったり、目標シャットダウン数に届かなかったり、逆に敵にシャットダウンされてしまったり、ボコボコにされる。息子涙目。これはゲームなのだから、この壁を越えられる/越えられないは全て自分次第だ。それが分かっているからこそ、悔しさにプルプルしている。

 そこで、とーちゃんが一席ぶつわけ。曰く、現実は一発勝負的なところがあるが、ゲームはやり直せるし、くりかえせる。ゲームで何度も失敗して、「どうすれば上手くいくか」を調べて考えて試す。そして、できない→できるに変わるときが、いっとう楽しいんだよってね。見てみろ、ふつう時速300kmで激突したら、生きてられないよ。でもゲームだからできる。失敗しても、いいんだよ。

 学校であれ友人関係であれ、なんとなく、「失敗を許さない空気」があるような気がする。常勝を求めるのではなく、逸脱を恐れる気持ち。ルールやらキソクやらで、予め囲われた中で、のびのびとやらせたい、というのは親のゴーマンかもしれぬ。も少し大きくなったら、その縛りを破ろうとするだろうが、今はまだ気づいていない状態だ。

 だから、せめてゲームの中だけも、「失敗してもいいんだよ」ということに気づかせてあげたい。そして、失敗しながらも目標に近づく方法を模索することに、慣れてほしいなーと思いつつ。現実世界ではそいつは、試行錯誤と呼ばれており、かなり強力な方法なのだから。試行錯誤を楽しめるのなら、必ずゴールにたどり着けるのだから。リアルだったら100回死んでる、でもゲームだから100回クラッシュしても大丈夫なのだから。

 息子は分かったのか分からないのか、うなずいた後に取り組む。なぜ上手くいかなかったのかを、ルート、走り方、車種に分けて幾度か試す→程なくして成功する→ニッコリ。ほら、とーちゃんの言ったとおりだろ!

 とはいうものの、やっぱり馬鹿親だったようだ。先週、ジャスコの駐車場で強引な割り込みをかけてきたクルマに向かって、息子が一言つぶやく。

 「パパ、あれシャットダウンしちゃいなよ」

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戦場を直視する「私が見た戦争」

私が見た戦争 戦場を直視する一冊。

 戦争はカッコ付きの「ニュース」として報道される。どこそこで戦闘行為があったとか、どこかを空爆をしたとかしか伝えられない。でなければ誤爆で何人死んだとか難民が何万人出たとか。それは人数や棟数や地名といったデータとして咀嚼され、マスメディアを通じて"消費"される。

 しかし、DAYS JAPANや本書などのフォトメディアにより、戦闘行為の結果そのものや、空襲の様子、地雷による血漿を、直接見ることができる。そう、爆弾が人体に当たった、飛び散りぐあいまで分かる。死者一名とカウントされる"彼"のアタマやウデのパーツは、べろべろになった皮だけでつながっている。人間ぽく見えない"それ"をぶら下げている米兵は笑っている。本国に帰ったら良き夫・良き父なのだろうというキャプションが付く。米兵も人間ぽく見えない。何か別の、人型の生物のようだ。

 記憶が頼りなので心もとないが、わたしが子どものころは、もっと現場に近い戦争が報道されていたように思える。現代の、プレス担当の軍人に誘導されたジャーナリズム・ツアーではなく、銃口を向けられる側から撮った画像だ。石川文洋「私が見た戦争」は、そんな写真ばかりで埋め尽くされている。

    ベトナム
    ラオス
    カンボジア
    ボスニア・ヘルツェゴビナ
    ソマリア
    アフガニスタン

 緊張に満ちた現場のショットから、眼を背けたくなるような行為がなされた映像まで、戦争の犬たちが通り過ぎた跡を、"安全なニッポン"から眺めることができる。ほぼ年代順に並んでいるが、やっていることは変わらない。帝国同士がそれぞれの傀儡を戦わせるか、再植民地化プロセスそのものは、たくさんの血を流し、たくさんの骨を残す。

 面白いことに、時代を追うごとに被写体との距離がだんだん広がっていく。バスト・ショットが近景になり遠景になり、望遠になってゆく。ベトナム・ラオスは同じ標的の立場から撮り、ソマリア・アフガンになると、まるでサファリパークのバスから取ったような写真になる。これは撮影者の意思ではなく、それだけ報道統制がとれている証左だろう(裏返すと、ベトナム戦争はジャーナリストが文字どおり最前線にいる、最初で最後の現場だったのかもしれない)。

 海外の戦争を撮る一方で、著者は、「そのとき日本は何をしていたのか?」という問いに自ら応える――オキナワを写すことで。嘉手納を撮り、コザ市(沖縄市)を撮り、ひめゆりを撮る。「集団自決」の生き残りを撮り、サイパンのSuicide Cliff を撮り、「集団自決」という言葉がいかに欺瞞にあふれているかを突きつける。戦争を直視することは、反戦のメッセージにつながる。数字や地名などのデータに還元されない、ナマの感情に突き動かされる。

 最後の第十章には救われた。延々と人の愚かしさを見せ付けられるかと思ったら――世界の笑顔ばかりを集めた写真に囲まれる。第十章は「命(ぬち)どぅ宝」というタイトルが付けられており、著者はこう述べる。

ネガを整理していると笑顔の写真が意外に多いことに気がついた。笑顔の撮影が目的で旅をしていたのではなく、何気なくシャッターを押したら笑顔が写っていたという感じだった。戦場で悲しみの表情をたくさん見ていたので、笑顔に合うと嬉しくなって反射的にシャッターを押していたのかもしれない。
 数字ではない戦争を直視できる。同時に、"ニッポン"は戦争に触れているどころか、昔も今もずぶずぶになっていることも分かる。

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この本がスゴい2009

 今年もお世話になりました、すべて「あなた」のおかげ。

 スゴい本は多々あれど、独力で発掘できるはずもないので、スゴ本を読んだ「あなた」を探す。好きな本ばかりで食傷気味で、お山の蛙か、井の中の大将になったつもりのわたしにとって、「あなた」は良い刺激であり指針でありアドバイザーなんだ。

 そう、好きな本だけ読むのもいいし、本屋さんだけで事足れりとしてもいい、それでも読みきれないほど。そして、自分の周りに壁を築いて、ヒキコモるのもアリ(わたし自身がそうだった)。時折みかける独善に陥っている人を反面教師として、自らを戒める。ブンガク小説ばっかり読んで、世界を分かった気になっている人、科学リテラシーこそ全てで他はクズだとのまたう人、それぞれの得意分野では天狗だろうが、外から眺めていると、こっけいで仕方ない。

 そんな「わたし」にならないために、広く、深く、遠くまで「あなた」を探す。「あなた」のおかげで、こんなにスゴい本に出会ってきた(ありがとうございます)。

 この本がスゴい!2008
 この本がスゴい!2007
 この本がスゴい!2006
 この本がスゴい!2005
 この本がスゴい!2004

 このエントリは、2009年の探索結果。アク・ドク・クセのあるスゴい本を選んだ。ブック・ハンティングの一助になれば、嬉しい。そして、「それがスゴいなら、コレは?」と語りかけてくれると、もっと嬉しい。


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│□□□ このノンフィクションがスゴい!2009
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■ 「死ぬときに後悔すること25」 大津秀一

死ぬときに後悔すること25 余命、数週間。不自由な体、満足に歩くこともできない。日中も寝ている時間が多くなり、頭もうまくはたらかない ──そんな人生の最終章の人に向かって、こう問いかける。

   いま、後悔していることは、何ですか?

 「死ぬときに後悔すること25」の著者は、終末期における緩和医療に携わる医師。現場で見聞した、「余命いくばくもない状態で、後悔すること」をまとめたのが本書なのだ。得られた答えは、多様でいて一様だし、複雑なようで単純だったりする。

 もうすぐ自分が死ぬと分かっている人が、何を悔いているのか。これを知ることで、わたしの人生で同じ後悔をせずにすむのだろうか。考え考え読んで、いくつかの「先立つ後悔」を得ることができた。後悔は後からしかできないものだが、これはわたしにとって「先悔」となるものを、ランキング形式でご紹介。本書では25章に分かれているが、わたし流にベスト10に絞ってみた→「死ぬときに後悔すること」ベスト10

 このリストを作る際、自分の後悔も一緒に鑑みる。人は必ず死ぬし、わたしは人なので、わたしは必ず死ぬ。妻子やローンや背負うもので一杯いっぱいだったのが、スっと楽になれた。いずれ死ぬのだから、そのときに悔いのないようにね、ってね。陳腐なセリフが実感できると、具体的なリストができあがる。「ありがとう」はちゃんと目を見て言うとか、セックスはたっぷりじっくりしましょうね、とか。

 時折混ぜ込まれる著者の意見の"若さ"が目立つが、それぞれの「後悔」に向かいあうことで「自分の死」を意識し、ひいては「自分の生」を確認できる。


■ 「人生の短さについて」 セネカ

人生の短さについて セネカに言わせると、「人生は短い」とは大嘘だそうな。人生が短いと言うものは、与えられた時間の大半を無駄にしているにすぎないという。人の一生の短さを嘆くアリストテレスをひきあいに出して、「賢者にはとうてい似合わぬ」とバッサリ斬っている。

 では、どんな「無駄」をしているのかというと、これまた容赦ない。

   無意味な仕事にあくせくするもの
   酒や怠惰な生き方に溺れるもの
   上司にこびへつらって疲弊するもの
   誰かに評価されることに血道を上げるもの
   拝金主義に突き動かされ、儲けのために走り回るもの

 だれもが、他人の富を奪うことか、自分の財産にケチつけることに大忙しで、結局、自分の一生を無駄遣いしてしまっているそうな。セネカは、さまざまな実例を挙げながら、人生を自ら短くしている人の生態を描き出し、痛烈に批判している。わたしたちが実際に「生きる」といえるのは、人生のほんの一部にすぎず、残りの部分は人生ではなく、単なる「時間」だという。

 事業や仕事に打ち込む者を無駄だと断じ、芸術や趣味に生きるものを人生の浪費だとこきおろす。そのくせ、「悠々自適な人生」とは何か、なかなか示そうとしない。後に、「悠々自適=哲学」だと主張し、それ以外を無意味だと貶める。「自分の人生を自分のために使おう」というメッセージは共感できるが、そのためにあらゆる他者を批判するやりかたは、「最近の○○はなっとらん」と同じ臭いがするぞ。

 人生の原則本として扱ってもいいが、かなえられなかった人生へのレクイエムとして読むと、より魅力的になる。つまり、裏返しに読むと、かなえられなかった人生への、強烈な嫉妬心に満ちていることがわかる。すでに手遅れとなった人生への呪詛を、社会批判にすり替えた鎮魂歌なのかもしれない。そんな彼には、いささか使い古されているが、この言葉を贈ろう。

  ∧_∧
 ( ´∀`) オマエモナー
 (    )
 | |  |
 (__)_)


■ 「世界を変えた100日」 ニック・ヤップ

世界を変えた100日 歴史の瞬間に立ちあう。

 写真技術が誕生してから現代にいたるまでの、「世界の特別な一日」を100日分まとめて見る。

 ページをめくるたびに、声がもれる。いつか見た決定的瞬間から、見たことのない歴史へ行き来する。花に埋もれたダイアナ妃の写真、ずぶぬれで「壁」を壊す人々、真っ二つに折れ落ちるビル、巨大な打ち上げ花火と化したスペースシャトル。

 あるいは、いわゆる歴史上の人物の年齢を追いこしてしまっている自分に気づく。もみくちゃな歓迎を受けるカストロは33歳だし、モール地区を埋め尽くす群集を背負っているキング牧師は34歳だ。伝説化される人物を取り巻いている時代の空気が一緒に写しこまれている。彼等の偉大さとともに、それを支える時代の熱がふりかかってくる。

 知ってるはずなのに、既視感のない写真がある。チェルノブイリをテーマにしたものがそれだ。「石棺」がどーんと写っているんだろうなぁと思いきや、災厄から20年後に撮影された、ある少女のポートレイトだった。同時代の一人として、チェルノブイリの映像を見てきたつもりだが、この9歳の少女ほど衝撃を受けたものはなかった。彼女にとって、チェルノブイリはリアルタイムそのものなんだ。

 武器としての写真、プロパガンダの道具としての写真もある。士気高揚を目的とした合成写真を使ったソビエト当局や、俳優を使った「やらせ」写真を撮ったパリ・コミューンのプロパガンダ事例が面白い。死屍累々のゲティスバーグを見たら、南北戦争の大義に疑問を感じていたかもしれない。

 昔と歴史のつながり感を、リアルに感じる一冊。


■ 「サイエンス・インポッシブル」 ミチオ・カク

サイエンス・インポッシブル SFのタネがぎっしり詰まった、けれども最先端の科学に裏付けられた科学読本。あるいは逆で、最先端科学でもって、SFのハイパーテクノロジーを検証してみせる。比較できない面白さに、かなりのボリュームにもかかわらず、イッキに読まされる。

 本書を面白くしている視点は、「どこが不可能?」というところ。つまり、「それを不可能とみなしているのはどの技術上の問題なのか?」という課題に置き換えているのだ。「技術上の課題」にバラしてしまえば、あとはリソースやパトロンの話だったり、量産化に向けたボトルネックの話になる。

 その結果、現在では「不可能」と見なされていながら、数十年から数世紀以後には当たり前になっていておかしくないようなテクノロジーが「課題」つきで紹介されている。しかも、その不可能ぐあいにもレベルがあって、レベル1(数百年以内)、レベル2(数千年)、レベル3(科学体系の書き換え要)と分かれている。

 たとえば、不可視化(レベル1)。著者は「ハリー・ポッター」の透明マント(invisibility cloak)を例に、身につけた者を見えなくさせる技術について検証する。この研究成果の一端をWebで見かけたのだが、「後ろ側の映像を見せる出来のわるいスクリーン」といった印象だった。いかに平面的な「スクリーン」を三次元的に見せるかが課題だという。ハリポタなら万国共通かもしれないが、やはりこれは草薙少佐の「光学迷彩」のほうが「らしい」かと。このテクノロジーが充分に発達しても、「魔法」とは言わないだろうなぁ。

 技術の速度は、予想を上回る。しかも、かなりしばしば。奇想天外だが現実的なSFを読みつつ、そうした時代に備えるか。あるいは本書をタネとして、自分で書いてみるのもいいかも。ウェルズやクラークがすごいのは、その想像力もさることながら、科学的根拠がしっかりしているから。SFのタネ本としてはバイブル級の一冊になる。


■ 「服従の心理」 スタンレー・ミルグラム

服従の心理 他人を服従させるマジックワードは、「責任はとるから」。

 この一言で、善良な市民が信じられない残虐なことをする。良心の呵責に耐えきれなくなると、記憶の改変を行う。「自分はまちがってない、あいつが悪いからだ」と平気で人をおとしめる。信じられるか? わたしは信じられなかった … 最初は。

たとえば簡単なバイト。 実験室に入ると、いかにも研究者然とした人が指示してくる。あなたは先生の役で、一連のテストを行うんだ。で、生徒役の人がまちがえると、罰として、電気ショックをあたえるのがあなたの仕事だ。

 そして、何回もまちがえると、そのたびに電撃は強くなってゆき、最後には耐え難いほどの強いショックを与えることになる。生徒は叫び声をあげてやめてくれやめてくれと懇願する。あなたは心配そうに研究者を見やるが、彼は「あなたの仕事を続けてください、責任はわたしが取りますから」とキッパリ。

 実をいうと、この実験の被験者は先生役の「あなた」。生徒は役者で、電撃はウソ、叫び声は演技。実験のテーマは「権威 v.s. 個人」なんだ。つまり、良心に反するような行為を強いられたとき、権威に対して、どこまで服従し続けるのかを見るのが、この実験の真の目的なんだ。

 この結果は、あなたをかなり不愉快にさせるかもしれない。事実、この実験は、結果だけでなくプロセスの倫理的問題も含め、厳しい批判にさらされることとなった。

 なぜなら、著者スタンリー・ミルグラムは、この結果でもって、ナチスのアイヒマンがやったことは「悪の陳腐さ」にすぎないとみなしたから。ユダヤ人をせっせとガス室に送ったアイヒマンは、悪魔でもサディストでもなく、権威にからめとられたただの官僚にすぎないと主張する。単に彼は自分の役割を果たしていただけであって、民族や文化、人格に関係なく、「あなた」にも起こりうる――そうした「問題」を突きつけてくる。


■ 「人はなぜレイプするのか」 ランディ・ソーンヒル

1 レイプについて、進化生物学から答えている。

 挑発的なタイトルや表紙とは裏腹に、まじめに、科学的に解き明かす。そして、オブラートにも修辞学的にも包んでいない、ある種の人びとの逆鱗を掻きむしるような結論に達する。さらに、こんな本を出せば大騒ぎになることを織り込んで、反対者の「主張」のいちいちに反証をあげている。

 まず結論から。なぜ男はレイプし、女は苦痛を感じるのか?その理由は、養育の投資量に男女差があるからだという。

 つまりこうだ。女は妊娠、出産、授乳に多大な時間とエネルギーを費やさなければならない。だから男選びも慎重になる。レイプは父親を選べず、子育てを困難にするため、女に大きな苦痛をあたえることになる。いっぽう男は養育投資が少ないことから、繁殖のため、多数の相手に関心を向けることになる。そんな男のセクシュアリティの進化が、レイプの究極要因だという。要するに男は色を好み、女は選り好みするんだね。

 ただし、レイプそのものが適応なのかどうかについては、判断を保留している。レイプとは、男の性淘汰の中における、偶然の副産物だという考えと、ずばりレイプは適応であるという仮説の両論を併記している。性淘汰における繁殖に有利な形質として、レイプが選び取られていたなんて、考えるだにゾッとするのだが、それが生き物としての雄の姿なのだろうか。

 世界がどうあるべきかということよりも、現実がどうあるのかを理解するべきだ、という姿勢は共感できる。その反面、かなり言葉を選ばない直截な書きくちにタジタジとなる。科学的に、知的に真摯であろうという態度が伝わる分だけ、自らの感情的な反応がよく見えてくる。進化生物学からの提案はとてもロジカルなのだが、受け入れる感情は複雑。

 賛否が割れる一冊。読んだら、ただじゃすまなくなる。で、レビューを公開した結果、叩かれたり共感を得たり、さまざまな反響があった。その議論の展開先→「レイプは適応か」


■ 「利己的な遺伝子」 リチャード・ドーキンス

利己的な遺伝子 かなり誤解を招きやすい教養書。

 わたしの場合、タイトルと評判だけで読んだフリをしてきたが、その理解ですら間違っていることが分かった。ああ恥ずかしい。このエントリでは、わたしがどんな「誤読」をしてきたかを中心に、本書を紹介してみよう。

 まず、「遺伝子が運命を決定する」という誤解。「利己的な遺伝子」なる遺伝子がいて、わたしの行動をコントロールしていると考えていた。遺伝子は、わたしの表面上の特徴のみならず、わたしが取りうる行動や反応を支配しており、そこから逃れることはできない――などと思っていた。わたしが利己的なのは遺伝子のせいなんだ、というリクツ。

 次に、「われわれは遺伝子の乗り物(vehicle)にすぎない」ことから、虚無的な悲観論に染まりきったこと。「ニワトリは、卵がもう一つの卵を作るための手段」なのだから、われわれは生殖さえすればよろしい。極端に言うならば、生殖しないのであれば、その人生は意味がない、ということになってしまう。これはひどい。

 これらは、ドーキンスが「利己的な遺伝子」で主張していると考えていた。すべてわたしの「読んだフリ」のせい。著者は似たようなことを書いているが、意図は激しく違う。注釈やまえがきなどで誤解を解こうとしているものの、誤読を招きそうな「演出」をあちこちでしているのも事実だ。

 ドーキンスの主張をまとめると、「生物のあり方や行動様式を説明するとき、遺伝子の自己複製というレベルからだと整合的に理解できるよ」となる。どうしてそんな特徴をもつ生物がいるのかという疑問に対し、「そんな特徴をもっている奴が生き残ったからだ」と説明できる。この「そんな特徴を持っている" 奴 "」がクセモノで、論者によって異なる。

 自然淘汰の単位を「種」に求めたり、種内の「個体群、集団」と考えたり、あるいは、「個体」を単位とする人もいる。本書で一番おもしろいのは、この単位を「遺伝子」としたところで、あたかもこの「遺伝子」が意志を持ち、自分の遺伝子を最大化するように個体を操っているかのように演出している。1976年版のまえがきに、こうある。

この本はほぼサイエンス・フィクションのように読んでもらいたい。イマジネーションに訴えるように書かれているからである。けれどもこの本は、サイエンス・フィクションではない。それは科学である。われわれは生存機械――遺伝子という名の利己的な分子を保持すべく盲目的にプログラムされたロボット機械なのだ。
 怖いのはここ、太字はわたし。遺伝子に操作されたロボットとして、遺伝的決定を最終的なものと見なした瞬間、誤りに陥るのだという(p.417)。実際は逆で、後付けで行動を説明するために遺伝子が持ち出されているのだ。あたかもその行動が「決定」されたかのような書き方がなされているが、それ以外の行動をしたものが消えているだけ。統計的な「結果」にすぎないのを、予め「決定」しているかのように表現しているのだ。他にも、「遺伝子が組み込んだ」とか「遺伝子がプログラムした」という表現があちこちにあり、あたかも遺伝子が戦略的に計算をしているかのような印象を受ける。比喩として遺伝子を擬人化するのは、演出として上手いが、誤解を招くおそれも充分にある、両刃の剣なのだ。

 これらはキチンと書いてあることだが、タイトルからして誤解を招きやすい。分かっていたつもりになっていて、分かりやすさという罠にハマっていたことが分かる読書だった。


■ 「科学哲学の冒険」 戸田山和久

科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる一冊。

 science を絶対確実不変なものと代名していたわたしは、これを読んで恥ずかしくなる。「間違えることができる」のがサイエンスなんだ。極論すれば、科学って宗教の一種でしょ?誰も見たこと/聞いたこと/観測すらできないことを、信じる・信じないの話じゃないの?ホラ、高度に発達した科学は魔法と変わらないなんて言うし――そんな独善に陥っていたわたしに、良いお灸になった。

 もちろん原子は肉眼で見えないが、たしかに実在している。そしてその原子の本当の姿について、人類は知識を深めていっている――これは"常識"の範疇なんだろうが、この常識的な考え方をただ信じるだけでなくて、議論を通して正当化しようとする――これが、本書のテーマ「科学哲学」だ。

 …なのだが、どうも著者が主張したい「科学的実在論」の形勢は不利だ。科学は確かに知識を深め、役に立っているのだが、哲学の凶器「相対主義」のバッシングに耐えられそうもない。いわゆる、「お前がそう思うんならそうなんだろう お前ん中ではな」というやつ。では客観性のための実験はというと、「ヒュームの呪い」「グルーのパラドクス」「決定不全性」を出してきて、帰納に対する懐疑論という寝技に持ち込む。

 著者は一つ一つの批判に辛抱強く反論してゆくのだが、その反論にさらに反論が重ねられ、とてもスリリングな展開になっている。スルーすることもできるのに、わざわざ強力な反論を持ってくるので、「著者はマゾか?」と呟くこと幾度か。

 そうした積み重ねが、「科学とは何か?」という問いに対する答えの歴史になる。この議論を通じて、著者の熱いメッセージ「科学というものは世界を理解しようという試み」と、「そして実際に、世界を理解できる試みのように私には思える」が伝わってくる。


■ 「哲学、脳を揺さぶる」 河本英夫

哲学、脳を揺さぶる オートポイエーシスの練習問題。慣れ親しんだ世界が「揺さぶられる」感覚を訓練できるぞ。

 本屋で見かけたとき、タイトルどおり「哲学」のエリアに置いてあったけれど、中身はちがうような気が。むしろ自己啓発書として使いたい。

 著者曰く、「学習」と「発達」を区別せよという。視点や観点の選択肢が一つ増えることは、学習の成果で、それに伴い知識も増える。けれども、能力そのものの形成や、能力形成の仕方自身を習得するのでなければ、テクニックが一つ増えたにとどまるという。
。つまり、思考技術や、フレームワークの紹介ではなく、「あたらしい感覚・あたらしい経験を再獲得するやり方」が書いてあるんだ。「自転車の乗り方」が書いてあるのではなく、「自転車に乗れるようになるとき、何がはたらいているのか」が書いてあるんだ。

 感覚のエクササイズに対し、既に知っていることと関連付けたり、今の知識に加えようとするのは禁物。学習の「前」に、その意味をカッコに入れ、自分の経験そのものを「動かす」ことを訓練してゆく。意味によって経験をラベリングするのではなく、再・経験する(創・経験する)のだ。

 世界とのインタフェースを意識することで、自分の脳を「揺さぶって」みよう。


■ 「眼の冒険」 松田行正

眼の冒険 「眼の経験値」を上げるスゴ本。

いデザインを見ることで、眼が肥える。同時に素材に対し、「いいデザイン」であるとはどんな表現なのかを感じ取れるようになる。いままで「感性を磨く」という言葉で片付けられていた経験は、「本書を読む/視る」に置き換えてもいい。

 スーパーマンからマッドマックス、ピカソやエッシャー、ウォーホルといった実例がてんこ盛りで、絵画や写真、タイポグラフィやイラストから、デザインの手法・見方が紹介される。モノとカタチ、デザイナーはこれらをどのように見ているのかが、デザイナー自身の言葉で語られる。なじみ深い作品を入口として追いかけているうちに、いつしか自分の見方を変えてしまうぐらいの破壊力をもつ。

 たとえば、映画のストーリーを視覚化する試みがある。ストーリーを構成するキャラクターや出来事、関係性などが、アイコンや矢印、タイポグラフィや色で表現される。一種の逆転の発想だ。つまり、脚本を映像化したのが「映画」なのではなく、キャラやイベントはアイコンのようにドラッグ&ドロップ可能に思えてくる。

 その例として、「遊星からの物体X」のチャートがある。エイリアンが誰の人体を乗っ取っていくかがアイコン化されたグラフックで描かれるのだが、これを「アート」というよりも、動的ストーリーと呼びたい。ホラー映画が、アイコンの動きに応じて二転三転していく、いわば「ストーリー・シミュレーター」のように見えてくる。

 異なる回路がつながってゆき、自分の認識が開かれていく、デザイン・アイディアの思考展――そんな経験ができる。そう、「読む」というより「経験する」一冊。

 舌を肥やすように、眼を肥やすべし。


■ 「数学ガール」 結城浩

数学ガール もちろん高校んときを思い出して赤面しましたが何か?

 ゼータ関数、コンボリューション、テイラー展開――うむむ、さっぱり分からない。ここでいう「分かる」とは、同じ問題を自力で解けるかという意味で、だ。最初は「分かる」のだが、ひとつひとつ、イコールをたどるうち、数式の森にさまよいんでいく。

 それでも数学ガール(ズ)に手を引かれ、数式を追いかける喜びは感じたぞ。「分かる・分からない」というよりも、うつくしさを「感じる・感じない」というのに近い。のびた数式が「たたまれていく」快感や、「閉じた式」を探索するドキドキは、分かるより感じとった。

 分からないなりにも感じとれたのは、著者の力量だろう。手をとって、つれていってもらえる感覚や、知らない先から戻ってくる感覚が、たった数行の式を追うだけで味わえる。こんなの、小説や評論ではありえない。

 この感覚は、料理や音楽に近いかも。自分には出せないけれど、よさは分かる。ここに出てくる式がスラスラと分かる人を、尊敬する。それは、ジャズピアノが弾ける人にあこがれるのに、ちょっと似ている。

 読むよりも実際に「手を動かして」考えるのが愉しい一冊。


■ 「ファム・ファタル」 イ・ミョンオク

ファム・ファタル 女は美しい、女は恐ろしい。

 両者は固く結びついていることが分かる。女は美しいから恐ろしいのであり、恐ろしいから美しいのだ。恥も外聞もなく色を貪る吸精鬼、嫉妬の炎を宿した魔女、切断された男の首を抱えてイキ顔の淑女――ファム・ファタルとは、美しく、恐ろしい彼女たちを指す。

 本書はファム・ファタルのイメージを、「残酷」「神秘」「淫蕩」「魅惑」という4つのテーマに分類し、妖婦たちの諸相を名画や彫刻で紹介する。オールカラーで図版豊富なのが嬉しい。官能的な肉体に心を奪われると同時に、おぞましい姿にゾっとさせられる。あるいは、女の犠牲となった男の哀れな姿に同情する。エロチカル・アートは見るものの欲情をかき立て、記憶の奥に刷り込まれようとする。

 わたしを惹きつけるのは、あらわになった肌や乳房だけではない。サロメやユーディットの傍らにある生首から目が離れない。なぜ、「半裸の女+生首」なのだろうか?

 解説によると、サロメは自分をフった男の首を所望したという。盆に載せられた生首を掲げてふふふと笑う彼女は、輝くほどに美しい。あるいは、自分の体に溺れた男が眠っているすきに、その首を刈ってしまうユーディット。きらきらした目、上気した頬とひたい、首筋から胸元にかけてバラ色に染まった肌。セックスの跡ありありとした女体と、血にまみれた男の死体はよく似合う。

 殺された男の血と、妖婦たちの唇の朱のコントラストが美しい。真っ白な肌には血の朱がよく映える。上気した頬や満足げな様子は、性欲だけでなく食欲までも満たされたかのようだ。ところで、男の肉体はどこへいったのだろうか?ひょっとして…いやまさか…

 ひょっとするとセックスとは、男が「食べられる」行為なのかもしれない。したことを「食っちゃった」「いただいた」と表現する男がいるが、逆だ逆、食べられたのはキミの肉棒なのだ。男子の一部は草食系だが、女はすべて肉食系。男が密やかに抱いている、「食べられたい」欲求に気付かせてくれる一冊。あるいは女性なら、体の奥の"食欲"を刺激する(?)一冊。


■ 「パレスチナ」 ジョー・サッコ

 アメリカ人のジャーナリストから見た「パレスチナ」が迫る。

パレスチナ 本書を稀有なものにしているのは、「マンガ」なところ。画き手はジョー・サッコというマンガ家。フォト・ジャーナリストではなくコミック・ジャーナリスト、つまりマンガでパレスチナ問題に斬りこんでいるのだ。著者は1991年にヨルダン川西岸地区とガザ地区を訪れ、専ら占領地区のパレスチナ人にインタビューをする。そのときの感情、状況、境遇をつつみ隠さず、あまさず描きつくす。下手な物語化なぞせず、自分自身が登場し、一人称で語る。

 いわゆる「マンガで分かる」ものではないことに注意。「分かりやすさ」なんぞ、これっぽっちも無い。入り組んだ主義・信条・身の上話をそのまま画き下す。「アラブ対ユダヤ」あるいは「イスラーム対イスラエル」といった対立構図を見ることも可能だが、さらに相対化され、「そうした構図で見ている人」として画かれている。

 この相対化というか、取材対象への距離のとり方が面白い。作者は、どのインタビューにも顔をだし、肉親を殺された話や、収容所の生活、インティファーダの様子をふむふむと聞く。そのふむふむ顔の裏で独白する「思い」はなかなか辛らつだ。

 マンガという手段は、画き手の「耳目」というフィルターを通した現実を、画き手の「手」を通じて表現したもの。バイアスとデフォルメが二重にかかっていることを承知の上で、その「ゆがみ」を徹底して描く。兵士の銃床が奇妙にクローズアップして描かれ、ふりあげられた棍棒がグロテスクなまでに巨大に見える。ねじまげられた「現実」へ当惑した感覚が、ゆがんだコマ割りと不均衡なパースにより、いっそう増幅される。

 だれかの「正義」に相対するものは、「悪」などではなく、また別の正義なのか。姦通した娘に対するイスラム法の家族版があり、投石をしたか・しなかったかもしれない子どもに対するイスラエル軍版の正義、占領軍が従うべきジュネーヴ条約の指針、占領軍の撤退を呼びかける国連決議――ガザでは「正義」を選ぶことができるのだ。


■ 「読んでいない本について堂々と語る方法」 ピエール・バイヤール

読んでいない本について堂々と語る方法 自分の「読むこと」への揺さぶりがかかる、かなり貴重な一冊。疑似餌ばりのタイトルと、ハウツー本のフリをした体裁に、二重三重の罠が張り巡らされている。

 有名作品をダシにして、読書論、読者論、書物論を次々と展開しているが、本書自身が「本」という体裁をとっている限り、どんな読み方をしても自己言及の罠に陥る。接近して読むと、「本当に読んだといえるのか?」というジレンマに囚われ、逆に読み飛ばして(あるいは読まないまま)テキトーに語ると、正鵠を射ていたりする(←これすらも本書に書いてあるという皮肉!)。

 もちろん、こうした深読み、裏読みをせずに、ただ漫然と流してもいい。あるいは、ざっと目を通すことで「読んだという記憶」を作り上げることも可能だ。ただ、うっかり誉めたりすると、その「誉めかげん」によって、いかに本書を読んでいなかったがバレる仕掛けとなっている。本書を深くするのは、書き手よりも、むしろ読み手。どこに「斉天大聖」と記すか、注意しながら読んでみよう。あたりまえだと思っていた、自分の「読むこと」への常識が、疑わしく見えてくるかも。


■ 「詩学」 アリストテレス

詩学 古典というより教典。小説、シナリオなど、創作にかかわる人は必読。

 著者アリストテレスは、悲劇や叙事詩を念頭においているが、わたしはフィクション全般に読み替えた。フィクションを創造するにあたり、観客(読み手)に最も強力なインパクトを与え、感情を呼び起こすにはどうすればよいか?構成は?尺は?キャラクターは?描写は?本書には、「解」そのものがある。

 著者に言わせると、わたしたちヒトは、「再現」を好むのだという。この概念はミーメーシスといい、模倣とも再生とも翻訳される。現実そのものを見るのは不快で、その現実を模倣したもの――演劇だったり彫刻、絵画だったりする――を見るのを喜ぶのだという。彫刻や舞台を用いることで、これは「あの現実を模倣したのだ」とあれこれ考えたり語り合うことに、快楽をおぼえるのだ。

 創作のデザインパターンともいえる一冊。小説、シナリオなど、創作にかかわる人は、ぜひ読んでほしい。読み手に快楽を与える原則があるのだから。


■ 「マンガの創り方」 山本おさむ

マンガの創り方 現代の語り手のためのバイブル。

 ストーリーマンガ、特に短編を中心に解説しているが、マンガに限らない。小説やシナリオなど、あらゆるストーリーメーカーにとって有用だ。なぜなら、読者や観客といった「受け手」を楽しませるための秘訣があますところなく明かされているから。

 いわゆる、「マンガ入門」ではない。ネーム作ったら下書きしてペン入れして…といったイロハ本ではなく、「ストーリーの作り方」「ネームの作り方」に限定している。だから、本書の技術を習得することで、次のことが根源から分かる・使える。

   面白いストーリーとは何か、どうすれば「面白く」なるのか
   良い演出とは何か、どうやって身につければよいか
   素晴らしいクライマックスにするために、どうすればよいか

 しかも、徹底的に具体的だ。高橋留美子「Pの悲劇」と山本おさむ「UFOを見た日」の全頁を収録し、32ページの作品に200ページかけて解説する。マンガをブロック単位に分解し、そこで作者がどのように考え、どのようなテクニックを用いてマンガを面白くしていったかを解き明かす。おそらく、かなりの人たちが手さぐりでやってきた作業が、実践的な形を与えられている。

 自分が楽しんでいるとき、「なぜ面白いのか」「どこが良いと感じるのか」という視点は持たない。読み終えて振り返ってみても、その「面白さ」はうまく言語化できないもの。その面白さを論理的に種明かししてくれている。できあがったアウトプット(完成稿)から、そこへいたるネーム、箱書き、構成、ネタ逆算している。紆余曲折の過程で、効果的なテクニックを紹介し、どうやってそのマンガが面白くなっていったかをリコンパイルしてくれている。

 ストーリーテラー必携の一冊。


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│□□□ このビジネス書がスゴい!2009
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■ 「雷撃☆SSガール」 至道流星

雷撃SSガール めずらしいことに、まなめ王子がスゴ本認定していたので食指をのばす。ああ、これはスゴい。いい本を教えていただき、ありがとうございます >まなめ王子

 これは、ビジネス書。ツンデレ、妹、綾波キャラといったラノベ風味でコーティングされた、苦い苦い現実を飲ませる、れっきとしたビジネス書なので、ご注意を。

 中身を一言で語るなら、涼宮ハルヒが本気で世界征服を目指す話みたいな――とはいうものの、超次元的な存在ではなく、ごく普通の人間の女の子。といったら裏拳が飛んでくるかも。

 このヒロイン、超美麗+超優秀+超ツンデレのハタチの小娘。零細企業の経営者がキャバクラで出会う設定や、「この私が特別に来てあげたわ。光栄に思いなさい!」なんてセリフまわしで、あいたたたた…と呻いたものの、なかなかどうして、ビジネスアイディアてんこ盛りで、ラノベのお化粧をした生々しい金融経済のリアルを堪能できる。

 最初は電波系かと思いきや、「ねぇ、まさか、この世界が真っ当でだなんて思ってるの?」が質問ではなく、真っ正直な反語であることが明らかになる瞬間、心底びっくりする。彼女は、この異様な金融システムに"きわめて正しい方法で"勝負をかけて、勝ちつづける。

 著者は経営を生業としてきた方らしく、ヒロインに憑依しては自説を開陳する。そのいちいちに、激しく同意しながらザクザク読める。次の部分に著者のホンネがズバリ現れている。で、そいつをサラリといってのける彼女がカッコイイんだ。

「そうね。この人間社会、昔も今も、お金の大本が世界の頂点。ほとんどの大衆は、お金を創るのは政府の造幣局だと誤解してる。でも実際には、頂点に君臨する一握りの金融資本家がお金を創るのよ。もし人類が後1000年文明を維持することができたらな、後生の歴史教科書にはきっとこう記述されるはずだわ。『産業革命以降300年に渡って人類は、貨幣システムを媒介にした持続不可能な奴隷制度を採用していた』ってね」
太字はわたし。お金を創るのは、そう、金融システムの胴元であり、それは中央銀行ではないんだ。ミヒャエル・エンデを追いかけていたとき、「エンデの遺言」でマネーの正体を知り、目の前が真っ暗になったことがある。エンデは逃げろといい、このヒロインは利用せよ(ただしそのことを忘れるな)と主張する。

 では、なぜ、彼女(リンちゃんっていうんだ)はお金を儲けようとするのか?それはもちろん、お題にあるように、SS(世界征服/Sekai Seifuku)のためなんだが――その方法を知って三たび仰け反るに違いない。やり方が型破りだからではなく、じゅうぶん実現可能だから。ここではヒントすら言わないので、本書を読む人は、楽しみにして欲しい。


■ 「プレゼンテーションZen」 ガー・レイノルズ

プレゼンテーションZen 読むだけでプレゼンが上達する。いや、「見るだけ」で上手くなる。なぜなら、本書そのものが、優れたプレゼンテーションのお手本になっているから。

 わたしはデザイナーではない。しかし、同じテーマについて、「まずいデザイン」と「うまいデザイン」が並んでいるなら、見分けることができる。デザインの原則――「コントラスト」「反復」「整列」「近接」を使って、凡庸なシートが、ダイナミックで統一感をもったものに変わっていく過程は、"見た"瞬間に理解できる。

 いっぽうで、いわゆる「ハウツー本」に慣れている人はとまどうかもしれない。特定のフォーマットやプロセスを見開き一頁で解説するようなものではないから。著者は、「メソッドではなく、アプローチ」だという。進むべき道や方向、心構えを意味し、時には哲学まで示唆する。プレゼンの本なのに、(比喩的とはいえ)禅や武道まで言及しているのがユニークだ。

 もっと面白いことに、「まず、パソコンから離れろ」と助言する。12ポイントの箇条書きとデータに埋め尽くされた、悪夢のようなPowerPointは、全てをPCで行おうとする過ちの結果なんだ。

 スピーチに必要なのは、ストーリーテリング(物語り)。それは資料の作成よりもむしろ、ドキュメンタリー映画の技法と共通するする部分が多いという。そして、スライドはあなたの言葉をそのままなぞるものではなく、言葉を効果的に「演出」するものでなければならない。そのためには、紙とエンピツだけをもって、一人になって、「何が言いたいのか、なぜそれが重要なのか」を突き詰めろというのだ。

 要注意なのは、これは上級者向けの実践本。テーマが何で、語るべき何かを持っており、ある程度は場慣れした人向けなので、ご注意を。よりベーシックなやつなら、「プロフェッショナル・プレゼンテーション」をオススメしておく。


■ 「影響力の法則」「続・影響力の法則」 アラン・コーエン

影響力の法則続影響力の法則

 「正しい」根回しのやり方が分かる。

 「論理的に正しい」からといって、自分の提案が通るとは限らない。社内ルールに則っているからといって、その部門の協力を得られるとは限らない。社畜も長いことやっていると、「根回し」や「政治力」の勘所が分かってくる。仕事をまわす、ティッピングポイント。本書は、こうした暗黙知をノウハウのレベルまで噛み砕いている。

 米国はそんなの無用だろうと思ってたが、勝手な思い込みだったようだ。本書がバイブル扱いされているのは、必要性を痛感しているからだろう。動かないプロジェクト、死蔵される情報、コミュニケーション不全――ビジネス上の課題はどこも一緒ということか。

 そして、その対策も共通している。権力を使わずに人を動かす原則を一言で表すならば、「お返し」になる。何かイイことしてもらったら、お返しに何かを返したくなる気持ちこそが、肩書きや立場を離れて人を動かす動機となる。

 本書では、も少し難しい言葉で、「レシプロシティの原則」と呼んでいる。レシプロシティ(reciprocity)とは、互恵性、返報性と呼ばれる社会的通念のことで、人間社会に見られる「もらったら返さなければならない」というルールの源だそうな。さらに著者は、相手を動かし協力を引き出す戦略を、「カレンシーの交換」を定義づけ、カレンシー(currency)、すなわち通貨の交換になぞらえている。こちらが求める価値(カレンシー)を得るために、それに相当するカレンシーを用意して渡すのだ。

 なにをいまさら、と思うかもしれない。「困ったときはお互いさま」という間柄になるためには、日ごろから便宜してあげることが原則なのは自明だろう。あるいは、立場や肩書きを超えて協力しようとするときは、「アイツなら多少の無理を聞いてくれる」とか、「以前にお世話になったからなぁ」という気持ちになっている。日本では「もちつもたれつ」という言葉に代表される互恵関係が、非常に戦略的に、システマティックに語られる。

 その基本編が、「影響力の法則」になる。類書に「影響力の武器」があるが、これは人間関係の心理を基とした知見で、ひとり対ひとりの一般的なやつ。本書はビジネスに特化しており、グループ、部門といった一対多にあたる「影響力の兵器」というべきもの。 そして、応用編が「続・影響力の法則」だ。成功例・失敗例ともども使って、「カレンシーの交換」がどのように影響力を発揮しているか、生々しく紹介している。

 「権限がないのでできません」という前に読んでおきたい。


■ 「統計はこうしてウソをつく」 ジョエル・ベスト

 「嘘には三つある。普通の嘘と、真っ赤な嘘と、統計だ」

 マーク・トウェインのこの言葉に、笑うか納得したならば、本書は不要だ(でないなら、本書を読むと愕然とする)。メディア・リテラシーの基礎なので、このblogの読者なら既知のことばかりかと。統計がいかに恣意的になされ、曲解され、独り歩きしているかが丁寧に説明されている。

 たとえば、恣意的な統計については、銃の規制に関する2つのアンケートが紹介されている。銃規制活動家が調べた結果では、米国民の3/4以上が銃規制に賛成している。いっぽうで、全米ライフル協会の調査によると、米国民の3/4以上が銃規制に反対しているそうな。なぜか?違いは、質問の仕方に秘密がある。

  1. 銃規制賛成者「あなたは違法な銃販売を取り締まることに賛成ですか?」
  2. 銃規制反対者「誰が銃を販売してよく、誰が銃を所持してはいけないかを決める権限を警察に与える法律に賛成ですか、反対ですか?」
 当然のことながら、1. の「違法な銃販売」に対し、否定的な反応が得られ、結果「規制賛成」が大勢となるだろう。また、2. の「警察に権限」に対しても、否定的な回答となり、そのため「規制反対」という意見が大分を占めるに違いない。つまり、質問の言い回しにより、望みどおりの回答を得られるように「誘導」できるわけ。他にも、質問の順番により反応を制御する方法がある。「内閣支持率」「政党支持率」の"アンケート調査"で重宝されているね。

 不適切な一般化、都合のいい定義づけ、暗数を使った詐術、「数」と「率」を使い分ける法、アンケート・コントロールなど、統計数字を使ってこじつけるありとあらゆる詭弁が紹介される。情報の受け手は数字を事実と考えるかもしれないが、発信者が事実に意味を持たせるのだ。そしてその意味は、発信者のイデオロギーで決まってくる。

 ではどうすればいいのか?残念ながら万能薬はないそうな。せめて、統計を批判的に検討していけとアドバイスする。その観点として、次の問いかけをしてみろという。すなわち、「誰がこの統計をつくったのか?」、「この統計はなぜつくられたのか?」。

 つまり、統計作成者の役割に注意を向けろという。いわゆるポジショントークやね。立場が数字を作るのだから。そして、数字が説得の道具として用いることを意識して、作成者の「動機」や「意図」を理解するんだ。その上で、その数字が妥当かどうかを吟味しろという。なんらかの視点や意図を持っているというだけで、その統計の価値を割り引いて考えてはいけない。そもそも、統計とは「意図」を持っているものだから。

 数字は嘘をつかないが、嘘つきが数字を使うんだ。


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■ 「15×24」 新城カズマ

15×24その115×24その215×24その3

 やめられない+とまらない。読んでる自分を見失う。

 はじまりは、ある自殺サイトの心中の勧誘――「ひとりで死ぬのはこわくって、でもひとりで生きてるのはとってもつらいんです」これに応じた自殺志願者ジュンは、12月31日の東京を彷徨う。彼を止めようと東奔西走する級友ら13人と、発端の自殺相手、合計15人の24時間のすれ違いを描くノンストップ群像劇。

 ユニークなことに、全編これ会話で構成されている。対面だったり、メール越しだったり、ブログへのカキコだったり、ともすると独白だったりつぶやきだったり、とにかく、ありとあらゆるモノローグ、ダイアローグ、テトラローグ「だけ」で文章が奔る奔る。舞台は2005年なのだが、今ならニコニコ動画、youtube、twitter、セカイカメラなんでもござれだろうなぁ…

 節目ごとにその会話がなされた時間が挿入され、タイムリミット(=自殺予定時刻)への緊張感が否が応でも高まってくる。同時に、離れた地点での他の人物がどのように行動しているのかも、並列的に分かる仕掛けとなっている。まさに現在進行中の「事件」へ放り込まれる感覚。

 ダイアローグ「だけ」で構成された小説といえば、ニコルソン・ベイカー「もしもし」を思い出す。ダイヤルQ2(って今でもあるのかな)で初対面の男女がテレフォン・セックスに到るまでの会話を延々と続ける。読み手は現在進行中の対話に盗聴するような形で入り込む。こういうのは、対話体小説というらしい。

 あるいは、メールを手紙と置き換えると、書簡体小説という立派なジャンルがある。夢野久作「瓶詰の地獄」とかギンズブルグ「モンテ・フェルモの丘の家」あたりを思い出す。これは、手紙を「見せてもらっている」立場から読者は参加する。「15×24」は、これらを混交させたような作りとなっている。

 それだけじゃないんだ、「現在進行中の対話」の中に、「すべてが終わった後の回想」が、さらに混ざってくる。つまり、事件が全部解決(?)して、記者だか警察のインタビューに応えているような「会話」もある。「あのときはああだった」と過去形で語りだすんだ。その話し相手は登場人物によって異なるようだ――では、それは誰?

 インタビュー形式の小説というものがあるのであれば、スティーヴン・キング「キャリー」「ドロレス・クレイボーン」、あるいは宮部みゆき「理由」を思い出す。これらは全編インタビューに「応える」形で構成されている。悲劇は通り過ぎた後になって初めて、気づくもの。

 対話、つぶやき、メール、カキコミ、応答、回想、独白、筆談、そして絶叫。一切の注釈、解説などなく、すべてが「なりゆき」で転がっていく。最初は、「だれかの自殺を止める」ではじまった探索隊"ごっこ"が、別の現実の扉を開けてしまう。知りたくもない、知らないほうがよかった蓋を開けてしまうんだ。この「巻き込まれ感覚」はすごい。怖い。

 まだある、情報が「追加」されているんだ。つまり、登場人物たちが知りえない(知るはずのない)ネタが、テキストの外側のイベントで共有されている。例えば、link one の p.295 で、自殺願望少年ジュンが一日周遊券を買って首都圏を彷徨しだす。このことは読者とジュン本人しか知り得ないのだが、なぜか探索メンバーの一人が知っている。では、そいつが怪しいのかというと、そうでもない。彼女自身、伝聞の形で知ったのだから。

 では、ソースは?と考えてゆくと、「小説内の人物」と「読み手」と「裏切り者」がいることになる。別に小説だもん、おかしくないし。作家は神サマからただのナレーターまで、いくらでもどこまででも創造できるのだから――しかし、とそこで言いたい。全編会話で構成しようとしているのに、その縛りを自らぶち壊しにするか普通――?と考えると、一つの仮説が浮かび上がる――読み手のあずかり知らぬところで活動するメタ視点の"誰か"がいる。そしてその"誰か"は、テクストの外側からこの物語にかかわってきているのだと。

 たとえるならば、あなたは、チュンソフトの「街」をプレイしているとしよう。既読部分は黄色、未読部分は白とテクストの色が変わるから便利だ。だが、ある晩、続きをやってみると、読んだはずのない箇所が「黄色」に変わっているのだ。このゲームをプレイする人なんていないのに、勝手にお話を進めているのは誰?という話になる。そしてその人の「かかわり」も演出の一つだとしたら――と、仕掛けを探し出すと止まらなくなる。愉しい、超愉しいぞ、このポリフォーニックな小説。

 いい機会なので、3巻まで読んだ時点での「犯人当て」をしてみよう。ネタに絡むので、反転表示しておく。未読の方は、絶対にマウス反転させないように――犯人、つまり心中を装っている17(イチナナ)の正体は、温井川(妹)。自分の感情に自由な姉への確執から、姉を狙った心中偽装が真の目的かと。ジュンはそのトラップにかかっただけ。祖母の臨終に立ち会うため、ネットにアクセスできないことにより、心中時刻が延期されたんじゃぁないかな?かな?。心中場所は――そうだな、明治神宮の初詣の人ごみがいいんじゃない?――さて、この予想はどうなるか、年末が楽しみだー

 読み始めたら感染する、「15×24」はそんな読書。


■ 「軽蔑」 モラヴィア

軽蔑 オシドリ夫婦が壊れていく話。

 「よくあることじゃん、現実にも」という方には、次の点を強調しておこう。この小説は、男性側から一方的に見た、「オシドリ夫婦が壊れていく話」なんだ。インテリであり作家である夫が告白する形式なのだが、その回想描写が正確であればあるほど、心理分析が的確であればあるほど、疑わしく思えてくる。なにが?なにもかもが。

わたしたちは愛し合っていた。この物語の主題は、わたしが依然として妻を愛し、妻を無批判に受けいれていたときに、どのようにしてエミーリアがわたしの欠点を見出し、あるいは見出したと思いこみ、わたしを批判し、ついにはわたしを愛さなくなったかを語ることである。
 愛さなくなっただけでなく、夫のことを軽蔑し、静かな怒りまで抱くようになったという。夫にしてみれば、身に覚えもなく、やましいことも一切していない(と思っている)。なので、最初は戸惑い、次に怒り、ついには泣きつく。

 読み手は、「なぜ妻はわたしを愛さなくなったのか」という夫の繰り言に強制的に付き合わされることになる。夫が見過ごしてしまった言動の中にその原因を探す、いわば探偵役としてストーリーに入っていく。序盤から中ほどまでは、この探す楽しみがミステリのようで面白い。ただし、出だしから不吉な通低音が鳴り響いているので、カタストロフを覚悟しながらの読書になる。


■ 「ロリータ」 ウラジミール・ナボコフ

ロリータ ロリータという幻肢。

 かつて読んだはずなのだが、「見た」だけだった。ストーリーをなぞり、会話を拾い、あらすじと結末が言えるようになることを、「読む」と信じていたことが、痛いくらいわかった。

 今回の読書で発見したもの――それは、濃度と速度。

 「文章を味わう」といった自分でも説明できない言い方ではなく、物語や描写の濃度と速度そのものから快感を得る。アクセルを踏んでスピードがぐっとあがるときに感じる高揚感に近い。あるいは高速から下りた直後、視界が広くなると同時に、周囲が密集していることを感じるときにも似ている(スピード出していると、運転に関係しない情報は棄却される。逆に緩めると、世界が情報に満ち溢れていることに気づかされる)。

 ロリータを含めた過去を総括する形の記述上、描写の濃淡が記憶の密度と比例している。だから、物語的だった描写が一転し、ひとつひとつの事物を綿密にしだすとき、わたしは身構える。S.キングやJ.アーヴィングでおなじみだったが、ナボコフは転調の兆しとして、「色」を与えているところが一枚上手だ。

 喜劇を悲劇に転回するポイントで、突然、具体的な色をあたえられ、時系列で叙述される。「紫」に喪服の意味があることを知って読むのと知らないで読むのとでは、ダメージが違ってくるかもしれない。それくらい意味があるようだ。

 一方、ロード・ノヴェル編ともいうべき中盤は、見知らぬ地名や見慣れたモーテルの調度に散文的に目を投げかける「みだれぐあい」に気を配って読む。記憶が散漫になっている印象が、そのまま読み手の記憶と化す。ロリータとの過去と、本作に触れている読み手の今との往還が断ち切れる。自己正当化が見え隠れするペダンティックな書き口から、光景そのものが立ち上がってくる。このリズムと転調がきもちいい。

 気持ちよさを意識して読むことで、何層も気持ちよくなれる。味蕾に集中した食事や、嗅覚を利かせた飲酒といった「たとえ」で示してもいいが、この快楽の追求方法は、セックスそのものに近い。


■ 「灯台へ」 ヴァージニア・ウルフ

灯台へ 中毒性のある文にハマる。

 ヴァージニア・ウルフは初読だが、こんなに魅力的な文だったとは。既知の形式ながら、ここまで徹底しているのは初体験。文の妙味は分かってるつもりだったが、小説でここまでできるとは知らなかった。わたしの精進の足りなさを自覚するとともに、小説の拡張性を具体例でもって味わうことができた。

 まず、地の文と会話文の混交がいい。ほぼ全て、登場人物の心情の吐露と会話に埋め尽くされているのだが、明確に区切らないのが面白い。つまり、対話をカギカッコでくくったり、地の文に埋めたりするのだ。普通の小説でもこれはやるのだが、この作品ではより徹底している。つぶやきに埋め尽くされた小説世界に没入することができる。

 おかげで読み手は、人物の思考と発話を選り分けながら読む進めることを余儀なくされ、よりその人に「近い」視点でその場にいることができる。「人物~作者~読み手」の真ん中が完全に姿を消しているのだ。面倒がる方もいらっしゃるかもしれないが、わたしには濃密で心地いい。

 直・間接話法の混在だけではない。「誰それが何と言った」のような説明が意図的に省略されおり、いきおい、読み手は話題そのものから語り手を見つけ出さなければならない。ともすると「その発言は誰なのか?」を追いかけるために行きつ戻りつを強いられることになる。ストーリーを追う形式なら、これは苦痛でしかないが、これはストーリーらしきものはない。十年間を挟んだ、二つの夏の日を描いたもの。

 そこには回想があり、空想があり、願望があり、後悔がある。人の心の内と外、過去と現在と未来は継ぎ目なしにつながっていることが分かる。ストーリーに取り残される心配をせず、好きなだけ「つぶやき」に同調できる(大きく動くときには、専用の語り部を用意してくれている)。

 わたしが読んだのは鴻巣友季子の新訳なのだが、よく考えられている。語りのリズムやスタイル、語彙を通じて、人物の思考をなぞらせようとするウルフの筆致を読み取って、その人物に応じた書き分けをしている。巻末の解説では「人物の声帯模写ばかりか、一種の思考模写」と評しているが、上手く伝わってくる。訳者は、いったんは作者の側に立って「声」の出所を考え、再び読者の側にもどって「声」の音量・音質の微調整に細心の注意を払っている。

 そのおかげで、主体の多様性を何層にもわたって味わうことができた。キャラの数だけ現実がある、といったレベルに限定せず、人物を超えた「語り」の声も聞かされるのだ。三部構成の第二部「時はゆく」で巨きなうねりがあるのだが、映像でたとえるならハイスピード撮影をひと息に見るような感覚に陥るに違いない。

 同時に、世界は「つぶやき」に満ちていることに気づくはずだ。


■ 「オデュッセイア」 ホメロス

オデュッセイア1オデュッセイア2

 究極の、「ものがたり」。

 英雄オデュッセウスの冒険譚で、ご存知の方も多いかと。一つ目の巨人キュクロプス(サイクロプス)や、妖しい声で惑わすセイレーンといえば、ピンとくるだろう。トロイア戦争に出征し、活躍をしたのはいいのだが、帰還途中に部下を失い、船を失い、ただ一人で地中海世界を放浪し、十年かけて帰ってくるんだ。

 このオデュッセウス、勇猛果敢なばかりか、知恵と弁舌がはたらく策士でもある。あわやというところで、(運もあるが)機転を利かせてくぐりぬける様は痛快だ。一つ目のキュクロプスの目を潰すとき、自分の名前を「ウーティス(誰でもない)」だと騙す話なんて、様々な物語に翻案されている。魔法で豚の姿に変えられたり、冥界に降りて予言を聞いたり、前半の奇譚集はどこかで聞いた覚えのあるネタの宝庫だろう。

 オデュッセウスは、とにかく弁が立つ。物語るのが上手いんだ。相手の力量や真意をはかるため、自分の身分を騙るのが得意ときたもんだ。翻訳者の注釈のおかげで、読み手はそれが「嘘」だと分かるが、あまりの立て板に水っぷりに、地の文まで疑いたくなる。

 つまり、十年におよぶ冒険話も、ぜんぶホラ話なのではないかと。トロイア戦争に出たのはホントだけど、土地の女といい仲になり、帰るに帰れなくなってしまったのではないかと。海の女神カリュプソーが彼を気に入って、帰そうとしなかったとあるが、オデュッセウスの口からでまかせだとしたら?

 そうすると、俄然おもしろくなる。巨人退治や大渦潮の化け物の話は、旅先の土地にまつわる伝説をネタにでっちあげ、お土産の金銀財宝は海賊行為で集めたとしたら?十年も家をほったらかしていた理由を、この壮大な物語で言いわけしようとしたら?と仮定すると、「智謀に富むオデュッセウス」が「ずるく悪賢いオデュッセウス」に見えてくる。

 これは、究極の、「もの騙り」になのかもしれない。


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│□□□ この本がスゴい!2009
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■ 「モンテ・クリスト伯」 アレクサンドル・デュマ

モンテ・クリスト伯 この世で、いちばん、面白い小説と呼ばれているが、本当だ。

 筒井康隆が「ひとつだけ選ぶならコレ」とベタ誉めしてたので手を出す。ジュヴナイル向け「巌窟王」で読んだつもりになっていたが、今回、岩波赤版「モンテ・クリスト伯」でブッ飛んだ。

 ストーリーを一言であらわすなら、究極のメロドラマ。展開のうねりがスゴい、物語の解像度がスゴい、古典はまわりくどいという方はいらっしゃるかもしれないが、伏線の張りがスゴい。てかどれもこれも強烈な前フリだ。伏線の濃淡で物語の転び方がミエミエになるかもしれないが、凡百のミステリを蹴散らすぐらいの効きに唸れ。読み手のハートはがっちりつかまれて振り回されることを請合う。

 みなさん、スジはご存知だろうから省く。が、痛快な展開に喝采を送っているうちに、復讐の絶頂をまたぎ越えてしまったことに気づく。その向こう側に横たわる絶望の深淵を、主人公、モンテ・クリスト伯と一緒になって覗き込むの。そして、「生きるほうが辛い」というのは、どういう感情なのかを思い知る。読まずに、死んだら、もったいない。このblog読んでる全員にオススメ。読むときは、イッキ読みで。

 殿堂入りするようなスゴいやつは、やっぱりワールドワイドな古典だったり超弩級にメジャーな作品だったりする。それはそれで仕方ないとはいえ、その古典にアクセスできるのも、わたし独りの努力や才覚ではない。「○○が面白いなら△△なんて、どう?」というつながりを手繰っていって、たどり着く。きょうび、古典も沢山あるからね。

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 いわゆる文学全集だけ読んで、「めぼしいやつは読んだ」と、うそぶく度胸は無い。あるいは、小説ばっかり読んでるくせに「食わず嫌いはしてません」なんて言うほど顔面厚くない。あるいは、古典だけ大深度まで掘り読んで、他はカスだと放言する肝もない。ジャンルや垣根は、読み手が自分の内側に作り上げてしまうもの。自分で区切ってしまうのは、もったいないし、かなしい。

 わたし自身、そうした「読み」をしてきた。井の中の天狗になって、狭い世界で喜んで満足していた。そこが世界全部だと、本気で信じていた(痛たたたた、痛すぎる)。そんなわたしにとって、ときには優しく、あるいは嘲笑しながらオススメを知らせてくれる「あなた」は、たいへん貴重だ。親切にもコメント欄で教えてくれる方から、(本人は陰口のつもりで)某掲示板で叩いている人まで、参考になった。わたしがいかに読んでいないか、読むべきスゴ本がたくさんあるか、思い知らせてくれた「あなた」には、どんなに感謝してもし足りないくらい。

 自分がハマっていた場所が「狭い世界」だと気づくためには、居場所の「外側」に出なければならない。そのために、ここでレビューを書く。このblogは「外側」への扉であり、「あなた」を探すポータルになっているのだから。わたし一人が探せる本なんて、タカが知れてる。だから、あなたを探す。偏っていようとも、煽られようとも、「それがスゴいなら、コレなんてどう?」とオススメしてくれる、結節点ともなる「あなた」を。

 なぜなら、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから。

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 さて、ここからはオトナ向け、数寄屋のための「スゴ本2009」になる。明らかに成人限定のアダルトなヤツから、ノンケ無用のもの、電車の中では開けられないような作品を選りすぐってみた。ここから先は、18禁かつ覚悟完了の上で、どうぞ。

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