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体験を追走する「黄金探索者」

黄金探索者 喚起力がすばらしい。その場にいないとわからない感覚を、あたかも自身の肉体を通しているかのような読書にハマる。

 たとえば、台風が近づいてくるとき、じっとりと息苦しくなる。からだ全体が押し付けられたようになり、声がうまく出ない。物音の伝わり方がこもった感じになり、世界がまるで変わってしまう──そんな感覚に襲われたことがないだろうか。空や、風といった景色ではなく、もっと身体的な変化に驚かされることがある。

 これを、ル・クレジオは次のように書く。大型サイクロンが襲ってくる場面だ。

ぼくたちの体の一番奥深くに入ってくるあの静寂、悪い兆しと死を思わせるあの静寂こそ、忘れられないものだ。木々に鳥の姿はなく、虫もなく、モクマオウの枝を吹く風の音さえしない。静寂は物音よりも強く、物音を呑み込んでしまう。すべてが空ろになり消えてなくなる。ぼくたちはベランダでじっとしている。濡れた服のままでぼくはぶるぶる震えている。口を開くと、声は遠くのほうでふしぎな響きを立て、言葉はたちまち消えてしまう。
 終始こんな感じ。「静寂は物音よりも強く、物音を呑み込んでしまう」なんて、読んで初めて「あの感覚」だと気づかされる。西インド洋のちいさな島が舞台なのに、熱帯と戦場をさまよう黄金探索者の話なのに、なんだろうこの懐かしさ。

 「海賊の黄金を探す」という荒唐無稽な夢をリアルに生きる主人公に、共感よりも運命じみたものを感じる。モデルは著者の祖父だという。生涯を宝探しに費やした航跡をたどり、ル・クレジオは祖父と一緒に見た夢を小説の形で外化させる。ものすごくリアルな夢につき合わされているような感覚なのだが、主人公は必死だ。

 もうひとつ。黄金を探す主人公をよそに、読み手にとって美しい対称性がプレゼントされる。編者の池澤夏樹も、訳者の中地義和も言及していないので、わたしの妄想(?)と思ったのだが、せっかくだからこのblogで明かしてみよう。

 それはこうだ。物語の前半をなす主人公の生い立ちは、モーリシャス島が舞台。一方、海賊が宝を隠したとされているのは、ロドリゲス島になる。彼は、二つの島を行き来するため、ゼータ号で旅をするのだが、その航路がきれいにシンメトリーを成している。そして、物語の中盤で戦場に赴き、そこで地獄を見るのだが、その航路もまた対称的だ。さらに、最後の旅でふたたび訪れるルートも同様。

 お手元に本書があるなら、p.206の地図を開いてほしい。二つの島のそれぞれに重心があり、戦争をはさんだ線対称の軌跡を見出すだろう。それぞれの重心は、二つの島にいる女たちが抱いている。モーリシャス島の姉ローラであり、ロドリゲス島にはウーマがいる。「宝探し」や「召集」の名目で移動しつづけようとする主人公をひっぱる力が働く。表立って感情を出さない彼女たちが追い詰められ、吐露する瞬間に、この物語の対称性が浮かび上がってくる――これが、読者にとっての「宝」だ。

 では、主人公アレクシの目的は?黄金を見つけることができるのか?――もちろん物語は、彼にとっての宝を用意しているのだが、それは読んでのお楽しみ。ちなみに、(ネタバレ反転表示)池澤夏樹が不用意にウーマだとの出会いだと明かしているが、わたしはそれだけに限らないと考える。湾の形状と宝の目印、それに呼応する星座の対称性に気づき、宝の地図を完全に理解する瞬間がある。主人公とともに探索の旅を続けてきた読者は、その美しさにめまいを覚えるだろう。ここにも、シンメトリーが隠されていたのだ。

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