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本を探すのでなく、人を探すために「魅せるひとの極意」

魅せるひとの極意 愛読書から垣間見る一流の哲学。

 どんなに速く読めたって、本の数が多すぎる。どんなに目利きになったって、一人で選ぶにゃ限りがある。だからわたしは、本を探すのではなく、人を探す。わたしが知らないスゴ本は、きっと誰かが読んでいるのだから。

 自分に閉じた読書だと、ジャンルも深度も限られる。周りに壁を築き、足元を掘り、エゴという井の中に閉じこもる。似たような本で囲い込んだ、自分の世界の王様にならないように、「誰か」を探すのだ。本を探しても無駄、自分色を見つけようとするから。既に読んだ本を手がかりに、「それを読んだ人がオススメする本」を探すんだ。

 「魅せるひとの極意」は、そうした「人」を探すのにうってつけの一冊。

 一流のひとたちの愛読書を紹介することで、その人となりや「気づき」に気づかされる。「あの人がこんな本を!」という驚きから、「この本をあの人がねぇ…」という呟きまで楽しめる。たとえば、こんな、ラインナップ。


  蜷川幸雄(演出家)

    リア王(シェイクスピア)
    OUT(桐野夏生)
    照柿(高村薫)
    メメント・モリ(藤原新也)
    もう一つの国(ジェームズ・ボールドウィン)


  森村泰昌(美術家)

    変身(カフカ)
    カフカの衣装(マーク・アンダーソン)
    金閣寺(三島由紀夫)
    性的人間(大江健三郎)
    レディ・ジョーカー(高村薫)


  米原万理(作家)

    石の花(坂口尚)
    ユーゴスラヴィア 衝突する歴史と抗争する文明(岩田昌征)
    バルカンをフィールドワークすることばを訪ねて(中島由美)
    ユーゴスラヴィア現代史(柴宜弘)
    民族はなぜ殺しあうのか(マイケル・イグナティエフ)


  萩尾望都(漫画家)

    アダルトチルドレン・マザー(橘由子)
    子どもたちの復讐(本多勝一)
    訪問者(萩尾望都)
    残酷な神が支配する(萩尾望都)


  ひびのこづえ

    世界大博物図鑑(荒俣宏)
    The Pan Garden Plants Series(Roger Phillips)


  畠山直哉(写真家)

    生きている(佐内正史)
    嘔吐(サルトル)


  安野モヨコ(漫画家)

    人魚の嘆き 魔術師(谷崎潤一郎)
    刺青・秘密(谷崎潤一郎)
    間抜けの実在に関する文献(内田百ケン)
    異妖の怪談集(岡本綺堂)


  石川直樹(写真家)

    幻のアフリカ(ミシェル・レリス)
    闇の奥(コンラッド)
    デルスウ・ウザーラ(アルセーニエフ)
    この地球を受け継ぐ者へ(石川直樹)


 たとえば、蜷川幸雄の「リア王」論に触れてみる。自分の解釈のもつ普遍性を信じ、反対に、自分を通さない表現などタカが知れているとうそぶく。これは傲慢だ。しかし、この傲慢さ、生きていく傲慢さを、リア王と自分とで錯綜させながら読んでいくという。「読みながら『私』と重ね合わせていき、私自身が実感を持てると、一般的なシェイクスピアではなくて、『私のシェイクスピア』になっていきます」

 非常に強い読書の仕方だ。ややもすると取り込まれてしまいそうな小説に入り浸っているわたしには、ものすごく魅力的に見える。そこで、ぜんぜん知らなかったボールドウィンの「もう一つの国」を読んでみようかな、という気になるのだ。ちなみにこの本、井上靖が蜷川にオススメしたそうな。

 あるいは、森村泰昌が「変身」で気づいたことに、ハッとさせられる。「この話は普通の変身譚とは逆で、主人公が虫に変わった部分だけは映像がないのに、それ以外の部分はリアルに書かれているという妙な仕立てになっています」。これには気がつかなかった。さらに、虫になる過程が描かれてないことを、わざわざ指摘する。その具体的に書いていないからこそ、読む人がそれぞれ自分の好きなものに置き換えることが可能になる、というのだ。置換可能は意識していたが、そのカラクリには気づかなかった… 次に「変身」を読むときが楽しみ。

 ひびのこづえは、いい目をしているなー、と思ったのが、このくだり。絵であらわした世界植物図鑑について、

どの絵もいいんですよ、同じ花でも、外国のものもあるし、日本や中国のものもある。それぞれ表現が違うところも、リアルでゾクゾクしちゃいます。こういう多様性は、写真でははっきり見えません。人間の目は写真よりも正しいというか、必要なところを正しく見て、不必要なところをちょっと削ってくれるから、描かれた絵の方が自分で消化して別のものを作りやすいんです。
 太字化はわたし。以前、表現について考えたとき、経験すべて表現することは不可能で、フィルター(=人)が不可欠だという結論になった。このとき考えた表現は、ことばだったが、絵についても当てはまるね。彼女の仕事場は、「机」という、いっぷう変わった本で拝見したことがあるが、シンプルで機能的な作業場だったなぁ…

 あの人がこんな作品にハマってたなんて…でいちばん面白かったのが、安野モヨコ。「谷崎は昔の恋人、百閒は八年目の旦那」という告白はガッときたよ!でもだいぶイメージが違うような… ともあれ、岡本綺堂「水鬼」を漫画化したいそうな。普通の少女が、何かの拍子におかしくなって、人生までが狂っていくその瞬間が素晴らしいという。いいねぇ、予め小説のほうを読んでおこうかな、という気にさせられる。

 そして、昔の写真と、昔のブログの共通点に気づきをくれたのが、石川直樹。冒険家であり、写真家なのだが、「写真と日記の共通点」について語ってくれる。わたしは、日記をブログに置き換えて読んだ。

 「写真が面白いのは、無意識が写り込んでいるから」だという。ファインダーをのぞいて恣意的な判断でシャッターを切っているのに、その瞬間は意識していなかった「何か」が入っていたりする。その「何か」とは、偶然写りこんだ、撮り手の心情だという。いっぽう、日記にも同じものがにじみ出るという。何気なく書いた文章に、書き手の心情が紛れ込むことがある。その例として、レリス「幻のアフリカ」をオススメする。うーん、読みたくなる。

 また、「何を撮るか」ではなく「なぜそれを撮るか」、「何を書くか」ではなく、「なぜそれを書くのか」が重要だという。これを目にしたとき、おもわず「そうそう!」とつぶやいていた。つまりこうだ。わたしにとって、読むことも書くことも大切な行動なのだが、「何を」読むのか、「何を」書くのかは、二次的なものにすぎないと考えている。本を手にするとき、キーボードを前にしたとき、「なぜそれを読もうとするのか」、「どうして書くのか」を大切にしている。この問いを推し進めていくことは、究極の問い「わたしとは何か」に応えよう(≠答えよう)とすることだから。

 この主張は、ひっくり返すこともできるから面白い。ほら、「人は好きなものでできている」というではないか。書架を見れば人となりが分かるし、「何が君のしあわせ?何を見てよろこぶ?」というし。Tumblr の My Dashboard に並んだ煩悩は、わたしそのものと言える。だから、「何を」読むか/書くか/reblogるかが、わたしになるんだ… でもね、撮った映像、書いた記事、likeしたお尻画像には、かならず意味がある。その意味を探すきっかけが、「どうしてこのお尻画像をreblogしたんだろう?」という問いなんだッ!

 ハァハァ、ハァハァ…脱線したので戻す。

 Tumblr ならお尻画像を経由してotsuneをFollowするように、リア王を契機にして蜷川幸雄をチェックする。この場合、「お尻画像」や「リア王」が媒体になるんだ。好きなメディアを通じて、人を知る。人を介して、メディアを集積する。好きなものを集積することで「わたし」に化けるし、「わたし」に化かすためのキーフレーズは、「なぜコレなんだろう?」なんだ。

 本を探すのではなく、人を探す。そのための一冊。

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コメント

とりあえず青空文庫にあった岡本綺堂「水鬼」を読んでみようと思った。

投稿: そふ | 2009.07.17 11:36

>>そふさん

お、青空にあったんですね、知りませんでした。
わたしもチェックしてみます。

投稿: Dain | 2009.07.18 07:46

ちょっと、考えたことを書かせてもらいます。
既に読んだ本を手がかりに、「それを読んだ人がオススメする本」を探す。とあるんですが、それじゃあ結局、同じじゃないでしょうか。
逆に、その人がイマイチだと言った本や、自分の好きな本を全然評価しない人が薦める本を読んだほうが、自分の壁を壊すには手っ取り早いと思うんですが。think

投稿: | 2009.07.31 05:13

>>名無しさん@2009.07.31 05:13

   > その人がイマイチだと言った本や、自分の好きな本を全然評価しない人が
   > 薦める本を読んだほうが、自分の壁を壊すには手っ取り早い

たしかに、そういう見方もありますね。そして、もちろん、そのやり方も実践してきました――で、実際にやってきたから言えます。上記のやり方で壊した壁の向こう側へ、ホントに行ってみたいですかね?

本の世界は、わたしのちっぽけな世界と比べると、広大遠大無限大。スゴ本とは、あくまでも「わたしにとって」のすごい本のことを、お忘れなく。単に好奇心の範囲を拡張するだけなら、巨大書店を巡ったほうが、手っ取り早いですぞ。

投稿: Dain | 2009.08.01 09:20

まぁ、ちょっと極端なことを言ったかもしれません。

・・・小学生のころ、全く理解不能なやつらというのがクラスに何人かいたんですね。毎日のようにゲームセンターやエアガン売り場に入り浸って、万引きとカツアゲが日常なんじゃないかというようなやつとかですね。彼らは私の友達ではありましたが、私は彼らのことを心の底から理解しようとはしませんでしたし、する必要すらないと思っていました。だけど、最近になって思うことは、私が彼らを理解していなかったように、彼らもまた、私を理解していなかったに違いないということです。くだらないと見下されていたかもしれません。そして、そういう人の意見の中にこそ、自分を成長させるチャンスがあるのではないかということです。

本も同じで、そういう本を一冊読めば、それこそ自分の周辺の本、百冊分に匹敵すると思うのです。

投稿: | 2009.08.01 14:39

>>名無しさん@2009.08.01 14:39

他人を「心の底から理解」することは、かなり難しい、というよりも、不可能かと。わたし自身、嫁さんと同じものを見、同じものを食べてても、そう感じていますから。このテーマで最近のヒットは、モラヴィア「軽蔑」です。ただ、感情は伝染しやすいので、自分が相手を見下しているならば、同じように見られていたかもしれません。

そして、「本」という広範な意味の言葉を用いるのは危険なのですが、あえて言うならば、「自分の周辺の本、百冊分に匹敵する」ような、「そういう本」は存在しません。あらゆる本は、「つながり」の中で存在し、理解されます。たとえある本一冊でガラリと変わることがあっても、その本にたどりつくまでの蓄積があるからです。これについては、ピエール・バイヤールの「読んでいない本について堂々と語る方法」で見事にまとめられています。一定のストックがあれば、授業とは異質の知的興奮が得られるかもしれません。

投稿: Dain | 2009.08.02 17:22

>>名無し様へ

ちょっとだけ失礼しま~スゥ。
Dainさんは、もっともらしく語っておられますが、いわゆる「松岡正剛さん」が言われてきたことです。ひとも本もそれ単体では存在できない「つながり」をFeelできれば、おもしろい。

ん~例えば、アリストテレス「詩学」は、現代のあらゆるエンターテイメント「映画・テレビ番組(バラエティ番組も)アニメ・ディズニーetc」の根幹だったりします。

「詩学」は2千年以上前の書物だけど、皆この原則を踏襲しているとわかったとき、私自身、目からウロコがボロボロとおちました(笑)

「そりゃ~アリストテレスは偉いですわ、最初に記したもんね。でもね、それを当時のたくさんのギリシャ人が再々構築し、そして、絶えず実践し、また現代人が作り出すエンターテイメントが面白ければこそ、アリストテレス「詩学」が良いと判断されているにすぎない、と。だから、アリストテレスだけが偉いんじゃー無い、みんながエライ」という「つながり」を感じられれば、面白いかも。

ダチョウ倶楽部上島竜兵「竜兵会―僕たちいわばサラリーマンです」も夏目漱石「坊ちゃん」も、私の中では、同じ舞台にいますな(笑)。失礼しました。

投稿: シュークリーム | 2009.08.04 08:17

>>Dainさん、シュークリームさん

なるほど、「つながり」ですか・・・
そもそも私は、その「つながり」というもの自体が危ういと思っているのです。要するに、Aという本を読むにあたって、Bという本を読んでから読んだ人と、Cという本を読んでから読んだ人とでは、理解の仕方が全く異なるということですよね?それは、どちらか、あるいは両者が本の内容を誤解しているということではないでしょうか?「ああ、これは似たようなことがあの本にも書いてあったな。『つながり』のおかげで、早く深く理解できたな。」と、やってしまって良いのでしょうか?
私の考えとしては、「つながり」というものを完全に排除することは不可能ですが、出来るだけその影響を小さくしたほうが良いと思うのですが。

P.S.
ネットにあまり慣れていないため、名無しにしていましたが、よく考えたら失礼だなと思ったので名前をつけました。上の二つも私です。

投稿: Farinelli279 | 2009.08.07 12:06

>>Farinelli279さん

「つながり」という一般的な言葉を用いながら、その定義をしていないせいで、すれ違ったままの会話になりそうです。一定の読書経験を積んだ上での、暗黙の了解としてしまったのは、わたしの過ちです。ごめんなさい。

本は一冊の単品として存在しません。前著や、著者に影響を与えた本、同時代の類書、さらには著者を囲む文化・時代の影響の下で理解されます。さらに、その本を手に取る人の読書歴や環境、読み手の気分(これ重要)の中で理解されます。Farinelli279さんの例(?)はとても断片的で、「要するに」でつなげられませんよ。

この議論を続けるつもりであれば、「読んでいない本について堂々と語る方法」を読んでからのほうが、有意義になりそうですね。レビューは以下の通り、ご参考までに。この本では、「関係性の結び目」という名で用いられています。

「読んでいない本について堂々と語る方法」はスゴ本
http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2009/01/post-d4a1.html

あるいは、このテーマについてやさしめに噛み砕いているのは、石原千秋の評論でしょう。以下のエントリを参考に、読んでみてはいかがでしょうか。

未来形の読書術
http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2007/08/post_9bee.html

Kを殺したのは誰か? 先生を殺したのは誰か? 青年はどこにいるのか?
http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2005/10/k___71c2.html

投稿: Dain | 2009.08.08 16:26

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