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言語にとって美とはなにか

言語にとって美とはなにかI 「読んだ」というより「見た」というべき。理解できなかったところありすぎ。レベル違いすぎ。著者に挑発されながら読むというのは、かなりユニークな体験だね。

 古今集から戦後文学まで、詩・文学・劇・謡の表現を俎上にあつらえて、吉本隆明オリジナルの言語の文学論を創出する。言語の本質・韻律・表現・構成という見出しはあるものの、包括的に論じており、再読を強制している。タイトル「言語にとって美とは何か」に惹かれて読むのだが、激しく肩すかしを喰らう。

 もともとの動機は、わたしの中にあった。「ものを読んで美や快を得るのはなぜか?」という疑問を、ずっと追いかけてきた。そして、タイトルに限って言う限り、わたしの「気づき」と同じ結論だった。安心したような残念なような気持ちやね。わたしの気づきは古今の文人からヒントをもらっているものだから、彼の影響が第三者を経、わたしに届いていたのかもしれない。

言語にとって美とはなにかII では結論から。「言語にとって美とは何か」というと、「うつりかわり」になる。

 言語によって記された(語られた)主体、描写対象、そして読み手(受け手)のあいだを意識がうつりかわるとき、人はそこに美を見出す。動き方もさまざまある。一人称が作者と描写主体との間を転換したり、描写が心象をたりするとき、「転換元→転換先」や「喩え元→喩え先」の間で流れが発生する。その流れが「美」なのだ。

 上はわたしの咀嚼を経ている。なので、本書の焼き直しで説明すると、こうなる。

 たとえば、短歌を通じて「美」の秘密を明かす。情景描写と、描写している主体と、その詠み人、それぞれの主体は、必ずしも同一となっていない。音韻で切り詰められた描写のなかで、それぞれの関係の転換が、「言語の美にふみこむ道」(I巻p.111)だという。

 この短歌の解説が好例だ。

    人間の類を逐はれて今日を見る狙山が猿のむげなる清さ(明石海人)

 詠み人である明石海人は、ハンセン病患者だという。だから、人間の類を逐(お)われる主体は、詠み人自身だと解釈していたのだが…吉本の説明を聞くまで、「歌を詠む人=作中の主体(わたしという一人称)」だと考えていた…が、どうやら違うらしい。詠み人と、「人間の類を逐はれ」る人は別々の主体で、それぞれが猿を見ているそうな。作者と作中の「わたし」が異なり、読み進むにつれて移り変わっていた主体が二重になることが普遍的な感覚をあたえるのだそうな。短歌で省略されている「わたし」とは詠み人である、という固定観念が、ここで砕かれてしまった。

 たしかにそうかも。小説ではありがちな、作者と「わたし」の関係は、好きな作家ほどよく見えてくる。私小説どっぷりの読者なら、「作者=わたし」を自明とするか、あるいは作者の影を主人公に探そうとするだろう。簡単な方法は、「その描写は誰による?」「その地の文は誰のもの?」という自問だ。すると作中から、「作中の一人称」「作者」「両者の間の存在(神とか)」が出てくる。最初は作者だと思っていた描写が、作中の「わたし」であることに気づき、さらに第三者のものに切り替わっていく。その転換の軌跡に美を見出す――

――と、読み解いたのだが、実はこれ、ほんのさわりにすぎない。タイトルに惹かれて読んでしまったのだが、吉本が目指したものは、「美とはなにか」ではない。解説によると、「文学史上の諸作品を豊富に引用し具体的に分析しながら、言語の文学論そのものを統一主題としてとりだし、範例を創出する」のだそうな。

 そして、そのために「指示表出語」と「自己表出語」という独創的な言語論を駆使して、言語以前の時代から現代文学(大江あたり)までを一貫した方法論で説明しようとする。「指示表出語」とは「何のことなのか」を示し、「自己表出語」とは「何を伝えたいのか」を指す。「描写」と「吐露」やね。で、「指示表出語」をx軸、「自己表出語」をy軸としたxy座標を編み出し、あらゆる言語が表出するものは、このxy座標内で示せると言う。
Gengo
 で、この座標を用いて、古今のテクストを引きながら、文学における喩や転換、構成や形式を説明する。残念ながら、分からないところが多い。言わんとしていることはこうなんだろな、という感覚でしか理解できない。字は読んだが、理解にはほど遠いというやつ。

 本書は「難解」とされているが、難しいというよりも「分かりにくい」と形容する方がピッタリくる。難しい用語や表現を使っているのではなく、むしろ身近な言葉を援用して伝えようとする。そこは感覚的につかみやすい。だが、論理的に読み解こうとすると、彼が持ち出してくる用語が壁となってくる。

 日常語を新語として使うのはかまわないが、ズバリ定義しないので困る。つまり、「○○とは」で説明する文章がないのだ。反対に、「△△でないもの」といった表現を重ねたり、「△△が理解できるのであれば、自ずと了解できる」という、ネスカフェ・ゴールドブレンド方式で事足れりとする。「違いが分かるオトコ」というやつで、分かる人には分かるよね、というメソッドだ。そして、「○○とは」で始まる文章は、「□□のようなもの」と比喩で済ます。

 例えば、「像」という用語がある。本書では、一般的な「姿かたち」といった意味で使っていない。比喩的に「指示表出と自己表出の縫目・焦点」と表現するのだ。じゃぁその「縫目」「焦点」は何ぞやと問うても書いていない。その代わり、I巻p.102にこうある。

とはなにかが、本質的にわからないとしても、それが対象となった概念とも対象となった知覚ともちがっているという理解さえあれば、言語の指示表出と自己表出の交錯した縫目にうみだされることは、了解できるはずだ。
 分からん。分かる人にはわかるのだろうか?どこにも説明されていないが、先のxy軸に描かれる線上の一点を、便宜上「像」と呼んでいるのかと勝手に了解しておく。

 反対に、自説を強化するために引用してある、カントの「判断力批判」の方が分かりやすい。カントを「古ぼけた美の哲学」と斬っているから余計笑える。吉本のいう「像」を古典的に説明するものとして、カントの「想像力」を、こう援用する(I巻p.103)。

(想像力とは)形像を形像の上に重ね合わせて、数多くの同種類の形像の合致からして、共通の尺度たるべき平均的なるものを作り出すこともできるのである。
 カントは提案する、「1000人の男性」を考えてみようってね。一人一人、背格好は違えども、それぞれの姿を重ね合わせていくと、平均的な身長、肩幅、体つきといったものが浮かんでくる。そいつをカントは「想像力」といい、吉本は「像」と呼んでいるのだ。カントの喩えの方が分かりやすいなんてどんだけーとうなだれる。

 まだある。I巻の64ページから始まって、吉本が独自で再定義した「意味」「価値」「像」の説明が延々となされるのだが、40ページをすぎてようやく、なんのためにそんな説明をしているのかが明かされる。I巻p.108にこうある。

ここでいまはじめてぶつかっているのは、これらの文章を言語の表現としてよむとは、どういうことを意味するのかということだ。それをやりたいために、言語の意味価値の概念を取り上げてきた。
そう、読者は延々"無"定義の新語に悩まされた挙句、いったい何のためにこんな話につきあっているのだろうか分からなくなってくる。そこでようやく、議論の目的が示されるのだ。たまらん、相当サドな読み手でないとつきあいきれん。

 ツッコミどころもある。II巻第VII章で、「自己表出としての像的な喩をならべておいて作品の総体がつくりあげられる例を作者じしんがあかしたもの」として、清岡卓行を引用する(II巻p.284)。

ぼくの頭の中では、次第に、次のような方程式が育って来ました。もちろん、この方程式というのは、今、便宜的な比喩として書いているわけで、とにかく、そのような図式が生じて来たということです。
   ax + bx + cs + dx + … = 0
この場合、xとはある生きた衝動ですから、それはゼロではありません。従って、a+b+c+d+…=0となるように、具体的なa,b,c,d,…を発見することが、ぼくの頭脳の中で、長い間、しかし断続的に、繰り返されていた仕事です(清岡卓行「デッサンから感性まで」)。
そして吉本は「これらの喩の意味は、a=b=c=d=…であるようなひとつの実体だといっていい」と断言する。xはゼロではなく、従って、a+b+c+d+…=0であるならば、a=b=c=d=…はありえない。ただし、a,b,c,d,…が全てゼロであれば、吉本の主張は成立する――はずなのだが、ホントに「a,b,c,d,…が全てゼロ」なの?と言いたくなる。もちろんそんなはずはなく、a,b,c,d はそれぞれ作者が見た・イメージした具体的な体験なり設定を描いており、ゼロではない。ゼロはゼロだというトートロジーに捻じ込むつもりもなさそうだし、比喩にツッコむのは無粋かもしれないが、論理が破綻しているぞ。

 もちろんわたしの「読み」が貧弱なため、重大な読み落とし・読み違いをしている可能性はある、おおいにある――のだが、それでも、愚者の謗りを喰らうことを承知で述べてみた。

 ただし、戦闘的文章としてとても参考になる。折々で当時の論者を罵倒するのだが、これは著者のクセなのだろうか。誰かの評論を引いてきては、幼稚だとか無理解だと断ずる。ブンガクの甲論乙駁には興味が無いが、むやみに噛みついている。この「噛みつき」も一種のパフォーマンスだとしたら、彼は一流の芸人だろう。批判の根拠が提示されないので、彼を「信じる」ほか進める手立てがない(疑うと立ち止まってしまうから)。

 文で挑発するならば、見習うべきところは沢山ある。そして、吉本がこれをできたのは、膨大な「読み」に支えられた知見を備えていたからだろう。下地が無い奴がこれをやると、ただの「偉大なる厨二病」で終わってしまうからね。例えば、こんなケンカ腰。

現在でも、一連の無能な理念は、文学作品をまえにして価値に感染せずに、商品性や政策に感染する。そしてこの次元でわたしたちが主張できるただひとつのことは、きみたちの好む作品の存在を存在するものとして認めるから、わたしたちの好む作品の存在も、きみたちは存在として認めねばならぬ、ということだけだ。
 そして、注意しなければならないのは、その影響力。彼にカブれると、ネスカフェ・ゴールドブレンド方式で相手を「分かってない」「読めてない」と馬鹿呼ばわりするようになる。原稿用紙やキーボードの上でだけの夜郎自大はネットにいるし、わたしもそんな気がある。反面教師とするべ。

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コメント

待ちに待っておりました。まだ「小説作法ABC」が読み終わっていないので、Dainさんの解説をもって本書の再読はまだ先になりますが、それはそれで楽しみです。
ついでといってはなんですが、Dainさんの勢いで「共同幻想論」「心的現象論序説」もいつか読んでみてはいただけないですか。(すいません、お願いばかりで)

投稿: ぺーすケ | 2009.06.10 16:50

>>ぺーすケさん

記事の中でも告白したとおり、わたしには「読め」たとはいえません。せいぜい「見」た、というべきでしょう。本書の挑発に乗るのはたやすいです。むしろ、俺様流儀に物言いをつけたいぐらい。しかし、論争は不毛です。文学論争したところで、何も生み出さないのですから。

著者の思考を追いかけている自分とは別に、"So what?"を連発しているわたしがいました。だから何?どういう「いいこと」があるの?を先回りしながら読んだのです。結果→本書が「分かった」ところで、得るものはありません。わたしのレベルが足りないのでしょうね。

投稿: Dain | 2009.06.10 22:00

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