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持った本が重くなる「重力のデザイン」

重力のデザイン 本を読むという行為を、"デザイン"の視点から分析する。そこから、デザインの本質は「重力」の演出にあることを論証する。

 あまりに無意識にやっていたことを、あらためて指摘されることで、あッと気づかされたのが、「ページ」と「レイアウト」のメッセージ性(の消失)について。

 つまりこうだ。本を読む行為は、ふるまいからすると、ページをめくる行為の累積になる。しかし、読み手の意識からは「ページをめくったこと」は消失しているという。そこに改ページという切断があり、それを見ているにもかかわらず、「ないもの」として扱われる。

 同様に、版面をページのどこに置き、どう区切るか、という問題もある。たとえば、9ポイント43文字×17行からなる文字の塊。これをページ内で下げれば、文芸風に変貌するし、上げれば評論のにおいが立つ。たった3ミリのちがいでページの風景がガラリと変わってくるのは、レイアウトがもたらす重力だろう。

 そして、ページやレイアウトからの演出にもかかわらず、読んでいるときは、「ないもの」として扱われる。この重さを感じながら、無視している。あたかも、地球の重力に抗しながら、無視してふるまうように。

 さらに、比喩的ではなく、文字どおり、「文字」そのものも重力に支配されている。文字には上下があり、左右がある。そして、著者に言わせると、本という「箱」は上下方向に立っていなければならないという。本は、塔や石碑のように、あるいは「2001年宇宙の旅」のモノリスのごとく、地表に垂直に突き刺さっているべきだという。

 しかし、本が読まれるときの面は、様々にある。机に平たく置いたり、寝転んでさかさまになったり、斜めになったり、現実としての書物は自在に動く。重力とともにある人が本を読むとき、人の重力感と版面の上下方向は、ほとんど一致していないのだ。そして、本のなかの重力と、読み手が受けている重力は、それぞれ存在しているにも関わらず、「ないもの」として了承される。

 同じことが、写真についても語ることができる。「めくること」という暗黙の了解は、写真の画像の重力と、それをめくっている手が受けている重力を完全に無視しているから、成り立つ。写真を見ている人は、「画像のなかの重力」と「画像という面の重力」を同時に見ることができない。どちらかを見つめれば、片方が消える、地と図の面が入れ替わるようだ。同体でありながら片側しか姿をあらわさないことで、「平面を繰る」という官能を、本と写真は共有しているという。

 さらに、荒木経惟や森山大道の写真集を分析することで、「写真のなかの重力」を感じ取る。レイアウトやDTP、電子写植の現場からの検証を経て、ユニークな結論に達している。曰く、「本とは、テクストを世界から隔離させつつ、世界へと再着陸させるための装置なのではないか。書物が着地しているからこそ、読者はテクスト空間にあらためて入っていける」というのだ。

 そして、ページや写真という平面は、「表現された重力」を湛える場で、メディアとは、「表現された重力」を享受させる回路なのだという結論に到達する。わたしが日常世界から受ける重力から隔離されつつ接触する面が、本のページなのだ。

 これまで、本からは磁力(魅力?)のようなものを感じ取っていたが、ページがもつ「重力」まで意識できる。フラット化されたネットの文字列と比較して、パッケージ化された本の「重力感」を感じ取る。物質的な重みと、ページ内に保持される重みと。

 読み終えると、本書が急に重く感じられるようになる。発見に満ちた一冊。

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