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残酷な妖女のテーゼ「ファム・ファタル」

ファム・ファタル 女は美しい、女は恐ろしい。

 両者は固く結びついていることが分かる。女は美しいから恐ろしいのであり、恐ろしいから美しいのだ。恥も外聞もなく色を貪る吸精鬼、嫉妬の炎を宿した魔女、切断された男の首を抱えてイキ顔の淑女――ファム・ファタルとは、美しく、恐ろしい彼女たちを指す。

 本書はファム・ファタルのイメージを、「残酷」「神秘」「淫蕩」「魅惑」という4つのテーマに分類し、妖婦たちの諸相を名画や彫刻で紹介する。オールカラーで図版豊富なのが嬉しい。官能的な肉体に心を奪われると同時に、おぞましい姿にゾっとさせられる。あるいは、女の犠牲となった男の哀れな姿に同情する。エロチカル・アートは見るものの欲情をかき立て、記憶の奥に刷り込まれようとする。

  1. 残酷 サロメ/メディア/スフィンクス/メドゥーサ/ユーディット
  2. 神秘 イヴ/モナリザ/キルケ/パンドラ/セイレン/ロクセラーナ/クレオパトラ/ジョセフィーヌ/ロリータ
  3. 淫蕩 マリリン・モンロー/オンファーレ/デリラ/カルメン/ナナ/メッサリナ/リリス/バド・シェバ
  4. 魅惑 ヘレネ/ヴィーナス/フィリス/フリュネ/レカミエ/サバティエ/ハミルトン夫人
 わたしを惹きつけるのは、あらわになった肌や乳房だけではない。サロメやユーディットの傍らにある生首から目が離れない。なぜ、「半裸の女+生首」なのだろうか?

 解説によると、サロメは自分をフった男の首を所望したという。盆に載せられた生首を掲げてふふふと笑う彼女は、輝くほどに美しい。あるいは、自分の体に溺れた男が眠っているすきに、その首を刈ってしまうユーディット。きらきらした目、上気した頬とひたい、首筋から胸元にかけてバラ色に染まった肌。セックスの跡ありありとした女体と、血にまみれた男の死体はよく似合う。

 あるいは、神の警告をスルーする肝の据わったイヴがいい。傍らのアダムは陰部を隠したまま萎縮している一方、貪欲な目で果実を見つめるイヴ。下腹部が妙に膨らんでいるのはゴシック・ヌードの典型なのだろうか、それとも妊娠を暗示しているのだろうか、興味は尽きない。

 さらに、アリストテレスに跨ってムチ打つフィリスがすごい。アリストテレスは女性蔑視論者だったそうな。「あらゆる動物の世界を見よ、オスはメスより大きく、美しく、敏捷だ。人間もこれに変わるところはない」などと性差別的な発言を繰り返す哲人が、裸の彼女の前ではなす術もない。女を蔑視しながらも女から離れることができない男の偽善と二重性が暴かれている。

 また、メデューサの論考が面白い(髪が蛇で正視したら石化するやつね)。女のアソコを見たい欲望と、見ること(タブー)への恐怖がメデューサ神話に内在しているそうな。欲望と禁止を象徴しているのが、メデューサの首になる。フロイトじみた解釈だが、さまざまな「メデューサの首」を通じて、もじゃもじゃと乱れた蛇は陰毛で、「見てはいけない顔」が陰部であるメタファーが効いてくる。

 殺された男の血と、妖婦たちの唇の朱のコントラストが美しい。真っ白な肌には血の朱がよく似合う。上気した頬や満足げな様子は、性欲だけでなく食欲までも満たされたかのようだ。ところで、男の肉体はどこへいったのだろうか?ひょっとして…いやまさか…

 ひょっとするとセックスとは、男が「食べられる」行為なのかもしれない。したことを「食っちゃった」「いただいた」と表現する男がいるが、逆だ逆、食べられたのはキミの肉棒なのだ。男子の一部は草食系だが、女はすべて肉食系。男が密やかに抱いている、「食べられたい」欲求に気付かせてくれる一冊。あるいは女性なら、体の奥の"食欲"を刺激する(?)一冊。

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詐欺師の手引書、あるいは自衛のために「統計はこうしてウソをつく」

統計はこうしてウソをつく 「嘘には三つある。普通の嘘と、真っ赤な嘘と、統計だ」

 マーク・トウェインのこの言葉に、笑うか納得したならば、本書は不要だ(でないなら、本書を読むと愕然とする)。メディア・リテラシーの基礎なので、このblogの読者なら既知のことばかりかと。統計がいかに恣意的になされ、曲解され、独り歩きしているかが丁寧に説明されている。

 たとえば、恣意的な統計については、銃の規制に関する2つのアンケートが紹介されている。銃規制活動家が調べた結果では、米国民の3/4以上が銃規制に賛成している。いっぽうで、全米ライフル協会の調査によると、米国民の3/4以上が銃規制に反対しているそうな。なぜか?違いは、質問の仕方に秘密がある。

  1. 銃規制賛成者「あなたは違法な銃販売を取り締まることに賛成ですか?」
  2. 銃規制反対者「誰が銃を販売してよく、誰が銃を所持してはいけないかを決める権限を警察に与える法律に賛成ですか、反対ですか?」
 当然のことながら、1. の「違法な銃販売」に対し、否定的な反応が得られ、結果「規制賛成」が大勢となるだろう。また、2. の「警察に権限」に対しても、否定的な回答となり、そのため「規制反対」という意見が大分を占めるに違いない。つまり、質問の言い回し(wording)により、望みどおりの回答を得られるように「誘導」できるわけだ。他にも、質問の順番により反応を制御する方法がある。「内閣支持率」「政党支持率」の"アンケート調査"で重宝されているね。

 あるいは、事例を定義の代わりに使うテクニックが興味深い。これにより、わたしたちの認識を簡単に歪めることができるそうな。テレビの報道番組で、ある子どもが親に撲殺された事件を流してから、「これは児童虐待の一例です」と説明する。センセーショナルな"演出"をするのは、そのほうが視聴率を稼げるからだ。劇的で、不安をかきたてるような実例をかかげ、「この問題はこれほど深刻だ」と煽るわけ。

 その結果、視聴者は「子どもが殴り殺される」ような最悪の事例を典型的なものと見なし、問題を極端な形で捉えてしまうことになる。児童虐待で子どもが殴り殺されるケースは少なく、むしろ、ネグレクト(養育拒否や放置)のほうがはるかに多い。著者はそこに注意を向ける。親に殺されることが「児童虐待」だと定義してしまう恐れがあるというのだ。その結果、死亡事件を防ぐために立案された児童保護政策は、親のネグレクトから子どもを守ることに有効ではないかもしれない。

 もっと酷いことに、深刻なケースと広い定義に基づく数字をドッキングさせる捏造屋も出てくる。撲殺事件を典型例として取り上げながら、これほど深刻でない虐待やネグレクトの事例を何百万件も含む統計的推定値を掲げるのだ。視聴者はおそらく、「こんな残虐な児童虐待が何百万件もあるのだ」と受けとるだろう。

 まだある。違うものを同じものとして扱っているそうな。たとえば、米国の子どもは他国の子どもと比較して、学力テストの成績が低いと報じられる。これは、子どもの能力よりもむしろ、国による教育制度の違いを物語っている。米国の子どもの大部分はハイスクールに通うが、他国は優秀な生徒が選ばれて高等教育を受ける(そうでない子どもは職業教育校へ進む)。優秀も劣等も入った米国の高校生と、優秀な他国の高校生とを比べても、そもそも比較にならないのだという(日本でも似たような議論があったな…)。

 不適切な一般化、都合のいい定義づけ、暗数を使った詐術、「数」と「率」を使い分ける法、アンケート・コントロールなど、統計数字を使ってこじつけるありとあらゆる詭弁が紹介される。情報の受け手は数字を事実と考えるかもしれないが、発信者が事実に意味を持たせるのだ。そしてその意味は、発信者のイデオロギーで決まってくる。

 ホントは、分かりやすい数字が出てくるとき、もっと身構えるべきなのだ。にもかかわらず、数字が数字であるという理由だけで、易々と信じてしまうわたしがいる。複雑な社会現象に「分かりやすさ」を求めているから。「理解したい」という欲望を裏返すと、「騙されたい」動機が潜む。たとえば、4章の「日米の弁護士とlawyerの比較は成り立つか?」なんてその典型ナリ。本書を読むまで、まんまと罠にハマりこんでいた(しかもそのことに気づいていなかったぞ)。

 ではどうすればいいのか?残念ながら万能薬はないそうな。せめて、統計を批判的に検討していけとアドバイスする。その観点として、次の問いかけをしてみろという。すなわち、「誰がこの統計をつくったのか?」、「この統計はなぜつくられたのか?」。

 つまり、統計作成者の役割に注意を向けろという。いわゆるポジショントークやね。立場が数字を作るのだから。そして、数字が説得の道具として用いることを意識して、作成者の「動機」や「意図」を理解するんだ。その上で、その数字が妥当かどうかを吟味しろという。なんらかの視点や意図を持っているというだけで、その統計の価値を割り引いて考えてはいけない。そもそも、統計とは「意図」を持っているものだから。

 数字は嘘をつかないが、嘘つきが数字を使うんだ。

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作家を、プロデュース「小説作法ABC」

小説作法ABC 小説を書く基本技術がひととおり。

 新米作家の教則本として読んでもいいし、深い読書への手引書として扱ってもいい。「小説は、Why? とBecauseで推進される」とか、「読書の快楽は予定調和とドンデン返し」といった基礎だけでなく、「同じ村上でも、春樹は回想、龍は実況」や、「谷崎は変態、三島は売れない俳優」といった、著者の文学観をも垣間見ることができる。

 なかなか実践的なのは、各章のおしまいに「練習問題」がついているところ。たとえば、既読の小説のあらすじを100字にまとめろという。要約することで、いわゆる「読ませどころ」へ向かわせる物語の軌跡が見えてくるんだと。さらに、要約した小説の帯コピーを50字でまとめろという。キャッチコピーを考えることで、その小説の「最大の売りどころ」を見抜けという。要は「目玉」やね。おもしろそうだとそのとき感じた作品を漫然と読んできたわたしにとって、いい刺激になる。

 あるいは、強力なトレーニング法を知ったぞ。実行するのも楽しいし、自作を書くときもすぐに効果がでてきそうだ。「小説は出だしが肝心」なことはあたりまえだが、その有効な鍛え方がこれ。

名作をはじめから結末まで読み通すのがたいへんなら、冒頭だけ読めばいい。文学全集の冒頭だけを、制覇するのです。これにより、文豪たちが読者をわくわくする世界へどのようにして引きずりこんだかが体得できます
 これ、試してみるわ。図書館で文学全集の各作品の出だしだけ読んでみるのだ。で、解説から得たテーマと突き合わせてみる。出だしとテーマ間のフィット・ギャップに着目することで、作家が読者を導く手腕を測るのだ。

 さらに、なんとなく知っていたレトリックも、ハッキリ解説されることで、あらためて「技術」なんだと気づかされることが沢山あった。たとえば、比喩の奥義は、「フィジカルな感覚」。視覚「以外」を駆使して、読み手の肉体にダイレクトに訴えかけていくような表現を心がけよという。その例が谷崎の「春琴抄」。縫い針で自分の目を刺す、読んでるこっちが痛かゆくなる場面だ。

 まだある。レトリックは単発ではなく、規則性を持って配置せよという。つまりこうだ。水のイメージを伝えたいのなら、水そのものの比喩表現を練るだけでは不十分。雨を降らせたり場面を川べりにしたり、はたまは蛇口からポタポタ滴る音を聞かせることで、水のイメージを読み手につきまとわせよという。わたしのような邪悪な読者は、その配置から先の展開を予想しまくる。どういう気分にさせたいのか、裏読み・先読みするのだ(マネしないように)。

 そんな技術的レクチャーだけでなく、著者・島田雅彦の文学感覚も楽しめる。むしろ、抑えた口調に閃く感情を思いやると、ヤッカミや嫉妬心の香ばしさが漂ってくる。作家が作家を語るとき、けっこうホンネが出るものね。

 たとえば、最近の小説の舞台のほとんどが、「東京」だという。しかし、そこで描かれる「東京」は、表層の部分だけだという。なぜなら、東京出身の作家なんてほとんどおらず、真に東京を理解しているとは言いがたいから。地方との差異だけが関心の全てだという視座ではダメ――で、著者の出身を調べると、案の定というか、世田谷区出身。「おまえらが書く『東京』は、ホントの東京じゃないんだーッ」という心の叫びを訊け。

 そして、村上春樹への鞘当てが愉しい。やり方も念が入っていて、直接話法じゃなくって、間接話法なww。まず、ライトノベルについて語る。ラノベとは要するに、江戸時代に大流行した黄表紙や滑稽本の回帰なんだという。能天気な会話中心のストーリー展開なんて、まんまでしょと指摘する。で、返す刀で春樹作品も似たようなものだと当たってくる。「いまやその村上春樹も最も成功したグローバル商品です」と、誉めてる(?)と思いきや、こう続く。

グローバル商品を作る秘訣は誰も傷つけず、万人を心地よくすることにあります。それは、作品のディズニーランド化を図ることだといってもいい。読者は手軽に現実逃避ができるテーマパークで、しばし日本の現実や日々の憂鬱を忘れることができます
 間違ってはいないんだが、ハルキストが読んだら腹立てるかも… けだしファンというものは、作品の中に人生含蓄や批判精神を幻視して喜ぶもの。だから、そいつを「ディズニーランド化」とラベリングされると、ミもフタもなくなってしまう。「エンタメじゃないもん!世界文学だもん」なんて、ウチダさんかトヨザキさんあたりが言いそうだ。

 加えて、著者のデビュー作「優しいサヨクのための嬉遊曲」の顛末が語られたりしてて、出世物語としても面白い。作家コーチング本として、読者マニュアルとして、あるいは島田雅彦の文学論として、何通りにも読める。

 このテの本はいろいろ読んできたが、この順で読むと分かり易いかな。

入門編小説作法ABC「小説作法ABC」は、広く浅く
原則編詩学読者はどこに快楽を得るのか?に答える[レビュー]
上級編小説のストラテジー「読み」指南だが、書くことにも応用できる[レビュー]
技巧集小説の技巧小説のあらゆる「仕掛け」を解説[レビュー]
レトリック集レトリックのすすめ手持ちの「武器」三倍増計画[レビュー]

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大学教師が新入生にすすめる100冊

 恒例の100冊リスト。

 ただし、これまでの趣向を外した。「ベスト100ランキング」は楽しいが、変わりばえしない。毎年似たような「ベスト100」をヒネり出すのも飽きた。ホントのところ、「大学新入生」と銘打っているものの、わたしのためのブックリストなのだ。読んできたやつ、未読のやつ、読みたいやつを抽出したりふり返るためのきっかけなのだから。

 だから、今回はランキングをしない。母体のリストは、「大学教師が新入生にオススメする本」なんだけれど、そこからの選出はわたしの手になるもの。今までのリスト作成の過程で知り合えたものや、「読まねばリスト」に追加したもの。積読山に刺さったまま、課題と化しているものを中心に100挙げた。

 もちろんこの100冊を参考にしてもいいし、母体リストから自分専用の一覧を作ってもいい。母体のリストは三千弱になるが、元となったのは、以下のリスト。ブックガイドは多々あるが、「大学新入生」をターゲットにしたもので、一定の質・量があるのは、これぐらいだろう。

  1. 東大教師が新入生にすすめる本
  2. 東大教師が新入生にすすめる本2
  3. 教養のためのブックガイド
  4. 広島大学新入生に薦める101冊
  5. 広島大学新入生に薦める101冊 【新版】
  6. 必読書150
  7. 京都大学新入生に勧める50冊の本
  8. 北海道大学教員による新入生への推薦図書



東大教師が新入生にすすめる本東大教師が新入生にすすめる本2教養のためのブックガイド
広島大学新入生に薦める101冊 広島大学新入生に薦める101冊新版必読書150

 わたしの場合、計画読書には程遠いけれど、少なくとも毎年「これだけは読みたい」ものを見直すために、このエントリは有用なのだから。

 このblogを続けるようになって犯した失敗は、「楽に読める本≒すぐ記事にできる本」を意識して選ぶようになったこと。来るもの拒まずで漫然と読み流していたら、一生はあっという間に終わる。せめて、読むべき本は選びたい。

 そのための、戒めとしてのブックリスト。

理科系の作文技術■ 理科系の作文技術(木下是雄)[レビュー]

 文系理系無関係、学生は全員読め。

 大事なことだから、もう一度いう。学生は必ず読め。論文・レポートの作成技術に関する本は沢山あるが、コンパクトな新書にここまで丁寧+徹底して「学生のレポート」に特化したものはない。類書が沢山でているが、真っ先にこれを読め。ライティングの手ほどきを受けている方なら、「あたりまえ」のことばかりが書いてあるが、その「あたりまえ」が大切なんだ。

 たとえば、「事実と意見は分けて書け」という。当然だ、どこまでが事実の報告で、どこからが仮説・意見なのか分からない文書だと、まともに扱ってすらもらえないだろう。

 本書では、そもそも「事実とは何か」から定義している。事実とは、「自然に起こる事象や自然法則、過去の事件などの記述で、しかるべきテストや調査によって真偽を客観的に確認できるもの」を指す。しかも、「事実の書き方」と「意見の書き方」まで指南してくれる。「分けて書く」とは、分割して書けというだけではない。その記述が事実なのか意見なのか、読み手に分かるようにすることが重要なんだ。

 何度でも言う、学生は全員読め(かくいうわたしは読まなかったので、しなくてもいい苦労をしたと告白しておく)。


詩学■ 詩学(アリストテレス)[レビュー]

 創作にかかわる人は、必読。

 古典というより教典。著者アリストテレスは、悲劇や叙事詩を念頭においているが、わたしはフィクション全般に読み替えた。フィクションを創造するにあたり、観客(読み手)に最も強力なインパクトを与え、感情を呼び起こすにはどうすればよいか?構成は?尺は?キャラクターは?描写は?「解」そのものがある。

 これは、「現代にも通ずる古典」というのではない。二千年以上も前に答えは書かれていて、今に至るまでめんめんとコピーされてきたことに驚いた。本書が古びていないのではなく、新しいものが創られていないんだね。

 著者に言わせると、わたしたちヒトは、「再現」を好むのだという。この概念はミーメーシスといい、模倣とも再生とも翻訳される。現実そのものを見るのは不快で、その現実を模倣したもの――演劇だったり彫刻、絵画だったりする――を見るのを喜ぶのだという。彫刻や舞台を用いることで、これは「あの現実を模倣したのだ」とあれこれ考えたり語り合うことに、快楽をおぼえるのだ。そのカラクリが明かされている。


生命とは何か■ 生命とは何か(シュレディンガー)[レビュー]

 量子力学の巨人が生命の本質に迫る。

 アプローチは秀逸だが、「生命」そのものに対するズバリの答えはない。むしろ、「生命体」や「生命活動」とは何か、といったお題が適切かと。生きている細胞の営みを物理的に定義しなおした場合、どのようになぞらえることができるか? について、実にうまく表している。

 半世紀を経てなお刺激的なのは、シュレーディンガーの「問いの立て方」が上手いからだろう。たとえば、「原子はどうしてそんなに小さいのか」という問いへのブレークスルーな答えがある。それは、この問いの言い換えによる。つまり、本当は逆で、「(原子と比べて)人はどうしてそんなに大きいのか」という疑問に答えているのだ。

 さらに、生物を「時計仕掛け」と見なすことで、さまざまな「発見」が得られた。染色体は生物機械の歯車になるし、生命活動を遺伝子のパターンの維持と読み替えられる。遺伝子の突然変異を非周期性結晶の「異性体的変化」に置き換えてしまうところはお見事。メタファーの力を利用して、物理学と生物学の両方から手を伸ばして握らせようとしている。

 余談になるが、福岡伸一は「生物と無生物のあいだ」にて、シュレディンガーを批判している。そして、改版された「生命とは何か」の解説のなかで、そんな福岡がバッサリと斬られている。分かりやすさと正確さは、さじ加減が難しい。


日本人の英語■ 日本人の英語(マーク・ピーターセン)[レビュー]

 「英語の本質がわかると言っても過言ではない」とか、「全学共通科目の英語なんぞ 100 年続けても、この1冊には適うまい」といった最大級の賛辞が贈られている。

 著者は明治大学で教鞭をとっていたそうな。その経験が活かされている。新入生の「異様な英語」から、修士や博士論文に出てくる「イライラする文」までを、達意な「日本語」で説明してくれる。なぜ「異様」なのか、そしてなぜ「イライラ」するのかを理解するとき、英語の壁を一つ越えるだろう。

 本書を読むか否かを判断する、簡単なテストをしてみよう。

     a) Last night, I ate chicken in the backyard.
     b) Last night, I ate a chicken in the backyard.

 「どちらが正解?」という問題ではない。実は、どちらも正解。ただし、どちらも正しい英文として読むと、ある一方はスゴい光景になる。その想像がつくのであれば、本書は読まなくてもOK。ピンとこないようなら、ぜひ手にとって欲しい。わたし自身、「学生のときに読んでおけばよかった…」と強く感じる、薄くて濃い一冊。


知的複眼思考法■ 知的複眼思考法(苅谷剛彦)[レビュー]

 学生向けの、論理思考指南書。そこらのロジシン本を蹴散らす出来。

 読むべきは、第3章「問いの立てかたと展開のしかた」。ここでは、MECEとなるための思考方法を説明してくれる。実は、優れたツリーの裏側に何十枚もの「デッサン」がある。書いちゃ捨て、拾っては直しのスクラップ&ビルドが必要なんだが、フツーの指南本はそこを省く。本書には「デッサン」の線が沢山見えてくる。

 あるいは、アウトプットのための手法に限らず、インプットも批判的にできる。第1章「創造的読書で思考力を鍛える」が素晴らしく、ここを読むだけで、以降、目的を持った読書ができることを請合う。学生さんを想定しているため、噛み砕き具合がハンパじゃなく、まさに「読めば分かる」一冊として仕上がっている。


1984年■ 一九八四年(オーウェル)

 全体主義国家による監視社会を描いたディストピア。

 だが、「小説の技巧」でアッと驚く"読み方"を知った。主人公とヒロインをアダムとイヴに置き換えて解説している。すると、偉大なる指導者(ビッグ・ブラザー)の密やかな監視と処罰は、たちまち別の光沢を帯びてくる。ラヴ・ロマンスと二人がたどった運命が、違った色合いで見えてくる。陳腐な言い回しだが、宿命付けられた悲劇を、「近未来小説」で読むという皮肉に、自嘲したくなる。

幼年期の終わり■ 幼年期の終わり(クラーク)[レビュー]


 SF史上不朽の名作。

 地球上空に、突如として現れた巨大な宇宙船――というベタな話と思いきや、SFとしてだけでなく、ミステリとしても超一級のおもしろさをお約束。あるいは、感傷を超越して、自分ではどうしようもない、取り返しのつかないものを眺めている―― そんな気分を味わうこともできる(わたしの場合、ラストの件で思わず涙してしまった)。

 ハヤカワ文庫で読んだのだが、光文社から新訳が出ている。第一部が改稿されており、amazon評を見る限り、新訳のほうが良い出来とのこと。このblogを読むような方なら既読だろうが、万が一、未読なら、是非読むべし


カラマーゾフの兄弟1■ カラマーゾフの兄弟(ドストエフスキー)

 最強の小説。これぞ小説のラスボス。

 毎年くりかえしになるが、この blog で「すごい本」を探している方には、これがそうだと断言できる。「なんか面白い小説ないかなー」というなら、これ読め(命令形)。最強・最高の読書体験を約束する。とっつきにくいって? 大丈夫!光文社から出ている新訳、これが信じられないぐらい読みやすくなっている。読むなら、いまだ。

ガリヴァー旅行記■ ガリヴァー旅行記(スウィフト)

 「子どものころに読んだよ」という方がほとんどだろうが、童話ではなく完全版を読むべし。エロいしバッチイし強烈だぞ。風刺が利きすぎて鼻につくぐらいだし、おもわず「アチチ」と声が出るぐらい恥ずかしい思いをするかも。

 読むべきは最終章、馬の国の話。児童書だと間違いなくカットされているだろうが、これこそスウィフトの真骨頂だろう。究極のユートピアを描くことで、人間社会がいかに矛盾に満ち、汚れきっているかがよく分かる。しかもそのユートピアでの人間ときたら!

 童話しか知らない人はきっとガツンとやられる。読了後に[貧家の子女がその両親並びに祖国にとっての重荷となることを防止し、且社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案]を読むと二度おいしい。


チベット旅行記(上)■ チベット旅行記(河口慧海)[レビュー]

 面白スゴ本。

 著者は明治時代の坊さんで、鎖国中のチベットに入国した最初の日本人。ただ独りで、氷がゴロゴロする河を泳ぎ、ヒマラヤ超えをする様子は、「旅行記」ではなく「冒険記」だな。

 ではこの坊さん、どうしてチベットまで行かなければならなかったのか?

 サンスクリットの原典は一つなのに、漢訳の経文は幾つもある。意訳、誤訳、適当訳が沢山ある。翻訳をくりかえすうちに、本来の意義から隔たってしまっているのではないか? それなら原典にあたろうというわけ。インドは小乗だし支那はアテにならん。だから西へ行くんだ。

 まるで三蔵法師!住職を投げ打ち、資金をつくり、チベット語を学び始める。周囲はキチガイ扱いするが、本人はいたって真剣。しかも、普通に行ったら泥棒や強盗に遭うだろうから、乞食をしていくという。

 この実行力がスゴい。最初は唖然とし、次に憤然としているうちに、だんだんと慧海そのひとに引き込まれる。これはスゴい人だ、と気づく頃には夢中になっている。ヒマラヤの雪山でただ一人、「午後は食事をしない」戒律を守る。阿呆か、遭難しかかってるんだって!吹雪のまま夜を迎え、仕方がないから雪中座禅を組む。死ぬよ!


目玉の話■ 目玉の話(バタイユ)[レビュー]

 旧タイトルは「眼球譚」。新訳では、告白体のしゃべりがくだけた感じになり、さらに読みやすくなっている。

 特に目を引いたのが「玉」の語感。原文にある、"oeuf","oeil","couille"(ウフ、ウエ、クエ)の音感を、「目玉」、「玉子」、「金玉」と「玉」でつなげて訳しているのは素晴らしい。また、性器一帯を「尻」で統一しているのも良い感じ。

 エロスの極限に神性をもってきているのが鼻に付くが、冒涜行為は「神」相手でないとできないから仕方ないか。より強いショックを受けるには、キリスト教に入信するか、ヘーゲルを読んでおくといいらしい。

毒書案内 わたしの脳に、「セックスと排尿」をバインドした張本人がバタイユ。愛し合う男女はセックスの際、尿をかけあうという誤った刷りこみのおかげで、変態あつかいされますた。余談だが、かわいい女の子が顔まっかにしておもらしするエロマンガの最高峰はぢたま某「聖なる行水」。「目玉」に辟易したらどうぞ。

 バタイユを含む、「人生を狂わせる毒書案内」は→「読んではいけない」をどうぞ


何でも見てやろう■ 何でも見てやろう(小田実)

 「外へ出ること」「遠くへ行くこと」を強く動機づけた一冊。

 「ガイコクを旅すること」がマイナーだった時代に、欧米・アジア22ヶ国を貧乏旅行した記録。「まあなんとかなるやろ」といった楽天的な態度とバイタリティーに影響され、わたしも一人旅したぞ。この「旅に出たい熱」ってハシカのようなものだね。古くは芭蕉やケルアック、最近だと沢木耕太郎や藤原新也あたりが、この熱病をバラまいている。

 免疫のない中高生が読んだら一発でかかる一冊。もちろんわたしもかぶれたぞ。大学生になってからがちょうどいいのかも。


ガルガンチュアとパンタグリュエル■ ガルガンチュアとパンタグリュエル(ラブレー)

 おっぱい星人には悪いが、女は、尻だ(異論は認めない)。なぜなら、おっぱいの谷底と、尻のあわいめ、どちらが見たい?と自ら質みればいい。しょせん、おっぱいは尻の代替物なのだ――などと、お尻について情熱的に語っていたら、コメント欄で本書を教えてもらった。

 ルネサンス文学を代表するラブレーの傑作大長編だそうな。しかも新訳版が出ていたので、そいつに手を出してみる。いわゆる風刺+冒険譚を密度の濃い文体で連弾するように描いているみたいだ。底抜けに明るいスカトロジーを楽しめそうナリ。


コインロッカー・ベイビーズ■ コインロッカー・ベイビーズ(村上龍)

 新聞や週刊誌で見かける経済時評は全く評価しない。読み物としても情報源としても痛々しいのだが、かつてこんなスゴい物語をつむいでいたんだよな。

 コインロッカーを胎内としてこの世に生まれ出た罪の子らの、痛みすら伴う憎しみが伝わってくる。これを fairly tail として読むのは勝手だが、実行してきた若者はマスコミで見かけたことがあるだろう。彼らは「ダチュラ」を手にしていなかっただけ。その代わりにダガーやハンマーを握ったわけだ。強烈な破壊のエネルギーと疾走する文体に酔いしれるべし。


安土往還記■ 安土往還記(辻邦生)[レビュー]

 「西洋人」というフィルターを通したからこそ見える、信長の行動原理を描く。

 同時代の日本人の視点ではとても捉えきれないとし、日本の外側から、イタリアの船員という語り部を持ってきている。

 ひたすら虚無をつきぬけ、完璧さの極限に達しようとする意志と、生死のぎりぎりの場にあって「事が成る」ために全力の生の燃焼の前に、妥協や慈愛は一蹴される。狂気のように、理(ことわり)を純粋に求め、自己に課した掟に一貫して忠実であろうとする生き様が書簡断片に輝いている。

 辻邦生は「春の戴冠」を読むべし、と誉れ高い。積読リストに入れて幾年月…


リア王■ リア王(シェイクスピア)[レビュー]

 シェイクスピアは「リア王」が一番ドラマティックで面白い。新訳で読めるぞ。

 かの松岡正剛は「シェイクスピアの最高傑作である」と断言しているぞ。人間の弱さ・醜さ・おぞましさが、スラスラ読めるおそろしさを噛みしめるべし。

 親子の確執と愛情(陰謀も!)と、物語へのからまり具合が絶妙―― と、覚めて読んだ自分がかわいそう。これは夢中になって読むもの。以前は愛憎劇と斬っていたが、親子だけでなく、男女のもドロドロに混ざっていることに、ようやっと気づいた。不倫と駆引き、姉妹丼、さらに嵐の一夜のリアと○○○の掛け合いは、老人と若者の同性愛のように読める。

 コアを担うキャラクターが幾幕ごとに「ストーリー」を渡していく様が見事だ。ストーリーという道があって、サブストーリーが脇を走ってて… ではない。もつれた人間関係を話者が光を当てるように行き来していき、だんだん浮かび上がらせていくような感覚。でも全員が乗っている「場」がある運命に向かって船のようにずんずん進んでいく。小説の延長として読むよりも、演劇の下読みとして接すると面白いかも(そう、気に入った役になりきるわけだ)。


アイディアのつくり方■ アイディアのつくり方(ジェームズ・ヤング)[レビュー]

 「一時間で読めて一生役立つアイディアの作り方」

 そんな惹句どおり、確かにシンプルで強力な方法だ。しかし、こいつを愚直に実践していくことはかなりの努力を要する。「アイディアとは、既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもない」と喝破する方法は、マネして→習慣化→血肉化してこそ意味がある。付せん貼ってブックマークして終わりなら、読まなかったことと同義。「いま」「すぐ」動かなければ、タタミの水練以下。実行すれば人生を変える一冊となる。言うは易く、JUST DO IT.


アブサロム、アブサロム!■ アブサロム、アブサロム!(フォークナー)[レビュー]

 南北戦争時代のアメリカを舞台にした、繁栄と没落の物語。重層的な語りの中に、呪われた血の歴史が浮かびあがる。わたしは、どろり濃厚なミステリとして読んだ、2008年のスゴ本ランキング入り。

 ただし、最近のエンターテインメントに甘やかされた読者には、ちと辛いかも。物語は複数の語り手の視線によってさらされ、吟味されているのだから。ストーリー消化率を向上させるための「何でも知ってる説明役」は一切ない。たとえ三人称であってもだまされるなかれ。聞き手の内省であったり対話(!)だったりするのだから。

 同じ描写、同じシーンが、微妙に異なる言葉・視点でくりかえし述べられている。ジグソーパズルを外側から埋めていくように、行きつ戻りつ繰言がくりかえされる。さらに、先ほどまで聞き手だった者が、次は語り手となって地の文に参入してくる。過去へ過去へと遡るうちに、おぞましい過去が追いかけてくる。

 物語そのものが語りだす声を訊くべし。


オリエンタリズム(上)■ オリエンタリズム(サイード)

 歴史とは自らを正当化するためのラベリングの歴史そのものだということを暴く。つまり、「オリエンタル」という言葉・概念は西洋によって作られたイメージであり、文学、歴史学、人類学の中に見ることができる。「オリエンタル」というレッテルのおかげで西洋は優越感や傲慢さや偏見でもって、東洋と接することができたという主張を念入りに検証している。

 皮肉なのは、オリエンタリズムを批判する証拠物として、東洋で作られた著作物や芸術作品が提示されていないこと。そして、「西洋から見た東洋」の作品が挙げられていること。もちろん事実上「東洋」で作成されたものもあるが、それは「こういう『東洋』なら西洋は買ってくれるに違いない」という意図のもとで、自分で自分をステレオタイプ化しているに過ぎない。レッテルを貼られた被告人の告発ではなく、まさにそのレッテルこそが証拠なのだ。


ゲーデル、エッシャー、バッハ■ ゲーデル、エッシャー、バッハ(ホフスタッター )

 未だに積読山に刺さっている。「読みます」宣言を毎年繰り返し、本棚の一番目立つところに鎮座したまま、幾年か。

 テーマは「自己言及」。ゲーデルの不完全性定理が、エッシャーのだまし絵やバッハのフーガをメタファーとして渾然と展開される。導入部のアキレスと亀の会話で分かった気になり、本編で叩きのめされる。いまは「単純な数学システム(MUパズル)で完結しているにもかかわらず、証明できないことが存在することを証明する」あたりでひっかかっていたが、「ゲーデルの哲学」[レビュー]のおかげでようやく理解できた。毎年、このシリーズを書くたびにエンジンかけている。これは、少しずつ読んでもダメだな。外堀埋めて、一気に読まないと。


銃・病原菌・鉄■ 銃・病原菌・鉄(ジャレド・ダイアモンド)[レビュー]

 昨年の、「東大、京大、北大、広大の教師が新入生にオススメする100冊」の第一位。そして、「この本がスゴい2008」の第一位もこれ。

 世界の富や権力は、なぜ現在あるような形で分配されてしまったのか? たとえば、なぜヨーロッパの人々がアフリカや南北アメリカ、オーストラリアを征服し、どうしてその逆ではないのか? この究極の問いをとことんまで追いかける。

 数千~数万年単位の歴史を、猛スピードでさかのぼり、駆け下りる。大陸塊を横長・縦長で比較しようとする巨大視線を持つ一方で、たった16キロの海峡に経だれられた文化の断絶ポイントを示す。時間のスケールを自在にあやつり、Google Earth をグルグルまわす酩酊感と一緒。地球酔いしそうな人類史から明かされる「富の偏在」の謎――それは、驚くとともに納得できるだけの理由をもっている。


アフリカ■ アフリカ――苦悩する大陸(ロバート・ゲスト)[レビュー]

 「なぜ、アフリカは貧しいままなのか?」という問いに、ひとつの結論が出る一冊。

 アフリカの貧困問題に対し教科書どおりに答えるならば、植民地時代からの搾取、不安定な政府、内戦や伝染病、人種差別、部族主義や呪術主義、インフラや教育の欠如からHIV/AIDSの跋扈――と枚挙に暇がない。

 著者はこの質問に明快に答える。すなわち、政府が無能で腐敗しているからだという。私腹を肥やす権力者、国民から強奪する警察官、堂々とわいろを要求する官僚――これら腐りきった連中がアフリカを食い物にし、援助や支援が吸い取られる。資源に恵まれた国であっても同様だ。奪い合い→内戦化→国土の荒廃を招くか、あるいは、外資が採掘場所を徹底的に押さえ、オイルダラーが国民まで行き渡らない構造になっていると一刀両断している。

 もちろん本書だけでもってアフリカ問題を語りだすのは危険だし、そういう思考の失敗も見せてもらった。非常に興味深いことに、自説を強固に主張する方であればあるほど、その一面的な観点から一歩も出られないことがわかった。同じ愚を犯さないために、(相反する)類書をいくつか読んだが、それはそれだけアフリカ問題の巨大さを実感することとなった。


フォークの歯はなぜ四本になったか■ フォークの歯はなぜ四本になったか(ヘンリー・ペトロスキー)[レビュー]

 モノの見方が確実に変わる一冊。

 フォーク、ナイフ、クリップ、ジッパー、プルトップなど、身近な日用品について、「なぜそのカタチを成しているのか」を執拗に追求する。日ごろ、あたりまえに使っているモノが、実は現在のカタチに行き着くまでに途方も無い試行錯誤を経たものだったことに気づかされる。

 いわゆるデザインの定説「形は機能にしたがう(Form Follows Function)」への論駁が面白い。著者にいわせると、「形は失敗にしたがう(Form Follows Failure)」だそうな。もしも形が「機能」で決まるのなら、一度で完全無欠な製品ができてもいいのに、現実はそうなっていない。モノは、先行するモノの欠点(失敗)を改良することによって進化していると説く。これが膨大なエピソードを交えて語られるのだから、面白くないわけがない。


不都合な真実■ 不都合な真実(アル・ゴア)[レビュー]

 写真の持つ訴求力はスゴい。例えば、同じ場所の2枚の写真。まるで「使用前」「使用後」のように明らかだ。特に目を引いたのが、1975年のブラジルの衛星写真。一面緑に塗りつくされているのが、2001年では同じ場所とは思えない無残さ。あるいは、p.222の禿山が連なるハイチと、隣のp.223の緑に覆われたドミニカ共和国の国境を真ん中にすえた写真は、政策の違いが如実に「見える」。

 また、夜の地球の写真が面白い。むかし親父が教えてくれた「宇宙から地球を見たとき、三つの光が見える。都市の白い光、焼畑の赤い火、そして油田の黄色い炎だ」に加えて、もうひとつ、青白い光があることが分かった、日本海に集中して見える漁火だ。

百年の愚行 だが、何かが足りない。

 それは、事前に「百年の愚行」を見たから。人類が地球環境と自分自身に対して及ぼした数々の愚行の「象徴」が、れっきとした「現実」として写っている。近々人類が滅びるとするならば、その原因が写っているのは、「不都合な真実」ではなく「百年の愚行」だろう。環境プロパガンダ本としては「愚行」の方が上。大学教師オススメのリストには「愚行」が入っていなかったが、両者は合わせて読みたい。


夜と霧■ 夜と霧(ヴィクトール・フランクル)[レビュー]

 ホロコーストの記録。強制収容所に囚われ、奇蹟的に生還した著者の手記。限界状況における人間の姿が、淡々と生々しく描かれる。

 極限状態に陥ったとき、目の前の苦悩そのものの意味を問わない。わたしは、そこから逃れようとするだろうし、適わないのなら、次元を変えてでも達成しようとするだろう。つまり、物理的に逃げられないのなら観念の世界へ逃げるとか、外界をシャットアウトして自分を外在化してしまうとか。しかし、著者フランクルは違う。

すなわち、わたしたちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。もしも無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない。抜け出せるかどうかに意味がある生など、その意味は偶然の僥倖に左右されるわけで、そんな生はもともと生きるに値しないのだから。
 そして、この経験を通じ、人間とは何か、に結論を出す。「人間とは、人間とは何かをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ」――生きる目的を未来に託すのではなく、さりとて過去に取り付くのでもない。目の前の現実に対し、自ら決定していく存在を、思い知らされる。それは、わたしであり、あなたなのだ。


誰のためのデザイン■ 誰のためのデザイン?(ドナルド・ノーマン)


 ありとあらゆる「ユーザーインタフェース」の基底となる本。

 これは、コンピュータのGUI に限らない。モノの持つ属性(色や形)が、そのモノ自身をどう取り扱ったら良いかについてのメッセージをユーザに対して発している、いわゆる affordance の根っこが分かる。「使いやすいとはどういうことか」が肌で分かる。ボタンの配置だとか見出しの色だとか、Webデザインネタが巷に数多にあるけれど、あくまで表層的なもの。もっと根源的な「どうしてそうだと分かるか」についてここまで実例を掘り下げて書いてあるのはめったにない。

 デザイン本をいくつも漁るよりも、デザイン本とは縁遠いようなコレをしっかりと読み込むほうが近道。同著者の近著として、「未来のモノのデザイン」があるが、「誰のための」の方が良い出来。


哲学、脳を揺さぶる■ 哲学、脳を揺さぶる(河本英夫)[レビュー]

 オートポイエーシスの練習問題。慣れ親しんだ世界が「揺さぶられる」感覚を訓練できるぞ。

 本屋で見かけたとき、タイトルどおり「哲学」のエリアに置いてあったけれど、中身はちがうような気が。むしろ自己啓発書として使いたい。

 著者曰く、「学習」と「発達」を区別せよという。視点や観点の選択肢が一つ増えることは、学習の成果で、それに伴い知識も増える。けれども、能力そのものの形成や、能力形成の仕方自身を習得するのでなければ、テクニックが一つ増えたにとどまるという。
。つまり、思考技術や、フレームワークの紹介ではなく、「あたらしい感覚・あたらしい経験を再獲得するやり方」が書いてあるんだ。「自転車の乗り方」が書いてあるのではなく、「自転車に乗れるようになるとき、何がはたらいているのか」が書いてあるんだ。

 感覚のエクササイズに対し、既に知っていることと関連付けたり、今の知識に加えようとするのは禁物。学習の「前」に、その意味をカッコに入れ、自分の経験そのものを「動かす」ことを訓練してゆく。意味によって経験をラベリングするのではなく、再・経験する(創・経験する)のだ。

 100リストは、以下のとおり。

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│□□□ フィクション(国内)
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1.「安土往還記」(辻邦生、新潮文庫)
2.「蝉しぐれ」(藤沢周平、文春文庫)
3.「こころ」(夏目漱石 、新潮社 )
4.「コインロッカー・ベイビーズ」(村上龍 、講談社 )
5.「ドグラ・マグラ」(夢野久作、現代教養文庫)
6.「宮本武蔵」(吉川英治 、講談社 )
7.「鍵」(谷崎潤一郎 、新潮社 )
8.「孤高の人」(新田次郎 、新潮社 )
9.「枯木灘」(中上健次、小学館文庫)
10.「高野聖」(泉鏡花、新潮文庫)
11.「笹まくら」(丸谷才一 、新潮社 )
12.「三国志」(吉川英治 、講談社 )
13.「山月記・李陵」(中島敦 、岩波文庫 )
14.「春の雪」(三島由紀夫 、新潮社 )
15.「春の戴冠」(辻邦生 、新潮社 )
16.「春琴抄」(谷崎潤一郎、新潮文庫)
17.「万延元年のフットボール」(大江健三郎、講談社)
18.「夕凪の街桜の国」(こうの史代、双葉社)
19.「果しなき流れの果に」(小松左京 、徳間書店 )
20.「神聖喜劇」(大西巨人、光文社)
21.「蒼穹の昴」(浅田次郎 、講談社 )

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22.「アブサロム、アブサロム!」(フォークナー 、講談社 )
23.「アンナ・カレーニナ」(トルストイ 、岩波書店 )
24.「イワン・デニーソヴィチの一日」(ソルジェニーツィン、新潮社 )
25.「カラマーゾフの兄弟」(ドストエフスキー 、新潮社 )
26.「ガリヴァー旅行記」(ジョナサン・スウィフト、岩波文庫)
27.「ガルガンテュアとパンタグリュエル」(ラブレー、岩波文庫 )
28.「ドン・キホーテ」(セルバンテス、岩波書店 )
29.「ハムレット」(ウィリアム・シェイクスピア 、白水社 )
30.「ボヴァリー夫人」(フローベール、新潮文庫)
31.「ファウンデーション」(アイザク・アシモフ 、早川書房 )
32.「オデュッセイア」(ホメロス 、岩波書店 )
33.「リア王」(シェイクスピア、白水Uブックス)
34.「レ・ミゼラブル」(ヴィクトル・マリー・ユゴー 、岩波書店 )
35.「外套」(ゴーゴル、岩波文庫)
36.「完全な真空」(スタニスワフ・レム 、国書刊行会 )
37.「眼球譚」(ジョルジュ・バタイユ 、河出書房新社 )
38.「神曲」(ダンテ・アリギエーリ 、集英社 )
39.「大聖堂」(ケン・フォレット 、新潮社 )
40.「緋文字」(ナサニエル・ホーソーン 、新潮社 )
41.「百年の孤独」(ガルシア=マルケス、新潮社)
42.「不滅」(ミラン・クンデラ 、集英社 )
43.「幼年期の終わり」(クラーク 、早川書房 )
44.「一九八四年」(オーウェル、ハヤカワ文庫)

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│□□□ ノンフィクション(国内)
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45.「「甘え」の構造」(土居健郎 、弘文堂 )
46.「オイラーの贈物」(吉田武 、筑摩書房 )
47.「この数学書がおもしろい」(青木薫他、数学書房)
48.「自分のなかに歴史をよむ」(阿部謹也、ちくま文庫)
49.「知的複眼思考法」(苅谷剛彦、講談社α文庫)
50.「チベット旅行記」(河口慧海 、講談社 )
51.「読書からはじまる」(長田弘、NHKライブラリー)
52.「ミラノ 霧の風景」(須賀敦子 、白水社uブックス )
53.「何でも見てやろう」(小田実、河出書房新社)
54.「ローマ人の物語」(塩野七生 、新潮社 )
55.「理科系の作文技術」(木下是雄、中央公論社)
56.「論理トレーニング101題」(野矢茂樹、産業図書)
57.「本はどう読むか」(清水幾太郎 、講談社 )
58.「福翁自伝」(福沢諭吉、岩波文庫)
59.「人間臨終図巻」(山田風太郎 、徳間書店 )
60.「知の技法」(小林康夫 、東京大学出版会 )
61.「定本言語にとって美とはなにか」(吉本隆明 、角川書店 )
62.「哲学、脳を揺さぶる」(河本英夫、日経BP)
63.「日本語の作文技術」(本多勝一 、朝日新聞社 )
64.「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎、岩波文庫)
65.「言志四録」(佐藤一斎 、講談社 )
66.「自分の中に毒を持て」(岡本太郎 、青春出版社 )

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│□□□ ノンフィクション(海外)
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67.「アイデアのつくり方」(ジェームズ・ヤング 、TBSブリタニカ )
68.「アフリカ――苦悩する大陸」(ゲスト、東洋経済新報社)
69.「イェルサレムのアイヒマン」(ハンナ・アーレント、みすず書房)
70.「エセー」(モンテーニュ 、中央公論新社 )
71.「エレガントな宇宙」(ブライアン・グリーン 、草思社 )
72.「オリエンタリズム」(エドワード・サイード、平凡社ライブラリー)
73.「ゲーデル、エッシャー、バッハ」(ホフスタッター 、白揚社 )
74.「システムの科学」(ハーバート・サイモン 、パーソナルメディア )
75.「銃・病原菌・鉄」(ダイアモンド、草思社)
76.「沈黙の春」(カーソン、新潮文庫)
77.「パワーズ オブ テン」(フィリップ・モリソン、日経サイエンス)
78.「フェルマーの最終定理」(サイモン・シン、新潮社)
79.「フォークの歯はなぜ四本になったか」(ペトロスキー 、平凡社 )
80.「不都合な真実」(アル・ゴア、ランダムハウス講談社)
81.「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(ヴェーバー 、岩波書店 )
82.「ホーキング、宇宙を語る」(ホーキング 、早川書房 )
83.「夜と霧」(フランクル、みすず書房)
84.「リスク」(ピーター・L.バーンスタイン 、日本経済新聞社 )
85.「愛するということ」(エーリッヒ・フロム、新訳版紀伊國屋書店)
86.「宇宙のたくらみ」(ジョン・D.バロー 、みすず書房 )
87.「君主論」(ニッコロ・マキャヴェリ 、岩波書店 )
88.「詩学」(アリストテレス、岩波文庫 )
89.「自然界における左と右」(マーチン・ガードナー 、紀伊国屋書店 )
90.「人はなぜエセ科学に騙されるのか」(カール・セーガン、新潮社)
91.「世論」(リップマン、岩波書店)
92.「生命とは何か」(シュレーディンガー、岩波新書)
93.「精神の生態学」(グレゴリー・ベイトソン 、新思索社 )
94.「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン 、NTT出版 )
95.「誰のためのデザイン?」(ドナルド・A.ノーマン 、新曜社 )
96.「統計はこうしてウソをつく」(ジョエル・ベスト、白揚社)
97.「日本人の英語」(マーク・ピーターセン、岩波新書)
98.「罰せられざる悪徳・読書」(ヴァレリー・ラルボー 、みすず書房 )
99.「方法序説」(デカルト、岩波書店)
100.「利己的な遺伝子」(リチャード・ドーキンス、紀伊国屋書店)


 全リストは、以下のリンク先に置いた。

「2009年版_大学教師が新入生にすすめる100冊.csv」をダウンロード

 読みたいリストは決して消えないし、それどころか、あっという間に増殖してゆく。人生は有限なのに、読みたいリストは無限だ。せめては、定期的に振り返ってブラッシュアップしていきたい。

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10ドルの大量破壊兵器「AK-47」がもたらした世界

AK47

「こうと分かっていれば、自分は時計職人にでもなるべきだった」
 アインシュタインのこの言葉を思い出す。自分の研究の"成果"である原子爆弾がもたらした惨事を知ったときのセリフだ。ミハイル・カラシニコフは、自分がつくったAK-47について、こう語っている。

「わたしは自分の発明を誇りに思っている。しかし、それがテロリストたちに使われているのが哀しい。人びとが使えて、農民の助けになるような機械を発明すればよかった。たとえば芝刈り機のようなものを」

 単純な構造のため誰でも扱え、めったに故障せず、きわめて安価なアサルト・ライフルAK-47。この突撃銃は、戦争の形態から世界のパワーバランスまで変えてきた。累計一億挺以上つくられてきたAKの構造と、世界に蔓延していく様を、(悪い意味での)ジャーナリスティックに描いている。「アフリカのクレジットカード」と呼ばれるほどコモディティ化しており、人類史上最も人を殺した兵器として名をはせた理由がわかる。

 面白いのは、M16の開発秘話やAKと対決した様子を描いているところ。米ソ対決を象徴するかのように、M16とAK-47は好対照をなしている。信頼性、コストパフォーマンス、浸透度、ほぼ全ての面において、AKが圧倒している。にもかかわらず、それぞれの開発者の人生行路が皮肉じみている。M16を開発したユージン・ストーナーは、銃が一挺売れるたびに、一ドルが懐に入る。比べて、AKを開発したカラシニコフは、一銭ももらえない。

カラシニコフ あわせて読みたいのが、松本仁一著「カラシニコフ」。

 「AK-47 世界を変えた銃」は、「AKという兵器」を中心に据え、冷戦の終結によりバザール化される様子を描写してみせる。いっぽう「カラシニコフ」では、世界の紛争地帯や、失敗国家で起きている状況を、AKで説明しようと試みる。

 残念ながら、その試みは成功しており、AKがベトコンやムジャヒディンの「貧者の兵器」として浸透している様子がよくわかる。同時に、操作性・メンテナンス性にすぐれたAKが、優秀な「子ども兵」の原動力となっていることが明らかにされる。

 誰でも簡単に扱える銃が誰でも簡単に手に入るようになったことにより、人を殺せる層が拡大する。つまり戦闘のプロ「兵士」の範囲が拡大し、女子供でも大量殺傷が可能となった。加えて途上国での不安定な国情に乗じた安易な「徴兵」の結果、ティーンエイジの子ども兵と化す。

子ども兵の戦争 つなげて読みたいのが、「子ども兵の戦争」。

 子ども兵は、「見えない兵士たち」と呼ばれており、その意味は強烈だ。小さいから見えにくいといったことではないし、非戦闘員として危険視されない存在という意味でもない。

 つまりこうだ。拉致や誘拐で動員された子ども兵は、安価で使い捨てられる存在なのだ。生き長らえる子どもはごく少数で、文字通りこの世の中から消えてなくなる。「見えない兵士」あるいは「子ども兵なんて最初からいない」という真の意味はここにある。

 そうした子ども兵に与えられる武器が、AKだ。先に述べたように、メンテナンス性にすぐれ、わずかな訓練で誰にでも扱うことができる。「子ども兵」を成り立たせている要因はさまざまだろうが、AKが誘因となっていることは事実だろう。

 10ドルの大量破壊兵器は、誇張でもなんでもなく、文字どおり世界を変えている。


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喫煙者の命の値段は高いか安いか「人でなしの経済理論」

人でなしの経済理論 ひっかけ問題な。

 まず、この話題がタバコについてだということを、いったんワキに置いといて、ある仮想的な――Xという製品について考えてみる。その特徴とは、こうだ。

  1. 製品Xは、ずいぶん昔から多くの人が使っているものだ
  2. 何年もかけて製品Xを使うと、健康被害が出たり、死んだりする確率が増えることを示す、まちがいのない証拠が山ほど集まっている
  3. 身近な愛する人と一緒に製品Xを使うと、彼(女)も死んだり、健康被害を受けたりする可能性が高まってしまう
  4. 全く見知らぬ人の周辺で製品Xを使っても、彼(女)も死んだり、健康被害を受けたりする確率が増える
 さて、これだけネタが出そろえば、製品Xを禁止するのが、マトモな社会政策だという結論を出してもいいのだろうか?

 答えは、「クルマ。なぜ喫煙は悪者あつかいされるのに、運転はそうじゃないんだろうか、という疑問を、著者はつきつけてくる。実際のところは、それぞれの便益と費用を比較した結果、喫煙派を上回る"反喫煙派"が形成されてしまったことが原因だと喝破する。

 そう、とどのつまりはトレードオフだという。社会問題を考える上で、経済学的な議論は有意義だという。ややもすると「正しいか間違っているか」という正義のイデオロギーの泥仕合に堕ちてしまう議論が、費用と便益に注目することで、同じモノサシで比べることができるのだ。

 もちろん、そのモノサシとは「カネ」だ。費用については損失分を金額で出せるだろう。想定される被害額と期待値で出せばいい。いっぽう便益側については、助かる人命や、回避されるケガなどについて、金銭で相当額を計算できる。「人の命はお金で贖えない」「人命をカネで計算するなんて!」という方が読んだら、一発で気を悪くするだろう。

 しかし、両方を同じ単位で見積もることで、比較検討ができるようになるわけだ。先の喫煙・嫌煙問題も、「いくらなら吸うか?」というミもフタもない話にできる。気づかされたのが、著者のこの指摘→「喫煙者がタバコを楽しんでいるという便益が見落とされがち」。

 んなことはない、喫煙者は「タバコの楽しみ」という便益を評価しているよ、というツッコミは、嘘だ。なぜなら、その便益を評価しているならば、「いくらなら吸うか?」という疑問に金額で答えられるから。「自身の健康を害してでも」という抽象的な議論ではなく、タバコそのものの費用や税金、保険料からクリーニング代を負担しても、という具体的な金銭の話になる――これが、トレードオフのミソ。「何物にも代えがたい」ということは、ありえないのだ。

 著者はタバコ問題をどうこうしたいワケじゃない。裁定をしたいのではなく、判断方法としてトレードオフが使えるよ、と言いたいのだ。けれども語りや例が極端で露悪的なので、読み人を選ぶ。例えば、「死んだ人から強制的に臓器摘出したら」とか、「HIV検査がAIDSの拡大を防げるなんて嘘かも」といったヒヤリとするネタを"トレードオフの論理に従って"展開する。

 しかし、著者は巧妙に結論を避ける。「そういう研究成果もある」という言い方をして、統計に当たることもなく「どっちもどっち」とアイマイに終わらせている。デリケートな問題に快刀を求めているのであれば、肩すかしを食らうかもしれない。が、これは著者の言うとおりだろう。「正しいか間違っているか」が問題なのではないのだ。

 結局のところ、個人的にどう思うかではなく、一種の思考訓練だと考えた方がいい。例えば、臓器市場について賛否それぞれの書籍を[人体売買の告発書]集めたが、まさにこのトレードオフの考え方で議論が可能となるだろう。ただし、どっちに加担するのかによって、カネの計算方法が変わってくるから厄介だろうね。お題の「喫煙者の命の値段」は、どっちに付くかによって変わってくるだろうし。

 本書の本質について、訳者の山形浩生氏はズバリこう述べる。「裏テーマは、経済学者はいかにして人の神経を逆なでするか」。くだけた語り口や、ミもフタもない論旨に、最初は「山形氏がイザヤ・ベンダサンをやろうとしてる!?」などと思ったものだ。つまり、本書は翻訳書の体裁をとっているものの、原著者はフェイクで実体は山形氏――などと妄想して楽しめる。

 むしろ山形ファンにオススメしたい一冊。

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「本の未来をつくる仕事/仕事の未来をつくる本」がスゴい

本の未来をつくる仕事・仕事の未来をつくる本 一冊のうちの、どちらもスゴ本。

 「どちらも」という言い方をしたのには、ワケがある。

 なぜなら、本書は右開きにも左開きにもなる、両面仕立てなのだ。右開きのタテ書き側は、「本の未来をつくる仕事」というタイトルで、ブック・コーディネーターとして手がけたプロジェクトが紹介されている。左開きの横書きサイドでは、「仕事の未来をつくる本」という題名で、会社を辞めてから今に至るまでの仕事のノウハウを抽出し、同世代向けへのメッセージにしている。レコードならA面B面なのだろうが、本書はどちらも「A面」であるところがミソ。

      「本の未来をつくる仕事」 ≡ 「仕事の未来をつくる本」

という本書そのものが、昨今の書籍の流通・販売についての問題提起と解決事例となっているところがスゴい。「一冊で二度おいしい」というよりも、むしろ「一冊で二倍うまい」というべき。

■ 本の未来をつくる仕事

 まずは、「本の未来をつくる仕事」。「本が売れない」とお悩みの出版・流通関係者の方は、頭ガツンとやられる一冊(の半分)となっている。いままでの"本"観からブッ飛んだアイディアをごろうじろ。

 たとえば、古本の文庫がクラフト紙に包まれている。中身が見えない代わりに、その本の一節を引用したテキストが印刷されている。なんだシズルかと侮るなかれ。もう片面には、なんと住所とメッセージを書く欄が印字されているのだ。

 つまり、これは本を「絵葉書」にしてしまったのだ(実際、210円のゆうメールで送達可能)。購入者はこの「絵葉書」を選ぶ際、引用文から類推するだけでなく、誰に贈るかも考える愉しみが生まれてくる。タイトルや著者といった先入観をとっぱらったところで本を選ぶという体験だけでなく、贈った相手に「どうだった?」とコミュニケーションのきっかけになる。

 あるいは、この「非マスプロダクトとしての本」という発送がスゴい。本というものは、印刷された段階ではマスプロダクトといえるが、何かしらの書き込みが加わった瞬間に、世界に一冊しかないオリジナルなものとなる。通常ならば「書き込み有」でブックオフで100均箱にされてしまうのに、これを逆手にとって、むしろ商品価値が上がっている、と考えるのだ。

 このコンセプトをもとに、訪れた人が任意の色とペンを選んで、好きな本に自由に書き込みをすることができる。昔の図書館の貸出カードのように、名前と日時が記録する用紙が添付されており、自分の痕跡を残すことができる(飲み屋やラブホの"ノート"やね)。本は期間中展示され、購入者は後日、郵便で届けられるという仕組み。何が書き込まれているかのドキドキ感は、購入者のもの。「本とはノートだ」と喝破したのは松岡正剛だが、ここではさらに一歩進めて、複数人による「シェアードされた知」として本と向き合える。

 まだまだある。一部を抜粋すると、こうなる。

  • 会員制・予約制・入場料制、新しい本との出会いを提供するブックルーム
  • 本が一冊もない書店 (←コロンブスの卵!)
  • 本好きの美容師を呼んで「あなたの一番好きな本を一番かっこよくカットしてください」
  • 文庫本のカバー背だけを使ったコラージュ的平面作品
  • カバーを外した文庫本の表紙をくりぬいて、フォトスタンドにする
 著者・内沼晋太郎の手にかかると、本が「本」っぽくないのだ。本・書籍・書物を、わたしとは異なる観点から捉えなおし、関係を再構築しているかのようだ。「本→読むもの→書店、amazon、図書館」といった"閉じた"発想しかできないわたしには、驚くばかり。

 こうした成果を通じ、著者は、ある仮説が事実である手ごたえを見つける。出版不況といわれるが、出版業界「の外側」には、本を取り扱いたいというニーズを指摘する。一方の出版業界の側にも、既存の流通システムに疑問や限界を感じていることも事実だ。そして、そうした「枠」を超えた取り組みを、具体的なプロジェクトの形で見せてくれるのだ。

■ 仕事の未来をつくる本

 次は、「仕事の未来をつくる本」。「自分の仕事」に自信が持てない人が読んだら、頭ガツンとやられる一冊(の半分)となっている。やりたいことを考えるにあたり、「お金をもらう仕事」と「お金をもらわない仕事」の違いを意識しながら、戦略的に仕掛ける「しかけ」そのものを解説する。

 もちろん、「定職+週末起業」や「定業+バイト」の2足のワラジの話はよくある。しかし著者がスゴいのは、片いっぽうのワラジを「お金をもらわない」と位置づけてしまっているところ。ただ内的に消費する「趣味」ではなく、外側へ向かって立ち上げる活動(プロジェクト)だと強調する。

 では、金銭に結びつかないことが「仕事」になるのかって?まぁ結論を急ぎなさんな。

 著者はまず、「お金をもらわない仕事」を見つけろという。ポイントは「やりたいこと」を実現するというよりも、「なりたい感じ」のイメージを抱いて、そのイメージを「かけ算」で少数派にせよという。つまりこうだ。自分の好きなもの、経験があるもの、誰かの相談に乗れるようなモチーフを、複数組み合わせるのだ。

 たとえば「花」×「売る」なら「花屋」にしかならないので普通だが、「花」×「食べる」だと、Edible Flower になって、ちょっと意外。さらに、「花」×「食べる」×「音楽」だとどうだろう。花を敷き詰めたクラブイベントで、食用花を使ったフードを提供し、花にあわせて選曲したDJをやる――単純なアイディアがかけ算を経ると飛躍的に希少なものになっていく様が面白い。

 さらに、「お金をもらわない仕事」に強度をつけるために、戦略的アルバイトを推奨する。キャリアや銭金のためではなく、上記のモチーフを裏付ける経験を積むことを目的としたアルバイトだ。漠然と「社会経験を積む」とはまるで違って見えてくるだろう。他にも、業界の全体像を知ることで、業界「の外側」からの位置を自覚して斬りこみができるという指摘や、旗印は鮮明にして、メンツは疎結合の方が合うという考えは、たいへん参考になった――というか、意識して自分のモノにしたい。

 そして、「お金をもらわない仕事」が「お金をもらえてしまう仕事」にシフトするかもしれない。ところが、ここでもまだ、「お金をもらわない仕事」にこだわるのだ。最初に「お金をもらわない」と定義した仕事で食べていけるようになったら、それは「お金をもらう仕事」として扱えばいい。しかし、だからといって「お金をもらわない仕事」をしなくてもいい理由にはならないのだ。

 なぜなら、「お金をもらわない仕事」は、「お金をもらわない」という前提で成立しているのだから。ややこしくてすまぬ。著者はもっとズバリとこう言い表している。

繰り返しになりますが、「お金をもらう仕事」である限り、フィールドは競争の激しい、「資本主義経済」です。しかし、「お金をもらわない仕事」は、「お金はいりません」といえるからこそ、「ビジネス」を度外視した、「見たことも聞いたこともないもの」を生み出せるのです。「お金をもらわない」ということの強みは、そこにあります。
 「やりたいこと」が実現できてハッピーだった人が、いつしか「(やりたいことが)お金になってうれしい」に変わり、いつしか「お金がもらえないと嬉しくない」に変わってしまう――著者は、その危険性を指摘する。これは、たくさんの起業家が踏みしめてきた地雷道やね。似たような道に入り込んでいるわたしにとって、よい戒めとなったナリ。

自分の仕事をつくる その一方で、デザイナーの西村佳哲が書いた、「自分の仕事をつくる」[レビュー]を強烈に思い出す。いい仕事をする人は、「働きかた」からして違うはずなのだが、まさにその通りだと確信できる。やり方が違うから結果が違う。いい仕事をする人のセンスは、まず最初に、「働きかた」を形作ることに投入されている。

 もちろん出発点は「自分」なんだが、仕事を通じて、他の誰も肩代わりできない「自分の仕事」をすることになる。資本主義経済で生きていくことには変わりがないが、その外側からの発想を得るためのやり方(=お金をもらわない)がスゴい。これも「働き方」の具体的な一つだと思う。マネするというよりも、わたしの中で実現していこう。

 本そのものと、本が置かれる場所と、本に込められたメッセージを通じて「人」が見えてくる、なによりも、著者・内沼晋太郎がスゴい。そういうスゴ本。

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やっぱり尻が好き「お尻とその穴の文化史」

お尻とその穴の文化史 女は、尻だ。

 もちろん、おっぱいも大切だ。そんなことはガッテン承知してる。しかし、おっぱいの谷底と、尻のあわいめ、どちらが見たい?と自ら質してみよう。結果は明白だ、おっぱいは尻の代替物なのだから。おっぱいの谷間から出てくるものは、色香や乳首にすぎない。いっぽう、お尻のあいだからは、糞尿だけでなく釈迦やキリスト、あなたやわたしも出てきたのだ。

 そんなお尻好きへの逸品が、これ。

 本書は、偏見と差別の仕打ちを受けてきたお尻とその穴について、医学的・歴史的観点から考察している。アヌスの機能にはじまり、浣腸やスパンキング、ソドミーの歴史が、豊富な図表とともに紹介されている。同時に、お尻やアヌスに魅せられた人びとの芸術的成果が、古今東西関係なく紹介されている。肉体の最も秘められた部位に関する知見をもとに、古代からある命題「アヌスは性器か排泄器か?」について、あらためて考えると興味深い。

 まず「お通じ」とは何かを、医学的見地から徹底的に解説する。人間の行為としての排泄を微に入り細をうがち説明する。回数、内容物、固形から液体、気体の分析から、成分、色、においを「まるで目の前で見ているかのように」示す。そして、「お通じ」を通じて人の健康状態を診る医師の歴史も詳らかにしてくれる。匂いや味(!)によって、病状を判断していたそうな。

 お通じの歴史は、浣腸の歴史につながる。主に器具を中心に、浣腸の歴史をオーバービューする。浣腸と洗浄剤は、肉体と魂を洗浄すると信じられてきたそうな。特に、中世~19世紀までは、浣腸の黄金時代ともいうべき時代で、紳士も淑女も、老いも若きも、病気になったら浣腸するのが日常だったという。ときには装飾品と見まごうほどの浣腸セットもあるが、なかでも一人でできる「セルフ浣腸キット」には瞠目した。無駄に豪華ナリ。

 好奇心を満たされるだけでなく、実用的な知識も得られるぞ。「正しい座薬の入れ方」なんて、まさにそれ。これまで、尖っているほうが「入れる方向」だと信じていたが、まったく逆だそうな。座薬は平らなほうから入れるのが正しい。そうすると、尖ったほうは直腸内で座薬を奥へ推進する役割を果たすそうな。腸管が狭まろうとする圧力が尖ったほうに働くため、平らかなほうが前に進むという原理らしい。

 あるいは、マリリン・モンローの死の真相は浣腸の事故であるという仮説は、大胆かつ説得力がある。死因となった毒物が消化管から見つかっておらず、飲み込んだ痕跡がなかったことや、大腸や直腸の状態が充血して紫色になっていたことから、クロラール浣腸の事故だと推察する。浣腸の失敗かぁ…マリリンおそるべし。

 さらに、ソドミー(アナル・セックス)の歴史が圧巻だ。キリスト教の最大のタブーなのだが、古代ギリシャやインド、中国、日本の例を挙げて、性的快楽の器官として愛されてきた歴史を振り返る。筆者に言わせると、アナルに対する性的な願望は、眺め、さわり、撫でさすり、つかみ、挿入したいという欲求にかわるという。そんな欲求が社会的・宗教的抑圧をくぐりぬけ、文化として花開くさまは涙ぐましいほど。

アヌスとお尻は、想像力のあまりない人間にとってすら魅力的な場所であり、すこし大胆な人間にとっては、あたらしい喜びを与えてくれる謎めいた穴であり、さらに大胆な人間にとっては、タブーを破ることでなおさら刺激的になる性の香辛料なのである。
 もう一歩進むと、尻はスカトロジーの殿堂になる。

 象徴としてのアヌスから、地獄の門としてのアヌスを紹介している。尻は刑罰の対象ともなっていたようだ。たとえば、真っ赤に焼けた鉄の棒を尻穴に押し入れる刑や、飢えさせたネズミを尻穴に押し込み、狂ったネズミの歯と爪で穴を押し広げさせて出血・ショック死させるものが紹介されている。読んでるこっちの尻がムズムズしてくること請合う。

 自分のモノなのに、あまり馴染みがないアヌス。液・固・気体を自動判別し、外界とのエアロック役を果たすアヌス。巧妙精緻なインタフェースであるアヌス。

 そんなアヌスに、親しみを感じられるようになる一冊。

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【告知】 「このキスシーンがスゴい」3冊を選んで、週刊アスキーにてご紹介

キスシーンがスゴい3冊を選んで、週刊アスキー5/26号で紹介した。人生を変えてしまうようなキスだ。バリエーションもシチュエーションも様々な三態なので、これを超えるキスも沢山あるかと。スゴいキスをご存知なら、ぜひ教えて欲しい。

週刊アスキーのブックレビュー「私のハマった3冊」で書かせていただいている。好きに選んでいいのと、好きに書いていいので、かなり嬉しい。かれこれ一年以上続いているので、このエントリにて改めて告知。掲載より一定期間を経た後、このblogにて公開する(編集部より許諾済み)。もちろん過去分も公開しますぞ。

3冊縛り・文字数制限つきの「スゴ本」を、お楽しみに。

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つい悪用したくなる「サブリミナル・インパクト」

サブリミナル・インパクト 自衛のためだけでなく、活用のために読むべし。

 無意識の認知メカニズムが、本人の意思を「意思決定」しているよ、という。さらに、そうした認知系に直接トリガーをかけ続けているのが現代社会で、わたしたちは自分で選んでいるようにみえても、それは制御された結果なんだよ、と主張する。

 SFでさんざん弄ばれてきたテーマなので、別に驚きゃしない。が、ここまで検証されると、恐ろしいを通り越してこっちが利用したくなる。マスメディアを通じた大衆誘導や世論操作、欲望を活性化させるコマーシャリズムは、もはや「古典」。むしろ、騙されていることに自覚的になることで、毒をもって毒をコントロールできるようにならないと。

 たとえば、新型インフルエンザ。甘く見るのは問題だが、露出操作の裏側に、"意図"を垣間見ることはできないか。マスコミ露出が激しくなるにつれ、「なぜ今?」という疑問が出てくる。流行は以前からあったにもかかわらず、あるタイミングでバースト的に報道され、大型花火を打ち上げるようだ。火花の陰に目立たなくなったのは、たとえば、クライスラーの経営破綻がある。

 もちろん陰謀論にするつもりはないが、インフルエンザの報道により相対的にインパクトが減ったのは事実。パンデミックという恐怖でもって、世界恐慌の恐怖を糊塗したことになる――本書のリクツを適用すると、こんな「見方」を描くことができる。

 上記の「想像」は、わたしの妄想かもしれない。ただ、本書を読むと、どうしてもそんな目になってしまう。たとえば本書では、「なぜそれを買うのか?」や「リメイク版がヒットする理由」といった消費者心理にターゲットをあてている。消費行動の正体は予想どおりかもしれないが、翻って自分は?と問い直すと愕然とするはず。本書で指摘された、まさにそのまんまだから。

 さらに、盗めるアイディアもある。「"快"はどこから来るのか?」なんて話からは、「親近性と新奇性」という古典的なアイディアをいただいた。

 つまりこうだ。革新的なアイディアが世を席巻するとき、そのアイディアそのものは完全に新しいものではない。どこかで目にし・耳にしたという、なじみ深さが必要なんだ。懐かしくて、新鮮に感じられるものに、わたしたちは快を見出す[「詩学」は原則本]。音楽であれ、舞踏であれ、原則は一緒。アリストテレスの時代から、なじみ深さと目新しさが快楽の原則なんだね。これを応用すると、ベストセラーの傾向と対策を押さえ、仕掛ける書き方・売り方ができる(ハリポタ+スターウォーズ→ドラゴンライダーとか)。

 いっぽうで、疑問も出てくる。大衆心理の操作と認知メカニズムを論じているにもかかわらず、その基本の書が欠けているのが不思議だ。参考文献として真っ先に挙るべき「プロパガンダ」と「影響力の武器」が、二冊とも欠けている。本業が知覚心理学なのだから、知らないはずはないのだが…

 あるいは、政府やマスコミによる意識操作の例としては、「KY」や「自己責任」といった格好の素材があるにもかかわらず、スルーされている。「納豆ダイエット」や「ポケモン事件」といった"無難な"ネタを引いてくる。斬鉄剣で豆腐を両断しているようで、残念。いくらでも悪用が利くのに、自制して筆を矯めている(溜めている?)ようだ。

 ならば読者が利用してやろうではないか、と思わせる一冊。

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持った本が重くなる「重力のデザイン」

重力のデザイン 本を読むという行為を、"デザイン"の視点から分析する。そこから、デザインの本質は「重力」の演出にあることを論証する。

 あまりに無意識にやっていたことを、あらためて指摘されることで、あッと気づかされたのが、「ページ」と「レイアウト」のメッセージ性(の消失)について。

 つまりこうだ。本を読む行為は、ふるまいからすると、ページをめくる行為の累積になる。しかし、読み手の意識からは「ページをめくったこと」は消失しているという。そこに改ページという切断があり、それを見ているにもかかわらず、「ないもの」として扱われる。

 同様に、版面をページのどこに置き、どう区切るか、という問題もある。たとえば、9ポイント43文字×17行からなる文字の塊。これをページ内で下げれば、文芸風に変貌するし、上げれば評論のにおいが立つ。たった3ミリのちがいでページの風景がガラリと変わってくるのは、レイアウトがもたらす重力だろう。

 そして、ページやレイアウトからの演出にもかかわらず、読んでいるときは、「ないもの」として扱われる。この重さを感じながら、無視している。あたかも、地球の重力に抗しながら、無視してふるまうように。

 さらに、比喩的ではなく、文字どおり、「文字」そのものも重力に支配されている。文字には上下があり、左右がある。そして、著者に言わせると、本という「箱」は上下方向に立っていなければならないという。本は、塔や石碑のように、あるいは「2001年宇宙の旅」のモノリスのごとく、地表に垂直に突き刺さっているべきだという。

 しかし、本が読まれるときの面は、様々にある。机に平たく置いたり、寝転んでさかさまになったり、斜めになったり、現実としての書物は自在に動く。重力とともにある人が本を読むとき、人の重力感と版面の上下方向は、ほとんど一致していないのだ。そして、本のなかの重力と、読み手が受けている重力は、それぞれ存在しているにも関わらず、「ないもの」として了承される。

 同じことが、写真についても語ることができる。「めくること」という暗黙の了解は、写真の画像の重力と、それをめくっている手が受けている重力を完全に無視しているから、成り立つ。写真を見ている人は、「画像のなかの重力」と「画像という面の重力」を同時に見ることができない。どちらかを見つめれば、片方が消える、地と図の面が入れ替わるようだ。同体でありながら片側しか姿をあらわさないことで、「平面を繰る」という官能を、本と写真は共有しているという。

 さらに、荒木経惟や森山大道の写真集を分析することで、「写真のなかの重力」を感じ取る。レイアウトやDTP、電子写植の現場からの検証を経て、ユニークな結論に達している。曰く、「本とは、テクストを世界から隔離させつつ、世界へと再着陸させるための装置なのではないか。書物が着地しているからこそ、読者はテクスト空間にあらためて入っていける」というのだ。

 そして、ページや写真という平面は、「表現された重力」を湛える場で、メディアとは、「表現された重力」を享受させる回路なのだという結論に到達する。わたしが日常世界から受ける重力から隔離されつつ接触する面が、本のページなのだ。

 これまで、本からは磁力(魅力?)のようなものを感じ取っていたが、ページがもつ「重力」まで意識できる。フラット化されたネットの文字列と比較して、パッケージ化された本の「重力感」を感じ取る。物質的な重みと、ページ内に保持される重みと。

 読み終えると、本書が急に重く感じられるようになる。発見に満ちた一冊。

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「眼の冒険」はスゴ本

眼の冒険 「眼の経験値」を上げるスゴ本。

 のっけからのろけで恐縮だが、嫁さんは料理上手だ。料理学校に行ったこともないのに、なぜ? ――訊いたところ、「美味しいものを食べてきたから」とのこと。海の幸・山の幸に恵まれたところで育ったからだという。旬の素材に親しんでおり、いわば「舌の経験値」を積んでいるのだろう。

 これは、眼の経験についても同じ。いいデザインを見ることで、眼が肥える。同時に素材に対し、「いいデザイン」であるとはどんな表現なのかを感じ取れるようになる。いままで「感性を磨く」という言葉で片付けられていた経験は、「本書を読む/視る」に置き換えてもいい。

 スーパーマンからマッドマックス、ピカソやエッシャー、ウォーホルといった実例がてんこ盛りで、絵画や写真、タイポグラフィやイラストから、デザインの手法・見方が紹介される。モノとカタチ、デザイナーはこれらをどのように見ているのかが、デザイナー自身の言葉で語られる。なじみ深い作品を入口として追いかけているうちに、いつしか自分の見方を変えてしまうぐらいの破壊力をもつ。

 たとえば、松本清張の「点と線」の発想。社会派ミステリの傑作なのだが、これを傑作たらしめているアリバイ工作が、「眼の冒険」において見事に視覚化されている。

 つまりこうだ。アリバイ工作のポイントとして、「列車の発着が激しい東京駅で、一日に一回だけ、プラットフォームをまたがって見通せる数分間」がある。これは、列車ダイアグラムから得た着想であることは想像がつくだろう。しかし、「眼の冒険」ではもう一歩進め、「『点と線』の連載当時は、東京タワーが建設中だった」ことを指摘する。

 そして、清張が通っていた有楽町と、東京タワーのある芝とは目と鼻の先であることを気づかせる。骨組みだらけの東京タワーから、列車ダイアグラムへ。このアナロジーを、エッフェル塔を下から見上げた写真と、実際の列車ダイアグラム図を並べることで、"つなげて"みせる。

 あるいは、最後のページにガツンとやられるかもしれない。著者は、ほぼカクシンハン的に、この写真を並べてみせる。そこに類似を見つけるのは人の感性だし、その連想に危うさを感じるのも、人の業だ。

 向かって右側、318ページは、1936年のナチスのニュルンベルク党大会のフィナーレを遠望したもの。夜空に向け垂直にサーチライトで投射した、縦ストライプ状の壮麗な光の列だ。ちらちらする縦ストライプは催眠効果をもたらすという説明がついている。

 そして、左側、319ページいっぱいに広がっているのは、2002年に世界貿易センター(WTC)崩壊跡地で行われた追悼式の写真だ。ツインタワーを「光」で再現させた画像は、右ページの強烈なアナロジーとなっている。いや、逆か。WTCのアナロジーとしてニュンベルクを連想する「眼の経験」がスゴいのだ。

 あるいは、映画のストーリーを視覚化する試みがある。ストーリーを構成するキャラクターや出来事、関係性などが、アイコンや矢印、タイポグラフィや色で表現される。一種の逆転の発想だ。つまり、脚本を映像化したのが「映画」なのではなく、キャラやイベントはアイコンのようにドラッグ&ドロップ可能に思えてくる。

 例として、「遊星からの物体X」のチャートがある。エイリアンが誰の人体を乗っ取っていくかがアイコン化されたグラフックで描かれるのだが、これを「アート」というよりも、動的ストーリーと呼びたい。ホラー映画が、アイコンの動きに応じて二転三転していく、いわば「ストーリー・シミュレーター」のように見えてくる。

 異なる回路がつながってゆき、自分の認識が開かれていく、デザイン・アイディアの思考展――そんな経験ができる。そう、「読む」というより「経験する」一冊

 舌を肥やすように、眼を肥やすべし。

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