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怪物側の事情「サルガッソーの広い海」

サルガッソーの広い海 化学変化させる性質をもつ。併読すると劇薬の触媒と化す。

 あるイギリス紳士と結婚したクレオールの女が「狂っていく」さまが緻密に描かれる。一読するとサイコ悲劇と写るが、この「狂った」女が自分の記憶とつながった瞬間、いいようのない戦慄に犯されるかもしれない。

 ネタバレ系ではないので、まずこの小説の正体を明かそう。女の名は、バーサ・ロチェスター。英文学の最高傑作として挙げられる「ジェイン・エア」では怪物として扱われる彼女こそが、この小説の主人公となっている。

 メロドラマを面白くするには悪役が必要だ。その対比のおかげで、ヒロインは気高く、賢明に映えることができる。代わりに悪役の方は、狂気と醜怪を一手に引き受け、ヒロインの幸福を破壊する存在となる。C.ブロンテは偏見の材料を西インド諸島に求めた。わかりやすい偏見の観念として、髪の毛や肌の色の「黒」が強調され、飲酒と狂気に陥ったとはいえ、人外として容赦なく扱われている。光文社古典新訳の「ジェイン・エア」では、こう描かれている。
ジェイン・エア

「ぞっとするような恐ろしい顔でした――ああ、あんな顔は見たこともありません!色変わりした、獰猛な顔でした。ぎょろりとむいた赤い目と黒ずんで膨れあがったものすごいあの顔を忘れられたら忘れたいのです!」(下巻p.182)

狂人は彼の喉につかみかかり容赦なく締めつけ、彼の頬にがぶりと噛みついた。二人は揉み合った。大柄な女性で、背丈は夫と同じくらい、その上ぶくぶく太っていた。(下巻p.186)

 では、なぜ、こんなモンスターとなったのか? やはり、「ジェイン・エア」で説明されているように、呪われた家系や血のつながりこそが原因なのだろうか。「サルガッソー」を読むと、そこにクレオールへの蔑視の視線が混じっているように見えてくる。イギリスの貴族社会を成り立たせている植民地の実体とともに、この欺瞞があばかれる。彼女、および彼女の家系の「狂気」が、形成されていくさまが分かるにつれて、イギリス社会が覆おうとしていた嘘が、ロチェスター卿――ジェインとつながろうとし、バーサとつながろうとしていた男――を通じで展開される。次の一文が象徴的だ。ロチェスター卿はカリブの島で一種の「魔術」をかけられるのだから。
なににもまして彼女が憎かった。なぜなら彼女はここの魔法と美しさに属していたからだ。彼女はぼくを渇いたままほうり出し、そのせいでぼくは見つける前に見失ってしまったものを求めて渇きつづける人生を送ることになるのだ。
 彼女の狂気は、本物だろうか? もちろん、あるところからホントの狂気に陥っていることは分かるのだが、そこに至らしめたものは何・あるいは誰なのか――これは、裏返された「ジェイン・エア」。古典的なメロドラマを欺瞞に満ちたミステリに化学変化させる。

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コメント

こんにちわsun
なんだか読みたくなっちゃいました!

投稿: coo | 2009.04.22 17:13

大学で「Jane Eyre」の勉強をし、「Wide Sargasso Sea」も関連付けて学びました。1度読んでみますnote

投稿: | 2011.07.28 11:54

>>名無しさん@2011.07.28 11:54

コメントありがとうございます。これを読むと、「ジェイン・エア」がまるで違った小説に変化します、化学変化のように。

投稿: Dain | 2011.07.29 19:08

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