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ガツンときたスゴ本「パレスチナ」

パレスチナ アメリカ人のジャーナリストから見た「パレスチナ」が迫る。

 本書を稀有なものにしているのは、「マンガ」なところ。画き手はジョー・サッコというマンガ家。フォト・ジャーナリストではなくコミック・ジャーナリスト、つまりマンガでパレスチナ問題に斬りこんでいるのだ。著者は1991年にヨルダン川西岸地区とガザ地区を訪れ、専ら占領地区のパレスチナ人にインタビューをする。そのときの感情、状況、境遇をつつみ隠さず、あまさず描きつくす。下手な物語化なぞせず、自分自身が登場し、一人称で語る。

 いわゆる「マンガで分かる」ものではないことに注意。「分かりやすさ」なんぞ、これっぽっちも無い。入り組んだ主義・信条・身の上話をそのまま画き下す。「アラブ対ユダヤ」あるいは「イスラーム対イスラエル」といった対立構図を見ることも可能だが、さらに相対化され、「そうした構図で見ている人」として画かれている。

 この相対化というか、取材対象への距離のとり方が面白い。作者は、どのインタビューにも顔をだし、肉親を殺された話や、収容所の生活、インティファーダの様子をふむふむと聞く。そのふむふむ顔の裏で独白する「思い」はなかなか辛らつだ。

   とにかく、ぼくは仲裁のためにいるわけじゃないようだ
   正直いうと、ぼくの大作マンガの成功は対立にかかっている
   平和じゃ金にならん

 そのいっぽうで、自問することも忘れない。「こんなこと書いて何になる?」とインタビュイーに語らせ、「パレスチナはジャーナリストだらけなのに、なにも変わっちゃいない」と責めさせる。あの場所は「正義」がありすぎるのだろう。どこかの立場に拠った、ただ一つの「正義」を押し通そうとすると、たちまち弊害が生じる。

 だれかの「正義」に相対するものは、「悪」などではなく、また別の正義なのか。姦通した娘に対するイスラム法の家族版があり、投石をしたか・しなかったかもしれない子どもに対するイスラエル軍版の正義、占領軍が従うべきジュネーヴ条約の指針、占領軍の撤退を呼びかける国連決議――ガザでは正義を選ぶことができるようだ。

 マンガという手段は、画き手の「耳目」というフィルターを通した現実を、画き手の「手」を通じて表現したもの。バイアスとデフォルメが二重にかかっていることを承知の上で、その「ゆがみ」を徹底して描く。兵士の銃床が奇妙にクローズアップして描かれ、ふりあげられた棍棒がグロテスクなまでに巨大に見える。ねじまげられた「現実」へ当惑した感覚が、ゆがんだコマ割りと不均衡なパースにより、いっそう増幅される。

 この極端な表現を見ていると、別のマンガを思い出す。山田芳裕の「へうげもの」をご存知だろうか?心情の揺れを示すため、キャラの表情を誇張したり、パースを曲げてまで極大化させる。あるいは、スクリーントーンを使わず、徹底した書き込みをしているところは、東風孝広作画の「カバチタレ!」にも似ている。

 それだけではない。意見が交錯する様子が、入り組んだフキダシの「足」によって語られたり、間白(コマとコマの間)を真っ黒に塗りつぶして語り手の感覚を表現する(語り手は拘束され、頭に袋を被せられ、狂いかけている)。淡々としてて恐ろしいのは、同一のコマが均等に整然とならぶページが続くところ。最初は1ページに3コマで、突然拘束されるところから始まる。そして、監禁生活が始まる。彼が壊れはじめる過程が、6コマ(2×3)、9コマ(3×3)、12コマ(3×4)、16コマ(4×4)、16コマ、20コマ(4×5)、20コマ、20コマ、そして20コマと続く。圧倒的な暴力シーンよりも、この部分に強烈なもの感じた。

 いっぽうで、何もできない自分も思い知らされる。ここでいう「自分」とは、画き手のジョー・サッコでもあり、読み手のわたしでもある。このセンシティブな問題について、テルアヴィヴに住むイスラエルの女性と語り合う場面がある。当然、ガザを見てきた著者に賛成できるはずもなく、堂々めぐりのおしまいに、彼女はこう言い放つ。

   イスラエルは占領地について言いわけをするのはうんざり!
   戦争があった、わたしたちは土地を勝ち取った!
   いまじゃ、わたしたちの土地なのよ!

 太字化は原文まま。著者が何もいえなくなると同じように、わたしも黙すほかない。それでいて、パレスチナの老人の言葉が追いかけてくる。

   あなたも人間だ、わたしも人間だ
   みな塵から生まれたのだ…

   ローマ人も、ビザンティンの人も、
   十字軍も、トルコ人も、イギリス人も、
   みな、ここにきたんだ

   彼らはいま、どこだ?
   みな、去っていった…

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既成概念を粉砕する「奇想遺産II」

奇想遺産2 既成概念を粉砕する建造物の写真集。「奇想遺産」[レビュー]の続編なんだが、より破壊度はパワーアップしている。

 グローバリズムの掛け声により均質化してしまった世界へのアンチテーゼとして、本書は生まれたそうな。おかげで奇妙キテレツな建物がこれでもかとでてくる。もちろん「見慣れた」「有名どころ」の建物もあるが、それはそれ、なぜその建物が「奇想」なのかが解説される。

 例えば、表紙の「ニューヨーク、ニューヨーク」。ラスベガスのストリップ通りにあるホテルなんだが、エンパイアステートビル、クライスラービル、自由の女神といったニューヨークを象徴する建物を縮尺コピーしている。その「模型」のあいだを時速100kmで駆け抜けるジェットコースターは聞いたことがあった。

 けれども、一体なぜ、こんな「模型」を作ったのだろうか。解説がふるってる。アメリカはヨーロッパという本物をコピーするのを止めて、アメリカ自身を堂々とコピーし始めたのだという。ヨーロッパコンプレックスという暗い影はみじんもなく、アメリカはついにコピーしているおバカな自分自身を笑い始めたという指摘に、膝というより額を打つ。

 世界には、本物なんてどこにも無いんだという、アメリカの勝利宣言とも取れる。脱力せざるを得ないほどの究極の無教養都市、大衆都市がついに出現したのである――こう解説する隈研吾氏の文は抜群に面白い。建物に込められたメッセージを読み取り、あえて「誤読」することで、その本質をつかみとる。

 ロンドン市役所[google画像]がこれまたスゴい。傾いだ卵型のデザインは、一度観たらぜったいに忘れられない。知ってはいたが、解説とあわせて「読む」と、設計者の意図にたぶらかされているようだ。

 南側に倒れてしまいそうな形状は、直射日光を極力遮りながら、柔らかな光と景観だけを最大限に取り入れる傾斜角に基づいているという。しかも、方形ではなく卵型にすることで、建物の表面積を最小化でき、熱損失の最小化を可能としているそうな。さらにはガラス張りで開放的な議会場は、オープンな民主主義を象徴している――と、立て板に水。いちいちもっともらしいぶん、眉唾になる。「ホントはこんなヘンな形のを作りたかったんちゃう?」とツッコみたくなる。

 「死なない家」[レビュー]を作った荒川修作の「養老天命反転地」もある。とても不思議な「公園」なのだという。平らな場所はほとんどなく、注意深く歩かないと滑ったり転んだりする恐れがあり、通路は突然、行き止まりになったり、足元が見えないほど真っ暗になったりで、一瞬たりとも気が抜けないそうな。つまり、隅々まで管理の行き届いた、清潔、安全、無害な公共空間である「公園」の対極的な存在が、ここ。

 この公園はひとつの「提案」で、安全、無害、均質な方向へと一方的に進化した20世紀の空間へのアンチテーゼとなっている。利用者と公園が相互に徹底して干渉しあうことで、人間と空間の新しい関係性が生まれるのだという。そうやって滑りながら転びながら「他者」とかかわりあう積極的な生き方を取り戻せば、人は「死ななくなる」と言い切る。真偽さておき、徹底的に向き合いたい。

 パリ4区のポンピドーセンター[google画像]もある。美しさを追求する「お上品」なものではなく、伝統への挑戦であり、美と文化の本質を容赦なくムキダシにする「あぶない」作業であることを、この建築自体が雄弁に訴えているという。

 同時にこれは、アメリカ自体に対する痛烈な批判でもあるそうな。ディズニーランドに代表されるように、アメリカはロマンチックにうわべを飾りたてたハリボテを好む国民性だ。ポンピドーセンターのデザインは正反対、全てがむき出しで、ハリボテの対極にあるのだという。「アメリカ=表層=ハリボテ」を強烈に批判する書き手は、やはり隈研吾氏。本書は幾人かの共著で構成されているが、氏の文がいちばん「色」があっていい。

 建物はメッセージ。一流の建築家をヨリシロに、その「声」が訊ける、得がたい一冊。

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PMBOK4の変更点

PMBOK4 PMBOK(A Guide to the Project Management Body of Knowledge)の第4版をデジタルコンテンツとして入手したので、3版からの変更点をまとめる。なお、PMBOK4のデジタルコンテンツを参照するためにはPMI会員になる必要がある([PMI]が入口)。書影は英語のペーパーバック版。PMP取得を目指すなら必携かと。このエントリのまとめの目次は以下の通り。

 1. プロジェクトマネジメント計画書とプロジェクト文書の包含範囲の変更
 2. 定義変更 : 「変更要求」、「プロジェクト憲章」、「スコープ記述書」
 3. 削除/追加されたプロセス
 4. 知識エリアごとの変更内容

■ 1. プロジェクトマネジメント計画書とプロジェクト文書の包含範囲の変更

 まず、「プロジェクトマネジメント計画書」と「プロジェクト文書」が明確に異なるものとして扱われている。3版では「文書⊃計画書」と包含していたが、4版になると両者は別物だそうな。

 3版での両者の構成は以下の通り。

  主なプロジェクト文書
   ├プロジェクト憲章
   ├プロジェクトスコープ記述書
   └プロジェクトマネジメント計画書
      ├スコープマネジメント計画書
      ├スケジュールマネジメント計画書
      ├コストマネジメント計画書
      ├品質マネジメント計画書
      ├要員マネジメント計画書
      ├コミュニケーションマネジメント計画書
      ├リスクマネジメント計画書
      └調達マネジメント計画書

 4版での定義づけは、こうなる。「プロジェクト文書は、プロジェクトマネジャーの仕事をアシストする文書であり、プロジェクトマネジメント計画書は含まれない」。プロジェクトマネジメント計画書は、各種の計画書やベースラインにより構成される。

 4版では、次のカテゴライズとなっている。

  プロジェクトマネジメント計画書
   ├変更マネジメント計画書
   ├コミュニケーションマネジメント計画書
   ├コンフィギュレーションマネジメント計画書
   ├コストマネジメント計画書
   ├コストパフォーマンス・ベースライン
   ├人的資源計画書
   ├プロセス推進計画書
   ├調達マネジメント計画書
   ├品質マネジメント計画書
   ├要求マネジメント計画書
   ├リスクマネジメント計画書
   ├スケジュール・ベースライン
   ├スケジュールマネジメント計画書
   ├スコープマネジメント計画書
   └スコープ・ベースライン
      ├スコープ記述書
      ├WBS
      └WBS辞書書

  プロジェクト文書
   ├アクティビティ要素
   ├アクティビティ・コスト見積もり
   ├アクティビティリスト
   ├仮定条件の記録(Assumption log)
   ├見積もりの根拠
   ├変更記録
   ├憲章(プロジェクト憲章?)
   ├契約書
   ├期間見積もり
   ├見通し
   ├イシューログ
   ├マイルストーンの一覧
   ├パフォーマンス報告書
   ├財務観点からの要望書
   ├提案書
   ├調達文書
   ├プロジェクト組織構成図
   ├品質管理指標値
   ├品質チェックリスト
   ├品質マトリックス図
   ├責任分担マトリックス図
   ├RBS(Resource Breakdown Structure)
   ├リソースカレンダー
   ├リソース要件
   ├リスク登録表
   ├役割・責任割り当て
   ├納入者リスト
   ├ステークホルダー分析
   ├ステークホルダーマネジメント戦略
   ├ステークホルダー登録表
   ├ステークホルダー要求
   ├作業記述書
   ├チーム合意書
   ├チームパフォーマンス見積もり
   ├作業パフォーマンス情報
   └作業パフォーマンス指標値

■2. 定義変更 : 「変更要求」、「プロジェクト憲章」、「スコープ記述書」

 次に、「変更要求」の定義が広がっている。3版では、「是正措置」、「予防措置」、「欠陥修正」および「要求された変更」は、より一般的な用語「変更要求」に包含される。たしかにプロセスやフェーズで違う言葉を使ってはいるものの、意味合いは一緒だからね。

 次は、「プロジェクト憲章」と「スコープ記述書」について。3版では意味が似通っているため冗長だったとし、4版では重複部を削り、より両者の区別をつけるようにした。「何のためのプロジェクト?」に答えるプロジェクト憲章と、「プロジェクトで何するの?」の範囲を決めるスコープ記述書、性格が似ているからね。

 4版での各構成要素は、それぞれ以下の通り。

  プロジェクト憲章
   ├プロジェクトの目的と正当性
   ├測定可能なプロジェクト成果物と成功基準
   ├ハイレベル要望
   ├ハイレベルのプロジェクト記述書、プロダクト仕様
   ├マイルストーンスケジュールのサマリー
   ├予算のサマリー
   ├プロジェクト承認要求
   ├プロジェクトマネージャに責任と権限をアサイン
   └プロジェクト憲章に責任と権限を与える人の名前

  スコープ記述書
   ├プロダクト・スコープ記述書
   ├プロジェクト派生物
   ├プロダクトユーザー承認基準
   ├プロジェクトの境界
   ├プロジェクト構成要素
   └プロジェクト条件

■3. 削除/追加されたプロセス

 削除/追加されたプロセスは、次の通り。頭の数字は章節番号。

  • 4.2 プロジェクトスコープ記述書暫定版作成 → 削除
  • 4.7 プロジェクト終結 → 4.6 プロジェクト終結フェーズ
  • 5.1 スコープ計画 → 削除
  • 9.4 プロジェクトチームのマネジメント → コントロールプロセスから実行プロセスへ
  • 10.1 ステークホルダーの特定 → 追加
  • 10.4 ステークホルダー・マネジメント → ステークホルダーの期待をマネジメントに変更し、コントロールプロセスから実行プロセスへ
  • 12.1 購入・取得計画および12.2 契約計画 → 12.1 調達計画へ
  • 12.3 納入者回答以来および12.4 納入者選定 → 12.2 調達契約

■4. 知識エリアごとの変更内容

 プロジェクト統合マネジメントでの変更点。プロジェクトの目的(暫定版)はプロジェクト憲章で記し、プロジェクトの目的そのものはスコープ記述書で詳述する。その結果、4版ではプロジェクトスコープ記述書暫定版作成プロセスは削除されている。

 プロジェクトスコープマネジメントでの変更点。スコープ計画が「要求の収集」に取って代わっている。ステークホルダーを登録することで、プロジェクトに関心を示すステークホルダーを特定する。

 プロジェクトタイムマネジメントでの変更点。パソコンの普及により、アローダイアグラム(ADM)やアクティビティ・オン・アロー(AOA)手法はほとんど使われなくなったため、その旨が追記されている。ちょっとしたプロジェクトだと、アクティビティが鬼のように出てくるので、もはや手作業ではムリなんだろうね(作れるけど変更が鬼)。

 プロジェクトコストマネジメントの変更点。アーンドバリューがより「使える」ツールとして説明が強化されている。さらに、「パフォーマンスインデックスの達成度計算」が追加されている。

 コミュニケーションマネジメントの変更点。「プロジェクトチーム≒ステークホルダー」とは限らない。プロジェクトチーム「外」のステークホルダーが下す決定を予想することもできない。従って、「ステークホルダー要求」をマネジメントする必要が出てくる。これはコントロールプロセスから実行プロセスへ変更することで、記録/報告するものではなく、「実行」するものだと判断している。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 本編は時間を見つけてボチボチ読んでいる。Centuryがゴシックになっており、読みやすい。ステークホルダーのマネジメントに力点が置かれているようだ。いわゆる「プロジェクトへの要望」とはすなわち、プロジェクトチーム「外」のステークホルダーの要求なのだから。

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負け犬の皮をかぶった勝利宣言「おひとりさまの老後」

おひとりさまの老後 上野千鶴子というファンタジー。

 題名にだまされてはいけない。これは「千鶴子ヴィジョン」から見た老後のお花畑なんだ。しっかり年金をもらって、悠々自適のセカンドライフを謳歌できる、いわゆる逃げ切り世代へのエール本なのだ。

 お花畑では、男は役立たずなお荷物に過ぎないし、子や親族は資産を自由に使えなくする邪魔な存在となる。そんなものは放っておいて、「おひとりさま」になれという。どうせ老後は、夫に先立たれ/離婚するし、子どもはアテにならない。結局「ひとり」になるのなら、最初から「ひとり」を想定したライフスタイルがいいのだと。

 そして、子どもにカネを遺すと自立しないから、アタシが使うのが正しい。「夫のカネはあたしのもの、あたしのカネはあたしのもの」という金銭感覚で後家楽を目指すのが、日本の女の「上がり」なんだとけしかける。

 さらに、子孫に囲まれて暮らす老後観なんてウソ。「いっしょに暮らそう」という子のささやきは悪魔のささやき。財産を独り占めする魂胆だったり、親を放置する罪悪感からくる「義理介護」だったりする。最初は「親孝行」を演じられても、長期間なんてムリ、そのうち深刻な葛藤が始まる。ひとりの生活が染み付いてるから、いまさらゴキブリのように身を寄せ合った雑魚寝ができるかってんだと切る啖呵、カコイイ。

 ただし、家族「以外」での関係は培っておけと。用途に応じてパートナーの在庫ぐらいそろえておけと。さみしいといえる相手をちゃんと調達し、人間関係のセーフティネットを構築しておくのが、「おひとりさま」の心得だという。

――などとチヅコ節を咆哮する。「データによると」という枕詞なのにソースがなかったり、極論を「知人が言うには」で代弁させたり、レトリックはなかなかのもの。こいつを真に受けて立腹する人がいるが、これはファンタジーなの。リアルとして読むのなら、裏返して読むべし。つまり、これは、彼女がそうありたいと願う空想であり、自己正当化のためのセルフエビデンスなんだ。

 たとえば、アタシが父親と一緒に暮らせない理由は、「親孝行な娘」を演じられないからだし、アタシが母親を介護したのは、義理介護――ホンネに裏書された「主張」が垣間見える。でなければ、ひとりがいちばんなんだけど、寂しいとき相手してくれる人はキープしたい、という「ホンネ」はそのまま吐露される。

 あるいは、邪魔な家族から離れろとけしかけておきながら、やっぱり盆暮れの風は沁みるらしい。「大晦日ファミリー」といって、友人どうしで集まって鍋をすることを企画し、「気分はほんとうに家族のようだ」と無邪気に持ち上げる。彼女にとって家族は「ごっこ」したり「気分」で味わうものらしい。

 そして、「独身・子なし」と自分を「負け犬」呼ばわりする一方で、結局、女の老後は「ひとり」になるという(あるいは、「ひとり」になれという)。だから、最初からひとりを意識して、「確信犯で(原文ママ)家族をつくらなかった」わたしって、なんてリスクヘッジなのーという勝利宣言すら聞こえてくる。

 その勢いで吠える吠える。いつもピンピンしてて、ある日コロリと死ぬようなPPK(ピンピンコロリ)という発想は、「人間の品質管理」、すなわちファシズムだと噛み付く。あるいは、孤独死でなにが悪いと居直る。ひとりで生きてきたのだから、ひとりで死んでいくのが基本で、死ぬときにだけ、ふだんは疎遠な親族に囲まれるなんて不自然だという。自分自身への言い訳めいて聞こえるが、黙って読み流す。

 彼女は、ぜひとも、このライフスタイルを貫いてほしい、最期まで。

 ところで、孤独死といえば、「見えない」社会問題化となっているようだ。

ひとり誰にも看取られず もともと、阪神・淡路大震災の仮設住宅でひっそりと死んでいく老人を「孤独死」と呼んだのが最初なのだが、近頃では違うようだ。「ひとり誰にも看取られず」によると、東京の都市再生機構では、孤独死が4倍に増えている(1999年14件→2005年62件)。「死後3年放置」や「こたつに入って4ヶ月」となんてのもある。

 その背景には、現代社会そのものが抱える問題が次々と浮かび上がってくる。高齢化や世帯の単身化、都市化、離婚や未婚の増加、少子化、リストラ、リタイア、病気などによる失業、認知症、アルコール依存、鬱、引きこもり、ギャンブル、借金、暴力などによる家庭崩壊――続々とレポートされる。社会とも家族ともつながりをうしなってしまった人の絶望感を思うと、なんともやりきれない。

 そして、ひとたび孤独死が明るみに出ると、その部屋以外の住戸にも風評被害がおよぶ。「あのマンションで、あったらしい」と噂されただけで、マンション全体の資産価値が下がるといわれる。当然関係者はひた隠しにしようとするが、人間の死亡率は100% だし、下手に管理しようとしたら「プライバシー」という壁が立ちはだかる。「4月、こたつ4ヶ月は80万円かかった」とあるが、ほとんど都市伝説のように隠される。「見えない」社会問題となっているのはこうした理由だ。

 本書では、そうした孤独死を防ごうとする常盤平団地自治の奮闘を描く。プライバシーとコミュニティを両立させ、お互いを「監視」するのではなく「見守る」仕組みをつくる。「生きかたを選ぶ」という孤独死ゼロ作戦は、そのまま超高齢化社会の最前線となっている。

 本書によると、孤独死の背景には、自立を求める人間観が、人びとを「依存下手」にしてしまっているという。つまり、うまく人に頼ることができないのだ。さらに、男性は女性よりも強く「自立」に縛られており、助けを求めたくてもできないのが現実のようだ。

 特に、良くも悪くも仕事人間で、家や地域のことは妻に任せっぱなしというタイプが相当し、リタイア後のの生活に順応できず、生きる目的を見失ってしまう人も少なくないという。団塊リタイアに伴い、孤独死、ひきこもり死が大量に出てくるかと思うと暗然となる。加えて圧倒的に貧困化する社会が拍車をかける。そこには、「第二の人生を謳歌」するような余裕や、「気楽なおひとりさまの老後」を見出すことが、どうしてもできない。

 ここでもう一度、チヅコ節に戻ろう。

 彼女によると、死後放置といった異常な死に方をするような人は、生きているうちから異常な孤独(孤立)のうちにあったからだという。失業や離職、家族の不和といった事情で孤立した生活を送り、だれにも助けを求めずに窮地におちいった、主として男たちが、そうした死に方をするのだという。人は生きてきたように死ぬのだから。

 彼女はいう。結婚しなくてもそれなりにハッピーだったし、いざ結婚→離婚してもぜんぜんOKだという。親にならなくてもちゃんと「成熟した大人」になったし、シングルであることは、ちっとも「カワイソー」でも「不幸」でもないと胸をはる。ひとりで死ぬのはぜんぜんオーライだそうな。

 すこし昔の歌だが、「あの娘はハデ好き」というのがある。綺麗な女性が作った歌だ。

    あの娘はハデ好き  友達がいっぱい
    だけど入院した時  来たのはママだけ

    「遊びだけならば  都合がいいけど
    恋人には出来ない」  彼氏が笑った

    あの娘はハデ好き  いつも楽しそう
    だけどクリスマスの夜  淋しく過ごした

 ちょいと歌詞に手を加えると、

    あの娘はハデ好き  いつも楽しそう
    だけど日曜の午後  ひとりで逝った

 だろうか。この唄を思い出すたび、重たいものが胸をうつ。人は生きてきたように死ぬ。「『おひとりさま』はアタシの『らいふすたいる』なのだから、つべこべ言うな!余計なお世話!」と叫ぶように放つ彼女に、わたしはたじたじとなる。わたしだってどうなるか分からない。しかし、彼女のおかげで、どのような去り際を求めるかはっきりしている。

   あなたが泣きながら生まれる  笑いさざめく人に囲まれて
   あなたは微笑みながら死ぬ   涙ぐむ人に囲まれて

 人は生きてきたように死ぬ。彼女は、ぜひとも、このライフスタイルを貫いてほしい、最期まで。

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不可能とは、可能性だ「サイエンス・インポッシブル」

サイエンス・インポッシブル「不可能」とは自らの力で世界を切り拓く事を放棄した愚か者の言葉だ

「不可能」とは現状に甘んじるための言い訳に過ぎない

「不可能」とは事実ですらなく単なる先入観だ

「不可能」とは誰かに決め付けられる事ではない

「不可能」とは通過点だ

「不可能」とは可能性だ

「不可能」なんてありえない

Impossible is Nothing.

 わたしを射抜いたadidasの言葉を思い出す。

 SFのタネがぎっしり詰まった、けれども最先端の科学に裏付けられた科学読本。あるいは逆で、最先端科学でもって、SFのハイパーテクノロジーを検証してみせる。比較できない面白さに、かなりのボリュームにもかかわらず、イッキに読まされる。

 本書を面白くしている視点は、「どこが不可能?」というところ。つまり、「それを不可能とみなしているのはどの技術上の問題なのか?」という課題に置き換えているのだ。「技術上の課題」にバラしてしまえば、あとはリソースやパトロンの話だったり、量産化に向けたボトルネックの話になる。

 その結果、現在では「不可能」と見なされていながら、数十年から数世紀以後には当たり前になっていておかしくないようなテクノロジーが「課題」つきで紹介されている。しかも、その不可能ぐあいにもレベルがあって、レベル1(数百年以内)、レベル2(数千年)、レベル3(科学体系の書き換え要)と分かれている。

 たとえば、不可視化(レベル1)。著者は「ハリー・ポッター」の透明マント(invisibility cloak)を例に、身につけた者を見えなくさせる技術について検証する。この研究成果の一端をWebで見かけたのだが、「後ろ側の映像を見せる出来のわるいスクリーン」といった印象だった。いかに平面的な「スクリーン」を三次元的に見せるかが課題だという。ハリポタなら万国共通かもしれないが、やはりこれは草薙少佐の「光学迷彩」のほうが「らしい」かと。このテクノロジーが充分に発達しても、「魔法」とは言わないだろうなぁ。

 あるいは、ガンマ線バースター砲(レベル2)。「惑星爆弾」や「コロニー落とし」あたりが有名だろうが、これはスケールでかいぞ。星一個とかコロニーといったレベルを超えている。超大質量の恒星が一生を終える時、その自転軸を動かして特定の照準にあわせる。閃光のように放出されるガンマ線バースターのジェットは、宇宙最大の光線砲となるという。数百光年先(天の川銀河)からでも、地球の全ての生命体をじゅうぶんに死滅させられるそうな。

 逆に、スケールの小ささで驚かされる発想もある。わたしの頭ン中で宇宙船といえば、戦艦大和のリサイクル品だったり、硬直した精子型の建物なんだが、本書は真逆の「ナノシップ」を提案する。巨大・高速・長距離・長期間を想定すると、SF的課題が山盛りだ。いっぽう、無人のインテリジェント・ナノシップをイオン化して電場のなかにおけば、亜光速まで加速できるという。何百万とつくって、ひとにぎりでも目的地につけばいいし、先々で自分を複製して通信すればいい。無人なのでもどってくる必要もない。

プレイ もちろん、コールドスリープやワープ航行も吟味した上での「現実解」がこれ。望遠鏡で眺めて行き先を決めて、あとは運を天に任せて飛び立つよりも、より現実的な「旅」が考えられる。一方でわたしは、自己判断し増殖するナノマシンの恐怖を描いた、マイケル・クライトンの「プレイ」を思い出したぞ。あたりまえだけど、善悪を決めるのは科学技術じゃなくて人間なんだよね。

 常識をくつがえす発想と、それを裏付ける研究の(現在の)到達点が分かりやすい。「不思議の海のナディア」にでてくる対消滅エンジンがどんな原理で動いているのか分かったのが嬉しい(でも、そんなエンジン積んだニュー・ノーチラス号が体当たりしたら地球も吹っ飛ぶような気が)。

 その反面、技術信奉にアてられてしまうところもあった。著者は「不可能レベル」に応じて、「タイプ1文明」、「タイプ2文明」、「タイプ3文明」を解説する。つまりこうだ。

  銀河系規模のエネルギーを利用するのが、タイプ3文明
  恒星一個のエネルギーを使う、タイプ2文明
  惑星一個のエネルギーを使う、タイプ1文明

 そして、われわれは「タイプ0文明」であって、タイプ1に移行するには数世紀かかるといっている。エコだのロハスだのしみったれた現代とは違い、未来はエネルギー使い放題なんだなぁと感慨深い。桃鉄やりこむと金銭感覚が失われるようなものかと。

 また、あまりに楽観的なところが不安になるくだりもあった。著者はミチオ・カク、超一流の理論物理学者らしく、「問題は進歩により解決する」「そのうち時間が解決する」という前向きな立場を取る。

 たとえば、人の記憶を操作する話がでてくる。マイノリティ・リポートのように、まだ犯していない罪で逮捕してもいいのかという倫理的問題や、テロリストの心を読んでテロ計画を暴くことは合法なのか、といったある意味究極の問題が出てくる。あるいは、「トータル・リコール」のように、偽の記憶を植えつけるといった、アイデンティティの本質に影響をおよぼす問題について、原注でこう述べている。

こうした問題は、今後数十年は単なる仮定のままだが、テクノロジーが徐々に進歩するに従い、道徳的・法的・社会的な問題が持ち上がるのは避けられない。幸い、問題の解決に充てる時間はまだたっぷりある。

操作される脳 米国防総省の国防研究局(DARPA)を紹介した、「操作される脳」([レビュー])を見る限り、「レベル1」どころか、実現しつつある成果だと感じられる。「脳を改変し、恐怖や眠気を感じさせない」話や、「つらい記憶だけをピンポイントでを消去する」研究を見る限り、時間は「たっぷり」あるとは思いにくい。話の成り行き上、もちろんDARPAの研究にも触れてはいるものの、同じ公式情報から、どこまで楽観的に見て取れるかは、わたしと著者との違いなんだろう。

 ヒコーキ、携帯、Eee PC(おっと、今は "IQ PC" か)。技術の速度は、予想を上回る。しかも、かなりしばしば。奇想天外だが現実的なSFを読みつつ、そうした時代に備えるか。あるいは本書をタネとして、自分で書いてみるのもいいかも。ウェルズやクラークがすごいのは、その想像力もさることながら、科学的根拠がしっかりしているから。SFのタネ本としてはバイブル級の一冊になる。

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死なない家「三鷹天命反転住宅」

三鷹天命反転住宅 そこに住めば
 どんな人も
 死なないというよ

 誰もがみな
 住みたがるが
 はるかな値段

 その家の名は天命反転住宅
 三鷹にあるユートピア

 戯言兎角、死なない家があるらしい。[三鷹天命反転住宅]という。凸凹の床、歪んだ居間、球形の休憩室。極彩色の外観・内装は、この世のものとは思えない。帯の文句を信じれば、「人間の可能性を作り変えるほどの建築」になる。

 これまで、垂直と水平でできた四角い箱空間に安住してきた。この箱空間にぴったりと合う四角形の規格品があふれており、それらを使い慣れてきた。マンネリ化の結果、わたしたちは、各人の能力のほんのわずかしか活用できていないという。

 しかし、この異形な棲家に住まうことで、生命としての能力を最大限に発揮させるそうな。これまでの生涯を通じて身に着けてきた「先入観」を解体+再構築し、心=身体(心体)を甦らせ、再生させることを目的とした住宅。われわれが生活をするとはどういうことなのか?生きているとは?身体を動かすとは?身体を横にするとは一体どういうことなのか?根底から再考を促しかける巨大な装置。

 面白いのは球形の書斎。床が平らではないので、滑り落ちてしまう。そこで声を出すと、ものすごく大きな声が、コンマ何秒で拡大された声として、再び自分の耳に戻ってくる。もう一人の大きくなった自分と同居している感じになる――体験生活した人の話を聞くと、乱歩の鏡地獄を思い出す。あれは360度凹面鏡だったが、これは音の装置といったところか。室内を着るというか、部屋と一体化する感覚が生まれるようだ。

 もうひとつ。家の中はほとんどが家族の共有空間であり、プライバシーの保護に無関心どころか、取り去ってしまおうという意志が感じられる。シャワーブースは透明だし、トイレはドアがない(ちょっと隠れたところにあるが、共有空間と隔てられていない)。住宅は「ひとり」という単位で考えておらず、そこにすまう生命体トータルで、ひとつとカウントされているように見える。家族であり仲間なのだが、その一部分が排泄したり洗ったりするする感覚か。

 荒川氏はこの住まいを「ミキサー」とたとえる。

あそこは、ミキサーのような。ミキサーを大きくして、人体を入れて、人体を傷つけずにジュースにするような、感覚をジュースにするような、そういう部屋に入れられたわけだ。それで、君の感覚はどんどん広がっていって、からだはそのままのようだけど、重心を失う。不可思議な偏在の場に入っていって、何もせずに、ぐるぐる回っているだけなのに、君の記憶とか体験が、どんどんどんどん消えていく。
 荒川修作とマドリン・ギンズは、「死に抗する建築」と称するが、秘密はそこらへんにあるようだ。人を「ひとり」でカウントすると、当然のことながら、一箇の生命体としての死は避けられない。しかし、そこに住まう共同体を「ひとつ」として数えるならば、家族や仲間の再生・再構成を経て、新陳代謝があるだろう。また、その集団内での感覚や情報の共有があり、時空を超えて保ち続けるのであれば、それは「不死」と呼べなくもない。

 じっさいに住んだ人の日記[三鷹天命反転住宅 再訪記]を読むかぎり、感覚的なものが感性に影響を与えていくのが分かる。家賃は20万円程度。住まいを変えることで自分が変わるのなら、安いのか高いのか。

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数学の本質は抽象化「分ける・詰め込む・塗り分ける」

分ける・詰め込む・塗り分ける 情報源として読むとAHA!の宝庫だが、ぜんぶ理解しようとするとレベル高すぎ。

 目のつけどころが面白い。ケーキの切り分け、靴紐の幾何学、箱に缶詰をぎっしり詰める、チェスの千日手(Threefold repetition)など、一見、数学とは無関係の切り口から位相学、整数論、多面体定理の応用まで幅広く紹介する。逆に、実社会とは無関係に見える理論が、現場の作業手順を極限まで効率化している実例もある。

 たとえば、地図の塗り分け。なんだ四色問題かとみくびるなかれ。本書では地球と月の両方にまたがる「帝国」を想定した四色問題で、かなりの難題。「地球」「月」「帝国」「塗り分け」といった概念を抽象化し、シンプルなモデルにする。これが素晴らしい。数学的思考はこの抽象化ができる/できないにあるのだな、と感心する。

 現実の問題はさまざまにデコレーションされており、その本質は埋もれて見えないのが普通。このデコレーションを取り除くのではなく、本質をつかみだし、モデルに対応付けるところが、本書のキモだね。「地球と月の四色問題」のモデル図を見てしまえば、ああなるほどと思えるのだが、そのモデリングこそがいちばんセンスの要るところだろう。

 そして、同じモデルを「半導体基盤のショート検査」に適用する発想は天才のレベル。「短絡検査を効率化する」といった問題なら試行錯誤の上でモデリングは可能だろう。けれども、電子回路のモデルと四色問題のモデルを同列に扱うには、さらなる抽象的な視点が必要になる。おかげで12万回かかる検査が、わずか4回にまで劇的に減らすことに成功している。「数学によるコスト削減」の好例やね。

 もっとベタに、ケーキの切り分けが面白い(原書のタイトルは、"How to cut a cake")。完全に等分にすることが目的なのではなく、「あいつのケーキが大きい」とならないように、恨みっこなしで切り分けるにはどうすればよいか?これが、二人でケーキを分けるときなら簡単だ。「わたしが切って、あなたが選ぶ」になる。

 では、三人なら?五人なら?――というのが本書。これは難しい。答えは"切る"というより"削りとる"方法なんだが、一応リクツが通っているものの、実行したら、もはやケーキになっていないと思うぞ。

 「ケーキはいくらでも細かく切れると仮定する」という前提がいかにも数学的だが、現実的な問題にも応用している。それは「複雑な地形の分割」で、当事者が満足し、なおかつ余剰地ができる方法が明かされている。さらに、「第二次世界大戦の連合国によるドイツ分割」、「イスラエルとパレスチナの紛争元となった土地分割」まで発展させている。

 ただ、かなり高度で、ついていけないものもある。たとえば、トランプのシャッフルを繰り返していくうちに、最初の並びに戻ってしまう話。この手品を追求していくうちに、整数論における「フェルマの小定理」が出てくる。さらに、二つの泡がくっついたときの形状を数学的に「予想」する話。平均的な泡の姿の計算を進めるうちに、「オイラーの多面体定理」が顔をのぞかせる。「分かる人には分かる」書き方なので、歯ごたえありすぎ。

 身近な切り口から、高度な数学の世界へ。窓口広く、奥深し。

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「ロリータ」はスゴ本

ロリータ ロリータという幻肢。

 かつて読んだはずなのだが、「見た」だけだった。ストーリーをなぞり、会話を拾い、あらすじと結末が言えるようになることを、「読む」と信じていたことが、痛いくらいわかった。

 というのも、先日読了した「小説のストラテジー」[レビュー]によって、新しい目を手に入れたからだ。この感覚のおかげで、プルーストのコメントがようやく理解できた。曰く、「本当の発見の旅とは、新しい景色を探すことではない。 新しい目を持つことなのだ」。次から次へと、とっかえひっかえ読んでいても、「発見」はある。それは、かつて読了した記憶への反応であって、本当の発見にはほど遠い。

 じゃ、「本当の発見」とは何ぞや?

 今回の読書で発見したもの――それは、濃度と速度。

 「文章を味わう」といった自分でも説明できない言い方ではなく、物語や描写の濃度と速度そのものから快感を得る。アクセルを踏んでスピードがぐっとあがるときに感じる高揚感に近い。あるいは高速から下りた直後、視界が広くなると同時に、周囲が密集していることを感じるときにも似ている(スピード出していると、運転に関係しない情報は棄却される。逆に緩めると、世界が情報に満ち溢れていることに気づかされる)。

 ロリータを含めた過去を総括する形の記述上、描写の濃淡が記憶の密度と比例している。だから、物語的だった描写が一転し、ひとつひとつの事物を綿密にしだすとき、わたしは身構える。S.キングやJ.アーヴィングでおなじみだったが、ナボコフは転調の兆しとして、「色」を与えているところが一枚上手だ。

 喜劇を悲劇に転回するポイントで、突然、具体的な色をあたえられ、時系列で叙述される。「紫」に喪服の意味があることを知って読むのと知らないで読むのとでは、ダメージが違ってくるかもしれない。それくらい意味があるようだ。

 せっぱ詰まった状況なのに、いちいち目にとまる小物の詳細を書き分けている。ストップ・モーションを「読む」感覚。これは、主人公のあせりを演出するだけでなく、読み手の「それで?それで?」を急きたてる効果があることに気づく。技法としてはおなじみなんだが、今回は、狼狽している自分と、傍らで分析している自分の、両方を意識した。

 その一方、ロード・ノヴェル編ともいうべき中盤は、見知らぬ地名や見慣れたモーテルの調度に散文的に目を投げかける「みだれぐあい」に気を配って読む。記憶が散漫になっている印象が、そのまま読み手の記憶と化す。ロリータとの過去と、本作に触れている読み手の今との往還が断ち切れる。自己正当化が見え隠れするペダンティックな書き口から、光景そのものが立ち上がってくる。このリズムと転調がきもちいい。

 気持ちよさを意識して読むことで、何層も気持ちよくなれる。味蕾に集中した食事や、嗅覚を利かせた飲酒といった「たとえ」で示してもいいが、この快楽の追求方法は、セックスそのものに近い。

 漫然と交接してもそれなりに心地よいが、意識してテンポや深度・角度をアレンジしていくことで、より大きな快を得ることができる。Point of No Return を超えると、自他の区別がつかなくなる。快を創出・享受しているのはペニスかヴァギナか区別がつかない(隻手音声の実践といったらバチあたり?)。

 これをもっと貪欲に、さらに客観的にしていく。ただ、セックスならパートナーの了承を必要とする場合があるし、ひょっとすると、ひっぱたかれるかもしれない。が、小説は待っていてくれる。どんなアクロバティックな「読み」も、許してくれる。

 これが「物語」なら、いろいろやった。別の物語を外側に作り出した、かぶせ読みとか、「実は○○だった」という設定を妄想した電波読み、オチを先読みしたり、ナナメ上の超展開を想像したりと、イロイロ遊べる。

 しかし本作は、そうした物語の消費としての「読み」を拒絶する。絶えず読み手を挑発し、自分の内臓をとり出して(ホラホラ!)見せることで、感情移入を排斥する。学はあるが、みじめったらしい自分を隠そうともしない主人公に、かなりの読者は共感できないだろう。せいぜい、少女の足に踏まれたい谷崎川端願望というレッテルを貼るくらい。マグロ読みをしているかぎり、ここから快楽を得るのは難しい。

 事実、わたしの初読時は無理だった。どうして本作が傑作扱いされているか、理解できなかった。今回は、苦しい駄洒落や押韻や語呂合わせにつきあいつつ、イメージや描写のリズムとスピードを際立たせて読んだ。新訳ではロリータのキャラクターが「立って」いる。「イケてる」「キモい」というイマドキの言葉を連発する彼女に、踏まれたいと願う人も出てくるかもしれない。

天真爛漫さと欺瞞、魅力と下品さ、青色のふくれ面と薔薇色の笑いを合わせ持つロリータは、そのときの気分次第で、まったく頭にくるような小娘になることもあった。ときには思いがけなく、気まぐれに退屈そうなそぶりをしたり、わざと激しい不満を口にしたり、寝そべって、だらしない恰好で、どんよりした目つきになったり、いわゆる「ぐだぐだ」したり、といった発作的なふるまいをするのだ──

 そして最後。いや、ラストのカタルシスではない。「訳者あとがき」にある強いアドバイスに従って、彼女の運命を再読する──ああ、ああ、わたしはやっぱり読んでいなかったんだ。ロリコンの秘密がある、と勝手に決めつけ、開いて、失望した日のことを思い出す。あのときは、これほど豊穣な小説だとは見えなかった。

 語り手のロリータへの「愛」は、そう信じたものだと思っていた。が、最後のページを終えて、もう一度冒頭から読み直すと、印象がガラリと変わっている。これはやはり、愛そのもの。本作はその幻肢なのかも。

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スキとかキライとか、最初に言い出したのは、誰なのかしら→今からそいつを、これからそいつを、殴りにいこうか→「神のみぞ知るセカイ」

神のみぞ知るセカイ あらゆるギャルゲーを極め、「現実なんてクソゲーだ」と、断じる主人公は正しい。

 空から降ってきた小悪魔が主人公に課す試練。それは、「女の子の心のスキマを恋で埋める」こと。そのために、ターゲットとなったオンナの子を攻略し、キスをすることが必要となる。ところが問題が。主人公の男の子はコアなギャルゲーマー、つまり3Dの少女には興味がないのだ。

 あいや、待たれい。設定がギャルゲだからといって、ギャルゲーマー御用達だけとは限らないぞ。攻略対象を分析し、自分の現在位置を把握する。そのギャップを埋めるための施策を、実績あるパターンから取捨選択し、最も効果的な手法からステップを踏んで適用する――カッコイイ言い方していいなら、コンサルタントの Fit and Gap Analysis そのもの。

 しかも、打ち手の効果が見込めないとき、原因解析の着眼点が優れている。道具が適切で望む結果が得られないとき、最初に疑うべきは――そう、「前提」になる。「高飛車ハイソお嬢様」の一次攻略に失敗したとき、主人公が取った「変節」は、自信満々のコンサルタントそっくり。

 このマンガを面白くさせているのは、こんな「お約束やぶり」だ。ギャルゲ慣れしたユーザのパロディとしての作品なら一回の読みきりで「終わる」し、そして恋愛オクテの妄想のメタファーとして描いているなら競争相手で真っ赤っ赤の「ジャンル」となる。

 ギャルゲというコードに乗っかりつつも、「もしそれが現実なら…」という仮定の下にもたらされるカッコつきでお約束の「現実問題」が乗り越える壁としてあらわれてくる。しかも、その「現実」とやらもマンガの世界の話なので、読み手は二重の枠にハマることになる。「ゲームとしてのリアル」と「マンガとしてのリアル」のスキマを意識するんだ。

 主人公の性格として「触れられることを嫌う」ことが象徴的だ。ゲームのオンナの子はどんなことをしても、文字通りどんなことができたとしても、触れ合うことはできない。(このルールの外はレッド・オーシャン、なんでもあり)。その上で、恋愛シミュレーションをやりこめば、恋愛上手になる――のか?という、究極の答えが分かる。

 そう、テクニックは上達するが、それは恋をすることと別なんだ。床上手と愛上手は違うし、SEXマシーンはLOVEマシーンじゃない。キスが上手くなることと、キスしたくなる人を見つけることは、似て非なる。このテーマは、おそらく主人公が最後に攻略するだろうエルシィ でズバリ描かれるに違いない。

しゅごキャラ 最後に。まなめさん、教えていただき、ありがとうございます。好き物には、ごほうびのようなマンガですな。「心のスキマにつけこむ」ところと、その追い出し具合から、「しゅごキャラ!」をホーフツとさせられます。薔薇乙女好きとして、オススメします。

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