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形而上の快楽「小説のストラテジー」

小説のストラテジー 快楽の装置としての小説論。

 「なぜ小説を読むと気持ちいいのか」が腑に落ちた。この「読み」は佐藤亜紀自身の読みなのだが、わたしのような門外漢でも参考になる。自覚的にこの快楽を享受できるか、次からは意識して読むつもり。

 経験として、わたしは知っている。ある描写のスピード感が心地よいことを。あるいは、物語に鼻先をつかまれて、ひきまわされる悦び(?)を。鳥瞰的なカメラがぐっと近づいていく速度や、二転三転ドンデン返しの遠心力を愉しむ――こんな散文的にしか書けない「小説の快楽」、その仕組みを、綿密に説明している。

 キーワードは「運動」。記述の対象が移りかわる運動によって「快」がもたらされるといい、アイキュロスのアガメムノーンにおける炎に着目する。炎は描写としてのかがり火だったり、憎悪や情炎の象徴だったり、戦火そのものだったりするが、その炎が時間・空間を渡っていく運動を感じ取ることで、そこに「快」を感じるという。

 あるいは、物語をなぞることで発生する運動もあるという。ドストエフスキー「悪霊」を材料にして、聖なるところから奈落の底まで真ッ逆さまに落下する速度感や、極端な感情のメロドラマ的な振幅を読み解く。あの「悪霊」を加工して、どんどん軽くしていく。会話文だけを取り出したサンプルなどは、ラノベと見まごう程だw

 直截でも隠喩でも、描写対象の移り変わりに着目することはあるものの、それを「運動」としてみなすことはなかった。とても斬新なので、その「運動」をカメラのように意識しながら読んでみよう。

 パンやクローズアップ、ディゾルブ、色彩や光量を意図した「読み」は、一見奇妙にみえるかもしれないが、ものすごく重要な「気づき」が隠されていた。それは、メル・ギブソン主演のある映画についての評から始まる。

「サイン」は猛烈にしょぼい。つまり「インディペンデンス・デイ」を見るような期待を持って見始め、監督の繰り出す想定外の手口がまるで理解できないまま追い詰められ、ぼこぼこにされて放り出される観客にとって、これは猛烈な駄作です。
 わたしは未見なのだが、チネチッタで観た友人は「金返せ!」と言ってたっけ。でも、小説の話なのに、なぜ「サイン」?けして少なくない紙数を使って、「駄作サイン」を説明してゆく。

 不思議に思いながら進めていくと、その映像手法からアリストテレス詩学の「カタルシス」が露にされる。お見事、としかいいようがない。容易に読者をカタルシスへもっていける、素晴らしい「たとえ」だと思う。小説を書く人にとっては、手にしたら全てが釘に見えるハンマー並みに強力な「武器」になるだろう。本書は「読み」だけではなく、書き手の現場からの伝言でもあるのだ。

 いっぽうで、読者を挑発することも忘れない。スキのありそな煽り文句にツンデレ計が反応するのだが、著者は真面目だ。たとえば、ドストエフスキーに耽溺して傍線を引いたりして悦に入っている読者を揶揄したり、トイレットペーパー並みのフィクションを絶対的に必要とする読者を撫で斬る。一流の書き手は、一流の読み手でもあることが、よく分かる。

表現と享受の関係は、通常「コミュニケーション」と呼ばれるよりはるかにダイナミックなもの、闘争的なものだと想定して下さい。あらゆる表現は鑑賞者に対する挑戦です。鑑賞者はその挑戦に応えなければならない。「伝える」「伝わる」というような生温い関係は、ある程度以上の作品に対しては成立しません。

見倒してやる、読み倒してやる、聴き倒してやるという気迫がなければ押し潰されてしまいかねない作品が、現に存在します。作品に振り落とされ、取り残され、訳も解らないまま立ち去らざるを得ない経験も、年を経た鑑賞者なら何度でも経験しているでしょう。否定的な見解を抱いて来た作品が全く新しい姿を見せる瞬間があることも知っている筈です。そういう無数の敗北の上に、鑑賞者の最低限の技量は成り立つのです。
 この強烈な主張に、わたしは沈黙する。フィクションを読むにあたり、「作品は譜面、読解とは演奏」というたとえは分かりやすいが、「一回一回が演奏者の技量と創造性に対する挑戦であるように、一回一回の読みは、読み手の技量と創造性に対する挑戦です」とまで言い切られると、いったいわたしは何をどうやって読んできたんだろうと振り返りたくなる。

 ともあれ、「新しい目」のありかがわかった。まずはナボコフから試してみる。

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コメント

おひさしぶりです。
小さい子供がいるなら、個人的には、ナボコフは、ベンドシニスター以外からの方がいいと思います。自分には、ちょっと、きつすぎましたので。それでは、良い読書を。

投稿: 金さん | 2009.01.30 12:08

>>金さんさん

おおっ、ありがとうございます。

いま若島訳「ロリータ」を読んでいて、脳が焼ける思いをしています。
かつて旧訳を読んだのですが、「見て」いただけ、「なぞって」いただけに気づきました。

で、次は「ベンドシニスター」にします。わざわざ「ベンドシニスター『以外』からの方がいい」とおっしゃるのは、うれしい罠だと信じて。

投稿: Dain | 2009.01.31 07:56

なるほど〜,コロンブスの卵ですね。
言われてみると非常に思い当たります。
印象に残っている小説は映像として残っていることが多いし、遅読するとうまくイメージが結べず速読しないと作品とリンクできない感じとか(その逆も)ありますね。

投稿: ほんのしおり | 2009.01.31 23:06

はじめまして

僕も本が大好きなので、
よくここに来させてもらってます


小説の読み方・・・いろいろ考えさせられますね。
「作品は譜面、読解とは演奏」・・・
昨日から読み始めた(挑戦し始めた)「ジャン・クリストフ」には、
この読み方でいってみます

どうも、ありがとうございました。


投稿: キ~トン | 2009.02.01 10:04

>>ほんのしおりさん

すぐれた小説は、それを読むスピードまで支配するちからを持っているような気がします。ヘタに読み手が速読・遅読するのを遮り、「その作品に適したスピード」で読むことを強いるような気がします。


>>キ~トンさん

「ジャン・クリストフ」ですか…が、がんばってください。
描写も展開も、ストレートに楽しめばよいかと。

投稿: Dain | 2009.02.04 06:46

はじめまして。
いつも楽しく読ませてもらってます。

今回の記事を読んで、以前から抱いていた「本を読む」についての悩みというか疑問を書いてみました。

上のアドレスの先にありますので、よろしければ読んでみて下さい。

投稿: 機械 | 2009.02.17 08:29

>>機械さん

リンク先の「読書ってなんですか?」を読みました。
いい質問なので、答えが入っていますね。全ての問いかけを反語にすると、答えになります。「本」を「小説や詩」に置き換えていいのなら、ずばり快楽と答えます。ここでいう「快楽」とは、牧歌的な「面白い」「楽しい」とは違った、もっと能動的なもので、性行為に似ています。ウケの喜び→タチの快楽とでも言えばいいのでしょうか。

投稿: Dain | 2009.02.18 00:31

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