« 2008年12月 | トップページ | 2009年2月 »

形而上の快楽「小説のストラテジー」

小説のストラテジー 快楽の装置としての小説論。

 「なぜ小説を読むと気持ちいいのか」が腑に落ちた。この「読み」は佐藤亜紀自身の読みなのだが、わたしのような門外漢でも参考になる。自覚的にこの快楽を享受できるか、次からは意識して読むつもり。

 経験として、わたしは知っている。ある描写のスピード感が心地よいことを。あるいは、物語に鼻先をつかまれて、ひきまわされる悦び(?)を。鳥瞰的なカメラがぐっと近づいていく速度や、二転三転ドンデン返しの遠心力を愉しむ――こんな散文的にしか書けない「小説の快楽」、その仕組みを、綿密に説明している。

 キーワードは「運動」。記述の対象が移りかわる運動によって「快」がもたらされるといい、アイキュロスのアガメムノーンにおける炎に着目する。炎は描写としてのかがり火だったり、憎悪や情炎の象徴だったり、戦火そのものだったりするが、その炎が時間・空間を渡っていく運動を感じ取ることで、そこに「快」を感じるという。

 あるいは、物語をなぞることで発生する運動もあるという。ドストエフスキー「悪霊」を材料にして、聖なるところから奈落の底まで真ッ逆さまに落下する速度感や、極端な感情のメロドラマ的な振幅を読み解く。あの「悪霊」を加工して、どんどん軽くしていく。会話文だけを取り出したサンプルなどは、ラノベと見まごう程だw

 直截でも隠喩でも、描写対象の移り変わりに着目することはあるものの、それを「運動」としてみなすことはなかった。とても斬新なので、その「運動」をカメラのように意識しながら読んでみよう。

 パンやクローズアップ、ディゾルブ、色彩や光量を意図した「読み」は、一見奇妙にみえるかもしれないが、ものすごく重要な「気づき」が隠されていた。それは、メル・ギブソン主演のある映画についての評から始まる。

「サイン」は猛烈にしょぼい。つまり「インディペンデンス・デイ」を見るような期待を持って見始め、監督の繰り出す想定外の手口がまるで理解できないまま追い詰められ、ぼこぼこにされて放り出される観客にとって、これは猛烈な駄作です。
 わたしは未見なのだが、チネチッタで観た友人は「金返せ!」と言ってたっけ。でも、小説の話なのに、なぜ「サイン」?けして少なくない紙数を使って、「駄作サイン」を説明してゆく。

 不思議に思いながら進めていくと、その映像手法からアリストテレス詩学の「カタルシス」が露にされる。お見事、としかいいようがない。容易に読者をカタルシスへもっていける、素晴らしい「たとえ」だと思う。小説を書く人にとっては、手にしたら全てが釘に見えるハンマー並みに強力な「武器」になるだろう。本書は「読み」だけではなく、書き手の現場からの伝言でもあるのだ。

 いっぽうで、読者を挑発することも忘れない。スキのありそな煽り文句にツンデレ計が反応するのだが、著者は真面目だ。たとえば、ドストエフスキーに耽溺して傍線を引いたりして悦に入っている読者を揶揄したり、トイレットペーパー並みのフィクションを絶対的に必要とする読者を撫で斬る。一流の書き手は、一流の読み手でもあることが、よく分かる。

表現と享受の関係は、通常「コミュニケーション」と呼ばれるよりはるかにダイナミックなもの、闘争的なものだと想定して下さい。あらゆる表現は鑑賞者に対する挑戦です。鑑賞者はその挑戦に応えなければならない。「伝える」「伝わる」というような生温い関係は、ある程度以上の作品に対しては成立しません。

見倒してやる、読み倒してやる、聴き倒してやるという気迫がなければ押し潰されてしまいかねない作品が、現に存在します。作品に振り落とされ、取り残され、訳も解らないまま立ち去らざるを得ない経験も、年を経た鑑賞者なら何度でも経験しているでしょう。否定的な見解を抱いて来た作品が全く新しい姿を見せる瞬間があることも知っている筈です。そういう無数の敗北の上に、鑑賞者の最低限の技量は成り立つのです。
 この強烈な主張に、わたしは沈黙する。フィクションを読むにあたり、「作品は譜面、読解とは演奏」というたとえは分かりやすいが、「一回一回が演奏者の技量と創造性に対する挑戦であるように、一回一回の読みは、読み手の技量と創造性に対する挑戦です」とまで言い切られると、いったいわたしは何をどうやって読んできたんだろうと振り返りたくなる。

 ともあれ、「新しい目」のありかがわかった。まずはナボコフから試してみる。

| | コメント (7) | トラックバック (1)

「世界を変えた100日」はスゴ本

世界を変えた100日 歴史の瞬間に立ちあうスゴ本。

 写真技術が誕生してから現代にいたるまでの、「世界の特別な一日」を100日分まとめて見る。

 ページをめくるたびに、声がもれる。いつか見た決定的瞬間から、見たことのない歴史へ行き来する。花に埋もれたダイアナ妃の写真、ずぶぬれで「壁」を壊す人々、真っ二つに折れ落ちるビル、巨大な打ち上げ花火と化したスペースシャトル。

 あるいは、いわゆる歴史上の人物の年齢を追いこしてしまっている自分に気づく。もみくちゃな歓迎を受けるカストロは33歳だし、モール地区を埋め尽くす群集を背負っているキング牧師は34歳だ。伝説化される人物を取り巻いている時代の空気が一緒に写しこまれている。彼等の偉大さとともに、それを支える時代の熱がふりかかってくる。

 知ってるはずなのに、既視感のない写真がある。チェルノブイリをテーマにしたものがそれだ。「石棺」がどーんと写っているんだろうなぁと思いきや、災厄から20年後に撮影された、ある少女のポートレイトだった。同時代の一人として、チェルノブイリの映像を見てきたつもりだが、この9歳の少女ほど衝撃を受けたものはなかった。彼女にとって、チェルノブイリはリアルタイムそのものなんだ。

 武器としての写真、プロパガンダの道具としての写真もある。士気高揚を目的とした合成写真を使ったソビエト当局や、俳優を使った「やらせ」写真を撮ったパリ・コミューンの事例が面白い。死屍累々のゲティスバーグを見たら、南北戦争の大義に疑問を感じていたかもしれない。

 その反面、「インディアン大虐殺」や「広島、原爆投下」などは、メッセージ性が極端に少ない。センセーショナルなあれとかあれ(リンク自粛)の代わりに、キャプションがないと分からないような肖像なのだ。原書は米国のナショナル・ジオグラフィック。空気を読んだ「編集」から、逆に"nationally correct"をあぶりだすのも面白い。ちと意地悪な読みだが、写真で歴史が「作られる」過程も追体験できる特典があるぞ。

 ネットならではの一枚もある。ウェブの生みの親といわれているティモシー・バーナーズ=リーの「顔」。2304枚のウェブページを用いて、一枚の肖像画に仕立てあげている。最初のウェブサイトが立ち上げられたのが1991年8月6日。昔は昔なんだけれど、歴史あつかいされると違和感を感じる過去。そうした「昔」から、教科書で学んだような「歴史」まで、地続きでつながっていることを実感する。

 昔と歴史のつながり感を、リアルに感じる一冊。

  1851/05/01  第1回万国博覧会開催
  1854/10/25  「死の谷」に向かった600の兵
  1857/11/18  英国軍、籠城の地獄絵
  1858/01/30  不運続きの超大型蒸気客船
  1859/06/30  激流の上の綱渡り
  1863/07/03  南北戦争、死の行進
  1865/04/14  リンカーン大統領暗殺
  1869/05/10  米大陸横断鉄道の完成
  1869/11/17  スエズ運河開通
  1871/03/18  パリ・コミューンの蜂起
  1889/05/06  エッフェル塔、公開
  1890/12/29  インディアン大虐殺
  1897/06/22  英国女王、栄光の式典
  1990/01/24  第二次ボーア戦争の失策
  1903/12/17  ライト兄弟の初飛行
  1905/05/28  日本海海戦
  1905/06/14  戦艦ポチョムキン号の反乱
  1908/09/27  フォード、T型車を発表
  1909/04/06  初の北極点到達
  1909/07/25  ドーバー海峡初横断
  1911/07/24  マチュピチュの発見
  1911/12/14  南極点、発到達
  1912/04/14  タイタニック号沈没
  1913/06/08  ある女性運動家の抗議死
  1914/06/28  第一次世界大戦前夜
  1915/04/24  アルメニア人代虐殺
  1917/10/25  ロシア10月革命
  1917/11/20  史上初の戦車戦
  1919/01/04  ドイツの革命危機
  1919/06/28  ベルサイユ条約調印
  1922/10/28  ムッソリーニのローマ進軍
  1922/11/26  ツタンカーメン王の墓発見
  1927/05/21  大西洋横断飛行の成功
  1929/10/29  世界大恐慌
  1929/11/29  南極上空、初飛行
  1930/04/05  ガンディーの塩の行進
  1934/10/16  毛沢東の長征開始
  1936/08/03  ヒトラーの夢砕く勝利
  1936/12/10  王位を捨てた英国王
  1937/04/26  ゲルニカ空爆
  1940/05/10  ナチスの電撃戦
  1940/09/07  ロンドン大空襲
  1941/12/07  真珠湾攻撃
  1943/01/31  ドイツ、冬将軍への降伏
  1944/06/06  ノルマンディー上陸作戦
  1945/04/11  ホロコーストの終焉
  1945/08/06  広島、原爆投下
  1947/08/15  印パ分離独立
  1948/05/14  イスラエル建国
  1948/06/24  ベルリン封鎖
  1949/02/01  巨大望遠鏡の初使用
  1950/09/15  朝鮮戦争、仁川上陸作戦
  1952/07/02  小児麻痺への勝利
  1953/02/28  DNAの分子構造発見
  1953/05/29  エベレスト初登頂
  1954/03/09  マッカーシズムの終焉
  1956/09/09  プレスリー、テレビに出演
  1956/10/23  ハンガリー動乱
  1957/09/04  ある黒人生徒の初登校
  1957/10/04  人工衛星第1号
  1959/01/02  キューバ革命軍の勝利
  1959/07/17  人類の祖、発見!
  1960/01/23  地球、最深部に到達
  1960/09/26  大統領選、テレビへ
  1962/10/24  キューバ危機
  1963/08/28  キング牧師の演説
  1963/11/22  ケネディが暗殺された日
  1966/05/16  文化大革命
  1967/06/01  ビートルズ「バンド」を組む
  1967/06/05  第三次中東戦争
  1967/07/06  ビアフラ内戦と飢餓
  1968/05/14  パリ、五月革命
  1968/08/20  チェコスロバキア侵攻
  1969/07/20  人類初の月面着陸
  1969/08/15  ウッドストック開催
  1972/02/21  ニクソン大統領の中国訪問
  1972/09/05  オリンピック・テロ事件
  1974/08/09  ニクソン大統領の辞任
  1975/04/30  サイゴン陥落
  1977/10/26  最後の天然痘患者
  1979/01/07  ポル・ポト政権崩壊
  1979/11/04  テヘラン米大使館占拠
  1980/08/31  「連帯」認められる
  1985/05/16  オゾン層破壊
  1985/07/13  「ライブ・エイド」開催
  1986/01/28  スペースシャトル爆発事故
  1986/04/26  チェルノブイリ原発事故
  1987/05/04  世界、エイズ対策に動く
  1989/06/04  天安門事件
  1989/11/09  ベルリンの壁崩壊
  1990/02/11  ネルソン・マンデラ解放
  1991/08/06  ネット時代の到来
  1997/02/22  クローン羊の誕生
  1997/08/31  ダイアナ元皇太子妃の死
  1998/12/19  大統領の弾劾裁判
  2000/09/28  第二次インティファーダ
  2001/09/11  米国同時多発テロ
  2003/03/20  イラク侵攻
  2004/12/26  スマトラ島沖地震
  2005/08/29  ハリケーン・カトリーナ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

歴史を後ろからみる「名誉の戦場」

名誉の戦場 もちろん、わたしが死ぬ可能性は100パーセント。だけど、病死か交通事故死しか想定していなかった。

 そんなことを気づかされ、失笑する。徴兵され、戦場でたおれることだってあるのか?いいや、いまや全体戦場の時代だから、前時代的な「戦死」はありえない。むしろ遠くからやってきたミサイルに蒸化される可能性の方が高い。

 時代も距離も遠い場所にある戦場をもってくるために、面白い「語り」をやってのけている。家族の歴史をやるんだ。語り手の「いま」から外れて、おばあちゃんや叔母さんの話を始める。「かつて」と「いま」とを行ったり来たりするリズムを、「波」に喩える評があるが、まさにそんな感覚。

 この、家族を次々と紹介していき、家族史をさかのぼるところなんて、アーヴィングの「ホテル・ニューハンプシャー」を思い出す。アーヴィングにまけずおとらず、魅力的なエピソードが満載で、読み手はくすくす、にやり、爆笑したり、大変いそがしい。

 しかし、語り手である「ぼく」の不在が大きい。まるで物語にかかわってこないのだ。「ホテル・ニューハンプシャー」だと語り部のジョンが後半で大きく、決定的な動きをするのだが、この「名誉の戦場」は最初から最期まで不在を決め込む。まるでヒトゴトのように関わっている(ただし、みんなを見守るまなざしは、とてもあたたかい)。

 おかしいなと思ってたら、案の定というか、あとがきによると、五部作のうちの第一作が、本作とのこと。著者ルオーの半自伝的小説で、次作「偉人伝」や第四作「プレゼントに最適です」では、どんどん「前」に出ているとのこと。

 ほほ笑ましい展開に挿入される箴言に、どきりとして手がとまる。いったい、作者はどんな意図で書き進めているのか、不審に思う。語られた家族のとった行動や立場が奇妙だ――と考えるうちに、語られていない人物の不在が明かされる。そしてその不在を説明するかのように、戦争が語られる。身近な存在になった家族の隙間にある「過去」が見えてくる。この転調が上手い。戦争は個人に降りかかった災厄のように扱われ、その跡は後の人生の影によってのみ、うかがえる。そこには、いわゆる教科書的な知識としての「歴史」とは違ったものが見えてくる。

 歴史を後ろからみるときの、うってつけのテクスト。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

立花隆の読書術

ぼくが読んだ面白い本・ダメな本そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術 「知の巨人」の、かなり特殊な読書術。反面教師として得るところ大。

 一読した最初の印象は、「ごはんを美味しく食べてるだろうか?」。想像を絶する忙しさだろうし、「寝るヒマ・食うヒマもない」のは自慢の証だろう。でも、たまには時間をとって、味わって楽しんで食事することがあるのだろうか?と心配になる。

 というのも、その読書スタイルがあまりにも「もっと!」「イケイケ」で、あたかも生き急いでいるかのように見えるから。角栄、サル学、脳死で勉強させてもらい、その超人ぶりはあこがれでもあったのだから。

 たくさんの「気づき」を得られたが、その読書法は、かなり強引だ。

 いちばん大きいのは、「読まないと決めたら、その本は断固として読まない」こと。これは立花氏だからこそ言えるのであって、わたしがマネしてはいけない。たちまち世界をせばめてしまい、狭窄した視野で偉そうに語りはじめ、失笑を買うのがオチ。

 わたしの場合、歯が立たなかったり、合わなかったりする本は、いったん時間をおけばいい(再会できないのならそれまで)。いつまでも惹かれるならば、準備と訓練を積んで再挑戦すればいい。

 次に気づいたのは、「スタイルが対象を決めている」こと。立花氏は「全文通読が必要条件となっている本」を読まない。全文通読が必要な本とは、いわゆる小説やミステリのこと。最初から最後まで「とばさずに」読まないと分からないものは、付き合ってるヒマがないという。ノンフィクションですら時系列で書かれているものは対象外だそうな。

遅読のすすめ そういうタイムコンシューミングな(時間ばっかりくってしょうがない)本は、ヒマ人が読めばよろしいという。「遅読のすすめ」で、「そんなのは読書じゃない」「情報を摂取して排泄しているだけで、人生の無駄遣い」と叩かれていたが、ようやく腑に落ちた。

 文学作品というテクストから、これまでと違った「読み」を追求する「読書」と、情報新陳代謝体として大量摂取とスクリーニングをくりかえす「読書」とでは、まるで異質なもの。仕事上、期限と結果が求められる「読み」を強いられている限り、それは読書というよりも、「資料にあたる」と表現する方が適切かと。

 そうした資料読みの手法としては有用なんだが、かなりスタンダードともいえる。立花氏は、逐語的・逐文的に読むやり方を「音楽的読み」、パッと全体像をつかんでキーワードを追っていく読み方を「絵画的読み」と定義付けている。

  1. はしがきとあとがきを読んで全体像をつかみ、目次を構造的に把握する
  2. 音楽的読み/絵画的読みの配分を判断する
  3. とにかく頭から終わりまで、強引に目を通す。つながりが分からなくでも、パラグラフ単位で飛ばし読みしても、まず終わりまでいってから二度目の読みをどうするか考える
 どうやら、じっくり逐文的に読んでいるよりも、パッとつかんだ後は面白そうなところを探すように「見て」いるようだ。これは、膨大な資料読みをしてきた「目」があるからこそできるもので、わたしがマネすると危ない。わかるところだけを拾い読みして「読んだ」ことにするので、きわめて浅い読みしかできないだろう。

 さらに、自分の頭で考えず、情報(になりそうなもの)を吸い取るようなやり方なので、そういう「読み」を許すような本に限定されてくる。図やチャートが多く、分かりやすい主張が箇条書きにまとめられるような本ばかり読むようになる。

 もちろん、栄養補給としての斜読速読も必要だし、ちびちび味読惜読する深夜も捨てられない。速読もスローリーディングも大切なことは、あらためて言うまでもない。どちらの読書の腕前も、上げていきたいものだ。

 本は味わうものではなく、そこから情報を摂取するもの――その「哲学」を見ていると、味わうのはヒマつぶしだから養分摂るなら点滴サプリで十分でしょ、という「料簡」が見えてくる。「知の巨人」のスゴさとともに、いびつな部分もよく分かる。

これからの時代、人間が生きるとはどういうことかというと、「生涯、情報の海にひたり、一箇の情報体として、情報の新陳代謝をつづけながら情報的に生きる」ことだということが直観的にのみこめてくる。
 彼のような知的ブロイラーに感謝しないといけない。おかげで、飽書の時代からスゴ本を拾うことができるのだから。でも、ああはなりたくないものだとも思う、正直なトコ。

| | コメント (7) | トラックバック (1)

嫁さんから三行半を叩きつけられたとき、思い出すべき二つのこと

 自戒エントリ。

 「あなたとはやっていけない」──こう切り出した時点で、すでにスーパーサイヤ人と化している。こっちは素、どころか仕事帰りで泥疲れなので、怒涛の口撃に理解するのも精一杯。「オレだって○○も△△もやっているんだよ!」と反論・自衛の一つも返したくなる。

 しかしだ、それは間違っている。いや、間違っていた、というほうが正確か。ここでは一般論を述べるのではなく、わたしの試行錯誤からの教訓を書くのだから。従って「あなたは役割を果たしていない」という批判に対し、具体例を挙げて反論するのは火にガソリン。

 そんなとき、思い出すべきことは、次の二つ。

1. 言ってくれて、ありがとう

 嫁さんが、本気で、「アンタとやっていけない」と決めたら、黙って出ていく。行った先で冷静に(人を介して)後処理を進めていくよ。少なくとも面と向かってなじったりはしない。

 だから、感情をぶつけてくる時点でまだ「救い」はある。言い換えると「やりなおし」は効く。UndoはダメだけれどRedoはいける。なので、自分も一緒に感情に流されないように。で、そこで踏みとどまれるのなら、コヴィーのメッセージを思い出せるはずだ。

  「刺激と反応」の間に意志があり、どう反応をするかを選択する自由がある
  「刺激と反応」の間で一時停止し、原則や望む結果ににもとづいた反応をする

 自分が泥状態だろうが嫁さんがヒステリックだろうが、ここでコヴィーの禿頭を思い出せないようじゃ、なんのために「7つの習慣」を読んだのさ。感情という刺激と反応の間を「待って」いてくれるのだから、まずはそこに感謝しよう。

2. 「旦那が役割を果たしていない」ことが事実か否かが問題なのではなく、「『役割を果たしていない』と嫁さんが思っている」ことは、まぎれもない事実であるということに気づく

 「どんだけオレが大変か、オマエこそ分かってるのか!?」というのは売り言葉に買い言葉、トドメの一撃になる。淡々と反証を挙げるのもNG、客観的にどうの、なんて知りたくも聞きたくもない。

 嫁さんは重荷合戦をしたいわけじゃない。役割の見直しをしたいわけじゃない。そうなんだ、役割云々を持ち出して、話の流れ上、分担内容の見直しになるかもしれない。しかし、激高している時点で分担が重荷だといいたいわけじゃないんだ。では何か?

 ただ、認めてほしいわけ。この事実(=「『旦那が役割を果たしていない』とアタシが思っていること」)を認めてほしいわけ。ここが出発点なの。ここから話を進めるの。それ以前のところで、前提云々で意見を言っても意味ないの。

 だから認める。そこは100パーセント事実だと。そして、そこから「どうすればいい?」と考える。わからないところがあれば、訊ねるんだ。よっぽど思いつめていたからこそ、ああいう言い方にもなったのだから、その「思い」をまずは聞くんだ。

――と、過去の自分に言ってやりたいことを書いた。テンパってるときは、なかなか冷静に思い出せないもの。だから二つに絞った。未来の誰かの予防接種になれば、うれしい。

| | コメント (7) | トラックバック (1)

哲学、脳を揺さぶる

哲学、脳を揺さぶる 慣れ親しんだ世界が「揺さぶられる」感覚を訓練する。

 コクーンタワーのBook1stで呼び止められた一冊。「知の森」を髣髴とさせる、あの林立した書架から、警告のように伝わったぞ「俺を読め」って。ただこれ、タイトルどおり「哲学」のエリアに置いてあったけれど、中身はちがうような気が。むしろ自己啓発書として「使う」とユニークだろう。

 著者曰く、「学習」と「発達」を区別せよという。視点や観点の選択肢が一つ増えることは、学習の成果で、それに伴い知識も増える。けれども、能力そのものの形成や、能力形成の仕方自身を習得するのでなければ、テクニックが一つ増えたにとどまるという。

 たとえば、自転車。うちの子が四苦八苦しているんだが、なかなか乗りこなせない。どうすれば乗れるのかは、「わかる」のだが、「できる」ようになるまで発達していない。乗り方が知識として分かったところで、乗れるようになったわけではない。ところが、いったん乗れるようになると、子供用→変速機→ママチャリまで学習によって増やしていくことができる。

 つまり、「自転車に乗れる」という能力を形成するのが「発達」で、自転車の種類を増やすのが「学習」なのだろう。本書によると、現在流通しているかなり多くのノウハウ本は、学習の範囲にあるという。本来、課題になっているのは、能力そのものを形成することであり、本書の目的は、この「発達」を再度リセットすることだという。

 この能力獲得のやり方は、「洗脳力」(苫米地英人)に似ている。「洗脳力」は自分や他人への影響力を行使するための直接的な技術として大いに役立つ。いっぽう本書は、同様の能力を自分自身の身体・感覚を通して身につける、その方法そのものについて紹介している。

 とても大事なトコなので、別の言葉でくりかえすぞ。「思考技術や、フレームワークの紹介ではなく、あたらしい感覚・あたらしい経験を再獲得するやり方」が書いてあるんだ。「自転車の乗り方」が書いてあるのではなく、「自転車に乗れるようになるとき、何がはたらいているのか」が書いてあるんだ。

 料理のレパートリーのように「○○シンキング」が並んだ凡百の自己啓発本の横に、「鮪の獲りかた」「畜殺のコツ」があるとイメージしてほしい。「洗脳力」といい、本書といい、ゆるふわ啓発本に慣れた脳を「揺さぶる」こと請合う。

手は外に出た脳であり、身体は外に出た脳の容器である。頭蓋骨のなかに納まっているのは、脳の構造部材であり、この構造部材を有効に活用するためには、外に出た脳に有効なエクササイズを課すしかない。

 このエクササイズが面白い。

 たとえば、身体と呼吸の幅を広げるために、限界までの深呼吸を行えという。そのとき、息を吐ききったときの状態と、息を吸いきったときの状態をイメージしてみろと提案する。身体状態を記述するのでなく、その感じ取り方をなんらかのイメージと結び付けてみろという。意識の速度を遅くし、意識の動きがとまるような場面まで遅くすると、意識がそれとしてあることの境界がくっきりと見えてくるという。

 残念ながら、「意識の境界」まではたどりつけなかったが、身体とイメージングの連動は楽しめた。「身体状態→イメージ」ができると、その逆であるイメージから身体状態にもってくることが可能になる。「洗脳力」のレビューで紹介した「手を使わずにオナニーする方法」、「偽の記憶を上書きして遊ぶ」で実験済みだし。

 あるいは、表紙でもある「天命反転住宅」は本書で知った、目が点になった。荒川修作氏が設計した三鷹にある住宅で、「すさまじぃークレイジー」という言葉がピッタリ。色も形も、この世のものとは思えない。赤、青、緑、黄の原色が圧し、本来「四角い」はずのドアが円形だったり、そもそも「直方体」である部屋が球体となっている。スケールは小さいものの、このイメージはポンピドゥー・センターそのもの。おまえはリサか!

三鷹天命反転住宅 そこで普通に一泊した翌朝、著者は「いつもと違う」筋肉痛に悩まされる。著者の河本英夫氏は軟弱な哲学者ではなく、日々ランニングを欠かさないスポーツマンなのだが、どこかおかしい。これは、異常な住環境に身を置くことで、筋肉を使うこととは別の緊張度を強いたのではないかと想像する。この作品のなかで、経験を動かすことと、動いてしまった経験を動きのさなかで感じ取ることを考察する。

 さらに著者は、意図的に測度を変えることを提案する。測度とは要するに、「目盛り」だ。日常生活にあたって形成された目盛りを、いったん捨ててみろというのだ。一歩の距離をセンチメートル単位で測ったり、電子顕微鏡の世界を人間のスケールにあてはめて「言葉」で表現することで、感覚が変わっていく。それまで見えていなかったものが見えてきたり、逆に見えていたものが消滅するような経験が必要だという。

 これも、「洗脳力」のレビューの「ひとり遊び」で紹介したとおりだが、まさにこの「測度を変える」のにうってつけな道具を二つ見つけてきたので、紹介しよう。

PowersOfTen ひとつは、「Powers Of Ten」。最初、どこかの公園に寝転がっているピクニック中の男性の姿から始まる。正方形に区切られた映像は縦・横が1m×1mの範囲を見せている。次にカメラが上がっていき、映像範囲は10m×10mとなる。さらに上空から100m×100mの範囲をとらえる。これをこうり返していき、ついには宇宙の果てまで後退する仕掛けだ。いっぽう、逆方向もある。1m×1mの世界から0.1m×0.1m…とミクロから陽子や中性子の世界へ突入していく。書籍版だとページをめくる度に空間感覚が広がっていくのが怖くなる(アタマが開く感じ?)。

 もうひとつは、Nikonの「Universcale(ユニバースケール)」。大きさを「実感」できるユニークなサイト。極小の世界から宇宙まで、あらゆるものの「大きさ」を感じることができる。もちろん卵子の小ささも太陽の大きさもディスプレイに表せないが、「比」することはできる。画面を触らずに眺めていると、そのスケール感覚にめまいを覚えるかも。

 タイトルがシャレている。「Universe + Scale」、つまり「万物 + 尺度」だそうな。アシモフは宇宙に点在する小宇宙の密度をこう表現している。「32km角の大きな部屋にある、一粒の砂」――言葉を思い浮かべることでも、日常に慣れきった感覚・知覚がゆらいでくる。

 わたしが付け加えたものもあるが、著者が提案するのは感覚・知覚のエクササイズそのもの。カフカから物語イメージを活用し、イチローと松井の身体表現の可能性を探り、わかる前に注意が向くということを寺田寅彦から実演してみせる。

 そうした感覚のエクササイズに対し、既に知っていることと関連付けたり、今の知識に加えようとするのは禁物。学習の「前」に、その意味をカッコに入れ、自分の経験そのものを「動かす」ことを訓練してゆく。意味によって経験をラベリングするのではなく、再・経験する(創・経験する?)のだ。

 ガイドブックというよりも、練習帳。だから、知を得るために読むと、畳の水練となる。トレーニングから得たものを言語化するのはかなり難しいが、さんざんやった後、これは「オートポイエーシスの練習問題」だということに気づく。

 あるいは、オートポイエーシスを実経験する一冊なのだろう。

| | コメント (4) | トラックバック (2)

この喪失感は、中年の特権なのかも「モンテ・フェルモの丘の家」

モンテ・フェルモの丘の家 家族喪失の物語、と読んだ。ありきたりな題材をじょうずに料理している。

 すべて書簡形式――つまり、登場人物たちの手紙のやりとりを読む形で進行する。恋も、愛も、別離も、そして死も。ただし、よくある「二人の往復書簡」ではなく、男女入り乱れて8人のやりとりを読まされることになる。メールというよりもメッセンジャーをのぞいている感覚。

 でもだいじょうぶ、主要なキャラクターは二人、中年男ジュゼッペと、彼と不倫してたルクレツィアのやりとりがメインだから。中年男はアメリカへ移住し、女はイタリアの田舎暮らしにあきあきしている。それぞれの場所から、「昔はよかったね」と思い返しながら今の生活にとりくむ様子がやりとりされる。

 そして、彼らを囲むように友達がいる。辛らつな言葉を交わしつつ親密な空気をかもしている仲間たち。その仲間うちで、誰かと誰かが惚れただの寝ただのといったエピソードが鼻につく。まるで大学のサークル内での色恋話を聞かされているようだが、四十五十のもう子どもも大きくなっているようなトシでするのか?さすがイタリア、恋の国。

 そうしたワキアイアイの象徴が、モンテ・フェルモの丘の家(マルゲリーテ)。そこには、たくさんの友達があつまり、いつ行っても誰かが待っていて、あたたかい雰囲気でむかえてくれる。いわば「たまり場」ってやつだね。そうした場をもっていた仲間内が、だんだんバラバラになっていく様子が手紙を通じて知らされる。友情という絆にむすばれた、擬似的な家族が消えさってゆく様子が、外側のエピソード。

 そして、コアの話で、典型的なイタリアの大家族が壊れてゆく。さらに、その傍らで、もうひとつの現代的で実験的な小家族が消えていく。もちろん手紙形式なので、渦中もしくは伝聞といった極端な形でしか知らされない。もっとも知りたい客観的な視点なぞないので、読み手は書き手に移入したり突き放してみたりなにかと忙しいかもしれない。

 もちろん、エエトシこいたオッサン・オバサンなのだから、自分の選んだ生き方の結果は引き受ける覚悟でいるはずだ。だが運命は、そいつを軽く超えるほど残酷だったりする。若けりゃ「そんな時代もあったね」と次のステップもあろうが、もう時間がないんだ、あの丘の家と同じように。この感覚を、中年男ジュゼッペがうまいこといいあらわしている。

ある年齢まで生きてきた人間にとっては、初めて見るものは、もう関係ないのだ。旅行者として眺めるだけで、興味はあっても心はつめたい。他人のものなんだ、それは。
 この喪失の物語を、バラバラの往還を再構成する形で読ませるのが面白い。読み手は誰がダレやらとまどいながら、必死になって出来事を追いかけよう、思い出をつなげようと読むんだけれど、登場人物たちの距離がどんどん離れてしまうんだ。集めようとする読者と、離れようとするキャラクターの方向のズレが、この小説をユニークにさせている。そして、集め終わる頃にはもう、とりかえしのつかないところにまで至っている。そして、その場所からふりかえる過去と、モンテ・フェルモの丘の家は、もう違ったものに変わってしまっている。

 運命に流されて、変わってゆく私。そんな私を、ときどき遠くで叱ってもらう「あなた」も、変わってしまった。あのとき選んだ生き方を、あなたは忘れない。でも、あなたは、私の青春ではないんだ。「あのときのあなた」こそが、私の青春そのものだったのだから――この喪失感は、わたしがトシとったせいだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

スローリーディング(笑)

スローリーディング ゆっくり読むことは、とても重要。だけど、ゆっくり読むこと「だけ」?

 速読中心の世の中に背を向けて、ゆっくり読むことを推奨する人がいる。ゆっくり読むこと、遅読、スローリーディングともいう。ロハスはだいぶ下火になったものの、およそ読書にとって、「じっくり読むこと」は大切だと思う。

 関心を惹くところだけをザッと見て「読んだ」と吹聴するのは、ちょっとね。ビジネス書や実用書ならともかく、うっかり小説を速読しちゃうと、「なぁ~にぃ~、やっちまったなー!!」と杵を振り上げたくなる。

 特に小説は、じっくり読むべし。書いてあることから書いてないことを想像し、テーマを仮設する。展開のスピードに身をゆだね、作者の意図をはかりながらも、ちがった「読み」ができないだろうかと自問をくりかえす。スジやオチを知りたいなら映画を早送で見るか、誰かに読ませてソコだけ教わればいい。

 しかしだ、ことさら「遅読」だの「スローリーディング」を喧伝し、速読や斜読を読書の冒涜かのように扱うのは、もっといただけない。速読できる人は遅読もできるんだよ!本に応じてスピードをコントロールすることが重要なんだよ!と声を大にして反論したくなる。

 「本の読み方 スロー・リーディングの実戦」なんて、まさにそう。

 お気に入りの小説を、ゆっくり、じっくり味読することは、なにものにもかえがたい。この点については著者に完全同意する。さらに、「本は再読することに価値がある」とか、「感想は、一回限りでなくてもいい。むしろそれは、生きている限り、何度も更新されるもの」なんて、とってもいいことを言ってる… …が、スロー・リーディングを大事にするあまり、速読や多読を叩くのは、やりすぎかと。

 たとえば、これ。

一ヶ月に本を100冊読んだ、1000冊読んだとかいって自慢している人は、ラーメンの大食いチャレンジで15分間に5玉食べたなどと自慢しているのと何も変わらない。速読家の知識は、単なる脂肪である。それは何の役にも立たず、無駄に頭の回転を鈍くしているだけの贅肉である。
 さすがにこれは言いすぎ、勇み足ではないかと。もしも、量「だけ」自慢する人がいるのならダメだろうけれど、多読家は量が質に転換することを知っているんじゃぁないの?たくさん読むから審美眼や目星がつくんじゃぁないかと。

 そんなに「スロー」が大事なら、本書を読むスピードを、ゆ~~~っくりにしてやると…ふつうなら読み逃がしてやるはずの、誤謬や矛盾が目に付いてくる。p.32「使って見る予定である」や、p.54「違いに敏感であることである」といった語彙云々だけでなく、論理破綻や読み落としが痛々しい。

 論理破綻の例なら、第一部の「新聞もスロー・リーディング」だろう。

 新聞ごとに主義主張や思想が異なっているため、ザッと読んでしまうと偏った情報しか得られなくなる。その危険を回避するため、複数の新聞に目を通し、違いに敏感たれ――と、述べているワケだけど、「複数の新聞に目を通す」ためには、ゆ~~~~っくり読んでいたら朝が終わってしまうぞ。

 同じ時間で複数の新聞に目を通すつもりなら、好むと好まざるとに関わらず、ある程度の速さで読む必要があるかと。「批判的読み」の重要性を印象づけたい気持ちはわかるが、それならむしろ、同じテーマで速読と併読をくりかえすほうがいいぞ。

 痛々しい読み落としの一例は、「高瀬舟」。

 まず、本作を安楽死問題として片付ける人を、あらすじだけを聞いてわかったつもりになっている人と一緒だと批判する。

 そういいながらも、著者のお手本が「安楽死」から一歩も離れていない。舞台設定や描写をつつきまわしているだけで、メインテーマ「物事には二面性がある」を完全スルーしているのはなぜ?

 この短編の構成として、罪人の告白を訊く役人の心境が、まるでサンドイッチのように上下から挟み込んでいる。しかも、上と下でまるで違っているのがミソ。ごていねいに、話の入り口で、罪人の事情から己が状況を照射し、「喜助さん」と「さん」付けまでするぐらい心が動いているではないか。

 あれは前フリなの。「安楽死」という極端な口実で、「殺人なのか安楽死なのか?」を考えた後で見ると、他の物事の二面性も気づくという仕掛けなの。最初と最後で、自分の役目、家庭を見る目はガラリと変わっている。同じ状況でもちがって見えてくるのが「じっくり読み」で読むべきところだろうに。

 そうした全体構造をうっちゃって、「ほう助の瞬間」をクライマックスにしてあれこれいじりまわしている様子は、まるで、神戸屋のエッグサンドの卵だけを味わっているように見える。批判対象となっている速読のせいで、「ああ、安楽死ね」と"わかったつもり"で読んだのならまだ分かる。が、遅読を意図して読んだのなら、ソコでとどまっていたら、何のためにスローにしたのさ、とツッコみたくなる。それとも読み落としは遅速無関係なのかね。

 「スロー・リーディング」、「遅読」、呼び名は何でもいい。ゆっくり、じっくり読むことは大事。でも、大事にするあまり、速読・多読・斜読を叩くのはどうかと。はやく読める人は、ゆっくりでも読める。ゆっくりしか読めない人は、はやく読めない。

 ゆっくり読みだと、自身の内部の雑音に煩わされることになる。すなわち、文中のコトバから導かれる連想や、作者の前提・論理へのツッコミが湧き出てくる。放っておくと、「わたしならこう書くのに」と添削しだしたり、「(作者の意向を無視して)こう読むほうが面白い」と妄創作しはじめる。

 だから、そういう無茶読みで手がつけられなくなる前に、書き手の意図に沿うためにも、一定のリズムで進める必要があるんだ。暴走しがちな自分のアタマをねじ伏せて、いったんは向き合う。読まれるテンポというのがあり、それにあわせてコントロールするのが大事かと。ファースト・リーディングばかりは危険だし、スロー・リーディングばかりだと木を見て森を見ず。「遅読のすすめ」の[レビュー]でも言ったが、セーフティ・リーディングを、心がけようか(自戒を込めて)。

| | コメント (3) | トラックバック (3)

あこがれとワンサイド・ラブ「数学ガール」

数学ガール もちろん高校んときを思い出して赤面しましたが何か?

 ゼータ関数、コンボリューション、テイラー展開――うむむ、さっぱり分からない。ここでいう「分かる」とは、同じ問題を自力で解けるかという意味で、だ。最初は「分かる」のだが、ひとつひとつ、イコールをたどるうち、数式の森にさまよいんでいく。

 それでも数学ガール(ズ)に手を引かれ、数式を追いかける喜びは感じたぞ。「分かる・分からない」というよりも、うつくしさを「感じる・感じない」というのに近い。のびた数式が「たたまれていく」快感や、「閉じた式」を探索するドキドキは、分かるより感じとった。

 分からないなりにも感じとれたのは、著者の力量だろう。手をとって、つれていってもらえる感覚や、知らない先から戻ってくる感覚が、たった数行の式を追うだけで味わえる。こんなの、小説や評論ではありえない。

 この感覚は、料理や音楽に近いかも。自分には出せないけれど、よさは分かる。ここに出てくる式がスラスラと分かる人を、尊敬する。それは、ジャズピアノが弾ける人にあこがれるのに、ちょっと似ている。

 わたしにとって数学は、「暗記科目」だった。

 試験問題を解くため、パターンの「暗記→あてはめ」を積み重ねだった。これは、受験数学の呪いだな。おかげで、せっかくゆっくり考えるスピードで展開している式に圧倒されてしまう。とまどい、うろたえ、結果だけを先にみようとしてしまう。これはもったいない。

 「答え」だけを求めようとするのではなく、数式の森をさまよいながら、手持ちの「武器」を使って仮説検証をくりかえす――これこそ数学ガール(ズ)が魅せてくれた愉しみなのかも。

 数学へのあこがれは、男の子が女の子に抱く思いに似ている――あとがきで著者はこう語る。たしかにそうなんだが、メガネっ娘はつくりすぎ、ドジっ娘はベタすぎで、戯画化が鼻につく。さらに、主人公の一人称がエロゲ並に強いので、恋物語のパートは独自の読みかたで楽しんだ。

 すなわち、これはぜんぶ「僕」の頭の中だけで完結している物語なんだ。銀縁娘も元気娘も最初からおらず、数学好きの孤独な男子高校生の願望が生んだ妄想というストーリー。すると、いっぺんにスリラーな気分になる(こういう変態読みはマネしちゃダメ)。キャラいじりはさておき、数式の説明パートは、文字通り噛んで含める丁寧さで、「数学へのあこがれ」を充分にみたしてくれる。

 ちなみに、この本、図書館の予約がずーっと途切れないという珍しい本でもある。いわゆる「最近のベストセラー」は、予約待ち三桁といったすごい行列だけども、本書はちがう。いつチェックしても、予約待ちが数人のまま、どこの図書館でもいっしょ。常に誰かが読みたがっている、めったにない本。こういう本は、ながく読まれ続けるだろうね。

 え?どうしてそんなにチェックしているかって…? そ、それは… 何度も何度も何度も挫折しては借りなおしてきたから…

| | コメント (8) | トラックバック (1)

「読んでいない本について堂々と語る方法」はスゴ本

読んでいない本について堂々と語る方法 スゴいのは、本書が巧妙な罠だということ。

 タイトルは本を開かせるための釣りで、本書そのものに仕掛けがしてある。もちろん「未読本について語る方法」はあることはあるが、そいつを探しながら進めると、ホントの目的を読み流してしまう可能性が大。

■1 本書の、「表面」

 疑似餌となっている「読んでいない本について堂々と語る方法」は、本書のあちこちに散っている。なかでもズバリなやつは、p.169-170 だろう。すなわち、第一に、冒頭で作品を褒めることで、読み手の信頼感を抱かせろという。あとはひたすら一般的考察に逃げ、最後に次の記事で本に言及することを予告する。しかし、次の記事なるものがあらわれることがなく、その本を葬り去ることができるというのだ。

 そして、誰もが本を「読んだ」と思っているだけで、「ちゃんと」読むなんてことは、ほとんどありえないことを明らかにする。ほとんどの場合、ナナメ読みか飛ばし読みしているか、タイトルや評判から勝手に類推しているにすぎない。さらに、「読んだ」という人だってその記憶はどんどん(TPOと自己都合にあわせて)改変されているものだという。

 だから、本の内容に一言もふれることなく批評は可能で、未読の段階・批評の状況に関係なく、気後れせずに自分の考えを押し付けたり、必要なら本をでっちあげればよろしい。――というのが、本書の、表側の、趣旨。

■2 本書の「裏面」と、トラップ

 この論証のため、著者はかなりのページを使って「本を読む、つまり"読書"って、どういうこと?」を徹底的に検証する。モンテーニュ「エセー」やエーコ「薔薇の名前」を使って、「読んでいない」と「読んだ」とのあいだにある境界が、いかに不確かであやふやなものであるかについて突き詰める。これが本書の、裏側の、趣旨。

 ネタバラシじゃないかって?だいじょうぶ、著者は序章でバラしているのだから。未読本について語るためのテクニックのみならず、あいまいで、いい加減な読書行為の分析にもとづいたひとつの読書論を打ち立てるのが、本書の目的なのだという。

 ちなみに、「薔薇の名前」と「第三の男」は完全にネタバレしている。もちろん皆さん既読だからかまわないよね、という著者一流の皮肉とみた。実は、ここにも罠がある。ある箇所で「薔薇の名前」のラストを明かすのだが、それちがう!既読ならすぐ気づくぐらい大きな誤りなのにと思いきや、後でぬけぬけと誤りを認める。

 つまり、作品の援用にあたり、自分の主観的事実を述べたに過ぎないと、本書の仕掛けを実演してみせているのだ。地図の著作権トラップのように、最後まで読まない人をあぶりだす罠なのかと思ったぞ。

■3 読書とは何か――読書論

 その本を読む、つまり「読書」とは、いったいどういうことだろう。物理的な本はそこにあるが、「読書」とは、本を「所有」することではない。書き込みや線を引きながら"読んだ"といっても、その書き込みや傍線は「読書」ではない。読書ノートやブログでのコメントも、読書から生み出されたものであって、読書ではない。

 もちろんプルーストを持ってこなくても明白だろう。読書とは行為のひとつで、物としてのページと読み手のあいだで成り立つ経験のこと。読書という体験を経ることで、新たな知見を得たり、異なる思考様式をたどったりすることができるが、あくまでアタマの中でのこと。だからわたしたちは、ページに記載されたものを、視覚を通じて受け取ったと信じている記憶の形でだけ、「読んだ」といっているにすぎないんだ。

 これは、速読・遅読・斜読に関係なく、「読んでいた・読んだという記憶」でもって読書が成り立っている。この記憶がいかにあやふやで、改変されやすいかについて、著者は執拗に追求する。「読んでいない本について語らされる」小説のエピソードを通じて、この「読んだ」「読んでいない」境界線がいかにあいまいかを示してみせる。

■4 読者とは何か――読者論

 読者は、本を読んでいるあいだだけに存在するとは限らない。むしろ、本を読み終わった後に始まるといってもいい。読者は、さまざまな書物を渡り歩くことによって、そこに保たれていた自身の一部を再発見するという。これは、テクストを通じてあたらしい意味内容を創造的にリ・プロダクトすることと近しい。

 書物のなかに、自分を見つけ出すやりかたなのだが、不思議なことに、「読むことによって変わる"読者"」がどこにもいない。わたしのような「影響されやすい」読者だと、読んだら読んだぶんだけ知識なり思考が移動する。むしろ、読んでもピクとも動かないような本は、読まなくてもいい本だといっていい。

 そんなわたしにとっては、読み手を本に従属させまいとする著者の意見は新しくみえる。本に深入りしすぎて、読み手の創造性が奪われてしまうことのほうを危険視するあまり、本から汲み取る知識や思想のほうを低く評価してしまっているのではないか?この疑問は最後まで続く。

■5 書物とは何か――書物論

 本書をハウツー本のフリをした「読書論」だと思い込んだら、これまた罠にかかったことになる。読み手の独創性を守るため、書物から一定の距離を置くことが必要だと主張するためには、それを可能たらしめている理由――書物の役割こそが、もうひとつの柱なのだから。本書はハウツー本のフリをした「読書論」のフリをした「書物論」でもあるのだ。

 書物は単体で存在するのではなく、その著者、タイトル、出版社などによって、ジャンルやレベルのなかで位置づけられる。その位置さえ把握していれば、直接その本を読まなくても「堂々と語る」ことは可能だという。

 たとえば、みんなのだいすきな村上春樹の新作ならば、中の人が誰であれ、高いポイントをつけるだろうし。このときの「書物」は、存在すらしていなくても大丈夫。なぜなら、「本という物質はひとつだが、それを話題にするあらゆる関係性の結び目としてなりたつ」のだから。

 書物がいかにヴァーチャルな代替物として作り上げられるかについては、「薔薇の名前」で"あの本"について語り合う二人の会話を証拠として挙げている。その本は「存在」はするものの、ある理由により読めないのだ。そしてその「読めない本」(なんつー矛盾!)に書いてある内容こそがキモだったりする。"あの本"を読まないことこそが、謎を解くことになる――とても象徴的なエピソードだね。読書は、書物と読者のあいだだけでなく、その書物を話題とする(自称/詐称)読者たちのあいだにも、存在するのだ。



薔薇の名前1薔薇の名前2

■6 最大のトラップ

 だが、ちょっと待て。何かおかしい。

 著者は、書物を読むことと、それについて語ることは、別々の活動なのだということを見事に検証してみせているが、それは小説やエッセイ――すなわち書物だ――の事例をもってしてである。読まれる対象である書物もって読まなくてもいい証拠とする、なんというパラドックス。

 そして、著者は「薔薇の名前」を、ざっと流し読みしただけだというが、ウソだ。上述のトラップや「読めない本」をヴァーチャルな本だと見抜くところなんて、まさに精読・再読している証拠だろう。

 つまり、「読まなくてもいい」証明として扱うためには、その俎上にある本を熟読玩味する必要があるんだ。「読まなくても堂々と語れる」内容こそが、ちゃんと読んでいないと話せないのだ。「読まなくても語れる」ために精読したという、なんという自己矛盾。

 さらに、話題の関係性の結び目としての書物論や読者論についても、同様のことが言える。ある書物が全体の中での位置づけが可能だというならば、それ以前の書物を読んでおく必要があるはずだ。村上春樹の新作を位置づけたいなら、旧作や近いジャンルを読んでおく必要があることと一緒。

 いや、目録や他の言説(書評)、あるいは本の本があるではないかと反論されそうだ。しかし、その言説を信じるためには、やっぱり旧作や周辺を読まなければならない。「その書物を読まないために」きちんと読んでおくべき本が、必ず出てくるのだ。読書から得られる知見なり情報なり思考様式に裏付けられてこそ、「全体の中の関係性」をつかむことができるのだから。

 結局のところ、「読むために、読まない」ことを目指すと、どうしても「読まないために、読む」ことになる。本書をマジメに読もうとすればするほど、この自己矛盾の堂々めぐりに陥る。あ、あれ?あまりに拘泥して「書物のディテールに迷い込んで自分を見失う」ことこそ、本書で戒めていることじゃなかったっけ?

■7 もっと気楽に「読む」?

 つまり、二重三重の罠なのだ、これは。

 「読んでいない本について堂々と語る方法」が、「本」という体裁をとっている限り、どんな読み方をしても自己言及の罠に陥る。接近して読むと、「本当に読んだといえるのか?」というジレンマに囚われ、逆に読み飛ばして(あるいは読まないまま)テキトーに語ると、正鵠を射ていたりする(←これすらも本書に書いてあるという皮肉!)。

 もちろん、こうした深読み、裏読みをせずに、ただ漫然と流してもいい。あるいは、ざっと目を通すことで「読んだという記憶」を作り上げることも可能だ。その場合は、最初の「■1 本書の、表面」にまとめた内容なる(それはそれで著者の思惑どおりなんだ)。

 ただ、著者も訳者も罠の解説をほとんどしない。うっかり誉めたりすると、その「誉めかげん」によって、いかに読んでいなかったがバレる仕掛けとなっている。本書を深くするのは、書き手よりも、むしろ読み手。どこに「斉天大聖」と記すか、注意しながら読んでみよう。

 自分の「読むこと」への揺さぶりがかかる、かなり貴重な一冊となる。

| | コメント (3) | トラックバック (3)

人類を救うためのトリアージ「五〇〇億ドルでできること」

五〇〇億ドルでできること ヒステリックな学者や、不安を煽るだけのマスコミに読ませたい一冊。

 「待ったなし」と表現される問題がある。地球環境、水資源や食糧の枯渇、飢餓と貧困、感染症の拡大などがそうだろう。しかし、「待ったなし」と言われてから、いったい何年、何十年経過しているだろうか?

 いや、こうした問題に取りくむ人々や組織・機関がサボってたわけではない。割り当てられた資源のなかでやりくりしながらそれぞれの責務を果たしてきたはずだ。では、どうしてこうした問題の解決が遅々としているのだろうか?

 資源が足りない?足りないのはどの問題も同じ。むしろ、問題に応じて割り当てられていないため、効果的に活用されていないのではないか。そのときの風潮を受け、場当たり的に資源の逐次的投入をしてきたためではないか──本書を読むと、そう考えるようになる。

 世界のためにあと500億ドル使えるとしたら、どの問題から解決するべきか?一流の経済学者たちが徹底的な学問的議論を重ね、世界が直面する難問を優先すべき順位の高い順に並べたリストを作成した。これが、コペンハーゲン・コンセンサス2008。提案された30の解決策と、最終的に残った13の解決策とその資金配分についてはリンク先が参考になるが、本書からまとめると、こんなリストになる。

──非常に良い
     1. 感染症 HIV/AIDSの抑制
     2. 栄養不良と飢餓 微量栄養素の供給
     3. 補助金と貿易障壁 貿易自由化
     4. 感染症 マラリアの抑制

──良い
     5. 栄養不良と飢餓 農業新技術の開発
     6. 衛生と水 小規模な生活用水技術
     7. 衛生と水 地域が管理する給水と衛生設備
     8. 衛生と水 食糧生産における水の生産性の研究
     9. 統治と腐敗 新規事業開始費用の引き下げ

──普通
    10. 移住 熟練労働者の移住に対する障壁の引き下げ
    11. 栄養不良と飢餓 乳幼児と子ども栄養の改善
    12. 感染症 基本的保険サービスの拡充
    13. 栄養不良と飢餓 出生時低体重の発生数の削減

──悪い
    14. 移住 非熟練外国人労働者の一時的雇用プログラム
    15. 気候変動 最適な炭素税
    16. 気候変動 京都議定書
    17. 気候変動 バリュー・アット・リスク炭素税

 ここでいう「良い」「悪い」とは、カネで換算した「費用対効果」「費用便益比」のこと。感染症対策と京都議定書を同じ土俵に乗せるために、提案の評価や順位づけにあたって、経済的費用と便益を判断の指針としている。つまり、提案によって供される便益の価値と、その提案を実行するために必要な資源を比較する。費やした分よりリターンが大きければ「良い」だろうし、カネばかりかかって効果が薄いものは「悪い」提案になる。

 唯一の環境問題である地球温暖化対策が最下位に位置付けられ、一ドルも配分されなかったことは意義深い。たとえば、p.24の「京都議定書による削減の費用と便益」によると、世界総生産に対する費用と便益比が時系列に表されており、費用が毎年、およそ1パーセントかかるのに対し、便益が費用を上回るのは2100年ごろ。文字通り国家百年の大計で、その効果が非常に長期にわたるため、費用便益分析では現在価値が低くなると判断されたわけだ。

 当然のように疑問がでてくるのは、「人命の値段」のこと。救われる人命に対する金銭的価値が低すぎるのではないか、あるいは、そもそもカネで人命を贖えるのかという質問の答えを探しながら読むことになる。

 そして、「人命の値段」はGDPをベースとしているため、先進国の一人の人命の「値段」と、途上国の「値段」も、当然のごとくちがってくる。人命を金銭ではかることについて、「人の命は地球より重い」というセリフが大好きな方は憤慨するかもしれない。それでも、すべての提案を共通の土台に並べるためには、万国共通、過去から未来、地獄から天国まで通用するカネという価値が基準になる。

救われる人命に付している金銭的価値が低すぎるという。人命の価値をはかることは、常に非常に難しい。問題の優先度を決める際に救われる人命を経済的便益とは別のカテゴリーで考慮する場合もある。いずれにせよこの要因も、対策の便益の過小評価につながっている。

 便益を過小に評価してもこのランキングなのだから、「人命を銭金で云々」する方は、なおさらこのリストを重視すべきだろう。最小コストで(低く見積もった)最大の人命を救えるのだから。

 世界を救うための経済学的「正解」として考えたい。全ての判断基準はオープンで、反論可能で、検証可能だ(じっさい、反論のための頁も割いている)。自転車置場の議論 (bikeshed discussion)ばかりで何かやった気分になったとき、あるいは、全地球的問題になると視野が狭窄してると感じたとき、このリストに戻ろう。

| | コメント (8) | トラックバック (3)

« 2008年12月 | トップページ | 2009年2月 »