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疲れやすい人は「耳」を疑え

 「さいきん、疲れがたまって」はオッサンの常套句かもしれないが、そうとは限らないぞ。ちょっと革新的なことを起こしたので報告する。

 わたしの読書タイムは電車内。痛くて臭くて苦しいけれど、外部からの情報をシャットアウトして、本に集中する。むしろ、本に「逃げこんでいる」のが正解か。スゴ本に三昧してる間は、親爺の暴力的なワキガも女子高生の暖かい大臀筋も、微風ほども感じない。

 ただ、車内放送だけはいただけない。

 頭上からガナりたて、混んでいて申し訳ないとか、次の停車駅では1分ぐらい停まるとか、しようもないことをフルボリュームで強制的に聞かせる。しかも切れ目なく延々と。乗客を不愉快にさせることが目的なのであれば、かなり成功しているね。

 どうしてもガマンできないので、イヤーマフを試してみる――Peltorという工事現場用のものなんだが、 これが大正解。隣とまともに会話できないレベルが、すべてくぐもって聞こえる。完全防音ではないが、「静か」な環境を手に入れることができた。

 1週間ためした結果。まず単純に、本を読むスピードが上がった。当社比1.5倍といったところか。本に集中しているとはいえ、完全に遮断しているわけではなく、選択的にアナウンスを拾っていた。その振り向けている意識のうち、車内放送からムリヤリ引き剥がす必要がなくなったため、より集中できるようになったのだろう。

 たとえば、騒がしい雑踏でも、友人の声を選択的に聞き取ることはできる。同様に、騒音というより轟音というべき車内でも、本を読みながら必要なアナウンスを聞き取っているのは、耳からの音情報を取捨選択している。これは無意識でやっているとはいえ、かなり「耳」というかアタマを酷使していたのではないかと。わたしは、耳から入ってくる情報にあまりに無頓着だったといえる。

 それから、(こっちの方が重要なのだが)あまり疲れなくなった。「疲れ」は数値にしにくいが、症状でいうなら、肩コリが解消した、寝覚めスッキリ、肉体的などんより感覚がなくなったね。こころみに、イヤーマフを外して「音」にしばらくさらしてみたら、気づいたんだ、口のなかの血の味に。歯を食いしばるんだね、わたし。さらに、肩にえらくチカラこめていたことにも。カラダに負担かけて、「音」を拒絶していたんだね。

 数千円のイヤーマフで、これほど快適になるとは気づかなんだ。世の中にはノイズキャンセリング・ヘッドホンという素晴らしいガジェットがあるが、いかんせん手が出ない。安物もあるが、文字どおり安かろう悪かろう。スペックを見る限り、同質の環境を手にしたいなら、Boseの数万円するやつになる。フトコロに余裕がある人はどうぞ。お金かけないなら、耳栓だけでも一定の効果がみこめるかと。

 氾濫する広告からは目をそむけて、DSなりケータイみてればいいし、ひどい臭いはマスクでガードする人もいる。しかし、否応なしに耳に入ってくる「音」は盲点だった。「音」がストレスをうみ、ストレスが疲労をうむ。だから、「音」を遮断することで毎日の疲れを激減させることができるんだ。

 「疲れやすい」を自認する方は、まずご自身の「耳」を疑ってみてはいかが?

※参考になったリンク先
  イヤーマフ、耳栓比較体験記
  教えて!goo「耳栓・イヤーマフ について」


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カオスで懐古で「カルトな本棚」

カルトな本棚 ただただ、ひたすら、なつかしい。そんな本がザックザク。

 コリン・ウィルソンや森山塔あたりを「懐かしい」なんていえるなら、夢中になって眺めまくるだろう。いっぽうで、ぜんぜんお馴染みのないカルト本の数々に出会うことができた。「魔法使いサリン」なんて、幻のスゴ本なんだろうね。世に出たのは1997年なので、今となっては手に入らないすごい本の書影は、目の毒かも。

 唐沢俊一氏が案内人となって、濃い口の人生を送っている方の本棚を紹介する。暴力的なまでに乱雑な本棚もあれば、整然と「SMスナイパー」が並んでいる棚、エロマンガ山脈でできたベッドなど、その人まんまのスタイルがあふれ出していて笑ってしまう。

  山本弘
  睦月影郎
  串間努
  立川談之助
  佐川一政
  奥平広康
  唐沢なをき
  竹熊健太郎
  唐沢俊一

 各人のインタビューがまたスゴい。捨てられない本への愛着や変わった読書法、特殊な読書遍歴、ウンチクが尽きることなくたれ流されており、食あたりになるぐらい。仕事柄、全員「本は買う派」なんだが、特に竹熊健太郎氏のこのひとことは、「買う派」を勇気付けてくれる。

自分が買ったということは、自分が何かしらそこに価値を見いだしたわけで、たとえ読まなくても買ったという行為自体に何か意味があるわけですよ。いつか役に立つかもしれないと思って買ったのもあるし、なんか気になるから買ったとか。そこにやっぱり自分が介在しているわけですよ
 奇妙なことに、このセリフはみうらじゅん氏のポリシーと一致していて面白い。ヒヨコ舎の「本棚」[レビュー]で、みうら氏は積読は結構なことで、「本は買った時点でもういい」んだと断言する。本への興味は本を買った時点で完結するのだから、読む読まないは別問題なんだって。だから、
オレがこの本に興味があるってことがわかったんですから。わかることが大事なんで。いくらかでもお金を出して買うってことは相当ハードル高いですからね。金出してまで買うってことは相当興味あるんだなーって自分が思うんですよ
 達観してる…本棚は脳の外部記憶装置なだけでなく、アイデンティティの再確認装置なのかもしれないね。

 だから脳には「あの本はあのへんにある」というポインタだけが張ってあって、「あの本のあのへんに、これこれしかじかの記述がある」ことがパラパラ検索できればそれで事足りるのかと。ああ、たしかに図書館派のわたしの場合、本とは一期一会であって、能動的に残さないと何ももたらさないまま、自己満足だけが残る罠があるわな。

 しかしだ、その結果「買う派」の本棚はどうなっているかというと――見るも悲惨な混沌なのも事実。いや、本棚に収まっているなんてかわいらしいシロモノではなかろうに。それがだ、竹熊氏の本棚は違うんだ。整然+不統一感なならべ方に、かなり惹かれるに違いない。しまいにゃ著者、唐沢俊一氏ご自身の本棚まで出てくる。本棚というよりも、自宅全体が書庫に占領されている、そんな"棚群"だ。

 カルトな本棚とは、カオスな本棚なんだとつくづく思い知らされる。本のバリエーションそのものよりも、氏の仕事の雰囲気がなんとなく感じ取れて面白い。一見、雑多なごった煮の"辺域本"たちも、スキミングされ編集されていくうちに、カルトなネタに化していくのだろう。氏の本棚感がとてもユニーク&腑に落ちてきて面白いぞ。

現在3万冊近くの本がありますが、その一冊一冊に出会いやエピソードがあるわけです。そういう本と一緒に暮らしているというのは、好きになった女性と一緒に暮らしているみたいなものです。秦の始皇帝が阿房宮に何千という妾を囲ったという話がありますが、僕も好きな女性を本棚の中に囲っているんだなという気持ちです。僕にとって本棚とは、阿房宮みたいなものですね。
 変わったひとは、本棚もヘンだし、面白いひとは、本棚もオモシロイ。

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