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諸君 私はカルドセプトが好きだ

諸君 私はカルドセプトが好きだ
諸君 私はカルドセプトが好きだ
諸君 私はカルドセプトが大好きだ

スネフ戦が好きだ ロカ戦が好きだ
カリン戦が好きだ ゴザ戦が好きだ
タリオ戦が好きだ ギルマン戦が好きだ
ナバト戦が好きだ ビスティーム戦が好きだ
ケルダー戦が好きだ 暗黒の奈落戦が好きだ

SSで PS2で
PSで Xboxで
DCで NDSで

この地上に存在するありとあらゆるカルドセプトが大好きだ

レベルMaxの自陣に踏み込んできだセプターを吹き飛ばすのが好きだ
轟音と共に全魔力を奪い取って城へ強制送還させる時など心がおどる

オーディンランスを担いだデコイが敵陣を撃破するのが好きだ
第一波を生き延びた敵が反撃し カウンターで沈む時など胸がすくような気持ちだ

いかさま臭いダイスコントロールしてくるゼネスを蹂躙するのが好きだ
レベルMaxの自陣を踏ませた後に ホーリーワード「ゼロ」を放つ時など感動を覚える

スペルオンリー主義の逃げ足を封じ、集団で吊るし上げていく様などもうたまらない
高コストカードをシャッターで一枚また一枚と割ってゆき
溜め込んだ魔力をドレインマジックで吸い取ってやるのも最高だ

HPの少ない哀れなクリーチャーどもはマジックボルトで狙い撃ちし
イビルブラストやテンペストで木端微塵に粉砕した時など絶頂すら覚える

大事にレベル上げされている敵陣を滅茶苦茶にするのが好きだ
クリーチャーをテレキネシスで強制退去されていく様はとてもとても悲しいものだ

レベルMaxの火属性+オールドウィロウ+ランプロの一点豪華も好きだ
高速道路の料金所のごとく支払わせるときなどオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラと叫びたくなる

諸君 私はカルドセプトを 地獄の様な対戦を望んでいる
諸君 私と闘うセプター戦友諸君
君達は一体 何を望んでいる?

更なる対戦を望むか?
情け容赦のない 糞の様な対戦を望むか?
火水地風無の限りを尽くし 三千世界の鴉を殺す 嵐の様な対戦を望むか?

 「 カルドセプト!! カルドセプト!! カルドセプト!! 」

よろしい ならば対戦だ

我々は満身の力をこめて今まさに振り下ろさんとする握り拳だ
だがこの暗い闇の底で十年もの間 堪え続けてきた我々に ただの対戦では もはや足りない!!

ネット対戦を!! 一心不乱のネット対戦を!!

我らはわずかいちセプター 三百六十一枚を司るセプターにすぎない
だが諸君は一騎当千の古強者だと私は信じている
ならば我らは諸君と私で総兵力百万と一人のセプター集団となる

我々を忘却の彼方へと追いやり眠りこけているセプターを叩き起こそう
髪の毛をつかんで引きずり降ろし眼を開けさせ思い出させよう
連中にマンドレイクの悲鳴を思い出させてやる
連中に我々のテンペストの轟音を思い出させてやる

究極絶対神の元で奴らの哲学では思いもよらない事があることを思い出させてやる
一千人の吸血鬼の戦闘セプターで世界を燃やし尽くしてやる
「最後のセプター ニンテンドーDSよりネットワークへ」
第七次リュエード作戦を開始せよ

征くぞ 諸君

セプター名「Dain」で待っている

カルドセプト



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東大が求める人材とは「東大入試 至高の国語 第二問」

東大入試至高の国語「第二問」 嘘かまことか、現国の入試問題から「東大が求める人材」があぶりだされている。

 30年分の過去問から読み解かれた「東大入試の本質」というやつは、非常に奇妙だが納得はできた。すなわち、東大現代文は、「死」を主題とした問題が、もう何十年も出続けているのだという。著者曰く、「死にとりつかれていると言っていいほどの頻出ぶりである」だそうな。東大は、「死」という簡単に答えの出せない、標準解のない問題を突きつけているのだ。

 たとえば、病に冒された国木田独歩に手紙を書けという1982年の第二問。アタマを抱え込むことを請合う。独歩は死を覚悟しており、気弱な面と実際的な側面をまぜこぜにした手紙をよこしている(その手紙が出題文)。これを受け取ったと仮定して、返事をかけというのだ。しかも200字、どうすりゃいいの?

 あるいは、1985年の第二問。金子みすヾの詩を二編ならべて、「各自の感想を記せ」という。(゚Д゚)ハァ? というやつだね。白状すると、わたしは赤本でぶちあたり、東大はワケワカランと投げ出したことがある。

次の二つの詩は同じ作者の作品である。二つの詩に共通している作者の見方・感じ方について、各自の感想を一六〇字以上二〇〇字以内で記せ(句読点も一字として数える)。


「積もった雪」

上の雪
さむかろな。
つめたい月がさしていて。

下の雪
重かろな。
何百人ものせていて。

中の雪
さみしかろな。
空も地面(じべた)もみえないで。




「大漁」

朝焼けだ小焼けだ
大漁だ
大羽鰯の
大漁だ

浜は祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰯のとむらい
するだろう。



東京大学入学試験「現代文 第二問」1985

 たぶん道徳的・感傷的な「作文」だと零点なんだろうなーということは薄々わかってた。「声なき鰯を思いやる」といった優等生的(上から目線の)解答は即ペケだろう。では何を書いたら「正解」なのか、分からない。

 いわば、答えが出ない問題が出題されるのだ。

 この「第二問」はかなり有名で、齋藤孝著「齋藤孝の読むチカラ」にも取り上げられている。ごていねいにも、その「解答」を引用し、「試されていたのは、読む力にとどまらない」と、なで斬りにする。齋藤氏はエセイストなので、まともに読んだら気の毒だ。にもかかわらず、彼がいかに表層的・優等生的で、問題の本質どころか問題自体を理解していないことを容赦なく暴いている。東大入試は、「いい人コンテスト」の場じゃないんだって。

 齋藤氏の「誤答」を指摘した後、キーワード「死」を核にして、この「第二問」を読みほどいていく。最初はとっかかりのない「のっぺらぼう」な問題が、実は生き生きとした、いや生臭くって残酷なテーマを内包していることに気づかされる。

 いや、「内包」じゃないね。ぜんぜん隠してない本文に読み手が「見ようとしない」方角から光をあてて、偽善ですらない無意識の態度を浮き上がらせている。著者の「読み」は、謎解きに近いほどスリリングで、それこそ「あっ」と驚く仕掛けも施されている。こんなに豊かな「読み」ができるなんて、たいへんうらやましいアタマを持っている。

 その一方で、話があちこち八艘飛びしてて、どう転ぶか分からない危うさもある。(これは面白いところでもあるのだが)主張の展開途中で、唐突にマジックワードが差し挟まれる。こっちが戸惑っているうちに、そのマジックワードは検証されないまま、次のパラグラフでは論拠として扱われている。

 さらに、文中のどこを探しても「私は~」が存在せず、全ての論拠は「れる/られる」で述べられ、次の章では、「私たちは~」に引き継がれている。あたかも、「読み進めているということは、同意しているんだよね?よね?」という臭いがぷんぷんしててイヤだー。

 同趣旨の好著「哲学の誤読」が論理ガチガチだったので、脳をギリギリ絞り上げるようなシビアな読みを期待していたのだが、ちょっと肩透かしを食らった。

 とどめになるが、それぞれの入試問題への「解答」がないのはダメでしょうに。あれだけフロシキ広げてあれこれ言い放ったのだから、ちゃんと200字以内で畳めよ、と言いたい。「本書の趣旨は読み解きだけ、解は自力で」とでも言いたいんだろうか。「哲学の誤読」はヒーヒーいいながらも解答出していたぞ。

 そういうオマエモナーと言われる前に、わたしの解答を書いておこう。

作者は、擬人的な表現を用いつつも、単なる感情論を超え、主体を成り立たせているのは客体で、主客を逆転させても同じことだと感じ取っている。例えば人が獲らなければ魚の葬式は成り立たないし、魚が獲れなければ飢え死んだ人の葬式だろう。上の雪がなければ、中の雪や下の雪は存在すらしないし、これは上中下を入れ替えてもあてはまる。つまり、人間的な感傷論をさしおいて、主体と客体はお互いが抜きさしならぬ関係なのだ。(197字)


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アパルトヘイトの時代臭「鉄の時代」

鉄の時代 どの小説もその時代と場所につながれている。

 「世界文学」だの「時代を超えた」といった麗句は、その時代と場所を取捨し、普遍性だけに目をつけているから用心しないと。残雪「暗夜」やクンデラ「存在の耐えられない軽さ」を、文化大革命やプラハの春から乖離させて語るわたしは、表層をなでているに過ぎないから。

 いやいや、逆の言い方もできるぞ。残雪やクンデラを通じて、その時代や場所を知るんだ。フィルタリングされたスコープで、時代を覗き見するといってもいい。残雪は暗喩として、クンデラは直喩として。

 クッツェー「鉄の時代」で描かれるアパルトヘイトは、メタファーのようなまだるっこしさはない。物語のなかに、まるで映像のようにクッキリと臭いが写りこんでいる。彼がこれを書いたのは、1986-89年で、アパルトヘイト体制末期だった――などと、したり顔できるのは過去話だから。非常事態宣言が発動され、内乱状態だった時代から、本書は生まれている。政治的な意味合いを読み取るなという方にムリがあるだろう。本書の半分は、現場からのルポルタージュといってもいい。

 もっとも、マスコミよろしく騙るのなら、ストーリーはもっと簡単だったろう。善悪二項対立を仕立て上げ、それぞれの代表者に因縁とドラマを演じさせればいい。読者は分かりやすい物語を好むものだし。

 しかし、そんなキレイな作為なんて施さない。カラードがカラードを追い、殺す。「黒人対白人」の構図なんてどこにもなく、黒人同士が殺し合い、警官は遠巻きに包囲する(カラードが逃げ出さないために)。善悪は恣意的で、人びとは運命にこづき回される。ひどいことが行われていることは分かる、至近距離で子どもが撃たれているのだ。でも、誰がどうしてなんて、これっぽっちも知らされない。

 これを70歳の白人の老婆の目を通じて描かれる。彼女は無力で、しかも癌に侵されている。体はいうことをきかず、関節が悲鳴を上げている。ひとり娘はアメリカに行ってしまい、他に家族はいない。誰も、彼女の言うことなんて、聞かない。

 この老婆の意思がすごい。生きぬくこと、抗議すること、抵抗することへの強い意思に触れ、その熱におもわず手を引っ込めるかもしれない。あとは死ぬだけじゃないの? もう充分じゃないの? という声すら失う。ぎりぎりのところから、最後まであきらめることなく、相手を信じよう・愛しようとする。

 本書は、娘に宛てた長い長い手紙という形式で語られている。読み進むうちにこの手記は、実は「遺書」であることに気づく。その瞬間に読み手は、手紙にある「あなた」とは、実は自分を指しているのではないかと思えてくる。アパルトヘイトの混乱すら遠景に押しやり、彼女の執念といってもいいほどの意思――信じようとする心こそが、「生きていること」と同義になるのかも、と自問する。

 政治的な臭いを嗅ぎとろうとしてたわたしが、ちゃんと読めてたかどうか疑わしいが、少なくとも小説が時代や場所の軛から抜け出ている現場に立ち会えたわけだ。

 この鉄のにおいは血のにおい。アパルトヘイトの時代に立ち会える一冊。

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