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エロゲにエロが必要な理由をKanonを使って証明する(ソース俺)

 もうすぐ不惑だというのに、もう10年前の作品なのに。

 何回も何回も泣かされる。

 ゲームで、ノヴェルで、同人で、アニメ(顎)で、アニメ(京アニ)で、幾度も幾度も、消え往く少女たちを見送っては哀しみの涙を流し、取り戻した過去を一緒に喜び合っては涙を流す。悲しくても嬉しくても泣ける、かわった作品だ。

 いまもBSで京アニ版をやっている。こないだは真琴エンドで、いま舞シナリオ。

 もうね、号泣ですよ。前フリも伏線も展開も全部把握しているのに。あの鈴が「チリン」と落ちる音がいつまでも耳の奥に残っていて、ふとしたはずみで思い出して、じわ~っと目頭が熱くなる。

 これね、病気ですよ。嫁さんも子どももローン様も抱えているエエトシこいたオッサンがするようなことじゃない。まだプリキュアなら「キモッ」で許されるかもしれないが、これはどう見ても狂っている(ちなみに、京アニKanonは初見ではない)。

 そこでね、考えてみたワケなんですよ。どうしてKanonだけこうなのかなって。ボロボロ泣いたやつって結構あって、Kanonのほかには「AIR」とか「君が望む永遠」、「家族計画」あたりがそう。最近だったら「CROSS†CHANNEL」、これは爆泣きした。

 でね、気づいたんよ。今はもう泣かなくなった作品って、18禁バージョンをプレイしていることに。

 世の中って面白くって、エロゲなのに、「エロ抜き」、つまり全年齢推奨版というのがあるんだ。えっちなシーンをカットして朝チュンにしたり、最初からそんなそぶりすら入ってないバージョンがあるんよ。

 で、今でも泣いているのは、「エロ抜きバージョン」をプレイした奴に限定されていることに、気づいたんよ。つまり、play中は泣くんだけれど、エロ有バージョンだと、ラス前で犯っちゃうんで、感情移入が途切れるの。出すもの出した後、客体像として冷静に見ちゃうわけ。

 それぞれのシナリオの彼女たちに恋をして、そのラストがエロで締めていたならば、いわゆる恋が成就したといえる。物語の主人公と行為する彼女を見ながら、自分も擬似行為をすればいい。これこそ正しいエロゲの使い方だろうし。

 しかし、そのエロがないままだったら?

 いつまでたってもその恋は、終わらせられないでいるんだ。物語だから、主人公との関係は一応の決着がつくだろうが、その主人公の影として会話をし、感情を費やし、選択肢を決めてきた「わたし」はどうなる? 物語は終わってしまっているのだから、彼女たちは永遠に高校2年生のままだ。もう10年ちかくなるのに、名雪への思慕は、いつまでたっても片想いのまま。

 こうして、この恋は終わらせることも進めることもできず、わたしの心は宙吊りにされたまま、「名前をつけて保存」されることになる。真の恋愛とは片思いだという。だから、この成就できない想いこそ、恋と呼ぶにふさわしいのだろう(カッコ付きかもしれないが、な)。

 だから、エロが必要なんだ。

 どんな形であれ、思いを遂げなければ、慕いを終わらせることができない。これは二次でも3Dでもリアルでも一緒。なんらかの形で決着をつけない限り、この片思いはいつでもロードされる。エロゲにエロが必要なのは、その世界から覚めるためのスイッチみたいなものだから。その「恋」を上書きで保存するために必要不可欠なんだ。そして、エロのおかげで、このゲームをやり始めた目的を思い出すことができるんだ。

 あ、だからといって、「トドメを刺すために、名雪の触手陵辱絵をドゾ~」なんてURLで誘ってはダメよ。

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ボクらは魚を、待っている 「銀むつクライシス」

銀むつクライシス ミステリの謎解きと、手に汗にぎる追跡劇、そして、どんでん返しの法廷モノ。

 これらが一体化しているノンフィクション。カネを生む魚がどのように「マーケティング」され、乱獲され、壊滅していくのかが、銀むつ(マゼランアイナメ)を通じてよく見える。

 南極海を逃げる密漁船と、追うオーストラリア巡視船。緊迫したシー・チェイスを偶数章に、莫大な富を生む銀むつをめぐる市場の事情を奇数章に、交互に重ねるように配置している。読み手は順番に読むことで、密漁船の正体と目的、そして、その背後のビック・ビジネスがだんだん分かるような仕掛けになっている。

 さらに読者は、ラストの法廷シーンでは、やるせな思いを抱くことになるだろう。それは、想像を超える「意外な結末」からではなく、当事者それぞれの事情や思いを分かったことにより、困惑するだろうから。

 そう、思惑はそれぞれ違う。

 密漁者にとっては、一様に見える海に線引きをし、既得権益を護ろうとする保護主義は敵そのものだ。漁業は生活の手段であり、投資の回収手段でもある。いっぽう、追いかける巡視船にとっては、奴らは泥棒であり、海洋法の隙間をくぐりぬけて違法操業している連中だ。そして、いざ捕まえるとなると、自国の規制に100パーセント従わなければならない、やっかいな存在だ。

 さらに、輸入業者にとっては、魅力的な商品名(チリ・シーバス)を付け、手を尽くして人気者に仕立てる「戦略的食材」であり、大事な商売道具だ。乱獲で品薄になるのなら、代替品を探さなければならない。アメリカの一流シェフにとっては、脂がたっぷりのった、どんな料理・味付けにも合うパーフェクト・フィッシュである。そのいっぽうで、環境破壊のレッテルを貼られるのはぜひとも避けたい(「Save Tuna」の例もある)。

 そして、そこには、わたしも入ってくる。「旨いものを安く食べたい」――飽くなき食への欲望が地球の果てまでめぐっていることを、確かに感じる。皿の上に料理された魚しか知らないのであれば、密漁と偽装が横行している現実を知ってたまげるだろう。カッコ付の「国産」ウナギや、「シシャモ」の本名は知っていたが、まさかここまでとは…

 海の奥底までまかり通る市場原理は、獲り尽くし、喰い尽すまで続くのか。考えさせられるというより、暗澹たる思いにおおわれる一冊。

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正しい死に方「死ぬことと見つけたり」

 「いかに生きるか」という問いは、そのまま、「いかに死すべきか」につながる。

 おっと、逆だ逆、「いかに死すべきか」を追求すると、「いかに生きるか」の行動様式が決まる。本書を読むことで、単なる「葉隠」の解釈論を超え、武士という特殊な思考をシミュレートできるぞ。

 まず、奔放痛快な時代劇として楽しめる。時代小説という枠に、ロマンスあり、ミステリあり、権謀術数と陰謀、冒険譚から謎解きまで面白い要素がこれでもかと詰まっているからね。

死ぬことと見つけたり上死ぬことと見つけたり下

■ 「自分の死」をシミュレートする

 しかし、彼らの苛烈な生きざま(と死にざま)を夢中になって追いかけているうちに、自分の死に対する構えも知らず知らず練りこまれていくに違いない。まさかというなら、このあたりを読んでみるといい。

朝、目が覚めると、蒲団の中で先ずこれをやる。出来得る限りこと細かに己の死の様々な場面を思念し、実感する。つまり入念に死んで置くのである。思いもかけぬ死にざまに直面して周章狼狽しないように、一日また一日と新しい死にざまを考え、その死を死んでみる。新しいのがみつからなければ、今までに経験ずみの死を繰返し思念すればいい。

 毎朝毎朝、じっくりと、自分の死をシミュレートする。だからこの小説の主人公、杢之助は、寝床から出てくる頃にはすでに死人(しびと)なのだ。そのねちっこさに、つい、自分もやってみたくなる。

 これが面白いんだ。キッチリと自分の死を想像すると、後の人生まるもうけという気分になる。「おまえはすでに死んでいる」のだから、今更なんの憂い、なんの辛苦があることか。すべてはあるがままのものとして受け止めることができる。

 この「死が生を支えている」感覚は、自分の死を覚悟するところから始まる。わたしなんざ頭デッカチになってしまい、まだ合理的な判断に拠ろうとしている意地汚さがある。しかし、あの時代のさむらいは、もっと行動よりの思考をしていた。

■ 正しい死に方

 正しい生き方があるのと同様に、武士には「正しい死に方」がある。これは命を投げ出せといっているのではない。無駄に死ぬことは、文字通り「無駄死」「犬死」というからね。よく「死を美化する」とか「見事に死んでみせる」と言われるが、誤解だろう。むしろ「正しい決断のために自分の死をカウントしない」ための方法論なのではないかと。

 たとえば、二つの選択肢がある。成功率が同程度なら、より死ぬ可能性の高いほうを選ぶのが武士なんだ。生きる可能性を考えることは、そこに執着が生まれているから。執着は判断を鈍らせ、斬撃のスピードを鈍らせる。結果、うまくいったとしても、そこに生じた執着を「恥」とみなすのが葉隠の思考様式なんだ。

 死ぬことを待ち構えていることとは違う。常住坐臥、只今の行動に全存在を懸けてしまっているから、生死を越えて恬淡としていられる。だから、「今というときがいざというとき」を常に実装しているのが「さむらい」なんだ。

■ 「葉隠」はLifeHackだ

 ただ、このような思想は太平の世には似つかわしくない。世事に長けた商人のような侍や、典型的な官僚武士も出てくる。リーマン侍、といったやつやね。実際、「葉隠」もファナティックを増長させるようなものではなく、組織のなかでいかに立ち回るべきかといったLifeHackも挙げているし。

 たとえば、「出世は目指すべきか」とか「至高の恋とは」、あるいは「売られた喧嘩は買うべきか」といった、実用的な(?)アドバイスにあふれている。その徹底的なところは、つくづく、人生は準備なんだということを思い知らされる。究極の準備、それは「死ぬ準備」なんだ。

 こうした葉隠思考とLifeHackを蒸留し、三人の武士に注入しているのが本書。おもしろくないワケがない。夢中になって読んでみれ、そして「自分の死」を覚悟してみろ。


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