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宇宙へのハイパーリンク「宇宙エレベーター」

宇宙エレベーター 「宇宙エレベーター」は誘い水。その奥は深くて広いサイエンス・エッセイ(ちょい"ムー"が入ってる)。

 これまでと異なる視座を手に入れて、もう一度この世界を眺め回すおもしろさ。科学+想像力の限界までストレッチしてるので、免疫がない方には「世界を変える一冊」になるかも。ただし、かなり敷居を下げているので、好きな人にはモノ足りないだろう。

 著者は、トルコ人初の宇宙飛行士候補、アニリール・セルカン。ATA宇宙エレベーターの考案者としてNASAの宇宙開発に携わっている。宇宙飛行士を目指すヘヴィ・スモーカーなのがユニーク。人類未踏の「宇宙で喫煙」(Space Smoking)を実現させたら、いろんな意味で話題になるね(「プラネテス」の船長フィーを思い出せ)。

 宇宙エレベーターのアイディアでNASA案と一騎打ちするところがおもしろい。当初のNASA案は、地表から建造物を伸ばしていく方式で、外側(宇宙側)へ引っ張ってもらう力がどうしても必要になる(建造物が重力に負けてしまうから)。この力をどこから持ってくるかが課題だった。

 いっぽう、著者セルカン氏の案は、宇宙空間からスタートして、継ぎ足し継ぎ足しで伸ばしていくやり方だという。これは、静止軌道に重心がくるように上下(宇宙方向と地球方向)に向かってエレベーターを作っていく「楽園の泉」(A.C.クラーク)のアイディアを大胆に応用している。セルカン氏のblogより引用すると――

宇宙エレベータとは、地球から約3万6000km離れた静止軌道上まで伸びた「新輸送システム」です。ロケット等よりも安全で、低コストでの運搬が可能になると言われています。現在は建設や運用などの問題で実現していませんが、将来、宇宙エレベータで軌道上の宇宙ステーションと地球を結ぶことができれば、宇宙空間への観光や、生活も夢ではないかもしれません
(アニリール・セルカン「宇宙エレベーター」が、アニメになりましたより)
 現実に寄り添った夢を見せてくれる一方で、宇宙の外へ目を向けている。11次元宇宙理論や「シワだらけの宇宙」なんて、(書いてあることはやさしいものの)想像を絶する世界だし、シュメールやアステカの古代文明に宇宙船のことが記されていた!なんて件は思わず参考文献をチェックしたぞ(学研の「ムー・スーパー・ミステリー・ブックス」が版元だったぞ)。

 何よりも、大笑い&大満足だったのが、「タイムトラベラーの注意点」。未来科学か誇大妄想か、時間旅行の現実性に対する究極の問題が提示されている。

step1 : 地球はおよそ時速1600kmで回転している

仮に、タイムマシンで一時間前に戻るとするならば、出発したのと同じ場所にまた出てこようとしても、地球は回っているので出発地点より1600km離れたところに出てしまう

step2 : 地球は太陽の周りを時速1万6624kmで回っている

その結果、正確には出発地点より1万8224km離れたところに出てしまう

step3 : 太陽も時速8万6400kmで銀河を移動していたり、銀河もアンドロメダに向かって時速24万kmで移動していたり、さらに我々の宇宙がある場所自体が、乙女座グループの方に時速160万kmで移動したり、さらにさらに、乙女座グループも含めたグレートアトラクターと呼ばれる道の空間に、時速214万7200kmで移動している!

つまるところ、タイムマシンで同じ場所から同じ場所に1時間戻るだけで、スタート地点から490万1824kmも離れたところに出てしまうのだ!

 タイムトラベルを考えるならば、地球の中だけではなく、宇宙全体をソトから見て考えていく必要があるというわけだ。時間のラセンを飛び越えるだけじゃなくって、座標軸の指定も、タイムマシンにおねがいしなきゃね(デロリアンDMC-12は年月日しか入力できなかったようなwww)。

 この本を教えていただいたのは、Tさんのおかげ。ありがとうございます。素晴らしい本をオススメいただいて、感謝しています。この本を読むと、セルカンさんに会いたくなりますねッ

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生きてる人、いますか? 「CROSS†CHANNEL」(18禁)

CROSSCHANNEL 愛は差別だ、というシンプルな結論にたどりつく。そして、世界は(やっぱり)自分が観測しているから在る、とも思い知らされる。

 生きているのなら、生きつづけていてほしい。すべての価値観は、生きている上になりたつのだから――主人公の何気ないメッセージが、こんなに重くなるとは。

 「他者」なんていらない、きみさえいてくれれば。そして、女をひとり引き受けるのは、リアルのほうが簡単なことにも。慣性に従って生きていくことができるから。

その慣性が破綻するときはきっと――

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時間感覚を変える「アフリカの日々」

アフリカの日々 「ライ麦畑でつかまえて」のホールデンが絶賛してた小説、といえば思い出すだろうか? ほら、図書館員が間違って渡したやつ。

 読んでいるとき、時間の流れかたを意識するほうだ。(物語の)中の流れと、読み手のわたしの時間と、両方を意識する。もちろん物語の流れは一様ではないし、外のわたしの感覚も一定ではない。ちょうど、併走する自動車の窓ごしに握手するようなもの。うまくシンクロするとフロー感覚が得られ、スピードアップすると「めくるめく」という表現を当てはめたくなる。

 そういう意味で、ディネセンの「アフリカの日々」は、まるで違う時間が流れている。

 そこにはディネセンの時間が頑として在り、わたしは自動車を降りざるを得ない。この語りにつきあうために、歩いていくほかない。著者は自動車に乗ったり飛行機に乗ったりするが、流れくる時のスピードは歩くのと変わらない。いつものように、うっかり速度をあげると、美しい光景はあっというまに消え去る。

 中の時間感覚は、こんなカンジ。

時間についても、土地の人たちはゆったりとした友好関係をたもち、退屈して時間をもてあますとか、ひまつぶしをするとかいうことはまったく考えてもみない。実際、時間がかかればかかるほど、彼らは幸せなのである。たとえば、友人を訪問するあいだ、あるキクユ族に馬の番をたのんだとしよう。すると、彼の顔つきは、その訪問がなるべく長びけばよいと思っていることをあらわに示す。彼はそういうとき、時間をつぶそうとはしない。腰をおろし、しずかに時の流れと共に生きてゆくのを楽しむのだ。
 土地の人に引きずられ、ゆっくりたっぷり読む。じっくり読みを強要させる、いい小説だ。おかげで、わたしの読書スピードに super low があることに気づいた。

 この変化は、時のとらえかたそのものにかかわってくる。この変化は、わたしの中に、ひとつの偏見があったことを、強制的に気づかせる。つまり、時間というものは、何かをぎっしりと詰め込むような器ではないことに気づく。数字で区切ったり、予定を入れたり、仕事でも遊びでも、いつも何かをしていなければならないもの―― それが時間だという考えが、ひとつの観念にすぎないことが理解できる。

 ある人々は、この偏見に気づくことができない。時間とはスケジューリングされるものであり、オンならあらゆる予定を、オフなら"vacant"を隙間なく入れ、「消化」していくものだという人がいる。イベントに満ちた人生を送れるだろうが、この本は読むことすらできない。まず「あらすじ」を知りたがるだろうし。物語の起伏はあまり期待しないほうがいい、ゆっくりしているから。

 アフリカのコーヒー園を経営する著者が出合った人々、出来事がゆったりとした筆致で綴られている。見所のひとつは自然描写の美しさ。

サファリに出ていたとき、バッファローの群れを見たことがあった。百二十九頭のバッファローが、銅色の空の下にひろがる朝霧のなかから、一頭、また一頭と現れた。力強く水平に張りだした角をもつ、黒くて巨大な鉄のようなこの動物たちは、近づいてくるというよりは、私の目の前で創りだされ、過ぎさるというよりは、その場でかき消えるように見えた。
 キリンの優雅さを花弁にたとえたり、象の群れの決然とした様子をペルシャ織としてあらわしたり、著者は巧妙にアフリカの自然を切り取っている。

 アフリカの美しさだけではない。著者の農園に大打撃をあたえるイナゴの大群のエピソードは、その混乱をよそに非情なほど的確な書き口で描写されている。

襲来が最高潮に達すると、それは北欧のブリザードに似て、強風とおなじヒューヒューいう音がし、身のまわりにも頭上にも小さな硬い怒り狂う翼が飛びかい、日光をあびて薄い鋼の刃のように輝きながら、しかも太陽をさえぎってあたりは暗くなる。

 時系列になっていたり無視したり、こんな調子で語りつむぐ。いくらもしないうちに、著者はもうアフリカにはいないのだな、ということに気づく。そこの思い出をぜんぶ伝えたいという強い気持ちが伝わってくる。

 あまりに強い思い出なので、同じ出来事がくり返し形を変えて語られる。読み手はデジャヴを覚えながらもすでに聞かされた出来事を幾度も目にするうちに、ディネセンの思い出のいくつかは伝説になりはじめる。

 一人称で語られるにもかかわらず、「私」の細部はほぼ完全に無視されている。夫も子どももいるはずなのだが、登場するのはほんのわずか、しかも「夫」「子」と呼ばれるだけ。交友の大部分は土地の人々なのだ。

 彼女が語りたいこと全部に耳を傾けた後、解説を見てみよう。びっくりすることを請合う。省略された「細部」の大きさと重さが、彼女の土地の人へのやさしさを裏付けていることが分かるに違いない。この小説の本質を、訳者は見事に言い当てている。

この作品は、なにを書いたかとおなじくらい、なにを書かなかったかによって成りたっている

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