« 2008年5月25日 - 2008年5月31日 | トップページ | 2008年6月8日 - 2008年6月14日 »

「チェルノブイリ旅行記」と「廃墟チェルノブイリ」

廃墟チェルノブイリ 究極の廃墟なら、チェルノブイリだろ。

 1986年4月26日未明、ウクライナ共和国、チェルノブイリ原子力発電所で起きた爆発事故――あれから22年経った今、チェルノブイリ「石棺」周辺は、ぶっちぎりの廃墟ゾーンとして聖地なっている。

 2003年、ただ独りで、バイクで訪れた人がいる。エレナという、ウクライナの若い女性だ(彼女のサイト : [elenafilatova.com])。

 彼女によると、原子炉を中心とした「ゾーン」そのものが放射能を帯び、呪われた土地となっている。たとえば、45km離れたヴィルチャでは、ガイガーカウンターは109mRを示している。危険ではないらしいが、吸い込んだ放射塵は分からない。ホコリは地面に吸収され、土地そのものが汚染されているのだ。

 彼女の旅行記の日本語訳は[チェルノブイリへのバイク旅]にある。文章よりも写真が豊富で、ある特定の廃屋や廃ビルの「写真集」ではないところがスゴい。

 つまり、バイクに乗って延々と走っても走っても、遺棄された光景が続く。連綿とつながる写真『群』を見ていると、核戦争後の風景はきっとこんなんだろうな、と思えてくる、オオカミが支配する大地。

 この地を、「自動車」で訪れた日本人がいる。中筋純といい、廃墟写真家としていくつかモノにしている。彼はクルマで行った。現地のガイドを雇い、装備をととのえ、「石棺」のかなり近いところまで迫っている。その写真集が「廃墟チェルノブイリ」。

 人間が完全に排除され、22年ものあいだ風雨にさらされ続け、植物が支配する街。メーデー祭の直前に事故が起こり、一度も使われることのないまま朽ちていく観覧車やゴーカート。ハイクラスの生活が根底から覆り、破壊と混乱のまま捨てられていった建物群。

 そして、その向こうにクレーンを張り巡らせた巨大な棺桶が並んでいる。

 面白いな、と思ったのは、このサンクチュアリを目指す人が少なくないこと。しかし、不用意に訪れるのは死を意味する。エレナによると、この周囲は何十キロと、地図からは地名も道路も抹消されている。旅のドライバーがうっかり迷いこまないようにとの配慮らしい。

 ゾーンは広範囲にわたっているため、完全に封鎖されているわけはなく、どこからでも入り込める。しかし、地図なしで汚染された区域をウロウロするのは自殺行為に等しい。

 だから、ガイドが必要だ。「その場所」までの安全なルートとクルマ、それからガイガーカウンターを用意できる人物 ―― ここらでタルコフスキーの「ストーカー」を思い出すのだが、この映画は1979年につくられている。黙示録的という評価はむべなるかなー

 ガイド付きにせよ、単独にせよ、目的地はゾーンの中心部、「石棺」だ。映画のように、その中で「あらゆる願いがかなう」わけがない――が、生きているうちにいける最後の場所となるに違いない。

 動画ならこれが入口かな。「あの観覧車」もしっかり撮っている。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

やりたいようにやればいいじゃん、しゅごキャラが憑いてるよ「楽園への道」

楽園への道All kids hold an egg in their soul...
Egg of our hearts...
Our would-be selves... Yet unseen

... But adult?

 「なりたいアタシ」や「ありたいジブン」は、普通、「夢」と呼ばれる。大きくなったら何になりたい? その子にとって大切なタマゴのようなものだ。みごと、そのタマゴを孵化させる人もいれば、割ってしまう人もいる。

 だが、それは子どもがオトナになる過程で実現したり失ったりするもの。

 では、いいオトナがそうしたタマゴを見出してしまったら、どうなる?

 本書の2つの人生が、それぞれ答えを示している。ひとりは、ポール・ゴーギャン。高給と妻子を投げ捨てて、絵を描き始める。もう一人は、その祖母フローラ・トリスタン。貴族生活から脱し、労働者や女性たちの権利確立のために奮闘する。

 自分を生贄にして楽園を目指す。ゴーギャンは芸術の楽園、フローラは平等な社会を。もちろん周囲には認められず、極貧と冷遇を余儀なくされる。その孤軍奮闘ぶりと確信・妄執っぷりは、何かに取り憑かれているようだ。

 さらに、それぞれの半生と照らし合わせると、文字通り「人が変わってしまった」ようだ。まさにキャラチェンジという言葉がぴったり。安定した生活から離れ、精力的に動き回る。いくつもの国や海を「横に」移動するだけでなく、ブルジョアや貴族社会から最底辺まで「縦に」堕ちていく。文明化社会から野蛮人の生活にダイブする。夫の奴隷から逃げ出す。キリスト教的禁忌を破り、桁外れのセックスライフを味わう。

 この生き生きと「移動」する2つの人生が、わたしの推進力になる。躍動する人生が流体クラッチのように伝わって、わたしのハートをアンロックする。

 しかし、2人の軌跡は決して交じり合うことはない。ゴーギャンと、その祖母というだけで、それぞれ違う人生を生きた。そこを強調したいのか、著者のバルガス=リョサは巧妙な構成をとっている。

 つまりこうだ。奇数章ではフローラの社会活動を、偶数章ではゴーギャンの退廃的な生活を交互に描いている。それぞれ混じることも譲ることもせず、互いに独立したストーリーとして成り立っている。

 しかも、それぞれの章で自分の人生を回顧するシーンを差し挟み、さながら四重奏のバウムクーヘンのような対位法を実現している。また、地の文と同じつながりで10年前の回想を混ぜ込んだり、内的独白と客観描写を平気で並列させているので、読む方はけっこう忙しい思いをするかも。

 たしかに、35歳以降のゴーギャンを「芸術というデーモンに取り憑かれた生涯」と評するなら話は早いが、冒険をするか常識的に考えて? 失ったものがあまりに多すぎる。祖母のフローラだってそうだ。ペルーで何不自由ない生活を送れたのに、それを捨てるどころか真逆の、いや誰もやったことがない人生を歩み始める。

 そして、病と貧困にあえぎ、「わたしがやってることなんて、何ひとつ意味なんてないのかもしれない」と夜ごと絶望に悶える。そのさまを見せ付けられると、軽々しく「好きを貫け」なんていえなくなる。

 それでも、彼・彼女はそういう人生しか生きれなかったんだ、と納得する。モームの「月と六ペンス」で植えつけられた「なぜ?」が、憑き物が落ちたように分かる。ゴーギャンは、楽園を目指したんだ。たどり着くことはなかったけれど、求めていく過程を身もだえしながら生き抜いたんだ。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年5月25日 - 2008年5月31日 | トップページ | 2008年6月8日 - 2008年6月14日 »