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整形中毒者の憂鬱「ビューティー・ジャンキー」

つやつやの肌 $5,000
すっきりしたくびれ $10,000
はちきれんばかりのオッパイ $50,000
    
    
    
your beauty priceless







ビューティー・ジャンキー 人は見た目が十割で、ブサイクは生きる資格すらないという強迫観念が、整形中毒者の不安を煽り、果てなき「美」への欲望が150億ドルの美容整形市場を生み出している――って、おまえらの「美」は医者が決めるんかい!

 「美」と「若さ」を求めて暴走する整形ジャンキーたちの最前線をレポートしている。

 脂肪吸引、豊胸、フェイスリフト、ボトックス注射の事例が実況中継さながらに紹介される。ピンと張った陶器のような顔、大きな頬骨と形の良い鼻、大きな胸とくびれた腰、まわり、すらりとしたツルツルの足… それぞれ、パーツを取り替えるかのように買い求める「ビューティー・ジャンキー」たちは、ドラッグ中毒患者と重なる。

 そして、ジャンキーたちは海を越える。バッグに現金を詰め込んで貧しい国へ飛び、手術台の安さにつけこんで「きれい」を目指す。アフリカへボトックス手術を受けにきたアメリカ女に、「そんな行為は典型的な『醜いアメリカ人』になった気がしませんか?」と問いかける著者。

 その答えがイカしているぞ。

たしかに比較的裕福なアメリカ人が手術費用の安さに乗じるというのは感じが悪いかもしれないけれど、経済的な視点で見れば、二人のしていることはよきサマリア人の精神で援助の手を差し伸べているとも考えられるのではないか。(中略)絶望的に貧しい南アフリカの経済にとっては、これだけのキャッシュが入ってくるのは歓迎されるはずだ。
 つまり、海外で整形バカンスとしゃれこむのは合理的だそうな。手術跡が消えるまで知り合いと顔を合わさずにすむし、なにしろ安上がりだ。本国に帰るころには見違えるようになっていても、「海外でリフレッシュしたの」と言い訳も立つ。南アフリカ、ホンジュラス、ジャマイカ、タイ、ブラジル、マレーシアをはじめとした受け入れ先は、外貨を落としてくれる大切なお客さまだ(数年おきに何度も受ける必要がある)。

 グローバル経済に組み込まれた「美」なんて、イカしてると思わないか?

 いっぽう、「おかしさ」も感じる。さっきから整形「美」をカッコ「」でくくっているのはそのせい。「脂肪吸引が必要です、充填剤を増やしましょう、フェイスアップはいかがでしょうか」―― 医者の営業トークと消費者の強欲から生み出される「美」は、かなり不自然だからだ。

 そう、完璧な美なんてあるはずもないのに、人はみな老いて衰える存在なのに、何かに抗うかのように「自分に投資」しつづける中毒者たちの生態は、笑っているうちに恐ろしくなる。「こんなアタシは私じゃない!」ってか? 自分探し一生やってろ(笑)とツッコむうちに、ああこれは未来の日本なのかも「アンチエイジング」なんて格好の餌になってるよホラ!

 いいや、もう輸入されてるよ。アメリカの人気TV番組に「Extreme Makeover」というのがあるが、日本ならフジテレビ「ビューティー・コロシアム」だね。要するに外見にコンプレックスを持つ一般人が、涙ぐましいダイエット+プチ整形+メーキャップを経て、「変身する」のだ。

 ポイントは、番組のあいだ「自尊心」という言葉が繰り返されるところ。コンプレックスと脂肪を取り除きさえすれば、自分を取り戻すことができるというストーリーだ。「ビフォー・アフター」の違いは、強烈なメッセージとしてお茶の間にとどいたことだろう、「美は善」だと(その反対の「醜は悪」も)。

 この考えに疑問が投げかけられることはない。「若者+笑顔+商品」がコマーシャリズムの王道だ。売りつけたい商品を善のイメージで包むために、(Photoshopを含め)広告会社はなんだってするだろう。「いやいや、高齢化社会を見越して老人も起用しているぞ」というツッコミには、奴らの顔をよく見ろといいたい。妙に白っぽく、シミ・シワも少なくないか? 中年顔に白髪かつらをつけた「エセ老人」ではないか? ってね。

 つまり、若さや美しさは「善」として流布され、その反対の「醜いことは悪だ」というメッセージは、強迫観念のように刷り込まれるのだ。

 だから、遅かれ早かれ、本書の「ジャンキー」たちがニッポンにもどんどん出てくるに違いない。見るたびに若返るタクヤくんや、頬骨の変形により別人なったユミコさん、ありえないオッパイをぶるんぶるんさせるキョウコ&ミカさまは、「まだ」向こう側だ。しかし、そのうち「プチ」で満足しなくなる「自分探し人」が増殖するんじゃぁないかと。「ルックスを良くすれば、モテる」なんてかなり強い惹句でしょうに。

へルター・スケルター そこでイヤでも思い出すのが、岡崎京子の「へルター・スケルター」。全身整形手術とメンテナンスにより、完璧な美しさを持つモデル「りりこ」が人気絶頂から転落していく物語。

「もとのままのもんは骨と目ん玉と髪と耳とアソコぐらいなもんでね、あとは全部つくりもんなのさ」
 いわば「みにくいあひるのこ」の偽物バージョン。醜かった彼女が美しく変身し、成功をおさめることで終わる話ではなく、そこから始まる物語なのだ。最初からりりこは美しく成功しているため、この先は破滅しか待っていないないイヤな予感が、爛熟した臭いとともに漂う。その腐っていく具合を、壊れていく過程を、彼女とともに「体験」できる恐ろしい作品だ。

 俗に言う整形の怖さというものとはチョト違う。むしろ、心の姿勢のほう。「美を善」とすることを完全に選択してしまったら、後ろは崖っぷちとなる。あともどりはできず、振り向くことさえ自己否定と化してしまう怖さを知った。

 どこまでが「プチ」なのか。過ぎたるは猶及ばざるが如しというが、どこまでが「過度」なのかのラインが変わってきているんだろうね。一昔前のブラックジョークに、「健康のためなら死んでもいい」があったが、今ならこうだろう、

 美しくなれるなら死んでもいい


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「石の花」はスゴ本

石の花1石の花2石の花3

 久々に徹マンした。これほどの濃度をもつ漫画は珍しい。「アドルフに告ぐ」級の傑作。

 1941年、ナチスによって寸断されたユーゴスラビアを舞台に、戦乱に巻き込まれてゆく少年を軸にした群像劇。アウシュビッツ収容所で、レジスタンスの戦場で、二重三重スパイの現場で、極限状況にありながら理想を求める生き様が生々しく描かれる。

 最初に釘刺しておく。読者がいちばん不満に思うのは、何らかのカタルシスが得られないだろう。というのも、善悪正邪の構図に片付かないからだ。悲痛な叫びもドス黒い血潮も、何も贖うことなく話は進む。

 もしも、単純に「ナチス=悪」を討つといったハリウッド的展開であれば、もっと分かりやすかったかもしれない。「『地獄の黙示録』を凌駕する山岳戦」といった惹句があるが、そういう見所はたっぷりあるからね。大義名分は決まっているので、戦争活劇のフレームに押し込んでしまうこともできる。

 しかし、7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つのユーゴスラビアを描くには、そんなにカンタンな構図で収まるはずもない。それぞれの側で苦悩があり、希望と絶望がないまぜになっている。それぞれの立場で自己欺瞞にもだえながら、終わらない地獄絵図を歩み続ける。

 いや、結局のところ、ナチスは滅び、ユーゴスラビアは解放されるのだから、そうした意味での区切りはあるといえる。あるいは、それぞれの運命が悲劇に終わったのか生き延びたのかによって終止符を打つことはできる。

 しかし、彼らの苦悩は宙ぶらりんになったままだ。あの残虐な飢えが、あの一方的な殺戮が、あの地獄が何だったのか? と問うてしまうと、読者も一緒になって答えざるを得ない、「何も!何も生み出さなかったのだ、何も変わっていないのだ!」とね。

 それでも、ギリギリのところでこう慰めてやってもいい。「生き延びること、命あっての物種なんだ」と。ラストの「石の花」の美しさは、それを見ている眼を通じて、生きていることのあたたかさを一緒になってこみ上げてくる。「石の花」とは、鍾乳石のメタファー。冷たい鍾乳石を「まるで花のように」感じられるのは人の眼だからだ。その石を現実として認めてしまったら、それまでなのだ。美しいと感じる心があるからこそ、生きていられる。

 坂口尚の入魂の遺作、「あっかんべェ一休」もスゴかったが、本作品はそいつを超えている(「一休」連載当時から伝説扱いされていたし)。

 圧倒的な物語は、ここにある。

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