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「妖女サイベルの呼び声」はスゴ本

妖女サイベルの呼び声 極上のファンタジー。キャラとイベントで物語を転がす濫製ファンタジーの対極にある。

 「ファンタジー」なんて、しょせん剣と魔法、光と闇の活劇でしょ? ――なんて、ファンタジーを見くびってた。誤ってた。謝る。

 予めお約束のコードがあって、そいつをどんなパラメーターでなぞるかでヴァリエーションを増やす。そんな固定化した観念がまるっきり見当違いだったことを思い知らされる。この物語はファンタジーでしか書けないし、テーマはファンタジーを、(少なくともわたしが勝手にファンタジーだと思いこんでた範囲を) 完全に超えている。

 かといって、テーマが深遠だとかフクザツだとかいうわけではない。魔法使いサイベルが、人の心と愛を知り、そしてそれゆえに苦悩し、破滅へ向かおうとする話。お約束の台本どおりに進まない心理劇を眺めている気分になる。

 かつて読んだファンタジーの記憶を刺激する一方で、オリジン(源)の匂いをかぎつけて嬉しくなる。黄金財宝を守るドラゴン、いかなる謎(リドル)の答を持っているイノシシ、黄金色の眼と絹のたてがみを持つライオンといった、どこかで見たイメージが交錯する。妖女サイベルは、いわゆる召喚士や幻術師が持つ能力を用いて、魅力的なケモノたちを操る。

 心理描写を幾重にも張り巡らすのに、肝心のサイベルの心情は外からしか分からないように書いてあるのが心憎い。登場人物の性格についてもほとんど説明がない。表情や動作のちょっとした描写や、唇や眉の微妙な動き、息遣いの変化が心理の動きをあらわし、読み進むにつれて各人の性格が生き生きとイメージされてくる。

 あまりにスゴいのでコミック化した「コーリング」(岡野玲子)を読む。これもスゴい。原作の持つ重濃的な幻想感覚をうまく絵にしている。美しいけれど氷の心を持つサイベルの表情に注目。最初は無表情だったのが、怒り、涙、愛を知り、微笑むようになる様が見事。そして、愛を知ったがために憎悪を秘めるようになった「眼」なんて、本当に恐ろしい。ほぼ原作どおりだが、セリフの片隅にちりばめたアレンジが愉しい。特に、ラストの妖獣たちのあやかしの場面がいい。アクションの少なさを補うかのようなスペクタクルに度肝抜かれた。

 読了後、ハヤカワFT(ファンタジー)文庫の第一作だったことを知って戦慄する。たしかに「大当たり」の傑作だ。そして、世界幻想文学大賞が創設された1975年、最初に受賞したのが本作だったことを知って納得する(世界幻想文学大賞リスト)。

 ちなみに、見つけてきたのは嫁さん。曰く、「呼ばれた」のだそうな。

Calling_

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人なら読むべき「夜と霧」

夜と霧・旧訳夜と霧・新訳

 受けとったものがあまりに重すぎて、へしょがれた。今でもへにょっている。

 「東大、京大、北大、広大の教師が新入生にオススメする100冊」のNo.10がこれ。

■ どんな本か

 これはホロコーストの記録。強制収容所に囚われ、奇蹟的に生還した著者の手記。限界状況における人間の姿が、淡々と生なましく描かれる。高校のときに手にした記憶がまざまざとよみがえる(「あの写真」があまりにも恐ろしく、読むことができなかったのだ)。

 目を覆いたくなるのは、その姿の痛々しさや残酷さだけではない。そんなことを合理的に効率的に推し進めていったのが、同じ人間だという事実―― このことが、どうしても信じられなかったのだ。

 でも大丈夫、今回読んだ新訳版では、「あの写真」はないから。だからといって、悲惨さはいささかも損なわれていない。丸刈り・個性の剥奪、強制労働、飢え、飢え、飢え、「世界はもうない」という感覚、ガス室、鉄条網へ向かって走る―― さまざまなメディアにコピられ、反すうされているから、隠喩としてのアウシュヴィッツのほうに馴染みがあるかも―― ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争での "ethnic cleansing" なんて最優秀コピーだろう。

 だから、さまざまな「物語」で知ったつもりになっている強制収容所の実態を読んで、一種の懐かしささえ覚えた(ホントのところは真逆で、本書を下地としてそうした「お話」が作られていたのだが)。

■ 苦しみの意義を問う

 むしろ、そんな狂気の状況で著者がたどりついた結論のほうに目が行った。それを紹介する前に、ひとつ質問したい。わたしが質問して、わたしが答えてみる。

   質問 : アウシュヴィッツのような極限状況では、何を目的とし、
       何を支えとすればいいのだろうか?

   回答 : 「生きる」ことそのもの。なんとしてでも生き延びることを
       第一の目的として、いつかは脱出することを支えとする

 もちろん、この回答は著者が出した結論と違う。宗教的価値観やイデオロギーのフレームワークが異なる、なんて片付けられればどんなに楽だろう。しかし、仮にそうだとすると、この書き手は、被収容者の大部分と、まるで違うところを見ていたことになる。

おおかたの被収容者の心を悩ませていたのは、収容所を生きしのぐことができるか、という問いだった。生きしのげないのなら、この苦しみのすべてには意味がない、というわけだ。しかし、わたしの心をさいなんでいたのは、これとは逆の問いだった。
 極限状態に陥ったとき、目の前の苦悩そのものの意味を問わない。わたしは、そこから逃れようとするだろうし、適わないのなら、次元を変えてでも達成しようとするだろう。つまり、物理的に逃げられないのなら観念の世界へ逃げるとか、外界をシャットアウトして自分を外在化してしまうとか。しかし、著者フランクルは違う。
すなわち、わたしたちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。もしも無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない。抜け出せるかどうかに意味がある生など、その意味は偶然の僥倖に左右されるわけで、そんな生はもともと生きるに値しないのだから。
 ここだけ読むと、まるで殉教者のようなものいいなのだが、その口は、「宗教」という枠から完全に離れたところで語っている。

 被収容者に「宗教」がどのような役割を果たしたのかについて紙面を割いている一方で、上記の発言は心理学者――むしろ、いち科学者としての観察結果だ。生きる目的を、脱出できる将来に託した人や、過去の思い出にしがみついた人を分析する。将来に頼った者は暫定的な状況に耐えられなかった。過去から離れようとしなかった者は現実と完全に縁を切った(肉体的にはしばらく"生きて"いたが)。

 ここで著者はニーチェの言葉を思い出させる――「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」。そして、人間とは何か、について彼のたどりついた結論をこう述べている。

わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とは何かをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。

■ アウシュヴィッツに収容されていた人は誰か

 「訳者あとがき」で気づかされるのだが、驚くべき事実がある。旧訳版には「ユダヤ」という言葉が一度も使われていないのだ。「ユダヤ人」も「ユダヤ教」も、ただの一度も出てこない。

 なぜだろうか?

 それは、この記録に普遍性を持たせたかったから、「ユダヤ」という色をつけなかったのだろうと、訳者は述べている。一民族の悲劇などではなく、人類そのものの悲劇として、自分の体験を示したかったのだろう。

 このメッセージ性の強い手記は、その人称の変化からも受け取れる。本作は、大きく三段階に分かれている。

   第一段階「収容」
   第二段階「収容所生活」
   第三段階「収容所から解放されて」

と三部構成となっている。そして、主語はこう移り変わっている。

   第一段階 「わたし」
   第二段階 「わたし」→「わたしたち」
   第三段階 「わたしたち」→「あなた」

 読み手は、彼の体験の聞き手から始まって、同じ被収容者として追体験し、最後には「わたしの」経験として受け取れるように配慮されている。もちろん、これほどおぞましく、無残な経験なんて想像することは難しい。しかし、再現の可能不可能よりも、そういう構図で本作が書かれていることに注目したい。この意図もやはり、この悲劇に普遍性をもたせる一助となっている。

■ 「ナチス」というラベル、「ユダヤ」というラベル

 わたしが知っているつもりの「ナチス親衛隊」とは違う側面も紹介されている。

 ナチス親衛隊員が全員冷酷で残酷な輩だったわけではない。彼らの中にも役割から逸脱し、人道的にふるまう者がいた。ある所長は、こっそりポケットマネーからかなりの額を出して、被収容者たちのために薬品を買ってこさせていたのだという。

 これには驚いた。多くの、非常に多くの「物語」で、ナチス親衛隊は冷酷で無慈悲で残忍な存在として扱われていたから。「夜と霧」の劣化コピーにおいて、このカリカチュアのプロパガンダは喧伝されていたが、ほかならぬ本作でその否定形を見せられるとは。

人間らしい善意はだれにでもあり、全体として断罪される可能性の高い集団にも、善意の人はいる。境界線は集団を越えて引かれるのだ。したがって、いっぽうは天使で、もういっぽうは悪魔だった、などという単純化はつつしむべきだ。
ラベル貼りにより相対化ができる。本書自身がラベル貼りを拒み、何らかのプロパガンダのプラカードと化することを拒絶していることがわかる。戯画・隠喩となった「ナチス」を見かけたら、もう一度本書に戻ってみよう。

■ 旧版と新版の違いについて

 旧訳版と読み比べたが、読みやすさはダンゼン新訳版。試みに旧訳版を引用する。読み比べてみよう。

すなわち彼は天に、彼の苦悩と死が、その代わりに彼の愛する人間から苦痛に満ちた死を取り去ってくれるように願ったのである。この人間にとっては苦悩と死は無意味なのではなくて… … 犠牲として… … 最も強い意味にみちていたのである。意味なくしては彼は苦しもうと欲しなかった。同様に意味なくしてわれわれは苦しもうと欲しないのである。

 また、底本が異なっており、旧訳版は1947年、新訳版は1977年の版を元にしている。それぞれかなり異同があり、興味深い。なかでも一番なのは、アメリカ軍と赤十字がついにやってきたとき、前出の「温情的なナチス親衛隊所長」を、被収容者がかばうところ。
これには後日譚がある。解放後、ユダヤ人被収容者たちはこの親衛隊員をアメリカ軍からかばい、その指揮官に、この男の髪の毛一本たりともふれないという条件のもとでしか引き渡さない、と申し入れたのだ。アメリカ軍指揮官は公式に宣誓し、ユダヤ人被収容者は元収容所長を引き渡した。指揮官はこの親衛隊員をあらためて収容長に任命し、親衛隊員はわたしたちの食料を調達し、近在の村の人びとから衣類を集めてくれた。
 ここで初めて、「ユダヤ人」が出てくる。ここまでずっと囚われていた人びとは「被収容者」と指されていた。また、宗教としても民族としても「ユダヤ」という言葉は一切使われていなかった。これは新訳にのみであり、旧版には無い。

 では、なぜ、ここで初めて「ユダヤ」という言葉が現れるのか?「訳者あとがき」で名推理が展開されているが、残念ながら、わたしにはそれほどの重みが感じられない。解説の是非はご自身の目でお確かめあれ。

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Google Earth のような人類史「銃・病原菌・鉄」

銃・病原菌・鉄上銃・病原菌・鉄下

 Google Earth が愉快なのは、バスケットボール大の地球を、文字通り「手玉に取る」ところ。数千キロをぐるりとまわし、見たいピンポイントをズーミング。バードビューからサテライトビューまで自由自在。

 この感覚で人類史を解説したのが本書。

 数千~数万年単位の歴史を、猛スピードでさかのぼり、駆け下りる。大陸塊を横長・縦長で比較しようとする巨大視線を持つ一方で、たった16キロの海峡に経だれられた文化の断絶ポイントを示す。時間のスケールを自在にあやつり、Google Earth をグルグルまわす酩酊感と一緒。地球酔いしそうだ。

■ 本書のテーマとアプローチ

 「東大、京大、北大、広大の教師が新入生にオススメする100冊」のNo.1がこれ。

 世界の富や権力は、なぜ現在あるような形で分配されてしまったのか? たとえば、なぜヨーロッパの人々がアフリカや南北アメリカ、オーストラリアを征服し、どうしてその逆ではないのか? この究極の問いをとことんまで追いかける。

 ひとつのやり方が、「民族間の生物学的差異」に目をつけることだ。この差が原因となって、民族によって異なる歴史の経路をたどったという説明だ。これを立証するために、民族の生物学的差異に優劣があることを証明しようとする科学者がいる。要するに、数世紀も前に征服されたり奴隷化された人々の子孫が、社会の最下層で暮らしているのは、そういう民族・人種だからである、という根拠だ。

 このような考え方に、著者は真っ向から反対している。種としての民族・人種に優劣があるのではなく、そのおかれた環境・住んでいた場所が決定的な要因を果たしていると主張している。そのフィールドは、遺伝学、分子生物学、進化生物学、地質学、行動生態学、疫学、言語学、文化人類学、技術史、文字史、政治史、生物地理学と、膨大なアプローチからこの謎に迫る。

 最初は違いがなかったはずだ。今から13,000年前、最終氷河期が終わった時点では、人類は世界各地でみな似たり寄ったりの狩猟採集生活をしていた。それが16世紀には、南アメリカ大陸のインカ帝国をユーラシア大陸からやってきたスペイン人が征服するまでになる(表紙にもあるとおり、インカ帝国の絶対君主であったアタワルパの捕獲は、ヨーロッパ人によるアメリカ大陸の征服を象徴している)。

 その直接の原因は、スペイン人が持ってきた「銃・病原菌・鉄」であった。銃で殺し、結核で殺し、サーベルで殺した血の歴史になる。だが、著者は地球を逆回転させる。「では、なぜ『銃・病原菌・鉄』を持てたのか? 紀元前11,000年から西暦1,500年の間で、何がおこっていたのか」を突き詰める。

■ 「銃・病原菌・鉄」謎解きのフレーム(いちばん面白いところ)

 そのフレームは以下の通り。それぞれの要素がどのように絡み合っているかを解きほぐし、指し示す。ミクロからマクロまで、距離と時間をカッ跳んで縦横無尽に説明する。謎解きの過程が非常にスリリング。

 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 ┃直接の要因
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 ┃   馬
 ┃   銃・鉄剣
 ┃   外洋船
 ┃   政治機構・文字
 ┃   疫病
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   ↓    ↓    ↓    ↓    ↓    ↓  

    【 なぜ、銃・病原菌・鉄を手にできたのか? 】

   ↓    ↓    ↓    ↓    ↓    ↓  
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 ┃「銃・病原菌・鉄」をもたらした要因
 ┠────────────────────
 ┃   技術の発達
 ┃   人口が稠密で、定住している人々
 ┃   階層化された大規模社会
 ┃   余剰食糧、食料貯蔵
 ┃   多くの栽培植物と家畜の存在
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   ↓    ↓    ↓    ↓    ↓    ↓  

    【 なぜ、そのような社会になったのか? 】

   ↓    ↓    ↓    ↓    ↓    ↓  
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 ┃究極の要因
 ┠────────────────────
 ┃   適正ある野生種の存在
 ┃   種の分散の容易性
 ┃   東西方向に伸びる陸塊
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 ユーラシア大陸を「横長」、アフリカ大陸を「縦長」とみなす巨大な視点を持つ一方で、伝染病が家畜→人へうつるプロセスを丹念に追いかける微視的な視線も使いこなす。Google Earth でアフリカ大陸の家畜の分布図を眺めていたら、一気にズーミングして顕微鏡級になり、家畜が介在する伝染病の戦略を見せられる。

■ ユニークなところ

 まず、科学者が見た人類史であるところ。

 仮説と仮説をつなぎ合わせてストーリーができあがるから、「正しい」のではなく、必ず客観的データによって検証を行っている。仮説を裏付けるエビデンスのひとつひとつは、炭素年代測定法やDNA解析を用いた科学的手法に裏付けられており、強い説得力を持っている。

 石器を一個見つけただけでその年代は石器を使えた~なんて断言しない。「たまたま紛れ込んだかもしれないじゃないか」と、証拠に充分な量を求めるところなんて、いかにも「科学者」だ。

 このユニークさは、「文字」に依存しないところにも現れている。つまり、「書かれたもの」から抜け出た歴史なのだ。もちろん史実を追うために歴史書にあたることはあるが、その読み方も複数のソースから照射されるようにしている。その結果、征服者の視線でしか残されていない「書かれた歴史」は、必然的に重要視されないでいる。歴史とは、記録されたものを追いかけ、再構築するものだと思い込んでいた頭をふっとばしてくれる。

 さらに、人の限界を冷徹に見ている。天才や偉人の業績よりも、それを「業績」にならしめている社会や情勢の方に眼を向けている。鉄器時代にアインシュタインが生まれても、「業績」は残さないだろうというやつ。

 その反面、歴史学者トマス・カーライルは、歴史をこう定義している。

世界史、すなわち世界で人が成し遂げたものごとの歴史とは、根本的には、偉人たちが世界で成し遂げたものごとの歴史である
 つまり、歴史とはアレキサンダー大王、アウグストゥス、釈迦、キリスト、レーニン、マルティン・ルター、インカ皇帝パチャクティ、ムハマンド、征服王ウィリアム、ズールー王シャカといった偉人伝である。それぞれの業績はスゴいものがあるが、「その人」だけがスゴいのだろうか? と考えているところが面白い。アレキサンダー大王はスゴいが、その騎馬は家畜というウマがいたから成り立ったのであり、アウグストゥスがアクティウムを制したのはもちろん船舶が発明されていたことが前提。「あたりまえじゃないか」というのはカンタンだが、そうした「あたりまえ」があったからこそ、歴史のティッピング・ポイントに力が加わったのだといえないか。イノベーションが起こった後は、イノベーション自体が「前提化」してしまい、ひいては一般化・陳腐化するというパラドクスは、ここにも垣間見ることができる。本書を通じ、「何がイノベーションだったのか」という視点で人類史を眺めなおすことができる。

■ ツッコミどころもあるけれど

 いっぽうで、思わず首をかしげたくなるのもある。もちろんわたしの不勉強が招いている疑問なので、自分で調べれば事足りるのだが――たとえば、「文字」の存在について。

 著者は文字の存在をあまり重視していない。もちろん蔑ろにしているわけではない。以下の引用や、イギリス人 vs アボリジニの歴史で、文字を「持てるもの・持たざるもの」の象徴的な例として挙げている。

要するに、読み書きのできたスペイン側は、人間の行動や歴史について膨大な知識を継承していた。それとは対照的に、読み書きのできなかったアタワルパ側は、スペイン人自体に関する知識を持ち合わせていなかった
 しかし、記録や伝達などの文字の効用を詳説しながらも、上記のフレーム内での文字の役割は二次的になっている。文字そのものよりも、「その文字を読み書きする人」を養うだけのゆとりが生じている理由に注目している。すなわち、余剰食糧がある階層化された社会を「文字」の前提としているのだ。因→果のリクツはもっともだが、そのエビデンスは本書で提示されたものが全てだろうか? と、別の知的好奇心に火がつく。

 あるいは、「日本」の扱いには疑問を持った。日本人はカタカナやひらがなが「発明」したが、その元となった「漢字」を捨ててしまうほど受容されなかったと述べている。つまり、受容されなかった発明の要因として、社会的ステータスがあり、その事例として日本の漢字があげられている。

(受容されない発明がある要因として、効率性より社会的ステータスが重視されることがある)日本人が、効率のよいアルファベットやカナ文字ではなく、書くのがたいへんな漢字を優先して使うのも、漢字の社会的ステータスが高いからである。
 たしかに、平安から明治に渡る漢籍至上主義がもてはやされた理由は、支配階級のステータスの証なのかも。オトコもすなる日記というものを~というやつか。漢字の「漢」は「おとこ」とも読むからね。

 けれども、だからといって、漢字を捨ててもいいぐらいカナは「効率的な」コードとは思えない。漢字の効用として、パターン認識や速読性、文節の目印といった点があるぞ。アルファベットの民にはこの利点が見えないんだろうなぁ… もちろん、「習得する」という目的からすると、かなカナ漢字アルファベットが入り混じる日本語は、かなり効率が悪いコードであることは否めないが(自分のツッコミも反論充分だな)。

■ 巨視的な場所を手に入れる

 Google Earth に夢中になっているうちに、いつのまにか大気圏を突破していることに気づく。カメラを引いていくと、人々が生活する建物や橋サイズから、河川や山脈、そして大陸サイズ、そして大陸と海をカタマリとしてみることができる。

 このレベルで歴史を語ったものとしては、梅棹忠夫の「文明の生態史観」を思い出す。「東洋 : 西洋」の単純な枠組みから離れ、ユーラシア大陸をブロック分けし、日本と西ヨーロッパを対照的に再配置している。この文明観のスケールの大きさに驚くだろうが、もっとスゴいのは30年も前に著者が Google Earth の眼を持っていたことだろう。その大胆すぎるアプローチは、かなりの論争を巻き起こしたそうな。

 「生態史観」はユーラシア大陸における地理的な配置から比較文明論を展開しているが、本書はそれを上回る文字通りグローバルレベルで人類史を展開している。Google Earth を使って宇宙から地球を眺めるように、巨視的な場所から人類史を視ることができる。

 そういう視座を手に入れる頃には、本書の究極の目的である、「富や権力の格差の原因は、民族間の生物学的差異ではなく、地誌的・環境的なもの」であることが理解できる。

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