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なぜ最近の老人はキレやすいのか?

キレやすくなっているのは老人であり、若者ではない。

もう一度いう、大人として成熟できず、我慢のなんたるかを知らず、ついカッとなって暴走するのは、20代ではなく、60代以上の年齢層において激増している。このエントリでは、事象の裏づけと、なぜ最近の高齢者がキレやすくなっているかについて考察する。なお、「高齢者」「老人」とは、60歳以上の日本人男女を指している。

最初に断っておくが、安易な結論「高齢化社会になったから」ではない。確かに高齢者は増えているが、老人の犯罪者はそれをはるかに上回るスピードで蔓延っている。もっとも、老人が老人に襲い掛かる老老犯罪が増えている文脈で「高齢化社会」を語るならまだ分かる。しかし、そもそもキレやすい老人が増えている事実を糊塗して「高齢化社会になったから」と、したり顔で全部説明した気になっているマスコミ、コメンテーター逝ってよし!

目次は次のとおり、長いデ。

  1. 激増する高齢犯罪者
  2. 老人が増えているからではなく、キレる老人が増えているのだ
  3. 平成老人事件簿
  4. 刑務所は老人天国
  5. あなたの隣の「暴走老人」
  6. かつて老人は子どもだった
■1 激増する高齢犯罪者

平成15年犯罪白書(※1)を元に、年代別犯罪者比率の変化を見てみよう。図1「犯罪者の年齢別構成比の推移」を見て欲しい。一般刑法検挙人員の各年代が全体に占める割合の変化を、1975年を100としてグラフにしたものだ。

他の年代の検挙人員の割合がほとんど変わらない一方で、5.5倍に達しているのは高齢者―― 60歳以上の老人である。特異的な要因がない限り、犯罪者の年代別構成比は、人口の年代別構成比におおむね従う。それでも年を追うごとに微増・微減の変化はあるのだが、60代以上の犯罪者だけが突出しているのは、一体どういうことか?

■2 老人が増えているからではなく、キレる老人が増えているのだ

もちろん反論はできる。日本社会における高齢者人口が増えているため、犯罪者の中での高齢者の割合が相対的に増加しているという理由は説得力がある。矯正協会付属中央研究所のレポート「公式統計からみた年齢と犯罪の関係について」(※2)はまさにこのテーマについて統計的な裏づけを元に分析している。

このレポートの結論は明白だ。老人犯罪は、高齢者が増えているから増えているように見えているだけ、という。いわゆる暴走する老人は話題性を高めているだけであって、実態ではない、という考えだ。

それでは、なぜ昨今老人犯罪が話題性を高めてきたであるが、それは、全犯罪者の中で、老人犯罪者の占める比率が、相対的に増加してきているからと解釈できよう。老人人口が増加するにつれ、老人犯罪者の数が増えていることは当然ともいえようが、犯罪者を扱う立場からすれば、犯罪者集団の中で相対的に老人の数が増えれば、その扱いを考えざるを得ず、それは自然の理といえよう
下の図2「60代以上の犯罪者の構成比と、65歳以上の人口構成比の変化」を見てほしい。1975年を100として、老人人口がどの割合で増加しているかを重ねてみた。統計情報元の関係上、65歳以上を「老人」としている(※3)。

これによると、たしかに高齢者人口は増えている。ただし、1975年から2002年で、2.6倍だ。高齢犯罪者比は5.5倍に増加しているというのにだ。高齢者は増えているが、高齢犯罪者はそれを上回るスピードで激増している。つまり、老人が増えているのではなく、キレる老人が増えている。もはやキレるのは若者の専売特許ではなくなっているのだ。

■3 平成老人事件簿

中央公論の「団塊を待ち受ける、奪い合う老後」(※4)によると、老人が老人を狙う時代に突入している。高齢ゆえに体力がないから、強盗をやるにしても人を殺すにしても、自分よりももっと高齢の人間のターゲットにする(若者を襲ったら返り討ちにあいかねないからね)。

  • 2005.3月、札幌豊平署は、73歳の妻の首を絞めて殺害したとして、83歳の無職男性を逮捕したが、「食事のおかずの品数について文句を言ったことから口論となり、かっとなって殺してしまった」と言う
  • 2006.1月、JR下関駅舎から爆発音とともに真っ赤な火炎が噴き上がり、一時、本州と九州を結ぶ交通網は完全に麻痺した。鎮火後に逮捕されたのは74歳男性、「ムシャクシャして、うっぷん晴らしのためにやった」とあっさり放火を認めた
  • 2005.5月、妻の頭を置物で殴り、ズボンのベルトで首を絞めて殺した容疑で74歳の男が逮捕されている。調べに対し男は「妻が高額の健康食品を買ったので口論となり、かっとしてやった」と話す
  • 2001.6月、福島県で起きた保険金殺人。被害者は77歳の女性で、主犯格は73女、他に77歳女、73歳女、62歳女、52歳男、63歳男が逮捕されている。この事件の特徴は、被害者も加害者も、そろいも揃って中高年であること。熟年パワーが炸裂した事件をいえる
いわゆる終の住み処、介護施設でも同様とのこと。老人が老人を殺す、老老殺人の舞台となっている。89歳のおばあちゃんが同じ入居者の70代の認知症の女性に首を絞められて殺されたり、70歳の男が73歳のほかの男性のささいな生活騒音に腹を立てて、ナイフで刺し殺したり。

あるいは、老人ホームは高齢男女の出会いの場でもある。老いの恋愛に花が咲くこともあるが、ひとたび問題がこじれると惨劇の場と化すこともある。2004.5月、愛知県安城市にある養護老人ホームで、入所者の68歳男が67歳女に絞殺された。度を越した恋愛行動を制限され、おもいあまった挙句、首を絞めたという。

ついカッとなって殺す、痴情のもつれから首を絞める、ムシャクシャして火をつける。年齢を重ねることと円熟とは全く関係ないことについて、わざわざ指摘するまでもない。しかし、「若気の至り」やら「若さゆえの過ち」と、完全に同等な結末を引き起こしているのであれば、それは「若さ」や「老い」とは関係のない、別の理由が存在することになるのではないか。

■4 刑務所は老人天国

では、ついカッとなった先にあるもの―― 刑務所はどうなっているだろうか。新潮45の2002.7月号の元刑務官のレポート(※5)によると、娑婆よりももっと深刻な問題が横たわっていることがわかった。

もっとも象徴的なのは、広島県にある尾道刑務所だそうな。2002.5.3フジテレビのスーパーモーニングで放映された、平均年齢73歳の入所生活である。

作業時間は1日6時間、一般受刑者の8時間との差2時間は、レクリエーションの時間に費やされる。体育館でカラオケ、卓球に興じている姿が映し出されていた。舎房は全員個室、トイレ、廊下、工場内通路には手すりが取り付けられていた。4年前に改築したという真新しい生活空間はバリアフリーで清潔そのもの。インタビューに応じた受刑者は「わしは、近畿の刑務所はみんな回ってきた。40年余りは刑務所暮らしになってしもうた。しかしここはまるで天国じゃ」
そこらの老人ホームの入居者より、よっぽど快適に生を楽しんでいるように見受けられる、衝撃的な映像だったという。同様な報道は、NHKクローズアップ現代でもあった。2004.5.31放送(No.1921)で、刑務所と更生保護の現場ルポを通して、高齢化が進む中さらに深刻化が予想される「老人犯罪」の現実と対策を探っている。

元刑務官のレポートによると、70%を越える老人囚は出所後の行き場がない。帰住地を更生保護施設と希望していても、実際には入れるかどうかわからない。これらのものに、公的年金について訊いてみると、もらえると答えたのは30%弱だったという。生活に行き詰まれば、また尾道に帰りたいと、犯罪に手を染める老人もいる(そのためのノウハウもある)。

福祉行政の失敗は、受刑囚の高齢化に拍車をかける。彼らには文字通り「帰る場所」がないのだから。わざわざ広島近郊へ出かけていって「ついカッとなって」しまう再犯、再再犯がいるのには、ちゃんと理由があることに目を背けている限り、刑務所の老人福祉施設化は止まらない。

計画的か否かは別として、増え続ける高齢受刑者が、過剰収容を全国レベルで押し上げていることは事実。1970年には60歳以上の高齢受刑者は1%だったにもかからわず、2000年には9%に達している(※6)。なんと9倍!だ。もちろん高齢者は増えているぞ、3.4倍程度だが(※7)www高齢者は増えているが、高齢受刑者はそれを上回るスピードで増えている。老人栄えて国滅ぶ例として年金制度が取り上げられるが、刑務所は常にその一歩先を行っている。

■5 あなたの隣の「暴走老人」

いわゆる犯罪にまでいたらなくとも、暴走する老人はいたるところで見受けられる。「暴走老人」「キレる老人」の実態は想像以上にひどい。週刊誌のアンケート(※8)によると、暴走老人の出没スポットは、(1)スーパー、(2)乗り物、(3)病院だという。そこでの目撃談によると…

  • 70過ぎの白髪のお爺さんがスーパーで商品のみかんを剥いて食べ始めた。店員が注意すると「試食しないと味がわからない」とわめいて、店員がひるんだら、「甘くないから買わない」と捨て台詞を吐いて立ち去った
  • 老人無料パスを見せてバスを降りようとした70歳くらいのお爺さん。運転手が「お客さん、それ女の人の名前だよ」と言われた瞬間、ダッシュで逃げた
  • 大阪の市バス内の出来事。70代後半の男性が運転手に「車内放送がよく聞こえなかったので、さっきの停留所で降りられなかった。引き返せ」と怒鳴りだした
  • 救急士の証言。「老人は気軽に救急車を呼んであたりまえという人が多い。とても急病人とは思えず、車内でもわがまま放題。トイレに行きたいから救急車を止めてくれといわれたときが一番驚いた」
「暴走老人!」にて藤原智美は、なかなか面白い分析をしている。要するに彼・彼女たちは「待てない」のだそうだ。歳を取るほど時間が早く過ぎていくという焦燥感が、予期せぬ「待たされる時間」に遭遇したとき、発火点となって感情爆発を引き起こすという。寛恕の心とか、「がまん」って言葉を知らないんだろうね。

あるいは、昔と異なり、「周囲から尊敬されなくなった」ことが理由としてあげられている。時間の流れがゆるやかだったときは、その経験が若者にとっても有益だったが、いまでは、老人が持っている知識・経験を下の世代がまったく必要としていないことが一因となっている―― そんな指摘もある。

また、「暴走老人!」では、「社会の情報化へスムーズに適用できていないこと」が原因だという。

逆に若い世代はメールやネットでオブラートに包んだコミュニケーションばかり取っていて、人間の感情がぶつかり合ったときに収める技術を、社会が失いつつある。
うーん… 「キレる若者たち」にも使える理由なので甚だしく「?」をつけたくなるが。本書自体がワイドショー的で印象だけをつづったエッセイだからなぁ… 「暴走老人!」の一番の読みどころをお伝えしよう。それは、あとがきにある。
テーマは「暴走する老人たち」ですが、私は老人批判をしたかったわけではありません
なんという逃げ口上。しかも「あとがき」に書くあざとさ。著者がチキンになるのは、「老人」たちの仲間へあと一歩の我が身かわいさか。

いずれにせよ、人生も終盤にさしかかると、枯れるとか悟るところがあるのかと思っていたが、完全なる幻想。せめては老醜をさらすことのないよう―― と自覚のある人ならいいが、そうでない人が暴走を繰り返しているのが現状だろう。

■6 かつて老人は子どもだった

ここで簡単に済ませることもできる。「社会の情勢の変化」だの「IT化」や「社会の閉鎖性」「心の闇」「核家族化」と、テキトーなキーワードを並べ立てて、訳知り顔で説明することは、可能だ。っつーか、それが王道だ。若者批判の常套句だ。

センセーショナルにあおりたて、口をそばめて指摘し、批判し、「だからなっとらん」と騒げば一仕事したかのような顔をする。そして提言としては「ちゃんと挨拶しましょう」「思いやりの心を持ちましょう」とかオマエは小学校の学級会かッ!と石ではなく岩をぶつけたくなるような『センセイ』がいらっしゃる(誰とは言わんが、な)。

もう一度、図2をみて欲しい。1986年前後が突出していることに注目。

なぜだろうか?

暴れる老人をいくら見ていても、分かるはずがない。彼・彼女らは「ルール」や「マナー」、あるいは「社会常識」というものを持っていないのだから。だから、それらを身に着けていないのであれば、その理由を探るために過去を見てみよう。

そもそも、そうしたルールをいつ身に着けるのだろうか?もちろん子どもの頃だ。ふつう、ものごころついたときから、社会に出るまでのあいだに「しつけ」られるものだ。年齢で言うならば、10-20歳にかけてだろう。言い換えると、この年齢でルールや常識が身についていないと、後の一生で社会的制裁という形で教育されることになる。

さて、1986年ごろに「暴れる老人」だった60-70代が、社会常識を身につけるべき10-20代だった頃は、何があっただろうか?

そう、戦争だ。1926-1946年ごろは、世界不況から太平洋戦争、終戦の混乱期だ。この時代にまともな「しつけ」を親に求めることは、香山リカから「最近の子はよくしつけられている」というコメントを引き出すことと同じぐらいの期待値だ。この世代が「現役」だった時代に、各年代の犯罪率を押し上げ、いわゆる高齢者世代に突入して一花咲かせたと見るのが自然だろう(1975年から若年犯罪率が一貫して減少していることにも注目)。20年ぐらい昔の「荒れる老人たち」の理由は、これで説明できる。

次に、1997年から現在にいたる老人犯罪の激増化を見てみよう。彼らの少年時代を遡ると――終戦から高度経済成長の入口(1955)あたりに「しつけ」られた人びとが暴れているのだ。あの当時は暮らしていくのに精一杯でそれどころではなかったという「仮説」が立てられる。

この仮説を検証するならば、老人犯罪者にインタビューしてみるといい、「わたしたちが若い頃は、なんにも楽しみがなかった、一所懸命働いた、結局見返りはこれっぽっち、やってらんねぇ」という恨み節が聞こえてくるに。そして、「親からはろくに面倒を見てもらってなかった」というカメラ映えする言質が取れるだろう(ホントの因果は逆なんだけどね)。

同じ根拠により、このうなぎ上りグラフはそろそろ沈静化するのではないかと予想している。「団塊の世代」の振る舞いだ。この連中、華々しく闘争して社会に迷惑をかけたワリには、就職と同時に転向する"ちゃっかり"したところがある。これは、社会的制裁を受ける/受けないギリギリのところを計算できるぐらいの常識を「しつけ」られていたのではないかと考えられる。

もちろん、団塊の世代は1947-1955年生まれと上述の「いまどきの暴れる老人」世代と被るところもあるが、日和組が残らず老人化する2015年ごろからはこのグラフはフラットに安定化する(もしくは減少する)はずだ。彼らも馬鹿ではないのだから。

そして、「しつけがなっていない」世代が死んでゆく2030年ごろからは、老人犯罪は過去話となるだろう。高齢化社会真っ盛りであるにもかかわらず、ね。「老人犯罪?ああ、『そんな時代もあったね』と、いつか笑って話せるさ。

何度でも言う。キレやすくなっているのは老人であり、若者じゃない。この事実に目を背けている限り、対策も後手に回り、問題は先送りされる。文字通り、「死ぬ」まで。

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注釈

(※1)平成15年犯罪白書p.7「1-1-1-5図一般刑法犯検挙人員構成比の推移」を元に作成
(※2)中央研究所紀要4号(1994)p.81-92「公式統計からみた年齢と犯罪の関係について」
(※3)日本の統計(総務省統計局)日本の統計2007第2章人口・世帯[URL]を元に作成
(※4)中央公論2006.5月号p.70-77
(※5)新潮45 2002.7月号p.82-90
(※6)同p.85
(※7)上記※3より
(※8)週刊文春2007.10.11p.42-44

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参考文献

エントリには載せられなかった文献もいくつか。糞本もあるが、糞のサンプルとして役に立つ。

■ 「老人栄えて国亡ぶ」(野末陳平、講談社、1997)

題名が老人批判、書き出しが老人批判と威勢がいいが、ラストで大ドンデン返しが。本書を老人批判のバイブルだと喜んでいる奴は202ページを読め。時間のない人は以下の2節でオッケー。

「まえがき」はこうだ。

このごろ高齢者ほど、平和ボケ・繁栄ボケの典型はいない。老人扱いはイヤだと口で言いながら、国の老人過保護政策にどっぷり浸りすぎ、わがままで、身勝手で、頑固で、わからずやで、要求過剰で、傍若無人で、無反省・無自覚で、謙虚さが不足で、どうにも扱いにくい存在だ。彼ら高齢者が国家財政を圧迫している不愉快な現実に、なぜ誰も起こらないのだろうか。
で、200ページぐらい使って世代会計から見た世代間格差を延々と論じて、ラストはこうだ。
若い人たちは生まれたときからいい思いしすぎてますよ。過保護に育てられ、うまいもの食って楽しい生活して、苦労らしい苦労もしないで人生の前半を送ります。この調子で人生の後半も遅れたら、話がうますぎませんか。

前半がよすぎたから、後半は少し苦労してもらって、平均すればそれで辻褄が合うんじゃないか。それでこそ親たち世代とそこそこに帳尻が合い平仄のとれる人生ってもんだ。ぼくたち高齢者仲間は苦労が先に来た世代、次の人たちは苦労があとにくる世代、これで不公平なし、可もなく不可もなし、みんな平等で文句なし、天下泰平めでたしめでたし、というオチですね。
このテの本は書店でレジまで持っていってもらったらオッケーなので、みんな騙されたんだろうね… 批判する奴すらいないのは、最後まで読まれていない証左。

■ 「死に花」(太田蘭三、角川書店、2003)

「老い先わずかだ。死に花を咲かせよう」と一念発起し、人生最後の大バクチに出ることを決意する。面白いのは、その「とんでもないこと」が老人をどんどん若がえらせてゆく。人生にゃ、目標が必要だね。エロ話が頻繁に登場してて、面白い。高齢者の性行為は(いろんな意味で)興味津々なんだが、楽しみどころは別様だ。人生の経験者の智恵と、老人パワーが文字通り炸裂する。

人生に必要なのは、エロと目標だね。

■ 「いい老人、悪い老人」(鈴木康央、毎日新聞社、2004)

何でも二分断して○×をつけたがり、「だから○○は…」のグチをひとくさり。「だから最近の若者は…」をそのまま老人にあてはめただけ。若者というだけで全否定が許されるが、相手は老人なので部分否定に走るのがチキン。著者は団塊の世代で、「わたしが老人になったら大事にしないと反乱するぞ」とオドしているところが文字通りコケオドシになっていて笑える。「馬鹿というやつが馬鹿」を地で行っている。

■ 「銀齢の果て」(筒井康隆、新潮社、2006)

老人人口を調節し若者の負担を軽減する大義名分のもと、日本政府は「シルバー・バトルロワイヤル」を実行する。要するに70歳以上の老人に殺し合いをさせようというもの。対象地区に選ばれたところは、のどかな町内から過酷な戦場と化す――ってアレのパロディやね。

結局は「自分たち若い者には優しくしてくれ。そのためにはあんたたち老人が死んでくれ」ってことなんだ。なあ。おれたちゃもっと強い世代だった筈だろ。もっと若いやつに嫌われて、恐れられてりゃあ、こんなことにはならなかったんだとおれは思うがね
がブラック過ぎてて笑いが引きつる。

■ 「暴走老人!」(藤原 智美、文藝春秋、2007)

エントリ内にも書いたが、一番の読みどころは「あとがき」。「ちかごろの若い奴は…」のノリで印象批判をダラダラ書いた後、ラストでこう逃げる。

テーマは「暴走する老人たち」ですが、私は老人批判をしたかったわけではありません
なんというチキン。しかも「あとがき」に書くあざとさ。そういや、冒頭で「老人犯罪検挙数」のグラフがあるが、その説明が「ホラ、右肩上がりでしょ?暴走老人は増えているんです」に噴いた。まさに老人人口が増えているからじゃん、というツッコミすら思いつかず、なんでも「社会のせい」にする思考停止っぷりは、ぜったい狙ってアオってるぞ。

中央公論2008.4「老人が今なぜキレる?」でも語っているが、対談相手は養老孟司。「老いたってエエじゃないか」と開き直る老人代表に振るシッポの角度が微笑ましい。

「老人栄えて国亡ぶ」といい、「暴走老人」といい、このテの「老人批判」もどきは、二重の意味で罪深い。威勢よく批判すると思いきやラストでひっくり返すのは、羊頭狗肉どころか羊頭腐肉。そして、重要な問題をクソ論理で語っているため、問題そのものの重要性を減殺してしまっていることは、恐ろしく罪深い。

つまり、うんこ主張なんてすぐに粉砕されるため、その前提の「暴れる老人」まで疑わしく見えてくる罠。これをジコヒハンと称して免罪符にでもするつもりか。すぐに馬脚の現れる論理を主張して、その批判を甘んじて受けることで、もともとの論理の前提を疑わせるテクニックは、(狙ってやっているのなら)かなり高度な技だぞ。意図しないならただの○○だがな。

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追記

このエントリを書く上で、意図的に省いた視点を追記する。「ちゃんとしつけられなかった子どもが、いまの暴走老人」というシンプルな話にするだけでもこれだけのボリューム。以下の視点を加えれば、さらに多角的な分析ができるだろう。しかし、リーマンが休日深夜にがんばるレベルを越えているのでカンベンな。

■ 「犯罪者の定年延長説」という視点

平均寿命が延びたため、社会的活動期間が延長され、したがって犯罪者としての活動期間も長くなっているのではないか、という説がある。この、「犯罪者の定年延長説」は西村春夫の論文にある(※1985 高齢者が犯罪にあう時、犯罪に出る時」The Japanese Council on Crime and Delinquency,33,2-11)。

「キレる老人」を犯罪発生率だけで断言するのには無理がある、というこのエントリのカウンターとして主張できる。つまり、プロの冷静な犯行が検挙された場合もカウントされるからだ。

10-40代までの犯罪者の比率は、男の方が女よりも高いが、50代、特に60代になると顕著に女性が高くなる。この傾向が犯罪者の定年延長説に説得力を与えている。

■ 「時代に取り残される老人」という視点

暴れる老人のキモチを弁解するとき、「時代のスピードについていけない」という看板を掲げる人がいる。前出の「暴走老人!」なんてまさしくこれに該当する。お爺さん、お婆さんの経験や知恵が蔑ろにされ、居場所を失っているというやつ。

一見もっともらしいが、本当だろうか?

「時代の変革スピード」を出生率や経済成長などの「見える数字」で表現する。そして、その「スピード」とやらの変遷と上のグラフの相関関係から読み解く。自分の数十年の記憶だけで物語っている連中より100倍ましかも。

おそらく、その「スピード」とやらは加速している、という結論に導ける。しかし、その調査の過程で、「それぞれの時代ごとに、変化についていけない高齢者」が沢山いた、という事実にぶちあたるだろう。そして、各時代で「お年寄りの知恵や経験が蔑ろにされている」と憤る老人たちの発言を追いかけることになる。

その最古の例は、[ 最も古い「最近の若者は…」のソース ]にある。

つまり、どの時代でも「変革スピードについていけない老人」はいた。そして、「自分の経験を肯定してもらいたがっている老人」も同じぐらいいた。Identity Crisis の防衛策としての「暴走老人」だ。この枠組みなら一定量の暴れる老人の説明はつく。ただし、どんな時代でも Identity Crisis に最も瀕しているのは老人ではなく、若者であることをお忘れなく(それこそ、オマエの若い頃を思い出してみろ、というやつだね)。

暴走する老人を「時代のせい」にするのは両刃の剣だろ。「そんな時代にしたのは、まさにお前らだろ」と切り返されてしまうから、被害者のフリをしようにも無理ある。「世の中が悪くなっている」とグチるのなら、「そういうオマエは何をしてきた?」とね。

■ 「刑事司法システムでの老人犯罪者の扱われ方」という視点

資料※2 で面白いヒントをもらった。日本の刑事司法システムでの老人犯罪者の扱われ方だ。検挙者数の人口比が少ないにもかかわらず、検挙→受刑までいたる老人の比率は、他の年代と比べると少なかったという。

これは何を意味するのか?

つまり、老人犯罪においては、微罪処分、起訴猶予処分が、他の年齢層に比べて多いことを示している。お目こぼしというやつやね。老い先短い身の上、お年寄りを大切に、という儒教的?(ヒューマニズム的?)心情がこうした数値になっているのかもしれない。

その一方で、老人受刑者の中の再入率は、極めて高いという。歳を取ると悔い改めなくなるのだろうか。これは、穏便に済まそうとしたら図に乗っている老人の姿を如実に現している。

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処女膜ばかり気にしててサーセン「太平洋の防波堤/愛人 ラマン/悲しみよ こんにちは」

太平洋の防波堤、愛人ラマン、悲しみよ こんにちは助平なんでハァハァしながら読んだぞ。テーマはこれっぽっちもハァハァするもんじゃないんだが、好きに読ませてもらうのは読者の特権。

フランス女性小説家を代表する、デュラスとサガンの3作が入っている。どれも、美処女が恋をしてセックスに狂う話―― だけではなく、もっと重いテーマが横たわっている。

    太平洋の防波堤(デュラス)
    愛人 ラマン(デュラス)
    悲しみよ こんにちは(サガン)

世に出たのは50年ほど前、だから「まだ子どもみたいな少女がセックスの快楽を貪る」描写はかなりセンセーショナルだったかと。そして、あんだけヤってて、これっぽっちも妊娠するそぶりすらないのも、当時の読者のアタマをアツくしたんじゃぁないかと。小説に教訓めいたものを求める輩は、「ひと夏の恋→セックル→予期せぬ妊娠」を弁証法のように振りかざすから。

■ マルグリット・デュラス

処女を失うことは、それぞれの小説で象徴的に扱われている。デュラスの2作では、「母親からの逃走」のためだし、サガンの場合は「母親候補からの遁走」の表れになる。そのため、破瓜の痛みはほとんど語られず、不自然なほどすばやく快楽を味わっている。

美少女の身体描写もいいっスー

野郎の汚らわしい眼差しでなぞるよりも、やっぱり女性が描くほうが、よりリアリスティックに想像できる(はずだ)。石川淳の「焼跡のイエス」で、ノーブラのシュミーズの白さを透かし「乳房を匕首のように」閃かせている少女に悶々としたことがあるが、「愛人 ラマン」のここなんてハッとさせられる。

比類ない身体、身長と、この身体が乳房を自分の外に、いわばはなれたものとしてもつそのやり方とのあいだのこの均衡。このきりりとした乳房のまるまるとした外見、こちらの手のほうに突き出されるこの形状ほどに、類を見ぬものはない。
「こちらの手のほうに突き出される」が秀逸。主人公の友人の裸体をこう描くのだが、オトコからはゼッタイ得られない発想がある。それは、乳房というのは、女の付属物であるいっぽうで、男の所有物にもなりうる。いわば、オトコとのインタフェースでもあるんやね。欲望が女の肌の下に集まっているのが、読み手にも透けて見えるようだ。

―― エロい戯言はおいといて、どれもみっしりと身の詰まった作品だった。それぞれ、少女の一人称や告白体で世界がつくられ、語られ、物語がすすみ、時をゆきかう。彼女らの「語り」がばつぐんに上手いので、目を離せない読みを強いられる。心的描写と会話が主なので、転がるストーリーを追いかけるのが好きな人には辛いかも。

デュラスの2作品(防波堤/愛人)は、同じ素材が違う料理に仕上がっており、比べて読むと面白い。「防波堤」が全部入り―― アジアの原風景、生活苦、社会悪への憤り、家族のキツい性格、そして異性へ開く情欲がある。その一方で、「愛人」はずばり愛そのものを愛以外の膳立てで描くことに成功している。植民地での底辺の生活や、人生を使い尽くした母親のことば、金持ちの(ただし弱者としての)男との会話は、それぞれ似ているようでテーマへのベクトルが違う。

母親は「母親」としか記述されない。固有名詞を持っていない、たった一人しか登場しない「母親」は、小説の特殊な状況から抜け出て普遍性を帯びてくる。デュラスの実人生そのものにも大きな影響力を与えている。象徴的なのは「太平洋の防波堤」のここかな。

「お母さんの不幸というのはね、結局、一つの魔力みたいなものなのよ」彼女は繰り返す。「魔力を忘れるように、お母さんの不幸も忘れてしまわなければだめよ。あなたにそうさせてくれるだけの力をもっているものは、お母さんが死ぬことか、男が現れることしかないと思うの」
 そして、このくだりを読めばピンとくるだろうが、長い長い伏線が張られることになる。そういや、この小説、メタファーや暗示が説明抜きに(あたりまえか)投げ込まれており、生娘の裸をひとめ見んと悶える男と、男が持っていたダイヤの指輪を売らんかなと奮闘する母親の滑稽さはシンクロしているし、そもそもカニが穴だらけにし、太平洋に侵食され、高潮にくずれさる防波堤は、処女膜のメタファーだろうに。

■ フランソワーズ・サガン

いっぽうサガン。実はこれが初読み。昔、わたしの母親が「これはクダラナイ大衆小説から読まなくてよろしい」と処分してしまったから。その目が泳いでいたことにもっと気を配っていれば、中学生で読めてたのにー

ともあれ、これは上手いしエロいし、オススメですな。いわゆる「ベストセラー」は普段読まないような人が買うものだから―― たいして期待もせずに読んだら、びっくりした。才気ばしった文章だけれど才能だけでは書けない。ホントに18歳の女の子が書いたの? と唖然とする。たとえば、こんなふうに始まる――

ものうさと甘さがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名をつけようか、私は迷う。その感情はあまりにも自分のことだけにかまけ、利己主義な感情であり、私はそれをほとんど恥じている。
 少女を終わらせようとする思春期のもどかしい思いや、放蕩三昧の父親との奇妙な共犯関係、そこに侵入してくる女との生活への不安が鮮やかに「見える」。一人称の地の文と気の利いた会話が合いの手のように混ざっていて、正直、読んでて心地よい。思春期の悶え(?)が生んだ陰謀が招くラストのカタルシスは、重すぎず、軽すぎず、思わず頁から顔をあげて、空を見たくなってくる。冒頭の彼女の「悲しみ」をラストで読み手に追随させる。そのためのストーリーであり、そのためのこの「語り口」なのだから。

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