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東大が求める人材とは「東大入試 至高の国語 第二問」

東大入試至高の国語「第二問」 嘘かまことか、現国の入試問題から「東大が求める人材」があぶりだされている。

 30年分の過去問から読み解かれた「東大入試の本質」というやつは、非常に奇妙だが納得はできた。すなわち、東大現代文は、「死」を主題とした問題が、もう何十年も出続けているのだという。著者曰く、「死にとりつかれていると言っていいほどの頻出ぶりである」だそうな。東大は、「死」という簡単に答えの出せない、標準解のない問題を突きつけているのだ。

 たとえば、病に冒された国木田独歩に手紙を書けという1982年の第二問。アタマを抱え込むことを請合う。独歩は死を覚悟しており、気弱な面と実際的な側面をまぜこぜにした手紙をよこしている(その手紙が出題文)。これを受け取ったと仮定して、返事をかけというのだ。しかも200字、どうすりゃいいの?

 あるいは、1985年の第二問。金子みすヾの詩を二編ならべて、「各自の感想を記せ」という。(゚Д゚)ハァ? というやつだね。白状すると、わたしは赤本でぶちあたり、東大はワケワカランと投げ出したことがある。

次の二つの詩は同じ作者の作品である。二つの詩に共通している作者の見方・感じ方について、各自の感想を一六〇字以上二〇〇字以内で記せ(句読点も一字として数える)。


「積もった雪」

上の雪
さむかろな。
つめたい月がさしていて。

下の雪
重かろな。
何百人ものせていて。

中の雪
さみしかろな。
空も地面(じべた)もみえないで。




「大漁」

朝焼けだ小焼けだ
大漁だ
大羽鰯の
大漁だ

浜は祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰯のとむらい
するだろう。



東京大学入学試験「現代文 第二問」1985

 たぶん道徳的・感傷的な「作文」だと零点なんだろうなーということは薄々わかってた。「声なき鰯を思いやる」といった優等生的(上から目線の)解答は即ペケだろう。では何を書いたら「正解」なのか、分からない。

 いわば、答えが出ない問題が出題されるのだ。

 この「第二問」はかなり有名で、齋藤孝著「齋藤孝の読むチカラ」にも取り上げられている。ごていねいにも、その「解答」を引用し、「試されていたのは、読む力にとどまらない」と、なで斬りにする。齋藤氏はエセイストなので、まともに読んだら気の毒だ。にもかかわらず、彼がいかに表層的・優等生的で、問題の本質どころか問題自体を理解していないことを容赦なく暴いている。東大入試は、「いい人コンテスト」の場じゃないんだって。

 齋藤氏の「誤答」を指摘した後、キーワード「死」を核にして、この「第二問」を読みほどいていく。最初はとっかかりのない「のっぺらぼう」な問題が、実は生き生きとした、いや生臭くって残酷なテーマを内包していることに気づかされる。

 いや、「内包」じゃないね。ぜんぜん隠してない本文に読み手が「見ようとしない」方角から光をあてて、偽善ですらない無意識の態度を浮き上がらせている。著者の「読み」は、謎解きに近いほどスリリングで、それこそ「あっ」と驚く仕掛けも施されている。こんなに豊かな「読み」ができるなんて、たいへんうらやましいアタマを持っている。

 その一方で、話があちこち八艘飛びしてて、どう転ぶか分からない危うさもある。(これは面白いところでもあるのだが)主張の展開途中で、唐突にマジックワードが差し挟まれる。こっちが戸惑っているうちに、そのマジックワードは検証されないまま、次のパラグラフでは論拠として扱われている。

 さらに、文中のどこを探しても「私は~」が存在せず、全ての論拠は「れる/られる」で述べられ、次の章では、「私たちは~」に引き継がれている。あたかも、「読み進めているということは、同意しているんだよね?よね?」という臭いがぷんぷんしててイヤだー。

 同趣旨の好著「哲学の誤読」が論理ガチガチだったので、脳をギリギリ絞り上げるようなシビアな読みを期待していたのだが、ちょっと肩透かしを食らった。

 とどめになるが、それぞれの入試問題への「解答」がないのはダメでしょうに。あれだけフロシキ広げてあれこれ言い放ったのだから、ちゃんと200字以内で畳めよ、と言いたい。「本書の趣旨は読み解きだけ、解は自力で」とでも言いたいんだろうか。「哲学の誤読」はヒーヒーいいながらも解答出していたぞ。

 そういうオマエモナーと言われる前に、わたしの解答を書いておこう。

作者は、擬人的な表現を用いつつも、単なる感情論を超え、主体を成り立たせているのは客体で、主客を逆転させても同じことだと感じ取っている。例えば人が獲らなければ魚の葬式は成り立たないし、魚が獲れなければ飢え死んだ人の葬式だろう。上の雪がなければ、中の雪や下の雪は存在すらしないし、これは上中下を入れ替えてもあてはまる。つまり、人間的な感傷論をさしおいて、主体と客体はお互いが抜きさしならぬ関係なのだ。(197字)


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コメント

はじめまして、シノと申します。いつも楽しく読ませてもらっています。

本のタイトルや雰囲気から、途中で紹介されている「哲学の誤読」も面白そうやな、と思いました。
ですが、Dainさんの両方の記事を読んでみると「哲学の誤読」の方が興味をそそられました。

こういう頭をガリガリ使う本は大好きです( ̄▽ ̄*)

ありがとうございました、また覗きにきます♪

投稿: シノ | 2008.10.16 10:24

はじめまして。私もあの本を読みました。Dainさんの
答えも読みました。結局あの本が言っていたのは、
金子の詩は魚とか雪とかにつてのものじゃなくて、
その詩の中に自分の顔が見える、そこに気付け、
ってことだったと私は思いました。

投稿: じろ | 2008.10.17 02:31


どんな境遇にも他人にはわからぬ苦労がある。

人生の様々な断面、
幸せの絶頂も、不幸のどん底も、
他人様の目には、彼岸の火事。

自分の置かれている状況が苦しいときは、
生き抜くための知恵をしぼるようにと、


無限の言葉をもってしても明かせぬことを、
言葉を使わず、どこまでも騒がずに、
おごらぬ態度で教えようと、


静かな雪や、魚たちに視線を誘い、
生き抜く知恵を、
そっと教えたい作者の他人に対する謙虚さと優しさ。


、、かな?
、、、ほんとに、どこまでも心の配られている詩で。( ̄ー+ ̄)

投稿: | 2008.10.17 16:54

>>シノさん

「哲学の誤読」は、入試問題という限定された文章を徹底的に読み込むことで、解答者や出題者の「誤読」を穿り返す試みです。綿密厳密緻密な「読み」に振り落とされないように。

いっぽう、「東大入試 至高の国語 第二問」は、現代国語の入試問題から、東大の本質を抉り取ることを目的としています。「哲学」の厳密さよりも、読み手の発想力(というか創造力)に舌を巻くでしょう。

ネタが鮮やかなのは「東大入試」で、脳をギリギリと使うのは「哲学」ですね。

>>じろさん

「自分の顔が見える」ですか、なるほどー
たしかに、「魚」や「雪」から始まって、「うみの さかなは かわいそう」や「寅さん」の例とあいまって、存在としての罪を暴いていましたね。で、「それはおまえのことだ!」と告発されているような気分になりました。

>>名無しさん@2008.10.17 16:54

ぜひ、本書をオススメします。
驚くべき「読み」が待っていますぞ。

投稿: Dain | 2008.10.17 23:20

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