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正しい死に方「死ぬことと見つけたり」

 「いかに生きるか」という問いは、そのまま、「いかに死すべきか」につながる。

 おっと、逆だ逆、「いかに死すべきか」を追求すると、「いかに生きるか」の行動様式が決まる。本書を読むことで、単なる「葉隠」の解釈論を超え、武士という特殊な思考をシミュレートできるぞ。

 まず、奔放痛快な時代劇として楽しめる。時代小説という枠に、ロマンスあり、ミステリあり、権謀術数と陰謀、冒険譚から謎解きまで面白い要素がこれでもかと詰まっているからね。

死ぬことと見つけたり上死ぬことと見つけたり下

■ 「自分の死」をシミュレートする

 しかし、彼らの苛烈な生きざま(と死にざま)を夢中になって追いかけているうちに、自分の死に対する構えも知らず知らず練りこまれていくに違いない。まさかというなら、このあたりを読んでみるといい。

朝、目が覚めると、蒲団の中で先ずこれをやる。出来得る限りこと細かに己の死の様々な場面を思念し、実感する。つまり入念に死んで置くのである。思いもかけぬ死にざまに直面して周章狼狽しないように、一日また一日と新しい死にざまを考え、その死を死んでみる。新しいのがみつからなければ、今までに経験ずみの死を繰返し思念すればいい。

 毎朝毎朝、じっくりと、自分の死をシミュレートする。だからこの小説の主人公、杢之助は、寝床から出てくる頃にはすでに死人(しびと)なのだ。そのねちっこさに、つい、自分もやってみたくなる。

 これが面白いんだ。キッチリと自分の死を想像すると、後の人生まるもうけという気分になる。「おまえはすでに死んでいる」のだから、今更なんの憂い、なんの辛苦があることか。すべてはあるがままのものとして受け止めることができる。

 この「死が生を支えている」感覚は、自分の死を覚悟するところから始まる。わたしなんざ頭デッカチになってしまい、まだ合理的な判断に拠ろうとしている意地汚さがある。しかし、あの時代のさむらいは、もっと行動よりの思考をしていた。

■ 正しい死に方

 正しい生き方があるのと同様に、武士には「正しい死に方」がある。これは命を投げ出せといっているのではない。無駄に死ぬことは、文字通り「無駄死」「犬死」というからね。よく「死を美化する」とか「見事に死んでみせる」と言われるが、誤解だろう。むしろ「正しい決断のために自分の死をカウントしない」ための方法論なのではないかと。

 たとえば、二つの選択肢がある。成功率が同程度なら、より死ぬ可能性の高いほうを選ぶのが武士なんだ。生きる可能性を考えることは、そこに執着が生まれているから。執着は判断を鈍らせ、斬撃のスピードを鈍らせる。結果、うまくいったとしても、そこに生じた執着を「恥」とみなすのが葉隠の思考様式なんだ。

 死ぬことを待ち構えていることとは違う。常住坐臥、只今の行動に全存在を懸けてしまっているから、生死を越えて恬淡としていられる。だから、「今というときがいざというとき」を常に実装しているのが「さむらい」なんだ。

■ 「葉隠」はLifeHackだ

 ただ、このような思想は太平の世には似つかわしくない。世事に長けた商人のような侍や、典型的な官僚武士も出てくる。リーマン侍、といったやつやね。実際、「葉隠」もファナティックを増長させるようなものではなく、組織のなかでいかに立ち回るべきかといったLifeHackも挙げているし。

 たとえば、「出世は目指すべきか」とか「至高の恋とは」、あるいは「売られた喧嘩は買うべきか」といった、実用的な(?)アドバイスにあふれている。その徹底的なところは、つくづく、人生は準備なんだということを思い知らされる。究極の準備、それは「死ぬ準備」なんだ。

 こうした葉隠思考とLifeHackを蒸留し、三人の武士に注入しているのが本書。おもしろくないワケがない。夢中になって読んでみれ、そして「自分の死」を覚悟してみろ。


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冒険野郎フンボルトと数学王ガウスの物語「世界の測量」

世界の測量 俗物ガウスと堅物フンボルト。ふたりの交錯する人生が面白い。

 れっきとした文芸書なのに、専門書のようなタイトルで損している。史実を織り交ぜながら書き手の自由にフィクションを作り上げている。この立ち位置は、時代小説と一緒。

 ガウスを奇数章、フンボルトに偶数章に重ね合わせ、二人の途方もない人生を描く。もしも「偉人」を等身大の人間として描いたら、傍目には「奇人」に見えるだろうね――その想像ど真ん中どおり、期待を裏切らない。

 まず、ガウスが不憫で不憫でならんかった。

 「数学王に、俺はなる!」とは宣言しなかったものの、彼の生涯で数学に費やされた時間はあまりにも少ない。生まれた時代を完璧に間違えてたね、生活の糧のためにその知性を使わせたのは神の誤算とも人類の失策ともいえる。その一方で、娼家と正妻を行き来し、ヤることと研究を両立させている世知に長けた一面が垣間見えて、非常に興味深い。

 たとえば、新婚初夜の話。突入のまさにその瞬間、惑星起動の計算ミスを修正できる方法を思いつく。ただちに書き留めたいが、新妻の足が巻きついてくくる。ガウスぴーんち!のあたりで、彼のイメージが木っ端ミジン切りされるぞ。知性と性欲、人類にとってどちらも必要不可欠なもの。

 次に、フンボルトがイメージどおりで激しく笑った。

 ほら、あの「フンボルト海流」の力強いイメージ、あのまんまの冒険野郎が熱帯雨林や活火山、大海原を駆け回る。雨・風・暑・寒・蚊・獣・病ものともせず、アマゾン川やアンデス山脈を憑かれたように探検する。使命感に衝き動かされ、精力的に動き回るフンボルトは実はホモ(しかも稚児スキー)なとこも面白い。彼の底なしの好奇心の根っこは、次のとおり。

このあたりから、と案内人が言った。死者の国がはじまるのです。私はここより先には行きませんので。謝礼を二倍にするから一緒に行ってくれないかと打診してみても、ガイドは拒絶した。この場所はよくありません!そもそもこんなところで何を捜す必要があるのですか、人間は光のもとで暮らすべきです。よく言った、とボンプランが大声で言った。
光というのは、フンボルトが叫んだ。明るさではない、知るということなのだ!

 ボンプランはフンボルトの共同研究者。その言動はサンチョ・パンサを彷彿とさせるが、フンボルトの無茶苦茶(だが大真面目)な様子が拍車をかける。そうなんだ、周りが見えない猪突猛進はドン・キホーテそのもの。もちろんフンボルトはキッチリ実績を出しているが、その視線には狂気じみた「世界を知りたい」欲望が見え隠れしている。

 ガウスの章は彼の意外な側面を、フンボルトの章は破天荒な冒険譚を楽しめる。このふたり、これっぽっちも似ていないじゃないかと思いきや、それは違う。ふたりは異なるやり方で世界を測量(はか)ろうとしていたんだ。ふたりとも同じ動機――知への欲望と、世界を理解したい願望――を出発点にし、フンボルトは踏破と収集で、ガウスは数学と抽象化を使ってたどり着こうとしたんだ。

 まるで違う人生を追いかけているうち、同じ思考へたどり着く。ここが本書の醍醐味。

 また、この書き口はとてもユニーク。上に引用したとおり、会話文のかっこ 「 」 がないんだ。原書の発話部分が間接話法だったため、その雰囲気を味わってもらおうと意図的にかっこを廃したそうな。おかげで地の文の描写と内省と会話が入り混じってて、一種独特な混乱を味わえるぞ。

 本書は、金さんさんのコメントで背中を押されて読んだ。金さんさん、ありがとうございます。おっしゃる通り「だまされたと思って」読んで正解でしたな。金さんさんのレビューは、読了『世界の測量』なんだが、後半がネタバレなのでご注意を。

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子どもと一緒に魅入る「ジャーナリスティックな地図」

ジャーナリスティックな地図 成功本をどれだけ読んでも、実行しなきゃ「読まなかった」ことと一緒。

 なので、「ドラゴン桜」を見習って、テレビの傍に地図帳を置いている。でもって、「ここ北京の会場では…」とか、「ドバイからのレポートです」というたびに、子どもと地図帳を開いている。

 これが、結構たのしい。

 グルジアやドバイの地政学的にビミョーな位置を確認しつつ、子どもには「ここは石油がたくさんあるんだよー」とか、「中国ってどれ?」といった地図遊びをする。戦争相手を地図で探せない人が大半という某超大国は、良い反面教師だ。ああはさせまい。

 いま、帝国書院のオーソドックスなやつ(2006年版)と、日本に特化した地図帳の2つ持っているが、面白いものはないかとブックハントで見つけたのが「ジャーナリスティックな地図」。

 現代社会における代表的な問題を「地図」の形で見える化している。問題の複雑性を地図の一覧性・視認性で表現してあり、諸側面を切り捨てるリスクはあるものの、課題の「場所」と「関係」が一目でわかる。

 たとえば、環境問題。石油消費量の多い国は大きく、少ない国は小さく縮尺を変えた「世界地図」だと、米国は破裂しそうなほど膨満する一方で、アフリカ大陸は枯れ木のように見える。あるいは、東京都心のヒートアイランド化を加速しているのは、じつはシオサイトのビル林だということが「見える化」されいて興味深い。

 環境、社会、政治経済、国際、文化のジャンルから、50のテーマが選び抜かれている。

環境

  1. 地球温暖化1(現象編) 地球温暖化によって何が起きるか
  2. 地球温暖化2(対策編) 急がれる地球温暖化防止への取り組み
  3. 北極をめぐる思惑
  4. 変わらない石油への依存
  5. 災害1(地震) 迫る大地震
  6. 災害2(風水害) 大水害の恐怖
  7. 街を熱くするヒートアイランド現象
  8. 積もり積もったごみ問題

社会

  1. 格差社会1(富の偏在) 広がる富の格差
  2. 格差社会2(職の不均等) 職の不均等がつくる格差社会
  3. 格差社会3(医療格差) 広がる医療格差
  4. 課題の多い日本の教育事情
  5. 世相を映す家計
  6. 古き良き時代「昭和」
  7. 引退を控えた団塊世代
  8. 日本人の病気と寿命
  9. 強まる少子高齢化問題
  10. 結婚に見る日本社会
  11. 離婚の背景
  12. 変わりつつある女性と労働
  13. 疲弊する企業戦士
  14. 自殺の背景にあるものは
  15. 広がる死刑制度の廃止
  16. あなたも参加する裁判員制度

政治経済

  1. 年金問題 噴出する年金をめぐる問題
  2. 国政選挙 日本の選挙の現状
  3. 政治的リーダー・国家元首・王室 世界の王室と政治的リーダー
  4. 企業1(日本の中小企業) ものつくり大国日本の中小企業
  5. 企業2(世界企業) 国を超える世界の大企業
  6. 株式市場 連動する世界の株式市場
  7. 通貨・為替 世界の通貨と米ドル
  8. 食問題 世界に頼る日本の食糧
  9. 水産資源 世界で高まる魚人気
  10. タクシーをめぐる規制緩和
  11. 特区でつかむビジネスチャンス
  12. 現実味を帯びてきた消費税アップ

国際

  1. 領土・領海問題 日本の領土・領海問題
  2. 北朝鮮問題 人ごとではない北朝鮮問題
  3. 未来の経済大国BRICs諸国
  4. 急速に発展する中国の光と影
  5. 外国人との共生
  6. 世界を動かすサミット
  7. 国連の可能性と限界
  8. 混迷が続くイラク情勢
  9. 絶えることのない世界の紛争
  10. 世界に展開するアメリカ軍
  11. 火花を散らすアメリカ大統領選挙
  12. 広がる自由貿易協定
  13. 価値が高まる知的財産権

文化娯楽

  1. IT社会 世界と繋がるIT社会
  2. マンガ・アニメ 世界で愛される日本のマンガ・アニメ
  3. アスリートの戦場 オリンピック
  4. サッカーは世界共通言語
  5. 人類の宝 世界遺産
  6. 身近になった海外旅行

 統計図だけ見てても飽きないが、それぞれのコラムやグラフを読み砕いていくと、どんどん興味が広がっていく(数値の妥当性やグラフの"意図"探しといった天邪鬼的な読みになるが…)。もちろん、世界地図、日本地図、統計資料も「いつもの帝国書院」さながら充実しているのがありがたい。

 政経や現社のサブテキストに読みふけった方なら、日を忘れる一冊。

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「こどもをやる気にさせる101の言葉」と「こどもをダメにする130の言葉」

こどもをやる気にさせる101の言葉 高校受験をひかえた子どもに向けたメッセージ集。

 ただし、それに限らないところがミソ。不安を抱いていたり、今のいま落ち込んでいる人も、本書から元気をもらえるかもしれない。むしろ、親であるわたしが勇気をもらっている。

 本書が気に入ったのは、その本質を冒頭にまとめてあるところ。つまり、こんな問いかけで始まっている。

こどものやる気を伸ばすためには、一体、どんな言葉で、どんなことを語りかければいいのでしょうか

 その答えは、とても簡単なものだという。否定語を少なくして、善いところを大げさなくらい誉めろというのだ。そして、欠点やダメだと思うところは目をつぶり、口やかましいと逆効果になることを心得よと。そうすることで、「自分は親に愛されており、周囲の人たちに大切な存在として必要とされている。生きていていいのだ」という自己肯定感をはぐくむことができる。これがない限り「やる気」は育たず、「やらされ感」のままムリヤリ机に向かわされることになる。

 ──と、このあたりまでは、ありきたりの育児書の延長に見えるが、続きがある。今度は大人たちに目を向けてこう述べている。

それにしても、大人たちは、どうして否定語を使ってしまうのでしょうか。わかりますか? それは、こどもを信じられないからです。「こどもを放っておいたら、どうなるかわからない」という不安がつのった結果が、否定の言葉となって、子どもに向けられているのです。その不安は、実は言葉をかける大人自身の不安とつながっています

 ああ、確かにそういう動機が心底にあることを否定できない。子どもに精いっぱい頑張って欲しいと強く望む心の奥に、「自分は全力を出し切って生きてこなかった」という後ろめたい気持ちは、確かにある。

 そういう「親」の気持ちも目配りしつつ、思春期の子どもに向けてどんなメッセージを発していけばいいのか、101の言葉にまとめてある。発信元が塾講師なので、おのずから勉強がらみのものが多い。それでも、先生たちの真剣さと熱が、単なる受験勉強を超えて迫ってくる。子どもに向けて「使う」ためでなく、読んでいるこっちもアツくなってくる。

 前著「子どもを追いつめるお母さんの口癖」とあわせて読むと、一層効果がある。見ているだけでヤル気がみるみるうちにしぼんでくるマイナス言葉のオンパレードだ。うっかり自分が使っていそうなので、反省リストとしても使えるかも(あるいは反面教師リストとして)。

 ベタなやつだが、わたしの心に響いたものをいくつかピックアップしてみよう(いかにもたんぶら向けかも)。

不安を感じないほうが怖いよ。

自分の状況をわかってないか、

無感情になっているかの

どちらかだからね。

でも、あなたは不安を感じた。

だから大丈夫。

 受験前に不安を感じない生徒なんて、滅多にいない。高校なんてどうでもいいと思っているか、自分の状況を把握していない子だけ。不安を感じるのが普通──この「受験」や「高校」をテキトーな言葉に置き換えてみよう。

一生に何度もあることじゃない。

だから、受験を楽しもう。

そして、人生のどんな場面でも

楽しめる人になろうよ。

 よく取沙汰される質問、「どうして勉強しなくちゃいけないの?」についても、納得のいく返事がある。

 たとえば、「将来の役に立つから」とか「人生を充実させるため」といった答えを耳にするが、実際にそんな問いをわが子からされたことがないんだろう。思考実験として屁理屈問答をシミュレートするのは楽しいかもしれないし、賢しらの中坊をやりこめる自説を開陳するのは痛快かもしれない。

 しかし現実は、そんなワイルドカードで答えられない。一般的な「学ぶための"方法"を身に着けている」という回答のほかに、本気で質問してくる子どもに応えてあげられるのは、これだろう。

まず、この質問をしてきたこどもの、将来の夢ややりたいこと、好きなことを聞いてみましょう。もしも、こどもに将来の夢や好きなこと、やりたいことがあるのであれば、それを手助けし、実現するために必要なのが勉強であり、学力なんだと説明できるでしょう。社会では、テストのように一つの正解があるのではないため、それまで培ってきた知識や考える力で、自分なりの答えを出すしかありません。これは、全ての夢に必要な力といえます。
もしも、そのこどもに夢や好きなことがまだないようなときは、それを見つけるサポートをしてあげることが大事です。そうして、こども自身が「自分の夢のために」勉強するという道筋を作っていくのが、一番の答えになるでしょう。

 その他に、「こどもが勉強を『嫌い』だという場合」や、「こどもが『いまは他にやりたいことがある』という場合」のそれぞれの対応がある。「どうして勉強しなくちゃいけないの?」への回答は、子どもの気持ちや状況に応じて変わってくるはず。文字通りケースバイケース、そのときのわが子の興味の方向・素質を鑑みて、一緒になってルーティングするのが適切だろうね。

 そして、適切な答えを言うだけではなく、適切なひとが言うべき。「なりたい自分」「ありたいアタシ」を実現していないような――こころのタマゴにバツがついたままのオトナの口から言われても、「夢? ハァ?」と白けるのがオチだろう。

 つまり、この答えにふさわしい親になれということやね。

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フリーマン・ダイソンの知的な挑発「叛逆としての科学」

叛逆としての科学 一流の物理学者によるブック・レビュー集。

 天才科学者といえば独善的な性格が浮かぶが、フリーマン・ダイソンはおよそかけ離れている。独善的な思想は無用とばかりに、物事の多面性や中庸、相補性を重視する。あまり「科学者」っぽくない。

 「科学に関して、唯一無二のビジョンなどというものはない」とするダイソンは、還元主義の偏見にとらわれた大物――アインシュタインやオッペンハイマー――を容赦なく批判する。統一理論がどれだけ「現実性」を持つのかは、わたしの不勉強のせいでなんともいえないが、その晩年、統一理論に拘泥したアインシュタインの呪いは、よく分かった。

 統一理論のようなもので科学を研究し尽くせない――ダイソンはその理由を、ゲーデルの不完全性定理で説明する(p.198)。ある体系上で、有限の公式を使って演算をする場合に、決定不可能な命題が必ず存在する。すなわち、それらの公式を使って真偽を証明できない数学的な命題が、必ず存在するのだ。つまり、どんなに数多く問題を解いたとしても、既存の公式では解けない問題が、常に存在するのだ。

そこで私は、ゲーデルの定理がある以上、物理学もまた研究し尽くせない、と主張する。物理学の法則は、一組の有限の公式であり、数学的演算の公式もそこに含まれるから、ゲーデルの定理は物理学の法則にもあてはまるのだ。物理学の基本方程式の範囲内でさえ、私たちの知識がつねに不完全であることをゲーデルの定理は意味している

 多様性を認める態度はレビューにもあらわれている。初出は New York Review of Books なのだが、読者からの批判・意見に応じ、本書に収録する際に改変・削除を行っている。反対意見も受け入れるフトコロの大きさに惚れた。幅広い知見やバランス感覚だけでなく、事実に対して率直であろうとする姿勢に好感がもてる。

 しかし、優れた物理学者が必ずしも良きレビューアーであるとは限らない。先端科学がもたらす未来像を、マイケル・クライトンの「プレイ」やネビル・シュート「渚にて」を用いて検証しているのだが、これがいただけない。ストーリーの全てを(オチも含めて)説明しきっているからだ。しかも御丁寧に、殺人ナノマシンの致命的な欠陥を物理学的根拠でもって指摘したり、核戦争による放射能汚染は限定的・局地的なものになる理由を解説したり、未読の方の読む気をくじくようなサービスっぷり。

 この、読み手を挑発するような思考は、本書のあちこちに出てくる。こんな調子で、「良いナチス、悪いナチス」の話や、科学と宗教の位置づけ、テレパシーが科学的に研究できない理由について縦横無尽に語りつくす。賛否はともかく、頭ン中をかき回されている気分になる。

 賛否はともかく、知的に挑発されたい方にオススメ。

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「アブサロム、アブサロム!」はスゴ本

アブサロム、アブサロム どろり濃厚なミステリとして読んだ、2008年のNo.1スゴ本。

 ただし、最近のエンターテインメントに甘やかされた読者には、ちと辛いかも。物語は複数の語り手の視線によってさらされ、吟味されているのだから。ストーリー消化率を向上させるための「何でも知ってる説明役」は一切ない。たとえ三人称であってもだまされるなかれ。聞き手の内省であったり対話(!)だったりするのだから。

 本書を「難解」呼ばわりする人は、「結局ナニがどうなったの?」を把握することこそが、小説を読むことだと思い込んでいる。傑作を「あらすじ」で読んだつもりにしたいのなら、p.439の「年譜」を見るといい。著者フォークナーによって、いつ、誰が、何したかが時系列になっているから(この3ページで読んだフリできるぜ)。ただし、これは完全なネタバレ。恐ろしい出来事、おぞましい運命が淡々と書かれているのがまた怖い。人物系譜も巻末にあるが、これも激しくネタバレ。

 しかし、「ナニがどうなった」が分かっても、謎のまま残されるものがある。書き手が巧妙に隠したもの、それは、「なぜ?」だ。なぜ彼は殺されたのか? なぜ悪魔ごとく恐れられたのか? そもそも、すべての発端となる巨大な荘園を、一体なぜ築こうとしたのか? それぞれの「なぜ?」に対し、語り手たちは独自の解釈を与える。これまた三人称で書いてあっても真実ではない(だまされるなかれ)。

 この「なぜ?」を読み解くことが、小説の醍醐味だろう。入れ子状になった語り手と、語り手自身が別の語り辺のなかで登場人物として動き回っているので、誰が、何の話をしているのかが入り乱れてくる。ちょっとこの「一文」をみてほしい。

だからおそらく彼はあの黄昏どきにあの庭をジューディスと散歩していたとき、慇懃に優雅にうわのそらで彼女と話しながら(ジューディスはあの夏初めてキスされたときのことを思い出して<これでおしまいだわ。恋なんてこれだけのことなんだわ>と思いながら、またしても失望にうちひしがれたが、それでもまだ屈服してはいなかった)彼は待っていたのだ(彼はサトペンが戻ってきて家にいることを知っていた。おそらく彼はなにやら風のような、暗い冷たいそよぎを感じて立ちどまり、<なんだ? あれはなんだ?>と思いながら真顔になってじっと油断なくかまえたことだろうが、そのとき知ったのだ、サトペンが屋敷へ入るのを感じたのだ。そこで彼はいままでとめていた息を、静かに、ほっとして深々と吐きだしたことだろう。彼の心も平静だったことだろう)──おそらく彼はそのときあそこで待っていたのだ。
 むきーっ、長いよね。「彼」ってどの彼だよっと言いたくなるよね。長いし分かりにくいけれど、これで一文。でもって、構成はこんな感じ…

   (´-`) .。oO( (´-`).。oO((´-`)) (´-`) )Oo。. (´-`)
   シュリーヴ     ボン     サトペン ジューディス   クウェンティン

  1. 地の文はシュリーヴとクウェンティンの会話(この文の外側の入れ子)
  2. 地の文で、シュリーヴ→クウェンティンに「語って」いるところだけれど、クウェンティンも知ってる話。つまり、ふたりで一つの話を「思い出している」のがホント(ただし、二人ともその場に居合わせていない。二人が生まれる前の話を、思い出している)
  3. 語りの舞台にいるのはボンとジューディス。でもボンは上の空(サトペンのことを考えている)。ジューディスも「恋ってこんなもんか」と失望していながらも、彼と歩をあわせている
  4. 語りの舞台の外から、この光景を見ている人物がいる。サトペン、ローザ、そしてヘンリーだ。それぞれの独白・告白・伝聞にて、この光景がは各人の立場で語られるが、どの「説明」も正しい
 しかも、同じ描写、同じシーンが、微妙に異なる言葉・視点でくりかえし述べられている。ジグソーパズルを外側から埋めていくように、行きつ戻りつ文字通り「繰言」がくりかえされるのだ。

 さらに、先ほどまで聞き手だった者が、次は語り手となって地の文に参入してくる。過去へ過去へと遡るうちに、反対に過去が追いかけてくる気になってくる。複数の語り手のそれぞれの声・口調がポリフォニックに聴こえるかもしれないが、その言い回しがだんだん一様になってくる。時と場を超えて、みなの語りが「似てくる」のだ(おそらく意図的)。そのため、一族の歴史を物語としてくりかえし聞かされているかのような錯覚に陥る。

 あたかも、真っ暗な舞台を見ていて、語り手がそれぞれ別々のライトを手にしているかのようだ。ここぞという場面でライトを照らす。語り手はライトを手にしながら、舞台で起きていることを説明する。時がたち、語り終えた者はライトを消して舞台に上がり、別の語り手のライトに照らされる。

 このとき、舞台を見、語りを聞いているのは「あなた」でもなく、「ワトソン君」のような客観者でもない。話者は聞き手になり、聞き手は話者になる。この入れ替わりは、ドストエフスキーの「話の運び手」に一斉に向かうポリフォニーとはずいぶん違う。

 あるいは、ひとつの出来事がそれぞれの思惑により異なる様相を持つトコなんて、芥川の「藪の中」を思い出す人がいるかもしれない。ただ、「藪の中」は各人の都合のいいように事実が解釈されているのと異なり、「アブサロム」は、それぞれの解釈が起きたことを成り立たせている。つまり、動機――「なぜ?」の部分を除けば、登場人物たちがとらえた世界は矛盾も相反もしていない。その結果、わかり合えないことによる悲劇への墜落エネルギーはとてつもないものになる。

 じゃぁどうすれば混乱せずにすむんだよ、という方は、この小説の中心人物、サトペンだけに注目すればよろし。多声的に述べられてはいるものの、最大の主人公サトペン自身が語られていないところがミソ。まるでその周りだけを詳細に記すことで浮かび上がらせるかのように描かれている。後半、サトペン自身の告白を耳にすることができるが、彼の行動の裏側を支えていたものを知って、愕然とするだろう。そして、彼が決して口にしなかった無念――こんなはずじゃ、なかった――を、あなたは代わりに呟いているに違いない。

 物語そのものが語りだす声を訊くべし、2008年のNo.1スゴ本は、これだ。


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腰痛もちは靴を疑え

 わたしには劇的な効果があった。お試しあれ。

 不惑が気になるお年頃から、慢性的な腰痛に悩まされてきた。もう若くないからかなぁ、と腰痛体操(Cat-Cow Stretch)やへんてこヨガ(Wii-Fit)を試してきた(若干効果あり)。カバンの軽量化や椅子の調整、座り方・歩き方、はたまた体位まで気を配ってみた(効果なし)。医者に相談したら「運動不足です」と断言され、腹筋と背筋を鍛えてみたり(効果なし)。もうすっかりあきらめていた…先週、ある靴屋を訪れるまでは。

 八重洲ブックセンターからの帰り途のことだ。、突然、靴がヘタっていることを思い出して、たまたま目に付いた靴屋に飛び込んだ。とはいうものの、偶然じゃなかったのかもしれぬ。八重洲地下街にはいくつか靴屋があって、うろうろと見て回ったのだけれども、どこも閑古鳥が鳴いている。その中でひとつだけ、先客がいる店があったので、これも縁だとそこに決めた。先客はギラギラしたオヤジで、ニヤニヤしながら去っていった。

 てきとうな靴(25.5)を履いたところ、やはりというか、かかとにスキ間が入る。もう夕方で、しかも一日中歩き回っているのに。わたしが靴を選ぶときは、いつもこうだ。このスキ間は、靴が大きすぎる証拠――と、小さいサイズを選ぶと、今度は横幅がキツくなる。ワンサイズ落としてみようかと、店主にお願いする。

 ベストとタイでキメているおっさん店主は、小サイズを持ってきた後、靴を脱いでみろという。そして、足の長さと甲の高さを測った後、どこからかせんべいのようなものを取り出した。インソールをめくって、せんべいを突っ込んで、インソールを仕舞う。そして、履いてみろという。

 最初、何が起こったのかわからなかった。

 劇的だったね。まさにジャスト・フィット。靴なら山ほど履いてきたけど、ここまでの「ぴったり感」は、初。ぴったりといっても、キツくないんだ。喰いちぎられそうな処女の窮屈さではなく、一人産んだくらいの、しっぽりみっちり締め上げるような感覚。足を靴に突っ込んでいるというよりも、足と靴が一体化しているようだ。

 店主曰く、わたしの足の甲はちょっと低い。だから足の「長さ」に合った靴でもスキ間ができ、歩くときは靴の中で足が動いてしまうことになる。サイズを小さくすると、横幅がキツくなり、インソールを入れると、足がしっかり入らなくなる(ふつうのインソールは、足裏全体だから)。対処は、ヒモで甲を縛るタイプにする(わたしが履いてきた紐靴は正解だって)。そして、キツめの革を頑張って履いて足に合わせるしかないという。

 それが、このせんべい(ハーフインソール)を入れることで、問題解決。この店に履いてきた靴にも入れてもらったら、これまたぴったりに。これは感動もの。ちなみにこのせんべい、販促用で非売品だそうな。

 それでもジャスト自分サイズの良い靴を手に入れることができ、ニヤニヤしながら店を辞した――のが先週の話。驚いたことに、あれほど悩ませてきた腰痛がピタリとなくなったのだ。着地のときのダメージが腰にキていたんだろう。腰痛にお悩みの方は、靴を見直してみると、いいことがあるかも。

 天外魔境でもTactics Ogreでも履物は大事。agilityが違ってくるからね。「サイズが一緒ならみんな一緒」と思っていたわたしが不勉強だったことが、よーく分かった。そして、わたしよりも自分の足のことに詳しい人に任せるほうが、良い結果が得られることも。餅は餅屋、靴は靴屋だね。

 靴ひとつ買うのに徹底的にコンサルティング&おもてなししてくれた店主に、すっかりほれ込んでしまった。よく「感動を売る店」というキャッチがあるが、感動は売っているわけではない。客がひとりで(勝手に)感動するのが真実なんだろう。

 次もここで買おう、というか、これから靴はここで買おう。

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放浪の天才数学者エルデシュ

放浪の天才数学者エルデシュ 天才はどこか浮世離れしているとはいうものの、エルデシュは群を抜いている。

 しかも、その奇行っぷりは数学者の育成に大きく貢献しているときたもんだ。驚異的な言動を追いかけているうちに、エルデシュとは、異世界から地球にちょっと立ち寄った人っぽい「現象」だったのではないかと思えてくる。まるで、数学の進歩を促しにきたかのように。

 もちろん、3歳で数学と出会い、自力で負の数を見つけだしたとか、論文数が史上2番目に多いとか(1位はレオンハルト・オイラー)、ほとんど眠らず、1日に19時間も問題を解く毎日だったとか、どのページを開いても桁違いの話ばかりだ。読み手は、驚いたり笑ったり、ちょっとホロリときたり、かなり忙しいだろう。

 けれども、一番心うごかされたのは、エルデシュのスタイルだ。彼は「みんなで」問題を解こうとした。世界中に散らばった数学仲間と、同時進行でたくさんの問題に取り組む。粗末なスーツケースひとつで四大陸を驚異的なスピードで飛びかい、大学や研究センターを次々と移動して回った。知り合いの数学者の家の戸口に忽然と現れ、こう宣言する。

    「わしの頭は営業中だ、君の頭は営業中かね?」

で、その数学者の家にころがりこんで、一緒に問題を解く。その数学者が音を上げるか、エルデシュが飽きるまでひたすら問題を解き続け、その後、次の家へ向かうといった按配。

 彼と共同研究した人は莫大な数になり、ユーモアと尊敬をこめて「エルデシュ数」が作られたぐらいだ。つまり、エルデシュと共著を出した研究者はエルデシュ数1とし、エルデシュ数が1の研究者と共著を出した人はエルデシュ数2となり…といったぐあいだ。wikipediaによると、エルデシュ数が1の研究者は511人にのぼるという。

エルデシュはただ適切な問題を出すだけではない。ちゃんと適切な人物に向けて出すんだ。かれは、きみが自分にどれほどの能力があるかを知る以上にきみを知っているんだ。どれほどたくさんの人たちが、エルデシュの問題を解くことから研究の道に入ったことか。かれは数学者としてスタートを切るぼくたちの多くに必要な自身を与えてくれたんだ
 そのために、生涯のすべてを数学に捧げた。数学のために最大限の時間を割けるよう生活を作りあげていた。かれを縛る妻も子も、職務も、家さえ持たなかった。エルデシュが作った「エルデシュ語」によると、女とは「ボス」、男は「奴隷」であり、結婚は「捕獲された」になる。

 エルデシュの軌跡は数学の歴史と重なっている。アインシュタインやラマヌジャン、ゲーデルとのかかわりを読み解いていくと、彼の生涯を追っているのか、超人を次々と紹介されているのか、わからなくなってくる。

 著者も心得たもので、要所要所に数学にまつわる偉人や、面白い命題・エピソードをちりばめてくる。最も美しいオイラーの公式や、モンティ・ホールのジレンマ、あるいは単位分数ネタを興味深く読んだ。

 なかでも面白かったのが、素数のふるまいについて。エルデシュが貢献した素数定理の話も出てくるのだが、大丈夫、難しい式は一切ない。むしろ、数一般で興味深いふるまいをしているものに着目すると、何かの形で素数とつながってくるところが可笑しい。神様のイタズラに見えてくる。

 そして、神様の皮肉とも取れるのだが、素数の有用性について。古来、数学者たちは数学が実社会に「役立たない」ことに誇りを抱いてきたという。

ユークリッドは素数を調べていたとき、それがギリシャ人の生活に全く役立たないことを誇りにしていた。G.H.ハーディも自らの無益さを吐露している。「わたしはなにひとつ『有用』なことはしてこなかった」かれは弁明ではなく、公然と言い放った。「わたしの発見は直接的にしろ間接的にしろ、善きにつけ悪しきにつけ、世界の快適さにいささかの変化ももたらさなかったし、今後ももたらすとは思えない」
 このハーディは強硬な反戦論者で、自分の専門分野である数論が決して軍事利用に転用されないことを誇らしげに語ったといわれている…が、その素数あってこそ、今の暗号化技術があることを思うと、フクザツな気分になる。2,300年間有用性を見出せなかった素数が、軍事をはじめ民間でも無くてはならない「鍵」としてごしごし使われているのだから。

 エルデシュその人の伝説だけでなく、こうした挿話のおかげで、わたしにも数学の素晴らしさを感じ取ることができる。エルデシュ自身は数学の美しさをこう語っている。

「それはなぜベートーベンの交響曲第九が美しいのかと尋ねるようなものだ。なぜかがわからない人に、他の人がその美しさを説明することはできない。数が美しいことをわしは知っている。数が美しくなかったら、美しいものなど、この世にはない」
 数学をひたすら愛した天才の、たぐいまれなる人生がここにある。「放浪の天才数学者エルデシュ」の原題がすべてを物語っている。

     "The man who loved only numbers"

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アフリカは"かわいそう"なのか? 「アフリカ 苦悩する大陸」

アフリカ苦悩する大陸 「なぜ、アフリカは貧しいのか?」あるいは、「どうすれば、アフリカは貧困から脱出できるのか?」に具体的に応える一冊。

 内戦・旱魃・伝染病、アフリカの貧困を訴える慈善団体は、その理由に事欠かない。死に瀕している幼児の映像は本物だが、莫大な募金や政府開発援助がそこまでたどり着かないことも事実。

 最貧困層のためにあるはずの援助の実態は違っており、「援助とは富裕国の貧困層から、貧困国の富裕層への富の移転にすぎない」という皮肉は、残念ながらあたっているという。ではどこへ?

わかりやすく言えば、高級ホテルで行う会議や、議員先生たちのワシントンへの出張旅費、それに外国人の援助スタッフを連れまわすためのランドクルーザーの購入費に、援助資金の多くが費やされているのである。
 ニューヨーク支所の高額なテナント料を払うために、栄養失調幼児をプロパガンダする「慈善団体」があることは知っていたが、腐敗した国の権力者も同様のようだ。キレイ事をいう実力者たちの思惑をよそに、大いなる欺瞞が明かされている。

 「なぜ、アフリカは貧しいままなのか?」の理由に教科書どおりに答えるならば、植民地時代からの搾取、不安定な政府、内戦や伝染病、人種差別、部族主義や呪術主義、インフラや教育の欠如からHIV/AIDSの跋扈――と枚挙に暇がない。

 著者はこの質問に明快に答える。すなわち、政府が無能で腐敗しているからだという。私腹を肥やす権力者、国民から強奪する警察官、堂々とわいろを要求する官僚――これら腐りきった連中がアフリカを食い物にし、援助や支援が吸い取られる。資源に恵まれた国であっても同様だ。奪い合い→内戦化→国土の荒廃を招くか、あるいは、外資が採掘場所を徹底的に押さえ、オイルダラーが国民まで行き渡らない構造になっているという。

 ただし、「アフリカ」と丸めて言ってしまったら誤りだ。うまくいっている国もあれば、失敗国家もあるのだから。著者もよく理解しており、「海外からの援助はボツワナを貧困から救い出し、ザンビアでは浪費された。この違いはなんだろうか?」 と自問する。猖獗をきわめるエイズ禍を食い止めたウガンダの場合と、手遅れとなりつつある南アフリカの事例を比較する。

 この比較論が興味深いのだが、その違いも全て、「為政者に恵まれていたか否か」によるという。腐敗した政治家が国家を疲弊させているいっぽうで、貧困から脱出した国は、堅実な財政と誠実な為政者、自由経済に恵まれていたのだと。

 この一刀両断っぷりに疑問を感じる。

 もちろん、この著者はジャーナリストとして7年間にわたりアフリカ各地で取材活動を行っている専門家で、「エコノミスト」のアフリカ担当編集長だ。実際に話を聞いたところからくる生々しさは、本書の醍醐味だろう。見殺しにされたルワンダの虐殺や、無造作にAKを扱う子ども兵など、個々の例は事実だろう。そして、援助を横領し、天然資源を独り占めする大統領がいる国の先行きは、非常に暗いものになるだろう。

 しかし、そんな為政者がいつまでも権力の座にいるのだろうか? っつーか、クリーンな為政者って鐘や太鼓で探してもいないんじゃないの? と思えてくる。無能な政府は隠れ蓑として白人による搾取を強調するが、たとえそれが誇張しすぎだとしても、あまりに低く評価しすぎいないか、と思えてくる。

 たとえば、内戦を描写する際、迫撃砲や武装ヘリで交戦した旨が記されているが、アフリカではトマホークやアパッチは生産していない。もちろん「輸入」しているはずなのだが、そこに介在するはずの武器商人や企業マフィア、戦争請負会社の存在が全く記述されていない。内戦を合法的に食い物にしている企業に触れないところを見ると、知らないはずはないのに…と勘ぐりたくなる。

 おそらく、「アフリカ」とひとくくりで語ろうとするには無理があるのだろう。「コンゴ・ジャーニー」とか「アフリカの日々」でしか知らないわたしには、本書は荷が重すぎるのかもしれない。ただ、キレイに「これが全ての原因だ」と断言されると、疑いたくなるもの。ラストの「被害者意識を脱ぎ捨てる」あたりに、著者のホンネ(?)のようなものが垣間見える。

アフリカでは、過去および現在の問題はほとんどどれも外国人のせいだと決め付けていることが多く、おかげで一種独特な無力感にとりつかれている。実際、外国人を責めるべき問題も確かにある。アフリカの人びとは植民地時代に辛酸をなめさせられた。だから当時の仕打ちに怨みを抱くのも当然だろう。しかし世界のほかの地域でも、歴史的な怨みを抱きつづけているが、必ずしも国の成長を阻んではいない。

外国人相手に不満をぶちまければ、気分はすっきりするかもしれないが、それ以外の効果はあまり期待できない。白人どもを猛然と糾弾するのが得意だからといって、その政治家が予算を均衡させ、下水道を整備できるとは限らない。むしろ逆の場合が多い――ダメな支配者たちは往々にして国粋主義を隠れ蓑にして、みずからの失敗から国民の目を逸らそうとするものなのだ。
 おそらく事実の一面だろうが、実際に貧困にあえいでいる人からは、反論必至だろう。あたりまえなのだが「先進国の白人の視線」がそこここにあり、いちいち引っかかる。貧困から脱出するため、「不動産の共有制から私有制への変革」や「完全自由貿易の推進」といった、わかりやすい処方箋が罠のように見えるのは、わたしの勉強不足によるからだろうか。そのうち山形浩生さんが中央公論あたりでバッサリとレビューするだろう。

 ワクワクテカテカしつつ待っていよう。

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死を忘れないための3冊+

 いずれ死ぬときを思い浮かべて、いまを生きる。これがむずかしい。

 「死を忘れるな」と思い刻んだつもりでも、毎日に追われていると、この日が尽きることを忘れる。本は買っただけで満足し、欲しいモノを追い求め、毎日あくせくしている割には充実からは遠い。いつか来る「死」からは目を背ける――わたしのことだ。

 "Memento mori" は、「死を忘れるなかれ」と訳されるが、LifeHack的に言い代えるなら、「未来の死を思い起こす仕組みをつくり、定期的にくりかえせ」だね。そんな場合に効いてくる本と映画をご紹介。余命を自覚した人からのメッセージは、文字通り最後のレッスンとなる。定期的にこのレッスンを受けることで、自分の死を、翻っては生を意識することができる。

  1時限目 「最後の授業 ぼくの命があるうちに」
  2時限目 「モリー先生との火曜日」
  3時限目 「冷蔵庫のうえの人生」
  課外授業 「死ぬまでにしたい10のこと」

 この授業の効果は、自分が死ぬ日を想像し、そこから遡って今があると思えるところ。上手く頭をはたらかせると、こんな風に自分をだませる。

    わたしの人生はもう終わろうとしていた。
    命が尽きる瞬間、天使か悪魔があらわれて、こう告げる。
    「まだ生きたいのか? ならばちょっと戻してやろう」
    そして、時間を巻き戻してもらう。どれくらい? さあ?
    猶予をもらった代償として、そこまでの記憶は失われる。
    薄れゆく意識の中で、天使か悪魔の、この言葉だけが残る。
    「やりなおすんだ、今を」

――で、気づいたら今だった。さぁ、死ぬまでにしたいリストをアップデートしよう。家族や友人と笑おう。うまいメシを食おう。濃いセックスに励もう。たっぷり眠ってガンガン仕事・勉強しよう――という能動夢(自力で見る夢)。これらの本(と映画)は、そんな想像を働かせるのに役立つ。

最後の授業■ 1時限目 「最後の授業 ぼくの命があるうちに」

 2007年9月18日にカーネギーメロン大学で行われた講義を本にしたもの。なぜ「最後の授業」なのかというと、講演したランディ・パウシュ教授は不治の病に侵されていたから。すい臓ガン。46歳。あと3カ月から半年。

 この講義はYoutubeでも視聴できるのだが、目を惹くのは超がつくほどポジティブなところ。この運命を呪ったこともあるだろうし、夫婦で泣き明かした夜もあっただろう。それでも、前向きに時間を使っていこうという姿勢が文章にも動画にも表れている。ラインホルト・ニーバーだっけ?

   神よ――
   変えられないものを受け入れる冷静さと、
   変えられるものを変えていく勇気と、
   この二つを見分ける叡智を、どうかお与えください

 この祈りの文句は目にするけれど、実践しているのはパウシュ教授だ。変えられない体を受け入れ、自分は何者であるかを鑑み、残り時間を考えながら、するべきことをした。夢を語り、それをどのようにかなえていったかを、ユーモアたっぷりに紹介する。そして、これから夢をかなえようとしている読者・聴衆へ、人生をどう生きるかをアドバイスする。

 面白かったのは「頭のフェイント(head fake)」というやつ。「学んでいる途中は理解できないが、後になって分かることを教えること」だそうな。この授業そのものが頭のフェイントであることを伝えたかったのだろう。

 だから、病気のことが講義で触れられなかった理由を考えたり、本書の前日談・後日談で補ったりすることで、視聴者・読者は気づくはずだ。これは、本とYoutubeによる「遺書」なのだろう(訳者あとがきでは否定されているが)。少なくとも、生者への、特に家族へのラスト・メッセージであることにはまちがいない。映画「マイ・ライフ」のようなプライベートなものではない。その映像が沢山の人びとに見られることを知った上で、教壇に立ったのだから。彼の「頭のフェイント」は本とYoutube動画の両方で完成する。

 本書を読んで心に刻んだこと――子どもを撮るときは、わたしも一緒に写りこまないと(自分撮りというやつ)。普通とーちゃんはカメラマン役なので、写っているものは子どもと嫁さんだけ。明日トラックにはねられたら、残る映像のほとんどに、わたしはいない。もし治らない病気になったら、「闘病するとーちゃん and 子ども」という映像になる(顔は笑っているだろうがな)。だから、いま、幸せだと感じられる顔で、子どもと一緒に写りこんでやれ、と強く刻んでおく。

 余談だが、「頭のフェイント」について。映画「ベスト・キッド」(The Karate Kid)を思い出して独りニンマリした。入門者の少年に空手の達人は、まずペンキ塗りをやらせる。刷毛の動きが手刀の練習になっていたというオチなんだが… 古いな(1984公開)。

 本書はマインドマップ的読書感想文の smooth さんからのオススメ。おかげで素晴らしい本に出合えました、ありがとうございます。

モリー先生との火曜日■ 2時限目 「モリー先生との火曜日」

 泣いた。DVDも号泣するだろう。

――16年ぶりに再会したモリー先生は、ALSに侵されていた。ALSは、筋萎縮性側索硬化症といい、だんだん体の自由が利かなくなる不治の病。ただし、精神は目覚めたままで、ぐにゃぐにゃになる肉体の中に閉じ込められる。

 そんなモリー先生は幸せそうに見える。動かなくなった体で人とふれあうことを楽しんでいる。「憐れむより、君が抱えている問題を話してくれないか」と、火曜日をあけてくれた。先生は死を人生最後のプロジェクトに据え、死の床で毎週授業が行われる。テーマは「人生の意味」について。

  1. 自分をあわれむこと
  2. 後悔について
  3. 死について
  4. 家族について
  5. 感情について
  6. 老いの恐怖について
  7. 金について
  8. 愛について
  9. 結婚について
  10. 許しについて
 面白いのは、生徒役となる著者の心境が変わっていくところ。売れっ子ライターで仕事の鬼で、拝金主義・物質主義だったのが、だんだんと別人になっていく。この変化が非常に上手く表現されている。

 そもそも、16年ぶりに恩師と会おうとしたのも、ライターとしての下心が混じっている。最初は「インタビュー」するつもりだったのが、人生の授業となり、逆に相談を持ちかけるようになる。はじめは、O・J・シンプソン事件をはじめとするワイドショーネタが背景に挿入されるが、回を追うごとに鳴りを潜めていく。そんなゴシップに振り回される自分に気づいたことを、「書かない」ことであらわしている。

 最近のわたしにシンクロしているのが、「欲しいものと必要なもの」の話。食料は必要なものだが、チョコレートサンデーは欲しいもの。ああ、よく子どもとこの話をするよ。ポケモンカードは欲しいものだが、図書カードは必要なもの。そう考えると、わたしの携帯電話は必需品かもしれないが、iPhoneは欲しいものになるね。

 先生曰く、「この国には欲しいものと必要なものが、ごっちゃになってしまっている」。人々が新しいものをがつがつと買いたがるのは、「愛に飢えているから」だと。そして、欲しいものから本当の満足は得られないと断言する。ほんとうに満足を与えてくれるもの、それは「自分が人にあげられるものを提供すること」だという。銭金ではなく、自分の時間やちょっとした心づかい、気くばり──を提供し、愛を外へ出すことで、本当の満足を得ることができるのだと。

 もちろんわたしの命も制限時間があるのだが、自覚的に「使っている」感覚はない。余命○ヶ月になると、自分を欺いているのが分かるのだろうか? それとも、それすら目を背け、モノにまみれて死んでいくのだろうか?

 もう一つ、ありがたかったのは、「許さなければいけないのは、人のことだけじゃない。自分もだ」というメッセージ。死に瀕するとき、やらなかったこと全てについて、やるべきなのにやらなかったこと全てについて、わたしは、強烈に痛切に後悔するだろう。どうしてこんな体になるまでやらなかったのかと。嫁・子どもの将来、残された仕事、読んでない本、行ってない場所、やりたかったこと──Todoリストにはできあがってもいないのに!ってね。

 余命○ヶ月か、数秒かは分からないが、そのことをいつまでもくよくよ悔やんでも始まらないという。そんな状態になったら、後悔しても何にもならない。「もっと○○すればよかった」と思うことは、自分を痛めつけることになる。そんなことをしても無駄だ。仲直りするんだ、自分と。それから周囲の人すべてと仲直りする──それが、残された時間を意味のあるものにする。

自分を許せ、人を許せ。待ってはいられないよ。誰もが私みたいに時間があるわけじゃない。私みたいにしあわせなわけじゃない

 この本はやまざきの「あせらず、くさらず、一歩づつ」のやまざきさんからオススメいただきました。素晴らしい本を教えていただき、ありがとうございます。わたしの余命が確定したとき、本を読む時間が残されているのなら、もう一度手にしたいです。

冷蔵庫のうえの人生■ 3時限目 「冷蔵庫のうえの人生」

 自分の死が確定したとき、どう感じるだろう? そして、どう行動するだろう?

 いまのままの日常を守ろうとするか、重荷にならないように明るく強気に振舞うか。死は、自分をつかまえにくるものだが、周りの──特に家族の上には、降りかかってくるものだということが分かる。

 本書がスゴいのは、全編「メモ」でつづられていること。変わった形式の小説なら、日記小説や書簡小説、最近ならケータイ小説が挙げられるが、「メモ小説」というのが珍しい。冷蔵庫の上に貼り付けられた、母と娘のやりとりを記すメモ。

 このメモのおかげで、断片化された日常から母娘の感情を豊かに想像することができる。ボーイフレンドのことでささいな諍いをする毎日が、母の病で一変する。

 話そうか、話すまいか、母の葛藤がつたわってくる。たかが冷蔵庫のメモなのに、自分の病気のことを娘に伝えるのに躊躇する姿が見える。すれ違いがちの、めまぐるしい日常、それがあまりにも愛しく、最後まで黙ってたほうがいいんじゃないのか、という思いが透ける。エゴなのか優しさなのか、それは読み手にゆだねられている。

 すれ違っていたふたりが、しっかりと結び付けられる。冷蔵庫の上で、ふたりの気持ちがつながっている。

あんなに長い間放っておかないで、すぐに病院で診てもらっていたらこんなことにはならなかった。最初の小さなしこりを見つけたときすぐに診察を受けていたら、こんなひどいことにはならなかったかもしれない。

もっと自分の体に責任を持てばよかった。

いい母親だったら、きっとそうしていたでしょう。


 自分を責める母は、医者でもある。娘の返事は、こらえることができなかった。独りで読んでてよかった。

「いい母親」なんかほしくない

わたしはお母さんの子でよかった


 かけがえのない時間が「日常」という名のもとに過ぎ去ってしまったことに気づいたとき、どう感じるか。残された時間を精いっぱい生き抜こうと、何をするのか、冷蔵庫のメモを通じてわたしも一緒に考える。「やりたかったことリスト」を見ると、「やりたいリストは、いま、ここで、書く!」と強く思う。30分で読めて一生残る気持ちを植え付けられる。

死ぬまでにしたい10のこと■ 課外授業 「死ぬまでにしたい10のこと」

 課外授業は映画で行こう。「死期を覚ることで、生きる意味を見出す」ことがテーマ。

 このテーマは山ほどあるのだが、マイケル・キートン主演「マイ・ライフ」や、黒澤明監督「生きる」あたりが有名どころかと。ただし、前者は涙腺破壊モノで、特に父親やってる人はタオル必須だし、後者はクロサワ視線が強すぎて気楽に観れない。

 そんな中で、わたしは「死ぬまでにしたい10のこと」を推す。ストーリーはこんな感じ――カナダ、バンクーバー。娘2人と失業中の夫と暮らすアンは、23歳という若さで、がんで余命2か月と宣告される。彼女は、この事実を誰にも告げないと決めて、「死ぬまでにしたい10のこと」をノートに書き出す。そして、一つずつ実行していく。

   THINGS TO DO BEFORE I DIE

   1. Tell my daughters I love them several times a day.
   2. Find Don a new wife who the girls like.
   3. Record birthday messages for the girls every year until they're 18.
   4. Go to whale bay Beach together and have a big picnic.
   5. Smoke and drink as much as I want.
   6. Say what I'm thinking.
   7. Make love with other men to see what it is like.
   8. Make someone Fall in love with me.
   9. Go and see Dad in Jail.
   10 .Get some else nails.
   (and do something with my hair)

 何回観ても泣けるのが、リストNo.3(娘が18歳になるまでの毎年分のバースディメッセージを記録する)なんだ。貧乏だからビデオカメラがないのよ。だから、カセットテープに「声」を吹き込んで、タイムカプセルに封印するかのような遺しかたをするのよ。そして、原題が"My Life without me"であることを思い出して、彼女がやってきている全てがそこに向かっていることに気づいて、もう一度泣く。

 ホントは、「泣ける」とか「感動」なんて要らないんよ。感動するためではなく、死を目前にした彼女の行動を通じて、自分の死を思い起こすために観るんだ。初見はもちろん泣いたが、二回目、三回目のときには、淡々と「自分の死」に置き換えることができた。

 というのも、映画に上手い仕掛けが施してある。ナレーションで彼女が自分自身を指して、「あなた」(you)と呼ぶんだけど、観ている当人に向けられた"you"と聞こえるんだ。まるでわたしに呼びかけているようで、わたしの余命が、あとわずかな気がしてくる。

 この仕掛けのおかげで、見る度に自分の「死ぬまでのTODOリスト」を更新したくなる。「自分の死を思い起こす仕組みをつくり、定期的にくりかえす」――映画や本は、そのための良いツールだと思う。

 あるいは、箴言のような短い言葉で確認することもできる。ガンジーとジョブズはいいことを言っているぞ。

Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever.
Mahatma Gandhi

If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?
Steve Jobs
 前者は、「明日死ぬつもりで生きなさい、永遠に生きるつもりで学びなさい」、後者は、「もし、今日が人生最後の日だとしたら、それでも予定通りの一日を過ごすのか?」と訳されているが、ジョブズの続きがイカしている。
And whenever the answer has been "No" for too many days in a row, I know I need to change something.
 「ずっと『ノー』ばかりの毎日なら、変える潮時だと分かるんだ」ってね。死を自覚的に取り込んで、日々を自覚的に過ごす、あるいは変える。その日のまえに、その日のために生きていくんだ。

 人生が有限であることを、忘れないように。

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この写真がすごい2008

この写真がすごい2008 これはスゴい。写真のちからというものを、あらためて思い知らされる。

 どんな「ちから」かというと、わたしの発想を引っ張りだすチカラだ。ふつうでない角度からアイディアをひき出すちから、意図しない深さまで考え込ませるちからだ。

 例えばこうだ。文の意味というものは、文脈にのっとってたちあらわれる。だから、文脈から切り離された文は、意図しない威力を発揮する。その前後はどんな内容なのかを想像したり、なぜこんな文を切り取ったのかと不審がったり。tumblr を漂う文は、それ自体で輝きを持つ。

 写真も同様。エロや猫写真はともかく、tumblr を漂う画像は、ひとクセもふたクセもある。キャプションやURLから切り離されて、それ自体でわたしの価値観を試しにくる。何が写っているかによって、どういう意図でシャッターが押されたのかを想像するのだ。説明なしで写真に相対するとき、いつもより考えている。

 そこには、写っているものだけでなく、写した奴の「意図」を汲み取ろうという努力が、余計にかかる。どうやったらこんなシーンが撮れるのだろうかと考え込んだり、どういうつもりでシャッターを押したんだろうかと思い悩んだり。あるいは、写っている奴と写した奴の意図のズレ(こんなん撮るなよ vs. シャッターチャンス!)を想像するのも愉快だ。

 その結果、説明文つきの写真よりも、違う頭の使い方をしていることに気づく。バックグラウンドなしでつきつけられる写真が喚起する発想が、撮影者の意図を突き抜けることもある。

 本書は、プロ、アマチュア、媒体に関係なく、編者の大竹昭子氏が「すごい」と感じた写真が並んでいる。それぞれの写真に、彼女のコメントが付与されているだけで、一見しただけでは誰がどんな意図で撮ったのか全くわからない(撮影情報は巻末にまとめてある)。

 どんな写真か分からないって? 写真を文章で表現しても、わたしの拙さが目立つだけだから、編者のコメントを一つ引用してみよう。

木炭のスケッチ画のようだが、数千人の肖像写真を重ね焼きしたものである。驚くのは、ヘアスタイルや胴体はボケているのに、顔だけはくっきりと浮き上がっていることだ。ふつう顔は個の象徴とみなされるが、サイズはほぼ一定で、眼や鼻や口の位置もとびぬけて個性的という人はいなくて、だいたい同じ位置に収まるものなのだ。「だれでもない」と「だれでもある」の境をさまよっているような顔。人の中には、他人とちがっていたいという願望と、同じでありたいという気持ちが点滅しているのではないか、とそんなことを思わせる。

 どうだ、この「顔」を見てみたいと思わないか? 男でもない、女でもない、中性的ともいい難い、奇妙で懐かしい「顔」がそこにある。安心と違和感がない交ぜになった、不思議な気持ちを呼び起こす。

 もちろん、撮影者の意図が即座にわかるものもある。撮影者やそれを選んだ編者の悪戯ゴコロに、こっちもニマリとした写真もある。あるいは、撮った人も思いもよらなかった結果が写ってしまった怪作もある。

 しかし、ほとんどのものは、言葉に出せない違和感を突きつける。どこかで見た光景に潜む不協和音が、編者のコメントで浮かび上がる仕掛けになっており、まことに気持ちが悪い(かつ、何度も見入って/魅入ってしまう)。

 だから、これはわたしにとって、「すごい」というよりも、思わず知らず「魅入ってしまう」ような写真集やね。撮影現場、撮った意図、そもそもこいつを選んだ理由をあれこれ想像する。魅入っているうちに、いつもと違った方向・深度から、意識しなかった気づきが得られる。写っているものとは全然ちがうことを考え始めているわたしがいる。

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頭のよい子が育つ本棚

頭のよい子が育つ本棚 タイトルに釣られた。前著「頭のよい子が育つ家」といい、じょうずですな。

 ここではエッセンスをまとめておこう。「あたりまえ」と感じるなら読む必要なし、ピンときたなら手にしてみるといいかも。あるいは、学校の司書さんにとってお役立ちになる本だね。

  1. できる子は、子ども部屋で勉強しない
  2. できる子の両親は、本を読んでいる(姿を子どもに見せている)
  3. できる子の家の本棚は、家のあちこちにあって、家族で共有している
 そもそも「できる子」って何だよ? ツッコミ入れたくなるが、著者はシンプルに「有名私立中学合格家庭」と定義し、モロモロの面倒になりそうな要素をバッサリ斬って捨てている。ある意味、潔い。で、その家にあがりこんで、いろいろと調査したそうな(その数200世帯!)。

 そこで得られた「共通点」がこの3つ。

■1 できる子は、子ども部屋で勉強しない

 子ども部屋がないのかというと、そうではない。ではどこで勉強するかというと、リビングでありキッチンだそうな。そこへ勉強道具を持ち出しては、親の前で勉強するという。

 てっきりつきっきりで面倒みている親の姿が浮かびそうだが、違う。親は洗い物をしたり、新聞を読んだりしている。その傍らで安心して勉強するのだそうな。なぜって? そりゃ「○○ってどういうこと?」とか「ここが分からないんだけど?」などと聞けるから。

 親は面倒くさがらずに答えてあげるのがポイント。「忙しいから後にして」は禁句で、「一緒になって調べる」が正解だという。やっべ、メトロイドプライムのボス戦で「いまとーちゃんがどんだけ大変か分かるだろ!後にしろ!」と邪険にしたことがあったぞwww

■2 できる子の両親は、本を読んでいる

 おっ、これは大丈夫。わたしも嫁も本好きだから。

 本を読む親の後姿をマネして育つのが、「本を読む子」だと言われるが、これホント。暇さえあれば本を読んでいる子になった。ポケモンのモンスター図鑑を熟読している姿を見てると正直心配だが、まぁいいか。

 物語の読み聞かせばかりしてきたせいか、手にするのも「デルトラクエスト」とか「かいけつゾロリ」といったストーリー色の濃いものばかり。仕掛けだとか仕組みにも強くなって欲しいよな、などと親の欲目から「21世紀こども百科 大図解」を与えてみたら大正解。面白いほどハマっている。

■3 できる子の家の本棚は、家のあちこちにあって、家族で共有している

 いわゆる「バーンとした本棚」に整然と百科事典や全集本が並んでいるようなものではなく、キッチンカウンターやトイレなど、あっちこっちに「本のコーナー」があるのが「できる子」の家庭だそうな。眉ツバー(豆しばのkeyで)。

 本棚は親子共有で使っているが、並んでいるのは親の見栄2割増しの本。子が読む本なら、「給食番長」とか「若おかみは小学生!」あたりが良かった。まだ子の本を親が読む段階で、その逆は選ばせてくれ。「よつばと!」あたりがオススメだな。間違っても「少女マテリアル」とか「城の中のイギリス人」なんて、絶対読ませたくないしwww

 このテの話を聞いていると、ある調査報告「ガンと食生活の関連」を思い出す。

 それは、「毎朝みそ汁を飲む人は、ガンにかかりにくい」だそうな。みのもんたもびっくり!みそ汁に抗癌効果があったなんて――と早とちりするなかれ。みそ汁がミソなのではなく、毎朝みそ汁を飲むような規則正しい食生活を送っていることが健康的だととらえるべし。だから、この話を聞いて味噌買いに走ったら、滑稽話のいっちょうあがり。

 「頭のよい子が育つ○○」も同じ小噺かと。一喜一憂するわたしも、もちろん同じムジナ。わたしの場合、「できる子」の定義からして違うが、まぁいいか。ガッコの勉強は適当でいいから、料理と英語は「できる子」になって欲しいなぁ… …えッ ということは、とーちゃんが料理と英語マスターになれと!?

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