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夫婦生活で学んだ7つの心得

 嫁さんと子どものおかげで、今のわたしがいる。

 これは冗談でもなんでもなく、わたしが死なずにこれたのは、嫁子のおかげ。かなりアレな人だったからね、わたしは。

 ここでは、いい夫婦を続けるために、わたしが身をもって学んだことを書く。ただし、子ども関連は省く。子ども因子はとてもデカいし、別シリーズで書いているので。最重要は「■1 感謝大事」に尽きる。これが欠けていると他に何をやってもダメ。忙しい人はそこだけ読めばOK。

■1 感謝大事

 「ありがとう」は魔法の言葉。ドラマや小説で手垢にまみれた「愛情」なんかより、「ありがとう」の一言がよっぽどリアル。あるいは、アイラブユーとサンキューは一緒。

 いや、斎藤一人のまわしものじゃないってば。流行のスピリチュアルや引きよせの法則じゃなくって、夫婦生活で実質的に使える。例えば口論で自分の主張を伝えたいときに言い添える。「△△をしてもらってて、いつもありがたいと思っているけど、○○をして欲しい」ってね。「ありがとう」を含む主張には批判・非難しにくくなる。あるいは、非難合戦に展開しそうな会話に穏やかに終止符を打つのが「ありがとう」のサイン(ウソだと言うなら、やってみるよろし、ただし捨て台詞でなくマジに)。

 ポイントは、△△に本当に感謝していることを入れる。思ってもないことを口に出すと一発で見抜かれる。さらに、日常的に感謝ポイントを探す。「ない」なんてことはナイ、気づいてないだけ。Lifehacker が好きな「気づき」の能力をフル活用すべし。ライフハックはここで使え。

 で、必ず見つかる「新たな」いい面は、必ず言葉で伝える。以心伝心? ありゃウソだ。敵意や怒りは無言で伝わるが、感謝だとか思慕の情はちゃんとコトバにしないと伝わらない。

 蛇足だが、「ありがとう」は伝染するぞ。怒りが伝染するのと一緒だ。

上手な謝り方■2 上手に謝れ

 これ知らない人が多すぎ。

 自分のちっぽけなプライドを満足させるためだけにぶつかるのはバカバカしい。そんなとこでとんがっても疲れるだけ。むしろ、ヒートアップしてやりこめたりやっつけたりしている「時間」と「エネルギー」が勿体無い。エネルギーは「感情」「労力」「アタマ」と読み替えてもいい。どれも有限だぞ。

 クダラナイいさかいで自分の時間やエネルギーをドブに捨てるよりも、(必要に応じ)上手に謝ってしまえ。人間関係の究極のライフハックはコレに尽きる。上手な謝り方は[ レビュー ]にまとめてある。

■3 趣味大事

 共通の興味を持つことは重要。子どもができれば必然的に子どもになるが、それ以外にも持っておくように。ないのなら、相手の趣味を好きになり、こっちの趣味になじんでもらうように。

 特に、「自分の趣味になじんでもらう」は時間をかけるべし。わたしの場合、綾波とハルヒと名雪を紹介するのに5年かけた。いおりんを理解してもらうのに1年はかかるだろう。

 また、相手の好みやスタイルに合わせるのも重要。「影響される」ってやつだね。相手の好きなものを好きになるのだから、簡単でしょ。かつて「本は買う派」だったわたしが、嫁さんの影響で図書館ヘヴィユーザーとなった[ 経緯 ]。いまじゃ、嫁さんの案内で不慣れなファンタジーを攻略してる。もちろん、読んだ本を誉めたりけなしたりする時間は、かなり楽しいコミュニケーション。

 コミュニケーションといえば、Wii-Fit がいいツールになっている。女性であればダイエットでしょ? 嫁さんにひきずられるように始めたが、けっこうハードだよ、フラフープなんて特に。Wii のコンセプトそのものがコミュニケーションなので、やっていると自然に会話が増える(測定やった?とか)。

 セックスと生活だけが会話のすべてなんて、まっぴらごめんだ。お互いを好きでいつづけるために、お互いが興味の持てるものを増やす。夫婦生活の正のフィードバックというやつ。

■4 罵倒もコミュニケーション

 犬も食わないやつだけど、ケンカは大事。夫婦といえど、他人との共同生活は多かれ少なかれ、ストレスがたまる。そいつを発散させないと。スピリチュアルじゃないけれど、ヘンな「気」のような、鬱屈したものが部屋に満ちてくる(気まずさ? 息苦しさ?)。

 むしろ、口論すらしなくなったら危ない。「こいつに言ってもしょうがない」と冷ややかな目で見る(見られる)ようになったらまずい。言ってもムダかもしれないけれど、ムダにならないような言い方(もしくは行動!こっちが大事)はないか考えろかんがえろ。

 ケンカは成立しないのが常。リクツで攻める男衆と、感情ベースの女衆で「論」が成り立つわけがない。だからホドホドにしておかないと死ぬまで傷つけあうことになる。最終通牒「あなたは何も分かっていない」と言われたときの対処→[ 女の言う「あなたは何も分かっていない」の正体 ]

 ケンカをするとき、とても大事なポイントが、ひとつある。「男の子ってどうしてこうなの」(スティーヴ・ビダルフ、草思社、2002)にこうある([ レビュー ]、太字化はわたし)。

結婚生活を維持していくためには、夫婦で顔を突き合わせ、おたがいに精いっぱいどなりあうことも時にひつようとなる。小さな行き違いによって溜まったうさが吐き出され、浄化されるからだ。ただし、女性はぜったいに安全だと感じない限り、男性とそのような正直で激しい言葉のやりとりをすることができない。自分が殴られないことを女性は知っている必要がある
つまり、相手から信頼されているからこそ、手ひどくヤられているわけ。罵詈雑言に耐えられそうもないときは、ここを思い出してくれ。それから、より高度なトレーニングを積みたい方は、「罵ってけ!へんたいたーれん」を視聴するといい([ 全歌詞 ])。ただし、かなり伝染性の高い動画だから、充分に注意して視聴してくれ。

■5 いっしょに欲求を満たす

 三大欲求「食欲・性欲・睡眠欲」を一緒に満たすべし。つまり、一緒にごはんを食べ、一緒にセックスをして、一緒に眠れ。

 まず食欲、一緒にゴハン重要。もっといいのは、ゴハンを作るところから一緒に――なんだけど、お互い忙しい身、手料理すらままならぬというのが実情かも。そういう場合は、一緒にお惣菜を選ぶといい。コンビニ弁当を一緒に選ぶのだっていい。一緒にゴハン食べていると、味方って気がしてくるから不思議だ。こんなトシになってようやく分かったんだが、デートでゴハン食べる(しかもそれを繰り返す)のは、本能に近いところのスイッチを入れるためだったんだねー

 次は睡眠欲。食べたり交わったりするのと同様に、無防備な姿でいられるように。心臓の音や慣れた体臭に包まれると、安心して眠れるもの(らしい)。そういや、週刊モーニングに連載中の「シマシマ」で、いっぷう変わったサービスがある。「女性のための添い寝」サービスだ。ホスト級の男性が、独り暮らしの女性のために「添い寝役」をするというもの。商売になるかどうかはともかく、ニーズはあるぞ。

スローセックス実践入門 それから性欲。セックスというスキンシップ・コミュニケーションも大事だけれど、たっぷり時間を使ってするのがポイント。がむしゃらにヤるのはもったいない。射精だけを目的としたあわただしいセックスはご法度。「スローセックス」は意識して行うように(自戒をこめて)。その結果、時間的余裕のない場合は、マッサージのようなスキンシップになる。セックスであれマッサージであれ、「肌を触れ合っている」のが大事。

■6 オナニー大事

 「結婚したらしなくてすむ、なんせタダだしwww」なんて独身のとき思っていた。もし同じようなこと考えてるヤツがいたら、次の言葉を贈る「タダほど高いものはなし」ってね。これは本当だ。そのときになって、身をもって知るよりも、今ここでもう一度読んでほしい→「タダほど高いものはなし」。

 つまりこうだ。新婚当初はケダモノだとしても、そのうち冷静になる。で、ちょっと「間」が出てくる。お互いの都合(明日の仕事だとか体調だとか気分)によって、ヤるタイミングが重要になってくる。

 それでだ、こっちがオオカミに変身できるとしても向こうはそうじゃない場合があるのよ、いろいろと。そんなとき、ガマンしてしまうのはまずい。

 なぜなら、ずーっとガマンしてしまうと、硬化能力が衰えるからね。だから昔なじみの左手にお世話になるわけ。オトコは定期的にツインストリーム☆スプラッシュを放つ必要がある。そうしていつでもスタンバっておく。ほら、葉隠にもあるでしょ、「今というときがいざというとき、いざというときは今というとき」ってね。ゆめゆめ準備はおこたるなかれ。

■7 愛の反対は無関心

 その最初の一歩が、「別に…」「何も…」だろう。疲れて帰ってきた顔に「お帰り、仕事どうだった?」なんて声をかけるとこんな返事が高確率で返ってくる。何を聞いてもこれしか返ってこなくなったらヤバイ。

 「別に」「何も」対策は次の通り。「質問」ではなく、「コメント」を伝える。自分が相手を理解しているメッセージを伝える。「やっぱり家に帰ってくるとホッとするよね」とか「たいへんな一日だったみたいだね」とか。

 これは育児書「子どもの話にどんな返事をしてますか?」で知った知恵[ レビュー ]

■ おわりに

 好きどうし結婚した場合、結婚直後が好きMaxなので、あとは幻滅するばかり。反対に、お見合い結婚だと、お互い何も知らないところからスタートするから、プラスマイナスしながら続けていける──あだち充の「みゆき」にそんな話があるが、それは結婚直後~倦怠期まで。それ以降は、そんなのカンケーネーッ!これらに気づくか気づけないかの違い。気づかないなら見合いだろうと恋愛だろうと同じ修羅の道。

 感謝ポイントを観察し、関心ポイントを共有し、スキンシップを絶やさない。けっこう大変かって? うん大変かも。ぶっちゃけ仕事より難しい。独身のころ、既婚連中が「家よりも職場のほうがくつろぐ」とガンガン仕事してたことを思い出す。そんなに大変なことをどうしてやってるのかって? そりゃあ、それを書いたらノロケでしょうに(///)

自分の小さな「箱」から脱出する方法 それから、人間関係で苦しい思いをしていたわたしに特効薬だったものが「箱」。まなめさんのおかげでこれを知ることができ、どんなに感謝しても感謝したりないぐらい。万能かどうかは知らんが、すくなくともわたしには強烈に効いた。思い返すと、自己啓発本や育児本を読んで→適用して→フィードバックすることで、わたし自身が成長していたような気が。そういう意味でも嫁さん子どもに感謝しないとね。

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エロゲで泣いて、人生充実するのか、おまえ

ドラマで泣いて、人生充実するのか、おまえ。 いきなり刺さる。肺腑をえぐるセリフに、たじたじとなる。ちなみに表題は本書のタイトルである、「ドラマで泣いて、人生充実するのか、おまえ」をアレンジ。

 1ページに、1セリフ。きわめてシンプル。余計な解説一切なし。

 読み手はストレートに読み干して、頷いたり呻いたり唸ったりする。大きな余白は、まるで反撃を書き込んでみろといわんばかりだ。ひとつのセリフに一晩かけて語りたくなる(もちろんアルコールの助けがいるくらいこっ恥ずかしい過去話ですけど何か)。

       人は失うことでしか、

       大事なものを確かめられない。

 メッセージ性の強い箴言といえば、岡本太郎の「壁を破る言葉」を思いだすが、ちょっと違う。太郎の「信ずるものをヤレ」といった放り出す感覚ではなく、「やれるもんなら、ヤッテミロ!」と激しく挑発的。反発したり頷いたり、読むアジテーション。

       社会に「出る」ことが、

       会社に「入る」ことであるというのは、

       おかしいと思わないか。

       表に出ろ。

 刺さる言刃に付せんを貼っていったら、付せんだらけになる。言葉って刃物だよな、と痛感させられる。「精神は鍛えるものではなくて広げるものだよ。」なんて、開高健の切れ味。あるいは、次のなんて、いかにもdankogai氏が言いそうではないか。

       楽しい生き方とは、

       楽しいことをして暮らすことではない。

       楽しくないことはしない、という生き方である。

 受け取るために多めの経験値を要する言刃もある。次の一句は、20代と今とでは、刺さる場所が異なってくる。あと、重さと熱さも。

       人を好きになることが最強のエンターティメントだ。

 そう、ひとつひとつの言葉が熱い。読み流すのを許されないよう、言葉と向き合う。いったん目に入ってきたら、自分の記憶の中で意味を立ち上げる、そんなセリフ群。昔を思い出してアツくなったり、好きな人をおもって背すじが伸びる、そんな詩文のような一冊。

 引用はすべて「深呼吸する言葉/著・きつかわゆきお/出版社・バジリコ」より。本書は、浅沼ヒロシさんの[ ドラマで泣いて、人生充実するのか、おまえ。 ]で知る。刺さる本を教えていただき、ありがとうございます。


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なぜ最近の老人はキレやすいのか?

キレやすくなっているのは老人であり、若者ではない。

もう一度いう、大人として成熟できず、我慢のなんたるかを知らず、ついカッとなって暴走するのは、20代ではなく、60代以上の年齢層において激増している。このエントリでは、事象の裏づけと、なぜ最近の高齢者がキレやすくなっているかについて考察する。なお、「高齢者」「老人」とは、60歳以上の日本人男女を指している。

最初に断っておくが、安易な結論「高齢化社会になったから」ではない。確かに高齢者は増えているが、老人の犯罪者はそれをはるかに上回るスピードで蔓延っている。もっとも、老人が老人に襲い掛かる老老犯罪が増えている文脈で「高齢化社会」を語るならまだ分かる。しかし、そもそもキレやすい老人が増えている事実を糊塗して「高齢化社会になったから」と、したり顔で全部説明した気になっているマスコミ、コメンテーター逝ってよし!

目次は次のとおり、長いデ。

  1. 激増する高齢犯罪者
  2. 老人が増えているからではなく、キレる老人が増えているのだ
  3. 平成老人事件簿
  4. 刑務所は老人天国
  5. あなたの隣の「暴走老人」
  6. かつて老人は子どもだった
■1 激増する高齢犯罪者

平成15年犯罪白書(※1)を元に、年代別犯罪者比率の変化を見てみよう。図1「犯罪者の年齢別構成比の推移」を見て欲しい。一般刑法検挙人員の各年代が全体に占める割合の変化を、1975年を100としてグラフにしたものだ。

他の年代の検挙人員の割合がほとんど変わらない一方で、5.5倍に達しているのは高齢者―― 60歳以上の老人である。特異的な要因がない限り、犯罪者の年代別構成比は、人口の年代別構成比におおむね従う。それでも年を追うごとに微増・微減の変化はあるのだが、60代以上の犯罪者だけが突出しているのは、一体どういうことか?

■2 老人が増えているからではなく、キレる老人が増えているのだ

もちろん反論はできる。日本社会における高齢者人口が増えているため、犯罪者の中での高齢者の割合が相対的に増加しているという理由は説得力がある。矯正協会付属中央研究所のレポート「公式統計からみた年齢と犯罪の関係について」(※2)はまさにこのテーマについて統計的な裏づけを元に分析している。

このレポートの結論は明白だ。老人犯罪は、高齢者が増えているから増えているように見えているだけ、という。いわゆる暴走する老人は話題性を高めているだけであって、実態ではない、という考えだ。

それでは、なぜ昨今老人犯罪が話題性を高めてきたであるが、それは、全犯罪者の中で、老人犯罪者の占める比率が、相対的に増加してきているからと解釈できよう。老人人口が増加するにつれ、老人犯罪者の数が増えていることは当然ともいえようが、犯罪者を扱う立場からすれば、犯罪者集団の中で相対的に老人の数が増えれば、その扱いを考えざるを得ず、それは自然の理といえよう
下の図2「60代以上の犯罪者の構成比と、65歳以上の人口構成比の変化」を見てほしい。1975年を100として、老人人口がどの割合で増加しているかを重ねてみた。統計情報元の関係上、65歳以上を「老人」としている(※3)。

これによると、たしかに高齢者人口は増えている。ただし、1975年から2002年で、2.6倍だ。高齢犯罪者比は5.5倍に増加しているというのにだ。高齢者は増えているが、高齢犯罪者はそれを上回るスピードで激増している。つまり、老人が増えているのではなく、キレる老人が増えている。もはやキレるのは若者の専売特許ではなくなっているのだ。

■3 平成老人事件簿

中央公論の「団塊を待ち受ける、奪い合う老後」(※4)によると、老人が老人を狙う時代に突入している。高齢ゆえに体力がないから、強盗をやるにしても人を殺すにしても、自分よりももっと高齢の人間のターゲットにする(若者を襲ったら返り討ちにあいかねないからね)。

  • 2005.3月、札幌豊平署は、73歳の妻の首を絞めて殺害したとして、83歳の無職男性を逮捕したが、「食事のおかずの品数について文句を言ったことから口論となり、かっとなって殺してしまった」と言う
  • 2006.1月、JR下関駅舎から爆発音とともに真っ赤な火炎が噴き上がり、一時、本州と九州を結ぶ交通網は完全に麻痺した。鎮火後に逮捕されたのは74歳男性、「ムシャクシャして、うっぷん晴らしのためにやった」とあっさり放火を認めた
  • 2005.5月、妻の頭を置物で殴り、ズボンのベルトで首を絞めて殺した容疑で74歳の男が逮捕されている。調べに対し男は「妻が高額の健康食品を買ったので口論となり、かっとしてやった」と話す
  • 2001.6月、福島県で起きた保険金殺人。被害者は77歳の女性で、主犯格は73女、他に77歳女、73歳女、62歳女、52歳男、63歳男が逮捕されている。この事件の特徴は、被害者も加害者も、そろいも揃って中高年であること。熟年パワーが炸裂した事件をいえる
いわゆる終の住み処、介護施設でも同様とのこと。老人が老人を殺す、老老殺人の舞台となっている。89歳のおばあちゃんが同じ入居者の70代の認知症の女性に首を絞められて殺されたり、70歳の男が73歳のほかの男性のささいな生活騒音に腹を立てて、ナイフで刺し殺したり。

あるいは、老人ホームは高齢男女の出会いの場でもある。老いの恋愛に花が咲くこともあるが、ひとたび問題がこじれると惨劇の場と化すこともある。2004.5月、愛知県安城市にある養護老人ホームで、入所者の68歳男が67歳女に絞殺された。度を越した恋愛行動を制限され、おもいあまった挙句、首を絞めたという。

ついカッとなって殺す、痴情のもつれから首を絞める、ムシャクシャして火をつける。年齢を重ねることと円熟とは全く関係ないことについて、わざわざ指摘するまでもない。しかし、「若気の至り」やら「若さゆえの過ち」と、完全に同等な結末を引き起こしているのであれば、それは「若さ」や「老い」とは関係のない、別の理由が存在することになるのではないか。

■4 刑務所は老人天国

では、ついカッとなった先にあるもの―― 刑務所はどうなっているだろうか。新潮45の2002.7月号の元刑務官のレポート(※5)によると、娑婆よりももっと深刻な問題が横たわっていることがわかった。

もっとも象徴的なのは、広島県にある尾道刑務所だそうな。2002.5.3フジテレビのスーパーモーニングで放映された、平均年齢73歳の入所生活である。

作業時間は1日6時間、一般受刑者の8時間との差2時間は、レクリエーションの時間に費やされる。体育館でカラオケ、卓球に興じている姿が映し出されていた。舎房は全員個室、トイレ、廊下、工場内通路には手すりが取り付けられていた。4年前に改築したという真新しい生活空間はバリアフリーで清潔そのもの。インタビューに応じた受刑者は「わしは、近畿の刑務所はみんな回ってきた。40年余りは刑務所暮らしになってしもうた。しかしここはまるで天国じゃ」
そこらの老人ホームの入居者より、よっぽど快適に生を楽しんでいるように見受けられる、衝撃的な映像だったという。同様な報道は、NHKクローズアップ現代でもあった。2004.5.31放送(No.1921)で、刑務所と更生保護の現場ルポを通して、高齢化が進む中さらに深刻化が予想される「老人犯罪」の現実と対策を探っている。

元刑務官のレポートによると、70%を越える老人囚は出所後の行き場がない。帰住地を更生保護施設と希望していても、実際には入れるかどうかわからない。これらのものに、公的年金について訊いてみると、もらえると答えたのは30%弱だったという。生活に行き詰まれば、また尾道に帰りたいと、犯罪に手を染める老人もいる(そのためのノウハウもある)。

福祉行政の失敗は、受刑囚の高齢化に拍車をかける。彼らには文字通り「帰る場所」がないのだから。わざわざ広島近郊へ出かけていって「ついカッとなって」しまう再犯、再再犯がいるのには、ちゃんと理由があることに目を背けている限り、刑務所の老人福祉施設化は止まらない。

計画的か否かは別として、増え続ける高齢受刑者が、過剰収容を全国レベルで押し上げていることは事実。1970年には60歳以上の高齢受刑者は1%だったにもかからわず、2000年には9%に達している(※6)。なんと9倍!だ。もちろん高齢者は増えているぞ、3.4倍程度だが(※7)www高齢者は増えているが、高齢受刑者はそれを上回るスピードで増えている。老人栄えて国滅ぶ例として年金制度が取り上げられるが、刑務所は常にその一歩先を行っている。

■5 あなたの隣の「暴走老人」

いわゆる犯罪にまでいたらなくとも、暴走する老人はいたるところで見受けられる。「暴走老人」「キレる老人」の実態は想像以上にひどい。週刊誌のアンケート(※8)によると、暴走老人の出没スポットは、(1)スーパー、(2)乗り物、(3)病院だという。そこでの目撃談によると…

  • 70過ぎの白髪のお爺さんがスーパーで商品のみかんを剥いて食べ始めた。店員が注意すると「試食しないと味がわからない」とわめいて、店員がひるんだら、「甘くないから買わない」と捨て台詞を吐いて立ち去った
  • 老人無料パスを見せてバスを降りようとした70歳くらいのお爺さん。運転手が「お客さん、それ女の人の名前だよ」と言われた瞬間、ダッシュで逃げた
  • 大阪の市バス内の出来事。70代後半の男性が運転手に「車内放送がよく聞こえなかったので、さっきの停留所で降りられなかった。引き返せ」と怒鳴りだした
  • 救急士の証言。「老人は気軽に救急車を呼んであたりまえという人が多い。とても急病人とは思えず、車内でもわがまま放題。トイレに行きたいから救急車を止めてくれといわれたときが一番驚いた」
「暴走老人!」にて藤原智美は、なかなか面白い分析をしている。要するに彼・彼女たちは「待てない」のだそうだ。歳を取るほど時間が早く過ぎていくという焦燥感が、予期せぬ「待たされる時間」に遭遇したとき、発火点となって感情爆発を引き起こすという。寛恕の心とか、「がまん」って言葉を知らないんだろうね。

あるいは、昔と異なり、「周囲から尊敬されなくなった」ことが理由としてあげられている。時間の流れがゆるやかだったときは、その経験が若者にとっても有益だったが、いまでは、老人が持っている知識・経験を下の世代がまったく必要としていないことが一因となっている―― そんな指摘もある。

また、「暴走老人!」では、「社会の情報化へスムーズに適用できていないこと」が原因だという。

逆に若い世代はメールやネットでオブラートに包んだコミュニケーションばかり取っていて、人間の感情がぶつかり合ったときに収める技術を、社会が失いつつある。
うーん… 「キレる若者たち」にも使える理由なので甚だしく「?」をつけたくなるが。本書自体がワイドショー的で印象だけをつづったエッセイだからなぁ… 「暴走老人!」の一番の読みどころをお伝えしよう。それは、あとがきにある。
テーマは「暴走する老人たち」ですが、私は老人批判をしたかったわけではありません
なんという逃げ口上。しかも「あとがき」に書くあざとさ。著者がチキンになるのは、「老人」たちの仲間へあと一歩の我が身かわいさか。

いずれにせよ、人生も終盤にさしかかると、枯れるとか悟るところがあるのかと思っていたが、完全なる幻想。せめては老醜をさらすことのないよう―― と自覚のある人ならいいが、そうでない人が暴走を繰り返しているのが現状だろう。

■6 かつて老人は子どもだった

ここで簡単に済ませることもできる。「社会の情勢の変化」だの「IT化」や「社会の閉鎖性」「心の闇」「核家族化」と、テキトーなキーワードを並べ立てて、訳知り顔で説明することは、可能だ。っつーか、それが王道だ。若者批判の常套句だ。

センセーショナルにあおりたて、口をそばめて指摘し、批判し、「だからなっとらん」と騒げば一仕事したかのような顔をする。そして提言としては「ちゃんと挨拶しましょう」「思いやりの心を持ちましょう」とかオマエは小学校の学級会かッ!と石ではなく岩をぶつけたくなるような『センセイ』がいらっしゃる(誰とは言わんが、な)。

もう一度、図2をみて欲しい。1986年前後が突出していることに注目。

なぜだろうか?

暴れる老人をいくら見ていても、分かるはずがない。彼・彼女らは「ルール」や「マナー」、あるいは「社会常識」というものを持っていないのだから。だから、それらを身に着けていないのであれば、その理由を探るために過去を見てみよう。

そもそも、そうしたルールをいつ身に着けるのだろうか?もちろん子どもの頃だ。ふつう、ものごころついたときから、社会に出るまでのあいだに「しつけ」られるものだ。年齢で言うならば、10-20歳にかけてだろう。言い換えると、この年齢でルールや常識が身についていないと、後の一生で社会的制裁という形で教育されることになる。

さて、1986年ごろに「暴れる老人」だった60-70代が、社会常識を身につけるべき10-20代だった頃は、何があっただろうか?

そう、戦争だ。1926-1946年ごろは、世界不況から太平洋戦争、終戦の混乱期だ。この時代にまともな「しつけ」を親に求めることは、香山リカから「最近の子はよくしつけられている」というコメントを引き出すことと同じぐらいの期待値だ。この世代が「現役」だった時代に、各年代の犯罪率を押し上げ、いわゆる高齢者世代に突入して一花咲かせたと見るのが自然だろう(1975年から若年犯罪率が一貫して減少していることにも注目)。20年ぐらい昔の「荒れる老人たち」の理由は、これで説明できる。

次に、1997年から現在にいたる老人犯罪の激増化を見てみよう。彼らの少年時代を遡ると――終戦から高度経済成長の入口(1955)あたりに「しつけ」られた人びとが暴れているのだ。あの当時は暮らしていくのに精一杯でそれどころではなかったという「仮説」が立てられる。

この仮説を検証するならば、老人犯罪者にインタビューしてみるといい、「わたしたちが若い頃は、なんにも楽しみがなかった、一所懸命働いた、結局見返りはこれっぽっち、やってらんねぇ」という恨み節が聞こえてくるに。そして、「親からはろくに面倒を見てもらってなかった」というカメラ映えする言質が取れるだろう(ホントの因果は逆なんだけどね)。

同じ根拠により、このうなぎ上りグラフはそろそろ沈静化するのではないかと予想している。「団塊の世代」の振る舞いだ。この連中、華々しく闘争して社会に迷惑をかけたワリには、就職と同時に転向する"ちゃっかり"したところがある。これは、社会的制裁を受ける/受けないギリギリのところを計算できるぐらいの常識を「しつけ」られていたのではないかと考えられる。

もちろん、団塊の世代は1947-1955年生まれと上述の「いまどきの暴れる老人」世代と被るところもあるが、日和組が残らず老人化する2015年ごろからはこのグラフはフラットに安定化する(もしくは減少する)はずだ。彼らも馬鹿ではないのだから。

そして、「しつけがなっていない」世代が死んでゆく2030年ごろからは、老人犯罪は過去話となるだろう。高齢化社会真っ盛りであるにもかかわらず、ね。「老人犯罪?ああ、『そんな時代もあったね』と、いつか笑って話せるさ。

何度でも言う。キレやすくなっているのは老人であり、若者じゃない。この事実に目を背けている限り、対策も後手に回り、問題は先送りされる。文字通り、「死ぬ」まで。

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注釈

(※1)平成15年犯罪白書p.7「1-1-1-5図一般刑法犯検挙人員構成比の推移」を元に作成
(※2)中央研究所紀要4号(1994)p.81-92「公式統計からみた年齢と犯罪の関係について」
(※3)日本の統計(総務省統計局)日本の統計2007第2章人口・世帯[URL]を元に作成
(※4)中央公論2006.5月号p.70-77
(※5)新潮45 2002.7月号p.82-90
(※6)同p.85
(※7)上記※3より
(※8)週刊文春2007.10.11p.42-44

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参考文献

エントリには載せられなかった文献もいくつか。糞本もあるが、糞のサンプルとして役に立つ。

■ 「老人栄えて国亡ぶ」(野末陳平、講談社、1997)

題名が老人批判、書き出しが老人批判と威勢がいいが、ラストで大ドンデン返しが。本書を老人批判のバイブルだと喜んでいる奴は202ページを読め。時間のない人は以下の2節でオッケー。

「まえがき」はこうだ。

このごろ高齢者ほど、平和ボケ・繁栄ボケの典型はいない。老人扱いはイヤだと口で言いながら、国の老人過保護政策にどっぷり浸りすぎ、わがままで、身勝手で、頑固で、わからずやで、要求過剰で、傍若無人で、無反省・無自覚で、謙虚さが不足で、どうにも扱いにくい存在だ。彼ら高齢者が国家財政を圧迫している不愉快な現実に、なぜ誰も起こらないのだろうか。
で、200ページぐらい使って世代会計から見た世代間格差を延々と論じて、ラストはこうだ。
若い人たちは生まれたときからいい思いしすぎてますよ。過保護に育てられ、うまいもの食って楽しい生活して、苦労らしい苦労もしないで人生の前半を送ります。この調子で人生の後半も遅れたら、話がうますぎませんか。

前半がよすぎたから、後半は少し苦労してもらって、平均すればそれで辻褄が合うんじゃないか。それでこそ親たち世代とそこそこに帳尻が合い平仄のとれる人生ってもんだ。ぼくたち高齢者仲間は苦労が先に来た世代、次の人たちは苦労があとにくる世代、これで不公平なし、可もなく不可もなし、みんな平等で文句なし、天下泰平めでたしめでたし、というオチですね。
このテの本は書店でレジまで持っていってもらったらオッケーなので、みんな騙されたんだろうね… 批判する奴すらいないのは、最後まで読まれていない証左。

■ 「死に花」(太田蘭三、角川書店、2003)

「老い先わずかだ。死に花を咲かせよう」と一念発起し、人生最後の大バクチに出ることを決意する。面白いのは、その「とんでもないこと」が老人をどんどん若がえらせてゆく。人生にゃ、目標が必要だね。エロ話が頻繁に登場してて、面白い。高齢者の性行為は(いろんな意味で)興味津々なんだが、楽しみどころは別様だ。人生の経験者の智恵と、老人パワーが文字通り炸裂する。

人生に必要なのは、エロと目標だね。

■ 「いい老人、悪い老人」(鈴木康央、毎日新聞社、2004)

何でも二分断して○×をつけたがり、「だから○○は…」のグチをひとくさり。「だから最近の若者は…」をそのまま老人にあてはめただけ。若者というだけで全否定が許されるが、相手は老人なので部分否定に走るのがチキン。著者は団塊の世代で、「わたしが老人になったら大事にしないと反乱するぞ」とオドしているところが文字通りコケオドシになっていて笑える。「馬鹿というやつが馬鹿」を地で行っている。

■ 「銀齢の果て」(筒井康隆、新潮社、2006)

老人人口を調節し若者の負担を軽減する大義名分のもと、日本政府は「シルバー・バトルロワイヤル」を実行する。要するに70歳以上の老人に殺し合いをさせようというもの。対象地区に選ばれたところは、のどかな町内から過酷な戦場と化す――ってアレのパロディやね。

結局は「自分たち若い者には優しくしてくれ。そのためにはあんたたち老人が死んでくれ」ってことなんだ。なあ。おれたちゃもっと強い世代だった筈だろ。もっと若いやつに嫌われて、恐れられてりゃあ、こんなことにはならなかったんだとおれは思うがね
がブラック過ぎてて笑いが引きつる。

■ 「暴走老人!」(藤原 智美、文藝春秋、2007)

エントリ内にも書いたが、一番の読みどころは「あとがき」。「ちかごろの若い奴は…」のノリで印象批判をダラダラ書いた後、ラストでこう逃げる。

テーマは「暴走する老人たち」ですが、私は老人批判をしたかったわけではありません
なんというチキン。しかも「あとがき」に書くあざとさ。そういや、冒頭で「老人犯罪検挙数」のグラフがあるが、その説明が「ホラ、右肩上がりでしょ?暴走老人は増えているんです」に噴いた。まさに老人人口が増えているからじゃん、というツッコミすら思いつかず、なんでも「社会のせい」にする思考停止っぷりは、ぜったい狙ってアオってるぞ。

中央公論2008.4「老人が今なぜキレる?」でも語っているが、対談相手は養老孟司。「老いたってエエじゃないか」と開き直る老人代表に振るシッポの角度が微笑ましい。

「老人栄えて国亡ぶ」といい、「暴走老人」といい、このテの「老人批判」もどきは、二重の意味で罪深い。威勢よく批判すると思いきやラストでひっくり返すのは、羊頭狗肉どころか羊頭腐肉。そして、重要な問題をクソ論理で語っているため、問題そのものの重要性を減殺してしまっていることは、恐ろしく罪深い。

つまり、うんこ主張なんてすぐに粉砕されるため、その前提の「暴れる老人」まで疑わしく見えてくる罠。これをジコヒハンと称して免罪符にでもするつもりか。すぐに馬脚の現れる論理を主張して、その批判を甘んじて受けることで、もともとの論理の前提を疑わせるテクニックは、(狙ってやっているのなら)かなり高度な技だぞ。意図しないならただの○○だがな。

+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
追記

このエントリを書く上で、意図的に省いた視点を追記する。「ちゃんとしつけられなかった子どもが、いまの暴走老人」というシンプルな話にするだけでもこれだけのボリューム。以下の視点を加えれば、さらに多角的な分析ができるだろう。しかし、リーマンが休日深夜にがんばるレベルを越えているのでカンベンな。

■ 「犯罪者の定年延長説」という視点

平均寿命が延びたため、社会的活動期間が延長され、したがって犯罪者としての活動期間も長くなっているのではないか、という説がある。この、「犯罪者の定年延長説」は西村春夫の論文にある(※1985 高齢者が犯罪にあう時、犯罪に出る時」The Japanese Council on Crime and Delinquency,33,2-11)。

「キレる老人」を犯罪発生率だけで断言するのには無理がある、というこのエントリのカウンターとして主張できる。つまり、プロの冷静な犯行が検挙された場合もカウントされるからだ。

10-40代までの犯罪者の比率は、男の方が女よりも高いが、50代、特に60代になると顕著に女性が高くなる。この傾向が犯罪者の定年延長説に説得力を与えている。

■ 「時代に取り残される老人」という視点

暴れる老人のキモチを弁解するとき、「時代のスピードについていけない」という看板を掲げる人がいる。前出の「暴走老人!」なんてまさしくこれに該当する。お爺さん、お婆さんの経験や知恵が蔑ろにされ、居場所を失っているというやつ。

一見もっともらしいが、本当だろうか?

「時代の変革スピード」を出生率や経済成長などの「見える数字」で表現する。そして、その「スピード」とやらの変遷と上のグラフの相関関係から読み解く。自分の数十年の記憶だけで物語っている連中より100倍ましかも。

おそらく、その「スピード」とやらは加速している、という結論に導ける。しかし、その調査の過程で、「それぞれの時代ごとに、変化についていけない高齢者」が沢山いた、という事実にぶちあたるだろう。そして、各時代で「お年寄りの知恵や経験が蔑ろにされている」と憤る老人たちの発言を追いかけることになる。

その最古の例は、[ 最も古い「最近の若者は…」のソース ]にある。

つまり、どの時代でも「変革スピードについていけない老人」はいた。そして、「自分の経験を肯定してもらいたがっている老人」も同じぐらいいた。Identity Crisis の防衛策としての「暴走老人」だ。この枠組みなら一定量の暴れる老人の説明はつく。ただし、どんな時代でも Identity Crisis に最も瀕しているのは老人ではなく、若者であることをお忘れなく(それこそ、オマエの若い頃を思い出してみろ、というやつだね)。

暴走する老人を「時代のせい」にするのは両刃の剣だろ。「そんな時代にしたのは、まさにお前らだろ」と切り返されてしまうから、被害者のフリをしようにも無理ある。「世の中が悪くなっている」とグチるのなら、「そういうオマエは何をしてきた?」とね。

■ 「刑事司法システムでの老人犯罪者の扱われ方」という視点

資料※2 で面白いヒントをもらった。日本の刑事司法システムでの老人犯罪者の扱われ方だ。検挙者数の人口比が少ないにもかかわらず、検挙→受刑までいたる老人の比率は、他の年代と比べると少なかったという。

これは何を意味するのか?

つまり、老人犯罪においては、微罪処分、起訴猶予処分が、他の年齢層に比べて多いことを示している。お目こぼしというやつやね。老い先短い身の上、お年寄りを大切に、という儒教的?(ヒューマニズム的?)心情がこうした数値になっているのかもしれない。

その一方で、老人受刑者の中の再入率は、極めて高いという。歳を取ると悔い改めなくなるのだろうか。これは、穏便に済まそうとしたら図に乗っている老人の姿を如実に現している。

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処女膜ばかり気にしててサーセン「太平洋の防波堤/愛人 ラマン/悲しみよ こんにちは」

太平洋の防波堤、愛人ラマン、悲しみよ こんにちは助平なんでハァハァしながら読んだぞ。テーマはこれっぽっちもハァハァするもんじゃないんだが、好きに読ませてもらうのは読者の特権。

フランス女性小説家を代表する、デュラスとサガンの3作が入っている。どれも、美処女が恋をしてセックスに狂う話―― だけではなく、もっと重いテーマが横たわっている。

    太平洋の防波堤(デュラス)
    愛人 ラマン(デュラス)
    悲しみよ こんにちは(サガン)

世に出たのは50年ほど前、だから「まだ子どもみたいな少女がセックスの快楽を貪る」描写はかなりセンセーショナルだったかと。そして、あんだけヤってて、これっぽっちも妊娠するそぶりすらないのも、当時の読者のアタマをアツくしたんじゃぁないかと。小説に教訓めいたものを求める輩は、「ひと夏の恋→セックル→予期せぬ妊娠」を弁証法のように振りかざすから。

■ マルグリット・デュラス

処女を失うことは、それぞれの小説で象徴的に扱われている。デュラスの2作では、「母親からの逃走」のためだし、サガンの場合は「母親候補からの遁走」の表れになる。そのため、破瓜の痛みはほとんど語られず、不自然なほどすばやく快楽を味わっている。

美少女の身体描写もいいっスー

野郎の汚らわしい眼差しでなぞるよりも、やっぱり女性が描くほうが、よりリアリスティックに想像できる(はずだ)。石川淳の「焼跡のイエス」で、ノーブラのシュミーズの白さを透かし「乳房を匕首のように」閃かせている少女に悶々としたことがあるが、「愛人 ラマン」のここなんてハッとさせられる。

比類ない身体、身長と、この身体が乳房を自分の外に、いわばはなれたものとしてもつそのやり方とのあいだのこの均衡。このきりりとした乳房のまるまるとした外見、こちらの手のほうに突き出されるこの形状ほどに、類を見ぬものはない。
「こちらの手のほうに突き出される」が秀逸。主人公の友人の裸体をこう描くのだが、オトコからはゼッタイ得られない発想がある。それは、乳房というのは、女の付属物であるいっぽうで、男の所有物にもなりうる。いわば、オトコとのインタフェースでもあるんやね。欲望が女の肌の下に集まっているのが、読み手にも透けて見えるようだ。

―― エロい戯言はおいといて、どれもみっしりと身の詰まった作品だった。それぞれ、少女の一人称や告白体で世界がつくられ、語られ、物語がすすみ、時をゆきかう。彼女らの「語り」がばつぐんに上手いので、目を離せない読みを強いられる。心的描写と会話が主なので、転がるストーリーを追いかけるのが好きな人には辛いかも。

デュラスの2作品(防波堤/愛人)は、同じ素材が違う料理に仕上がっており、比べて読むと面白い。「防波堤」が全部入り―― アジアの原風景、生活苦、社会悪への憤り、家族のキツい性格、そして異性へ開く情欲がある。その一方で、「愛人」はずばり愛そのものを愛以外の膳立てで描くことに成功している。植民地での底辺の生活や、人生を使い尽くした母親のことば、金持ちの(ただし弱者としての)男との会話は、それぞれ似ているようでテーマへのベクトルが違う。

母親は「母親」としか記述されない。固有名詞を持っていない、たった一人しか登場しない「母親」は、小説の特殊な状況から抜け出て普遍性を帯びてくる。デュラスの実人生そのものにも大きな影響力を与えている。象徴的なのは「太平洋の防波堤」のここかな。

「お母さんの不幸というのはね、結局、一つの魔力みたいなものなのよ」彼女は繰り返す。「魔力を忘れるように、お母さんの不幸も忘れてしまわなければだめよ。あなたにそうさせてくれるだけの力をもっているものは、お母さんが死ぬことか、男が現れることしかないと思うの」
 そして、このくだりを読めばピンとくるだろうが、長い長い伏線が張られることになる。そういや、この小説、メタファーや暗示が説明抜きに(あたりまえか)投げ込まれており、生娘の裸をひとめ見んと悶える男と、男が持っていたダイヤの指輪を売らんかなと奮闘する母親の滑稽さはシンクロしているし、そもそもカニが穴だらけにし、太平洋に侵食され、高潮にくずれさる防波堤は、処女膜のメタファーだろうに。

■ フランソワーズ・サガン

いっぽうサガン。実はこれが初読み。昔、わたしの母親が「これはクダラナイ大衆小説から読まなくてよろしい」と処分してしまったから。その目が泳いでいたことにもっと気を配っていれば、中学生で読めてたのにー

ともあれ、これは上手いしエロいし、オススメですな。いわゆる「ベストセラー」は普段読まないような人が買うものだから―― たいして期待もせずに読んだら、びっくりした。才気ばしった文章だけれど才能だけでは書けない。ホントに18歳の女の子が書いたの? と唖然とする。たとえば、こんなふうに始まる――

ものうさと甘さがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名をつけようか、私は迷う。その感情はあまりにも自分のことだけにかまけ、利己主義な感情であり、私はそれをほとんど恥じている。
 少女を終わらせようとする思春期のもどかしい思いや、放蕩三昧の父親との奇妙な共犯関係、そこに侵入してくる女との生活への不安が鮮やかに「見える」。一人称の地の文と気の利いた会話が合いの手のように混ざっていて、正直、読んでて心地よい。思春期の悶え(?)が生んだ陰謀が招くラストのカタルシスは、重すぎず、軽すぎず、思わず頁から顔をあげて、空を見たくなってくる。冒頭の彼女の「悲しみ」をラストで読み手に追随させる。そのためのストーリーであり、そのためのこの「語り口」なのだから。

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スゴい書斎とはこれだ「この人の書斎が見たい!」

PLAYBOY2008年4月号 PLAYBOYの4月号でナイスな特集をやっている。「この人の書斎が見たい !」だ。見たい見たいと思っていた著名人の書斎と本棚が惜しげもなく晒されている。本棚と書斎と本に関するウンチクがみっちり詰まっている。

  • 石田衣良
  • ピーター・バラカン
  • 鹿島茂
  • 高野孟
  • 内田樹
  • 立川志らく
  • 吉田司
  • 林望
  • 佐野眞一
  • 中平穂積
  • 谷沢永一
  • 吉本隆明
  • 徳大寺有恒
 海外勢だと、インタビューはないものの、そうそうたる面子の書斎や書架が拝める。
  • ガルシア・マルケス
  • ミシェル・フーコー
  • ジョン・アーヴィング
  • ウラジミール・ナボコフ
  • カート・ヴォネガット
  • イアン・フレミング
  • サルマン・ラシュディ
  • ギュンター・グラス
 男性誌だからなのか、女性陣の書斎がないのが残念。猪口邦子や上野千鶴子あたりの「書斎」はかなり興味がある。シュミ丸出しの書架を前に「らめぇ~」とかいってる女史を想像すると、ちょいと萌える(「男の書斎術」とか銘打っているのでムリか)。この特集で得た気づきをいくつか。

 まず、思い入れたっぷりの書斎が見て楽しい。

 「本に囲まれた書斎は嫌なんですよね」なんてうそぶきながら、壁一面に作りつけられた本棚が全力で否定している石田衣良。発言のひとつひとつが言い訳じみてカワイイ。その一方で、デスクを部屋のまん中にする発想は素晴らしい。

 鹿島茂は断言する。「書斎術なんていっているうちは甘いんだ!必要なのは『書庫術』で書斎なんていうのは、ほんの少しの面積で足りる。最終的に本を置く場所をどこに確保するかなんだね」、これは正しいが、本に攻め込まれて陥落した状態で言っても説得力が。

 内田樹の書斎は期待していたため、肩透かしを食らう。学術書はガッコにあるとはいえ、あまりに少なすぎる──というか、貧弱ゥーなの。「大昔の名著」と「イマドキの端本」で埋められた本棚は、明らかにおかしいと思っていたら、阪神大震災で大半を喪っていることが判明。

 プロフェッショナルの気骨を垣間見せたのは、吉田司の「動く書斎」と、谷沢永一の「10万冊・50坪の書庫」だな。前者は、「書斎なんてなくても、雑沓の中でも、エンピツ一本で書ける」ことを、後者は、「蔵書が臨界点を超えると、居室の書架は辞書だけになる」ことを思い知る。やれIMEがおバカだの、タネ本が無いと書けないと言っているようでは、まだまだハナタレですな。

 次に気づいたのが、椅子。皆さん、いい椅子を使っている。

 特に目を惹いたのが、石田衣良、高野孟、そしてジョン・アーヴィングが、ハーマンミラー社の「アーロン・チェア」に座っている。値段を調べたら鼻が出たね。いっぺん座ってみたいものだ。

可能性に限界という線を引かず、それを飛び越えること。その創造性はワークチェアをより良い方向に導き、マーケットに新たな領域を切り開いた。エルゴノミクスデザイン、すぐれたパフォーマンス、環境への配慮…。二人の信念をかたちにしたアーロンチェアは、従来のチェアに満足できなかった人々の支持を集め、その賞賛は瞬く間に世界中のオフィスに広がったのだ。

 自分で予算をどうこうできるような立場になったら、これと「ソリス」(ウィルクハーン)を思い出そう(もちろん、書斎どころか自分の部屋すらないけど何か?)

 最後に、なかなか面白いアイディアにぶつかった。吉本隆明の書斎だ。視力が衰えたとはいえ、活字拡大機を使ってブラウン管越しに読書をしている。

 このレベルになると「読む→書く」ではなく、読みと執筆作業が渾然一体化されている。だから本に直接書いてしまうと、活字拡大機でボケボケの手書き文字が映ってしまうそうな。これを回避するために、

片手で平仮名を打てるキーボード配列に改良した装置をまず一丁、俺に使わせろということで事業家の人に注文しているんですけれど、なかなか素早くはやってくれません。書く段のことをわかってくれないなというそこのところで一番引っかかっちゃう。

 人ん家(ち)の本棚が見たい欲求から、思わず購入したPLAYBOY日本版。特集からは収穫物満載だったが、連載記事やコラムをチェックする限り、今をトキメク作家さんの仕事がコピペまみれなことがよーく分かった。売文業って、タイヘンだね。

 人ん家(ち)の本棚に興味があるなら、これなんていかが?

「本棚」を覗く快楽

著名人の本棚を覗く

人の本棚を見るのが好きだ


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濃縮還元ファンタジー「タラ・ダンカン」

それなんて快楽天? ――思わず口走りそうだが、中身はジュヴナイル・ファンタジー。

タラ・ダンカン上タラ・ダンカン下
   「ハリポタ読むならコレを読め」シリーズ。嫁さんに言わせると、読者層といい、設定や展開といい、ずばり「女の子向けハリポタ」だそうな。ただし、ハリポタなら1巻丸ごと消費するぐらいのプロットを、1章に圧縮・展開しており、非常にスピーディーな運びとなっている(「言い換えると、ハリポタがダラダラしてるんだけどね」だそうな)。

 ああ確かに。次から次へと目まぐるしく転がっていくストーリーは、ジェットコースター・ファンタジーという言葉がぴったり。そして、伏線を寝かしもせず使い切ろうとする性急さは、一種潔さまで感じる。

 ふつうの女の子が、実は伝説の魔法使いの血筋だったり、親が××されてたり、寄宿舎の共同生活があったり、いじめっ子が出てきたり、「どっかで見た構図」「何かで読んだ展開」盛りだくさん。それでも思わず妄想してしまうのは、やはり「表紙」のパワーですな(w

 主人公「タラ・ダンカン」は、フランスの12歳の女の子。快楽天の「あの」カワイコちゃんだと思ってくれてヨロシ。「カワイコちゃん言うなぁ」って怒ったりするところがまたヨロシ。キレイ好きで、各章で必ずシャワーを使ったり着替えたりするところがヨロシ。「悪魔が胸の中から出てきて、破裂する」なんてくだりは、激しく妄想してヨロシ。

 村田蓮爾氏って微妙な露出の女の子に目が行っちゃうけれど、身に着けているアクセサリーや衣服の質感がクラシカルで好きー。ちょっとレトロな、そう、蒸気コンピュータが似合いそうな少女。そして、まさにその世界感覚そのままに、タラ・ダンカンの「別世界」が広がっている。

 嫁さんは「ハリポタの亜流」と評するが、ひねりの効いた魔法戦なんて、むしろ「ザンス」を思い出す。魔法だから何でもありなんだけれど、一定の「魔法がはたらくルール」を考え出し、さらにそれを出し抜く。よく考えたなー、と感心するものもあれば、伏線が出た瞬間に回収方法まで予測しきったり、なんとも楽しい1時間でしたな。

 Wikipedia を見るとハリウッドで映画化になるそうだ… が、やっぱりこれはアニメっしょ!京アニで25:30からの深夜枠を求むッ、もちろんキャラデザは村田蓮爾氏でッ、タラ・ダンカンは釘宮さまでッ

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読み巧者を探せ「半歩遅れの読書術」

 スゴい読み手を探せる2冊。書評や読書術も役立つが、それよりも自分好みの「読み巧者」を見つけるメリットが大きい。

 将を射んと欲すれば先ず馬から、良書を得んと欲すれば先ず読み手から。わたしが知らないスゴ本は、きっと誰かが読んでいる。だから、本を探すのではなく、人を探す(それは、あなたかもしれない)。本書のような、いわゆる「本の本」を読む理由は、ソコにある。

半歩遅れの読書術1半歩遅れの読書術2

 本書は、日経新聞の同名のコラム4年分をまとめたもの。新刊ではなく、あえて1~2年たった「ちょい古」な本をセレクトしているところがミソ。いわゆる著名人によるレビュー・書評というよりも、むしろ本をダシにした読書の愉しみや本にまつわる思い出語りが楽しい。ここでは、本書で知った読み巧者を中心にご紹介~

■ わたしが見つけた読み巧者

 まず、小林恭二がいい。

 いや、氏の小説は一冊たりとも読んでいないが、彼のオススメ「鷲か太陽か?」(オクタビオ・パス、書肆山田、2002)はぜひとも読んでみたい(「波との生活」が絶品とのこと)。あるいは、「巴」(松浦寿輝、新書館、2001)もチェックしてみよう。

 では、なぜ彼のオススメに惹かれるのか? それは、本書でこう言っているからだ。

明治以降の日本の作家のうち、偏愛する作家を一人あげよと言われれば、わたしは躊躇なく石川淳の名をあげる。漱石や康成も偉大な作家だったと思うが、どうもあの何かというとクローズアップされる「内面」についてゆけない。もちろん石川淳にも内面があるが、それ以上にドラマがある。
 そうそう!とおもわず膝を打つ。石川淳の劇的な物語と稚気と衒いに満ちた文章への評価は、わたしの気持ちとぴったり重なる。わたしと同じ趣味で、わたしの知らない本を読んでいる=「わたしの知らないスゴ本」の読者の可能性大、というワケ。

 あるいは多和田葉子のオススメも惹かれる。

 「容疑者の夜行列車」が絶品だったので、そんな彼女の目をきらっとさせる「クライスト全集」(沖積舎、1998)は要チェック。良い小説を書く人は、良い小説を読んでいる(逆は必ずしも真ならず)。

 彼女曰く、クライストは「急流くだりをするような面白さ」なんだが、「そのわりには日本であまり読まれていないような気がする」という、知る人ぞ知る傑作。クライストの文章を評して「疾走する欲望の滑走路」なんて表現は、わたしなんぞ逆立ちしたって書けやしない。

 トドメの椎名誠がおもしろい。

 いきなり「ひつまぶし」の話から始める。名古屋名物の鰻丼だ。オヤジのお約束として「暇つぶし」どころではない忙しい食べ方だと語り始め、たいへん美味そうに紹介する。鰻丼をマクラにして、八丁味噌と赤白味噌の話、ひいては「アホ」「バカ」の分布へ。ここまでくればタネ明かしをしているようなもの。地域性から見た日本文化の話… ズバリ「地域性から見た日本」(クライナー、新曜社、1996)の紹介に入る。面白いのは、お雑煮の角餅と丸餅、醤油、焼酎と、食べ物から離れないところ。タコヤキ器を持っている所帯の数を調べてみてはと提案する。食いしん坊っぷりにこちらもニコニコしてくる。

 椎名誠といえば、「あやしい探検隊」だが、お株を奪うようないい本がある。しかも自分で紹介しているところがいい。「無人島が呼んでいる」(本木修次、ハート出版、1999)といって、ここまで持ち上げられたら、そりゃ読みたくなるってものよ。

この本はぼくにとって日本の無人島旅の最も正確なガイド書かつバイブルとなっている
■ 「この本がイイ!」も見つかる

 本書をブックハンティング・ガイドブックとして読んでも効果がある。

 たとえば、体に聴く本「暮らしの哲学」(ポル・ドロワ、ソニーマガジンズ、2002)なんて面白そうだ。哲学の立脚点、自己認識。そのスタートとして自分自身の身体に聴け、という姿勢が面白い。

 まず、「自分の名前を呼んでみる」。最初はバカバカしい気がするが、そのうち誰かに呼ばれているように感じ始める。そして呼ぶ自分と呼ばれる自分の、内と外との相互感覚の中に自分を置いて、そこで起こるかすかなめまいのようなもの、自分が自分から剥がされる感覚を味わえという。

 あるいは、「おしっこしながら水を飲む」。上から水を注ぎいれて、下から出す。毎日やっている行為だが、それを同時に行う。ありえないことだが、飲んだ水がのどから尿道までまっすぐに流れている気がする。単純この上ない身体になっていく。一本の管になっていることを実感せよという。

 そういう、日常における非日常を体感するアイディア満載の本があることを知った。読む――というより実践してみたいね。

■ あの人がこんな本を…

 いっぽう、あの大家がこんな本にハマるなんて… といったミスマッチを探すのも一興。

 たとえば、堺屋太一。シュリンクの「朗読者」にハマっている。15歳の少年が熟女に喰われるハナシといえばミもフタもないが、ホロコーストを裁く法廷の被告となった彼女と再会するあたりがガツンとくる。これを読んで、非常に個人的な出来事をモジモジ思い出してる堺屋氏がカワイイ。

 また、沢木耕太郎が「ハリポタを読む中年サラリーマン」を揶揄しながらマジメに論評しようとするのが笑える。立場上、流行は押さえておかないと。ベストセラー作家はベストセラーの呪縛から逃れられない好例なのかも。ファンタジーを楽しむよりも、その社会現象を腑分けしてやれ、という視線が透けてイヤらしい。

 ひどいのが城山三郎の書評。経済小説の先駆者として著名だが、ラヒリ「停電の夜に」に手を出している。彼の興味からほど遠いにもかかわらず、ムリヤリ読んで、強引に感想を書いているのが哀しい。文筆業の宿命か。

■ 「これはひどい」書評とは

 興味の持てない本を仕方なく読んだ人の感想は、とても分かりやすい。「あらすじ」ばかり書いているのだ。読み手のココロに響くものがないから、中身の要約に終始する。あるいは、目次のキーワードを適当に羅列したシロモノになる(夏休みの課題図書の読書感想文を思い出すべし)。

 これを読まされるわたしはたまったもんじゃない。スジを知りたくて書評を読むのではないから──と同時に、わたしのレビューがそうなっていないか自省する必要がある。

■ 「これはひどい」読み方とは

 「読書に即効性を求めるのは、一番貧しい読み方だ」と、浅田次郎は断言する(GOETHE 2008.2)。読書とは、ずーっと蓄積していく教養であって、薬じゃないんだから。

―― それは分かるんだけれど、それでも効き目を求めてしまうのが悲しい性。すぐ効く本は、すぐに効き目がなくなる。うんこ本は100冊読んでもうんこ。せめては新刊書レースから降りて、自分評価を決めた本を選びたい。そんな姿勢をまねる意味でも、本書は遅効性のある妙薬なのかも。

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東大、京大、北大、広大の教師が新入生にオススメする100冊

 毎年この時期になると、「東大教師が新入生にオススメするベスト100」という企画で紹介してきたが、飽きた。

 ほとんど変わり映えしないリストにも飽きたし、毎年「ベスト1はカラマーゾフ!」とハヤすのも飽きた。カラ兄が最高であることはさんざん宣伝してきたから、皆さんご承知だろう(異論・反論大歓迎、これを超えるものがあるならね)。

 だから、今回はスコープを広げてみる。

■ この企画の趣旨

 東京大学に限らず、新入生を迎えるにあたって、センセイたちは思うところがある(はずだ)。ゼミにくる前に、せめてこれぐらいは読んでおいてもらいたいと望んだり、若かりしころハマった本で自分語りをしてみたり。そうした願望を吸い上げているところもいくつか見つけた。以下のとおり。

 リスト1 「北海道大学教員による新入生への推薦図書」

 リスト2 「京都大学新入生に勧める50冊の本」

 リスト3 「広島大学新入生に薦める101冊」

 リスト4 「東大教授がオススメする教養のためのブックガイド」

 リスト5 「東大教師が新入生にすすめる本」

 ここから得られたリストと、恒例の東大新入生にオススメするリストをベースにして、東京大学、京都大学、北海道大学、広島大学の教師が新入生にオススメするベスト100を作ってみよう。

 ただし、東大のオススメ数がハンパじゃないので、票の単純カウントだとお話にならない。だから大学を横断してオススメされている本をより重視するよう、重み付けをする。

■ 東大、京大、北大、広大の教師がオススメするベスト100の作り方

  1. リスト5の最新版を作る : 昨年までの東大教師が新入生にすすめる本(1994-2007)東京大学出版会 : 東大教師が新入生にすすめる本2008を追加して最新版にする(※1)
  2. リスト1~4を追加する : ただし、リスト4は「東大教授オススメ」として扱う(※2)
  3. ポイントをつける。大学をまたがってオススメされているものは、『その大学の数』分のポイントが振られる。たとえば、東大と京大でオススメされているなら、ポイントは「2」になる
  4. オススメされいている回数を1票としてカウントする。東大で1997年、1998年と2年に渡ってオススメされている場合は、2票としてカウントする
  5. 票数×ポイントで、ポイントを集計する

 大学をまたがってオススメされていればいるほど、ポイントが高くなるのがミソ。ある本が、東大で1997年、1998年、1999年と3回オススメされていた場合、合計で3ポイントにしかならないが、東大で2000年、北大でオススメされた本なら、2つの大学をまたがるため「2ポイント」となり、その2ポイントが東大と北大にそれぞれ割り振られるため、2+2=4ポイントになる。なお、東大教師のリスト(※1)と、東大教授のリスト(※2)は、ポイント集計上は別大学とみなしている

 これにより、十年一日の般教サブテキストよりも、より広範にオススメされている本を抽出することができる(はずだ)。リクツはともかく、毎年変わりばえのしないベスト100よりも、もっと興味深いやつができあがったぞ。

■ ランキング第 1 位~第 10 位

 1.「銃・病原菌・鉄」(ジャレッド・ダイアモンド、草思社)
 2.「オリエンタリズム」(エドワード・W.サイード、平凡社)
 3.「利己的な遺伝子」(リチャード・ドーキンス、紀伊国屋書店)
 4.「カラマーゾフの兄弟」(ドストエフスキー、岩波書店)
 5.「日本人の英語」(マーク・ピーターセン、岩波書店)
 6.「解析概論」(高木貞治、岩波書店)
 7.「沈黙の春」(レーチェル・ルイス・カーソン、新潮社)
 8.「理科系の作文技術」(木下是雄、中央公論新社)
 9.「ワンダフル・ライフ」(スティーヴン・ジェー・グールド、早川書房)
 10.「夜と霧」(ヴィクトル・エミール・フランクル、みすず書房)

第 1 位 「銃・病原菌・鉄」(ジャレッド・ダイアモンド、草思社)



銃・病原菌・鉄(上)銃・病原菌・鉄(下)

 競合する人間社会における勝者と敗者の決定要因を「銃・病原菌・鉄」とし、これらの要因が、なぜある社会では発達し、別の社会では発達しなかったのかという理由を、生物学、言語学などの豊富な知識を駆使して圧倒的に説き明かしている。amazon紹介文はこんなカンジ…
銃と軍馬―― 16世紀にピサロ率いる168人のスペイン部隊が4万人に守られるインカ皇帝を戦闘の末に捕虜にできたのは、これらのためであった事実は知られている。なぜ、アメリカ先住民は銃という武器を発明できなかったのか?彼らが劣っていたからか?ならば、2つの人種の故郷が反対であったなら、アメリカ大陸からユーラシア大陸への侵攻というかたちになったのだろうか?
否、と著者は言う。そして、その理由を98年度ピューリッツァー賞に輝いた本書で、最後の氷河期が終わった1万3000年前からの人類史をひもときながら説明する。はるか昔、同じような条件でスタートしたはずの人間が、今では一部の人種が圧倒的優位を誇っているのはなぜか。著者の答えは、地形や動植物相を含めた「環境」だ。
 うれしいことに、これは未読。「読みたいリスト」に入ってはいるものの、キューに押しつぶされている。「文明の生態史観」みたいなやつかね… これはコロンブスの卵的なアイディアだけれど、もっと知的興奮が得られそうな期待を持って手にしよう。「科学者の見た人類史」とか「圧倒される知の冒険」といったamazon絶賛レビューを見ると、いてもたってもいられなくなる。読む「シヴィライゼーション」なのかね?

第 2 位 「オリエンタリズム」(エドワード.W.サイード、平凡社)



オリエンタリズム(上)オリエンタリズム(下)

 大学時代にムリヤリ読まされた記憶が。理系はGEB、文系はオリエンタリズムといったところか。

 歴史とは自らを正当化するためのラベリングの歴史そのものだということを暴く。つまり、「オリエンタル」という言葉・概念は西洋によって作られたイメージであり、文学、歴史学、人類学の中に見ることができる。「オリエンタル」というレッテルのおかげで西洋は優越感や傲慢さや偏見でもって、東洋と接することができたという主張を念入りに検証している。

 皮肉だな、と思ったのは、オリエンタリズムを批判する証拠物として、東洋で作られた著作物や芸術作品が提示されていないこと。そして、「西洋から見た東洋」の作品が挙げられていること。もちろん事実上「東洋」で作成されたものもあるが、それは「こういう『東洋』なら西洋は買ってくれるに違いない」という意図のもとで、自分で自分をステレオタイプ化しているに過ぎない。レッテルを貼られた被告人の告発ではなく、まさにそのレッテルこそが証拠なのだと。この手法はオタク擁護から夫婦喧嘩まで手広く応用できるね。amazon解説より。

「オリエンタリズム」とは西洋が専制的な意識によって生み出した東洋理解を意味する。本書はその概念の誕生から伝達までの過程をあますところなく考察した1冊だ。サイードは、東洋(特にイスラム社会)を専門とする西洋の学者、作家、教育機関などの例を挙げ、彼らの考えが帝国主義時代における植民地支配の論理(「我々はオリエントを知っている。それは西洋とはまったく違った、なぞめいた不変の世界だ」)から脱却しきっていないと厳しく批判している。

第 3 位 「利己的な遺伝子」(リチャード・ドーキンス、紀伊国屋書店)
利己的な遺伝子
 未読なんだけれど、解説本や誰かの受け売りで、あたかも読んできたかのような顔をしている。遺伝子を使って生命体はコピーを繰り返しているのではなく、生物は遺伝子の運び手(器)に過ぎない。遺伝子は、「遺伝子にとって」利己的に振る舞う。その結果、一見「生命体にとって」利他的に見える行動は、実はより多くの遺伝子のコピーを残そうとする目的に適うというわけ。

 もっとも身近な生命体=わたしの遺伝子は、わたしのコピーを作るためものではなく、実はわたし自身が遺伝子のコピーを作るためのものに過ぎない、という発想にガツンとやられたことを記憶している。

 ――とはいうものの、聞きかじり/受け売りはやはりマズい。amazonレビューを見る限り、力いっぱい勘違いしている御仁もいらっしゃる。あるいは、わたしが完璧に間違っている可能性もある。いちどキッチリ読むべきだな。

第 4 位 「カラマーゾフの兄弟」(ドストエフスキー、岩波書店)

カラマーゾフの兄弟1カラマーゾフの兄弟2カラマーゾフの兄弟3
カラマーゾフの兄弟4カラマーゾフの兄弟5

 重み付け方式を変えたので、ようやく一位の座から降りてきた… とはいうものの、これを読んだ人なら同意してくれるだろうが、大学新入生という意欲も体力も充溢している連中にこそ、こいつをオススメしたくなるでしょ?

 最強の小説。これこそ小説のラスボス。特に「大審問官」のあたりはスゴい。生を生きなおすようなす経験を請けあう。この blog で「すごい本」を探している方には、カラ兄こそがそうだと断言できる。「なんか面白い小説ないかなー」というなら、これ読め(命令形)。最強・最高の読書体験を約束する。とっつきにくいって? 大丈夫!光文社から出ている新訳、これが信じられないぐらい読みやすくなっている。

 読むなら、いまだ。

第 5 位 「日本人の英語」(マーク・ピーターセン、岩波書店)



日本人の英語続・日本人の英語

 東大、京大、広大の教授陣がベタ誉め。未読なので食指が動く動く。

 特に京大のセンセが、「英語の本質がわかると言っても過言ではない」とか、「全学共通科目の英語なんぞ 100 年続けても、この1冊には適うまい」といった最大級の賛辞を贈っている。

 amazon紹介文が興味深い(わたしには違いが分からんかった)。

  「冷凍庫に入れる」は、  put it in the freezer
  「電子レンジに入れる」だと、  put it in my microwave oven

どういう論理や感覚がこの英語表現を支えているのか。著者が出会ってきた日本人の英語の問題点を糸口に、従来の文法理解から脱落しがちなポイントをユーモア溢れる例文で示しつつ、英語的発想の世界へ読者を誘う
 自分(my)の距離感覚なのかな? 電子レンジに入れる食べ物は、自分(my)の範囲に入っているけれど、冷蔵庫はそうじゃないとか。皿と料理で言い換えるなら、出てきた料理を my dish とはいうけれど、食べ終わって片付けなければいけなくなったら the dish と呼ぶようなもの?

第 7 位 「沈黙の春」(レーチェル・ルイス・カーソン、新潮社)
沈黙の春
 内容もさることながら、題名の勝利だと思う。"Silent Spring"とは、「農薬で汚染され、鳥や虫が死に絶え、鳴き声の聞こえなくなった春」のこと。

 カビない食パン、半永久的な冷凍食品といった、巧妙に偽装されている食品の安全性は、ひとたび事件化するとまさに地獄の釜状態になる。あるいは、ハイブリッドカーの電池を作るのにどんだけanti-ecoしているのか? とか、寿命の尽きた原発の解体費は電力コストに含まれていないよ、といった視線は、ここから得た。「沈黙の春」は農薬(=毒薬)問題だけれども、隠蔽した結果がまさにアタマ隠して尻まるだしとなっている。poison に「薬」と名づけた人はエラい(w

 本書は環境問題のバイブル扱いされているけれど、面白さは有吉佐和子の「複合汚染」の方が上…って、あたりまえか、後者は小説だから。あわせて読もう。

第 8 位 「理科系の作文技術」(木下是雄、中央公論新社)
理科系の作文技術
 文系理系関係無し。学生さんなら必読だろ。

 残念なことにわたしが学生の頃は本書の存在を知らなかった―― おかげでかなり恥ずかしいレポートを書きなぐっていたと思う。未読なのだが、ライティング指南本として屈指の「考える技術・書く技術」(バーバラ・ミント)から想像すると、「伝えたいことを分かりやすく伝える技術」になるのだろうか(「伝える」対象は読み手だけでなく、書き手も含まれるところがミソ)。Webなら東大で学んだ卒業論文の書き方かね。

 あえて「理科系の」と銘打っているのは、ひとつの研究テーマについて、論理的に首尾一貫した論文(=修士論文)を書き下す必要があるのは「文系 < 理系」だろうからか。

 東京大学では、平成20年度に理系に入学した新入生全員がALESSを受講するという。これは "Active Learning of English for Science Students" といい、科学的な論文を書くためのトレーニングプログラムだそうな。うッ、うらやましくなんて…あるもん!(涙目)

第 9 位 「ワンダフル・ライフ」(スティーヴン・グールド、早川書房)
ワンダフル・ライフ
 2回挑戦して敗退している。バージェス頁岩から発見された先カンブリア時代の節足動物がいかに急激に多様化していったかが情熱的に語られている。amazon紹介で知った著者のメッセージによると、

「どうぞ細部を読み飛ばさないでほしい,大筋はつかめるが,本当に大切なのは細部(節足動物の付属肢についての分析など)なのだから」
 とあるが、節足動物の付属肢のつき方や分岐の仕方なんて知らんよあたしゃぁ、とツッコミ入れることおびただしい。毎度毎度、知的興奮にいたる前に投げ出してしまうので、いっそのこと、次は後ろから読み始めてやろうかしらん、とたくらんでいる一冊。

 このテの本は、好きな人に語ってもらって聞き入っている方が性に合ってる… 解説してくれる方がいらっしゃるならタダ酒ごちそうしますぞ。

第 10 位 「夜と霧」(ヴィクトル・エミール・フランクル、みすず書房)
夜と霧
 著者自身の強制収容所経験に基づいた作品。人間なら読むべし

――という作品なのだが未読(のはず)。高校時代に手にした記憶はあるのだが、中身をほとんど覚えていないから読んでいないのだろう。なぜなら、一度でも読んだなら、間違いなく心と記憶に刺さり、いつまでも残るだろうから。様々なメディアで色々なストーリーに乗せて、「アウシュビッツ」を知っているつもりだが、これを読まずして言及する資格はない。amazon紹介文より。

著者は学者らしい観察眼で、極限におかれた人々の心理状態を分析する。なぜ監督官たちは人間を虫けらのように扱って平気でいられるのか、被収容者たちはどうやって精神の平衡を保ち、または崩壊させてゆくのか。こうした問いを突きつめてゆくうち、著者の思索は人間存在そのものにまで及ぶ。
 新訳があるらしい、必ず読む。

■ ランキング第 11 位~第 75 位

 合計が10~5ポイントなのが、75位までのラインナップとなっている。典型的な「古典」「名著」もあるが、センセーがたの若かりし時代を見透かしたような「なつかしいベストセラー」も、ちゃっかりとある。

 11.「人間を幸福にしない日本というシステム」(ウォルフレン、新潮社)
 12.「ご冗談でしょう、ファインマンさん」(ファインマン、岩波書店)
 13.「ヘラクレイトスの火」(エルヴィン・シャルガフ、岩波書店)
 14.「ワイルド・スワン」(ユン・チアン、講談社)
 15.「栽培植物と農耕の起源」(中尾佐助、岩波書店)
 16.「種の起源」(チャールズ・ロバート・ダーウィン、岩波書店)
 17.「進化と人間行動」(長谷川寿一、東京大学出版会)
 18.「知的複眼思考法」(苅谷剛彦、講談社)
 19.「中島敦全集」(中島敦、筑摩書房)
 20.「方法序説」(ルネ・デカルト、岩波書店)
 21.「理解とは何か」(佐伯胖、東京大学出版会)
 22.「南方熊楠」(鶴見和子、講談社)
 23.「それから」(夏目漱石、新潮社)
 24.「三四郎」(夏目漱石、新潮社)
 25.「失われた時を求めて」(マルセル・プルースト、筑摩書房)
 26.「信頼の構造」(山岸俊男、東京大学出版会)
 27.「脳のなかの幽霊」(V.S.ラマチャンドラン、角川書店)
 28.「量子力学 物理学大系」(朝永振一郎、みすず書房)
 29.「線型代数入門」(斎藤正彦、東京大学出版会)
 30.「邪宗門」(高橋和巳、朝日新聞社)
 31.「TheUniverseofEnglish」(東京大学出版会)
 32.「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(ヴェーバー、岩波書店)
 33.「物と心」(大森荘蔵、東京大学出版会)
 34.「コンピュータのパターン認識」(長尾真、東京大学出版会)
 35.「ホーキング、宇宙を語る」(スティーヴン・ウィリアム・ホーキング、早川書房)
 36.「仮面の解釈学」(坂部恵、東京大学出版会)
 37.「危機の二十年」(エドワード・ハレット・カー、岩波書店)
 38.「罪と罰」(ドストエフスキー、岩波書店)
 39.「視点」(宮崎清孝、東京大学出版会)
 40.「世界の名著」(中央公論新社)
 41.「読むということ」(御領謙、東京大学出版会)
 42.「日常言語の推論」(坂原茂、東京大学出版会)
 43.「ことばと文化」(鈴木孝夫、岩波書店)
 44.「ドン・キホーテ」(ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラ、岩波書店)
 45.「磁力と重力の発見」(山本義隆、みすず書房)
 46.「生命の多様性」(エドワード・オズボーン・ウィルソン、岩波書店)
 47.「認知心理学」(-、東京大学出版会)
 48.「碧巌録」(克勤、岩波書店)
 49.「夢判断」(ジークムント・フロイト、新潮社)
 50.「エントロピーと秩序」(ピーター.W.アトキンス、日経サイエンス社)
 51.「会社法人格否認の法理」(江頭憲治郎、東京大学出版会)
 52.「日本語学と言語教育」(上田博人、東京大学出版会)
 53.「ベンヤミン・コレクション」(ヴァルター・ベンヤミン、筑摩書房)
 54.「ユング心理学入門」(河合隼雄、培風館)
 55.「基礎物理学」(-、東京大学出版会)
 56.「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎、岩波書店)
 57.「吾輩は猫である」(夏目漱石、新潮社)
 58.「国家」(プラトン、岩波書店)
 59.「職業としての学問」(マックス・ヴェーバー、岩波書店)
 60.「生命の誕生と進化」(大野乾、東京大学出版会)
 61.「精神の生態学」(グレゴリ・ベートソン、新思索社)
 62.「地下室の手記」(ドストエフスキー、新潮社)
 63.「物理学とは何だろうか」(朝永振一郎、岩波書店)
 64.「二重らせん」(ジェームズ・デューイ・ワトソン、講談社)
 65.「敗北を抱きしめて」(ジョン.W.ダワー、岩波書店)
 66.「白鯨」(ハーマン・メルヴィル、講談社)
 67.「福翁自伝」(福沢諭吉、岩波文庫)
 68.「魔の山」(トーマス・マン、新潮社)
 69.「歴史とは何か」(エドワード・ハレット・カー、岩波書店)
 70.「ゲーデル、エッシャー、バッハ」(ダグラス.R.ホフスタッター、白揚社)
 71.「解析入門」(杉浦光夫、東京大学出版会)
 72.「自由からの逃走」(エーリッヒ・フロム、東京創元社)
 73.「魂のライフサイクル」(西平直、東京大学出版会)
 74.「職業としての政治」(マックス・ヴェーバー、岩波書店)
 75.「明治憲法体制の確立」(坂野潤治、東京大学出版会)

第 11 位 「人間を幸福にしない日本というシステム」(ウォルフレン、新潮社)
人間を幸福にしない日本というシステム
 「日本 権力構造の謎」を読んだが、その徹底した役人批判には胸がすくというよりも不安になるほど。役人のセクショナリズムを説くのはいいが、壊すのにハンマーを用いるのはやりすぎかと。あるいは、日本を変えるにはガイアツが要るのかね、とつぶやきながら読んだことを覚えている。

 本書は日本人向けのメッセージ性を強めている。Wikipediaによると、「管理されたリアリティの壁に隠された『「システム』(物事のなされ方)の支配から日本人が脱すべきことを説き、論議を巻き起こした」そうな。読むときは代案を探しながらかな。

第 18 位 「知的複眼思考法」(苅谷剛彦、講談社)
知的複眼思考法
 これも学生必読。読んでいるのといないのとでは、残りの人生に差が出てくる。

 今風に言うなら「論理思考」にくくられてしまうが、凡百のマニュアル本とはレベルが違う。正解を見つけ出す能力ではなく、問題を定義する脳力を鍛えることができる。扱っているのはMECEやロジックツリーなのだが、「どうやって自分のアタマで考えるか」について徹底的に具体化している。訊けば東大のゼミをまとめたものだそうな… うらやましい限りだ。

 先の「理科系の作文技術」といっしょに、これを新入生にオススメするのは、かなり良い戦略。受験勉強で「問題を解く能力」を鍛えられたアタマに「問題を発見する能力」が組み込まれれば、知の両輪ができあがる。批判的な読み方や論理的な書き方もレクチャーしているので、「道具としての知」を動機づけることができる。ゼミで「レポートの書き方」や「文献のあたりかた」を手取り足取り教えるより、ずっと効率的。

第 20 位 「方法序説」(ルネ・デカルト、岩波書店)
方法序説
 小林秀雄によると、「方法序説」なんてお題が堅物らしい。むしろ「方法の話」とでも訳したほうがよいとのこと。何の方法かというと、生きてゆくうえで真実を見つけ出し、判断する方法。デカルトが、当時の学問語であるラテン語を捨てて、平易なフランス語で、しかも匿名で書いたそうな。大切なことは、見つけ出した「真実」や「判断」そのものではなく、そこへ至った方法だという。

 実存っ子なので、いま入不二基義「時間は実在するか」に取り組み中。(触れるものなら)ウィトゲンシュタインを触って、もう一度戻ってこようかと。

第 57 位 「吾輩は猫である」(夏目漱石、新潮社)
吾輩は猫である
 実はいま読んでいる、ニンテンドーDSで。

 復刻版から新潮文庫まで何度も読んできたが、DSの液晶画面で見ると別の趣がある(滑るようにすいすい読める感覚)。「猫」の飼い主である苦沙弥の年齢(30台前半)を超えたいま読み直すと面白さ倍増。彼の「こっけいさ」の理由にいちいち思い当たる。

 漱石がレトリックの達人であることは承知しているが、「レトリックのすすめ」で解説されるとさらに気になってくる。ストーリーにとらわれずにレトリックだけに着目して読んでみようとしているが、今のところことごとく失敗している。何回読んでも「鼻女」のくだりではハラ抱えて笑ってしまうので(www

第 62 位 「地下室の手記」(ドストエフスキー、新潮社)
地下室の手記
 自意識過剰がちの学生さんにオススメ。

 「人生を狂わせる毒書案内」でも強力にプッシュされている。自意識過剰の男の内面を吐露した話なんだが、その粘着+屈折っぷりが笑える。しかし、程度の差こそあれ、自分にも通じるところを見出してはヒヤリとさせられる。

 満たされない思いはぶくぶくと肥大化する、歪む、腐る。怪物のような「自意識」が頭全部を占領し、部屋から一歩も出られなくなる。さらには、自分を卑しめたり痛めつけることに快感を抱くようになる。「ホラホラ見て見て!」って奴。自分の堕落をあてつける、世界のせいだって。怨念にまで発展する執拗な自意識へのこだわりは、あっぱれかも。自意識が「過剰」を超えるとどうなるか、この実験は面白い。「地下室」とは自意識のメタファーだね。

第 70 位 「ゲーデル、エッシャー、バッハ」(ホフスタッター、白揚社)
ゲーデル、エッシャー、バッハ
もちろん積読山に刺さっていますが何か?

 2006年は、図書館から何度も借りなおし、延長した。とうとう購入した2007年は、関連書籍を漁ってはハマり、戻ってはつっかえて、かれこれ1年になる。700頁を超えるハードカバーは充分凶器だ。それでも「読みたい熱」は冷めない。分からないから読まないのではなく、分かりたいから読みたくなる。

 テーマは「自己言及」。ゲーデルの不完全性定理が、エッシャーのだまし絵やバッハのフーガをメタファーとして渾然と展開される。導入部のアキレスと亀の会話で分かった気になり、本編で叩きのめされる。いまは「単純な数学システム(MUパズル)で完結しているにもかかわらず、証明できないことが存在することを証明する」あたりでひっかかっている。(分かった気になっている)不完全性定理のイメージと、エッシャーの図と地の反転する絵がシンクロする瞬間が気持ちいい。

 いったい何の本なのか理解されず、書いた当人も困惑しているぐらいだから、読んだ「フリ」は可能だ。しかし、それじゃいくらなんでももったいないので挑戦し続けることにしよう。

■ ランキング第 76 位~第 100 位

 合計が4ポイントのものが96冊あったので、そこから25冊を取捨選択してある。ポイントの重み付けはいわば人気投票。だから、良書としてメジャーなものは沢山のポイントを取得する一方、数ポイントの差はあまり関係ないと思う。ここには「隠れた名著」が並んでいる。

 76.「チベット旅行記」(河口慧海、白水社)
 77.「ファインマン物理学」(リチャード・ファインマン、岩波書店)
 78.「人間機械論」(ノーバート・ウィーナー、みすず書房)
 79.「日本国憲法」(森達也、太田出版)
 80.「何でも見てやろう」(小田実、講談社文庫)
 81.「蘭学事始」(杉田玄白、岩波書店)
 82.「旅人」(湯川秀樹、角川書店)
 83.「コスモス・オデッセイ」(ローレンス・M.クラウス、紀伊国屋書店)
 84.「知の技法」(小林康夫、東京大学出版会)
 85.「ガリヴァー旅行記」(ジョナサン・スウィフト、岩波書店)
 86.「世論」(ウォルター・リップマン、岩波書店)
 87.「自然界における左と右」(マーチン・ガードナー、紀伊国屋書店)
 88.「シルトの岸辺」(ジュリアン・グラック、筑摩書房)
 89.「春宵十話」(岡潔、光文社文庫)
 90.「偶然と必然」(ジャック・リュイシアン・モノー、みすず書房)
 91.「ヨーロッパ文明批判序説」(工藤庸子、東京大学出版会)
 92.「実戦・日本語の作文技術」(本多勝一、朝日新聞社)
 93.「緊急時の情報処理」(池田謙一、東京大学出版会)
 94.「現代政治の思想と行動」(丸山真男、未来社)
 95.「論理トレーニング101題」(野矢茂樹、産業図書)
 96.「物理学はいかに創られたか」(アインシュタイン、岩波新書)
 97.「フェルマーの最終定理」(サイモンシン、新潮文庫)
 98.「根拠よりの挑戦」(井上忠、東京大学出版会)
 99.「心の科学は可能か」(土屋俊、東京大学出版会)
 100.「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン、NTT出版)

第 76 位 「チベット旅行記」(河口慧海、白水社)



チベット旅行記(上)チベット旅行記(下)

 東大教師が新入生に薦める本(2007年版)の第8位。面白スゴ本。

 著者は明治時代の坊さんで、鎖国中のチベットに入国した最初の日本人。ただ独りで、氷がゴロゴロする河を泳ぎ、ヒマラヤ超えをする様子は、「旅行記」ではなく「冒険記」だな。

 ではこの坊さん、どうしてチベットまで行かなければならなかったのか?

 慧海が25歳のとき、漢訳の一切経を読んでいて、ある疑問に突きあたったという。漢訳の経典を日本語に翻訳したものは、正しいだろうか? サンスクリットの原典は一つなのに、漢訳の経文は幾つもある。意訳、誤訳、適当訳が沢山ある。

 サンスクリット語の原典→漢訳→日本語訳と、翻訳をくりかえすうちに、本来の意義から隔たってしまっているのではないか? それなら原典にあたろうというわけ。インドは小乗だし支那はアテにならん、だから行くという。

 まるで三蔵法師!住職を投げ打ち、資金をつくり、チベット語を学び始める。周囲はキチガイ扱いするが、本人はいたって真剣。しかも、普通に行ったら泥棒や強盗に遭うだろうから、乞食をしていくという。

 この実行力がスゴい。最初は唖然とし、次に憤然としているうちに、だんだんと慧海そのひとに引き込まれる。これはスゴい人だ、と気づく頃には夢中になっている。ヒマラヤの雪山でただ一人、「午後は食事をしない」戒律を守る。阿呆か、遭難しかかってるんだって!吹雪のまま夜を迎え、仕方がないから雪中座禅を組む。死ぬよ!続きは[ここ]

第 80 位 「何でも見てやろう」(小田実、講談社文庫)
何でも見てやろう
 「外へ出ること」「遠くへ行くこと」を強く動機づけた一冊。「ガイコクを旅すること」がマイナーだった時代に、欧米・アジア22ヶ国を貧乏旅行した記録。「まあなんとかなるやろ」といった楽天的な態度とバイタリティーに影響され、わたしも一人旅したぞ。この「旅に出たい熱」ってハシカのようなものだね。古くは芭蕉やケルアック、最近だと沢木耕太郎や藤原新也あたりが、この熱病をバラまいている。免疫のない中高生が読んだら一発でかかるに違いない。

 残念なことに、最近になって意外な秘密を知った。小田実は2007.7に永眠したのだが、その妻が遺品を整理してみたところ、何冊もノートが出てきたそうな。そう、「何でも見てやろう」の旅を記録したノートだ。

開いてみると意外なことがわかった。本では、「まあなんとかなるやろ」と無鉄砲に出かけたかのようだが、実際は次の訪問地について予習し、旅程を綿密に練った跡がある。交通機関を調べ、文献に目を通し、知人に紹介状を頼む。孤独感や不安も綴られ、出たとこ勝負の気軽な旅という印象はまったくない

 なんのことはない、わたしは、まんまと騙されていたわけね。「何でも見てやろう」は、自分の旅行体験をベースにした、一種の"作品"だったわけ。まぁ、一杯食わされたのは事実だけど、不思議と気持ちいい。この一冊のおかげで、あちこちほっつき歩いたのは事実なんだから。

第 85 位 「ガリヴァー旅行記」(ジョナサン・スウィフト、岩波書店)
ガリヴァー旅行記
 ああ、これはわたしもオススメ。「子どものころに読んだよ」という方がほとんどだろうが、童話ではなく完全版を読むべし。エロいし汚いし強烈だぞ。風刺が利きすぎて鼻につくぐらいだし、おもわず「ア、チ、チ」と声が出るぐらい恥ずかしい思いをするかも。

 読むべきは最終章、馬の国の話。児童書だと間違いなくカットされているだろうが、これこそスウィフトの真骨頂だろう。究極のユートピアを描くことで、人間社会がいかに矛盾に満ち、汚れきっているかがよく分かる。しかもそのユートピアでの人間ときたら!

 童話しか知らない人はきっとガツンとやられる。読了後に[これ]を読むと二度おいしい。

第 95 位 「論理トレーニング101題」(野矢茂樹、産業図書)
論理トレーニング101題
 「解説書なんかいくら読んだって論理の力は鍛えられない」、だから練習あるのみと、全編これ練習問題+解説。絵解き図解で希釈された分厚い類書よりも、薄手の本書の方が100%どろり濃厚に仕上がっている。

 本書に向かって言葉と格闘し、煩悶し、その筋道をたどる作業が論理の力を鍛えてくれる。素振りよりも高度なトレーニングの積み重ねにより、日本語の知性は磨かれる(と思うぞ)。昨年の紹介の際、「読むぞ」と決心しているにもかかわらず、未読。やっぱり買うと読まなくなるのか…

 いや、今年こそ読むぞー

■ 最後に

 ふり返ると、昨年の同じころ、「読むぞー」と決心したにもかかわらず、積読状態になっているものがちらほらとある。関連書籍を読み漁っているうちにそっちのけになっていたり(ゲーデル、エッシャー、バッハ)、買って安心したついでに読むのを忘れてしまってたり(論理トレーニング101題)と、情けない限り。

 「これは!」という良書は、どこの大学のセンセだろうと似通ってくるもの。最近出た本が少ないのは時代淘汰が屑本をふるい落としているから。希釈された口当たりのいい「にゅうもんしょ」を100冊読んでも意味がない。財布と時間と自己満足しか影響を与えない本よりも、もっと根っこのところへ作用する本を読んでおけ―― あ、言っておくけれど、これはわたし自身へのメッセージ。

 新聞雑誌のヨイショ書評に騙され、本屋さんではデハデハしいPOPに釣られ、たったいま作ったキューに割り込みをかける。「良書だからじっくり時間をかけて」「あとで読む」つもりでいるうちに、わたしに与えられた時間はどんどん尽きていく。クソみたいな本に囚われることのないように。昨年も言ったが、今年も自戒を込めて。

  人生は有限だが、わたしは、ときどき、忘れる

■ 参考までに

 東大、京大、北大、広大の教師のオススメリストを作成する際の、全リストを公開する。全部で2800冊強。このなかにあなたにとっての名著は必ずある。大学名が「東京大学」は、東京大学出版会が行っている「東大教師が新入生にすすめる本」の全集計リストで、「東大教授」のものは、「教養のためのブックガイド」で紹介された本を指している。

   「booklist-for-freshman-2008.csv」をダウンロード



東大教師が新入生にすすめる本教養のためのブックガイド


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いつか見た未来「虎よ、虎よ!」

虎よ、虎よ! SFって、すごいねぇ… もっともこの場合、"Space Fantasy" かも。

 満員電車に残された最後の空間、頭上に向かって拳を突き出す。おどろおどろしい表紙を上に向けて、昇龍拳のポーズで読む。ぐいぐいストーリーに引っ張られて、そのまま天井に吸い込まれそうだ。「ジョウント!」と叫んだら、そのままテレポーテーションできそうだ。

 デュマとヴェルヌを下敷きにして、石ノ森章太郎とスティーヴン・キングの道具立てを持ってきた感じ(後者2人は本書から拝借してるんだろうが)。説明抜きでじゃんじゃん投入されるアイディアは、出た当初(1956)相当面食らわせたに違いない。物語自体が強烈な迫力と磁力と理力を帯びたハリケーンみたいで、ぼんやり読んでると跳ばされる。男の情念の炎にゃ、読み手の「手」も焼かれること間違いなし。

 すでにベスターの「ゴーレム100」を読んでいたので、[こんなブッ跳んだ感覚]に用心して読んだぞ。それでもラストはすげぇの一言。最初で提示された男を燃え狂わせる「動機」は物語全体を横切り、結末にぶつかって粉々になる。これ、原書で読んだらもっとすごいだろうね。韻律とか段組やフォントといった視聴覚を含めた面白い読書体験になるだろね。背表紙の惹句を引用しておくが、酩酊性が極めて強いため、途中からどうでもよくなるに違いない。

"ジョウント"と呼ばれるテレポーテイションにより、世界は大きく変貌した。一瞬のうちに、人びとが自由にどこへでも行けるようになったとき、それは富と窃盗、収奪と劫略、怖るべき惑星間戦争をもたらしたのだ! この物情騒然たる25世紀を背景として、顔に異様な虎の刺青をされた野生の男ガリヴァー・フォイルの、無限の時空をまたにかけた絢爛たる〈ヴォーガ〉復讐の物語が、ここに始まる……鬼才が放つ不朽の名作!
 

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親になったら読むべき6冊目「子どもにいちばん教えたいこと」

 子育ての目的はただひとつ、「子どもを大人にすること」だ子どもにいちばん教えたいこと

 つまり、躾や学校教育だけでなく、一人でやってくための生活スキル(料理・掃除・洗濯)も重要。さらに、困難な事象に対処するための問題解決のスキルも外せないし、なによりも人を信頼し、うまくやっていくコミュニケーションスキルは、親の責任だ。

 こんなこと言うのは、わたしに欠けている自覚があるから。親になって初めて「教育」を考えるようになった。子どもといっしょに、自分が教育しなおされている感覚。いや、もっとハッキリ言うなら、子どものおかげで、わたしが「大人」になれたんだ。

 だから、育児書を読むのは、半分以上わたしのため。今回は、小~中学生の教育に携わる人にとってかなり有用な一冊を読んだので、紹介する。

■ どんな本?

 理想の教育のひとつの形が示されている。いや、フィクションじゃない。ロサンゼルスの移民家庭の小学5年生を受け持つレイフ・エスキス教師の体験記だ。

 このクラスは、毎年シェークスピア劇を上演し、英語が第2言語である子どもたちを続々と名門大学に進学させている。文字通り、指導次第で子どもは驚くほど伸びることを実証している。

 ただし、「ティーチャー・ハック集」としてしまうと大事なものを読み落とす。実際、いくつかのノウハウは賛成しかねるし、特に「教室内ヴァーチャル通貨でお金の教育」なんてやりすぎだ。それでもオススメするのは、ノウハウの根底に「子どもを一人前にする」発想があるから。

 もちろん、教育の現場で即効くやり方も紹介されている。「暗算ウォーミングアップ」や「数タイル問題」なんて先生が知ったらすぐに使いたくなるだろう。でも、それだけじゃないんだ、わたしが子どもと一緒にやりたくなる、そんな楽しい「学び」が紹介されている。

■ どんな先生?

 著者、レイフ先生がどんな教師なのかを知るには、子どもたちとどんな関係を築いているかを知るほうがてっとりばやい。こんなエピソードがある。

去年、ある先生にひとつ質問しようとしました。そしたら、その先生は怒って言いました。「それは前にも教えたでしょう。あなたは聞いていなかったのね!」って。でも、ぼくは聞いていました!ただ、理解できなかったんです。レイフ先生は、ぼくが理解するまで、500回でも答えてくれます。
 もしある生徒が掛け算で悪い点数をとったら、それはたった一つのことを意味する。彼がまだ掛け算のスキルを理解していないということだ。だから喜んでふたたび彼に教える――そんな先生。

 あるいは、テストは温度計みたいなものだと断言する。温度を測る代わりにスキルの習得度を測る道具にすぎないと。テストの低い点数が世界の終わりではないことを子どもたちは理解する必要があると説き、そう実行している。つまり、テストは(隣の子/教室/学区ではなく)過去の自分と比較するためのモノサシとして使うのだ。

 そして、本当に大事なことは、人生のもっとも重要な問題――性格、正直さ、道徳心、寛大さなどに関する問題は、標準テストに出題されない、だからこの教室で学んでほしいと訴える。

 では、「ココロを育てる先生」なのかというと、それだけではない。子どもを学びに向かわせるユニークな手法が紹介されている。たとえば…

■ ティーチャー・ハック1 : 暗算ウォーミングアップ

 暗算ウォーミングアップは、授業のイントロダクションとして行われるゲーム。計算に強くなるだけでなく、メートル法や分数、科学、歴史、文学で用いられるさまざまな「数字」に詳しくなる。こんなカンジで進められる(生徒は、それぞれ0~9の数字が記入されたタイルを持っている)。

  「オーケー、全員、7という数字を思い浮かべて(全員考える)
   それに4をかけて(子どもたちは黙って28を思い浮かべる)
   それを倍にする(56)
   そこから50を引く(6)
   答えは?」

生徒たちは即座に6のタイルを掲げる。
この暗算ゲームのいいところは、算数に閉じないところ。

  「アメリカ合衆国の州からはじめよう(50)
   それに1ダースの数を加えて(62)
   それから最高裁判事の人数を引く(9を引いて53)
   それにフォートナイトの週の数を加える(2なので55)
   それを11で割った数は?」

全員が5を掲げる、という按配だ。このゲームの利点は、全ての子どもが参加するところ。全員が正しいと信じるタイルを掲げる。名前は呼ばないので、誰も注目されることがなく、とまどいの恐怖は消え去る。全員に答えを掲げさせることで、誰が理解し、誰が助けを必要としているか即座に分かる。

 レイフ先生は知っている。合衆国の小学校のほとんどの教室は、恐怖によって管理されていることを。問題は、多くの教師たちが教室の秩序を保ちたいと願うあまり、秩序を保つためなら何でもするところにある。なぜ著者が知っているかって? それは、同じ罠、つまり目的が手段を正当化する罠にハマったことがあるからだ…と告白している。

■ ティーチャー・ハック2 : 数タイル問題

 百聞一見、マーシーのウェブサイトをどうぞ→[ Mercy Cook Math ]要するに虫食い算なんだけれど、ミソは問題文にある。タイルが0から9しかなく、虫食いの穴は10と決めてある。つまり、同じタイルは二度と使われないというところ。訓練をつむことで、カード全体を分析することができる。

 この「暗算ウォーミングアップ」と「数タイル問題」でゲーム感覚で算数に親しむことができる――というよりもむしろ、「問題を解く」ことが非常に戦略的なゲームに感じられるはず。次の「選択肢の罠を推理する」なんて(選択式問題に悩まされた人なら)ひざを打つ授業だろう。

■ ティーチャー・ハック3 : 選択肢の罠を推理する

 レイフ先生は、黒板にこう書く。

    63
  + 28
  ―――

    A

    B

    C

    D

 そしてふり返ってこう言う。

「よろしい、みんな。これがスタンフォード9テストの問題だとしよう。みんなも知っているように、きみたちの将来の幸せや成功を決め、銀行にあずける金額も決めるテストだ(子どもたちの間から忍び笑いがもれる)。誰か答えられる人?」

 もちろん「91」と答えるだろう。だが、重要なのはここから、レイフ先生は続けてこう言い出すのだ

レイフ「たいへんよろしい。Cは91にしよう。Aにどんな数字がくるかわかる人は?」
イセル「35です」
レイフ「すばらしい!どうして35なんだい、イセル?」
イセル「足すかわりに引いてしまったときの答えだからです」
レイフ「そのとおり。Bに入る間違った数字はどうかな?」
ケビン「81です。1繰り上げるのを忘れたときの数字です」
レイフ「また正解だ」

 このクラスでは、多肢選択式テストが念入りに工夫されていることを学びとる。一つの正しい答えがあって、あとはでたらめに間違った答えが並べられていることはめったにない。問題をつくる人はどこでつまずきやすいかを予想し、そこに罠を仕掛ける。生徒たちは推理して、罠を突き止め、回避するのを楽しむのだ。

 生徒たちは20問の選択式テストを受けるとき、それを80問のテストとみなす。生徒の仕事は、20個の正しい答えと60個の間違った答えを発見すること。正解を一つ選ぶことだけでは済まされない。なぜそれを選んだのか説明を求められる。さらに、他の答えがなぜ不正解なのかをも説明しなければならない。そうすれば、生徒たちは提示されている全ての選択肢を見、考え、分析することを余儀なくされる。

■ 世界一やさしい問題解決の授業

 同名の本があるが、ありゃMECEやロジカルシンキングを学校生活にあてはめた手引書。レイフ先生の授業こそ、文字通り「世界一やさしい問題解決の授業」だろう。

 漫然と問題を出して答え合わせをするのではなく、問題を解決するプロセスのロードマップを提示し、実際に適用させている。学期の初めに生徒全員は次のロードマップを受け取り、まず「問題解決のやり方」について学ぶ。

  1. 問題を理解する
    鉛筆を置く
    関連するデータを集める

  2. 適切な戦略を選ぶ
    絵を描く
    算法を選ぶ
    予測し、チェックする
    パターンを探す
    図表をつくる
    考えをまとめて整理する
    さかのぼって考える

  3. 問題を解く
    鉛筆を持つ

  4. 分析をする
    わたしの答えは意味をなすだろうか?

 問題にぶつかったとき、生徒はどのプロセスで「問題」だと認識したのかを、このロードマップによって知り/伝えることができる。そして、このマップに立ち戻ることによって「どうすれば」次のプロセスへたどり着けるかをも見ることができる。

 「問題の解き方」を具体的に示し、適用させる教師はめったいにいない。

 生徒が問題を解くのに苦労していると、教師はしびれを切らして、「頭を使え!」と怒鳴る。頭を使え? それはいったい、どんな意味なのだろう? この命令で、いい結果にいたった人などいたのだろうか? この教師は「頭を使え」を「以前に教えた解法を適用せよ」といいたいのだろう。ロードマップでいうならばステップ2で適切な戦略を選ぶアシストが必要なことがわかる。

 いっぽう、「もう一度読んでごらん」はどうだろうか? これはふつう、生徒が勇気をふりしぼって教師に応援を頼んだときに発せられる。そして「もう一度読んでごらん」と命令されると、あまりに怖くて次のように答えられない。「あの、先生、何回も読んだのですけれど、まだ分からないのです、助けが必要です」―― ステップ1でつまずいているのだから、問題そのものの解説が必要だ。

 これをくり返すことによって、問題にどう取り組んでいけばいいかを「自分で」知ることができる。応用範囲は算数や文法にとどまらないことは指摘するまでもない。

■ わたしの学び

 ドキッとするようなこともある。いまのわたしの悩み「子どもとお金」についてだ。

 子どもに手伝いをしてもらって小遣いを与えることについて、嫁さんと意見が分かれている。嫁さんにしてみれば「家の手伝いをするのはあたりまえ。報酬として小遣いを渡すのはおかしい」という。いっぽうわたしは、「労働と報酬はリンクしていることを学ばせたい」と考える。これは「○○したからお金ちょーだい」とか、「お金をくれたら△△してあげてもいいよ」という態度を促すそうな。

 本書にはこうある。

子どもに雑用をしてもらってお小遣いをやるのはかまわない。わたしたちの資本主義のシステムはそのように動いているのだから。けれども危険なのは、正しいふるまいをしたからといって子どもに贈り物や金銭をやることである。正しい行動は望まれるものであって、報われるものではないことを、子どもに示す必要がある。
 この悩みは尽きないだろうが、「正しい行動は望まれるものであって、報われるものではないこと」はわたし自身の態度で示していきたいもんだ。つまり、「正しいからする」行動には見返りを求めてはいけないってね。

 まだある。自分の人生に満たされない思いをしている人に、次の一文は刺さるかもしれない。

からかい半分で、わたしは生徒たちによくこんなことを言う。
「きみたちはわたしのために歯をみがくのか?」
「わたしのために靴のひもを結ぶのか?」
「そんなことはバカげているのはわかるだろう?」
それなのに、多くの子どもたちは依然として教師を喜ばせることに日々を費やす。親を喜ばせたいという欲求はさらに強い。多くの子どもたちは親を満足させるような大学を選ぶ。そうした子どもたちは、成長して欲求不満の大人になり、仕事を嫌い、なぜ自分の人生がそれほどまでに満たされないのか理解できない。
 親や教師など、周りの人々を喜ばせるために自分の人生を決定してしまっているのなら、それは大きな不幸だろう。わたしがどこまで取り戻せるかわからないが、満たされない思いの何割かはここから来ていることを痛感させられる。

 スゴい先生がいるもんだ。いわゆる、セミナーや印税や顧問料で暮らしている「元教育者」ではない。毎週のように校内暴力や器物破損事件が発生し、警官の姿が絶えない荒れた学校で、奇跡のような教育を実践する小学校教師だ。

 小学生の子どもを持つ親に、ぜひ読んでほしい一冊。

 これまでの「親になったら読むべき」5冊は、以下をどうぞ。

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学力低下の本当の原因

 教育の荒廃が叫ばれている。

 学校、保護者、子ども自身、そしてそれらを取り巻く環境――官僚、政治家、教育委員会、地域社会が制度疲労に陥っている。教育亡国論が喧しくとも思考停止と非難合戦、手をこまねいているばかり。教育現場は完全に活力を失っており、責任転嫁の応酬に明け暮れている。

■ 教育改革の担当者は誰か?

 象徴的な例を、いくつか挙げよう。ひとつめは、NHK世論調査(※1)だ。「教育改革の担当者は誰か?」という問いかけに対し、こんな結果が得られた。

 注目すべきは、教育のまさに現場にいるはずの「教師」と答えたのが、たった8%ということ。あまつさえ、「父母」と答えたのがわずか2%は情けない。いわゆる「お上」任せである。「教育」は政争の具に貶められ、人質化している。そして、いまどきの教師、両親は、当事者意識を完全に欠如しており、犠牲になるのは子どもたちだ。

■ 4本脚のニワトリ、絵の具でできる「きな粉」

 もうひとつの象徴は、生きるチカラを失いつつある子どもたちだ。フライドチキンとしてあれほど食べ親しんでいるにもかかわらず、絵を描かせたところ、なんと4本脚のニワトリができあがった。一人二人ではない、小学校三年生の1クラス27人のうち5人が4本脚のニワトリを描いたのである(※2)。生きていく上で基本的な何かを欠如したまま大人になるということは、そのまま日本社会の崩壊につながっている。

 フライドチキンは「料理するもの」ではなく、「買ってくるもの」になっている。子どもたちを取り巻く共同生活体が資本主義化され、弁当から惣菜まで商品化される昨今、子どもたちの現実への認識が抽象化されている。中学生とのやりとりを引こう。

   教師「これは『きな粉』よ、なにからつくる?」
   生徒「小麦粉/米/魚/絵の具の粉/じゃがいも/トウモロコシ…」
   と珍答続出である。「大豆よ」と教えると、「ダイズってなに?」と続く(※3)

 子どもたちは、つめこみとふるいわけの教育によって生きる能力を失っている。差別・選別の教育のなかで、子どもの人間的な成長と能力・学力の発達のゆがみが、できない子ども・授業についていけない子どもを大量に生み出している。

 その結果、 現実的感覚の衰弱、学習意欲の喪失と学習に対する拒絶反応、生きがいと生きる喜びの喪失、非行・自殺の増加と低年齢化など、深刻な子どもの人間性の疎外が広がっている。

 子どもは既にSOSを発信している。保健室からだ。多くの子どもたちは、保健室を学校の中で体も心もいちばん休まる、もっとも人間的な場所だととらえている。勉強がおもしろくなくて、頭が痛くなり、保健室で養護の先生と話をするのがいちばん楽しいという(※4)。

■ しつけができない親たち

 学校教育と家庭教育を混同する父母があまりにも多い。しつけの責任を全うせず、教師に代役を求める、あるいは教師がしつけるのがあたりまえという親たち。

  「先生、うちの子は食事のとき、行儀が悪くて困ります」
  「口のききかたがぞんざいなので、しかってやってください」
  「寝転がってテレビばかり見ているので、先生から叱ってやってください」

 最近の親は、先生はサラリーマン的で十分なしつけをしてくれないというが、勘違いもはなはだしい。しつけは家庭でするもの。どうして親は子どもを放っておくのだろうと言いたくなる。人の話を聞くとか、食事の仕方とか、服の着方といった基本的なしつけを教師に任せないで欲しい。これは小学四年生担任の悲痛な叫びだ。

 政府の調査報告(※5)によると、家庭のしつけは「このごろのほうがよくおこなわれている」は、わずか2割という。さらに、「昔の方がよく行われていた」4割の回答が得られている。文字通り、「昔はよかった」が現実になっている。

 核家族化が進み、経験豊かな古い世代からの子育て経験の伝達があやふやになった。また、生活空間の狭さが家庭内の人間関係を必要以上に密接・濃厚なものにした。育児に対して自信がもてない母親が両極端に走り出している。ひとつは、自信喪失なまま子どもを放置し、他に依存する「無責任ママ」。いっぽうは、しつけがなんたるかをしらず、ひたすら子どもの幸せのみを願い、学歴社会のなかで「過保護教育ママ」となる。完全放置と過干渉に、子どもたちは宙づりにされている。

■ 無脳教師が国を滅ぼす

 教師も問題がある。

 都内の私立女子高で、日直の生徒が日誌に「今日は大掃除をした」と書いたところ、担任の先生が「誤字に注意せよ、掃除ではなく、掃事だ」と指摘した教師がいる。

 また、成就を「じょうじゅ」と読んだ女生徒に対し、「せいしゅ」と読むのが正しいと言った先生は、クラスじゅうからクスクス笑われた。先生は気色ばんで「素直さがない」とその女生徒を戒め、クラスは大混乱になったという。

 教師の人格や能力とは無関係に子どもも親も従順な態度を取るため、勘違いする教師が出てくる。あたかも権威が己自身にあると勘違いをし、自己満足の塊となり、小さな権力者の座に甘んじ、横暴な振る舞いに自ら陶酔している。子どもを人質に、小さな教室の女王、あるいは王たろうとしている。

 教師が授業の事前準備をすることはない。業者が提供する、教師用指導書別冊、別名「赤本」で全てまかなえるからだ。この「赤本」は、教科書をベースに、教えるポイントが赤字で注釈されていることに由来する。

 サボリが常習化している、いわゆる「サボ教」も問題である。都内の区立中学の教師を挙げよう。つっぱりの授業妨害を制止できず、タバコも注意できず、自責の念に駆られて気力が断ち切られ、挫折感に襲われる。酒を一杯ひっかけて勢いよくとびだそう――気づくと背広にネクタイ姿で酔っ払ってふとんの上にころがっていたという(※6)。教育者の前に人間的にいかがなものかという好例である。

 その反面、教師のオーバーワークも指摘されている。一例を挙げよう。東京都港区で、生後6ヶ月の乳児をかかえる小学校の女教師が自殺した。「育児疲れでは…」と口を濁しているが、一部の母親が「規定いっぱい産休をとるような教師にうちの子を任せられない」と突き上げていた事実が明るみに出、その圧力が先生を死に追い込んだのだ(※7)。

 小学生まで巻き込んでいる受験戦争へのあせりが、トゲのある言葉となって先生の心を傷つけている――
























30~40年前の話だけどな。

 1960-1980年代の教育論を読み漁ってみた。もし今の教育が失敗しているのなら、その原因は過去にあるはずだってね。

 ところが、分かったことは、当時も今と変わり映えしないという事実。「自然との触れ合いの喪失が、衝動的な子どもを増やしている」とか、「若年の自殺の増加、残虐な犯罪を犯す若者の原因は、○○教育に尽きる」といった論ばかり。いま教育の荒廃を嘆いている連中は全滅だね。連中が「子ども」だった頃も、

    子どもたちは落ちこぼれ、疲弊し、人間性を失っており

    親は放任無視か過保護で、しつけすらできていない

    教師は無能か意欲がないか、その両方

なのだから。これが事実かどうかは別として、マスコミはこんな論調だ。どこか荒れてる所に取材してはネタ化して、だから○○はダメだ、とくる。○○にはその時代の標的――臨時教育審議会、中央教育委員会、新学習指導要領、能力主義教育――が入る。つぎは「ゆとり」かね。ちなみに、臨教審の打ち出した「ゆとり教育」に当時のマスコミは大絶賛してたことを申し添えておく。自己批判の必要すら感じない無脳っぷりは、ぜひ見習うべし。

 最近では朝日のAERAがいちばんの叩き屋だが、当時は読売新聞社会部が権勢を誇っていたね。花道からツマ弾きにされた連中が、社会正義の名を借りて、ウップン晴らしをしようとするのは、とても人間的だ。しかし、ちょっとは昔の記事を見ようよ。ホラ、常考すぎて今じゃ言う人もいなくなったけれど、ネットじゃこう言うぞ、「過去ログを読め」ってねッ

 「学力低下」の本当の原因は、「学力低下」にしたい人たちがどこにいるのかを探すことで、見えてくるんじゃぁないかと。

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年を伏せてダマすような書き方をしてゴメンナー。注釈と出典は以下のとおり。

(※1)1967年のNHK世論調査。親も教師も、40年前から変わっていないね
出典:こんな先生はヤメテしまえ(佐藤弘毅著/日新報道出版/1976) p.223
(文部省39%、政治家39%、企業11%、教師8%、父母2%)

(※2)1963の調査、ちなみに10年後もほぼ同じ結果が出たそうな
出典:子どもの学力と能力(坂元忠芳/青木書店/1976) P.209

(※3)1982年の話。ウケを狙ったんじゃないかと
出典:子どもの重荷を共に背負って(小柳恵子/日本生活教育連盟/1982)

(※4)1960後半の調査報告。この頃、「保健室登校」という言葉がなかっただけ
出典:(※2)P.83

(※5)1971年の総理府の調査。30年前
出典:(※1) P.133

(※6)1984年6月読売新聞連載レポート。昔は「おおらか」だねぇ
出典:教師追跡レポート(読売新聞社会部/読売新聞社/1984)

(※7)1979年4月13日毎日新聞。今も昔も、教師の自殺は格好の新聞ネタ

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「いまどきの若者はダメだ」シリーズ、爺婆が「最近の若者は○○だ」と言い出したとき、思い出し笑いできるぞ。

最も古い「最近の若者は…」のソース
「最近の若者は本を読まない」本当の理由
近ごろの若者は当事者意識がなく、意志薄弱で逃げてばかりいて、いつまでも「お客さま」でいる件について

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 うん、もちろん「オマエに都合のいいデータだけを取捨選択しているからだろ?」というツッコミは正当だ。ただし、これがマスコミの口から出た瞬間、オマエモナー と撃たれることは言うまでもないけれど。

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