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嫁とKanon(その2)

Roufirudo まこぴー、まいちゃん、しおりん… 次々と巨星墜つなか、いよいよ佳境にさしかかっているKanon、毎週正座して観ている。ええ、見る度に涙ぼろぼろですよ。大枚はたいて衛星放送入れた甲斐もあるというもの。

 恐るべき京アニのクオリティとか、伏線回収ルートの比較検証とか、最早どうでもよく、表舞台より去ってゆく彼女たちが不憫で不憫で、さらにこれからキョン祐一が向かい合う運命を慮り、どのシーンを見ても泣けてくる。

 最初は独りで観てたが、嫁さんにエロビデオだと誤解された経緯あり[参照]。今では夫婦で仲良く見ている。「なかよく」なんて語弊がありそうなので、嫁さんの言を引く。曰く「ぼくが読書してる横で勝手にアンタが見てる」とのこと。

 そして、彼女たちの『正体』を、原作なんてこれっぽっちも知らない嫁さんが、ズバリズバリとあててゆく。なんだか怖くなってくる。例えばこんなカンジ…

  沢渡真琴 : 「この娘はニンゲンじゃない、というオチ?」
  川澄舞 : 「マモノの正体はこの女の子だ!」
  美坂栞 : 「サナトリウムブンガク?」

 いずれも、それぞれのシナリオルートに入った直後に見抜く。原作は隠してあるし、嫁さんがわざわざgoogleっているとは考えにくい。どうして分かるのか? と訊くと、「だって、そのほうが面白いから」 と言い切る。

 曰く、「物語は面白くなる方向へ収束する」だそうな。「お約束理論」、つまり、物語は「お約束」を守って展開されるべきであり、このオタクアニメも例に漏れないそうな。その観点で見るならば、真琴は人間界から消失しなければならないし、マモノは舞が生み出さなければ話が面白く終わらないし、同じ理由で栞の病気は不治でなければならない。

 瞠目したのが、

  月宮あゆ : 「天使なの? あるいは(いちど死んで)神様に猶予をもらったの?

 慧眼なり。オープニングのアレを見れば、どうしてもそう考えてしまうだろうし、ひょっとすると「天国から来たチャンピオン」を想起しているのかもしれない。ある意味、正解なんだが

 ナユキストのわたしに心強いコメントが得られた、すなわち、

  水瀬名雪 : 「幼なじみなんだから、最後には一緒になる

 と断言している…本当かッ! (゜Д゜)クワッ キョン祐一の不用意な質問「おまえ、好きなヤツとかいないのか?」に、ちょっと困ったような(泣きそうな)顔で答える名雪、このシーンだけで6杯はいけるぜええぇぇぇっ

 ―― どうか、名雪には幸せな記憶を。ラストだけ分岐して「名雪エンドDVD」も可。あるいは全員分の分岐があったりして。その場合は秋子さんエンドを強力に所望。

 明らかに挙動がおかしくなっているダンナに心底辟易顔の嫁さんが「寝ろ」。ヲタネタにつきあってくれてありがとう。アイソ尽かされない程度にヲタをやっていこうとあらためて決心する。

 ただし、子どもを巻き込もうとしたら刺されるだろうな。

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涼宮ハルヒの絶望

閉じられた世界 「絶望系 閉じられた世界」を読む。うわーなにコレ、すごくいいじゃないか。「ハルヒ」書いた人とは思えん。小説としての「ハルヒ」の出来はアレだけれど、これは良作、なんってたって、「この超展開、どうなるんじゃぁっ」と(ラストを予感しながらも)ページを繰る手が止まらなくなったから

 ラノベとハーレクインの読者はまさに「物語の消費者」といえる。期待するキャラやストーリーを効率よく吸収するためにページをめくる。けど、これ、ラノベか? 表紙や序盤の「不思議ちゃん+萌エロ」を期待して読むと、ラノベというフォーマットを突き破って唐突に残虐化する鬱展開に仰天するかも。移入すると心が痛い痛い。

 またラノベっぽくないのが話し手。ラノベにおける状況説明は、エロゲ並みのモノローグで語られることが多い(キョンの長台詞が典型)。これは心地よいときもあれば鼻につくこともある。その"弱点"を、本書では実にスマートに回避している→サブキャラを狂言回しにすることで、エロゲの主役なる人物を「語られる側」に追いやる。

 しかも話者を固定せず、サブキャラ→メインキャラ→神の目と、自由に視点が行来しているので、ダレることなく読める。狙ってやっているとするならば稚拙感あふれるが、これはおそらく書き手が欲求に従ったまでだと思う←その欲求は正しい。

 わたしの場合、こいつを劇薬小説として紹介されたので、それなりに構えて読んだが、ああ、確かに劇薬かも。「谷川+のいぢ」でハルヒのつもりで読むと地雷なので要注意。ハルヒが壮大なトートロジーなら、本書は絶望というシステムの話やね。あとmizunotoriさんちのランキング[参照]によると、ラノベ三大奇書でダントツ一位。

  1 絶望系 閉じられた世界(谷川流) ←劇薬小説でもある
  2 ミッションスクール(田中哲弥) ←わたしのレビューは[これ]
  3 食前絶後(ろくごまるに) ←未読・興味津々

 ハルヒとは真逆の、ネガ/ポジにしたような少女がでてくる。謎多き引きこもりの美少女、というレッテル貼って安心して読み進めていくと、自己言及のぐるぐる回しの果てに、結局ハルヒと同じような行動をしていることに気づいてガクゼンとする。これを書き手の想像力の限界とくさすのはたやすいが、素直にわたしは涼宮ハルヒの絶望のお話だと読み替えた。

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「わたしのいもうと」の破壊力

わたしのいもうと 読むと後悔する絵本、劇薬絵本とでも言おうか。そんなことはつゆ知らず、「読んで」と子どもが持ってきたら読まなきゃいかんだろ。

 後ろを向いた「いもうと」の表紙を見たときの、なんとなくヤな予感はあたった。テーマは「いじめ」、しかもガチ、さらにラストが…

 ―― 引越しして、あたらしい街に住むことになり、期待に胸をふくらませて学校へ行った「いもうと」。そこで受けた「いじめ」は、どちらかというと、よくあるいじめ。「いもうと」はこころを傷つけられる。

 それから学校へ行かなくなった「いもうと」の日々を家族の視線で追いかける展開なのだが… まさかこうなるとは。そして、ラストの「いもうと」の手紙が胸に刺さる。この絵本の手にしたわたしも「いじめ」の傍観者になった気分だ。彼女の願いはとてもあたりまえのこと――「みんなと仲良くしたかった」が踏みにじられ、踏みしだかれた「いもうと」を置き去りに、いじめた子どもたちはすくすくと大きくなり、中学生になり、高校生になり、学校へ行かなくなってこもりっきりの「いもうと」の部屋の窓の下を楽しそうに笑いさざめきながら通り過ぎてゆく…もちろん「いもうと」のことなんて忘れてしまって。なんと残酷なことか。「いもうと」は最後の最期までこちらに顔を向けない。ずっと「いもうと」の表情は見ることができない。「いもうと」が流した涙も、思いも、くやしさも、悲しみも、ぜんぶ絵本の読み手が想像するしかない。そしてこの話がストレートであればあるほど、「いもうと」がどんな思いでいたかダイレクトに伝わってくる。

 子ども相手に読み聞かせしていたんだが、声が詰まって読めなくなる。いつもと違う父に戸惑う子ども。声を震わせながら読んだ後、わたしは子どもにこう言った。

 いじめは、ぜったいに、許されないことだ。いじめとは、その人がされたらイヤなことを、することだ。どんな理由であれ、その子がされたらイヤなことは、してはいけない。これは、あたりまえのことなんだ。

 だけど、おまえが、イヤことをもしされたら、いやだ、といいなさい。いやなことをやまなかったなら、先生にたすけてもらいなさい。パパとママにいいなさい、なにがあってもきみをまもる。

 かなり静かな声で伝えたが、思いはハッキリと伝わったようだ。

 さいきん、善悪が分かるようになり、「死」や「罪」の話をする。「死んだらどうなるの?」とか「悪いことをしたらけーむしょにいくんだよね?」といった話を振ってくる。

 ここぞとばかりに、悪いことをしてはいけない、人を傷つけてはいけない、人殺しは死刑、最も罪深いのは、自分という「人」を殺すこと。善いことも悪いことも、ぜんぶカミサマが見てる、パパはそれを「天」と呼んでいる、ほかにも「地」が見ている、さらにそのことをした自分こそが、一番知っている。もしも悪いことをしてしまったら、相手に「ごめんなさい」といいなさい。相手がいなければ、パパとママにいいなさい。

 という、あたりまえ(?)のことを折にふれ何度もしつこく言い聞かせている。中学生ぐらいになって、小鼻をぴくつかせながら「どうして人を殺してはいけないの?」などというアホな質問をさせないために、絶対にやってはいけないことをしっかりと教えている。カルネアデスの板なんて、自分で結論を出せ。

 この絵本は要するにイソップのカエルの話なんだが、大きく異なるのは、石を投げる子どもに向かって「君たちが戯れでやっていることは、我々の命に関わることなのだ」などと告げないこと。「いもうと」はひっそりと死に、わたしは、ひとが傷つくさまを傍から見ているしかない苦しみを味わわされる。終わっても、釈然としない思いを抱えることになる。いや、ヒドい言い方をしてもいいのなら、こんな思いを知らないままでいたほうがよかった、そういう破壊力を持つ絵本。

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不都合な真実 vs 百年の愚行

不都合な真実 「不都合な真実」を読んだ──が、足りない。地球温暖化は深刻なんです、CO2が原因なんです、アル・ゴアはこんな人物なんです、人の営みを変える必要があるんです… ドラマティックな映像+意図が明確なグラフ、デカいゴシック体が訴えかけてくることは非常に分かりやすいが、それ以上のものは得られない。

 それでも写真の持つ訴求力はスゴい。例えば、同じ場所の2枚の写真。まるで「使用前」「使用後」のように明らかだ。特に目を引いたのが、1975年のブラジルの衛星写真。一面緑に塗りつくされているのが、2001年では同じ場所とは思えない無残さ。あるいは、p.222の禿山が連なるハイチと、隣のp.223の緑に覆われたドミニカ共和国の国境を真ん中にすえた写真は、政策の違いが如実に「見える」。

 また、夜の地球の写真が面白い。むかし親父が教えてくれた「宇宙から地球を見たとき、三つの光が見える。都市の白い光、焼畑の赤い火、そして油田の黄色い炎だ」に加えて、もうひとつ、青白い光があることが分かった、日本海に集中して見える漁火だ。

 そんな写真が沢山あるのだが、メッセージは冒頭で言い尽くされており、わたしの考えが入り込む余地はない── ので、むしろつまらなく思えてくる。ひんぱんに挿入されるゴア一族のポートレートは邪魔。最初は好意的にとらえていたのに、読み終わると懐疑的になったのはわたしだけ? あるいは本書のラストで指摘しているように、わたしは某企業のPR活動に洗脳されている? あるいは事前に「アル・ゴアに不都合な真実」を読んだから?

 エラーが発生するとき、その原因を一つに絞ることは、とても危険。本書は分かりやすくただ一つの原因を狙っているだけに、むしろ警戒感を持ってしまった。映画はもっとプロパガンダじみているんじゃぁないかと。

百年の愚行 ↑読んでううむと唸るなら、むしろ「百年の愚行」を強力に推す。どの一枚を選んでもいい。人間がやってきた/やっている/やるだろう愚かな行動の結果が、ハッキリと見える。

 amazon紹介文: 20世紀を振り返り、21世紀の地球を考える100枚の写真。それぞれが、人類が地球環境と自分自身に対して及ぼした数々の愚行の「象徴」であり、と同時にひとつひとつがれっきとした「現実」である

 わたしの子どもが大きくなったら、必ず読ませる一冊、それぐらいのスゴ本。あるいは、すごい本探している方なら、黙って読め(見ろ)とキッパリ言い切れる一冊でもある

 どの一枚も重すぎて、何万語使っても語れない。一枚の写真の威力に圧倒される。それが100枚、ただ、この凄まじい現実を目ぇ開いて、しっかりと見ろ、としか言えない。あるいは、知らなければよかったと激しく後悔するかもしれない現実を見てみろ(たとえ怖いもの見たさであっても)、「無知ほど完全な幸福はない」という言葉が沁みるはず。

 近々人類が滅びるとするならば、その原因が写っているのは、「不都合な真実」ではなく「百年の愚行」だろう

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