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今年のNo.1スゴ本「血と暴力の国」

血と暴力の国 極上の小説。血でつくったワインを一気に飲むようにキた。

 マッカーシーは傑作「すべての美しい馬」を超えられないんだろうなーと決め付けていたが、どっこい本作で化けた。しかもクライムノベルときた。驚くというよりも、疑ったね、本物かと(扶桑社だし)。

 が、読み始めてすぐ分かった、本物だ。しかもパワーアップしてる。あの「刑務所でのナイフの闘い」の緊張感が全編にあふれる(しかも弛むことなくイッキに進むので、読み始めると、息をするヒマはない)。

 ストーリーは極シンプルかつ特濃。描写も展開もムダが一切ない。キャラの扱い容赦なし。ぜい肉を削ぎ落とすだけでなく、闘うために最適化された文章だ。もちろん相手はわたし。いつもどおり不用意に主人公、狂言回し、展開予想しながら読み、ヤラレタ。

 地の文と会話と内省が区別なく進み、描写の接写/俯瞰の切替は唐突で、動作は結果だけ。シンプルなくせに単純化厳禁。「追うもの/追われるもの」パターン化して読むとヤラレル。会話の妙はこんなカンジ…

 モスは行きかけた。女の子は部屋を出てドアを閉めた。そんなに急いで行かなくてもいいじゃない。
 モスは入口前の階段の下の段で足をとめた。
 袋にもう一本入ってるの?
 ああ。二本入ってる。二本ともおれが飲むつもりだ。
 ここに坐って一緒に一本飲んでったらどうかなって思っただけ。
 モスは目を細めて相手を見た。女ってのはノーという返事をなかなか受け入れないって気づいてたかい? それはたぶん三歳くらいから始まるんだろうな。
 男はどうなの?
 男は慣れる。慣れるのがうまいんだ。
 あたしもう一言もしゃべらない。黙って坐ってる。
 一言もしゃべらないか。
 うん。
 ほらさっそく嘘になった。
 とにかくほとんど何もしゃべらないから。静かにしてる。
 モスは階段に腰をおろし紙袋からビールを一本出してねじ蓋をはずしラッパ飲みをした。女の子も隣に坐って同じようにした。

 あるいは以下が雰囲気を知るのに良さげ。

 角まで来ると通りに立っている男は一人だけだった。男は車の後部に寄り添っていたが車は蜂の巣になりウィンドーはどれも砕け落ちているか白く罅割れていた。車内には少なくとも一つ死体があった。銃を持ち上げホテルをじっと見ている男を狙って二発撃つと男は通りに倒れた。シュガーは建物の陰に戻り銃を肩の高さで上向きに持って待った。朝の冷たい空気の中に火薬の刺激臭が濃厚に漂った。花火のような匂いだ。どこからも物音は聞こえてこない。

どちらも同じ小説だ。シンプルで濃厚、鮮烈なスゴ本。心して読むべし

 以下結末に触れる。ネタバレを極力回避しているが、念のため反転表示にしておく。読み終わった後に、いや後半のある時点で愕然とするだろう。そしてやるせない思いを抱いたまま読了するに違いない。わたしもそうだ。だから、わたしを納得させるために書く。

 あまりの理不尽さにガツンとヤラレタ。予想していたどんなラストをも裏切っているにもかかわらず、きわめてシンプルな結末。ラノベやエンタメ系に飼いならされたハートは、絶望で満たされた。

 ここでギリシア悲劇を引き合いにするのは当然かと。この読後感に決着をつけるためにも。追うもの、追われるものがいかに似ているかについて、指摘しておく。まずは「絶対悪」シュガーが、ある人に言い聞かせているところ。

 そのことでおれに発言権はない。人生の一瞬一瞬が曲がり角であり人はその一瞬一瞬に選択をする。どこかの時点でおまえはある選択をした。そこからここにたどり着いたんだ。決算の手順は厳密だ。輪郭はきちんと描かれている。どの線も消されることはありえない。

 次は追われる者、モスの発言。

 きみがわかっていないのは知ってるけどもう一度説明してみるよ。きみは朝起きたときは昨日なんて意味がなくなっていると思ってる。でも意味があるのは昨日だけだ。ほかに何がある? きみの人生はそれができあがってきた日々でできあがっている。ほかには何もない。

 シュガーやモスが、血と暴力の果てに何を見るか? よりも、どんな「選択」を積み重ね今にしてきたか、が問われている。読み終わったあと、こう思うだろう「あの現場に戻ってこなければ、こんな運命にはならなかったろうに」。だがモスは戻ることを選んだ、どれだけ重要な決定なのかは知らなくても。自分に落ち度があろうとなかろうと、起きてしまったことは、もう撤回できない。シュガーは「約束」と呼んだ。ふつう、天変地異や偶然や運命といった人外の存在(神でも可)を介して意識されるが、それが人の姿をするとき、こんなことばを吐くのだ。

 読み手はシュガーの台詞を字義どおり受け止めつつも、「物語らしいラスト」を求めるだろう。だってそのために銭やら時間をはたいているのだから。そして、「物語」なんて最初からなかったことにぶちのめされるにちがいない。いや、ひょっとすると抗議しだすかもしれない。そのとき、初めて「起きてしまったことは、もう撤回できない」ことが身にしみてくる。

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新訳「リア王」はスゴ本

リア王 シェイクスピアは「リア王」が一番ドラマティックで面白い。松岡正剛は「シェイクスピアの最高傑作である」と断言している[証拠]。今回は光文社の新訳で「リア王」を再読ッ、めがっさ読みやすいにょろ~。人間の弱さ・醜さ・おぞましさが、スラスラ読めるおそろしさッ!

 しかも新訳を手がけたのは、現役の演出家でもある安西徹雄。なので、現場の酷使に耐えうる「生きた・今の・ことば」となっている。昔からの定番、新潮文庫の福田恒存訳と比べてほしい。わたしが好きな忠臣ケントの罵詈雑言で、まず旧訳から。

ごろつきさ、無頼漢さ、大口開けて他人のおこぼれ待ちの乞食野郎と思っている、賤しくて高慢ちきで、薄ぺらで物ほしげな面附きの、節季節季のお仕着せと一年百ポンドのお給金が何より頼りの、生涯毛むくじゃらの薄穢い靴下野郎だ、肝玉は白ちゃけた百合の花、喧嘩となれば直ぐさま畏れながらと訴え出る、父無し子で、うぬぼれ鏡と睨めっこばかりしている、出しゃばりの見え張りだ、吾が物と言えば全財産鞄一つの下司野郎だ、御主人様の所望とあらばいそいそ売女の取持ちまでやりかねない、手取早く言えば、ごろつきと乞食と臆病者と桂庵婆と尻軽の牝犬の仔と、そいつを全部突混ぜにした合いの子の化物だ、最後に、今言った肩書が一つでも嘘だとぬかそうものなら、めった打ちにしてその咽喉から金切声の悲鳴を挙げさせてやりたいような野郎だよ、貴様は。

 訳が古い(?)からなのか、原典に忠実だからなのか、なんだか詩文を読んでいる気分になる。いっぽう、新訳になると、発声を意識した語呂・音節となっており、読みやすいというよりも、(心の中で)聞きやすい。目で読むことと同時に、アタマで再現することを考えたセリフとなっている。

お前は下郎だ、悪党だ、ガツガツ残飯にありつく乞食野郎だ。賤しい、さもしい、浅ましい、惨めったらしい、汚らしい、どこからどう見たってしこたま見苦しい下郎めが。腰抜けの、腑抜けの、ヘナチョコの、ド助平の、見栄っぱりの、お節介の、最低のニヤケ野郎め。財産といやァ、ズダ袋ひとつっきりのスカンピン。御主人様のおためとありゃァ、いそいそ浮気の相手までお世話したがる、女衒野郎。要するにだ、悪党と乞食と臆病者と、そのうえポン引きと、素性も知れぬ野良の牝犬の小倅と、その全部をひっくるめて、つき混ぜて、こねくり回して、一つに丸めた団子野郎なんだよ、手前は。今並べ立てた悪名のうち、どれか一つでも嘘だなんぞとぬかしてみやがれ。その面ァ思いっきりひっぱたいて、ヒーヒー言わせてやらなきゃァ、こっちの肚が収まらねえ畜生野郎なんだよ、貴様は!

 さらに、パラ見していただけると瞭然なんだが、ゆったりとした段組と文字間、表紙の高級感が読むヨロコビを刺激する。光文社の古典新訳シリーズは、「古典は難解、読みにくい」を徹底的に破壊してくれましたな。THX!

 実は昔、「リア王」初読の前に、黒澤「乱」を観てしまってたので、たっぷりインプリンティングされてた。物語を追わず、「クロサワの視線」を探しながら読んでしまった(ちなみに「蜘蛛巣城」も同様)。見てから読むか、読んでから見るか。古典は「読んでから」が吉やね。

 で、今回の読みで驚いたのが、「道化」と「親子関係の二重底」。以前は刺身のツマみたいに思っていた「道化」の存在をおそろしく強く感じた。最初に読んだとき、道化の役回りは、「もう一人のリア」のつもりなんだろうなー、と思っていた。

 しかし、道化の予言めいた(実際のところ、予告だったんだが)唄が舞台の空気をつくりだしていることに気づいた(意味的には旧訳も新訳も変わらないのだから、この気づきは、わたしの変化なんだろう)。

 さらに今回、「二重底の親子関係」に目が行った。初読のときは、リアと3人の娘の「父娘」ばかり追いかけていた(メインストーリーだからね)。いっぽう今回は、もう一つの親子関係「父息子」との悲劇の呼応に反応した。そう、リアの臣下グロスターと2人の息子の親子関係ナリ。

 親子の確執と愛情(陰謀も!)と、物語へのからまり具合が絶妙―― と、覚めて読んだ自分がかわいそう。これは夢中になって読むもの。以前は愛憎劇と斬っていたが、親子だけでなく、男女のもドロドロに混ざっていることに、ようやっと気づいた。不倫と駆引き、姉妹丼、さらに嵐の一夜のリアと○○○の掛け合いは、老人と若者の同性愛のように読める。物語の風向きを先導していた「道化」が消えるからなおさらだ。

 コアを担うキャラクターが幾幕ごとに「ストーリー」を渡していく様が見事だなぁ。ストーリーという道があって、サブストーリーが脇を走ってて… ではない。もつれた人間関係をライト(=話者)が行来していき、だんだん浮かび上がらせていくような感覚。でも全員が乗っている「場」がある運命に向かって船のようにずんずん進んでいく。小説の延長のつもりで読んでいた自分が恥ずかしいね。

 シェイクスピアがスゴい、ということにようやく気づいたのは、新訳のおかげ。続々出てくるのを激しく希望。以下、自分メモ。

■ シェイクスピア劇の種本(p.255)

  • プルターク「英雄伝」  →  「ジュリアス・シーザー」「アントニーとクレオパトラ」
  • ラファエル・ホリンシェッド/エドワード・ホール  →  「リチャード三世」「ヘンリー四世」
  • イタリアのノヴェラ(小説)  →  「ヴェニスの商人」「オセロウ」
  • プラウトゥスのローマ喜劇  →  「まちがいの喜劇」
  • トマス・ロッジ「ロザリンド」  →  「お気に召すまま」
  • ジェフリー「ブリテン列王伝」  →  「リア王」
■ ハッピーエンドの「リア王」(p.258)

 「改変前」に着目すると、シェイクスピアは改変の達人なことが分かる。

 実は、「リア王」の元となった脚本「年代記劇」は、ハッピー・エンドなんだそうな。コーデリアとフランス軍は、二人の姉と夫たちの軍勢を打ち破り、父を無事に王位に復帰させ、リアもコーデリアも、その後、幸せに暮らすという結末なんだってー!!!ΩΩΩ

 さらに、「リア王」をさらに改変したネイハム・テイト版がもっとスゴい。ハッピー・エンドだけでなく、ラストはコーデリアとエドガーの結婚になっている。というのも、二人はもともと恋仲で、リア王の愛情テストは、末娘を翻意させるための計略だったというワケ。コーデリアはエドガーへの愛を貫くために父の期待に背き、追放されるのだが、最終的にはこの恋も実るというラブストーリーとなっている。

 同人誌も真っ青の改変だけど、シェイクスピアのラストでなかったならば、ここまで心に焼きつきはしないだろうね。

■ 「エセー」との対句(p.262)

 モンテーニュのエセーに強い影響を受けているそうな。「テンペスト」のニ幕一場147行以下に、その跡が見えるらしい。「リア王」では、嵐の中の掘っ立て小屋でキチガイ乞食を見たリアの言葉

よおく見ろ、こいつを。蚕に絹を借りてもおらぬ。獣に皮を借りてもおらぬ。羊から毛も、猫から麝香の香料も借りてもおらぬ。…文明の皮を剥ぎ取れば、人間、たったこれだけの、素裸の、哀れな、二本脚の動物にすぎぬのか。

 は、「エセー」第2巻12章「レーモン・スボン弁護」と酷似しているという。

■ 「リア王」の現場

 手元の「リア王」は、そのままでは上演できない。長すぎるからね。だから、現在の日本で実際に上演するために、2~3時間に収まるようにカット・圧縮している。訳者魂というよりも、芝居魂を見せ付けられるのが以下の一節。スゲぇよ安西監督!

一つの芝居を創りあげてゆく時、少なくとも私たちの集団では、ほぼ一ヶ月半稽古をつづける。それに実際の上演がほぼ十日あまり、もし地方巡演に出ることがあれば、私の訳した台本は、合計して何十回、時には百回を超えて役者の口にかかることになる。私が書いた言葉は、それだけの長い期間、苛酷な使用に耐える力を備えていなくてはならない。しかも、同時に演出者でもある私は、その間、私のせりふがどのように語られ、生きられるか、身をもって見守りつづけ、見届けなくてはならない。私の翻訳台本は、現にそうした現場の酷使に耐えてきた。

 安西徹雄が演出した台本はネットで読む/購入できる→[BBC文庫]

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