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嘘つきとヤンデレの純愛「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」

嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん ヘヴィノベルだ、これっぽっちも light じゃない。が、面白さも重たい。するりと読めてガッチリと掴み取られる、まーちゃん(表紙)に。彼女のヤンデレは狂気の域に達しており、小学生兄妹を拉致って監禁している。

 いっぽう、語りべのみーくんは嘘つき。口ぐせは「嘘だけど」。地の文に紛れ込むモノローグでも嘘をつく。こっちはそこを織り込んで読むのだが、ラストの「幸せの背景は不幸」のくだりでやられた!おもわず天を仰ぐ。「幸せの背景は不幸」―― これがサブタイトルに入っているのを読了後に知って、もう一度空を見る。

 さらに、 一行目を読んだ瞬間、物語の二重底に気づく。ミエミエ、と思ってたら実は三重底。まーちゃんのヤンデレと、みーくんの口ぐせ「嘘だけど」が効いている。この仕掛け、上手に騙されましたな。ラノベだと舐めてかかって一本背負いを喰らった。でも気持ちいい。

「まーちゃん」
 マユの髪を指で梳きながら、諦め混じりに問いかけた。
「君、あの子達を拉致っちゃった?」
「うん ! 」
 当り前のように、元気一杯の返事を頂戴した。なんか、褒めて褒めてと、今にも言い出しそうだ。言われたらどうしよう、頭ぐらいは撫でてしまいそうだ。
「ねーねー、みーくんはおうち帰らなくていい? ていうか、一緒に住もうよ」
『は』ってあのね。
「質問と要求を一緒くたにしないように」
「で、で? どーなの?」
 人の話なんか聞いちゃいねぇ。しかも、目が爛々に輝いている。学校での性格はハリボテだったのかな、童女の立ち振る舞いが自然すぎる。


 するする読めて、ガッツンやられる。ラノベだからって「軽く」見てたのが恥ずかしい。そうそう、カバー裏はスゴいことになっているので、ぜひ読了後に鑑賞するように。

 嘘だけど。

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松岡正剛の読書術

 をッ!という本を検索すると、たいてい千夜千冊に突き当たる。セイゴォ式ウンチクに耳をかたむけつつ、類書を漁る。いわゆる「ソレ読んだら、コレなんて、どう?」的なオススメ。しかも肝をつかみとって教えてくれるので、これだけで読んだ気になれる。

 「読書とは編集だ」と言い切るセイゴオ読書術は、なかなか面白い。読書術や読書論は、千夜千冊(全8巻)のあちこちに散らばっているが、特別巻「書物たちの記譜」にまとめられている。中でも、わたしにピクッとキたものをピックアップしてみよう(太字化はわたし)。

■00 読書の謎

そこ(非線形読書のすすめ)に何を書いたかというと、われわれは読書によって書物にしるされていることを読んでいるとはかぎらないということを告げた。われわれは読書しているあいだに、アタマのなかで勝手な連想や追想や、疑問や煩悶をおこしているわけだから、ごく控えめに言っても読書とは、テクストの流れと自分のアタマのなかの知や感情の流れを重ねながら読んでいるわけなのだ。しかもそこにはたいへいさまざまな記憶がよみがえっている。すなわち、われわれは読書という行為を書物のなかの一行ずつ順に読んでいる線形(リニア)的な行為だと思っているものの、実際はそうではなくて、もっともっと非線形(ノンリニア)な行為をたのしんでいるのである。読書はつねに編集的な行為なのである。

 この考え方は繰り返し出てくる。単に字面から意味を吸収することなんて、無い。わたしたちは、読書という行為を通じて、自分の経験をやり直しているというわけ。

 実感する方法は簡単だ。未知の分野に挑戦してみればいい。最初の数冊のハードルは高いかもしれないが、こなれてくるとずんずん速く読める。既に理解した思考フレームや用語を読み直しているから速くなる。

■01 読書の多様性

こんなに先を読みすすむのが惜しく、できるかぎり淡々とゆっくりと味わいをたのしみたいと感じた本にめぐり会ったのは久々のことだった。「惜読(せきどく)」などという言葉はないだろうが、そういう気分の本である。どうしたらゆっくり読めるだろうかと懸念したくらいに、丹念で高潔だ。

──第十七夜「定家明月記私抄」より


読書というもの、なんとも不束なものである。その本を一度読んだというだけでは、ほとんど意味がつかめないことが少なくない。ぼくもこれまでもいやというほど体験してきた。読書の感動は何度か再生してみなければ何もならないのである。

──第七八四夜「雑談の夜明け」より

 耳に痛い。読み替えると、「何度も再生することで意味をつかむような本」を、あんまり読んでいないからだ。わたしの読書は刹那的で、スゴい本の凄さ加減が一読でつかめないようだと、そこでオシマイ。

 その結果、即効性の高い新しいモノばかり追い求めてばかりいる。再読、味読、傍らにおいて読み返すようなやり方はしなくなった。昔は、本は食べるように読んでいたのが、今じゃ、本は通過するように読んでいる。

 それでも、「惜読」じゃないが、ゆっくりゆっくり読んでいる本、再読、再再読している本は、確かにある。最近なら、

  ・ゲーデル、エッシャー、バッハ(ホフスタッター)
  ・言志四録と、井原隆一の解説本
  ・伝習録(溝口雄三の新訳)

 これらは積ン読というわけではなく、思い立ったら数頁、数十ページと読んで、幾日か措いて、再読したり進んだりしている。「全部読む」ことが目的ではなく、食べて自分のモノにすることだから、それでいいのかも。生活する傍らにおいて、一緒に空気を吸うような感覚。

■03 書店をたのしむ

書店で本を見るとき、いくつかの注意点あるいはヒントがある。

第一点。文庫本の棚はベンキョーにならない。あれは最近アイウエオ順の著者並びになっていて何の工夫もない。たんなる電話帳だ。
第二点。本の並べかたには平積みと棚差しというものがあって、手元の台に平積みにしている本はたいてい売れセンばかりなので、それに気をとられないで、ちゃんと棚差しのほうを考査する。
第三点。棚の本を見るときは(スキャニングするときは)、三冊ずつ目をずらして見ていく。だいたい本は一冊だけ手にとるのはよくない。その両隣りの本を必ず三冊ずつ認知するようにしたい。これだけでも三倍のスキャニングができる。
第四点。財布の都合にもよるが、本はできるかぎり"複数買い"をする。図書館で棚から本を閲覧室にもってくることを考えればわかるように、一冊だけとってくるのはあまりにも非効率的だ。そもそも本を一冊ずつ読むということは、小説を除いて、しないこと。いろいろ取っ替え読み替えしているうちに、本の味も値打ちも見えてくる。
第五点。ときにはあえて本を買わずに出てきて、その本屋の棚に並んでいた本をあれこれ思い出してみるとよい。近くに喫茶店でもあるのならいったんそこでさっき見たばかりの本の数々を思い出してみて、また本屋に戻って確かめることだ。ぼくは何度もこのエクササイズに耽ったものだ。

──第七五二夜「棚の思想」より

 達人の使い方だなぁ。全てのTipsは実証済みの上で、「使える」と断言できる。ただし、書店派から図書館派に鞍替えしたわたしにとっては、図書館で使っている技術。あえて"書店ならでは"として付け加えるならば…

  • インプット、アウトプットを観測する : 書店は入替えが激しいもの。定点観測する拠点から、入り込む本、出て行く(消えていく)本、溜まる(澱む?)本をチェックする。すると、「(書店は)どんな本を売ろうとしているのか」(←これ重要)「どんな本が売れているのか」「どんな本が売れなかったのか」が見える
  • ジャンル棚をチェックする : 特にIT系の技術書でで気をつけているのが、ジャンル別に分けられた棚の「見出し」。例えば、PHPの見出しがあった隣にPerlができたなー、Rubyはまだかなーとか。あるいは、プロジェクトマネジメントの棚がだんだん奥のほうへ移動しているなー、とか。書店は「売れスジ」に敏感なので、「見出し」を流行のバロメーターの一つにする
  • 雑誌の重点チェック : 雑誌こそ生モノ、図書館では間に合わない、かつ書店の「色」が一番出てくる。書店ではもっぱら雑誌コーナーに入り浸り、平積み棚ざしの見出しから漂う「空気」を吸ってくる。未知のジャンルに手を伸ばす

■04 図書館へ行く

図書館にはたくさんの本が待っている。そこへ行けば多くの本が読める。図書館は、すでに眠りこんでいたいっさいの知の魂を呼び醒ますための時空間装置なのである。それらはいったんは眠りこんでいた書籍をその胸に深く抱きこむだけに、どんな空間より死のごとく静謐であり、そのくせ、その一冊にちょっとでも目をいたせばたちまちに知の声が次々に立ち上がってくるのだから、どんな空間よりも群集のごとく饒舌なのである。

──第二八二夜「ヨーロッパの歴史的図書館」より


 時間のフィルターを潜りぬけた古典に価値を認めるならば、図書館こそフィルタリング装置だろう。書店にはクズのような本が(一瞬だけ)デカい顔をしている一方で、図書館の本は平等だ。もちろん例外もある。某児童書が何冊も並んでいるのを見るとウンザリさせられるが、大丈夫、いずれ一冊だけになる(あるいは消えるか)。

 図書館こそ、↑の「03 書店をたのしむ」チェック方法が使える場所だろう。お目当ての本を見つけると、両隣どころかその棚全部を念入りに見たほうがいい。ひょっとすると、探していた本よりもずっと貴重な一冊に遭える可能性が高いから。一冊の本を知のノード(結び目)と見なすなら、その一冊がある棚全部は、よく練られた一本のディレクトリだ。だから、その一冊だけではなく棚の本全部を読むつもりであたる。全読はムリかもしれないが、少なくとも目次熟読+索引とパラ見をしておく。その分野全部を鳥瞰する「つかみ」のようなものが得られる。

■07 マーキングする

本を読みながらマーキングするには、いくつものマークを準備する。傍線やアンダーラインだけではあまり役に立たない。色分けをしたとしても、その色に意味をもたせなくてはいけない。ぼくのばあいは二十種類以上のマーキングが分類されていて、読みながら次々にその分類マークを繰り出している。重要アイテムや感心フレーズにマーキングするばあいでも、著者が重視している用語とぼくが重視したい用語とを区分けできるようにする。人名、年代、書名もマークを分ける。

マーキングは読書を深く印象づけるという効果もあるが、それ以上に再読するときにその書物を短時間に組み立てなおせるようにしておくという効能もある。またその書物の内容を要約したり再構成するのにも役立つ。

──第四九三夜「官僚国家の崩壊」より

 ここ重要→「マーキングは再読するときに書物の内容を要約したり再構成するのにも役立つ」。本で食っていく基本だろうね。本を読むことを、書籍代と時間とアタマの投資と考えるならば、その最も効率的なリターンを得る方法はマーキングだろうから。

 アウトプットを出せない読書はインプットしていないから。よく「読んだら何がしか残る。わざわざ"残す"ことはない」とする人がいる。うん、わたしもそうだった。けれどそのやり方は、時間が経つにつれ「読んだ」というフラグしか残らなくなる。「血肉化」という戯言は、血肉化するほど繰り返し読んでから言うべし

■08 音読する

読むとは声を出すことだ。「分かる」とは声を自分の体で震わせることだ。「分かる」は声を「分ける」ことなのだ。言葉や文字の本質から声を抜いてはいけない。多くの言語学者や書家たちは声を忘れすぎている。空海はこれを一言で「声字」と言ってのけた。

──第五四四夜「五十音図の話」

■10 思速で読む

ぼくが「エセー」を読みはじめて一時間ほどたったとき、この緩やかな思考速度こそ「エセー」が歴史を超えて何度も何度も読み継がれてきた魅力なのであろうことに気がついた。そこでふと"思速"という言葉を思いついた"思速"は、ぼくがモンテーニュに捧げた冠詞のようなものである。歩きながら思索するというのではなく、歩行的思索をするということだ。それが"思速"である。それなら東が長明、西はモンテーニュなのである。

──第七六二夜「パンセ」より

■11 自伝や日記と併走する

(自伝を読む動機として)もうひとつは、自分の読書感覚があまりに過敏に、あまりに多様に分散しているときや、読書ホメオスタシスが強く振動しすぎているときである。読書機能を調整しているオート・レギュレーションの針が激しく揺れているときといえばいいだろうか。(中略)読書はともかく自分のサイズに合わせないことである。未知の自分のサイズに出合うから、読書はおもしろい

──第五二八夜「寒村自伝」より

■15 年表に書き込む

年表はやはりクロス・レファランスのためにある。年表の中もクロス・レファランスしたいし、他の本とのあいだにもクロス・レファランスをおこしたい。そうなれば年表生活者としてやっと一人前である。それには極意がある。何かの本を読んでいて何かの気になる出来事の年代に出会ったら、そのことを年表に書きこんでしまうのだ(そのためには年表本にマージン=余白が必要なのだけれど)。ともかくもぜひ、愉快で痛快な年表のカスタマイズをたのしんでいただきたい。年表、それは歴史の沈黙に対して自分で声をかけられる生きたアニメーションなのだ。

──第一一四夜「日本文化総合年表」

 これらの「読み方」は、試したことはあるが、その効果がイマイチ実感できていないもの。自分でもやってみよう(やってみたい)と考えている。音読の妙はイマドキの作家ではなくて、太宰の短篇や夏目作品が思い浮かぶ。黙って読んでいるうちに、声に出すことを強要されるようなテンポなのだ。また、「歩行的思索」については長明の例えでピンときたが、わたし自身、やれていないねぇ… 「エセー」に手をつけますかね。

■17 本棚をつくる

本を並べるには、その本を読みたいと思わなければならない。それも全部読みたいと思う必要がある。そうでないと本棚は死んでいく。

──第五一五夜「岩波文庫の赤帯を読む」より

 [著名人の本棚]にある「本棚が見たい(その1)(その2)」を見ると、「死んだ本棚」が沢山でてくる。書店のベストセラー棚を移動させたような本棚がある。くだらねぇ本を大事に持ってるなぁ、とうい人は、やっぱりくだらない本を書いている(あるいは消えている、撮影が10年前だから)。

 そういう中で、セイゴォ氏の本棚はやっぱりスゴかった。本の並がユニークで、図書館で見る分類と似て非なるもの、「似た」「近い」本がまとまって並べてある。あるいは、本と本が共鳴しあうような配置となっている。一冊に目が向くと、その隣の本、さらにその本の隣へと次々と芋づる式に読みたくなる仕掛け。いわば「使う本棚」、「刺激する本棚」。

 氏の書棚は、赤坂稲荷坂の編集工学研究所と松岡正剛事務所、西麻布の自宅に分かれており、正味5、6万冊ほどあるそうな。三十年近くの蔵書が溜まりにたまってこうなっているという。赤坂稲荷坂の書棚は来客も見ることができるそうな。「本棚が見たい!2」に出てくる氏の書斎がどっちか分からないが、本好きならぜひ見ておきたい本棚。

■21 書くということ

書くとは、自分が読みたいことを書くことだ。これはまさしく編集工学だ。いや、これはやや早まったかな。偏執的精神幾何学とでもいうべきものだ。

──第七六二夜「パンセ」より


テクストを綴るとは、言葉を再配分することだ。再配分は切断面から生まれる。テクストはある瞬間につねに三つ以上の切り口に分岐する場をもっている。ここでテクストが見かけの快楽に溺れたいのなら、切断面そのものを少しゆっくり観察して書けばよい。サドの狂気やフーリエの幻想やバタイユの無神論くらいには、存分にエロティックになっていく。

──第七一四夜「テクストの快楽」より


書くとは編集することである。読みたいものを編集することだ。ということはカットアップすることだ。少なくとも時代が飽和しているとき、必ずこのような手法が世に躍り出る。カットアップというのは、新聞や雑誌から適当なセンテンスやフレーズやワードを切り取って、これを前後左右縦横呑吐にならべていくカット&ペーストの手法をいう。ガイシンによると、われわれの無意識情報やサブリミナル情報がその文体中にメッセージとしてエピファニー(顕現)してくるという。フォールドインも似たようなものだが、これはカット&ペーストもせずに、いきなり新聞・雑誌・書物・カタログの一ページをそのまま折ってしまう。つまりフォールド(折る)してしまう。「対角線を折る」わけなのだ。そうするとまったく関係のなかった単語や言い回しや文章がそこに奇妙に突き合わされ、新たな文体光景を出現させる。それをそのまま文学に採りこんでいく。

──第八二二夜「裸のランチ」より


 激しく同意。「なぜ書くのか?」の問いに、わたしは、容易に答えることができる。書くことは読むことであり、わたしが読みたいものを記憶と読中経験から編集しているんだ、ってね。

 その本の何を読んだのかは、書くことによって確認できる。適確に書けなかったり、表層的なことしか残っていないのならば、そういうレベルでしか読めなかったってこと。ちゃんと「読む」ために書き、書くことによって「読み」を確かなものにする。

 さらに、「何を書くのか?」についても一緒。「わたしが読みたいもの」を書いているだけ。このblogの最初の読者は、わたしだ。わたしにとって備忘なだけでなく、自分で読み返したいものを書いている。

 例えば、ある劇薬小説を読んだとしよう。どういう毒なのか、わたしの脳やココロや体にどんな悪影響を与えたのかをつぶさに観察して、今までの劇薬小説ランキングのどこに位置付けられるのか(そしてその理由)を書く。そうすることで、その劇薬を味わい、毒を全身+ココロにたっぷりと取り込むことができる。本なんて一冊だけで存在するべくもなく、その本に出会う前に読んできたものの集積経験でもって、その一冊に取り組んでいるのだから。そして、その集積経験は、書く行為によって掘り起こし、気づくことができる。

■23 読書術秘訣

たとえば、ぼくは本の目次を重視してきた。目次読書法という名をつけているほどで、これは書店で本を手にとってパラパラとする前に二、三分、目次だけを見てその本の内容を想像することをいう。そのうえでパラパラをやり、読みはじめる。そうすると、目次によって著者の組み立てがアタマに入っているうえに、自分で想像したこととどこがちがうかがすぐに入ってくる。

一冊の本を選んだら、その左右の本も気にしなさいと言っている。書店が並べている本は書店ごとにまったく異なるが、それでもそこには何らかのディレクションというものがある。それを本の買い手も意識してみようということだ。このことは自分で本棚をつくるばあいにも生きてくる。平均的には、本は三冊ずつを単位にこれを連鎖させながら並べるといい。

世の中に出回っているほとんどの速読術は使えないと思ったほうがいい。むろん「斜め読み」など誰だってしていることだから、そんなことで速くなってもたいして効果がない。おまけにそういう読書にはほとんど再生力がない。それよりひとつだけ勧めたいのは、速読したいのなら何冊もほぼ同時に読むことなのである。これは何らかのプロジェクトをしているときに、関連図書をどさっと買ってきて、これを片っ端から比較しながら読んだ体験がある者なら見当がつくように、いちばん速力が理解力とともに上がる方法なのだ。それを自分の好きな本の数冊で試みることである。ただし、小説などには役立たない。


 セイゴォ式の秘訣が開陳されている。本好きな方なら思い当たるだろう。目次読書法は自分の得意分野ならできるが、不案内なジャンルなら、「論旨の前半を隠して後半を当てる」といったトレーニングがある(わたしは「攻撃的読書」と名付けた[参照])。

 ただし、「速読は使えない」については一言付け加えておこう。つまり、速読で相手するだけでじゅうぶんな本があり、松岡氏はそんな本をハナから相手にしない、ってこと。残念ながら、わたしはそこまで至っていない。流行りの本も追いかけるので、速読はじゅうぶん役に立っている。人生は有限だ、そしてそのことを、わたしはよく忘れる。

■セイゴォ読書術の極意──千夜千冊のための読書術

 最後に、氏の読書術の極意とも言える、「千夜千冊のための読書術」をご紹介する。千夜千冊そのものが特殊な読み方/書き方なので、一般的ではないかもしれない。

  1. その日の読書コンディションに敏感になり、コンディションによって本を選ぶべし
  2. 読書のギア比を意識しておき、それに応じた本を準備しておく(氏のギアは10段階だという)
  3. マーキングに慣れろ。強調マーク、同感マーク、はてなマーク、喜怒哀楽マークを決めて、読みながらマーキングせよ。遠慮せず、深く考えずにするのがコツ。マーキングした本をパラパラ高速で見て初読時の感想や印象を再生せよ
  4. 読書術のエクササイズ中は、著者や著書に対して批判はしないこと。批判のために本を選んだわけではないから。できる限り共鳴できること、発見を促されたところを読む。読んでいる本のための言葉を紡ぎはじめるべし。つまり、読書体験をなんとか言葉にする(書評にはしたくない)
  5. その本を読んだことがない人のためにできるかぎり的確な要約をしておく。自分が知ったかぶりにならないという基本の戒めでもある。さらに、その本の印象のためのキーワードを設定せよ。いわば自分なりのヘッドラインやキャッチフレーズを作る。また、その本をいつどのように読んだかという読書状況を付け加える

 5つほど挙げたが、まだまだ沢山の「極意」が詰まっている。特別巻「書物たちの記譜」を通読すると、セイゴオ氏の本に対する態度や覚悟のようなものを集中的に汲み取ることができる。この特別巻は千夜千冊のインデックスとしても非常に使えるので、ぜひ手にとってみてほしい。本屋にフツーにないから、もちろん図書館でね。

 ――と、延々と書いてきたが、どうやら廉価で一冊になっているらしい… 底本は同じなので内容も似たようなものだと見えるが、読むべ。

Sennyasennsatu

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