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「アート・オブ・プロジェクトマネジメント」読書感想文(その7)

アート・オブ・プロジェクトマネジメント 第8章「優れた意思決定の行い方」で響いたことをまとめる。

■意思決定の重要度を決める

 何かの決定をしなければならないとき、わたしのツールは2つある。

  ・緊急度と重要度マトリックス[参照]
  ・メリットとデメリット表(D.カーネギー「道は開ける」で知った)

 言い換えると、この2つしかない。すべきことを重要度と緊急度の軸にあわせて位置付けを行い、相対的に重み付けするやりマトリックスと、あることを実行する/しないを決定する際、そのメリットとデメリットを左右に並べて評価する表の、2つ。無いよりはずっとマシだけど、いかんせん心もとない。

 本書ではもっと本質的に考え、「意思決定の際の重要度は、何を評価基準にすればよいか」という問題に対し、「7つの問いかけ」の形で答えている。先の「優れたPMは質問の達人」と一緒。ただし、問いかける先が自分であることがミソ。


  1. この意思決定の中心にはどういった問題があるのか?
  2. この意思決定がプロジェクトに及ぼす機関はどれぐらい続くことになるのか? また影響の大きさはどの程度になるのか?
  3. この意思決定が間違っていた場合、どれだけの影響が出るのか、またどれだけのコストがかかるのか? その結果によって、他のどういった意思決定に影響が波及するのか?
  4. この意思決定にどれだけの時間をかけることができるのか?
  5. この種の意思決定を以前に行ったことがあるのか?
  6. 誰が専門的な視点を持っているのか? これは自分が行うべき意思決定なのか?
  7. 誰の承認が必要なのか? 意思決定を行う前に誰のフィードバックが必要となるのか?

 最重要なのは1だろ。言い換えると「いったい何を意思決定する必要があるのか? 意思決定しなければならないのは、その問題か?」になる。

 例えば、「今まで見つけた50個のバグ全てを修正している時間がない」という状況だとしても、本当の問題は「バグの優先順位付けを行う基準がない」だったりする。1はさらに、たたみかけるようにして、この問題の原因は何か? これは独立した問題か? それとも他の領域に影響を与える問題なのか? これは誰の問題なのか? …と続く。

 つまり、決めるべきことをこうした質問責めにすることで、問題をふるいにかける。しぶとく生き残ったものが真の問題で、質問に負けたものが低い優先度というように、かなり機械的にこなせそうだ。

■意思決定をふり返る(死者とドーナッツ:Death and Doughnuts)

 著者によると、意思決定のスキルを向上させる2つの方法があり、ひとつ目は実際に意思決定を行うこと、二つ目は行った意思決定をふり返ることだという。二つ目はやっていなかったナリ。

 この「ふり返り」は、戦闘機のパイロットだとデブリーフィング(debriefing)セッション、医者だと死者とドーナッツ(Death and Doughnuts)というのだそうな。手を施したが助からなかった患者について、ドーナツを食べながら議論するのが語源らしい。

 チームであれ、自らであれ、ふり返る思考をレビューするための良い質問集がある。自分のために引用しておく。


  1. その意思決定は核となる問題を解決したか?
  2. その意思決定をより迅速化できるような、より優れたロジックや情報はあったのか?
  3. ビジョンのドキュメント、仕様書、要求定義書はその意思決定に役立ったのか?
  4. この意思決定はプロジェクトの進捗に役立ったか?
  5. 鍵となる人々をプロセスに参画させ、意思決定の支援をさせることができたのか?
  6. この意思決定が他の問題を引き起こす/防止するということはあったのか?
  7. ふり返ってみた場合、この意思決定の最中に気にしていたことは正しいことだったのか?
  8. 正しい決定を行うだけの十分な権限があったか?
  9. この意思決定によって学んだことをプロジェクトの他の部分にどのように適用できるのか?

■メリット・デメリット表に、ひと工夫

 正式に何と呼ぶか知らないので、「メリット・デメリット表」と名付けている。本書では「長所と短所の一覧表」と訳されているが、まったく一緒。わたしはD.カーネギーで知ったけれど、ベンジャミン・フランクリンまでさかのぼるらしい。

 書き方はいたってシンプルだ。白紙(ホワイトボード/ノート)の上に、「問題」「目標」を書いて、それを成し遂げるためにすべきことを左側に羅列する。そのToDoについて、長所と短所を書きだす。こんなカンジ…

 問題:プログラムリーダーのAさんが入院した(復帰は絶望的)
 目標1.スケジュールを遅延させない2.品質を確保する

To Do候補 メリット デメリット
機能Aの廃止    
機能Bの廃止    
機能Cの廃止    
顧客に決定させる    
何 も し な い    

 ポイントは、最後に「何もしない」を付け加えること。これにより、何もしないことによってどういう影響が起きるかをプラス・マイナスの両面から考える機会を得られる。

 「何もしない」ことで、問題は放置され、悪臭を放ったり迷惑をかけたりするかもしれない。その一方で、問題に取り組んだ結果、確実に失うことになる「時間」「マンパワー」を温存することができる。問題を先送りせよとは言っていない。「何もしない」選択肢も考慮に入れた上で、問題に取り組め、ということだ。学校教育の影響で、解答欄には必ず何か書かなければいけないと思っていると、強力な選択肢「何もしない」を忘れてしまうかもしれない。

 本当に「何もしない」かどうかは置いといて、選択肢に含めて考えてみてはいかが。

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ローマ人の物語IV「ユリウス・カエサル――ルビコン以前」の読みどころ

 夢中本として一気読み。文庫版で8巻、9巻、10巻と息つくヒマなし。

 インテリに手厳しい塩野節も嫌味にならない程度に抑制されている… というのも、塩野氏がだいすきなユリウス・カエサルの話だから。書くほうも夢中になって書いたであろうと。

 「自称」シロウトの塩野氏が好きで書いているのだから、彼女の趣味が爆発している。この巻に至るまで、好き/キライが人物描写の端々に現れていて微笑ましかったのが、ユリウス・カエサルになると俄然筆致が変わっている。やっぱ出来た男より惚れた男だな ── 要するに、とてつもなく面白くなっている、ってぇことだ。

 サブタイトルの通り、カエサルがルビコン川を渡るまでの物語。ルビコン渡河までは、さらに二つに分かれている。「ガリアの前」の8巻と、「ガリア戦記」の9、10巻の構成だな。だから、面白いところだけ読みたいなら、いきなり9巻から手をつけてもいい。

■ガリアの前

 ガリアの前、つまりガリア戦記の前のカエサルは、とてつもない浪費家だったそうな。最終的に国家予算級に至った借金の理由として、愛人たちのプレゼント代があるそうだ。自ら選んだ高額な品を女たちに贈るので評判だったらしい。その甲斐もあってか、カエサルは女にかなりモテたらしい。しかし、モテた理由として高額なプレゼントは必ずしもあたらない。なぜなら、と著者は想像する…

 カエサルは、モテるために贈物をしたのでなく、喜んでもらいたいがために贈ったのではないか。女とはモテたいがために贈物をする男と、喜んでもらいたい一念で贈物をする男の違いを、敏感に察するものである(8巻p.124)

男たちへ 塩野氏からのメッセージ「男たちへ」を髣髴とさせる一文だな。ちなみに「男たちへ」はオンナゴコロが分からない男ども(わたしを含む)にとって、女を理解するための最高文献だと断言しよう。男であれ、女であれ、「女の気持ちは男には絶対に分からない」と平気で口にする前に、本書を手にしてみればいかが? と思える名著ナリ。

 また、ローマを手中にするぐらいの権力者となったカエサルも、愛人と正妻をめぐってのスキャンダルにまみれていない(らしい)。なぜか、ここでも塩婆の筆致は鋭い。

 史実による限り、どうやらカエサルは、次々とモノにした女たちの誰一人とも、決定的には切らなかったのではないかと思われる。つまり、関係を清算しなかったのではないかと。(中略)例えば、妻同伴のカエサルが夜会の席か何かで以前の愛人と顔をあわせたとする。同じ階級に属しているのだから、出会う確率も高かったはずである。そのような場合、並みの男であれば、困ったと思うあまり、意に反して知らん顔で通り過ぎたりする。ところがカエサルだと、そうはしない。妻には、少し待ってとか言い、どうなることやらと衆人が見守る中を堂々と以前の愛人に近づき、その手をやさしく取って問いかける。「どう、変わりない?」とか。女は無視されるのは何よりも傷つくのだ(8巻p.209)

 太字化はわたし。なにか辛い思い出でもあったのだろうかと拝察。「男たちへ」にも男遍歴がにじみ出ているが、彼女の男性観が辛辣であればあるほど、カエサルというスーパースターへの思慕がくっきりと見えてて面白い。

■ガリア戦記

ガリア戦記 もちろんこれはスゴ本。2000年前に書かれたにもかかわらず、今でも文庫で改版を重ねている、という事実ひとつとっても、いかに凄い本か分かるだろう。元老院へのレポートの体裁を取っているが、ガリアの地へ攻め込んだ将から見たドキュメンタリーとしても読める。

 ただ、一点ひっかかるところがある。一人称の"レポート"であるにもかかわらず、「わたし」の代わりに「カエサル」と三人称で記述している。慣れればなんということもないけれど、なぜそんなことを書いているか分からなかった。

 わたしなんかが評するよりも、キケロと小林秀雄がこうレビューしている。以下、「ローマ人の物語」から孫引き。

キケロ(前51年記)

 これらの巻は全て、裸体であり純粋であり、人間が身につける衣服にも似たレトリックを、完全に脱ぎ捨てたところに生まれる魅力にあふれている。カエサルは、歴史を書こうとする者に史料を提供するつもりで書いたのかもしれないが、その恩恵に浴せるのは、諸々のことをくっつけて飾り立てた歴史を書く馬鹿者だけで、思慮深く賢明な人々には、書く意欲を失わせてしまうことになった

小林秀雄(後1942年記)

 ジュリアス・シイザアに「ガリア戦記」といふものがあるのは承知してゐたが、最近、近山近次氏の翻訳が出たので、初めて、この有名な戦記が通読できた。少し許り読み進むと、もう一切を忘れ、一気呵成に読み了へた。それほど面白かった。といふより、もつと正確に言ふと、ただ単にロオマの軍隊が、中途で休んでくれなかつたが為である。勿論、別して読後感といふ様な小うるさいものも浮かばず、充ち足りた気持ちになつた。近頃、珍しく理想的な文学鑑賞をしたわけである

 太字化はわたし。夢中本、一気本、徹夜本、スゴ本、のあらゆるラベルで賞賛してよし。間違いなく面白い本として強力にオススメできるが、ここである問題が生じてくる。

 それは、カエサル著「ガリア戦記」と、塩野七生著「ローマ人の物語 ユリウス・カエサル編」と、どちらを先に読むか、という嬉しい問題のこと。いわゆる「読んでから見るか見てから読むか」に近いかも。

 前者は一人称で描いたガリア戦記。簡潔、明晰かつ洗練された文体で書かれたラテン散文の傑作といわれている。史書として一級品なだけでなく、面白い本としても一級品。

 後者は、いわば「神の目」で見たガリア戦記になる。「神の目」だから、敵方の動向だけでなく、カエサルの戦略の真相へ想像が至ったり、「そのころローマでは…」から始まる政敵のきな臭い動きが語られたり、そうはさせじとカエサルの長い手の話が語られたり… 眠れぬ夜を保証しよう。

 わたしの場合、カエサル→塩野の順番だった。塩野本のおかげで、より複眼的に背景を知ることができた。しかし、いきなり「ガリア戦記」に取り組むと、その簡素さ(というか素っ気の無さ)にとまどうかもしれない。だから、塩野本でウォーミングアップするというテもある(文庫8巻では、ガリアに行く前の話から書き起こしているからね)。反面、激しくネタバレになってしまう、というデメリットがつきまとう。

 ユリウス・カエサルの頭の中には、「ガリア戦記」が地理上の記述ではじまっているのが象徴するかのように、当時知りうる限りの正確なガリアの地勢がインプットされていたのではないかと思う。中部ガリアという将棋盤を前に、相手の手を読む確かさは、彼に、持てる力の効率的な運用を可能にした(10巻p.82)

 叙述は正確を期した。自らの誤りも正直に記し、敵側の理由も公正に記述した。カエサルは、正確に書くことこそ自分の考えをより充分に理解してもらえる、最良の手段であると知っていたからである。意識的な嘘が一つでもあれば、読者は他のすべてを信用しなくなるからだ。また、自分を一人称単数で語らず、カエサルと三人称単数で記していることも、叙述に客観性をもたせたいとする彼の意図に基づいていた(10巻p.147)

 カエサルの鬼神のごとき軍略の秘密が明かされている。さらに、「ガリア戦記」の主語がなぜ「カエサル」なのかという謎に答えている。このように、「ガリア戦記」を読んで疑問に思ってたことが次々と「塩野史観」によって解明されてゆくのは、読んでて心地よい(ホントかどうかは、別として)。塩野氏による新訳「ガリア戦記」を激しく希望!

ローマ人の物語8ローマ人の物語9ローマ人の物語10

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「アート・オブ・プロジェクトマネジメント」読書感想文(その6)

アート・オブ・プロジェクトマネジメント■仕様書など書く必要がないと信じているプログラマ

 第7章「優れた仕様書の記述」は、こんな一文から始まる―― 「私は昔、仕様書など書く必要がないと信じているプログラマと議論したことがあります」―― 議論の顛末は予想通り。おそらく、このblogを読んでいる全員がこの話をしたことがあるに違いない。各人がどういう結論を持っていようとも、本章から新たな気づきが得られるはずだ。

 なぜなら、「優れた仕様書とは何か?」について徹底的に考え・実践してきたことが記されているから。目の前の仕事にとって仕様書が必須/邪魔の話をしているのではなく、もっと本質的なことが書いてある。コードから仕様書を生成するツールとか、仕様書を書く上でのテクニック集といったものは、無い。根っこの部分「そもそもプロジェクトにおける仕様書の目的は?」とか「仕様書によってできること/できないことは何か?」について非常に明解に応えている。

 では、プロジェクトにおける仕様書の目的は何か?

  1. 正しいものの構築を保証する
  2. プロジェクトの計画フェーズを締めくくるマイルストーンを提供する
  3. プロジェクトの過程で踏み込んだレビューや各個人からのフィードバックを可能にする

 「それなら○○で代替できるじゃねぇか?」というツッコミは可能だ。しかし、著者は続けてこう記している―― こういったことは非常に重要であり、仕様書作成以外のプロセスでその全てを同時に実現することは難しいのです。私が仕様書作成を指示している最大の理由はここにあります ――(太字化は、わたし)

■何をもって「正しい」とするのか(わたしの場合)

 仕様書をどのように考えているかは、各人の仕様書にまつわる思い出したくも無い経験に基づくだろう。わたしの場合は1.だ。曖昧な資料で質問はのらりくらりとかわし、イザとなれば独自解釈でねじ曲げてくるオレオレ仕様に泣かされた黒歴史があった。

 その結果、仕様をフリーハンドにさせてはいけないという理由で、仕様書を重視している。ただし、カンペキに精緻なものである必要はなく(そんな時間はない)、軽重をつけている。どこに重点をおくか? それは、「正しい」ものを保証させる必要があるもの。後々「正しさ」が議論されるようなところ。

 例えば、状態遷移、インタフェース(システムの境界)、ロール(の定義)、業務エラーの定義(エラーの場合の業務フロー)あたりが、後々「言った/言わない」「正しい/正しくない」で戦いになっている。画面の紙芝居なんかよりも、このあたりをエビデンス化しておかないと泣きをみる。

 また、仕様書として含めるかどうかは立場によるが、性能保証、品質保証関連は、名前はともあれ必ず書き起こしている。そのパフォーマンスを何をもって保証しているのか? にかかわるところは、よくちゃぶ台返されるから。大切なのは、ちゃぶ台を返したんだよ、という事実を見える化すること。エビデンスがないと、ひっくり返される「ちゃぶ台」が存在しないことになる → つまり、インパクトがでかいにも関わらず顧客のフリーハンドになるからだ。

■仕様書について犯す最大の過ち

 それはレビューとフィードバック。仕様書について誤った考え方が間違ったレビュー・フィードバックの場を提供し、結果うんこ仕様書を量産することになる。

 仕様書について人々が犯す最大の過ちは、公式のレビュー会議を開催するまで内容のフィードバックを得ようとしないことです。レビューは確認と洗練を行うための場であり、たたき台の検討と最終決定を同時に行うための場ではありません

 レビューの場が読書会になったり、誰かの独演会(お伺い会?)となったりするのは、ひとえにPMの責任だろう。少なくとも事前に一読を要求することで、通して読めば分かるような質問としてきたり、重箱の隅をつつくような事態にはならない。つまり、最初の数ページに時間をかけすぎて、後は駆け足になるようなこともなくなるはずだ。

 どれぐらい公的な場にするかは企業風土によるが、どこまでフィードバックを得るべきかはPMがどれぐらい準備しておくかによる。著者はこうも述べている―― 「優れた仕様書は、シンプルです。仕様書とは本来、コミュニケーションの一形態なのです」

 さて、冒頭の仕様書不要論をぶったプログラマと本書の著者が至った結論は次の通り。

 何らかのドキュメントによって、チームが抱える本当の問題を解決でき、開発プロセスを加速させ、品質の高い成果物を生み出せる可能性を高めることができる(そしてチームを混乱させることなく改訂できる)のであれば、そのドキュメントが何と呼ばれようとも、どのようなレイアウトであろうと喜んで使うと言ってくれました。その後、私は上司のところに戻り、彼との議論をかいつまんで説明し、了解を取り付けました。六法全書のような厚さがあった仕様書のひな形は、お払い箱となったのです。

 ん、わたしも同意。問題はドキュメントにあるのではなく、ドキュメントありきにするプロセスにある。

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火事になる前に読んでおきたい「火事場プロジェクトの法則」

火事場プロジェクトの法則 問題プロジェクト・失敗プロジェクト・デスマプロジェクト ── 呼び名は沢山あれど、振り返ったとき、ああすればよかった、こうすればよかったという反省や後悔(?)は、これまた沢山ある。

 「あの営業連中のコトバを鵜呑みにしなければ…」
 「新技術に手を出す範囲を限定しておけばよかった」
 「もっと顧客に張り付いて仕様を搾り出しておくべきだった」
 「なんであのとき、SOSをださなかったのか!なんで問題を放置したんだ!」
 …

 過去のプロジェクトを眺めたとき、問題点はいくらでも出てくる。おそらく携わった人の数だけ出てくるだろう。

 それにもかかわらず、これから出くわしたとき、どうすればよいかは、分からない。なぜなら、どんな問題に遭遇するか分からないから。プロジェクトが特殊性、一時性をもつように、それにまつわる問題も同様に、特殊性をもつ。したがって、その解決策は、常にその問題専用の解法でしかない ──

 ── これは、本当だろうか?

 確かに、プロセス、方式、メンバー、リソース、ビジネス環境によって問題の原因は違って見えるかもしれない。しかし、実際にシステム開発プロジェクトが破綻するとき、どこかで見たような/聞いたような/読んだようなスメルを放つのはなぜだろうか? それは、プロジェクトで顕在化する問題は人に因るからだ。

 システムは人がつくるもの。だから、システム開発の問題は、人の問題。これは、デマルコ著「デッドライン」[参照]で気づかされたが、本書ではもっと体系立てて、4つの切り口で捉えている。

  ・バードビュー(鳥瞰・俯瞰)
  ・コミュニケーション(情報と意思の伝達)
  ・エモーション(相手を思いやる気持ち)
  ・フィードバック(後悔でなく反省)

 この4つの視点から、プロジェクト失敗の症状と原因を見通している。ともすると、どれかに拘泥しがちだが、バランスよく配分されている。この視点を使えば、PMだけでなく、誰でもプロジェクトのヘルスチェックができ、症状の裏側にある本当の原因を探ることができる。

 さらに、「人の問題」とした瞬間、誰か(安請合営業、無理難題顧客、無能上司、技術馬鹿)を悪者にしてしまえば済む、という落とし穴が待っている。しかし、本書では「誰か」を探して非難するよりも、まず自分ができることは何か? を問いかける。この姿勢は見習いたい、というか見習うべき(→わたし)。

 デスマ対策を謳った書籍は多かれど、開発現場の視点からここまで明快に解き明かした本はないだろう。失敗プロジェクトから「脱出」したり、「間違いだらけ」と論評したりする本は、それなりに参考になるものの、「ボクのせいじゃないモン」という言い訳がこうばしい。その一方で、本書からは「人の問題」≒「それは自分の問題かもしれない」と謙虚に向き合おうとしている。

 プロジェクトが火に包まれるとき、本どころではない。寝る時間どころか、うんこしている時間すらないんだぜ!だから、そうなる前に読んでおきたい。仕事に追い詰められると、正気が保てなくなる。「おまえのバグだゴルア!」と殴りあうこともある(わたしじゃないよ!)、あるいは、「わびるならそこで死んでみろ!」と顧客に罵倒されることもある(わたしじゃないよ!)。悪臭にまみれて殺伐とした中、くじけそうなとき、本書は心の支えになってくれるかもしれない。根性論は禁物なんだけど、再読することで勇気がわいてくるかも。

 … というわけで、いまのうちに読むのが吉。

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嫁とKanon

 結論:結婚のおかげで、より深く自分を知ることができる。ただし、カミングアウトは離婚されない程度に留めておきたい。つまり、ヲタ趣味はほどほどにってこった。

 自分の嗜好についてこれほどセキララに暴かれているのは、結婚という場においてのみ。自室どころか、居場所は座布団の上でしかないリーマンパパにとって、プライベートな空間なんて、あるはずがない。

 二人暮らしのときは嫁さんが、子どもができると子どもが、いつもくっつきたがるので、うっかりエロ本なんて見てられない。やれやれ寝静まったとエロビデオを見てたら嫁に見つかった ―― なんて微笑ましい話では断じてない。深夜 25:00 、コソーリ点けて「おおっ」「うわっ」「さすが京アニ」と感嘆符をまき散らしながら鑑賞していると、いきなりドアが開いて、

「何やってんの?」

 詰問口調の嫁(←てっきりエッチビデオだと思ったらしい)

 精神的にはズボン半分おろしている状態だったので、人生史上かつてないほど慌てふためくわたしを軽く睨むと、嫁さんの目線はテレビへ。

       ♪足元に風~ 光が~舞った~

「何コレ?」

       日常にだけ~積もったぶんの奇跡が~♪

… あ、アニメ

(盛大なため息をついた後)「もう遅いから寝なさい」

… はい

 リモコンを手にする。100メートルを35秒で全力疾走するあゆの勇姿が消える。さぞかし怒られるだろうかと首をすくめていると、何も言わずに寝入っている。

 翌日、子どもが寝静まって嫁さんと二人のときに、再生する。バレたからにはもういいや、という気持ちがあったのかもしれない。で、嫁さんの感想 ――


  • これはあなた好みではない
  • どうせ女の子が病気になるか死ぬかするんでしょ(←観鈴ちん)
  • あんたの好みは、気が強くってツンツンした女の子でしょ(←ハルヒ様)
  • プリキュアなら右のほうでしょ(←ほのか嬢、および舞ちゃん)
  • こんなタレ目のふわふわしたアニメは好みじゃないでしょ(い、いや、それは違う…後半は怒涛の展開となるぞ)

… よく把握しておられます、さすがです。

 ああ、どうしてこんなアホだんなと一緒になってしまったんだろう… とブツブツ言い出す。いいじゃん、オレが幸せなんだからというと、光速で睨まれる。

 しかし、嫁さんは気づいていないのだろうか? もちろん笑ってる顔が一番だが、二番目にかわいいのは、軽く睨んだ猫目であることに。オレはこの目に陥落したんだと告白してもふざけていると受け取られるので、沈黙は金。

 惚気さておき、ただいま完全に名雪モード。第1話だけで9回くり返し観ている。さすが京アニ、恐ろしいまでのクオリティ。あの"止め絵"に命が吹き込まれていると思ってくれてよろし。最大の心配「アゴ」は杞憂であったことに胸をなでおろす(前作は酷かったね)。

 名雪とあゆの分岐をどう折り合いをつけるかが、次の心配。遙と水月のように、どちらかを選ぶことは、もう一方は選ばれなかったエンディングへ向かうことになる。思い出せ、ここでは等価交換の原則が適用されるのだ→「何かを得るためには同等の代価が必要になる」

 あるいは、等価交換の原則は視聴者に適用されるのかもしれない。脳裏をよぎった売り方は、あのね商法

  1. 全員分のストーリーを個別シナリオの分岐点まで放映
  2. 個別のシナリオへは、それぞれDVDを買って頂戴

あるいは、

  1. 名雪シナリオをメインに放映(前作の名雪は不憫すぎる)
  2. あゆのシナリオは、それぞれDVDを買って頂戴

 とりあえず、ひとさし指をたてて小首をかしげながら、「…だよっ」とする名雪は脳内嫁に決定だぁっと心の中でケモノのように叫ぶ―― リアル嫁が浴びせる鋼の視線のもと、小動物のようにぶるぶると震えながら。

Kanon prelude そういや嫁さんが言っていた、

この舞台は、富山市だねー

 な、なぜ分かる?

路面電車とか街の雰囲気とか、街を見下ろすような場所があるとか

 いや、違う、今回の聖地は、札幌ナリ。なまら語が出てくるかとヒヤヒヤしながら観ている。期待・出来・満足感を全て充足しているのは、EVA以来。さすが、20世紀のガイナックス、21世紀の京アニと言われるだけある。

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