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子どもに絵本以外を与えてみる:「地球家族」

 ひらがな・カタカナが読めるようになって嬉しい。読み聞かせせずとも勝手に読んでくれるのでありがたい。しかし、いつまでも「ぐりとぐら」と「ウルトラマンメビウス」では能がないので、ふつう読まないような本を与えてみる。

 …とはいうものの、字よりも絵・写真がメインで、何らかのテーマ・メッセージが強力なやつが面白かろう。今回与えたのはコレ→「地球家族――世界30か国のふつうの暮らし

 何が楽しいかというと、以下のテーマで「ふつうの暮らし」を撮ったところ↓

「申し訳ありませんが、家の中の物を全部、家の前に出して写真を撮らせてください」

 目を疑うが、ホントに全部出している。極限までモノが無い家もあれば、モノだらけでカオスな家もある(どこの国かは言わずと知れている)。あるいは、モノじゃなく家畜も一緒に写っている家もある。

 もちろん【家の中】の写真もあり、撮影者が泊り込んで写しだした生々しい生活模様もある。しかし、これらは壁やドアに阻まれて部分的に切り取られた断面でしかない。これを全部【家の外】に運び出して一枚の写真とすることで、その国で「ふつうの生活」をするために必要なモノが全部見えてくる。

 しかも、さまざまな国の「ふつうの生活」を一枚の写真を通して見ることで、「ふつう」の違いがハッキリと見えてくる。あたりまえなんだが、「ふつうってのは国による」単純な事実に気づく。"国"に語弊があるなら"地域"と言い換えてもいい、自分が過ごしているこの場所は「ふつう」じゃないんだーと気づくかなーと期待しながら与える。

 結果、かなり好奇心が刺激されたようだ。写真集といえばクジラや救急車やウルトラマンの奴しか見たことがないから、興味深く見てくれる。こまかいキャプションは飛ばして惹かれる写真だけを見て話し合う。

「茶色い人(黒人)がたくさんいるー」

 子どもの知っている黒人は英語の先生ただ一人だけなので、黒人ばかりの"場所"は特殊に見えるらしい。違うぞ、息子よ、「日本人だらけ」なこの国の方が特殊だよ

「(我が家には)ウシがいない」

 たしかに。いくつかの国では、ウシやラクダ(?)が【家の中のもの】として写っている。国によっては動産だったりするからなぁ… その代わりに我が家にはクルマがあるんだと言い聞かせる

「これは何? →スーパーファミコン」

 日本の写真もある。モノの多さでいうならば、日本が一番。家一軒分の【家の中のもの】全部を外に並べている光景は、壮観だ。その一角にあるスーファミのコントローラーを目ざとく見つける。そういや出版年は1994年だから当然か。時代を感じるなぁ…

 原題"Material World"(物質世界)の名の通り、モノが溢れる先進国と、鍋釜ぐらいしかない途上国との暮らしが鮮やかに対比される。実をいうと、この撮影プロジェクトの始まりは、日本のウキタさん一家だという。

 日本の家族が一番難しかった。家財道具をぜんぶ家の前に並べて撮らせてくださいって言って、五、六人に断られたね。そこで、ウキタさん宅にまず一週間住み込んで暮らしぶりを取材させてもらい、親しくなってから奥さんにだけ計画を打ち明けた。ご主人はある日帰ってきたら、家の中のものが全部外に出ていたってわけだ
(p.55 : September 2006 Foresight より)


 この写真家は、「ふつうの家の食材を見せてもらう」企画でも出している。こいつも面白そう→「地球の食卓――世界24か国の家族のごはん」:世界24か国30家族の食卓を取材、1週間分の食材600食と共にポートレイトに収めた、現代の「食」の世界地図を描く壮大なプロジェクトだそうな。いわゆる先進国になればなるほど、生鮮食品がなくなり、パッケージ『商品』が食卓にならぶ光景なんじゃぁないかと。子どもそっちのけでわたしが没頭しそうだな。食卓における「豊かさ」とは? ――食材の多様性/生鮮食品の割合/『パッケージ商品』の割合で測れるのか?―― といったテーマで考え込むような予感。

今まで与えた「絵本以外の本」

JAPAN UNDERGROUND JAPAN UNDERGROUND を絵本がわりにする

 ビルやジャンボジェットなど、デカいモノが大好きな子どもに、ふだん目にしない大深度地下の巨大構造物・設備の写真集を見せる。

 特殊な目的をもった設備を見ていると、モノの塊ではなく、巨大生物のように見えてくるから不思議だ。場所柄なのか、ライトの具合がおどろおどろしくって良い。子どもは目をギラギラさせて見入っている(魅入っている)。

死を食べる 「死を食べる」――子どもに死を教える4冊目

 テレビからも路上からも「死」が注意深く取り除かれている現在に違和感を抱いて子どもに読み聞かせる。

 「死」ってーのは、もっと身近なものだよ、なんたって、キミは他の生きものの「死」を食べて生きているんだから――なんてメッセージを込めて読み聞かせる。最後の写真にわたしがビビる。

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観鈴スイッチ

 たとえば夏の入道雲を見てると、思わず涙がこぼれてしまうときがある。まぶしいからではない、思い出すからだ。あるいは、飛ばないカラスを見かけたときも。そう、観鈴スイッチだ(にははスイッチともいう)。the 1000th summer からずいぶん時間が経っているにもかかわらず、今でもふとしたはずみでスイッチが入る。

おもいでエマノン AIRの原作だと思い込んでいる「おもいでエマノン」を読んだときも一緒だった。地球の生命すべての記憶を持つ少女と、彼女に惹かれる少年たちがおりなす、せつない物語。ここでは、旅をするのは往人ではなく、観鈴のほう。記憶を保ったまま転生をくり返しているため、名は意味を成さない。だから自らを「エマノン」と名乗る――「エマノン」="EMANON" を逆読みすると "NONAME" 即ち "No Name"――この独白は今なお刺さる。

 一番確かで、誰にも変えようがなく、感動させられるものは、その個体が、自分が生存中、必死になって自分に納得できる生き方を実践できたかということ。自分自身が納得できれば、もう、その個体は"生きた"ということを誰にも記憶される必要もないのよ

 少女と記憶とひと夏の経験は相性がいいらしい。最近ではこんな名品で観鈴スイッチが入った→「楽園――戦略拠点32098」 amazon紹介はこんなカンジ↓

 青く深く広がる空に、輝く白い雲。波打つ緑の草原。大地に突き立つ幾多の廃宇宙戦艦。千年におよぶ星間戦争のさなか、敵が必死になって守る謎の惑星に、ひとり降下したヴァロアは、そこで、敵の機械化兵ガダルバと少女マリアに出会った。いつしか調査に倦み、二人と暮らす牧歌的な生活に慣れた頃、彼はその星と少女に秘められた恐ろしい真実に気づく…

楽園――戦略拠点32098 世界の定義と人間性の比喩が面白い。同著者は他に「円環少女」を読んでいるが、この人、寓話的な世界を生み出す能力がスゴい。魅力的なキャラクターさえ生み出せば、後は勝手にストーリーを推進してくれるように、ユニークな世界をまるごと創造すれば、面白いお話がついてくる好例。

 本来ならば、「なぜ少女と機械化兵の二人だけなのか」とか「彼女の秘密は?」とか、「そもそもこの星の意味は」などとアレコレ想像しながら読むのが楽しいはず。しかし、「ソレ・ナンテ=エ・ロゲ」的な秘密は想定高度をじゅうぶん下回っているので、どうでもよかったりする。だいたい新人大賞を取った作品が、想像力を肝試しするような展開になるわけがない。

 むしろ、少女を護る機械化兵と、そこへ降下してきたサイボーグ兵との会話がココロに響いた。星間戦争するぐらい充分に科学が発達しているため、兵士は皆サイボーグ化されている。顔や声は憧れのムービースターのコピーだし、感情はオペレーションの邪魔になる。極端になると脳の一部以外は全て機械化されているのもあり。そんな中で「人間性とは何?」という問いへの一つの答えがユニークだった。

「おまえたちの好きな"自分"という概念は、社会を構成する人間個々が持ち寄る、ただの"誤差"に過ぎない」

『恐れ入るね、俺たちのキモチは"誤差"なのかよ』

そうだ。兵士は、兵器を扱う"能力の束"であるべきなのだ。人間性は、一瞬を争う場面では、性能を下げる不純物でしかない。おまえは何のため、その大事な"誤差"を危険にさらして戦うのだ?

命令だからさ

 考えても、他に理由がひとつもないことに愕然とした。命令だからと、言い切れてしまった。感電したみたいに頭が痺れて、真っ白になった。指示だから何でも従うでは、機会と変わらない。ガダルパの言うとおりだ。彼は、兵器にこびりついた"誤差"に過ぎない

 さらに、「そこまで発達したならば、戦争はロボットに任せればいいのに、なぜ人間を死地に赴かせるのか?」への答えも面白かった。オーウェル「1984」や「銀河鉄道999」を思い出して感慨にふけるのは、暑さで脳がユルんでるからだろう。

 少女の年齢設定をあと5歳上げると、一般ヲタク消費対象になるだろう。しかし、お話の都合上、シリーズ化は困難。AIRとは全く異なる世界ながら、夏の原風景と美少女が組み合わさると、わたしの中の観鈴スイッチが発動するという、新たな発見ができたのは収穫だ。

 そして、どちらの作品も【ラストの如何にかかわらず】次の一節で締めるのがふさわしい

 最後は、どうか幸せな記憶を

 ちなみに、少女と記憶と冬景色の場合は、うぐぅスイッチという。

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「ローマ人の物語」を10倍楽しく読む方法:「ローマ帝国衰亡史」比較

 このエントリは、塩野七生「ローマ人の物語」を読むときに併読する書籍を調べたもの。ほぼ自分メモのつもりで書くが、これから「ローマ人」を読む方の参考になれば幸甚ッス。

 「ローマ人の物語」の併読書としてギボンのアレを思い浮かべたが、そのボリュームに辟易させられる。実際のところ、全11巻の「ローマ帝国衰亡史」は、積ン読ク山の一角を占めているにもかかわらず、「持ってるが一生未読」となりつつある。

 そこで調べてみたところ、簡訳版というかダイジェスト版が出ていることが分かった。いわゆる「まとめ本」というやつで、わたしのようなナマケモノにはうってつけ。2つある。

   1. 新訳 ローマ帝国衰亡史(中倉玄喜 編訳/PHP研究所)
   2. 図説 ローマ帝国衰亡史(吉村忠典訳/東京書籍)
   3. ローマ帝国衰亡史(中野好夫訳/筑摩書房)    ←【本家】

 1.の新訳版は4センチ、2.の図説版は4.5センチある。何が? →厚みが。知らずに手に取るとぎょっとするほどのボリュームだけど、本家である3.の単行本は11巻積むと30センチになるので、相当「はしょって」いるに違いない。なお、3.のリンク先は文庫本になっている。

 この「はしょり」方が↑の2冊それぞれに特徴を持っている。

 1.新訳版では、本家の中から各時代の代表的な章を選び、これを簡略化しながら訳してまとめたもの。ローマ1500年の出来事を俯瞰することを目的として、著されている。つまり、ギボンの記述から史実を中心にピックアップしたものが1.新訳版といえる。

 2.図説版は、1.と異なり、ギボンの原著の文体を生かすことに忠実になっている。原著にあふれる脱線や余談をカットし、ローマ歴史の流れを描き出す部分を中心に描き出している。さらに、ギボンの著述を補うために、遺物、壁画、モザイクといった図版を大幅に取り入れている。その結果、1.新訳版は一段組みだが、2.図説版は二段組の大ボリュームになっている。

 訳はどうか? 1.新訳版と、2.図説版を比較してみる。世界史でおなじみの「ゲルマン民族の大移動」の章の最初を引用する。

新訳ローマ帝国衰亡史 1.新訳 ローマ帝国衰亡史(中倉玄喜 編訳/PHP研究所)p.295「ゲルマン民族大移動のはじまり」より

 ウァレンティニアヌス、ウァレンス両帝の共治世第二年目の六月二十日朝、ローマ帝国の大部分がすさまじい激震にみまわれた。振動はただちに海につたわり、地中海沿岸では海水が突然ひいて、おびただしい数の魚が手でつかめる状態となり、干潟には大型船が多数とり残された。前代未聞のことである。人々はこの驚天動地の光景に目をこらし、地球誕生以来、陽光にさらされることがなかった谷底や山肌の出現い空想をかき立てられた。が、事はそれで収まったわけではない。いったん退いた海水はおそるべき津波となっておし寄せ、港につながれていたすべての船をおし流して近くの民家の屋根上や、なかには岸から二マイルもはなれた地点にまでおき去りにし、その一方で、多くの人々や家屋をさらうなど、シシリー、ダルマティア、ギリシア、エジプト、各地の沿岸部に甚大な被害をあたえた。(中略)

 そして、それより前、パレスチナやビテュニアの多くの街を壊滅させた地震の記憶がかれらの間によみがえり、これら一連の天災が、来る、はるかに大規模な災害のほんの序曲と解され、さらには、いささか虚栄もあって、帝國滅亡のきざしが世界終焉のきざしと同一視された。

図説ローマ帝国衰亡史 2.図説 ローマ帝国衰亡史(吉村忠典訳/東京書籍)p.350「フン族の移動と民族大移動の発端」より

 ワレンティニアーヌス一世とワレンスの共同統治の第二年目(三六五年)七月二一日の朝、壊滅的な大地震がローマ世界の中心部を襲った。その影響は近海にも及び、地中海沿岸は突然の引き潮で干上がった。大量の魚が手で捕まえられ、大型船はぬかるみで立ち往生した。ある好奇心旺盛な観察者(アンミアーヌス・マルケリーヌス)は、地球誕生このかた陽光に晒されたことのない山や谷の変化に富んだ様子を見つめて、眼というよりむしろ想像力を楽しませた。しかし、海水はすぐに食い止めようもない大津波となって戻って来て、シチリアやダルマティア、ギリシャやエジプトの海岸を容赦なく襲った。大型船は屋根の上に押し上げられ、あるいは海岸線から二マイル入ったところにまで運ばれ、人間も住居もろとも押し流された。(中略)

 そして動転した彼らの想像力は、一時的な災害の規模を現実より増幅させた。彼らはこれに先立ちパレスティナやビテュニアの諸都市を破壊していた幾度かの地震を想起し、警鐘を鳴らすがごときこれらの地震が、なおいっそう恐るべき災厄の序曲にすぎないと考えた。そして彼らは自負心と恐怖をないませにして、帝國衰退の兆侯を、とりもなおさず世界破滅の前兆と考えるのであった。歴史家はこうした高遠なる思弁の真実性や妥当性を差し出がましく云々するのではなく、経験が証明していると思われる所見、すなわち、人類にとっては自然力の激動よりも同じ人間が抱く激情のほうが遥かに恐ろしい、という所見を述べることでよしとすべきだろう。

 太字はわたし。なぜ太字にしたのかは、次の本家ギボン「ローマ帝国衰亡史」を読んでいただければ分かるかと。

ローマ帝国衰亡史 3.が本家、ローマ帝国衰亡史IV(中野好夫訳/筑摩書房)p.185 第二十六章「シナからヨーロッパへフン族の進出」より(長いぞ)

 ウァレンティニアヌス、ウァレンス両帝による共治の第二年目(三六五年)、七月二十一日の朝まだきだったが、ローマ世界のほとんど全土が大地震に襲われた。震動は海岸にまでおよび、地中海沿岸では突然水が退き海底が露出、夥しい魚群が手づかみでき、大型船すらが干潟にのこされる始末。物見高いある観察者は、地球の創生以来はじめて陽光を浴びた峡谷や山々の突然出現を見、その眼よりもむしろ空想を大いに娯しませた。が、まもなく海水はおそるべき海嘯の形をとって逆流し来り、最大被害を受けたのはシチリア、ダルマティア、ギリシア、エジプトなどの沿岸一帯だった。大型船が次々と潮に乗って運ばれ、家々の屋根に乗っかるのもあれば、また岸から二マイルほども離れた地点まで打ち上げられるのもあった。(中略)

 ここでもまた恐怖におびえた想像が、この一過性災厄の実態を、とめどなく拡大化して伝えた。彼等はかつてかのパレスティナやビテュニアの諸都市を破壊し去った、何度かの地震のことを想起するとともに、今回のこれら恐るべき天災が、あるいはより大なる災厄への序曲ではないかと考えたのだ。が、そうなるとまた恐怖におびえた妄念は、この一事をもって帝国の衰亡、世界終焉の兆といった事態と短絡させて考えることにもなった。当時はなにか異常時でも起きると、さっそくそれらをある特定の神意によるものと考えるのが常だった。彼等によれば、すべて自然の異変は目に見えぬ鎖により人心の道義性や形而上学的想念と深く結ばれているというのだ。(中略)

 史家としてはいまこれら高遠な思索の当否を論ずるつもりなど毛頭ない。要するに史家とはただ経験が立証すると思える考察、すなわち、われらが恐れねばならぬのは、自然の天変地異などではなく、むしろはるかにわれら人間の抱く情念激情であること、それを指摘するだけで満足すべきであろう。たとえば地震、洪水、大風、さては噴火などのもたらす災害だが、これらは戦争の惨禍など世の常のそれに比すれば、ほとんど言うにも足りぬはず。近年はヨーロッパの君主たちも、賢慮というか、はたまた人道的精神というか、それらによって戦争の惨禍は大いに緩和され、軍事技術の修練にしてもそれは彼らの暇つぶし的娯しみか、それとも人民たちの勇気を鍛えるためというだけになっているからである。

 上記の太字化もわたし。この長々とした引用を一言で表すなら「365年、ローマ全土で大地震が起きた」になるだろう。しかし、ここでギボンが言いたかったのは、「そんな自然災害は、戦争の災厄に比較すれば大したことない」になる。で歴史家を名乗るなら、その自然災害が人々の感情にどんな影響を与えたかに着目せよ、なんて締めたいのではないかと。

 というのも、その後のギボン節が長たらしいのよ。枕詞「そもそも…」が好きらしく、この後も延々と比較文明論が続く。ローマを枕にしゃりしゃりと出てくるし、読み手が「名著」だと称えるポイントもここらしい。いつのまにやらローマではなく、翻って現代(とはいっても1780年ごろ)の戦争論・比較文明論にまで話がおよぶ。博学なじっちゃんの昔話を聞かされているようで、つきあいだすとキリがない薀蓄の量はハンパじゃない。

 ところが、1.新訳版は、そんなギボン節がゴッソリ無くなっている。年表+ギボンの記述の切り貼りといったところか。くさしているわけではない。むしろ、てっとり早く読みきるならコレにしておくべきだろう。また「ギボン」を看板にする書籍の中で最廉価だというトコもポイントか。

 その一方で、2.図説版は、まがりなりともギボン史観の欠片だけでも拾い集めようとしている。勢い、分量は増大するけど、ギボン節の一端を味わうことができる。いかんせん本家は大著なので、そのとっかかりとしては最適じゃないかと。また、詳細な索引がついているのは良い。むしろ、このテの本には索引が付いているのが普通のはずだから、1.の方がおかしいというべきか。

 結論:2.図説版を併読しよう。ただし、ギボン「衰亡史」と塩野「ローマ人」は時代がズれているので、ネタバレにならぬよう気をつけないと。つまり、「衰亡史」は五賢帝あたり(AC.98-180)からローマ滅亡までを書いているが、「ローマ人」は王政ローマ(BC.510)から始まっている。だから、「ローマ人の物語IX 賢帝の世紀」あたりまで読み進めたら、ギボン併読開始だな。こうして見ると、ギボンがローマの「衰亡」に着眼して稿を起こしたのと対照的に、塩野ローマはそのはじまりから語ろうとしているのがよく見える。なんたって「ローマ人の物語」なのだから。

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ローマ人の物語I「ローマは一日にして成らず」の読みどころ

ローマ人の物語1 知力ではギリシア人に劣り、体力ではガリア人に劣り、技術では、エトルリア人に劣り、経済力では、カルタゴ人に劣るのが、ローマ人。そんなローマがなぜあれほどの権勢を長期にわたって誇ったか――これこそ、塩野氏が本書を書いたテーマだという。これは、読み手であるわたしも同じ。

 ローマの強さ。しかも一過性の強さではなく、時代をかさねても継続的に続くものが何であるかを考えさせられる。「強さ」と聞くと、思わず「頑丈」「頑強」と思い浮かべる。何事もシステマティックに進めようとする気質から、「頑固」「頑迷」なんて言葉も出てくる。

 しかし、どうやらそうではないらしい。「ローマは一日にして成らず」を読むと、確かに頑ななところもある一方、柔軟に取り込もうという気風もあったらしい。多神教なんてその最たるもの。ギリシアも日本の八百萬神も超え、ローマには門や橋にまでカミサマがいたそうな。

 そこで一番笑ったのが「夫婦喧嘩の守護神」の話。

夫婦喧嘩の守護神の話

 夫婦喧嘩は犬も食わないなんて、二千年前も現代もおなじ。さらにいうと、喧嘩のヒートアップの仕方も同じ。つまり、お互い感情的に昂ぶってくると、大声になったり相手のことを聞かなくなったりする。耳を押さえ目を閉じて非難の応酬となる。

 そこで、「夫婦喧嘩の守護神」の登場。このカミサマ、求めに応じて出張してくるタイプではないため、夫婦してお堂へ出向くそうな。そこで、お互いの言い分を聞いていただくのだという。ただし、――ここが重要――この守護神、一度に聞けるのは一人だけ。つまり、代わる代わるカミサマに「言い分」を伝えることになるのだ。

 すると、相手の「言い分」が耳に入ってくる。カッカしているときには冷静に聞けなかったのが、聞けるようになる。つまり、「カミサマに聞いてもらう」ことを口実に、相手が口を開くことなく伝えることができる仕掛けだ。

 こうして、カミサマに向かってしゃべることで、「ついでに」相手にも聞いてもらうことをくり返す。このプロセスを経るうちに、感情的なとこもおさまってくる。で、お堂を後にする頃には、もう仲直り…できているかどうかは、カミのみぞ知る。

塩野七生氏が「書いてみたい」ネタ

 屈指のローマオタクである塩野氏が、今度はギリシアで書いてみたいと本書で明言しているネタはこれらしい↓

タイトル 「ソクラテスとその弟子たち」


  • 最も魅力的な裏切り者──アルキビアデス
  • アテネに圧政を敷いた当人でありながら、劇中で自分が揶揄されても、笑って観ていた──クリティアス
  • アテネを見捨て、マケドニアに去っていった悲劇作家──アガトン
  • ペルシアの地でしか武将の才を発揮できなかったベストセラーノンフィクション作家──クセノフォン
  • 迷走するアテネに嫌気がさし、学問の世界にこもるほうを選んだプラトン

 いずれもソクラテス好みの、肉体的にも精神的にも美しい青年たち。ソクラテスとこの弟子たちの生き様を追うのは、輝かしいポリス・アテネの光と影を浮き彫りにする格好のテーマ

 とのこと。ローマやギリシアを「世界史」「倫理」としてしまったわたしは、実はとてつもなくもったいない知り方をしたんじゃぁないかと思っている。決まったことをなぞるだけの歴史ではなく、「なぜそうなったのか」に答えながらプロセスを明らかにするストーリーは、面白いぞ。この「ローマは一日にして成らず」は、続く「ハンニバル戦記」の前フリに満ち満ちている(続刊読んで分かった)。しかも、この長い長い話全部の壮大な前フリでもあるらしい。

 その証拠は、「ローマは一日にして成らず」の結びにある。

「ローマ人の物語」の参考文献

 それは膨大な参考資料。巻末の資料一覧を見ると、「ローマは一日にして成らず」を書くために、「一応」とは謙遜しているものの、莫大の史料を渉猟したことは分かる。そして、その知識が研究者のおかげだということはいわずもがなだが、そこからの七生節が面白い。

 だが、この種の情報は得られたものの、それだけでは何ともしっくりこない。しっくりきはじめたのは、こっらの研究者たちが原史料として使う、古代の歴史書を読みはじめてからだった

 いわゆる一次情報だととらえればいい。同時代か、近い時代に書かれた史料で、「ローマは一日にして成らず」の場合、以下の四書になるそうな。

 リヴィウス「ローマ史」
 ポリビウス「歴史」
 プルタコス「列伝」
 ハリカルナッソス生まれのディオニッソス「古ローマ史」

 なぜ二千年も前に生きた人間のローマ観のほうが「しっくり」くるのか? 自称シロウトが答えた4つの要点は、わたしにも「しっくり」くる。

 第一は、ローマ興隆の因を精神的なものに求めなかったリヴィウスを除く三人の態度にあるという。塩野氏自身、興隆や衰退の要因を感性的なものに求める態度をとっていない。つまり、「ローマの興隆はローマ人の精神が健全だったからであり、衰退はそれが堕落したから」という論法には納得ができないという。それよりも、当事者たちがつくりあげたシステムにあり、移り変わりの激しい人間の気分よりも、そうした気分にせざるをえない方へもっていくシステム化こそが、興隆や衰退の主要因だという。

 第二は、彼らはキリスト教の価値観の影響を受けていないところが「しっくり」くるという。そもそも彼ら三人はキリスト教普及以前に生きたのだからあたりまえ。塩野氏もキリスト教信者でないし、その価値観や倫理から自由だと述べている。「貧しきものこそ幸いなれ」というイエスの教えの優しさは分かるが、一方で「貧しいことは恥ではない。だが、貧しさに安住することは恥である」といったペリクレスの方が同感だという。塩野氏は、

キリスト教を知らなかった時代のローマ人を書くのに、キリスト教の価値観を通しても見たのでは書けない

 などと遠まわしな言い方をしているが、二次史料以降、われわれは、キリスト教の価値観でゆがんだローマを眺めていると言いたいんじゃないかと。

 第三も面白い。フランス革命によって絶対視されるようになった「自由・平等・博愛」の三点セットの理念に、一次史料の書き手はとらわれていないという。これも時代が違うから当たり前といえばあたりまえなのだが、きわめて実際的に合理的にローマを描こうとしている塩野氏にとって、この理念に合わない観点を無意識的に除外しようとする二次史料以降の姿勢に異を唱えたいのだろう。自由も平等も大事かもしれないが、それは今の話であって、ローマを理解するバイアスになりかねないぞと。

 四点目がスゴい。最初のテーマ「なぜローマが──」につながるのだが、問題意識の切実さが違うという。彼ら三人の問いかけは「あれほど高度な文化を築いたギリシアが衰退し、なぜローマは興隆をつづけるのか」という点で完全に一致している。彼ら自身が衰退したギリシア民族に属していたから、この問題は切実な意味を持っていたという。で、その切実さが欠けている日本人の書いた日本人論をチクりと刺した後、現代の歴史学をまるごと飛び越えて、二千年前の三人のギリシア人の目線から、このテーマに回答を与えてしまっている(答えはご自分の目で確かめて欲しい)。でその刀でこうトドメを刺す。

 それなのにわれわれ現代人は、あれから二千年が経っていながら、宗教的には非寛容であり、統治能力よりも統治理念に拘泥し、他民族や他人種を排斥しつづけるのもやめようとしない。「ローマは遥かなり」といわれるのも、時間的な問題だけではないのである

 言い切った──!! すごいよナナミさん! 言い切ることで自分を追い込み、以後このテーマでローマを語ろうとする意気込みのおかげで、ただのローマ萌えは蹴散らされ、読み手は何を求めて読み続けるのかを彼女と一緒に考えるハメになる。むろん、わたしの場合は「なぜローマがそこまで栄え、滅んでいったか」になる。塩野「ローマ人」だけでなく、いくつか併読することでこの問いに答えられれば面白かろう。

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