« 2004年12月26日 - 2005年1月1日 | トップページ | 2005年1月9日 - 2005年1月15日 »

子どもに「礼儀正しさ」をどうやって教えるか

それこそ乳幼児の頃は「育てる」よりもむしろ「世話する」時代だった。語弊があるかもしれないが「飼育する」という感じ。世話をしているうちに勝手に大きくなり、幼稚園に行くようになり、「ともだち」なる存在を見つけ、裏拳を覚え、悪い言葉を仕入れてきては叫んだり… と、立派な3歳児に育っている。

そこでフと気づいたのが上の課題。確かに学校などで「集団生活を通じ社会性を身に付けることができます」などと言われるが、「社会性」の中には礼儀正しさは含まれていないぞと。

目標を分解してみる。

  1.「礼儀正しい」とはどういうことか分かる
  2.「礼儀正しい」ことがあたりまえのようにできる

親なる私自身できているかが最大の問題なのだが… とりあえず 1 について自問。「礼儀正しい」とは何か? → 相手を尊重する意思が言動に顕れたもの。「礼儀作法」とは少し違うと思う。辞書にあたってみる↓

  広辞苑:社会生活の秩序を保つために人が守るべき行動様式
  新明解:尽くすべき敬意表現と、超えてはならない言動の壁

微妙に違うが気を取り直して 2 へ逝ってみよう。「あたりまえ」になって欲しいのは次の4つかな。

あいさつをする

基本にして最強。「できていない」人は数多く見かけるが、それは本人が悪いのではない。親がちゃんと教えていないので、「あいさつをすることは、あたりまえなんだ」と思えないだけ。大きくなってからの矯正は、本人が気づかない限り、不可能。これはオヤなる私が「礼儀正しく」家族にあいさつをするところから始まる。子どもはマネの天才。

話すときも、聞くときも、相手の眼を見る

ごめんコレできていない→私自身が。そっぽ向いたまま話を振ってるし、目線を合わせるためにしゃがんだりしてない。(叱るときなど)強く言うときは上から押さえつけるように言うため、子どもはけして目を合わせようとしない。誉めるときは目線を合わせているんだけどな… アイコンタクトの無い親子会話を避けるため、私が直さなきゃ。

悪いことをしたら、「ごめんなさい」と言う

おとうちゃん謝り上手だから、息子も上手(w … んが、何でもかんでも謝れば良いわけではない。「ゴメンで済んだら警察いらない」が、過ちを繰り返さない決意が入っているかがポイント。これも「謝る姿」をさらすことでマネしてもらおう。

なにかをしてもらったら、「ありがとう」と言う

これも最強。「ありがとう」は魔法の言葉。何度使っても磨り減らない、使えば使うほど輝きを増し、自分も相手もハッピーになれる魔法の言葉。一生の中で誰よりも多くの「ありがとう」をいえる人になってほしいなー と思っているので、まずオヤから実践中。hirocさんの「1日10回ありがとう」に倣って、「ありがとう」をできるだけたくさん(自然に!)言えるようにならなきゃ。

ううむ、だんだん「あたりまえだけど、とても大切なこと」に似てきたぞと。それはともかく、上記は全て、「相手を尊重する意思」が根っこにある。相手をかけがえのない存在として認め、尊重することにより自然に出てくるのが「礼儀正しさ」なんだとあらためて思う。

ただ、普通は「相手を尊重」→「礼儀正しい所作」のプロセスを経るのではなく、その家族を通じて習慣化していく「クセ」のようなものだと考える。なぜなら「礼儀正しい人」はそうするのがごくあたりまえのごとく行動しているから。礼儀正しさとは、習慣なんだ

だから先ず私が、子どもに対して「かけがえのない存在」だと思っていることを示し、彼が幼い存在だとしても「礼儀正しく」接することにより、習慣づけていくのが正道だな。大切にされたことがない限り、誰も大切にすることができないだろうし、礼儀正しく接せられたことがない限り、(人に)礼儀正しく接することなぞできないだろう。子どもはマネの天才。だから私のマネをしてもらうべく、私が「礼儀正しく」あろう。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

時間はみんなに平等だが、あなたにだけは平等ではない

『年を取るほど一年が短く感じられる理由』←意味がよく分からねぇ」というツッコミをもらった。ううむ、なるべく分かりやすくしたつもりだったが、書き方まずかったかも… なので再エントリ。まずはこの図を見てほしい。
1year
この図は、ちょっと違う見方で「1年間」を「測って」いる。ポイントは2つ。

1つ目は、「1年間」という時間を「量」とみなしている。「1年間」を時間として見る限り、「計る」方法は時計しかありえない。「1年間」をボリュームとみなし、何らかの方法で「測って」みる。

2つ目は、「測る」方法を体感量として相対化できないかと考えた。つまり、今まで生きてきた時間のうち、1年間が占める割合で「測って」みるんだ。

例えば、生まれたての赤ちゃんにとって「1年間」は「生きてきた時間」とイコールだろう。10才の子どもにとって「1年間」は生きてきた時間の 1/10 に相当する。20才なら 1/20 になるし、30才なら 1/30 だろう。

10才の子どもにとって「1年間」はかなり長い。なぜなら生涯の 1/10 に相当するから。しかしその子が年をとって20才になると「1年間」は、10才の時よりは短くなる。体感量は 1/10 → 1/20 になるから。単純計算だと 1/2 に短縮されてしまう。もちろん物心つくまでの期間が含まれているため、単純に半分とするのは乱暴だが、それでも短くなっていることは確かだろう。

また、この考え方は同一人物の体感量に限っている。10才の観鈴さんと20才の晴子さんの「1年間」は、1/2 にならない。10才の「1年間」との差を体感できるのは20才の晴子さんだけだから。20才になれなかった観鈴さんにとっては体感していない時間だから。

年をとればとるほど、「1年間」の体感時間がどんどん短くなってゆくのが分かっただろうか? 具体的にどれだけ短くなるかというと、以下の計算式で求められる。

  今年の体感量 = 365 × あなたの年齢 ÷ (あなたの年齢 + 1)

仮に観鈴さんが16才なら、17才の誕生日を迎える年は、前年に比べると

  365×16÷17≒343.5
  365-343.5=21.5

だいたい3週間、短くなるというわけ。

一方、観鈴さんと晴子さんふたりの時間を比べる場合は、時計を使うしかない。この場合、「1年間」は二人にとってほぼ同じ時間となる。「時間は誰に対しても平等」というのはこのこと。

誰に対しても等しく過ぎゆく時間。しかし、自分の体感としてみた場合、年をとればとるほど、どんどん短くなってゆく。時のスピードが速くなっているのではない。秒針の速さは同じ。しかし受け取れる時間の「量」が相対的に減っていくわけなんだ。

「ああ、もう大晦日か」とつぶやいた人は沢山いただろうが、今日(1/7)はそのときから1週間しか経っていないことに気づいている人は、わずかだろう。2005年が始まった最初の1週間は妙に長かった。しかし来週は、今週よりも「速く」過ぎ行く… 違う違う、時間は加速しない。あなたの受け取り分が減っているんだ。

時間はみんなに平等だが、あなたにだけは平等ではない

| | コメント (2) | トラックバック (1)

渋谷の女子高生という神話

あれは「渋谷にいる制服を着た女」だよ、という話。知ってるよ、という人は読む必要なし。渋谷を歩く制服を着た女性は、「女子高生」という記号をまとっていることをよく理解しているが、周りはそう思っていないらしい。

たとえば街頭インタビュー。カメラに向かう「女子高生」は、生で見るとハタチをかなり過ぎてる。大人肌はファンデやTVブラウン管でごまかせるらしいが、照明さんやレフ板さんに囲まれ、「渋谷の女子高生」を演ずる女性は、ロケバスで着替えを済ませる。

着替えといえば、ロッカーでの着替え。ハイティーン(死語)の娘は、確かに東急ロッカーで着替える。私服→制服にな! 私服で電車に乗ってやってきて、わざわざ制服に着替えることに何の意味があるのか、オヂサンには分からない。

テレビ収録もそう。カメラを向けると逃げ出す娘が本物。東急や井の頭沿線の子は、学校バレすると問題があるため、写らないように逃げる。嬉々として応ずる女子高生は確かにいる。しかし彼女らは、電車を乗り継いで渋谷にやってくる。

水色ワンピース着てるオッサンや、熱々レズカップルが闊歩する街だから、めったなことには驚かないが、どうみても20代後半なのに女子高生な2人が腕組んでいるのを見かけたときにはのけぞった。好奇心を隠せず「なにかの撮影ですか?」と尋ねたところ、卒業して十年経つけれど、どうしても制服を着て渋谷を歩きたかったそうな。

ここまでくると、一種のコスプレ、つまり渋谷という聖地でくりひろげられる女子高生というコスプレなんだ…(109が"はにはに"聖地であるのと同じだねっ)。

では本当の「渋谷近辺の高校の女子」は? もちろん Book1st や マクドに駐屯(たむろ)ってる娘もいるし、ハチ前の電話ボックスで一生懸命客引きをしている娘もいる。でも、ほとんどの子は、少し疲れた様子でノートや参考書を眺めている、どこにでもいる高校生。

がんがれ、受験生。センター試験はもうすぐ。

--

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2004年12月26日 - 2005年1月1日 | トップページ | 2005年1月9日 - 2005年1月15日 »