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オリーブの森で語り合う(ミヒャエル・エンデ)

床屋談義。「最近の世の中は…」で始まり「なっとらん」で終わる会話を高級にしたもので、具体策なし。とはいえ知的刺激てんこ盛りなので得るものも多し。

ミヒャエル・エンデのある週末。エンデの自宅に高名な政治家と芸術家を招き、エンデも含め3人で語り合った記録。この本のレジュメというか骨子はここ←ひできさんの紹介(ありがとうございます、そして辛口評でごめんなさい>ひできさん)。

ポジティブなユートピア
最近の未来は暗く語られるようになった。ウェルズ「タイムマシン」、ハックスリー「すばらしき新世界」、オーウェル「一九八四年」を例にとり、人間は自分のつくりだしたものに自身を引き渡されたように感じているという。あるいは消費するように呪われているという。

上記の作品は読んでいるが、これは趣味の話。ポジティブな未来を描く作家もいれば、暗いのがお好きというヒトもいる。自分の趣味を敷衍して「イマドキは…」という語り方は、飲み屋でよく耳にし口にする。明るい未来やユートピアを描いた作品ってあったっけ?

反デカルトの話
「客観的」という言葉が「正しい」という意味に、「主観的」という言葉が「錯覚」と同義語にされている風潮の指摘は正しい。これは、デカルト志向で現代はおかしくなっているという文明批評。だからやり方を変えよう、もっと人類全体のことを、地球のことを考えて…

「ヒトの世=世界すべて」と見なし、これを持続可能にするための社会システムを導入しなければならない、と論ずるトコロは幼稚さを感じる。否定しているのではなく、「これか あれか」という考え自体から出られていないのが「西洋」の限界なのかと。

ヒトに限らず、この星の生もまた刹那なもの。別に文明が滅ぼうとどうなろうと宇宙は続くわけでヒトの世が終わるだけの話。死を回避するためあがき続けるのも生、「しっかり生きて、それから死ぬ」のも生←こうした考えはエンデには受け入れがたいだろうなぁ…

ファンタジーという隠喩
「モモ」は素晴らしい作品だが、「解説」を始めると途端に陳腐になる。誰かに勧めるとき、書き物で言及するとき、できるだけ解説を避けるように心がけている。その理由は、エンデ自身の「解説」である以下の引用を読めば分かる。

とくにそこでは、ほんらい量としてとらえられないものが、量として考えられて、そのために、そのものの価値がまるごとうばわれる。ぼくにいわせれば、灰色の紳士たちは、ほかでもない、ものごとをひたすら量としてとらえてしまう思考を代表しているわけだ

ね、陳腐でしょ。実存の不確実性だとか、社会システムとしての搾取だとか、いちいち解説されなくとも誰もがなんとなく体感している。うまく言葉に言い表せない気持ちは直截に指摘されてもピンとこない。

光った文章たち

考えを新しく組みたてるためには、専門用語なんて捨てたほうがいいと思う。なにかひとつのイデオロギーによりかかれば、自分の思考をひとつの容器に閉じこめることになって対話がストップしてしまう。だってね、引用されたイデオロギーの代表者が何を主張するかは、みんなもう知っていると思っているから

こいつをマルクス主義だけに当てはめて考えているのが哀しい。

ニュートンはこういった「科学的真理を宗教にもちこんではなりません。異端者となるから。宗教上の真理を科学にもちこんではなりません。夢想家になるから」

「なにも内側にはなく、なにも外側にはない。内側にあるものは、外側にあるのだ」(ゲーテ)

「おまえの知覚するものが、おまえである」

うん、そういう話になると、ぼくはいつも、昔の中国のすばらしい習慣を思い出す。ひとりの医者が、そうだな、五十家族ほどの健康管理をすることになっている。どの家族も、家族みんなが健康であるかぎり、毎月いくらかのお金を医者に払う。五十家族分があつまれば、かなりの収入にはなる。だれがか病気になると、ただちに支払いが停止する。またお金をもらうためには、医者は患者を健康にもどす努力をしなければならない

美学的な芝居によって味わう自由の体験そのもにに、きわめて高度の道徳的性質がそなわっている。そういう体験をしてはじめて、人間は、自由への能力というものに気づくのではないか

 ・社会から注意深く排除され、希釈された「死」
 ・ファンタジーというもう一つの現実を理解できないオトナ
 ・ふるまいによりのみ受け入れられ、社会的に成立する性

で結局どうすればよいかというと
いままでのやり方ではダメになってしまう現実に対し、「意識の変化」が必要と説く…

あなたは中学生ですか orz

というわけで、具体策は示されることの無いまま、示唆教唆、隠喩引用に満ち溢れた対談と化している。ヒントは沢山あるのだが、そこから何を受け取るのかは、読み人次第だろうなぁ、という一冊。

最後にひできさんへ私信。辛口批評で申し訳ないッス。期待した分、肩透かし食らったトコロがあります。ウソはつきたくないので、正直に書きました(これでも推敲して、毒抜きとなってる記事です)

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コメント

Dainさん、こんばんわ、

いやあ、先をこされちゃいましたね。私も数日前に再読読了しました。ちょっと自分自身肩透かしを食っていた部分があります。よく理解していない本をお奨めしてしまい、もうしわけございませんでした。なんか、「レジュメ」の方がまとまっている感じすらしちゃいましたね。ははは。

でも、いまの自分にはとてもシンクロしている話題の本でした。たとえば、

「宇宙全体の働きかけでぼくらは一時間一時間をあたえられている」

というエンデの発言は、ちょっと前に「EPR相関」という議論がハテナ方面でもりあがっていたのですが、ちょうど「相関」しているように思いました。

http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20040623 から数日分

http://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/kairo26.htm EPR相関

また、ちょっと私の稚拙な記事がもとでフェミニズムについても生まれて始めてかかわってまして、結構「オリーブの森」が参考になっていたりします。

http://hidekih.cocolog-nifty.com/hpo/2004/06/lose_dog_1.html

いずれにせよ、もう一人すすめてしまったHiroetteさんまで記事にしているので、私もちゃんと記事書きます。まあ、Hiroetteさんにも評判はあまりよくなさそう...orz

http://www.myprofile.ne.jp/blog/archive/hiroette/790


投稿: ひでき | 2004.07.03 23:11

ひできさん、お返事遅れてゴメンナサイ。それから、知的好奇心に満ち溢れる本を紹介していただき、ありがとうございます。

むかし主義主張とやらにいっぱい撃たれたため、「うつくしい言辞」に出会うと自動的に警戒するよう、体のどこかに刷り込まれています。作業予定表まで落ちていないミッションはただの「こんなこといいな、できたらいいな」だけ。

エンデはいいこと言っています。これは確か。ただ、物語で示すかインタビューでしゃべるかにより、受け止められ方がまるで異なることに気づいていなかっただけなのかなーなどと思ったり。

これにめげず「モモ」を再読してみようかな…

投稿: Dain | 2004.07.08 01:03

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