スゴ本オフ「のりもの」が熱い!

 好きな本を持ち寄って、まったり熱く語り合う読書会、それがスゴ本オフ。本に限らず、映画、音楽、ゲームなんでもよく、好きな作品でつながりあう。「好き」を介して人と出会い、人を介して「好き」を広げる場なんだ。

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 たいていは「テーマ」を決めて、そのテーマにちなんだ作品を持ち寄っている。もちろんストレートに思いついた作品もいいし、ひねったりコジツケてもOK。「なんでソレにしたの?」という疑問に答えることが、その作品の最高の紹介になるかもしれない。

 今回のテーマは「のりもの」。クルマや電車といった「乗り物」や、雑誌や新聞を「載りもの」にしてもいいし、最近ノッてる音楽もあり。いろいろな「のりもの」が集まって、子どもから大人まで、熱く楽しい日曜の午後でしたな。

新幹線大爆破

 めちゃくちゃ笑ったのが、ズバピタさんが紹介した映画『新幹線大爆破』。

 東京発博多行きにひかり号に爆弾が仕掛けられ、時速80km以下になると爆発するというパニックもの。爆弾魔が高倉健、新幹線の運転手が千葉真一、国鉄指令室に宇津井健というオールスターキャストで繰り広げられる頭脳戦と、暴走する警察が見どころとのこと。

 撮影当時、国鉄が撮影に協力してくれず(あたりまえやね)、やむをえず新幹線内部は隠し撮りしたという。前は東映と国鉄は良い関係だったのに、これで出入り禁止になったという曰くつき。予告編見れば分かる。

「現代の狂気を抉る!」
「爆弾と恐怖を乗せて!」
「死の旅へ一直線!」

 そりゃ怒られるわなwww 昭和臭たっぷりだけれど、「時速80km以下で爆発」ってまんま『スピード』だし、現代でも充分に通用するスリルと面白さとのこと。Amazonプライムで視聴できるので、ちょっと観てくる。

 「乗り物」といえばコレでしょ、とばかりに新幹線、電車、機関車など鉄分たっぷりでしたな。変わったのでは、日本の鉄道の「名所」として、勾配や曲線が変わったところばかりを紹介している本や、後ろにプロペラがついている機関車が出てくる。

乗り物としての人体

 「なるほどそう来たか!」と驚いたのが、乗り物としての人体。「のりもの」なんだから、当然、「のる」主体は人だと思っていた。ところが発想を変えると、人でない存在にとっての「人体」という乗り物が生まれてくる。

 たとえば、ビフィズス菌のような乳酸菌は、人体を乗り物にしていると言えるし、リチャード・ドーキンスは個体は遺伝子を運ぶ乗り物(vehicle)と表現した。そこで出てきたのが、onoさんが紹介した、「感染した人を天才にする菌」の話。

 『天才感染症』は、SF+バイオテロ+スパイてんこ盛りの徹夜本らしい。人間を乗り物にして広がろうとする菌と、それを抑え込もうとする人間の知恵比べが、スピーディーに展開される。非常に興味深いのは、これ、「森山塔の『デマコーヴァ』みたい」という喩えなり。分かる人には分かるが、それだとシャレならないんですけど……

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 もう一つ、タメになったのがH2さんの「腰」の話。現代人は、なぜ腰痛になるか? 実は、「腰」という場所を誤解しているのではないか? そこからスタートするH2さんの話が面白い。腰の概念がガラリと変わる。

 「腰がどこか、触れてみてください」と言われて手を後ろに回し、自分のお腹の背中側を触ってみる。ところが、そこは間違いとのこと。「腰をひねる」「腰を回す」といっても、「腰」は回らない。同様に、「腰の据わった」「腰が抜ける」「腰が重い/軽い」といった慣用句で示される「腰」の部分は、「お腹の背中側」ではなく、もっと下になる。

 では、腰とはどこなのか?

 答えは、杉田玄白『解体新書』にある。「腰は尻の上なり」と書いてある。本当の腰は脊髄の付け根なのだ。そして、そこで上半身を支えることで、腰痛は楽になる。腹筋や背筋の衰えで腰痛になるというのは間違いで、本当の腰(脊髄の基部)で上半身を支えることを意識することで解消できるという。

 立つにせよ座るにせよ、脊髄の基部を意識すると、下腹に力を突き出る感じがする。これはちょっと苦しい。しかし、意識することで、自然に背筋が伸びる姿勢になる。もともと背骨はゆるやかなS字型になっており、そのカーブで重い頭を支える仕組みとなっている。腰を意識することは、体幹をS字型にすることなのかもしれない。

 現代人は、自分の体を乗りこなせてないかもしれない。

異形の飛行機

 旅客機や戦闘機や、それにまつわる飛行機関連の作品も沢山紹介されたが、ここではなかでも目を引いた「異形」の飛行機についてまとめよう。

 度肝を抜かれたのが、山内さん紹介のジェットマン。これすげぇ!



 カーボンファイバー製の翼付きジェットパック・スーツで、時速320km、高度3,600mまで達する。ヘリからスカイダイビングのように飛び出して、飛行、滑空、旋回、空中ダンスと多彩な技を繰り広げ、最後はパラシュートで降りてくる。グランドキャニオンやドバイ、富士山上空を飛んだこともあるそうな。

 このジェットマン、スイス人で、イヴ・ロッシーという。元戦闘機パイロットで、元エアラインの機長だけど、自分自身で飛びたいという長年の夢をこうやって実現するなんて、凄いとしかいいようのない。来年還暦とのこと。

 異形の飛行機として面白いのが、たけさん紹介の『未完の計画機』。

 マッハ3を目指した超高速XB70バルキリーや、原子力エンジンという米国の野心を露わにした飛行機など、計画されテスト飛行もされていたのに、実際の運用として世に出なかった機体が紹介されている。

 それぞれの機体ごとに、各メーカーの草案、未完成のまま計画終了に至るまでの政治・組織的駆け引き、さらに実用性の乏しいデザインといった背景にまで掘り下げているという。

 面白いのは、さまざまな思惑の中で、最終的に飛ばなかった理由として最も大きいものは「政治」であること。デザインや安全性は修正が利くが、政治的判断はそのまま開発費用に直結するからなぁ...…続編の『未完の計画機2』もあるとのこと。

人馬一体

 圧巻だったのが、みかん星人さんが持ってきたディック・フランシスほぼ全巻。そして「乗り物としての馬」のお話が面白かった。

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 中世ヨーロッパの人々が南北アメリカ大陸を侵略できた理由として、「馬」があるという。南北アメリカ大陸にも馬はいたのだが、食べ尽くしてしまったとのこと。17世紀にヨーロッパ人が持ち込んだ馬を、「大きな犬」と思ったらしい。

 もともとそこに住んでいた部族をヨーロッパ人が殺戮しはじめたとき、馬がいれば情報を伝えることができ、部族間で結束して反撃することも可能だったかもしれない。だが、馬がいなかったため、各個撃破の形で侵略されてしまったという説である。

 そして時代が下ってディック・フランシス。ジョッキーの経験を活かした競走馬シリーズが有名なり。みかん星人さん、文庫で全巻持っているほど大好きだけど、ハードカバーで揃えたくて、今回全て放出とのこと(太っ腹!)。

 なかでも一番は『直線』(原題は”Straight”)で、レースの直線コースだけでなく、「真面目」という意味もあるという。主人公はジョッキーだけど、本当の主人公はその兄になる。冒頭が上手い。

私は兄の人生を引き継いだ。彼の机、彼のビジネス、彼のおもちゃ、彼の敵、彼の馬そして彼の愛人。私は兄の命を引き継いだ。そしてそのために危うく死ぬところだった。

 ディック・フランシスの作品に通底するテーマは喪失感だという。兄を失った穴を抱えながら、兄が残したさまざなヒントを元に謎を解いていく一方で、喪失感も深まってゆく。『直線』は、初めて声を出して泣いてしまった小説とのこと。これは読みたい(と何度も言明しているけれど、読めていない……スゴ本オフでは、そうした読みたい!が大量に積上げられる場でもある)。

いす・ワン・グランプリ

 めっちゃ面白かったのが、「いす・ワン・グランプリ(ISU-1GP)」。キャスター付きの事務用椅子を使って2時間でどれだけコースを周回できるかを競う耐久レースとのこと。見たほうが早い。

 2010年京都府京田辺の商店街で始まり、いまでは全国12カ所、海外は台湾でもレースが行われているという。コクヨの公式チームが参戦しているのには笑った。どんな姿勢でもOKだが、スピードと体力効率を考えると、後ろ向きに座って足で蹴りながら移動するのがベストらしい。

巨人の肩

 わたしがお薦めしたのは、「巨人の肩に乗る」ための3冊。

 アイザック・ニュートンが手紙の中でこう言ったという。

私がかなたを見渡せたのだとしたら、それはひとえに巨人の肩の上に乗っていたからです。
If I have seen further it is by standing on ye sholders of Giants.

 この「巨人」とは先人たちの知恵でありデータを集積したものだ。どんな天才といえども、ゼロから何か巨大なものを創り出したり、発明することなんてできない。必ず、先行研究者たちの教えを学び、そこに自分の研究なり仕事を乗せるからこそ、成功に結びつくことができる。

 こうした「巨人」は、既に世の中に出ており、図書館に行けば無料でいくらでも利用できる。また、世の中の多くの人々が、既知の事例とみなしていることもある。

 しかし、まさにその「巨人の肩に乗れるように」=「知識を使えるように」したものはほとんどない中、これらがそれに匹敵する。

 ひとつは、『アイデア大全』『問題解決大全』のセットなり。ガチ教養人の哲人である読書猿さんが書いたもので、学問領域を横断して集め、実際に使える形にした、技法集である。その技法を支えている思想や歴史的背景まで紹介し、関連書籍へといざなっており、まさに「使い倒すための教養書」といえる。

 これ読むと、あらゆる問題は、先人が既に悩んでおり、わたしたちは、いかにその解決技法にたどり着くかが問題なのだということが分かる。一生モノの一冊。わたしのレビューは『アイデア大全』『問題解決大全』に書いた。

 もうひとつは、『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』だ。伝説のモンスター・ブロガーふろむださんが書いた、賢者の書であり悪魔の書とも言える一冊。行動経済学、認知科学の知見を「武器」の形にまで仕上げており、悪用もできるし、跳ね返って自分をも傷つける恐れがある、両刃の剣としての「教養」だ。

 煽り気味な書き方だけど超マジメに語っており、一言なら「人は器に従うが、器はマネジメントできる」になる。わたしのレビューは、『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』に書いた。お試しは、『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』第1章で読める。

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 驚いたのが、30人ぐらい集まった中で、読書猿さんやふろむださんのブログを、数えるほどしか知らなかったこと。とりあえず全員に「全て忘れてもいいから、このブログだけはチェックするように」と念押ししておいた。

まとめ

 「のりもの」をキーワードに、航空機、クルマ、鉄道、自転車、馬、除雪車、船、宇宙船、音楽、クジラ、ほうき、ポケモン、人体、辞書、時、巨人の肩と、出るわ出るわ山と出会った。「初めて見た! すごい!」というものから「そういう見方があったのか!」という気づきまで、発見に満ちた数時間でしたな。

 特に印象的だったのが、子どもたちの発表。スゴ本オフは、「好き」を伝える場なので、大人も子どもも関係ない。自分がお薦めする作品を、好きなだけ語ればいいのだが、皆さん、分かっていらっしゃる。

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 大勢の大人が固唾をのんで見守るなか、自分の好きなものを伝えて、沢山のフィードバックと大きな拍手をもって迎えられるような経験は、(おそらく)この子らにとって、初の体験だろう。少し恥ずかし気に、そして誇らしげにプレゼンする子どもたちを見てて、なんかジワっとくる。それと同時に、その「好き」を大切にしてほしいと願う。

 そうなんだ、「好き」を大きな声で伝える場としてのオフ会であり、その「好き」でつながりあう場としてのここなんだ。このブログもそう、バーチャルな場所かもしれないが、あなたにとってのスゴい本は、きっとわたしは読んでいない。だから、ぜひとも教えて欲しい。これがスゴいよってね。

 ご参加いただいた皆さま、ありがとうございました。また、台風22号直撃の香港からSkypeで参加いただいたり、twitter経由でお薦めをいただいたり、リアル+ネットで色々混ざり合うことができ、感謝の限りありません。

 次のテーマは、「冒険」。この言葉から想起されるのであれば、なんでもOK。小説、漫画、ゲーム、ノンフィクション、音楽、動画、映画、舞台、サイトURL、イベントなんでもいいし、行きて還る冒険物語でも、アドベンチャーゲーム(古い?)でも、ベンチャー(投機)も冒険だし、アバンチュールだって「恋の冒険」になる。

 あなたのお薦めの「冒険」を、教えてくださいませ。最新のスゴ本オフ情報は、facebookスゴ本オフをチェックしてくださいまし。

おまけ

 スゴ本オフ「のりもの」で紹介いただいた本は以下の通り、参考にしてくださいまし。

クルマ

  • 『Esquire Japan Dec,1989』(エスクァイア マガジン ジャパン)
  • 『スーパーカー誕生』沢村慎太郎(文春文庫)
  • 『魂の駆動体』神林 長平(ハヤカワ文庫)
  • 『あかくん まちをはしる』あんどう としひこ (福音館書店)
  • 『お笑い 男の星座 芸能死闘編』浅草キッド(文春文庫)

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除雪車

  • 『はたらきもののじょせつしゃ けいてぃー』バージニア・リー・バートン(福音館書店)

飛行機
  • 『ちがった空』ギャビン・ライアル (早川書房)
  • 『フランクフルトへの乗客 』アガサ・クリスティー(ハヤカワ文庫)
  • 『ローズ・アンダーファイア』エリザベス・ウェイン(創元推理文庫)
  • 『生存者』P・P・リード(新潮文庫)
  • 『未完の計画機 (命をかけて歴史をつくった影の航空機たち)』浜田 一穂 (イカロス出版)
  • 『夜間飛行』サン・テグジュペリ(新潮文庫)
  • 『Jetman Dubai(youtube)』Jetman(youtube)
  • 『スカイ・クロラ』森 博嗣(中公文庫)
  • 『ステルス戦闘機―スカンク・ワークスの秘密』ベン・R. リッチ(講談社)
  • 『ゼロと呼ばれた男』鳴海章(集英社文庫)

鉄道
  • 『はしれ、きかんしゃ ちからあし』小風さち(福音館書店)
  • 『ヒューゴ(きかんしゃトーマス)』-(-)
  • 『でんしゃ・しんかんせん (はっけんずかん)』なかさこ かずひこ、西片 拓史 (学習研究社)
  • 『マリアビートル』伊坂 幸太郎(角川文庫)
  • 『新幹線大爆破』 高倉健, 千葉真一, 宇津井健(東映)"
  • 『日本鉄道名所 勾配・曲線の旅 (4) 東海道線』宮脇俊三(小学館)


  • 『華竜の宮』上田 早夕里(ハヤカワ文庫)
  • 『エンデュアランス号漂流』A・ランシング(新潮文庫)
  • 『サードマン: 奇跡の生還へ導く人』ジョン・ガイガー(新潮文庫)
  • 『そして、奇跡は起こった!―シャクルトン隊、全員生還』ジェニファー・アームストロング(評論社)
  • 『能百十番』増田 正造(コロナ・ブックス)
  • 『老人と海』アーネスト・ヘミングウェイ(光文社古典新訳文庫)

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宇宙船

  • 『宇宙からの帰還』立花 隆(中公文庫)
  • 『女子高生、リフトオフ!』野尻 抱介(早川書房)
  • 『われらはレギオン』デニス・E・テイラー(ハヤカワ文庫)

ロードレーサー
  • 『サクリファイス』近藤 史恵(新潮文庫)
  • 『シークレット・レース』タイラー・ハミルトン(小学館文庫)
  • 『のりりん』鬼頭莫宏(イブニングコミックス)
  • 『疑惑のチャンピオン(映画)』ベン・フォスター(松竹)

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ホウキ

  • 『魔女の宅急便』角野 栄子(角川文庫)

ポケモン
  • 『ポケットモンスター サン&ムーン 公式ガイドブック』元宮秀介』(オーバーラップ)

音楽
  • 『イッツ・マイ・ターン』フィロソフィー(philosophy of tye world)
  • 『ライブ・ライフ』フィロソフィー(philosophy of tye world)
  • 『日本海夕日ライン』RYUTist(RYUTO RECORDS)
  • 『MACHINE(音楽)』BUCK-TICK(ビクター)

いろいろ
  • 『ヒャッケンマワリ』竹田昼(楽園コミックス)
  • 『Codex Seraphinianus』Luigi Serafini(Rizzoli)

カヌー
  • 『日本の川を旅する』野田 知佑(新潮文庫)

クジラ
  • 『リヴァイアサン-クジラと蒸気機関-』スコット・ウェスターフィールド(ハヤカワ文庫)

森本レオ
  • 『神菜、頭をよくしてあげよう』大槻 ケンヂ(角川文庫)

巨人の肩
  • 『アイデア大全』読書猿(フォレスト出版)
  • 『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』ふろむだ(ダイアモンド社)
  • 『問題解決大全』読書猿(フォレスト出版)


  • 『直線』ディック・フランシス(早川書房)
  • 『本命』ディック・フランシス(早川書房)

椅子
  • 『いす1グランプリ(イベント)』(羽生市商工会青年部)


  • 『ドゥームズデイ・ブック』コニー・ウィリス(早川書房)
  • 『航路』コニー・ウィリス(早川書房)

辞書
  • 『学校では教えてくれない! 国語辞典の遊び方』サンキュータツオ(角川学芸出版)

人体
  • 『デマコーヴァ』森山塔(小学館)
  • 『新装版 解体新書』杉田玄白(講談社)
  • 『天才感染症』ディヴィッド・ウォルトン(竹書房文庫)

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子どもの目に触れさせないようにしていた作品

 結論から言う、見せたいものは隠せ。

 子どもは、親の言うことなんて聞かない。これには「絶対」をつけてもいい。幼少ならともかく、成長につれて親の言うことには、反発する・無視する・聞き流す。

 ただし、親の「する」ことはマネする。ここテストに出るところ。子どもは、親の「言う」ことは聞かないが、親の「する」ことはマネをする。

 だから、親が「これ、好きになってほしいな」と思うものは、そのまま言っても聞かない。反対に、親が好きな「これ」を、子どもの目に触れさせないようにして、コッソリ楽しむ。すると、子どもはどこからか嗅ぎつけて、手に取ってみるのである。

「トットちゃん」より「鬼畜」好き

 わたしが嗅ぎつけたのは、『化石の荒野』『鬼畜』『人間の証明』だった。親からすると、『窓際のトットちゃん』『星の王子さま』『はてしない物語』を読ませたかったらしいが、そんな「オモテの本」よりも、親の本棚から盗み読みした西村寿行や松本清張に、えらく興奮したものである。

 そんなわたしが親になり、子どもにたっぷり読み聞かせ、自力で読めるようになった頃、「ちと早いかな?」という作品を軒並み仕舞った。もう少し大きくなったら見せるつもりで、子どもの目に触れさせないように隠したのである……

 ある日、娘が心底嬉しそうな顔で「お父さん、これ面白いね…」と持ってきたのは、『鋼の錬金術師』。聞けば、何の気なしに探しあて、なんとなく一巻を読み始めたら止まらなくなり、世の中にこんな面白いものがあるのか、イッキに全巻読み切ったという。

一生に一度の、最高の贅沢

 予備知識なしでハガレンを一気に読むという贅沢! これは、一生に一度しかできない貴重な経験なり(かなうなら、わたしも記憶を消して読みたい)。連載時は次の話を読むために1ヶ月待ったんだよと言うと、信じられないとのこと。

 その後、何度も何度も繰り返し読み返したらしい。話しているだけで分かる、物語の面白さだけでなく、「人間とは何か」といった人間の定義や、「等価交換の原則」など、娘の価値観にも大きな影響を与えている。

 振り返ってみると、子どもに薦めたものよりも、子どもから隠した作品のほうが、どっぷりとハマってくれているような気がする。

子どもの目に触れさせないようにした作品

 『鋼の錬金術師』は、ちとグロいのと物語的なエグさに、もう少し大きくなってからと隠した。『冴えない彼女の育てかた』は、あざといエッチに中(あた)るのが心配で隠した。手塚治虫の短編集はジェンダー的に不適切なエロを感じて隠した。旧約聖書と新約聖書は「神のみ名のもとになんでもあり」なので隠した。『メイド・イン・アビス』の可愛さとキツさは理解できないと思って隠した。百合はさすがに早いので『青い花』と『きんいろモザイク』を隠した。『この恋と、その未来。』は最高のラノベなので最後に読んでほしくて隠した。

 ところが、本棚の裏や戸棚の奥、クラウドの隅にある作品を、着々と見つけては粛々と消化している。上に挙げたのはほぼ全て読み切っている(はず)。子どもからすると、わたしの思惑なんざ、知ったことではない。子どもは、読みたいものを読むし、観たいものを観る。

 本だけでなく、アニメもそう。いつのまにか探し当てられ、貪るように観ている。『天元突破グレンラガン』や『輪るピングドラム』、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』も全話視聴済みという。わたしが親の本棚を漁ったように、子どもはわたしのクラウドを渉猟する。

親の役目=準備

 わたしも『はてしない物語』を薦めたが、イマイチの反応なりw でも、それでいいのだ。「あんな本があったな」と心の隅にでも置いといて、いつか、ふっと手にしてくれれば。ただし、その「ふっとしたとき」に手に届くところにその一冊が置いてあるか、ないか、それが重要であり、それこそが親の役目じゃないかな。

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物語を書く「前に」知るべきこと『工学的ストーリー創作入門』

 もちろん葬った原稿が沢山ある。

 うぬぼれ&創作欲に突き動かされ、勢いだけで書き始め、そのうち行き詰まる。なんとなく良くないのは分かるが、それが人物なのか構成なのかシーンなのか分からない。描写を直すと人物が色褪せ、シーンを変えると構成が崩れる。結果、原稿を書くたびに一からやり直すハメになる。最後まで書き上げられるかは運まかせで、最後まで行けた試しがない。

問題は書く「前に」ある

 これは、やり方が間違っている。何年かけても完成しない。『工学的ストーリー創作入門』を読まなくても知っていたが、本書でとことん思い知らされる。わたしの努力は無駄ではないかもしれないが、非常に効率が悪い。問題は、書くことそのものよりも、その「前に」存在している。

 『工学的ストーリー創作入門』(Story Engineering)は、物語を書き始める「前に」知るべきことを整理するだけで、ストーリーは工学的に作り上げることができるという。しかも「売れる」物語を、である。Rootport 師匠が読んでいたので気になって手に取ってみたら、これが正解だった(ありがとう!)。

スティーヴン・キングの方法は間違っている

 著者によると、わたしの書き方は「パンツィング」と呼ぶらしい。スティーヴン・キングの書き方と同じで、「アイデアが浮かんだらとにかく書け」というやり方である。勘と経験を頼りに即興で書くやり方で、練りながら書き、必要とあらばイチから書き直す。

 この方法は、キングのようにストーリーの型や機能、構成を熟知していてこそ可能で、非常に効率の悪い書き方だという。さらに即興で書いた原稿を直して仕上げる鉄の意志が必要になる。スティーヴン・キングの『書くことについて』は、未来の天才のための覚書きと考えた方ががいい。生存バイアスに従って凡人がマネをしても無理というもの。

物語の工学論

 ストーリー創りは抽象的で、「とにかく書け」「キャラにしゃべらせろ」「オリジナルの文体で」といったTips的なネタの寄せ集めになる。本書は、そうしたネタの核心を体系的に衝いており、「これさえ押さえておけばOK」という型を打ち出す。いわば物語の工学論であり、売れる物語はすべからくこの法則に則っているといっていい。

 『物語工学論』といえば同名の新城カズマの著作がある。物語の創作において、必ずしも独創性やオリジナリティが求められるわけではない。ある種の型を元にマイナーチェンジをすることで、創りあげることができるという。

 『物語工学論』では「物語=キャラクター」に特化している。物語の構成をキャラクター類型ごとに分け、そこから再生産する方針だ。キャラに限定されているとはいえ、物語をエンジニアリングできるという発想は素晴らしい。一定のプロセスと構成を経て、物語を創造することは可能なのだ。

物語の構成を視覚化する

 物語構成を視覚化する一助として、大塚英志『キャラクター小説の作り方』が役立つ。あらゆる物語を動かす原理として、「主人公は何かが"欠け"ていてそれを"回復"しようという"目的"を持っている」がある。そして、この目的に向けてどのような情報を出し入れすれば良いかは、物語の構成を視覚化することで確認する。

 その方法は、「カード&プロット法」になる。ワンシーンにつき一枚のカードを用意し、プロットを記入する。そして、カードを時系列に並べ、伝えるべき情報や伏線、シーンの重複などをチェックし、カードを増減するのだ。これは、お気に入りの小説や映画をカードに分解することで、物語構成を視覚化することができるという利点もある。

ストーリーを成立させる6つの要素

 『物語工学論』ではキャラクター類型、『キャラクター小説の作り方』では物語の構成を紹介した。『工学的ストーリー創作入門』はこれらを包括して、トータルとして何を、いつ、どのレベルにまでするべきかが解説されている。本書によると、ストーリーの本質は「コンセプト」「人物」「テーマ」「構成」の4要素になり、「シーンの展開」「文体」の2つによって成立する。ざっくり紹介すると、次のようになる。

  1. コンセプト : ストーリーの土台となるアイデア。「もし~だとしたら?(what if ?)」という問いで表すとはっきりする。その問いの答えが新たな「what if ?」を生み、枝分かれして層を作る。いろいろな選択や問いへの答えが集まってストーリーになる。
  2. 人物 : ストーリーには主人公が必要。読者に好かれなくてもいいが、感情移入できるように設定する
  3. テーマ : 抽象的だが明確にできる。コンセプトとの違いに注意。テーマとは「世の中の何を描き出すか」
  4. 構成 : 物事を伝える順序とその理由。勝手に崩せない型がある
  5. シーンの展開 : ストーリーはシーンをつなげて作る。シーンの展開にも原則とガイドラインがある
  6. 文体 : 建物の塗装や人の服装のように、表面を飾る

 そうした上で、コンセプトの立て方、人物の7つのカテゴリーと3種類の次元、構成の原則とシーンのボリューム割、テーマのストーリーへの関わり方を掘り下げる。「ストーリーの本質はコンフリクト(葛藤、対立)」とか、イッキ読みをさせるには、シーンの終わりで問いを出す「カット・アンド・スラスト」テクニックなど、著者自身が実際に使っているフォームが惜しげもなく展開されている。

物語を書く「前に」知るべきこと

 いわゆる神絵師が自分の制作過程をYoutubeで公開しているが、その物語版といってもいい。わたしたちが目にするのは、実際に完成された絵や小説という「作品」だが、それらがどういうプロセスで作り上げられ、何に気を配られているかを知ることは、自分がそれを描く・書くときにものすごく役に立つ。

 逆に、そうした知識や技術を描きながら・書きながら身につけるのは至難の業だろう。本書では、「物語を書く『前に』知るべきこと」として一枚の紙にツール化している。いわゆる「物語の書き方」を謳うハウツー本を凝縮した内容で、完成度の高い原稿が書けるという。プリントアウトして、机の前にでも貼っておくといいかも。

ストーリーのコンセプト面でのフック/魅力は何か
・「もし~なら(what if)?」の問いで表せるか
・その問いに答えられるか
・その問いは即、新たな「もし~なら?」を生み、プロット展開を促すか

ストーリーのテーマは何か
・ある視点からテーマを描きたいのか、テーマを探究したいのか
・ストーリーから複数のテーマが思い浮かぶか

ストーリーはどのように始まるか
・出だしにフックはあるか
・プロットポイント1の前、主人公は何をしているか
・プロットポイント1までにどんな危機感が設定されているか
・人物のバックストーリーは何か
・ストーリーが進むにつれて主人公の内面の悪魔はどのように表れるか
・プロットポイント1の前に伏線で何を示すか

プロットポイント1で何が起きるか
・プロットポイント1は適切な位置にあるか
・プロットポイント1は主人公をどう変えるか
・主人公に新たに生まれる必要性/旅は何か
・その必要性の裏で何が危機に晒されるか
・主人公に反対するものは何か
・敵対勢力は何を失うことを恐れているか
・この時点で読者はなぜ主人公に共感するか
・主人公は敵対勢力についてどう反応するか

ミッドポイントはストーリーの流れをどう変えるか
・ミッドポイントで主人公や読者に新情報をどう提示するのか
・それはストーリーの流れをどう変えるのか
・ドラマ的なテンションやペースはどう上がるのか
・主人公はどう前進するのか、あるいは攻撃するか
・この攻撃に対し、敵対勢力はどう反応するか
・主人公の内面の悪魔は攻撃にどう反応するか
・プロットポイント2の直前、希望を失くして小休止する場面はあるか

プロットポイント2では何が起きるか
・その出来事は主人公をどのように積極的な態度に変えるか
・主人公はどのように主導権を握って問題解決に向かうか
・その役割は主人公の望みをどう満たすか
・主人公の内面の悪魔の克服はどう表れるか
・ストーリーの中で設定した危機はどう決着するか、誰が何を勝ち取るか、誰が負け何を失うか
・ストーリーの結末で読者はどんな感情を体験するか

 こうした問いかけに対し、答えられないのであれば、その「答え」に相当するものを考え、物語に組み込まなければならない。「プロットポイント」「ミッドポイント」など、用語の意味が分からない場合は、本書に戻って確認すればいい。このツールだけで分かるのであれば本書は不要だが、ツールの使い方まで知っているのであれば、そもそも「物語の書き方」なんて読まないプロフェッショナルだろう。

それでも書くのは「わたし」である

 他にも、プロットポイントの設定の仕方、ミッドポイントの役割、シーンが果たすべきこと、書くべきでないタイミングなどといった、優れた物語の「型」が説明される。

 これらのレシピがあれば、物語は書けるか? 否である。食材が必要で、料理人が必要だ。型だけあれば、あとはひとりでに物語が出来上がるほど簡単じゃない。型なしよりは苦労を減らせるが、あくまで書くのはわたしだ。

 書きあぐねている人、書き詰まった人、書けない人に薦める一冊。

Storyengineering

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視線のエロティシズム『写真とフェチ』

 「概念としての夏」が好きなように、「概念としての女」が好きだ。

 肌を焼く日差し、青い空と入道雲、浴衣と団扇と打ち上げ花火、夏を想起させるパーツは好ましい。だが、現実は、紫外線、湿度、室外機の熱風、汗臭さもひっくるめて「夏」である。

 同様に、うなじにかかる後れ毛、鎖骨や背骨の盛り上がり、二の腕やふくらはぎの肌感、「あの」気配としか言いようのないフェロモンは好ましいが、現実は、それら以外もひっくるめて「女」である。

 この概念のパーツパーツを切り出すと、様々な「好き」が見えてくる。文字通りパーツとしての「唇」「うなじ」「ふともも」「おしり」や、「濡れたシャツの透け感」「白肌に汚泥」といった状態への偏愛、あるいは「ゴスロリ」や「拘束具」などの外見やシチュエーションに執着する人もいる。

 こうした他人の「好き」をカタログ的に横断することができるのが『写真とフェチ』である。写真家10人の視点から、「白肌と蛸」「肉感ふくよか」「下着の響き」など、それぞれの「好き」を表現している。かなり上級者向けの「好き」が揃っており、驚く一方で、好きの深淵を覗き込むと、たいへん豊かな世界が広がっていることが分かる。

花盛友里
須崎祐次
相澤義和
門嶋淳矢
山本華漸
フクサコアヤコ
渡辺達生
笠井爾示
青山裕企
伴田良輔

ファンタジーとしての女子高生

 たとえば、青山裕企「スクールガール・コンプレックス」の、机に突っ伏している女の子を上から覗き込むアングルとか。必然的にブラウスはピンと張られるため、ブラがくっきりと浮かび上がる。あるいは、制服で体操座りするが絶妙な角度&深度で見えないとか。ちょっとクイッて直すといった、何気ない仕草に無防備なのか挑発なのか決めかねてモヤモヤする、記憶の彼方に沈めたはずの甘苦さを味わう。

蛸と美女

 あるいは、強烈なのが山本華漸「蛸と美女」。黒い背景に白いキャミソールの女の子と巨大な蛸。真っ白に浮かび上がる肌に、ねっとりと絡みつく触手が、たいへん葛飾北斎している。解説によると、北斎の「蛸と海女」を実写でやろうとして、18kg の大蛸を生きたまま用いたとのこと。

Tako to ama retouched.jpg
By 葛飾北斎 - http://picasaweb.google.com/lh/photo/IqaZK0BxaIlKtTVWZJc0ew, パブリック・ドメイン, Link

 北斎よりもええなぁと思ったのは、アワビやヒジキが写ってないところ。インターネットが「なんでもあり」になってから、若い頃あれほど切望していたアワビやヒジキが、「見る」理由にならなくなった。代わりに理由になったのは、わたしの「好き」と重なっているかによる。内ふとももに飛んだ墨が、肌の白さを際立たせ、長いこと凝視させられる。

肉に溺れる

 振り切った方向だと、渡辺達生「ふくよかな女性」。数多くのアイドルや女優、グラビアモデルを撮影してきた経歴からは似ても似つかない写真が現れる。「今まで撮ったことのない女性を撮ろう」として、ふくよかな女性を被写体にする。

 「ふくよか」は控えめな言葉で、「巨体」が相応しい。フレームのギリギリにまで肉体が詰められており、その海に溺れてしまいたくなる魅力に寄せられる。これは撮影テクニックの一つだという。(たとえ室内撮影でも)300mm の望遠レンズでグッと寄せるように撮ることで、肉体のボリューム感を出すことができるという。

 他にも、剥き出た歯列、背中のくぼみ、黒タイツの響き、ひかがみといった様々な「好き」が次々と並べられており、嗜好の可能性は思考の可能性と軌を一にすることが分かる。つまり、好きに限界はないのである。

 官能と陶酔の感度を増やす一冊。

Shasintofeti

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人間が「どうなっているか」と、人間が「どうあるべきか」の間で問いつづける哲学『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』

 わたしの人間観を更新する一冊。

 もっと正確に言うと、進化心理学・行動経済学・認知科学の研究を通じ、わたしが抱いている「人間とはコレコレである」人間観がアップデートされつつあることを教えてくれる。

 本書は、吉川浩満氏の論文・インタビュー集である。発表媒体によりモチーフは異なれど、テーマは「人間とは何か?」になる。「人間とは何か?」という問いかけを、「人間がどのように”見える”か?」という人間観にした上で、その変遷を、人工知能、認知バイアス、利己的遺伝子、人新世という様々な斬り口から掘ってゆく。

 よくあるサイエンス・ノンフィクションと異なるのは、「(人が)どうなっているか」の科学的解説に、道徳哲学の「(人が)どうあるべきか」議論をぶつけているところ。おかげで、認知科学の進展を呑気に喜んでいるばかりでなく、それが突きつける問題が実装されていることも、その未来も(選ばないも含めて)選ぶ必然性があることも知らされる。

計算できる道徳=功利主義

 たとえば、功利主義の議論が面白い。

 「5人を助けるため1人を殺してもよいか」というトロッコ問題や、「1人を殺してより多くの人を助けるのはよいことか」という臓器くじの問題について、功利主義の回答は明確である。だが、多くの人々の道徳的な直観には反する。「人を殺すなかれ」という義務論的な直観にも支配されているからだ。

 有用性や公益性の高さで判断する、功利主義の基本的な考え方には賛同できる。だが、それを「あるべき」にまで推し進めると問題になる。極端な話、社会全体のために個人を犠牲にするディストピア思想につながる。これを、扇情的な哲学ポルノとして排除することもできるが、吉川氏は「功利主義をどこまで受け入れる用意があるか」という問いを立てる。

 まず、「どうなっているか」という観点からは、功利主義をもてはやす風潮を指摘する。まず、経済低迷や格差拡大が引き起こす弱者切り捨て論が、功利主義との親和性が高いこと。さらに、人の心を計測対象とする「道徳の自然化」が、より吟味しやすい(計測しやすい)ものとして、義務論的直観よりも功利主義的を採用する点。さらには、AI技術が、「計算できる道徳」として功利主義を求めることを指摘する。

 そして、「どうすべきか」という観点の例として、自律走行車に搭載されるAIの仕様を俎上に乗せる。事故が避けられない状況となったとき、誰を犠牲にすべきかといった議論が、哲学教室の思考実験ではなく、プログラムに実装される方式として展開される。そして功利主義のみが、目的に対する答え(功利、効用)を計算可能なものとして扱えるが故に、採択される可能性が高いという。

 興味深いのは、どの道徳原理を採用するかについて、ある種の二重思考(ジョージ・オーウェルのダブル・シンク)が必要になるという点だ。著者は、義務論的直観と功利主義的思考の両方を使い分けることで、功利主義の美しさとグロテスクさをともに引き受ける未来を提案する。

 これは、「人間からだと言いにくい現実を、統計やAIというガワを被せて伝える」テクニックに似ていて面白い。「こうなっている」ミもフタもない現実は「統計によると......」とAIに言わせ、義務論的な「あるべき」は人が担う(もちろんAIの功利主義的な判定パラメータは、人が設定しているんだけどね)。

アップデートされる倫理観

 重要なのは、認知科学の進展により人間観や倫理観のアップデートが、今まさに行われている現実だ。これ、十年ぐらい後になって、更新後の「常識」が制度化・内面化され、今という過渡期を奇妙な時代だという目で見たときに、明らかになるだろう。その意味で、本書は一種の状況証拠のように扱われるに違いない。

 ただし、人間が生来「こうなっている」からといって、そのまま「こうあるべき」に導こうとするのは危うい。本書のあちこちで、この「である-べき問題(Is-Ought Problem)」が顔をのぞかせる。

進化論のレトリック

 その危うい取り違いとして、進化論の「適者生存」の例が出てくる。

 世間一般では、「優れたものが勝ち残る」「劣ったものは淘汰される」メタファーとして「適者生存」という言葉が用いられるが、これは誤りだという。適者生存とは、「生存する者を適者とする」という前提で、これをもとに環境の変化に適した形質が何かが検討される。ところが、「生存するものを適者とする」定義をひっくり返して、「適者は生存する」という結論=自然法則のようなものを考えてしまったという。

 なぜ、前提と結論を取り違えたのか? 本書では、都合のいい「言葉のお守り」だと説明する。自然法則のように見えるが、実際は「適者(生存するもの)は生存する」といった同語反復でしかなく、何も言っていないに等しい一方、あらゆるものに当てはめることができる。

 本書では言及されていないが、いわゆる「適者生存」が優勝劣敗のロジックとして持ち出され、弱者切り捨てのエクスキューズとして使われたのは、小泉構造改革の時代だったと記憶している。具体的には、2001年9月の小泉内閣総理大臣の所信表明の演説に出てくる。

私は、変化を受け入れ、新しい時代に挑戦する勇気こそ、日本の発展の原動力であると確信しています。進化論を唱えたダーウィンは、「この世に生き残る生き物は、最も力の強いものか。そうではない。最も頭のいいものか。そうでもない。それは、変化に対応できる生き物だ」という考えを示したと言われています。
第百五十三回国会における小泉内閣総理大臣所信表明演説より

 そしてこの後、「改革なくして成長なし」のワンフレーズに結びつけている。小泉構造改革により、労働者派遣法が改正され、(短期的には失業率を減らしたものの)長期的には派遣切り・ワーキングプア問題を生み出し「産業の空洞化」にもつながったことは現在進行中の問題である。

 格差の拡大をもたらした原因は、この「適者生存」における前提(こうなっている)を自然法則のようなものとみなし、「こうあるべき」に結び付けたことだと考える。進化論では、「変化に対応できないもの」はそういうグループに入るだけで、生きるか死ぬかは運と環境の話になる。「対応できないものは死ね」とは言わないし、さらに「対応するために改革すべし」という主張は違う話になる。自然界ではこうなっているのだから、人間界でもこうすべし、というレトリックがうまく隠されている。

おわりに

 長くなるのでこのへんで。

 ここでは、2点―――「計算できる道徳としての功利主義」と、「進化論のレトリック」に絞って書いたが、全部で29章あるうちの2章だけで、めっちゃ濃い議論になっている。科学が示す人間が「どうなっているか」と、倫理が示す人間が「どうあるべきか」の間に立ち、検証する姿勢を見習いたい。

 他にも、『ブレードランナー』『ブレードランナー2049』のレプリカントこそが、「人間であるとはどのようなことか」を学べるという議論や、人間活動が地球に地質学的なレベルで影響を与えているという「人新世」のアイデアは、宇宙論における人間原理の登場のようであるといった指摘は、読んでてニヤリとさせられるだけでなく、別の斬り口から捉え直したくなる。同時に、今がまさに「人間とは何か?」という定義が更新されている時代なのだとゾクゾクしてくる(半分期待・半分恐怖)。

 自分の中の「人間観」が更新されていることに気づける一冊。

Ninngennnokaibou

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これが教養だ! 『これは水です』

 書店に行くと「教養」を謳う雑誌や本の多いこと。

 ひと昔前のマジックワード「品格」「大人の~」と一緒やね。本来ソレが足りなかったり欠けていることを指摘して、その雑誌なり本を「買う」ことで補完できるというレトリック。あるいはソレに価値を見いだしている自尊心をくすぐるテクニック。騙されるほうが馬鹿なんだが、わたしもよく騙される(レジまで騙されたら負け)。

 つまり「教養」を人質に、コンプレックスを煽るビジネスなのだ。

エセ教養人の手口

 「ビジネスリーダーに求められる教養」とか「人生を豊かにする教養」という惹句で、人間関係を円滑にしたり信頼関係を築くためのツールとしての「教養」が重要だという。で、よくよく聞いてみると、ただの雑学や豆知識だったりする。要するに、アイスブレイクや知的マウンティングに使える小話のことを、「教養」と呼んでいるにすぎぬ。

 そうやって「教養人」を名乗り、まとめサイトやWikipediaのコピペを刷って小銭を稼ぐ。検索や蔵書から得たネタをカネに変えられるところは評価できるが、「教養」を振りかざす人が、必ずしも教養を身に着けているわけではない。

 だが、「教養」をそうやって使うのはダメだ。なぜなら、教養という言葉が、豆知識や便利ツールという意味になってしまうから。もう手垢まみれで手遅れだよという声もあるが、ここでは、「これが教養だ!」という狼煙をあげたい。

これが教養だ!

 まず言葉をつかまえよう。「教養」を辞書で引いてもふんわりした意味しか引き出せない(だからこそ似非教養人が跋扈できるのだが)。だから、その元となった言葉 ”liberal arts” 「リベラル・アーツ」から考えよう。”culture”語源もあるが、こちらは「文化」という訳語があるので、大学の一般教養の「教養」からつかまえよう。昔なら、哲学・数学・天文学・音楽だし、今ならSTEM(科学、技術、工学、数学)を挙げる人もいる。

 そして、「リベラル・アーツ」とは何かというと、「自由になるための技芸」になる。では、何から自由になるのか? それは、偏見やバイアス、固定観念やドグマである。わたしや自身の、ものの見方や考え方を制限するものから自由になるための技芸、これがリベラル・アーツであり、教養になる。

 わたしは放っておくと、「わたし」の考え方に囚われる。これは、脳のデフォルト設定と言っていい。「わたし」の目に見えるもの、耳に入ってくるもの、感じ取れるものがリアルだと考えてしまう。現実の判断は、「わたし」を中心に行われ、そこから逸脱したものはリアルではないとされる。

 たとえば、そのままの「わたし」だと、太陽や月や夜空の星を見上げると、あたかも自分を中心に回っているように判断してしまう。そして「わたし」の居るこの場所こそが、宇宙の中心であることが「リアル」だと考えてしまう。

 しかし、それは「リアル」ではない。自然科学のおかげで、天が動いているのではなく、地球が自転・公転していることを知っている。銀河系や太陽系における地球の位置や、地球における「わたし」の場所も知っている。このように、ものの見方を教えることで、囚われている観念から自由になれる。

 いま、天文を例にしたが人文だって同じだ。人間の本性を学ぶことによって、「わたし」に囚われているものを見出すことができる。わたしの隣人も、わたしと同様、人生を生き、喜びを見出し、悩み、疲れているかもしれない。今まで考えてすらいなかったことが、実は偏見だったことを知れば、それを「一つの価値観」として相対化することができる。理系とか文系とか煩い人がいるが、リベラル・アーツとしては一緒である。

ものの見方を教える

 「ものの見方を教える」という意味で、理系も文系も関係ない。文系は役に立たないからリベラル・アーツはSTEMだけやればいいという人は、かつて天動説がドグマであった歴史を知らない。いや、天動説と地動説ぐらいは知ってるよ、と反論するかもしれない。その反論が間違っている。天動説が支配していた時代は、それがドグマであるという認識すらなかった。

 別の「ものの見方」が出てきたときに初めて、「〇〇説」という名付けが行われ、「一つの価値観」として相対化され、比較され、実証されたのである。その、別の「ものの見方」を排除する態度は、ものの見方を教えるというリベラル・アーツとは反する。「〇〇だけで教養はOK」という主張は、リベラル・アーツの定義上成り立たない。あらゆる学問がそうであるように、「ものの見方」は常に発見され、更新され、追記される。そして、「ものの見方を教える」分野も、常に移り変わる。

これは水です

 教養についてつらつら書いてきたが、もっと優れたメッセージがある。"This is
Water" である。これは、2008年に急逝したデヴィッド・フォスター・ウォレスがケニオン大学の卒業生に向けたスピーチだ。

スピーチそのものはYoutubeで、英文はケニオン大学のアーカイブ"This is
Water"
、訳文は quipped ブログ「これは水です。」からアクセスできるが、書籍になったのでお薦めしたい。

 これが素晴らしい理由は、リベラル・アーツとは何かだけでなく、虚飾を取り去った、ナマの現実とは何であるかも伝えようとしているところにある。そして、「ものの見方を教える」ことが、最終的には人生のあらゆる局面で陥る視野狭窄から自由になることが分かる。

 スピーチの最後を引用しよう(訳文は書籍『これは水です』から)。

The capital-T Truth is about life before death. It is about making it to thirty, or maybe fifty, without wanting to shoot yourself in the head. It is about simple awareness-awareness of what is so real and essential, so hidden in plain sight all around us, that we have to keep reminding ourselves, over and over: "This is water, this is water."
大文字の「真理」とは 死ぬ以前の この世の生にかかわることです。

三十歳になるまで
いや、たぶん五十歳になるまでには
どうにかそれを身につけて
銃でじぶんの頭を撃ち抜きたいと
思わないようにすることなのです。

これが、ほんとうの教育の
ほんとうの価値というものです。
成績や単位とは無縁な
ごくシンプルな自意識をもって
行うことのすべてなのです―――
それはきわめてリアルで本質的であって
僕たちの身のまわりの
ごくありふれた光景に潜んでいるので
そのたびにじぶんを励まし
意識し続けなければならないと
肝に銘ずることです。

「これは水です」

「これは水です」

大文字の「真理」

 「真理」(大文字のTruthと言っている)は、言葉にするとちっぽけで、「自分の頭で考えること」とか「何かの価値観、信仰、崇拝の対象を相対化すること」なんてまとめてしまえる。だが、伝えたいのは言葉ではない。それは生き方であり、生きることへの実践である。もっと言うならば、生きることでの「選ぶこと」になる。

 同じ星を見ても、銀河系宇宙へ思いを巡らす人もいれば、ギリシャ神話のミルキーウェイを思い出す人もいる。輝きの美しさを讃える人、波長と色の関係を知りたい人もいるだろう。だが、そうした知識を身につけることで、「対象から引き出す価値や可能性を選ぶことができる」ことが理解できるようになる。知識そのものも重要だが、その習得の過程で、「選ぶことができる」ことに気づけるか、ここが極めて重要なのである。

 ややもすると、脳のデフォルトで停止しがちな人生に、そうではなく、「選ぶことができる」ことに気づき、実際に選ぶ。その選択肢なり価値基準が、そこに至るまでに積み上げられてきた「ものの見方」すなわちリベラル・アーツなのである。

おわりに

 実は、エセ教養人が使う「教養」は、中島らもの二番煎じである。エッセイ集『固いおとうふ』にある(”culture”の教養やね)。

    会社が毎日、同じことの繰り返しであるなら、
    自分の時間を楽しむための何かを見つけなくてはいけない。
    自分一人で時間を潰すことができる能力を「教養」と呼ぶのである。

 「人生を豊かにする教養」とか「オトナの教養」などと「教養」振りかざし、自尊心やコンプレックスを煽るビジネス。エセ教養人を観察する分には面白いけれど、「教養」という言葉がどんどん棄損されていくのが残念だ。だから、「教養」が効かなくなる前に書いておく。おまえら、ネコのウンコ踏めってね。

 生きることは選ぶことであり、「選ぶことができる」ことを知ることが、リベラル・アーツの目的であることを忘れるなかれ。そして、リベラル・アーツに完成はなく、常に学び続け、アップデートする必要があることも。それは結果的に、あなたの人生におけるさまざざまな選択を、より「あなた」に近いものにする行為なのだから。

 人生は、選べる。よい選択で、よい人生を。

Thisiswater


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ボランティア奴隷は作れる『自発的隷従論』

 習慣化された奴隷は、自ら支配されたがると喝破した小論。ボランティア奴隷の作り方も書いてあるのでJOCや為政者は必携やね。

 著者はエティエンヌ・ド・ラ・ボエシ、モンテーニュの無二の親友だったという。500年前の文章なのに、いま見てきたように生々しい。というのも、いまの日本の政権や2020オリンピックのボランティア奴隷のみならず、君主制、民主制、共和制、独裁制どれにでも当てはまる。なぜなら、焦点が当たっているのは、政治制度ではなく、その下で積極的に奴隷になる民衆たちだから。

 著者はいう、民衆自身が、抑圧されるがままになっているどころか、あえて自らを抑圧させているのが現実になる。隷従をやめるだけで圧政者は屈するのに、わざわざ悲惨な状況を求め、軛を差し出しているという。そして、身にまとう軛を自慢し、父祖からそうしてきたことを誇る、いわゆる「奴隷の鎖自慢」をするのは、なぜかと問いかける。

 そして、2つの側面からこれに答えようとする。一つは、圧政者の詐術から。そしてもう一つは、民衆の本性から。

 まず圧政者の詐術について。圧政者は単独かもしれないが、取り巻きや臣下、ひいては民衆を飼いならすことで独裁的に振舞うことができる。その方法として、遊戯、饗応、称号、自己演出、宗教心の利用が紹介されている。民衆には遊戯が有効らしく、不満のガス抜きには公共の賭博場や居酒屋、管理売春が役に立つそうな。

 次に民衆の側から。民衆というより、むしろ人間の本性の話になる。人が自発的に隷従する理由は、生まれつき隷従していて、しかも隷従するようにしつけられているからだという(どうあがいてもこのループ抜けられないんじゃ...…)。「人間は習慣の奴隷である」人間観はモンテーニュ、パスカルに引き継がれるのだが、500年経っても変わらないところを見ると、どうやら人の定義に入れてもよさそうなり。

 本書から得られた知見によると、2020オリンピックのボランティア奴隷を増やすには、オリンピックに限らず「ボランティア」をもっと一般化することが有効かもしれぬ。つまり、無償のボランティアを募るために金を惜しまず、「〇〇のボランティアが足りません」と告知し、キャンペーン広告を打ち、様々な媒体でニュースにするのである。

 「オリンピック・ボランティア」のセンテンスと、「ボランティア=無償」の公式を民衆のアタマの中に作り上げることが重要である。短い言葉を繰り返すことが、民衆の記憶の定着に有効だろう。こうすることで、民衆は自発的に奴隷になってくるに違いない。

 無償ボランティアを強要する「空気」を疑問視しながらも、ボランティアの地獄自慢がネットに溢れる未来予想図が嫌すぎる。だが、『自発的隷従論』から見える未来はこれ。

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リアル読書会の良いところ4つ(リチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』読書会)

 やはりリアルの読書会が面白い。

 もちろん、ネットだとつながりやすいし時空間の制約もない。ハッシュタグや検索文字で、新しい書物や読者との出会いも可能だ。だが、現実で本を片手に丁々喧々するのが楽しい。辛辣な批判から最大限の賛辞まで、感情を共有できるし、顔をつきあわせているから炎上ネタもフォローしやすい(顔色・声色・身ぶりは大事)。ネットだと絶対いえないことも、でっかい声で言える(ヒンシュクは買うが)。

 リチャード・パワーズのデビュー作にして傑作の、『舞踏会へ向かう三人の農夫』。実はこれ、ずーっと積読山に刺さってたんだよね。出たばかりのころ、読んだ人が絶賛しまくっていたので、我もと手を出したのはいいけれど、読み進められず放置プレイのまま幾年月。

 なぜなら、ストーリーラインが複数あって、追いかけるのが大変だったから。時間も空間も異なる3つのストーリーが、表紙の「三人の農夫」の写真を軸に、ズレがだんだんと重なり合い、ゆらぎながら再現させる構造になっている(そこに気づく前に投げていた)。

1. 必ず読める

 だが、読書会の課題図書ともなれば積んどくわけにもゆかぬ。期日という締め切りにあわせて、手に取らねばならぬ。もともと読むつもりでいたのだから好都合なのだが、「いつでも可」だとなかなか始めることもかなわない。そういう、お尻を押してくれる意味でも、ありがたい。

 あちこちに散らばる、似たような名前、セリフ、言葉遊びに気づくと、「あッ」「わッ」と小さく叫びながらの読書になる。あるところで、ストーリーと語り口(ナラティブ)と物語構造がハマり、一気に眼前が広がり、「そうだったのかッ!」と立ち上がりたくなる瞬間がくる(ここがパワーズの醍醐味)。

 それも束の間、完璧な瞬間は別のナラティブに飲み込まれ、物語は完全には成立しない。解釈の余地を残しつつ、三人の農夫を「見る=見られる」関係が、この小説の「読む=読まれる」関係に引き継がれ、物語るというバトンは読み手に委ねられる。この「読み」は、[『舞踏会へ向かう三人の農夫』はスゴ本]にまとめたが、これこそが「正しい読み」だと確信し、勇んで参加する。

2.ネットだと炎上ネタがOK

 ところが、どこにも「正しい読み」なんてないことを思い知る。

 わたしが読んだリチャード・パワーズは、『三人の農夫』と『囚人のジレンマ』だけである。だが、他の作品を読んでいる人からは、「若書きで荒削りで、(意図せざる)ミスリーディングを引き起こしている?」という疑いや、「仕入れた知識を喜々としてひけらかす大二病が痛い」、「話が飛びすぎて追えない箇所がある」、あるいは「ピンチョンに似せているけれど、ピンチョン度が足りない」という発言に出会う。辛辣なり。

 わたしが「これだ!」と思ったところは、実は穿ちすぎだった可能性もある。良かった、すばらしかったという他人の評価をありがたがるというわたしの悪癖から、そういう目で読み始めてしまう。しかし、リアル読書会に参加する人は違う。どんなに評判が良くても、「私に合わないから合わない」とダメ出しをする。分かったフリをせず、むやみにありがたがらない。ネットでやると炎上しそうな発言も、リアルならできる。そういう意味で、村上春樹について色々と話し合えて、よかったナリ。

3.ネタバレOKどころか歓迎

 さらに、全く別の観点からの「読み」のヒントがもらえる。『三人の農夫』の隠れたテーマとして、「プリントとオリジナル」がある。ベンヤミン『複製技術時代の芸術』をネタに、写真のプリントと絵画のオリジナリティについて考察をしている。あちこちに「プリント」のヒントが埋まっているが、わたしが気づかなかった視点を教えてもらえた。それは主人公の一人、ピーター・メイズが編集している雑誌である。半導体技術の業界紙であることは知っていたが、「半導体はプリント技術である」ということまで考えが及ばなかった! 言われてみれば確かにそうで、これを念頭に再読すると、また印象が違ってくるだろう。

 こうした読みのヒントが得られるのは嬉しい。同様に、「この物語を妄想しているのは誰か?」を登場人物の中に求めると、さらに驚くべき読みができることを教えてもらう(アリスンに空目した富豪の爺さんの妄想だったり、強制収容所で正気でいるために妄想した世界だったり、いわゆる「ゾーンに入る」やつ)。わたしも似たようなことを考えたが、それが構成として作られたものなのか、あるいは作者の力量が届かず半端になっているかは議論の余地があるが、面白い。さすが読みの猛者、「面白く読む」ことに貪欲になるためのネタが容赦なく出てくる。みんな読んできているから、ネタバレOKどころか歓迎だからね。

4.「この一冊」という軸がある

 他にも、「20世紀は暴力とメディアの世紀であり、メディアは戦争によって成長した」というメディア論や、「銀塩写真が高価だった100年前とは異なり、今は好きなだけ撮ってネットで共有する時代だから、また別の”複製技術時代の芸術”論ができるのでは? GoProとか実況とか」などなど、作品から引き出される様々な発想が出てくる。一つの作品という基盤があるから、どんなに広がってもそこへ戻って収束できる。

 そして、一冊が決まっているから、それを基準にお薦めが広がる。戦争文学に振れるならカロッサ『ルーマニア日記』だし、20世紀を概説するポストモダン文学に振るならパトリク・オウジェドニーク『エウロペアナ』、科学や歴史といった幅広エピソードの堆積を限界まで進めるならピンチョン全般など、「それが好きならこれなんてどう?」といった形で世界が広がる。課題図書という軸があるから、一人で彷徨うよりも確かである。まさに、わたしが知らないスゴ本を読んでるみなさんから直接オススメを受け取れる。

まとめ

 積読していた本に手を伸ばさせ、ネタバレも炎上ネタも歓迎され、辛辣な意見も直接フィードバックできるリアル読書会、たいへん面白かった! 二次会は、とても大事なことを一生懸命しゃべっていたような気がするのだけれど、ネパールビールでほとんど覚えていないのが辛い(確か……文学の救済について?)。読みたい本がぐんと増えたけれど、なかでもフラナガン『奥のほそ道』はぜひとも読みたい。

 主催のおおたさん、参加された皆さま、ありがとうございました。

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NO BOOK, NO LIFE 良い本で、良い人生を

 人生に本はつきものであり、本のない人生はありえない。

 タワレコの ”NO MUSIC, NO LIFE” もそうだが、「本」も然り。そして、ジャンルやカテゴリーに囚われることなく、「好きな作品」を増やしていく。そうやって「好き」を増やすことが、世界を拡げることになり、結果、人生の中を愛すべきもので一杯にする。「本は人生を豊かにする」本質はここにある。

 だから、「ジャンル読み」と称して、「その分野の本しか読まない」と決め打ちするのはもったいない。いわゆる「プロの書評家」に見かけるが、ジャンルを絞ることで、「好き」を減らし、世界を狭め、最近は小粒ばかりと嘆く、井の中の蛙の大将となり果てているのを見ると、気の毒になるとともに、反面教師として合掌したくなる。

 そして、具体的にどう「反面」するかというと、たとえばノージャンルの「本の本」に出会いを求める。『NO BOOK, NO LIFE』は、そんな出会いにうってつけである。

 よくある海外文学とかSFといったジャンル別ではなく、「本を手にするときの気分」や、「人生にどんな栄養や影響を与えたか」といったテーマ毎に、それぞれのイチオシが紹介されている。

 しかも、書店員や編集者といった本のプロが本気で選んだものだから、絶版になっているものもある。「なぜそれか」という熱量がすごいので、図書館や古本屋を探してまでも読みたくなる。

 いくつかテーマをピックアップしてみよう。あなたの気分や好みに合うものが、きっと見つかるはず。既読が出てきたら嬉しいし、未読が出てきたらもっと嬉しい。
 

  • 3回読んで3回とも泣いてしまった本
  • 電車の中でうっかり声をだして笑ってしまった本
  • 完全に騙された、まさかの結末に驚愕した本
  • 人生を変えた運命の一冊
  • ボロボロになるくらい擦り切れても何度も読み返したくなる本
  • 企画・アイデアが斬新すぎる、こんな本は今までに無かった本
  • 50年後も「紙」で読みたい本
  • 絶対に会いたくない悪人に出会える本

 たとえば、「電車の中でうっかり声をだして笑ってしまった本」として、三島由紀夫『不道徳教育講座』が紹介されている。「弱い者をいじめるべし」「友人を裏切れ」「痴漢を歓迎すべし」など、良識に反するタイトルがならんでおり、鋭い知性から吐き出された「毒」がその理由を裏付ける。世間に横行する、鼻持ちならない偽善に対するカウンターがいちいち刺さる、ユーモアと機知に溢れたエッセイ集なり。

 あるいは、「50年後も「紙」で読みたい本」としてミヒャエル・エンデ『はてしない物語』が紹介されている。わかる! あれは物語に出てくる、あかがね色の表紙の「はてしない物語」という本が重要な役割を果たしているのだから(したがって、あかがね色のハードカバー版が絶対であり、後に上下版になった文庫版は却下だ却下、なんで出したんだろうかねぇ……)。モノとしての本が、これほど人生に影響を与えるのかを考える上で最良の例かもしれぬ。

 自分の好みや気分に合わせ、パラりとめくってみて欲しい。落ち込んだ自分を元気づけてくれたり、価値観を180度変えたり、知らない世界への扉を開いたり、あるいは人生そのものを変えてしまったりする本に出会えるかもしれぬ。

 人生に本はつきものであり、本のない人生はありえない。NO BOOK, NO LIFE、良い本で、良い人生を。

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『舞踏会へ向かう三人の農夫』はスゴ本

今年の小説ベスト。

「スゴ本=すごい本」とは、読む前と読んだ後で、自分自身が更新されることである。世界を見る目がアップデートされ、同じだったはずのものが、まるで別の存在になる。「本当の旅の発見は新しい風景をみることではなく、新しい目をもつことにある」とプルーストは言ったが、この傑作を読むことこそが旅であり新しい目を持つことである

純粋に小説を読む悦びと、全く新しい経験をくぐる濃密さ、そして世界と一体化するというある種の恐怖を味わう。知ることは関わりあいになることであり、すなわち、世界と自分を再定義する行為なのだ。

この小説の面白さ=立体視

この凄さ、伝えるのは難しい。

3つのストーリーラインが互いに絡み合い混ざり合い、微妙に重なり/ズレながら浮かび上がる立体感や、ウロボロスの蛇のように一つのナラティブが物語を呑み込む再帰性、さらには、読むという行為のなかで自分を書き換えていく双方向的な感覚など、どれか一つでも充分なのに、むりやり詰め込んでいる。

「どうせ誰も読まないだろうから、好きなように書いてやれ!」と自分をけしかけて書いたらしい。リチャード・パワーズは『囚人のジレンマ』で夢中になったが、これがデビュー作だと!

このスゴさ、むりやり伝えるなら、上下巻の文庫が良い。

『舞踏会へ向かう三人の農夫』の上巻と下巻を並べてみよう。そして左の目で右側の表紙を、右の目で左側の表紙を見ながら、写真と目の中間に「人差し指」を立て、指先を見て寄り目にするのだ。寄り目の向こうにぼんやり3枚の写真が見えたら、中央の写真にゆっくりと焦点をあわせると、疑似的に浮かび上がってくる。この立体感覚が、読後感(のひとつ)である。

コツは[立体視画像(交差法)を簡単につくる]を参考にしてほしい(めっちゃ目が疲れる)。両眼が離れていることから生じる視差を利用しており、これにより遠近や奥行きの知覚が生じる。裸眼で立体視できるNintendo 3DSがまさにそれやね。

写真は2次元の画像にすぎない。アウグスト・ザンダーという写真家が、1914年に撮影したものだ。「若い農夫たち(Young farmers)」というタイトルの芸術写真である。[画像検索]すると、同じ画像が大量に出てくる。重要なのは、文庫の表紙であれ、ネット画像であれ、複製はいくらでもあるが、あなたがいま試した立体画像はどこにもないことである。あなたの眼を通じ、あなたの頭の中で再構成されたものである

パワーズがやろうとしたことの一つは、これだ。

かつて芸術は、オリジナルが一つだけだった。だが、写真とともに芸術は一回性ではありえなくなった(このとき失った権威や崇高さを、ヴァルター・ベンヤミンは「アウラ」と呼んだ)。写真はいくらでもコピーができるからね。

ただし、写真が一般的になりはじめたころ(ちょうどこの写真が撮られたころ)は、「アウラ」は失われていなかったという。むしろ、個人や家族のアウラをたっぷりと纏っていた。家族を一堂に会した集合写真や、肖像写真、出征前の形見としての写真など、「その写真を見る人にとってのアウラ」が確かにあった。

その写真に対する愛着が強ければ強いほど、それを見る人の頭の中で再構成される思いは、まるで違ったものになる。あたかも、立体視された映像があなたのオリジナルであるかのように。写真から引き出される思い出や、奇妙な偶然の一致、でっち上げられた物騙りは、見る者を、そして読み手を巻き込んでゆく。

3人の農夫、3つのP、3つの物語

この小説は、3つのストーリーラインによって構成されている。

ストーリーラインの1つは、この写真にとり憑かれ、強い愛着を抱く「私」の個人的な独白である。旅先のデトロイトで偶然に出合い、右端の人物に自分が似ていることに興味を抱き、誰が、いつどこで撮ったのかを調べようとする。名前は明かされないが、姓のイニシャルが「P」であること、現代であること、写真論や伝記論、科学と歴史を縦横無尽に語り尽くすことから、著者パワーズの代理人かと思われる。

そして、ストーリーラインの2つ目は、この写真の農夫たちの物語である。向かって右からアドルフ、ペーター、フーベルトと言い、撮影年からピンとくるだろうが、第一次大戦に巻き込まれてゆく。この三人の農夫の物語に、ヘンリー・フォード、サラ・ベルナール、ニジンスキー等、二十世紀という時代の貌となった人々の言動が織り込まれ、巨大な物語を成してゆく。

さらに、3つ目のストーリーラインでは、パレードで見かけた謎の赤毛の女性を追い求める編集者ピーター・メイズの物語が入ってくる。前二つと色合いが異なり、ほとんどコミカルと言っていいドタバタ劇だが、安心して読み進めればいい。あちこちにジョークやひねり、引用、仄めかしが散りばめられており、それらはストーリーラインの1つ目と2つ目を密接に絡み合わせている。

これら3つの物語が並行して進められ、ときに接近し、ときに入れ子状になりながら、だんだんと混じり合い、重なりあい、やがて大きな流れにまとまってゆく。写真を撮るとは何か、あるいは「見る」とはどのような意味を持つかをめぐり、緻密な思索が積み上げられる一方、「見る」とはすなわち関わりあうことであり、関わり合うとは相手と自分の運命を変えてゆくことが、小説パートにより肉付けされる。

「見る=知る」ことは循環性を持つ。何かを知ろうと接近すると、その「接近する」という行為によって、相手が変わってしまう。それは、接近により相手そのものが変わる場合と、接近によりより相手が見えるようになった結果、自分が変わってしまう場合とがある。いずれの場合であれ、「見る=知る」ことは、対象と自身に影響を及ぼすことなのである(伝記と歴史の話をしているのに、「不確定性原理」という言葉を使わずに言及しているのも面白い)。

それぞれの物語は一筋縄ではゆかぬ。3つの物語が指す事実は、それぞれ微妙に異なっている。あたかも違う世界線上にある同一人物たちの物語のように、似て非なる部分が出てくる。だがそれは、「見る」人によって異なる解釈が生じているだけなのだ。

さらに、ときに語り手に騙され、ときに語り手自身が騙され、何度もひっくり返りながら流れてゆく。最初はシンプルなメモだった人物相関図は、何度も書き直すハメに陥るかもしれぬ(その意外性が面白い!)。

そしてその度に表紙に戻って、「こいつがフーベルトだよな」を再確認したり、ペーターの表情に隠されたのもを見つけ出そうと二度見・三度見するに違いない。そして、驚くべきことに、話が進むにつれて、同じ写真が違って見えてくるのだ!

3つの物語の重ね合わせ

なぜ、同じ写真なのに違って見えるのか? その秘密は、この作品全体の構造にある。この作品が模倣しているのは、微妙に重なり合いつつもズレが生じる「視差」の感覚である。あちこちに埋め込まれている「立体鏡」が比喩として扱われている。どのストーリーにもこの写真が重なるように出てくるが、細部が違う。

わたしは、「読む」という経験を通じて、頭の中でこれら3つの情景を一つに合わせようとする。ところが、微妙につじつまが合わない。「読む」という経験は、それまでに読んできたものから、その先を推測しつつ、いまいる箇所に集中する。「こいつ誰だっけ?」と戻ったり、人物相関図を書き直したりすることで、他人の物語を自分のものとして語り直し、取り込んでゆく。

この双方向的なプロセスにおいて、頭の中で「わたしの物語」の像に合わせてゆくのである。これは凄い。驚嘆しつつ最初に戻ると(絶対に戻りたくなる、絶対にだ)、エピグラフにプルースト『失われた時を求めて』の一節が目に入る。こうある。

人は読みながら推量し、捏造する。すべては最初の間違いからはじまる。……我々が頑なに、そしてそれに劣らず誠実に……真実だと信じていることの大半は……当初の勘違いに端を発しているのである。

まさにこれやん!

二十世紀全体をテーマにした大きな物語と、それに絡まるように成り立つ個々のストーリー、それらすべてをひっくるめて頭の中に立体化されてゆく。それは推量であり捏造であるが、確かにわたしの頭の中にはある。めまいを覚えながら、この巨大かつ緻密な物語を立体視していると、わたし自身にバトンが渡される(これにも驚いた)。読むという経験は、まさにわたしの中で行われているのだ。

読むということ、知るということ、そして見るということは、世界と関わり合いをもつことであり、すなわち、自身を再定義する試みになる。そこでわたしの中で構築されるものこそが、「オリジナル」なのである。

読め、そして新しい目を持つことで、世界を、自分をアップデートすべし。

Butoukai


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