『私の夢まで、会いに来てくれた』3.11亡き人とのそれから

 がんで死ぬのも悪くない。なぜなら、準備ができるから―――そう聞いたことがある。

 数週間から数ヶ月、治療がうまくいって寛解すれば何年でも、猶予の時間がある。その間に、会いたい人に会い、伝えたい言葉を伝え、お別れすることができる。パソコンのハードディスクの秘密のフォルダも消しておくことができるから。できる・できないは別として、逝くほうも、見送るほうも心構えする猶予はある。

 だけど、準備もなしにそうなった場合、どうなるか?

 このインタビュー集には、そんな家族がたくさん出てくる。朝、口喧嘩して、玄関を出る後ろ姿を見送ったのが最後だったとか、「ちょっと家を見てくる」と別れてそれきりとか、流れ込んでくる水に驚いた顔だけを覚えているとか。

 もしあのとき、「行くな」と止めていたなら。「ごめんね」が言えたら。そして、「ありがとう」が伝えられたなら。3.11の遺族が見る夢は、そうした言葉に満ちている。

 本書は、東北学院大学における、震災の記録プロジェクトで生まれた一冊である。東日本大震災から7年、被災地での聞き取り調査を続けてきた中で、「被災者遺族が見る亡き人の夢」をテーマに絞ったレポートだ。

 そこには、たくさんの声がある。納得できるはずもない。人災の面に巻き込まれた。後悔しかない。なぜ生きているのだろう。あんなことを言わなければよかった。迎えに行けばよかった。代わりに自分が。怖い。辛い。あいたい。

 そうした思いと、生に、直に接するのが夢になる。夢のなかで、もう一度あって、言葉をかわし、触れて、抱きしめることで、思いを体験にする。そして、体験を語ることで、死者と向き合う。

 遺された人たちに、「死者との向き合い方」として、二つの相反する気持ちが現れる。ひとつは、「死者から解放されて楽になりたい」という感情と、そしてもうひとつは、「死者を置き去りにして、自分だけが楽になってはいけない」である。

 そうした感情を、うまく扱うことができる人もいる。いっぽうで、両方の感情に挟まれたり、片方に囚われたままの人もいる。そうした人たちにとって、夢を語るということで、いったん自分の外に置くことができる。その解釈はさておき、「夢を見た」ということは確かなもとして残すことはできる。

 本書は、その「確かなもの」になる。

 そして、やっぱり文字がいい。テレビで震災特集をするのを見ると、苦く辛くなる(なぜBGMが必要なのだろう?)。当時を振り返る文章だけでも強い喚起力がある。それでも読み通せたのは、語りの中に、わたしの背筋を伸ばす言葉があるから。ひとつだけ引いておくが、こんな言葉が本書にはたくさんある。

「うちの両親も含めて、津波にのまれた人たちって、先のことを考える間もなかったんじゃないのかな。みんな、生きたい、生きたいっていう願いしかなかったと思う。生きている私たちは失敗しても、やり直すチャンスがあるし、『どうしようかなぁ』って考える時間もあるじゃない。亡くなった人たちは五分、ううん、10秒あったら生き延びられたかもしれない。その時間が自分にあるっていうだけで幸せなことなんじゃないかな」

 わたしは、死ぬまでは生きたい。これは、あたりまえのことかもしれない。だが、どう生きるかは、ここからもらった思いで決めたい、そう痛感させる一冊。

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『ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎篇』はスゴ本

 ウィトゲンシュタインの本のなかで、これが最も分かりやすい&面白い(当社比)。

 数学という存在を、人の知性の産物である「発明」と捉える人がいる。いっぽうで、人が見出した世界の本質である「発見」と見なす人がいる。この議論は、[『神は数学者か』はスゴ本]にて語ったが、いずれの場合にせよ、数学の限界が(仮に)あるとしたならば、それは人の理性の限界であることは了解していただけるだろう。なぜなら、「発明」であれ「発見」であれ、主語が人である限り、その限界も人に属するからである。

 ウィトゲンシュタインの講義は、数学の限界を見極める一方で、数学の底(もともとの了解事項)を明らかにしてくれる。

 数学の底? そんなのユークリッド幾何学やヒルベルトの基礎付けを見るまでもなく、「定義」と「形式」でしょうに(あるいはそこから定義づけられる公理系といってもいい)。本書を手にするまでは、そう考えていた。だが、「発明」であれ「発見」であれ、数学を定義づける前に囲まれている言葉について、ウィトゲンシュタインは揺さぶりをかけてくる。

 本書は、ウィトゲンシュタインが1939年にケンブリッジ大学で行った講義を元にしている。「数学の基礎」という名前の講義で、全部で31講ある。この講義を受けた学生のノートが残っており、中でも最も信頼できる4人のノートを突合せ、再現したのが本書だ。

 ウィトゲンシュタインの講義スタイルは、自分が今まさに考えていることを学生に投げかけ、その反響に応じて思考を展開させてゆく。「1、2、3…」と数えるとは何か。一対一に対応するとはどういうことか。矛盾律とは何かなど、彼の試行錯誤の現場を体感することができる。優秀な学生だけでなく、イマイチな学生からの質問に対する説明も遺されているため、わたしのような「分かりの悪い」生徒でも理解できて有り難い。

 本書をスゴ本にしているのは、受講生としてアラン・チューリングが出席し、積極的に発言していることだ。当時すでに歴史的業績をあげつつあったチューリングの存在感は大きく、ウィトゲンシュタインも意識している(次回はチューリングが欠席予定だから講義内容は振り返りとする、なんてコメントもある)。特に、矛盾律についてウィトゲンシュタインとチューリングが丁々発止する知的格闘はスリリングで、議論ポイントが明確になるだけでなく、手に汗にぎる臨場感をもたらしている。

 ウィトゲンシュタイン哲学の根幹である「意味を問うな用法を問え」は、この講義でしつこく出てくる。どんなに定義を厳密にしても、言葉の「意味」に囚われてしまうと、悪しき影響が出てくることになる。だから、「用法」、すなわち使われる現場に目を向けよというのだ。

 たとえば、虚数にまつわる言説が紹介される。虚数という概念が登場したとき、「虚」という表現は困惑や反発を引き起こした。「虚である数」とはどのようなものか、不信感ゆえに受け入れられない人もいたらしい。しかし、不信や困惑は、虚数の計算が実際にしていることが理解され、特に物理学へ応用されることによって、解消されていったという。

 つまりこうだ。虚数の記号「i」は「空想の」あるいは「現実には存在しない」を意味する「imaginary」から取られているが、「空想の」という意味に囚われている限り、けっして虚数を理解することはできない。自乗して-1になるという定義や、それが複素数という形で用いられる量子力学や電磁気学の現場で、虚数の意味が理解される。記号としての言葉にこだわりるあまり、実際の現場で用いられる仕方を省みないことに、ウィトゲンシュタインは警告を発しているのである。

 「数学の基礎」と銘打っているものの、数学の問題はほとんど出てこないのでご安心を。自然数の大きさを示すアレフ・ゼロぐらいで、一番むずかしい問題は、「126×631」という掛け算くらいである。講義に沿って、この問題がいかに難しいかを考えると、とてつもなく面倒くさいか、(数学に)説得されたほうがマシと思える。

 数学が人の扱う存在である限り、定義であれ証明であれ、数学が用いられる現場で「意味」が伝えられる。数学に限界や底があるとするならば、これを用いる現場(人の想像が及ぶところ)になる。なかでも「人」にとって興味深い(便利な・都合の良い)と感じられる方向、すなわち科学技術と親和性の高い方面に向けて概念が形成されてゆくだろう―――そう考えさせられるスゴ本。

 これ、アタリマエのことなんだけれど、裏返しでいうならば、「人でない存在にとっての数学」から観察すると、世界はもっと豊饒に見えるという確信にもつながる。

 ここ三十世紀くらい人類は(今でいう)科学技術と親和性の高い天文や物理から数学を探すことをしてきたが、生物や現象そのものから数学を抽出できたら、とてつもないブレイクスルーになるだろう。ほらあれだ、「フィボナッチ数列を自然界に探す」の逆をやるわけ。その萌芽がカオス理論や統計だろうが、あと三十世紀ぐらいかかるだろうね。

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もっとも未熟な科学『不確かな医学』

 『病の皇帝「がん」に挑む』のシッダールタ・ムカジーが、現代医療に潜むバイアスを明らかにし、これからのモデルを提案する。

 コアとなっているのはTEDのこの講演だ。ピル(薬)ではなくセル(細胞)による治療を謳っている。抗生物質に代表される、体の外で作成された「薬」で病(の原因)を殺すモデルが、現代の医学で支配的となり、一種の歪みをもたらしていることを示す。その一方で、体内で生成された「細胞」を育てることで免疫系を快復するパーソナル医療モデルを提案する。

 本書ではムカジー自身の医師としての遍歴を振り返つつ、現代の医療にとって重要な「医学の法則」を明らかにする。臨床医学がどこまで科学なのかという疑問に対する、一つの答えとなっている。

 著者は言う、科学技術の革新による恩恵を、医学は最も受けてきた。医療処置そのものが病態生理学という原理に基づく科学だともいえるだろう。しかし、同時に先進医療が生み出すおびただしい治験データや薬剤、検査機器が、より本質的な問題を覆い隠しているのではないかと指摘する。

 それは、情報知と臨床知のはざまにあり、本書では「医学の法則」として「事前知識」「特異な症例」「バイアス」の3つのキーワードで明らかにする。

 まず「事前知識」について。著者は、ベイズ推定の事例を挙げながら、事前知識の重要性を説く。そして、事前知識に支えられた鋭い直観は、信頼性の低い検査にまさるとまで断言する。

 たとえば、エイズの診断に使われるHIV検査における、偽陽性や偽陰性の事例を挙げる。偽陽性とは、異常がないにもかかわらず、検査で陽性となってしまう判定であり、偽陰性は、異常があるにもかかわらず陰性となってしまう判定のことを指す。

 そして、家族歴や危険因子、遺伝的特徴、経年変化といった事前知識なしにこうした検査をしても偽陽性や偽陰性により信頼性が低く、使いものにならぬという。完全な情報をもとに完璧な判断を下すのは簡単だが、不完全な情報で完璧な判断が求められることが医学になる。そのため、検査技術が進展すればするほど、事前知識によるスクリーニングが必須だというのだ。

 次に「特異な症例」について。科学の世界では、「1回きりの事例」は嫌われる。なぜなら、「1回きりの事例」とは、要するに主観的な体験に基づく結果だからである。これまでの医学も同様で、「例外的に効き目のある患者」は無視されたり、異常値として捨てられる傾向にあった。

 しかし、これまでとは逆の方法が有効だという。つまり、「例外的に効き目のある患者」には、遺伝子や行動、や危険因子や環境など、異なる要因の組み合わせによるのではないかという発想だ。膨大な労力をかけて多くの人に「なぜ薬が効かないのか」を調査するのではなく、特定の人に「なぜ薬が効くのか」を包括的に調べるのである。

 この方法が奏功した事例として、膀胱がんに対する新薬エベロリムスを挙げる。ほとんど効果がない45人ではなく、著しく効いた1人の遺伝子全ての塩基配列を解析したところ、TSC1遺伝子の変異が解明される。その結果、特定の薬が効く遺伝子のメカニズムを解明する研究が生まれたという。著者はそこから、発想を転換する必要性を説く。すなわち、投薬や外科手術を、治療行為としてではなく、異常値からロジックを見つけるための調査として捉えろと提案するのだ。

 最後に、「バイアス」について。どんなに完全な医療にも人間のバイアスはついてまわることを忘れるなという。科学技術の進展により、大量のデータを収集・蓄積させ、AIが自ら学習できるようになったとしても、最終的にそのデータを解釈し、使い道を決めるのは人になる。そのため、人である限り、偏見や思い込みによるバイアスを逃れることはできない。そして、医学で最も美しく危険なバイアスとして、「私たちの施す医療が効いてほしい」という願望があるという。

 その悲劇的な例として、根治的乳房切除を挙げる。乳がんに対し、腫瘍だけではなく、乳房、腕の筋肉、胸の奥のリンパ節までも「浄化」すべく外科手術を施していた時代があった。根治的(ラディカル)な手術は充分な検証も反論もなされないまま、理論は法則になり、外科医にとっての教義のようなものになったという。切れば切るほど、「治療」したこととなるというバイアスである。

 1980年から2000年にかけて、無作為比較試験が実施され、根治手術の有効性が否定されることになる。無作為比較試験とは、治療群と対照群にランダムに割り当て、治療の有効性を比較する試験で、乳房を完全に切除するグループと、乳房を温存するグループに分けられた。そして転移によるがん再発の可能性も含め、根治手術には効果がなかったことが実証される。

 著者はさらに踏み込む。「私たちの施す医療が効いてほしい」というバイアスは、ときに患者自身をも変えてしまう。観測行為そのものが粒子に影響を及ぼしてしまうハイゼンベルクの原理を引きながら、無作為比較試験も、一般化できない罠があるという。

 つまりこうだ。糖尿病の治療として運動の効果を測る試験があるとする。これに参加する患者は、特定の指示に従い、医療制度が利用可能な特定の地域に住み、主体的に参加することを決められる人である。すなわち、その患者は、無作為化試験のグループに振り分けられる「前」に、特定の人種や民族、社会・経済階級に属しているといえる。

 したがって、試験から何らかの知見が得られても、実際にはそのグループの範囲内での効果を検証しただけになる。実験が何のミスなく行われたとしても、その結果を一般化できることが保証されるわけではないというのである。

 科学技術の発達による医療のオートメーション化や、遺伝子情報を始めとする身体機能の全てをスキャニングする未来は、確かに予想できる。しかし、出てきたデータをどのように扱うかの判断は、最終的には人に任されている。

 そして、人が扱う限り、「事前知識」「特異な症例」「バイアス」という制約はついてまわる。どんなに科学が発達しようとも、もっとも未熟な科学である医学は、不確かな情報をもとに、確かな判断を求められる姿勢は変わらないというのである。

 おそらく、わたしが医療に深くかかわるとするならば、それは、がんになったときだろう。医療を行う立場がどのように科学に依拠しているかを念頭におきながら、心構えだけはしておこう。そして、わたし自身がこうしたバイアスに陥らないよう気を付けないと。


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オフ会します、テーマは「ホラー」

 オススメの本を持ち寄って、まったり熱く語り合う読書会、それがスゴ本オフ。今回は「ホラー」のテーマで、あなたの推しの小説、ノンフィクション、コミック、映画、音楽、ゲーム、なんでもオススメしてほしい。

 日時 2月18日(日)13:00-17:00
 場所 渋谷某所
 参加費 2000円
 見学歓迎、途中参加・退場自由(ふらっときて、ふらっと見てって)
 くわしくは、スゴ本オフ[ホラー]からどうぞ。

 おおまかな流れ。

  1. テーマに沿ったオススメ作品を持ってくる

    オススメ作品は、本(物理でも電子でも)、映像(DVDの映画やYoutubeの動画)、音楽、ゲーム(PS4からボドゲ)など、なんでもあり。

  2. お薦めを1人5分くらいでプレゼンする

    あなたのオススメを存分に語ってほしい。刺さったところを音読するもよし、自己流の解釈もよし。

  3. 質問とオススメ返しの時間

    あなたのオススメに対し、観客から質問やオススメ返しされる。「実は私も好きなんです!」と同志を見つけたり、「それが好きならコレなんていかが?」なんてオススメ返しされたり。このリアルタイム性がスゴ本オフの嬉しいところ。プレゼンや本に優劣つけたり投票はしないけれど、いわゆるベストセラーは「なんでそれなの?」というツッコミが入るかも。

  4. 放流できない作品は回収する

    ひととおりプレゼンが終わったら、回収タイムになる。「放流」とは本の交換会のことで、交換できない絶版本・貴重な作品は、ここで持ち主の手元に戻る。

  5. 交換会という名のジャンケン争奪戦へ

    回収が終わったら、作品の交換会になる。ブックシャッフルともいう。「これが欲しい!」と名乗りをあげて、ライバルがいたらジャンケンで決める。

 過去のスゴ本オフから(雰囲気が伝わるかな)。

「お金」

02




「嘘」

02




「食とエロ」

12




「食とエロ」

01

 午後いっぱいかけて、まったりとやってる。togetterやこのブログでまとめてるんだけど、楽しさの半分も伝え切れていない気がする。途中参加・退場自由・見学歓迎なので、お気軽にどうぞ。最新情報は、[facebook:スゴ本オフ]をどうぞ。

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老人栄えて国滅ぶ『シルバー民主主義の政治経済学』

 この国は老人に滅ぼされる。そう思っていたが、問題はもっと根深いようだ。マスコミが偏向報道するように、わたしのタイムラインは偏っていることに自覚的にならないと。単に考えさせられるだけでなく、次に(わたしが)選ぶべき方向も見えてくる一冊。

 全国から吸い上げられた税金は、高齢者に注ぎ込まれる。年金世代は現役世代の犠牲の上にあぐらをかき、既得権を貪り、財政改革の邪魔をする。「年金」という聖域に手をつけようものなら、マスコミが急先鋒となって蜂の巣をつついたように騒ぎ出す。「このままじゃやっていけない」「死ねというのか」と叫ぶ老人を巣鴨あたりでインタビューし、大々的にキャンペーンを張る。

 いっぽう、コストカットのあおりを受け、手取りは目減りし、不安定な雇用に苦労する現役世代の声は捨てられる。なぜなら、逃げ切る気まんまんの高齢者の方が多数だから。民主主義は多数決。さまざまな意見を最終的に決めるのは、「声」の大きいほうである。数の力を頼りに、老人が現在と未来を食い物にする、「シルバー民主主義」とはそんな状況である。絶滅寸前のウナギを食べる老人が象徴的だ。

 ウナギが老人に食い尽くされるように、この国も老人にしゃぶりつくされると思っていた。だが、この状況は、「シルバー民主主義」ではないらしい。

 たしかに、高齢者優遇の政策が選ばれていることは事実だ。本書は、マクロデータを用いて実証分析を行い、都道府県レベルのみならず、全国レベル、欧米の先進国の状況からしてもシルバー優遇の政策が採られていてるという。

 しかし、著者によると、シルバー優遇だからといって、シルバー民主主義にはならないらしい。本書では、「シルバー民主主義」とは、高齢者が政策決定の主導権を握り、必要な改革を先送りし、老人衆愚政治を生みだしている状況になる。政党が高齢者の意向を忖度しているのは事実だが、それは別の理由があるからであり、高齢者が独裁的に振舞っているからではないというのだ。

 つまりこうだ、高齢者のほとんどは引退し年金生活しており、医療や介護への需要が強いという共通点を持つ。高齢者の「民意」は集約されており、再配分政策によって誘引できる票は多い。いっぽう若者世代は逆だ。仕事、結婚、育児の有無などバラツキが大きく、意見の一致は困難で、政党へのアピール度は低い。政党から見ると、高齢者のほうが政策に対する見返りが大きい(分かりやすいともいう)。

 結果、高齢者に優しい政策を優先する政策が、より多く採択される。本書はこの現象を、「シルバーファースト現象」と呼び、「シルバー民主主義」と厳格に区別しようとする。なぜなら、高齢者だけが独占的に優遇されているのではなく、低所得者にも社会保障給付の形でバラマキがなされているからという。

 かつては、公共事業による地元へのバラマキという利益誘導モデルが成り立っていたが、それが行き詰まった先に、社会保障給付があったという。そして、高齢者だけでなく、バブル崩壊後のデフレ期において貧困化した若者世代にもバラマキを始めたのが、現代の政治の状況だというのだ。

 すでに現役世代の負担では給付分を賄えなくなっているが、これを財政赤字を介在させることで先送りさせている(本書では、負担なしに給付を受けられる部分を、社会保障におけるバラマキと定義する)。その本質はかつて公共事業で地元に利益誘導していたバラマキと同じ構造であり、高齢化が進む地方ではより大規模に進行しているという。

 この状況に目をつぶり、現役世代と年金世代が暗黙裡に結託することで、将来の、まだ生まれていない世代の財布に手を出している。赤字財政や社会保障制度の受益負担構造を放置して、いま生きている人たちの「民意」を忖度し、将来世代へ債務を先送りしている。債務額は926兆円に達しており、将来世代の生活は実質的に立ちいかなくなっていることが分かっている。この、財政的児童虐待こそが、真の問題だというのだ。

 やっていることは時間かせぎなので、遅かれ早かれ終わりがくる。これから生まれてくる人たちの生活が成り立たなくなることに、これから生まれてくる人たちが気付くころ、財政赤字ファイナンスにより維持されてきた暗黙の世代間の結託は終焉を迎えるという。いわゆる、金(ファイナンス)の切れ目が、縁(結託)の切れ目となる。

 そして、世代間の冷戦は世代間の熱戦へと転化するという。著者はこれを最も危惧しており、本書の前半で「シルバー民主主義」と「シルバーファースト現象」を厳格に分けようとしたのはそのためかと膝を打つ。負担した分よりも多く受け取る既得権にしがみつき、逃げ切るために数の暴力をふるうという「シルバー民主主義」では、いたずらに世代間対立を煽り、財政的児童虐待という問題を見えなくさせるだけだろう。

 ひょっとすると、現代の高齢者たちは、自分たちがいかに優遇されているか知らないのかもしれぬ。ウナギが絶滅危惧種に指定されていることを知らないように、このままだと孫子の世代は生活が成り立たなくことを知らずに行動している(と好意的に考えよう)。

 では、どうすればよいか。高齢者に知らしめるだけではなく、「知ったこっちゃない」という見て見ぬふりをする人々も含め、どうすればこの状況を克服できるか。面白いアイディアが紹介されている。

 まず、民意の高齢化を反転させる投票制度改革を提言する。有権者の年齢に満たない子どもの数に応じて、親に投票権を行使させる「ドメイン投票制度」や、有権者の投票率ではなく年齢構成に応じて代表を選ぶ「年齢別選挙区制度」、さらに平均余命と現在の年齢の差に応じた票数を与える「平均余命投票制度」が紹介される。選挙があるたび、妻と「将来のためなら、子どもの数だけ投票できればいいのにね」と話していたが、検討の俎上にあったのかと驚く。

 さらに、「民意」を遮断する非民主主義制度の提案をする。金融に対する中央銀行のような、民意の高齢化に対する独立機関を政策決定プロセスに噛ませるのだ。具体的には、世代間格差を是正する義務を政府やに課す法律を制定し、その実務を担当する独立機関を設置する。民主主義の外側から制約をかけるため、抵抗が大きくなりそうだが、それぐらいの荒療治が必要なのかもしれぬ。

 目から鱗なのが、「高齢者の定義を変える」という提案だ。もともと高齢化社会を想定して作られた制度は、65歳の高齢者が全人口の7%を占める社会として始まった。だが、いまや高齢化率は28%近くに達する。高齢者が少ない時代に設計された制度を維持するには、全人口の7%を占める年齢以上を高齢者として再定義すればよいという考えである(ちなみに、2015年国勢調査によると、81歳以上が7%になるという)。

 著者は、世代間の対立の激化を避けつつ、なんとか財政的児童虐待をなくそうとする。その志は素晴らしいし、本書がもっと知られればと願う。だが、上述のアイデアが実行に移されるのは、もっとずっと先になるだろう。「現在の高齢者」が死に絶え、「現在の現役」が高齢者となる頃、ようやく広く議論されるようになるのではないかと。

 なぜなら、現在の高齢者に知らしめるべく働かなければならないマスコミ自身が、高齢者に摺り寄り、彼・彼女らの耳当たりの良いことしか書かないから。新聞のサンヤツ(一面の下段の広告)を見るといい。高齢者向けの雑誌で埋め尽くされている。平日の民放を見るといい、お年寄り向けのコマーシャルが番組内に満ち溢れている。本書で提言されている改革案は、「大切な年金を奪う」ネガティブな形で紹介されることになるだろう。お年寄りに媚びへつらうマスコミから距離を置いて情報収集している人々―――その中にはもちろん高齢者も一部いる―――そんな人たちが多数になる頃になって、ようやくこうした改革が実現できると考える。

 問題は時間になる。「待ったなし」と言われてからずいぶん経つが、待ってくれるだろうか(反語)。

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古川日出男『平家物語』はスゴ本

 たくさんの声、声、声。読むというより体感する。

 語りのリズムに情感に、うっとり酔ったり胸を衝かれたり。平清盛の絶頂期から、ぐんぐん・ガツガツ読み耽るうち、あれよあれよと儚くなる。驕る・驕らぬにかかわらず、生あるものは死んでゆき、出会ったものは必ずや別れる。犯人はヤスだ。平家は滅亡する。

 そんなこたぁ分かってる。分かっているのにやめられない。生きるのをやめられない。もがきあがき、意地汚く生きようとする。いっぽうで、驚くほど潔く死ぬ。生(ナマ)の生(セイ)の荒々しさに呑まれ、壮絶な死にざまを晒す人間たちに震える。凄まじい読書体験となる。

 古川日出男が産みだした『平家物語』はスゴ本なり。

 目を引くのはその文体、語りだろう。

 もとは琵琶法師の語りを記したとされている。大勢の話者がいて、続々と挿話が足され、組み込まれ、さらに多くの編者によって文も書き換えられ、継ぎはぎされ、縒り合わされ、物語を豊饒なものにしている。『平家』は日本の古典の中で最も異本が多いという。さまざまな読まれ方をされてゆくうち、物語が命を得て、今でいうなら同人誌のように自己をクローン化し膨らませてゆく。

 底本にあたると、はっきりと分かるという。著者は、「今、違う人間が加筆した」と書き手が交替したことが皮膚感覚で伝わるらしい。文章の呼吸が変わり、語りの構造も変化する。こうした、無節操ともいいたくなる膨張っぷりに、ただ一人の書き手として、どう捌くか。古川日出男『平家物語』は、さまざまな「語り手」を用意することで解決する。

 すなわち、じつに多くの「語り手」が背後に潜んでいることが、はっきりと分かるように記している。話者の主語を「私」「俺」「僕」「手前」「あたし」と多彩にし、同じ「私」でも複数いる。色やかたちに焦点をあわせ、「でございます」調でしっとりと語る女の声。起きたことを述べるだけで、ぶっきらぼうに「だった」「である」で語る男の声。

 ときに間投詞ときに感嘆句を絡めながら、直接こちらに話しかけてくる。文章は一次元なのに、大勢の語り手と向き合っているような気になる。合戦シーンになると、これに琵琶の撥が加わって、一層ざわめきが増してゆく。

「そうか。では今日の軍神への捧げものに、なあ。してやるぞ」と言い、馬を押し並べる。むんずと組みつく。地面に引き落とす。首を捩じ切る。斬る! それから郎等である本田次郎の鞍の取付にこの首をつけ、まさに血祭り、軍神を祝う斬血の祭り!
南無!
南無や、南無や、南無や!
よ!
た! は!
なぁむ!
これらが緒戦、宇治川の、寿永三年一月の合戦の。

 さらに、語調と語感を意識した、ラップのような書きっぷり。これ、ぜったい謡いながら書いているだろ!と言いたくなるような箇所もある。「守護、地頭。守護、地頭。もう時代は変わってしまっておりますよ」と平氏の儚さと源氏の惨さを一斉に嘆くところなんて、「男女男男女男女(男女!)」を彷彿とさせられる。

 こうした細部から引いて、メインに目を向けると、これまたくっきりと見えてくる。平氏の絶頂から、これを快く思わぬ人々が企んだ鹿ヶ谷の陰謀、さらに後白河法皇と以仁王の蜂起の失敗と、「一線を超えてしまった」驕りカウンターの凄まじさ。そして、清盛の死をきっかけとする平氏没落の過程と、それを加速させる源氏一族の台頭がある。木曾義仲と源義経の活躍もきちんと描かれるが、主旋律は死んでゆく平氏の人々である。

 死んでゆく、死んでゆく、前半であれほど楽しみ唄っていた人々が、泣き、嘆き、斬られ、引き裂かれてゆく。裏切りや内通、騙し討ちで命を落とすもの。まっしぐらに敵陣の中で果てるもの。逃げて逃げて逃げた先で捕縛され、恥を晒して斬られるもの。全ての望みを絶たれ入水するもの。合戦シーンは凄まじい。鎧甲冑に身を固めているため、攻撃の基本は顔である。弓も刀も、顔を狙うため、討たれた方はおぞましい顔貌になる。目を背けたくなる非情さと、親が子を子が親を想う刹那が混在し、その両方に撃たれる。多くの語り手の声は、実は鎮魂のための声なのかもしれぬ。

 面白いのは、古川日出男の目線だ。

 むかし、若さに任せて、吉川英治『新・平家物語』をイッキ読みしたことがある(めちゃめちゃ面白かった)。これは、『平家物語』だけでなく、『保元物語』『平治物語』『義経記』の面白いところ取りをして、書かれたといえる。そこでは、いわゆる義経を代表とする英雄たちのふるまいに焦点があてられ、殺しあいの無情さに紙数が割かれていたことを記憶している。平家物語とは軍記物語であるという解釈をもとに、英雄譚としての平家を書いていたのだろう。

 いっぽう古川日出男『平家物語』は異なる。自分なりの解釈を容れず、省きも漏れもないように訳したという。結果、前半は政治と恋と宗教の話になり、後半は合戦と悲劇になる。さらに合戦も、超人的なヒーローが戦局を左右するようなガンダム的な展開にならず、情報戦と索敵と兵站に終始するリアルなものとなる。

 そして、合戦の現場に居合わせた人の耳目を通じた体験のように語られる。読み手(=聴き手)は、その語りを通じて、体験を経験に変えてゆく。吉川英治が「お話」としての平家物騙りなら、古川日出男はナラティブな『平家物語』を目指したのかもしれぬ。

 読むことが体験になる、そんな稀有な経験が、古川日出男『平家物語』にある。物語りの頂点を、体験すべし。


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『愛とか正義とか』はスゴ本

 当たり前だと思っていたことが、あたりまえでないことに気付き、根本から世界が刷新される。もちろん刷新されたのは世界ではなく、わたしだ。OSレベルで無意識のうちにしてきた「考える」を、あらためて知る。読前読後で世界を(わたしを)変えるスゴ本なり。

 本書は、哲学・倫理学の入門書になるのだが、そこらの「哲学入門」ではない。「自分で考える」ことを目的とした入門書という意味で、まったく新しい。

 なぜなら、そこらの「哲学入門」は、哲学していないから。むしろ反対に、「哲学しないこと」を目指している。つまりこうだ、イラストや図解や簡単なセリフにまとめた哲学者や論を紹介しているだけにすぎぬ。哲学とは、「自分で考える」ことなのに、それを捨て去って、「これが哲学ですよ」という「答え」を提示しているのだ。

 もちろん、「自分で考える」よすがとして過去の哲学者をとりあげ、たとえば現代的な問いに対し斬り込み方や論の立て方をシミュレートするのなら分かる。結果、「自分で考える」アプローチを提示していることになるからね。

 しかし、哲学者をキャラ化して決め台詞のような一言半句の「答えのまとめ」を並べるのは、「自分で考える」ことではない。それはむしろ、「自分で考えるな」というメッセージに等しい。「分かった気分になる」だけで、雑学クイズや雑談ネタの役にたつぐらいが関の山。

 哲学は動詞だ。人名とか論とか主義といった名詞の集合ではない(それは哲学する”手段”だ)。哲学は「する」ものである。

 すなわち、哲学とは「自分で考える」ことだ。調べれば分かること(歴史や文化)は哲学の範疇外だし、調べ方が分かっていること(科学や経済)は哲学の範疇外である。だが、調べれば分かることでも、分かったことで見解や評価が対立することがある。または、調べ方が分かっていることでも、「それは本当なのか」と疑わしい点が出てくることがある。

 そこからが哲学の出番になる。「それは本当は何か」について、さらに考えるのだ。それ以上に調べられないこと、調べ方そのものが分かっていない(確立されていない)ことでも、「自分で考える」ことができる。それが哲学なのだ。

 急いで追記しなければならないのだが、哲学は答えを蔑ろにしているわけではない。よくある「哲学とは答えのない問い」ではない。分かった風な口を利くとカッコよく見えるけど、間違っている。問いが別の問いになったり、疑問が消えてしまったりする。

 だから、哲学は、答えだけではなく、「問いを発する疑問がどうなったか」に着目する。「全ての問いに正解がある」という思い込みで進めると、足をすくわれることになる。「科学的な見方」に染まっている人ほどそうだ。わたし自身がそうだったが、著者はこう喝破する。

「科学には答えがあるけれど、哲学は答えがない」と思う人がいますが、そうではありません。「科学には答えがある」のではなくて、「科学はただ一つの答えが決まるように手続きを定めてある」というのが正解です。だから、「ザ・科学」ができるわけです(逆に「科学は答えが一つに決まらないような問題を避ける」わけで、科学が避けた問題はどこに行くのかというと、これが哲学に行きます)。

 これな。

 科学は、解ける問題、解けそうな問題を解いているにすぎぬ。それはそれで、技術につながり人の世界を豊かにするから素晴らしい。だが、「全ては科学で解ける」と言った瞬間、自己矛盾に陥ることになる。哲学と、そこから派生した科学との関係を、ここまで明快にした文章はない。これ読んで、ずっと科学哲学の分野でモヤモヤしていた霧が、さっと晴れる心地になる。

 では、哲学する、すなわち「自分で考える」ためにどうするか? それこそ哲学者の数だけあるという方法のうち、本書はたった一つに絞る。基本的で、応用が利き、かつ、誰しも経験してきたもの、つまり「概念」を使った哲学だ。現実をつかみとるための強力な方法なり。

 この「概念」を、手とり足とり、懇切丁寧に説明する。現実世界から関心を見つけ、抽象化し、ものごとを捉える枠組みををつくり上げる。本書では「正義」をとり上げる。「正義とは何か」について例示し、反対の例(不正)を挙げ、なにが欠けていると正義ではなくなるのかを議論する。

 そこから共通的な概念を抽出する手さばきが上手い。かみ合わない議論のたいていの原因は前提にあることを示し、かみ合わせる。たとえば「正義の反対は、また別の正義」「正義なんてものはない」「正義は我にありと思う人どうしが激しく争いあう」という話がある。正義論について、うまく付けたオチに見えるが、本当だろうか? と腑分けする。

 ここで言っているのは、「対立している双方が、自分を正義だと主張する」ことだ。それは「主張が様々に違っている」ことであり、当然のことだろう。だが、そこから「正義はない」ということにはつながらない。

 様々な主張があり、互いに意見が対立するから、そこで正義(という概念)が必要になってくる。つまり、正義は「ある」とか「ない」とかいう前提が誤っており、それぞれの意見をバランスよく調整するために実現しなければならない理念なのだという。もちろん完全にバランスのとれた意見集約はフィクションだろう。だが、そのフィクションに向けて意見を調整することが必要だということは、皆がうなずくだろう。そのフィクションを、「正義」と呼んでいるのだ。

 このように「正義」という概念をつくり上げ、修正したり拡張する。さらに その概念を通して世界を見たり、別の概念と並べて比較することで、世界観を組み立てる。本書では、「正義」の他に「愛」と「自由」について議論する。それぞれ別個の概念かと思いきや、実はつながっていたり反発していたりするのが面白い。

 この記事では、そんな議論のエッセンスだけを抽出して述べているが、本書ではもっとベタに攻める。曰く、「デスノートの夜神月は正義か?」という問いを掘り下げたり、『北斗の拳』は、「正義」のラオウと「愛」のケンシロウの闘いだと分析する。哲学初心者に対し、ここまで読み手に寄り添って、かつ「哲学する」を実践した本はない。おまけに一読するだけで、「概念」という強力な武器が手に入る。

 本書は、読書猿さんがNo.1スゴ本としてお薦めしてくれた一冊。素晴らしい本を教えていただき、ありがとうございます。確かにスゴい本でした。「歩くことを、もう一度教わる」ように確かめながら読みました。

 そして、皆さんにも強力にお薦めする。読めば変わる。読前読後で、世界を(読み手を)変えてしまうスゴ本なり。

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生きのびるための狂気に自覚的であること『杳子』

 電車の窓から眺めていると、自分が動いているのか、世界が流れているのか、分からなくなるときがある。特に駅に停まっているとき、向かい側の電車が動き出すとき、まるで自分の車両が発車したかのような錯覚に陥る。いまいる場所をむりやり認識しようと、軽い吐き気とともに自分を再起動する。

 古井由吉の短編『杳子』の導入部が、まさにそうだった。「杳子は深い谷底に一人で坐っていた」から始まる、精神を病む女子大生と青年との異様な出会いの場面である。深い山中から、ふいに開けた谷に出るとき、眼前の岩という岩が(静止しているにもかかわらず)流れ落ちるように見えるときがある。

 視界を覆い尽くす山の圧力を直接受け取るいっぽう、自身の卑小な重さと相対化し、身体が浮き上がような、さもなくば岩がのしかかってくる感覚だ。もちろんこれは錯覚なのだが、平衡感覚を取り戻そうと、軽いめまいとともに自分を再起動する必要がある。これ、山に入ったときにしかありえない経験だと思っていたが、文章で追体験させる技量がすごい。

 杳子は立てなくなり、たった独りで谷底に坐り込むことになる。そこへ、やはり一人で登山をしている青年が現れるのだが...... これラブストーリーなのかね。杳子も青年も大学生で、性も愛もあるのだが、生々しくも薄暗く描かれている。「杳として行方知れない」のヨウで、杳い(暗い)子という意味でもあるのだが、外見は明るく奇矯に振舞うときすらある。杳子は「病気」であると診断されるのだが、躁うつ病、今なら双極性障害になるのか。

 たとえば、「食べる」という何でもない行為を極端に恥じたり、立ったり歩いたりといった日常的な動作を徹底して意識的に行う。自分の躰(からだ)のありかが、分からなくなってしまう。これは、自らをとりもどそうとあがきながら、後に明かされる血の運命によって、世界に対して立ちすくむ少女から女への物語としても読める。

 対する青年の呑み込まれ方が面白い。肉体的な深まりにとともに、自分の存在が彼女の病気を後押ししているのかと悩み、ときに引っ張りだそうとしたり、あるいは共振したりする。杳子からすると、精神的ひきこもり状態だったのが、男性経験をトリガーとして、病として追認されたのではないかと。

 この杳子のふらつきは、精神的な病すなわち狂気として扱われているが、その事実そのものが面白い。杳子の発言やふるまいは、「病気」には見えぬ。エキセントリックな言動は、世界が流れているのか、自分が動いているのか分からなくなり、自分を無理やり再起動させているようにも見える。そして、自分の記憶や身体の不確かさを受け入れ、自律的に動いていることを再確認しながら「自分の外側を保つ」ことは、現代では至極あたりまえのことだから。

 古井由吉が著した『杳子』が世に出たのが1970年、およそ半世紀前になる。この作品に貼られた「内向の世代」というレッテルには、社会の葛藤から目を背けて私生活ばかりを追求する批判を込められていた。だが、今読むと、ものすごく「今のいま」を示しているように見える。杳子が訴える、「自分」というものが、身体の内側から滑り落ちるような感覚、これは、今のいまこそ、切実に求められている。内在する「狂気」に自覚的でいる杳子のほうが、「今のいま」から見ると、よっぽど「健全」である。

 古いのに新しい、生きのびるための狂気を見つけよう。

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デジタル・ヒューマニティーズの講演が面白かったのでまとめる(追記あり)

 デジタル・ヒューマニティーズ(digital humanities)とは、人文科学に対しコンピュータを積極的に応用すること。歴史、哲学、文学、宗教学や社会学の研究において、テキスト分析技術や統計処理、地理情報システム、シミュレーション技術を適用し、新しいアプローチを見出す方法論だ。最近だと「AIが書いたハリポタ」「シェイクスピアの”中の人”は何人?」が有名やね。

 講演は秋草俊一郎さんの「文学とコンピュータが出会うとき」というテーマだ(訳すのは「私」ブログ で知った)。文学におけるデジタル・ヒューマニティーズの最新事例や、面白いアプローチをしている研究者が、つぎつぎと飛び出してくる。特に、「本を読まずに文学する方法」や、「統計分析から得られたベストセラーの法則」、「文体を決めるのは時代やジェンダー」が興味深いトピックだった。1時間30分が一瞬に感じるくらい、めちゃめちゃ面白かったので、ここにまとめる(記事化は許可をいただいてます)。

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 ポイントは、文学を「読む」ほうに主眼をおいているところ。「読む」のはヒトの仕事だろ? なんて思ってると、カルチャーショックを受けるだろう。

 まずは、「本を読まずに文学する方法」。フランコ・モレッティ『遠読』を中心に、世界文学への挑戦ともいえる「新しい読み方」が紹介される。それは、「いかに読まないか」を追求する読み方である。

 つまりこうだ。いわゆる正典(カノン)を精読することから生じる文学には限界があるという主張だ。崇め奉られている「世界文学」といっても、要するに欧米という地域を中心に、文を生産・消費する商業システムで生き残った作品群にすぎぬ。そしてその量もハンパではなく、原典を「精読(close reading)」していてはそれだけで一生終わる。

 だから、「精読」の対義語として「遠読(distant reading)」が提唱される。要素だけを抽出して読んだり、原典ではなく翻訳を通じて読むのもあり。コンピュータや統計手法を用いたデータ解析を行い、文学を自然科学や社会学のモデルでとらえ直すのだ。これにより、テクスト自体が消えてしまってもいい。「テクストをいかに読めばいいかは分かっている、さあ、いかにテクストを読まないか学ぼうではないか」と煽ってくる。

 わたしのレビューは、[本を読まずに文学する『遠読』]にまとめたが、この講義では「シャーロック・ホームズが生き残った理由」や「ハムレットのネットワーク相関図」、さらに世界文学空間の歴史的生成と支配構造を解析したパスカル・カザノヴァ『世界文学空間』が紹介される。究極の支配は言語(≒思考・思想)の支配だという考えに立つと、それに抗うための『遠読』という捉え方をしても面白い。

 次に、「統計分析から得られたベストセラーの法則」として、マシュー・ジョッカーズ『ベストセラーコード』が紹介される。ある本がベストセラーになるかを判断するためのアルゴリズムを開発する話だ。2800種以上の小説の特徴(文体、プロット、テーマetc)をインプットとし、膨大な小説を機械学習させることで、ベストセラーになる小説を(そうなる前に)予測可能とするのだ。

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 面白かったのは、プロットラインのグラフ。ストーリーにおける喜怒哀楽をプラス、マイナスに分けて、小説の各場面で、プラスの方向、マイナスの方向にどれぐらい振られているかを視覚化する試みだ。『ダ・ヴィンチ・コード』と『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』のそれぞれの解析結果を重ねると、プロットラインの起伏がいかに似ているかに目を奪われる。昔から「三幕構成」といわれるが、読者の感情を緻密にコントロールすることが売れることの秘密なのかもしれぬ。

 そして、「文体を決めるのは時代やジェンダー」については、マシュー・ジョッカーズ『マクロアナリシス』が紹介される。これは、「文体は何によって決まるか?(作家、時代、国、ジェンダーetc...)」を計量文献学的にアプローチしたものだ。

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 コンピュータを使ったテクスト分析(テキストマイニング)をすることで、「文学作品を読む」ことから離れたところから新たな発見を得ることができる。19世紀英国の小説を読み込ませ、「教養小説」「ゴシック小説」などのジャンルを自動分類させたり、使用語句におけるジェンダーの差異があるかの仮説を検証する。さらには文章からジェンダーを当てるといった試みがなされる。結論からすると、文体に影響を与えるのは、「作家」「時代」「ジェンダー」が大きい一方、「国」「ジャンル」は低いらしい。

 イメージとしては、GoogleのコンコルダンスのNgram Viewerが近いかも。これまでに出版された全書籍のおよそ4%にあたる500万点以上の書籍データから約5000億もの語句を追跡することで、時系列に観た言葉の使用頻度の推移を可視化する仕組みだ。この横軸(時間)に相当するものをあれこれ変えることで、新しい読み方ができそう(もはや、「読み」ですらないのだが)。

 こうした紹介のなかで、面白い学会の変化を知った。それは、「文学との違和感」だという。昔は、文学をするということは、一人で作品を読み、一人で論文を書くやり方だった。しかし、今では一人ではなく、「チーム」になっているという。つまり、方向性を考えデータを解釈をする文学者(統計学者?)と、その方向性をコードで実装しデータ化するエンジニアで構成されている。学会の発表者も、昔は一人だったのが、今は一人が発表し、技術的な質疑にはエンジニア(チーム)が答える風景になっているという。「文学は一人でするもの」ではなくなっているようだ。

 以上、3つのトピックスを紹介したが、他にも興味深い話が大量にある。わずか165行のコードと地名の外部ファイルを元に生成された小説『ワールド・クロック』の話や、計量文献学として村上征勝『シェークスピアは誰ですか?』やベン・ブラッド『ナボコフの好きな色は藤色』(Ben Blatt ”Nabokov’s Favorite Word Is Mauve”)、「同じ雑誌・同じ号に載った詩人=強い相関」という判断で文学世界のコミュニティのネットワーク図を構築するホイト・ロング『霧と鉄』の研究、何がハイク(≠俳句)かを大量データ分析によりパターン認識させる試みなど、どれも楽しそうな遊びばかりなり。

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 もちろん、デジタル・ヒューマニティーズについて、批判もあるという。ビックデータ解析といういわゆる流行に乗って、教授のポストやテニュア(終身雇用資格)、研究資金を確保するための方便なのではという批判や、単なるデータの寄せ集めと「知」の混同をするのではないかという懸念などだ。

 講演を聴講して良かったのは、わたしが抱いている疑問、メタ・デジタル・ヒューマニティーズの可能性についてもヒントが得られたことだ。あるデジタル・ヒューマニティーズの成果をAIに読み取らせ、別の方向性を探る方法だ。

 たとえば、古典文学をAIに食わせ、コピーされた作家性から「古典の新作」を著す試みがある。スタニスワフ・レム『ビット文学の歴史』では、ドストエフスキー・シミュレータからドストの新作が書かれ、それを読んだAIが評論を書き、さらにその評論を別のAIが読み討論する世界が描かれている。そんな可能性を質問したところ、レムの『一分間』に想を得て、『ワールド・クロック』の小説を書くコードのアイデアが生まれたのだというお返事をいただいた(おそらく『主の変容病院・挑発』所収の「人類の一分間」のことだと思う、ぜひ読んでみたい)。デジタル・ヒューマニティーズの可能性は、SFにありそうだね。

 何千年も営々と続けられてきた、作品を創造する、それを受け取る行為の根底に、何か無意識の構造があって、それを上手くすくいとり、可視化することで、「人間とは何か」に迫る。そのためのアプローチとして、デジタル・ヒューマニティーズは、これからもっと面白くなっていきそうだ。

 最後に。秋草さん、たいへん面白くためになる講演をありがとうございました。おかげで読みたい本がさらに積み上がりそうです。

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2018/01/17追記
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有益な情報をいただいたので、以下に追記する。読書猿さんを始めとしたtwitterの皆さま、BLOGOSでコメントいただいた皆さま、ありがとうございます。特に読書猿さん、ちょっと聞いただけでこの物量をサクっと返してくるこの凄さ。むしろ読書猿さんを講師に、このお題でお話を伺いたい......


デジタル・ヒューマニティーズにまつわるtweet








情報知識学会


マシュー・ジョッカーズについて
Matthew Jockers(Google Scholar)
Text Analysis with R for Students of Literature


(読書猿さん、yuekichiさん、たくあんさん、ありがとうございます)


レンブラントの絵をディープラーニングさせ、レンブラントの新作を描く


クローズアップ現代「進化する人工知能 ついに芸術まで!?」
レンブラントの絵をディープラーニングさせて、その技巧やモチーフを抽出し、「レンブラントの新作」をAIに描かせる試み
http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3837/1.html
(BLOGOSコメント 大久保陣太さん、ありがとうございます)


AIが音楽にスコアを付けて、それに基づいてレコード会社がデビューを決めている


すでに米国では、AIが音楽にスコアを付けて、レコード会社がそれに基づいてデビューを決めている。
結局、人間も過去の経験で 「売れそうな曲のパターン」 を判別している。
それなら、AIの方がずっと上手く判別できる。
次のステップはAIによる作詞・作曲。 
5年後くらいには、随分変わっているかも。
(BLOGOSコメント SUZUKIさん、ありがとうございます)

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もしソクラテスが現代に転生したら『新哲学対話』

 「よい/わるい」に客観的な基準はあるのか? AIと人の決定的な違いとは何か? 何かを「知っている」とはどういうことか? 現代に蘇ったソクラテスと仲間たちが対話する。

 現代の風潮に染まり、日本語をしゃべるソクラテスが、ユーモアまじりで語りかける。面白いだけでなく、哲学の本質が「語り」の中から浮かび上がってくる。哲学の本質は、名詞ではなく動詞であり、独白ではなく対話である。

 たとえば、アガトンの章。「よい/わるい」について。「いいワインとは何か」という問いから、相対主義の問題に踏み込む。プラトン『饗宴』の続きの体裁をとりながら、なぜか現代で議論しているのが楽しい。

 いま飲んだワインを「おいしい」「おいしくない」と感じるのは、飲んだ人でしかありえないから、結局のところ、ワインの良しあしは主観的にしか判断できないのか。あるいは、ワインを「おいしい」と感じるまでに飲んできたワインや銘柄を教えてくれた先達者に左右されるのか。さらにワインをめぐる人的・文化的・社会資本的なネットワークが指し示す「いいワインとはこういうもの」(≒ワインの値段)に還元されるのか……といった議論が展開される。

 面白いのは、「よい/わるい」議論はワインに限らないところ。本書では芝居にも言及されるが、絵画や映画、小説や音楽など、あらゆる「評価される作品」に通じるものがある。ひとつの結論としては、相対主義の一つの極点「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」が提示される。

 もう一つの方向性として「そうは言っても、多くの人に高く評価される作品を”よい”と定義する」がある。この方向から「よい」の定義の議論を始めると、「よいは多数決か?」というツッコミが入り、「売れているものが良いものなら世界一うまいラーメンはカップラーメンになっちゃうよ」という話になる。

 もちろんこのソクラテスは、『少女ファイト』も甲本ヒロトも知らない。だが、「自分は知らない」という立場から、巧みに相手から話を引き出し、議論を形作り、「本当にいま知るべきはなにか」を示す。ソクラテスは答えを持っているのではない(したがって、”絶対的な答え”なるものに至らない場合もある)。「その仮定を厳密に積み上げると、どこに到達するのか」を知ろうとする人なのである。

 コンピュータが「計算する」ことへのいかがわしさを明確化したケベスの章。思考は計算に還元できるのかというチューリングの議論から始まって、計算機すなわちコンピュータが「計算する」というときと、人が「計算する」というときに、違いがあるのかという話に展開する。ウィトゲンシュタインの哲学を経験した人もそうでない人も楽しめるよう、間口は広く、奥深く設定されている。

 ソクラテスはまず、「計算する」とは行為なのか、それとも別の何かなのか? と問いかける。対話相手のケベスは少し考えたのち、「行為だと思います」と答える。次にソクラテスは、「行為というものは、どれほどバカげたものだったとしても、何らかの理由があってなされるもの」という定義を認めさせる。そして最後に、計算機が「計算する」ことで何かの結果を出したとして、計算機にそうしたことをする理由があるのかという問いを突き付ける。

 もちろん、計算機そのものには、その「計算をする」理由などはない。「計算する」ことが行為であり、行為の主体たりうるには理由を帰属させる必要があるならば、計算機そのものではなく、その計算機を使う人こそが「計算する」と言うべきだという。対話者自身に外堀を埋めさせた後にトドメを刺す、この論法はソクラテスそのものなり。

 したがって、ソクラテスの狙いによると、コンピュータが「計算する」というのは誤りになる。あくまでコンピュータを使う人間が「計算する」のであって、コンピュータそのものに、結果を出す理由がないためである。コンピュータが「計算する」のは、メタファーの一種にすぎないことになる。しかし、コンピュータを「計算機」と呼び続けている歴史がある以上、このメタファーに気付くのは難しい。あたりまえすぎて気づかない”常識”に揺さぶりをかける、「哲学する」醍醐味はここにある。

 コンピュータが動作して、その中で何らかの電気的な変化が起き、何かが表示される。そのそれぞれの変化に「計算をした」と意味付けを与えることはできる。だがその意味付けは、何通りでも可能である。無数にある意味付けの中から、「計算をした」と意味を与えられるとするならば、それは誰か? すなわち、計算機の中の状態変化を「計算」とみなす、人でしかありえない。

 計算は記号を操作することであるが、その記号を解釈する誰かがいなければ、それは「計算」たりえないというのである。人工知能がどんなに「進化」しようとも、その結果を解釈し、意味づけを行う人から離れることができない。

 これは、本書には出てこないが「誰もいないところで木が倒れたら音がするか?」問題や、「順列組み合わせで名句(名曲、名作)ができるか」問題につながる。前者は、「”音”を受け手の可聴範囲の空気の振動と定義するなら、”受け手”と”空気”が前提となるため、受け手不在であれば”音”は成立しない」という話になる。後者は、「古池や蛙飛びこむ水の音」と「くぁwせdrftgyふじこlp」の価値判断をするために人が不可欠という話になる。

 そこからさらに、AIの臨界があるとしたら、それはどこか? という議論に拡張できる。本書では、ネタ元としてウィトゲンシュタインの言語ゲームにおける「意味と経験」が示されるが、G.レイコフの意味と経験を結び付けるメタファーとしての身体性の話につなげると捗りそう。

 他にも、「知者のパラドックス(the paradox of the knower)」から導かれるゲーデルの不完全性定理が見事なり(自己言及は鬼門)。なによりも、コーヒーを嗜み、フェミニストたちの主張に理解を示すソクラテスなんて想像するだに面白い。

 本書をきっかけに、対話が生まれる。別に一人でもできる。脳内にソクラテスを見立てて、「いかにもソクラテスならこう言いそうだ」という会話をシミュレートする。問答の積み重ねである哲学を実践できる一冊。

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