ノンフィクション100

Opa

すごいノンフィクションは、一冊で常識を一変させる。目から鱗を叩き落とし、世界の解像度を上げる。積み重ねた事実の上に立たせ、偏見という壁の向こうを見せてくれる―――ノンフィクションには、そんな力がある。

ここでは、常識をアップデートし、偏見をとっぱらい、世界をクッキリと見せてくれる、「これはスゴい!」というノンフィクションを100選んだ。

選んだベースは以下からだが、選んだのがわたしだから偏りと不足がある。だから、「それがスゴいなら、これなんてどう?」とお薦めいただけると嬉しい。消費物ではなく、何度も読み継ぎ、語り継げるようなノンフィクションに出会いたいんだ。

     
     

ノンフィクションは、「フィクションじゃない」という字義のため、射程はめちゃくちゃ広い。完全なる実録から、限りなくフィクションに近いノンフィクション・ノベルまで、さまざまだ。ここでは便宜上、次の4つのカテゴリーに分けた。無理やり分けているので、それぞれのカテゴリーは重なり合っている。

  I. ルポルタージュ(実録や体験記)
  II. サイエンス(SFのノンフィクション版)
  III. ジャーナリズム(政治や人物を描く)
  IV. アカデミック(専門知の応用や啓蒙書)

I. ルポルタージュ・ノンフィクション

現場を歩き、現場を見て、現場で聞くノンフィクション。そこにいないと分からない、現場の「臭い」を書いたもの。普通なら行けないところを旅し、珍しいものを見聞し、めったに食べられないものを口にする。旅行記、冒険記、体験記、潜入録など。

『オーパ!』開高健

ノンフィクションの一番。

一冊だけならこれ。ベスト・オブ・ベスト・ノンフィクションがこれ。釣り竿とペンを手に、南米の大河アマゾンを縦横する。肉食魚ピラーニャ、幻の巨大魚ピラルクー、黄金の跳魚ドラドを追い、釣り、食べ、呑み、そして書く。熱気と興奮と怠惰とユーモアが混じり合った裸の知覚がある。これは、文学であり詩であり箴言であり哲学であり告白なんだ。何事であれ、ブラジルでは驚いたり感嘆すると、「オーパ!」という。大判・文庫と何度も買い、数えきれないほど読み返しているけれど、今でも「オーパ!」とつぶやいている。未読の方は幸せもの、全員が全員にお薦めしたい、極上のノンフィクション。

『黒檀』リシャルト・カプシチンスキ

ルポルタージュの最高傑作。

「見たこと」を中心に据える著者は、その場所に飛び込んで、目撃者としての観察と経験でアフリカを点描してゆく。伝聞や噂よりは信憑性が高いだろうが、「点」にすぎないのでは? どっこい、個々のトピックは点にすぎないが、時間や場所の異なるいくつもの点を並べて、全体像が浮かび上がらせる手腕は見事という他ない。個人的な体験と庶民の視線を使い分けながら、より大きな問題、より全体的な問題が見えてくる。本人曰く「文学的コラージュ」と呼ぶ手法により、本質は細部に宿ることをルポルタージュで証明する。

『羆嵐』吉村昭

モデルは、1915年の北海道三毛別羆事件と言えば充分だろう。

人間の味を覚えたヒグマが民家を襲い、7名死亡、3名が重傷を負った日本史上最大規模の獣害事件だ。当時の現場は開拓村で、通信手段や交通手段が限られており、応援を呼んでもすぐに到着できない状況だった。この村を餌場として人を狩り、喰い切れぬ肉は持って帰ろうとする。さらに、犠牲者の通夜に押し入り取り返そうとする(羆にとっては獲物を取られたことになるから)。ここで、一生忘れられない一言が出てくる。母だったものを指して叫んだこれだ―――「おっかあが、少しになってる」。

『深夜特急』沢木耕太郎

旅の本の鉄板は、『深夜特急』。

デリーからロンドンまで、ひたすら陸路の独り旅。「バスを乗り継いでたどり着けるか」という友人との冗談から始まった賭けに本気になって、職も生活も放りだす旅は、無数の追随者を招き、一種の伝説となっている。出だしのウキウキ感は松尾芭蕉の「おくのほそ道」と一緒だし、ノリノリ感は米米クラブの「浪漫飛行」と一緒(と言ったら歳が分かるなぁ)。特に最初の1~2巻は感染力が強く、二十歳ぐらいのときにケルアック『オン・ザ・ロード』と併せて読むと、極めて危険。読めば一人旅したくなること請け合う。

『エンデュアランス号漂流』ランシング

絶望的な状況から抜け出す一冊。

1914年、南極踏破に向けて出発した「エンデュアランス号」は、氷に閉じ込められ→圧砕→沈没。28名は氷板の上で生き延びるも、破砕→漂流。食料不足、極寒の嵐、凍傷、病気… 次から次へとくる危機的状況に、真正面から立ち向かう。写真を見る限り、狂気の沙汰としか思えん。誰が死んでもおかしくない状況が続くが、リーダーであるシャクルトンはどうやって難局を乗り切るか? 彼の言動のエッセンスは、「自信とプライド」「リスクに気を配る」「何がともあれユーモア」であり、そのまま危機管理の金言集にもなる。

  1. 『オーパ!』開高健(集英社文庫)
  2. 『黒檀』リシャルト・カプシチンスキ(河出書房新社)
  3. 『羆嵐』吉村昭(新潮文庫)
  4. 『深夜特急』沢木耕太郎(新潮文庫)
  5. 『エンデュアランス号漂流』アルフレッド・ランシング(新潮文庫)
  6. 『ちょっとピンボケ』ロバート・キャパ(文春文庫)
  7. 『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル(みすず書房)
  8. 『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』米原万里(角川文庫)
  9. 『沈黙の春』レイチェル・カーソン(新潮文庫)
  10. 『チベット旅行記』川口慧海(白水uブックス)
  11. 『パレスチナ』ジョー・サッコ(いそっぷ社)
  12. 『世界屠畜紀行』内澤 旬子(角川文庫)
  13. 『コンゴ・ジャーニー』レドモンド・オハンロン(新潮社)
  14. 『何でも見てやろう』小田実(講談社文庫)
  15. 『アポロ13』ジム・ラベル(新潮文庫)
  16. 『アフリカの日々』ディネーセン(河出書房新社)
  17. 『アメリカの奴隷制を生きる フレデリック・ダグラス自伝』フレデリック・ダグラス(彩流社)
  18. 『旅をする木』星野道夫(文春文庫)
  19. 『人間の土地』アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(新潮文庫)
  20. 『イワン・デニーソヴィチの一日』ソルジェニーツィン(新潮文庫)
  21. 『「子供を殺してください」という親たち』押川剛(新潮文庫)
  22. 『なぜエラーが医療事故を減らすのか』ローラン・ドゴース(NTT出版)
  23. 『物乞う仏陀 』石井光太(文春文庫)
  24. 『地球の食卓―世界24か国の家族のごは』ピーター・メンツェル (TOTO出版)
  25. 『ロボット兵士の戦争』P・W・シンガー (NHK出版)
  26. 『垂直の記憶』山野井泰史 (ヤマケイ文庫)
  27. 『料理の四面体』玉村豊男(中公文庫)
  28. 『怒らないこと』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ)
  29. 『なぜ私だけが苦しむのか』H.S.クシュナー(岩波書店)
  30. 『現代の死に方』シェイマス・オウマハニー(国書刊行会)
  31. 『河童が覗いたインド』妹尾河童(新潮文庫)
  32. 『人間臨終図巻』山田風太郎(徳間文庫)
  33. 『言志四録』佐藤一斎(講談社学術文庫)
  34. 『戦艦大和ノ最期』吉田満(講談社文芸文庫)

II. サイエンス・ノンフィクション

SFのノンフィクション版。科学技術の進展に伴い、暮らしや社会は便利になる一方、科学の現場や成果はなじみの薄いものになってしまっている。その架け橋となるべく、研究の最先端で何が行われているかを分かりやすく解いたノンフィクション。

『パワーズ・オブ・テン』P・モリソン

センス・オブ・ワンダーを見える化した、稀有な一冊。

公園で昼寝をしている人の姿を真上から撮った写真。これがスタートで、10倍、100倍、1000倍と、どんどんカメラを引いてゆく。宇宙空間に出て、太陽系を越え、銀河を抜けて、最後は10億光年離れたところからの映像を見せる。いっぽう、逆に1/10、1/100、1/1000と、どんどん拡大していく。細胞を分け入って、分子の世界、そして素粒子レベルの世界を見せてくれる。スケールによって見える世界が変わってゆくのに、極大と極小が近似するという不思議さに撃たれる。世界の大きさと小ささを知る。

『火の賜物』リチャード・ランガム

結論を一言で述べるなら、「ヒトは料理で進化した」になる。

ヒトは料理した食物に適応したと主張する。体のサイズに比べて小さい歯や顎、コンパクトな消化器官、生理機能、結婚という慣習は、料理によって条件づけられてきたという。切って火を通すことで、澱粉がゲル化し、タンパク質が変性して軟らかくなり、消化・吸収しやすくなる。消化プロセスを外部化することで、美味しくなるだけでなく、代謝コストあたりの摂取エネルギー量を、実質的に増やしてくれる。さらに「火を囲む」「一緒に作り・食べる」料理という形態が、家族や社会といったヒトのあり方にまで影響したと指摘する。

『サイエンス・インポッシブル』ミチオ・カク

不可能とは、可能性だ。

記憶操作、物体の透明化、惑星破壊ビーム砲、世代間宇宙航行などを俎上に、SFの世界を現実にするなら、どんな課題が待ち構えており、どうすればクリアできるかを、徹底的に現実的に検証したのがこれ。本書を面白くしている視点は、「それを不可能とみなしているのはどの技術上の問題なのか?」という課題に置き換えているところ。「技術上の課題」にバラしてしまえば、あとはリソースやパトロンの話だったり、量産化に向けたボトルネックの話になる。SF世界の実現は、夢じゃなくて予算が足りないのかもしれぬ。

『失われてゆく、我々の内なる細菌』マーティン・ブレイザー

人体のマイクロバイオームの多様性を描いたのが本書だ。

マイクロバイオームとは、人体に常在し、ヒトと共進化してきた100兆もの細菌群のことだ。長い時間をかけてヒトと菌は共進化し、代謝、免疫、認識を含む体内システムを発達させてきた。しかし、抗生物質が大量に使われるようになり、常在菌の多様性が失われつつあるという。特に、20世紀後半に劇的に増加した諸疾患は、この多様性の喪失が主要因ではないかと指摘する。化学物質による環境破壊に警鐘を鳴らしたレイチェル・カーソンの『沈黙の春』の抗生物質版が、本書になる。

『不健康は悪なのか』ジョナサン・M・メツル

「健康」に潜ませたレトリックを暴く。

医療や倫理、法、フェミニズムの分野で、健康という言葉の背後にあるモラル的な風潮を「健康ファシズム」としてあぶりだしたのが本書だ。誰だって健康であるに越したことはないから、「健康」は、誰も反発できない中立的な善のように見える。しかし、誰も反対しないからこそ、「健康的な生活」「健康的な食事」という言葉に潜ませた価値観を押し付けることができる。「健康的な体形」は、それにそぐわない体形に烙印を押し、ダイエットやフィットネスといった健康マーケティングに容易に接続される。

  1. 『パワーズ・オブ・テン』フィリップ・モリソン(日経サイエンス)
  2. 『火の賜物―ヒトは料理で進化した』リチャード・ランガム(NTT出版)
  3. 『サイエンス・インポッシブル』ミチオ・カク(NHK出版)
  4. 『失われてゆく、我々の内なる細菌』マーティン・J・ブレイザー(みすず書房)
  5. 『不健康は悪なのか』ジョナサン・M・メツル(みすず書房)
  6. 『利己的な遺伝子』(リチャード・ドーキンス、紀伊国屋書店)
  7. 『ゾウの時間 ネズミの時間』本川達雄(中公新書)
  8. 『土と内臓』デイビッド・モントゴメリー(築地書館)
  9. 『土木と文明』合田良実(鹿島出版会)
  10. 『人体 600万年史』ダニエル・E・リーバーマン(早川書房)
  11. 『ヒトは病気とともに進化した』太田博樹、長谷川眞理子(勁草書房)
  12. 『ファスト&スロー』ダニエル・カーネマン(早川書房)
  13. 『音楽の科学』フィリップ・ボール (日経サイエンス社)
  14. 『生命の跳躍』ニック・レーン(みすず書房)
  15. 『系外惑星と太陽系』井田茂(岩波新書)
  16. 『がん‐4000年の歴史‐』シッダールタ・ムカジー(早川書房)
  17. 『フォークの歯はなぜ四本になったか』ヘンリー・ペトロスキー(平凡社)

II. ジャーナリズム・ノンフィクション

テレビや新聞、雑誌記者などのジャーナリズムの手法を採ったノンフィクション。より書き手が前面に出ており、インタビューとエビデンスを積み重ねることで、政治や社会に問いを突き付ける。あるいは、ある人物像に迫ることで、人間とは何かという問いに応答する。

『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』ギャラファー

「役立たずを安楽死させよう」という世の中になるなら、それはどんなプロセスを経るか?

これが嫌というほど書いてある。うつ病、知的障害、小人症、てんかん、性的錯誤、アル中……ユダヤ人だけでなく、こうした人びとが何万人も、ガス室に送られ、効率的に殺されていった。問題は、ナチスに限らないところ。優生学をナチスに押し付け断罪することで、「消滅した」という図式にならない。社会システム化された「安楽死」(というより集団殺人)は、びっくりするほどありふれて見え、そこだけ切って読むならば、陳腐なディストピア小説のようだ。健康が正義で、不健康は悪の世界は、隣り合わせであることが分かる。

『戦争広告代理店』高木徹

正義は買える。

ボスニア紛争の報道を追ったノンフィクションだが、「正義とは演出されるもの」であることが、怖いくらい分かる。セルビア人を悪者に仕立てるために、ボスニアと契約したPR会社の広報戦略がえげつない。「民族浄化」のキャンペーンににより、セルビア人が戦争犯罪者となり、世論の後押しによる空爆が実行される。人は「ストーリー」を信じたがる。原因が示されると、それを信じる性質がある。だからニュースは「正義のストーリー」に沿うよう「証拠」が集まり、編集される。「正義」は、演出したものが勝つ。正義は有料なのだ。

『冷血』カポーティ

極めて異常な事件を、淡々と丹念に描いた傑作。

11月の深夜、一家4人が殺された。父親と母親と息子と娘はロープで縛られ、至近距離から散弾銃で撃たれており、顔や頭を破壊されていた。感情や評価するような表現は排され、徹底的に事実を積み重ねている。犯行状況を時系列の外に置き、調書を取る対話で生々しく表現したり、「なぜ若者が犯行に及んだか」はズバリ書かず、手記や調書から浮かび上がるようにしている。「書き手である自分」を、地の文から取り除き、評価や判断は読者がせよ、というメッセージが読み取れる。

『消された一家』豊田正義

最高に胸糞悪い読書を約束する。

家族同士で殺し合い、解体し、少しずつ運び出しては処分する―――北九州・連続監禁殺人事件を丹念に追いかけるが、おぞましいのは、吐き気をこらえて最後まで読んでも、「なぜそんな事件が起きたのか」はぜんぜん分からないから。無抵抗の子どもの首にどういう風にコードを巻いて、どんな姿勢で絞めたか、といった行動は逐一知らされるが、「なぜ・どうして」は想像すらできない。人ではなく、悪魔の所業だというのはたやすい。だが、人と悪魔の境界が分からない。どこでどう間違えているのか分からない、つまり地続きなのだ。

『中国臓器市場』城山英巳

中国の臓器移植は、「早い・安い・うまい」である。

中国は、臓器移植の先進国だ。毎年1万人執行される死刑囚のドナーが「臓器市場」を支える。交通事故などの不慮の死とは違って、いつ・どこで臓器が手に入るか、分かっている。しかも事前検査をしっかり行っているため、新鮮で安全な臓器が安定供給されている。その結果、早くて1週間(遅くとも1ヵ月)、安くて半額(肝臓、腎臓の場合)の臓器移植が実現できる。さらに、腎臓の場合、年間5000例以上こなしているから、移植医療の技術は世界一レベルである。中国の移植ビジネスの現場は、極めて合理的に動いている。

  1. 『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』ヒュー・グレゴリー・ギャラファー(現代書館)
  2. 『戦争広告代理店』高木徹(講談社文庫)
  3. 『冷血』トルーマン・カポーティ(新潮文庫)
  4. 『消された一家』豊田正義(新潮文庫)
  5. 『中国臓器市場』城山英巳(新潮社)
  6. 『カラシニコフ』松本仁一(朝日文庫)
  7. 『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス(岩波文庫)
  8. 『百年の愚行』池澤夏樹、フリーマン・ダイソン他(Think the Earth)
  9. 『食品偽装の歴史』ビー・ウィルソン(白水社)
  10. 『「ニセ医学」に騙されないために』NATROM(メタモル出版)
  11. 『ピュリツァー賞 受賞写真 全記録』ハル・ビュエル (ナショナル・ジオグラフィック)
  12. 『凶悪―ある死刑囚の告発』「新潮45」編集部(新潮文庫)
  13. 『補給戦―何が勝敗を決定するのか』マーチン・ファン クレフェルト(中公文庫BIBLIO)

IV. アカデミック・ノンフィクション

学術機関における専門知から、時事問題に対してより深い分析を行ったり、最新の研究から新たな光を当てるノンフィクション。マイナーになりがちな研究成果そのものを、一般の人向けに分かりやすく啓蒙したり、学術史から現代を問い直す。

『ゲーデル、エッシャー、バッハ』ホフスタッター

読む前と読んだ後で、世界が一変する。

これは、天才が知を徹底的に遊んだスゴ本だ。不完全性定理のゲーデル、騙し絵のエッシャー、音楽の父バッハの業績を「自己言及」のキーワードとメタファーで縫い合わせ、数学、アート、音楽、禅、人工知能、認知科学、言語学、分子生物学を横断しつつ、科学と哲学と芸術のエンターテイメントに昇華させている。数学における意味と形を引き剥がす思考実験を通じて、「自分がいま考えているシステムの外側に出て考える」ことを実践し、システムに内在する矛盾を炙り出し、修復する。読んだら世界の「見え方」が変わるだろう。

『銃・病原菌・鉄』ジャレド・ダイアモンド

現代の富や権力の偏りが、なぜこのようになっているか?

その究極の答えがこれ。種としての民族・人種に優劣があるのではなく、おかれた環境・住んでいた場所が決定的な要因を果たしているという。遺伝学、分子生物学、進化生物学、地質学、行動生態学、疫学、言語学、文化人類学、技術史、文字史、政治史、生物地理学と、膨大なアプローチからこの謎に迫る。乱暴に一言でまとめると、「ユーラシア大陸が横長、アフリカ・アメリカ大陸が縦長だったから」になるが、これらを「病原菌」「鉄」「銃」から読み解いてゆくプロセスは、スリリングかつ徹夜レベルに面白い。

『美術の物語』エルンスト・H・ゴンブリッチ

美術の見方について、新しい目を得る一冊。

原始の洞窟壁画からモダンアートまで、西洋だけでなく東洋も視野に入れ、美術の全体を紹介する。最も長く、最も広く読まれている美術書はこれだ。よくある固有名詞と年代と様式の用語の羅列は、著者自身により封印されている。その代わりに、「その時代や社会において、作品がどのような位置を占めていたか」という歴史の文脈に焦点が合わせられている。たとえば、儀式を執り行うための呪術具であったり、文字の読めない人々に教義を説く舞台装置だったり、視覚効果の実験場といった時代性の文脈の中で美術が紹介されている。

『数量化革命』アルフレッド・クロスビー

西欧が覇者となった理由として、「現実の見える化」から応えた一冊。

定性的に事物をとらえる旧来モデルに代わり、現実世界を定量的に把握する「数量化」が一般的な思考様式となった(数量化革命)。その結果、現実とは数量的に理解するだけでなく、コントロールできる存在に変容させた(近代科学の誕生)……というパラダイムシフトを綿密に描いたのがこれ。複式簿記、地図製作・遠近法、暦法・機械時計・楽譜といった事例をふんだんに用いて、計量できない「量」や「時」そして「空間」を計測できるようにしてきた経緯を紹介する。数量化革命とはすなわち、現実の見える化の達成なのだ。

『戦争の世界史 大図鑑』R・G・グラント

歴史とは戦史であり、戦史とは最先端テクノロジーの歴史でもある。

記録に残っている各戦争の年月日に始まり、原因・経過・結果・影響を概説してある。さらに、決戦が行われた場所の地図や戦術構成、兵力、戦闘技術、死傷者数といった基礎史料を網羅している。特筆すべきは、徹底的なビジュアルにこだわっている点だ。オールカラーで構成されており、の多彩な写真、絵画、地図、図解などを駆使して、多角的かつ斬新な視点から、戦争を捉えようとしている。古代から現代までの戦争の歴史を俯瞰していくと、戦争は当時の最先端テクノロジーのしのぎを削る場所であることが分かる。

  1. 『ゲーデル、エッシャー、バッハ』ダグラス・R・ホフスタッター(白揚社)
  2. 『銃・病原菌・鉄』ジャレド・ダイアモンド(草思社文庫)
  3. 『美術の物語』エルンスト・H・ゴンブリッチ(ファイドン)
  4. 『数量化革命』アルフレッド・クロスビー(紀伊国屋書店)
  5. 『戦争の世界史 大図鑑』R・G・グラント(河出書房新社)
  6. 『金枝篇』フレイザー(ちくま文庫)
  7. 『オリエンタリズム』(エドワード・W・サイード、平凡社)
  8. 『金沢城のヒキガエル』奥野良之助(平凡社ライブラリー)
  9. 『思想のドラマトゥルギー』林 達夫、久野 収(平凡社)
  10. 『想像の共同体 : ナショナリズムの起源と流行』ベネディクト・アンダーソン(書籍工房早山)
  11. 『戦争の世界史』ウィリアム・H・マクニール(中公文庫)
  12. 『イメージ 視覚とメディア』ジョン・バージャー(ちくま文庫)
  13. 『性食考』赤坂憲雄(岩波書店)
  14. 『忘れられた日本人』宮本常一(岩波文庫)
  15. 『虚数の情緒』吉田武(東海大学出版会)
  16. 『数学の認知科学』G.レイコフ、R.E.ヌーニェス(丸善出版)
  17. 『マネーの進化史』ニーアル・ファーガソン(早川書房)
  18. 『世界システム論講義』川北稔(筑摩書房)
  19. 『誰のためのデザイン?』ドナルド・ノーマン(新曜社)
  20. 『隠喩としての病』スーザン・ソンタグ(みすず書房)
  21. 『数学の想像力』加藤文元(筑摩選書)
  22. 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』マックス・ヴェーバー(岩波文庫)
  23. 『科学革命の構造』トマス・クーン(みすず書房)
  24. 『デカルトからベイトソンへ』モリス・バーマン(文芸春秋)
  25. 『レトリック感覚』佐藤信夫(講談社学術文庫)
  26. 『100のモノが語る世界の歴史』ニール・マクレガー (筑摩選書)
  27. 『八月の砲声』バーバラ・タックマン (ちくま文庫)
  28. 『世俗の思想家たち』ロバート・ハイルブローナー (ちくま学芸文庫)
  29. 『千の顔をもつ英雄』ジョセフ・キャンベル(人文書院)
  30. 『転校生とブラックジャック』永井均(岩波書店)
  31. 『ヴァギナ』キャサリン・ブラックリッジ(河出書房新社)
  32. 『服従の心理』スタンレー・ミルグラム(河出文庫)
  33. 『暴力と不平等の人類史』ウォルター・シャイデル(東洋経済新報社)
  34. 『エンデの遺言「根源からお金を問うこと」』河邑厚徳(NHK出版)
  35. 『雇用・利子および貨幣の一般理論』ジョン・メイナード・ケインズ(岩波文庫)
  36. 『興亡の世界史 アレクサンドロスの征服と神話』森谷公俊(講談社学術文庫)

おわりに

「ノンフィクション」といっても、ルポルタージュやサイエンス、ジャーナリズムからアカデミックまで、その世界は広大で豊穣だ。ガチの手記から写真レポート、小説仕立てのノンフィクション・ノベルまで、汲めども尽きない叡智の泉だ。

ここでは、そのほんのわずかを紹介してきたが、全くと言っていいほど足りないことは承知している。だから、「これは!」というものを、ぜひ教えて欲しい。なぜなら、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから。

 

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刺さる鈍器『フラナリー・オコナー全短篇』

Okona

とつひとつ読むたびに、重いもので殴られる感覚なので、感情が丈夫でないと辛い。それでいて、胸の奥まで抉り込まれた痛みが、一生刺さったままになる。O.ヘンリーの驚きと、ミヒャエル・ハネケの悪意の、幸福な結婚を味わえる。

最高に嫌になれる「善人はなかなかいない」は、人生で3回読んだが、3回とも感情が違う。わずか20ページと少しなのに、一生刺さったままになるだろう。

「善人はなかなかいない」は、おばあちゃん、息子と妻と子の家族が、自動車旅行に出かけた先で、大変な目に遭う話だ。

初読の感情

最初に読んだときは、驚いた。これで終わりにできるのか、と唖然とした。なにかの間違いであってほしいと願った。だが、どんなに目を凝らしても間違いはなく、運命は無慈悲だ。

2回で変わる

次に読んだときは、おばあちゃんに注目した。イエスキリストを信じ、自分を善なる存在だと疑わない。独善的という言葉がぴったりだが、そう言われても自分のことだと絶対に理解できない人間、いるだろ? まさにそれだ。

そんな人が信じるものが揺らぎ、崩れる瞬間を観察する。物語の最後になっても、おばあちゃんは変わらない。言葉によっても行動においても、完全に屈しているのに。この独善を、信心深い田舎者の愚かしさと見なすこともできる。

だが、おばあちゃんは馬鹿ではない。認めたくはないが、自分がした過ちは理解できている。しかもそれらは、自らが信じていたものと何の関係もなく、それでいて自分の運命を完全に変えてしまうことも理解できている。

それでも、信じていたものを信じていようと振舞う。やっぱり神様なんていなかったね。何度読んでも運命は変わらない。わたしが驚いたのは、そうした無邪気な愚かしさを、まんま信じていたからだろう。

そこに描かれる運命は、別に理不尽なものではない(「理不尽」として片づけたいけれどね)。おばあちゃんを通じて、わたしが信じ込んでいた世界とは違っていたから、唖然としたにすぎぬ。

3回目で世界が違って見える

そして、今回読んだときは、全く違った感情を抱いた。なぜなら、作者のこの言葉を目にしたからだ。

私の作品では、人物たちを真実に引き戻し、彼らに恩寵の時を受け入れる準備をさせるという点で、暴力が不思議な効力を持つ。人物たちの頭は非常に固くて、暴力のほかに効き目のある手段はなさそうだ。真実とは、かなりな犠牲をはらってでもわれわれが立ち戻るべきなにかである。
「自作について」より

恩寵(grace)とは一般に、神のめぐみや慈しみのことだ。神を信仰する心こそが恩寵の賜物だから、これはおばあちゃんの信仰を試し、裏切られる話なのか? 恩寵を失う(fall from grace)話なのかも……と考えた。

しかし、わたしの考えは間違っていた。

もう一度読むと、ラスト2ページの数行を、完全に見落としていたことが分かった。ここだ「おばあちゃんはその一瞬、頭が澄みわたった。目の前に、泣きださんばかりの男の顔がある。男に向かっておばあちゃんはつぶやいた」

次の瞬間、おばあちゃんは、完全に正しいことをする。偽善を被ってきた自覚すらなく、愚かな言動をくり返していたにも関わらず、おばあちゃんは、(おそらく)イエス・キリストがしたことと同じことをする。

もちろん、おばあちゃんは磔にされてなどいない。しかし、もしイエス・キリストがその場に立っていたならばしたであろう、まったく同じことを、おばあちゃんは口にして、行動する。

おばあちゃんは、自分が信じていたものが、これから自分に降りかかる運命に、何の関係もないことを知っている。どんなに信仰心が篤くても、何の役にも立たないことを、完全に理解している。その上で、恩寵を得る。

この瞬間にシンクロしたとき、世界が一変した。

何回読んでもおばあちゃんの運命は変わらないが、彼女は(神様抜きで)恩寵を得ており、赦してすらいるのだ。わずか一瞬なのだが、彼女が手にしたものに、ほとんど触れられるくらい近いところに居られる。これは、読むことでしか経験できない感覚だ。

読むことは経験すること

ほとんどあらすじも示さず、わたしの「感情」だけを延々と吐き出したが、オコナーの小説はそうやって示すしかないと考える。

なぜなら、そうやってでしか経験できない作家だからだ。

作品にはテーマや書かれた理由があって、その「作品の意味」なるものを読み解く―――それは教室で読むには正しいが、このやり方だと、オコナーは「グロテスクと暴力で人の醜さを暴く作家」になってしまう(それはそれでエグいが浅い)。

もし、いわゆる読み屋がやる「あらすじ+意味=評価」のような読み方だと、きっとこの「感情」にたどり着くことができないだろう。いや、読み返すことすらしないに違いない。

しかし、オコナーは違う。説明的な言い換えに抵抗し、鈍器のように胸を打つくせに、感情の深いところまで刺しにくる。「善人はなかなかいない」の他に、この作品が刺さったまま。一生かけて読み直すだろう。

  • 人造黒人
  • 田舎の善人
  • 強制追放者
  • ゼラニウム
  • すべて上昇するものは一点に集まる
  • グリーンリーフ
  • 森の景色
  • 家庭のやすらぎ
  • 障害者優先
  • 啓示

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おかしな議論にごまかされないための『論証のルールブック』

『論証のルールブック』は、簡潔で説得力のある文章を書くためのルールが、50にまとめられている。1つのルールに1つの例文、1つの解説という構成で、この本そのものが簡潔さを目指している。

ごく基本的な常識レベルのものから、見落としがちな盲点まで、まんべんなく網羅されているのがいい。いくつか紹介する。

  • 主張には根拠が必要だ
  • 数字は他のエビデンスと同じような検証が必要だ
  • 長文の論証や、口頭で伝える際、サインポストを活用する

論点先取の見抜き方

「主張には根拠が必要だ」なんて、当たり前すぎて、なにを今さらと感じるかもしれない。確かにその通りだろう。だが、実際に、事実のフリをした意見や、根拠レスの主張に出会ったとき、即座に見抜けるだろうか。

たとえば、この主張なんてどうだろう。

  聖書に神は存在すると書かれているから、神は存在する

  聖書は神が書かれたのだから、正しい

これは、結論が前提に含まれた有名な例で、何も言っていないに等しい。通常は、一文目と二文目の間に、様々なレトリックが散りばめられ、分かりにくくなっている。だが、「前提→結論」の形にすると、論点先取はすぐ見抜ける。

 前提1 神が書いたのだから、聖書は正しい

 前提2 聖書には、神が存在すると書いてある

 結論 それゆえ、神は存在する

導こうとする結論(神は存在する)が、前提の中に既に含まれているのが分かる。証明しようとする事柄そのものを真実だと決めてかかり、根拠のない主張を通そうとする。神と聖書ではなく、地球温暖化やジェンダーの議論で見かけないだろうか。

数字を使った誘導

論証に出てくる数字は、特に注意を払う必要がある。著者は、統計情報の数字は、他のエビデンスと同じく、批判的に検討する必要があるという。問題は数字そのものというよりも、その使われ方だろう。

たとえば、次の主張の数字に注意してみよう。

スポーツ推薦で入学した大学生を、選手として使い物にならなくなったからという理由で退学させることで非難された大学もあった。それは過去のこと。多くの大学で、スポーツ推薦で入学した大学生の卒業率は50%以上だ。

この「50%」という数字に説得力があるか。「多くの大学」とあるが、そうでない大学もあることになる。そうでない大学を含めると、どう変わるのか? 「50%」は以前と比べて改善されているのか……といった検証が必要になる。

数字は、数えられるものを数えた結果であるがゆえに、明確・明白な印象をもつ。人は、数字が出てくると信頼しやすくなる傾向がある。

これを利用して、外挿(既知のデータから未知のことを推測する)による数字が出てくるとき、データの信頼区間が無視されていることがある。「数字は嘘を吐かないが、嘘吐きが数字を使う」のは、この外挿のタイミングになる。

サインポストの効用

「サインポストの活用」は、実際にやっている人には当たり前すぎるだろう。むしろ「サインポストって何?」と思うかもしれない。だが、やるとやらないとでは大きく違う。

サインポストとは、論証の道しるべとなる定型的な表現だ。

たとえば、前提が複数あるとき、こう述べるだろう。「前提は3つあります。第1に……、そして2番目に……、さらに最後に……」。この太字がサインポストになる。

これを使わずに、だらだらと前提を続け、いつの間にか意見も混ぜてくる人がいる。かみ合わない議論に陥るのを避けるために、対話の折り返しでこうまとめている「あなたの主張は〇〇ですね。そしてその前提となるものは4つあるとお見受けしました」。この太字もサインポストになる。

他にも、サマリーに戻るとき、「これが私の基本的な考え方です」で始めたり、話の最後で「これまでのポイントを3つにまとめます」と述べてから進める。そもそも、今から語ろうとしているのは、論証のどこに当たるのかを、予めて伝えておくのだ。

この応用としては、スライドを大量に使うプレゼンのとき、サマリーの全体像をサムネイル化し、各スライドの右上に配置して、どこを語っているかを赤枠などで強調する。「このスライドは、全体のここを説明してますよ」というサインポストである。

主張が受け入れられるか否かは別として、話の内容が一発で通る人とそうで無い人の決定的な違いは、ここにある。

常識を復習する

このように、当たり前すぎて見落としがちな原則が、わずか200頁にコンパクトにまとめられている。

特に面白かったのは、後半の「論証を誤らせるアンチパターン集」だ。原因でないものを原因にする「不当原因」や、人格や国籍・宗教を攻撃対象とする「人身攻撃」は聞いたことがあった。だが、経験的に罠だと分かっていたものに、名前が付いていたことを知って驚いた。

たとえば、「はい」と「いいえ」のどちらで答えても罠にはまる「君はもう、奥さんを殴るのをやめたのか?」という質問は、「複問」という名前があった(どちらを答えても「奥さんを殴った」ことを認めることになる)。

また、「きっとあなたはこんな迷信に惑わされる少数派ではないと思いますが…」という誘導的な前置きは、「井戸に毒を入れる」と呼ばれている(その後の主張の批判に対し、予めプレッシャーを与える常套手段)。

こうしたアンチパターンや詭弁集は、Wikipedia [詭弁] [論点のすり替え] にもあるので、ここから始めるのもいいかも。

知っている人には今更感この上ないが、常識を問い直すという意味で、復習してみるのもいいかも。類書と異なり、第5版までアップデートを重ねており、入門書として使うのもありだ。

ロジカルに伝えるための、薄くて強力な一冊。



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ナチスのデザイン『独裁者のデザイン』

ニュースに接するとき、心の中でアラームが鳴るものと、そうでないものがある。

Dokusaisha

アラームが鳴ったものは、後になって、ニュースを装ったプロパガンダだったり、意見誘導のために歪められた情報であることが判明することが多い。100%ではないものの、おおむね信頼できる。

アラームが鳴るものと、そうでないもの。この違いは何だろう?

うまく言語化できなかったが、『独裁者のデザイン』にあった。

本書は、ヒトラー、ムッソリーニ、スターリン、毛沢東といった独裁者に焦点を当て、プロパガンダを駆使してどのように大衆を躍らせ、抑圧していったかを、デザインの観点から見直したものだ。

独裁者のイメージ戦略

デザインそのものには、右や左といった政治色や、善や悪などの道徳的な属性は存在しない。デザインとは、あくまで図案であり設計であり道具といったニュートラルな存在である。

しかし、デザインを利用する側の姿勢によっては、「謀る」という意味も発生するという。デザインは、人の心を一定の方向に動かし、奮い立たせることができる。また、その本質を形や機能と一体化させることで見えなくさせ、人々の日常に溶け込ませることができる。

つまり、デザインの使い方によっては、独裁者の本音を隠しつつ、人心を誘導することも可能だ。その具体的なイメージ戦略がこれだ。

同じ言葉やアイコンを繰り返す

たとえば、「同じ言葉やアイコンを繰り返す」デザインだ。

同じフレーズやヴィジュアルを、何度も過剰なほど繰り返す。敬礼や行進の仕方、制服などのスタイルを統一させ、それを何度も反復して行う。巨大なポスターや垂れ幕を、大量に連貼りして同じメッセージを伝える。

繰り返されるメッセージも、バカにしているのかと思えるほどシンプルな言葉を連呼する。ヒトラーの連呼で定番なのは、「ひとつの民族、ひとつの国家、ひとりの総統」だという。また、ヒトラーだと、「Ja」を連呼し、ムッソリーニの場合は「Si」を連打したとある(どちらも、「イエス」を意味する)。

他にも、イメージが統一された制服や勲章や旗、同じことを称賛するポスターや記録映画、整然たる隊列と行進、そして画一的な敬礼が紹介される。この「同じことを繰り返す」は、様々な宗教や組織において、教理や信条を刷り込み、グループと一体化するため用いられる、古典的な手法だ。

この刷り込みの手法は広告でもおなじみだ。判で押したように商品名や常套句を繰り返すことによって、他のことを考えさせないようにする。商品名だけではなく、「今からでも入れる保険」や「過払い金の請求」など、概念の連呼も効果的だ。テレビやSNSで単純すぎるメッセージが幾度も出てくるとき、何を考えさせないようにしているかを考えたほうがいいかもしれぬ。

こちらを凝視する

特に計算されているのは、「こちらを凝視する」デザインだ。

人は視線に敏感だ。2つの点に「目」を感じたり、暗闇や背後に視線を感じるのは、捕食者の存在をいち早く知るために発達した認知能力だという。その結果、凝視を向けられるとき、人は、否が応でも注意を引き付けられてしまう。

本書では、「モナ・リザ」や、アルブレヒト・デューラー、レンブラントの自画像を用いながら目ヂカラの効果を説明する。そして、様々な映像表現で凝視の力を利用することで、大衆の注意を引き付け、戦略的に不安をプロデュースしたのが、ヒトラーになる。

まず、大衆の不満のはけ口を逸らし、責任を転嫁するために敵をつくる。そして、敵の脅威を繰り返し刷り込むことで、大衆の不安を煽る。この、人の注意を引き付け、不安を煽るには、独裁者がこちらを凝視する視線が強力に働く。

ヒトラーはもういないが、アイドルから政治家まで、この手法は現役バリバリだ。まず、こちらを凝視することで、見る人の注意を引き付けることができる。そして、アイドルならドキドキさせ、政治家なら「このままでいいのか!?」と不安を掻き立てることができる。

つまり、こちらを凝視しているポスターや映像には、ドキドキや不安を煽り、そこに付け込みたい意図が隠されている。注意しなければならないのは、凝視するデザインが悪というのではない(デザインに善悪はない)。

わたしが、凝視するデザインから情報を受け取るとき、何かが掻き立てられているはずだ。そのドキドキや不安は、計算されたものだということを意識して扱いたい。

女性や子どもの使いどころ

もう一つ、本書で目から鱗だったのが「女性や子どもの使いどころ」だ。

勇壮なアイコンとして、成人男性がモチーフになる。若者だと力やスピード、壮年だと経験や安心感といったイメージを伝える目的で使われる。これが、女性や子どもを使う場合、お金を無心する意図が隠されているという。

常に敵を作り出し、その敵をただすための戦争をしかける独裁者は、資金を必要とする。強制的に調達するのは最後の手段として、できるだけ国民が自発的にお金を提供する形にしたい。このとき、女性や子どもに寄付を募らせるというモチーフが採用される。

表向きは、父や兄(など戦える男たち)は出征しているから、女性や子どもは節約してお金を集め、戦時公債を購入しようというメッセージになる。その背後には、女性や子どもが率先して資金集めをしているのだから、(老若男女に関係なく)払わねば、という気にさせる。

「金をよこせ」という生々しい欲望を、女性や子どもという緩衝材で包む。本書ではドイツ少女団(ヒトラーユーゲントの女子版)の事例が紹介されているが、今なら募金キャンペーンのキャラクターが女の子である理由やね。政治的メッセージが女性や子どものアイコンを通じて伝えられるとき、その背後に「お金」を探した方がいいかも。

デザインは人を支配する

繰り返すが、デザインそのものに善悪はない。ナチスと同じ方法でデザインをしているから悪ということではない。ナチスは、デザインが人を支配することを熟知しおり、その効果的な手法を古今東西のアートから利用したにすぎない。服飾から空間デザインまで、政治と芸術を合体させたイメージ戦略を統一し、運用することに成功した。

わたしは、そこから「デザインはどのように影響を与え、人を支配するのか」というメカニズムを学び、自分のアンテナに付け加える。次にニュースに触れたとき、わたしの心にどんな影響を与えるかを意図して作られているかを、そのデザインから読み取るためである。

REDなお、ナチス映画を通じてヒトラーのデザインに焦点を当てたものが、同著者の『RED』。プロパガンダの実践を垣間見ることができる。未来の(あるいは現在の?)扇動者のデザインを予習するのに適している。

デザインは人を支配する。その力から逃れるのは難しいからこそ、メカニズムを理解し、その意図を知っておきたい。

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辛すぎることは、向き合うんじゃない、やり過ごすんだ。『胃に穴』

わたしを支える言葉に、「開いた窓の前で立ち止まるな」という警告がある。人生は悲哀に満ちており、生きるに値しないと思うときもあるけれど、それでも生きていくためにはどうするか? そのコツが、この言葉だ。

このセリフは、ジョン・アーヴィングの2番目の傑作『ホテル・ニューハンプシャー』で知った。苦しみや悲しみが大きすぎて、生きていくのが辛いとき、真正面から向き合うのは得策ではない。まともに対処しようとするうちに、たまたま開いていた窓から出て、人生から降りてしまうから。

辛すぎることは、やり過ごす

そうじゃないんだ。辛すぎることは、向き合うんじゃない、やり過ごすんだ。

この、やり過ごす方法を教えてくれるのが、フミコフミオ氏の『胃に穴』になる(本当のタイトルはもっと長い)。理不尽な仕事での「怒り」の扱い方や、「正義」を強要する人との向き合う心得、あるいは非人道的な仕打ちを受ける結婚生活のしのぎ方が、経験談とともに紹介される。どれもめっちゃ笑えるが、笑う瞼の内側では泣けてくる。

たとえば、帰るギリギリになって面倒ごとを投げてきて、タイムオーバーか、諦めの「もういいよ」というセリフを狙ってくる部下。これ、上司が怒れない性格だと知ってやる悪質なやつ。わたしならバーンと怒ってやるのに!……とちょっとだけ思うが、たぶんやらない(やれない)。

こういう怒りを溜めておくと、どんどん苦しくなることは、経験的に知っている。ではどうするか?(答:夜半に電柱に怒る)……これ、わたしもやったことがある。毎晩同じ場所でやるとパトロールが来るので、時間と場所を毎回変えるのがポイントだ。

あるいは、正義を強要する人。気に入らない人を常時ロックオンして「あいつサボってる!」と非難する。自分の正しさを証明するために非難するだけでなく、「あいつ、マジでヤバくない?」と周りを巻き込もうとする。

そんな、人の行動のいちいちが気になり大騒ぎする人をどうするか?(答え:露骨に無視する)……これは成功して無さそうだが、「正義」酔いして我と時を失わずに済む最良の方法だと思う。

開いた窓の前で立ちどまらない

悲哀にまみれたエピソードの一つ一つに大笑いするが、ひっそり埋め込まれた一言一言が、中年のおっさんの胸にグサリと突き刺さる。

  • 「結婚はいいものだ」と言ったのは、そう言わなきゃ結婚なんてやってられないから
  • 「正義は我にあり」と信じ切っている人ほど信じがたい行動に出る
  • 他人なんてどうでもいい。大事なのは、自分の人生のジャッジを他人に委ねないこと
  • 人生のすべてで勝つことはできないからやり過ごすようにしよう。やり過ごすための言い訳は武器だ。

どれもこれも突き刺さる。「きっつー」なんて揶揄して言わないと、大きすぎる苦しみと、まともに向き合うことになる。そのとき、開いた窓の前で立ちどまってしまったら、人生を降りることになる。

人生を立ちどまってもいい。そんなのしょっちゅうだ。だが、開いた窓、通過する総武線快速、新宿NSビルの吹き抜け、そこで立ちどまってはいけないのだ。

そうしないために、『ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。』をお薦めする。

Bokuha

 

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「読んでない本・観てない映画・積んであるゲーム」について語ろう

「読みたいのに読めない本」ってないだろうか? 

私はある。よさそうなのは分かってる。有名人がお薦めして話題作だし、新刊で買ったし、今でも積読山のてっぺんに居るし。

でも、なじみの薄いジャンルだったり、思ったより歯ごたえがあったり。一通り目を通してみたものの、イマイチ自分に合わなかったり―――そんな本や映画、ゲームがある(実はたくさんある)。

今回は、そんな「読んでない本・観てない映画・積んであるゲーム」について語ってみよう。本でもマンガでもなんでもOK、積みDVDだけ語るのも良し、あなたの「気になるけど未プレイ」を存分に語ってほしい。

いつもは、推しの本を持ち寄って、まったり熱く語り合うオフ会だけれども、ちょっと趣向を変えて、「これ読めていないけど、手を出しにくくて……でも読みたいんだよね。どうすればいい?」というテーマで語り合おう。

 日 時  11/10(日) 13:00~17:00
 場 所  渋谷某所
 参加費  2千円(軽食・飲み物を出します)
 テーマ  気になるけど読んでない(観てない)作品を紹介する

いろんな趣味の人が来るから、「それに手を出す前に、これ読んでおくと(観ておくと)入りやすいかも……」的なアドバイスが得られるかも。あるいは、「あるある! やっぱりそれ合わないよねー」みたいな慰め会になるかも。

というわけで、合わないけれど、気になる本、映画、ゲームを持ち寄って、皆でお薦めポイントを考えよう。

ちなみに、わたしは「ビル・ゲイツが絶賛する本」について語るつもり。「ビル・ゲイツ絶賛」といっても本人は読んでいない疑惑や、なぜ多くの人がビル・ゲイツ絶賛本を買うのかについてお話しする。

詳細と参加申し込みはスゴ本オフ:[合わない本をお勧めする]をどうぞ。facebookアカウントない人は、twitter [@Dain_sugohon]で参加表明してください。オフ会の雰囲気や流れは、[オフ会の流れ]か、右側の「過去のスゴ本オフ」をどうぞ。

Yondenai

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「いま・ここ」から離れる『世界文学アンソロジー』

Sekaibungaku_

日ごろ「自分」を機械的にやっていると、外面の「自分」が当たり前になる。仕事上の立場だとか、SNSで被っているキャラといった、日常的に使い分けている「自分」が、内面のわたしを乗っ取りはじめる。

そんな「自分」を異化するため、他人の物語を聞く。しかも、できるだけ「いま・ここ」の自分から離れたものがいい。異なる言葉、違う文化の物語を聞くことで、自分にとっての当たり前が、当たり前でないことを思い知る。

『世界文学アンソロジー』を手にすると、このアタリマエじゃ無い感が浮彫りにされてくる。

固まった「自分」に一撃を加える

たとえば、フランツ・カフカの「夏の暑い日のこと」がそう。

わずか2頁の掌編なのに、常識が丸ごと壊される感覚を味わえる。何も悪いことをした覚えがないのに、突然逮捕される『訴訟(審判)』を思い出させる。あるいは、自分の身の上に、何か重要な間違いが起きつつあるのに、それに関わらせてもらえない『城』を予感させられる。常識というものが、いかに脆弱な日常の上に成り立っているか、嫌というほど分からせてくれる。カフカ未体験の人には、比較的短い『変身』がお薦めされているけれど、こっちを推したい。2頁でカフカの喪失感が味わえる。

あるいは、サイイド・カシューア「ヘルツルは真夜中に消える」もそれ。

昼間はユダヤ人として過ごし、真夜中を過ぎるとアラブ人へと変貌する話だ。外見はどこも変わらないのに、話す言葉や信条・思想が完全に入れ替わる。ジキル・ハイドやドリアングレイを想起させられるが、彼がなぜ、どのように変貌するかは、説明が一切ない。わたしの場合だと、社会的な立ち位置や慣習が、自分の内なる信条を強化するが、ヘルツルの場合では、なり替わる人格という内面が外化する。

「いま・ここ」を再確認する

しかし、異なる言葉・違う文化の物語を聞いているうちに、まるで自分のことを言われているような気がしてくる。自分の当たり前を外から眺め、揺さぶるうちに、ぐるりと巡って、まさに「いま・ここ」へ戻ってくる感がある。

イタロカルヴィーノの「ある夫婦の冒険」がそうだった。

夫は夜のシフトで、妻は昼の勤務の日常を切り取った短編だ。ベッドを共にはしているが、その間はわずかだ。相手が帰ってきて、身体を洗ったり食事を一緒にしたりする折々で、ちょっとしたすれ違いとときめきが同居する。自分のライフサイクルと全然違うのに、なぜかこのクスクス笑いをしたことあるぞ……という気にさせられる。仕事にでかけた伴侶が寝ていたベッドの温かい場所を足で探すその動きは、まさにわたしもしたことがある。

そして、フリオ・コルタサル「グラフィティ」がぐっときた。

軍事政権の重苦しい中で、壁に落書きをする若者たちの話だ。落書きといっても、人や鳥や抽象的な図を、チョークでこっそりと書きつける、グラフィティアートだ。監視の目が光っているから、めったなことを描くと、連行される。そんな状況で、若者は、自分が描いた図案の隣に、黒いチョークで言葉が書きつけられていることに気づく。

わたしは痛みを抱えている。

2時間と経たず、警察が直々にその絵を消しにやってくる。それからは、絵だけでやり取りをする。2人称で描かれているため、この話を最後まで聞くと、まるでチョークを渡されたような気になる。描くこと、言葉を発すること、表現することについて、「いま・ここ」も同じのかもしれぬ、そんな気分になっている。

収録作品一覧

日常に凝り固まった自分を、いったん離して眺めるために、異なる言葉、違う文化の物語を聞く。自分の当たり前は、世界の当たり前じゃないことに気づく。その一方で、異なる言葉、違う文化の中に、まさに自分自身を見出す。

短く、特徴的な話を厳選しているため、「はじめての世界文学」の入り口として最適だ。「愛」「家族」「戦争」といったテーマごとに、硬軟とり揃えて、もっと読みたい人向けのブックリストも紹介している(しかも難易度が★で分かる!)。気に入った作品を手掛かりに、もっと奥に行きたい人にはうってつけだ。

『世界文学アンソロジー』は、まさに世界文学スターターパックの一冊といえる。

  • エミリー・ディキンスン(アメリカ)「ことば」
  • 李良枝(韓国/日本)「由煕」
  • サイイド・カシューア(イスラエル/アラブ)「ヘルツル真夜中に消える」
  • フェルナンド・ペソーア(ポルトガル)「わたしは逃亡者」
  • ハンス・クリスチャン・アンデルセン(デンマーク)「影法師」
  • チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ(アメリカ)「なにかが首のまわりに」
  • フォローグ・ファッロフザード(イラン)「あの日々」
  • ジェイムズ・ジョイス(アイルランド)「土くれ」
  • 魯迅(中国)「狂人日記」
  • 石垣りん「子供」
  • プレームチャンド(インド)「私の兄さん」
  • チヌア・アチェベ(ナイジェリア )「終わりの始まり」
  • パウル・ツェラーン(ルーマニア)「死のフーガ」
  • イサーク・バーベリ(ロシア)「ズブルチ河を越えて/私の最初のガチョウ」
  • フリオ・コルタサル(アルゼンチン)「グラフィティ」
  • ファン・ラモン・ヒメネス(スペイン)「わたしはよく知っている/鳥達は何処から来たか知っている」
  • 石牟礼道子「神々の村」
  • クリスタ・ヴォルフ(東ドイツ)「故障――ある日について、いくつかの報告」
  • コレット(フランス)「ジタネット」
  • イタロ・カルヴィーノ(イタリア)「ある夫婦の冒険」
  • 莫言(中国)「白い犬とブランコ」
  • フランツ・カフカ(チェコ)「夏の暑い日のこと」
  • アズィズ・ネスィン(トルコ)「神の恵みがありますように」
  • 宮澤賢治「毒もみのすきな署長さん」
  • ディラン・トマス(ウェールズ)「あのおだやかな夜におとなしく入ってはいけない」
  • ジュール・シュペルヴィエル(フランス)「沖合の少女」
  • ガブリエル・ガルシア=マルケス(コロンビア)「世界でいちばん美しい溺れびと」

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ミスが全くない仕事を目標にすると、ミスが報告されなくなる『測りすぎ』

Hakarisugi

たとえば天下りマネージャーがやってきて、今度のプロジェクトでバグを撲滅すると言い出す。

そのため、バグを出したプログラマやベンダーはペナルティを課すと宣言する。そして、バグ管理簿を毎週チェックし始める。

すると、期待通りバグは出てこなくなる。代わりに「インシデント管理簿」が作成され、そこで不具合の解析や改修調整をするようになる。「バグ管理簿」に記載されるのは、ドキュメントの誤字脱字など無害なものになる。天下りの馬鹿マネージャーに出て行ってもらうまで。

天下りマネージャーが馬鹿なのは、なぜバグを管理するかを理解していないからだ。

なぜバグを管理するかというと、テストが想定通り進んでいて、品質を担保されているか測るためだ。沢山テストされてるならバグは出やすいし、熟知しているプログラマならバグは出にくい(反対に、テスト項目は消化しているのに、バグが出ないと、テストの品質を疑ってみる)。バグの出具合によって、テストの進捗と妥当性が判断できる。

「いじめ」をゼロにする方法

似たようなことは、教育行政で見かける。

「いじめゼロ」を目標にして、いじめが起きた学校や教室を処罰対象にする。「いじめの報告件数」が、教師や学校の評価に響くとなると、いじめは確かに報告されなくなり、統計上は減少する。そして、告発の手紙を遺して自殺した子どもに対しても、「いじめではなかった」と強弁される。

どんなに対策しても、いじめは起きる。重要なのは、いじめは起きる前提で準備をすることであり、その件数は準備の材料にすぎない。ここをはき違えると、いじめの報告されない社会になる。

バグ件数やいじめの報告数は、カウントできる。「数」という比較しやすい値を出せ、場所や時系列といった軸で表現しやすく、Excelやグラフとの親和性も高い。結果、カウントしやすい(加工しやすい・グラフ映えする)数が重視される。バロメーターの1つであり、いち判断材料にすぎない測定値が、目標にすりかわる。

測定値が目標にすり替わるメカニズム

この、測定値という「手段」が、本来それを役立たせるべき「目的」になるメカニズムを描いたのが、『測りすぎ』である。

テストの成績や、犯罪発生率、インパクトファクター(文献引用率)といった測定基準が、本来の役割(実態のバロメーター)から離れ、目標そのものと同一視されるようになる。さらに、目標を達成するために測定基準がゆがめられ、数字に振り回せされる顛末が、これでもかと書いてある。現場を見ずに数字だけを見る馬鹿マネージャーは、どこにでもいる。

ただし、馬鹿には馬鹿なりの理屈がある。本書は、その理屈を徹底的に掘り起こす。

マネージャーとして求められるものは、その成果になる。自分がそこに就いて、どれほどの実績を出せたかどうか、説明責任がある。この「説明責任」が厄介な問題だという。

説明責任(アカウンタビリティ)は、もともと「自分の行為に責任を負う」という意味のはず。だが、一種の言語的トリックによって、測定を通じて成果を示すことに変わっていったという。あたかも、大切なのは測定できる(カウントできる)ものだけであり、測定できないものは埒外と扱われるようになった。

成果主義の風潮と、短期に目に見える結果を出すプレッシャーにさらされると、「カウントしやすい」数値目標を追い求めるようになる。実態は複雑で、その成果も複雑なのに、簡単なものしか測定せず、その数値こそが実態を完全に表していると思い込む。

そして、その数値でもって報酬や懲罰、格付けの基準とみなすのだ。馬鹿マネージャーの思い込みは、下々のものへは「数値目標」という形で上意下達される。

すると何が起きるか? その数値―――テストの成績や、犯罪発生率、インパクトファクター―――だけを良くすることが仕事になってしまうのだ。

たとえば、学力の低い生徒を「障碍者」として再分類し、評価対象から排除することで、成績の平均を引き上げる。「犯罪率を20%下げる」という目標は、記録される犯罪件数を20%に減らすため、未満・未遂に格下げされる。自分の論文の引用件数を引き上げるため、非公式な引用サークルを結成し、互いの論文を大量に引用しあう。

「非公式な引用サークルを結成し、互いに引用しあう」なんて、ランキングや口コミサイトで見かける裏技だが、大学教授もやっているのかと思うと笑ってしまう。

笑えるだけでなく真顔にもなるのがその続きだ。

大学の成果を測定するための管理コストが増えているのだという。インパクトファクターや格付け、評価ランキングを測定し、その値を上げるための「仕事ごっこ」が、本来なら研究や教育に費やす時間を食いつぶすことになる。結果、事務職員の仕事が増えることになる。

大学の教育費が上がっている現実的な原因は、こうした説明責任のための管理コストだというのである。

大学を格付けし、それに応じて助成金を配る行政そのものが、測定のためのコストを跳ね上げ、ひいては教育費の増加を招いている。本書は米国の事情だが、日本の大学も似たような弊害があるかもしれない。大学教育の費用と、事務職員の数を重ねたら、一発で見えるだろうね。

「仕事ごっこ」に気づく

馬鹿なマネージャーは丁重に追い払えばいいが、仕事ごっこが好きな上司はそこらじゅうにいる。

どうすればよいのか。本書では、そもそも何のために測定しているのかを指摘する。

コンピュータを用いて犯罪件数を統計化するのは何のためか? どの地域が最も問題を抱えていて、どこにリソースを配分するのが良いかを判断するためだ。共通テストを受けさせるのは何のためか? 科目ごとの生徒の理解度を教師が把握し、指導方法やカリキュラムを見直すためだ。

問題は、昇進や懲罰をちらつかせ、犯罪件数やテストの点数を「目標」とさせるところにある。測定値は実態の一面を切り取ったバロメーターにすぎず、判断の代わりにはならない。反対に、「それを測定するか?」は判断が必要になる。

  1. そもそも労力を払ってまで測定すべきものか?
  2. 何を、どうやって測定するのか?
  3. 測定値は、どのように扱うのか?
  4. その値は、どうみなされるのか?
  5. 結果は公開すべきか?

特に1. が重要。データの収集や分析には時間と労力がかかる。「事務作業」という名目に、膨大な測定コストが隠れてしまっている。そのコストはメリットと比較すると大きなものになるかもしれないし、本当に知りたいことと何の関係もないかもしれない。

「数値目標」は、上司や政府のスポークスマンがよく掲げる。それらがどれほどまっとうで、どれくらいバカらしいか、あらためて吟味できる一冊。

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「動作」に特化した創作者のためのシソーラス『動作表現類語辞典』

文章を書いていて、似たような表現をくりかえすことがないだろうか。

わたしは、よくある。そんなとき役立つのは、シソーラス・類語辞典だ。関連するワードや概念を別の言葉で表現することで、ボキャブラリーを広げ、マンネリに陥らぬようにする。

よく使うのは名詞や形容詞の言い換えだが、所作や行動に特化した『動作表現類語辞典』が斬新なり。これ、小説やシナリオを書く人にとって、強力な一冊になるだろう。

見出しは全て「動詞」で、五十音順に並んでいる。

たとえば、「教える(teach)」だと……アドバイスする、補助する、承知させる、文明化する、コーチする、調子を整える、忠告する、開発する、監督する、規律に従わせる、改善する、叩き込む、強化する etc……とある。

かなりのバリエーションだが、「教える」は様々な行動になる。ありがちな「アドバイスする」から、状況により「叩き込む」こともありだ。えっちなシーンだと、「教える=開発する」という意味も持つ。眺めるだけで、妄想と語彙力がマシマシになる。

本書がユニークなのは、もとは俳優が用いる演劇の方法論「アクショニング」をベースにしている点だ。

アクショニングとは、舞台や映画で何かを演ずるとき、セリフや行為の一行一行に対し、注釈のように動詞を割り当て、何を「する」のかを考えることだという。そうすることで、俳優は、セリフの方向付けや演技のニュアンスを豊かにする。

この何かを「する」は、必ず「他動詞」すなわち目的語を持つものが選ばれる。誰か(何か)に対して「アクション」をする、常に対象となる客体が必要だというのだ。そして、動作対象に自覚的になることで、セリフの一行、一つのしぐさに、意味と具体性が出てくる。

演技に説得力を持たせるアクショニングは、小説やシナリオを書く時にも役立つ。

すなわち、キャラクターの所作や発話の背景にあるアクションを念頭に、表現を決めることができる。

たとえば、登場人物が「教える」とき、どのように教えるか? ちょっと「アドバイスする」程度から、徹底的に「叩き込む」ように教えるのか? 何かに目覚めさせるなら「開発する」も使っていきたい。

このとき、人物が何を欲し、どんなアクションをしたいのかを予め考え抜いておくことで、そのアクションに対する、より具体的でリアルな動詞を見出すことができる。

カート・ヴォネガットは創作論の中で、「たとえコップ一杯の水でもいいから、どのキャラクターにもなにかをほしがらせること」と指摘した。物語の本質は、登場人物が欲しがっているものを手に入れようと行動することにある。その行動に意味と具体性を与えることがアクショニングであり、これにより演技や描写の説得力が増す、という仕掛けである。

物語作家や俳優、パフォーマーは必携の一冊。

Dousa

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人類を平等にするのは戦争『暴力と不平等の人類史』

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貧富の差は拡大する一方。一向に格差の是正が進む気配はない。

日本に限った話ではない。北米、南米、中国、東南アジア、アフリカ……世界中、至るところで格差は絶賛拡大中だ。格差の拡大は、人類社会の宿命なのだろうか?

古今東西の不平等の歴史を分析した、ウォルター・シャイデル『暴力と不平等の人類史』を読むと、これは事実ではないことが分かる。たしかに貧富の不平等はあるが、これを一掃する平等化が果たされる。人類の歴史は、不平等の歴史でもあるが、平等化の歴史でもあるのだ

本書の目的は、この平等化のメカニズムを解明するところにある。データと史料とエビデンスでもって緻密に徹底的に分析する。

不平等のメカニズム

まず著者は、不平等は人間社会の基本的特徴だという。人類が食糧生産を始め、定住化と国家形成を行い、さらに世襲財産権を認めて以降、不平等が進むのは既定の事実だと述べる。なんとなくそうではなかろうかで済ませがちだが、著者はあくまでデータで示す。

たとえば、物質的不平等を、残された亡骸や住居跡から判別する。上流階級の人間が、その他大勢より背が高かったことを、ギリシャのミケーネで発掘された骨格記録から考証する。

あるいは、古代から中世のイギリスにおける住居サイズの中央値を調べ上げ、不平等との相関を明らかにする。そして、階層分化が激しかった社会は、そうでない社会よりも、貧富の差が体格や住居の差に現れていたことを、データでもって実証するのだ。

土地や奴隷といった資産管理や、徴税・納税が記録として残されている時代になると、著者は、「ジニ係数」と「上位1%の所得シェア」の統計値を推計する。

「ジニ係数」は0から1までの値を取り、0に近づくほど平等に分配されており、1に近づくほど不平等になる。「ジニ係数=1」なら、たった一人が全所得を独占していることになる。「上位1%」は全人類を富者から貧者まで並べ、上位の1%がどれだけ独占しているかを示す。

「ジニ係数」と「上位1%」、著者はこの2つの視点を元に、膨大なデータと史料を駆使しながら、貧富の格差がどのように拡大し、そして均されていったか明らかにする。

そこで明らかになるのは、数千年にわたり、文明のおかげで平和裏に平等化が進んだことはなかったという事実である。古代エジプトであれヴィクトリア朝時代のイギリスであれ、ローマ帝国であれアメリカ合衆国であれ、社会が安定すると不平等が拡大したことは動かしがたい。

富を紙にする「戦争」

この貧富の差を解消し、不平等を大幅に是正する存在がある。

戦争だ。

それも国家レベルで大量動員し、国土を焦土と化すほどの大規模なものになる。物理的な破壊のみならず、没収的な課税、インフレ、政府規制などにより、エリート層の富は消え去る。

著者は、戦争の規模とそれが平等化の是正に与える影響をデータでもって示してくれる。なかでも史上最大の平等化装置となったのは、第2次世界大戦だという。1935~1975年の上位1%の所得シェアの推移を見ると、大戦を境に、20%から8%へと急激に低下している。

日本における不平等も、太平洋戦争が解消してくれたと言える。

まず、戦争が行われている間、政府規制、大量動員、インフレ、物理的破壊が、所得と富の分配を平準化した。戦後になると、財閥の解体による私有財産の再分配が行われ、農地改革による地主制度が根絶したという。これに加え、海外資産の喪失と金融の崩壊により、富は紙になった。

さらに、企業別労働組合の創設や、累進性の高い所得税や相続税といった制度の適用により、所得と不平等と富の蓄積はある程度押さえられたと分析している。

太平洋戦争を境に、日本のジニ係数は0.6から0.3へと大幅に低下している。何百万もの人命と、国土に甚大な被害をもたらした戦争が、結果として、他に見られない独自の平等化をもたらしたというのだ。

ただ、あらゆる戦争が平等化をもたらすかというと、違う。近代以前の略奪と征服を特徴とする伝統的な戦争は、たいてい勝者側のエリートに利をもたらし、急激に不平等を拡大させていた。さらに、戦争規模が小さい場合、平等化は一時的なものにすぎないという。格差解消のために戦争を求める声もあるが、徹底的な破壊と大量の血が必要となりそうだ。

全員を貧民にする「革命」

不平等を是正するのは戦争だけではない。それは何か?

革命だ。

持てるものから強制的に奪い、持たざる者に分け与える。抵抗するエリートは追放するか、抹殺する、暴力的な革命だ。本書では、レーニン、スターリン、毛沢東が成し遂げたことが、どれほど平等化において効果的であったかを検証する。

「金持ちを吊るせ、奴ら全員に死を!」というレーニンの訴えは、スターリンの富農撲滅策で遂行される。小作農が地主の土地を奪い取ることを奨励し、標的が不足すると富農の定義を拡大した。雇用している者、碾き臼などの生産設備を所有しているもの、商売をしている者が、次々と含められ、逮捕や強制差し押さえが行われた。ブルジョアやエリートを標的とした大粛清では、150万人が逮捕され、その半数が抹殺されたという。

その経済の行く末は破滅的になる。没収を免れるため、農民は生産を抑え、家畜を殺し、農具を破壊した。耕地面積も収穫量も、革命前と比べて激減した。金持ちを殺し、追放し、奪ったことにより、格差は激減する。国全体が貧しくなったのだから。

毛沢東が成し遂げた平等化も、緻密に検証されている。

1950年の土地改革法により、地主の土地のみならず商業資産も没収対象となった。村の集会に強制的に引き出された地主は、糾弾され、財産は没収され、処刑されたという。最終的には1000万人以上の地主が財産を没収され、土地の40%が再分配され、殺されるか、自殺に追いやられたのは200万人に上る。

大量の血が流されたが、この革命により、中国における平等化は劇的に進んだという。中国全体の市場所得ジニ係数は、実証的には分かっていないものの、推測値として0.31(毛沢東が死去した1976年)が挙げられている。さらに、1980年前後の都市部の所得ジニ係数は0.16と推計されている。

ただ、あらゆる革命が平等化をもたらすかというと、違う。これは戦争と同様で、平等化のためには中途半端な暴力は役に立たず、充分な破壊と血を必要とする。キューバやニカラグアでの革命政権は、暴力的な強制に頼らず、民主的共存を目指したため、有効な平等化を果たせなかったことが、データでもって示される。特に、フランス革命は歴史として有名だが、富の分配への影響は地味なものだったことが明らかにされている。

暴力革命がもたらしたもの

血と暴力による革命のおかげで小さくなったジニ係数は、経済自由化により劇的に反転する。

毛沢東の死後、20年で国民市場所得のジニ係数は0.23から0.51になり、本書が執筆された時点(2017年)では0.55とみられている。さらに、家計純資産のジニ係数は、1990~2012年の間に、0.45から0.73まで上昇したというデータも示されている。また、ロシア市場収入のジニ係数は、1980~2011年で0.26から0.51に上昇する。

社会が安定し、資産が保護され、経済が回り、富が蓄積するようになると、ほとんど人類の仕様のように格差は広がる。著者は、暴力革命が平等化において果たした役割と、その後に拡大した貧富の差を指摘した後、こうまとめる。

これらの事例のほとんどでは、共産主義政権が名目上は権力を握り続けているものの、経済の自由化が急速に不平等を押し広げてきた。同じことが共産主義政権崩壊後の中欧社会にも当てはまる。共産主義が何億何千万という人命を犠牲にしてまで、どんな価値あるものを得たのかということは、本書の研究の対象外とするところではない。だが、ひとつだけ確かなことがある。共産主義が多くの血を流して手に入れた大幅な物質的平等というものは、もはや影も形もなくなっている

平等化の四騎士

人類の仕様としての不平等と、それを大幅に解消する暴力的破壊。ここでは、「戦争」と「革命」を中心に紹介したが、本書では、これに2つを加え、以下を平等化の四騎士として紹介する。

  1. 大量動員戦争
  2. 暴力革命
  3. 国家の破綻
  4. 致死的伝染病の大流行

どれも膨大なデータと徹底的な検証により導き出された「平等化の騎士」であり、どれだけ不都合だろうとも、いったんはファクトとして受け止める必要がある。

読んでいて、どうしてもぬぐえぬ違和感があった。それは、「平等化」をジニ係数や上位1%で見る視点だ。

わたしは、「平等化」とは、富の分配の話だと考える。単純に、富める者から貧しい者へ、富を分配すればいいのに、人類はそれをするのが不得意だ。一方、平等化の四騎士は、極めて得意だということが、本書の主張である。

だが、そこでなされていることは、「富の分配」ではなく、富の破壊である(2.は、「富の分配」を目指していたかもしれないが、実際は、富の破壊だった)。戦争、革命、崩壊、疫病の現場において、エリートは奪われる富を持っていた。だが、貧乏人は奪われるといったら命しか残っていなかった

生き残ったエリートは、富の大部分を失い、生き残った貧者は、生産設備に対する労働力の相対的な価値が上がり、賃金が上昇した。これを数字にすると、ジニ係数の低下になるが、死んだ人は「貧者」としてカウントされない(文字通り、死人に口なし)。違和感の正体はこれだ。

平等化の四騎士がやっていることは、富の破壊であるだけでなく、貧者の口減らしでもある。ジニ係数だけを見ていると、貧者が奪われるものを見失うだろう。

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