「動作」に特化した創作者のためのシソーラス『動作表現類語辞典』

文章を書いていて、似たような表現をくりかえすことがないだろうか。

わたしは、よくある。そんなとき役立つのは、シソーラス・類語辞典だ。関連するワードや概念を別の言葉で表現することで、ボキャブラリーを広げ、マンネリに陥らぬようにする。

よく使うのは名詞や形容詞の言い換えだが、所作や行動に特化した『動作表現類語辞典』が斬新なり。これ、小説やシナリオを書く人にとって、強力な一冊になるだろう。

見出しは全て「動詞」で、五十音順に並んでいる。

たとえば、「教える(teach)」だと……アドバイスする、補助する、承知させる、文明化する、コーチする、調子を整える、忠告する、開発する、監督する、規律に従わせる、改善する、叩き込む、強化する etc……とある。

かなりのバリエーションだが、「教える」は様々な行動になる。ありがちな「アドバイスする」から、状況により「叩き込む」こともありだ。えっちなシーンだと、「教える=開発する」という意味も持つ。眺めるだけで、妄想と語彙力がマシマシになる。

本書がユニークなのは、もとは俳優が用いる演劇の方法論「アクショニング」をベースにしている点だ。

アクショニングとは、舞台や映画で何かを演ずるとき、セリフや行為の一行一行に対し、注釈のように動詞を割り当て、何を「する」のかを考えることだという。そうすることで、俳優は、セリフの方向付けや演技のニュアンスを豊かにする。

この何かを「する」は、必ず「他動詞」すなわち目的語を持つものが選ばれる。誰か(何か)に対して「アクション」をする、常に対象となる客体が必要だというのだ。そして、動作対象に自覚的になることで、セリフの一行、一つのしぐさに、意味と具体性が出てくる。

演技に説得力を持たせるアクショニングは、小説やシナリオを書く時にも役立つ。

すなわち、キャラクターの所作や発話の背景にあるアクションを念頭に、表現を決めることができる。

たとえば、登場人物が「教える」とき、どのように教えるか? ちょっと「アドバイスする」程度から、徹底的に「叩き込む」ように教えるのか? 何かに目覚めさせるなら「開発する」も使っていきたい。

このとき、人物が何を欲し、どんなアクションをしたいのかを予め考え抜いておくことで、そのアクションに対する、より具体的でリアルな動詞を見出すことができる。

カート・ヴォネガットは創作論の中で、「たとえコップ一杯の水でもいいから、どのキャラクターにもなにかをほしがらせること」と指摘した。物語の本質は、登場人物が欲しがっているものを手に入れようと行動することにある。その行動に意味と具体性を与えることがアクショニングであり、これにより演技や描写の説得力が増す、という仕掛けである。

物語作家や俳優、パフォーマーは必携の一冊。

Dousa

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人類を平等にするのは戦争『暴力と不平等の人類史』

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貧富の差は拡大する一方。一向に格差の是正が進む気配はない。

日本に限った話ではない。北米、南米、中国、東南アジア、アフリカ……世界中、至るところで格差は絶賛拡大中だ。格差の拡大は、人類社会の宿命なのだろうか?

古今東西の不平等の歴史を分析した、ウォルター・シャイデル『暴力と不平等の人類史』を読むと、これは事実ではないことが分かる。たしかに貧富の不平等はあるが、これを一掃する平等化が果たされる。人類の歴史は、不平等の歴史でもあるが、平等化の歴史でもあるのだ

本書の目的は、この平等化のメカニズムを解明するところにある。データと史料とエビデンスでもって緻密に徹底的に分析する。

不平等のメカニズム

まず著者は、不平等は人間社会の基本的特徴だという。人類が食糧生産を始め、定住化と国家形成を行い、さらに世襲財産権を認めて以降、不平等が進むのは既定の事実だと述べる。なんとなくそうではなかろうかで済ませがちだが、著者はあくまでデータで示す。

たとえば、物質的不平等を、残された亡骸や住居跡から判別する。上流階級の人間が、その他大勢より背が高かったことを、ギリシャのミケーネで発掘された骨格記録から考証する。

あるいは、古代から中世のイギリスにおける住居サイズの中央値を調べ上げ、不平等との相関を明らかにする。そして、階層分化が激しかった社会は、そうでない社会よりも、貧富の差が体格や住居の差に現れていたことを、データでもって実証するのだ。

土地や奴隷といった資産管理や、徴税・納税が記録として残されている時代になると、著者は、「ジニ係数」と「上位1%の所得シェア」の統計値を推計する。

「ジニ係数」は0から1までの値を取り、0に近づくほど平等に分配されており、1に近づくほど不平等になる。「ジニ係数=1」なら、たった一人が全所得を独占していることになる。「上位1%」は全人類を富者から貧者まで並べ、上位の1%がどれだけ独占しているかを示す。

「ジニ係数」と「上位1%」、著者はこの2つの視点を元に、膨大なデータと史料を駆使しながら、貧富の格差がどのように拡大し、そして均されていったか明らかにする。

そこで明らかになるのは、数千年にわたり、文明のおかげで平和裏に平等化が進んだことはなかったという事実である。古代エジプトであれヴィクトリア朝時代のイギリスであれ、ローマ帝国であれアメリカ合衆国であれ、社会が安定すると不平等が拡大したことは動かしがたい。

富を紙にする「戦争」

この貧富の差を解消し、不平等を大幅に是正する存在がある。

戦争だ。

それも国家レベルで大量動員し、国土を焦土と化すほどの大規模なものになる。物理的な破壊のみならず、没収的な課税、インフレ、政府規制などにより、エリート層の富は消え去る。

著者は、戦争の規模とそれが平等化の是正に与える影響をデータでもって示してくれる。なかでも史上最大の平等化装置となったのは、第2次世界大戦だという。1935~1975年の上位1%の所得シェアの推移を見ると、大戦を境に、20%から8%へと急激に低下している。

日本における不平等も、太平洋戦争が解消してくれたと言える。

まず、戦争が行われている間、政府規制、大量動員、インフレ、物理的破壊が、所得と富の分配を平準化した。戦後になると、財閥の解体による私有財産の再分配が行われ、農地改革による地主制度が根絶したという。これに加え、海外資産の喪失と金融の崩壊により、富は紙になった。

さらに、企業別労働組合の創設や、累進性の高い所得税や相続税といった制度の適用により、所得と不平等と富の蓄積はある程度押さえられたと分析している。

太平洋戦争を境に、日本のジニ係数は0.6から0.3へと大幅に低下している。何百万もの人命と、国土に甚大な被害をもたらした戦争が、結果として、他に見られない独自の平等化をもたらしたというのだ。

ただ、あらゆる戦争が平等化をもたらすかというと、違う。近代以前の略奪と征服を特徴とする伝統的な戦争は、たいてい勝者側のエリートに利をもたらし、急激に不平等を拡大させていた。さらに、戦争規模が小さい場合、平等化は一時的なものにすぎないという。格差解消のために戦争を求める声もあるが、徹底的な破壊と大量の血が必要となりそうだ。

全員を貧民にする「革命」

不平等を是正するのは戦争だけではない。それは何か?

革命だ。

持てるものから強制的に奪い、持たざる者に分け与える。抵抗するエリートは追放するか、抹殺する、暴力的な革命だ。本書では、レーニン、スターリン、毛沢東が成し遂げたことが、どれほど平等化において効果的であったかを検証する。

「金持ちを吊るせ、奴ら全員に死を!」というレーニンの訴えは、スターリンの富農撲滅策で遂行される。小作農が地主の土地を奪い取ることを奨励し、標的が不足すると富農の定義を拡大した。雇用している者、碾き臼などの生産設備を所有しているもの、商売をしている者が、次々と含められ、逮捕や強制差し押さえが行われた。ブルジョアやエリートを標的とした大粛清では、150万人が逮捕され、その半数が抹殺されたという。

その経済の行く末は破滅的になる。没収を免れるため、農民は生産を抑え、家畜を殺し、農具を破壊した。耕地面積も収穫量も、革命前と比べて激減した。金持ちを殺し、追放し、奪ったことにより、格差は激減する。国全体が貧しくなったのだから。

毛沢東が成し遂げた平等化も、緻密に検証されている。

1950年の土地改革法により、地主の土地のみならず商業資産も没収対象となった。村の集会に強制的に引き出された地主は、糾弾され、財産は没収され、処刑されたという。最終的には1000万人以上の地主が財産を没収され、土地の40%が再分配され、殺されるか、自殺に追いやられたのは200万人に上る。

大量の血が流されたが、この革命により、中国における平等化は劇的に進んだという。中国全体の市場所得ジニ係数は、実証的には分かっていないものの、推測値として0.31(毛沢東が死去した1976年)が挙げられている。さらに、1980年前後の都市部の所得ジニ係数は0.16と推計されている。

ただ、あらゆる革命が平等化をもたらすかというと、違う。これは戦争と同様で、平等化のためには中途半端な暴力は役に立たず、充分な破壊と血を必要とする。キューバやニカラグアでの革命政権は、暴力的な強制に頼らず、民主的共存を目指したため、有効な平等化を果たせなかったことが、データでもって示される。特に、フランス革命は歴史として有名だが、富の分配への影響は地味なものだったことが明らかにされている。

暴力革命がもたらしたもの

血と暴力による革命のおかげで小さくなったジニ係数は、経済自由化により劇的に反転する。

毛沢東の死後、20年で国民市場所得のジニ係数は0.23から0.51になり、本書が執筆された時点(2017年)では0.55とみられている。さらに、家計純資産のジニ係数は、1990~2012年の間に、0.45から0.73まで上昇したというデータも示されている。また、ロシア市場収入のジニ係数は、1980~2011年で0.26から0.51に上昇する。

社会が安定し、資産が保護され、経済が回り、富が蓄積するようになると、ほとんど人類の仕様のように格差は広がる。著者は、暴力革命が平等化において果たした役割と、その後に拡大した貧富の差を指摘した後、こうまとめる。

これらの事例のほとんどでは、共産主義政権が名目上は権力を握り続けているものの、経済の自由化が急速に不平等を押し広げてきた。同じことが共産主義政権崩壊後の中欧社会にも当てはまる。共産主義が何億何千万という人命を犠牲にしてまで、どんな価値あるものを得たのかということは、本書の研究の対象外とするところではない。だが、ひとつだけ確かなことがある。共産主義が多くの血を流して手に入れた大幅な物質的平等というものは、もはや影も形もなくなっている

平等化の四騎士

人類の仕様としての不平等と、それを大幅に解消する暴力的破壊。ここでは、「戦争」と「革命」を中心に紹介したが、本書では、これに2つを加え、以下を平等化の四騎士として紹介する。

  1. 大量動員戦争
  2. 暴力革命
  3. 国家の破綻
  4. 致死的伝染病の大流行

どれも膨大なデータと徹底的な検証により導き出された「平等化の騎士」であり、どれだけ不都合だろうとも、いったんはファクトとして受け止める必要がある。

読んでいて、どうしてもぬぐえぬ違和感があった。それは、「平等化」をジニ係数や上位1%で見る視点だ。

わたしは、「平等化」とは、富の分配の話だと考える。単純に、富める者から貧しい者へ、富を分配すればいいのに、人類はそれをするのが不得意だ。一方、平等化の四騎士は、極めて得意だということが、本書の主張である。

だが、そこでなされていることは、「富の分配」ではなく、富の破壊である(2.は、「富の分配」を目指していたかもしれないが、実際は、富の破壊だった)。戦争、革命、崩壊、疫病の現場において、エリートは奪われる富を持っていた。だが、貧乏人は奪われるといったら命しか残っていなかった

生き残ったエリートは、富の大部分を失い、生き残った貧者は、生産設備に対する労働力の相対的な価値が上がり、賃金が上昇した。これを数字にすると、ジニ係数の低下になるが、死んだ人は「貧者」としてカウントされない(文字通り、死人に口なし)。違和感の正体はこれだ。

平等化の四騎士がやっていることは、富の破壊であるだけでなく、貧者の口減らしでもある。ジニ係数だけを見ていると、貧者が奪われるものを見失うだろう。

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世界文学全集を語り尽くすためのリストを作る

日常生活には質量があるので、「いま・ここ」で生きることに、痛みや、息苦しさを感じることがある。そんなとき、違う人生を違う言葉で描いた文学を読んでいる。読んでいる限り、いっときのあいだ、「いま・ここ」から離れることができる。

性別も文化も言語も時代も飛ばして、まったく馴染みのないほうがいい。今の自分から遠ければ遠いほうがいい。「いま・ここ」から、目を背けることができる。

現実から目を背け、見知らぬ感情を追体験していると、あっという間に時が経ち、気づいたら、息をするのが楽になっている。一方で、自分と同じ痛みに、自分と違うやり方で向き合う様を見て、目を背けていた現実に向き合わされることもある。

そうした、自分と伴走してきた文学を持ち寄ると、世界文学になる。世界文学について語るときに私たちが語ることは、あったはずの人生だったり、あるはずもない現実のカタログになる。

この、現実のカタログとしての世界文学について、秋草俊一郎准教授が特別講座を行う。

100年前、ゴーリキーは「世界文学出版所」をたちあげ、文学全集を作り上げようとした。それは、ソ連版「世界文学全集」とも言うべき存在になる。秋草先生はこれを踏まえ、日本を含めた全世界のカタログとして世界文学を紹介するとのこと。 

 
ゴーリキーと世界文学出版所――シリーズ「世界文学の最前線」

 9月29日(日)14:30-16:00

 日本大学通信教育部1号館

 無料・予約不要

Sekaibungaku

秋草先生の特別講座「世界文学の最前線」はこれで3回目で、これまでのは以下にまとめている。世界文学をメタに見た分析はたいへん鋭く、興味深いので、参加をお薦めする。

第1回 文学とコンピュータが出会うとき―――デジタル・ヒューマニティーズの現場

第2回 アメリカの世界文学全集における「日本文学」のシェア

わたしも見てくるつもりだが、せっかくだから推しを教えてくれないか? あなたの人生に寄り添って、あなたと伴走してきた文学があるはず。@Dain_sugohon につぶやいてほしい。

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驚くほど上達する「みんなで推敲」体験事例の発表会まとめ

「文章の推敲は、自分一人でやるものだ」と思いこんでいないだろうか?

しかし、グループウェアなどのコラボレーションツールを使って「みんなで推敲」すると、文章は、驚くほどよくなる。

「Googleドキュメントを文章推敲プラットフォームとして使う」という、誰でも思いつきそうな、しごく単純なアイデアだが、実際にやってみると、驚くほどの威力があり、新鮮な感動を覚える。これは、集合知を使った文章推敲のイノベーションだ。

この「みんなで推敲」の体験談の発表会が8月30日に開催された。具体的に、どのように「みんなで推敲」が行われ、文章が改良されていくのか、そのプロセスが分かる、たいへん興味深い内容だったので、この記事でまとめる。

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今回発表を行ったのは、ふろむださん主催の[面白文章力クラブ]のメンバーの3人。このクラブは、ライティングの初心者からプロまでが集まって「みんなで推敲」を行う場所だ。

わたし自身、行き詰まったり、誰かの意見が聞きたいとき、お世話になっている。[デオコを使うと女の子の匂いになって脳がバグる記事]が社会現象を起こすほど影響があったので、この記事に対する「みんなで推敲」のプロセスを発表した。いつもは門外不出だが、許可をもらって公開するので、ぜひ参考にしてほしい。

  1. 「デオコ」の記事はどのようにでき上ったのか [プレゼン資料](@Dain_sugohon)
  2. 面白文章力クラブに実際に入ってみてどうだったか? [プレゼン資料](内原さん@kanshinko)
  3. フィードバックをもらうことの効用 [プレゼン資料](永田さん@DataVizLabsPath)

「デオコ」の記事はどのようにでき上ったのか

まず、わたしのプレゼン。デオコの記事について。実際のところ、初稿はもっと長文だったのだが、みんなで推敲していくうちに、バッサリ削ったのである。最初はトピックが2つあった。

 a. なぜ女の子はいい匂いがするのか?
 b. おっさんが女の子の匂いになったら脳がバグる

a.は、女の子の匂いを、なぜ「良い」と価値づけするのかの話だ。進化心理学の立場から、性別や成熟度を判断するために「良い匂い」と価値づけするに至った経緯を説明する。そしてb.は、女の子の匂い物質「ラクトン」を含むボディソープを使ったら、「くたびれたおっさんの身体から、女の子の匂いがする」異様な体験をしたというレポートだ。

ところが、2つの話題の面白さの方向性が違っており、面白さの本質はb.にあるという指摘を貰った。せっかく書いたものを削るのは残念だが、よく考えてみると、たしかにa.が冗長となっており、b.に到達するまでに離脱されるかもしれぬ。

この辺りの経緯は、[生原稿とレビューコメント]を見たほうが早い。同じ原稿に対し、全体的な構成や代案を、チャットしながらレビューする、みんなで推敲のプロセスを見ることができる。

私がよくやる失敗として、「お寿司ラーメン」がある。「お寿司は美味しい。ラーメンも美味しい。だからお寿司とラーメンを一緒に出したら、もっと美味しい」という理屈だ。「何を美味しいと思ってもらうかによって、メニューを組み立てる」という発想がない。ここは戒めたいところ。

面白文章力クラブに実際に入ってみてどうだったか?

次は、内原さんの体験記。文字通り「ぶつかり稽古」のような試行錯誤で文章をモノにしていく過程を紹介する。

最初は、「ドン・キホーテは箱羊の夢を見るか?」というタイトルで、本業の話を書こうとしたところ、問題が多岐にわたりすぎて収拾がつかなくなる。テーマを明確にし、トピックを絞り、掘り下げるというスキルが無いことを痛感したという。

「ふわっとした」書き方をすると、「ふわっとした」コメントが返ってくる。内原さんは、内容を絞り・描写を具体的にすることで「文章の解像度を上げる」のを課題として、ブラッシュアップに取り組む。

クラブで反響が出たのは、「読経しながら号泣した話」の件から。ほぼ毎日、趣味として観音経を読経されているとのことで、ある日、いつも通りに読経しているうちに、小学生時代のこと、亡き祖母のことを思い出し、ふいに「祈るとはどういうことか」が腑に落ちて涙が止まらなくなる、という文章だ。

これに対し、「読者を感情移入させるためのキャラ設定」や「物語の本質に潜む『切実さ』を出す」「いったん読者を予測させた後、裏切れ」といったアドバイスがなされ、どんどん原稿を直していって、最終的には出版される。

本人はスゴロクめかして楽しんでいたみたいだが、傍から見るとドラマチックなり。

フィードバックをもらうことの効用

最後は永田さんのプレゼン。データ分析・データ視覚化のエキスパートで、仕事としてのライティングに役立てているという。

みんなで推敲することによって、自分の原稿がどのように変わっていくのかをbefore・after形式で示してくれる。

わたしがめちゃくちゃ納得したのが、「後知恵バイアスと注意集中バイアス」の件だ。

文章を書く上で、「本文」に入る前の前置きを短くする。言われてみれば当たり前のことだが、前置きを書くのに夢中になって、どんどん長くなっていることに気づかない。

だが、これに気づかないのは「注意集中バイアス」のせいだという。すなわち、自分が注意を向けているものの価値を過大に評価する傾向があり、前置きを書いていると、前置きが重要な気がしてきて、本文そっちのけになってしまう。

これ、わたしも非常によくやってしまう。

人の仕様である認知バイアスのため、自分で回避するのは難しい。しかし、他人が書いた文章なら問題ない。自分の文章でないから、冷めた目で「前置きが長い」と言える。このフィードバックは有難い。

ライティングの世界で「編集者」という存在が必須なのは、こうしたバイアスから離れた目で、その文章を取り巻く世界を含み、第三者的なコメント・代案が必要だからだろう。

永田さんの原稿は、みんなで推敲され、最終的には新聞寄稿記事や、自分史上最高の「いいね」「スキ」がもらえたnote記事になる。

QAいろいろ

会場からいただいた質問で、「どこまで書くか?」があった。書きたいことについていくらでも出てくるが、何を、どこまで書くべきかという問いだ。

答えは、「全部」だ。構成クソ食らえって感じで、そのテーマで書きたいものをとにかく全部、重複も筋道も関係なく、全部吐き出すつもりで書く(読書猿『アイデア大全』のレヴィ・ストロースのように書きなぐれ)。その上で、推敲する。わたしの場合になるが、書きなぐったものが最終的に記事になるのは、ほぼ1割。

sli.doでいただいた質問で「仕事でミスをして謝罪文を書かなければいけないけれど、それも面白文章クラブでレビューしていい?」について。

答えは、ぜんぜんオッケー。会社名などを伏せればいいし、レビューイーは(投稿した時間帯にもよるけれど)数分~1、2日でフィードバックしてくるから、それほど時間もかからない。

このクラブでは、「みんなで推敲する」対象の文章は問われない。わたしのような書評をはじめ、日常をエッセイ風に描いた記事や、永田さんのようなガチの寄稿記事もあるし、いわゆる小説のプロットやアイデア、物語もOK。ちなみに、わたしのブログで[上手な謝り方]を紹介しているので、ご参考までに。

かなり重要なのが、「YKTのように記事をフィードバックする際に意識している基準はほかにありますか?」という質問だ。

これはまず、「YKT」について説明する必要がある。

YKTとは「読みたい気持ちタンク」の略で、クラブ内の共通用語だ。読みたい気持ちが入っている仮想的なタンクで、面白そうだと感じたら増え、つまらなくなりそうだと感じたら減る。そして、YKTが空になったら、読者は離脱するという仕組みだ。

クラブでは、「つまらない」という代わりに、「この説明が長いのでYKTが減った」と言い、「面白い」という代わりに「このリード文でYKTが増えた」と言う。単に「面白い」「つまらない」ではなく、「どこが」面白い/つまらないかをYKTで説明するのだ。

この「どこが」は超重要。なぜなら、普通の人は「面白い」と思ったら先を読み、「つまらん」と思ったらブラウザを閉じるだけだから。そして、どちらの場合もわざわざ教えてくれるものではないから、「どこが面白い/つまらない」を読者視点で教えてくれるのは、本当にありがたい。

そして、YKT以外にもフィードバックの基準があるか? というのがsli.doの質問だ。この答えは、ふろむださん本人のコメントを引用しよう。

YKT以外では、たとえば「モデル- ビュー構造」、「モデル - 企画 - 原稿 構造」、「ログライン - 企画 - 原稿 構造」、「書き出し - ハロー効果 - 確証バイアス 構造」などを意識してレビューすることが多いです。

これ、さらりとまとめているけれど、めちゃくちゃ圧縮しまくっている。

たとえば「モデル(what/何を書くか)」を自問自答した後、「ビュー(how/どう書くか)」へ落とし込んでいく段階を踏んだプロセスが必要だ。さらに、それぞれのプロセスについて詳細な解説がある。これ以上は、「モデルービュー」ができていない文章の実例を併せて説明しないとピンとこないので割愛する(そのうちふろむださんがまとめてくれることを期待してる)。

まとめと次回

まとめ。めっちゃ楽しいオフ会でした! 参加された皆さま、サポートいただいた方、そして何よりも、クラブ主催者のふろむださん、ありがとうございました! 

次回もやりましょう~ 案として、

  • sli.doで会場からQAを募集するのに加え、ライブ中継して質問をやりとり
  • Googleドキュメントのコメント+チャットレビューを、リアルでやる(同じ文章について、みんなでリアルタイムにレビューするワークショップみたいなやつ)
  • 土曜の半日ぐらいみっちりと、時間をかけてやる(ビール飲みたくなるなぁ)
  • 文章指南本を持ち寄って、みんなで紹介する([スゴ本オフ]みたいw)
  • クラブの中の人限定でやる(ネタバレし放題)

みんなで推敲すると、文章は面白くなる。この「みんなで推敲」のプロセスは、編集をシェアするという、新しい編集のやり方なのかもしれぬ。

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【追記あり】「デオコおじさん」の記事等を面白くさせた「みんなで推敲」を生で伝えます(8/30渋谷・参加無料)

Omosiro

「おじさんも女の子の匂いに」想定外のヒットとなった「デオコ」。売上げ4倍、株価爆上げ、今年のコミケは良い匂い(予想)の火付け役がこれ→[リアル君の名は。おっさんが女の子の匂いを買ってきて身につけたら、たまらない背徳感を味わえた]

だけどこの記事、わたし一人で書いたわけじゃないのだ。

もちろん、最初の原稿を書いたのはわたしだけど、それをみんなで寄ってたかって推敲して、あの記事に仕立てたのだ(ちなみに、初稿のタイトルは「673円で女の子の匂いを再現する」だった)。

この「みんな」というのは、ふろむださんの[面白文章力クラブ]なのだ。面白くて刺さる文章を書きたい人が集まって、互いに添削・推敲しあうコミュニティサイトで、自分の文章が面白くなっていくプロセスを目の当たりにできる。

このプロセス、門外不出なのだが、許可をもらったのでナマで公開する。わたしだけでなく、他の方も発表してくれるので、オフ会の形で開催します。

もちろん誰でも無料で参加できるので、ぜひ「文章を面白くするプロセス」を盗んでいってほしい。

オフ会の目的 面白文章力クラブで文章がどのように面白くなったかを紹介する
日時・場所

8/30(金)19:00~20:30(受付18:45~)
株式会社HENNGE (グラスシティ渋谷10F[地図]

参加する人 誰でもOK(クラブの中の人、外の人関係なく参加できます)
参加費 無料
コンテンツ
(発表者/@twitter)

「デオコ」の記事はどのようにでき上ったのか(Dain@Dain_sugohon)

面白文章力クラブに実際に入ってみてどうだったか?(内原さん@kanshinko

フィードバックをもらうことの効用(永田さん@DataVizLabsPath)

公開・非公開

公開(twitter・ブログ記事にします)します。写真は撮影しますが、顔は写り込まないよう配慮します

twitterでつぶやく際のハッシュタグは、「#面白文章」でお願いします。

ご質問は、「sli.do」にて受け付けております。イベントコードは「R123」です。

申込方法 [こちらからどうぞ] キャパMAXとなりましたので締め切りました

 

8/3 更新・追記:「交流会という名の飲み会」について

オフ会終了後、「交流会という名の飲み会」も開催します。上記「申込方法」にて承ります。こちらは有償・先着順ですので、お早めにどうぞ。 締め切りました。先着順で10名様の次の方といたします。申し込んだのにここに入っていない方は、キャンセル待ちとさせてください(ごめんなさい!! キャンセルが出た場合、優先的に受け付けます!)

  1. @DataVizLabsPath
  2. さとうよすけ
  3. しげ
  4. クラミツキヨシ
  5. ntaiji
  6. 忍者(@Ni_nja)
  7. @jayjaytakahashi
  8. あんどう/@NoriJr
  9. またんご
  10. Katson

 

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愛にできることがまだあるとすれば、それは、選んだ世界を引き受けること。

生きていく限り、私は何らかの選択を重ね続ける。

世界は選択の結果である。

望んだ結果にならなかったとしても、私は、自分の選択を引き受けなければならない。

その選択は、たとえばどんなものがあるか?

ささやかな選択(誕生日、何を贈ったら喜ばれるだろうか?)から、決定的な選択(彼女がいる世界といない世界、どちらか?)まで、さまざまな大きさの選択がある。

大きさだけでなく、時の長さもある。とっさの選択(助ける?助けない?)、何年もかかる選択(その時まで息をひそめて生きるか、何もかもかなぐり捨てて逃げるか)、これもさまざまだ。

何らかの理由により、選べないかもしれない。あるいは、選びたくないかもしれない。誰かのせいにしたり、不可抗力や運命の仕業にして、「選ばない」結果になることもある。しかし、何も選ばなかった場合、「何も選ばなかった人生を生きる」という選択をしたことになる。「選ばない」も「逃げる」含めて、選ばざるを得ない。

つまり、生きるとは、選ぶことなのだ。

これは、好き嫌い・可能不可能に関わらない。

そして、選んだ結果がハッキリ見えるものもあるし、見過ごしてしまうものもある。見えないから、見るのが嫌だからといっても、「選んだ」ことなのだ。そして、見える・見えぬにかかわらず、選んだことが今の世界を構成することを自覚する。これが、「選んだことを引き受ける」ことなのだ。

選択によって、そこに「責任」が生じたり、良心を痛めたり、「罪」になることもある(ただし、それは"見える"場合の話だ)。

結果が見える・見えぬもひっくるめて、選ばざるを得ないこと、選んだ世界を生きるしかないことに、諦めではなく、勇気と、そして愛をもって取り組む。選んだことを正面から引き受けるとき、その心の別名が、愛であり、勇気であるのかもしれぬ。

その選択により、世界じゅうを敵に回した場合、それは美しい物語となるかもしれない。あるいは、自分を裏切って下したような選択の場合、それは、悲しい現実と呼ばれるかもしれない。

それでも、選ばざるを得ない。選んだ世界を引き受ける他ない。愛にできることがまだあるのだとすれば、それは、選んだ世界を引き受けることなのだ。

 

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運が通れば道徳は引っ込む『不道徳的倫理学講義』

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たとえば、高速道路に「たまたま」飛び出した人をはねて死なせてしまったとする。ドライバーは「注意して運転していれば避けられたはず」として、過失の度合いが図られる。

あるいは、通勤中、「たまたま」通り魔に襲われたとする。「過失」を無理やり探すなら、その道を選んでしまったことになるのだろうか。

この「たまたま」が厄介だ。

それまでの善行・悪行に関係なく、「たまたま」悪い目に遭う。悪い結果になっていないのは、偶然に過ぎないのに、結果が「たまたま」悪ければ、悪い原因が遡及される。

理想の世界では、善人には報酬が、悪人には報復が与えられる。災厄に見舞われた人には埋め合わせとする幸福が与えられる。

だが、現実は違う。善悪と幸不幸が同期しない。現実は、むしろ運に左右される。そのため、善悪を語る場から、運を排除しようとする。

宗教や神話は、「神意」や「天命」と呼ばれる神の意志=運命を取り入れ、前世や来世の因縁で語る。善悪と幸不幸は同期しているが、それは前世からの報いであり、来世へ持ち越されるという理屈だ。

では、善悪を語る倫理学の場では、「運」はどのように扱われるのか?

「道徳と運」をペアで語れる哲学者は少ない。ほとんどは、運の要素に目を背けて、道徳の側面を語りたがる。

実際のところ、理想は道徳が支配し、現実は運に左右される。道徳を否定するものが運であり、運に抗うものが道徳である。「不道徳」とはすなわち「運」なのである。道徳と運は、いかにも相性が悪い。

『不道徳的倫理学講義』では、この食い合わせの悪い「道徳と運」に真っ向取り組む。タイトルの「不道徳」は「運」を指し、いわば「運」を倫理学で解く講義になる。確固とした道徳理論を語る哲学者たちも、「運」の要素から見ると、みな苦戦している(または見なかったことにしている)。

運の問題を回避したプラトン

まず、プラトン。彼は因果応報の神話を真実だという。善への報酬と悪への報いは、あの世を含めると公正だという。

そして、現実は違い、運の要素がついてまわる。プラトンは、この運の影響を最小限にするのが、知恵や勇気、節制や正義といった「徳」だとする。徳を最大化することで、運に関係ない善さを手に入れることができるとする。

だが、そうした徳も、運の影響下にあるのではないか? と著者は指摘する。知恵や勇気を身に付けたり、節制や正義を実現できる条件自体が、まさしく運によって左右されるのではないかというのだ。不遇な星の下に生まれ育ったのであれば、徳もへったくれもなかろう([On a plate]は、この格差を分かりやすく描いている)。

プラトンは『国家』のラストで、この運と徳の問題を巧妙に回避する。因果応報の神話にて、前世での自分が「選んだ」ことにするのだ。よりどりみどりではないものの、自分がどう生まれ・育ちとなり、どんな人になるかは、あの世で自分が決めたことであり、神意でも偶然でもないとする。

ポイントは、「よりどりみどり」ではない、という点だ。実は、選択肢を選ぶ順番が決まっているのだ。すなわち、前世で積んだ徳の順で、選んでいくという仕掛けだ。

悪い結果が出たとき、本当は運が悪いだけなのに、「前世の選択」や「徳」の概念で説明しようとする。これは[公正世界仮説]と呼ばれる認知バイアスによるものだろう。プラトンのみならず、多くの哲学者や宗教家が因果応報で説明しようとしてきたが、これは人としての仕様バグなのかもしれぬ。

「運」を排除したカント

次はイマヌエル・カント。道徳をめぐる問題圏から運の要素をどこまでも排除しようと試みた論者が、カントだという。

カントは、善いものを2つに分ける。一つは、才能や気質、権力や財産、名誉、健康といった「恵み」である。こうした恵みは、必ずしもそれ自体として善いものではないという。

もう一つは、善い意志になる。これは、無条件で普遍的な義務を自らに立ててそれを果たそうとする意志であり、それ自体として善いものだという。

そして、善い意志の元で行動しても、運が悪かったり、体力や健康に恵まれていなかった場合、良い結果を出せないときがある。だが、それでも善い意志はそれだけで光り輝くという。カントは、外的な要因に左右される結果より、内的な意志に価値を与える。

徳と幸福が一致する条件として、人間の理性を最上に持ってきて、運がもたらす結果に関係なく、善い意志は善いとする思想は素晴らしい。

だが、本当だろうか? どれほど不正や暴力にさらされていようとも、善い意志を持ち続け、道徳的な人生を送っているのであれば、それだけで幸福といえる、とすべきだろうか? 健気だ、不憫だ、と思いこそすれ、その人が幸福だと思うのは難しい。

倫理を語るうえで、道徳的な評価は運に左右されてはならないとするあまり、「道徳と運」について目をそらすか、敵視してきた。運は、理想を裏切る現実であり、秩序や安定を乱す厄介者だからである。

ネーゲルの道徳的運

そんな中で異彩を放つのは、トマス・ネーゲルになる。彼は、「道徳的運」という考え方を提示するのだが、この発想が面白い。

そもそも「道徳」の原理は、個人の自由意志に基づいて選択した行為に対し、責任を帰するところにある。一方「運」とは、個人の意志では制御できない偶然的要素であるが故、責任を帰せないことを指す。だから、「道徳と運」は排他的な存在なのかもしれぬ。運が通れば、道徳は引っ込むのだ。

ネーゲルは、道徳的な義務や責任を負うべきなのは、個人の意志で制御できる行動においてだけだとする。そして、個人で制御できないのだけれど、道徳的な判断の対象として扱われるものを、道徳的運と名づける。

運が良い場合・悪い場合、いずれも個人の意志で制御できるものではない。そうした運一般のうち、道徳的に責任が問われるものが道徳的運という訳である。

もし現実が、個人の意志で完全に制御でき、運の要素が一切入らない均質な世界であるのなら、行為が引き起こした結果を全て引き受ける責任が生ずるだろう。

だが、現実はそうではなく、個人ではどうしようもない状況が「たまたま」起きることがある。また、非難されることは一切していないにもかかわらず、起きてしまったことが「たまたま」悪いこともある。

だから、行為と結果の間には、完全な因果だけしか成り立っていないわけではなく、運の要素がついてまわる。現実は、均質な世界ではないのだ(このあたりの議論は、[行為の哲学『それは私がしたことなのか』]に詳しい)。

これを無視して、「個人の意志で制御できたならば、悪い結果にならなかった」として、個人に責任を求めるには無理がある。ネーゲルの道徳的運という考え方は、現在は常識とされる現実の不均質な面を浮き彫りにしている。

道徳と運、ままならないものをどのように扱うかを考える一冊。

スペシャルサンクス:面白文章力クラブ

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惑星と電子をつなぐもの『科学とモデル』

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惑星も電子も中学で習うが、そこで学んだ常識を疑うのは難しい。惑星は太陽のまわりを回り、電子は原子のまわりを回る、と考えていた。
ところが、みんな大好き量子論からすると不確定性が生じ、電子とは、惑星のように軌道を描いているよりも、雲のように確率的に分布する存在となる。

アインシュタインは「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのこと」と述べたが、ラザフォードのモデルに太陽系を見てしまう「偏見」は、弦理論を学んだところで捨てるのは難しい。

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Wikipedia 「ガイガー=マースデンの実験」By 投稿者自身による作品 (CreateJODER Xd Xd), CC 表示-継承 3.0, Link

モデル=世界の一部?

これは、モデルを通じて世界を見るあまり、「モデル=世界」が成立してしまっているからだ。教科書で学んだ原子核モデルはフィクションかもしれないが、太陽や月や星の動きを見た経験から得られる確信が結びついてしまっているのだ。

だから、弦理論は知識として「知って」はいるもの、「確信する」ことはないだろう。モデルは、そのモデルを適用する研究対象にとって分析したり説明するにあたって便利であるように作られている。すなわち、モデルは現象を切り取る断面なのだ。

そのため、超弦理論を扱う一般書を読んだだけで、あたかもそれらが絶対的な真であるかのように確信する人には戸惑いを感じる。その確信はどこからやってくるのか、不思議に思うのだ。専門家なら、もっと慎重に仮説とモデルを扱うだろう。

では、科学者がモデルを扱うとき、そこにどのような確信があるのだろうか? それとも、わたしのように「モデル=現実」の罠に陥ってしまうのだろうか?

「モデルとは何か?」という問いを掘り下げた『科学とモデル』(マイケル・ワイスバーグ)を読むと、科学は、この罠を上手く避けていることが分かる。

モデリングの本質

本書では、モデルを使って問題を解く典型的な例を示しながら、モデリングの本質を探る。モデルとは、ある種の理想化を行うことで、現実を調べる方法だとする。そして、モデリングとは、モデルの構造や分析を通じて、現実世界を「間接的」に研究する方法であるが故、現実世界の完全な表現を目指しているわけではないとする。

その上で、モデリングを3つに類型化する。

まず、「具象モデル」で、ミニチュア模型のような物理的特性によって、現実世界の現象を再現することを目的とする。風洞などが典型的だ。次に「数理モデル」で、現象を数式の形に表現したものになる。最後は「数値計算モデル」と呼ばれ、現実の振る舞いを手続き化し、コンピュータ上の数値計算としてシミュレートする。

そして、モデルは2つの部分から成立するという。

一つはモデルの「構造」で、それぞれのモデルは物理的・数学的な構造から構成されている。そしてもう一つは「解釈」で、モデルの制作者が現実のどの部分を理想化して表そうとしているかによって変わってくる。

このような整理を経て、「”良い”モデルとは何か」「特徴の重みづけはどのようになされるのか」といった分析を行い、「”似ている”とはどういうことか?」という哲学的な領域まで踏み込んでゆく。

モデル=フィクション説

なかでも面白かったのは、「モデル=フィクション」だとするフィクション説。モデルは理想化された現実だから、フィクション的なシナリオを記述するという考え方である。

フィクション説によると、わたしたちは、物語を読んだり映画を観たりするのと似たやり方でモデルに関わっている。フィクションではその世界の全てが書かれているわけではなく、物語の進行や演出上、特徴的なものに絞られる。それ以外の特性は、つじつまの合うよう補う必要がある。

同様に、モデリングされた世界では、死亡率やGDP、引力やクーロン力といった特徴的な数値に絞られ、それらを通じて理想化された現実を理解することになる(他の特性はつじつまの合うよう補正される)。

このフィクション説を唱えている一人に、『タコの心身問題』のピーター・ゴドフリー・スミスがいるという。[懐かしい名前]に思わず微笑むが、はワイスバーグは反対の立場をとる。

シンプルな数理モデルならフィクション説も通るかもしれないが、現実的なものからかけ離れた数学的モデリングだとそうは行かないという。p.99より引用する。

たとえば、化学結合についての、近似的な量子力学モデルを調べているとしよう。こうしたモデルは、分子システムに作用する力を考慮し、力すべてに近似的な説明を与えることによって作られる。結果として得られるモデルは、ポテンシャルエネルギー面を通る経路の集合という形をとる。
空間そのものは高次元である(3N-5次元モデル・Nは分子内の原子の数)。この空間を通る経路は、考えることも想像することもできない。それらは、ポテンシャルエネルギーと分子座標系の座標との間に相関があるということ以外は、物質的分子の持つ具体的特性に似たところはほとんどない。

要するに、あまりに抽象的すぎて、端的に想像不可能なのだ。

死亡率や引力といった具体的で経験と結びつけやすいモデルだからといって、モデルと経験を結びつけてもいいわけではない。わたしが陥っていた、惑星と電子の同一視は、この結びつけを自分で強化してしまっていたからなのだろう。

モデル=理論を説明するための方法

理論がモデルで説明されるとき、経験と直接結びつけられて解釈されるのではなく、理論を記述できるモデルによって解釈されることになる。理論が厳密に真だと言えるのは、あくまでモデルの中での話だけなのだ。

これは、かなり難しい。惑星と電子に限らず、わたしが何度もやってしまう誤ちだ。

ある理論を説明するとき、分かりやすく特徴的な側面を抜き出したモデルが用いられることが多い。ところが、わたしは、そのモデルを理解しただけでその理論を「分かった」気になる。そして、そうしたモデルの集積=世界だと判断してしまうのだ。

モデルとアナロジーの違い

これは、アナロジーとモデルを混同させるときにも生じる。

モデルは、現実世界を間接的に分析する方法である一方、分析から導かれる理論を説明し、理解してもらうための方法としても使われる。これは、例えなどの類推を経て説明されるため、アナロジーと分かちがたく結びついている(ex.光は「粒のようなもの」「波のようなもの」)。

だが、本書で扱われる「モデル」の目的が、現実を調べるための抽象化である以上、「理解や説明のため」のアナロジーと重ねてしまうと、意味が拡散してしまう。あくまでも、「具象モデル」「数理モデル」「数値計算モデル」といった、調査のための方法に落とし込めるものにしたい。

現実を、「そのまま」理解することは、人間である限り不可能である。その結果、モデルやアナロジーを通じて理解する他ない。だが、「現実とどれほど似ているか」について厳密に調べようとするならば、本書のようにモデリングの本質まで掘り下げる必要がある。

モデルとは何か、シミュレーションの哲学とは何かについて考える一冊。

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「倫理的に正しい金儲け」が資本主義を最強にする『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

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プロテスタンティズムが資本主義を生みだした? さらっと流すと、そう読めてしまう。

もちろん、マックス・ヴェーバーは「プロテスタンティズムが資本主義を生んだ」と言ってない。むしろ『プロ倫』では、そうした安易な一般化はダメと批判する。

ところが、そうした誘惑に駆られるのよ。はっきりした統計データが得られると、そこに「ストーリー」を捏造して説明したくなる誘惑は、抗いがたい。

ヴェーバーが魅せられた誘惑はこれ。弟子の書いた本を読んでいて、あることに気づいた。信じている宗派と、経済的な裕福さに相関があるのだ。

信仰は財産を生む?

人を金持ちにする宗教があるのか、金持ちが信じたがる宗教があるのかは分からない。だが、プロテスタントとカソリック教徒を、収益税を課税する対象1000人当たりで比較すると、こうなる。(p.18 [注6]よりグラフにした)

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この着眼を出発点として、プロテスタントと経済合理性との関係を掘り下げ、近代資本主義への影響を問うたのが本書になる。

本書を面白くかつ難解にしているのは、「ストーリー」の捏造を戒める書きっぷり。

ヴェーバーにはずいぶん論敵がいたようで、膨大な注釈のあちこちで反論する。この丁々発止が面白いが、論難されないよう、言い回しを駆使して捏造を回避する。

おかげで何を言っているのか分からなくなったり、真逆の主張が混ざっているように見えて迷いがちだ。

倫理的に正しい金儲け

だが、タイトルの「資本主義の精神」とは何かを追いかけていくと、「正当な利潤を合理的に、職業として追い求める心構え」だということが見えてくる。ベンジャミン・フランクリンの例を挙げながら、この心構えこそが、資本主義的な企業を推進する原動力として働いたというのである。

では、金を稼ぐことを最高善という倫理は、どのような背景をもとに生まれたのか?

それは、宗教改革によって、キリスト教の合理的な禁欲と生活方法が、修道院から世俗の労働生活のうちに持ち出されたという。

例えば、信仰日記をつけるという習慣がある。自分の犯した罪とさらされた誘惑、恩寵による進歩を日々記録する習慣だ。

これらは表形式で記入され、あたかも功罪の勘定がバランスシートのように扱われる。ヴェーバーはこれを、「生活の聖化は、事業経営にも似た性格をおびるようになりえた」と結論づける。

そして、宗教を土台とする倫理は、信仰によって生み出された生活態度を規定してゆく。労働を義務とみなし、生産性の向上に勤しみ、信用という価値を蓄積する態度は、近代資本主義の原動力となったというのである。

ヴェーバー v.s. マルクス

『プロ倫』が面白いのは、『資本論』に真っ向勝負を挑んでいるところだ。ヴェーバーは、マルクスの唯物史観の真逆をやろうとしている。

つまりこうだ。

社会を上部構造(政治や法律、宗教や芸術)と下部構造(所有や分配といった経済構造)に分けた場合、下部構造が上部構造を規定すると主張したのがマルクスで、それに異を唱えたのが『プロ倫』になる

マルクスの唯物史観が「社会的・経済的存在が、その人の意識を規定する」とするならば、ヴェーバーは「プロテスタンティズムによって作られた倫理が近代資本主義を進めた」と、いうならば唯心史観を突きつけているのだ。

『プロ倫』は正しかったのか?

ただ、ここまで言い切ってしまうと先走りすぎることになる。最初の着眼点から話を膨らませすぎやしないか?

ヴェーバー本人も分かっていたようで、例えば先のグラフに「ユダヤ教」を入れるとこうなる。

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ここ、「話が違うじゃねぇか」と声出して笑った。

近代資本主義に対する影響として、「プロテスタント v.s. カソリック」よりも、「キリスト教 v.s. ユダヤ教」で比較した方が明白で面白いんじゃないかとツッコミ入れたくなる。ユダヤ教は(文字通りの)生存バイアスを考慮する必要があるだろうが、一考の余地があるだろう。

だがヴェーバーはめげない。ユダヤ教は冒険商人的な資本主義の側に立っており、その倫理(富の追求、勤勉さ、信用、節約)をピューリタニズムは抜き取ったのだという。

結局のところ、ヴェーバーは正しかったのだろうか?

その答え合わせは、ハーバード大学のロバート・バローとラシェル・マクレアリーがしている。1960~90年代の国ごとの経済成長にもとづき、成長率に対して宗教がどの程度影響を与えるかを調査している。

結論からいうと、プロテスタントよりもカソリックの割合が高い国ほど、経済成長していることが明らかになっている。

さらに面白いことに、どの宗派にも共通しているのが、いわゆる「地獄」を信じる人の比率が高い国ほど、経済成長率が高いという結果が出ている。地獄を信じるからこそ、現世で徳を積むべく経済活動に勤しむのだろうか。「ストーリー」を捏造したくなる誘惑に駆られる。

めっちゃ読みにくい岩波文庫と異なり、新訳ではするりと読める。ヴェーバーが描いた「ストーリー」、ご自身の目で検証あれ。

 

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まとめ「中高生の進路選びに役立つ話」

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学校の先生は、大学と偏差値の話しかしない。
そのくせ、個性だ適職だと言ってくる。

だいたい、未来がどうなるかも分からないのに、
いま決められるわけがない!

どの時代の若者も、進路について悩んできた。

そんな悩める中高生のために、進路と生き方について、[スゴ本オフ]で、人生の先輩と話す会を企画した。様々なキャリアの人をお招きし、やって良かったこと、こうすれば良かったと後悔していること、あの頃に戻れるなら、どんな選択をするか等、いろいろ話してもらったので、ここにまとめる。

人を探せ・英語をやれ

最初はわたし。

やって良かったことは、「人」で進路を選んだこと。高校時代にハマった人に師事したく大学を選んだのだが、正解だった。この姿勢はいまにも通じる。興味のある方向の先にいる「人」を探し、私淑・親炙する(この方法は読書猿『アイデア大全』の「ルビッチならどうする?」に詳しい)。

しかし、「人」が分からない場合はどうする? 図書館のレファレンスサービスに質問を投げる。メールだけで完結し、なんといっても無料だ([東京都立図書館のレファレンス]が最強なり)。そして見つけたら、SNSでつながってしまおう。

一方、やっておけば良かったのが「英語」。受験や進路や転職など、ほぼ10年単位のインターバルで英語の壁が立ちはだかる。ほとんどが迂回したり諦めたりしてきており、今でも勉強中。

そこで、やすゆきさんと藤原さんからアドバイスが! お二方とも仕事道具として英語を使う方で、ポイントは「話す」にあるという。読み書きはある程度できても、しゃべれないと使えないから。そして、「話す」には実践が必要だ。

やすゆきさんがやってきた方法は、「通勤中に目に入る風景を心の中で英語で説明する」。できれば、同じことを3種類の言い方に置き換える。こうすることで、浮かんだことをパッと言葉にできるようになったという。

藤原さんのアドバイスは、「誉める」。とにかく誉める。髪型、ネクタイ、しゃべり方など、どんな些細な点でも見つけて、誉める。あるときなんて、履いてる靴下のセンスを誉めたという。誉め言葉からボキャブラリーを増やすのは面白いかも。

失敗する場としての学生時代

次は、編集者の傳さん。

まず、勉強について。遊ぶ時間を自分で決め、勉強の範囲を自分で決めることで、勉強の主導権を自分に取り戻す。ハードルを高く上げて、それで自分を追い詰めるやり方が有効だ。

そして、苦手なことをたくさんやっておく。「失敗する場」として学生時代は適している。社会に出てから失敗するよりも、学生時代に沢山失敗しておく。小さなリスクを負ってみる。例えば、自分の知らない食べ物屋に行って、馴染みのないものを注文してみるといったものからでもいい。学生時代は率先して失敗していきたい。

重要なのは、得られた経験からのフィードバックをたくさん・はやく回すこと。その意味で、もっと勉強しておけばよかった。社会に出ると、仕事に追われて、勉強する時間がなくなる。

お薦めは、『マンガの創り方』。なりたい職業に就いた後、そこに居続けるのは何十年とある。むしろ、その期間のほうがずっと長い。

だから、「なりたい職業についた「後」から逆算して、「今」すべきことを調べる。その職業に居続けるためにはで「技術」が必要で、この本には、マンガ家という職業に居続ける「技術」が書いてある(本書は、マンガ家に限らず、クリエイター職に通じる)。

いま見えている世界はとても狭い

次は、ほりもとさん。

紆余曲折を経たけれど、何がどこで役立つかは分からない。

というのも、人生の転機で「ワーキングホリデー」を選んだのは、そもそもそういう選択肢がある、ということを知っていたから。なぜ知っていたかというと、学生時代にそちらに向かう大人たちを見ていたから。そのときは、「後で役に立つ」なんて思いもよらなかったが、事実として今の自分を作り上げいる。

だから、学生さんに言いたいには、「いま見えている世界はとても狭い」ということ。これを前提として、自分と接点のない大人とたくさん接点を持つと、世界がひろがる。オープンキャンパスに行く、スゴ本オフに行くことで、そこにいる大人と話すといい。

全然ちがう大人の話を聞くことで、選択肢を広げるチャンスが得られる(そもそも、そういう選択肢があることを知ることができる)。興味をもつものが少なかろうと無かろうと、物事は繋がっていく。バイトから、部活から、先輩から、友人から、さまざまなチャンネルがある。意外なところから「やりたいなぁ」「知りたいなあ」が接点となる。

まず、フックになるものからスタートしてみる。

お薦めは、『仕事はもっと楽しくできる』。会社は、辞めるか、染まるか、変えるか。世の中には、凄い頑張っている。自分の環境・仕事をもっとよくしていこうと、頑張っている大人がいることが分かる一冊。

勉強は報われる

そして、曽我さん、東京大学→アイオワ州立大学→養豚業。

どこに行っても「なぜ養豚を?」「なぜここに?」と問われる異邦人だったけれど、人生のライフチャートのなかで、カッコいい方を選んできた結果が現在になる。

特にアイオワ州立大学の頃は、グリーンカード&高額サラリーのオファーが来たが、日本の養豚に貢献するほうがカッコいいという直感で戻ってきた。

勉強について。自分は勉強が好きだったし、今でも好き。あたかも「勉強ができる」ことがカッコ悪いかのような風潮があるが、『サマーウォーズ』を見て勇気をもらった(よろしくお願いしまあああぁぁす!!)。

『勉強の哲学 来るべきバカのために』によると、勉強をすると(一時的に)キモチ悪くなる。勉強することとは、違う視点・世界を手に入れること。その結果、いまいる環境との馴染みが悪くなり(ノリが悪くなり)、キモチが悪くなる。

できなくてもカッコ悪くてもいいから、勉強を続けていってほしい。ノリが悪くなっても、悪くなっても、勉強をしたほうがいい。知らない世界が一挙に広がる。今の勉強によって、未来は報われるかどうかはわからない。だが、過去の自分は確実に報われる

コミュニケーションをあきらめない

医療系コンサルタントの榊原さん。

患者さんをはじめ、利用者を助けるの医療系コンサルの仕事であり、人を救ってはいるものの、中身は年功序列の世界であり、内容は他の業界と変わらない。そうした状況を人事システムで変えていこうとしている。

そこで重要なのは、「コミュニケーションをあきらめない」こと。

コミュニケーションを行い、自分が思うような反応が返ってこなかったとしても、あきらめない。想像した行動をしなかったとしても、二度三度とやってみる。その時は自分のやり方を変えてみる。上手くいったら、「上手くいくやり方」を溜めていく。

お薦めとして、『あなたはなぜチェックリストを使わないのか』。やったかどうか、できているかどうかを「チェックリスト」という客観的な判断基準を設けることで確かにする。自分自身の目でいたとしても、認識しているものと、認識していないものがある。人の認知の限界を前提とし、自分の見えている範囲だけで世界を完結させないための道具がチェックリストになる。

選んだものを正解にする

広告会社のスナガさん。

共通の正解はない。あなたは一人であり、選んだものを正解にしていくしかない(DO THE RIGHT THING)。できない理由、やらない理由はいくらでも作れるが、自分が人生の主人公であることから目をそらさずに、ひとりで生きていくしかない。

糸井重里のゲーム『MOTHER』 や『萬流コピー塾』に感銘を受け、「広告は私達に微笑みかける死体」というベネトンの広告に影響されて広告業界へ。

お薦めの映画は、人類と人生の予行演習としてのB級映画『WALL・E』『IDIOCRACY』(26世紀青年)。(このまま行った先の)未来の人類は、食っちゃ寝のカウチポテトが行き着くところまで行くのかも。地球の歴史ではまだ一瞬の人類が絶滅しないで生きるためのヒントがあるのでは。

やりたいことをやれ

Webメディア編集者のズバピタさん、この企画の発起人でもある。

人生なにが起こるかわからない。だから、やりたいことをやれ! 一瞬先は闇だから、一番やりたいことをやろう。損得環境、時給いくらとかじゃなく、今何が面白いかという軸で判断する。

メインフレームのプログラミング(時代はPCへ)、雑誌の編集(紙からWebへ)、グルメサイト、ネットなど、栄枯盛衰を追いかけるように様々なことをやってきたけれど、意外なところから意外な仕事につながる。「まさかコミケが仕事になるとは!」未来は未確定なのだ。

だから、お薦めとしては、親や教師や上司の言うことを信じすぎないようにする本。直感を信じ、常識にとらわれないための本として『ファクトフルネス』を推す。

「恋」をしてほしい

UUUMでユーチューバーのマネージャーをやっているのSさん。

学生さんは「恋」をしてほしい。ドキドキするもの、笑えるもの、ココロを動かすもの、幸せになるもの。恋をする、好きになるということは、最高のエンタメ。

目標について。まず「ゴール」を設定しよう。高校生の今から「ゴール」までが進路。そのルートは一本でも一様でもないが、「ゴール」を決めない限り、進路を決めようがない。だから最初に「ゴール」を決める。

「ゴール」は職業ではない。「警察官になる」はゴールではない。「警察官になって〇〇をしたい」がゴールになる。(〇〇には、人を助ける、世の中をよくする等)。「警察官になる」はゴールではなく手段。

この「〇〇をしたい」を見つけることが、夢を見つけること。「〇〇という人間になりたい」こそが夢になる。

夢の見つけ方。「原体験」を探す。原体験は、自分の過去・現在、何にドキドキしているか(何に恋をしているか)にある。自分が好きなもの、熱くなれる原体験に、夢が埋まっている

誰かを好きになって、一歩を踏み出すのは、社会人に必要なスキル。すなわち「相手の気持ちを思いやる」スキル。これが最重要かつ最強。その人の立場に立って、それを望むとおりに行動するスキル。これを学ぶため『LOVE理論』をお薦めする。恋ではなく「愛」なら『北斗の拳』の17巻ラオウまで。兄弟愛、師弟愛、家族愛、友愛等、すべての愛がある。

自分の人生の主人公は自分

作家のRootportさん。

人生は偶然だ。自分は高校生よりも少し長生きしているだけで、人類600万年史から見たら誤差にすぎない。大人は過去の経験からアドバイスをしたがるが、大人の言う法則性は疑わしい。

たとえば七面鳥の話。毎朝決まった時間に餌が出てくるので、「この時間になると必ず餌がもらえる」という経験則が生まれるが、それはクリスマスイブの朝までしか通用しない。

あるいはハリポタの作者J・K・ローリング。シングルマザーとして生活保護を受けながら、コーヒーショップであの小説を書いたのだ。この挑戦は、大人の過去の経験からは導き出せない。

「ブラック・スワン」という言葉は、この世にありえないものを指すイデオムだったが、オーストラリアで実際に見つかってしまう。そして、同名の本がリーマンショックを予想していたかのごとくベストセラーになる。

他にも、911や311、自分自身が作家になったことも含めて、思いもよらないことが起きる。だから、誰かのマネをしたりアドバイスを間に受けてしまい、他人の人生の脇役にならないように……あなたの人生の主人公はあなた自身なのだから。

人生は偶然とはいえ、やり方はある。良い偶然が起こりやすい状況を増やし、悪い偶然を起こりにくくし、試行回数を増やすことで、より良い人生を手に入れることができる。

生き延びてさえいれば、あとはなんとでもなる

ラストは飛び入り参加の藤原さん。

最も伝えたいメッセージは、「生き延びてさえいれば、あとはなんとでもなる」

大学を卒業したけど、仕事がなかった。サウジアラビアの石油関係の仕事をしたあと、ロンドンに留学。アルバイトで電通に入ったけど、英文タイプの学校に通ってそこで、モトローラに紹介されて入社、紆余曲折を経てセミナーサービスの会社を起業し、現在は江戸のくずし字の講座をやっている。

紹介したいのは、『戦時中の暮らしの記録』。これ読むと進路で悩んだりするのが馬鹿らしくなる。生き延びていければ、あとはなんとでもなる。

紹介された本・映画

こんな感じで延々3時間、中学生・高校生に向かって大人が語った。ここではプレゼンの一部しかご紹介できなかったけれど、お薦めされた本の一覧は以下の通り。

『アイデア大全』読書猿(フォレスト出版)
『問題解決大全』読書猿(フォレスト出版)
『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』ふろむだ(ダイヤモンド社)
『怒らないこと』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書)
『せんせいのお人形』藤のよう(comico)
『河森正治 ビジョンクリエイターの視点』河森正治(キネマ旬報社)
『料理人と仕事』木沢武男(モーリスカンパニー)
『マンガの創り方』山本おさむ(双葉社)
『編集者という病』見城徹(集英社)
『シャンタラム』グレゴリー・デイヴィッド ロバーツ(新潮文庫)
『仕事ごっこ』沢渡あまね(技術評論社)
『マイクロソフトでは出会えなかった天職』ジョン・ウッド(ダイヤモンド社)
『仕事は楽しいかね?』デイル・ドーテン(きこ書房)
『仕事はもっと楽しくできる』ONEJAPAM(プレジデント社)
『「ない仕事」の作り方』みうらじゅん(文春文庫)
『勉強の哲学 来るべきバカのために』千葉雅也(文芸春秋)
『14歳からのケンチク学』五十嵐太郎(彰国社)
『代表的日本人』内村鑑三(岩波文庫青)
『戦闘妖精・雪風』『グッドラック』神林長平(早川署ぼ)
『アナタはなぜチェックリストを使わないのか?』アトゥール・ガワンデ(晋遊舎)
『広告は私たちに微笑みかける死体』オリビエーロ トスカーニ(紀伊國屋書店)
『素晴らしき哉、人生!』フランク・キャプラ監督
『WALL・E』アンドリュー・スタントン監督
『IDIOCRACY』(26世紀青年)マイク・ジャッジ監督
『ファクトフルネス』ハンス・ロスリング(日経BP)
『ブラック・スワン』ナシーム・ニコラス・タレブ(ダイヤモンド社)
『ファスト&スロー』ダニエル・カーネマン(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
『ハッカーと画家』ポール グレアム(オーム社)
『LOVE理論』水野敬也(文響社)
『君たちはどう生きるか』吉野源三郎(岩波文庫)
『北斗の拳』原哲夫(集英社)
『人体600万年史』ダニエル・E・リーバーマン(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
『心の仕組み』スティーブン・ピンカー(ちくま学芸文庫)

スゴ本オフ「初」の、ノンアルコール・ガチのプレゼンだった。いつもはビール片手にまったり熱く語っているので、なかなか新鮮な体験だった。ご参加いただいた方、プレゼンしていただいた方、ありがとうございました! またやりましょう~

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