惑星と電子をつなぐもの『科学とモデル』

Scienceandmodel

惑星も電子も中学で習うが、そこで学んだ常識を疑うのは難しい。惑星は太陽のまわりを回り、電子は原子のまわりを回る、と考えていた。
ところが、みんな大好き量子論からすると不確定性が生じ、電子とは、惑星のように軌道を描いているよりも、雲のように確率的に分布する存在となる。

アインシュタインは「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのこと」と述べたが、ラザフォードのモデルに太陽系を見てしまう「偏見」は、弦理論を学んだところで捨てるのは難しい。

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Wikipedia 「ガイガー=マースデンの実験」By 投稿者自身による作品 (CreateJODER Xd Xd), CC 表示-継承 3.0, Link

モデル=世界の一部?

これは、モデルを通じて世界を見るあまり、「モデル=世界」が成立してしまっているからだ。教科書で学んだ原子核モデルはフィクションかもしれないが、太陽や月や星の動きを見た経験から得られる確信が結びついてしまっているのだ。

だから、弦理論は知識として「知って」はいるもの、「確信する」ことはないだろう。モデルは、そのモデルを適用する研究対象にとって分析したり説明するにあたって便利であるように作られている。すなわち、モデルは現象を切り取る断面なのだ。

そのため、超弦理論を扱う一般書を読んだだけで、あたかもそれらが絶対的な真であるかのように確信する人には戸惑いを感じる。その確信はどこからやってくるのか、不思議に思うのだ。専門家なら、もっと慎重に仮説とモデルを扱うだろう。

では、科学者がモデルを扱うとき、そこにどのような確信があるのだろうか? それとも、わたしのように「モデル=現実」の罠に陥ってしまうのだろうか?

「モデルとは何か?」という問いを掘り下げた『科学とモデル』(マイケル・ワイスバーグ)を読むと、科学は、この罠を上手く避けていることが分かる。

モデリングの本質

本書では、モデルを使って問題を解く典型的な例を示しながら、モデリングの本質を探る。モデルとは、ある種の理想化を行うことで、現実を調べる方法だとする。そして、モデリングとは、モデルの構造や分析を通じて、現実世界を「間接的」に研究する方法であるが故、現実世界の完全な表現を目指しているわけではないとする。

その上で、モデリングを3つに類型化する。

まず、「具象モデル」で、ミニチュア模型のような物理的特性によって、現実世界の現象を再現することを目的とする。風洞などが典型的だ。次に「数理モデル」で、現象を数式の形に表現したものになる。最後は「数値計算モデル」と呼ばれ、現実の振る舞いを手続き化し、コンピュータ上の数値計算としてシミュレートする。

そして、モデルは2つの部分から成立するという。

一つはモデルの「構造」で、それぞれのモデルは物理的・数学的な構造から構成されている。そしてもう一つは「解釈」で、モデルの制作者が現実のどの部分を理想化して表そうとしているかによって変わってくる。

このような整理を経て、「”良い”モデルとは何か」「特徴の重みづけはどのようになされるのか」といった分析を行い、「”似ている”とはどういうことか?」という哲学的な領域まで踏み込んでゆく。

モデル=フィクション説

なかでも面白かったのは、「モデル=フィクション」だとするフィクション説。モデルは理想化された現実だから、フィクション的なシナリオを記述するという考え方である。

フィクション説によると、わたしたちは、物語を読んだり映画を観たりするのと似たやり方でモデルに関わっている。フィクションではその世界の全てが書かれているわけではなく、物語の進行や演出上、特徴的なものに絞られる。それ以外の特性は、つじつまの合うよう補う必要がある。

同様に、モデリングされた世界では、死亡率やGDP、引力やクーロン力といった特徴的な数値に絞られ、それらを通じて理想化された現実を理解することになる(他の特性はつじつまの合うよう補正される)。

このフィクション説を唱えている一人に、『タコの心身問題』のピーター・ゴドフリー・スミスがいるという。[懐かしい名前]に思わず微笑むが、はワイスバーグは反対の立場をとる。

シンプルな数理モデルならフィクション説も通るかもしれないが、現実的なものからかけ離れた数学的モデリングだとそうは行かないという。p.99より引用する。

たとえば、化学結合についての、近似的な量子力学モデルを調べているとしよう。こうしたモデルは、分子システムに作用する力を考慮し、力すべてに近似的な説明を与えることによって作られる。結果として得られるモデルは、ポテンシャルエネルギー面を通る経路の集合という形をとる。
空間そのものは高次元である(3N-5次元モデル・Nは分子内の原子の数)。この空間を通る経路は、考えることも想像することもできない。それらは、ポテンシャルエネルギーと分子座標系の座標との間に相関があるということ以外は、物質的分子の持つ具体的特性に似たところはほとんどない。

要するに、あまりに抽象的すぎて、端的に想像不可能なのだ。

死亡率や引力といった具体的で経験と結びつけやすいモデルだからといって、モデルと経験を結びつけてもいいわけではない。わたしが陥っていた、惑星と電子の同一視は、この結びつけを自分で強化してしまっていたからなのだろう。

モデル=理論を説明するための方法

理論がモデルで説明されるとき、経験と直接結びつけられて解釈されるのではなく、理論を記述できるモデルによって解釈されることになる。理論が厳密に真だと言えるのは、あくまでモデルの中での話だけなのだ。

これは、かなり難しい。惑星と電子に限らず、わたしが何度もやってしまう誤ちだ。

ある理論を説明するとき、分かりやすく特徴的な側面を抜き出したモデルが用いられることが多い。ところが、わたしは、そのモデルを理解しただけでその理論を「分かった」気になる。そして、そうしたモデルの集積=世界だと判断してしまうのだ。

モデルとアナロジーの違い

これは、アナロジーとモデルを混同させるときにも生じる。

モデルは、現実世界を間接的に分析する方法である一方、分析から導かれる理論を説明し、理解してもらうための方法としても使われる。これは、例えなどの類推を経て説明されるため、アナロジーと分かちがたく結びついている(ex.光は「粒のようなもの」「波のようなもの」)。

だが、本書で扱われる「モデル」の目的が、現実を調べるための抽象化である以上、「理解や説明のため」のアナロジーと重ねてしまうと、意味が拡散してしまう。あくまでも、「具象モデル」「数理モデル」「数値計算モデル」といった、調査のための方法に落とし込めるものにしたい。

現実を、「そのまま」理解することは、人間である限り不可能である。その結果、モデルやアナロジーを通じて理解する他ない。だが、「現実とどれほど似ているか」について厳密に調べようとするならば、本書のようにモデリングの本質まで掘り下げる必要がある。

モデルとは何か、シミュレーションの哲学とは何かについて考える一冊。

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「倫理的に正しい金儲け」が資本主義を最強にする『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

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プロテスタンティズムが資本主義を生みだした? さらっと流すと、そう読めてしまう。

もちろん、マックス・ヴェーバーは「プロテスタンティズムが資本主義を生んだ」と言ってない。むしろ『プロ倫』では、そうした安易な一般化はダメと批判する。

ところが、そうした誘惑に駆られるのよ。はっきりした統計データが得られると、そこに「ストーリー」を捏造して説明したくなる誘惑は、抗いがたい。

ヴェーバーが魅せられた誘惑はこれ。弟子の書いた本を読んでいて、あることに気づいた。信じている宗派と、経済的な裕福さに相関があるのだ。

信仰は財産を生む?

人を金持ちにする宗教があるのか、金持ちが信じたがる宗教があるのかは分からない。だが、プロテスタントとカソリック教徒を、収益税を課税する対象1000人当たりで比較すると、こうなる。(p.18 [注6]よりグラフにした)

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この着眼を出発点として、プロテスタントと経済合理性との関係を掘り下げ、近代資本主義への影響を問うたのが本書になる。

本書を面白くかつ難解にしているのは、「ストーリー」の捏造を戒める書きっぷり。

ヴェーバーにはずいぶん論敵がいたようで、膨大な注釈のあちこちで反論する。この丁々発止が面白いが、論難されないよう、言い回しを駆使して捏造を回避する。

おかげで何を言っているのか分からなくなったり、真逆の主張が混ざっているように見えて迷いがちだ。

倫理的に正しい金儲け

だが、タイトルの「資本主義の精神」とは何かを追いかけていくと、「正当な利潤を合理的に、職業として追い求める心構え」だということが見えてくる。ベンジャミン・フランクリンの例を挙げながら、この心構えこそが、資本主義的な企業を推進する原動力として働いたというのである。

では、金を稼ぐことを最高善という倫理は、どのような背景をもとに生まれたのか?

それは、宗教改革によって、キリスト教の合理的な禁欲と生活方法が、修道院から世俗の労働生活のうちに持ち出されたという。

例えば、信仰日記をつけるという習慣がある。自分の犯した罪とさらされた誘惑、恩寵による進歩を日々記録する習慣だ。

これらは表形式で記入され、あたかも功罪の勘定がバランスシートのように扱われる。ヴェーバーはこれを、「生活の聖化は、事業経営にも似た性格をおびるようになりえた」と結論づける。

そして、宗教を土台とする倫理は、信仰によって生み出された生活態度を規定してゆく。労働を義務とみなし、生産性の向上に勤しみ、信用という価値を蓄積する態度は、近代資本主義の原動力となったというのである。

ヴェーバー v.s. マルクス

『プロ倫』が面白いのは、『資本論』に真っ向勝負を挑んでいるところだ。ヴェーバーは、マルクスの唯物史観の真逆をやろうとしている。

つまりこうだ。

社会を上部構造(政治や法律、宗教や芸術)と下部構造(所有や分配といった経済構造)に分けた場合、下部構造が上部構造を規定すると主張したのがマルクスで、それに異を唱えたのが『プロ倫』になる

マルクスの唯物史観が「社会的・経済的存在が、その人の意識を規定する」とするならば、ヴェーバーは「プロテスタンティズムによって作られた倫理が近代資本主義を進めた」と、いうならば唯心史観を突きつけているのだ。

『プロ倫』は正しかったのか?

ただ、ここまで言い切ってしまうと先走りすぎることになる。最初の着眼点から話を膨らませすぎやしないか?

ヴェーバー本人も分かっていたようで、例えば先のグラフに「ユダヤ教」を入れるとこうなる。

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ここ、「話が違うじゃねぇか」と声出して笑った。

近代資本主義に対する影響として、「プロテスタント v.s. カソリック」よりも、「キリスト教 v.s. ユダヤ教」で比較した方が明白で面白いんじゃないかとツッコミ入れたくなる。ユダヤ教は(文字通りの)生存バイアスを考慮する必要があるだろうが、一考の余地があるだろう。

だがヴェーバーはめげない。ユダヤ教は冒険商人的な資本主義の側に立っており、その倫理(富の追求、勤勉さ、信用、節約)をピューリタニズムは抜き取ったのだという。

結局のところ、ヴェーバーは正しかったのだろうか?

その答え合わせは、ハーバード大学のロバート・バローとラシェル・マクレアリーがしている。1960~90年代の国ごとの経済成長にもとづき、成長率に対して宗教がどの程度影響を与えるかを調査している。

結論からいうと、プロテスタントよりもカソリックの割合が高い国ほど、経済成長していることが明らかになっている。

さらに面白いことに、どの宗派にも共通しているのが、いわゆる「地獄」を信じる人の比率が高い国ほど、経済成長率が高いという結果が出ている。地獄を信じるからこそ、現世で徳を積むべく経済活動に勤しむのだろうか。「ストーリー」を捏造したくなる誘惑に駆られる。

めっちゃ読みにくい岩波文庫と異なり、新訳ではするりと読める。ヴェーバーが描いた「ストーリー」、ご自身の目で検証あれ。

 

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【追記あり】「デオコおじさん」の記事等を面白くさせた「みんなで推敲」を生で伝えます(8/30渋谷・参加無料)

Omosiro

「おじさんも女の子の匂いに」想定外のヒットとなった「デオコ」。売上げ4倍、株価爆上げ、今年のコミケは良い匂い(予想)の火付け役がこれ→[リアル君の名は。おっさんが女の子の匂いを買ってきて身につけたら、たまらない背徳感を味わえた]

だけどこの記事、わたし一人で書いたわけじゃないのだ。

もちろん、最初の原稿を書いたのはわたしだけど、それをみんなで寄ってたかって推敲して、あの記事に仕立てたのだ(ちなみに、初稿のタイトルは「673円で女の子の匂いを再現する」だった)。

この「みんな」というのは、ふろむださんの[面白文章力クラブ]なのだ。面白くて刺さる文章を書きたい人が集まって、互いに添削・推敲しあうコミュニティサイトで、自分の文章が面白くなっていくプロセスを目の当たりにできる。

このプロセス、門外不出なのだが、許可をもらったのでナマで公開する。わたしだけでなく、他の方も発表してくれるので、オフ会の形で開催します。

もちろん誰でも無料で参加できるので、ぜひ「文章を面白くするプロセス」を盗んでいってほしい。

オフ会の目的 面白文章力クラブで文章がどのように面白くなったかを紹介する
日時・場所

8/30(金)19:00~20:30(受付18:45~)
株式会社HENNGE (グラスシティ渋谷10F[地図]

参加する人 誰でもOK(クラブの中の人、外の人関係なく参加できます)
参加費 無料
コンテンツ
(発表者/@twitter)

「デオコ」の記事はこんな風に面白くなった
(Dain/@Dain_sugohon)

驚くほど文章が変わる、面白文章力クラブという仕組み
(内原さん/@kanshinko

フィードバックの価値のスゴさについて
(永田さん@DataVizLabsPath)

公開・非公開

公開(twitter・ブログ記事にします)
写真は撮影しますが、顔は写り込まないよう配慮します

申込方法 [こちらからどうぞ] キャパMAXとなりましたので締め切りました

 

8/3 更新・追記:「交流会という名の飲み会」について

オフ会終了後、「交流会という名の飲み会」も開催します。上記「申込方法」にて承ります。こちらは有償・先着順ですので、お早めにどうぞ。 締め切りました。先着順で10名様の次の方といたします。申し込んだのにここに入っていない方は、キャンセル待ちとさせてください(ごめんなさい!! キャンセルが出た場合、優先的に受け付けます!)

  1. @DataVizLabsPath
  2. さとうよすけ
  3. 村西重厚
  4. クラミツキヨシ
  5. ntaiji
  6. 忍者(@Ni_nja)
  7. @jayjaytakahashi
  8. あんどう/@NoriJr
  9. またんご
  10. Katson

 

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まとめ「中高生の進路選びに役立つ話」

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学校の先生は、大学と偏差値の話しかしない。
そのくせ、個性だ適職だと言ってくる。

だいたい、未来がどうなるかも分からないのに、
いま決められるわけがない!

どの時代の若者も、進路について悩んできた。

そんな悩める中高生のために、進路と生き方について、[スゴ本オフ]で、人生の先輩と話す会を企画した。様々なキャリアの人をお招きし、やって良かったこと、こうすれば良かったと後悔していること、あの頃に戻れるなら、どんな選択をするか等、いろいろ話してもらったので、ここにまとめる。

人を探せ・英語をやれ

最初はわたし。

やって良かったことは、「人」で進路を選んだこと。高校時代にハマった人に師事したく大学を選んだのだが、正解だった。この姿勢はいまにも通じる。興味のある方向の先にいる「人」を探し、私淑・親炙する(この方法は読書猿『アイデア大全』の「ルビッチならどうする?」に詳しい)。

しかし、「人」が分からない場合はどうする? 図書館のレファレンスサービスに質問を投げる。メールだけで完結し、なんといっても無料だ([東京都立図書館のレファレンス]が最強なり)。そして見つけたら、SNSでつながってしまおう。

一方、やっておけば良かったのが「英語」。受験や進路や転職など、ほぼ10年単位のインターバルで英語の壁が立ちはだかる。ほとんどが迂回したり諦めたりしてきており、今でも勉強中。

そこで、やすゆきさんと藤原さんからアドバイスが! お二方とも仕事道具として英語を使う方で、ポイントは「話す」にあるという。読み書きはある程度できても、しゃべれないと使えないから。そして、「話す」には実践が必要だ。

やすゆきさんがやってきた方法は、「通勤中に目に入る風景を心の中で英語で説明する」。できれば、同じことを3種類の言い方に置き換える。こうすることで、浮かんだことをパッと言葉にできるようになったという。

藤原さんのアドバイスは、「誉める」。とにかく誉める。髪型、ネクタイ、しゃべり方など、どんな些細な点でも見つけて、誉める。あるときなんて、履いてる靴下のセンスを誉めたという。誉め言葉からボキャブラリーを増やすのは面白いかも。

失敗する場としての学生時代

次は、編集者の傳さん。

まず、勉強について。遊ぶ時間を自分で決め、勉強の範囲を自分で決めることで、勉強の主導権を自分に取り戻す。ハードルを高く上げて、それで自分を追い詰めるやり方が有効だ。

そして、苦手なことをたくさんやっておく。「失敗する場」として学生時代は適している。社会に出てから失敗するよりも、学生時代に沢山失敗しておく。小さなリスクを負ってみる。例えば、自分の知らない食べ物屋に行って、馴染みのないものを注文してみるといったものからでもいい。学生時代は率先して失敗していきたい。

重要なのは、得られた経験からのフィードバックをたくさん・はやく回すこと。その意味で、もっと勉強しておけばよかった。社会に出ると、仕事に追われて、勉強する時間がなくなる。

お薦めは、『マンガの創り方』。なりたい職業に就いた後、そこに居続けるのは何十年とある。むしろ、その期間のほうがずっと長い。

だから、「なりたい職業についた「後」から逆算して、「今」すべきことを調べる。その職業に居続けるためにはで「技術」が必要で、この本には、マンガ家という職業に居続ける「技術」が書いてある(本書は、マンガ家に限らず、クリエイター職に通じる)。

いま見えている世界はとても狭い

次は、ほりもとさん。

紆余曲折を経たけれど、何がどこで役立つかは分からない。

というのも、人生の転機で「ワーキングホリデー」を選んだのは、そもそもそういう選択肢がある、ということを知っていたから。なぜ知っていたかというと、学生時代にそちらに向かう大人たちを見ていたから。そのときは、「後で役に立つ」なんて思いもよらなかったが、事実として今の自分を作り上げいる。

だから、学生さんに言いたいには、「いま見えている世界はとても狭い」ということ。これを前提として、自分と接点のない大人とたくさん接点を持つと、世界がひろがる。オープンキャンパスに行く、スゴ本オフに行くことで、そこにいる大人と話すといい。

全然ちがう大人の話を聞くことで、選択肢を広げるチャンスが得られる(そもそも、そういう選択肢があることを知ることができる)。興味をもつものが少なかろうと無かろうと、物事は繋がっていく。バイトから、部活から、先輩から、友人から、さまざまなチャンネルがある。意外なところから「やりたいなぁ」「知りたいなあ」が接点となる。

まず、フックになるものからスタートしてみる。

お薦めは、『仕事はもっと楽しくできる』。会社は、辞めるか、染まるか、変えるか。世の中には、凄い頑張っている。自分の環境・仕事をもっとよくしていこうと、頑張っている大人がいることが分かる一冊。

勉強は報われる

そして、曽我さん、東京大学→アイオワ州立大学→養豚業。

どこに行っても「なぜ養豚を?」「なぜここに?」と問われる異邦人だったけれど、人生のライフチャートのなかで、カッコいい方を選んできた結果が現在になる。

特にアイオワ州立大学の頃は、グリーンカード&高額サラリーのオファーが来たが、日本の養豚に貢献するほうがカッコいいという直感で戻ってきた。

勉強について。自分は勉強が好きだったし、今でも好き。あたかも「勉強ができる」ことがカッコ悪いかのような風潮があるが、『サマーウォーズ』を見て勇気をもらった(よろしくお願いしまあああぁぁす!!)。

『勉強の哲学 来るべきバカのために』によると、勉強をすると(一時的に)キモチ悪くなる。勉強することとは、違う視点・世界を手に入れること。その結果、いまいる環境との馴染みが悪くなり(ノリが悪くなり)、キモチが悪くなる。

できなくてもカッコ悪くてもいいから、勉強を続けていってほしい。ノリが悪くなっても、悪くなっても、勉強をしたほうがいい。知らない世界が一挙に広がる。今の勉強によって、未来は報われるかどうかはわからない。だが、過去の自分は確実に報われる

コミュニケーションをあきらめない

医療系コンサルタントの榊原さん。

患者さんをはじめ、利用者を助けるの医療系コンサルの仕事であり、人を救ってはいるものの、中身は年功序列の世界であり、内容は他の業界と変わらない。そうした状況を人事システムで変えていこうとしている。

そこで重要なのは、「コミュニケーションをあきらめない」こと。

コミュニケーションを行い、自分が思うような反応が返ってこなかったとしても、あきらめない。想像した行動をしなかったとしても、二度三度とやってみる。その時は自分のやり方を変えてみる。上手くいったら、「上手くいくやり方」を溜めていく。

お薦めとして、『あなたはなぜチェックリストを使わないのか』。やったかどうか、できているかどうかを「チェックリスト」という客観的な判断基準を設けることで確かにする。自分自身の目でいたとしても、認識しているものと、認識していないものがある。人の認知の限界を前提とし、自分の見えている範囲だけで世界を完結させないための道具がチェックリストになる。

選んだものを正解にする

広告会社のスナガさん。

共通の正解はない。あなたは一人であり、選んだものを正解にしていくしかない(DO THE RIGHT THING)。できない理由、やらない理由はいくらでも作れるが、自分が人生の主人公であることから目をそらさずに、ひとりで生きていくしかない。

糸井重里のゲーム『MOTHER』 や『萬流コピー塾』に感銘を受け、「広告は私達に微笑みかける死体」というベネトンの広告に影響されて広告業界へ。

お薦めの映画は、人類と人生の予行演習としてのB級映画『WALL・E』『IDIOCRACY』(26世紀青年)。(このまま行った先の)未来の人類は、食っちゃ寝のカウチポテトが行き着くところまで行くのかも。地球の歴史ではまだ一瞬の人類が絶滅しないで生きるためのヒントがあるのでは。

やりたいことをやれ

Webメディア編集者のズバピタさん、この企画の発起人でもある。

人生なにが起こるかわからない。だから、やりたいことをやれ! 一瞬先は闇だから、一番やりたいことをやろう。損得環境、時給いくらとかじゃなく、今何が面白いかという軸で判断する。

メインフレームのプログラミング(時代はPCへ)、雑誌の編集(紙からWebへ)、グルメサイト、ネットなど、栄枯盛衰を追いかけるように様々なことをやってきたけれど、意外なところから意外な仕事につながる。「まさかコミケが仕事になるとは!」未来は未確定なのだ。

だから、お薦めとしては、親や教師や上司の言うことを信じすぎないようにする本。直感を信じ、常識にとらわれないための本として『ファクトフルネス』を推す。

「恋」をしてほしい

UUUMでユーチューバーのマネージャーをやっているのSさん。

学生さんは「恋」をしてほしい。ドキドキするもの、笑えるもの、ココロを動かすもの、幸せになるもの。恋をする、好きになるということは、最高のエンタメ。

目標について。まず「ゴール」を設定しよう。高校生の今から「ゴール」までが進路。そのルートは一本でも一様でもないが、「ゴール」を決めない限り、進路を決めようがない。だから最初に「ゴール」を決める。

「ゴール」は職業ではない。「警察官になる」はゴールではない。「警察官になって〇〇をしたい」がゴールになる。(〇〇には、人を助ける、世の中をよくする等)。「警察官になる」はゴールではなく手段。

この「〇〇をしたい」を見つけることが、夢を見つけること。「〇〇という人間になりたい」こそが夢になる。

夢の見つけ方。「原体験」を探す。原体験は、自分の過去・現在、何にドキドキしているか(何に恋をしているか)にある。自分が好きなもの、熱くなれる原体験に、夢が埋まっている

誰かを好きになって、一歩を踏み出すのは、社会人に必要なスキル。すなわち「相手の気持ちを思いやる」スキル。これが最重要かつ最強。その人の立場に立って、それを望むとおりに行動するスキル。これを学ぶため『LOVE理論』をお薦めする。恋ではなく「愛」なら『北斗の拳』の17巻ラオウまで。兄弟愛、師弟愛、家族愛、友愛等、すべての愛がある。

自分の人生の主人公は自分

作家のRootportさん。

人生は偶然だ。自分は高校生よりも少し長生きしているだけで、人類600万年史から見たら誤差にすぎない。大人は過去の経験からアドバイスをしたがるが、大人の言う法則性は疑わしい。

たとえば七面鳥の話。毎朝決まった時間に餌が出てくるので、「この時間になると必ず餌がもらえる」という経験則が生まれるが、それはクリスマスイブの朝までしか通用しない。

あるいはハリポタの作者J・K・ローリング。シングルマザーとして生活保護を受けながら、コーヒーショップであの小説を書いたのだ。この挑戦は、大人の過去の経験からは導き出せない。

「ブラック・スワン」という言葉は、この世にありえないものを指すイデオムだったが、オーストラリアで実際に見つかってしまう。そして、同名の本がリーマンショックを予想していたかのごとくベストセラーになる。

他にも、911や311、自分自身が作家になったことも含めて、思いもよらないことが起きる。だから、誰かのマネをしたりアドバイスを間に受けてしまい、他人の人生の脇役にならないように……あなたの人生の主人公はあなた自身なのだから。

人生は偶然とはいえ、やり方はある。良い偶然が起こりやすい状況を増やし、悪い偶然を起こりにくくし、試行回数を増やすことで、より良い人生を手に入れることができる。

生き延びてさえいれば、あとはなんとでもなる

ラストは飛び入り参加の藤原さん。

最も伝えたいメッセージは、「生き延びてさえいれば、あとはなんとでもなる」

大学を卒業したけど、仕事がなかった。サウジアラビアの石油関係の仕事をしたあと、ロンドンに留学。アルバイトで電通に入ったけど、英文タイプの学校に通ってそこで、モトローラに紹介されて入社、紆余曲折を経てセミナーサービスの会社を起業し、現在は江戸のくずし字の講座をやっている。

紹介したいのは、『戦時中の暮らしの記録』。これ読むと進路で悩んだりするのが馬鹿らしくなる。生き延びていければ、あとはなんとでもなる。

紹介された本・映画

こんな感じで延々3時間、中学生・高校生に向かって大人が語った。ここではプレゼンの一部しかご紹介できなかったけれど、お薦めされた本の一覧は以下の通り。

『アイデア大全』読書猿(フォレスト出版)
『問題解決大全』読書猿(フォレスト出版)
『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』ふろむだ(ダイヤモンド社)
『怒らないこと』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書)
『せんせいのお人形』藤のよう(comico)
『河森正治 ビジョンクリエイターの視点』河森正治(キネマ旬報社)
『料理人と仕事』木沢武男(モーリスカンパニー)
『マンガの創り方』山本おさむ(双葉社)
『編集者という病』見城徹(集英社)
『シャンタラム』グレゴリー・デイヴィッド ロバーツ(新潮文庫)
『仕事ごっこ』沢渡あまね(技術評論社)
『マイクロソフトでは出会えなかった天職』ジョン・ウッド(ダイヤモンド社)
『仕事は楽しいかね?』デイル・ドーテン(きこ書房)
『仕事はもっと楽しくできる』ONEJAPAM(プレジデント社)
『「ない仕事」の作り方』みうらじゅん(文春文庫)
『勉強の哲学 来るべきバカのために』千葉雅也(文芸春秋)
『14歳からのケンチク学』五十嵐太郎(彰国社)
『代表的日本人』内村鑑三(岩波文庫青)
『戦闘妖精・雪風』『グッドラック』神林長平(早川署ぼ)
『アナタはなぜチェックリストを使わないのか?』アトゥール・ガワンデ(晋遊舎)
『広告は私たちに微笑みかける死体』オリビエーロ トスカーニ(紀伊國屋書店)
『素晴らしき哉、人生!』フランク・キャプラ監督
『WALL・E』アンドリュー・スタントン監督
『IDIOCRACY』(26世紀青年)マイク・ジャッジ監督
『ファクトフルネス』ハンス・ロスリング(日経BP)
『ブラック・スワン』ナシーム・ニコラス・タレブ(ダイヤモンド社)
『ファスト&スロー』ダニエル・カーネマン(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
『ハッカーと画家』ポール グレアム(オーム社)
『LOVE理論』水野敬也(文響社)
『君たちはどう生きるか』吉野源三郎(岩波文庫)
『北斗の拳』原哲夫(集英社)
『人体600万年史』ダニエル・E・リーバーマン(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
『心の仕組み』スティーブン・ピンカー(ちくま学芸文庫)

スゴ本オフ「初」の、ノンアルコール・ガチのプレゼンだった。いつもはビール片手にまったり熱く語っているので、なかなか新鮮な体験だった。ご参加いただいた方、プレゼンしていただいた方、ありがとうございました! またやりましょう~

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ネタバレについて哲学者がガチバトルする「ネタバレのデザイン」

ネタバレは悪か?

Ntabare

ネタバレは悪という人は、作品から得られる楽しみが減ってしまうからだという。作品を堪能する前に、結末が分かったら、面白くないでしょ? 2018年に南極で起きた殺人未遂の動機は、読んでる本のネタバレをされたからだという[参考]

一方、ネタバレ許容派は、「作品の理解が進む」とか「ハラハラせず安心して楽しめる」という。「野外コンサートでいつ花火が上がるか」知らずにトイレに行っていたという具体的な例が出てくる。

このように、ネタバレをめぐる様々な主張は、各人の芸術観や価値観により変わってくることが分かる。

こうした背景を受け、日本を代表する哲学者が、ネタバレについてロジックで殴りあう。リング外の観客も、のんびり見てられない。マイクを放られて、「言いたいことあるでしょ?」と煽られる。恐怖の前置き「素人質問で恐縮ですが」から始まる素人離れした知識に震える。

前回の議論は[「ネタバレの美学」が最高に面白い]で紹介したが、詳細なのは『フィルカル vol4.2』をどうぞ。

今回は、代官山のおしゃれな蔦屋書店で、「ネタバレのデザイン」と称し、ガチ度を上げてこの3名が闘った。

森功次さん
美学・芸術哲学の第一人者。ネタバレ許せん派。映画館の予告編も許せないので、トレーラーが流れている間は下を向いているとのこと(想像すると微笑ましい)。

松本大輝さん
倫理・分析哲学のプロ。ネタバレ許容派というより、ネタバレ不寛容が許せん派。学会発表レベルの緻密なハンズアウトを作ってきて無事タイムオーバー。

仲山ひふみさん
精鋭批評家。「デュオニソス的な秘密のアポロン的パッケージング」など、難しい言葉が頻出し、よく分からなかったが、分かる所は凄く面白い。

ネタバレは倫理的に悪

まず森功次さん。「ネタバレは倫理的に悪」という立場から、ネタバレ許容派を攻撃してくる。きちんと用語を定義し、前提を整理する。というのも、ネタバレ議論が発散しがちとなった前回の反省を踏まえてである。

「ネタバレ」という言葉には様々な意味が込められている。対象となる「ネタバレ情報」、それを暴露させる「ネタバラシ行為」、そして対象への接近が意図か事故かという「ネタバレ接触」と分ける。

その上で、作品を鑑賞する前に、ネタバレ情報に対し、自分から接触しに行くことは、倫理的に悪いと主張する。(1) 作者への敬意(リスペクト)を欠いており、(2) アートワールドを腐敗させるという(結果、芸術文化として重視された価値観を狂わせることになる)。

さらに、ネタバレ許容派の「豊かな作品の理解」なんて、要するに「効率的な鑑賞」の方便にすぎぬと斬る。2回目以降に批評を参考にして何回も見ればいいのであって、初めて作品に触れたときだけに味わえる「清新な感動」を捨てるのはおかしいというのだ。

非本質ネタバレならOK

一方、ネタバレ許容派の松本大輝さんは、ロジックの隙を衝く。

まず、ネタバレ接触を2種類に分ける。物語の結末など「それを味わわないと作品を鑑賞したとはいえない」本質ネタバレ接触と、それ以外の、演出上の工夫やオマージュといった非本質ネタバレ接触の2つである。

そして、本質ネタバレ接触については「ネタバレ=悪」を受け入れた上で、非本質ネタバレから、ロジックの切り崩しにかかる。

「豊かな作品の理解」のため、2回目以降は批評などネタバレOKにしているが、2回目以降だって、「発見の楽しみ」はあるのではないかと問う。そして、この楽しみがある限り、ネタバレに接触するのは悪という理屈が成り立ち、主張に一貫性がないというのだ。

さらに、「アートワールドを腐敗させる」というまさにそのアートワールドって、理想化しすぎじゃね? とツッコむ。現実として、その作品の全ての芸術的工夫を見出せる鑑賞者なんて、存在しない。何回も見ればいいというが、実際のところ、そんなに何回も見れるものじゃない。

むしろ、各人が発見した作品の「見どころ」を持ち寄って、みんなで共有するという分業こそが、現実のアートワールドじゃないかというのだ。

独力で作品を味わいつくすことは難しい

この指摘は非常に面白い。作品を100%「味わう」には、現実的には一人では不可能だから、分担する必要があるという視点だ。

たとえば、膨大なシナリオ分岐を持つゲーム(fallout等)だと、全ての分岐を一人でプレイすることは、現実的に無理だ。代わりに、いわゆる攻略サイトを見てルートを選ぶこともある。あるいは、初見殺しと呼ばれるゲーム(DARK SOULS等)もそうだ。ストーリーは一本ながら、独力クリアは至難の業だで、攻略法を「みんなで」持ち寄ることが前提のゲームだろう。

これらは、「見どころ」を共有することが前提の作品といっていいだろうし、ここでの非本質ネタバレが許容されないと、少なくともわたしは、一生かけてもクリアできない。

作品の全情報が得られるボタンを押すか?

これに対し、森さんは、「ネタバレ情報を知りたくて作品に触れるのではない」と反論する。作品から「情報を得たい」がために鑑賞するのではなく、ただその作品を「味わいたい」というのである。

要するに、おまえら「情報を得る」ことに重きを置きすぎだ、というツッコミだ。

その思考実験として、「このボタンを押すと、作品の全ての情報が得られるけれど、あなたは押しますか?」と問うてくる。その作品からの情報を効率的に得ることが目的ならば、ボタンを押すだろう。だが、「作品を味わうこと」が目的であれば、ボタンを押したら損なわれるものがあるだろう。

この思考実験は面白い。

「味わう」対象を料理にすると、もっと象徴的な問いになる。「このサプリを飲むと、料理から得られる全ての栄養が得られるけれど、あなたは飲みますか?」となるから。食べるという行為が、栄養を摂るだけでなく、料理を「味わう」ことも含まれるのであれば、サプリにより損なわれるものがあるだろう。

そこから、「味わう」の中に、見た目による楽しみ、(食べる前の)ただよってくる匂い、スプーンや箸、あるいは手づかみで得られる変化や感覚、咀嚼による舌ざわりの触感や、そのとき口中を支配する香りも含めると、栄養という情報と、それを「味わう」の間にあるものが見えてくるかもしれぬ。

作品から得られる「情報」と「経験」は異なる

森反論に対し、松本&仲山タッグで共闘する。

作品から情報を得ることと、作品を味わうことは必ずしも等価ではないものの、両者は密接な関連があると指摘する。すなわち、適切なタイミングでネタバレ接触(おそらく非本質的ネタバレ接触)しないと、真の鑑賞経験が得られないという。

さらに、そもそもネタバレ接触(こっちは本質的ネタバレ接触)で壊れるようなものなら、芸術的価値として下だという(その例として『シックス・センス』を持ち出して、あれ芸術としてどうなの? というツッコミに会場が沸く)。

そこへ森再反論が畳みかける。「芸術的価値」と「鑑賞経験」は違うと刺して来る。その「真の鑑賞経験」とやらはなんぞやと。「俺の」鑑賞経験が損なわれるのが問題だというのである。返す刀で、展覧会をハシゴしている批評家は、本当に「味わって」いるのかと斬る。

情報の非対称性と「ネタ」の変容

そこへ、場外からキュレーターの話が飛び込んでくる。

美術展に集まる絵は、ただ漫然と選ばれ・並べられているわけではない。テーマに沿って集められ、聖書や神話の基礎知識を持ったキュレーターが、なんらかの「ストーリー」を背景に並べているというのだ。

一方、これを鑑賞する側は、アトリビュート(描かれた人物を象徴するモノ)を読み解きながら、その「ストーリー」を追従する楽しみがあるという。ただし、鑑賞側は全員が豊富な知識を持っているとは言えないため、どうしても解説(ネタバレ接触)が必要となる。

つまり、基礎知識を持っている・持っていないといった、情報の非対称性により、ネタバレの「ネタ」は変容していくことになる。同じ作品でも、子ども向け・大人向け・時代のコンテクストによって、芸術的工夫(=ネタ)は変化してゆく。

こんな感じで、熱く濃く面白かったけれど、ネタバレがテーマであるが故なのか、さまざまな作品のネタバレをカマされる。『美味しんぼ』から始まって、『シックス・センス』『ユージュアル・サスペクツ』『カメラを止めるな!』『オリエント急行殺人事件』など、楽しみにしている人がいたら……とヒヤヒヤする。

これ、前回のような[sli.do]も流せれば面白かったかも。観客も巻き込んでニコニコ動画のようにメッセージをスクリーンに流し、そこからツッコミをもらう仕掛けだ(森さんが試してたようだが、これやるときは2スクリーン欲しいな……発表者スライド用とsli.do用で)。

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高校生の進路選びに役立つ話

将来に向けて、いま何をするのか? 

Koukouseino

わき目もふらずガリ勉してればいいのか。
資格なんかも取らなきゃダメなのか。

学校の先生は、大学と偏差値の話しかしない。
そのくせ、個性だ適職だと言ってくる。

だいたい、未来がどうなるかも分からないのに、
いま決められるわけがない!

どの時代の若者も、進路について悩んできた。

そんな悩める高校生のために、進路と生き方について、人生の先輩と話す会を企画した。様々なキャリアの人をお招きし、やって良かったこと、こうすれば良かったと後悔していること、いま高校生に戻れるなら、どんな選択をするか等、いろいろ話してもらう。他では絶対に聞くことができない話ばかりで、進路を考える上で、きっと役に立つはずだ。

7/13(土)13:00~16:00 都内某所でやります。高校生を中心とした学生さんだけでなく、その親御さんにとっても、良いヒントが得られる会にします。

詳細と申込はこちら。
[高校生の進路選びに役立つ話]

 

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死 ね な い 老 人

世界一の長寿国であるこの国は、人生100年の時代ともいわれている。

リタイアして、悠々自適の毎日を送る人がいる。趣味やレジャーや学び直しなど、第2の人生を謳歌する人もいる。(未来はともかく)今の高齢者は、高度な医療・福祉サービスを低負担で享受しており、年金をやりくりすることで、暮らしは成り立っている。

その一方で、自分の長寿を喜べない高齢者が増えているという。家族や周囲の人たちに「死にたい」と訴えながら、壁の向こう側で横たわり、生きることを強制される高齢者のことである。『死ねない老人』によると、望まない延命措置を受け、苦しみの中で人生を終える人々は、かなりの数にのぼるらしい。

著者は、高齢者医療に25年携わってきた医師だ。現場の生々しい声を聞いていると、いたたまれなくなる。

生きているのが申しわけない

本書によると、「死ねない老人」は2種類に分かれる。

ひとつめは、生きがいを見失い、家族に負担をかけたくないため、死にたい(でも死ねない)老人である。

死ぬ直前までピンピンしてて、突然コロリと逝く「ピンピンコロリ」を理想とする人がいる。だが、医療の進歩により、なかなかコロリ逝かせてくれない。むしろ、病気の後遺症による苦痛や不安・不調を抱え、介護やリハビリを受けながら生きなければいけない時間の方が長くなる。

たとえば、脳梗塞の後遺症で麻痺が残り、家族の迷惑をかけることが嫌になり、「いっそのこと、あのとき死んだほうがよかった」「生きているのが申しわけない」という言葉が出てくる。内閣府[高齢者の地域社会への参加に関する意識調査]によると、生きがいと健康状態は関係があることが分かる。生きる希望を持てずに死を願う「死ねない老人」がこれになる。

意思に反して強制的に生かされる

もう一つは、本人は治療や延命を望んでいないにもかかわらず、周囲の意向によって「長生きさせられてしまう」老人だ。

もちろん、親に長生きしてほしいと願うのは自然な思いだ。だが、一方で、人生の終わりである「死」を認めたくない家族が、本人の望まない最期を強いていることも事実だという。こうした事例を見ていると、本人の意思や苦悶を無視して、ひたすら強制的に生かそうとする行為は、治療なのか虐待なのか分からなくなる。

もっとシビアな例として、パラサイト家族が登場する。本人は「充分に生きた」「楽に逝きたい」と思っていても、家族はその年金をあてにして生活しているため、死なれると困るというのだ。この場合、本人の意思に関係なく、家族の意向が優先されるという。

長生き地獄から逃れるために

人生100年の時代、長い長い、長い老後の末、幸せな長寿を全うすることは、かくも難しい。生き地獄というより長生き地獄である。この2つの「死ねない老人」に対し、本書ではそれぞれの処方箋を考察する。

まず、生きがいを見失った「死ねない老人」に対しては、「誰かの役に立つこと」がカギとなるという。

[全国社会福祉協議会]を紹介しながら、通学路の巡回・見守りや、清掃・美化活動、いじめ相談など、さまざまなボランティア活動を紹介する。「高齢者=ケアされるお荷物」という偏見を壊し、ケアする側として何ができるか? という視点で考えようと促す。

次に、意思に反して強制的に生かされる「死ねない老人」については、諸外国の事例を紹介する。

欧米の安楽死の制度やサービス、終末期の治療方針について意思表示するPOLSTの例を紹介する。ただし、日本の場合の先行きは不透明だ。2008年に、後期高齢者の終末期に関する制度が設けられたが、マスコミから「高齢者に早く死ねというのか」と非難を浴び、3か月で凍結している。

死の制度化は、充分な議論が必要だろう。POLSTが制度化されることで、いま起きていることの逆転現象が生じる可能性があるからだ。つまり、現在、意思に反して生を強制される老人がいるように、将来、意思に反して死を強制される老人がでてくるかもしれないからだ。

こうした問題がクリアされるまで、「死ねない老人」は増え続けるだろう。ネットやコンビニで目にする元気なお年寄りではなく、「老人に死ねというのか!」とデモ行進をする高齢者ではない。「死ねない老人」は、壁の向こうで静かに横たわっている。

「死ねない老人」について、わたしは、むしろ自分の問題として考えたい。問題は現状のままで、自分の順番が回ってきたら―――その可能性は極めて高いが―――[苦しまないと死ねない国で、上手に楽に死ぬために]を参考にするつもりだ。

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大人もハマる子どもの新書

知らない分野をサクッと知りたいとき、新書が便利だ。

ところが、新書の中には、かなり難解で、入門書としては厳しいのも、けっこうある。

その点、子ども向け新書は、特に分かりやすく解説されている。だから、それを大人が読めば、「サクッと読める」という新書本来のメリットを得られる。

池上彰さんがブレークする前、子ども向けニュース番組を担当していたが、これ見ていた大人もかなり多かった。わたしも見ていたが、ポイントを絞って平易な言葉で伝えてくれており、非常に分かりやすかったことを覚えている。

だから、「子ども向け新書を、大人にも紹介する」という千代田図書館の企画は、知らない分野を広げるのにピッタリだろう。

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もちろん、子ども向け新書を読んで「簡単すぎる」と感じる場合もある。その場合、巻末の文献案内から進むことができる。偏りを減らし、網羅性を目指した知の入り口として、子どもの新書を使うのだ。

千代田図書館の企画[おとなもハマる‼こどもの新書]が斬新なのは、テーマごとにキーとなる新書を決め、そこから派生する形で紹介しているところ。一つに興味が湧けば、そこから芋づる式に引き出せる仕掛け。子ども向けの入り口から、どんどん深みにハマっていける。キーとなる本は「★」で示す。

たとえば、テーマでたどる歴史の新書だ。世界史といっても、深さも広がりも莫大だから、どこから手を付けていいやら分からない。だから、興味のあるテーマで歴史を貫いた新書で掴んだら、そこから派生する関連本に手を伸ばす。

  • 『パスタでたどるイタリア史』(池上俊一、岩波ジュニア新書)★
  • 『麺の文化史』(石毛直道、講談社学術文庫)
  • 『ヨーロッパがわかる』(明石和康 、岩波ジュニア新書)

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あるいは、『10代に語る平成史』で、平成を振り返る。まさにその時代を生きた自分からでは、「平成」は近すぎて客観視が難しい。おそらく、興味がある分野や社会風俗ばかりに目が行き、昭和との接続といった歴史的な観点や、グローバルな視点は曇りがちだろう。

『10代に語る平成史』は、消費税の導入やバブル経済の終焉、冷戦構造の崩壊からテロとの戦い、自然災害など、様々な視点から「平成」を浮かび上がらせようとしている。これをキーにして、以下の本が紹介されている。

  • 『10代に語る平成史』(後藤謙次、岩波ジュニア新書)★
  • 『財政から読みとく日本社会』(井手英策、岩波ジュニア新書)
  • 『平成史講義』(吉見俊哉、ちくま新書)

さらに、『正しいパンツのたたみ方』関連。

「豊かに生きるとは何か?」というテーマを、家庭科から答えた一冊になる。暮らしを整えるだけにとどまらず、現代で他者とともに生きていく力を身につけることを目指している。

あらためて「豊かに生きるとは?」と問われると窮する。だが、テーマを分けて置き換え「家族、消費、労働、性愛のスキルを上げる方法」で考えると、より具体的に見えてくる。「子ども向け」を謳っているが、ヒントが得られるかもしれぬ。

  • 『正しいパンツのたたみ方』(南野忠晴、岩波ジュニア新書)★
  • 『社会を生きるための教科書』(川井龍介、岩波ジュニア新書)
  • 『正しい目玉焼きの作り方』(森下えみこ他、河出書房新社)

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他にも、『めんそーれ!化学 おばあと学んだ理科授業』から化学を、『ハッブル 宇宙を広げた男』から宇宙論、『クマゼミから温暖化を考える』から地球温暖化問題など、新書を通じて様々な学問分野への入り口が見える。

全てのリストは[PDFファイル]をどうぞ。千代田区図書館にて8月下旬まで展示してるので、ぜひ立ち寄ってみてほしい。既知からは新たな発見が、未知の分野からは面白そうな入り口が、必ず見つかるはず。

※写真は許可を得て撮影・掲載しています

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秘密の悩みは、バーチャル師匠に相談せよ

精神的にヤバいとき、どうするか? 自分ではどうしようもできず、かつ、誰にも相談できない悩みだったら、どうするか?

そんなとき、バーチャル師匠を召喚する。いわば仮想的な師匠である。

バーチャル師匠とは

あらかじめ「人生の師」を決めておき、困ったときに相談する。師から直接、教えを受けてなくてもいいし、生きている必要すらない。師を模範として慕い、学んでいればいい。それこそ、マスター・ヨーダを師としてもいい。私淑と呼ばれる方法で、『アイデア大全』(読書猿、フォレスト出版)から学んだ。

700年前の詩人ペトラルカも、私淑を実践した一人だ。
Peto

彼は詩人としての名声を博してはいたものの、うつ病に悩まされ、精神的危機に陥っていた。自己欺瞞による惨めさと、絶対に叶うことのない恋と、欲情が生み出したドロドロの愛憎関係に悩まされていた。

誰にも言えない悩みだから、脳内で相談する。彼にとっての、バーチャル師匠はアウグスティヌスだった。『告白』を読み込み、写本に書き込み、ついには脳内で擬人化できるまでに至る。

彼は、このバーチャル師匠向かって、赤裸々に心情を吐露する。アウグスティヌスは霊的な存在として立ち上がり、雄弁に弟子を叱る。『わが秘密』は、この師弟問答の対話体で成り立っている。

不幸だという嘆きには……

たとえば、自分のことを不幸だ、惨めだという嘆きには、「死」を考えよという。絶対確実なのは死ぬことだから、死をひたすら省察えよと説く。落ち込んでるとき、不吉なことを考えない方がよいのではと思うのだが、アウグスティヌスによると、人はみな死を遠くに見すぎだという。そして、愛や名誉といった欲望によって、死への省察が曇らされることが、苦悩の原因だというのだ。

なるほど、死が確定的なことは分かる。だが、「まだ」死なないつもりでいる限り、真にやりたいことが先送りされる。結果、目の前の欲望に引きずられ、現実とのFIT/GAPを感じるというわけか。自分の意思で、自分の不幸を選び取るという感覚は、確かにそうかも。

脳内アウグスティヌスは、キケロの言葉を引きつつ、「死ほど確かなものはなく、死の時ほど不確かなものはない」と述べる。それは明日どころか、次の瞬間だってありうる。これをありありと実感できるのなら、「まだ」死なないつもりから生じるさまざまな苦悩も消えることだろう。代わりに、限られた時のなかで真にやりたいこと(すべきこと)が何かを探し、それを実行しようとするに違いない。

悩みごとで自分を壊さないために

笑ってしまうのが、バーチャル師匠に嘘をつくこと。自分の脳内の話だから、嘘なんてつきようがない。にもかかわらず、あえて嘘を言い、論破され、考えを改める。本音の自分を守りつつ、建前の自分に折伏される経緯を記すことで、自己欺瞞を表面化させる。

本音の自分の「昔の女が忘れられないけど、今の女が愛おしい」という告白に、バーチャル師匠は叱責する。それを「愛」という名で呼ぶこと自体が、神の愛への冒涜になる。恋人どうしが互いに掻き立てる感情を「愛」と呼ぶことで、宗教的口実を与えているというのだ。

アウグスティヌスにとって愛とは、神の愛しかないのだから、同じ名で呼ぶなという建前は分かる。だが、本人は、あまりにも俗物的な告白をする。このコントラストが非常に面白いのだが、本音 vs 建前でキャラを分けるのは、自分を壊さないための多重人格なのかも。

さらに、異なる人格どうしの対話を記すことで客観視できる。脳内でこれをやると、だんだんすごい勢いになって収拾がつかなくなる。いったん「書く」ことで、正しいか否かに関係なく、確定させる。その上で吟味できるから、暴走を押さえることもできる。

ペトラルカは本書を誰にも見せず、生涯にわたって何度も手を加えたという(『わが秘密』というタイトルにした所以はこれ)。

私淑の実践をお試しあれ。

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女の子の匂いを追い求めた男の話『香水』

目はそむけることができる。
耳は塞ぐことができる。
だが、息を止め続け、匂いを拒むことはできない。
匂いはそのまま体内に取り込まれ、胸に問いかけ、即座に決まる。好悪、欲情、嫌悪、愛憎が、頭で考える前に決まってしまう。

匂いは、どんな意志より説得力をもち、感情や記憶を直接ゆさぶる。人は匂いから逃れられない。

だから、匂いを支配する者は、人を支配する。
そんなことができればだが。

これは、そんなことを目指した男の物語である。

Perfume

男の名は、ジャン=バティスト・グルヌイユ。

超人的な嗅覚をもち、あらゆる物体や場所を、においによって知り、識別し、記憶に刻みこむ。におい(匂い、臭い)に対し、異常なまでの執着心をもち、何万、何十万もの種類を貪欲に嗅ぎ分ける。彼に言わせると、世界はただ匂いで成り立っている。

舞台は18世紀のパリ。

通りは汚濁まみれ、垂れ流しの糞尿が鼻を刺す。魚と屠畜の腐臭と、鼻を背けたくなる疫病の膿んだ臭い、死体の山から漂ってくるものは、目にクる。小便とカビと経血の臭いが入り混じり、日常的に街を覆う。バリの香水が世界一なのは、パリが世界一臭い都市だったからなのかもしれぬ。

このパリで、グルヌイユは「匂い」でのし上がろうとする。

においという、精緻で的確で膨大な「語彙」をもつがゆえ、人とコミュニケートする「言葉」の貧弱さを低く見る(というか興味がない)。さらに、においを組み合わせ、新しいにおいを創造することができる。私たちが言葉を操るように、いや、それ以上に、グルヌイユはにおいを操り、意思を伝えることができる。しかも匂いは言葉より強い。私たちは、匂いを拒むことができないのだ。

そんな彼が、究極の匂いを持つ少女を嗅ぎつけてしまったら?

鋭敏すぎる嗅覚を持つグルヌイユにとって、世界一臭い都市パリは、端的にいって地獄である。誰と会っても、どこへ行っても、ひどい臭いから逃げられない。そんな彼にとって、馥郁たる香気を纏わせる少女が、どのように感じられるか。

本書は、「臭い」に限らず「匂い」の描写が素晴らしい。食欲をそそる香ばしさ、情欲を招き寄せる生々しいにおいと、眠りを誘う芳香。危険を発するきな臭さと、もう手遅れとなった血腥さ。あらゆる「におい」がここにある。そして、においは強烈であればあるほど儚い。ページを繰る手を止めて、思わずくんくんする。

目を凝らすように、耳を澄ますように、鼻に集中する。グルヌイユの運命をたどることで、わたしの嗅覚も鋭くなった気がする。

匂いは言葉より強い。彼が追い求めた究極のにおい、ぜひ一緒に嗅いでほしい。

 

 

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