この「冒険」の本・映像・ゲームがスゴい!

 お薦め本を持ち寄って、まったり熱く語り合うオフ会、それがスゴ本オフ(最新情報は[facebookスゴ本オフ])。参加すると、読みたいリストがどんどん増えて、積読山がさらに高くなる。今回のテーマは「冒険」。時間・空間・非日常を飛び越えて、「これが冒険だ!」という本、映画、音楽、ゲームにマンガにメディアのもろもろが、集まったり集まったり。

Bouken01
山と旅と空への冒険

ありえない光景、シスパーレ

 度肝を抜かれたのが、ササキさんの紹介。日本を代表するクライマー平出和也が、シスパーレに挑んだ映像だ。端的に言ってありえない光景を見ることができる。一目見れば、「無理!」と叫びだしたくなる場所で、かつては、そこに登った人だけが目の当たりにできた。過酷で美しい世界を、安全で暖かな部屋から眺めることができる。

 冒険とはすなわち「危険を冒す」。何かの目的があって、時間や空間を超えて、危険に満ちた体験の中に身を置くこと。ただ、そこから還ってこなければならない(と思う)。行ったきりの冒険も物語としてはあるが、現実だとあまりにも辛い。

Bouken02
熱量高い

勇気と無謀の違い『サハラに死す』

 えりさんが紹介してくれた『サハラに死す』(上温湯隆著、ヤマケイ文庫)が重い。昭和の時代、誰もやったことのない、サハラ砂漠の単独横断に挑戦した記録だ。世界最大のこの砂漠は、現地の人々にとって「縦断」するものであって「横断」するものではない(従って「横断」ルートというものはない)。

 ガイドなし、ラクダ1頭のみで旅を始めるが、ラクダは死亡、水は無くなる、食べ物は無くなる……「著者が本人ということは、帰ってこれたんじゃないの?」というツッコミに、「遺された手記を元にした本」とのこと。「冒険とは、可能性への信仰である」と記されており、当時のバックパッカーのバイブルだったというが、「帰ったら大学受験しよう」と書き残しているのが日本人の呪い的だとのこと。

生きていることのレベルを上げる『ビヨンド・リスク』

 危険を冒すとは何かについて知りたいなら、『ビヨンド・リスク』(ニコラス・オコネル、ヤマケイ文庫)を読むと、そのヒントが得られる。伝説のクライマー17人にインタビューした冒険の思想集である。

 生きることは登ることと同様に意味がない。にもかかわらず、なぜ登るのか? 本書には数多くの「答え」があるが、ここでは、一つ、ロイヤル・ロビンスの引用をしたい。

危険があれば冒険の度合いが増す、ということは十分気をつけて行動しなければならないということです。クライミングは注意力や知覚力のレベル、つまり生きていることのレベルを引き上げてくれます。(太字化は私)

 他の人の話も併せて聞くと、共通する考え方が見えてくる。ただ生命を維持するというだけでなく、本気で生きる。生きることに真剣になる(せざるを得なくする)場所が、たまたま岩の上だったということが分かる。生きることそのものが冒険なのだ、というメッセージが伝わってくる。これは読みたい。

Bouken03
ロバート・パーカーごっそり

未読の人は幸せもの『シャンタラム』

 生きることが冒険なら、ルートポートさんが持ってきた『シャンタラム』、これはわたしもお薦めしたい。絵に描いたような波瀾万丈で、一寸先も見えない状況とドラマティックな展開に、ページを繰る手が止まらなくなる。もし、これを読んでいないという人がいたら、幸せ者だと伝えたい。できるだけ予備知識を排して手にとって欲しい(新潮文庫だから裏表紙にあらすじが書いてあるが、それすら読まずに読んで欲しい)。

冒険の冒険『ヴェルヌの『八十日間世界一周』に挑む4万5千キロを競ったふたりの女性記者』

八十日間世界一周に挑む 冒険の冒険、すなわちメタ冒険できるのがこれ。みかん星人さんとOnoさんのお二人から教わったのだが、面白そう。ヴェルヌの小説『八十日間世界一周』を、リアルで実行する「冒険」と、世界一周をするのが女性記者であるという意味で「冒険」が重なる。というのも、120年前の当時、女性であるというだけで様々な差別や困難が立ちはだかるから。さらに、女性記者は二人おり、それぞれ東回り、西回りで競争するのだ。NHK歴史秘話ヒストリアでも放送されたとのこと[決着!80日間世界一周]

Bouken04
バサラいいよバサラ!

公開中の『バジュランギおじさんと、小さな迷子』と『ファーストマン』は劇場で観るべし

 すごい勢いでプッシュされ、そのまま映画館に行きたくなったのがこの2つ。きはらさんお薦めの『バジュランギおじさんと、小さな迷子』は、インドに取り残されてしまった女の子を、偶然であったおじさんがパキスタンまで連れて行くお話。絶対感動するやつやん、と身構えながら観たけどやっぱり感動したとのこと。前中眺さん、みかん星人さん、sngkskさん激推しの『ファーストマン』は、ニール・アームストロングの人生を描いたもの。映像音も凄いとのことで、まず4DXで見て、それからIMAXで観るべしとのこと。2つとも劇場で観たい。本は積めるけど、ロードショーは行かないと!

数メートル移動しただけで人生は変わる「ウェイクフィールド」

 [キリキリソテーにうってつけの日]の中の人のふくろうさんが紹介したのが「ウェイクフィールド」だと知ったとき、「あっ!」と思った。「ウェイクフィールド」という男が、失踪したふりをして、自宅から目と鼻の先にある部屋に潜伏する話。時は流れ、死んだことにされるが、男はその部屋から、寡婦となった妻の生活を眺める。わたしは、ふくろうさんの[このレビュー]に惹かれて「ウェイクフィールド」を読んだが、このプレゼンで再読したくなった(ホーソーン怖いな)。

世界を言葉で更新する『えーえんとくちから』

 オフ会やってて良かったなと思うのが、わたしが知らないスゴ本に出会えること。前中眺さんお薦めの、笹井宏之の短歌集は、全く知らなかった。というか、この詩人の存在すら知らなかった。これ、文字列よりも音読するほうが沁みる。「えーえんとくちから」を声に出して読んでもらったが、意味が分かった瞬間にぞわっとした。口に出した音が意味として伝わる前に、その言葉が捉える世界をアップデートしてしまえるのではないか、とさえ思う(ポチった)。

だよね!『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』

 激しく同意したのが、きはらさんが持ってきたこれ。日本で100万本、世界で1,000万本売れた傑作で、わたしもこのためにSwitch買った。ゼルダシリーズ初のオープンワールドで、どこへ行っても何をするのも自由な世界で、目的を忘れて道草→探検→深みにハマり、ゼルダ姫に注意されること請合う。そうだよな! と思ったのが、「世界のあまりの美しさに、ゲームコントローラーの手を止めて、ずっと見入ることが、何度もあった」。

人生とは冒険だ『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』

 おそろしくそそられるのが、羊飼いの星さんお薦めのこれ。怪しげな表紙、冒頭のどん底感、下ネタ上等の構えなんだけれど、70人との出会いと別れの中で、著者自身が学び、世界が広がり、人生が動き出していく過程は、「冒険」そのものだといえる。ブックガイドとしても面白いとのこと。

Bouken05
冒険野郎・高野秀行

 紹介された作品は以下の通り。やりたいゲーム、観たい映画、そしてもちろん読みたい本ががしがし溜まる。Amazonのカート、図書館の予約、ToDoリストが積み上がる。本を介して人を知り、人を通じて本に会う、すばらしいひとときでした。ご参加いただいた皆さま、ネット越しにご紹介いただいた方々、ありがとうございました!

山!
『銀嶺の空白地帯に挑む カラコルム・シスパーレ』平出和也 DVD
『ビヨンド・リスク 世界のクライマー17人が語る冒険の思想』ニコラス・オコネル(ヤマケイ文庫)
『栄光の岩壁』新田次郎(新潮文庫)
『アイガー北壁・気象遭難』新田次郎(新潮文庫)
『全ての装備を知恵に置き換えること 』石川直樹(集英社)
『いま生きているという冒険』石川直樹(理論社)

旅!
『サハラに死す』上温湯隆(ヤマケイ文庫)
『旅と冒険の人類史大図鑑』サイモン・アダムズ(河出書房新社)
『ヴェルヌの『八十日間世界一周』に挑む4万5千キロを競ったふたりの女性記者』マシュー・グッドマン(柏書房)
『謎の独立国家ソマリランド』高野秀行(集英社文庫)
『辺境メシ』高野秀行(文藝春秋)
『冒険投資家ジム・ロジャーズ世界大発見』ジム・ロジャーズ(日経ビジネス文庫)
『冒険者たち ガンバと15ひきの仲間』 斉藤惇夫(岩波少年文庫)
『ガリバー旅行記』スウィフト(岩波書店)
『バジュランギおじさんと、小さな迷子』(インド映画)

空!
『アポロとソユーズ 米ソ宇宙飛行士が明かした開発レースの真実』デイヴィッド・スコット/アレクセイ・レオーノフ(ソニーマガジンズ)
『ロケット・ボーイズ』ホーマー・ヒッカム・ジュニア(草思社)
『まんがサイエンスⅡ ロケットの作り方おしえます』あさりよしとお(Gakken)
『夏のロケット』川端裕人(文春文庫)
『夜間飛行』サン・テグジュペリ(新潮文庫)

物語!
『シャンタラム』グレゴリー・デイヴィッド・ロバーツ(新潮文庫)
『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』(任天堂)
『はてしない物語』(岩波書店)
『BASARA』田村由美(小学館)
『ヘテロゲニア リンギスティコ』瀬野反人(KADOKAWA)
『ラベルのない缶詰をめぐる冒険』アレックス・シアラー(竹書房)
『魔術師』W・サマセット・モーム(新潮社)
『人外魔境』小栗虫太郎(角川文庫)
『ねずみとくじら』ウィリアム・スタイグ (評論社の児童図書館・絵本の部屋)
『ドングリドングラ』コマヤスカン(くもん出版)
『セミオーシス』スー・バーク(ハヤカワ文庫)
『ぼくのロボット大旅行』 松岡達英 (福音館の科学シリーズ)
『COMIC恐竜物語』(ポプラ社)
『ヘルマンヘッセン全集13 』ヘルマンヘッセン(臨川書店)

冒険とは経験だ!
『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』花田 菜々子(河出書房新社)
『神話の力』ジョーゼフ・キャンベル&ビル・モイヤーズ(ハヤカワノンフィクション文庫)
『物語の法則 』クリストファーボグラー、ディビッドマッケナ(アスキーメディアワークス)
『レンタルチャイルド』石井光太(新潮社)
『あたしを溺れさせて。そして溺れ死ぬあたしを見ていて』菊地成孔(東京キララ社)
『謝罪本』WACK(フリーペーパー)
『初秋』ロバート・B・パーカー(早川書房)
『レガイア伝説、というプレイステーションRPGのCM』
『BEFORE THEY PASS AWAY』(パイインターナショナル)
『ハードウェアハッカー ~新しいモノをつくる破壊と創造の冒険』(技術評論社)
『自己犠牲とは何か 哲学的考察』田村均(名古屋大学出版社)
『トマス・アクイナス 理性と神秘』山本芳久(岩波新書)
『会計が動かす世界の歴史』ルートポート(KADOKAWA)
『眼の冒険』松田行正(紀伊國屋書店)
『センス・オブ・ワンダー』レイチェル・カーソン(新潮社)
『若き友よ。』五木寛之(幻冬舎)
『「エンタメ」の夜明け ディズニーランドが日本に来た!』馬場康夫(講談社)
『バザーリア講義録 自由こそ治療だ』フランコ・バザーリア(岩波書店)

言葉と文学の冒険
『えーえんとくちから』笹井宏之(パルコ)
『れもんよむもん』はるな檸檬(新潮社)
『百人一首という感情』最果タヒ(リトルモア)
『アメリカン・マスターピース古典篇』柴田元幸翻訳(スイッチ・パブリッシング)
『夜になる前に』レイナルド・アレナス(国書刊行会文学の冒険シリーズ)
『エバ・ルーナのお話』イザベル・アジェンデ(国書刊行会文学の冒険シリーズ)
『鞄図書館』芳崎せいむ(東京創元社)
『図書館の神様』妹尾まいこ(ちくま文庫)

 次回のスゴ本オフのテーマは「桜散る、ダークネス」だ。サクラチル、ブラック、ネガティブ、復讐、後悔、殺意、闇など、暗くて黒いやつにしよう(4月かな……)。

Bouken06
ガンバと文学の冒険

| | コメント (0) | トラックバック (0)

橋本大也さんの最近のお薦め10冊を聞いてきた

 [情報考学 Passion For The Future]をご存知だろうか?

 科学の啓蒙書や経済・経営のノンフィクションから、SF、純文学、教養と思想、ゴリゴリの猟奇モノまで幅広く紹介するブログだ。更新頻度もひんぱんで、新刊もそうでないのも分けへだてなく、「基本誉める」を貫いており、たいへん参考にさせていただいた(というより、あこがれまじりで追いかけていた)。書評ブログといえばここだったのだが、ここ数年、あまり更新されていない。

 仕事が大変で、書評どころでないのだろうな……と思いきや、某所で活動されているのを耳にした。数年前、一念発起して英語を学び直し、今は英語の本が中心とのこと。audible も活用し、耳からの読書もしているという。書評も英語圏で発信しており、(当然のことながら)日本語ではない。詳しいことは、デジタルハリウッド大学の企画[今、この10冊が面白い!]という対談会でお話を伺ってきた。

 対談は、学生図書館長の森泉さんと、橋本大也さんのお二人で行われた。森泉さんは、日本人作家の小説が中心で、橋本さんは洋書オンリーという20冊+アルファの構成だった。ここでは、橋本さんが紹介された本を中心にまとめる。

”The Buddha in the Attic”Julie Otsuka/『屋根裏の仏さま』ジュリー・オオツカ

Imakono11

"We" で始まる独創的な小説

 めっちゃソソられたのがこれ。非常に前衛的で独創的といってもいい文体だという。その秘密はすぐに教えてもらった。Amazonの中身検索を見ると、ほぼ全てのパラフラフが ”We” で始まるのだ。

 本書は、写真花嫁(picture bride)たちの物語である。日系移民一世(ほとんどが男性)が配偶者を見つけるために写真だけでお見合いした結果、一度も会っていない夫を頼りに渡米してきた花嫁たちである。特定の登場人物がおらず、女性たちの集合的な記憶をつむぐかのように表現するために、”We” が使われている。

 そのため、英語としては非常に分かりやすくなっている。なんせ、全てのパラグラフが ”We” で始まるのだから。一方で、”They” が使われるとき、それは渡米した女性たちの「外側」を示すことになる。それは男性たちであったり、馴染めないアメリカ文化であったり、差別的な社会になる。邦訳は『屋根裏の仏さま』とのこと。

”The Fault in Our Stars”John Green/『さよならを待つふたりのために』ジョン・グリーン

 これはわたしもオススメ。「難病のカップル」「ボーイ・ミーツ・ガール」「タイムリミットのある恋」と、かなりキツいお話となっている。主人公は16歳のヘイゼルで、がんの進行を薬で抑えており、自分でもそう長くないことは分かっている。「自分が死んだ後、悲しむ人は少ないほうがいい」と割り切った生き方をする彼女が恋をしたらどうなるか?

 紹介とともに、洋書読みとしてのポイントもあわせて教えてもらう。YA(ヤングアダルト)のメリットは、比較的易しい表現が多く、読みやすいことと、今の若者用語を学ぶことができるという点にあるという。前者は分かるが、後者は今のYAを読む理由になる。"The Catcher in the Rye" (ライ麦畑でつかまえて)や ”To Kill a Mockingbird” (アラバマ物語)という名作もあるけれど、いかんせん古く、アメリカの若者はそんな言葉は使わないらしい。

 ちょっともったいないのが、タイトル。原作は、”The Fault in Our Stars” なのが、邦訳で『さよならを待つふたりのために』になり、さらに映画で「きっと、星のせいじゃない。」に変わる。そして映画にあわせて邦訳も変えられてしまうのだ。わたしもブログやSNSで紹介したが、名前をコロコロ変えたことで、検索してもらう力がダウンしたのではないかと思う。わたしが読んだのは邦訳だが[書評]、これは原書も挑戦したい。

”Sphere”Michael Crichton/『スフィア 球体』マイケル・クライトン

 「この作家のおかげで英語が読めるようになった!」というのがマイケル・クライトン。やさしい英語で、見てきたように明示的に書いてくれている。映画を意識しているのか、ビジュアルで全てを語ろうとする。文学小説にある、「行間を読ませる」とか、一文に意味を込めるといった技巧は凝らさないため、読むことと理解が同期する(リーダビリティが高いともいう)。

 何冊か読んだ中でのダントツは、”Sphere” だという。テクノロジをミステリ仕立てで語り、読者をノせるのが非常に上手いだけでなく、ちょっと「哲学」が入っているのがいいのだと。クライトンのお約束である、「何かトンでもないものが発見される」→「最先端の科学チームが結成されて調査に赴く」→「たいへんなことが起きる」を忠実に踏襲しており、安心してハマれそう。これは読みたい!

“The Nightingale” Kristin Hannah/『ナイチンゲール』クリスティン・ハナ

 ものすごく気になるのがこれ。英語の本を読むようになると、当然のことながら、英語の本を読む人々での評判もチェックするようになる。そして、「英語圏での傑作」を見ていると、「なぜ日本で売れていないの?」と首をかしげるような現象があるという。

Imakono12

こんなに傑作なのに、なぜか日本で売れてない?

 つまりこうだ、質量ともに十分な読み手が「これは傑作」と太鼓判を押し、なおかつその高評価でもって邦訳を出したのに、日本では鳴かず飛ばずという(マーケティングの失敗なのか日本人ウケしなかったのか……)。

 その代表格として、これ。第二次大戦下のフランスの姉妹の物語。優しく受身の姉と、活発で反抗的な妹が、戦争の運命に巻き込まれてゆく。ドイツの侵攻から生家を守ろうとする姉と、レジスタンス活動に身を投じる妹の、それぞれの人生が歴史のうねりの中で大きく変わってゆく感動物語だという。

 原書と邦訳版のパッケージを見比べると分かるが、おそらく「読み手に届く」形になっていなかったのかも(あるいはアニメ化も念頭にあったのかも)。

“Cathedral”Raymond Carver/『大聖堂』レイモンド・カーヴァー

 これも大好きな作品。「ぐっと胸にせまる」「心あたたまる」という形容がぴったり。なかでも傑作なのが『大聖堂』だ。妻の古い友人ということで、盲目の黒人が家にやってくるのだが、語り手である「私」は固い反感じみたものを感じていた。それが、ふとしたきっかけで、心がつながりあってゆく。

 カーヴァーが書く小説の登場人物は、自分の感情をべらべらとしゃべらない。だから読者は、人物の外側の描写や、彼・彼女が感じた断片から推し量るほかない。わたしは村上春樹の翻訳で読んだのだが、(原文を知らないにもかかわらず)素晴らしい名訳だと思った。橋本さんを見習って、原作に挑戦してみるか。その場合、最初に読む Carver は、” Small, Good Thing” (ささやかだけれど、役にたつこと)だな。

”The Overstory”Richard Powers/『オーバーストーリー』(未邦訳)リチャード・パワーズ

Imakono13

正座して邦訳を待つパワーズ本

 最近のベスト本とのこと。樹木に宿命づけられた10人の運命がばらばらに語られてゆくうちに、最終的にまとまって、一つの物語に収斂するという。個人個人の物語がだんだん絡み合ってゆき、最後に大きな流れに一体化する骨格は、『舞踏会へ向かう三人の農夫』[書評]が浮かぶが、今度は10人とは! めっちゃ気になる。橋本さんは、『われらが歌う時』[情報考学の書評]も絶賛していたけれど、これも負けず劣らず傑作とのこと。いずれ邦訳されるだろうし、わたしの英語力では追い付かないので、正座して待つ。

英語の本をどうやって探すか?

 これは頭を悩ませているところ。日本語の本なら、ネット、読書会、図書館、リアル書店、Amazonを通じて沢山のチャネルがあり、そこから本の情報を入手できるが、英語の本はどうするか?

 わたしがチェックしているのは、ブッカー賞や全米図書賞の候補作、ベストセラーリストぐらい。「ビルゲイツお薦め」が「キング絶賛」と同程度のコピーであることに気づいたいま、広告に惑わされない読み手が欲しい。

 それは、橋本さんであり、[未翻訳ブックレビュー]のかもめさんだ。そんな「読み手」をどうやって探せばよいか。「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」の「あなた」を探す洋書版である。

 そんな質問を橋本さんにぶつけてみたら、ど真ん中が帰ってきた。

 それは、[goodreads] だ。

 読書メーターやブクログのような、本の登録+評価+レビューサイトだが、凄いのはその質量。英語を話す人という時点で分母が巨大な上に、そこで洗練された評者のレビューがありがたい。出版社や作家といった「中の人」ともつながることができるのも嬉しい。

 インターネットの中で、知を発信し続けるスゴい人がいる。そのNo.1は[読書猿さん]だ。わたしの目標の一つに、「英語圏の読書猿を見つける」がある。市井に住み、知を愛し、ネットで発信する哲人は、必ず居ると信じる。なんとなく、米国よりも、イスラエルとかインドにいそうな予感だけれど、goodreadsから探せそうだ。

 goodreads での橋本大也さんのレビューの入口は[Daiya Hashimoto]、もちろん英語だ。

どうやって読書の時間を捻出するか?

 これも悩ましい。わたしの場合、通勤時間を利用しているが、橋本さんも一緒みたい。「通勤時間=読書時間」と決めてしまうことで、まとまった時間を読書に割り当てることができる。考えてみれば、自分の時間が比較的ある休日のほうが、本を読んでいない。もちろんこうして書いているからということもあるが、それでも、Dark Souls にかける時間を減らせば、もっと読めるはずだ(あとは薪の王のみ)。

 そして、もう一つ、嬉しいことが聞けた。それは、audible の利用だ。混雑した電車で小さい字を追いかけるのも大変だが、聞いて読むという手でクリアできる。audible を活用することで、英語力の向上+目を使わずに読書している。ノンフィクション系が良いとのこと。というのも、小説の場合、一文で状況が変わってしまうことがあり、聞き逃しの致命度が高い。一方、ノンフィクションだと似たような表現や補足をしてくれるため、audible 向けだという。なるほど。

 そして、日本のよりも米国のほうが質量ともに凄いらしい。audible 専用のラジオドラマシリーズがあるぐらいで、Netflix と同じビジネスモデルが成り立っているという。どんな番組がいいか分からない場合は、とりあえず audictid がお薦めらしい。audible の addict(中毒)で、女の子たちがお薦めを語ってくれるガールズチャットだという。

「今、この10冊が面白い!」で紹介された本のリスト

今、この10冊が面白い!
”The Buddha in the Attic” Julie Otsuka(屋根裏の仏さま)
”The Fault in Our Stars” John Green(さよならを待つふたりのために)
”Sphere” Michael Crichton (スフィア・球体)
“Jaws” Peter Benchley(ジョーズ)
”Me Before You" Jojo Moyes(ミー・ビフォア・ユー)
“The Nightingale” Kristin Hannah(ナイチンゲール)
“Cathedral” Raymond Carver(大聖堂)
“Olive Kitteridge” Elizabeth Strout(オリーヴ・キタリッジの生活)
“Washington Black” Esi Edugyan
"Sing, Unburied, Sing" Jesmyn Ward
“The Underground Railroad” Colson Whitehead(地下鉄道)
“Grinding It Out” Ray Kroc(成功はゴミ箱の中に)
“Google It” Anna Crowley Redding

英語読書の入口(映画の原作&やさしめ)
“The Godfather” Mario Puzo(ゴッドファーザー)
“The Exorcist” William Peter Blatty(エクソシスト)
“The Shining” Stephen King(シャイニング)

映画より原作が面白い
“The Sheltering Sky” Paul Bowles(シェルたリング・スカイ)
“The Hotel New Hampshire” John Irving(ホテル・ニューハンプシャー)

世界でベストセラーだけど日本ではほぼ知られていないノンフィクション(経済編)
“Conspiracy” Ryan Holiday
“Bad Blood” John Carreyrou
“Billion Dollar Whale” Tom Wright,Bradley Hope

最近のベスト
”The Overstory” Richard Powers
"Circe" Madeline Miller

森泉さんのお薦め
『いなくなれ、群青』河野裕
『罪人が祈るとき』小林由香
『望郷』湊かなえ
『ON 猟奇犯罪捜査班・藤堂比奈子』内藤了
『君は月夜に光輝く』佐野徹夜
『かがみの孤城』辻村深月
『また、同じ夢を見ていた』住野よる
『星か獣になる季節』最果タヒ
『渦森今日子は宇宙に期待しない』最果タヒ
『夜空はいつでも最高密度の青色だ』最果タヒ
『ドグラ・マグラ』夢野久作
『舞姫』森鷗外

 最果タヒ作品が魅力的なので、これを機に手を出してみるつもり。
いっぽう、エログロ猟奇系なら『異常快楽殺人』、制限時間つきの人生なら『死ぬまでにしたい10のこと』、いじめの強烈なやつなら『ぼくはお城の王様だ』をお薦めしてきた。

 めちゃめちゃ充実した時間でした。橋本さん、森泉さん、ありがとうございます!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『会計が動かす世界の歴史』はスゴ本

 シャーロック・ホームズの金銭感覚や、ダーウィンの資産活用から、会計と革命の意外すぎる関係、複式簿記から解き明かす知性の進化など、歴史を縦横に行き交い、ミクロからマクロ経済まで自在にピントを合わせながら、人類の歴史を損得の視点から紐解く。

Kaikeiga

 パッケージから、最初は「簿記の歴史」や「会計の世界史」という印象を持った。だが、本書の焦点深度はもっと広い。そして、めちゃめちゃ面白い。これは、お金と人との関わり合いをドラマティックに描くだけでなく、それを通じて「お金とは何か」ひいては「価値とは何か」についても答えようとしているからだ。

「お金」が人を作った?

 誤解を恐れずに言うと、「お金」が人を作ったといえる。

 逆じゃね? と思うだろう。壱万円札を作ったのは人だし、その紙に「壱万円分の価値がある」(ここ重要)と信じているのは人だから。なぜ壱万円に壱萬円分の価値があるかというと、壱萬円の価値があるとみんなが信じているから。この「みんなが信じる価値」がお金の本質である。

 そんな「価値」みたいな概念ではなく、金や銀といった貴金属がお金じゃないの? という疑問が出てくる。本書では、お金と人の歴史を振り返りながら、「みんなが信じる価値」と「お金」の関係に迫る。

 たとえば、スペイン帝国がもたらした価値革命の例をあげて、金銀はお金というよりも、お金を計るためのモノサシだと答える。植民地化した中南米から大量の銀が持ち込まれた結果、銀という通貨の供給量が増え、大規模なインフレが発生する。すなわち、ヨーロッパでの銀に対する「みんなが信じる価値」が下がったのだ。

 あるいは、最古の金融バブルと呼ばれているオランダのチューリップ・バブルや、詐欺師ジョン・ローが引き起こしたミシシッピ・バブルの話をする。彼が作り出した「利子付きのお金」は、良い意味でも悪い意味でも応用が利くだろう。欲望が欲望を生み、「みんなが信じる価値」が膨らんで弾けた出来事だ。

 面白いところをつまみ食いするだけなら、[ペペラのバブル物語]を読めばいい(めちゃくちゃ面白いゾ)。だが本書では、「なぜバブルが弾けたのか」という問いを立てる。ありがちな「みんなが現実に目覚めたから」ではなく、「なぜ現実に目覚めたのか」という視点から、生々しい理由を炙り出す(p.173の解説は、あらゆる先物取引(の損切タイミング)に応用が利くだろう)

なぜ文字より先に簿記が生まれたのか?

 本書が類書より優れているのは、さらに「みんなが信じる価値」の先へ踏み込んでいるところだ。サブタイトルの「なぜ文字より先に簿記が生まれたのか?」の秘密はそこにある。

 紀元前4千年までさかのぼる。最初の簿記はメソポタミア文明の「駒」だという。トークンと呼ばれる、粘土製のおはじきのようなもので、穀物や家畜を表していた。トークンは現実の羊やパンと1対1で対応し、税の取り立てや財産管理に使われていたという。

 紀元前3千年にイノベーションが起き、トークンそのものではなく、粘土板にトークンを押し付け、型を記録するようになる。現実と同数同種類のトークンを用意する必要がなく、トークンを現実の数だけ押し付け、粘土板を管理すればいいようになる(簿記の原型)。そして型押しが簡略化され、粘土板に溝を彫るようになったのが文字の誕生になる。

簿記に隠された進化の鍵

 そして、簿記の歴史を紐解きながら、「みんなが信じる価値」の本質に迫る。

 興味深いことに、粘土板から始まりルネサンス期に完成した複式簿記と、独自で発達した日本の簿記と、似たような構造をしているという。つまり、勘定科目を借方と貸方に分けて記載し、貸借を一致させるという構造だ。

 あたりまえだろ? 誰かにとっての「借り」は、その相手にとってみれば「貸し」になる。千円借りたら、千円返さないと。ここに時間の概念を入れると、利子や償却といった要素が必要になるが、簿記の基本は、「貸し」と「借り」が一致することにある。

 しかし、この「あたりまえ」こそが、ヒトを人たらしめた原因だというのだ。

 社会的動物であるヒトが、そのコミュニティの中でうまくやっていくためには、個体を分別し、その個体が自分にとって得となるか損となるか判断する必要がある。仲間だから協調する部分もあるが、食物や異性の取り合いとなることが出てくる。

 つまり、裏切ったり裏切られたりする関係性を続けながら、うまく生き延びる必要がある。場合によっては、自分に有利なときでも、仲間に恩を売ったほうがトクになることが出てくる。この協力と裏切りの駆け引きの中で、知性すなわち脳は進化していったという(これを[マキャベリ的知性仮説]と呼ぶ。以前の記事で、イカの脳についても同じ説が展開されている[頭足類の心を考える])。

 その中で重要なのは、身近な仲間を判別し、それぞれの「貸し」「借り」を理解し、記憶していくためには、高度な知能が必要となる。現代では、お金を貸したとき「貸付金」として登録しているが、昔は「貸した人の名前+金額」で債権を記録していた(人名勘定)。つまり、簿記の基本構造の中に、知性の進化の秘密が隠されているといえる。

「お金」の本質=譲渡できる信用

 誰かに「貸し」を作ったら、それを報酬として受け取れるのは、返してもらえると信用しているから。以前に「借り」たものを返すのは、それをしないとコミュニティでやっていけないから。

 そのための約束ごとが、「みんなが信じる価値」すなわちお金になる。時代によって、それは貝殻だったり金銀といった貴金属、あるいはデジタルデータとして計られるが、その計られる対象である信用が、知性を進化させたのである。

 会計という視点で人類史を斬ると、その断面にお金の本質が見える。18世紀イギリスの産業革命を経済現象として読み解いたり、未来の通貨と呼ばれる仮想通貨の構造的な弱点を明らかにしたり、盛りだくさんの内容となっている。

 愚者は自分の経験から学び、賢者は歴史から学ぶという。さらに、歴史を通じて現在の問題を理解することができる。「会計」という斬り口から歴史を眺め、伏線と謎解きを張り巡らし、極上のミステリに仕立てた一冊。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

生きる目的なんて無いが、生きがいは有る。問題は、2つを混同させることにある。

 生きる目的なんて無い。だが、生きがいは有る。問題は、2つを混同させることである。

 「誰かに誉めてもらうため」に生きているのなら、誉めてくれる人がいなくなった時点で、生きる目的がなくなる。しかし、それはおかしい。したがって、「誉めてもらうことを生きる目的とする」前提がおかしいことが分かる。

 たとえば、誰かに誉めてもらうために努力し、「良い子」「良い生徒」「良い社会人」「良い夫」をするのもいい。だがその努力は、「誉めてもらうと嬉しい」のであって、そのために生きているわけじゃない(ここ重要)。「誉めてもらうこと」を目的にしてしまうと、誉めてもらうためにする「良い〇」に飽きたり疲れたりした時点で詰む。「良い〇」でないからといって電車に飛び込む必要なんて無いし、誉めてくれなくなった誰かを憎むのもおかしい。

 そして、「誰かに誉めてもらうため」の代わりに、「社会に貢献するため」「子孫を残すため」「家族を養うため」を入れても同様だということが分かる。つまり、カッコ「」内が実現できなくなったら、生きていても仕方なく、死んでもいい、ということになる。しかし、それはおかしい。これは、文章にすると違和感が増す。

 ・社会に貢献するために、わたしは生きている
 ・わたしの子孫を残すために、わたしは生きている
 ・家族を養うために、わたしは生きている

 それでも、最後の「家族を養うため」のセリフは、よく耳にする。だからこそ、病気やケガ等でそれができなくなったときに、電車に飛び込む人がいるともいえる。目的としてしまうから、それが失われたとき、「生きていても意味が無い」「何のために生きるのか分からない」になってしまう。

 これは、前提が違うのだ。おそらく、カッコ「」内に何を入れても、おかしいことになる。ここから導かれる結論は、「カッコ内のために生きる」ということ自体が、おかしい。およそ、「〇〇のために生きる」なんてことは無い。ただ生きていればいい。社会に貢献したり、家族を養うのは余禄みたいなものなのだ。

 これには、ただし書きがつく。〇〇が、ただ唯一の生きる目的ではなく、生きていてよかったと思える甲斐である場合、「〇〇のために生きる」は成り立つ。〇〇にあなたの大好きなこと、真夏の夜のビール、ロードショー初日に見に行く、土曜の午後に本を読む、気の合う仲間とセッションする等を入れると分かる。

 そして、その〇〇は、ただ一つだけではないはずだ。そこからつながる別の〇〇や、仲間や憧れの人(生きているとは限らない)がいて、そうした出会いと別れの諸々が、沢山出てくるはずだ。この、生きがいという意味に限り、「〇〇のために生きる」という表現を使ったほうが、安全だ。

 生きる目的と生きがいは違う。「この一杯のために生きている」は、あくまでも比喩であり強調表現だ。その限りでは、「家族のために生きている」はアリだ。だが、比喩を離れ、生きる目的としてしまうとおかしな話になる。それは、「この一杯が飲めなくなったら死にたい」という文がおかしいぐらいに。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

知的冒険の書『ウンベルト・エーコの世界文明講義』

 知の巨人ウンベルト・エーコの、十余年にわたる講義録。


Sekaibunmei2


 美と醜、虚構と陰謀、絶対と相対など、抽象的なテーマを俎上にのせ、フルカラーの図版を通して、具体的に迫ってゆく。ニュースやメディアで馴染んだネタから、ネットを駆使して追いかける必要のある美術作品まで、知的に振り回されるのが楽しい。

 たっぷり知的興奮を味わったあと、見知ったはずの世界にある、見知らぬ裂け目に気づいたり、まるで異なる時代なのに、そこを貫く原理原則があったことを発見する。世界はもっとつながり合っているし、時代はもっと重なり合っている。人の営みは、かくも美しく、かくも醜いことを、あらためて知って驚く。



美とは何か

 たとえば、「美」について。

 「美とは何か?」と概念で問われると、答えに窮する。イデアのように「美しさ」そのものを指し示されたとしても、それが(他の言葉でいう)何であるかなんて、分かるはずもない。せいぜい、わたしが美しいと感じるオブジェクトを挙げるしかない。このあたりの機微は小林秀雄が上手いこと言っており、「美しい花がある、花の美しさという様なものはない」がそれだ。

 ところがエーコは、もっと具体的に「美」に迫る。

 美しいと考えられるもの―――それは絵画や彫刻といった美術作品だったり、美的体験を伝える物語だったりする―――を具体的に挙げてゆき、そこに共通したものを見出す。すなわち、「美は変わる」ことだ。

 「美」が絶対的で不変的なものであったことは一度だってなく、それは時代や国によって、複数の異なる顔を見せてきた。これはオブジェクトが、男や女や裸体や景色といった物理的な美しさに限らず、神やイデアといった形而上的な美しさも然りだという。

 さらに、美にまつわる様々なテクストを通じて、美の中にある価値観を救い出す。「美しい」という言葉には、「優美な」あるいは「崇高な」「素晴らしい」といった形容が含まれることを指摘する。「美しいものとは、それがみられたときに喜びをあたえるもの」なのである。

 この件は、『美の歴史』を思い出させる。「完璧な美とは存在するのか?」という疑問に答えるべく、古代から現代に至る、美術作品、文学や音楽、数学や哲学や神学、天文学に至るまでを追いかけて、美の観念の変遷を渉猟した大著である。持つにも読むにもデカいので、『世界文明講義』のこの章からエッセンスを汲み取るのもいい。



醜とは何か

 あるいは、「醜」についての考察も具体的だ。

 美と同様に、醜も相対的であることは変わりないが、面白いのは醜は「美との関係性」において捉えられている点だ。醜とはすなわち、「美女と野獣」の変化形であり、いったん美の基準が定められると、ほぼ自動的に対応する醜の基準も定めるのが自然だと考えられてきたという。完全性と不完全性、秩序と秩序を壊すもの、といった風に。

 ただし、こうした相対性から離れ、美の理想にふさわしくない、という理由で醜いとされる対象もある。たとえば、アドルフ・ヒトラーが20歳のときに描いた花瓶の絵を挙げ、エーコはこれを醜いとする。


Sekaibunmei

ヒトラーが20歳のときに描いた絵(右頁)


 反感や憎悪、恐怖や不安の反応を引き出す要素があれば、それを「醜」だと定義づけることができる。美人とされる姿かたちは、時代とともに変化する。だが、美人の腐乱死体は普遍的に醜い。『美』は文化的背景の価値観を反映し、『醜』はその先にある「死」の概念をまとう。

 この辺りの考察は、『美の歴史』の姉妹本となる『醜の歴史』に詳しい。ほとんどの人が「美は文化なり」に賛同するだろうが、では醜は? と訊かれると窮するに違いない。この質問に対し、諸芸術における暗黒・怪奇・異形という観点で斬り込んだ『醜の歴史』は、『美』よりも面白いことを請け合う。『世界文明講義』から「醜」方面に手を伸ばすならこれ。



「巨人の肩に乗る小人」をひっくり返す

 あるいは、「巨人の肩」の洞察が面白い。

 先人の積み重ねた業績に基づいて新たな発見をすることを「巨人の肩に立つ」というが、これ、アイザック・ニュートンが最初だと思っていた。

 ところがエーコは、様々な文献を次々と開き、芸術と人類の歴史をたどりながら、この箴言が沢山の人びとの手から手へと渡り歩き、かたちや意味を変えながら伝わってきていることを示す。

 小人と巨人の箴言は、12世紀の哲学者・シャルトルのベルナルドゥスの言葉だとされている。だがエーコは、もっと以前の発案者に目を向ける。さらに6世紀前のカエサリアのプリスキアヌスによって語られていることを示し、さらにプリスキアヌスとベルナルドゥスの間にも、コンシュのギヨームを指摘する。

 そして、人類の知は、それを集積したメタファー「巨人」とともに、時代時代を受け継がれながら人口に膾炙する。いまでは、「先人の業績があってこそ」というニュアンスが強いが、かつては、「巨人よりも遠くまで見える」という、「肩の上に立つ小人」の方に重きを置く意味合いが強かったという。

 先人の研究は、まとまった一冊の本といった形に編纂されておらず、世界にバラバラに散らばっている。それを一つの価値体系としてまとめ、そこからさらに敷衍するということは、巨人よりもむしろ小人の方が重きを置かれるべきだろう。この、巨人と小人の逆転が面白い。

 他にも、陰謀が成功するためには、核となる秘密が完全な嘘である必要性を『フーコーの振り子』で明かしたり、嘘が歴史になるプロセスをダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』のネタバレで考察する章も面白い。シャーロック・ホームズやアンナ・カレーニナから物語を読むときの「ごっこ遊び」の可能世界論へのアプローチや、「ゴキブリの脳が進化しなかったのは、それが完全である一方、人の脳が不完全であるからこそ進化の余地がある」といった視点は、世界を新しい目で捉えることに役に立つ。

 ユーモアと皮肉を交えながら、美と醜、アフォリズムとパロディ、嘘が歴史的事実となる経緯など、エーコの思想がエーコを通して語られる。エーコ一流の箴言の宝庫であり、見たことのない絵や写真を眺めているだけでも楽しい、知の財産みたいな一冊である。

 知的冒険の一冊を、堪能すべし。

 そして、次回のスゴ本オフのテーマは「冒険」だ。本を通じて人を知り、人を介して本に出会うオフ会、それがスゴ本オフ。2/16(土)午後、渋谷でやりますぞ。概要は[スゴ本オフ「冒険」のご案内]、申し込みは[facebook:スゴ本オフ「冒険」]でどうぞ。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

「すでにご存知のとおり」←これ

 完全に新しい話を、「すでにご存知のとおり……」で始める奴がいる。知らんがな、としかいいようがない。だが、この前置きで始めることで、あたかも本題を「ご存知=ご承知」であるかのごとく扱うのはやめてほしい。そのハゲかけた髪をいっぽんいっぽん抜きたくなる。

Kaigi

 仕事場で使われる罠として、「本題より先に前提を混ぜ、あたかも前提が合意されたかのように話を持っていく」という技がある。

 つまり、伝えたい主張(本題)に入る前の導入部で、「合意されていない前提」を混ぜ込むことで、本題に反応したら、前提に同意したことにするテクニックだ。フェアじゃないし、卑怯なやり方なのに、空気を吸うように使う奴がいる。

 たとえばこう。

 「この額で受注を獲得するために、さらに機能を2つ追加し、納期を4週間前倒すことが絶対だ」というやつ。するっと流して聞いてしまいそうだが、ポイントは、「この額」は社内で合意された見積でもなんでもない点にある。

 ところが、本題(機能追加と納期短縮)に反応してしまう。「追加機能の仕様が決まっていない」とか、「これ以上の短縮は無理」と返事をしてしまうのだ。そして、仕様がどうだとか納期の調整がどうした、といった話にもっていかれる。

 あたかも、「この額」という前提が確定したものとして扱われ、その後の議論がメインとなってしまう。そもそも「この額」でするとかなんて、全く議論していないのに。にもかかわらず、後になって異議を唱えると、「あのときそれで議論して決着ついたじゃん」とあしらわれる。

 この罠を使う奴は、本題に無理難題をふっかける。本題がムリであればあるほど、聞いてる人はそこに引っかかるし反応する。わざと食いつきやすく話を大きく振るのが、たまらなく卑怯なり。

 この罠が出るたびに、前提の部分を指摘して、「『この額』って、そもそも社内で合意されてましたっけ?」とツッコミを入れる。ところがテキもさるもので、「いまそこを話し合いたいわけじゃない」と跳ね返す。「でも、コストと機能と納期がセットになってないね」と食い下がる。こんな、ゴミみたいな予防線の張り合いが、後になって炎上プロジェクトを押し付けられたときに効いてくる。

 この手法、「不当予断の問い」の亜流ともいうべきか。「不当予断の問い」は、YES/NO で答えるクローズドクエスチョンに、不当な前提を混ぜたやつ。「もう奥さんを殴るのを止めたのかい?」が代表的で、YESと答えてもNOと答えても「妻を殴る」前提を認めたことになる。本題を餌にしたオープンクエスチョンで、「不当予断」を通す戦略である。

 この罠、かなり高度で、やられた方も気づかない場合が多い。にもかかわらず、上手い言葉が見つからないし、注意を促す警告もあまり見かけない。ビジネスの現場でフツーに使われているが、フェアでもないし卑怯なり。先週もシレッと使ってきた奴がいたので、丁寧に潰してさしあげた。

 類似の罠は、『議論の技術』にある。基本から詭弁まで、各種取り揃えている。最も忌み嫌っている「社内政治」で使えることが分かってきて嫌なのだが、降りかかる火の粉を払うためには致し方ない。
 

  • 「先ほどの質問について沈黙を守っていらっしゃいますが、ご了承いただいたと解釈してもよろしいでしょうか?」
  • 「あなたは反対なのですか? 反対であれば、なぜ反対なのですか?」(本来は立論側が負うべき立証責任を、シレッと押し付けるのに便利。「なぜ」と聞かれると答えたくなるのが人の仕様)
  • その切り返し→「私はあなたの質問に答えました。だから、あなたは『なぜ賛成なのか』について理由を述べるか、あるいは私が述べた理由に反論してください。しないのであれば、私の理由に納得いただいているという認識でよろしいですか?」
  • 「なぜその2択なのですか? 他の選択肢を検討しない理由を教えてください」

 本来は、建設的な議論をするための技術だが、キナ臭い現場にも効く。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

スゴ本オフ「冒険」のご案内

 推し本を持ち寄って、まったり熱く語り合うオフ会、それがスゴ本オフ。

02

テーマ「お金」のとき、バラエティ豊かな本が集まった

 本に限らず、あなたのお好きな音楽、映画、ゲームなど、なんでもござれ。あなたの「好き!」について、思いのたけを語ってほしい。

 日時 2/16(土)14:00~17:00
 場所 渋谷(HDE/HENNGE)
 参加費 2千円(飲み物、軽食をお出しします)
 詳細・お申込み [facebook「スゴ本オフ冒険」]

 当日は別フロアで[1000 Speakers Conference in English]を開催してますので、飛び込みで参加して「英語をしゃべる」という冒険をするのもいいかも

 今回のテーマは「冒険」。小説やマンガ、映画の冒険ものといえば定番だが、「これ!」というのを探すと様々な傑作が出てきそう。舞台となる場所(海、山、空、おしいれから宇宙まで)、タイムスケジュール(古代から未来、3分間から無限大)、キャラや冒険の手段、目的、不思議な冒険、奇妙な冒険と、いくらでも発想が広がっていく。

 別に「往きてし還る物語」である必要はない。「危険を冒す」のが冒険なのだから、大博打を打つ、ベンチャーにヤマを張る、アクロバティックに乗り越えるだっていい。危機一髪のストーリーなんて、たくさん思い浮かぶだろう?

12

テーマ「食とエロ」のとき。本好きはえっちで食いしんぼう

 さらに、冒険から発想を広げてもいい。冒険を経たあとに手に入るもの、それは財宝かもしれないし、頼もしい仲間かもしれぬ。わたしは冒険から得られる「経験値」として、とある一冊を思いついたので、そいつをメインに紹介するつもり。

 なので、あなたの自由な発想で紹介してほしい。全体の流れとしてはこんな感じ。

  1. テーマに沿ったオススメ作品を持ってくる

    オススメ作品は、本(物理でも電子でも)、映像(映画や動画)、音楽、ゲーム(PS4からボドゲ)など、なんでもあり。

  2. お薦めを1人5分くらいでプレゼンする

    あなたのオススメを存分に語ってほしい。刺さったところを音読するもよし、自己流の解釈もよし。DVD、ブルーレイ、Youtube はプロジェクターで再生しますぞ。

  3. 質問とオススメ返しの時間

    あなたのオススメに、観客から質問やオススメ返しされる。「実は私も好きなんです!」と同志を見つけたり、「それが好きならコレなんていかが?」なんてオススメ返しされたり。このリアルタイム性が嬉しいところ。紹介に優劣つけたり投票はしない(ここ重要)。

  4. 放流できない作品は回収する

    「放流」とは本の交換会のことで、交換できない絶版本・貴重な作品は、ここで持ち主の手元に戻る。

  5. 交換会という名のジャンケン争奪戦へ

    回収が終わったら、交換会になる。「これが欲しい!」と名乗りをあげて、ライバルがいたらジャンケンで決める。ブックシャッフルともいう。

Play19

テーマ「遊び」のとき、ボードゲームやゲームウォッチが集まった

 見るだけ参加もOKだし、紹介だけもあり。途中参加・途中退場もなんでもあり。このブログの右下あたりに、過去のスゴ本オフのレポートがあるので、それを参考にしてみるのもいいかも。

 本を介して人を知り、人を介して本に会う。わたしが知らないスゴ本は、実はあなたが読んでたのか! という出会いがいっぱいあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

人生を変えた一冊 『箱』

 品川駅の、HENNGEのメッセージが、好きだ。


Henge001


 駅をジャックするかのように、吹き抜けのデカイ看板、デジタルサイネージ広告がある。目に付くところ大きな広告であるにもかかわらず、モノトーン+簡潔なメッセージなので、逆に目立つ。なかでも、中央改札入ったとこの、日替わりメッセージが良い。


Henge002


 もとはHDEなのが、社名がHENNGE(へんげ)になるとのこと。スゴ本オフでお世話になっているので気になっていたのだが、このメッセージは刺さる。全部のメッセージは[あなたが変われば、世界も変わる。]で確認できる。


Henge003


 変化のメッセージといえば、イチロー「変わらなきゃ」、オバマ「Change」が浮かぶ。そこでは、ある種の覚悟や切実さでもって変化(へんか/Change)が求められている。いっぽうHENNGEでは、もっとコロッと、自由に気軽にお試しで、変化(へんげ/Metamorphose)することが誘われている。人はもっと変われるし、化けたほうがいい。


人生を変える一冊

 なぜなら、わたし自身、何気なく手にした一冊が、人生を変えてしまった経験があるから。

 それは、『箱』という本だ。ある時期、人間関係で非常に苦しい思いをしていたとき、本書に出会った。なぜ伝わらないのか、どうして分かってもらえないのか、こいつバカなのか!? と激しく悩んでいたのだが、一読し、一変した。

 一言で言うと、自己正当化と自己欺瞞の話だ。

 自己正当化は人間の仕様である。だが、自己正当化という仮面を人生の目的にしてしまうと、仮面を守るために自分に嘘を吐くようになり、ひいては自己欺瞞に乗っ取られる。そうなる前に、自己欺瞞(本書では箱と呼ぶ)に気づく方法が書いてある。

 急いで付け加えねばならないのが、「箱」は殻でもATフィールドでもない。「箱」は、殻でもATフィールドにもなれるが、それ以前の「自分が正しいという感覚」のようなものだ。もう少し詳しい説明は、[5冊の本が、わたしを自己正当化から自由にしてくれた]に書いたが、この感覚は、実際に読んで自分で体験してくれ、という他ない。


Jikoseitouka

5冊の本が、わたしを自己正当化から自由にしてくれた


自己欺瞞に気づくだけで楽になる

 自分で自分に吐いた嘘は気づけない。

 なぜなら、自分が「正しい」から。その「正しさ」が何にもとづいているのか、どんな根拠でなぜ「正しい」と言えるのか、深く掘り下げて考えてゆくと、わたし自身が揺らぐところまで降りることができる。そして、その嘘がバレる瞬間は、かなり気まずいし、恥ずかしいし、情けない。自分への裏切りに気づく瞬間は、恐怖以外の何ものでもなかった。

 しかし、『箱』を読み、「箱」に気づくことで、変わった。もちろん一回読んだだけで万事解決、というわけにはゆかぬ。何度も何度も、毎日のように「箱」に気づき、それを守るための人生を選ばないだけで、変わった。「箱」を意識することで、これまであたりまえのようにしていた防御や牽制、(箱を守るための)攻撃的な姿勢が、なくなった。



復刊後のタイトルは『自分の小さな「箱」から脱出する方法』


 要するに、楽になったのだ。自分で自分を苦しくしていたのだ。自分の首を絞めていた手に気づいて、やめたのだ。このままだと、自分を破壊していたかもしれない。この変化、へんか(Change) というより、へんげ(Metamorphose) に近い。

 たった一冊の本が、ここまで変えることは、珍しい。そして、どうやって自分がこの一冊にたどりつけたかを考えると、ほとんど奇跡のようだと思っている。


自分を変化(へんげ)させる一冊

 もともとは、[まなめはうす]のまなめ王子が絶賛していたのがきっかけ(14年くらい前?)。気になって調べてみたところ絶版状態で、Amazonでは8,000円くらいの値がついていた。

 図書館に駆け込むが、予約待ちが何人も入っているのに驚いた。発売当初の新刊に、予約がむらがることはありがちだが、当時からしても昔の本なのに、待っている人がいるというのは珍しい。これ、クチコミなどで広まった、隠れた需要があるということだともいえる。

 ずいぶん待たされた挙句、ようやく借りて読んでガツンとやられた。

 そして、8,000円は惜しいので原書を買い、「こんなスゴい本がなぜ絶版なんじゃ~」と出版社に電凸し、復刊ドットコムを教えてもらって働きかけたことがある。その甲斐もあってか、復刊されることとなり、好調に部数を伸ばし、シリーズ化もしているようだ。このあたりの事情は、まなめ王子が[箱本の思い出]で書いてくれたおかげで、思い出した。

 以後、出会う人出会う人ごとにお薦めしている。これ、あらゆる人にオールマイティに薦められる、珍しい本なのかもしれぬ。なぜなら、世界で最も重要な人、すなわち自分自身と向き合い、楽に変われる方法が書いてあるのだから。この変化の別名は、適応というのかもしれぬ。

 自分が変われば、世界が変わる。その意味で、世界を変える一冊なのかもしれぬ。わたしの人生を、わたしの世界を、よいほうに変えてくれる一冊に出会うことができたのは、まなめ王子のおかげ。このブログのタイトルの通り、わたしが知らないスゴ本は、まなめ王子が読んでいたというやつ。どれだけ感謝しても感謝したりないくらい。

 よい変化(へんげ)で、よい人生を。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『眼の誕生』はスゴ本

 「世界の見えかたが一変する」という意味で、目からウロコの一冊。

Menotanjou

 先入観やバイアスは、明示されるまで気づかない場合が多い。例示されて初めてハッとする。それまで、「見えている」と思っていたものが、実は「見て」すらいなかったり、「見える=存在する」という思い込みの強さに囚われていたことに気づく。


見えていない ≠ 存在しない

 わたしの「世界の見えかた」を変えたのが、爆撃機の話だ。第二次大戦中、敵機の攻撃から生還した爆撃機を調査した統計学者が、ある提言をした。それは、「被弾箇所(赤ドット)ではなく、空白部分を強化すべし」というのである。なぜなら、空白箇所に被弾した機は、そもそも生還しなかったからという理屈だ。

Wikipedia:Survivorship biasより引用

 「生存バイアス」とも呼ばれるこの理屈、ポイントは「見えている」という時点で何らかの選択がされていることだ。したがって、「むしろ見えていないものは何か?」という観点から「それはなぜか?」を考えると、問題そのものが一変する。いかに自分が「見えている」ことに囚われていたかに気づき、世界がぐるりと裏返るような目まいを生じる。


極上のミステリのようなノンフィクション

 『眼の誕生』を読んでいるときも、これと同様に、世界がぐるりと裏返る衝撃を受けた。本書のテーマは、「カンブリア紀大進化の謎を解く」である。文字通り、事実を積み上げ、ロジックを組み立て、動かぬ証拠をつきつける、極上のミステリを読まされているかのようなサイエンス・ノンフィクションである。

 「カンブリア紀大進化」は、「大爆発」とも呼ばれ、生物学史上の巨大な謎とされてきた。カンブリア紀の始まりである5億4300万年前、生物は突如、爆発的に進化したという謎である。それ以前の地層からは、ほとんどの生物は似たような姿形で、種類もたいしたことなく、さらに数もいなかった。

 それが、5億4300万年前から5億3800万年前までの間(地球史的には一瞬である)、硬い殻やトゲ、剣、鱗、歯を備えた、多種多様の生物が誕生したのである。突然、生物たちが申し合わせたかのように一斉に進化したのは、なぜか?

 その答えは、タイトルにある。『眼の誕生』こそが、進化の引き金となったというのである。犯人がタイトルに書いているようなミステリで、かつ、これほど鮮やかにガツンとやられるのは皆無にひとしい。

 つまりこうだ、光を感知するだけでなく、像として把握する「視覚」は、生物の捕食行動を促すことになるだけでなく、捕食者から逃れるための防衛機能や外部形態への淘汰圧となる。さらに視覚は、異性を惹きつけるためのディスプレイといった性淘汰にも影響する。眼はすなわち、世界を変えたのである。

 光スイッチ説という、この結論に至るまでの積み上げが凄い。生命の誕生まで遡り、光学の基礎を解説する。面白いのは、「色」を感じる仕組みにまで説明しようとすると、生物が発する色には、色素の色と構造の色があることまで理解する必要が出てくる。

 たとえば、赤色は、受けた光のうち、赤以外を吸収して、赤のみを反射するから「赤い」と知覚する。これが色素の色だ。いっぽう、鳥の羽やチョウの翅に顕著な、何色とは一概にいえず、見る角度によって様々な色になる構造色がある。化石をしらべるとき、色素は化学変化により失われる場合が多いが、構造色は残されていることがある。これを手がかりにして、「視覚」の誕生はまた「色」の誕生であることを突き止める。


動物の「視覚の進化」を見える化する

 ビジュアルテキストとして、『動物が見ている世界と進化』を併読したのだが、これが正解だった。大英自然史博物館を中心とした標本写真やグラフ、図版を元に、動物の眼はどのように進化してきたのか、色が生まれる仕組みや、色を持つことによる進化的利点が、まさに手に取るように見える。

 物理現象である「光」と、それを感受する器官、さらに内部で像を結ぶ「視覚」とし、波長による「色」を認識する一連の流れは、さらに、環境や状況に応じ、どのように適応させていったかの生物の多様な視覚器官がフルカラーで見える(お約束の昆虫の複眼の拡大写真もある)。


化石がない ≠ 存在しない

 カンブリア紀より以前、もともと生物はそこに「いた」のだ。だが、硬い殻や鋭い歯を持っていなかったため、化石として残されたものが少なかっただけなのである。眼の誕生により、食うか食われるかの環境になり、生物の大半が殻を持つようになったからこそ、あたかも多様な生物が一斉に誕生したように見えたのである。

 化石として見えるものがないからといって、存在しなかったわけではない。著者は、化石として残されていないものは、柔らかい体のほかに何が無かったか? という問いを立てたからこそ、「眼」への発想が生まれたともいえる。

 見えるものが全てではない。見えていないものから、世界の見えかたを、変えてみよう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

「古典は本当に必要なのか」討論会へ行ってきた

Kotennhahontouni

 古典不要派と必要派がガチで議論するシンポジウム「古典は本当に必要なのか」を見てきた。パネリストの紹介は[「古典は本当に必要なのか」シンポジウム]で、youtube や twitterまとめ([第一部][第二部])で見ることができる。

3行でまとめる+問題の本質

 長いので3行でまとめる。「高校の古典(古文・漢文)は必要か?」という議題に対し、

  • 不要派:古典は選択科目にして論理国語に注力すべき。あと現代語訳でおk
  • 必要派:幸せに生きるための古典は原文も一緒でないと
  • 会場の声:必要派が優勢だが、現場では現代語で教えてるのが実情

 そして、この問題の本質は次の通り。「古典は必要か?」と問われれば、必要に決まっている。問題なのは、どれくらい必要なのか? と問われていることに気づいていないことである

 そして、もっと厄介なのは、「これくらい必要」の「これくらい」は何を根拠にそう言えるのかを、示せていないこと。なぜなら、高校の有限なカリキュラムにおいて、他の「必要な」教科単元をさしおいて、古典が必要な「程度」を示すことが求められているから。センター試験国語200点のうち、古文50点、漢文50点である根拠と言い直してもいい。

ショートコント「ニュートン力学不要論」

 これ、古典必要派は、ピンとこないかも。

 会場に集まった人たちは、国語教育に所縁のある方が多かったせいか、古典肯定派がメインだった。問題の本質が見えてなさそうなので、前哨戦で見かけた、「ニュートン力学不要論」の回答を紹介しよう。岡目八目ともいうから、問題の深刻度が見るかもしれない。

問)古典不要というなら、現代物理学(相対論・量子力学)を学ぶ上で、古典物理学(ニュートン力学)は、不要ではないか? 絶対的な時空間を前提とし、光と重力の関係を無視しているニュートン力学は、相対論とは真逆の前提で、現代物理学を学ぶ上で、阻害となっているから。

答)ニュートン力学は、物理学の基礎であるため必要。古典物理学を不要という人は、そもそも古典物理学をちゃんと学んでいない人なのだろう。古典物理学をきちんと学べば、その重要性は自ずと理解できる。

 もちろん、ニュートン力学は高校で必須である。量子力学が一般化する20年後ならともかく、「基礎だから必要だ」がまだ通る。だが、真の問題は、古文・漢文の必要派は、こんな回答をしていなかったか、にある。「君は古典を(ちゃんと)知らないから、その重要性が分からないのだ」は答えになっていない。こんなコントみたいな理屈を主張してこなかっただろうか?

 まともな答えの一つは、ニュートン力学と高校数学(微積分、線形代数、ベクトル)の関連性を示し、そうした数学を元に現代物理学も成り立っていることを示すことだろう。ニュートン力学は独立した「単元の一つ」ではなく、数学や天文学、そして現代物理学との結びつきの上に成り立っているのだから、それだけ切り離せるものでもない。

 こうした答えを、古典必要派はしてきただろうか? 不勉強なわたしは、「まともな答え」を聞けるものだとワクワクしながら会場へ向かった。

箇条書き400字ぐらいでまとめる

 古典不要派の主張をまとめると、次の通り。「不要」といっても、失くしてしまえと息巻いているわけではなく、他に学ぶべきものとの優先度に応じるため、選択にしたらと提案しているとこがポイントだ。

  • 高校生の時間は有限であり、そこで学ぶべきことは多種大量にあるため、取捨選択が必要
  • 何をもって選択するか? 国益や個人の収入UPという価値観で評価すべき
  • その判断からすると、古典の優先度は下がるため、必須から選択にすべき
  • 反対に古典よりも、論理国語(企画、プレゼン、議論)を厚くすべき
  • 選択古典も、原文よりも現代語の方が効率がよい
  • 古典は、年功序列や男女差別を刷り込むツールとして有害な一面もあり
  • 教科とその学習量について、既得権と縦割りをバラして、最適化する必要あり

 いっぽう必要派の主張は、こんな感じ。徒然草の解説や、理系vs文系という対立構造では読み解けない江戸時代の医学書の話など、興味深いトピックが紹介された。

  • 古典は幸せに生きるための知恵を授けるもの
  • 古典への社会的敬意が低下しているからこそ、学校教育でその魅力を伝える必要あり
  • 例として、徒然草の紹介、連歌を用いた授業活動の提案
  • 近世の文献で翻訳されていない文献が多く、これらを解読して後世に残すのは納税者への責務
  • 古典を通じた文化交流もある

 つまり、噛み合っていないのだ。

 古典の重要性がどの程度かを判断するにあたり、経済性や実用性、コスパという観点から見る不要派と、人間形成や感性、教養といった観点から見る必要派という構図だ。そして、お互いに言いたいことを言い合って終わっている。

 これはもったいない。価値観の違う人が、わざわざ憎まれ役を買って出て、面と向かって言ってくれるのだから。議論を、しよう。

 議論とは、議題について異なる立場の人が話し合い、互いに妥協できる場所を探すこと。妥協点が見出せないなら、それぞれが主張する問題点を明確にし、それを解決するための課題が何かについて合意を得よう。問題点すら明確にならないなら、それを記述している言葉や事実を確かめよう。定義や認識、エビデンスの違いまでさかのぼれば、抽象度を上げることで問題点を重ねることができる。そして、重なったところでこれらの対話を繰り返そう。

 これが、議論だ。結果、妥協点を見いだせなくても、互いに何を問題視しているかを理解したり、事実認識や定義が違っていることを確かめることができる。その上で、「あれかこれか」ではなく、両論併記することで(抽象度の上げた)ゴールの可能性も考えられる。

むりやり議論を噛み合わせる(キーワード:幸せ)

 噛み合わない「議論」を、むりやり嚙み合わせるなら、「幸せ」がキーワードになるだろうか。不要派の「生涯年収」と必要派の「幸せに生きるための知恵」で、問題点・定義・認識を重ねることはできないだろうか。ほぼ思いつきに近いアイデアを、質問という形で、パネリストたちに投げてみた。

 ……残念ながら、有益な話を引き出せたとはいえなかった。

 古典を学ぶことが生涯年収UPに直結するかなんて、検証しようがない。それでも、日本で使われている言葉のうち、大和言葉や故事成語の割合を調べることはできる。仮に「古典の重要度」を数値化するなら、この割合が参考になるかもしれぬ。

 そして、こうした言葉が文字通り血肉となって自然に出てくることを示すことはできる。不要派のハンズアウトに、「餅は餅屋」「~すべき(強調の意味で)」という言葉があるのは、部分的とはいえ古典教育の証左だろう。「短い言葉で的確に伝えたい」という動機が、自ずとレトリックを選ぶのであり、その引き出しは教育如何による。

 しかし、当のパネリストから、「語彙が豊富だからといって幸せとする尺度は同意できない」という反論や、「アメリカは語彙を減らし簡略化することで移民受け入れが上手く行った」という事例が出され、議論はそこで尽きてしまった。そこから、「アメリカの母語簡略化に倣って漢字教育を廃止した韓国ではどうなっているか」という検証や、「簡体字にしたことで中国の古典伝承への影響はあったか(台湾と比較して)」というサブテーマに膨らませたら面白かったかも。

古典不要派の言葉を使って考える(国際競争力と国力)

 他にも、噛み合わせるポイントはある。

 このテの議論をするには、相手の言葉で語ることが重要だ。相手が使う言葉を掘り下げてみると、実は互いにつながりあっていたことが分かる場合もある。「古典は本当に必要なのか?(いや必要でない)」という言葉尻だけ捉えて、やれ焚書坑儒だ、華氏451だと批判するのではなく、テーマの範囲内で、相手の言葉をどうやったら建設的に使えるか? と考えるのだ。

 たとえば、不要派が重視する”国際競争力”の変遷を、古典からたどるアプローチはどうか。不要派が紹介したスライドで、20年前と今の大企業の一覧があった。GAFAに席巻されたグローバル経済を示し、変化に対応できる”国際競争力”が必要だという。

 これ、スケールが20年だから目まぐるしいが、200年、2000年ならどうだろう。その必要な技能は、「今だけ」なのか、200年来必要なのか。国力、経済力、軍事力、文化的影響、社会制度といった観点で、数百~数千年を振り返る歴史家の仕事になるが、その根拠となっている古典をカウントすることで、古典の影響力を測ることはできないだろうか。あるいは、他の発想が埋まっていないか、掘り起こしが可能だろうか。

 もっと生々しく”国力”への訴求性を求めるなら、歴史問題に踏み込むこともできる。たとえば領土問題として焦点の当たっている島嶼で、その歴史的根拠を探すなら、昔の文書を参照することになる。その有効度は状況によるが、「たしかにその場所について日本と由縁があった」証拠の一つとして挙げることができる。

 そして、その文書はただ一つ、単独で存在するのではなく、文書の存在を示す別の文書、その文書から引き出された(引用や言及、随想など)別の文書として、確実なものとなるということだ。その当時のネットワーク全体で、その文書が示す「確からしさ」が検証できる(ここ重要)。

 なぜ重要かと言うと、争っている相手から、「こちらの方が古いから有効だ」と出所不明・ネットワーク不在の文書が出されてくる可能性があるから。あるいは、相手が時間をかけて「ここは私の領土だ」と繰り返したり、詭弁や武力にモノを言わせて事実化する場合があるから。相手には相手の理屈があり、ストーリーがあるのだから、数十年から百年かけても、国策としてその主張を通そうとするだろう。

 詭弁や武力ではなく、エビデンスに基づいて問題を解決するのなら、文書ほど重要なものはないだろう。歴史問題についてエビデンスとなっている一次文書と、それを参照・言及している文書(相手が提示してくる「文書」も含む)、さらにその解読に携わる人をカウント・比較することで、古典の有用性を可視化することが可能だ。

 一例をあげるなら、[『沖縄は中国の属国だ』という主張が今更な感じがするのですが、どういうことなんでしょうか?]がある。この回答を支えている事実関係を示す一次資料は、それを参照・言及する文書のネットワークの中にある。これらを伝えていかない限り、時間をかけて辛抱強く繰り返される「沖縄は中国の属国である」主張へのエビデンスを手放すことになる。さらに、いま懸案となっている課題だけでなく、将来現れる新たな歴史問題を議論する準備として、古典を解析して維持していくことは、日本の「国力」につながる―――こうしたアプローチだと、古典不要派の「国力」と同じ視線で考えることができるかもしれない。

「認可的ワクチン」としての古典

 上記の例は、読書際さんの「認知的ワクチン」に関する一連のツイートから学んだ。

 「認知的ワクチン」とは、デマをウイルスになぞらえ、知識を教え学ぶことでその流行を防ぐことを指す。たとえば、化学を学ぶことで「水素水」や「コラーゲン配合」の流行を防ぐことになる。

 古典の場合、「水素水」や「コラーゲン配合」に相当するカッコに入るものは何になるか? 先の例だと「沖縄は中国の属国だ」だが、他にもあるだろう。一次資料ではなく、ネットに流れるトンデモ歴史を「事実」として本に書いたらどうなる? 鼻で笑われるだろうが、それがベストセラーになって大勢の人が信じたらどうなる? カッコに入るものは、結構ありそうだ

 そうしたものを数え上げることで、「古典は必要である」のうちの「どれくらい」かを、他と比較することができる。もちろん単純比較はできない。単なる数ではなく、代えのないものであれば、重みづけも考えるべきだろうね。そして、一次資料を読み解く人「だけ」が必要なのではなく、そこから引き出された知識を重視し、トンデモを鼻で笑うだけのマスが求められる。

 デマの拡散については、たとえば東日本大震災におけるデマをテーマにした論文[拡張SIRモデルによるTwitterでのデマ拡散過程の解析]がある。このSIRモデルを歴史認識に当てはめることで、古典教育の普及度とデマの拡散しやすさをシミュレートできるかもしれない。

古典の「効果」を可視化する

 古典は、言語や歴史といったアイデンティティに深く関わっているため、これを考えるわたしたち自身に内面化されており、その結果、見えにくくなっている。

 伝えたいという動機があるならば、そこに表現があり、レトリックがあり、古人がさんざんやってきたことなのだから、先例と踏襲と改変がある。

 パネリストから、連歌をおこなってきた先人たちの発想の集大成として歌語集を捉え、これと現代語の関わり合いを可視化するアイデアが出た。想いを伝えたい高校生にとってのLINEの一行を、図書室の歌語辞典から見つけてくる、というのはアリだろう。人は、それくらい、変わっていないのだから。

 ひょっとすると、わたしが気づいていないだけで、言葉の発想のつながり方を考えるなら、概念のかなりの部分は、古典によって準備されているのではないか、と思えてくる。ネットを行き交う言葉のうち、古文・漢文の影響を拾い出すことも、古典の可視化に一役買うだろう。

 さらに抽象度を上げて、行動様式としての影響を見るならば、わたしが何気なく撮ってSNSにアップする画像とつぶやきは、1000年前に紅葉を折り込んで詠んだことの現在形ではないだろうか。

 あるいは、映画「シン・ゴジラ」において発生した出来事を、時系列に沿ってリアルタイムで実況し、それに乗っかってツイッタラーがネタを広める[シンゴジ実況]なんて、インターネットを使った巨大な連歌は見えないだろうか。

 短い文章でつながっていく twitter において、普及度と特異な(?)使われ方を日本と他国で比較すると、そこに和歌や連歌の影響を可視化できないだろうか。

古典は「どれくらい」必要か?

 大事なことなので何度でも言う、古典は必要だ。

 だが、どれくらい、何をもってそう言えるのかについては、議論の俎上に上っていないものがある。なぜなら、言語や思考様式として内面化されているから。ニュートン力学が基礎としてあたりまえなように、古文・漢文も基礎としてあたりまえなのである。だが、両者の種類も程度も違う。それを測るための可視化が問われており、そうした検証の上で、議論が可能となる。

 噛み合わなくてもいい、という人はネットでうそぶいているがいい。リアルで、互いの最も重要なリソース・時間を使って議論をするのなら、最低でも「互いに問題視するものがあり、妥協ポイントは見いだせないにせよ、共通の問題は明確にできた」までは辿り着けないと。これは、(次回があるのなら)それまでの課題になるね。言葉の定義、立論を合わせ、当日までに議論ポイントとその検証までを準備しておく。

 それは「仕事とわたしとどっちが大事?」と訊くようなもので、異質なものをムリヤリ測ろうとするならば、どこかで歪みや偏りが出る。それは分かる。だが、議題に戻っていただこう。有限な「高校生の時間」というリソースをどうやって配分するかを考える上で、何らかの指標は、どうしたって必要なのだ。

 また、目的的行動の危うさについても分かる。「〇〇のために古典が必要」の〇〇なんて、時と場合により、そうした時と場合を超えて残り、普遍性を持っているのが古典なのだからね。それでも、その時とその場合による〇〇に対し、こういう面が応用できるという観点から訴えない限り、削られていくのみとなろう(そして、削られて残されたものが”古典”となる)。

 もう一度言う、古典は必要だ。

 だからこそ、その必要性を「伝わる言葉で」伝えないと。だが、内面化された古典の影響力を定量化するのは、かくも難しい。この件、もう少し続けてみる。国語のエキスパートたちのがどのように示してきたか、調べてみよう。かつて、古典は不要だ、全部ローマ字でいい、いや英語を公用語にしてしまえ、といった主張があった。

 知りたいのは、そこで「古典は必要だ」という人が、どんな主張をしてきたかにある。昔の古典必要派がフンショコージュの脊髄反射しかしなかったから、現在この体たらくなのか、あるいは、昔の古典必要派が体張って議論してくれたおかげで、この程度で済んでいるのか。議論が噛み合わないのは分かる(現在そうだから)。だが、そこで放置しないで、噛み合わせようとした努力は試みられたのか、知りたい。

 バトンは既に渡されている。わたしと、ここまで読んでしまった、あなたにも。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

«『タコの心身問題』『イカの心を探る』『ふらんけんフラン』で頭足類の「心」を考える