分かりやすさという罠「利己的な遺伝子」

利己的な遺伝子 かなり誤解を招きやすい教養書。

 わたしの場合、タイトルと評判だけで読んだフリをしてきたが、その理解ですら間違っていることが分かった。ああ恥ずかしい。このエントリでは、わたしがどんな「誤読」をしてきたかを中心に、本書を紹介してみよう。

 まず、「遺伝子が運命を決定する」という誤解。「利己的な遺伝子」なる遺伝子がいて、わたしの行動をコントロールしていると考えていた。遺伝子は、わたしの表面上の特徴のみならず、わたしが取りうる行動や反応を支配しており、そこから逃れることはできない――などと思っていた。わたしが利己的なのは遺伝子のせいなんだ、というリクツ。

 次に、「われわれは遺伝子の乗り物(vehicle)にすぎない」ことから、虚無的な悲観論に染まりきったこと。「ニワトリは、卵がもう一つの卵を作るための手段」なのだから、われわれは生殖さえすればよろしい。極端に言うならば、生殖しないのであれば、その人生は意味がない、ということになってしまう。これはひどい。

 これらは、ドーキンスが「利己的な遺伝子」で主張していると考えていた。すべてわたしの「読んだフリ」のせい。著者は似たようなことを書いているが、意図は激しく違う。注釈やまえがきなどで誤解を解こうとしているものの、誤読を招きそうな「演出」をあちこちでしているのも事実だ。

 ドーキンスの主張をまとめると、「生物のあり方や行動様式を説明するとき、遺伝子の自己複製というレベルからだと整合的に理解できるよ」となる。どうしてそんな特徴をもつ生物がいるのかという疑問に対し、「そんな特徴をもっている奴が生き残ったからだ」と説明できる。この「そんな特徴を持っている" 奴 "」がクセモノで、論者によって異なる。

 自然淘汰の単位を「種」に求めたり、種内の「個体群、集団」と考えたり、あるいは、「個体」を単位とする人もいる。本書で一番おもしろいのは、この単位を「遺伝子」としたところで、あたかもこの「遺伝子」が意志を持ち、自分の遺伝子を最大化するように個体を操っているかのように演出している。1976年版のまえがきが、本質を端的に物語っている。

この本はほぼサイエンス・フィクションのように読んでもらいたい。イマジネーションに訴えるように書かれているからである。けれどもこの本は、サイエンス・フィクションではない。それは科学である。われわれは生存機械――遺伝子という名の利己的な分子を保持すべく盲目的にプログラムされたロボット機械なのだ。
 怖いのはここ、太字はわたし。遺伝子に操作されたロボットとして、遺伝的決定を最終的なものと見なした瞬間、誤りに陥るのだという(p.417)。実際は逆で、後付けで行動を説明するために遺伝子が持ち出されているのだ。あたかもその行動が「決定」されたかのような書き方がなされているが、それ以外の行動をしたものが消えているだけ。統計的な「結果」にすぎないのを、予め「決定」しているかのように表現しているのだ。他にも、「遺伝子が組み込んだ」とか「遺伝子がプログラムした」という表現があちこちにあり、あたかも遺伝子が戦略的に計算をしているかのような印象を受ける。比喩として遺伝子を擬人化するのは、演出として上手いが、誤解を招くおそれも充分にある、両刃の剣なのだ。

 そもそも、「利己的」であるという「己」とは、一体何だろうか。"selfish"というからには"self"(自己・自我)がある。にもかかわらず、適用先は「個体」ではなく、「遺伝子」なのだ。自意識のない「遺伝子」を「利己的」だと形容し、「遺伝子の特定の部位」としたり、「遺伝子そのもの」としたり、「個体」としたり、範囲を伸び縮みさせる書き方が危うい。読み手は、自分に都合のいいように解釈するハメになる。

 案の定というか、利己主義の宣伝として本書を受け取る輩が出てくる。最初に述べたわたしの曲解「わたしが利己的なのは遺伝子のせい」がそれにあたる。ドーキンスは、そうした連中を「タイトルと最初の二頁以上は読まなかった」と批判しているが、タイトルからして誤解の招きやすい論を展開した著者も、釣師として自覚的であるべき。

 まだある。遺伝子には遺伝子、個体には個体でそれぞれの目的や戦略があるというのが、本書の主張の一つだ。一見「利他的」ともいえる個体行動も、「遺伝子を数多く残す」という観点から見るとつじつまがあう。個体としては不利で、命を危険にさらすような行動であっても、その個体の遺伝子を数多く残すという目的には合致しているのだ(個体の直接の子孫がいなくても、近親者はその個体の遺伝子と同じ部分を一部持っている)。

 しかし、遺伝子の「戦略」を説明するため、本来個体につけられるべき形容詞を多用しており、結果、遺伝子があたかも個体であるかのように受け取られかねないのだ。利己的、利他的、寛容、妬み深い、ジレンマ――戦略という言葉もそうだ。遺伝子を擬人化するあまり、遺伝子による説明を、個体に対する「原理」と読み違えてしまう。

 その結果、遺伝子の戦略――「淘汰を生き残ること」が、「産めよ殖やせよ」にすりかわる。裏返すと、二番目のわたしのカン違い「子孫を残さないのなら人生に意味はない」になる。どこかで「ドーキンス曰く…」と大嘘をタレ流していないかヒヤ汗ものだ。遺伝子の戦略は、わたしという個人にとって知ったこっちゃないの。

 例えば、「子殺し」「子捨て」という事例がある。前夫の子(継子)を殺したり、我が子を放り出して去っていく行動を、ドーキンスは、「遺伝子を最大化するため」という視点で読み解く。現夫の遺伝子は継子にない。継子を育てるためのコスト(時間・労力)をなくし、現夫の遺伝子を優先させるための「子殺し」というのだ。あるいは、子育てコストを配偶者に押し付けて、新たな(自分の)遺伝子を残す機会を最大化させるための「子捨て」という選択肢があるという(もちろん、夫婦のどちらが"捨てる"かにより、互いに搾取しあう構図も見えてくる)。

 こうした遺伝子の戦略を、「冷酷」だの「無責任」といった個体、もっというなら人を形容する言葉で表現するのは、おかしい。さらに、「ケダモノだもの」とか「虐待は動物世界にもある」といった論理にすりかえるのは、もっとおかしい。にもかかわらず、遺伝子の擬人化というメタファーに捕えられ、つい人間みたいに捉えてしまうのだ。かくいうわたしも、このエントリで、遺伝子をあたかも意志を持った存在であるかのごとく書いている。自分で「誤解を招く」といっておきながら矛盾しているんだけどね。

 つまり、ある行動を、遺伝子の立場からだと上手く説明できるからといって、その行動が正当化されたわけではないのだ。そして、遺伝子淘汰で説明できるからといって、遺伝子の「目的」がわたしの人生の「目的」に成り代わるわけでもない。これに気づかせてもらえただけで、本書を読む価値は充分に報われた。

 そして、この方法はかなり有効なことも分かった。「なんでもかんでも遺伝子」にする危険をわきまえながら、ある行動を遺伝子淘汰の観点で検証することは可能で、かつ、有効なことも分かった。自分の「道徳」「正義」に合わないからといって、遺伝子淘汰説を疎外することこそ、愚の骨頂なのだ。

 ただ、気になるのは、こうした議論が全て後付けであること。「そうした特徴を持っているのは、そうした特徴を備えた遺伝子が生き残ったからだ」とし、残ったものだけで説明を試みようとする。もちろん淘汰は再現できないし、過去は残された手がかりから想像するほかないのだが、強い恣意性を感じる。主張を裏付ける実験や、反証となる事例があまりにも貧弱なのだ。賛成側も反対側も、特別な行動をとる魚やコウモリを持ち出しては、自説の傍証としている。

 生物の多様性からすると、特殊な行動をとる魚と、特別な場所で生活すコウモリが、全く逆の行動をとったからといって驚くにはあたらない。さらに、そうした事例を反証する別の事例が(探せば)あるだろう。しかし、そいつを証拠として持ち出してくるほど特殊な話をしているんだっけ?という疑問に囚われる。賛成・反対、なんとでも取れてしまうほどの論旨なのだろうか、とツッコみたくなる。分かりやすさは大切だが、鵜呑みにすると危険。

 「分かりやすさ」を警戒しつつ、自分が試される読書だった。進化と倫理とジェンダーについて、気になる文献は以下の通り。ゆるり消化していこう。

  乱交の生物学(ティム バークヘッド)
  クジャクの雄はなぜ美しい?(長谷川眞理子)
  人が人を殺すとき(マーティン デイリー、マーゴ ウィルソン)
  男とは何か(バダンテール)
  進化論と倫理(内井惣七)

| | コメント (1) | トラックバック (0)

「続・影響力の法則」は「影響力の法則」と合わせてスゴ本

 「正しい」根回しのやり方が分かる。

 「論理的に正しい」からといって、自分の提案が通るとは限らない。社内ルールに則っているからといって、その部門の協力を得られるとは限らない。社畜も長いことやっていると、「根回し」や「政治力」の勘所が分かってくる。仕事をまわす、ティッピングポイント。本書は、こうした暗黙知をノウハウのレベルまで噛み砕いている。

 米国はそんなの無用だろうと思ってたが、勝手な思い込みだったようだ。本書がバイブル扱いされているのは、必要性を痛感しているからだろう。動かないプロジェクト、死蔵される情報、コミュニケーション不全――ビジネス上の課題はどこも一緒ということか。

 そして、その対策も共通している。権力を使わずに人を動かす原則を一言で表すならば、「お返し」になる。何かイイことしてもらったら、お返しに何かを返したくなる気持ちこそが、肩書きや立場を離れて人を動かす動機となる。

 本書では、も少し難しい言葉で、「レシプロシティの原則」と呼んでいる。レシプロシティ(reciprocity)とは、互恵性、返報性と呼ばれる社会的通念のことで、人間社会に見られる「もらったら返さなければならない」というルールの源だそうな。さらに著者は、相手を動かし協力を引き出す戦略を、「カレンシーの交換」を定義づけ、カレンシー(currency)、すなわち通貨の交換になぞらえている。こちらが求める価値(カレンシー)を得るために、それに相当するカレンシーを用意して渡すのだ。

影響力の法則 なにをいまさら、と思うかもしれない。「困ったときはお互いさま」という間柄になるためには、日ごろから便宜してあげることが原則なのは自明だろう。あるいは、立場や肩書きを超えて協力しようとするときは、「アイツなら多少の無理を聞いてくれる」とか、「以前にお世話になったからなぁ」という気持ちになっている。日本では「もちつもたれつ」という言葉に代表される互恵関係が、非常に戦略的に、システマティックに語られる。

 その基本編が、「影響力の法則」になる。類書に「影響力の武器」があるが、これは人間関係の心理を基とした知見で、ひとり対ひとりの一般的なやつ。本書はビジネスに特化しており、グループ、部門といった一対多にあたる「影響力の兵器」というべきもの。わたしのレビューは「影響力の法則」はスゴ本を参照してほしい。

続影響力の法則 そして、応用編が「続・影響力の法則」だ。成功例・失敗例ともども使って、「カレンシーの交換」がどのように影響力を発揮しているか、生々しく紹介している。インターンで平社員の仕事を任された大学生が、周りを巻き込んでいった方法や、優秀な社員ゆえのプロジェクトクラッシャーの苦悩は、読み手がまさにその立場であれば福音のように見えるかもしれない。さらに、部門横断的チーム、変革の推進、間接的に影響を与える方法、組織に影響をおよぼす方法、強硬手段のとり方など、より応用的な方法もある。

 最後に文句をひとつ。「続編」と銘打っているが、実はコレ、"Influence without Authority"一冊の本の「基本編」「応用編」を二つに割って出しているのだ。何か都合があったのだろうが、あこぎな商売をしておる。

 プロジェクト・リーダーなら、「あたりまえ」の原則を明かした二冊。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

お尻を理解するための四冊 【紳士限定】

 女は尻だ。

 何度でも言う、女は尻が肝心だ。もちろん、おっぱい山頂への関心は否定しないが、お尻のあわい目への興味と比べるまでもない。なおかつ、男はおっぱい星人であるとともにオシリストにもなれる。お尻を賛美することは、おっぱいを否定することにならないのだ(逆もまた然り)。

蜜のあわれ 女の尻のすばらしさについては、室生犀星が「蜜のあわれ」で力説している。人間でも金魚でも果物でも、円いところが一等美しいのだという。そして、人間でいちばん美しいのは、お尻だと一気呵成にヒートアップする。太字化はわたし。

人間では一等お尻というものが美しいんだよ、お尻に夕映えがあたってそれがだんだんに消えてゆく景色なんて、とても世界中をさがして見ても、そんな温和しい不滅の景色はないな、人はそのために人も殺すし自殺もするんだが、全くお尻のうえには、いつだって生き物は一匹もいないし、草一本だって生えていない穏やかさだからね、僕の友達がね、あのお尻の上で首を縊りたいというやつがいたが、全く死場所ではああいういつるつるてんの、ゴクラクみたいな処はないね。」
 激しく同意、つるんとしたお尻に顔を乗せてまったりすることは、人生の至福の一つだ。この作品は美尻礼賛として称えるべきなのだが、世間サマではちょっと違っており、ロリ小説として有名だ。金魚が少女に変身する話なので、ロリだと考えがちなのだが、相方の「おじさま」がいい具合に脂が抜けており、あくまで形而上のロリ談義。むしろ上で引用したお尻問答を推したい。

 まてよ、お尻問答といえば、稲垣足穂を外すわけにいかない。「A感覚とV感覚」では、お尻をこのように定義している。「そもそも臀部とは人体にあって最も愛嬌のある、福々しい、いついつまでも齢を重ねないような部分」――そう、愛嬌と福福しさをそなえた、みんなの大好きポイントなんだ。

 そして稲垣は、お尻中心主義ともいえる、人間疎外をお尻から解消する視点を示してくれる。普段は気にも留めないような「その場所」が主張しはじめるとき、われわれは便所へ向かう。外部から隔離された空間で、人間が本来の自己を取り戻すことができる。全室が使用中だったときの、あのせっぱ詰まった感覚や、ようやく確保して間髪をいれず射出する瞬間の、えも言われぬような戦慄を経験した方であれば、あれは自己解放そのものだということに同意するだろう。あるいはウォシュレット初体験の「ア゛ッー!」という感覚を思い出してもいい。稲垣はそれを、A感覚と名づけた。そしてV感覚(膣感覚)との違いを、こう説明する。

膣感覚は、腸管における排出時の快楽の変形だ、フロイトがこのように説明するところは僕も賛成します。で、加えて次のように云えるでしょう。そもそもV感覚が成立するのは、それより先にA感覚が存在していたからだ。けれどもいったんV感覚として派生し、独立すると、たちまちそこに安住し、対象化され、自身を覗く機能を喪失してしまう――
 自分を再発見するため、A感覚を研ぎ澄ませるのだ。V感覚は子宮によって限界づけられているが、A感覚は無底、オフリミッツだというのだ。たしかにそうだね、弁や門があるものの、われわれの消化器官は一本の長大な管にすぎないのだから。

お尻とその穴の文化史 A感覚への動機付けは、「お尻とその穴の文化史」で加速することができる。本書は、偏見と差別を受けてきたお尻について、医学的・歴史的観点から考察している。アヌスの機能にはじまり、浣腸やスパンキング、ソドミーの歴史が、豊富な図表とともに概説されている。同時に、お尻やアヌスに魅せられた人びとの芸術的成果が、古今東西関係なく紹介されている。肉体の最も秘められた部位に関する知見をもとに、古代からある命題「アヌスは性器か排泄器か?」について、あらためて考えると興味深い。著者の定義によると、こうなる。

アヌスとお尻は、想像力のあまりない人間にとってすら魅力的な場所であり、すこし大胆な人間にとっては、あたらしい喜びを与えてくれる謎めいた穴であり、さらに大胆な人間にとっては、タブーを破ることでなおさら刺激的になる性の香辛料なのである。
 好奇心の入り口であり、美の象徴であり、時には地獄の門としても扱われるお尻、そしてアヌス。液・固・気体を自動判別し、外界とのエアロック役を果たすアヌス。巧妙精緻なインタフェースであるアヌス。そんなアヌスに、親しみを感じられるようになるに違いない。

アナル全書 A感覚への親近感を理解へと進めてみよう。「アナル全書」は、うってつけの一冊であり、類書が存在しない唯一のスゴ本でもある。本書は、アナル・エリアとその機能についての自覚を深め、アヌスへの否定的な感情や、苦痛・緊張を緩和する、もしくは取り除くことを目的としている。

 そして本書は、たんに読まれるだけではなく、経験されるように書かれている。受け身で消費するためではなく、能動的な利用のために書かれている。各章を読み進めるごとに、読者は、自らのアナルを用いて、探求のプロセスをたどることになるのだ。

 そう、アヌスとは自分の体の一部であるにもかかわらず、「ないこと」「意識させないこと」として扱われている。意識に上るときは切羽詰った事態か、何らかのトラブルが発生したときである。日常会話からは注意深く取り除かれ、口に上るときはたいてい罵倒句(**s hole!、ケ○を舐めやがれ!)になる。

 著者はまず、自分のアヌスに注意を払い、観察することを提案する。そして、アナル部位を健康に保つため、食習慣、排泄習慣、メンタルトレーニング、一定のケアが必要だと説く。興味深いことに、アヌスの状態は、われわれの抑圧された感情を表しているのだという。自分ではケンカしていないつもりでも、自分のアヌスが硬く締まっていることに気づいた娘の例が面白い。この娘は著者のセミナーを受けて、自分のアヌスに気を配ることにより、抑え込んでいた緊張や怒りに気づいたという。

 つまり、自分のアヌスに注意することは、自分の感情に注意を払うこと一緒なのだ。さらに、自分のアヌスを健康に保つことは、そのまま即ち、自身の体を健康にすることになるのだ。

 25年かけて得られた知識と経験の裏づけはダテじゃない。ホモフォビア、性役割、病気、そしてタブーへの葛藤――著者は、薄皮を一枚また一枚とはぐように取り除いてゆく。アナルの健康を維持し、精神的な抑圧を取り除くことで、アナルを自己の認められた一部として再獲得できるというのだ。そして、自律的にコントロールできるようになれば、エロティックな目的にも応用できるという。本書を読むことは、疎外された身体未開地の探求、即ち究極のラスト・リゾートの旅となるに違いない

 女の尻から自分の尻へ。お尻を理解することは、自分を理解することなのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

自分の狭さを思い知る「若き日本人の肖像」

若き日本人の肖像 集合写真というのが苦手だ。

 撮られたわたしは、いつもヘンな顔をしている。シャッターのタイミングで必ず誰かが目を閉じて、幾度も撮りなおしているうちに、ダレてくる、疲れてくる。ウンザリしはじめた頃に撮ったショットが「ハイ、OK」となる。結果、不機嫌でボンヤリしたわたしが記念写真となる。撮られる側の空気が読めないから、みんなが勝負顔なのに自分だけ笑ってたり、その反対に、自分だけポーズ決めてたり。

 しかし、集合写真を見るのは好きだ。

 懐かしい人を好きなだけ見つめることもできるし、わたしみたいに"浮いた"誰かを探すのも愉しい。日付や背景からそのときのことを思い出す。たいてい痛テテな気分になる。過ぎてしまえばいい思い出なんて嘘、過去はいつも痛いもの。穴掘って埋まっておきたくなる。

 では、自分が写ってない写真はどうかというと、これまた見入る魅入る。

  ・劇団
  ・子供会
  ・青年団
  ・祇園祭
  ・お花見

 撮影者・吉永マサユキが10年かけて撮りためた、総勢3600人を超える集合写真集。さまざまなグループの、それぞれの記念写真・集合写真が並んでいる。ごくフツーの人たちの「ハレ姿」。よく目を凝らすと、そこに見知った誰かの顔を見出すかもしれない。あるいは、撮られた覚えのない自分の姿を見つけるかも。

 さらに、それほど身近でない同好会の集合写真も大量にある。世の中には、実にいろいろなグループがあるものだ。自分の世界の狭さに、あらためて驚く。メンバーそれぞれ、自分の生活があり、人生があるのだろうが、集合写真のフレームに収まるとき、見事なまでに同じ顔つきになる。この傾向はいわゆる「族」というカテゴリに属する人に顕著で、グループとしての「顔」があるようだ。

  ・拳法同好会
  ・ちんどん屋
  ・ボクシングジム
  ・闘犬会
  ・右翼
  ・レーシングチーム
  ・黒服会
  ・浅草ロック座
  ・矢沢永吉応援団
  ・ヤクルトスワローズ私設応援団
  ・ゴスロリ
  ・暴走族
   etc...

 グループの「顔」は、それぞれのチームカラーのように揃っている。例えば、青森ねぶた祭のカラスハネトの集合写真がある。カラスハネトとは、傍若無人の振る舞いをする連中を指すのだが、そのトレードマークは黒装束(=カラス)ではなくなっている。おそらく警察などのカラス族対策で、黒を避けたのだろうが、写っている顔は示し合わせたかのように一緒だ。夫婦の顔が似てくるように、族の顔つきも似るのだろうか。

 あるいは、ヤン坊たちのメンチの切り方が驚くほど似ている。上目遣い、顔をしかめる、手指のポーズ、(本人は独創的のつもりなのか)背中を向ける、ふりかえる…時代や地域を越えて、全くといっていいほど、変わっていない。これは、歌舞伎の大見得の亜流みたいなもんだと納得する。

 被写体のグループだけで通用する旗印や、内輪向けの惜しみない笑顔にとまどう。まるで、電車で隣り合わせた女の子のプリクラ手帳を見てしまったようだ。その一方で、いくらめくっても好奇心が尽きないのは、ファインダー越しにグループの連帯感が強烈に写りこんでいるから。

 自分の"狭さ"を思い知る一冊。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

体験を追走する「黄金探索者」

黄金探索者 喚起力がすばらしい。その場にいないとわからない感覚を、あたかも自身の肉体を通しているかのような読書にハマる。

 たとえば、台風が近づいてくるとき、じっとりと息苦しくなる。からだ全体が押し付けられたようになり、声がうまく出ない。物音の伝わり方がこもった感じになり、世界がまるで変わってしまう──そんな感覚に襲われたことがないだろうか。空や、風といった景色ではなく、もっと身体的な変化に驚かされることがある。

 これを、ル・クレジオは次のように書く。大型サイクロンが襲ってくる場面だ。

ぼくたちの体の一番奥深くに入ってくるあの静寂、悪い兆しと死を思わせるあの静寂こそ、忘れられないものだ。木々に鳥の姿はなく、虫もなく、モクマオウの枝を吹く風の音さえしない。静寂は物音よりも強く、物音を呑み込んでしまう。すべてが空ろになり消えてなくなる。ぼくたちはベランダでじっとしている。濡れた服のままでぼくはぶるぶる震えている。口を開くと、声は遠くのほうでふしぎな響きを立て、言葉はたちまち消えてしまう。
 終始こんな感じ。「静寂は物音よりも強く、物音を呑み込んでしまう」なんて、読んで初めて「あの感覚」だと気づかされる。西インド洋のちいさな島が舞台なのに、熱帯と戦場をさまよう黄金探索者の話なのに、なんだろうこの懐かしさ。

 「海賊の黄金を探す」という荒唐無稽な夢をリアルに生きる主人公に、共感よりも運命じみたものを感じる。モデルは著者の祖父だという。生涯を宝探しに費やした航跡をたどり、ル・クレジオは祖父と一緒に見た夢を小説の形で外化させる。ものすごくリアルな夢につき合わされているような感覚なのだが、主人公は必死だ。

 もうひとつ。黄金を探す主人公をよそに、読み手にとって美しい対称性がプレゼントされる。編者の池澤夏樹も、訳者の中地義和も言及していないので、わたしの妄想(?)と思ったのだが、せっかくだからこのblogで明かしてみよう。

 それはこうだ。物語の前半をなす主人公の生い立ちは、モーリシャス島が舞台。一方、海賊が宝を隠したとされているのは、ロドリゲス島になる。彼は、二つの島を行き来するため、ゼータ号で旅をするのだが、その航路がきれいにシンメトリーを成している。そして、物語の中盤で戦場に赴き、そこで地獄を見るのだが、その航路もまた対称的だ。さらに、最後の旅でふたたび訪れるルートも同様。

 お手元に本書があるなら、p.206の地図を開いてほしい。二つの島のそれぞれに重心があり、戦争をはさんだ線対称の軌跡を見出すだろう。それぞれの重心は、二つの島にいる女たちが抱いている。モーリシャス島の姉ローラであり、ロドリゲス島にはウーマがいる。「宝探し」や「召集」の名目で移動しつづけようとする主人公をひっぱる力が働く。表立って感情を出さない彼女たちが追い詰められ、吐露する瞬間に、この物語の対称性が浮かび上がってくる――これが、読者にとっての「宝」だ。

 では、主人公アレクシの目的は?黄金を見つけることができるのか?――もちろん物語は、彼にとっての宝を用意しているのだが、それは読んでのお楽しみ。ちなみに、(ネタバレ反転表示)池澤夏樹が不用意にウーマだとの出会いだと明かしているが、わたしはそれだけに限らないと考える。湾の形状と宝の目印、それに呼応する星座の対称性に気づき、宝の地図を完全に理解する瞬間がある。主人公とともに探索の旅を続けてきた読者は、その美しさにめまいを覚えるだろう。ここにも、シンメトリーが隠されていたのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

レイプは適応か

 「人はなぜレイプするのか」について、意見をいただいた。真面目な話題であるにもかかわらず、猥談レベルだとか、不快なエセ科学だと判断した方がいるのは、全てわたしの責任。わたしの説明がつたないせいで、彼(女)らの思考停止を招いており、とても残念だ(わたしが、ね)。

 著者(ソーンヒル&パーマー)は「レイプに対し、適応から理由づけができる」と述べているが、だからといって、「レイプは"自然"である(即ち、肯定せざるをえない)」とは言わない。両者は別個の結論であるにもかかわらず、二つを直結してしまう人がいる。つまり、「もしレイプが"自然"淘汰によって選びとられたのなら、それは"自然"なものであり、したがって良いものであるか、少なくとも存在を許されるものになってしまう」(p.227)と思い込んでしまうのだ。

 わたし自身、そうした「思い込み」の中にいたからこそ、本書の主張を理解することにかなり抵抗があった。進化生物学から導かれる説明が、いわゆる「道徳」に当てはまらないという理由で、受け入れがたくなっている。むしろ、「レイプは適応などではない」という主張があるならば、そいつを信じるほうが精神衛生上ラクだ。まさにその趣旨の論文がある。ジェリー・.コインとアンドリュー・ベリーが書いた論文で、「人はなぜレイプするのか」に真っ向から反対している。

  Jerry A. Coyne and Andrew Berry
  Rape as an adaptation? [URL]

 その結論はこうだ。

 レイプは進化生物学上に起源を持つという理論があるが、これは決定的に間違っている

 そして、本書の説得力ある部分は、巧妙な修辞的レトリックに拠っているという。確かに本書では、二つの仮説「適応」「(偶然の)副産物」が展開されているが、実際の生物の行動を説明する段階では、「副産物」が全てではないかと指摘する。あらゆる人間のふるまいを副産物としてみなすのなら、ピアノを弾くのもレイプをするのも一緒で、即ち無意味だとしている。

 ソーンヒル&パーマーは「適応」と「副産物」を両論併記する形で述べており、「人間のふるまいを説明するための"適応"」という議論の余地を残していたはず。わたしの読みが不十分なのかもしれないが、上記の反論は違う次元から行われているように見える。

 コイン&ベリーの反論は続く。ソーンヒル&パーマーの適応から見たレイプの説明に対し、「レイプ被害者のトラウマは、相対的に生殖年齢層(12~44歳)に強い」ことに対し、疑いの目を向ける。生殖年齢以下である12歳未満の子どもの申告は、直接的なものよりも、その養育者からのものが多く、生殖年齢層の自己申告とそのまま比較するのは問題ありと指摘する。

 さらに、生殖年齢層のほうが、そうでない層(12歳未満、44歳超)よりも、強くレイプ犯に抵抗するという、コイン&ベリーの主張に対し、異議を唱える。生殖年齢層のほうが、レイプにより強い恐怖感を抱いているためだという根拠に対し、「幼女や老女は物理的に抵抗力が小さいから」と反論する。そして、自説に都合のいい説明に固執しており、馬脚をあらわしたと批判している。

 結局、「レイプは進化である」というのは主張であり科学ではないとし、根拠や再現性が薄い数字を並べただけの「ただそれだけの話(just-so stories)」だという。単なるお話だけというわけやね。人間のふるまいに対し、社会生物学的なアプローチは面白いかもしれないが、それは学問的な傲慢だという。

 コイン&ベリーの反論は、確かに説得力を持っている。わたし自身、「人はなぜレイプするのか」を読んだとき、「これはトンデモ」と判断したものもあるから。例えば、「男は女を性交の相手としてしか見ようとしない、売春婦やポルノグラフィがその証拠だ」(p.86)とか、昆虫や鳥類の雄の雌への攻撃的行動を「レイプ」という表現で包む(p.269)ところがある。研究成果や参考文献を大量に引用し、慎重にアプローチしようとする姿勢は、その分、勇み足・浮き足的な瑕疵もたくさん出てくることになる。

 しかし、そうした勇み足の一つを攻撃して、本書の全てを否定できたヤッホーと能天気に勝利宣言するほど、わたしはおめでたくない。あるいは、竹内久美子のエッセイのような「分かりやすさ」に飛びついてこと足れりとするほど、この分野の研究は進んでいない(はずだ)。だから、「進化・適応からレイプを説明する」可能性は残し、精進に励もう。

 最後に。steel_eel さんのブックマークコメントをきっかけとして、上記の「反論」にたどり着くことができた。steel_eel さん、ありがとうございます。邦訳のあとがきは長谷川真理子が解説しています。そこで展開される彼女の主張「女の発情期の隠蔽化」は面白いのですが、本書とは全然関係してないので、あしからず。以下のエントリでは、わたしのよりも、より深く正確な議論がなされていますね。

  訳書出現 人はなぜレイプするのか―進化生物学が解き明かす

| | コメント (11) | トラックバック (0)

美女と宇宙

世界一の美女になるダイエット 「世界一の美女になるダイエット」のメッセージは、シンプルかつパワフルだ。

 曰く、「あなたは、あなたが食べたものでできている」。だから、美女になるためには、美女になるような食事をしなさいという。「ダイエット=減量」を信じ、修行僧のような禁欲的な食事をしている人には、まさに目ウロコだろう。「これを食べたら美しくなれるか?」と自問することで、栄養について学ぶのだ。

 「いま口にしたものが、10年後のあなたを決める」とか、「肌はあなたの内臓そのもの」といった、ドキっとさせられる(けど正論な)寸鉄と、ダークチョコレートやアーモンドを活用せよという具体的なアドバイスが詰まっている。世界一の美女をめざすならともかく、全部を実行するのはムリというもの。できそうなことだけを取り入れればよいかと。

 例えば、「白いもの」は避けなさいという。要するに精製されたものを指し、白砂糖だけでなく、白米や白いパンも含まれる。白いゴハンがどうして?と思っただが、血糖値が急激に上がるのはよくないそうな。だから玄米やライ麦パンといった「白くない」もので炭水化物を摂れという。

 食べ物を味方につけることで、美しくなれというメッセージは、そのまま、わたしは、わたしが食べたもので作られていることを強烈に思い起こさせる。リチャード・ウォーカー「人体」によると、人体細胞の寿命は以下の通り。

   小腸細胞 … 36時間
   白血球   … 13日
   赤血球   … 120日
   肝細胞   … 500日
   神経細胞 … 最高100年

 人間のカラダは数ヶ月で入れ替わっていると言われるが、脳や神経細胞は文字どおり一生モノ。30日間マクドナルド生活を続けるドキュメンタリー「スーパーサイズミー」の場合、小腸と白血球は完全にマクドナルド製に入れ替わっているのかね。

エレンの宇宙 では、そうした「わたしのカラダ」の元となっている食べ物はどこからやってきたか、そして、食べ物となる前の動植物の元はどこからやってきたか、さらには、物質の元はどこからやってきたか――を辿っていったものが、「エレンの宇宙」。ある少女の体内に宿る電子を「エレン」と擬人化し、彼女が過去を思い出す形で物語が進められる。

 エレンはかつて、少女が食べたリンゴの一部であり、そのリンゴの木が生えていた土の一部であり、その土は地球の一部であり、地球最初の生物であり、銀河を通ってきたガスの一部であり、宇宙で最初の星の一部であり――と、ビックバンまで遡及する。無から有はできない。わたしのカラダは宇宙の一部なのだから、「わたしは、宇宙でできている」という、至極アタリマエなのだが気づきにくい結論に、腹から納得できる。全は一であり、一は全なのだ。

 本書がユニークなのは、物理学的観点から見た「宇宙」を、逆向きに描いているところ。宇宙の誕生から始まって現在に至る時間軸・スケールで語るのではなく、「いま・ここ・わたし」から遡上するように視点が移っていく。ミクロからマクロへと莫大な広がりはあるものの、わたしの延長上であるというつながりを絶やさないように進めている。

 さらに、メタファーが面白い。宇宙空間の「濃さ」をマグカップに入った気体分子で喩えたり、銀河の渦巻きを「星が渋滞しているところ」と表現したり、直感的にわかりやすくなっている。余談になるが、著者のブログの「三毛猫はどうしてできるか」シリーズのわかりやすさは超絶的。ぜひご賞味あれ。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

このロビンソンが面白い「フライデーあるいは太平洋の冥界」

フライデーあるいは太平洋の冥界 デフォー「ロビンソン・クルーソー」をご存知だろうか。遭難した主人公が、南海の孤島で自然を開拓し、従僕フライデーとともに文明生活を築く話だ。

 では、ヴェルヌ「二年間の休暇」はどうだろう?無人島に漂着した少年たちが、力を合わせて生きていく物語だ。「十五少年漂流記」の方が膾炙しているのかもしれない。あるいは、家族版ロビンソンともいえる、「ふしぎな島のフローネ」はご存知だろうか?どれも、ロビンソン漂流記をアレンジしている。

 どの話も共通点がある。大自然に投げ出され、それなりに苦労もするが、文明人らしい生活を作り上げていく。自然の驚異や野生との共存といったテーマが描かれ、野性(採集・狩猟)から、文明(開墾・収穫)への歩みがストーリーのベースラインとなる。もちろん、狂気ルートへ逸脱する「蝿の王」や、テクノロジーの暴走が科学文明を築いてしまう「ふしぎの海のナディア(島編)」が成り立つのは、こうしたベースラインのおかげともいえる。

 だから、「ロビンソン・クルーソー」を下地にした本作は、似たような共通点を持っており、読み手はそいつを追いかけていくものだと信じてた――が、ぜんぜん違ってた。もちろんベースは「ロビンソン」だし、遭難してから島を開拓するところまで同じような展開になる。

 ところが、フライデーが登場してから話がおかしくなってくる。この若者、ロビンソンの言うことをぜんぜん聞かないのだ。勤勉さや文明、労働の価値といったものをまるで受け付けない。どころか、そういった権威を笑いのめし、茶化そうとする。開墾地や貯蓄物を台無しにする一方で、超人的な力を発揮して野生動物を仕留めたり、ロビンソンには考えもつかないような"遊び"を実現する。

 さらに、これまでの擬似ロビンソンで注意深く避けられていたテーマ、セックスや狂気が強調されており、とても興味深い。自然に還るのだから野性化してもよさそうなのに、(デフォーの)ロビンソンも、フローネも、ブリアンも、まるで"観客"がいるかのようにふるまう。けれども「フライデー」では切実だ。もともと"観客"はおらず、性の相手もいないのだから。ロビンソンが島と交合するところは、読み手が"笑う"番だろう。いくら高尚に飾りたてても、一種の信仰をそこに見て、そこに欺瞞を抱いてしまう。そしてハタと気づくんだ、「いま・ここ・わたし」とたいして変わらないじゃないかってね。

 デフォーが「ロビンソン」を書いたのは18世紀、そしてトゥルニエが「フライデー」を書いたのは20世紀だ。かつては無邪気に信じられていた「進歩と文明」に、大きな疑問符がつくのに充分な時を経ている。

 島じゅうが灌漑、牧場、耕筰地だらけになり、麦は貯蔵庫から溢れんばかりになり、ヤギは飼いきれないほど殖えまくる。それでもなお、収穫し、簒奪し、貯蔵する。自らの努力のむなしさに気づきつつ、努力をやめようとしないロビンソンは、かなりこっけいに見える。

 そのこっけいさは、物語で最初に「笑い」が表現されるまで、読み手は気づかない仕掛けとなっている。つまり、ロビンソンはフライデーと出会って初めて、笑いを――島に漂着して初めての笑いを覚えるわけ。ひとは一人では笑うこともできない。誰か笑いかける(笑いのめす)他者がいてこそ、笑いが成立するんだ。

 フライデーの笑いにより、ロビンソンが大事に持っていた権威は破壊される。西洋文明の権威とは暴力であり、武器だ。それが文字どおり大爆発して粉微塵になるんだ。そしてロビンソンは完全に変わってしまう。わたしたちが知っている文明の代表者の面を捨ててしまう。もちろんラストはぜんぜん違う。「驚愕のラスト」といいたいところだが、そこまで読んだ人には薄々分かっているラストに仕上がっている。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

ドラゴンの飼いかた教えます

ドラゴン飼い方育て方 ドラゴンブリーダー指南書。

 タイトルは「ドラゴン ――飼い方 育て方」。読めば必ず、ドラゴン飼いたくなる。ドラゴンとは何か?から始まって、コカトリス、ピアサ、サラマンダー、ヒドラ、タラスク、水龍など、品種ごとの特徴や飼育の上での注意点がフルカラーイラストで丁寧に説明されている。備品や設備、えさから健康管理まで、最高のドラゴンにするための秘伝(?)が明かされている。上級者(?)向けに、卵や幼体からの孵化・生育のコツから、品評会での審査基準まで、まさに至れり尽くせり。

 小学生の息子に与えたら、大喜びで読み始める。いちおう児童書なのだが、ルビがないし文体も硬めの解説書となっている。「デルトラクエスト」「ビーストクエスト」で洗礼を受けているので、ドラゴン譚の素地はある。特に、「物語」の体裁をとっていないところがいたく気に入ったようだ。

 西洋からインド、果ては南アメリカまで、様々なドラゴンがいる。変種・珍種(?)に気をとられているようだ。剣と魔法のファンタジーに出てくる、翼があって炎を吐くといった、固定化されたイメージを揺さぶってやろう。マンガやゲームでおなじみの、キャラクター化されたシェンロンやチキは出てこないのが残念。

 装丁がまた凝っている。ソフト地のいかにもな表紙に、古文書のようにひも綴じが演出されている。さらに、ギザギザのページ断ちが雰囲気と所有欲を掻きたてる。これを傍らに、ドラゴンが出てくる物語を読むのも一興。

エラゴン ためしに「エラゴン」を読んでみる――が、いくらも経たないうちに気づく。これ、星球大戦やがな!息子はまだ観てないので、オマージュとリスペクトとインスパイアに満ちたこれを"オリジナル"として受け取るんだろうな… いやその前に、映画版「エラゴン」を見せるという手もあるな。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

科学とSFの界面活性剤となる三冊

サイエンスインポッシブル 科学とSFの界面活性剤となる三冊を選んだ。

 楽観的に語られる未来予想図は生々しく、ときに禍々しいが、善悪を決めるのは科学じゃなくて人なんだといまさらながら気づかされる。

 まずは、「サイエンス・インポッシブル」。光学迷彩から恒星間飛行、念力やテレポーテーションといったSFネタを、最先端科学でもって検証してみせる。面白いのは、「何が不可能か?」に着眼しているところ。つまり、オーバーテクノロジーを技術上の課題に分解し、どうしたら可能になるかを検討するのだ。大質量の恒星を用いるガンマ線バースター砲の射程は数百光年といった極大から、自己複製する無人のインテリジェント・ナノシップを何百万と送るほうがコスト安といった極小まで、SFを超えたスケールに驚愕すべし。

操作される脳 次は、「操作される脳」。

 インターネットやステルス技術で有名な、米国防総省の国防高等研究計画局(DARPA)の「人体」への研究成果が紹介されている。脳を改変し、恐怖や眠気を感じさせない改造人間や、自己治癒能力を高め、傷を急激に治すといった研究を見ていると、メタルギア・ソリッドは、もはや「近未来」でなくなっていることが分かる。

 最後は「宇宙旅行はエレベーターで」。

宇宙旅行はエレベーターで アーサー・C・クラークが描いた軌道エレベーターは、SFでなくビジネスの話まで具体化されている。ケーブルの素材やエレベーターの動力といった技術的課題から、敷設場所や建造工法、さらには安全性、運用方法、宇宙ビジネスの収支まで、グローバルレベルの風呂敷が広げられている。いや、話は月や火星エレベーターまで広がっているから、太陽系レベルの超大風呂敷だ。わたしたちが生きているうちに、「そうだ、宇宙、いこう」という時代になるのだろうか。

 魔法と区別がつかないくらい発達したテクノロジーを見ているうちに、不可能とは、可能性の一つにすぎないことがわかる。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

«人はなぜレイプするのか