この本がスゴい!2020

今年の一年早くない?

トシ取るほど時の流れを早く感じるのは知ってるけど、今年は特に、あっというま感がすごい。恒例のこの記事、もう書くの!? と思ってる。

毎年、「人生は短く、読む本は多い」と能書き垂れるが、今年は、「人生は加速的に短く、読む本は指数的に多い」と変えておこう。

そして、昨年と比べると、世界はずいぶん変わってしまった。

基本的に外に出ない、人と会わないが普通になり、マスク装備が日常になった。オフ会や読書会でお薦めしあった日々は過去になり、代わりにZoomやチャットでの交流が増えた。

ポジティブに考えると、そのおかげで、読み幅がさらに広がった。わたし一人のアンテナでは、絶対に探せない、でも素晴らしい小説やノンフィクションに出会うことができた。お薦めしていただいた方、つぶやいた方には、感謝しかない。

さらに、今年は本を出した。

ブログのタイトルと同じく、[わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでる]だ。美味しいところだけを、ギュッと濃縮した一冊で、名著から劇薬本まで、お薦めを大量に紹介している。

すると、読者の方から「それが良いならコレなんてどう?」というフィードバックを大量にいただく(ありがとうございます!)。どれも独力では一生かけても出会えないスゴ本ばかりで嬉しい。

ここでは、この一年間に出会った本の中から、わたしにとってのスゴ本を選んだ。あなたの選書の手助けとなれば嬉しい。そして、あなたにとってのお薦めを伝えてくれると、もっと嬉しい。

 


コロナのおかげで出会えた傑作
『リウーを待ちながら』

 

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2月上旬、新型コロナウィルスの感染拡大が懸念されていたころ、[ある記事]を公開した。

緊迫した現場の報道や、差別的な言動を目にして、世界が変わっていくのを感じたからだ。そして、このまま最悪の方向に進むのであれば、「日常がどう壊れていくのか」という観点で、小松左京『復活の日』と小川一水『天冥の標(救世群編)』を紹介した。

すると、お薦めをもらった。

これは、ある地方都市で新型ペストが蔓延する話だ。政府の緊急事態宣言、医療崩壊の現場、差別と悪意に満ちたネットと、それが現実化する世界を描いた、絵空事とは思えない生々しいコミックだ。

医療崩壊を象徴的に示す光景がある。

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渋滞の先にあるのは病院だ。まだ原因不明の段階で、発熱や悪寒の症状を抱えた人々が病院を目指す。病院は人手が足りない、ベッドが足りない、医療品が枯渇する。重篤化した患者が続々と死亡する。

さらに、街は外側から封鎖され、リソースの取り合いや、自己防衛という名の私刑の横行など、社会が壊れてゆく。そうした状況の下、絶望を、よりましな絶望に変えるべく、医師としての仕事を全うしようとするのが、主人公だ。

タイトルの「リウー」は、カミュ『ペスト』の主人公の名だ。カミュをリスペクトして描かれた作品だが、『ペスト』のようには終わらない。そして、こっちの方が、より現在に近いと考える。

なぜなら、ラストが違うから。

もう絶望しなくてもいいことが分かったとき、人々は花火を上げないから。カミュが描いたのは、戦争のメタファーだ。だから、脅威が街を去るとき、人々が花火を上げ、祝うのは当然だ。

しかし、リウーが来なかったこの街の人々は、祝わない。上書きされた災厄を抱えながら、日常を取り戻そうと平常のふりをする。このラストは、わたしたちの未来の日常に重なる。

2年後か、3年後か、新型コロナウイルスの影響が小さくなるとき、それは「ある日」をもって宣言されることはない。ゴールデンウィークみたいに、「コロナ明け」となる境目は存在しない。『リウーを待ちながら』は、そこまで予言的に描いた傑作だと言える。

日常がどのように浸食され、どんな異様な光景を見ることになるか、物語からよく見える。言い換えるなら、いま目に映る光景がどれほど壊れているかを知りたいとき、物語はバロメーターの一つとなる。

この傑作に出会えたのは、[はてなブックマーク]のhelioterrorismさんのコメントのおかげ。ありがとうございます! はてなブックマークは、コメントでお薦めしてくれる方がいるので、大変ありがたい。

 


科学が紐解く世界の面白さ
『銀河の片隅で科学夜話』

上質な科学エッセイ。

軽妙洒脱な語り口に引き込まれ、するすると読んでしまう。多宇宙論と文学の深い関係を語ったかと思えば、最小の労力で民主主義を壊す方法を紹介したり、倫理学のトロッコ問題を4,000万ものビッグデータでねじ伏せる。

いちばん面白かったのが、最小の労力で民主主義を壊す方法だ。セルジュ・ガラム博士の「世論力学」を使う。

利害が対立する中、互いの意見を出し合い、コンセンサスを形成していく―――このプロセスを数理モデル化したのが、世論力学だ。このモデルを色々動かすことで、集団は非常に興味深い振る舞いをすることが見えてくる。

まず、全員が浮動票―――つまり、みんな確固たる意見がない―――状態からスタートした場合、時間の経過につれて賛否のいずれかが優位になり、最後は全員賛成、もしくは全員反対になる。どちらに倒れるかは運しだいといったところだ。

だが、一定の固定票―――つまり、確固とした主張を持つ人がいる―――場合、賛否に与える影響は大きくなる。重要なのは、その主張の正しさ如何ではなく、どの程度の固定票がいるかになる。固定票が17%を超えると、無敵になる。残りの浮動票がどう動いても、最終的に固定票に収束する。

つまり、サクラを雇ってレビューを書かせたり、組織票をSNSにバラまいたり、切り取った「民意」をブロードキャストしたり、やり方はさまざまだが、その数が17%を超えると、合意形成を恣意的に操れるようになる。

言い換えるなら、集団の17%の声を揃えるだけの資源があれば、民主主義のルールに則りつつ、集団を乗っ取ることができると言える。

著者は量子力学の専門家なのだが、文学や歴史についても造詣が深く、世界の面白さについて、様々な分野から、縦横無尽に語ってくれる。寝る前に一話ずつ読むといいかも。

書評全文:世界はこんなにも不思議で面白い『銀河の片隅で科学夜話』

 


世界の「見え方」が変わる
『オーバーストーリー』

リチャード・パワーズの最新傑作。

読むと、木を、新しい目で見るようになる。いっぽん一本の違う木が「ある」のではなく、全体として木が「いる」ように感じられる。一つの木に焦点を当てて見るという感覚よりも、もっとカメラを引いて地表を覆う存在を想像するような……

この感覚、読んでもらうのが一番だが、このイメージで伝えたい。この長編小説に入り浸っている幸せなあいだ、わたしの心は、ずっとこの光景で覆われていた。

地上の目からすると、それぞれの木は独立している。だが、数十メートルの空からだと、互いの枝葉を譲り合いながら全体として森全体が蠕動しているように見える(樹冠が空間を譲り合う現象を、クラウン・シャイネスと呼ぶ)。そして、地面の下では、それぞれの幹から伸びた根が複雑に絡みあい、コミュニケーションを行っている。

『オーバーストーリー』も同じだ。前半は、8つの章に分かれた、9人の生きざまを追いかける、それぞれ独立した短編として読める。各人に象徴的な木が登場するのが面白い。

たとえば、一本の栗の樹を撮り続けたタイムラプスを持つ芸術家や、ベトナム戦争で撃墜されるも菩提樹に救われた兵士、王維の美術画を受け継いだ中国からの移民(扶桑)、世界をシミュレートするゲームを作り上げた天才プログラマ(ボトルツリー)など、それぞれの半生が線形に描かれている。

生きることの苦しみや、ままならなさを抱えており、少し読み進めるたびにグッと胸にこみ上げてくるものがある。ひとり一人の生い立ちや思想は異なるものの、突然の不幸や社会の逆風に揉まれる様は皆同じ、風に吹かれて揺れ動く木のようだ。

中盤、ばらばらに見えていた人生が重なり合ってくる。ある目的に向かって、つながりを求めようとする。もちろん、それぞれ価値観は異なるが、衝突したり譲り合ったりしながら、生きる範囲を変えていこうとする。その様は、数十メートル上空から眺めた樹木が織りなすクラウン・シャイネスそのままに見える。

物語のスピードに合わせ、ゆっくりと読み進めるうちに、わたしの時間感覚にまで影響が出てくる。木のスピードで見るならば、人の営みなんて、タイムラプスで早送りされた一瞬なのかもしれぬ。こんな風に。

人間は、時間は一本の直線だと思い、直前の三秒と目前の三秒だけを見ている。本当の時間は年輪のように外側を覆う形で広がっているのだということを人は知らない。”今”という薄い皮膜が存在しているのは、既に死んだすべてのものから成る巨大な塊のおかげだ。

『オーバーストーリー』は、ガイブン鈍器部の三柴ゆよしさんのおかげで手にした。ゆよしさん、ありがとうございます。

書評全文:世界の見え方を変える『オーバーストーリー』

 


全人類が共有できる世界史の可能性
『新しい世界史へ』

歴史は勝ったほうが書く。

だから、グローバル経済の覇者を名乗る欧米中心になるんだろうなぁ、と思っていた。バラバラで異なる歴史をもつ地域が、欧米が主導する戦争と経済により一体化されてきたのが、世界史のメインストーリーだと考えていた。

東京大学の東洋文化研究所である著者は、これに異を唱える。そして、全人類が共有できる世界史を構想する。

歴史認識の共有は、近隣国ですら(だからこそ?)難しい。にもかかわらず、人類で共有する世界史なんて可能だろうか?

著者はまず、必要性を訴える。日本の歴史、フランスの歴史、中国の歴史など、国民ごとの歴史では不十分だと主張する。

世界全体で、経済が一体化し、文化や価値観にも共通点がある。それにもかかわらず、国民国家の観点から共同体への帰属意識を強調し、その利害を第一に考えさせる「世界史」では、地球規模の問題に取り組めないとする。

帰属意識の先を、国家から地球に拡張する、地球市民が共有する知識の基盤―――そんな世界史が必要だという。いうなれば、日本でもフランスでも中国でも用いられる世界史だ。

そして、「地球人のための世界史」が可能であるなら、それはどのような形になるのかを検討する。

可能性の一つの方向が、グローバル・ヒストリーだという。

ヨーロッパ世界を相対化し、あつかう時間を巨視的に眺め、対象テーマと空間を地球規模で採り、異なる地域間の相互影響を重視する歴史だ。

その例として地球の初期設定から語りなおしたダイアモンド『銃・病原菌・鉄』や、砂糖に焦点を当て人々の活動のつながりを炙り出す川北稔『砂糖の世界史』、あるいは、海と周辺地域を一体のものと捉え、その空間内での人・モノ・情報の動きを描くブローデル『地中海』を紹介する。

これをさらに広げ、「法の支配」「人間の尊厳」「民主主義の諸制度」「自由市場」「国家間暴力の否定」といった価値を基準にした世界の見取り図を提案する。

ある時代の王国、政府、長を中心とする人間集団において、どのように社会制度が維持され、こうした価値がどのように扱われていたかを比較する。それぞれに共通する点を炙り出し、いわば人間集団の類型化を図るのだ。

これを読むことで、人類に共通する価値が、どのように世界の地域で共有され、受け継がれてきたかが明白になる。そして地球という共同体に生きる一人だと認識できるものになるだろう。

著者は、構想し、提案するだけでない。予算を立て、プロジェクトとして実行している。東京大学、プリンストン大学、フランスの社会科学高等研究院、ベルリン・フンボルト大学と連携し、新しい世界史認識を生み出す挑戦的なプロジェクトだ。2014年から続いているこのプロジェクトの詳細は、「グローバル・ヒストリー共同研究拠点の構築」にある。

この世界史は、読んでみたい。

本書はスケザネさんから教わって出会うことができた。スケザネさん、ありがとうございます。一緒にお薦めいただいた、大江一道『世界近現代全史』も読みます。

書評全文:全人類が共有できる歴史はありうるのか?『新しい世界史へ』

 


地球外の生命を立証する科学
『アストロバイオロジー』

昔は、地球こそが宇宙の中心とみなされていた。

神に選ばれた人が住まうこの地球こそが唯一無二であり、星々は地球の周りをめぐると考えられてきた。だが、そうではないエビデンスが続々と集まり、地球が中心ではないことが明らかにされた。

そして今、地球こそが、生命が誕生する唯一の場所と「みなしたい」人々がいる。この発想の裏側には、「神に選ばれし人」という宗教や「人こそが生命進化の究極の存在」という文化がある。

だが、そうではないエビデンスが続々と集まってきており、研究体系となろうとしている。それが、アストロバイオロジー(astrobiology)だ。宇宙を意味する接頭語「astro」と、生物学を意味する「biology」を組み合わせた造語で、日本語では宇宙生物学と訳される。

  • 生命は、いつ、どこで、どのように生まれたのか?
  • 地球以外の天体にも生命は存在するのか?
  • 生命が存在する惑星としての 地球は、どのくらい特殊で、どの程度に普遍的な存在なのか?

興味深いのは、生物学に限った学問領域ではないところだ。

たとえば、生命活動が可能な領域を探るためには天文学、惑星科学、地球物理学の成果が求められ、生命誕生にアプローチするために生化学、微生物生態学、地質学、海洋学の知見が適用され、単純な機構から複雑な生命へのプロセスについては分子進化学、地球化学が用いられる―――しかもこれはほんの一部なのだ

つまり、アストロバイオロジーとは、最新の研究成果を惜しみなく注ぎ込まれる総合科学、いわば「全部入り」なのだ。

本書では、アストロバイオロジーの知見とともに、集まった最新のエビデンスが紹介されている。

たとえば、探査機カッシーニが土星の衛星エンセラダスの南極から噴出されたプルームから採取したアミンや酢酸、アルデヒドなど有機物がある。これは、生命がいる(いた)傍証として有力だ。

さらにプルームに含まれるナノシリカと呼ばれる石英の粒子は、地下には90度以上の熱噴出孔があることを示唆している。地球の生命誕生のカギとなっている深海の熱噴出孔を同じくらい期待してもいい。

現在進行中のプロジェクト「たんぽぽ計画」も、結果が楽しみだ。超低密度のスポンジ(エアロゲル)を宇宙空間に曝し、宇宙塵を捕集することで、そこに含まれる生命誕生の鍵となる物質を探す計画だ。

もし地球低軌道(高度400キロメートル)で微生物が検出されれば、地球上の生命が他の惑星へと移動する可能性を示す。つまり、生命は一つの惑星に閉じた存在ではなく、たんぽぽが綿毛で種子をとばすように、星を渡り宇宙へ広がっていく証左となるのだ。

この計画の一環で、国際宇宙ステーションの外で1年間生き延びた微生物がいることが分かった[Yahooニュース]。宇宙空間でも生命が生き延びられる可能性を示唆している。

地球外の生命を確信できる一冊。

書評全文:銀河系の知的生命体の数は90『アストロバイオロジー』

 


清潔・不潔は文化だ
『不潔の歴史』

史上最も不潔なのは、キリスト教徒だという。ホント!? 入信の際の洗礼のイメージから、きれい好きと思っていたが、違うらしい。

たとえば、イエスを食事に招いたファリサイ派の人は、イエスが食前に身体を清めなかったことに慄いたとある(ルカ11:37-54)。手記や小説などで、キリスト教徒の汚さは相当なものだと紹介されている。

一方、ユダヤ教徒やイスラム教徒は、清潔でいることが教義としてルール化されていたという。つまり、身ぎれいにすること自体が宗教活動の一つだったのだ。

『不潔の歴史』を読むと、「きれい」と「きたない」は文化的なものであることが分かる。

現代の米国人にとっては、清潔とは、毎日シャワーを浴びてデオドラント剤を付けることだし、17世紀のフランス貴族にとっては、体は洗わず肌着を毎日着替えることが「きれい」になる。さらには、16世紀の医者の指導によると、疫病が入り込むから風呂は禁止されたという。

自分の価値観に照らし合わせて「うへぇ」と声に出しながら読んでいるうちに、その自分の価値観ですら、後の世からすると、「うへぇ」なのかもしれぬ、と思えてくる。

では、なぜそれが現代の衛生観念に近づいたか?

すぐに上下水道の整備や衛生観念の一般化が思いつく。

だが本書では、広告戦略の影響が大きいとある。マウスウォッシュのリステリンや、ボディソープの広告の歴史になる。「あなたは臭い。そしてその臭いにあなたは気づいていない」というメッセージを刷り込むことで、こうしたデオドラント商品は飛ぶように売れたという。

さらに、周囲の衛生観が変わることで学習し、体を清潔にすることがあたりまえになっていったという。

本書にはないが、最近ならマスクになる。

2002年にSARSがアウトブレイクしたとき、マスクをする日本人は、欧米人の嘲笑の的だったが、2020年のいま、欧米人も公共の場所でマスクをするのが普通になっている。

自分の感染予防というよりも、他人に感染させないためのマスクなのだが、この考えが一般化されたのだろう。周囲がしているから、するのが「普通」だから、マスクをする―――こういう風に、衛生観念は育っていくのかもしれぬ。

清潔/不潔は文化であり、文化は伝染することを考えさせられる一冊。

書評全文:きれいは汚い、汚いはきれい『不潔の歴史』

 


「おいしい!」と感じるとき、起きていること
『味覚と嗜好のサイエンス』

「味」は信号だが、「おいしい」は経験だ。

味覚は、食べ物が体に入ってくる時のセンサーになる。甘味はエネルギー源となる糖、塩味はミネラル、うま味はタンパク質、酸味や苦味は腐敗物の存在を感知する。

だが、塩何パーセント、砂糖何グラムといった味覚が最適化されれば、自動的に「おいしい」になるわけではない。料理の見た目やにおい、口に入れたときの食感やのどごし、風味の全てで、わたしたちは味わう。

これに加え、昔から食べ慣れているかも含め、いまの体感と過去に学習してきた記憶を総動員して、「おいしい」と感じる。ふだんの食生活で見過ごされがちだが、「おいしい」とは、結構複雑な結果なのだ。

本書は、この味覚と「おいしい」を手がかりに、食べるとは何かを探求したものになる。

たとえば、「コクがあっておいしい」の「コク」とは何ぞや?

コクを感じるものとして、フォアグラやウニ、生クリームやバター、イクラやアボカドが挙げられ、その共通項として、油脂や糖やうま味が想定される。

そして、油脂や糖やうま味が示しているのは、高カロリー、タンパク質、糖分だ。生きる上で必須のアミノ酸や糖分を豊富に含み、効率的に摂取することができるのが、「コクがある」食べ物になる。なるほど!

これを「コクの原型」と呼び、その周囲に「コクの第二層」があるという。

コクがある食べ物を口にし、においや食感、のどごしを学習し続けるうちに、コクを感じるようになるという。つまり、学習の結果、アミノ酸や糖分がなくても、その存在を感知させるだけでいいのだ。あんかけやとろみ、濃厚な香りは、その代表例だろう。

そして、その地域での食文化によって、好みが学習される。

食べ慣れたものを好ましく感じるのは、「食べたことがある」という味覚や風味は、食の安全の信号だからだという。親や家族が食べていたから、子どもも食べる。これが繰り返されて、嗜好ができあがるのだという。

たとえば、日本では海苔が好まれるが、慣れない米国人にとっては、「食べ物とは思えない」といわれる。日本の場合、周辺を海に囲まれ海苔が作りやすかったことと、海苔を食べる習慣が古くから伝わっていたことで、必要な栄養素を海苔に頼る文化になった。一方米国では、海苔の風味が栄養や食習慣と結びつかなかった。

つまり、「おいしい」は文化による学習の賜物なのだ。味という信号と、おいしいという経験の間にあるものを探求する一冊。

紹介してくれたのは、ふろむださん(ありがとうございます!)。食と文化とサイエンスは、本書に加え、[ライトノベルでの異世界の和食料理はどうでしょう? 味覚と民族料理]あたりを手がかりに、広げていきたい。

書評全文:「おいしい!」と感じるとき、何が起きているのか『味覚と嗜好のサイエンス』

 


マザコン+ラブコメ+ブルーマー
『大蜘蛛ちゃんフラッシュバック』

このマンガは、同級生のお尻を見てたら、ひっぱたかれるところから始まる。

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……このシーンは、主人公の実(みのる)の目線ではない。お尻を見てたのは亡き父で、その記憶が、折に触れて、実の脳内に蘇るのだ。

お尻の持ち主は、若かりし頃のお母さん(旧姓:大蜘蛛ちゃん)。つまり、母に一途な父の目線でもって、「女子高生のお母さん」の記憶が、息子にフラッシュバックされる。

そして厄介なのは、実は、お母さんに恋をしてしまっていること。女子高生のお母さん(細身で強気)と、今のお母さん(むっちり無防備)に煩悶する、マザコンラブコメ。

「お母さんに恋してる」なんて、ちょっとヤバくね?

その自覚はある。だから実は自問する。

だけど、お母さんとの日常に、父の過去の記憶が入ってくると、女子高生のお母さんの可愛いさに撃たれる。そして、(ここ重要)父がどれほど母を好きだったか、ということを、父の目線で思い知る。だから実は煩悶する。

父の高校時代をなぞる実は、そのまま行くと母と結ばれてしまうインモラルな展開になってしまうのだが、そこは作者・植芝理一先生の見せどころ、これでもかとばかりにフェチと変態と純愛とノスタルジックなネタと突っ込んでくる。

そんな実に興味津々なのが、同じクラスの一 一(にのまえ はじめ)。最初はぞんざいに扱っていた実も、彼女と話しているうちに、「高校生の母に話しかける父の記憶」がフラッシュバックされる。まるで、彼女が母で、自分が父かのようなデジャヴを味わう。そして実は煩悶する。自分は彼女の事が好きなのか、父の記憶の中の母を好きなのかと。

ラブコメを摂取するのは、なんにも無かった青春の記憶を上書きするため。だから読んでて、あまりの甘酸っぱさに「うわああああ」と叫びだしたくなるけれど、それでもニヤニヤを堪えて読む。

作者のこだわりは、ブルマーが包むお尻の微妙なカーブや、ぴっちりしたジーンズに浮き出るシワ、あるいは、自転車のサドルに座ったときのプリーツのよじれといった形で表現されている(刮目すべし)。

倒錯と純愛を、ノスタルジックにフェティックに描いた全6巻。第一話は[ここ]で読めるぞ。

書評全文:大好きなマンガが完結したので全力でお勧めする『大蜘蛛ちゃんフラッシュバック』(ネタバレ無し)

 


人は、ロジックではなく類推で考える
『類似と思考』

人は、どのように思考しているのか? これを認知科学の成果から深掘りしたのが、鈴木宏昭著『類似と思考』だ。

本書によると、人は論理学的なルールを、個々の問題に当てはめて演繹的に解いているわけではない。それはむしろ、レアケースになるという。また、問題に行き当たる度に、メリットは本当に利得なのか、前提条件は対価として妥当かを、いちいち深く考えているわけではないという。

代わりに、過去の典型的なメリットー対価状況と、目の前の問題状況がどれほど似ているかを判断することで、面倒で、非現実的な処理をスキップしているというのだ。これにより、確率からするとあり得ない方に従ったり、文脈や状況だけから正しい判断を下したりする。

この、非常に人間くさい思考を「準抽象化による類推」として、その理論をまとめている。

「人の思考は、規則やルールに基づいておらず、類似を用いた思考(類推)を行っている」が本書の結論だが、そこへ至るまでに、文学や科学、政治やビジネスで行われる類推の事例を紹介している。さらに、他の理論と斬り結びながら自説をブラッシュアップしているところが面白い。

  • 多重制約理論:キース・ホリオーク、ポール・サガード
  • 構造写像理論:デドリー・ゲントナー
  • 概念メタファー説:ジョージ・レイコフ
  • p-prim理論:アンドレア・ディセッサ
  • 漸進的類推写像理論:マーク・キーン
  • Copycat:ダグラス・ホフスタッター

並べると、「人はどのように思考しているか」それは「一般化できるか(≒コンピュータに任せられるか)」さらに、「人がどのように世界を理解しているか」まで議論が拡張することになる。カーネマン『ファスト&スロー』やロスリング『ファクトフルネス』が好きなら、ハマることを請け合う。

「人はどのように思考しているか」について、現在の見取り図を与える一冊。

書評全文:認知科学から見た、多くの人が論理的に考えない理由『類似と思考』

 


人生を<かなり>楽にするエピクテトス

人生で一番大事なことは、イチローから学んだ。

  コントロールできることと、コントロールできないことに分ける。
  コントロールできることに集中して、
  コントロールできないことには関心を持たない。

首位打者争いをしているとき、ライバル打者について話題が及ぶと、「相手の打率は、僕にはコントロールできません、意識することはありません」と打ち切ったという。

同じことを、松井秀喜も語っていた。成績が振るわず、マスコミに批判されたことについて質問されると、「記事はコントロールできません。気にしても仕方ないことは気にしません」と返したという[松井、イチローの言葉を就活に生かす]

初めてこの言葉を聞いた時、自分を苦しめているものがはっきりと見え、すっと楽になった。以後、手帳の見返しに書きつけ、毎日見返している。

わたしを苦しめているものは、「コントロールできないもの」を生み出しては抱えている、わたし自身なのだ。

もっと踏み込んだ言い方では、[二ーバーの祈り]がある。

  神よ、
  変えることのできないものを、
  静穏に受け入れる力を与えてください。

  そして、
  変えるべきものを変える勇気と、
  変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを、
  与えて下さい。

神学者ラインホルト・二ーバーが作者とされる祈りの言葉で、アルコールや薬物依存症に苦しむ人を支援する会でも引用されている。

この、「変えることのできないもの」をあれやこれやと生み出し、それに思い悩むのは、ヒトの思考の癖のように思える。放っておくと、そうした不安にばかり埋め尽くされ、悪い方へ悪い方へとしか考えられなくなる。

だが、不安とは、未来に起こるかもしれない不都合を、「いま」思い悩むことだ。「いま」を「未来」に変えられないのであれば、起きたときに悩めばいい。起きてもいない(起きるかどうかすら分からない)不都合について心配するのはナンセンスかもしれぬ。

この考え方を辿ると、エピクテトスまで至る。エピクテトスはローマ帝政時代の哲学者で、彼の言葉は、マルクス・アウレリウスからパスカル、夏目漱石にまで影響を及ぼし、今に至っている。エピクテトスの言葉は、『語録 要録』で触れることができる。

エピクテトスの原則は、「自分の権内と権外を見極めよ」になる。

  権内=コントロールできるもの

  権外=コントロールできないもの

だね。そして、権内か、権外か、両者が適切に区別できている状態こそ、人にとってもっとも幸福であり、われわれが目指すべき最善な状態だという。

そして、権内か、権外か、あらゆる心像についてこの基準をあてがってみろとアドバイスるする。権外であれば、捨て去れと断言する。なぜなら、人々を不安にするものは事柄ではなく、事柄に関する考え方なのだからだというのだ。

エピクテトスの言葉そのまんまは、少し解説が必要だ。だが、これを現代風にアレンジしているのが、『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね』だ。山本貴光さんと吉川浩満さんが対談しながら、人生を楽にするやり方を噛み砕いてくれる。

エピクテトスは、山本さんと吉川さんのこの本のおかげで出会うことができた(ありがとうございます!)。私淑する一人として、読み続けるつもり。

書評全文:変えられないものをスルーして、変えられるものだけに集中する

 


辺境と文明が逆転する
『遊牧民から見た世界史』

中国がなぜ中国かというと、世界の中心を意味するから。

中国皇帝が世界の真ん中にあり、朝廷の文化と思想が最高の価値を持ち、周辺に行くにつれ程度が低くなり、辺境より先は蛮族として卑しむ華夷思想が根底にある[Wikipedia:中華思想]

しかし、蛮族とされている遊牧民から見ると、舞台はユーラシア全体となる。遊牧生活によって培われた軍事力で圧倒し、スキタイ、匈奴の時代から、鮮卑、突厥、モンゴル帝国を経て、大陸全域の歴史に関わる。中心と周辺が反転し、中華は一地域になる。

視点を反転することで、いままで「常識」だと考えてきたことが揺らぎ、再考せざるを得なくなる。

たとえば、「モンゴル残酷論」を誤りとする。

モンゴル帝国といえば、暴力、破壊、殺戮というイメージが付きまとう。PS4ゲーム『ゴースト・オブ・ツシマ』やコミック『アンゴルモア元寇合戦記』に登場する蒙古は、血塗られた侵略者として描かれている。

しかし、これは歴史の書き手による願望であり、よほどの例外を除きモンゴルはほとんど戦っていないという。

仮に、敵とみれば殺したという伝説が本当だとすると、モンゴルは増えない。ヨーロッパから中国まで、ユーラシア大陸を横断する規模で拡張するためには、仲間を増やす必要がある。

モンゴルの優れた点は、仲間づくりの上手さにあったという。自らの強さを喧伝することで、戦わずに吸収することを目指す。モンゴルという仲間になれば、身の安全が保たれるという、一種の安全保障を提供することで、帰順させるのだ。

軍事力を背景としながらも前面に出さず、関税を撤廃して経済と流通を隆盛させ、ユーラシア・サイズの通商を実現できた事実と、暴力と破壊のイメージはかけ離れている。おそらくこれ、どちらかが本当という二択ではなく、イメージと実践を使い分けたプロパガンダなのではなかろうか。

なぜ遊牧民にマイナスのイメージがあるのか?

本書によると、遊牧民は「蛮族」というレッテルを押し付けられてきたという。その理由は、「遊牧民は、自らの歴史をほとんど残さなかった」ことにある。

一方で、記録する側は、自分たちを「文明人」だと考えて、遊牧民に対し誤解や曲筆の多い書き方をしたという。遊牧民に攻撃・支配された時代は、被害者意識を過大に記述するか黙殺し、記録する側が攻勢にある時期は、遊牧民に対し、蔑視や優越感が溢れる表現になる。

歴史を記す側は、正統性を主張し、覇道を唱えるため、残虐や非道ではないことを証明しなければならない。その仮想敵こそが匈奴・鮮卑といった外側の人々だというのだ。

内側と外側、辺境と文明が入れ替わる。歴史を複眼的に眺めるダイナミズムが面白い。その手がかりを与えてくれる一冊。

書評全文:辺境と文明が逆転する『遊牧民から見た世界史』

 


おっぱいの本質を学ぶ
『哺乳類誕生』

おっぱいとは何か?

この問いに対し、人文科学からたどったのが『乳房論』だ。絵画、文学、宗教、政治、ファッション、医療、ポルノの斬り口から、[乳房をめぐる欲望の歴史]を描き出している。

いっぽう、自然科学からたどったのが本書『哺乳類誕生』だ。遺伝学、分子生物学、獣医学、生物工学、古生物学の斬り口から、乳房に至る進化の歴史を描き出している。

おっぱいで子どもを育てる哺乳類は、どのようにおっぱいを獲得したのか。乳はどのように発達し、どういったメカニズムで出て、生命維持にどのような役割があるのかなど、おっぱいの本質を学ぶことができる。

この、おっぱいの本質には瞠目した。おっぱいを全くといっていいほど分かっちゃいなかったことを、思い知らされた。

おっぱいは、ほとんど味しないし、うっすら生臭いので、血液みたいなものなのだろうと思っていた。だが、血漿に含まれる成分だけでなく、脂肪や糖を効率的に与えられることが、おっぱいのすごいところなのだ。

まず脂肪は、ほとんど水に溶けない。母乳は液体だから、脂肪を渡そうとしてもそのままでは難しい。どうするか? 

そこで、おっぱいの登場だ。

脂肪は乳腺細胞がつくり、細胞内の脂肪滴という形で存在する。これを乳に移行するときは、細胞膜を通らなければならないのだが、通過する場所がない。そのため、細胞膜を内側から押し上げ、細胞膜に包まれた状態(脂肪球)となって乳に移る。細胞膜そのものは水に混ざりやすい性質を持っているため、脂肪滴も親水性物質として振舞えるというのだ。

淡々と説明しているが、これ、端的に言うと、体液の養分を与えるのではなく、自分の身(細胞)を削って脂肪を包んで乳にしていることなる。まさに身を削って乳を与えているといえる。おっぱいは、血というより肉の一部なのだ

さらに、糖を渡すメカニズムもスゴい。

赤ちゃんの脳や神経の発達に大量の糖分を必要とするのだが、ブドウ糖ではなく、乳糖で渡す。これにもちゃんと理由がある。

ヒトの血中ブドウ糖は0.07~0.14%で維持されており、これを大幅に超えてコントロールできなくなると、全身に異常が現れる(糖尿病だ)。ブドウ糖は必要だが、正常範囲を超えたら毒になるのだ。

一方で、効率的に栄養を渡すため、乳の糖分を高くしたい。このジレンマを解消するのが乳糖だ。乳糖は、体内では利用されず、高濃度にしても支障ないという(人の乳に含まれる乳糖は7%)。これにより、高い糖度のおっぱいを、母体内の糖度に影響を与えずに渡すことができる。

こんな感じで、おっぱいの偉大さをいっぱい知ることができる。おっぱいは、生命進化の究極の形だともいえる。

本書は、おっぱいの碩学・骨しゃぶりさんのお薦めで知った(ありがとうございます!)。次は『乳房の科学』に手を伸ばしてみよう。

書評全文:おっぱいに(科学的に)興味がある人必読 『哺乳類誕生』

 


美とは究極的には適応度のこと
『美の起源』

問題:次の①と②のうち、どちらが美しいと評価されるか。



Landscape1



Landscape2

おそらく、①を答える人が多いだろう。

しかし、なぜ①を選ぶのか?

その理由は、デニス・ダットンが解き明かしている。ダットンは、普遍文法や普遍道徳と同じように、「普遍美」があると仮定し、それは国や民族、地域や文化に関係なく、好ましいとされるものだと考えた。

そして、1993年、ケニアからアイスランドまで10か国におよぶ調査を行い、どの風景が好ましいか、そして好ましいとされる特徴を突き止めた。

  • 広い空間に丈の低い草と、藪や密生した木がある
  • 近くに水がある
  • 鳥や動物がいる
  • 植物が多様である

これは、ヒトが好む原風景は、アフリカのサバンナに似ているところから、「サバンナ仮説」と呼ばれる。ダットンは、この嗜好を、ヒトが進化の過程で獲得した可能性が高いと主張する。

つまりこうだ。開けた空間なら、敵や獲物を発見しやすい一方、丈の低い草で身を隠すことができる。水があり動植物が豊富だということは、それだけ食べ物にアクセスしやすいことになる。ダットンは、この特徴は風景画のみならず、公園やゴルフコースにも適用されているという

特定の景観を好ましく感じる美的判断の起源は、ヒト科の狩猟採集者の生存可能性を高める場所にあるのかもしれぬ。この観点からヒト共通の美しい色を探すなら、それは水の青か植物の緑になるだろう。

つまり美を感じさせる裏側には、生物が生き延びて子孫を残す適応度が隠されているというのだ。

しかし、その一方で、枯山水は水を使わず、石や砂で表現される。水墨画や山岳風景画で描かれる自然は、サバンナの景観とは程遠い。こうした美的価値観は、適応の結果ではなく、歴史や文化の洗練を経て、変わっていったのかもしれぬ。

美とは何か?

哲学者や芸術家、科学者たちが答えようとしてきた疑問に対し、進化から考えるのが、渡辺茂著『美の起源 アートの行動生物学』だ。

ヒトの美意識の基礎には進化的な基盤があるとし、その美意識を行動生物学の視点から解き明かそうとする一冊。本書は、読書猿さんのツイートで巡り合うことができた(ありがとうございます!)。

書評全文:「美しさ」のサイエンス『美の起源』

 


意味が分かると『しびれる短歌』

Sibireru

「意味が分かると怖い話」というのがあるが、それに近いものがある。

ほんとうはあなたは無呼吸症候群おしえないまま隣でねむる
鈴木美紀子

同室で枕を並べる夫婦なのに、少なくとも妻は冷めきっているのが分かる。

「ほんとうはあなたは」で、夫の寝息がおかしいことに気づいてから、結構な日数が経っている。おそらく、就寝中の夫の寝息がおかしいことに気づいて、ネットか何かで調べ、「無呼吸症候群」に辿り着いたのだろう。

放っておいたら、そのまま息をしなくなるかもしれない。それも織り込み済みで、「おしえない」。ずっと息をしないようなら、「おしえない」まま目を閉じて、朝まで待つのではないかと、ぞっとする(「教えない」と漢字にしないところに、淡々とした意志を感じる)。

夫婦はホラーだ。これなんかもそう。

湯上りに倒れた夫見つけてもドライヤーかけて救急車待つだろう
横山ひろこ

風呂上りのヒートショックで、夫が脳卒中を起こしたのか。

この場合、「おしえない」のは犯罪なので一応、救急車は呼ぶ。だけど、待っている間は髪を乾かす。寝かせるくらいしか応急処置はないからだ。冷静なのか非情なのか。性別逆転すると石を投げられそう。

東直子さんと穂村弘さん、二人の歌人が紹介する『しびれる短歌』では、ヒヤりとするような歌がいくつも出てくる。現代の短歌では、夫は粗大ゴミであり、ぬれ落ち葉として扱われるらしい。「断捨離で最も捨てたいのは夫!」なんて涙を禁じ得ぬ。

これなんて、ぞっとするだけでなく、物語を感じる。

家族の誰かが「自首 減刑」で検索をしていたパソコンがまだ温かい
小坂井大輔

この家では、パソコンを共用していることが分かる。さらに、「検索」という言葉から GoogleやYahoo検索のことで、いわゆる昭和の時代ではないことが分かる。

それだけではない。検索キーワードを知っているということは、履歴を開いたことになるし、「自首 減刑」という言葉から、「自首したらどれくらい減刑されるのか」という意図が、そして家族の誰かがそれを知りたいと思っていることが分かる。

何をしてしまったのか?

もちろん、興味本位で調べたのかもしれぬ。だが、「まだ温かい」という言葉は、犯行現場に残された証拠品から「犯人はそう遠くに行っていない」「犯行からまだ時間が経っていない」ことを示す慣用句だ。

この一行からざわつきが伝わり、それを言えない詠み人のもどかしさも感じられる。詠み人にやましいことがあるならば、自分の犯行が家族にバレた? と不穏な物語を広げることだってできる。

短歌の破壊力が凄い。一行が目に飛び込んでくるから、構える間もなく理解に達し、感性を撃つ。一行の物語に震えて痺れる。

しびれる短歌を、お試しあれ。

書評全文:意味が分かると『しびれる短歌』

 


世界文学の日本代表が夏目漱石ではなく樋口一葉である理由
『「世界文学」はつくられる』

世界文学全集を編むなら、近現代の日本代表は誰になる?

漱石? 春樹? 今なら葉子?

審査は、世界選手権の予選のようになるのだろうか。投票でトーナメントを勝ち抜いて、これぞ日本代表としてエントリーするのだろうか。

スポーツならいざ知らず、残念ながら、文学だと違う。春樹や葉子ならまだしも、漱石は予選落ちである。

なぜか?

『「世界文学」はつくられる』に、その理由がある。近代日本語の礎を築いたことで誉れ高い漱石でも、世界的に見た場合、西洋文学のコピーとして低く評価されているという。日本では有名な漱石も、海外に行くと知名度はうんと下がる。

たとえば、米国の大学生が学ぶ『海外文学アンソロジー』がある。古今東西の古典から近現代の作品を取り上げ、体系的にリベラルアーツを教授するために構成されたアンソロジーだ。日本人作家も多数取り上げられている(カッコ内は近現代の日本人作家の登場回数)。

樋口一葉(7)
川端康成(6)
谷崎潤一郎(4)
与謝野晶子(3)
芥川龍之介(3)
村上春樹(3)
三島由紀夫(2)
大江健三郎(2)

漱石は0である。漱石に限らず、尾崎紅葉や二葉亭四迷など、明治の文豪は軒並み苦戦しており、鷗外はかろうじて1回収録されているのみになる。どうやら米国では、漱石はマイナーどころか無名に近い。

対照的に、樋口一葉は『たけくらべ』『わかれ道』など、数多く収録されている。ノーベル文学賞という理由で川端康成が入るのは分かるが、彼を除くと、ぶっちぎり日本代表と言っていい。

なぜか?

『世界文学アンソロジー』の解説によると、漱石や鷗外といった明治期の文学者について、辛辣な評になる。フローベールやゾラ、ツルゲーネフといった同時代の西洋のリアリストを盲目的に(slavishly)真似た、と斬っている。

一方、一葉は、西洋文学の影響を受けなかったと言われている。一葉自身が英語を解さず、日本独自のリアリズムを発達させたとして、高く評価されているのだ。

それに加え、「世界文学」の扱い方に秘密がある。この言葉が、どのような意図で使用されているかに着目すると、見えてくる。

『海外文学アンソロジー』を用いるのは、北米の大学で教鞭を取る英文科の教員だ。主要顧客である彼らの目的は、自分たちのアメリカ文学が、いかに西洋の歴史と不可分かを教えることになる。

それゆえ、収録される作品は、聖書から始まりホメロス等のギリシャ・ローマの古典、中世、ルネサンス、西洋の有名作品が紹介されてゆく。あたかも世界史の史料を拡張したかのような構成になる。この時点で、かなりのボリュームになる。

これに多様性を加える必要がある。いわゆるカノン(正典)としての世界文学では、「ヨーロッパ」「古典」「白人男性作家」が多数を占める。バランスを取るために、「非ヨーロッパ」「女性作家」「マイノリティ」を選ぶ必要が出てくる(しかも限られたページで)。

こうした、「米国大学の教員にとっての世界文学」という文脈で考えると、樋口一葉がくり返し採択される理由が見えてくる。

まず一葉は、女性作家である。それだけでなく、近代日本(おそらく東アジアでも)最初期の職業的女性作家として挙げられる。次に、作品の短く、紙面が限られたアンソロジーに適しているといえる。

さらに、一葉はフェミニズムの文脈で比較文学させられている。『海外文学アンソロジー』の解説ページでは、一葉の『十三夜』は、スタントン&モットの『感情宣言』と比較して読まされる。

『十三夜』は、子どものために離縁を思いとどまる母を描いた作品で、『感情宣言』は離婚時に母親に親権を与える話だ。両者をフェミニズム的枠組みの中で解釈することが、授業の目的となる。

シェイクスピアやダンテといったヨーロッパ文学の中核ともいうべき男性作家を締め出すことはできない。さらに、ポーやメルヴィルといったアメリカ文学の伝統を作り上げた男性作家も入れなければならない。

その上で、全体の頁数を増やすこともなく、多様性や平等を実現しようとすると、どうしてもどこかで調整が必要となってくる。

世界文学アンソロジーを編むことは、あやういバランスの上になりたっている。日本代表を決めるのは、日本における評価や審査だけでなく、日本を外から眺めるとき、眺めたい方向に沿った形であることも、ポイントとなる。

世界文学(World literature)という言葉は曲者だ。世界陸上とか、ワールドカップといった、グローバルで評価されるニュアンスと、「世界文学全集」という出版物がつくりあげた正統性やカノンといった響きが発動する。

こうしたイメージが、「つくられたもの」であることを、本書は実証的に解き明かす。ゲーテから始まる「世界文学」の歴史を辿りながら、そこに潜むイデオロギーや恣意性を暴いた一冊。

本書は、著者である秋草俊一郎さんのセミナーを受講する上で知った。秋草さん、素晴らしい本にまとめていただき、ありがとうございます。

書評全文:「世界文学」の日本代表が夏目漱石ではなく樋口一葉である理由

 


大ヒットする映画の法則&作り方
『SAVE THE CAT の法則』

大ヒットする映画の法則と、それを適用する方法が書いてある。ベストセラー小説やゲームにおける、物語のベストプラクティスとしても使える。たとえば、

  • どんな映画なのか、一行(ログライン)で言えるか
  • 「マトリックス」と「モンスターズ・インク」は同じ映画
  • 全てのシーンに葛藤が必要な理由
  • 原始人でも分かる、原初的な感情や欲求に立ち戻れ

など、気づきが山のように得られる。目からウロコというよりも、見ていたはずなのに分かっていなかったことが、言語化されている。

映画のシナリオだけでなく、物語づくりの根幹にも届く。その原則はそのまま「人が一番面白いと感じるものは何か」につながる。

それは、「葛藤」だという。

人はもともと、葛藤している人を見るのが好きだという。人間同士の葛藤の最たるもの(殺し合い)を模したものが、レスリングやボクシングになる。

葛藤は、「欲しい」「嫌だ」という方向を持っており、原始的な感情や欲求に裏打ちされている。原始的な欲求とは、「生き残る」「セックスする」「愛する人を守る」「死への恐怖」といった、時代や文化を超えた普遍的なものだ。そうした欲求が阻害されるとき、葛藤が生まれる。

たとえば、「目の前に迫る危険 vs.死ぬのは嫌だ vs. あの人を守りたい」とか、「落ちこぼれの僕だけどあの子と仲良くなりたいのにライバル出現」、あるいは「キライなあいつがなぜか寄ってくる」のように、欲求とそれを阻害するもの、どちらを取るのか、ジレンマといった争いやもつれになる。

乱暴にまとめるなら、人は葛藤を見たいので映画を観る。主人公が葛藤を克服し、欲求を満たすとき、観客は、一番基本的なレベルで共感できる。これが映画の快楽になる。主人公の葛藤をドライブするのがストーリーといえるだろう。

だから主人公は、物語の中で一番葛藤し、最終的に一番大きく変化していなければならないという。シーンをまとめたカードには、必ず何らかの葛藤が入っていなければならない(どんなに出来が良くても、葛藤のないカードは捨てろとまで断言する)。そのために、わざわざ「葛藤」を示す記号まで作っている。それぐらい重要なのだ。

ここ、小説の創作技法と同じだ。カート・ヴォネガットの指南で、「たとえコップ一杯の水でもいいから、どのキャラクターにも何かを欲しがらせること」を耳にしたことがある。何も望まず、嫌わないキャラクターなら、最初から登場しなくても良いということか。

もちろん、こうした原則を守れば大ヒットすることが保証されているわけではない。監督や俳優など、ヒットを左右する様々な要因があるし、シナリオ通りに作られる保証なんてもっとない。

だが、大ヒットした映画のシナリオは、全てこの原則になっている。本書は、ヒット作のシナリオを理解・分解・再構築した、いわゆるリバースエンジニアリングによる指南本なのだ。

本書は長らく積読山に刺さっていたのを、ふろむださんの後押しで読んだ(ありがとうございます!)。映画に限らず、物語を作る&楽しむ上で、非常に役に立つ一冊。

書評全文:ヒットする物語の作り方『SAVE THE CAT の法則』

 


物語に感動するとき、その力はどこから来たのか?
『物語の力』

物語に魅了されるということは、どういうことか。「感動した」「心が震えた」と手垢にまみれた言葉があるが、その心を震わせる力はどこから来たのか? これが本書のテーマになる。

「心を震わせる力=物語の訴求力」として、どのようなときに訴求力が発生するかについて、物語論の研究成果を解説する。本書では詳細に分けているが、ざっくり以下の場合になる。

  • 回復と獲得の物語:自分が直面する問題に対する解決や、到達したいと願うゴールへの筋道が描かれているとき
  • 疎遠と帰属の物語:自分とは異なる価値観が提示され、自分の価値観が揺さぶられるとき

小説や映画における物語は、現代では消費されるものという意味合いが強いが、昔からの神話や民話の役割を担う側面もある。それは、物語を通じた、価値観や規範の伝達だ。

物語では、何か問題を解決したり、何かのゴールへ向かって進む。その背景にあるものは、「これは良くない状況であり、問題である」「これが良い状況であり、望ましいゴールだ」「解決にあたっては、このルール・設定を守るべきだ」といった、良い・悪い・望ましいといった価値基準だ。

そして、物語を聞く人は、物語の背景にある価値や規範を自らのものにし、物語で示されるモデルを模倣しようとする。

たとえば、「自己犠牲は望ましい」という価値基準があり、それが「皆のために戦いに行く物語」になる。この物語に感動した人は、共同体のために自分を犠牲にする行為を価値あるものだと考えるようになる。いざ他部族が攻めてきたとき、立ち向かってゆくだろうし、そのような気にさせる物語が、「良い」物語になる。

では、どうすれば「そのような気」にさせるだろうか?

「回復と獲得の物語」では、「自己効力感」と「ホメオスタシス」で説明する。自己効力感とは「自分にはできると感じる自信」のことで、ホメオスタシスとは、元に戻ろうとする力になる。

つまり、何かのストレスがかかり、マイナスの状況になったとき、「自分にはできる」と信じて手を尽くし、マイナスから回復すると、大きな快を得るというのだ。このときの「自分にはできる」という動機と、マイナスから回復する方法は、強く学習される。

より大きな快を得るためには、マイナスの度合いを大きくすればいい。主人公は、自己効力感を持たせる前に、絶望的な状況に落とせばいいし、ライバルや障壁を設けることで、得られる快もさらに一層強いものになる。

こうした物語の役割は『のだめカンタービレ』『デスノート』『インデペンデンス・デイ』など、具体的な作品を挙げながら解説されている。

また、『君の名は。』のラスト90秒が凄い理由を、視線誘導と感情移入の仕掛けを紐解きながら説明する。全ての仕掛けが分かったうえで、もう一度観ても、やはり感動する。それは、「なぜ人の心は震えるのか?」という謎に対する答えそのものだからだ。

そして、「自分の心がどのように震えたか」が分かれば、「誰かの心をどのように震わせるか」も分かる。読む人・書く人・描く人……物語を紡ぐあらゆる人にお薦め。

書評全文:物語に感動するとき、その力はどこから来たのか?『物語の力』

 


笑いはヒトとしての適応である
『ヒトはなぜ笑うのか』

犬、売ります:なんでも食べます。子どもが好きです。

意味が分かったとき、めっちゃ笑った。誤りに気づいて愕然とする男と、その傍らでシッポ振ってる犬まで目に浮かんで、笑いが止まらなくなった。

ひとしきり笑ったあと、可笑しかった理由を考えても、出てこない。「子どもが好きです」のダブルミーニングは分かるが、それが、どうして「あの」可笑しみを招いたのか、説明するのは難しい。

絶妙なネタが飛び込んできたり、とんでもない大失敗を目の当たりにしたとき、胸の奥・腹の底に、抑えようのない情動が沸き起こってくる。

このユーモアの情動がどのように引き起こされるのか、さらに、それをどうして愉快だと感じ、笑いにつながるのか―――認知科学者(ハーレー)、哲学者(デネット)、心理学者(アダムズ)の3人の共同研究『ヒトはなぜ笑うのか』が、この謎を解き明かす。

本書では、ユーモアの情動が発動するとき、そこに何らかのエラーの発見があることに注目する。私たちは、ある知識や信念に不一致を見出したとき、可笑しみを感じる。私たちは、何かがおかしいと分かったとき、それを可笑しいと感じる。

しかも、不一致であれば必ず可笑しく感じるとは限らない。いったん真だとコミットメントされた要素が偽だと判定されるとき、ユーモアが生じる―――これが「可笑しさ」のメカニズムだという。暗黙裡に当然視していたものが、一気に一挙にひっくり返る発見、これがカタルシスにつながる。

さっきの「犬、売ります」だと、掲示板かSNSのような場所に、犬の買い手を募集していることが分かる。続く「なんでも食べます」は、「(犬は)好き嫌いせず何でも食べる」と整合的に理解される。

そして、「子どもが好きです」が入ってくると、いったんは「子どもに懐きやすい犬」と受け入れられる。だが、その後、「なんでも食べる犬」という全体像と比べると、「好き嫌いせず子どもを食べる犬」と読み取ることができてしまう。

いったん受け入れた「子どもに懐きやすい犬」が偽だと判定されるとき、わたしは、可笑しみを感じる。もちろん、「子どもを食べる犬」というグロテスクな結論は偽なのだが、それも含め、この文章に促された誤読(おかしさ)の発見こそが、愉快なのだ。

この「愉快だ」というユーモア情動には、適応的な働きがあるという。この情動は一種の報酬であり、これを求める動機付けになるというのだ。

たとえば、私たちは果糖がもたらす感覚を「甘い」として心地よく味わう。それは、エネルギーたっぷりであるが故に、グルコースの摂取を求めるよう、「甘さ」が動機づけられている。甘い・美味しいという感覚は、グルコースを摂取した報酬になる。

それと同様に、「可笑しい」という感覚は、今まで当然だと思っていた知識や信念の中にに、首尾よくエラー(おかしさ)を見つけた報酬だという。私たちは、チョコやケーキを求めるように、ジョークやユーモアを求めているのは、こうした理由によるというのだ。

そして、こうした「エラーを見つける」ことを報酬にした理由を、メンタルスペースの概念を用いて明らかにしてゆく……人が「笑い」を手に入れたのは、ヒトとしての適応の結果なのだということが分かってくる。

笑いを探ることでヒトの本質に近づく一冊。

書評全文:適応としての笑い『ヒトはなぜ笑うのか』

 


人生の持ち時間は少ない、やりたいことは全部やろう。
『キミオアライブ』

Kimioa

病院のベッドで、ひたすらノートに書く少年。

大病を患い、未来に絶望しかない状況で、「やりたいこと」を書き続ける。リストには、たくさんの「夢」が並んでいる。

  • リコーダーを吹きたい
  • 風船の中に入ってみたい
  • 部屋中を使ってピタゴラ装置をつくりたい
  • 空を飛びたい ……

ささやかな願いから、とんでもない冒険まで、さまざまな夢がある。

わたしも、自分の夢をリストにしたことがある。行きたいところ、食べたいもの、やりたいことを綴った覚えがある。でもそれだけ。リストを作って「名前を付けて保存」しただけだ。

しかし、少年は違う。名前はキミオ、『キミオアライブ』の主人公だ。

  1. ノートに、やりたいことを書く
  2. 書いたことは、必ず実行する
  3. 実行したら線を引く

キミオは、律儀に、真面目に、一つ一つ、実行していく。

「リコーダーを吹く」は簡単にできるが、ピタゴラ装置はちょっと大変かも。さらに、「空を飛ぶ」のはもっと難しい。飛行機に乗ればいいのか?

キミオは、別の方法で「空を飛びたい」を実現する。

ここが、キミオとわたしの大きな違いだ。

わたしは、「やりたいこと」が浮かんだとき、まず、その「できない理由」を探し始める。お金が無いから、もっと時間があったなら、スキルが足りない、仲間が必要、そもそも法律で許されているの? なんて考えて「いつかやろう」になる。

一方、キミオはこう考える。「もしそれを実現できるなら、どんなやり方がある?」と考える。あるいは、「何が実現されたなら、『できた!』になる?」と考える。そして、できる方法を探し始めるのだ。

この発想力と企画力、そして実行力がすごい。

最初は呆れて馬鹿にしていた周囲の人も、だんだんとキミオに巻き込まれてゆく。

その一方で、キミオ自身も、自分のためだけではなく、仲間と一緒に企画して、知恵を出して実現する喜びを知る。さらに、「あの人の笑顔が見たい」という新たな「やりたいこと」を見出す。

そして、この喜び、楽しさ伝える、動画配信という方法があることを知る。動画配信は、「やりたいことで、生きていく」ための強力な武器になりえる。

後に、チャンネル登録数1000万人を超える youtuber となるのだが、それはまた別のお話らしい……

これ読んでて、2ちゃんねるのこれを思い出した。

  きっとお前は、二十年、せめて十年でいいから、
  戻って人生をやり直したいと思っているのだろう。
  今やり直せよ、未来を。
  十年後か、二十年後か、五十年後から戻ってきたんだよ、今。

本書は、コロナで書店が閉まっていた時期に発売され、全く知らなかった。だが、読書猿さんが呟いてくれたおかげで出会うことができた(ありがとうございます!)

作者は恵口公生さん。連載中に急逝したため、未完となっている。

人生の持ち時間は少ない。やりたいことは、全部やろう。

書評全文:やりたいことは全部やる『キミオアライブ』

 


この本がスゴい!2020ベスト
『独学大全』

独学の達人が書いた独学の百科事典。今年の一番であり、今後も何度も参照し、使っていく、一生モノの一冊。

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見りゃわかるが、はっきりいって鈍器だ。787ページ、1kgを超えている。使い倒してナンボなので、ここでは、本書の使い方を紹介する。

まず、最初に読むところ。

てっとり早く全体を掴みたい、という方のために、p.33~39に「本書の構成と取説」がある。この6ページを読むだけで使い方が分かるのだが、もっと切実な悩みを抱えている方もいるかもしれぬ。

  • どうやって調べればいいか分からない
  • 読むのが苦手
  • すぐ挫折して続かない
  • なんで学ぶのか分からなくなった ……等々

そんな具体的な悩みごとは、巻末の「独学困りごと索引」からダイレクトに引ける。

たとえば、私自身、自分の頭の悪さに腹が立つことがある。いくら読んでも分からなくて、もんもんとするか、開き直って飛ばしていたが、技法15「会読」が良いとある。要するに一冊の本をみんなで読むことだ。ゼミの輪読でおなじみだが、頭のいい人に巡り合える可能性は大いにある。

本書ではさらに踏み込んでくる。解釈が割れているところだったり、決着がつかない議論だったりする可能性もあるという。そこで、「分からないのは自分だけではない」ことを知ることが大事なんだという。

大事なのは「分からない」を自分で抱えるのではなく、表明することで外部に出す。極端な話、「みんな」がいなくったっても、一人でも会読できるとまで言う。一人で読んでレジュメを作り、「分からない」をまとめ、ネットに公開する。

誰か分からないけれど、誰かが見ているかもしれない事実が、継続を支えるという。この動機付けは強力で、「同じ書を読む人は遠くにいる」という言葉で伝えてくれる。わたしがブログを書き続ける理由も、まさにこれ。

この「外部に出す」ことの重要性は、様々な形を変え紹介される。

たとえば、技法13「コミットメントレター」

今週の学習予定を書き出して、家族や友人に渡す。受け取った人がチェックする必要はないが、それだけで強い動機付けになるという。なんならSNSに公開してもいい。自分との約束は破りやすいが、それを見せることで、社会的な縛めにするするというのだ。

あるいは、技法12「ラーニングログ」

何をどれだけ学ぶかの目標を決め、それに向けてどれだけ進んだかを記録する。ページ数や章・節、学習単元という積み重ねを、手帳やクラウド上に、一覧できる形で記録する。そして、記録を見返すことで、目標と現在位置を把握せよというのだ。

なぜ外部に出すのか? それは、人は弱いからだ。

人間は弱い。すぐ三日坊主になる。「やらない理由」を見つけ出すのが上手い。他の方法に目移りする。おそらく、読書猿さん自身が、自分の意志の弱さを思い知り、それを何とかするために足掻いてきたのだろう(生々しい記録が載っている)。

やろうとしていること、やってきたことを外に出す。「自分との約束」を誰かの視線にさらすことで、自分を律する。

この、コミットメントレターとラーニングログは、実践している。本書で紹介されている、『MD現代文・小論文』を毎日読み、進行状況を記録し、twitterで公開している。ラーニングログの場所は、ここだ。

わたしが実践しているのは2つだけだが、学ぶことを習慣化する仕掛けが、それこそ山ほどある。

不思議なことに、良い方法(ライフハック、アイデア、仕事術)を知ったとしても、実際に実行する人は 1% に満たない。そして、続ける人はもっと少ない。

だから、やろう。大丈夫、三日坊主や挫折しがちな人(=わたし)のために、沢山の手だてがある(技法9,10,11,12,13,14,55 あたりがお薦め)。

「学びたい」を抱えるあらゆる人の座右の書となる一冊。読書猿さん、素晴らしい本を書いていただき、ありがとうございます!

書評全文:『独学大全』はこう使う

 


スゴ本2021

時が速い。特に今年は、時間の流れが早すぎる。

わたしがトシとったからとも言えるし、世界の変化が大きすぎて、わたしが追い付けていないからなのかもしれぬ。

図書館の本を自分のものだと妄想するエア積読もさることながら、、Kindleのせいでクラウド積読が大変なことになっている。

冬木糸一さん猛プッシュで『HUNTER×HUNTER』は追い付いたけど、『バクマン』はジワジワ読んでる。R.R.マーティン『氷と炎の歌』はドラマと平行して進めているため、めちゃめちゃ濃密な読書になっている。これを超えたら、シュオッブかプルーストやな。

エリアーデ『世界宗教史』、大江一道『世界近現代全史』もガッツリ読みたいし、上原亮『実在論と知識の自然化』も読みたい! Bateson “Steps to an Ecology of Mind” とHossenfelder ”Lost in Math” がサクサク読めないので、回り道ながらAnkiと北村一真『英文解体新書』をやっている(これは読書猿さんのお薦め……超難しいぜ)。

「面白いとは何か」についても深めたい。「人はどういうときに面白いと感じるのか」というテーマで、認知科学における情動の研究や、進化心理学の適応の観点から、実際の文学や映画、絵画のテクニックや歴史を分析する。そうした分野を掘り下げていきたい(有斐閣アルマ『認知心理学』、東京大学出版会『進化心理学を学びたいあなたへ』あたりから探すつもり)。

「科学の限界」を描写する方法を考えたい。科学的発見の範囲は、その時代のテクノロジーの限界に依拠している(冥王星の写真の変遷が象徴的だ)。また、科学的知見の限界は、人の認識の限界に依拠している(これ以上分けられない概念としての”アトム”の内側に、量子力学の世界が内包されていた事実が象徴的だ)。これらを踏まえて、人の認知の限界から科学の限界を描画できないか、調べたい(『実在論と知識の自然化』から手を付ける)。

リアルな読書会ができない分、このブログやtwitter「ネオ高等遊民読書会」「面白文章力クラブ」で読書談義に耽るつもり。

これだけスピードが早くなると、人生の持ち時間は、加速的に少なくなる。やりたいことは、全部やるし、読みたい本は全部読む。「あとで読む」は後で読まない。「あとで読む」は後で読まない。いま読む、たとえ一頁でも一行でも。

これからも、これは! というものを発信していくつもりだ。そして、これ見たあなたが「それが良いならコレなんてどう?」なんてお薦めがあれば、ぜひ教えて欲しい。それはきっと、わたしのアンテナでは届かない、素晴らしい本に違いない。

なぜなら、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから。

 

 

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自分の死に方は自分で選ぼうと思っている『自殺学入門』

問題:自殺のリスクが大きいのは、AとBのどちらか?

A B
未婚、離別、死別 既婚
内向的 外交的
無職、収入無し 有職、収入あり

容易に想像がつくが、『自殺学入門』によると、結婚して収入のある女性よりも、無職で離婚した男性の方が、より自殺率が高いという。

さらに、

  • 太平洋・瀬戸内海沿岸よりも、日本海側
  • 平野部よりも、山間部
  • 日照時間が短く、積雪が多い地域

の方が、自殺率が高くなるという。注意すべきは因果ではなく相関の関係にある点だ。山間部で積雪が多い地域だと、他者の支援や病院に行く必要があっても、そのコストが大きいだろうし、人口が少ないことから、福祉などの社会資源に乏しいことは明白だ。

また、パートナーと別れる場合の自殺リスクも、男女で差が出てくる。離婚であれ死別であれ、配偶者を失ってより大きなダメージを受け、自殺リスクになるのは男だというのだ。

一方で、自殺未遂は圧倒的に女が多いという。これは、男の方が、自分の身体にダメージを与える能力が高いというのと、男の方がためらわず、より致死的な方法を選ぶ傾向にあるからだという。

どんな人が、何をきっかけとして、どういった方法で、自殺を試み、どれくらい上手くいくのか―――『自殺学入門』は、容赦なく分析してゆく。

そもそも自殺は「悪い」のか

自殺に関する書籍はたくさんあるが、本書はかなり変わっている。

ふつうは、精神科医が執筆し、ヒューマニティの立場から自殺を予防し、早期に気づいてケアすることを目的とした、「温かい」自殺学になる。「死にたい」と悩む人や、その周囲の人の心に寄り添うような書きっぷりだ。

だが、本書は、心理学者である著者自身が、「冷たい」自殺学だと述べている。

「そもそも自殺は予防すべきか?」「自殺は『悪い』ことなのか?」という出発点から、科学的な知見のみならず、宗教や文化的背景も交えて考察する。

さらに、経済的価値から自殺予防の費用対効果を見積もる。「死にたい」と言っている人を死なせないために、いくらなら払える? という発想は、類書にはないものだろう。

自殺対策コスト300億、メリット260億

年間自殺者3万人を超えたこともある自殺大国ニッポン。2006年に自殺対択基本法が制定され、国や地方自治体は自殺対策の責務があり、年間100~300億円の予算が組まれている。

こうした予算は、JRなど鉄道のホームドアの設置やアルコール依存症への対策に使われ、本来であれば自殺していた人たちを助けてきたといえるだろう。

では、こうした対策の経済的価値はどれほどになるか?

国立社会保障・人口問題研究所の試算によると、単年ベースで2兆7,000億円という莫大なものになる(GDP引き上げ効果は1兆7,000億円)(※1)。これは、ある年の自殺志願者が全員死なず、働ける間は働き続けた場合の生涯所得の現在価値(期待値)がこの額になるというのだ。コストが300億で、2兆7,000億の便益なら、充分以上の投資だろう。

著者はこれに疑義を投げる。

自殺リスクを抱える人が全員、自殺を思い留まるというのは無理があるのでは、と指摘する。また、うつ病を患っている人が自殺を思い留まった後、バリバリ働いて年収を稼ぐという前提に問題があるという。

これに加え、自殺が行われることによる便益が考慮されていないという。自殺したことで、その人にかかる医療費、社会保障等の費用はゼロになる。自殺の経済的効果は、こうしたコストを見積もる必要があるというのだ(※2)。

こうした観点から試算を見直すと、得られる便益は200~260億円になるという。投資効果は非常に大きいとは言えないだろう。

「死にたい」と言える文化

宗教や文化の観点からの考察も興味深い。

切腹や輪廻転生など、日本人は自殺に許容的だと言われている。日本文化と自殺の親和性は、日本語の語彙にある、といった研究もあるくらいだ(※3)。「花と散る」「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉には、死を選ぶ(選べる)文化があると言える。

こうした文化は、SNSでの「死にたい」という告白や、自殺を後押しすると批判されがちだが、著者は、否定的にとらえるべきではないという。

例えば、ヨーロッパ圏では、自殺者の大部分(9割以上)は、精神障碍の診断がつく、とされている(アジア圏では6割)。

これは、ヨーロッパ中世における「狂気(非理性)」の考えが背景にあるという。キリスト教の影響下、自殺を禁止する意識の強い文化圏においては、自殺を非難されないため、「自殺者=精神障碍者」である必要がある、という仮説だ。

イスラム文化圏では、もっと顕著になる。イスラム教徒が多い地域では、自殺率が極端に低くなる。コーランやハディースで自殺が禁止されている上に、自殺が法的な罰の対象となる国もあるからだ。

こうした文化圏では、人々は自殺をしないのかというと、違うという。不慮か故意か決定されない外因死が多いと指摘する。また、刑罰を免れるため、自殺が曖昧な形で処理される例もある。こうした文化では、「死にたい」という告白は、より一層重くなるだろう。

確かに、日本は自殺許容的かもしれない。だが、死にたくなったときに、「死にたい」と言えるような環境は、そうした人たちを見出し、ケアしやすいとも言える。

死にたいのに、「死にたい」と言えない(言いにくい)文化や、自殺したのに自殺とカウントされない国々より、自殺対策の整備がしやすいという。

メディアの問題

自殺対策としては、メディアの扱い方に重点を置いている。

「他人の不幸は蜜の味」「シャーデンフロイデ」「メシウマ」など、自分よりも不幸な人を見ることで、人は優越感に浸ったり、安心感を得ることができる。そのため、自殺はニュースバリューがあり、有名人であるほど、価値が出ることになる。

本書では、江戸時代の曾根崎心中、ゲーテの小説から社会現象となった「ウェルテル効果」、さらにはアイドルの上原美優(2011)、岡田有希子(1986)の自殺をメディアがどのように扱ったかを分析している。

同年代の若者たちが、同じ方法で自殺したことについて、テレビや新聞などのメディアの影響は大きいという(確かFRIDAYだったはずだが、岡田有希子の写真が衝撃的だったことを覚えている)。

さらに、2000年代の前半は七輪での練炭、後半では硫化水素による自殺が多くあった。特にピーク時の2008年には、年間1000人が硫化水素で自殺したとある。これは、ネット心中を報道したテレビの影響が大きいという。

2008年に内閣府が呼びかけ、警視庁による関連報道の削除要請があり、現在では沈静化している(Googleトレンドでも2008年がピーク)。こうした流れを受けて、厚生省ではメディア関係者に対し、自殺報道のガイドラインを示している(※4)。

  • 自殺の報道記事を目立つように配置しないこと。また報道を過度に繰り返さないこと
  • 自殺をセンセーショナルに表現する言葉、よくある普通のこととみなす言葉を使わないこと、自殺を前向きな問題解決策の一つであるかのように紹介しないこと
  • 自殺に用いた手段について明確に表現しないこと
  • 自殺が発生した現場や場所の詳細を伝えないこと
  • センセーショナルな見出しを使わないこと
  • 写真、ビデオ映像、デジタルメディアへのリンクなどは用いないこと

死に向かいあって生きる

本書は、いわゆる自殺防止やケアについての本ではない。

むしろ、「自殺学」を総合的に目指したものだといえる。そのため、「死にたい」と思い悩んでいる人には向いていない。もちろん、自殺対策についても書かれているが、「自殺=絶対悪」という見方ではない。

人はいずれ死ぬ。

その死に方が選べないかと検討している。その上では、本書は非常に有効だった。今すぐ、というわけじゃないが、いつにするか、どうやってするかは自分で決めて、準備しておくつもりだ。

言い換えるなら、それが決められないような死に方はしたくない。

生き方は、ある程度、選んできた(選べてこれた)。もちろん不本意なものもあるが、努力と運となりゆきで、ここまで生きてきた。生き方を自由に選べないように、死に方を完全には選べないはずだ。だが、その不自由さの中で生き方を選んできたように、時間をかけて、死を準備していく。

※1 自殺・うつ対策の経済的便益(自殺やうつによる社会的損失)[URL]
※2 Recalculating the Economic Cost of Suicide [URL]
※3 『日本人の自殺』スチュワート・ピッケン、サイマル出版会、1979
※4  厚生労働省:メディア関係者の方へ [URL]

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オデュッセイアを読むと何が起きるのか具体的に述べる

100年前、米国で刊行された世界文学全集で、「モテるための古典」「1日15分であなたも教養人に!」と謳っている(※1)。

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「人生を豊かにする教養」とか「必読の名著」といった教養を売り物にする本があるが、びっくりすほど何にもない。

書店でパラ見してみるがいい。どこからか引き写した簡単なまとめだけで、その名著とやらを読んで、本人の何がどう変わったのか、ほとんど書いていないから。せいぜい、アイスブレイクのネタになったとか、「多面的な視点」みたいなふわっとした言い回しが関の山だ。

『オデュッセイア』を読んで起きたこと

ここでは、反例として、わたしが古典を読んで、何がどう変わったかを述べる。できるだけ具体的に、ホメロス『オデュッセイア』を読んで起きたことを書く。

英雄オデュッセウスが故郷に帰る冒険譚で、行く手を阻む怪物や魔法使いを、知恵と勇気と女神様で乗り切る。ラストの、ライバルたちとの対決は、虐殺と言ってもいいほど一方的&圧倒的で、ドーパミンが出まくった。

この物語から切り出して、様々なエピソードやトピックが生まれている。翻案したり置換することで、元の話とは似ても似つかぬ、でも既視感のあるストーリーができあがる。

たとえば、『千と千尋の神隠し』で父母が豚になるところなんて、キルケ―の魔法を思い起こす。千尋(オデュッセウス)が豚になるのを免れたのは、あるものを食べなかったからだ。もちろん、『オデュッセイア』のエピソードがそのまま使われているわけではない。他の、様々な物語を介して伝播していったと想像すると、面白い。

あるいは、怪物に捕らえられたとき、自分の名前を「誰でもない」と告げるトンチ。オデュッセウスは怪物の眼を潰し脱出を図る。その一方で、怪物の仲間が「誰にやられた?」と尋ねても、「誰でもない」と返事する―――このネタ、まんが日本昔話で聞き覚えがあるほか、様々な場所で使われるだろう。

オデュッセイア=進研ゼミ

そして、ラストの1対多のバトル。

戦いの女神アテナの加護のもと、オデュッセウスは無双となる。俺の嫁に手を出す奴は絶対に殺すマンと化して、大勢の敵を、一射一殺の勢いで殺戮してゆく(読んでいるときは全身の毛穴が総毛立ち、マリオの無敵音楽が脳内をずーっと流れてた)。直前まで、自分の正体を隠し、プレッシャーがすごかったので解放感がハンパない。

このアドレナリン感覚は、スタローン主演の映画『ランボー/怒りの脱出』やスティーヴン・ハンターの小説『極大射程』の無双と酷似している。映画を観たのも小説を読んだのも、ずっと前だったのだが、『オデュッセイア』を読んだ途端、「あのときのアレはコレだったのか!」と完膚なきまで腑に落ちた。

そして、映画やゲームや小説で無双シーンに出会うと、『オデュッセイア』を思い出すことになる。要するに「これ進研ゼミでやった」状態になるのだ(『魔法少女まどか☆まどか』の覚醒まどかがそれだった)。オデュッセウスは無双の元祖、彼を観察することで、未来の作品のタネが見つかるだろう。ずっと正体を隠してきてラストで無双するところなんて、なろう系の元祖と言ってもいいかも。

では、こうした物語を楽しむ/作るエピソードを見つけることが、古典のメリットなのかというと、それだけではない。人間の仕様を理解する手がかりとしても使える。

オデュッセイアで人の仕様を理解する

読書猿『独学大全』によると、ヒトの意志は環境や状況に左右されやすい。強い意志を持っていても、周りの状況により変わってしまう。ヒトは、意志や理性の産物というよりもむしろ、それまでの自分を取り巻いてきた環境の産物だというのだ。

だから、意志を変えないように努めるよりも、むしろ、意志が変わっても努力が続くよう、自分の外側に理性をデザインせよと説く。その例として、「オデュッセウスの鎖」(※2)が登場する。

Draper-Ulysses and Sirens

Herbert James Draper, Public domain, via Wikimedia Commons

オデュッセウスの鎖とは、オデュッセウス自身が自らを縛れと部下に命じた鎖だ。なぜ自分を鎖で縛るのか? それは、セイレーンの歌声を聞きたいからである。彼女らの美声に惑わされ、船を岩に激突させた挙句、命を落とす船乗りは数多くいた。だからオデュッセウスは自分を縛らせ、耳栓をした部下に船を漕がせたのだ。

セイレーンの島に近づき、美しい歌声が聞こえてくると、オデュッセウスは鎖を解くよう叫び、身悶えした。だが部下たちは何も聞こえず、命じられたとおりに船を漕ぎ続け、海域を脱出することになる。

オデュッセウスは自らの意志を信じていなかった。だから自らを鎖で縛らせることで、意志の変化を乗り越えたといえる。読書猿は、このオデュッセウスの鎖を応用して、「コミットメントレター」「ゲートキーパー」という技法を編み出している。

オデュッセウスの鎖は、ヒトは環境の動物だということを思い知らせてくれる。大前研一はこれを逆手に取って、こうアドバイスする。

  人が変わる方法は、3つしかない。
  1つは、時間配分を変える。
  2つめは、住む場所を変える。
  3つめは、付き合う人を変える。

このアドバイスには続きがあって、人が変わる方法の中で、最も無意味なのは、「決意を新たにする」というやつだそうな。自分の意志という鎖がいかにアテにならないかは、わたしが一番よく分かっている。

オデュッセイアのリアリズム

『オデュッセイア』をリアリズムの道具として読むこともできる。

アウエルバッハ『ミメーシス』が好例だ。ヨーロッパ文学のテクストを比較しながら、現実がどのように描写されているかを分析する。『オデュッセイア』のリアリズムは、旧約聖書と比べて紹介されている。

描写に奥行きがなく、照明はくまなく当たっており、人物は心の裡を余すことなく語り尽くす『オデュッセイア』と、光と影が際立ち、暗示に満ちた表現や多様な意味の解釈を求める旧約を並べると、確かに対照的である。

『オデュッセイア』のフラットな書き方だと、読み手(観客)に秘密にされるものがない。時間は常に現在に焦点があたり、「語られたもの=現実の全て」で完結している。感覚的実在の快楽が全てであり、それを如実に伝えることが文学の目的だとされている(※3)。

ホメロスから数千年、わたしたちが普通の小説を安心して読めるのは、全てが隈なく説明される(はず)という確信があるからだろう。

あるいは、演劇の傍白を遡ると、オデュッセイアに至るだろう。傍白は、相手には聞こえないことにして、観客にだけ心中を明かすセリフだ。これが成り立つのは、舞台の上が現実の全てだという暗黙の了解があるから。

もちろん、これをフェイクにひっくり返すやり方もあるし、前提を裏切る叙述トリックだってある。だが、そうした手法が出来たのは、オデュッセイアのリアリズムがあったからといえる。

オデュッセイアは一冊ではない

このように、『オデュッセイア』について語ろうとすると、様々な経験や技法、教訓や素材、そして注釈が、次々と積み重ねられることになる。

たとえ、オデュッセウスの冒険物語のダイジェストに閉じて語ろうとしても、『オデュッセイア』に言及する様々な作品や注釈が、それを許さない。『オデュッセイア』は、決して、一冊だけでは成立しないのだ(岩波赤で言うなら、上下巻だけでは成立しない)。

読書猿『独学大全』では、もっとシンプルに、「古典とは、多くの注釈書が書かれてきた書物のこと」(※4)と述べている。元の古典テキストに加えて、積み重ねられてきた読み方もすら注釈書として残っているものが、古典になるというのだ。

これまでの様々な読みに加え、それまでの自分の経験が呼び覚まされる。そして、(創る方であれ、受け取る方であれ)未来の作品に向かい合う知恵を手にする。ホメロス『オデュッセイア』を読むということは、そういう経験だった。

※1 『「世界文学」はつくられる』秋草 俊一郎、東京大学出版会、p.68
※2 『独学大全』読書猿、ダイヤモンド社、p.176
※3 『ミメーシス』アウエルバッハ、筑摩書房、上巻p.17
※4 『独学大全』読書猿、ダイヤモンド社、p.280

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「世界文学」の日本代表が夏目漱石ではなく樋口一葉である理由

世界文学全集を編むなら、日本代表は誰になる?

漱石? 春樹? 今なら葉子?

審査は、世界選手権の予選のようになるのだろうか。投票で一定の評価を得た著者なり作品が、トーナメントを勝ち抜いて、これぞ日本代表としてエントリーするのだろうか。

スポーツならいざ知らず、残念ながら、文学だと違う。春樹や葉子ならまだしも、夏目漱石は予選落ちである。

なぜか?

『「世界文学」はつくられる』に、その理由がある。近代日本語の礎を築いたことで誉れ高い漱石でも、世界的に見た場合、西洋文学のコピーとして低く評価されているという。

「世界文学」での漱石

『坊ちゃん』『猫』が有名だし、教科書で『こころ』を読んだ人もいるだろう。何と言っても千円札の顔だから、諭吉よりは見慣れている。やたら有難がる人もいるのは、ザイアンス単純接触効果じゃね? と思うのだが、彼の造語とされる「沢山」「反射」「価値」「電力」は、人口に膾炙している(※1)。

ところがこれは、日本の話。海外に行くと、知名度は下がる。

たとえば、米国の大学生が学ぶ『海外文学アンソロジー』がある。古今東西の古典から近現代の作品を取り上げ、体系的にリベラルアーツを教授するために構成されたアンソロジーだ。出版社ごとに趣向を凝らし、日本人作家も多数取り上げられている(カッコ内は近現代の日本人作家の登場回数)(※2)。

樋口一葉(7)
川端康成(6)
谷崎潤一郎(4)
与謝野晶子(3)
芥川龍之介(3)
村上春樹(3)
三島由紀夫(2)
大江健三郎(2)

漱石は0である。漱石に限らず、尾崎紅葉や二葉亭四迷など、明治の文豪は軒並み苦戦しており、鷗外はかろうじて1回収録されているのみになる。どうやら米国では、漱石はマイナーどころか無名に近い。

対照的に、樋口一葉は『たけくらべ』『わかれ道』など、数多く収録されている。ノーベル文学賞という理由で川端康成が入るのは分かるが、彼を除くと、ぶっちぎり日本代表と言っていい。なぜか?

その手がかりは、『世界文学アンソロジー』の解説にある。

そこでは、漱石や鷗外といった明治期の文学者について、辛辣な評になる。フローベールやゾラ、ツルゲーネフといった同時代の西洋のリアリストを盲目的に(slavishly)真似た、と斬っている(※3)。

一方、一葉は、西洋文学の影響を受けなかったと言われている。一葉自身が英語を解さず、日本独自のリアリズムを発達させたとして、高く評価されているのだ(※4)。

この感覚は、わたしと異なる。

たしかに、一葉は優れた文学作品を残した。だが、日本文学に与えた影響から考えると、漱石が遥かに大きいだろう。『草枕』や『猫』の冒頭は、そのまま日本を代表する文章になるし、短編なら『夢十夜』がアンソロジー向けになる。

なぜ、一葉が評価され、漱石は無名なのか。

樋口一葉が日本代表の理由

それは、「世界文学」の文脈にある。この言葉が、どのような意図で使用されているかに着目すると、見えてくる。

『海外文学アンソロジー』を用いるのは、北米の大学で教鞭を取る英文科の教員になる。主要顧客である彼らの目的は、自分たちのアメリカ文学が、いかに西洋の歴史と不可分かを教えることになる(∵英文科の飯の種であり存在理由そのもの)。

それゆえ、収録される作品は、聖書から始まりホメロス等のギリシャ・ローマの古典、中世、ルネサンス、西洋の有名作品が紹介されてゆく。あたかも世界史の史料を拡張したかのような構成になる。この時点で、かなりのボリュームになる。

これに多様性を加える必要がある。いわゆるカノン(正典)としての世界文学では、「ヨーロッパ」「古典」「白人男性作家」が多数を占める。バランスを取るために、「非ヨーロッパ」「女性作家」「マイノリティ」を選ぶ必要が出てくる(しかも限られたページで)。

こうした、「米国大学の教員にとっての世界文学」という文脈で考えると、樋口一葉がくり返し採択される理由が見えてくる。

まず一葉は、女性作家である。それだけでなく、近代日本(おそらく東アジアでも)最初期の職業的女性作家として挙げられる。次に、作品の短く、紙面が限られたアンソロジーに適しているといえる。

さらに、教員向けの解説ページを見ると明らかになる。

『海外文学アンソロジー』は、作品を収録しているだけでなく、それらをどう比較して読むか、生徒に対し何に注意を向けさせるかといったポイントも解説されている(日本で言うなら、教師向けの「赤本」やね)。

そこにおいて、一葉の『十三夜』は、スタントン&モットの『感情宣言』と比較して読まされる。『十三夜』は、子どものために離縁を思いとどまる母を描いた作品で、『感情宣言』は離婚時に母親に親権を与える話だ。両者をフェミニズム的枠組みの中で解釈することが、授業の目的となる。

「世界文学」の恣意性

シェイクスピアやダンテといったヨーロッパ文学の中核ともいうべき男性作家を締め出すことはできない。

さらに、ポーやメルヴィルといったアメリカ文学の伝統を作り上げた男性作家も入れなければならない。

その上で、全体の頁数を増やすこともなく、多様性や平等を実現しようとすると、どうしてもどこかで調整が必要となってくる。

世界文学アンソロジーを編むことは、あやういバランスの上になりたっている。日本代表を決めるのは、日本における評価や審査だけでなく、日本を外から眺めるとき、眺めたい方向に沿った形であることも、ポイントとなるのだ。

世界文学(World literature)という言葉は曲者だ。

世界陸上とか、ワールドカップといった、グローバルで評価されるニュアンスと、「世界文学全集」という出版物がつくりあげた正統性やカノンといった響きが発動する。

こうしたイメージが、「つくられたもの」であることを、本書は実証的に解き明かす。ゲーテから始まる「世界文学」の歴史を辿りながら、そこに潜むイデオロギーや恣意性を暴いた一冊。

 

※1:https://ja.wikipedia.org/wiki/夏目漱石
※2:『「世界文学」はつくられる』秋草俊一郎著、東京大学出版会、2020、p.315
※3:Davis,et al. “The Bedford Anthology of World Literature, vol. E, p.1076
※4:Martin Puchner, et al. “The Norton Anthology of World Literature, vol F 3rd edition, New York: 2012. p.xix.

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全人類が共有できる歴史はありうるのか?『新しい世界史へ』

「歴史は勝ったほうが書く」のだから、いま主流の価値観や集団に焦点を当てるのが普通だと思ってた。各時代の支配層が、自らの正統性の証(あかし)を過去に求め、上書き保存してきたのが、歴史叙述だと考えてきた。

だから、本書で紹介される「新しい世界史」は、斬新で、困難だと考える。その一方で、この世界史を知りたい、と強く願う。

『新しい世界史へ』は、いわゆる「世界史まとめ」ではない。

よくあるWikipediaのコピペに「教養」というレッテルを貼った本でもない。そういう巷の「世界史」に隠されている先入観や意図を明るみに出し、改善策を示し、代案を提示する本だ。いうなれば、世界史を語るのではなく、「世界史の語り方」を考える一冊なのだ。

全人類に向けた世界史という、ある意味、ぶっ飛んだ構想を議論しているのは、羽田正氏である。比較歴史学の専門家で、東京大学の東洋文化研究所の所長のキャリアを持つ。著書も多数で、『輪切りで見える! パノラマ世界史』の著者だといえばピンとくるだろうか。

そして大真面目に、全人類のための歴史叙述の可能性を説く。

「日本における世界史」に共通するストーリー

書店に行くと、世界史を冠した様々な本が並んでいる。思想、疫病、戦争といったテーマで斬ったものから、何十巻と続くもの、(ムリヤリ?)一冊にした世界全史まで、色々ある。

一見するとバラエティ豊かだが、これらの世界史は、定番の世界史があることが前提だという。それは、「高校で学ぶ世界史=文部科学省の学習指導要領に準拠した教科書」の枠組みを共有しているというのだ。

その枠組みとは、ヨーロッパを中心とした歴史観だ。

本書の序盤で、学習指導要領を年代順に読み解いてゆく。そこで、西洋の扱い方や記述量を比較しながら、教科書の世界史観を振り返る。そして、全体としてはヨーロッパ中心史観が大きく影響している、と結論付ける。

  1. 世界は異なる複数地域から構成されており、異なる歴史をもっていた
  2. ヨーロッパ文明世界とそこから生まれた諸国家が優位に立ち、実質的に世界史を動かし、世界の一体化が進んだ

つまり、「バラバラだった世界が、欧米が主導して一体化してきた」というストーリーになる。

高校世界史の語り方も、この流れを踏襲する。複数の文明世界や国家の歴史を時系列に沿ってまとめ、それぞれの束として理解される。そして、その束どうしの交流は、現代に近づくほど密接となる、という流れだ。

そして、「異なる地域や国から成る世界を、欧米が主導している」という世界の見方と呼応しているという。著者曰く、「世界の見方と世界史の理解が表裏一体となって、私たちの世界認識を強く規定している」のだ。

ここで言う「ヨーロッパ」は、特殊なものとなる。

それは、ユーラシア大陸の西端に位置する地域ではなく、概念としてのヨーロッパだという。ルネッサンスで古代文明の叡智を「再発見」し、大航海時代で世界を広げ、科学技術を発展させ、自由・平等・民主主義を「発明」し、政治や経済を改革するサクセスストーリー、いわば勝者の世界史なのだ。

「世界史」という名のフランス史

世界史の大筋はすでに定まっており、確定した知識として高校で学習する―――この常識に、著者は疑問を投げかける。

そして、私たちが当たり前のように思っている世界史の理解が、決して絶対ではないことを、さまざまな事例で伝える。

たとえば、フランスやの高等教育における世界史が紹介される。

そこでは、アジアなど「非ヨーロッパ」地域の過去は、ほとんど教えられない。ただし例外があり、植民地など、自国の歴史と直接関係がある場合は、その部分において語られる。これはフランスに限らず、イギリスにとってのインド、オランダにとってのインドネシアは、重要なトピックとして扱われる。

つまり、「世界史=フランス史+関連地域のトピック」という構図になる。この見方で教育を受けた人々と、世界史についての共通認識を得るのは、困難かもしれぬ。

「中華は統一されている」というstory(≠history)

これに抗うような、中国の歴史の教科書が興味深い。

そこでは、中華が世界の中心になる。漢や唐などの王朝国家が成立すれば、それは統一の時代であり、それ以外は分裂の時代だとみなされる。この見方の前提には、はじめから広大な中国大陸は統一されているはず、という価値判断が入っている。

さらに、「漢民族」という人間集団がはるか昔から存在し、中国史は漢民族の歴史として展開してきたという前提があるという。その結果、モンゴル人の建てた元や満州人が中心となってできた清は、「征服王朝」と捉えられる。

近代中国の姿を過去に投影し、「中華」や「漢民族」は過去においても成立していたと考えると、こんなストーリーになる。

交通や通信の手段が限られている中で、あれほど広大な領土が政治的に統一されているとするほうが特殊だと思うのだが、ともあれ、そういうストーリーでないと、現在の体制と合わなくなってしまう。

このように、現在の体制から自国と他国を分け、程度の差こそあれ、自国を中心に据えて歴史を語る。

地球人のための世界史

著者は、この現状に異を唱え、揺さぶりをかける。

日本の歴史、フランスの歴史、中国の歴史など、国民ごとの歴史では不十分だと考える。

世界全体で、経済が一体化し、文化や価値観にも共通点がある。それにもかかわらず、国民国家の観点から共同体への帰属意識を強調し、その利害を第一に考えさせる「世界史」では、地球規模の問題に取り組めないとする。

帰属意識の先を、国家から地球に拡張する、地球市民が共有する知識の基盤―――そんな世界史が必要だという。いうなれば、日本でもフランスでも中国でも用いられる世界史だ。

新しい世界史は、「自国/自国以外」を強調しない。さらに、ウォーラーステインのように中心となる地域を定め、「中心/周辺」のような構造化もしない。

その代わりに、共通点や関連性を重視し、世界中の人々がこれが自分たちの過去だと思える―――そんなつながりを自覚できるような歴史を目指すという。

冗談かよ、とツッコミを入れたくなる。地球規模どころか、とある二国間ですら歴史認識問題が喧しいのに、そんなことが可能なのか!? と耳を疑う。

だが、著者は真面目だ。

大真面目に、「地球人のための世界史」の様々な可能性を語る。

新しい世界史の方向性

可能性の一つの方向が、グローバル・ヒストリーだという。

ヨーロッパ世界を相対化し、あつかう時間を巨視的に眺め、対象テーマと空間を地球規模で採り、異なる地域間の相互影響を重視する歴史だ。

例えば、ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』だ。これは、「現在の富がなぜ偏在しているか」という疑問に答えるため、地球の初期設定から語りなおした世界史になる。これまでの歴史研究の中心である政治・経済・社会・文化史の常識を変えてくる。

あるいは、あるモノや概念に注目して、それを通じて世界の人々の活動や生活のつながりを描き出したものとして、川北稔『砂糖の世界史』が紹介される。このブログで紹介してきたものだと、胡椒疫病戦争土木不潔工学テクノロジー情報など、様々なテーマがある。

さらに、国民国家や国境を自明とする枠組みから離れる試みとして、海洋世界史がある。海とその周辺の陸地を一体のものと捉え、その空間内での人・モノ・情報の動きの関連性をダイナミックに描く。本書では、ブローデル『地中海』を紹介している。

ただし、著者は全面的に賛成しない。

グローバルな語り方をしているが、その前提としてヨーロッパ中心史観に基づいた歴史解釈を保持している場合があるという。グローバル・ヒストリーのように見えるが、実際は、「ヨーロッパ」と「非ヨーロッパ」の二項対立に落とし込むものも少なくないという。

では、どうすれば「新しい世界史」を語ることになるのか? 理想ではなく具体的に描こうとすると、どのような形になるのか。

世界の見取り図

ひとつの試案として、「見取り図」を提示する。

何の見取り図か? それは、価値についての見取り図だという。

そして、現代社会において、地球市民として持つべき価値として、兼原信克『戦略外交原論』(2011、日本経済新聞出版)を参考しながら、以下を例示する。

  • 法の支配
  • 人間の尊厳
  • 民主主義の諸制度
  • 国家間暴力の否定
  • 勤労と自由市場

上記を基準にして、見取り図を作ろうというのだ。

ちょっと待って。

「民主主義」や「自由市場」というのは、欧米が生み出した価値観じゃないの? 前者は古代ギリシャまでさかのぼるし、後者は近代ヨーロッパが生み出したものじゃないの?

そうじゃない、と著者は反論する。これらの価値は、全てヨーロッパが生み出したとされ、非ヨーロッパと区別される。だが、その見方自体が、ヨーロッパ中心の見方なのだという。

世界各地を振り返ると、用いられている言葉こそ違えど、これらの価値とほぼ同じ内容を持つ概念は考え出され、実現されてきたという。そうした価値が、それぞれの地域で、どのように扱われてきたのかを並べることで、世界の見取り図が作れるという。

「新しい世界史」の例

例えば、著者は、17世紀後半を概観する。

  • 綱吉治下の徳川政権
  • 粛宗治下の朝鮮王国
  • 康熙帝の清朝
  • ガルダン・ハーンのジュンガル・ハーン国
  • ナライ王のアユタヤ朝
  • アウラングゼーブ下のムガル朝
  • ソレイマーン時代のサファヴィー朝
  • メフメト四世のオスマン朝
  • ピョートル一世のロシア
  • レオポルド一世の神聖ローマ帝国
  • オランダ共和国
  • ルイ14世のフランス王国
  • 名誉革命直後のイングランド王国
  • カルロス二世のスペイン

上記に加え、アルメニア系、ユダヤ系、華人系等ユーラシアに散在するディアスポラ的な人間集団、南北アメリカの植民地と先住民の社会、アフリカやオセアニア各地のように強力な政治権力が存在しなかったとされる地域における人間集団に目を向ける。

それぞれの人間集団に焦点を当て、その社会秩序と政治体制がどのように維持されていたのか、正統性はどう保障されていたのか、社会における男女の役割は区別があったか、宗教と社会秩序との関連性はどうなのか……という観点から描きなおせという。

そうすることで、それぞれの人間集団がどのように異なり、どこが共通していたかが明らかになるという。そして、17世紀後半の世界における人間社会全体の特徴的な姿が明らかになるというのだ。

それぞれの人間集団で、上記に挙げた価値がどのように扱われていたかに着目し、人間集団の類型化を図ることを提案する。どんな共通的な特徴を持った人間集団が、どのように分布して、どんな関係を作っていたかを述べていくことで、全体を鳥瞰的に示す見取り図になるというのだ。

これは、「ヨーロッパ/非ヨーロッパ」の単純構造ではなく、かなり複雑な図面になるだろう。また、年代に沿って通時的に描ける代物ではない。数十年程度の単位でスライスした、厚みのある世界のスナップショットになる。

イメージ的には、世界史の資料集にある、「ある時代における世界全体の様子」の解像度を凄まじく上げた図になる。

例えば『世界史図説 タペストリー』の特集「世界全図でみる世界史」に書き込みをしまくると出来上がる感じかなぁ……あるいは、各時代ごとに人類社会全体を見わたし、つながりと交流をイラストで描いた『輪切りで見える!パノラマ世界史』の高解像度版になるのだろうか。

見取り「図」という言葉にすると、パノラマの「絵」のようなものを思い浮かべてしまうが、これはVR(仮想現実)と相性が良いかもしれない。全体像を俯瞰して、知りたいところへズームしていくと、その地域の解像度が上ってゆき、その中での人間集団の営みが見えてくる仕組みだ。その営みの一つ一つに、他の地域とのつながりの線がオーバーレイされるようなもの(UIは、ゲームのシヴィライゼーションが近い)。

グローバル・ヒストリー共同研究拠点の構築

歴史認識の共有は、隣国でも(だからこそ?)難しい。だが、価値の共有なら、まだやりやすいかもしれぬ。これは、歴史叙述者が、いったん自国や自文化から脱け出た上で書く必要がある。それは、かなり難しいだろう。

しかし、新しい世界史は、間違いなく面白いものになるだろう。それを読むことで、価値があるとされる概念が、どのように世界の様々な地域で共有され、受け継がれてきたかが明白になるに違いない。そして地球という共同体に生きる一人だと認識できるものになるだろう。

この構想は、2014年から「グローバル・ヒストリー共同研究拠点の構築」で実行されている。東京大学、プリンストン大学、フランスの社会科学高等研究院、ベルリン・フンボルト大学と連携し、新しい世界史認識を生み出す挑戦的なプロジェクトだ。日本学術振興会から支援を受け、現在進行形で進められている。

 

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なぜバカは無敵で世の中に蔓延しているのか分かる『バカの研究』

桃井かおり「世の中、バカが多くて疲れません?」から30年、バカはどんどん増えている。

バカは、激しく自己主張する。

感情的にわめきたて、他人の意見に聞く耳を持たない。ことが起きるたびに「ほら、私が言った通りだろ?」と叫ぶ。思い通りにならないと、全て人にせいにして、自分が間違っている可能性を考えない。自分を高く評価するあまり、客観的な判断ができない。

バカは、「間違えたら死ぬ病」にかかっている。

自分の間違いを、絶対に認めようとしない。自分の間違いが証明されそうになると、ゴールポストを動かす。都合の悪いことを完全に忘れる能力があり、「昔は良かったが、今はダメだ」を口癖とする。

「バカ=知識がない」ではない。

知識はあり、アカデミックな立場にいるにもかかわらず、信じがたい愚かな発言を繰り返すバカは、大量にいる。しかも、なまじ知識があるぶん厄介だ。自分のイデオロギーを裏付ける文献を引用しながら、知的な虎の威を借りて、不愉快な相手を糾弾する。知識とは、相手を黙らせる武器だと考えている。

バカには理由がある

こうしたバカが、なぜ存在するのか―――この疑問に対し、『ファスト&スロー』のダニエル・カーネマンや、脳科学者アントニオ・ダマシオなど名だたる知性が結集し、大真面目で「バカ」を研究したのがこれ。

面白いことに、本書は、「バカをバカにする本」ではない。

某国の指導者やイズムの狂信者をこき下ろすのではなく、その背後にある、「どうして人は、愚かなことをするのか」という謎に迫る。そして、人の愚かな行動には、特定の偏りをもたらす思考のゆがみがあることを示す。

たとえば、自分を過大評価し、他人を過小評価するバカ。

これには名前が付いていて、研究者の名前にちなんでダニング=クルーガー効果という(※1)。自分の能力の欠如を認識することができないことによって生じる認知バイアスになる。なるほど、バカがドヤ顔で自説を開陳するのは、このバイアスによるのかもしれぬ。

あるいは、「昔は良かった、今はダメ」と言い張るバカ。

これも研究(※2)がされており、人は歳を取るにつれ、嫌な思い出は記憶から薄れてゆき、良い思い出だけが残るようになっている。老いれば老いるほど、過去の良いところばかり思い出すのは、人一般の記憶の仕様なのだ。

なぜ世の中、バカが多いのか

さらに、世の中、バカばっかりに見えるにも理由がある。

私たち人間には、バカを探し当てるレーダーが備わっているという。ネガティブ・バイアス(※3)と呼ばれるもので、人は、ポジティブなものよりネガティブなものに目を向け、より重要だと考える傾向が備わっているという。世間でバカが目立つのでなく、私がバカを探しているからなのだ。

こんな感じで、バカについての本だと思って手にしたところ、実際は、行動経済学や心理学から、人の思考の癖を気づかされる。「バカとは、極端な認知バイアスに陥っている人」という結論に触れると同時に、私の中のバカが炙り出されてくる。

つまりこうだ、「世の中、バカばかりだ」と感じるのは、私のネガティブ・バイアスが原因だし、「最近バカが増えた」と考えるのは、昔のことを都合よく忘れているからだ。30年前だってバカは大勢いたが、今ほど可視化されていないだけなのかもしれぬ。「自分はあいつらと違う」と考えるのは、ダニング=クルーガー効果と言えるかもしれない。

なんのことはない、バカだと思っていた私自身が、バイアスまみれの思考に陥っていることが暴かれる。小学生のあれだ、「バカって言う人がバカなんですー」というやつ。バカなのは、私だったのだ。

人である限り、認知バイアスから完全に逃れることはできない。だが、それを自覚し、振り回されないようにすることはできる。バイアスというバカを抱えながら生きよう。

※1

Justin Kruger,David Dunning

Unskilled and Unaware of It: How Difficulties in Recognizing One's Own Incompetence Lead to Inflated Self-Assessments,2000

※2

Susan Turk Charles, Mara Mather, Laura L Carstensen

Aging and emotional memory: the forgettable nature of negative images for older adults,2003

※3

Negativity Bias, Negativity Dominance, and Contagion

Paul Rozin, Edward B. Royzman,2001

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サクサクした食べ物が好きなのは、祖先が昆虫食だったから『美食のサピエンス史』

サクサク(crispy)した食べものは、みんな大好きだ。たとえば、唐揚げやフライドチキン、ポテトチップスは、世界各国で好まれる。

この、サクサクした食感を好む傾向は人類共通らしい。

なぜ、私たちはサクサクを好むのか?

本書によると、かつて我々の先祖が、昆虫を好んで食べていたからだという。

つまり、外はサクサク、中はトロ~りした食べものが好まれるのは、外骨格に身を包み、タンパク質や脂肪を豊富に含んだ昆虫を食べてきた名残りなのだというのだ。

昆虫食は異常?

アジア、オーストラリア、アフリカ、南アメリカ、中東では、昆虫は優れたタンパク質源であり、薬剤としても利用されている(※1)。そういえば、わたしが子どもの頃、祖母が作った「イナゴの佃煮」や「ハチノコ」が食卓に並んでいた。

いっぽう、欧米人は、昆虫食をありえないと決め付けるのだが、その理由が興味深い。

昆虫を「きたならしく、吐き気をもよおす」から食べないのではない。文化人類学者マーヴィン・ハリスによると、真相は逆で、昆虫を食べる習慣がないからこそ、「きたならしく、吐き気をもよおす」ものと見えているというのだ。

そして、昆虫食の価値が認められていないのは、欧米文化の環境条件に過ぎないという。獣や魚の肉が手に入りやすい一方で、手ごろなサイズの昆虫がいなかった―――この条件は北半球の一部の地域のみで、そこから発祥した食文化に組み込まれたためだというのだ。

『美食のサピエンス史』は、こうしたわたしの偏見を、鮮やかに解いてくれる。本書は、進化生物学、文化史、脳科学から、「ヒトと食」についてアプローチする。

「食べる」と「性交する」は同じ?

たとえば、食と性の研究が面白い。

まず、「食べる」と「性交する」が、同一の言葉で語られる例を紹介する。南アメリカやブラジルの一部では、両者は同じ言葉を用いられる(※2)。

確かに、いかにも「食べてる/食べられている」ように見えるのは事実だし、「あの子、食べちゃった」「美味しそうなカラダ」「女に飢える」「おとこ日照り」という表現もある。性と食は、近いところにあるのかも。

しかし、だからといって完全に言葉を同じにしたら、いろいろと混乱を招きそうだ。ところがどっこい、これらの地域では、区別する必要がある場合は、対象を言い添えるという。つまり、「果物を」「ペニスを」と目的語を付け加えて使い分けるのだ。

文化人類学の観点から、食と性が分かちがたく結びついていることを主張した後、今度は、脳科学の観点から補強する。

おいしいものを食べたときの快感を、英語圏では、フードガズム(foodorgasm:food+orgasm)という。ハッシュタグ #foodorgasm でインスタを覗くと、いわゆる「飯テロ」画像が並んでいる。

そして、fMRIで撮影した眼窩前頭皮質の活動から、美食でフードガズムを感じているときと、性交でオーガズムを感じているときの類似点を指摘する。ただし、美食と性交のそれぞれでオーガズムに至るのではなく、むしろ、フードガズムがオーガズムを誘起しているのではないかという。

おいしい料理と、たのしいセックス、どっちが気持ちよいか?

とある美食料理家が紹介する、”Better than Sex Cake” を見る限り、食の方に軍配が上がりそうだ。キャラメルソースたっぷりのチョコレートケーキは、確かに「美味しそう」である。

絶対味感

苦味についての研究も面白い。

ブロッコリーやキャベツには、PTCという苦味物質が含まれている。この物質をどう感じるかは、遺伝によるというのだ。シワのある豆と丸い豆がメンデルの法則に従うように、PTCを苦いと感じる/感じないも、潜性遺伝するというのだ。

この研究はさらに進められており、PTCを感じる人は、アルコールを飲まず、ニコチン依存になりにくい傾向があることが分かっている。PTCの味覚能力は、嗜好の形成に何らかの役割を果たしているようだ。

本書がユニークなのは、この研究は遺伝子研究だけでなく、文化的環境とも照らし合わせて掘り下げているところ。PTCの検知/非検知は、言語を伴って活動していた可能性を指摘する。PCT特有の味を指す言葉だってあるかもしれないのだ。

さらに本書では、スーパーテイスターの存在を仮説づける。同じものを食べても、敏感に感じる人から、鈍い人まで、様々だろう。この口腔感覚の個人差は、色や音のように幅があることが考えられる。

この研究が進むと、絶対音感のような「絶対味感」も明らかになるのではないだろうか。つまり、音の高さを絶対的に認識する能力と同様、特定の味を同定できる人が出てくることが予想される。味という、主観100%の世界が、どこまで普遍化できるか……これは楽しみ。

原題は、”The Omnivorous Mind” (雑食性の心)だ。ヒトという、超雑食な存在を、進化と文化の両面から、多面的に捉えた一冊。

※1

s.K. Srivastava and Naresh Babu

Traditional insect bioprospecting-As human food and medicine

November 2009Indian journal of traditional knowledge 8(4):485-494

※2

『神話理論 生のものを火を通したもの』クロード・レヴィ=ストロース(みすず書房)

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変えられないものをスルーして、変えられるものだけに集中する

人生で一番大事なことは、イチローから学んだ。

コントロールできることと、コントロールできないことに分ける。そして、コントロールできないことには関心を持たない。

首位打者争いをしているとき、ライバル打者について話題が及ぶと、「相手の打率は、僕にはコントロールできません、意識することはありません」と打ち切ったという。

同じことを、ヤンキース時代の松井秀喜も語っていた。成績が振るわず、マスコミに批判されたことについて質問されると、「記事はコントロールできません。気にしても仕方ないことは気にしません」と返したという[松井、イチローの言葉を就活に生かす]

初めてこの言葉を聞いた時、自分を苦しめているものがはっきりと見え、すっと楽になった。以後、手帳の見返しに書きつけ、毎日見返している。

わたしを苦しめているものは、「コントロールできないもの」を生み出しては抱えている、わたし自身なのだ。

もっと踏み込んだ言い方では、[二ーバーの祈り]がある。

神よ、

変えることのできないものを、

静穏に受け入れる力を与えてください。

そして、

変えるべきものを変える勇気と、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを、

与えて下さい。

神学者ラインホルト・二ーバーが作者とされる祈りの言葉で、アルコールや薬物依存症に苦しむ人を支援する会でも引用されている。

この、「変えることのできないもの」をあれやこれやと生み出し、それに思い悩むのは、ヒトの思考の癖のように思える。

放っておくと、そうした不安にばかり埋め尽くされ、悪い方へ悪い方へとしか考えられなくなる。眠れぬ夜、「不安なことを考えると安心する」といった倒錯した頭を抱えることもある。

だが、不安とは、未来に起こるかもしれない不都合を、「いま」思い悩むことだ。「いま」を「未来」に変えられないのであれば、起きたときに悩めばいい。起きてもいない(起きるかどうかすら分からない)不都合について心配するのはナンセンスかもしれぬ。

この考え方は、ずっと受け継がれてきたもので、古代ギリシャまで遡ることを知ったのが、『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね』だ。エピクテトスはローマ帝政時代の哲学者で、彼の言葉は、マルクス・アウレリウスからパスカル、夏目漱石にまで影響を及ぼし、今に至っている。

本書は、彼に私淑する山本貴光さんと吉川浩満さんの対談形式で描かれており、現代風にアップデートされた悩みについて、具体的に語られる。

エピクテトスの原則は、シンプルだ。

自分の権内と権外を適切に見極めよ

ちょっと見慣れぬ言葉があるけれど、

権内=自分がコントロールできるもの

権外=自分がコントロールできないもの

だね。そして、権内か、権外か、両者が適切に区別できている状態こそ、人にとってもっとも幸福であり、われわれが目指すべき最善な状態だという。

そして、権内か、権外か、あらゆる心像についてこの基準をあてがってみろとアドバイスるする。権外であれば、捨て去れと断言する。なぜなら、人々を不安にするものは事柄ではなく、事柄に関する考え方なのだからだというのだ。

こうして言葉にするとあたりまえに見えるが、不安にさいなまれている時には、そこまで思いが及ばない。

だから、具体的な例を挙げ、権内/権外をあてはめるトレーニングをする。本書では、以下の人々を俎上に、コントロールできること、できないこと、見極め方を指南する。

  • 新任の上司が女性なのでモヤモヤしているエンジニア
  • 電車遅延について駅員に怒鳴り込むおっさん
  • やりたいことも、得意なこともないが、進路を決めなきゃいけない高校生

読者は、ひょっとすると、ここに出てくるエンジニアや高校生の立場ではないかもしれぬ。そのため、ここの事例がそのまま当てはまるとは限らないかもしれぬ。

だが、「増殖する不安を抱えている」という点では一致するし、その悩みは人類史上初というわけでもないだろう。

だから、本書を通じて「エピクテトスならどうする?」と自問すると良いかも。おそらく、権内のあまりの小ささと、権外のあまりの巨大さに、驚くだろう(わたしがそうだった)。

悩み事は、放っておくと雪だるま式に増殖する。アルコールで一時的に忘却したり、課金やスパチャで気を紛らわすのもありだが、財布や肝臓が死ぬ。悩むのは人の仕様。だが、死ぬほど思い悩むことはない。

その人生、正気を保っていくために。

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ナチスが焼いた本のリスト、国際宇宙ステーションにある本、ハリポタの次に読む本……本のリストが面白い

ナチスが焼いた本のリスト

ナチスが焚書した本は4,000を超えており、その全容は把握しきれない。だが、焼かれた本の一部は分かっており、”A Book Of Book Lists” でリスト化されている。これを見ると、ナチスが何を恐れていたかが、よく分かる。

  • 武器よさらば(アーネスト・ヘミングウェイ)
  • いかにして私は社会主義者となったか(ヘレン・ケラー)
  • 野性の呼び声(ジャック・ロンドン)
  • 鉄の踵(ジャック・ロンドン)
  • 世界史概観(H.G.ウェルズ)
  • 理性に訴える(トーマス・マン)
  • ジークムント・フロイトの全著作

 

ISS(国際宇宙ステーション)にある本

宇宙ステーションで働く人々は超忙しいので、本読んでるヒマなんてないのでは? と思うのだが、リラックスのための読書は必須らしい。数十年にわたり私物として持ち込まれ、そのままライブラリー化しており、シリーズものが充実している。

  • ファウンデーションシリーズ(アイザック・アシモフ)
  • エイリアン 感染(ダレル・ベイン)
  • アシモフのサイエンス・フィクション(アイザック・アシモフ)
  • ヴォルコシガン・サガ(ロイス・マクマスター・ビジョルド)
  • 二都物語(チャールズ・ディケンズ)
  • 戦争と平和(トルストイ)
  • 風と共に去りぬ(ミッチェル)
  • オナー・ハリントン・シリーズ(デイヴィッド・ウェーバー)

 

アラン・チューリングが借りてた本

アラン・チューリングが学校で借りた本のリストもある。パブリックスクールに通っていた頃(14~19歳)の本だ。ルイス・キャロルのアリスシリーズから数学の世界へ誘われたのかと想像すると感慨深い。

  • 不思議の国のアリス(ルイス・キャロル)
  • 鏡の国のアリス(ルイス・キャロル)
  • 論理ゲーム(ルイス・キャロル)
  • 空間、時間、重力(アーサー・エディントン)
  • 自然界の本質(アーサー・エディントン)
  • 物質と運動(ジェームズ・クラーク・マクスウェル)
  • 科学と近代世界(ノース・ホワイトヘッド)

一冊の書物は一つのパッケージとして完結する。だが、それをリストにすると、趣味や偏愛、あるいはメッセージ性が現れてくる。

この遊びを徹底したのが、『本のリストの本』だ。

編集者や蒐集家、ライターといった、本に関わる人たちが、本のリストを巡ってあれこれ語ったエッセイ集だ。知ってる本から知らない本を手繰るとき、それをリストの形で繋げてくれるのが楽しい。

 

文字の表情を味わう本

タイポグラフィやレタリングが好きな人で、様々な書体を見ているだけでニヤニヤできる上級者向け。フォントを変えるだけで、中身がガラリと変わってしまうのは魔法のようで面白い。『じょうずなワニのつかまえ方』はWeb版で読める(めちゃめちゃ面白い!)

  • じょうずなワニのつかまえ方
  • 日本字フリースタイル・コンプリート たのしい描き文字2100
  • 篠原榮太のテレビタイトル・デザイン

 

刊行しなかった本のリスト

企画は進んでいたが、諸事情で日の目を見なかったリストなのだけど、絶対これ面白いやろ! と言えるやつばかり並んでる。ベイトソン先生のやつは読みたい!

  • 男色と免疫疾患(南方熊楠)
  • 小説・経済論(村上龍)
  • 細野晴臣画集
  • 坂本龍一伝(玖保キリコ)
  • 中島みゆき論(呉智英)
  • マルセル・デュシャン(オクタビオ・バス)
  • イルカを撃つな(グレゴリー・ベイトソン)

 

ハリー・ポッターの次に読みたいリスト

イギリスの絵本専門店が、ハリポタブームの頃に出したリストだそうな。私はハリポタを読んでいないので何とも言えないが、これらが鉄板で面白いことは保証する。『ダレン・シャン』や『タラ・ダンカン』も入れたいね。

  • はてしない物語(ミヒャエル・エンデ)
  • トムは真夜中の庭で(フィリパ・ビアス)
  • ゲド戦記(アーシュラ・ル=グウィン)
  • 指輪物語(J.R.R.トールキン)
  • 長くつ下のピッピ(アストリッド・リングドグレーン)
  • ナルニア国ものがたり(C.S.ルイス)

この遊びはマネしたくなる。たとえば、何度も読んでしまう短篇集とか。

 

なぜか何度も読み返す短篇集(マンガ編)

  • ヘウレーカ(岩明 均)
  • ひきだしにテラリウム(九井諒子)
  • 愛すべき娘たち(よしながふみ)
  • 棒がいっぽん(高野文子)
  • ミノタウロスの皿(藤子・F・不二雄)
  • 三文未来の家庭訪問(庄司創)

 

なぜか何度も読み返す短篇集(小説編)

  • 伝奇集(ボルヘス)
  • 新釈雨月物語、新釈春雨物語(石川淳)
  • 完全な真空(スタニスワフ・レム)
  • Carver's dozen(レイモンド・カーヴァー)
  • 名人伝(中島敦)
  • チェホフ短篇集(チェホフ)

面白いだけでなく、読み返すたび、違った印象を受けるのが面白く、何度も手にしてしまう。「噛むほどに味が出る」というやつ。

こんな感じで並べると、わたしの偏愛が見えてくる。「お前のマンガの趣味は悪い」と言われたことがあるけど、偏っている自信はある。一方で、わたしと好みが被るなら、ここから次に手にする一冊が見えてくるかもしれぬ。

あるいは、拙著『わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる』にも、沢山のリストがある。

 

人生を破壊する怒りから自由になる本のリスト

  • 怒らないこと(アルボムッレ・スマナサーラ)
  • ジェダイの哲学(ジャン=クー・ヤーガ)
  • 怒りについて(セネカ)
  • 七つの習慣(スティーヴン・コヴィー)

怒りに任せてモノに当たったり、感情が昂って眠れなくなるほどだったのが、読書を通じて、怒りから自由になることを学んだ。万人向けかは知らないが、少なくとも自分には効いたリスト。

 

読んだことを後悔する禁断の劇薬小説

  • イワン・イリイチの死(トルストイ)
  • 城の中のイギリス人(マンディアルグ)
  • 隣の家の少女(ケッチャム)
  • ジェローム神父(マルキ・ド・サド)

全24作品からダメージ低めのものを選んだが、読書は毒書であることを思い知らせてくれる。苦手な人は避け本リストとして使って欲しい。好きな人は、別冊付録を手にしてほしい。

このブログでも、様々なリストがある。昔、わたし自身のために作ったのだが、今でも有効活用しているのがこれ。

 

東大教師が新入生に薦めるブックリスト

  • 理科系の作文技術(木下是雄)
  • 生命とは何か(シュレディンガー)
  • 日本人の英語(マーク・ピーターセン)
  • 知的複眼思考法(苅谷剛彦)
  • オリエンタリズム(サイード)
  • ゲーデル、エッシャー、バッハ(ホフスタッター )

実際は、東京大学出版会が毎年行っているアンケートで、過去30年分を基に集計した100冊のリストになる。リストにすることで、今まで読んできたもののを振り返り、整理することができる。一方で、次に読む目標も出てくる。

本をリスト化すると、意外な自分が見えてきたり、趣味が似通った人と出会えたりする。定期的に棚卸していきたいもの。

 

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『独学大全』はこう使う

独学の達人である読書猿が書いた、独学の百科事典。「読書猿って誰?」という人がいたら、[読書猿Classic]を見に行くべし。

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787ページ、1kgは、ほぼ鈍器で、そこらの教養芸人を蹴散らすのにピッタリ。

だが、隅々まで読むのは時間がかかる。独学する人は何らかの「学びたいこと」を抱えており、それにまつわる様々な問題を解決したいが故に本書を手にするのだから、全読している時間が惜しいかもしれぬ。

そんな人のために本書の使い方を紹介するとともに、『独学大全』が、私をどのように変えたか、さらに、どのように使っていくかを書く。

  1. 『独学大全』で最初に読むところ
  2. 『独学大全』でどう変わるか
  3. 『独学大全』をこう使う

1. 『独学大全』で最初に読むところ

もちろん始めから読むのが一番だが、てっとり早く掴みたい、という方のために、p.33~39に「本書の構成と取説」がある。この6ページを読むだけで使い方が分かる……のだが、もっと切実な悩みを抱えている方もいるかもしれぬ。

  • どうやって調べればいいか分からない
  • 読むのが苦手
  • すぐ挫折して続かない
  • なんで学ぶのか分からなくなった
  • 頭が悪い ……等々

そんな具体的な悩みごとは、巻末の「独学困りごと索引」からダイレクトに引ける。

たとえば、私自身、自分の頭の悪さに腹が立つことがある。いくら読んでも分からなくて、もんもんとするか、開き直って飛ばしていたが、技法15「会読」が良いとある。要するに一冊の本をみんなで読むことだ。ゼミの輪読でおなじみだが、頭のいい人に巡り合える可能性は大いにある。

本書ではさらに踏み込んでくる。解釈が割れているところだったり、決着がつかない議論だったりする可能性もあるという。そこで、「分からないのは自分だけではない」ことを知ることが大事なんだという。

大事なのは「分からない」を自分で抱えるのではなく、表明することで外部に出す。極端な話、「みんな」がいなくったっても、一人でも会読できるとまで言う。一人で読んでレジュメを作り、「分からない」をまとめ、ネットに公開する。

誰か分からないけれど、誰かが見ているかもしれない事実が、継続を支えるという。この動機付けは強力で、「同じ書を読む人は遠くにいる」という言葉で伝えてくれる。わたしがブログを書き続ける理由も、まさにこれ。

2. 『独学大全』でどう変わるか

この「外部に出す」ことの重要性は、様々な形を変え紹介される。

たとえば、技法13「コミットメントレター」

今週の学習予定を書き出して、家族や友人に渡す。受け取った人がチェックする必要はないが、それだけで強い動機付けになるという。なんならSNSに公開してもいい。自分との約束は破りやすいが、それを見せることで、社会的な縛めにするするというのだ。

あるいは、技法12「ラーニングログ」

何をどれだけ学ぶかの目標を決め、それに向けてどれだけ進んだかを記録する。ページ数や章・節、学習単元という積み重ねを、手帳やクラウド上に、一覧できる形で記録する。そして、記録を見返すことで、目標と現在位置を把握せよというのだ。

なぜ外部に出すのか? それは、人は弱いからだ。

人間は弱い。すぐ三日坊主になる。「やらない理由」を見つけ出すのが上手い。他の方法に目移りする。おそらく、読書猿さん自身が、自分の意志の弱さを思い知り、それを何とかするために足掻いてきたのだろう(ご自身の生々しい記録が載っている)。

やろうとしていること、やってきたことを外に出す。「自分との約束」を誰かの視線にさらすことで、自分を律する。コミットメントレターとラーニングログは、実践していこう。ブログ+SNS+会読で、外に出すことを意識する。

3. 『独学大全』をこう使う

外に出すことは、「外部足場」というキーワードでも強調される。

ひと一人の頭のリソースは限られている。膨大な文献を取りまわすためには容量が足りない。だから、自分の中だけで完結するのではなく、自分の外側に考えるための足がかりを作る―――それが外部足場だ。

「外部足場」も、数多くの技法が紹介されているが、わたしは、技法28・29の「目次・引用マトリクス」を実践するぞ(宣言)。

目次・引用マトリクスとは、多くの文献・資料から情報を抽出し、整合的に結び合わせるため一覧表だ。具体的な方法は、本書の第10章か、[複数の文献を一望化し横断的読みを実装するコンテンツ・マトリクスという方法]が参考になる。

わたしは今まで、一つのテーマにつき、一つの文献を、一つずつ読んでいく方法だった。ある文献で引用される書名や、何度も目にする著者名は、次に読む一冊とはなりうるが、それもシーケンシャルなものだ。

しかし、文献はスタンドアローンではないという。

一冊の書物は、他の数多くの書物と、参照関係や影響関係を介して結びあわされているという。そうした文献同士を結ぶつながりを突き合わせ、縒り合わせる読書をしろと説く。ただし、それを頭の中だけでやろうとするのは骨なので、文献群を一望化するのだ。これは、実践するだけでなく、外に出す。

わたしが実践したいのは、認知科学の分野だ。人はどのように世界を認識し、それを知として受け継いでいるか。それは一般化(AIで代替)できるのかに興味がある。

では、この分野で外部足場を作るために適切なものは?

これまた沢山の技法やアプローチが紹介されているが、技法25「独学者最強の武器としての教科書」からやってみる。『有斐閣アルマ』シリーズが概要から専門までカバーされているとある(有斐閣アルマの『認知心理学』を買った)。さらに「教科書の使い方」まで懇切丁寧に紹介されているが、そこから「入門書として使う」「書誌として使う」を実践する。

―――こんな感じで、自分の「学びたいこと」を取っ掛かりに、様々な技法をピックアップしていく。効率よく進める技法を探しても良いし、スランプや迷った時に引いても良い。「そもそも何をすればよいか分からない」「何が分からないかが分からない」といったメタな悩みまでカバーしている。

あなたが何かを、学びたい、学ぼうとしているのであれば、具体的に何をすれば良いのか、どうすれば続けられるのかを、指し示してくれる。羅針盤のような一冊。

 

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