これ面白い!『ゲームの王国』

  寝食わすれて読み耽った。ページが止まらないくせに、終わるのが惜しいとこれほど思った小説は久しぶり。「最近面白い小説ない?」という人に、自信をもってオススメ。

 というのも、次から次へと面白いネタをどんどんぶっ込んでくるから。

 建前(?)はSFだが、中身は盛りだくさん。ポル・ポトの恐怖政治と大量虐殺の歴史を生き抜く少年と少女の出会いと別れを横糸に、ガルシア・マルケス『百年の孤独』を彷彿とさせるマジックリアリズムあり、ウィトゲンシュタインの言語ゲームやカイヨワの「遊び」の本質を具現化したコンピュータゲームあり、貧困の経済学ありデスゲームあり、ともすると発散しがちなネタを、見事にひとつの物語にまとめあげている。

 優れた小説を読むときによくある、記憶の再刺激が愉しい。すなわち、どこかで見たことのある既視感と、よく知ってるはずなのに目新しく思える未視感が、むかし読んだ/これから読む作品を、芋づるのように引き出してくれるのだ。

 たとえば、前半の舞台となるカンボジアの寒村。

 ジョジョの奇妙な冒険のスタンド使いのような、土を喰らい土を操る能力を持つものや、輪ゴムと心を通わせ、輪ゴムで未来を知る異能者、鉄板のように何もしゃべらない(≠しゃべれない)性癖の人が登場する。

 彼らの、ちょっとズレた会話を聞いていると、『百年の孤独』の蜃気楼の村マコンドだけでなく、大量殺人事件「河内十人斬り」を描いた町田康『告白』を思い出す。知性格差のありすぎる者同士のディスコミュニケーションの滑稽さが、テーマも文体も違うのに、ひしひしと既読感を刺激する。

 あるいは、共産主義を厳密に遂行したクメール・ルージュの大虐殺。「革命」「解放」の名のもとに、人々は、家族、住居、職業から切り離され、集団農場へ移送され、強制労働に従事させられる。そして、そこでは、理由もなく銃殺されていく。作業が緩慢という理由だけで銃殺され、身分を隠していた教師・医師・兵士は、「正直に申し出れば殺さない」という嘘に騙され、処刑される。

 人々は、生き延びるために嘘をつき、嘘をついたことを密告されて殺される。「むりやり天国を作ろうとすると、たいてい地獄ができあがる」寸言まんま。わずか4年間で300万人以上虐殺されたという現実は、むかし劇場で観た映画『キリング・フィールド』の地獄絵図を濃密に、詳細に思い出す。

 また、後半に出てくる、「ゲームの概念を脱構築したゲーム」。

 これは、自由意志は幻想に過ぎないことを裏付けたとされるベンジャミン・リベットの実験が下地にある。人が何かを決定をする際、”その意思決定”を示す電気信号に先立って、決定を促す準備電位と呼ばれる脳波が発生していることを明らかにした実験だ。

 すなわち、人は自由に意思を決めているように見えても、実はその前に意志は決定されており、私たちはその理由を「後づけで」作り上げているというのだ(受動意識仮説)。これを応用したゲームは、現在進行中のサイエンス・ノンフィクションを読んでいるようで、ゾクゾクする。これは、人はなぜ嘘のホラーに本当に恐怖できるのか? というテーマに、認知科学&分析哲学で深堀りした『恐怖の哲学』のゲーム版だといっていい。

 バラバラに認識される情報を統合するために後付けで理由をひねりだすのが「こころ」であるならば、そこに割り込み改竄することで「こころ」をハッキングすることは可能だ。主人公は、ある時点でひとつの真理にたどり着く。その件はこうだ。

人生は、わずかに残った印象的な断片と、その断片を補完する現在の自分と、直近の一年間で成立している。記憶はアナログメディアで、再生するたびに劣化し、その劣化を補うために現在の自分が入り込んでくる。記憶は一種の小説だ。いくつかのパーツがあり、細部は存在しない。

 私たちは、羅列された現実を解釈しやすいように因果関係を築き、咀嚼するために物語をひねり出す。人生に物語が必要なのは、不条理すぎる現実に「こころ」を壊さないため。物語は、いわばセーフティ・ネットなのだ。ここは、物語論(ナラトロジー)の名著、千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』を思い出す。

 さまざまなネタをぶっ込みつつ、一級の小説に仕立てている稀有な本。


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オフ会やります、テーマは「最悪」

 推し本を持ってきて、まったり熱く語り合う読書会、それがスゴ本オフ。

 今回のテーマは「最悪」、それも「最悪のトラブル」。このテーマでピンときた、本、映像、音楽、ゲーム、なんでもいいので、あなたのお薦めを教えてくださいませ。

 基本の流れはこんな感じ。

  1. テーマに沿ったお薦め作品を持ってくる
  2. お薦めを1人5分くらいでプレゼンする
  3. 「それが好きならコレなんてどう?」というオススメ返し
  4. 放流できない作品は回収する
  5. 放流会という名のジャンケン争奪戦へ

 あなたのお薦めをプレゼンすると、「それが好きならコレなんてどう?」と推してくる人が出てくるかもしれません。あるいは逆に、あなたが(あなたのお薦め作品を)教えたくなる人に出会えるかもしれません。わたしはこのオフ会をする度に、積読山の標高が高くなりまする。

 これを、休日の午後いっぱいかけて、まったりする。途中参加・退場・見学自由なので、お気軽にどうぞ。最近やったのは「お金」がテーマの作品。「お金」というテーマで本を選んだにレポートしてある。あと、このブログの右側の「過去のスゴ本オフ」に全レポートがあるので、参考にどうぞ。

 タイトル:スゴ本オフ「最悪のトラブル」
 日時:10/21(土)13:00-17:00
 場所:渋谷某所
 参加費:2000円(軽食、飲み物が出ます)
 詳細・申し込みは[facebook:スゴ本オフ・最悪のトラブル]

 本を介して人を知り、人を介して本に出合う、スゴ本オフへいらっしゃいませ~

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『ゲーデル、エッシャー、バッハ』の薄い本が出ます。

 知的冒険の書として『ゲーデル、エッシャー、バッハ』なるものがある。タイトルが長いので、頭文字をとってGEBとしよう。

 GEBは、ダグラス・ホフスタッターという天才が、知を徹底的に遊んだスゴ本だ。不完全性定理のゲーデル、騙し絵のエッシャー、音楽の父バッハの世界を、「自己言及」のメタファーで縫い合わせ、数学、アート、音楽、禅、人工知能、認知科学、言語学、分子生物学を横断しつつ、科学と哲学と芸術のエンターテイメントに昇華させている。

 「天才とは、蝶を追っていつのまにか山頂に登っている少年である」と言ったのはスタインベックだが、ホフスタッターに付き合って知を追いかけていると、とんでもない高みまで連れて行かれることを保証する。

 ただし、このGEB、質量的には鈍器である。とても面白いが、とても重い。

 この厚いGEBの薄い本を作ろうという企画があり、参加させてもらった。「読むとGEBを読んでみたくなり、GEBを読んだらまた読みたくなる」がコンセプト(GEBと不思議の環を成す)だという。

 もとは、「ゆるふわゲーデル、エッシャー、バッハの会」という読書会で、その名の通り、ゆるくGEBを読もうという会だという。発起人の白石さんが、このブログの記事『ゲーデル、エッシャー、バッハ』はスゴ本にピンと来てGEBを手にしたという。嬉しい限りなり。

 そういえば、そもそもGEBを手にしたのは、『数学ガール』の結城浩さんのおかげ。ブログか日記で、「何度読んでも得るものがある」と絶賛していたのを目にして俄然読む気になったのが縁なり。今から思い返すと知的好奇心だけを頼りに冒険に飛び出したわたしの無謀さが、恥ずかしいやら有り難いやら(おかげで素晴らしい旅になったから)。

 この場を借りて、結城さんにお礼を申し上げる。素晴らしい本とめぐり合わせていただいて、そして、素晴らしい本を書いていただいて、ありがとうございます。

 GEBの薄い本は、GEBそのものの早めぐり、GEBの歩き方、音楽方面からの再解釈、腐女子のためのBL化など、薄いわりにバラエティ豊かな同人誌になる模様。わたしは、GEBへの熱い思いを語ったインタビューと、「GEBの読前・読後にお薦めする本の紹介」で参加いたしまする。詳しくは以下をどうぞ。

技術書典3
10/22(日) 11:00-17:00
秋葉原UDX(アキバ・スクエア)
参加無料

サークル名:ゆるげぶ[URL]
配置:き40

 GEBの同人誌って、世界初だろうな......

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“奇跡の惑星”から、ありふれた奇跡へ『系外惑星と太陽系』

 読前・読後で世界を一変せしめるような本をスゴ本と呼ぶのなら、これはまさしくそれ。

 なぜなら、薄々考えてきたことが、エビデンスと共に論証されており、今まで学んできた天文学、地球物理学、生命科学の知識が急速に収束し、「地球外生命はいる」という確信になろうとしているから。同時に、わたしの思考が、いかに地球を中心に囚われていたことに気づかされたから。

 タイトルの「系外惑星」とは、太陽系以外の惑星のこと。ここ数十年の間、この系外惑星が続々と発見されるにつれ、生命活動が可能な惑星(ハビタブル惑星)に対する認識が塗り替えられてきた。かつては、かつては「奇跡的」だったものが、「ありふれた奇跡」になろうとしている。しかも、ハビタブル「惑星」である必要はなく、ハビタブル「衛星」の可能性も示唆されている。

 つまり、「ハビタブル」の条件を考えるにあたり、「太陽系の地球のような惑星」のイメージを壊し、ゼロベースで考え直す。文字通り「生命を宿しうる」ことで再定義し、その条件を適当な惑星の質量・軌道、水、炭素、窒素、エネルギーの供給というように捨象してしまう。すると、太陽系に似た惑星系である必然性はなくなり、地球に似た惑星である必要もなくなる。サイズによっては惑星である必要性もなくなり、衛星でもよくなる。

 そして、相当する質量や軌道という観点であれば、惑星系性理論および観測された系外惑星の軌道分布から予測可能であり、元素およびエネルギーの供給については、惑星大気の観測からある程度の実証を得ることができる。

 昔は、太陽系以外にも惑星があるはずだとして、様々な系外惑星探査が行われてきた。大型望遠鏡を使った探索は1940年代から本格化し、1980年代には観測技術は充分なレベルに達していた。しかし、系外惑星はほとんど発見できなかった。「第二の地球を探せ」というスローガンで、地球に似た系外惑星を探そうとして、(それが見つからなかったが故に)地球は“奇跡の惑星”とされた。

 今は、一定の確度を持ち、予測と検証を繰り返しながら観測を行うことで、系外惑星の発見数は、爆発的といっていいほど激増している。この今昔の境は1995年以降、「ホット・ジュピター」や「エキセントリック・プラネット」と呼ばれる常識外れの惑星が見つかってからだという。いま、まさにパラダイムシフトが起きているのに、気づかぬまま通り過ぎているという感覚。楳図かずおの傑作『わたしは真悟』の「奇跡は誰にでもおきる。だが、おきたことには誰も気づかない」を地で行く感覚なり。

 なぜ、半世紀もの間、系外惑星を発見できなかったのか?

 なぜなら、ホット・ジュピターのような惑星の存在自体が、「想定外」だったからになる。恒星の周囲を、非常に高速で(公転周期4日)周っているガスで覆われた「熱い木星」なんて、想像がつくだろうか? あるいは、彗星のような楕円軌道を描き、灼熱期と極寒期をめまぐるしく繰り返す超巨大サイズの「奇妙な惑星」なんて、完全に常識外れだろう。

 この「常識」こそが、バイアスとなっていたという。つまりこうだ、わたしたちは、太陽系というたった一つのモデルでもって、恒星や惑星を考えようとした。サンプルが1つしかなかったため、惑星形成論とは、太陽系の姿をどのように合理的に説明できるかという議論に等しかったという。太陽系の姿に無意識のうちに囚われ、その「常識」の目で探そうとしていたため、文字通り視野が狭くなっていたのだ。

 著者は、さらにこの「常識」の中心に、キリスト教を中心とした西洋文化を指摘する。地球や生命、宇宙の始まりといった形而上的な問題について、人の考えは、そのバックグラウンドにある文化に影響される傾向がある。「神に選ばれて、キリストが誕生した特別な場所」でなければならない地球は、かつては宇宙の中心とされた。もちろん現代で天動説を信じる人はいないだろうが、太陽系や地球をあるべきモデルとしたがるバイアスは、少なくともわたしの中で、形を変えて生き残っていることが分かった。

 しかし、いったん太陽系モデルから離れて見るならば、その視野は驚くほど広がる。著者は、観測データからも理論モデルからも、ハビタブル・ゾーンに地球サイズに近い惑星が存在する確率は、10%以上はあるという。この銀河系に惑星は充満していると言えるのだ。

 しかも、惑星だけではなく衛星も含めると、その数はもっと大きくなる。ハビタブル・ムーンだ。木星の衛星のエウロパや、土星の衛星のエンケラドスは、表面は凍っているものの、氷の下には液体の海があることはほぼ確実で、そこでの生命の可能性が議論されている。潜ってみたら、微生物が「うじゃうじゃ」いましたと報告されても、驚く反面、やっぱりそうなのかもと思うだろう。

 この感覚は、ここ近年の天文学における発見が、わたしの考え方そのものに影響を与えたのかもしれぬ。見えていないものは、「まだ見つかっていない」可能性を残しているのであり、それは「存在しない」ことと等価ではない。だから、見えていないものについて想像する余白を、常に残しておきたい。

 パラダイムシフトが、まさにわたしの内側で起きているのを自覚した一冊。

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食う寝る殺す『性食考』

 食べること、セックスすること、殺すこと。これらは独立しているのではなく、互いに交わり重なり合っている。「食べちゃいたいほど、愛してる」という台詞を起点に、古事記と神話、祭りと儀礼、人類学と民俗学と文学を横断しながら、人の欲の深淵を覗き見る。ぞくぞくするほど面白い。

 著者は民俗学者。引き出しを沢山もっており、バタイユやレヴィ=ストロース、デズモンド・モリスや柳田國男などを次々と引きながら、性と食にまつわるさまざまな観点を示してくれる。おかげで、わたしの引き出しも次々と開かれることとなり、読めば読むほど思い出す読書と相成った。

 たとえば、入口の「食べちゃいたいほど、愛してる」は、センダック『かいじゅうたちのいるところ』から引いてくる。いたずら小僧のマックスが、罰として寝室へ追いやられるところから始まる夢と空想と「かいじゅうたち」の物語。その愛のメッセージを引いてくる。

「おねがい、いかないで。
おれたちは たべちゃいたいほど おまえが すきなんだ。
たべてやるから いかないで。」

 そして、食と愛が、実に近しいところにあることを示す。たとえば、人間行動学の『マンウォッチング』にある、食べるための唇とシンボルとしての唇の話である。つまりこうだ。直立歩行するヒトにとって、雌が成熟し発情しているかどうかを示すディスプレイ部位が、お尻や陰唇から、おっぱいや唇に成り代わったという話だ。甘噛みにも示されるように、愛情表現のキスとは、摂食行為の代替なのだ。

 さらに、古代中国の伝説を集めた『捜神記』から、ペニスをむさぼり喰らう、もう一つの秘められた口の話を引いてくる。陰部が首や腹、背中など、本来と異なる場所にある女が出現すると、天下が乱れる兆しとされるそうな。いわゆる有歯女陰(ヴァギナ・デンタタ)の伝説は、古代中国に限らず、世界中にその例を見ることができるという。

 また、イェンゼン『殺された女神』から、世界各地の食物起源神話が、ある種のパターンに則っていることを指摘する。ハイヌウェレという神話である。ハイヌウェレという少女は、様々な宝物を大便として排出することができた。村人たちは気味悪がって彼女を埋め殺してしまうのだが、その死体からさまざまな種類の芋が育ち、人々の主食になったという話だ。東南アジア、オセアニア、南北アメリカ大陸に流布している神話で、日本や中国にも類似の話がある(画像はwikipedia[ハイヌウェレ型神話]より)。

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By Xavier Romero-Frias (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

 「女に飢える」や「性欲の渇き」という言葉や、愛の行為としての「甘噛み」、そしてキスなど、食べることと愛することは、重なり合っている。レヴィ=ストロースは「狂牛病の教訓」のなかで、世界のすべての言語がセックスを摂食行為になぞらえている、と書いていたという。やっていることは即ち、肉を喰らう肉であるため、文化を問わずそういう隠喩をまとうのだろう。

 種の保存行為としての食と性は、わたしたちの視床下部に隣り合っているだけでなく、文化の中にも、驚くほど交わりあっているのだ。

 最初に書いたように、これ読んでいると、さまざまな過去のスゴ本が浮上してきて困った。ここでは、エログロの無いものを選んでご紹介しよう。

 まずフレイザー『金枝篇』[レビュー]。人類学・民俗学・神話学・宗教学の基本書であり、世界中の魔術・呪術、タブー、慣習、迷信が集められている。「食と性」に関するものなら、植物と人との間にある、「種をまく」という相似性を慣習化したものが紹介されている。すなわち、種をまいた畑に若い夫婦たちが転げまわり、性交するという慣習が、ウクライナや中央アメリカにあったという。また、神を食う儀式として、ギリシアの穀物の女神デメテルとペルセポネが紹介される。穀物神は人の姿で表わされ、その姿のまま殺され、聖餐として食べられてしまう。すなわち、人の形をした聖なる食べ物なのだ。

 みだらで、せつなくて、うまそうな短編集『飲食男女』[レビュー]を読むと、食べることは、そのまま色っぽいことが分かる。少年時代の甘酸っぱさは「ジャム」に注がれるレモン汁に象徴され、性春のひたむきな欲情は、「腐った桃」の、ゾッとするくらい甘い匂いに代替され、酸いも甘いもかぎわけた行く末は、「おでん」の旨みに引き寄せられる。同時に、イチゴジャムに喩えられた血潮の鮮烈なイメージや、山茱萸にべっとり濡れた唇が「あたし、いまオシッコしてるんだ」とつぶやく様は、いつまでも読み手につきまとって離れないだろう。

 花とはセックスそのものだと喝破した澁澤龍彦も外せない。花弁、雄蕊・雌蕊といった部位は性器そのものだし、人によって見る/見られるために利用されることも然り。『エロティシズム』が有名だが、ここでは、「性」に加えて「食」も入るため、『フローラ逍遙』を紹介したい。水仙や椿、薔薇やコスモスなど、オールカラーの植物画とともに綴られる博物誌には、花から「性」、種や球根から「食」が喚起される。クロッカスの茎をファロスに、球根を睾丸に見立てる技はさすが。そもそも蘭のギリシャ語オルキスは睾丸の意味だと知ったのも本書なり。

 『性食考』では、マクロイのSF『歌うダイアモンド』が紹介されている。「食」と「性」が完全に入れ替わった世界に、強烈な男性批判が込められた短編「ところかわれば」である。わたしは未読だったが、あらすじの紹介で、藤子不二雄の短編「食欲と性欲」を思い出した(『気楽に殺ろうよ』所収)。人前で食事をするのがタブーとなり、反対にオープンな性行為が普通となった世界の話だ(ひょっとすると、マクロイから拝借したのかも)。食も性も、その周辺には文化と野性があいまいに重なりあい、タブーと聖なるものが生まれ出る場になることが分かる。

 人の視座から考察した『性食考』とは異なり、動物の観点から捉えたのが、写真集『死を食べる』になる[レビュー]。たとえば、キタキツネの死骸。冷たくなったキツネの体からダニが離れ→ハエが卵を産みつけ→ウジがわく。肉食の昆虫(スズメバチ)もやってくる。食い尽くされた後は、土に還る。屋外にうち捨てられた女の死体が朽ちていく経過を九段階にわけて描いた仏教絵画『九相図』の動物バージョンだ。『九相図』と決定的に異なるのは、『死を食べる』を最後まで見ていると、「あらゆる生きものは、死を食べることで、生きている」というシンプルな事実が腑に落ちるということ。

 食と性と死から、かくも豊饒な体験を思い出す。「食べること、交わること、殺すこと」を徹底した作品として、エログロ満載な映画『八仙飯店之〇〇饅頭』『ムカデ〇〇』コミック『バージェスの〇〇たち』『ミミ〇リ』等があるが、やめておこう(検索禁止)。いずれにせよ、このテーマを突き詰めると、人とは歩く糞袋にすぎぬというとこに行き着く。

 食と性と死、読めば必ず思い出す、人の欲の深いところを覗いてみてはいかが。

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「お金」というテーマで本を選んだ

 「お金」という言葉から、あなたは何を連想するだろうか?

 生活費? 給料? 投資? 経済? それとも「お金」で買えるさまざまなモノから、お金では買えない何かを思い浮かべるだろうか。お金を強奪したり騙しとる犯罪や、お金によって狂わされる人生、富や成功を想像するだろうか。

 ここでは、「お金」がテーマの読書会で集まった本を紹介する。お薦め本をもちよって、まったり熱く語り合う「スゴ本オフ」という読書会だ。毎度毎度、すごい本がざくざくと見つかる宝の山なり。「それは知らなかった!」という驚きの傑作から、「そのテーマでこの本につなげるのか!」という発想の妙まで、何度叫んだことやら(詳しくは[スゴ本オフ]をチェック)。

 懐かしいもの、知らないもの、意外なもの、様々な本に出会うことを請合う。

01

お金持ち

 お金といえば「お金持ち」。お金持ちといえば、9兆円にものぼる資産を持つ世界最大の投資家ウォーレン・バフェット。そして、バフェットの本は沢山あるが、バフェット自身の言葉で書かれているのはこれだけという。でんさんが紹介する『バフェットからの手紙』には、600頁に、株式投資や経営に関する重要なトピックがみっちり詰め込まれている。最も大事なのは、「分からないことに手を出すな」ということ。株を買うというよりは、会社を買う。信頼できる経営者がいる会社を買うことが重要らしい。

 「お金持ち」でわたしの想像の届く範囲だと、伊丹十三監督『マルサの女』に出てくる脱税犯のだな。脱税を摘発する国税局査察部の宮本信子と、巨額脱税犯の山崎努の攻防が凄い映画なり。「脱税」がテーマだけなゆえに、お金に対する考えというか哲学のようなものが滲み出る(それがまた面白い)。わたしが紹介したのはこのくだり。

  金を貯めようと思ったらね。
  使わないことだよ。

  100万あったって、使えば残らない。
  10万しかなくても、使わなけりゃ、
  まるまる10万残るんだからね。

  あんた今、ポタポタ落ちてくる水の下に
  コップを置いて水ためているとするわね。
  あんたのどが渇いたからといって、
  半分しかないのに飲んじゃうだろ。
  これ最低だね。
 
  なみなみいっぱいになるのを待って、
  それでも飲んじゃだめだよ。

  いっぱいになって、溢れて、ふちから垂れてくるやつ。
  これを舐めてがまんするの。

 youtubeで、ちょうどそこから再生できる。山崎努の名演をどうぞ。


経済

 お金といえば「経済」。わたしは『クルーグマン国際経済学』という絶賛積読中のゴツい本を紹介したけれど、はらさんが持ってきた『経済政策で人は死ぬか』が面白そう。世界恐慌からソ連崩壊後の不況、アジア通貨危機、さらにサブプライム危機まで、様々な不況を分析するのだが、その切り口が斬新だ。普通ならGDPやマネーサプライといった指標値を思いつくが、本書はなんと「死亡率」!

 たとえば、不況時に緊縮財政をしたとする。医療費が抑制されるから、皆が病院に行けなくなる。結果、死亡率が上昇する。ソ連が崩壊したとき、みんなこれで幸せになると思ったが、実際は、男性、とくに若い男性の死亡率が急上昇しているなど、「死亡率」で考えると、経済政策の成功・失敗に対する(経済学者の弁明を超えた)モノサシが得られる。財政が疲弊しているとき、国としてやらなければならないことと、国民が幸せだと感じることの差が、「死亡率」に垣間見ることができて面白い。


お金で買えるもの・買えないもの

 お金で買えるもの・買えないもので考えると、筆頭に浮かぶのが「命(≒時間)」と「愛」。実は、命の値段を調べたことがあって、「命の値段を見つめ直す四冊」に書いた(結論から言うと、日本人の場合、一人一年一千百万円なり。詳細はリンク先で)。オフ会では、「命の値段」を示すのに、手塚治虫の『ブラックジャック』を出してくる。

 ほらあれだ、ブラックジャックが外国で殺人犯と間違われたとき、見知らぬ日本人が骨折って助けてくれたという話。その彼が大変な目に遭ったとき、今度はブラックジャックが全力で助けに行くという神エピソードだ(以下、『ブラックジャック:助け合い』秋田書店より)。

 あと、地下室に閉じ込められるエピソードも紹介される。「助かるならいくらでも金を払う」と言い出す連中を尻目に、壁を「聴診」する話もある。「金と命」という生々しいテーマを何度も教えてもらったなぁ……

 金で愛は買えるか? という疑問に、「セックスはカネで買えるが、愛は買えない」という中国の諺を思い出す。そこで紹介されたのは、アルベルト・モラヴィアの『倦怠』と谷崎潤一郎の『痴人の愛』。どちらも人生の虚しさを埋めるために「買った」(飼った?)少女がファム・ファタルでしたという話だ。

 そして、彼女が自分に振り向いてくれないことに心を焼き、嫉妬し、もの狂おしくなる関係こそが、虚しいはずの人生を生々しくさせていることになる。『倦怠』のワンシーンで、金で束縛する試みが正反対の結果になり、ふたりが紙幣に埋もれて交わるところがある。狂気とグロテスクに満ちた場面らしい。

 「お金で買えないもの」として、一番ズシンと来たのは、ささきさんが紹介してくれた、ジョン・クラカワー『空へ』。エベレスト登頂の夢をかなえるため、大金を払ってガイドを雇う人々と、そうした「顧客」を率いるリーダーの遭難事故。その悲劇から生還したジャーナリストが書いたドキュメンタリーで、映画『エベレスト3D』の原作でもある。

 登山に参加した人たちは、プロのクライマーではない。6万5000ドルという大金を支払うため、自宅を担保にお金を借りた人もいたらしい。これは読みたい。そして、「大金を払って、しんどい思いをして、死ぬような目に遭っても、かなえたかったものとは?」を、ぜひ知りたい。

02

詐欺

 簡単に金を稼ぐ方法として詐欺がある。光クラブをモチーフにした高木彬光『白昼の死角』を思い出したが、もっと現代的かつ具体的なのは、ズバピタさんが紹介した『営業と詐欺のあいだ』になる。

 営業と詐欺を同列に見ていることも面白いが、さらにカルト宗教やブラック企業まで巻き込み、すべては「お金を奪う」行為であるという視点から、お金を奪う技術とお金を奪われないための知識と技術についてまとめた一冊とのこと。営業と詐欺の境目が非常に曖昧なことが分かり、著者に言わせるならば「売買とは売り手と買い手の知的ゲーム」らしい。営業マンにはきわどい必勝法が伝授され、売りつけられる方にとっては、騙されないコツが身に付く。

 紹介された本は以下の通り。定番から意外なものまで、お探しあれ。次回のテーマは「アクシデント」(「トラブル」だったかも……)。災厄レベルの深刻なやつから、食パンくわえて「遅刻遅刻ー」のやつまで、このキーワードでピンと来た推し作品を、教えてくださいませ。参加はここからどうぞ→[スゴ本オフ]

お金持ち

  • 『バフェットからの手紙』ローレンス・A・カニンガム(パンローリング)
  • 『お金持ちになれる黄金の羽の拾い方2015 知的人生設計のすすめ橘玲(幻冬社)』橘玲(幻冬社)
  • 『大富豪が実践しているお金の哲学』冨田和成(インプレス)
  • 『マルサの女(映画)』伊丹十三監督(東宝)
  • 『株は技術だ』相場師朗(ぱる出版)
  • 『億男』川村元気(マガジンハウス)
  • 『改訂版 金持ち父さん貧乏父さん』 ロバート・キヨサキ (筑摩書房)
  • 『マージン・コール(映画)』監督・脚本:J・C・チャンダー(ビフォア・ザ・ドア・ピクチャーズ)
  • 『世紀の空売り―世界経済の破綻に賭けた男たち』マイケル・ルイス(文春文庫)
  • 『マネー・ショート華麗なる大逆転(映画)』アダム・マッケイ監督(パラマウント映画)
  • 『貨殖烈伝』司馬遷(『生きる技術』筑摩書房より)

経済
  • 『クルーグマン国際経済学 理論と政策』ポール・クルーグマン(丸善出版)
  • 『シティプロモーションでまちを変える』河井孝仁(彩流社)
  • 『決済インフラ入門』宿輪純一(東洋経済)
  • 『14歳からのお金の話』池上彰(マガジンハウス)
  • 『ファスト&スロー』ダニエル・カーネマン(早川書房)
  • 『エンデの遺言』ミヒャエル・エンデ(NHK出版)
  • 『経済政策で人は死ぬか?: 公衆衛生学から見た不況対策』デヴィッド・スタックラー(草思社)
  • 『帝国の手先 ヨーロッパの膨張と技術』ダニエル・R・ヘッドリック(日本経済評論社)
  • 『狼と香辛料』支倉 凍砂(電撃文庫)
  • 『valu だれでも、かんたんに、あなたの価値をトレード(フィンテック)』株式会社VALU(株式会社VALU)
  • 『ゴッホ・オンデマンド』ウィニー・W・Y・ウォン(青土社)
  • 『マネーボール 完全版』マイケル・ルイス(ハヤカワ・ノンフィクション)

買えないもの
  • 『ブラック・ジャック』手塚治虫(秋田書店)
  • 『幸福の資本論』橘玲(ダイヤモンド社)
  • 『7つの習慣』スティーヴン・コヴィー(キングベアー)
  • 『兄のトランク』宮沢静六(ちくま文庫)
  • 『人民は弱し 官吏は強し』星新一(新潮文庫)
  • 『倦怠』アルベルト・モラヴィア(河出文庫)
  • 『痴人の愛』谷崎潤一郎(新潮文庫)
  • 『空へ 悪夢のエヴェレスト1996年5月10日』ジョン・クラカワー(ヤマケイ文庫)
  • 『エベレスト3D(映画)』バルタザール・コルマウクル監督(ユニバーサル映画)

詐欺
  • 『スティング(映画)』ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォード出演(ユニバーサル・ピクチャーズ)
  • 『百万ドルをとり返せ!』ジェフリー・アーチャー(新潮文庫)
  • 『営業と詐欺のあいだ』坂口孝則(幻冬舎新書)
  • 『大逆転 (映画)』エディー・マーフィー出演(パラマウント映画)
  • 『マネーロンダリング』橘玲(幻冬社)
  • 『誠実な詐欺師』トーベ・ヤンソン(ちくま文庫)


  • 『闇金ウシジマくん』真鍋昌平(ビックコミックス)
  • 『ナニワ金融道』青木 雄二(講談社)
  • 『不発弾』相場英雄(新潮社)
  • 『火車』宮部みゆき(新潮文庫)
  • 『銭ゲバ』ジョージ秋山(幻冬舎文庫)
  • 『100分de名著 苦海浄土』若松英輔(NHKブックス)
  • 『キングの報酬 power(映画)』監督:シドニールメット(20世紀フォックス)
  • 『スパイの血脈』ブライアン デンソン(早川書房)

生活
  • 『小商いのすすめ』平川 克美(ミシマ社)
  • 『ナリワイをつくる:人生を盗まれない働き方』伊藤 洋志(ちくま文庫)
  • 『フルサトをつくる: 帰れば食うに困らない場所を持つ暮らし方』伊藤 洋志(東京書籍)
  • 『猫を助ける仕事』山本 葉子,松村 徹(光文社新書)
  • 『日本の給料 職業図鑑』給料BANK(宝島社)

いろいろ
  • 『マネー』浜田省吾(ソニーミュージック)
  • 『The Dark Side of the Moon』Pink Floyd(Pink Floyd Records)
  • 『おねだり大作戦』BABYMETAL(TOY'S FACTORY)
  • 『ベイビードライバー(映画)』監督・脚本:エドガー・ライト(ソニーピクチャーズ)
  • 『北壁の死闘』ボブ・ラングレー(創元ノヴェルズ)
  • 『金のいいまつがい』糸井 重里(新潮文庫)
  • 『ハリー・ポッターと秘密の部屋』J.K.ローリング(静山社)
  • 『タラ・ダンカン 若き魔術師たち』ソフィー・オドゥワン・マミコニアン(メディアファクトリー)


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物理学の限界=その時代の技術の限界 『物理学は世界をどこまで解明できるか』

 「物理学の限界=その時代の技術の限界」であることが分かる一冊。

 私たちは、どれだけ世界を知ることができるのか? 科学で説明可能な領域に、根源的な限界はあるのか? もしあるのなら、その限界はどこであり、どこまで実在の本質に迫ることができるのか―――わたしが、ずっと抱いていた疑問に、理論物理学者マルセロ・グライサーが応えた一冊。

 古代ギリシャの哲学から最新の量子物理学まで、科学史を振り返りつつ、「世界に対する知識」がどのように変遷していったかを解説する。類書と異なるのは、実在論がキーになっているところ。

 つまりこうだ。それぞれの時代で現象の説明のために用いられる「科学的」なモデルは、実際にそのような形や性質で存在しているのか? という検証がつきつけられる。ご存知の通り、「科学的」なモデルは、それぞれの時代でに異なり、知識の精度や濃度が蓄積され、更新され、その度ごとに世界のありようは一変してきた。

 著者は、そうした知識やモデルによって捉えた世界を、比喩的に「知識の島」と呼び、人類が世界をどこまで知りえたかを説明する。大海という未知の世界に浮かんだ、知識の島だ。既知の世界が広がるにつれ、島の面積は広くなる。一方で、未知の世界に接する海岸線も長くなる。つまり、知れば知るほど、未知は広がるのだ。

 これは、素朴に科学を信じていた自分にとって、ちょっとした衝撃だった。たとえば、自然界に存在する力を統一的に説明する万物の理論が成立すれば、世界を解明したことになると思っていた。これが実現する2055年をサスペンスフルに描いたグレッグ・イーガン『万物理論』の影響もあったのかもしれない。

 しかし、仮に超弦理論がそれに成功したとしても、粒子の最初期の相互作用についてわかっていることの完全な理論を生みだす可能性があるだけであり、最終理論などではないという。なぜなら、わたしたちが「人」という存在である限り、人が観測し、理解できる範囲内であるという限界があるからだ。

 グライサーによると、自然を探索する方法が機械である以上、その限界は機械によって決められることになる。なぜなら、機械は人の発明品である以上、人の創造力とリソースに依存するからだ。科学史を振り返ってみれば明白だ。新しい顕微鏡、新しい望遠鏡、新しい粒子加速器によって、世界のありようは変わってきてのだから。

 さらに、観測や測定に限らないという。既知のデータから未知の領域へ外挿される理論やモデルもまた、現在の知識に頼らなければならない。これも、歴史が明らかにしているエーテルやフロギストン、熱素、ボーアの原子モデルも、(その当時として)自然現象の記述として機能していた。物理的な実在に関し、最終的な説明などは存在せずより効果的な記述があるだけだという。

 ヴェルナー・ハイゼンベルクはもっと短い言葉で喝破している「私たちが観察するものは自然そのものではなく、私たちの探究する手法に応じて露わになった自然である」。探究する手法や機械によって、実在が変わるのだ。コロンブスの地球を中心とした宇宙は、太陽が中心にあるニュートンの宇宙と根本的に異なる。アインシュタインにしても然り。

 私たちがある時点で「真実」とする実在の説明は、時代により、モデルにより変化する。ここでプラトンの洞窟の喩えを思い出す人がいるかもしれない。洞窟に住む私た見ているのは、イデアの「影」であり、縛られているがゆえに振り返ってイデアそのものを見ることができない。

 もちろん、ある意味でこの喩えは合っている。すなわち、どんなに科学が進んでも、見えるのは実在の近似にすぎず、けっして実在そのものを見ることができないという点では正しい。だが、そこで照らし出される「影」そのものが変化するところが違う。そして、その限界は人に依存する。『万物理論』の「宇宙を正しく説明できたら宇宙そのものが消滅する」ネタは、とどのつまり「わたし」が理解するから世界がある人間原理につながる

 この限界は、佐々木閑『科学するブッダ』で考察した通り。量子論、進化論、数論を切り口に、科学の人間化が起きていることを解き明かすスゴ本なり。世界の真の姿を求めて論理思考を繰り返すうちに、神の視点を否応なく放棄させられ、次第に人間という存在だけを拠り所として物質的世界観を作らねばならなくなってきた「科学の限界」を説明する。

 仮に、物理学が行き詰まるとするならば、限界側―――つまりヒトの観測ないし発明された機械の側から逆照射することで、突破口が見出されるのではないか、と考えられる。これまで、自然現象の観察と説明からモデリングをボトムアップで積み重ねてきた物理学に対し、「ヒトで理解できる/測定可能な範囲」から説明可能なルートがないかアプローチするのだ。

 このアプローチは、カルロ・ロヴェッリが『すごい物理学』で紹介するループ量子重力理論につながると考える。すなわち、時間と空間に対し、それ以上の分割不可能な最小単位(スピンフォーム)が存在する前提で、一般相対論の時空間と量子場を合体させる試みだ。このスピンフォームこそが、時空を離散的なものとみなす「ヒトで理解できる/(将来)測定可能な範囲」なのではないか。

 知識の島のてっぺんに立ち、科学の射程をふりかえる一冊。

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『土木と文明』はスゴ本

 土木から見た人類史。めちゃくちゃ面白い。

 土木工学とその影響という切り口で世界史を概観する。テーマは、都市、道路、橋、堤防、上下水道、港湾、鉄道などに渡り、テーマごとに豊富な事例で紹介する。土木技術の発展なしには文明も発達せず、また文明の発展につれて土木技術も発達してきた。そうした土木工学と文明の関わりを歴史的に串刺しで見ることができる。

 大きなものから小さなものまで、人が手がけてきた土木事業は、それこそ星の数ほどある。それをどうやって整理するか。本書は、そのとき直面した問題(治水、防衛、流通、疫病対策等)と、利用できるリソース(人・技術・時間)、そして成し遂げられた結果(土木事業)という観点で整理しているのが素晴らしい。

 面白いことに、問題と対策という視点で眺めると、時代や地域を超えた普遍性が現れてくる。異なる時代・地域の人々が、それぞれに知恵を絞り、そのときに手に入るリソースを駆使した結果、きわめて似通った構造物ができあがる。

 人の営みの不変性が、土木事業の普遍性につながる。どの時代であれ、人は水や食べ物を確保し、便利で安全な生活を求め、より良いものを作ろうとする。当たり前のことなのかもしれないが、土木という共通面で見せられると、一種の感動すら覚える。

◆治水:水を治むるは天下を治むる

 最もすごいのは、治水。

 「水を治むるは天下を治むる」という古い言葉が指すとおり、どの時代の為政者も治水には心を砕き、大量のリソースを投入していたことが、土木事業という結果から分かる(そもそも政治の「治」の語源は治水だし)。

 たとえば、紀元前の中国の王朝、秦国の事例がすごい。洛水の120キロにわたる灌漑水路が建設されたのだが、この水路、物資を船で運ぶ体目の運河としての役割もあった。そのため、丘陵の下にトンネルを堀り、水路を通過させている。単純に横穴を掘り進めるには、時間がかかりすぎる。どうすればよいか?

 そこで、ある工法が用いられる。すなわち、丘の上から何本もの竪穴を掘り下げ、指定した深さに達したところで左右に横穴を掘り進めて水路として連結させるのだ。こうすることで、複数のチームで同時にトンネルを掘ることができる。さらに、地下水路に崩れ落ちる土砂を浚うメンテナンスの通路にもなるメリットがある。

 この工法はカナートと呼び、最古の水道でも跡が残っているという。現在でもモロッコで機能している地域があるという。本書では中近東のカナートが伝播したと示唆するが、農耕地の灌漑のための水路を、積荷を載せた船が通れるほどの大規模で実現させている秦国もすごい。

 日本の治水事例だと、行基、空海、加藤清正といったおなじみの人物が出てくる。だが、なぜに僧侶や武将?

 なぜなら、衆生済度の方便になるから。仏法を説くだけではなく、信念を共にする集団が土木技術を修得し、灌漑や治水といった「見える化」を伴ってこそ、民衆の支持を得ていたことが分かる。加藤清正にしても然り。熊本城の石垣が有名だが、水争いや土地争いを治めるための名(功績)と実(土木技術)を兼ね備えた、「清正公」という事業団のような存在だったのかも。すなわち、僧や侍という個人の属性だけでなく、優れたエンジニア集団でもあったわけだね。

 なかでも、信玄堤の事例は、感動すら覚えた。甲府盆地の釜無川の大洪水を契機として、御勅使川との合流地点の大改造を行った武田信玄の土木工事だ。本書では、新しい水路を掘り、その起点に強固な石を積上げ、水流の勢いを弱めるように誘導する設計をマップつきで紹介している。

 しかし、コンクリートも重機もない時代。時とともに地場が緩んでくるのをメンテナンスする人員を確保するため、開拓移住者を募って入植させたという(入植者たちは免税される代わりに水防が義務付けられた)。さらに、堤防の上に三社大明神を請来し、毎春の祭日の神輿渡しをすることで、参拝する群衆によって土地がおのずと踏み固められる工夫をしたというのだ。

 この祭りは、今でも行われている(旧:山梨県中巨摩郡竜王町の神幸祭)。なぜその場所でその季節に祭りをするのか、知らない人もいるだろう。単に言い伝えというのではなく、その場所を守るための方法も込みで、500年前の政策が伝統化されているのだ。これは凄い。

 なぜなら、ある巨大建造物の話を思い出したから。

 その建造物に求められているのは、「入るな!」というメッセージである。周辺には鉄条網が張り巡らされ、様々な国の言葉で「入るな!」という看板が立ててあり、言葉が分からない人向けになにやら恐ろしげアイコンで警告を発している。壁を頑丈にしたり、侵入者を排除する機能を取り入れたり、そもそも普通ではアクセスできないような高い塔、深い穴、巨大な掘といった構造をしてもいい。

 だが、そうした防護壁をもうければもうけるほど、中に入っているものが大変貴重で価値があるものだと思われ、数多くの侵入者を招きよせることになる。何百年も経過するうちに、言葉は変化し使われなくなり、警告の絵も分からなくなる。どうすればよいのか?

 一つの解として、「祭り」が挙げられる。その建造物を中心にして社や街を造り、それぞれで祭りを伝統化させる。祭りでは「厄・忌み方角」として建造物の方向から避けるような舞・祈祷・山車などを執り行うのだ。人類が最も永く伝えられる「祭り」を利用することで、その建造物に近づくことを警告し続ける―――

 もちろん、その巨大建造物とは、核廃棄物の格納場所のことだ。信玄堤のメンテナンスを入植者と祭礼で行ったように、核廃棄物のメンテナンスもそうなるのかもしれないと想像すると、ぞっとするほど既視感のある未来になる。

◆都市城壁:テクノロジーが都市の形を変える

 都市城壁の歴史も興味深い。

 人類史のある時期まで、要塞都市は、半島の内陸部に巨大な城壁を建造し、海側を天然の守りとした「自然+人工」の構成となっていた。

 その典型例が、コンスタンチノープルの大城壁である。外城壁の高さ8m、内城壁は12m、見張り塔は12mであり、この大城壁に守られたコンスタンティノープルは東ローマ帝国の首都として1000年間、平和を享受していた。都市平面図を見ると、城壁はいわゆる線上の「壁」として成り立ち、外敵に対しては城壁上から防衛兵を繰り出すことができたのだ(まさに『進撃の巨人』のように)。

 ところが、ムハメット二世は、攻略戦に際し、前線に巨大な大砲を据え付け、砲弾の威力でもって大城壁を破壊してしまう。これは、城塞守備の常識を打ち砕く大事件であり、以降の攻城戦の様相が一変したという。すなわち、要塞の平面形状を変えて要所要所に角部(稜角)を突出させ、そこに大砲を備え付け、攻撃側の大砲を撃破する構造になる。今までの「自然+人工」ではなく、八角ないし円状に近い要塞都市を目指すようになったというのだ(XEVIOUSのアンドアジェネシスのイメージ)。

 15世紀末からの大航海時代において、欧州各国がインド、アジア、アメリカに植民地制服の橋頭保を確保した時、まずこうした稜角を持つ要塞を建造したという。テクノロジーが土木工学を変えた面白い例といえる。

◆水道:キレイ好きと土木工学の関係

 様々な観点から土木と社会の関係が考察されるが、上水道・下水道の件は、その文化が如実に表れており、大変面白かった。

 古代ギリシャ文明を振り返り、上水道の建設に用いられた土木技術が紹介される一方、下水道には無関心だったとこき下ろす。そのため、アテナイを始めとするギリシア諸都市の街路は、非常に不潔な状態にあり、ペロポネソス戦争難民による過密人口に対し、下水道の整備されていない街路が疫病をまき散らす温床となっていたという。

 時代が下って、中世ヨーロッパの都市は、屎尿に悩まされていたらしい。城壁都市の影響で家屋は多層建築となっており、そこでは各戸ごとの便所はなく、外の共同便所を利用していた。屋内では携帯式の便器を利用し、家の窓から街路に捨てる人が多かったという。街路の糞便は川まで雨で流されるか、市が雇ったナイトマン(屎尿清掃人)が片付けるまで放置状態だったらしい。

 その結果、汚れが目立たない黒っぽい服装が常識となる。ダークスーツ、黒いドレス、日傘、ハイヒール、シルクハットといった文化は、多層建築と下水道の未整備、汚水を捨てる社会の影響だったのだ。

 一方で、日本の事例が象徴的だ。オランダ人のケンペルが1691年に記した『江戸参府旅行日記』を引いてくる。着飾った女性が往来を歩いているのを見て驚いたというのだ。つまり、きれいな着物で出歩くことができるほど、日本の道路が清潔だったのだ。

 ここで急いでただし書きをせねばならぬ。日本で糞尿は肥料として売買されていたため、「往来に投げ捨てる」といったもったいないことをしていなかったのが真実だ。さらに申し添えておくと、ユゴーが『レ・ミゼラブル』で糞尿という名の肥料をそのまま下水に流しているのを憂いていたことも、本書ではしっかりと記載されている。

 欧米では、迷惑な下水を速く流し去るために下水道の建設を第一として、下水が未処理であっても目をつぶってきた(いわゆるタレ流し)。一方、日本では、都市部における人口密度が欧米より高く、川や海に対する汚染負荷量が大きいため、下水の処理を優先し、下水道の普及は遅かったという。

 下水の処理は、河川放流の前に沈殿池に導き、浮遊物を沈殿・除去する1次処理、活性汚泥法(好気性微生物を利用する)による2次処理、さらに酸化剤や凝集剤を用いる3次処理とある。日本では3次処理まで行っているところがあるが、欧米では2次処理までで、3次処理は検討対象にすらなってないという。欧米と日本の下水に対する取り組みの差は、都市構造からくる意識の違いによると考えると面白い。

 あわせて読みたいのが、人類の営みを、都市という面から捉えた名著『都市の誕生』[レビュー]がある。都市の形態や機能、交通や地下鉄、祭りや食べ物といった切り口で人類史を振り返ると、多様でありながら普遍的で、変化しながら不変的な要素をもつことが分かる。古代から現代まで、都市のありようと発達、そしてその変遷を眺めていると、人類のサイズや活動から逆に都市の機能が規定(定義?)されていることが分かる。

 また、都市や道路、港湾の部分においては、『戦争の世界史』[レビュー]と併せると何層にも面白くなる。人類が「どのように」戦争をしてきたかを展開し、「なぜ」戦争をするのかの究極要因に至る。軍事技術が人間社会の全体に及ぼした影響を論じ、戦争という角度から世界史を書き直そうとするこれも名著なり。『土木と文明』と重ねると、戦争と土木の相互作用が見えてくる。

 すごい本を読むと、過去のスゴ本に何層にも重なり、雪だるま式に思い出されてくる。文明とはすなわち土木であることが分かる。

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人は歌で進化した『人間はなぜ歌うのか?』

 「ロックンロールは骨で聴く」というセリフが好きだ。人類の大半が肉体を捨て、電脳世界で暮らすSF映画『楽園追放』のセリフだ。そこでは、音楽を始め、あらゆる快楽を享受することができる。そんな時代に、生身の体を持ったある男が、ロックは骨で聴くものだとつぶやく。

 これ、すごく分かる。

 彼のようギターを抱えて弾いても分かるし、ライブやコンサートの大音量に包まれても分かる。音楽は、確かに耳からの音を通じて聴くものだが、それだけではない。顔や腕の皮膚や、足下・体の芯から振動を感じ取るものだ。

 なぜなら、体の外から入ってきた音楽が自身と一体化し、自分の中に音楽があることに気づくから。わたしの声が、鼓動が、手拍子が、足踏みが音楽と呼応するものだから。ロックンロールに限らず、音楽は身体で感じ、共に歌い、叩き、踊るもの。静聴を求められるクラシックのコンサートでも、最後は万雷の拍手で応えるでしょ。それも同じことだと思う。

 「人はなぜ歌うのか?」という疑問から、人は歌で進化したという仮説を掲げる本書は、まさにこの点を衝いている。音楽とは何なのかという疑問をひっくり返すと、人間とは何なのかという疑問につながる。この発想がめちゃくちゃ面白い(一方、あやしい面もある)。

 たとえば、人は地上で歌う唯一の種だという。

 もちろん、歌うことのできる種は沢山いる。ウグイスやカナリヤをはじめとする鳥類や、テナガザルなどのサルの仲間、クジラやイルカなど、歌う種は5万4千種におよぶという。

 だが、鳥やサルは高所で暮らしており、地上に住む動物種で歌うものは皆無だという。なぜか? 歌うことによって、捕食獣に自分の居場所を教えることになるから。その証拠に、食べ物を求めて地上に降りるとき、鳥は歌うのを止める。

 そして、地上に住みながら歌う唯一の例外が、人だという。なぜ人は歌うのか? これは、ヒトの進化の過程における最大の謎になる。チャールズ・ダーウィンは『人間の進化と性淘汰』でこう述べる。

「音楽を楽しむことも、音楽をつくりだす能力も、ともに人間の通常の生活に直接の役には立っていないので、これは人間に備わった能力のなかでも、最も不思議なものの一つに数えられるべきだろう」

 時間や精力というリソースを多大に消費する、この「歌う」という現象が、あらゆる社会、文化、地域、時代を超え、なぜこのように普遍的に広がっているのか。本書は、この疑問に真っ向から切り込んでゆく。

 本書によると、「はじめに歌ありき」になる。

 歌は人の誕生とともにあった。子守唄から始まって、子供時代の遊び歌、恋歌、婚礼歌、宗教歌、狩猟の歌、農耕の歌、旅の歌、戦いの歌、癒し歌、葬式の歌と、人生のあらゆる段階につきもので、歌うことは文化のまさに中心にあったという。

 著者は音楽大学の教授で、多声楽の造詣が深い。世界中の伝統声楽の特性を調べ上げ、単旋律(モノフォニー)で歌う文化と、複旋律(ポリフォニー)で歌う文化の分布から、歌う文化の歴史を追いかける。そして、初期人類の進化過程における合唱の重要性を指摘する。はじめにポリフォニーがあり、人類が言葉を獲得していく過程でモノフォニーが生まれたというのだ。

 なぜポリフォニーか。著者は、爪も牙もなく足も遅い弱小グループであったヒトの祖先が、強く大きく見せるために、歌を歌ったのではないかと仮説する。体を叩くドラミングを行い、リズムに合わせて歌を歌ったのではないかというのだ。和声で合唱すると、響きがさらに大きくなる。同時に響く、さまざまな音の倍音が互いにぶつかり合い、その結果、実際より大人数になる響きのメカニズムを説明する(ボージェスト効果)。

 さらに、合唱は食料調達にも用いられたという。もちろん、音を立てたら獲物に逃げられてしまう。だが、ここでの獲物は腐肉だ。要するに、他の大型獣が狩った獲物や、病気等で死んでいる獣を探し、集団で歌いながら囲い込む。既に集まっている獣を追い払うため、集団で足を踏みならし、手拍子をうち、リズムに合わせて大声で叫び、歌ったのではないかという。少人数でより効果的に音を響かせるために合唱は不可欠だったという。

 また、歌は戦いにも不可欠だった。肉食獣や、他のグループと戦うとき、集団で歌を歌うことが非常に効果的だったという。正確なリズムで、大声で歌うことにより、相手に対し、戦闘を行う強いメッセージを伝えると同時に、仲間同士で強い連帯感を生み出し、恐怖や痛みを感じにくくさせる高揚した精神状態に持っていったというのだ。この主張は、サッカースタジアムに行くと、よく分かる。肌をビリビリさせるうねりのような大合唱は、自分という感覚をなくすから。

 すなわち、歌は楽しみのために生まれたものではなく、身を守り、生きる糧を得るために、必要不可欠な技術だったというのだ。

 この証明は、かなり難しい。「歌を歌う」というエビデンスが残らない現象を、世界各地の歌唱文化や伝承の側面や、ヒトの身体に残された機能的・遺伝的要素から炙り出すように説明するしかない。

 他にも、「なぜあらゆる言語において、質問のイントネーションは上がっているか?」「なぜあらゆる新生児はイ音(A)で泣くのか」といった質問も、「人は歌で進化した」で説明しようとする。風呂敷が広すぎるため、論理の飛躍や俗説のようなものが混じっており、音楽研究者の手に余る仕事だと思った。さらに、「ヒトは快楽のために体毛を失った」とか、「ライオンとヒトは共進化した」など、あれ? と思うような主張もある。

 だが、エビデンスが不十分だったり、論理の整合性が取れないからといって、この仮説を捨ててしまうのは惜しい。逆に、この仮説をベースに進化生物学や行動科学、人類生物学からアプローチするなら、もっと面白い世界が拓けてくるのではないか。

 音楽の起源について諸説さまざまある。ハーバート・スペンサーは、音楽を言語から派生したものだとみなし、スティーヴン・ピンカーは「聴覚のチーズケーキ」と進化上は無用なツールだと言った。他にも、「異性を魅惑するため」とか「母子の関係のため」といった説がある。いずれも、音楽はおまけ的なものと位置づけられていた。

 本書が凄いのは、ヒトの進化のど真ん中に持ってきたところ。そしてこの仮説は、エビデンス抜きで、感覚として分かりやすい。ロジックとエビデンスで納得するというよりも、生得的に感じ取るようなもの。本能的に、「骨」で理解しているのだ。

 文字を持たない文化はあるが、歌を持たない文化はない。「はじめに言葉ありき」ではなく、「はじめに歌ありき」だったのではないか。そんな知的好奇心を刺激する一冊。

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排他的家族主義の物語『平浦ファミリズム』

 「ラノベばかり読んでるけど国語で全国2位取った」という匿名さんに誘われて読んで驚いた。これ、すらすら読めてズシンとくる。パッケージがラノベなだけでラノベじゃない、「家族とは何か」をシニカルに愛情たっぷりに描いた家族小説なり。

 喧嘩っ早いキャバクラ嬢の姉。引きこもりでアニメオタクの妹。コミュ障でフリーターの父。そして、ほとんど高校に行ってない「俺」で構成される平浦家。世間的に見れば「普通」ではない家族が、寄り添うように暮らしている。

 日々の生活で明かされる、それぞれの過去がキツい。最初のページで分かるのだが、ベンチャー企業の社長だった母は、既に他界している。美人の姉はもと兄で、性同一障害に苦しむトランスジェンダーである。なぜ妹が引きこもりになったかのエピソードは、怒りのあまり目の前が真っ白になる。人付き合いが下手で、社会不適格者の烙印を押された父は、それでも家族を守ろうと奮闘する。

 社会的にはマイノリティとなる家族の生きざまに、不愛想でも温かな目を向ける「俺」。文武両道、高身長、高い知性と柔軟性というラノベの主人公らしからぬハイスペックゆえに(?)、達観したような、拗ねたような口調で淡々と「正論」が語られる。

 曰く、他人なんて信頼できない。頼れるのは家族だけ。学校、会社、地域社会が押し付ける都合の良い集団主義と同調圧力は糞くらえ。誰に迷惑をかけているわけでもないし、それなりの収入も得ている。おまえらが「俺」に向ける「心配」は、自分かわいさの自己憐憫の一種にすぎぬ―――ロジカルに展開される「正論」は、読み手の立場に応じて強い説得性を持つ。

 一方、その危うさも垣間見える。家族だって人間だ。人間だから変化する。歳を取り、成長し、嗜好も変わってゆく。なるべく社会とかかわらないようにしても、それでも他人は入ってくる。学校、会社、地域社会のなかで、そんな「俺」を本気で憂い、寄り添おうとする人も出てくる。家族で対処できないような問題が起きたならば、助けを求めねばならぬ。だが誰に? 誰を信用すればよいのか?

 そうした葛藤と交流のなかで、「俺」が徐々に心を開いていく。その姿を見ているのが楽しい。それは、「俺」とは似ても似つかぬわたしの中に、「俺」が抱いている嫌悪感と同じものを見、同じ葛藤を経、そして同じ結論に達しているから。

 最初は、「俺」が抱く社会への嫌悪感の理由を探しながら読む。そのうち、家族そのものへ行き当たることを知って愕然となる。なぜ家族がそうなっているか、そして母がなぜいないのかは、「俺」が社会を避ける理由の裏返しなのだ。

 さらに、家族を経由した他人とのつながりのなかで、母が遺した願いを通じて、人を信じようとする。少なくとも、まず人を知ろうとする。家族に向けるまなざしと同じあたたかさはないけれど、それでも、人の言葉を受け取ろうとする。章を追うごとに「俺」の口調の端々にそれが観て取れる。その変化が楽しい。

 同時に、穏やかだった日常が、思わぬ方向へ転がってゆく。前半の日常が破壊されてゆく様子は、そのまま「俺」が被っていた世間へのバリアーが壊されてゆくのと同期する。普通ではない家族が、普通に生きようとするのは、それだけ大きな代償を必要とするのか。

 読みながら、ジョン・アーヴィングを彷彿とさせられる。普通じゃない家族が普通の人生を歩もうとすると、どこかで滑稽な展開になる。

 そう、『ホテル・ニューハンプシャー』のことだ。家族のためにホテル経営を夢見て家族を犠牲にする父、ゲイの兄、輪姦され心を閉ざしレズビアンになった姉、小人症の妹、難聴の弟、そして「ぼく」―――それぞれに傷を負った、問題がありすぎる家族の、問題がありすぎる人生を、ユーモアとペーソスたっぷりに描いた家族小説だ。

 この小説の凄さは、「悲しい」と書かずにちゃんと悲しみが伝わること。もちろん "sorrow"(悲しみ) という言葉は出てくるが、誰かが死んで悲しいとか、何かを失って嘆くとかというときに、固有名詞のようにひょっこり顔を出すのだ。悲しみだけではなく、嬉しいこと、誇らしいこと、心地よいこと、腹立たしいこと、読むと、さまざまな感情が押し寄せてくる。

 その一つ一つがちゃんと計算されていて、ストーリーに翻弄されることを請け合う。長い長い物語なのだが、泣いたり笑ったりしているうちに、最後にはあたたかな気持ちになれる傑作だ。もちろん舞台もキャラも物語も違う。だが、あたたかな読後感覚が同じなのが面白い。両者とも、バットのフルスイングが重要なキーとなっているところまで似ているのが楽しい。

 パッケージはラノベだが、中身が違う。ライトノベル的なキャラクターやシチュエーション、展開はあるが、良い意味で裏切ってくれる。ひょっとすると、こんな「ラノベ枠を超えた文学」が流行っており、わたしが最近のラノベ事情に疎いのかもしれぬ。いずれにせよ、読んで楽しく・あたたかなひとときを過ごせた。本作を世に出した方と、縁を結んでくれたはてなの匿名さん、ありがとうございます。

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