「ネタバレの美学」が最高に面白い

 ワークショップ「ネタバレの美学」が最高に面白かったので書く。ちなみに、togetterまとめは[ワークショップ「ネタバレの美学」2018年11月23日]にある。

「脚本・虚淵玄」でも観るか? だからこそ観るのか?

 いま読んでる推理小説の犯人、未見の映画のラストなど、楽しみにしている作品の肝心のところをバラされたら、どう感じるだろうか?

 気にしない人もいるけれど、ほとんどの人は腹を立て、バラした人に抗議するかもしれぬ。あるいは、誰かのつぶやきが目に入り、うっかりオチを知ってしまったら? いま読んでる本を落としてしまい、たまたま開いたページで犯人を知ってしまったら?

 もっと言うと、明らかにネタバレ(に見える)展開を、当の公式サイトで明かしているならば? 監督がノーランとか、脚本が虚淵と分かった時点で、「見えて」しまうから、一切の予備知識ゼロで作品に向かうことが「正しい」鑑賞なのか? でも完全に情報ゼロだと、そもそも観たい・読みたいとも思わない。

 ネタバレにまつわる意見は多々あれど、いまいち噛み合っていない。こうした対立を解きほぐす。そもそもネタバレとは何か、ネタバレの何が「悪」で、どのラインが許容されるのか(許容されないのか)、怒る人は何に起こっていて、擁護する人はどこを擁護しているのか、気鋭の哲学者たちが喧喧囂囂する。そんなワークショップが先日行われた。

 場所は大妻女子大学、わたしのようなオッサンにとっては完全にアウェイなところである。女子大という聖地におっさんが入り込む後ろめたさが半端なく、始まるまでは緊張しまくりでしたな。

「ネタバレの美学」の概要

 まず、ネタバレについて一家言持っている4人の哲学者が、それぞれの拠り所から、ネタバレの定義、ネタバレのアリ・ナシ、その根拠を30分で説明する。次に、会場から集めた質問をぶつけて、分析したりバトルする。教室が満員なのもすごいが、聴いている人からの反響もスゴかった。

質問を「紙」で集めたのと、sli.doのタイムライン化したのが良かった
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 タイトルと発表者は次の通り

  1. 「謎の現象学: ミステリの鑑賞経験からネタバレを考える」高田敦史
  2. 「なぜネタバレに反応するのか」渡辺一暁
  3. 「観賞前にネタバレを読みに行くことの倫理的な悪さ、そしてネタバレ許容派の欺瞞」森功次
  4. 「ネタバレは悪くて悪くない:ネタバレ論争折衷派」松永伸司

 最初に配られた資料が充実しており、それに沿って話が進む。オープンリーチで議論しているようなものなので、むりやり理論武装を借りてくる綻びや、例示の偏差といった弱点が見えてて面白い。

ネタバレしないでネタバレを語る

 めっちゃハラハラしたのが、高田さんの具体例。クリスティ『オリエント急行殺人事件』を例に、ミステリの鑑賞において、どのような能動的鑑賞が働いているのかを説明しようとする。高田さんはネタバレ反対派なので、ネタバレに気を付けているものの、抜き書きされている箇所が適切すぎてて、未読の人も推察できそう。ネタバレについてネタバレ抜きで語ることの難しさを実感する。

 もしネタバレに倫理的な「悪」があるとするならば、それは何か? という問いから切り込んだのが渡辺さん。これは主張そのものよりも、むしろ議論の進め方が面白かった。前提と定義の整理は当然として、「ネタバレ=悪」に対する懐疑論の主張を想定し、それぞれの主張について問答をシミュレートする。仮説検証のバトルロワイヤルみたいで楽しい。ネタバレから「悪」を抽出できないかという思考実験だ。

ネタバレが倫理的に「悪」である理由

 すこし気の毒に思えたのが、森さんの主張。「ネタバレは倫理的に悪である」とし、極端な立ち位置から、一切のネタバレを禁止すべきだという。そして、ネタバレ許容派の戦略を一つ一つ取り上げては、徹底的に追求する。その骨子は、「ネタバレ接触により、作品鑑賞は、作品が本来そなわっていた工夫を味わえない鑑賞に変えてしまうから悪い」である。

 たとえば、『オリエント急行』のようなミステリ。

 『オリエント急行』を楽しむ人は、ミステリ(謎)が解かれることを期待してページを繰るが、答え「だけ」知りたくて読んでるわけではない。謎を解く過程のドキドキ(情動)や、伏線が回収される鮮やかさ、謎が明かされるカタルシス(もしくはモヤモヤ感)を楽しむことが目的となっている

 この情動(ドキドキ・カタルシス)は、後から再現できない。いったん明らかになった謎を、知らないことにはできないからだ。ネタバレ接触により、ミステリが持つ工夫を損なってしまうのであれば、それはそのミステリという作品を正当に鑑賞したことにはならないからNGとなる。

 この、「作品鑑賞から工夫を味わいそこなう」「本来の鑑賞経験(作品を正しく価値づけるために必要な経験)を妨げる」という点から、あらゆるネタバレを禁止する。その作品に関するちょっとした情報もダメで、自分で好んでネタバレを探しに行くことなんてもってのほかとする。

ネタバレ絶対悪への反論

 主張は分かるのだが、「ネタバレ接触」が示す概念(結末だけでなく、演出上の工夫、作品のポスターetc)がめっちゃ大きいので、隙だらけになる。結果、質問者から例外が大量に出てくる。

 たとえば一回しかないライブフェスの演奏について。曲目や演出が予め分かっていないと、それを見逃すということになりかねない。「何曲目に大掛かりな仕掛け花火が打ち上げられる」ことを知らずにトイレに行っていたなんてことを回避するために、「ネタバレ接触する」のは悪か。

 あるいは、作品のポスターや「見どころ」すらNGなら、そもそもその作品に触れる気にならなくなるような…… 「脚本・虚淵玄」というだけでネタバレになる一方で、「虚淵作品なら観たい!」という人も出てくる。SNS等でのネタバレを前提とし、商業的にネタバレを構造化した作品もある。完全にクリアな「清新の驚き」というものは、存在しないのかもしれぬ。

 さらに、「本来の鑑賞経験」てなんやねん、というツッコミが入る。作品が「正しく」鑑賞されるためには、これこれこういう情報統制が必要で、それは作者や評論家といった「芸術を分かっている強者」が、「分かっていない弱者」を指導する必要があるものなの? など芸術の(ネタバレの)パターナリズムではないかという指摘だ。

ネタバレは悪くて悪くない

 発散しがちな情報を整理したのが、松永さん。「ネタバレは悪くて悪くない」という論点で、折衷案を見いだそうとする。

 ネタバレはアリやナシや? と問うてしまうと2択になってしまう。しかし、作品鑑賞の現場において、ネタバレ概念の分類や評価軸は複雑で多様だろう。ここはアリだがここはナシ、というような場合分けができるはずだし、その場合分けの中で論点を明確にする。

 具体的には、「ネタバレ接触が自発的か/非自発的か」「開示情報が意図的か否か」「鑑賞経験を妨害するかしないか」といった分類を行い、それぞれのパターンにそって各人のネタバレ論を整理する。

 この場合分けによるパターン化+重みづけ分析は、思考の技法として名前があるのだろうが、あまりにも自然に使っている。実務では、ベンダや技術を選定するスクリーニング法(パフォーマンスや最低要求といった評価軸ごとに重み付け)を使っているが、これ、元々哲学で培われた技法なのかもしれぬ。

全員のまとめを一覧にしたのがこれ
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 ほかにも、「ネタバレチート論」や「スポーツのネタバレ(試合結果速報)」「効率よく良作を鑑賞するための情報収集」など、興味深いテーマが山ほど出てくる。稲岡大志さんのモデレートやコメントが的確&面白くてネタが発散する一方、話をまとめるタイミングが的確だった。

 ネタバレを求める人にとっての「ネタバレの美学」をやったのなら、今度はネタバレをする人にとっての「ネタバラシの美学」をやってみようという提案には、「来年度予算が取れたら」とのこと。世知辛い現実なり。こういう哲学バトルこそ、お金を集めて興行すべき。

ネタバレの美学で配られた資料

 各論のイントロダクションと資料は、昆虫亀(ネタバレ禁止派の森さんのサイト)[【発表要旨追記】公開ワークショップ「ネタバレの美学」]にまとめられているので、ご覧あれ。

ハンズアウトの資料が充実してた上記リンクから入手可能
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 主催の皆さま、たいへん面白い時間をありがとうございました。次号のフィルカルでも掲載されるとのことなので、正座して待ちます。

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正義とはイデオロギーかと問うてみる『正義とは何か』

 世の中「正義」が多すぎる。

 自分が言いたいことのためにカスタマイズした「正義」を振りかざし、気に入らないモノは好きなだけ殴っていいという謎の主張を繰り返す。「正義の反対は悪ではなくて、別の正義」というが、そんな「正義」はもはや主義にすぎぬ。

 個人的な主張の主語を最大限に拡張し、「それは世間が許さない」と世間を味方に指図する太宰メソッド。庶民、世論、大衆と、後ろ盾を入れ替える知恵が回るということは、大勢を占めないと自己主張が通らないことは分かっている。

世俗の思想家 その「正しさ」の根っこにある信念は、生まれ育った環境や、当時の世相を映した主張にすぎぬ。それ、経済学の世界なら、ロバート・ハイルブローナー『世俗の思想家たち』で履修済み。

 たとえば、希望を失い追い詰められた人生でマルクスが構想したのは、「破滅に向かう資本主義」だった。人生を軽快に気楽に首尾よく乗り切ったケインズは、「持続可能な資本主義」を主張した。どちらに説得力があるかは、聞き手がどんな人生を送ってきたかによる。

 では、ほんとうに正しい「正義」とは何か? 「これからの正義の話をしよう」などと正義の判定者に成りすまし、オレオレ正義詐欺に騙されないために、どうすればよいか? と手にしたのが本書になる。結論から言うと、正義 v.s.正義 v.s. 正義...…の三巴四巴が続き、平成仮面ライダーや魔法少女のバトルロワイヤルを見ているかのよう。

  1. リベラリズム(公正こそ正義)
  2. リバタリアニズム(小さな政府こそ正義)
  3. コミュニタリアニズム(共同体こそ正義)
  4. フェミニズム(人間にとっての正義)
  5. コスモポリタニズム(グローバルこそ正義)
  6. ナショナリズム(国民こそ正義)

 本書は、ジョン・ロールズの『正義論』から始まる現代正義論の系譜をたどりながら、「公正な社会」と「個人の幸福」について考察を進める。この概念ほど多様かつ複雑で、変化しまくっているものはないことが分かる。

 功利主義をボコボコにしたジョン・ロールズの『正義論』が成功したため、アカデミックな正義ビジネスに乗っかる形で、様々なマウンティングがなされる。曰く、経済的に上手くいかない場合はどうだとか、甘いから厳格にすべしとか、善性がないとか、「家族」の概念が欠けているとか、男に都合の良い原理だとか、いわば「正義」の殴り合いだ。

 特筆すべきポイントは、同じ主張者でも、年齢が経つにつれ、掲げる「正義」が変わってくるところ。人生経験を重ねることで、考えが変わっていくのは当然のことだろうが、そいつに同じ「正義」を重ねるのが最高にロックなり。

 たとえば、極端なリバタリアニズムを展開したロバート・ノージック。個人の権利が最上で、国家は最小にすべし、所得の再分配なんてもってのほかと『アナーキー・国家・ユートピア』に書いた15年後、『生のなかの螺旋』で遺産相続の制限を言い出す。この15年間に何があったのかというと、ノージック自身が子の親となり、親の介護をするようになったという。何を信じるかは、どんな経験をしてきたかによるのだ。

 さまざまな「正義」に、著者は辛抱強く付き合う。基本的に、主義の差異を解説するのではなく、その支持者同士のバトルなのが面白い。特にラストのナショナリズムでは、ロールズの「正義」がボコボコにされている。

 著者の姿勢が好ましい。うまくいっている国家や、既得権益のあるグループにとって是とされるのであれば、「正義とは、強者の利益にすぎない」という現実主義に陥らず、かといってどこかの「イズム」に肩入れせず、是々非々でいる姿勢が良い。グローバルな問題や、特に難民問題になると、それまで勢いのあった「イズム」の説得力が失せたりする。正義とは、誰にとっての正義によって変わってくるのかも。

 わたしは早々と「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」を連発しながら読んだのだが、実はこれこそが、とある正義論の一つ(マッキンタイアの物語論)なのだと気づかされる。

 つまり、この「お前ん中」が個人ではなく、その個人が属する共同体の中で善だと信じられているもの―――これを至上とするのがコミュニタリアニズムになる。その意味で、わたしの考える「正義」に近いものなのかもしれぬ(マッキンタイア『美徳なき時代』は読みたい)。

 どの時代で、どんな社会構造で、誰にとっての「正義」なのかによって、その定義が変わってしまう。なぜなら「公正な社会」というとき、その社会がどの時代のどの国家で、どんな人が属するかは、それぞれ異なる。従って、それぞれにおいて「公正さ」が異なることは必然だから。

 結局は相対的なもので、より多くの「味方」をつけた正義こそが「正しい」のか。悲観無用、たとえ相対化されようとも、どこが共通点で、どこに落としどころがあるか(もしくは無いか)が書いてある。だから、「その正義の正当性はどこか」「その正義の弱点は何か」を見極めるためにも本書は活用できる。

 正義は選べる。生き方を選ぶように、正義を選びたい。

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この本がスゴい!2018

まとめ

 すごく長くなったので、まとめる。まず、今年のベスト。

2018best

 この本がスゴい!2018のラインナップ。

ランドスケープと夏の定理舞踏会へ向かう三人の農夫寿司 虚空編
ブッチャーズ・クロッシング槿平家物語
知の果てへの旅愛とか正義とか人間の解剖はサルの解剖のための鍵である
勘違い力文学問題(F+f)+物語論 基礎と応用
ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎篇数学はなぜ哲学の問題になるのかシルバー民主主義


この本がスゴい!2018の一覧は以下の通り。

◆フィクション
『ランドスケープと夏の定理』高島雄哉(東京創元社)
『舞踏会へ向かう三人の農夫』リチャード・パワーズ(河出書房新社)
『寿司 虚空編』小林銅蟲(三才ブックス)
『直線』ディック・フランシス(ハヤカワ文庫)
『ブッチャーズ・クロッシング』ジョン・ウィリアムズ(作品社)
『槿』古井由吉(講談社文芸文庫)
『平家物語』古川日出男(河出書房新社)

◆ノンフィクション
『知の果てへの旅』マーカス デュ・ソートイ(新潮クレスト・ブックス)
『愛とか正義とか』平尾昌宏(萌書房)
『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』吉川浩満(河出書房新社)
『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』ふろむだ(ダイヤモンド社)
『文学問題(F+f)+』山本貴光(幻戯書房)
『物語論 基礎と応用』橋本陽介(講談社選書メチエ)
『ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎篇』コーラ・ダイアモンド(編)(講談社学術文庫)
『数学はなぜ哲学の問題になるのか』イアン・ハッキング(森北出版)
『シルバー民主主義の政治経済学』島澤諭(日本経済新聞出版社)

◆2018ベスト「フィクション」
『夜のみだらな鳥』ホセ・ドノソ(水声社)

◆2018ベスト「ノンフィクション」
『思想のドラマトゥルギー』林達夫・久野収(平凡社ライブラリー)

よい本で、よい人生を。(by まなめ王子)
以下本編。

人生は短く、読む本は多い。

 読めば読むほど、知れば知るほど、身のほど知らずを思い知る。知識と理解と表現の足りなさが歯痒い。それでも読むし、だからこそ、ここに書く。

 おかげで、たくさんのフィードバックをもらった。うれしいのは、「それがスゴいなら、これは?」という形でお薦めされた作品だ。記事へのコメントや、オフ会、twitter、facebookを通じた交流で、オススメ本を読む→その感想を書く→さらにそこからオススメを繰りかえし、ここ10年で凄い量になった。

 このリストは、わたしの知的財産だ。

 このリストで、わたしの人生は「よい」ものになった。かつての自分と比べて、より「良い」という意味でもそうだし、より「善い」選択ができるようになった。さらに、自分の人生をもっと好きになったという意味でも、「好い」ものになった。

 これらは、わたし一人のアンテナでは到底届かない。すべて、わたしが知らないスゴ本を読んできた、「あなた」のおかげ。あらためて、ありがとうございます。

この本がスゴい!2017
この本がスゴい!2016
この本がスゴい!2015
この本がスゴい!2014
この本がスゴい!2013
この本がスゴい!2012
この本がスゴい!2011
この本がスゴい!2010
この本がスゴい!2009
この本がスゴい!2008
この本がスゴい!2007
この本がスゴい!2006
この本がスゴい!2005
この本がスゴい!2004

 ここでは、2018年に出会った本の中から、わたしにとってのベストとなる本を選んだ。これが、あなたにとってのスゴ本となれば嬉しい。また反対に、このリストを目にしたあなたが、「それがスゴいなら、これは?」とお薦めしてくれるともっと嬉しい。



フィクション

『ランドスケープと夏の定理』

高島雄哉
東京創元社
レビュー[知性に普遍性はあるか『ランドスケープと夏の定理』]

 「知性に普遍性がある」という発想がスゴい。

 つまり、宇宙や物理法則が普遍である以上、知性の違いは表現の違いに過ぎず、遅かれ早かれ、あらゆる知性は普遍的なものになる、という理屈だ。これは、いわゆる宇宙人に限った話でなく、動物やAIも含めた「知性」一般に言えるという。これを、「知性定理」という。

 頭おかしい(誉めてる)と心底思う。しかもこの理論でキッチリお話を描き切る力業がすごい。「知性定理」を編み出した「ぼく」を語り手に、天才科学者の姉が途方もない実験をするのが表題作になる。エヴァとイーガンを下地にエンデを混ぜたようなお話で、流行の量子力学・宇宙論に既視感ある展開がテンポよく進む。なつかしい未来を見させられているような感覚なり。

 しかも、語り手の「ぼく」の姉がもっと凄い。人類最高の頭脳を持った天才物理学者で、猪突猛進&確信犯的ブラコンなり。宇宙空間に浮かぶ国際研究施設で、宇宙規模の実験を始めてしまう。そのスケールがデカすぎて、想像力が振り落とされそうになる。

 圧巻なのは、ありとあらゆる理論を命題群の形でマップした空間である。巨大な空間に展開された、人類が考え出した命題素が多彩に絡まり合い、繋がり合い、拡散結合を繰り返している様子は、(その描写の妙も相俟って)凄まじいの一言。人が作り出し、あるいは見出した理論の繋がり合いをビジュアライズすることで、「人間の知性」そのものの構造を見える化し、その来し方行く末を見るのは面白い。

 ただし、「知性に普遍性がある」という考え方は、わたしの持論と真逆だ。わたしの場合、ここで展開される「知性」の前に必ず「人の」という接頭辞が付く。言語、身体、環境の下に発展するのが「知性」だという発想だから、相容れなさが面白かった。

 このスケールのデカさ、発想のトンでもなさは、ぜひ体感してほしい。本書は、冬木さんの[基本読書]の[デビュー作にして超ド級の傑作ハードSF 『ランドスケープと夏の定理』]で知った。冬木さんありがとうございます!

 また、本書とレム『ソラリス』を掛け合わせた読書会が12/9(日)にある。この組み合わせは絶対に面白いことを請け合う(わたしも参加するよ!)。詳しいことは[未来思想研究会 第22回読書会:知性 『ランドスケープと夏の定理』高島雄哉×『ソラリス』スタニスワフ・レム]からどうぞ。


『舞踏会へ向かう三人の農夫』

リチャード・パワーズ
河出書房新社
レビュー[『舞踏会へ向かう三人の農夫』はスゴ本]

 「スゴ本=すごい本」とは、読む前と読んだ後で、自分自身が更新される本のこと。世界を見る目がアップデートされ、同じだったはずのものが、まるで別の存在になる。「本当の旅の発見は新しい風景をみることではなく、新しい目をもつことにある」とプルーストは言ったが、この傑作を読むことこそが旅であり新しい目を持つことだ。

 表紙の写真を鍵として、3つの物語が重なり合う。この写真にとり憑かれ、強い愛着を抱く「私」の個人的な独白を交えた物語。この写真の被写体である農夫たち自身が動き、話す昔語り。そして、謎の赤毛の女性を追い求める編集者のストーリー。一見バラバラだが、あちこちにジョークやひねり、引用、仄めかしが散りばめられており、密接に絡み合う。

 これら3つの物語が並行して進められ、ときに接近し、ときに入れ子状になりながら、だんだんと混じり合い、重なりあい、やがて大きな流れにまとまってゆく。その流れの中で、写真を撮るとは何か、「見る」とはどのような意味を持つかをめぐり、緻密な思索が積み上げられる一方、「見る」とはすなわち関わりあうことであり、関わり合うとは相手と自分の運命を変えてゆく考えが立ち上がってくる。

 しかし、重なり合い関わりあう物語たちが、完全に一体化することはない。それは、この作品全体の構造が示すテーマ「視差」の感覚である。あちこちに埋め込まれている「立体鏡」が比喩として扱われている。どのストーリーにもこの写真が重なるように出てくるが、微妙に重なり合いつつもズレが生じるのだ。

 わたしは、「読む」という経験を通じて、頭の中でこれら3つの情景を一つに合わせようとする。ところが、微妙につじつまが合わない。「読む」という経験は、それまでに読んできたものから、その先を推測しつつ、いまいる箇所に集中する。この双方向的なプロセスにおいて、頭の中で「わたしの物語」の像に合わせ、最終的に他人の物語を自分のものとして語り直し、取り込んでゆく。

 二十世紀全体をテーマにした大きな物語と、それに絡まるように成り立つ個々のストーリー、それらすべてをひっくるめて頭の中に立体化されてゆく。それは推量であり捏造であるが、確かにわたしの頭の中にはある。読むという経験は、まさにわたしの中で行われているのだ。

 読むということ、知るということ、そして見るということは、世界と関わり合いをもつことであり、すなわち、自身を再定義する試みになる。そこでわたしの中で構築されるものこそが、「オリジナル」なのだ。

 新しい目を持つことで、世界を、自分をアップデートする経験は、Uporekeさんの読書会[第60回読書部リチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』]のおかげ。Uporekeさん、ありがとうございます。


『寿司 虚空編』

小林銅蟲
三才ブックス
レビュー[危険な読書]

 世の中には、「読んではいけない本」というものがある。

 読むと頭がおかしくなったり、ガツンと常識が飛ばされたり、ものの見方を根本的に変えてしまったりする本がある。フランツ・カフカは「どんな本でも、僕たちの内の凍った海を砕く斧でなければならない」と言ったが、そうした斧である本がそれだ。

 [危険な読書]という記事において、わたしの体感でLevel 1~5 まで5段階にランキングしたことがある。『寿司 虚空編』は、Level 2 になる。2段階目だからといって侮るなかれ。(おそらく)世界初の巨大数論マンガである。

 とにかく大きければ大きいほど強くてカッコいいのだ。「大きな数」といえば、無量大数(10^68)、グーゴル(10^100)あたりを知っていたが、そんな「書ける」レベルでないことがすぐに分かる。だが本書はそんな奴を軽々と超えてゆく。

 創造力にタコメーターがついているのなら、そいつを軽く振り切り、対数表示もなんのその、イメージできないくらいの巨大な数がレクチャーされる。最初のあたりは懇切丁寧にページを割いて説明してくれるが、グラハム数、フィッシュ数、S変換、SS変換、s(n)変換、m(n)変換、m(m,n)変換と、ざっくりと”巻き”で加速してゆくにれ、わたしのアタマがついてこれなくなる。

 巨大数を「書き表す」というよりも、それを示す数式がものすごい勢いで再帰・インフレ化する。大きくなるというよりも、爆発するというイメージ(「イメージをイメージで超えていけ」というアドバイスされる)

 食べきれないほどの料理をムリヤリ詰め込むと胃がうけつけなくなり吐くハメになるが、脳はそうはいかぬ。イメージできないほど巨大でヤバくて強い凄い数を、ムリヤリ脳に理解させる。脳は吐けないから、わたしのどこかが壊れていくのが分かる。

 脳天への一撃となる、斧のようなマンガだ。[pixiv]なら無料で、[Kindle Unlimited]なら読み放題なので、斧が欲しい方はどうぞ。


『直線』

ディック・フランシス
ハヤカワ文庫
レビュー[ディック・フランシス『直線』が寝かせてくれない]

 「面白い小説とはセックスのようなもので、途中でやめるわけにいかない」という阿刀田高の言葉は、まさにこの作品のためにある。読み始めると、終わりまで終われない。

 競馬をテーマにしたミステリで有名なディック・フランシス。大ファンであるみかん星人さんから、スゴ本オフで大量に寄贈してもらった写真がこれ[スゴ本オフ「のりもの」]

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 みかん星人さんは、全て持っており、全て読んだけれど、ハードカバーで買い直して読み直すほどのファンなのだ。そんな彼の一番のお気に入りなのが『直線』になる。冒頭がすばらしくいい、これだ。

私は兄の人生を引き継いだ。彼の机、彼のビジネス、彼のおもちゃ、彼の敵、彼の馬そして彼の愛人。私は兄の命を引き継いだ。そしてそのために危うく死ぬところだった。

 この一行目で心惹かれ、どっぷりハマる。主人公は競馬の騎手。疎遠だった兄が急死したことで、兄の事業や財産を受け継ぐことになるが、その過程のなかで様々なトラブルに巻き込まれてゆく。

 壁をひとつひとつ乗り越えるたびに、兄が優れたビジネスマンだったこと、生真面目な(Straight)顔とともにユーモアに溢れていたこと、厄介ごとの種を抱えていたこと、そして、何よりも弟のことを深く愛していたことに気づく。

 そして、ひとつひとつ気づくたびに、主人公とともに読者はハッと衝かれ、寂寥感に胸が熱くなる。もはや絶対に手に入らない時間を惜しむとともに、もっと近くにいれば、もっと言葉を交わしていればよかったのにと悔む。この兄が魅力的な人なんだ。冷静で、辛辣で、真摯な(Straight)人物像が見えてくる。この作品のもう一人の主人公は兄であり、その人となりや秘密を解き明かす物語でもあるのだ。

 兄の人生に触れるとき、もう二度と会うこともかなわないと改めて知るとき、彼の痛みを自分の痛みのように感じる。生きることは痛むことだ。痛むことなしに生きることはできない。それが、落馬して骨折した痛みであれ、心ない誰かの言葉で傷つけられた痛みであれ。

 そして、いったんは痛みを忘れ、生きることを楽しむ外はない。ストーリーの面白さもさることながら、この喪失の悲しみが伝わってくる傑作だ。この『直線』の次は、『大穴』→『利腕』→『敵手』→『興奮』→『再起』に読むと良いとのこと。みかん星人さん、ありがとうございます!


『ブッチャーズ・クロッシング』

ジョン・ウィリアムズ
作品社
レビュー[『ブッチャーズ・クロッシング』はスゴ本]

 2015年のNo.1 スゴ本『ストーナー』の作者だから読んだらこれが大当たり! これもスゴ本なり。どう素晴らしいのかというと、小説としてスゴい体験ができるから。

 19世紀のアメリカ合衆国を舞台に、バッファロー猟のため、原野で生きる男たちを描いた小説だ。その峻厳さは、人の理解を超える。目の前の現実のあまりの厳しさに、わたしも身構える。起きていることが信じられない出来事に、一緒になって動揺する。ある光景に呆然となっていた主人公が、暫くして顎を噛みしめていたことに気づくシーンがあるが、わたしの口の中も血まみれになっていることに気づく。

 遠い昔の、ずっと離れた場所の話なのに、どうしてこんなに生々しく感じるのか。秘密は、その描き方にある。著者は、あらゆるものを突き放して書く。突き放して書くとは、事物や情動を感情や修飾を交えずに淡々と描写することだ。

 バッファローの血やウイスキーといった事物は、そこから引き出されるイメージを削ぎ落として描かれる。堪えがたい渇きや女が欲しいといった情動は、「渇き」「欲望」という言葉を使わずに描かれる。

 修飾語や形容詞、感情を示す言葉は、「情報」である。どんな情報か? それは、描き手が「こう伝えたい」という方向性が入った情報である。この情報が入れば入るほど、小説は「分かりやすく」なる一方、小説を読むとはインプットするだけの行為となってしまう。

 こうした感情を示す言葉を排除し、動作と会話だけで、登場人物の心情を伝えにくる。このストイックな書き方は、ヘミングウェイを彷彿とさせる。修飾語や形容詞を意図的に減らして書くことで、読み手は身を乗り出し、自分が読み取った情動で、その空白を埋めようとする。

 つまり、本来なら形容詞で表現されている心情を、読者の中でシミュレートする。シンプルで、骨太な描写なのに、そこに潜む怒りや恐怖がダイレクトに感じられるのは、言葉でもって伝えようとしているからではなく、わたしの内から湧き上がっているためである。小説をインプットするのではなく、情動が内から湧いてくるのだ。

 小説は形容詞から腐るという。対象をデコレートし、書き手が伝えたい「情報」を与え、意味づけを行う箇所から腐り始める。この、もっとも腐りやすい形容詞が排除され、動作と会話(旅の後半になるにつれほどんど話をしなくなる)だけで成立しているが故に、腐らずに残っているといえる。骨は腐らない。『ブッチャーズ・クロッシング』の凄みは、シンプルで骨太なのに、その動きで肉のみずみずしさが伝わるところにある。

 ストーリーはあえて触れない。大学を中退し、「自然の中で自分を見つめたい」と猟に参加した若者が、何を見たかは書いてある。しかし、彼が何を感じたかは、彼が見たもので読み手の中に再現される。渇くということはどういうことか、凍えるとはどういうことか、そして絶望するとはどういうことかを経験する。

 そして、これを読むことで、生きるとはどういうことか、絶望するとはどういうことかを経験してほしい。


『槿』

古井由吉
講談社文芸文庫
レビュー[古井由吉『槿』はスゴ本]

 濃密でいながら心を遊ばせるがままにたゆたう、とことん読書は贅沢だと感じる傑作。

 ひとりの男と、ふたりの女を描いた小説なのだが、「性愛」とか「情事」といった言葉をあてはめてよいものか、分からなくなってくる。露出している描写が全てだと思って読んでいると、思わず知らず迷うこと請け合う。

 それは、服に隠された部分を妄想で補うように、襟ぐりに閃く鎖骨や脇のしたの陰りを妄想で補い、全裸よりも刺激性を感じるようなもの。わたしぐらい上級者になると、服は意味をなさない。そういう肌感を重んじる人が読んだら、何気ない仕草や所作の描写に、生々しい体臭と吐息を感じ取るだろう。

 たとえば、女が吐く姿を「喉を細く、はてしもなく絞る」なんて最高なり。あからさまなエロティックではない。一人で部屋にいるときの無防備な表情や動作から、素の、生の、女のすがたを露わにする。服は意味をなさない(大事なことなので二度)。そういう視線を引き出してしまう人はいるし、そういう視線をしてしまう人がいる。こういうふうに。

やがて女がゆっくりと脚をおろし、遠くを眺めて靴をはき、みぞおちを窪めて腰をあげたとき、杉尾はあらわな、裸体の動作を感じた。女は杉尾のほうへ輪郭の奇妙に鮮明な、遠い記憶像の味のする横顔を向けて、人に見られている意識はなく、ほんのしばらく完全に静止した。それからすっと、歩き出した。

 くまなく心理を叙述したり、きちんとピントを当てていない。情景をひきとるキーアイテムを配置し、語りと併走させるテクニックを味わい、見えていない部分を補完する。放火サイレンや、槿(あさがお)の鉢、白いキャリーバッグなど、それぞれの場面の鍵となるものと人のやりとりを介して話を進める。キーアイテムをあてつけに、感情と妄想を差し繰りしていくうち、情欲が絡み合い匂い立ってくる。

 結果、話の向かう先があいまいとしていく。主人公が自らを省みている文章なのに、主体を見失う。過去を振り返った今なのか、今、昔の声と重なっているのか、分からなくなってくる。自分を観察者としているような、世界のあいまいさを味わい続けることになる。それでいて、狂っている(が言い過ぎなら、逸脱している)のは誰だろう? と考えると、いつまで経っても「信頼できない語り手」の罠から抜け出せぬ。まさに変態向けの小説なり。

 他者との関係性の中で、記憶をたぐり寄せながら、かろうじて自分を守っているかのような気がしてくる。いわゆる「意識の流れ」に注意しながら追っていくと見失う。同時に、自身が自分の身体の内側からすべり落ちるような感覚に見舞われる。

 もともと、人は「自分」とそんなに重なり合って生きているものではない。桜の白さ、遠くのサイレンの音、やりかけの仕事、追いついてくる過去に囚われ、呑み込まれようとする。そうなるまいと引き戻したり、ときに思い出に遊ばれるがままに放置したりする。むしろ、そうした引き寄せや遊ばせをしているそのものが、「自分」なのかもしれぬ。

 そんなたゆたいの湯の中で妄想を補い補い読むうちに、男女の深いところを触りあてる。そういう、贅沢な経験ができる傑作なり。

 これは、同作者の『杳子』の読書会を企画したBenさんのおかげ。『杳子』については、[生きのびるための狂気に自覚的であること『杳子』]に書いたが、そこから気になってこの傑作にたどり着く。Benさん、ありがとうございます!


『平家物語』

古川日出男
河出書房新社
レビュー[古川日出男『平家物語』はスゴ本]

 たくさんの声、声、声。読むというより体感する。読むことが体験になる、そんな圧倒的な物語りが、ここにある。

 語りのリズムに情感に、うっとり酔ったり胸衝かれたり。平清盛の絶頂期から、ぐんぐん・ガツガツ読み耽るうち、あれよあれよと儚くなる。驕る・驕らぬにかかわらず、生あるものは死んでゆき、出会ったものは必ずや別れる。歴史は確定している。平家は滅亡する。

 そんなこたぁ分かってる。分かっているのにやめられない。生きるのをやめられない。もがきあがき、意地汚く生きようとする。いっぽうで、驚くほど潔く死ぬ。生(ナマ)の生(セイ)の荒々しさに呑まれ、壮絶な死にざまを晒す人間たちに震える。凄まじい読書体験となる。

 目を引くのはその文体、語りだ。

 もとは琵琶法師の語りを記したとされている。大勢の話者がいて、続々と挿話が足され、組み込まれ、さらに多くの編者によって文も書き換えられ、継ぎはぎされ、縒り合わされ、物語を豊饒なものにしている。『平家』は日本の古典の中で最も異本が多いという。さまざまな読まれ方をされてゆくうち、物語が命を得て、今でいうなら同人誌のように自己をクローン化し膨らませてゆく。

 底本にあたると、はっきりと分かるという。著者は、「今、違う人間が加筆した」と書き手が交替したことが皮膚感覚で伝わるらしい。文章の呼吸が変わり、語りの構造も変化する。こうした、無節操ともいいたくなる膨張っぷりに、ただ一人の書き手として、どう捌くか。本書は、さまざまな「語り手」を用意することで解決する。

 すなわち、じつに多くの「語り手」が背後に潜んでいることが、はっきりと分かるように記している。話者の主語を「私」「俺」「僕」「手前」「あたし」と多彩にし、同じ「私」でも複数いる。色やかたちに焦点をあわせ、「でございます」調でしっとりと語る女の声。起きたことを述べるだけで、ぶっきらぼうに「だった」「である」で語る男の声。

 ときに間投詞ときに感嘆句を絡めながら、直接こちらに話しかけてくる。文章は一次元なのに、大勢の語り手と向き合っているような気になる。合戦シーンになると、これに琵琶の撥が加わって、一層ざわめきが増してゆく。語調と語感を意識した、ラップのような書きっぷり。これ、ぜったい謡いながら書いているだろ!と言いたくなるような箇所もある。

「そうか。では今日の軍神への捧げものに、なあ。してやるぞ」と言い、馬を押し並べる。むんずと組みつく。地面に引き落とす。首を捩じ切る。斬る! それから郎等である本田次郎の鞍の取付にこの首をつけ、まさに血祭り、軍神を祝う斬血の祭り!
南無!
南無や、南無や、南無や!
よ!
た! は!
なぁむ!
これらが緒戦、宇治川の、寿永三年一月の合戦の。

 死んでゆく、死んでゆく、前半であれほど楽しみ唄っていた人々が、泣き、嘆き、斬られ、引き裂かれてゆく。裏切りや内通、騙し討ちで命を落とすもの。まっしぐらに敵陣の中で果てるもの。逃げて逃げて逃げた先で捕縛され、恥を晒して斬られるもの。全ての望みを絶たれ入水するもの。合戦シーンは壮絶の一言。目を背けたくなる非情さと、親が子を子が親を想う刹那が混在し、その両方に撃たれる。

 多くの語り手の声は、実は鎮魂のための声なのかもしれぬ。これが物語りの頂点だ、体験せよ。



ノンフィクション

『知の果てへの旅』

マーカス デュ・ソートイ
新潮クレスト・ブックス
レビュー[なんでもは知らないわよ、知ってることだけ 『知の果てへの旅』]

 宇宙に果てはあるのか? 時間とは何か? 意識とは何か? 科学はすべてを知りうるのか……「人の知」の果てへ挑戦した本書のおかげで、このモヤモヤが晴れてくる。「科学では分からないことがある」という(これまた使い古された)セリフは、「まだ分かってないだけ」なのか、「完全に不可知」なのか見えてくる。同時に、本書のアプローチでは足りないところも見えてきて、大変たのしい読書となった。

 著者はマーカス・デュ・ソートイ、数学者だ。『素数の音楽』などが有名だが、数学という入口から知性の偉大さを知らしめる興味深いドラマを分かりやすく紹介してくれる。

 『知の果てへの旅』では、著者の身の回りのモノ―――サイコロや腕時計、チェロやチャットアプリ、クリスマス・クラッカー―――を題材に、ニュートン力学、相対性理論、カオス理論、量子力学という物理学の世界を一望し、ケプラーの法則やビックバン理論、多元宇宙論といった天文学の世界を見せてくれる。さらにニューラルネットワークから意識について斬り込み、非ユークリッド幾何学やゲーデルの不完全性定理から数学の「限界」に触る。知の世界への導き方が巧みで、あっという間に連れて行かれるだろう。

 ただし、著者は「知の世界」を物理学や数学を用いて説明できる範囲としようとする。「知っている」に対し「人が」という主語が付きまとうことになり、結果、「知の果て」とは人にとって知りうる限りという限界を設けることになる。

 だが、それは知の果てなのか? という疑問がつきまとう。物理学や数学で全てを説明できると言い切る人は、「そうなるように知の体系ができている」ことに気づけない。そして、この体系の中にいる限り、矛盾を孕んでいるかどうかすら分からない。著者は、ゲーデルの不完全性定理を援用しながら、今の科学の枠組みでは、宇宙の外側や意識の内側がどうなっているか分からないという。

 すなわち、ある閉じた系にいる限り、その外側の系を説明できない(たとえできたとしても、絶対的な"正しさ"に至ることはない)というのである。P.497から引用する以下の文が、「知の果て」の行き着く先になる。

おそらく、自分たちがその系の一部であるこの宇宙を、内側から理解することは不可能なのだろう。宇宙がある量子波動関数で記述されているとして、その関数を観察するには系の外の何かが必要なのではないのか。カオス理論を踏まえると、系の一部を孤立した問題として理解することは不可能である。

なぜなら宇宙の反対側にある電子の影響で、カオス的な系がまったく異なる方向に進展する可能性があるからで、系全体を理解しようとすると、系の外に立たねばならない。

これを理解することは、意識を理解するという問題についてもいえて、人は自分の頭、つまり自分自身の系に閉じ込められていて、ほかの人の意識にアクセスできない。

 著者はウィトゲンシュタインを引きながら、「語り得ぬものについては、沈黙せねばならぬ」を改変し、「知りえぬものについて、想像力を働かすことができる」ほうが望ましいという。この「知りえぬもの」が原書のタイトル(What We Cannot Know)につながる。

 しかし、ウィトゲンシュタインが「語り得ぬもの」としたものは、人が「それ」を知っている/知らないと指定できる「それ」ですらない。「それ」を示せるのなら、何らかの属性や仮名、特徴を語り得ることができるからね(学問の定石でしょう、ワケわかんないものに何か名前を付けて、「分かった」ものと見なすのは)。

 ソートイは先回りして「知らないことすら知らない」と述べたが、それですらない。「知っている/知らない」の外にあるものなのだ。ソートイが ”What We Cannot Know” として指したかった(しかし思い至らなかった)概念がまさにこれなのである。これに気づかないまま論を進めてゆき、見事に「知の果て」で惑っている。人が知るための合理的説明や、人が知ることができる程度の複雑さに留めている限り、世界の果てはそこまでだ。その先にも世界は広がっているのにね。

 著者と一緒に惑うのもいい。だが、不可知論に片付けられてしまうのは勿体ない。科学史を振り返ることで、少なくともどこまで不可知にまで接近できたか、確かめる読書にするのも愉しい。


『愛とか正義とか』

平尾昌宏
萌書房
レビュー[『愛とか正義とか』はスゴ本]

 現代の哲人と言えば読書猿さん。知識を持っていて、かつ、実践している教養人の鑑みたいな存在だ。万が一知らないのであれば、[読書猿Classic: between / beyond readers]に行くべし。また、2017年のNo.1スゴ本は、読書猿さんの『アイデア大全』『問題解決大全』なので、読むべし。

 昨年、そんな敬愛する読書猿さんに会いしたとき、「読書猿さんにとって今年の No.1 のスゴ本はどれですか?」と伺って即答されたのがこれ。本書は、哲学・倫理学の入門書になるのだが、そこらの「哲学入門」ではない。「自分で考える」ことを目的とした入門書という意味で、まったく新しい。いわば「歩くことを、もう一度教わる」ような本なのだ。

 なぜなら、そこらの「哲学入門」は、哲学していないから。むしろ反対に、「哲学しないこと」を目指している。つまりこうだ、イラストや図解でまとめた哲学者や議論を紹介しているだけにすぎぬ。一言半句の「答えのまとめ」を並べるのは、「自分で考える」ことではない。それはむしろ、「これが”哲学”だから、自分で考えるな」というメッセージに等しい。

 哲学は動詞だ。人名とか論とか主義といった名詞の集合ではない(それは哲学する”手段”だ)。哲学は「する」ものである。

 すなわち、哲学とは「自分で考える」ことだ。調べれば分かること(歴史や文化)は哲学の範疇外だし、調べ方が分かっていること(科学や経済)は哲学の範疇外である。だが、調べれば分かることでも、分かったことで見解や評価が対立することがある。または、調べ方が分かっていることでも、「それは本当なのか」と疑わしい点が出てくることがある。

 そこからが哲学の出番になる。「それは本当は何か」について、さらに考えるのだ。それ以上に調べられないこと、調べ方そのものが分かっていない(確立されていない)ことでも、「自分で考える」ことができる。それが哲学なのだ。

 ただし、哲学は答えを蔑ろにしているわけではない。よくある「哲学とは答えのない問い」ではない。分かった風な口を利くとカッコよく見えるけど、間違っている。問いが別の問いになったり、疑問が消えてしまったりする。

 だから、哲学は、答えだけではなく、「問いを発する疑問がどうなったか」に着目する。「全ての問いに正解がある」という思い込みで進めると、足をすくわれることになる。「科学的な見方」に染まっている人ほどそうだ。著者はこう喝破する。

「科学には答えがあるけれど、哲学は答えがない」と思う人がいますが、そうではありません。「科学には答えがある」のではなくて、「科学はただ一つの答えが決まるように手続きを定めてある」というのが正解です。

だから、「ザ・科学」ができるわけです(逆に「科学は答えが一つに決まらないような問題を避ける」わけで、科学が避けた問題はどこに行くのかというと、これが哲学に行きます)。

 本書の紹介では入口に留めるが、中身はもっと具体的だ。「デスノートの夜神月は正義か?」という問いを掘り下げたり、『北斗の拳』は、「正義」のラオウと「愛」のケンシロウの闘いだと分析する。

 哲学初心者に対し、ここまで読み手に寄り添って、かつ「哲学する」を実践した本はない。一読するだけで、「概念」という強力な思考武器が手に入る。読書猿さん、教えていただき、ありがとうございます!


『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』

吉川浩満
河出書房新社
レビュー[人間が「どうなっているか」と、人間が「どうあるべきか」の間で問いつづける哲学『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』]

 わたしの人間観を更新する一冊。

 もっと正確に言うと、進化心理学・行動経済学・認知科学の研究を通じ、わたしが抱いている「人間とはコレコレである」人間観がアップデートされつつあることを教えてくれる。

 本書は、吉川浩満氏の論文・インタビュー集である。発表媒体によりモチーフは異なれど、テーマは「人間とは何か?」になる。「人間とは何か?」という問いかけを、「人間がどのように”見える”か?」という人間観にした上で、その変遷を、人工知能、認知バイアス、利己的遺伝子、人新世という様々な斬り口から掘ってゆく。

 よくあるサイエンス・ノンフィクションと異なるのは、「(人が)どうなっているか」の科学的解説に、道徳哲学の「(人が)どうあるべきか」議論をぶつけているところ。おかげで、認知科学の進展を呑気に喜んでいるばかりでなく、それが突きつける問題が実装されていることも、その未来も(選ばないも含めて)選ぶ必然性があることも知らされる。

 たとえば、「計算できる道徳としての功利主義」の議論が面白い。

 「5人を助けるため1人を殺してもよいか」というトロッコ問題や、「1人を殺してより多くの人を助けるのはよいことか」という臓器くじの問題について、功利主義の回答は明確である。だが、多くの人々の道徳的な直観には反する。「人を殺すなかれ」という義務論的な直観にも支配されているからだ。

 有用性や公益性の高さで判断する、功利主義の基本的な考え方には賛同できる。だが、それを「あるべき」にまで推し進めると問題になる。極端な話、社会全体のために個人を犠牲にするディストピア思想につながる。これを、扇情的な哲学ポルノとして排除することもできるが、吉川氏は「功利主義をどこまで受け入れる用意があるか」という問いを立てる。

 まず、「どうなっているか」という観点からは、功利主義をもてはやす風潮を指摘する。まず、経済低迷や格差拡大が引き起こす弱者切り捨て論が、功利主義との親和性が高いこと。さらに、人の心を計測対象とする「道徳の自然化」が、より吟味しやすい(計測しやすい)ものとして、義務論的直観よりも功利主義的を採用する点。さらには、AI技術が、「計算できる道徳」として功利主義を求めることを指摘する。

 そして、「どうすべきか」という観点の例として、自律走行車に搭載されるAIの仕様を俎上に乗せる。事故が避けられない状況となったとき、誰を犠牲にすべきかといった議論が、哲学教室の思考実験ではなく、プログラムに実装される方式として展開される。そして功利主義のみが、目的に対する答え(功利、効用)を計算可能なものとして扱えるが故に、採択される可能性が高いという。

 興味深いのは、どの道徳原理を採用するかについて、ある種の二重思考(ジョージ・オーウェルのダブル・シンク)が必要になるという点だ。著者は、義務論的直観と功利主義的思考の両方を使い分けることで、功利主義の美しさとグロテスクさをともに引き受ける未来を提案する。

 これは、「人間からだと言いにくい現実を、統計やAIというガワを被せて伝える」テクニックに似ていて面白い。「こうなっている」ミもフタもない現実は「統計によると......」とAIに言わせ、義務論的な「あるべき」は人が担う(もちろんAIの功利主義的な判定パラメータは、人が設定しているんだけどね)。

 重要なのは、認知科学の進展により人間観や倫理観のアップデートが、今まさに行われている現実だ。これ、十年ぐらい後になって、更新後の「常識」が制度化・内面化され、今という過渡期を奇妙な時代だという目で見たときに、明らかになるだろう。その意味で、本書は一種の状況証拠のように扱われるに違いない。

 ただし、人間が生来「こうなっている」からといって、そのまま「こうあるべき」に導こうとするのは危うい。本書のあちこちで、この「である-べき問題(Is-Ought Problem)」が顔をのぞかせる。このズレは、科学や技術のほうが「わたし」を追い越しているズレだ。

 状況と慣習に流されることなく、自覚的でありたい。この人間観を更新する一冊。吉川さん、素晴らしい本を世に出していただき、ありがとうございます。


『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』

ふろむだ
ダイヤモンド社
レビュー[『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』がいかにスゴいか、このブログを例に説明する]

 これを「悪魔の書」という人がいるが、激しく同意する。なぜならこれ、知らないほうが幸せだったかもしれないことが書いてあるから。あれだ、「力が欲しいか?」と問われて求めた結果、知らなくても良い世界に気づいてしまうから。

 その存在すら知らないまま、普通に穏やかに生きるほうがよいとも言える(知らぬがホトケやね)。「なぜアイツが出世するんだ!?」「どうして私が認められないのだろう?」という現実から目をそらし、ささやかな慰めを見つけ出し、折り合いをつける。そんな平穏を求めるなら、本書を読んではいけない。「アイツが出世&実力をつけていく理由」「私が認められにくい理由」が、これ以上ないほど、ミもフタもなく書いてあるから。

 一方でこれ、万人が読んだほうがいいのかもしれぬ。なぜなら、自分がどのように騙されているかが、これまたあからさまに書いてあるから。「騙す」というネガティブな言い回しを使ったが、嘘を吐いて陥れるような意図はない。どうしてもそう考えてしまう「人の思考パターン」の仕様が明らかにされている。

 これは勉強ができるとか仕事ができるとかに関係ない。コーラを飲んだらゲップが出るぐらい確実に、そういう風にできている。いわば人の仕様がそうなっているのである。この仕様バグを衝くことで、自動的にそう勘違いしてしまうのだ(本書ではこれを、「脳のセキュリティホール」と呼ぶ。言いえて妙なり)。

 これを悪用して、あなたを「騙そう」とする人もいる。だが、騙された人は、騙されていることに気づかない(ここがおぞましい点)。あなたがそうならないために、この仕様バグを把握することで、賢く生きてほしい。その意味でこれ、「賢者の書」とも言える。

 煽りぎみのタイトルと、人を食ったような表紙、ブログ「分裂勘違い君劇場」まんまのの語り口で、どんどん読めてしまう。挑発的なモノ言いなので、カチンとくるかも。それで本を投げ捨てるならもったいない。

 なので、これは強く言わせて欲しい。残念ながら世の中は、実力主義になってないが、ふろむださんは、「実力なんてどうでもいい」なんて、一言も言っていない。ハッタリの重要性を強調するあまり、そう誤解してしまうかもしれないが、あるものに秀でていると、全体的に優れているかのように錯覚してしまうのは事実である。

 もちろん実力も重要だが、時としてそのブランディング(による錯覚)の方が大事だったりする。この錯覚こそが、進化の過程で仕込まれた人の仕様バグであり、上手く運用することで、他者から勘違いされる価値(錯覚資産)を大きくすることができるという。

 3行でまとめよう。本書は、行動経済学や認知心理学的の最新の知見を元に、この「錯覚資産」を最大化する方法を解き明かす。無料で序盤が公開されているので読んでほしい。

  1. 器が人をつくる
  2. その器に入るのは運
  3. その運の運用も含めて実力のうち

 「器が人をつくる」は、ビジネスの世界によくある「ポストを与えるとその役職にふさわしい能力を身に着ける」と解釈される。だがこれは、その先がある。

 たとえば、「CEO」や「教授」といった肩書に引っ張られ、他の属性も底上げされるハロー効果がスタートだ。本来の実力以上の評価を集め、それに見合うだけのストレッチをした結果、「実力+アルファ」が伸びることになる。そこから(見かけの)評価が高まり、さらなる実力の底上げが為される。

 つまりこうだ。「実力+錯覚資産」の評価を集めるものは、もっと評価を集め、評価が集まることにより、実力がつき、錯覚資産も併せて大きくなる。いわゆるマタイ効果(持てる者はもっと持てるようになる)やね。「器が人をつくる」を分解すると、ハロー効果とマタイ効果になる。2つの相乗により、「実力+錯覚資産」は雪だるま式に膨らんでゆく。

 その器に入るのは、確かに運である。肩書を与えられるとか、多数の注目を得る、特定の業績に高い評価をもらうというのは、実力「だけ」ではままならない。もちろん実力を培うことも重要だが、その実力をいかにプレゼンするかによって、運をコントロールすることもできる。この「運の運用」を口がしつこいくらいに書いてある。

 本書を、悪魔の書にするのも賢者の書にするのも読み手次第。ふろむださん、あられもないくらいスゴい本を書いていただき、ありがとうございます。もっと若い頃に読みたかった……orz


『文学問題(F+f)+』

山本貴光
幻戯書房
レビュー[文学とは感情のハッキングである『文学問題(F+f)+』]

 「文学とは何か?」という問いに対し、夏目漱石の文学論を徹底的に読み解き、ここ100年の文学理論を振り返り、さらには文学の認知科学の領域まで踏み込む、画期的な一冊。もの凄く面白く、かつ、自らも考えさせられる。

 著者は山本貴光氏、心の哲学やゲームデザインの分析、百学連環の精読など、人文知のユニークな斬り口を見せてくれる文筆家だ。聖書からtwitterまで、さまざまな文体を、人と文のインターフェースとして分析した『文体の科学』が面白かった。

 本書は最初にタネ明かしをする。「文学とは何か?」という問いに対し、漱石の答えは「F+f」だという。大文字「F」は、人間が認識すること。人の注意が向いて意識の焦点が当たってる印象や観念を指す。そして小文字「f」は、認識に伴って生じる情緒を指す。すなわち、あらゆる文学作品は、「認識」と「情緒」(F+f)という2つの要素からできているというのが、漱石の結論だ。

 ただし、いきなり「F+f」と言われても、ピンとこない。だから本書は3部構成で攻略する。

 第1部では、漱石の文学論を詳細に読解する。具体的には、『英文学形式論』と『文学論』が俎上に上る。重要ポイントを抜粋して [001]~[144] までナンバリングし、現代語訳を施し、原文と解説を添えることで、漱石と同じ目線で取り組むことを促す。

 漱石は、曖昧な言葉である「文学」を捉えるため、語、音、文字からの分析である形式論 [008-022]、読者を幻惑するレトリック [077-096]、科学と文学の比較論 [067-074]、異文化理解 [015-016]、時代を超えた普遍性 [104-120] などのアプローチを採る。文学作品から文学論を語る従来のやり方ではなく、文学をメタに捉えることで、人間心理と社会の両面から考えようとする。

 そこで得られた結論が、「F+f」になる。文学とは情緒を伴う文章のことで、情緒こそが文学の試金石であるという[045]。さらに漱石は、文学作品の価値判定のモノサシとして、その作品が読者に催させる情緒が基準となると主張する [049-050]。

 面白いのは著者の指摘で、漱石がなぜアルファベットを用いたかを推察する。これは一種の変数(variable)で、プログラミングの際に代入するように、Fやfには具体的な作品名・情緒の名前が入るという。この記法からも、漱石が、文学を一般化しようとしていたことが分かる。第1部を読むことで、文学を一般化する手法を身に着けることができる。

 第2部では、第1部で手に入れた「F+f」を用いて、実際に世界文学を読んでみる。良いなと思ったのは、「F+f」を万能と扱っていないところ。良いハンマーを持つとあらゆるものが釘に見えるというが、その弊害に陥っていない。古今東西の文学作品を「F+f」で照らすことによって、「F+f」の不備を炙り出そうとする。漱石を崇め、威を借り、現代を嘆くキツネと偉い違う。世界文学との検証を通じて、漱石の文学論をヴァージョンアップしようという試みなのである。

 実際に読む作品は次の通り。

  1. ギルガメシュ叙事詩
  2. ホメロス『イリアス』
  3. 李白『客中作』
  4. アラビアン・ナイト
  5. 紫式部『源氏物語』
  6. アンドレ・ブルトン『溶ける魚』
  7. ジェイムズ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』
  8. イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』
  9. リディア・デイヴィス『フーコーとエンピツ』
  10. 円城塔『Boy’s Surface』

 未読の人にも親切に、テキストとなる文学作品の背景を噛み砕き、冒頭もしくはそれに近いところから抜粋してくれている。まずは先入観なしに一読し、次に「F+f」で骨までしゃぶる読み解きをする。レイアウトの見た目から学習参考書みたいな印象だが、まさにそんな授業を受けている気分になる。

 そして、第3部になると、さらに面白くなる。「来るべき文学論に向けて」と題され、漱石の文学論以降、漱石が文学について考えたこと、漱石以降、100年にわたり文学理論で考えられたことを元に、文学論そのもののアップデートを試みる。そして、仮に完成された文学論があるならば、それはどのような姿を取るかまでを射程に入れた考察をする。

 たとえば、『草枕』を文学論として読み直す試みはユニークだし、イーグルトンやウォーレン、バリーといった大御所の文学理論から、「文学とは何か」についてそれぞれの「解答」を得ようとする試行錯誤も楽しい。そして、それぞれの主張と漱石の理論と比較することで、文学が単なる作品の話ではなく、文化や社会や時代を横断する、人文知の営みであることが見えてくる。

 さらに、統計学的手法を用いた文献の分析を行う計量文献学や、コンピューティングと人文科学を掛け合わせたデジタル・ヒューマニティーズの研究成果を紹介し、読書の科学や文学の科学的アプローチまでをも検討している。ここまで付き合ってきた読者は、(おそらく)言いたいことが沢山出てくるだろうし、著者としても望むところだろう。議論の余地が大いにあるからね。

 わたしは、「文学とは何か?」という問いは正しいか?を投げかけたい。そして、みんなが「文学」と考えているもの(〇〇)から、何を外せば「文学」でなくなるのか?という出発点からの考察した。詳しくは[ここ]の後半に書いた。本書を「考えさせられる」と評した所以である。文学を文学たらしめているもの、それは「人」であるという結論なのだが、はたしてあなたはどう感じるだろうか。。


『物語論 基礎と応用』

橋本陽介
講談社選書メチエ
レビュー[なぜ「面白い物語」は面白いか?『物語論 基礎と応用』]

 なぜ「面白い物語」は面白いか? と考えると物語論になる。トートロジーみたいだが、物語の中にひたすら浸っているときは気付かないが、読了後、どうしてあんなに夢中になっていたのか不思議に思うことがある。

 本書には、その解が書いてある。言い換えるなら、面白い物語の「面白さ」をリバース・エンジニアリングしたもので、援用することで面白い物語を意図的に生み出すことも可能だ。

 方向性は2つある。一つは、「人はなぜ物語を好むのか?」というそもそも論から始まる原則的なものになる(アリストテレス『詩学』とか有名やね)。もう一つは、売れた映画や小説から「面白がりかた」を考えることで、脚本術やストーリーメイキングを生みだす経験則的なノウハウだ。

 この、「基礎」と「応用」の両方を射程において、古典から最新作を俎上に、小説、映画、ドラマ、ゲーム、アニメを縦横に捌き、「物語を楽しむ」だけでなく「物語を創る」にも役に立つ教科書とも言える一冊がある。それが、橋本陽介『物語論 基礎と応用』だ。本書は、物語論(ナラトロジー)に興味がある人の最初の一冊になるし、深堀りするための評論を集約した文献集として扱ってもいい。

 著者は、物語をこう定義する「時間的な展開がある出来事を言葉で語ったもの」。物語というものは、人の観念による構造物だという。目の前に存在しないことを、言葉を使って再構築する。これが、物語るという行為である。これにより、現実は物語化されて理解され、反対に物語は「理解された現実」のように表現される。

 現実は情報量が多すぎだし、因果関係が複雑すぎる。だから因果の見通しを良くするため、登場人物と役割を決めて、出来事を取捨選択し、順序を調整する。そのままだと呑み込めないリアルを、なんとか形にして把握する。そして、いったん物語が現実のシミュレーターとしての役割を担うと、今度は物語の形で現実を伝えることが効率的となる。

 いわば、わたしたちは物語を使うことで、現実を理解したり受け止めることができるのだ。訳が分からない現実を、すくなくとも「分かる」形にしてくれる。物語の本質は、この「分かる」にある。そして、物語の面白さも「どうやって分かってもらえるか」に着目すると、理解しやすくなる。

 よく議論になる方式として、ディエゲーシスとミメーシスがある。語り手が、要約的に筋を語るのがディエゲーシス(ギリシャ語の「語る」)で、そのシーンを演劇的に再現しようとするのをミメーシス(mimic/模倣)になる。引きと寄り、俯瞰と観察、telling と showing になる。

 本書ではさらに、物語に流れる「時間」と、語り手の「視点」、そして叙述のスピードと文体、登場人物の内と外、さらには人称・時制・指示語の使い分けを用いながら、形態学としての物語を分解してみせる。

 俎上に乗せるのは、ガルシア=マルケス『百年の孤独』といったゴリゴリの文学作品から、『シン・ゴジラ』『シュタインズ・ゲート』『この世界の片隅に』など多彩にのぼる。本書がすごいのは、その物語を面白くさせているポイントが納得させるところにある。未読なら読みたくなり、既読なら再読したくなるだろう、「面白さ」を追求するためにね。


『ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎篇』

コーラ・ダイアモンド(編)
講談社学術文庫
レビュー[『ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎篇』はスゴ本]

 「数学の基礎」と銘打っているものの、いわゆる数学の教科書ではない。むしろ、数学の本質は何か、数学を数学たらしめているものは何かについて、徹底的に追求した講義だ。

 数学という存在を、人の知性の産物である「発明」と捉える人がいる。いっぽうで、人が見出した世界の本質である「発見」と見なす人がいる。この議論は、[『神は数学者か』はスゴ本]にて語ったが、いずれの場合にせよ、数学の限界が(仮に)あるとしたならば、それは人の理性の限界であることは了解していただけるだろう。なぜなら、「発明」であれ「発見」であれ、主語が人である限り、その限界も人に属するからである。

 ウィトゲンシュタインの講義は、数学の限界を見極める一方で、数学の底(もともとの了解事項)を明らかにしてくれる。

 数学の底? そんなのユークリッド幾何学やヒルベルトの基礎付けを見るまでもなく、「定義」と「形式」でしょうに(あるいはそこから定義づけられる公理系といってもいい)。本書を手にするまでは、そう考えていた。だが、「発明」であれ「発見」であれ、数学を定義づける前に囲まれている言葉について、ウィトゲンシュタインは揺さぶりをかけてくる。

 本書は、ウィトゲンシュタインが1939年にケンブリッジ大学で行った講義を元にしている。全部で31講あり、この講義を受けた複数の学生のノートを突合せ、再現したのが本書になる。

 ウィトゲンシュタインの講義スタイルは、自分が今まさに考えていることを学生に投げかけ、その反響に応じて思考を展開させてゆく。「1、2、3…」と数えるとは何か。一対一に対応するとはどういうことか。矛盾律とは何かなど、彼の試行錯誤の現場を体感することができる。優秀な学生だけでなく、イマイチな学生からの質問に対する説明も遺されているため、わたしのような「分かりの悪い」生徒でも理解できて有り難い。

 本書をスゴ本にしているのは、受講生としてアラン・チューリングが出席し、積極的に発言していることだ。当時すでに歴史的業績をあげつつあったチューリングの存在感は大きく、ウィトゲンシュタインも意識している(次回はチューリングが欠席予定だから講義内容は振り返りとする、なんてコメントもある)。特に、矛盾律についてウィトゲンシュタインとチューリングが丁々発止する知的格闘はスリリングで、議論ポイントが明確になるだけでなく、手に汗にぎる臨場感をもたらしている。

 ウィトゲンシュタイン哲学の根幹である「意味を問うな用法を問え」は、この講義でしつこく出てくる。どんなに定義を厳密にしても、言葉の「意味」に囚われてしまうと、悪しき影響が出てくることになる。だから、「用法」、すなわち使われる現場に目を向けよというのだ。

 たとえば、虚数にまつわる言説が象徴的だ。虚数という概念が登場したとき、「虚」という表現は困惑や反発を引き起こした。「虚である数」とはどのようなものか、不信感ゆえに受け入れられない人もいたらしい。しかし、不信や困惑は、虚数の計算が実際にしていることが理解され、特に物理学へ応用されることによって、解消されていったという。

 虚数の記号「i」は「空想の」あるいは「現実には存在しない」を意味する「imaginary」から取られているが、「空想の」という意味に囚われている限り、けっして虚数を理解することはできない。自乗して-1になるという定義や、それが複素数という形で用いられる量子力学や電磁気学の現場で、虚数の「意味」が理解される。記号としての言葉の「意味」にこだわりるあまり、実際の現場で用いられる仕方を省みないことに、ウィトゲンシュタインは警告を発しているのである。

 数学が人の扱う存在である限り、定義であれ証明であれ、数学が用いられる現場で「意味」が伝えられる。数学に限界や底があるとするならば、これを用いる現場(人の想像が及ぶところ)になる。なかでも「人」にとって興味深い(便利な・都合の良い)と感じられる方向、すなわち科学技術と親和性の高い方面に向けて概念が形成されてゆくだろう―――そう考えさせられるスゴ本なり。


『数学はなぜ哲学の問題になるのか』

イアン・ハッキング
森北出版
レビュー[数学はなぜ哲学の問題になるのか]

 数学と、数学の哲学をメタ的に考える一冊。

 数学は人の領域を(論理的に)超えることができる。「数学でなしうる範囲=人の抽象化できる限界」にもかかわらず、数学の範囲内の概念を対応付けることにより新たな領域を拡張することができるから。

 そう考えるわたしにとって、本書を読むことは、たいへんスリリングな経験だった。なぜなら、「数学の哲学」そのものを問うているから。

 重要なポイントは、著者イアン・ハッキングが「数学とは何か」そのものについて答えようとしていないところにある。むしろ、「数学とは何か」について議論してきた数学者や哲学者を半ば揶揄するような言い回しで、数学の哲学の問題圏を明らかにする。「数学とは何か」という問いを成立させている状況が、何によって由来し、どのような前提のもとに議論されてきたのかを問い直している。

 この問い直しにより、暗黙のうちに受け入れてしまった前提や、所与のものとして未検討のまま議論に持ち込んでいる条件が明らかになる。数学が「数を数える」ところから出発している前提は、わたしたちが不連続な世界を「自然」と見なしているからに拠る。数学の世界から「時間」が注意深く取り除かれていることは以前から気になっていたが、本書によると、イマヌエル・カントが早々と指摘していたという。

 そして、数学に携わる人であれば当たり前のものとして扱ってしまう「証明」について歴史的に分析する。すなわち、学習と省察の後に完璧な理解(Aha!)が一挙に訪れる「デカルト的証明」と、体系的なチェックを機械的に一行一行積み重ねたうえで到達する「ライプニッツ的証明」という両極端な2つの観念を提示する。

 両者は同じ「証明」という言葉が使われているものの、20世紀になって、食い違いを見せ始めたという。そうすることで、「証明」が多様なものであること、さらには証明のない数学の可能性までも考察する。つまり、「証明」のような概念ですら、特定の時代や集団に限定されており、ある特定の推論スタイルのもとで初めて「証明」が証明としての意義をもちうるのだ。

数学は人間的な活動である。それは、われわれの肉体に、その脳やその手に根差した営みである。また、それを形作ってきたのは、きわめて特定的な時代と場所における人間の共同体である。

人間の能力には、数学的な思考を行うための、ある一定の認知能力の地層とでも言うべきものがあり、われわれ人間はその活用法を見出してきたわけだが、数学的思考の前提条件としての精神状態も、こうした地層の一部をなしている。

 数学は所与の、「当たり前の」ものとして扱っている限り、数学的活動は既存の新たな組み合わせによる「発見」か「発明」になる。人間的活動である数学を「数学」たらしめているスタイルが、時代や社会によって変わっていくのであれば、数学を用いて人を超えることだってできる。数を拡張してきたように、概念をも拡張することができるのである。

 数学をメタ的に考えることで、数学の拡張先まで射程に入れられる一冊。


『シルバー民主主義の政治経済学』

島澤諭
日本経済新聞出版社
レビュー[老人栄えて国滅ぶ『シルバー民主主義の政治経済学』]

 この国は老人に滅ぼされる。そう思っていたが、問題はもっと根深いようだ。マスコミが偏向報道するように、わたしのタイムラインは偏っていることに自覚的にならないと。単に考えさせられるだけでなく、次に(わたしが)選ぶべき方向も見えてくる一冊。

 全国から吸い上げられた税金は、高齢者に注ぎ込まれる。年金世代は現役世代の犠牲の上にあぐらをかき、既得権を貪り、財政改革の邪魔をする。「年金」という聖域に手をつけようものなら、マスコミが急先鋒となって蜂の巣をつついたように騒ぎ出す。「このままじゃやっていけない」「死ねというのか」と叫ぶ老人を巣鴨あたりでインタビューし、大々的にキャンペーンを張る。

 いっぽう、コストカットのあおりを受け、手取りは目減りし、不安定な雇用に苦労する現役世代の声は捨てられる。なぜなら、逃げ切る気まんまんの高齢者の方が多数だから。民主主義は多数決。さまざまな意見を最終的に決めるのは、「声」の大きいほうである。数の力を頼りに、老人が現在と未来を食い物にする、「シルバー民主主義」とはそんな状況だ。

 だが、本書によるとこの状況は、「シルバー民主主義」ではないらしい。

 たしかに、高齢者優遇の政策が選ばれていることは事実だ。本書は、マクロデータを用いて実証分析を行い、都道府県レベルのみならず、全国レベル、欧米の先進国の状況からしてもシルバー優遇の政策が採られていてるという。

 しかし、著者によると、シルバー優遇だからといって、シルバー民主主義にはならないらしい。本書では、「シルバー民主主義」とは、高齢者が政策決定の主導権を握り、必要な改革を先送りし、老人衆愚政治を生みだしている状況になる。政党が高齢者の意向を忖度しているのは事実だが、それは別の理由があるからであり、高齢者が独裁的に振舞っているからではないというのだ。

 つまりこうだ、高齢者のほとんどは引退し年金生活しており、医療や介護への需要が強いという共通点を持つ。高齢者の「民意」は集約されており、再配分政策によって誘引できる票は多い。いっぽう若者世代は逆だ。仕事、結婚、育児の有無などバラツキが大きく、意見の一致は困難で、政党へのアピール度は低い。政党から見ると、高齢者のほうが政策に対する見返りが大きい(分かりやすいともいう)。

 結果、高齢者に優しい政策を優先する政策が、より多く採択される。本書はこの現象を、「シルバーファースト現象」と呼び、「シルバー民主主義」と厳格に区別しようとする。なぜなら、高齢者だけが独占的に優遇されているのではなく、低所得者にも社会保障給付の形でバラマキがなされているからという。

 かつては、公共事業による地元へのバラマキという利益誘導モデルが成り立っていたが、それが行き詰まった先に、社会保障給付があったという。そして、高齢者だけでなく、バブル崩壊後のデフレ期において貧困化した若者世代にもバラマキを始めたのが、現代の政治の状況だというのだ。

 すでに現役世代の負担では給付分を賄えなくなっているが、これを財政赤字を介在させることで先送りさせている(本書では、負担なしに給付を受けられる部分を、社会保障におけるバラマキと定義する)。その本質はかつて公共事業で地元に利益誘導していたバラマキと同じ構造であり、高齢化が進む地方ではより大規模に進行しているという。

 この状況に目をつぶり、現役世代と年金世代が暗黙裡に結託することで、将来の、まだ生まれていない世代の財布に手を出している。赤字財政や社会保障制度の受益負担構造を放置して、いま生きている人たちの「民意」を忖度し、将来世代へ債務を先送りしている。債務額は926兆円に達しており、将来世代の生活は実質的に立ちいかなくなっていることが分かっている。この、財政的児童虐待こそが、真の問題だというのだ。

 やっていることは時間かせぎなので、遅かれ早かれ終わりがくる。これから生まれてくる人たちの生活が成り立たなくなることに、これから生まれてくる人たちが気付くころ、財政赤字ファイナンスにより維持されてきた暗黙の世代間の結託は終焉を迎えるという。いわゆる、金(ファイナンス)の切れ目が、縁(結託)の切れ目となる。

 では、どうすればよいか。高齢者に知らしめるだけではなく、「知ったこっちゃない」という見て見ぬふりをする人々も含め、どうすればこの状況を克服できるか。面白いアイディアが紹介されている。

 まず、民意の高齢化を反転させる投票制度改革を提言する。有権者の年齢に満たない子どもの数に応じて、親に投票権を行使させる「ドメイン投票制度」や、有権者の投票率ではなく年齢構成に応じて代表を選ぶ「年齢別選挙区制度」、さらに平均余命と現在の年齢の差に応じた票数を与える「平均余命投票制度」が紹介される。選挙があるたび、妻と「将来のためなら、子どもの数だけ投票できればいいのにね」と話していたが、検討の俎上にあったのかと驚く。

 さらに、「民意」を遮断する非民主主義制度の提案をする。金融に対する中央銀行のような、民意の高齢化に対する独立機関を政策決定プロセスに噛ませるのだ。具体的には、世代間格差を是正する義務を政府やに課す法律を制定し、その実務を担当する独立機関を設置する。民主主義の外側から制約をかけるため、抵抗が大きくなりそうだが、それぐらいの荒療治が必要なのかもしれぬ。

 著者は、世代間の対立の激化を避けつつ、なんとか財政的児童虐待をなくそうとする。その志は素晴らしいし、本書がもっと知られればと願う。だが、上述のアイデアが実行に移されるのは、もっとずっと先になるだろう。「現在の高齢者」が死に絶え、「現在の現役」が高齢者となる頃、ようやく広く議論されるようになるのではないかと。

 高齢者が「多数」を占める現在はいかんともしがたいが、自分ができる選択をするために、読むべき一冊。



2018ベスト「フィクション」

『夜のみだらな鳥』

ホセ・ドノソ
水声社
レビュー1[完璧な悪夢『夜のみだらな鳥』]
レビュー2[『夜のみだらな鳥』の魅力を2,000字ぐらいで語る(一夜限りのドノソ祭レポート)]
レビュー3[劇薬小説「夜のみだらな鳥」]
togetter[『夜のみだらな鳥』を堪能する、一夜限りのドノソ祭!]

Donoso

これは凄い。
これは凄い。
これは凄い。

 どろり濃厚ゲル状の夢に、呑まれ、溺れ、とり憑かれる体験。息詰まるような読書、いや毒書である。完璧な悪夢があるとするなら、これを読むことだ。

 そもそもの発端は、ふくろうさんのブログ「キリキリソテーにうってつけの日」で、☆5を叩き出した[『夜のみだらな鳥』ホセ・ドノソ]を読んだことから始まる。こんな風に紹介している。

『夜のみだらな鳥』を読んでいる最中、定期的に悪夢を見た。夢はだいたい極彩色のトリップしたしろもので、どろっどろの黒いタールの上に、蛍光色をした砂糖菓子の人形をぶちまけたようなイメージ。それらが溶け崩れてぐるぐる混ざって、私は濁流の中へ飲まれていく。本書の中身を抽象化したらきっとこんな感じになるだろう。やるな、私の悪夢ども。

 海外文学について的確&冷静に評価をするふくろうさんが、ここまで圧倒され翻弄されるのは珍しい……とAmazonを見に行ったら、平気で諭吉していた。当時は絶版状態で、背取屋がべらぼうな値段をつけていたのだ。

 図書館で借りたが最後、この毒に中った。極彩色の悪夢を直視する経験は他に代えがたく、以後、中毒状態だった。それが、本年、復刊されたのだ! これで日本中に悪夢がばら撒かれることになるぞ!

 事実であれ小説であれ、物語は世界を理解するための方便だ。だから、読み手は、原因と結果がつながっていることを暗黙のお約束とする。また、語り手は、たとえどんなに異形であっても、「語るべきもの」を伝える役目として、一つの存在であることが前提だ。さらに読み手はまさに、この本を読んでいる”わたし”であることは、言うまでもない。

 これが、ぜんぶ壊れる。一度にすべてが起きるのだ。原因と結果、語り手と読み手が混ざり合い喰い合う。語られているモノと、語っているモノが、重なりあう。何を言っているのか分からないと思うが、わたしも、何をされたのか分からない。

 しかも、語り手が頻繁に変わる。見捨てられた修道院で、ずっと主人公(ムディート)が語り手として回想しているのかと思いきや、いつのまにか「語られている相手」が語り手としてしゃべっている。「語られている相手」は、彼が恋焦がれる女だったり、彼を支配する大富豪だったり、その大富豪の畸形の子だったり、彼を犯そうと追いかける老婆だったり、その土地に古くから伝わる神話そのものだったり。誰かの悪夢を盗み見ているようで、同時に窃視しているわたし自身が覗かれているような気になる。

 その入れ替わりは、彼に憑依する形ではない。人格が崩壊した主人公の戯言として読んでしまえば簡単なのだが、描写がそうはさせない。客観描写を衒った神視点や、ドストエフスキーばりの連続会話、ジョイスやウルフの意識の流れに乗って読んでいくうちに、彼の語りを聞く「わたし」が知覚する世界が変転する描写で、シームレスに成り代わる。

 アインシュタインは、時間が存在する理由と、「一度にすべてのことが同時に起こらないため」と言ったが、わたしはその場所を一つだけ知っている。それは、わたしが見る悪夢だ。夢の中では、すべてのことが一度に起きる。まだ始まっていないのに、何が起きるのか、そして「なぜ」それが起きたのかを、わたしは知っている。と同時に、起きていないのに起きたことが経験済みとして扱われる。

 『夜のみだらな鳥』を読むことで、まさにこれが起きる。本書が完璧な悪夢である理由はこれ。

 物語に「ストーリー」すなわち予定調和や業(ごう)・因果を求める人がいる(というか、そんな人が小説を読む大半である)。そんな人向けの「ストーリー」を述べるなら、畸形の息子のために畸形の楽園を築こうとした大富豪の話が適切だろう。

 広大な敷地を買取り、世間から隔絶し、美しい豪邸と庭園、それを取り囲む村落という「世界」を丸ごとつくりだす。そこに、額に隻眼を持つ医師、身体は巨大なのに半分しかない女、侏儒、異形の者たちを高給で雇い、生まれたばかりの畸形の息子の周りに侍らせる。そこでは、五体満足の人間は逆に「異常」とされ、不具扱いされる。この、社会から隔離された世界のマネジメントを任されたのが、この物語の語り手である主人公のウンベルト・ペニャローサになる。

 ん? 先ほど主人公は「ムディート」と言ったじゃないか、というツッコミ上等そのとおり。途中から断りなく、ムディートとウンベルト・ペニャローサが重なり合う。呼び名の違いと済ませたいが、それぞれの過去が微妙にズレる。同じ名なのに別人物のように振る舞い、別名なのに同一人物のように扱われるのがザラで、そのうち両方を受け入れるようになる。

 しかも、ムディートが語る場所である半迷宮と化した修道院と、ウンベルト・ペニャローサが語る場所である畸形の楽園と化した豪邸が重なり合う。同じ過去と語るモチーフ、重なり合う人称「おれ」を用いることで、両者と両所は多重露光のように映し出される。

 さらに、この楽園に住まう畸形の息子「ボーイ」も、この露光に重なってくる。すなわち、ムディート=ウンベルト・ペニャローサ=ボーイの構造として「おれ」が語るのだ。しかも、場所のみならず、ムディートの回想(の中のウンベルト・ペニャローサの過去(の中のボーイの知見・対話)をボーイが否定した事実)を元にして、ムディートの現実が上書きされる。つまり、語り/語られの時間軸すら逆転したり捻じれている。

 読み手は、語り手がしゃべっているモノは何であるのか分からなくなり、小説内時間軸のどの時点の語りなのか見失い、そして、しゃべっている語り手が誰なのか、そもそも、語り手は誰にたいしてしゃべっているのかすら分からなくなる(語り手は唐突に「あなた」を言い出すが、それは読んでる「わたし」ではない)。

 起きていることと、その理由と、それを語るものと、語られるもの、それを聞く存在、これらすべてが、いちどきに発生し、知覚される。おぞましい存在から、うつくしい存在が生まれる。その時間のかかるシークエンスを、瞬間に感じることができる。善悪と美醜の混濁を、支離滅裂と片付けるにはもったいない、きちんと呑まれて、極上の、完璧な悪夢を堪能すべし。

 注意してほしいのだが、Amazon を始め、ネットショップで扱っていない(水声社のポリシーらしい)。大型書店なら必ずあるし、扱ってない書店なら注文して取り寄せるのが吉。Amazon にいるのは背取屋で、5,000円超という値をつけているが、定価は3,500円だぞ。

 こんな素敵な(?)悪夢に出会えたのはふくろうさんのおかげ、ありがとうございます!



2018ベスト「ノンフィクション」

『思想のドラマトゥルギー』

林達夫・久野収
平凡社ライブラリー
レビュー[『思想のドラマトゥルギー』はスゴ本]

 これも読書猿さんのおかげで出会えた一冊。読書猿さんが何十年もかけて読んでいる本が、『思想のドラマトゥルギー』だという([とても遅い読書:10年かけて読んだ本のこと])。

 断っておくが、けして難しい本ではない。対談集で、筆致は口語体のままを残し、軽妙洒脱という言葉がぴったりの、たいへん読みやすい本だといえる。

 だが、手にしてみればすぐにわかる。林達夫と久野収という知識人が、興味の赴くまま、知で殴りあう様が凄まじい。西洋哲学や思想史がベースなのだろうが、そこに収まらず、美学、文学、演劇、風俗、詩劇から歌謡、ハイカルチャーから俗なものまで続々と出てくる。

 広いかと思えば深く、深いかと思えば濃く、濃いかと思えば熱い議論が展開される。互いが相手を知のオモチャだと思っていて、力いっぱい振り回しても壊れないつもりで、本気で遊びにかかる。衒学のギアが上がるにつれ、テーマと論点がドリフトしまくる。ふり落とされないようにつかまっているのがせいいっぱいだ。出てくる書名と著者名が膨大で、巻末の索引を熟読する。おかげで読みたいリストが増える増える。

 いいな、と思うのは、本の紹介合戦にならないところ。いまどきの「知の巨人」が対談をすると、名著名作を並べ立てる。紹介文句はWikipediaを3行しただけで、その中身を、どう咀嚼して、どの辺の肉となり血となっているのか、一切言及がない。「読んだ=概要を知ってる」と思い込んでいるらしい。ひたすら名著の威光(?)を盾にして自分をカサ上げしてる感じ。いっぱい線を引いて書き込みをして、すごいね、というだけである。

 林氏は、まるでそんな連中を見越したかのように、「ヘーゲル読みのヘーゲル知らず」と喝破する。何千人とヘーゲルを読んでいるくせに、本当にヘーゲルのどこか一面でも(例えば芸術哲学なら『美学講義』)を身につけてものにした、というのはまるで聞かないという。知の対象として「知って」いるだけで、その知をもって「使って」いる人がいないという。では、知を使うとは何か?

 たとえば、デカルト。知識のひけらかしにはならない。同時代人のガリレオを持ち出し、デカルトが自覚していた問題を炙り出す。真実を語ればおのずから伝わるというのは嘘であることを、ガリレオ自身よく分かっていた。だから彼は、レトリックを駆使して対話体の『天文対話』や『新天文対話』を書いたという。

デカルトは独りで勉強するのは好きだが、書くことは嫌い、議論するのも嫌いとだだをこねこね、「レトリック抜きの哲学」で行くんだなどと涼しい顔をして見得を切ってみせたが、すぐあとで、事、志とまるで違うという羽目に陥ったことに気がついた。デカルトは、コミュニケーションの問題が落丁になっていたんだな。真理を言うということは、結局はそれを「他人」に納得させることでしょう。

 正しいことを言うことと、それを正しく伝えられることは別である。だから、古代から哲人は、説得の技術であるレトリックの重要性をよく認識していた。具体的には、「ペンを手にして」書物を読む。思想の相克ドラマの中で、賛同ならば補論を、敵対ならば反論を掲げ、ぶつけ、捏ね上げる。そこから生まれるセリフを再編集し、名句のノートを作る。エラスムスやモンテーニュの金言集や『エセー』が有名だが、そうした格言集はもともと自家製の取材活動の成果物だったのだ。

 そして、説得は一方的ではない。ソクラテスに限らず、必ずそれぞれの立場からの議論が伴う対話の形をとるという(ここでプラトンのソクラティック・ダイアローグに話がドリフトするのが楽しい)。靴屋とソクラテスが靴づくりについて問答する際、学者たちは、ソクラテスが言ったことだけに注目し、あとの登場人物はその引き立て役として軽くあしらっているだけだという。だが、その場の全員が対等だからこそ、人に拠らない(感情論に陥らない)で立論できるロゴスが精彩を放つというのである。

 ガリレオの科学論の伝え方から始まって、デカルトにとっての障壁を超えるためのレトリック、さらにその具体論としてのモンテーニュを経て、哲学の実践は「対話」にあるということをプラトンを通じて確認する―――これが、わずかなあいまに詰め込まれており、どろり濃厚なばかりか、読むべき本も再読すべき本も積みあがる仕掛けだ。

 読めば読むほど刺さる話ばかり。読み返すたびに新たな「知りたい」が増え、身につけるべき知の技法に気づくことになるだろう。「読んだ=身につけた」とするなら、わたしの場合、10年かけてもそこまで行けるか自信がない。それでも、何度も読んで発見をし続けよう、そういう勇気をくれる一冊でもある。



スゴ本2019

 tumblrで出会った寸鉄に、次のようなものがある。「めいぼうじん秋場所」のように定期的に浮上してくるため、その度に心に戒めている。

“あなたを突き刺し、打ち砕き、恥じさせ、叩きのめした後に手を伸ばして学びに導くものこそ名言、名著。俺の言いたいこと全部言ってくれてる系は、あなたのしょぼいプライドを満足させて金をむしり取る道化。”

 人生は短く、読む本は多い。プライドを満足させる「だけ」の本や、新しい「だけ」の本、メタファーで分かった気にさせる「だけ」の本を手にしていると、本当に読むべき本までたどり着けない。

 人生は短いから、「あとで読む」は、後で読まない。読みたい本は「いま」読まねばならぬ。一頁でも一行でも。ダニエル・デネット『心の進化を解明する』と結城浩『数学ガール・ポアンカレ予想』を再読・再々読したい。Sabine Hossenfelder ”Lost in Math” を読破したい。松岡正剛&荒俣宏『遊読365冊』とAlex Johnson”A Book of Book Lists”を手がかりに、読書の幅を広げたい。昨年宣言してて読めなかった、ノース&ウォリス&ワインガスト『暴力と社会秩序』とナボコフ『アーダ』を読みたい。葦原大介『ワールドトリガー』、林田球『ドロヘドロ』を大人買い&イッキ読みしたい。積読山で輝いているウィトゲンシュタイン『哲学探究』そろそろ再開せねば。ピーター・ゴドフリー=スミス『タコの心身問題』と飛浩隆『零號琴』めっちゃ楽しみ! ああ、人生は短いのに、読みたい本が多すぎる!

 人生は短い、読むだけでなく、読書会をやりたい。[スゴ本オフ]の主催だけでなく、他の読書会に参加したい。フィルカルのイベントを手がかりに分析哲学の勉強を進めたい。12/9(日)の[未来思想研究会 第22回読書会:知性 『ランドスケープと夏の定理』高島雄哉×『ソラリス』スタニスワフ・レム]楽しみ! 書店で読書会という、お財布ピンチな読書会をもっとやりたい([もっとも危険な読書会@下北沢Book&Beer]

 このリストを見て好みの似ている方、フィードバックをお待ちしております。末尾のコメント欄からでも、twitter[@Dain_sugohon]からでも、「それがスゴいなら、これは?」とお薦めいただくと、中の人は喜びます。

 なぜなら、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから。

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物理学と数学で解ける問題と解けない問題の間に「時間」が存在する『予測不可能性、あるいは計算の魔』

 天体の運動から粒子の振る舞いまで予測する科学は素晴らしい。学ぶ前は、無邪気にそう考えていた。

 学ぶほど、物理学と数学は相性抜群であり、ガリレオの言う通り、自然は数学の言葉で書かれていることが分かる。だが、科学が発展することで、あらゆる現象が説明できるかというと、そうではない。それは、「まだ」未知であるだけでなく、どんなに科学が発達しても解決できない問題が、現時点でも明らかになっている。


「時」とは何か

 その最たるものが「時」である。時とは何か? アウグスティヌスを用いだすまでもなく、「私はそれについて尋ねられない時、時間が何かを知っている。尋ねられる時、知らない」なにかである。

 数学と物理学をめぐる最適化問題を読み解いた『数学は最善世界の夢を見るか』のイーヴァル・エクランドが、数学と物理学で「時」を定義づけようと試みたのが本書になる。わたしの問題意識に真っ向勝負しているため、たいへん興味深く読んだ。


数学には「時」がない

 なぜなら、数学とは、「時」を排除した学問領域だから。数学の定理や命題は時間と独立して存在しており、イコールが結ぶ両辺のそれぞれを”計算する時間”は無いものとみなされる。数学を用いて自然現象を説明したり(物理学との相性は抜群だ)、計算機で数学を扱おうとすると、現実世界の「時」が邪魔をする(誤差や定数として吸収することで解消させているのが現実だ)。

 著者は、ケプラーからニュートンに至る天文学と数学の系譜を振り返りながら、数学の中で「時」がどのように扱われてきたかを紹介する。

そこで完成された道具は、微分方程式だ。微分方程式は、運動する物体の位置と、速度と、加速度のあいだの一瞬一瞬で成立する。

 そして、「微分方程式が成り立つ」ことは、その時間的変化はすべて、現在の状態(微分方程式そのもの)に書き込まれている。つまり、現在の状態が分かっていれば、過去を再現することも、未来を予測することもできる。それを解く(積分する)とは、そこから動体の軌跡を明らかにすることになるのだから。

 さらに、微分方程式は、決定論に影響を与えたともいえる。数学と物理学を学ぶ若者は、微分方程式を通じ、数学の定理のかたちで、過去と未来はすべて現在の一瞬に書き込まれていることを叩き込まれるからである。

 曖昧な概念のため物議を醸しがちな「パラダイム」を、シンプルに「教科書」と名付けていいのなら、今を生きるわたしたち自身のパラダイムも、微分方程式という形で内面化されている。本書を読むことで、この「力」が働いているのが感じられる。


パラダイムという「先入観」

 科学は、現象を記述する上では役に立つ。よく現象と合致し、理論化されているものが取り上げられ、教科書となり、繰り返し周知され、より現実的・客観的なものとして強化される。目障りな事実は黙過され、「なかった」ことにされる。

 本書では、その面白い例として、天体の軌道が「等速円運動」であるイメージがいかに強固かを示す。アリストテレスの権威を背に、コペルニクスは、等速円運動が最も完全かつ自然で、したがって天体力学にふさわしい唯一の運動であることを強調したという。

 一点が円周上を一定の速さで動いていくイメージは強固で、1400年ものあいだ何度も繰り返し強化されていくことで、それが「先入観」であることすら気づかれることはなかった。

 ケプラーより前の天文学者はすべて、伝統的に受け継がれてきた先入観のため、問題そのものを見誤っていた。誰も「惑星の運動はどうすれば最もよく記述できるか」とは問わなかったのだ。教科書を疑ってみようなどとは、夢にも思わなかったというのである。

 現代から見ると、これは昔の理論であり、その誤りは乗り越えられたという人がいる。科学は発達し、より「正しく」なっているという理屈だ。そして科学が発達していけば、いずれあらゆる自然現象が「正しく」説明できるという主張だ。

 だが、その人は、自分が陥っている内面化の力に気付いていない。観測精度が上がり、より「現代の」固定観念に合致した値が得られるようになっているにすぎぬ。今の固定観念に沿った値だけが繰り返し記録され、再強化されているのだ。


科学では解けない問題=「なかった」ことにされている問題

 本書では、天文力学における三体問題やベルヌーイ・シフトの例を挙げながら、黙過され「なかった」ことにされている問題を解説する。

 三体問題とは、3つの天体が互いに万有引力を及ぼし合いながら行う運動を解く問題のことだ。2つの天体なら解けるが、3つの場合、特殊な例を除き、一般的には解けない。また、ベルヌーイ・シフトとは、カオスの振る舞いをグラフ化したものだ。決定論的なシステムの下から、法則性のない予測不可能な運動が導き出される。

 直観では、インプットが規則的なら、アウトプットもそうなるように感じられる。だが、実際のところそうではないものがあるのだ。重要なのは、「そうではないもの」が、固定観念の再強化のサイクルから取り除かれている点だ。

 著者は科学を批判したいわけではない。その限界がどこにあるのかを見極めるべきだと述べる。注意を促しているのは、科学の内面化の力に気づかないわれわれ自身に対してなのである。

理屈の上では、物理学の唯一の対象は宇宙全体である。唯一それだけが、物理学の法則を厳密に適用するために必要なすべての情報を含んでいるからだ。ところがこの宇宙―――厳密な科学のためには、その全体がもれなく細かく記述されなければならないこの宇宙―――は、実際には到達不可能だ。

そこでやむなく部分系を切り取り、個々の系に物理学の法則を適用する。たとえば、太陽系以外の恒星を無視して太陽系を研究するという具合に。これもまた射影であり、わたしたちは多少なりとも喜んでそうしている。つまり、意図的に情報の一部を断っているのだ。到達不可能な、唯一の現実を捨て、全体から切り取ってきた現象をとる。洞窟に入り、プロジェクターを設置し、スクリーンを眺めるのである。

 わたしたちが眺めているスクリーンがどこにあるか。物理学と数学は、どこを「切り取って」いるのか。その判断の材料として、理論が人に与えた影響を振り返る一冊。

Yosoku


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「スポーツの哲学」のトークイベント行ってきた

 分析哲学の雑誌「フィルカル」のトークイベント見てきたので書く。

 池袋ジュンク堂という危険地帯の4階だった。なぜ危険かというと、お財布が大変な目に遭うからである。むかし[池袋ジュンク堂オフ]という恐れ知らずな会を敢行し、財布をサガミオリジナル級に薄くした経験を持つ身としては、戦々恐々の思いで乗り込んだ。


スポーツを哲学する

 トークは、倫理学者の長門裕介氏と、美学を専門とする松本大輝氏のお2人で行われた。予め用意したハンズアウトに沿ってそれぞれしゃべり、後は質疑応答という構成。1時間半だったが、「スポーツ」という広いテーマに加え、参加者が好き勝手に質問するので、時間が不足気味になった(とはいっても2時間越えは大変なので、このくらいが丁度かも)。

 「スポーツを哲学する」といっても、斬り口は様々。人間活動としてのスポーツの価値を分析するとか、勝利至上主義やドーピング、不正行為や八百長など、スポーツの倫理を調べるのも面白い。モータースポーツやAir Race、eスポーツといった例を挙げながら「そもそもスポーツとは何か?」を議論するのも楽しい。それぞれのネタで本が一冊書けるだろう。

 だから、2人はそれぞれ絞ってきた。

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「いい試合」を哲学する

 長門氏は「いい試合とは何か?」という視点から、主に倫理学の立場に則って、スポーツの価値や選手の卓越性、さらに勝利についての懐疑論を展開する。

 「あれはいい試合だった」と言うとき、人は何を誉めているのか? 身体パフォーマンスや判断力、タフネスといった要素に還元できるものか? 長門氏は「卓越性」という概念を持ち出し、「いい試合」を分析する。

 曰く、勝ち負けのハッキリしない現実社会とは異なり、スポーツでは明確な勝者が決まる稀な機会だ。勝者を決めるプロセスで、スポーツエリートの中でさらに抜きんでる卓越性を見ること、それが「いい試合」という評価につながる。


強いから勝つのか、勝ったから強いのか

 しかし、「勝者=卓越者」という構造には疑義を挟む。2018W杯の日本・ポーランド戦での時間稼ぎの「パス回し」や、1984ロスオリンピック柔道で、負傷した山下の右足を攻めず二位となったラシュワンを「立派な銀メダル」と評した話を引きながら、「勝った方が強い」とは限らないと指摘する。

 これらが「いい試合」ではないのは、卓越性を明らかにする機会がなかったからになる。つまり、「勝つことがすべて」ではないのだ。身体能力や判断力といった要素は、どちらが卓越者か予め決まっている。だが人の認識能力が不完全なため、実際に試合をすることで近似的に知るというのだ。

 ただし、各々の能力を総合した「強さ」なるものが先行して独立にあるというわけではなく、試合を通じて創造的に決定されるという見方もある。マラソンにおける心肺能力や脚力etcを、試合に先行して測定すれば、どの程度のタイムになるかは予想はつく。だが、それはマラソンの強さそのものではなく、「強さ」を可能にする素材にすぎない。その「強さ」が、実際の強さとして実現するかは、実際に走ってみないと分からないというわけ。

 これは裁判に例えると分かりやすい。過去の判例がいかに積みあがっており、証拠や論証はすでに揃っていたとしても、勝ち負けの精度は、実際に裁判をしてみて確かめるほかない。


「華麗なプレー」を哲学する

 いっぽう松本氏は「華麗なプレーとは何か?」という疑問を抱き、いくつかの思考実験を提示しながら、スポーツの美学を定義づけようとする。

 たとえば、フィギュアスケートの「華麗なプレー」はどこにあるのか? リズムやスピード、正確さやダイナミズムなど、選手の身体的動作の特徴が「華麗さ」を決定することは当然だ。だが、それだけだろうか? と畳みかける。

 そして、「ちょっと思考実験」と称して、フィギュアスケートの「競技」と「エキシビジョン」を比較する。前者は技や演出に制限がある採点方式の試合で、後者はそうした制限がない。そして、原理的には両者で全く同じ演技をすることは可能だ。では、もし「競技」と「エキシビジョンマッチ」で全く同じ演技をしたならば、それらは「華麗だ」と評価されるのだろうか?

 おそらく、同じ評価にはならない。同じ四回転ジャンプであっても、競技プログラムの制約の中で演じられる場合には、得点との兼ね合い、他選手との得点差も含めた戦略性といった文脈に応じた賞賛が出てくるという。

 つまり、勝敗や順位付けが存在する競技的なスポーツにおいて、そのプレーが「華麗だ」と見なされるか否かは、勝敗を決定するルールに影響される。でもそれはなぜ? を考えると、さらに面白い。

 松本氏は、スポーツの「遊戯性」と「組織性」に着眼する。プレーが実生活から切り離された活動としての「遊戯性」と、ルールが明示的に組織化されている「組織性」が、プレーの「華麗さ」を意味づけるというのである。


スポーツと決定論

 お話を伺っていて、決定論を絡めたら面白そうと感じた。「卓越性」や「華麗さ」は、試合が始まる前の個々の選手の能力やコンディション、試合する場所の状況により予め計算可能であって、ある程度の予想は立てられる(だから「オッズ」という発想が生まれる)。

 科学技術の発達により、この計算が限りなく厳密に実行できるとするならば、果たして人は試合をするのだろうか、あるいは観たがるのだろうか、という疑問である。結果が分かっているものを、わざわざやろうとするだろうか。

その数学が戦略を決める 「運」という名前をつけられがちな不合理要素は、不合理要素」をのパラメーターとして扱い、数をこなせば統計的に処理できる。既に将棋や囲碁がそうなっているし、イアン・エアーズ『その数学が戦略を決める』によると、ワインの値段や映画の興行成績も数学的に処理されている。

 回帰分析できるくらいデータが揃っているスポーツであれば、決定論的に語ることだって可能ではないか? 反対に、フォーミュラ・ドリフトやアイスクロスといった新しいスポーツが次々と生まれてくるのは、こうした決定論の引力から離れようとする試みだと考えると、面白くなるかも。


哲学が噛みつく

哲学がかみつく スポーツに哲学が噛みつく例として、マイケル・サンデルの「改造人間によるスポーツ否定説」を思い出す。彼は、健康や医療目的のための生命工学には賛成しているが、遺伝子療法による筋肉増強や記憶力などの能力向上は反対だという。

 なぜなら、天から授かった能力を育て表現する場としてのスポーツや競技をダメにする恐れがあるから。毎打席ホームランを打つ超人的な選手を作っても、最初はよくてもすぐに飽きるだろうし、代わりに凄いピッチャーを作ったとしても、それはロボットが戦っているようなもので、人の成績とはいえないという。

 これは、レギュレーションの線引きが微妙なり。風邪薬からステロイドまで、どこまでやったら選手の能力を向上させるか難しい。遺伝子医療は極端な例だが、プロテインもダメなのか。安全性と公平性が担保される限り、ぎりぎりまで努力するのが自然だろうし、そこに哲学の出番があるように見える(こうした噛みつく哲学は、『哲学がかみつく』の書評に書いた)


ネタバレの美学

 次回は、「ネタバレの美学」というお題で、11/23大妻女子大学でやるらしい。

 たのしみしてた映画や小説の結末をバラされたりしたら、腹が立つだろう。南極で初の殺人事件になりかけたというニュース「南極で初の殺人未遂事件 本のネタバレに激怒し同僚を刺す」が流れたが、げに恐ろしきはネタバレなり。

 いっぽう、ネタバレに拘らないどころか歓迎という人もいるらしい。「推理小説は結末を先に読んで犯人を確かめてからでないと安心して読めない」という話も聞いたことがある。

 この線引きは難しい。わたしも、本のツカミとして導入を語ったところ、「それはネタバレです!」とこっぴどく怒られたことがある。結末を伏せているから良いのではと思ったのだが、ネタバレラインは人それぞれなのかもしれぬ。

 「何がネタバレなのか」「なぜネタバレが許されないのか」「許されるネタバレとは何か」というお話が伺えるらしい。11/23(金・祝)午後、大妻女子大学でやるらしい。無料ということなので、ご興味のある方は、[公開ワークショップ「ネタバレの美学」11/23(金・祝)@大妻女子大学]をどうぞ(わたしは行きますぞい)。

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ビル・クリントン著『大統領失踪』が楽しみすぎる(12/5 発売)

 大統領がたった一人でテロリストに立ち向かうエンタメ小説。どんだけ荒唐無稽だよと思いきや、たいへん具体的で、まるで見てきたように書いている。

 それものはず、書いたのはビル・クリントン、第42代アメリカ合衆国大統領なり。正確には、ミステリの大御所ジェイムズ・パタースンとの共著になるが、ホワイトハウスの内部構造や、タフ・ネゴシエーターの丁々発止は、元大統領ならでは。

Presidentismissing

 原著は”The President Is Missing”で、翻訳は 12/5 に出るのだが、「ダイジェスト版」なるものを入手できたので、それで読む(chicaさんありがとうございます)。表紙にはクッキリと「構成の都合上、本書の結末に触れる部分があることをご了承ください」と書いてある。

 じっさい、わずか100ページ足らずの中に、見どころシーンや迫力満点のアクションがてんこ盛りで、いわば映画の予告編のようなもの。唯一違うのは、結末―――合衆国に迫る危機が何かとか、サイバーテロが狙うもの、黒幕は誰で、ラストがどうなるのかが、全部書いてある。

 これ読むにあたり、わたしは2つのことが明らかになればと考えていた。一つ目は、タイトルの「大統領失踪」をどのように実現するのか。二つ目は、そもそも「なぜ」そんなことをする必要性があったのか。

 一つ目はツカミからいきなりだった。世界最高の警護に守られ、一挙手一投足がカメラや視線に曝されている人が、どうやって「失踪」できるのか。このシーンで、ホワイトハウスが物理的に危機に陥ったとき、どうやって大統領を安全に移送するかという方法が明かされているので、セキュリティ的に問題な気がする。だが、これは真実に似せたフェイクなのかもしれぬ。

 二つ目は、残念ながら想像するほかなかった。なぜそんなことをしようとするのか。示唆的に触れられているだけなので、これは逆に発売日が楽しみになってくる。言い換えるなら、本書に書かれていることが可能であれば、大統領を「失踪」させることが可能とも言える。

 そしてこれは、サイバーテロについても同じことが言える。テロリストが「どのように」実現させるかが描かれている。やり方は隠されていないが、大規模にやるにはそれなりのポジションにいる必要がある。言い換えるなら、本書に書かれているポジションにいるなら、わたしでも可能だ。

 これ、藤井太洋『オービタル・クラウド』を思い出す。2020年に起きるスペース・テロを描いたSFなのだが、実際のところ、準備はiPhoneと〇〇〇ケーブルだけで構築できる。「全部で千ドルもかかってないぜ。ポケットマネーで作れるんだ、こういうのは」というセリフが現実的なり。できたものをある場所に置けるかどうかは、ポジションによる。言い換えるなら、しかるべきポジションにいるならば、実行は可能である。

 『大統領失踪』のテロも同様だ。準備に時間がかかるが、ひとたび始めれば、およそ30~60分で、アメリカ合衆国を未曾有の危機に陥れるために、やるべきことが書いてある。ずいぶん昔、そのニュースを耳にしたことがある。かりにそれが「準備」であり、本書のテロが実際に起きたとしても驚かないだろう。

 ダイジェスト版とはいえ、ネタバレを喰らっても読みたくなる。この興奮は、ぜひホンモノ版で味わってほしい。


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知性に普遍性はあるか『ランドスケープと夏の定理』

 「知性に普遍性がある」という発想がブッ飛んでいる。


■ 知性定理

  • どんな宇宙であれ、同じ宇宙に存在する限り、同じ物理法則に従う(←分かる)
  • 異なる宇宙の場合、プランク定数など基本的な定数が違うかもしれないが、それに相当する定数は存在する(←分かる)
  • それぞれの物理法則は、定数の変換や翻訳という手続きは必要なものの、対応関係があり可換である(←分かる)
  • 知性の元となる思考や理論は、それぞれ物理法則から導き出される(←分かる)
  • 変換や翻訳した結果、共有された物理法則から導き出される思考や理論に支えられた知性は、対話可能である(←分かる)
  • 物理法則が普遍性を持つ以上、知性は普遍性がある(←分からない)

 つまり、世界や物理法則が共通である以上、知性の違いは表現の違いに過ぎず、遅かれ早かれ、あらゆる知性は普遍的なものになる、という理屈である。これは、いわゆる宇宙人に限った話でなく、動物やAIも含めた「知性」一般に言えるという。

 荒唐無稽で、頭おかしい(誉めてる)。しかもこのSF理論でキッチリお話を描き切る力業がすごい。

 この「知性定理」を編み出した「ぼく」を語り手に、天才科学者の姉が途方もない実験をするのが表題作になる。エヴァとイーガンを下地にエンデを混ぜたようなお話で、流行の量子力学・宇宙論に既視感ある展開がテンポよく進む。なつかしい未来を見させられているような感覚なり。


■ 知の理論地図=知性の見える化

 圧巻なのは、ありとあらゆる理論を命題群の形でマップした空間である。巨大な野球場か、サッカースタジアムほどの大きさに理論地図が広がり、目を凝らすと、水滴のような形をした命題素が見えてくる。三段論法や真理値といった大小の概念が多彩に絡まり合い、一つの命題素が他の命題素と繋がり合い、拡散結合を繰り返している。

 つまり、人が作り出し、あるいは見出した理論の繋がり合いをビジュアライズすることで、「人間の知性」そのものの構造を見える化しているのである。この理論地図を調べることで、疎の部分(命題素の絡まりが少ない、理論の空白箇所)や、密な部分(じゅうぶん理論化された箇所)が見えてくる。

 そして、このような空白領域や、マップと「マップの外側」の境目は、まだ手付かずの知的領域になる。人が何に興味を抱き、どこに注目しており、目の届かない(あるいは見逃している)場所がどこなのか、一望できる。この考えは、ソートイ『知の果てへの旅』の[レビュー]で示したが、それをSFの中に織り込んでいるのが素晴らしい。


■ 数学の地図

 数学の地図で考えると、山本貴光氏の「現代数学マップ」がある。これは、雑誌「考える人」(第45号 p.28)の特集「数学は美しいか」からの引用で、数学の世界を探索するにあたり、全体の見取り図となるものである。

Mathmap

数学の地図

 ざっと見ただけでも、代数学と幾何学がシンメトリに並び、その橋渡しとなっているものが解析学で、それぞれを支えているのが論理学である構造が分かる。それぞれの具体的な命題は、数や図、極限と言語に分けられた形で表されていることが分かる。代数と解析から確率論、その先に統計学への途が開かれている。

 さらに目を凝らすならば、マサチューセッツ工科大学のマックス・テグマーク教授のマインドマップのような世界が見えてくる(出典:[MAT365 Vector Calculus])。ラーニングマップなので、学ぶ順番を追うためのものと想定されるが、数論から数理物理学まで至る途上に、代数幾何学が幾層にも重なり合っていることが分かる。

 数学に限って言うならば、人が最も注目してきたもの(密な箇所)は代数幾何学になる。これは、人類が始まって以来営まれている農作や移動に必須の天文学を支える理論だから、あたりまえといえばあたりまえかもしれぬ。

 こうしたわたしの妄想を、数学に限らず、あらゆる知の領域、人類が生み出した理論の歴史を層ざらえしたレベルで展開してくる。実は、ここで紹介した「知性定理」は最初の段階で、次章・最終章ではさらに広がりと深まりが出てくる。ストーリー展開は見えていたが、この知性定理の風呂敷の広げ方は驚いた。ぜひ手にして楽しんで欲しい。


■ 知性を規定するもの

 ただし、知性について、「ぼく」の一面的な理解にも苦しんだ。「ぼく」が無邪気に信じる「知性」とは、すべてカッコ書きで「人にとっての」が付け足される。そもそも数学は人にとっての知的営みであり、そこから離れて考えることはできない。

 「ぼく」数学者なのだから、一度は考えたことがあるだろうが、人が10進数を使っている理由は、わたしたちの手の指が左右で10本であるからである。一周を360°とするのは、一年が365日であるから(360°は近似で約数が多いというのがポイントやね)。地球にいる「人」が太陽を観察して作り出した数字なのだ。つまり、数学は人と人が住まう環境によって規定されているのである。

 いいやそれは違う。確かに10進数は一般的だが、2でも16でもn進数だってある。360°だけでなくラジアンの概念も生まれてきた。離散的なものだけれでなく、連続的な概念も扱うことができる......という意見もあるだろう。

 もちろんその通りだ。しかし、「人」が一個の存在として「自分」を一つのものとみなし、2つの目や手、乳房や脚を持っているという離散的な存在であることが、数学を規定しているとも言える。

 つまりこうだ、光も差さない深海で知性があるとして、環境としては圧力や温度しかないとするならば、そこでは「数を数える」数学は始まらない。人が離散的な数学から始めて、連続的な概念をも手なずけたとしても、それは2つのいずれかの概念を行き来する「人」にとっての数学である。理論が破綻しない限りで、離散か連続か、どちらか都合のよい方を選択的に手にしているにすぎない。

 試みに、両方の特徴を併せもつ存在を一つのものとして扱うことができるだろうか? 離散と連続の両方が現れる存在、それは「光」だ。粒子としても波としてもふるまう光は、いずれかの特徴を捉えることはできても、両方を一緒に扱う理論は存在しない。

 これを、「未だ存在しない」と言い逃れることはできる。そうかもしれないが、それは人が今の「人」のインタフェースであるのをやめてから、ずいぶん先の時代になると考える。それは、人が二足歩行するよりももっと抜本的な変化を遂げた後のことになるだろう。

 知性は、それが寄って立つところの環境に依存する。そして、その進み方も環境の変化にも影響される。長い時間をかければ、究極的には同じ知性を共有するという考えは、今のサルを長い長い間放っておいたら言葉を用いて火を使い、ロケットを飛ばすようになると言っているのと同じである。


■ 知性の限界は、その主体

 じゅうぶん長い時間をかけるなら、他の「知性」と対話することは可能だろう。だが、それは知性の普遍性を意味しない。あくまで、人に翻訳可能な、人にとっての知性という意味においてでしかない。

 仮に「知性」を、なんらかの言葉で定義できたとしよう。たとえば、「ある状況(問題)について、得られた情報から整合的に理解し、合理的な行動(結論)を判断する能力」としてみる。なんならこれにいくつか付け足してもらってもいい。

 しかし、そこに出てくる「理解」「判断」といった主体は、「人」であり、「整合的」「合理的」は誰にとっての整合性・合理性なのかを考えると、やはり「人」になる。

 いいや、AIや動物の知性を俎上に載せるなら、主体は「人」には限らないよ。そういう声もあるが、AIが出した結果や、動物が採用した行動を、誰が、どのように評価するのかというと、そこにはやはり「人」が関わる。

 行動主体はAIや動物だとしても、それが(行動主体が)「合理的」だとか、そもそも「判断をしている」と見なすのは、人でしかない。ナゾナゾ「誰もいないところで木が倒れたら音がするか?」を追求すると出てくる答えと同じである。

 「ぼく」は知性の普遍性を信じ、なおかつ「人の」知性の優位性を信じる。あらゆる知的存在は、いまわたしたちが抱いている「人の知性」の途上ライン上におり、ひとつの総体として収束していくという考え方は、わたしの思考と大きく異なる。

 だが、それが面白い。ストーリーよりも、この思考にめちゃめちゃ振り回された一冊。

Land

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世界文学全集の中の「日本文学」の割合は?

 秋草俊一郎氏の「世界の中の日本文学」という講演を聞いてきた[概要]。ともするとアカデミックな古臭さがつきまとう「文学」を、新しい斬り口から見せてくれる、たいへん興味深い講演でしたな。同時に、とんでもない間違いを、わたしがしていたことに気づかされた。

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ノートン版の世界文学全集


■ 世界文学全集の必要性

 そこに書かれている経験や感情を分かち合うことで、文学は、読み手の人生を増やす。一生を、二生にも三生にもしてくれる。ここが理解できないと、自分の経験だけを縁に、トライ&エラーのループに陥る。人生はオートセーブで、一回こっきりだけれども、「文学」がセーブポイントになる。

 とはいえ、一人が一生に読める数は限られているし、星の数ある作品から何を読めばいいのか分からない。そういう悩める人のためにカノン(正典)はある、と考える。世界文学全集とは、世界の文学を編集したものであるだけでなく、文学の世界の入口にもなる。

 たとえば、池澤夏樹=個人編集の文学全集が素晴らしい。英米仏の、いわゆるメジャーな文学だけでなく、ラテンアメリカや東欧といった(商業文学的には)マイナーな地域や、小説だけでなくルポルタージュや詩歌なども盛り込んでおり、まさに文学の入口にして展望台として使える。


■ 人生に役立つ文学全集

 ところが、文学全集とは、もっと実用的な理由に支えられていたらしい。『ハーバードクラシックス』(全50巻、1909)の例を見ると、当時のアメリカ人の出世主義とヨーロッパ文化の歴史との結びつきを求める心性をガッチリと掴み、50万セットという驚異的な売り上げを誇ったという。

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自己啓発本の元祖

 その特徴は第一巻に如実に現れる。ベンジャミン・フランクリンの自伝なのだ。高等教育は受けられなかったものの、独学でたたき上げ事業を成功させ、政治家であり外交官であり科学者であり著述家であり、合衆国建国の父の一人として100ドル札にその肖像が掲げられている(Self-made manというらしい)。『フランクリン自伝』は今でいう自己啓発書の先駆けやね。

 「これを読めば教養が身について出世する」という極めてプラグマティックな考え方のもとに文学全集が編まれ、売られていたのを見るのは微笑ましい。ライフ誌の広告が残っており、「1日15分読むだけでモテる」(大意)とある。

Harvard Classics Ad from Life


■ 「ビル・ゲイツ絶賛」で売れる理由

 この考え方は今でも脈々と続いており、企業人の読書会で名著を読むとか、「西洋の名著のアンソロジー」であるグレート・ブックス運動につながる。百の教授の支持よりも「ビル・ゲイツ絶賛」の効果が抜群なのには、ちゃんと理由がある。ビル・ゲイツこそが適切に評価できるというよりも、彼の Self-made man にあやかろうという動機が働いているのだ。

 そして、まさにここが、わたしの間違っていたところだ。「大人の教養」とか謳い文句でWikipediaのコピペを売っているエセ教養人が言っていたことは、正しかったのである! こっそり読んで、エレベータートークでひけらかしたり、世間話に塗した知的マウンティングに使うのが、本来の教養の使い方だったんだね。[これが教養だ!]で大上段に振りかぶってた自分が恥ずかしい///。


■ 世界文学全集をメタに見る

 講演の話に戻る。

 そこでは、「世界文学全集」の一つ一つを取り上げるより、「世界文学全集」というフィルターから何が見えるか? という問いかけから、文学をメタに捉えようとしていた。

 つまりこうだ。人一人が一生に読める数が限られているように、「世界文学全集」という枠に収めて出版できる数にも限りがある。さらに言うと、アメリカの大学のカリキュラムに採用される量に限度がある。

 そこで、ある種の選別が行われる。

 ヨーロッパ文明の伝統との結びつきを意識してもらう理由から、アジアやアフリカはバッサリ落ちる。最初は、アジア圏の作品としては『コーラン』『論語』『バガヴァッド・ギーター』しかなかったらしい。

 さらに構成は、「ルネサンス前」「ルネサンス後」の二部構成となっており、選別者が、どのように「世界」を見ていたかよく分かる。それは、文学の普遍性を目指した全集というよりも、むしろ「アメリカの世界文学」と呼ぶべき偏重が透け見える


■ 「アメリカの世界文学」の中の日本

 ところが、ある時期から日本の作品が入ってくる。これも、実用的な理由であり、その鍵は第2次世界大戦となる。敵対する文化を排除するのではなく、理解・攻略する目的で日本の研究が盛んになった。

 そうした研究者であるエドワード・サイデンステッカーやドナルド・キーンが日本の作品を英訳して紹介することで、「アメリカの世界文学」の中に特権的な地位としての日本文学が確立されることになったという。

 さらに、ポスコロやポリコレ補正で、この選別に女性や有色人種の作家が加わる。たいへん興味深いのは、日本人で最も数多く収録されている作家は、樋口一葉であるという指摘だ。世界文学全集としてはノートン版、ベッドフォード版、ロングマン版と3種類あるが、そのどれにも採用されている。

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米国大学生の世界文学アンソロジー3傑

 その理由としては、女性作家であることと、西洋の影響を受けていない作家であることが大きいという。雅文体と呼ばれる、一文が長く、流麗な文章で綴られている。同時代では漱石・鷗外が有名だが、「アメリカの世界文学」からすると、西洋のコピーに見えるらしい(漱石の評価が日米で違う理由は、ここにある)。漱石をやたら崇めて日本語の砦みたいに扱う作家がいるが、これ聞いたら発狂するだろうね。


■ 「アメリカの世界文学」における日本の割合は?

 そんな「アメリカの世界文学」の中で、日本文学はどの程度の割合を占めるのだろう? 最新のノートン3版では、5%になるという。これが大きいのか小さいのかは各人に任せるとして、ラインナップがなかなかに面白い。

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世界文学における日本文学の「シェア」

 日本人作家では、谷崎潤一郎『陰影礼讃』や川端康成『伊豆の踊子』、芥川龍之介『藪の中』、大江健三郎『頭のいい「雨の木」』がある。いかにも現代日本の教科書にありそうな文学やね。

 興味深いことに、久志富佐子『滅びゆく琉球女の手記』という短篇が出てくる。講演で初めて知ったのだが、この作家、後にも先にもこの一作しか出していない。なぜ、「アメリカの世界文学」はこれを選んだのか?

 それは、本作品の時代性による。「沖縄✖貧困✖女性」という特性が、マイノリティ文学の教材として「教えやすい」ため採用されたのではないかという指摘は鋭い。各自で読んでその文学的価値をはかってみよという「宿題」が出たが、実際に読んでみたところ、創造性やオリジナリティや技巧に目立つものはなかった。

 さらに、収録されている「釈明文」も併せると、今でいう「大炎上」していたようだ。当時の日本でかなり話題になっていたことも、選別者の目に留まるきっかけとなっていたのかもしれぬ。同様に、三島由紀夫『憂国』が採択されたのは、彼が市ヶ谷駐屯地で割腹自殺を遂げたニュースが契機という指摘も鋭い。文学全集は、それが編まれた時代を映す鑑なのかもしれぬ。


■ フランスに「世界文学全集」はあるか?

 このように、「世界文学全集に何が選ばれているか?」という目で見ると、その時代や国民性が炙り出されてくる。このメタ視点が楽しい。

 たとえば、質問コーナーでわたしが、「日米ではなく、他国で”世界文学全集”というものはあるか?」と問うたところ、そういう「カノン」をありがたがる傾向が見られるのは、いわゆる(文化的)周辺国に多いという。

 かつてドイツで”世界文学”が流行ったのは、フランスという「中心」に対する周辺という位置づけから読み解けるし、反対にフランスには世界文学全集は存在しない(だって自国が中心であり全てだから)。アメリカで世界文学全集が売れる理由として、ギリシャ・ローマ・ルネサンスへの羨望から解いても面白いし、日本の場合は欧米中心思想の延長で考えてもいい。

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各国別の「シェア」

 大事なポイントが抜けていたので追記。フランスに「世界文学全集」がない、という言い方はちょっと違っていて、もちろんフランスにも「叢書」はある。有名なのは「プレイヤード叢書」で、カノンもあるが、「世界文学全集」という言葉は使わないだけだという。フランス人にとってのバルザックやボードレール、サルトルこそが「カノン」であるのだから、わざわざ「世界文学」という冠をつける必要性がないというのだ(このパラグラフは、秋草先生のご指摘により追記、ご教示ありがとうございます!)。


■ 世界文学全集を覗くとき、世界文学全集もまたこちらを覗いているのだ

 何をもって「世界文学」とするかを考えると、その全集からその人となりが見えてくる。ブリア・サヴァランの「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人であるかを言い当ててみせよう」を思い出す。「どんな作品を世界文学全集に入れるか言ってみたまえ。君がどんな人かを言い当ててみせよう」やね。

 たいへん面白くタメになる(そして積読山がさらに高くなる)講演をありがとうございました。

Sekaibungaku06

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年収1000万のユーチューバーになる方法

 最初にネタばらしをしておくと、これブロガー向けに昔流行ったジョーク。お題は「年収1000万のブロガーになる方法」だった。

 1.投機でも会社勤めでもいいから年収1000万になる
 2.ブログを始める

 今これ、youtuber やね。我が家のテレビは、受信機というよりディスプレイとして使われており、最も長く流れているものから並べると、「Youtube >>> ゲーム(PS4、Switch) > 録画したアニメ > Amazon Prime >>> 超えられない壁 >>> めざましテレビ 」という順になる。

 しかも、テレビの画面だけでなく、スマホやタブレットからアクセスする動画の大半は Youtube になる。 今は「瀬戸康史のマイクラ」や「ゲームセンターCX 」「ゴー☆ジャスのアンダーテール」を家族で見てる。

 ちと古くて恐縮だが、ノリは「8時だョ!全員集合」「オレたちひょうきん族」を家族で見ている感じ。演(や)ってる人と、見てるこっちが、バカ真面目になって笑える。ホント、楽しんでるのが伝わってきて、一緒にハラハラドキドキしているうちに、ゲームやるようになっている。

 その影響力は絶大で、マイクラ、アンダーテール、パワプロ、ポケモン(緑)など、ここ最近やってるゲームの大部分は、ユーチューバーが案内人となっている。

 そんな中、わが子が「ユーチューバーに、俺はなる!」とか言い出したらどうしようかと思っていたら、そのものずばり『ユーチューバーになるには?』という本が出てきた。「マンガで分かるあこがれのお仕事」というシリーズなり。

 小学5年生の男の子と女の子を主人公に、Youtuber になるための具体的な方法やメリット、リスク、注意点、そして可能性を分かりやすく解説している。

 いいな、と思ったのは、Youtubeというメディアを使って、自分の「好き」を表現させようとしているところ。料理であれゲームであれ、まずオリジナルな「好き」があり、それをどうやって表現するかやってみようと促す。

 この手の本は、再生回数を増やすノウハウに走ったり、リスク回避の方法を長々と述べたりするのだが、もっと敷居を下げて、気軽に参加できるように紹介している。小5で顔出し世界発信はリスキーじゃね? と思ってたら、「最初は限定公開で」としているのもいい。

 リスクをあれこれ心配するよりも、まずはやってみよう。これ一冊で安心とは言えないけれど、とっかかりとしては良書だと思う。わが子がユーチューバーになりたいと言い出したら、これオススメしよう。

 ……なんて思っていたら、「あれ編集が大変なんだよ! ものすごい手間と時間をかけてるの!」とのこと。

Youtuber

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死ぬとき幸せな人の7つの共通点と、死ぬときに後悔する10のこと

 『「死ぬとき幸福な人」に共通する7つのこと』を読んだ。末期がんなど、治る見込みのない患者の終末ケアをする医師が書いたものだ。「幸せに死ねるコツみたいなもの」は分かるし、その主張のほとんどには賛成だが、美談バイアスに陥っていることが気になる。

 まず、本書の主張。死ぬとき幸せな人の7つの共通点は以下の通り。

死ぬとき幸せな人の7つの共通点

  1. 自分で自分を否定しない
  2. いくつになっても、新しい一歩を踏み出す
  3. 家族や大切な人に、心からの愛情を示す
  4. 一期一会の出会いに感謝する
  5. 今、この瞬間を楽しむ★
  6. 大切なものを他人に委ねる勇気と覚悟を持つ
  7. 今日一日を大切に過ごす

 「終末ケア」として扱われる患者のほとんどは、病気がかなり進行している。身体の自由が利かなくなり、トイレや食事も自力でできない場合がある。仕事を生きがいにバリバリやってきた人ほど反動が激しく、無力感に囚われるという。

 そして、「人に迷惑をかけるくらいなら死ぬ」「役に立たないこの人生を早く終わらせたい」と願うようになる。競争社会を勝ち抜き、生産性に価値を認めてきた「今までの人生」が丸ごと否定されたように感じるからだろう。アイデンティティを失った患者は、最期まで自分や周囲を責める人もいるという。

 そうした患者の声に耳を傾け、寄り添うのが終末ケアになる。そしてセラピーなどを通じて自己肯定感を増し、周囲とのつながりのなかで心を開いてもらい、この世を去るまでの日々を穏やかに過ごすのを「幸せ」とする。

 上の7つは、そうした「幸せ」な患者に共通することだという。

幸せ=この瞬間を楽しむ

 これは同意。死ぬときに限らず、穏やかで前向きに生きていくために心がけたい。特に★「今、この瞬間を楽しむ」ことが重要だ。ブッダが言ったとされる、この言葉は死ぬまで使える。

過去にとらわれるな
未来を夢見るな
いまの、この瞬間に集中しろ

 そして、身体の自由が利かず、病の苦しみや死の不安に苛まれているとき、どうしたら「今を楽しむ」「今に集中する」ことができるか? この答えも著者に同意する。

 それは、「選ぶ」ことだ。たとえわずかな選択かもしれないが、自分が好むほうを選ぶこと、これが今を楽しみ、今に集中するためのコツである。

 たとえば、お昼に何を食べようか? 外食するか、自炊するか。和洋中のどれにするか。ご飯ものもいいけれど、やはり麺類がいい。二郎にするか、天一にするか。こってりにするか、あっさりにするか。

 そのときの気分や体調、元来の好みに合わせて、「いまのわたし」に近いほうを選ぶこと(選べること)、これが楽しむためのコツである。人生を生きるというのは、他らなぬ「わたし」の人生を生きることであり、その本質は、わたしの「好き」を選ぶことである。

 これは、ヴィクトール・フランクルの言葉にも通じる。ナチスの強制収容所の大量虐殺を生き抜いた言葉だ。丸刈り・個性の剥奪、強制労働、飢え、飢え、飢え、ガス室、「世界はもうない」という感覚の中で、どうやって生きることができたのか。

あらゆるものを奪われた人間に
残されたたった一つのもの、
それは与えられた運命に対して
自分の態度を選ぶ自由、
自分のあり方を決める自由である。

 健康を損なうと、「好きを選ぶ」幅が狭くなる。なにもかも奪われたとしても、「わたし」の感情を奪うことはできない。これは、アウシュヴィッツでもそうだし、人生最期のひとときも然り。誰か他人の人生でなく、強制された生でもなく、わたしの人生を生きるということは、わたしの態度、感情、「好き」を選ぶことなのだから。

「幸せ」を判断すること

 「穏やかで前向きに生きていくコツ」「今この瞬間を楽しむ」「人生とは選ぶこと」......ここまでは同意する。だが、著者が陥っているバイアスが見えるところに立つと、まるで違う結論が出てくる。

 著者はホスピス医であり、相手は重い病気で死期が近い人である。病苦に押しつぶされ自棄になり、感情的・攻撃的な人もいるだろう。そんな人に自尊心を取り戻し、穏やかに逝けるようにする。かつて宗教が担った役割であり、現在はセラピーが受け持つ担当である。

 その立場からすると、平穏さを取り戻した患者こそが「幸せ」な人になる。「病苦で身体の自由が利かない自分」「もう長くない自分」「人に迷惑をかける自分」を受け入れ、残された日々を平穏に過ごすことを望み、抗い変えようとする行為をあきらる。そんな患者を「幸せ」だと見なす。

 わたしは、これは傲慢だと考える。

 終末医療で最期を迎える人は、これからも増え続けるだろうが、その恩恵を受ける余裕がない人もいる。また、病苦を受け入れず、自分も変えたくないと願う人が、さまざまな抗い方で亡くなっている(自死含む)。後悔の最中で折れてしまう人もいる。そんな人たちへの視点が抜けている。

 そうした人は、その生き方を「選んだ」もしくは「選ばざるをえなかった」のであり、それは結果からすると平穏でも安らかでもない。だが、だからと言って、それを「幸せ」の範疇から外すのは、傲慢以外の何物でもない。幸せか、幸せでないかは、その人が決めることなのだから。

 この視線は、ある患者の評価に如実に現れる。遺産で遊び暮らし、家庭を顧みることなく生きてきた男が、肝臓がんで余命わずかと宣告された。とたんに家族も遊び仲間も一斉に離れたという。「医療スタッフに強気な姿勢を崩さず、最後まで心を開くことはなかった」と書いており、相当キツいこと言われたのかもしれぬ。

 だが、そんな彼を「心の奥底では孤独感と寂しさを抱えていたのではないか」と想像し、人生の最終段階で、人から見放されてしまうことが最大の不幸であり悲しみだと結論づける。大きなお世話である。

 この視線は、西部邁の入水自殺にも向けられる。西部の『保守の神髄』の次の一節を引き、これを批判する。

結論を先に言うと病院死を選びたくない、と強く考えている。おのれの生の最後を他人に命令されたり弄り回されたくないからだ。

 西部が(ほう助されながら)自殺したのは、自分の生も死も自分でコントロールしたいという強い気持ちがあったからだという。さらに、最後まで完璧な自分でいたい、人生の幕を自分で引きたいという人がこれからも増えてくるだろうと案じる。

 そして、人間は完璧存在ではなく、「立派な死」「潔い死」は、ほとんど存在しないと主張する。人生の最終段階で人の世話になったり、人に迷惑をかけたりするのは当たり前で、仕方のないことだという。

 病気だろうと健康だろうと、誰にも迷惑をかけずに生きることはできない。ただ生きているだけで、誰かしらの手を煩わせている。ただその程度の多少の問題である。だが、どうやって死ぬかについて口をはさむのは大きなお世話である。

後悔なしに死ぬ人はいない(生きる人も)

 もちろん、手厚いケアの中、安らぎと感謝に包まれながら死んでゆくのは理想だろう。だが、少なくともわたしは、絶対そうはならない。あれ読んでいない、これ食べてない、もっとセックスしたかったなど、後悔に包まれ毒と呪詛を吐きながら死んでゆくのは、火を見るよりも明らかだ。

 著者と同じく、看取り医をする人が書いた『死ぬときに後悔すること25』がある。終末医療を受けている患者に、「いま、後悔していることは何ですか」という残酷な質問を投げかけ、得られた答えをまとめたものである(レビューは「死ぬときに後悔すること」ベスト10)。

 ベストテン(ワーストテン?)はこれだ。

 第10位 健康を大切にしなかったこと
 第9位 感情に振り回された一生を過ごしたこと
 第8位 仕事ばかりだったこと
 第7位 子どもを育てなかったこと
 第6位 タバコを止めなかったこと
 第5位 行きたい場所に行かなかったこと
 第4位 自分のやりたいことをやらなかったこと
 第3位 自分の生きた証を残さなかったこと
 第2位 美味しいものを食べておかなかったこと
 第1位 愛する人に「ありがとう」と伝えなかったこと

 わたしが死ぬとき、第2位、4位、9位で激しく後悔するだろう。後悔のないように生きたいと願い、そう実行しているが、どんなに生きたとしても、必ず後悔するだろう。

 死を前にして後悔しない人はいないのに、安らぎと感謝の念をあらわにするのであれば、それは、かつての健康だった自分から、そうでない生活を受けいれた自分になったに過ぎない。さまざまなセラピーや緩和治療を通じて、「扱いやすい患者」に変化しただけである。

 医療スタッフに心を開かず、強気で扱いにくい患者のまま死んでいった人を、孤独だとか不幸扱いするのは残念に思う。「強気で扱いにくい患者」は、それまでの価値観や判断基準を変えないことを「選んだ」のであり、それはその人の生き方のだから。

死に方を選べ

 もういちど、「幸せ」に戻ろう。

 幸せとは何か。今この瞬間を楽しみ、集中することであり、そのためには自分の「好きを選ぶ」ことである。

 そして、同じ理由により、「死に方」も選びたい。

 生がそうであるように、死を選ぶ自由こそが幸福であると、わたしは考える。自分の意思がはっきりしているうちに、自分で選んだタイミングで、自分の生を終わらせる。これが、最高の自己実現だと考える。

 「心臓の鼓動を止めない」ことを至上目的とし、さまざまなチューブにつながれて、栄養と薬剤を注入され、排泄物は取り除かれ、身動きもとれず、朦朧とした意識で天井を見上げるだけの「残り時間」は、御免被る。

 これは、「他人に迷惑をかけたくないから」ではない。多かれ少なかれ、生きてるだけで迷惑をかけているのだから。また、「生産性のない人生は不毛」だからでもない。生産性至上主義者は寝たきりになったら何を思うのだろうと意地悪く思うのだが、わたしはむしろ生産性でしか測れない人生のほうが残念だと思うので。

 生き方を選べるのなら、死に方も選びたい。生き方も選べないのなら、どうか、死に方くらい選ばせてくれというのが本音である

 よく生きることは、よく死ぬこと。よい死にかたで、よい人生を。

Sinutokini


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