世界は不公平である『My Room 天井から覗く世界のリアル』

 世界は不公平である。金持ちと貧乏人がいて、美形とそうでない人がいて、幸せな人と不幸せな人がいる。そんなことは分かっている。そんなことは分かっているが、これほど如実に見せつける視点が新しい。

My Room

 55ヵ国1200人のベッドルームを、天井から並べた景色は、今の世界のサンプルそのもの。民族や文化だけでなく、その部屋の主の生い立ちやライフスタイル、思想までをも垣間見ることができる。

 どの部屋にも共通するのは2つ。ひとつは、天井を見上げている笑顔、もう一つは、自分の宝物を広げているところ。天井を見つめるのは、18歳から30歳の男女で、その若者がいまいる状況、何を望んでおり、どうしたいかといった身の上話を語ってくれる。

 たとえば、アメリカ合衆国ダラスの「銃のコレクションがある部屋」。ベッドの上には、拳銃やショットガン、アサルトライフル、防弾チョッキ(?)が並んでいる。銃社会アメリカを象徴するかのような部屋で、これまた全米ライフル協会を代弁するかのようなメッセージを読むことができる。曰く「人を殺すのは銃ではなく、銃を持った人なのです」。身を守るために必要だと説くが、安いのは200ドル、高いのは2,000ドルという8丁は多すぎやしないか。

 あるいは、インドのスラム街の「家族10人で眠る部屋」もすごい。6畳ぐらいの空間にベッドが一つ、冷蔵庫が一つ。この部屋に、両親、兄弟、姉妹、従妹、義兄弟、義姉妹が身体を寄せ合って寝泊まりする。映画にもなった小説『スラムドッグ・ミリオネア』の舞台となったダラビの部屋だ。「裕福な地区ができると、自然とその足元にスラム街ができる。富める者と貧しい者はお互いを必要とする」言葉が重い。

 日本もある。「ロリータファッションの部屋」である。ピンクを基調としたカワイイ小物や服を部屋いっぱいに並べ、本人もロリータファッションに身を扮して見つめている。「服装のルールに寛容な国に住んでいてよかった。ファッションの街パリではみんな黒しか着ませんが、日本ではだいたい何でも許されます」とのこと。言われてみれば、たしかにそう。日本では、着るものと食べるものにタブーはない(ように見える)。

 ニュースの「その後」をうかがい知る発言もある。エジプト革命の最前線だった部屋の主からは、「アラブの春」への疑義が挙げられる。革命は下品な本能を煽り、何百人もの人々が殺され、誰も観光に来なくなり、経済は大打撃を受けたという。南アフリカで貧しい暮らしをする女性は、「ネルソン・マンデラは自由のために闘ってくれたが、何も変わっていない。こんなにも不平等なのに、どうして希望と意志を保てばよいのか?」と訴える。

 ドバイの富豪「エマラティ」の部屋は見たほうがいい。石油の開発で大きく発展し、利益と権利を独占するUAE出身者のことを「エマラティ」というとのこと。深紅の敷布の上に高価な時計や小物を並べた若者の部屋である。「僕の世代はあまり努力する必要もなく生活を楽しむことができ、何より大きくて豪華な家で快適に暮らせます」という素直さが逆に重い。

 「農業は大嫌い」と嘆く18歳の女の子の土間部屋。汚れたコンビニ袋(のようなもの)が一杯に広げてあるマダガスカルの少女の部屋。サイバーカフェで英語を学び学位を得るエチオピアの少年の部屋。ほとんどモノがないのに、枕元にはiPhoneらしきものが転がっているシリア難民キャンプの部屋。モノが無いのは、「それが別の部屋に置いてあるぐらい豊か」からなのか、あるいは「モノそのものを持っていないほど貧しい」のかの二択だ。PC を持っているなら、Dynabook か Dell がほとんどである。

 著者・撮影者である John は、「なぜ部屋を撮るのだ?」という質問に、こう答える「部屋は人の最も親密なことが凝縮されていて、様々な生き方を表しているから」。

 部屋を通じてライフスタイルを知る、この感覚は、都築響一『TOKYO STYLE』に似ている。小さい部屋でごちゃごちゃと気持ち良く暮らしている「日本の空間」を切り取った写真集である。あるいは、ブランドにハマった庶民を「買った服」とともに撮影した、同じく都築響一の『着倒れ方丈記』[書評]を思い出す。写りこんでいる皆さん、ホント幸せそうな顔をしていらっしゃる。「消費社会の犠牲者」とレッテル貼るのは簡単だが、これほどハッピーな犠牲者もなかろう。借金してでも服が欲しいとか、服の収納のために家を買おうとか、突き抜けた次元にいらっしゃる。

着倒れ方丈記

 もっと広く、ある視点から世界をサンプリングしたものなら、世界各国で暮らす「普通の人々」の食事一日分を、その摂取カロリーとともに撮影した『地球のごはん』[書評]、あるいは世界24か国をめぐり、そこに住む家族と1週間分の食材をポートレイトにした『地球の食卓』[書評]といったルポルタージュに似ている。貧困にあえぎ必要な栄養を得られていない人々のカロリーと、豊かな国で太りすぎのためダイエットしている人々のカロリーがほぼ同じという皮肉を見ることができる。

地球のごはん

 生活を斬り口にすると、文化や時代を超えた普遍性をもって問題を露わにすることができる。衣食住、どれを斬り口にしても、世界は不平等であり、不公平である。その部屋に安住している人と、その部屋から脱出しようとしている人、これを「多様性」と括りたくない。

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お好みの本、あります『BOOK BAR』

 土曜の 22:00 より、J-WAVEでやっている「BOOK BAR」が本になった。

 ナビゲーターは杏&大倉眞一郎、2人がお気に入りの一冊を紹介する番組で、10年以上も続いているのに、本になるまで知らなかった。

 どんな本が紹介されるのか、さっそく目次を眺めてみると、これが見事にバラエティ豊かで面白い。いわゆる平積みされている「売れセン」を外しつつ、文芸、エッセイと肩の凝らないものから、硬めの翻訳モノ、文学、ドキュメンタリーが並んでいる。

 たとえば、ポール・ディヴィス『幸運な宇宙』を大倉が紹介する。

 マルチユニバースやビッグバン仮説を解説するポピュラーサイエンス本なのだが、ミソは「幸運な」にある。すなわち、宇宙物理学を深堀りすると、宇宙そのものが「人間にとって」非常に都合よくできあがっている事実に突き当たる。よくある人間原理の話になるだろうなぁと追っていくと、杏が小学生のときに見た屋久島の星空の話になり、さらにギリシャ神話に転がっていく。

 あるいは、杏がお薦めする『秘島図鑑』。

 日本には7000以上あると言われる「行けない島」のガイドブックなのだが、(会話だからなのか)大倉が「ヒトウ」から「秘湯」のボケをかましてくれる。「行けない島」とは、上陸が禁じられていたり、物理的に接岸できなかったり、政治的な問題を抱えている島になる。特に、海抜100メートルの尖った岩が突き出ている孀婦岩のエピソードが凄い。2003年に登ろうとした人がいて、苦労の末なんとか登頂するのだが、そこで見つけたのが、錆び付いた3本のハーケンだったとのこと。

 また、フェルディナント・シーラッハ『テロ』の話題が重い。

 ハイジャックされた旅客機が満員のスタジアムに突っ込む前に撃墜したパイロットを裁くという筋立てなのだが、「旅客機の164人 v.s. スタジアムの7万人」を天秤にかけられるのかという話になる。単純にマイケル・サンデルのトロッコ問題に落とし込んで終わりにするのではなく、アフリカや中近東からヨーロッパへ脱出する難民を「あえて見捨てる」ニュースや、ブレグジット(EUからの英国離脱)を選んだのは難民受け入れをやめるためといった話に結びつける。

 このように、本そのものの紹介だけにとどまらず、その一冊をきっかけにして、様々な話題に膨らませる。他愛のない話もあれば、立ち止まって考えさせられるものもある。反対に、それはちょっと違うだろと言いたくなるのも一興。この、本から始まる四方山話が面白い。

 既読未読問わず、惹かれる名セリフが光るのもいい。「読んでいなかったのは犯罪級」のポール・オースター『幻影の書』や、「読んだあと、いいため息をつける本」である山本周五郎『おさん』、「圧倒されすぎてこれ以上の説明はできない」っていう感じの熊谷達也『邂逅の森』など、思わず読んでしまいたくなる。これが即興で出てくるのは凄い。

 ノリ的には、NHK『週刊ブックレビュー』を漫談にしたようなものか。まったりゆっくり、好きな本を広げるのに良いかも。

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アストロバイオロジーへの招待 『生命の起源はどこまでわかったか』

 常識とされてきたことが誤りだったということは沢山ある。面白いのは「なぜそれを【正しい】と信じてきたか」を考えるときだ。その【正しさ】は、一種の文化的バイアスとも呼ぶべき認知の歪みに支えられていると睨んでいる。

 ①たとえば天動説。地球は宇宙の中心で静止しており、全ての天体が地球の周りを公転しているとする仮説である。現代に生きる人が天動説に触れる時、たいていガリレオとセットで学ぶため、地動説への過渡期に生きた人ほどピンとこないかもしれない。

 ②地球という惑星に目を向けてもいい。かつては、生物が存続できる程度の充分な水をたたえる「奇跡の惑星」であり、このような星が他にある可能性は、ほぼゼロだと考えられていた。だが、天文観測技術の発達により、似たような惑星がそこらじゅうにあることが分かってきた[“奇跡の惑星”から、ありふれた奇跡へ『系外惑星と太陽系』]

 ③あるいは、進化のヒエラルキーなんてどうだろう。最下層の微生物(分解者)、植物、それを食べる生物群(草食動物・昆虫)、その生物を食べる生物群(肉食動物)といったピラミッド階層図だ。昔の図はこの頂点に「人間」がいたが、今は、ワシやライオンといった肉食獣に代わっている。

 ④さらに、生物の進化の道筋を枝分かれした図にまとめた系統樹も然り。昔の系統樹は、中心線の頂点に「人間」がひときわ大きく位置しており、あたかも生物進化の最終形態として表現されていた。だが今では多様な形態に枝分かれした末端に小さく「人間」が位置づけられている。種に関係なく、現存するすべての生物が進化を遂げ、「現時点における進化の最新形態になっている」が正しい。

 つまり、「宇宙の中心であり(①)、標準的な存在である地球で(②)、他の生物の頂点に君臨する(③)、進化の最終形態である人間(④)」という常識が、誤りになりつつある。

 ところでこの常識、どこかで見たことはないだろうか? そう、聖書に基づいたキリスト教的世界観である。複数の仮説から一つを選び取る際、仮説のもっともらしさ≒【正しさ】により動機付けられる。選び取られた仮説は、そこからさらに自らの【正しさ】を裏付けるべく研究されるため、いっそう強固になる。

 すなわち、この常識だったものを【正しく】しているのは、キリスト教思想であることを自覚したうえで、バイアスを再認識する必要がある(さもないと、自分がどんな歪みに囚われているかが見えなくなるから)。キリスト教的世界観が誤っていると言いたいのではなく、【正しさ】を選ぶときにバイアスを認識しながら慎重たれと言いたい。

 この【正しさ】が、生命の起源についてバイアスをかけている。具体例として、ニック・レーン『生命、エネルギー、進化』を見よう[書評]。断っておくが、本書は、生命をエネルギー論で説明し尽くしている素晴らしい本である。物理現象としての「生きていること」の本質は、膜電位があり電子やプロトンが生成されていくプロセスだという基本原理から、生命が誕生する最初の事象まで精密に論証してみせる。

 だが、自説を強調するあまり、他説(原始スープやパンスペルミア説、系統学的アプローチ)へ攻撃的になる態度が目に付く。さらに、真核生物のような複雑な生命は宇宙でもまれな存在だと結論づける。「複雑な生命は神に選ばれたこの地球でしか生まれ得ない」と書いてしまうとあからさまだが、そういう思想が自覚・無自覚にかかわらず目に付くため、本書を手放しで絶賛することができない(同じ勢いでビッグバン説が主流である理由は、「光あれ!」だろうが、これはまた別の議論になる)。

 こうした背景において、東京大学出版会『宇宙生命論』のスタンスは、より【正しさ】から自由たろうとしている。「生命の誕生・進化は、居住する天体の特性と切り離せない」という考え方に立ち、太陽系外惑星探査の成果と、地球環境と生命の共進化の理解から、アストロバイオロジーの可能性を探る。

 「アストロバイオロジー」とは、宇宙を意味する接頭語「astro」と、生物学を意味する「biology」を組み合わせた、NASAによる造語で、日本語では宇宙生物学と訳される。この地球で、生命は、いつ、どこで、どのように生まれたのか? 地球以外の天体にも生命は存在するのか? こうした人類の疑問に応えることを目指す学問領域である。

 さらに、地球生命誕生のシナリオをモデリングしたJAMSTEC(海洋研究開発機構)[URL]の成果を著した『生命の起源はどこまでわかったか』は、このような【正しさ】をさらに相対化した後に、現在において最も信頼できる(=確率の高い)モデルを提示している。

 それは、ニック・レーンと同じく深海熱水活動域での生命誕生説であるが、重要なのは他の説を棄却していないところ。さらに、地球での生命誕生シナリオをモデルにしてはいるものの、それに囚われていない、アストロバイオロジー的な文脈で生命進化を捉え直している点が評価できる。

 たとえば、ダーウィン型進化の重要性について。対象となる生命システムが、「複製」「遺伝性質の多様性」「自然選択」の3ステップを繰り返しながら進化する現象で、わたしたちは、この説の重要性を【正しい】ものとして捉えている。

 しかし、ダーウィン型進化説は、生命システムを取り巻く環境が激しく変動する惑星・地球における現象だからこそ重要視されてきたという見方もある。言い換えるなら、地球のスケールを超えたレベルで充分に安定的なエネルギー・環境条件を想定することができる。この条件において進化と生命の本質を考えるならば、この仮説に囚われることは、議論を混乱させる結果になるだろう。

 道具や環境を作り出すことで、生物学的限界を超えて、地球で最も適応できているのは人間だろう。これを説明する最も有力なモデルがダーウィン型進化説だからといって、その【正しさ】があらゆる生命に一般化できると考えるのは、むしろ危険なのではないか。わたしの思考を、もう一段階メタにするために、アストロバイオロジーの観点は非常に価値がある。

 常識を支える【正しさ】について、あらためて考えさせられる一冊。

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女が怖いのではない。『怖い女』がいるだけなのだ

 「男はバカだ」と言うと、主語が大きすぎる。男が愚かなのではなく、愚かな男がいるだけで、一般化には早すぎる。

 しかし、怪談・ホラー・都市伝説から『怖い女』を一般化した本書を読むと、話は違う。こと「女の怖さ」については神話レベルから共通項があるのかも、という気になる。

 たとえばイザナミ。日本列島を生んだ美しい女神だったが、火の神を産んだことによる火傷で死ぬ。再び逢いたい夫は、死後の世界を訪れ、そこで腐乱して蛆がたかったイザナミを見ることになる。イザナミは怒り、夫を追いかける―――生(性)をつかさどる美しい女神は、死を宣告する醜く恐ろしい女神となる。

 『古事記』を起点に、イザナミの系譜をたどる想像力が面白い。現代では口裂け女が後継者になるという。いまどきの若者は知らないだろうが、口元をマスクで隠した若い女が、学校帰りの子どもに「私、キレイ?」と訊ねる都市伝説があった。イザナミを受け継ぐ伝説として、「美しい女」「醜い身を隠す」「追いかける」「捕まると死」という共通点がある。

 そして、口裂け女が口を隠す白いマスク(=パンティ)の隠喩から、割けた口が持つ意味に迫る。それは、ものを食べる上の口だけではなく、愛を食べる下の口すなわち女陰を表す。割けた口はそのまま「歯を持つヴァギナ」(ペニスを食いちぎる[ヴァギナ・デンタタ])を象徴する。「これでも、キレイ?」とマスクを外して露わにすることは、性衝動の両義性、欲望と恐怖の両方が含まれているというのだ。

 さらに、口裂け女とイザナギの間をつなぐ「呑み込む女」として、昔話の食わず女房、ヤマンバ、「祟る女」として四谷怪談のお岩、仮名手本忠臣蔵の累を挙げる。著者は小説とまとめサイトを中心に渉猟しており、テケテケ、カシマさん、だるま女からコトリバコ、そこからパンドラのピトスや「魍魎の匣」まで持ち出すところが面白かった。

 「性」と「生」を与奪する存在としての女というテーマなら本書になるが、この「女」を「食」に置き換えると『性食考』になる。モチーフが重なるのが楽しい。宝物を大便として排泄する若い女のハイヌウェレ神話や、イェンゼン『殺された女神』を引いてくるところなんてそっくりだ。性欲と食欲はともに「生きる欲望」であり、その間にあるのが「女」という構図なのだろう。食べること、セックスすること、殺すこと。これらは独立しているのではなく、互いに交わり重なり合っているのである。

 さらに、日本三大ホラー映画『リング』『呪怨』『着信アリ』の呪いの主がいずれも女であることに着目し、なぜ女の霊が怖がられるのか、神話と関連づけた考察が面白い。ビニール袋に覆われて這う姿から伽椰子は蛇女神の系譜と見なしたり、歪な形だとしても自己増殖を進める姿から、貞子は母性の怖さを持つという洞察はユニークだろう。

 漫画や映画やネットのまとめサイトをまんべんなく渉猟しながら、都市伝説や神話に出てくる「怖い女」の共通項を洗い出そうとする試みは、非常に面白い。

 しかし、観測範囲に偏りがあり、その結果、導き出される「怖い女」にも納得しかねる点がある。「怖い女」とは、究極的なところでは、生殺与奪を司る「母」になれる存在だというのが結論だ。

 それは、「死の恐怖」に裏打ちされた怖さになる。古今東西の死をもたらしてきた悪女を挙げれば事足りる。本書では、キルケやサロメを挙げているが、『ファム・ファタル』を開けば、ロリータやユーディット、セイレンなど死とセックスは近しいという事実をいつでも確認できる。

 だが、死よりも恐ろしい経験があるのだとしたら? 安易に死というエンディングに回収させない、永遠とも思われる生き地獄へ突き落す女なら? 文字通り「死んだほうがまし」「コロシテ…」と思わせる作品なら?

 たとえば、age『君が望む永遠』のマナマナエンドを推薦しよう。いわゆる「ギャルゲ―」と呼ばれるゲームで、選択肢によりシナリオが変化し、複数の女の子と疑似恋愛を楽しむことができる。そんなプレイヤーの下心を見透かしたかのように発動するのが「穂村愛美シナリオ」である。

 そのラスト(マナマナエンド)は、プレイしたことを後悔するトラウマと級なることを請け合う。残念なことに、『君が望む永遠』をプレイできる環境そのものが希少となっているため、[マナマナの恐怖]あたりで片鱗を味わってほしい。

 あるいは、ケッチャム『隣の家の少女』をお薦めしたい。これは、1965年に米国であった[バニシェフスキー事件]を元にした小説だ。監禁と虐待がテーマなのだが、当事者の少女ではなく、傍観する少年の視点から、陰惨な光景を体感できる。

 ここまで残酷なことができるのかと、痛みと吐き気をもよおすとともに、虐待の主が男であるならば、最終的には自身の欲望を満足させる方法を選ぶだろうと想像する。その方法だと終わりがあるが、虐待しているのは養母である。終わらない絶望こそ、最も怖いのかもしれぬ。

 女が怖いのではなく、『怖い女』がいるだけ。だが、怖い女は本当に怖い。自身の経験と照らしながら読むと倍増する一冊。

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説得の技法『論証のレトリック』

 人は感情で動く。この事実に気づくまでに時間がかかった。いかにエビデンスが強固でも、ロジックが完璧であっても、それだけで相手を説得することはできない。相手の立場を理解し、相手の使う言葉を用い、話を分かりやすく喩え、例示し、結論を述べるのではなく誘導する。

 人を説得するには、基本的な「型」がある。その型に沿って整理していくだけで、説得力ある議論ができる。逆に、その型を悪用することで、ウケだけが良い詭弁ができあがる。わたしが苦い経験で思い知る2000年以上も前に、アリストテレスは述べていた。本書は、こうした論証の「型」をまとめた一冊である。

 本書から得られた最大の成果は、「レトリック」についての誤解に気づけたこと。レトリックとは、いわば言葉のあや(文彩)だと思っていた。直喩や隠喩、枕詞、序詞、擬人法、見立て、縁語、掛詞といった、言葉を飾る技術だと考えていた(『レトリック感覚』が名著)。

 しかし、そうした修辞法は、古代ギリシアの言論の技術からみるとそのごく一部にすぎないという。見づらくて恐縮だが、下図がアリストテレスのレトリック理論の全体である。理論は3つの型(説得立証法、修辞法、配列法)により構成され、わたしが知っていた「レトリック」は、3つの型のうちの一つにすぎないことが分かる。

01

アリストテレスのレトリック理論の概観図

 本書では、それぞれの型を展開し、それぞれが問答や弁証の術としてどのように用いられていたかを紹介する。本書が面白いのは、アリストテレスやプラトンといった大御所に限定せず、利のために詭弁術を駆使したソフィストたちの手口も込みで見せているところ。悪用の技術を知ることで、いわば詭弁への耐性ワクチンともなっているのである。

 目を引いたのが、大衆を説得するためには、「正しさ」よりも「もっともらしさ」を重視せよという点である。ロゴス(論理的説明)による議論だけでは不完全であり、語り手のエートス(品性)によるものと、聴衆のパトス(感情)に訴えて初めて、説得力が成立するというのである。どうすればよいか?

 まず、エートスによる立証は、聴衆に対し「語り手を信頼に値する者であると判断させるよう語られる」ことによって行われるという。(本当かどうかは別として)語り手は、思慮分別があり、聴衆に好意を持っていると思わせればよいというのである。つまり、「あなたのためを思っている」と感じさせることが重要である。

 次に、パトスによる立証は、聴衆をある感情へと誘導させることによって行われる。怒り、友愛、恐怖、羞恥、憐み、嫉妬といった感情を抱かせて、その感情を引き起こす原因や向けられる相手に関する立証になる。

 これは、巻末の付録が参考になる。聴衆を誘導したい感情を想定し、それに対する原因や精神状態、向けられる相手を組み立てる。たとえば、「怒り」へ誘導したいのであれば、聴衆が苦境に置かれていること、聴衆への軽蔑が「怒りを向けられる相手」から発せられていることを明示するのである。

02

感情に関する諸命題の一覧表

 さらに、エートスであれパトスであれ、論証の形をとるべきではないとする。すなわち、「...…ゆえに皆さんは私を信頼すべきである」「......だから諸君は怒るべきだ」という形にならないという(アリストテレスは『弁論術』で明確に禁止している)。ロジックはロジックを明示し、感情は誘導に留めよというのである。

 他にも、「オデュッセウスの告発を背理法を用いて論駁する」とか、「タテマエとホンネの背反を前提として、相手をパラドクスへ導く議論」、あるいは「知識のない大衆を説得させるためのエンドクサ(通念)」など、使い方によってはいかようにも悪用できる技法が次々と紹介される。

 本書が凄いのは、個々の論証の説得性の是非を詳らかにするだけでなく、これを一般化しているところだ。すなわち、「論証を説得力あるものにする」技術ではなく、説得性のある議論をリバースエンジニアリングして、「説得力のある論証に再編集する」技法を「型」にしてみせた点にある。

 「説得はいかにして可能か?」から、「人はどのような条件で説得されるか?」まで考えることができる。自分が説得するとき/されるときに当てはめてみると、さらに面白い。悪用厳禁の上、使っていきたい。

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『思想のドラマトゥルギー』はスゴ本

Tumblrで出会った寸鉄がこれ。

“あなたを突き刺し、打ち砕き、恥じさせ、叩きのめした後に手を伸ばして学びに導くものこそ名言、名著。俺の言いたいこと全部言ってくれてる系は、あなたのしょぼいプライドを満足させて金をむしり取る道化。”

 人でいうなら読書猿さんやな、厳しくかつ優しく導いてくれる。まさかとは思うが、もしご存じなかったならば、今すぐ[読書猿]へ行きなさい。ブログが膨大すぎるなら、エッセンスを凝縮した『問題解決大全』『アイデア大全』を読みなさい。きわめて実践的な名著であり、あなたの人生の財産となること請け合う。

 そんな読書猿さんが、何十年もかけて読んでいる本が、『思想のドラマトゥルギー』だという([とても遅い読書:10年かけて読んだ本のこと])。先に断っておくが、けして難しい本ではない。対談集で、筆致は口語体のままを残し、軽妙洒脱という言葉がぴったりの、たいへん読みやすい本だといえる。

 だが、手にしてみればすぐにわかる。林達夫と久野収という知識人が、興味の赴くまま、知で殴りあう様が凄まじい。西洋哲学や思想史がベースなのだろうが、そこに収まらず、美学、文学、演劇、風俗、詩劇から歌謡、ハイカルチャーから俗なものまで続々と出てくる。

 広いかと思えば深く、深いかと思えば濃く、濃いかと思えば熱い議論が展開される。互いが相手を知のオモチャだと思っていて、力いっぱい振り回しても壊れないつもりで、本気で遊びにかかる。衒学のギアが上がるにつれ、テーマと論点がドリフトしまくる。ふり落とされないようにつかまっているのがせいいっぱいである。出てくる書名と著者名が膨大で、巻末の索引を熟読する。おかげで読みたいリストがもりもり増える。

 いいな、と思うのは、本の紹介合戦にならないところ。いまどきの「知の巨人」がこのテの対談をすると、名著名作を並べ立てる。紹介文句はWikipediaを3行しただけで、その中身を、どう咀嚼して、どの辺の肉となり血となっているのかが不明なり。ひたすら名著の威光(?)を盾にして自分を守っている感じ。いっぱい線を引いて書き込みをして、すごいね、というだけである。

 林氏は、まるでそんな連中を見越したかのように、「ヘーゲル読みのヘーゲル知らず」と喝破する。何千人とヘーゲルを読んでいるくせに、本当にヘーゲルのどこか一面でも(例えば芸術哲学なら『美学講義』)を身につけてものにした、というのはまるで聞かないという。知の対象として「知って」いるだけで、その知をもって「使って」いる人がいないという。

 たとえば、デカルト。『方法序説』を読んで「我思う故に我あり」について賛同しても反論してもいいし、現代の脳科学の進展からデカルトの心身問題への態度と方法的懐疑を批判してもいい。さもなくばデカルト平面と解析幾何学の関係や、べき数の記法について一席ぶってもいい。

 ところが、お二人の対談では、そうしたデカルトの知識のひけらかしにはならない。同時代人のガリレオを持ち出し、デカルトが自覚していた問題を炙り出す。真実を語ればおのずから伝わるというのは嘘であることを、ガリレオ自身よく分かっていた。だから彼は、レトリックを駆使して対話体の『天文対話』や『新天文対話』を書いたという。

デカルトは独りで勉強するのは好きだが、書くことは嫌い、議論するのも嫌いとだだをこねこね、「レトリック抜きの哲学」で行くんだなどと涼しい顔をして見得を切ってみせたが、すぐあとで、事、志とまるで違うという羽目に陥ったことに気がついた。デカルトは、コミュニケーションの問題が落丁になっていたんだな。真理を言うということは、結局はそれを「他人」に納得させることでしょう。(太字化は筆者)

 正しいことを言うことと、それを正しく伝えられることは別である。だから、古代から哲人は、説得の技術であるレトリックの重要性をよく認識していた。具体的には、「ペンを手にして」書物を読む。思想の相克ドラマの中で、賛同ならば補論を、敵対ならば反論を掲げ、ぶつけ、捏ね上げる。そこから生まれるセリフを再編集し、名句のノートを作る。エラスムスやモンテーニュの金言集や『エセー』が有名だが、そうした格言集はもともと自家製の取材活動の成果物だったのだ。

 そして、説得は一方的ではない。ソクラテスに限らず、必ずそれぞれの立場からの議論が伴う対話の形をとるという(ここでプラトンのソクラティック・ダイアローグに話がドリフトするのが楽しい)。靴屋とソクラテスが靴づくりについて問答する際、学者たちは、ソクラテスが言ったことだけに注目し、あとの登場人物はその引き立て役として軽くあしらっているだけだという。だが、その場の全員が対等だからこそ、人に拠らない(感情論に陥らない)で立論できるロゴスが精彩を放つというのである。

 ガリレオの科学論の伝え方から始まって、デカルトにとっての障壁を超えるためのレトリック、さらにその具体論としてのモンテーニュを経て、哲学の実践は「対話」にあるということをプラトンを通じて確認する―――これが、わずかなあいまの対話に詰め込まれており、どろり濃厚なばかりか、読むべき本も再読すべき本も積みあがる仕掛けだ。

 読めば読むほど刺さる話ばかりだが、もっとも深々と刺さっているのはここだ。

デカルトにしてもパスカルにしても、ロゴス、レトリックを通じて生き、闘い、死ぬ術としての哲学ですね。そういう「術」としての哲学が軽蔑されていて、「学」としての哲学ばかりがもてはやされる。(太字化は筆者)

 つまり、ひたすら真理を追究するための学問というよりも、むしろ、生きる技術とも言うべきなのが、哲学なのだ。もっとテクニカルに、世界と対話し、相手を説得し、自分を納得させるための諸々の話す技術、聞く技術、考える技術を体系化したものと言ってもいい。「考えた通りに生きよ、さもなくば、生きたとおりに考えてしまう」という言葉がある。この文脈での「考える」に相当するのが哲学なんだろうね。

 上記は、第13章の「レトリック・イン・アクション」の10ページたらずの感想である。もちろん、他にはもっと別の、広く話題で深く語りあっている。これ、立ち止まって調べて読んでいたら、それだけで別の注釈本が書けてしまうほど濃厚なり。

 読み返すたびに発見と好奇心が刺激され、積読山が盛り上がる。読書猿さんと同じく、10年かけて再読を繰り返そう。読書猿さんよい本を教えていただき、ありがとうございます。

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どうしても読んで欲しい本を、どうしたら手に取ってもらえるか『進む、書籍PR!』

 読んだ後、うおぉッ! となって、知り合いに電話したりメッセ送ったりすることがある。

 押し寄せる感情を吐き出さないと自家中毒になるから、言葉にならない感動をなんとか言語化する。たいてい深夜で、まれに未明(完徹した故)、この作品は、まさに私のため・君のために書かれたといっても過言ではない。百年の時を経て運命的に見つけたのだ云々......感動の押し売り、受け取る方はさぞ迷惑だったろう。

 ネットにこうして書いているのも、その一環なのだが、リアルでオススメしていくうち、何事にもタイミングというものがあるという当然のことが、ようやく分かってきた。そして、これもあたりまえのことなのだが、受け取る人のことを考える必要もある。

 わたしが一番オススメしたいのは、もちろん「わたしが読んだ直後」なのだが、受け取るほうにとってみれば、自覚無自覚関係なく、欲っした直後になる。それは、受け取る人の既読本や関心ごとに紐づけされている本だということが分かったときなのだ。

 そういう「受け取る人」をターゲティングし、メディアを選び、それに沿った映像やコメントを準備する。メディア露出の反応を確かめつつ出版・流通・書店の調整を行うという役割がある。「書籍PR」というお仕事である。

 何千何万という書籍が出版されている今日、素晴らしい本であるにもかかわらず、他の本に埋もれてしまい、「受け取る人」にまで届かないまま店頭から消えているものがある。書籍PRは、そんなことにならぬよう、本と人との出会いをつなぐのが目的だ。

 本書は、その第一人者である奥村知花さんが、七転八倒しながらのたうち回ってきた仕事を振り返るとともに、書籍PRを進めていく上でのノウハウを余すところなく紹介した一冊である。平気でウソをつくのがまかり通る出版業界の暗部を覗くとともに、どうしたら出版社やメディアを巻き込んでいけるのかを知ることができる。

 ポイントは、「売り込む」のではなく「つなげる」「届ける」こと。読んで欲しい本を、読んで欲しい人に届けるためにできることをひたすら考え、実行する。この熱量とバイタリティが凄いのだ。

 わたし自身、彼女のおかげで出会うことができた作品がある。たとえば、子どもに読み聞かせている親が眠ってしまう絵本『おやすみ、ロジャー』や、決して人前で読んではいけない『ワンダー』がある(号泣するから)。どれも、わたし一人のアンテナでは決して引っかからなかっただろうが、出会えてよかったと感謝している。

 ただ、やはりというかなんというか、テレビというメディアの力は依然として強い。休日前の昼の番組で芸人が紹介するだけで、店頭では動きが出るという(この場合のターゲットは高齢者になる)。ベストセラーというものは、ふだん本なんて読まない人たちがお金を出すからこそ成り立つもの。そして、ふだん本を読まない人たちは、テレビから影響を受けることが大きいようだ。

 一冊一冊の特性を知り、感動を届けるお仕事。文字しかないこのブログとは違うけれど、「うおぉッ!」を伝える熱意は同じ。いろいろ学ばせていただきました。ありがとうございます。


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デュレンマット傑作選『失脚/巫女の死』が面白い

 身に降りかかった不幸に因果を探すけれど、それは自分を慰めるため。

 「仕方がなかったんだ」という結論に持っていきたくて、大きな物語とか運命論を持ち出して、それでもって物語のフレームをつくろうとしても、もはや自分自身が信じていない。「世界は合理的であり、因果に基づいて整合的にあろうとする」なんて流行りの認知バイアスの一つだから。

 しかし、それ故に面白い。世界はもっと複雑であるが故、単純な出来事でたやすく変転する。こんなシンプルな真実は、渦中に居るときには気付きにくいが、こうして短編小説の形で見せてくれると分かる。グロテスクな哄笑を伴いつつ、ヒリヒリする焦燥感に背中を焼かれながら思い知る。スイスの劇作家、フリードリヒ・デュレンマットの短編集『失脚/巫女の死』がまさにこれ。

 「トンネル」の一行目から引き込まれた。こうだ。

二十四歳の太った男がいた。太っているのは、自分の目にする舞台裏の嫌なものが(それを見る才能が彼にはあったし、おそらくはそれが彼の唯一の才能だったが)自分のほうにあまりにも近づきすぎることのないようにするためだったが、彼はさらに、自分の肉体にある穴をふさぐことを好んでいた。

 まさにわたし好みの入り口である。この太った男が大学に通うために利用する、いつもの列車がスピードを上げてゆき、トンネルに入ってゆく。日常が非日常に変貌するのだが、それが、いつ、どのようにそうなったのか、分からない。人がたやすくそうなるのか、世界が簡単に非合理になるのか、どっちにもとれるし、どっちにとっても面白い。

 「失脚」は、粛清の恐怖に囚われた官僚たちの高度な心理戦を味わえる。ぱっと見、とある共産主義国家を彷彿とさせるが、虚構としての革命を演じ続けなければならないという意味ならば、どこの独裁体制にもあてはまる。

 その普遍性を後押ししているのが、登場人物には名前が出てこないところ。固有名詞の代わりに、A、B、Cとある。Aは国家と党のトップ、Bは外務大臣、Cは秘密警察庁長官…とPまで続く。Aは巧みに皆を疑心暗鬼に陥らせ、互いに監視しあうのだが、その役柄が立場まんまを反映していて面白い。

 ナントカ大臣という肩書きは、行政を運営する立場に過ぎぬ。だが、立場が人を乗っ取った結果、驚くべき結末に至る。権力を掴んだ人が、権力に乗っ取られるカリカチュアなのかもしれぬ(だから、人名すら不要になるのかも)。

 「故障」が白眉である。著者は冒頭からして物語の可能性について疑義を投げかける。神や正義で代替された大きな物語に包まれた因果関係を順につむいだり、あるいは逆につないだりしても、語るに足るほどのお話は既に尽くされているという。

 むしろ、後付けて整合性をとための神や正義よりも、ちょっとした事件やきまぐれな事故こそが、これまで正常だと思われてきた人生が実はフェイクだということを暴いたりする。そうあるべく生きてきた"常識"こそが、本当は所与の立場によって作られたものだと気づいたとき、どう行動するか? これは見ものである。

 「立場が人を作る」有名な話として、スタンフォード監獄実験がある。普通の人に、囚人と看守の役を割り当てたら、囚人はいかにも囚人らしく、看守は看守のように振る舞いだし、その「演技」が次第にエスカレートしていくという話である。演技が人を乗っ取ったとき、乗っ取られる前の人生がどう見えるか? と考えると面白い。

 「巫女の死」は有名な神話が、伏線だらけのミステリーとして化ける様を味わえる。父を殺害し、母を姦淫するという神託を知らぬままに実行してしまうオイディプス伝説を下地に、その神託を行った巫女、謎かけするスピンクス、母であり妻であるイオカステという女たちの口を借りながら、一つの事実が何度も何度もひっくりかえる。

 それはあたかも、芥川の藪の中の逆を行くようである。あれは、一つの事実に複数の解釈を語ったものだが、「巫女の死」は一つの解釈(伝説)が複数の事実によって支えられており、たまたま残った一つについてわれわれが悲劇として読んでるに過ぎないことが分かる。

 グロテスクかつ計算され尽くした語りのデュレンマットに知り合えて感謝。戯曲『物理学者たち』が一番面白いらしい、探してみよう。


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『秒速5センチメートル』、『細雪』、成長期限定アイドルなど、「さくら」をテーマにした読書会

 お薦め本を持ち寄って、まったり熱く語り合う読書会、それが[スゴ本オフ]

 本に限らず、映画、音楽、ゲームなんでもあり。物理本、電子本、CD、DVD、Blu-ray、youtubeを流しながら、好きな作品を、好きに語る。本の趣味は人の趣味だから、”好き”が重なる人とは合いそうだ。そんな人を見つけ、その人が薦める「わたしの知らない作品」を見つける。本を介して人を知り、人を介して本に会う。

 今回は、「さくら」がテーマ。カードキャプターからスクールアイドル、花や人名、イメージや象徴されるものまで、様々な「さくら」の作品が集まったなり。折しも、午前中のセガフェスで[新サクラ大戦]が発表されたのが面白い(完全新作だそうな)。

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「さくら」といえばカードキャプター

 まず、わたしのイチオシは、『葉桜と魔笛』。太宰治の最高傑作といえばこれ。余命わずかな妹と、それを思いやる姉の話。

 恋いも男も知らないまま、妹は死んでいくのか? 不憫に思っていたら、恋文の束が出てくる。それは、見知らぬ男から妹へ宛てたラブレターだった。それだけでなく、二人の関係はドロドロとした深い仲で、別れ話まであった。姉は、手紙の束を焼き捨てた後、偽の手紙を書くのだが……

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「さくら」お握りが可憐すぎて食べるのがもったいなかった(でも食べた)

 傑作の理由は、これが姉の昔語りという枠物語になっているところ。「誰が嘘をついているのか」を替えると、二重底にも三重底にも化けるのがすごい。妹への羨望と心配がないまぜになった姉の心情と、少女の性愛への憧れと欲望がムラムラと滲み出ていて良い。青空文庫で無料で読めるが、ここは美麗なイラスト入りの立東舎を推す。

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『秒速5センチ』は、映画→小説→漫画の順が鉄板

 もう一つは、新海誠『秒速5センチメートル』なり。映画、小説、漫画とあるが、この順がいい(理由は後述)。これは、あまりにも完璧な初恋に呪われた男の話。

 映画は3編にわたるオムニバス形式で、初恋が記憶から思い出となり、思い出から心そのものとなる様を、驚異的なまでの映像美で綴る。初恋の痛みと「ここじゃない」感を引きずっている人、仕事で磨耗している人が観ると、大ダメージを受ける、危険なアニメである。映画のラストがあまりにも…あまりにであり、山崎まさよしの主題歌を聞くだけで涙ぐむという呪いにかかる。

 この呪いを解くために、小説を読むと、ラストで少し救いがある。さらに漫画を読むと、驚愕の後日談で、さらに救われる(じっさい、わたしが救われた)。強力にお薦めする(これは、[はてなブックマーク]の iishun さんのコメントで知った、ありがとうございます!)なお秒速5センチメートルとは、「桜の舞い落ちるスピード」。

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「さくら学院」とガルシア=マルケスを結ぶもの

 読みたい! と思ったのはズバピタさんが紹介した、ガルシア=マルケス『わが悲しき娼婦たちの思い出』なり。いきなりマルケスに行くのではなく、まず「さくら学院」を紹介する(テーマでもあるからね)。日本には珍しく、ファンとの接触(握手会など)は一切無いという。物理的に触れることができない「成長する偶像」がさくら学院の持ち味らしい。

 そこから、リビドーが満載なのに、徹底的なプラトニックラブを貫く『わが悲しき娼婦たちの思い出』を持ってくる。老いてなお女を求め、14歳の処女を買う男の話なのだが、(絶倫なのに)行為に及ぶことなく、その成長をこっそり見守る……

 おや? これ、全裸で横たわる生娘と添い寝する『眠れる美女』(川端康成)そっくりやん、とツッコミを入れると、あにはからんや、『わが悲しき』の扉にその冒頭が書かれている! マルケスは川端に触発されてこれを書いてたんだ。たしかにこれは、若さとか、桜の盛りといったループする「触れられない偶像」の話ですな。

 既読だが面白い! と思ったのは、すぎうらさんの『推定少女』と『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』のご紹介(著者が「桜」庭一樹だからという発想もオモシロイ)。型にはめよう、従わせようとする大人社会に対し、それに抗い、闘いを挑む少女の構図だ。共感して、「分かっている大人もいるんだよ」という視点でみるけど、この作品はそれらすべてを拒否するのが凄い。

 子どもが生き延びるためには大人になる必要がある。だが、それは勝利なのか。わが娘を大人に育てるのが親の目的ならば、すなわち、「子ども」を「子どもでない存在」にするのが親の目的だとするならば、それを否定したかった主人公の父親は、娘を××せざるを得ないのではないか……と腑に落ちる。

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谷崎『細雪』は厚いけど上善如水です

  • 『新 日本の桜』写真/木原浩 解説/大場秀章・川崎哲也・田中秀明(山と溪谷社)
  • 『山と食欲と私 第7巻』信濃川日出雄(新潮社 バンチコミックス)
  • 『葉桜と魔笛』太宰治(青空文庫、立東舎ほか)
  • 『秒速5センチメートル』新海誠(映画/小説/漫画)
  • 『桜の森の満開の下』坂口安吾/近藤 ようこ(青空文庫、講談社、岩波ほか)
  • 『梶井基次郎全集 全一巻』梶井基次郎(ちくま文庫)
  • 『推定少女』桜庭一樹(角川文庫)
  • 『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』桜庭一樹(角川文庫)
  • 『君がここにいるということ: 小児科医と子どもたちの18の物語』緒方高司(草思社)
  • 『薄桜記』五味康祐(新潮文庫)
  • 『わが悲しき娼婦たちの思い出』G・ガルシア・マルケス(新潮社)
  • 『細雪』谷崎潤一郎(中公文庫)
  • 『めぞん一刻』高橋留美子(小学館)
  • 『がっこうのおばけずかん』斉藤洋・作 宮本えつよし・絵(講談社)
  • 『さくらひらひらとんぴんぴん』わたりむつこ/ましませつこ(福音館書店)
  • 『カードキャプターさくら』CLAMP(講談社)
  • 『さくら学院祭☆2017』さくら学院(Blu-ray)
  • 『眠れないほどおもしろい恋する古文』板野博行(三笠書房)
  • 『眠れないほどおもしろい百人一首』板野博行(王様文庫)
  • 『ニューヨークで考え中』近藤聡乃(亜紀書房)
  • 『A子さんの恋人』近藤聡乃(亜紀書房)
  • 『進む、書籍PR! たくさんの人に読んでほしい本があります』奥村知花(PHP研究所)
  • 『女系家族』山崎豊子(新潮文庫)
  • 『楽園 Le Paradis 第26号』楽園編集部
  • 『悪童日記』『ふたりの証拠』『第三の嘘』アゴタ クリストフ(ハヤカワepi文庫)
  • 『冗談』ミラン・クンデラ(岩波文庫)
  • 『不滅』ミラン・クンデラ(集英社)
  • 『存在の耐えられない軽さ』ミラン・クンデラ(集英社)
  • 『ゲーデル、エッシャー、バッハ』ダグラス・ホフスタッター(白揚社)

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『楽園 Le Paradis』が収穫でした。幾花にいろ先生は神!

 次回のテーマは、「のりもの」。

 クルマやバイク、飛行機といったエンジンのついたものが思いつくが、話していくうち発想が広がる。絨毯を「のりもの」としたファンタジーがあるし、船が「のりもの」なら、湯船だってそうだ。もっと広げると、この大地だって、宇宙「船」地球号になる。

 音楽に「ノッ」て気分を上げるならお気に入りのプレイリストを紹介すればいい。サーフボードやスキーに「乗る」ならスポーツになるし、「賭るか反るか」ならバクチになる。わたしのような助平は「男に乗る」「女に乗る」で艶談に引き込みたい。時流に乗っても、相談に乗っても、新聞や雑誌に「載る」のだってアリ。あなたのお薦めの「のりもの」、ぜひ教えてくださいませ。

 最新情報は、[スゴ本オフ]をどうぞ。

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どうやって本を探すか? ひとつの回答「現代思想の316冊」

 「どうやって本を探している?」とよく聞かれる。

 もちろん、書店や図書館で出会ったり、ネットやクチコミを求めることはやっている。問題なのはそこからで、そうした自分のアンテナの届きにくいところにあって、なおかつ私好みの/私が読むべき一冊は、どのように圏内にするか?

 ひとつの回答がこれ。

 『現代思想』の4月号で、「現代思想の316冊」として、哲学から社会学、経済学、人類学、医療・福祉、宗教、美学、数学、教育学、エスノグラフィ、メディア論など、様々な思想から重要書を選び出たブックガイド。その分野に興味を抱く大学新入生向けという触れ込みだが、手軽な文庫新書から、ゴツいやつまで取り揃えている。

 もちろんこれを「ブックガイド」として読むのもありだ。興味のあるキーワードから読みたくなった本を手にしてみればいい。あるいは、未読だが気になっていた本や、既読の本がどのように紹介されているかを確かめながら、再読するのもいい。

 だが、これを「読書人ガイド」として使うのだ。つまり、興味のあるキーワードを担当している「人」や、既読本を紹介している「人」を逆引きする形で利用するのである。

 たとえば、カストロ『食人の形而上学』は未読だが強く惹かれていた一冊だが、これを「人類学」の章で紹介している「人」が、一橋大学教授の春日直樹氏である。そこから彼のWikipediaへ飛んで『科学と文化をつなぐ:アナロジーという思考様式』を見つける。これも読みたくなってくる。twitterで検索すると、彼についてつぶやく「人」を見つけることができ、さらにその人から面白そうな本を手繰ってゆく。

 あるいは、知っている「人」を見つけたら幸いだ。この場合の「知っている」は、知人という意味ではなく、その人のブログや本を読んだことがあるという意味だ。その「人」がお薦めする「本」を手にすればいい。わたしの場合は、小島寛之氏のブログ(hiroyukikojimaの日記)を読んでいたので、「数学」の章はフルコース状態でしたな(そして積読状態となっている『証明と論理に強くなる』に再び出会うことになる)。

 つまり、あなが興味のある「本」→それを紹介する「人」→その人が書いた/紹介する本→その本や人について語る「人」......といった繋がりで、本・人・本・人と芋づるにする。本をダシにして、人を探す。そうすることで、あなたのアンテナを何重にも、何倍にも増幅させることができる。ぜひ、試してほしい。

 良い本で、良い人生を。

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