『わたしが知らないスゴ本は、 きっとあなたが読んでいる』という本を書いた

心を揺さぶり、頭にガツンと食らわせ、世界の解像度を上げる本は、確かにある。

読前と読後で自分を一変させる、すごい本(スゴ本)だ。本から得られた知は、行動を変え、習慣を変え、人生を変える。これホント、なぜならわたしの身に起きたことだから。そんな「人生を変える運命の一冊」は、実は何冊もある。

このブログは、そうした本を中心に紹介してきた。これに加え、どのように探し、どう読み、何を得て、どんな行動につなげたかを本にした。タイトルはブログと同じ、『わたしが知らないスゴ本は、 きっとあなたが読んでいる』だ。

ここには、あなたにとっての「運命の一冊」を見つける方法を書いた。あなだけのスゴ本と出会うパーフェクトガイドだ。3行でまとめると、こんな感じ。

  • 本を探すのではなく、人を探す方法
  • お財布に優しく(ここ重要)、スゴ本に出会い、見合い、結婚する方法
  • (良書なのは分かってるのに、なかなか読めない)運命の一冊をモノにする方法

自分のアンテナには限界がある。自分のアンテナ「だけ」を信じ、壁を築き穴を掘った奥で王様を気取る。そんな自分の限界に気づき、抜け出るためのやり方も書いた。自分に囚われた読書から自由になる方法だ。

付録もある。脳天を一撃する斧となるような劇薬小説やトラウマンガ(トラウマになるマンガ)を24冊紹介している。

読書は毒書だ。「危険な読書」といえば、BRUTUSが特集しているが、ヌルい。本当に危険な読書とは何かをお見せしよう。読み終えたら、吐き気や悪寒とともに、「私は生きてる! これが本でよかった」と強く感じること請け合う。

もっとスゴいのをご存じなら、ぜひ教えていただきたい。劇薬本に限らず、『スゴ本』の本や、このブログで紹介する本を聞いた上で、「それがスゴいなら、これは?」と言いたくなる作品だ。それは、あなただけが知っている。

なぜなら、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから。

Sugohon

 

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第1章 本を探すな、人を探せ

 

運命の一冊を読んだ人を探す

  • 書店は「人を探す場」である
  • 「好き」があなたと重なる「人」こそが、あなたの知らないスゴ本を読んでいる
  • いい作家は、いい本を読んでいる
  • 雑誌の本の特集を押さえる
  • あなたが知らないスゴ本を読んでる「人」はネットにいる
  • 本を読まない人が買う「ベストセラー」を利用する
  • 読書会で「人」を探す
  • スゴ本オフで「人」を探す
  • グループ・ブック・ハンティングのすすめ
  • 探した人を追いかける

アウトプットすると人が見つかる

  • 「自分」の範囲なんてたかが知れているし、世界はもっと広くて深い
  • 単なる「よかった」は、何も言ってないに等しい

 

第2章 運命の一冊は、図書館にある

 

本屋は出会い系、図書館は見合い系

  • 書店に行く前に、気になる本をまとめて一手に取れる場所に行こう
  • 「あとで読む」は、あとで読まない
  • 直感は裏切ることがあるけれど、違和感は裏切らない
  • 運命の一冊は、千冊に一冊

図書館を使い倒す

  • 図書館に行こう、書棚を徘徊しよう
  • カウンターまわりをチェックしよう
  • 背表紙が斜めに歪んでいるのが「おもしろい本」
  • とにかく借りる、本に部屋の空気を吸わせる
  • 知りたいことを調べてもらう
  • コラム 「ネットで検索すれば」「本屋で探せば」では足りない
  • 積極的に自分を放置しよう
  • 図書館を身体化する

本は「買う」ものか

  • 「身銭を切ってこそ、本の目利きができる」の落とし穴
  • 「買っただけで満足した本の山」に埋もれて自己満足に浸っていないか?
  • 「本を手にして読む」というコストを支払うことを厭わない
  • 五万円の本を五千円で手に入れる方法
  • 本棚を無限にする方法

 

第3章 スゴ本を読むために

 

『本を読む本』で『本を読む本』を読む

  • 読書術は盗むもの
  • 「決まった読みかた」なんてない、けれど「うまい読みかた」はある
  • 分析読書とシントピカル読書
  • 『本を読む本』を批評する
  • 『本を読む本』に致命的に足りないもの
  • 「読む」ためには「読まない」選択肢が必要

遅い読書

  • 速読ができる人は遅読もできるが、逆は不可
  • 書き手の意図に沿うためにも、一定のリズムで読み進める
  • 再読・精読すべき一冊にたどり着くには、どうしても数が必要

速い読書

  • それは「読書」ではなく「見書」では?
  • 「あたり」を得るためには見書も有効

本を読まずに文学する「遠読」

  • 精読の限界を超えるには
  • 本はあらゆる関係性の結び目としてなりたつ

プロフェッショナルの読みかた『ナボコフのドン・キホーテ講義』

  • 「大ボリュームの古典を読み通すオレ様」までもこき下ろされる
  • 「現実らしさ」「物語らしさ」とはなにか

『読んでいない本について堂々と語る方法』そのものに隠された罠

  • 本書の「上っ面」
  • 本書の「裏面」と、トラップ
  • 読書とは何か――読書論
  • 読者とは何か――読者論
  • 書物とは何か――書物論
  • 最大のトラップ
  • もっと気楽に「読む」?

「なぜ小説を読むのか」を考えると、もっと小説がおもしろくなる

  • 一回一回の読みは、読み手の技量と創造性に対する挑戦『小説のストラテジー』
  • 鼻につくが、身にもつく小説の読み方指南『フランケンシュタイン』×『批評理論入門』
  • 小説家のバイブルは、読者のバイブルにもなる『小説の技巧』

だれかの読み方をマネする

  • 読み巧者を探す『半歩遅れの読書術』
  • 「読書はつねに編集的な行為だ」松岡正剛の読書術
  • すぐ効く本は、すぐ効かなくなる
  • 「棚差し」を見る技術
  • マーキング読書法
  • 「本は味わうものではなく、そこから情報を摂取するもの」立花隆の読書術
  • 読書は「競争」か?『つながる読書術』

「なぜ読むか」「読むとは何か」を考える

  • 「読むとは何か」への歴史視点『読書の文化史』
  • 同じ本を二度読むことはできない『読書礼讃』
  • 「そのときの自分を変えるような本」こそ読むべき『読書の歴史』
  • 『それでも、読書をやめない理由』は、世界に情報が溢れているから
  • 電子化できない読書体験とは『本から引き出された本』
  • いきなり古典に行く前に

 

第4章 書き方から学ぶ

 

文章読本・虎の巻

  • 人を説得するために、いかに書けばいいか『レトリックのすすめ』
  • マスターしたい12の文彩
  • 文字数よりもリズムが重要
  • レトリック読書案内
  • 事実と意見は分けて書け『理科系の作文技術』

おもしろい作品の「おもしろさ」はどこから来るのか

  • おもしろい漫画には「構造」がある『マンガの創り方』
  • 「書く技術」に精通すると、「読む技術」が上達する『小説作法ABC』
  • 解体することで、どのように物語られているかを理解する『キャラクター小説の作り方』

名文で言葉の「型」を練習する

  • ハート抉る寸鉄の蔵出し『名文どろぼう』
  • 一度読んだら、一生忘れられない言葉たち『すごい言葉』
  • 聞いた瞬間、心に届く名コピー集『胸からジャック』
  • スーパードライな箴言集『心にトゲ刺す200の花束』
  • 型を破るために、型を身に付けろ『ポケットに名言を』

 

第5章 よい本は、人生をよくする

 

人生を破壊する「怒り」から自由になる

  • 問題を抱えていると、本に呼ばれる
  • 怒りの本質を知る『怒らないこと』
  • 怒りの根っこには、「私が正しい」という思いが存在する
  • 怒りを「観る」
  • 『怒らないこと』を繰り返し実践する『怒らない練習』
  • 「怒り」は人類共通の悩み
  • 「怒り」を延期させる方法
  • 「私は何も間違ったことをしていない」という人のために
  • 読書で人生は変わる

子どもに「死」と「セックス」を教える

  • 「死とは何か」を教える『死を食べる』
  • 「死とどう向かい合うか」を伝える二冊
  • 「生」と「死」の漢字から学ぶ
  • 「セックスとは何か」を教える『ぼくどこからきたの?』

子育てはマニュアルに頼れ

  • 子育ての目的は「子どもを大人にすること」
  • 良い育児書、悪い育児書を見分ける方法
  • 子どもに幸せをどうやって教えるか『子どもへのまなざし』
  • 比較対象は「昔のわが子」であり、ほかの子ではない
  • 親のいうことは聞かないが、親のすることはマネをする『子どもを追いつめるお母さんの口癖』「なんでそんなことしたの?」ではなく「本当は、どうしたかったの?」『女の子が幸せになる子育て』

生きるとは食べること

  • ヒトは料理で進化した『火の賜物』
  • 人は脳で食べている『味わいの認知科学』
  • 料理の常識を変える『料理と科学のおいしい出会い』
  • 「おいしい」はだませる『食品偽装の歴史』
  •  真剣に食べる=真剣に生きる

「正しい死に方」を考える

  • ピンピンコロリ=「良い死」?
  • 「良い死」「悪い死」とは『現代の死に方』
  • 医者は、自分に対してやってほしくない医療を、患者に対しておこなっている
  • 「寝たきり老人」が日本にはいて、欧米にはいない理由『欧米に寝たきり老人はいない』
  • ポルスト(POLST)というデスハッキング
  • 先生ご自身がこうなられたら、どういう処置を望みますか0『医者には絶対書けない幸せな死に方』
  • 生き地獄ならぬ長生き地獄『死ねない老人』
  • 「安楽死」の値段『安楽死・尊厳死の現在』
  • 「死ぬ義務」が発生する恐れ
  • 死をハッピーエンドにするために

二〇年前の自分に読ませたい珠玉の一二冊

  • 辛いときに寄り添ってくれる『なぜ私だけが苦しむのか』
  • 人類の叡智を結集した一生モノ『アイデア大全』
  • あらゆる問題は既に検討されている『問題解決大全』
  • 親になったら絶対に読みたい『子どもへのまなざし』
  • 自分に嘘を吐くのをやめる『自分の小さな「箱」から脱出する方法』
  • 世の中の仕掛けを知る『プロパガンダ』
  • 料理は自由であることを教えてくれるバイブル『檀流クッキング』
  • 自分の人生を殖やす『ストーナー』
  • 「世界をつかむ」喜びを味わう『銃・病原菌・鉄』
  • 人生の手遅れ感の予行演習『タタール人の砂漠』
  • 結婚が捗る『アンナ・カレーニナ』
  • 最高峰の小説で、濃厚かつ強烈な体験を味わう『カラマーゾフの兄弟』

 

特別付録 禁断の劇薬小説

 

LEVEL 1

  トルストイ 『イワン・イリイチの死』など11冊

LEVEL 2

  ケッチャム 『隣の家の少女』など7冊

LEVEL 3

  サド 『ジェローム神父』など6冊

 

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女性の声を奪う力と、それに抗う力『舌を抜かれる女たち』

Sitawo

表紙はピカソ、「ピロメラを犯すテレウス」だ。テレウスは、義理の妹のピロメラを人気のない場所へ連れ込み、レイプする。終わった後、ピロメラは、テレウスに告げる。

「もう恥じてなどいない、私はこのことを広言する。機会があれば、人前で誰にでも言うつもりです。天もそれを聞くでしょう、もし天に神がおいでなら神も私の言うことを聞かれるでしょう」

告発を恐れたテレウスは、ピロメラの舌を切り、置き去りにする。オウィディウスの『変身物語』の一幕だ[wikipedia:ピロメーラー]。このように、女を黙らせ、女の言葉を軽んじ、権力から遠ざけようとする動きは、古来からあったという。そのメカニズムを告発したのが、『舌を抜かれる女たち』になる。

著者はケンブリッジ大教授のメアリー・ビアード、元は講演録で、昨今の MeToo 運動を受けて大幅に加筆したもの。古代ギリシャ・ローマからの文芸や美術をひも解きながら、女性の声を奪い、発言力のある女性を貶める伝統を炙り出す。

その伝統は、現代社会にも地続きになっている。

女性の声の力を奪う

たとえば、次の文章は、どちらの性を非難しているか、明らかだという。

  • キーキーうるさい
  • めそめそ泣き言をいっている
  • ぐずぐず愚痴をこぼす

一般に女性は、男性を比べ、声域が高い。その高い声が感情的に聞こえるため、演説に向かないとされてきた。

しかし、そう考えさせるまさにその背景に、女性を権力から遠ざけようとする動きがあったという。著者は、古典文学を参照しながら、低い声の威厳を強調したり、甲高い声の臆病さを繰り返すことで、公の場での女性の発言を封じてきたというのだ。

最近読んだ『アレクサンドロスとオリュンピアス』にも、同様の発言があった。アレクサンドロス大王の母・オリュンピアスについてだ。

彼女と敵対していたアンティパトロスが死に際に、「女には決して王国を支配させてはならぬ」と述べたという。政敵を攻撃するプロパガンダ説もあるが、真偽はともかく、この言葉が現代にまで遺っている事実の背景に、権力の場から女性を排除しようとする思考が横たわっているのかもしれぬ。

女性の力を貶めるシンボル―――メデューサの首

女性の言葉を軽んずる歴史の中で、それでも力をつけてきた女性をどうやって貶めるか?

その文化的なシンボルとして、メデューサが紹介される。宝石のように輝く目を持ち、蛇の髪をした、見た者を石に変える伝説の女だ。ペルセウスによって首を切断されることになるが、これは、女がパワーを持った時の破壊的な危険性を男が制圧するという強力なシンボルだという。

本書では、ルネサンスの芸術家・ベンヴェヌート・チェッリーニによる彫像を紹介する。

ペルセウスは右手に剣を構え、左手でメドゥーサの首を掲げ、その遺体を踏みつけにしている。切断された首からは何やらが垂れており、英雄の勝利の瞬間を見るものもいれば、サディスティックなミソジニーと評する者もいる。

Perseus

From Wikimedia Commons, the free media repository:Perseus

次に、この生首のモチーフが利用されている例を紹介する。

女性の権力を貶めようとする意図のもと、アンゲラ・メルケル独首相や、イギリスの内務大臣テリーザ・メイが、メデューサの生首として描かれて、SNSで拡散する様子を紹介する(この2人はミケランジェロのメデューサのコピーとして描かれている)。

最もあからさまなものは、[ヒラリー・クリントンの例]だ。トランプがペルセウス、ヒラリーがメデューサとして、この彫像の通りに描かれている。

女性を沈黙させ、権力の場所から排除しようとする伝統は根深い。

女性の声を取り戻す

では、どうすればいいのか?

本書では、マーガレット・サッチャーが、声を低くするためボイストレーニングを受けていたエピソードを紹介する。甲高い声に威厳を加えようとしたのかもしれない。女性が男性の「ふり」をすれば手っ取り早いかもしれないが、それでは問題の本質は未解決のままだという。

サッチャーのボイストレーニングの前と後

また、「男と女は使っている言語が違う」や、「男は火星人、女は近金星人」という便利な方向に逃げることを戒める。結局、男と女は違うのだからと言ったところで、何も解決したことにならないのだから。

著者は、もっと深く、「権威のある話し方とはどういうものか」「それはどのように成り立つのか」まで掘り下げる。そうすることで、女性の声を不当に貶めている問題を表面化させることができるという。著者はさらに、こう加える。

権力とは何か、何のためのものか、その大小をどうやって測るべきか、そういうところから考えていかなければならない。別の言い方をすれば、女性が権力構造に完全には入り込めないのなら、女性ではなく、権力のほうを定義し直すべきなのです

ピロメラとテレウスの話には続きがある。

ピロメラは舌を切られ、話すことができなくなったが、機を織る才はあった。そのため、自分がされたことをタペストリーを織り込み、テレウスの悪事を告発する。女性の声を奪おうとする力は古来からあった。一方で女性は、口を封じられたままではないのだ。

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すべての歴史は現代史である『日本近現代史講義』

Nihonkingendai

これは面白かった! 第一線の歴史学者による14講義。

「歴史の本」というと、教養マウンティングのWikipediaコピペか、イデオロギーまみれのチェリーピッキングが多いように見える。そんな中、歴史学者による実証的な手ほどきはありがたい。

過去を振り返るとき、わたしがよくやる誤りは、いま分かっている情報で判定しようとする姿勢だ。

たとえば、1941年のアメリカに対し、開戦を踏み切ったことについて。原油の依存先であり、圧倒的な国力差であるにもかかわらず、なぜ戦いを挑んだのか?

認知バイアスから見た対米開戦の理由

敗戦という事実から、それを「愚かな行為」と判断するのはたやすい。また「軍部の独走」など分かりやすい悪者を吊るし上げて思考停止するのもたやすい。しかし、そうした予断で向かってしまうと、貴重な歴史の証言から得られるものは少ないだろう。

そんなわたしの予断を、本書の第8章「南進と対米開戦」(森山優)が啓いてくれた。

日中戦争の泥沼化に伴い、態度を硬化する英米との対立解消に向けて、当時の日本には3つの道があったという。

  1. 武力で蘭印の資源地帯を占領する(南進)
  2. 外交交渉で英米の禁輸解除にこぎつける
  3. 何もせず事態の推移に任せる(臥薪嘗胆)

「1」は日本への資源輸送ルートにフィリピンとグアム(すなわち米領)にさらすリスクがあり、アメリカからの攻撃を受けるリスクが最大化する。「2」は中国からの撤兵問題で大幅譲歩が前提であり、国内の反発が必至になる。そして「3」の場合、石油が数年で枯渇して、そこで攻められれば抵抗もできない。

1945年を知っているわたしからすると、臥薪嘗胆の「3」がベターに見える。だが後知恵にすぎぬ。なぜ「3」でなかったのか?

それを選ぶと、「損を確定してしまう」ことになるからだ。臥薪嘗胆は、明るい展望がない。石油が枯渇していく状況で、「あの時だったら戦えたはず」と非難される可能性すらある。

一方、外交と戦争は、わずかでも希望を与えてくれる選択肢だったという(たとえ、甘い見通しと粉飾に満ちた数字で彩られていたとしても)。

「追い詰められると一発逆転に賭けたくなる」発想は、プロスペクト理論と呼ばれる。いわゆる損切りによりマイナスの継続を止めるより、大きなリスクを負ってでも、勝利を掴もうとする。さらに、この発想を後押しするエビデンスを過大に評価し、損切りを過小に見たがるバイアスが生じる。

確かに、当時の日本は「3」を選ばなかった。そして、それは誤りだった。だが、その理由を、私たちとは異質な思考様式を持つ人による愚かな選択と片づけるのは、もっと誤りだろう。

歴史認識の難しさと歴史認識「問題」の歴史化

歴史認識の難しさを垣間見る小論もある。

歴史は、すでに起こった過去のことだから「確定している」と考える人がいる。過去は変えられないから、教科書は一つしかない、という考え方だ。

だが、過去を振り返るとき、どこから眺め、何に焦点を当てるかによって、描かれる濃淡が変わる。歴史をどのように記述するかは、過去を振り返るそれぞれの時代の状況や立場が色濃く反映されるからだ。「すべての歴史は現代史である」という言葉が意味するものは、まさにそれだ。

この難しさは、序章「令和から見た日本近現代史」(山内昌之)によく見える。日中歴史共同研究における南京大虐殺の事例が紹介されている。

山内氏自身も参加した研究で、日本側の委員は、死者数について20万人を上限とし、4万人説や2万人説もあると諸学説を紹介する一方、中国側委員は一致して30万人以上だと断定して譲らなかったという。

山内氏は、大躍進や文化大革命、天安門事件での膨大な死者数が公式発表されていないことに触れ、こう述べる。

歴史による同胞の悲運や実数さえ公表していない国が、南京事件など特定の歴史事象について数字を明快に示すのは、歴史を史実性ではなく政治性から見るからだ。

歴史家としてファクトに向き合おうとする恨み節が聞こえてくるが、こうした交渉も含めて「歴史」になるのだろう。

ある歴史認識が問題視されるとき、対象となる事象そのものだけでなく、なぜ問題視されるかも含め、把握したい。歴史認識「問題」について、日本が何をしてきたか、それがどう評価されたのかも含めて、歴史になってゆくのだから。歴史を政治性から見るとき/無視するとき、その行為自体がまた、歴史の審判に委ねられるよう、残しておきたい。

他にも日韓における歴史認識問題について、経済協力支援金の行方から見た論点や、韓国エリートが火消しに走らなくなった理由など、興味深い論考もある。

第一線の歴史家による、鋭い考察とバランス感覚に優れた講義録。

 

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戦争が子どもを怪物に変える『ペインティッド・バード』

戦争が子どもに襲いかかり、子どもが怪物に変わっていく話。人間が、いかに残酷になれるかを、嫌というほど教えてくれる。

あまりのグロさに「劇薬小説」として認定した『ペインテッド・バード』が映画になった。

Paint

©2019 ALL RIGHTS RESERVED SILVER SCREEN ČESKÁ TELEVIZE EDUARD & MILADA KUCERA DIRECTORY FILMS ROZHLAS A TELEVÍZIA SLOVENSKA CERTICON GROUP INNOGY PUBRES RICHARD KAUCKÝ

小説は、エグいのに目が離せない、手が離れない、強い吸引力をもつ。TIMES誌の「英語で書かれた小説ベスト100」に選ばれている。

読む地獄

戦争は大衆を襲う狂気だ。身寄りを失った10歳の男の子が向かう疎開先の人々は皆、本能に忠実だ。むきだしの情欲や嗜虐性が、目を逸らさせないように突きつけられる。目撃者は主人公なので、読むことは彼の苦痛を共有することになる。

体験と噂話と創作がないまぜになっており、露悪的な「グロテスク」さがカッコつきで迫る。日常から血みどろへ速やかにシフトする様子は、劇的というよりむしろ「劇薬的」。スプーンでくりぬかれた目玉が転がっていく場面は、忘れられないトラウマとなるだろう。白痴の女の膣口に、力いっぱい蹴りこまれた瓶が割れるくぐもった音は、ハッキリ耳に残るだろう。

読んだものが信じられない目を疑う描写に、口の中が酸っぱくなる。耳を塞ぎたくなる。

ペイティッド・バード=異端の鳥

ペインティッド・バード(彩色された鳥)は、最初は遊びとして、次はメタファーとしてくり返される。生け捕りにした鳥を赤や緑色に塗って、群れへ返す。鮮やかに彩色された鳥は、仲間の庇護を求めていくが、群れの鳥たちは「異端の鳥」として攻撃する。

その鳥は、なぜ仲間が襲ってくるか分からないまま引き裂かれ、墜落する。主人公は浅黒い肌、漆黒の瞳を持つ。金髪碧眼のドイツ兵がうようよいる戦地では、「反」ペインティッド・バードになる。

暴力に育てられた子どもは暴力を拠りどころとして生きる。自分が壊れないために、自分を欺く。同時代の戦時下をしたたかに生き抜く子どもの話だと、アゴタ・クリストフ『悪童日記』を思い出す。これは、狂った現実を生き抜くために、受け手である自身を捻じ曲げる話。辛い過去や悲惨な出来事は、それを引き受けるキャラクターを生み出し、そいつに担わせる。

この、過去を偽物にしないために、自分を嘘化するやり口は、『悪童日記』だとよく見通せる。続刊の『ふたりの証拠』『第三の嘘』と追うごとに、過去を否定する欺瞞が詳らかになるからね。『ペインティッド・バード』では、そんなあからさまな相対化はない。

だが、それぞれのエピソードごとに別々の「主人公」がいたのではないか、と考えたくなる。

なぜなら、あまりにも悲惨すぎるのだ。

苛烈な虐待を受け続けると、普通は死ぬ。氷点下の河に突き落とされ、浮かび上がるところを押し戻され呼吸できない状態が続くと、溺れ死ぬ。真冬の森に放置されると、飢え死ぬか凍え死ぬ。だが、彼は生き延びる。次の章では誰かに助けられるか、まるでそんなエピソードは無かったかのような顔で登場する。これは、様々な死に方をしていった子どもたちの顔を集めて、この「彼」ができあがったんじゃないかと。

「彼」は著者に通じる。あとがきで幾度も「これは小説だ」と念を押したって、どうしても出自から推察してしまう。この本を出したせいで、彼は祖国から拒絶される。「ナチスのせいにしていた虐殺が、実は地元農民の仕業だった」ことを全世界に暴いたからだ。冷戦のあおりを受けて、親ソ的プロパガンダと扱われたり、反東欧キャンペーンの急先鋒と見なされたり、あちこちからバッシングを受け、命まで狙われるようになる。

全米図書賞や合衆国ペンクラブ会長など、きらびやかな経歴をまとっている反面、物理的・精神的にも攻撃されるさまは、『ペインティッド・バード』そのもの。プロフィールの最後で著者の"墜落"を知って、うなだれる。

このすさまじい小説が、映画化される(公式サイト)。邦題は『異端の鳥』。観た人によると、どうやら原作に忠実にしているらしい。アタマおかしいんじゃないかと思うが、作った人をは極めて正気に狂気を徹底的に撮っている。

予告編でキツさは伝わるかもしれぬ。これ、心の底から、モノクロ作品で良かったと思う。カラーだったなら、わたしの琴線が焼き切れるだろう。

第76回ベネチア国際映画祭では、あまりの残酷描写が賛否を呼び、途中退場者が続出する一方、スタンディングオベーションが10分間続き、ユニセフ賞を受賞したという。

日本での公開は、2020年夏だ。

 

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宇宙の果てから素粒子の奥への旅『ズームイン・ユニバース』

極大の世界で「果てしない宇宙」というが、観測可能な宇宙には果てがある。それは、ここから1027m先になる。これより向こうは、観測できないため、あるとかないとか分からない。ゼロを並べるとこうだ。

1,000,000,000,000,000,000,000,000,000m

いっぽう、極小の世界だと、人類の想像の限界のサイズになる。それは、10-35m)の「場」に満ちた世界になる。これより奥は、理論で説明できる範囲外となる。ゼロを並べるとこうだ。

100,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000 分の1m

「いま・ここ」から究極にまで遠ざかった場所から、限りなく近づいた世界まで、極大~極小を一冊にまとめたのが本書だ。ページを開くと、宇宙の果てから出発し、1/10ずつスケールダウンしながら、近づいてゆく。

極大から極小への旅

最初は、すごいスピードだ。138億歳の宇宙―――膨張する時空構造から、超銀河団、銀河団を横目にぐんぐん近づいてゆき、がらんとした星間空間にある暗黒物質、ガス、チリを通り過ぎ、重力の井戸に捕まって降りて行く先は太陽系だ。その一つの岩石惑星・地球に向かい、とある大陸の、とある生物の背中に降り立つ。

そこからスピードを落としてゆき、細胞表面に付着している細菌に近づき、細菌の奥へ進んでゆき、その単細胞のDNAらせんをくぐり、組み込まれている炭素原子を通り過ぎ、その原子内の無の空間を延々と進み、ついに陽子の最深部にたどりつく。

旅路の途中で出会うものにまつわるトピックが面白い。宇宙の誕生について、暗黒物質について、宇宙と原子の深い関係について、光の本質について、系外惑星について、潮汐現象について、生物の主成分が炭素である理由、「場」とは何かについて学ぶことができる。

それぞれのビジュアルや解説は、最新の科学で裏付けされており、宇宙物理学から天文学、地球科学、分子生物学、量子論などの領域を「スケール」で縦断していくのが楽しい。

この、スケールを変えながら宇宙を旅するというアイデアは、たとえば『パワーズ・オブ・テン』(チャールズ&レイ・イームズ,1977)が有名だ。美しい写真とイラストが豊富だが、いかんせんデータが古くなっている。『ズームイン・ユニバース』は、最新情報をアップデートし、見せ方を工夫したものになる。

ぐんぐん進む旅路に身を任せてページをめくるのもいいが、興味を引いた記事を熟読した後、自分で調べ始めるのもいい。

1013→109「惑星の多彩な顔」

わたしの眼を惹いたのは、1013mあたりの、系外惑星(太陽系以外の惑星)のトピックだ。

近年に発見された惑星を推計した膨大なデータがビジュアライズされている。これを見ると、たいていの惑星系では、太陽系に比べて主星にかなり近い位置に存在していることが分かる。言い換えるなら、内よりに星が集まったものが多く、太陽系の惑星は、典型的でないようだ。

さらに、地球に似た生命活動が可能な(ハビタブル)惑星も数多く見つかっていることが示されている。昔からよく言われる「奇跡の惑星」は、実は「ありふれた奇跡」に近いのかも……と思えてくる。

おそらく、「神に選ばれし人が住むこの星」を特殊だと思いたい宗教的バイアスがあると考える。キリスト教の宗教観が、大なり小なり宇宙論に影響を与えており、そこから逃れるには、こうしたエビデンスの積み重ねが必要なのかも。この辺りの経緯は、『系外惑星と太陽系』(井田茂、岩波新書)のレビューで考察している。

10-6→10-10「ミクロの扉の向こう側」

面白いというより、不思議な感覚を抱いたのが、タンパク質と炭素の関係だ。

ヒトの体には、60兆個の細胞があり、それぞれ80億個のタンパク質を持っているといわれている。そして、1つの細胞のミクロコスモスを拡大してゆく。「巨大分子の部屋」と称する解説では、タンパク質を「巨大構造物」として扱っている。そして、リボゾームがタンパク質を合成する過程を、オートメーション化された無人工場ラインで製造されていくかのように説明する。

物質がいかに生物となっていくかの精妙なプロセスや品質管理は、『タンパク質の一生』(永田和宏、岩波新書)で知った。だが、この旅ではさらにその奥、なぜタンパク質(というか生物の基本要素)が炭素で構成されているかまで進んでゆく。

本書によると、炭素原子は、あらゆる種類の分子を作るのに都合よくできているという。量子の言葉で言うなら、炭素原子の周りのちょうどいい場所で価電子の存在確率が高くなることで、他の原子と結合できる(すなわち、化学結合が作られる)というのだ。

この「都合のいい」「ちょうどいい場所」がなぜそうなっているかは、説明されていない。偶然の所産として扱われているが、そこからは物理学(と、ひょっとすると哲学)の領域なのかもしれぬ。

10-16→10-18……10-35「「場」が満ちた世界」

学校で習った分子や原子は、まだイメージが湧く。問題はさらにその先、原子核の奥の陽子や中性子と、さらに複合粒子の向こう側へ行こうとすると、途端に複雑になる。

これは、たいへん面白い。なぜなら、物質をどんどん分けてゆき、その源となるシンプルな本質を確かめようとする科学が、(現時点では)矛盾した状況に行き当たっているからだ。

たとえば、「鉄とは何か」という問いに、鉄なる物体を分割してゆき、もうそれ以上分割できない(atom)極微の物質として、原子を定義づけた。それが、調べてみると原子核には陽子と中性子があり、さらにそれらは複数のクォークで構成されている。

そこからは素粒子の世界で、分割できないと定義したものなのに、さらに「素」が付けられる。クォークは6通りの「フレーバー」を持ち、基本的な力(電磁気力、重力、強い力、弱い力)の作用を受けるという。さらに、6種類のレプトンやフェルミ粒子、ボース粒子のモデルが紹介されている。物質の源を探す旅なのに、恐ろしく複雑な構造になっている。

実験や観測で得られる、複雑で確率的な結果を説明しようと、ひもの振動や時空の泡のモデルが研究されている。スケールが違うだけで、2,000年以上前に議論された atom と同じやり方だ。言い換えれば、人は2,000年で10-35mまで届いたとも言える。

1027mより先は、そもそも観測する手段を持っていないが、10-35mより奥は、どうなるか分からない。人にとって、宇宙には果てがあるけれど、存在の究極がどうなるかは、これからなのかも。

極大マクロから極小ミクロへ旅する一冊。

Zoomin

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致死性ウイルス感染症が日常を浸食するプロセスを描いたSF

もし、致死性ウイルス感染症の封じ込めに失敗し、パンデミックになるとしたら、それはどのようなプロセスをたどり、わたしたちの日常生活に、どう見えるのか?

テレビやネットの情報は、日常の観点が少ない。

せいぜい、手洗いうがいの励行を促されるぐらい。緊迫した現場や、人種差別的な言動を目にして、不安だけは募るのに、この事態が進行していくと、わたしの日常をどうなっていくのか、想像するのが難しい。

では、最悪の場合、わたしたちの日常は、どうなっていくのか?

最悪が浸食する日常『復活の日』(小松左京)

小松左京『復活の日』が、参考になる。

生物兵器として開発されたMM-88ウィルスを搭載した小型機が、冬のアルプス山中に墜落する。やがて春を迎え、ウィルスは爆発的な勢いで世界各地を襲い始める。未知の致死性ウイルスに、人類はなすすべもなく倒れてゆく―――というお話だ。

小松左京は、日常が浸食されてゆくプロセスを描くのが非常に上手い。膨大なデータを元に、生々しく再現してみせる。

MM-88ウィルスの第一波は、かぜのような症状で、罹る人も少なく、じきに治まってしまう。だが、日を置かずに心臓発作で突然死する。人々は、映画俳優が事故死したニュースに触れたり、身近な人が突然死することに驚き、「ポックリ病」と名づける。

次は、循環器や呼吸器系にダメージを与える。感染後数日で高熱、咳、くしゃみ、関節痛の症状が出て、インフルエンザだと診断される。人々は、「チベットかぜ」と呼び、ワクチンを打ってもらうのだが、効かない。

「かぜにより」大相撲春場所が欠場となり、国会を開催する人数に満たなくなる。プロ野球の人数がそろわず、ゲームが成り立たなくなるニュースが相次ぐ。この頃に人々は気づく、電車が空いていることに(”国電”という表現に時代を感じる)。通勤ラッシュがなくなり、平日朝から山手線に座れるようになる。

冬が去り、春になれば、着ぶくれした人がいなくなり、電車は空くようになる。だが、この電車は空き過ぎている。時折、激しくせき込む人がいて、マスクをした人々は互いに身をすくめる。

不安に駆られて病院に行くが、どこも満杯だ。手当たり次第に電話をかけてもどこも話し中だ。とんでもなく遠い病院につながるが、出てきた声はつっけんどんに、「うちはやってません、先生が今朝亡くなりましたので。ええ、ポックリ病で」と答え、ガチャンと切られる……

もちろん、これは昔のSFだ。ウイルスが人から人へ感染していくうちに、世代を経て毒性が何十倍も激烈化したり、ウイルスを特定しようとすると別の様相に変化してしまうなど、現実的ではない側面もある。

しかし、そこには壊れてゆく日常が、きちんと描かれている。わたしたちが「普通」だと思える世界が、少しずつ蝕まれてゆき、異常に変化する。新聞やテレビで見る「あっちがわの異常」が、「いま・ここ」と地続きなことを思い知らされる。

閾値を超えるときの光景『天冥の標(救世群編)』(小川一水)

ある閾値を超えると、病院で収容できなくなった人々が溢れ、感染者・感染疑いに限らず、必要な処置を受けることができなくなる。そうなるために政府は手を打たなければならない。

中国では、わずか10日の突貫工事で巨大病院を建設したことがニュースになっている。

だが、臨時医療施設でも対応しきれないほどの人が発症した場合、どうなるか?

『天冥の標』の第2巻、「救世群編」が参考になる。

南海の孤島から始まった謎の疫病が文明を覆っていく過程を、ある日本人医師の視点から克明に描いた傑作だ。感染すると、肌が赤く爛れ、目の周りに黒斑が出るようになる。致死率は非常に高く、その特徴的な黒斑から、冥王斑と呼ばれるようになる。

伝染性が高く、患者の増加スピードと、隔離施設が追い付かないようになる。たとえ対症的であっても、何らかの処置は求められるし、医療従事者の目の届く所で一か所に集める必要がある。

反面、感染している人と、感染疑いがある人が数多く混在し、病院のような1つの場所で判別しようとすると、ウイルスを広めてしまう危険性がある。さらに、建設に従事する人が感染しはじめており、病院を建てているヒマはない。

ではどうするか? 政府は合理的な手段を取る。

感染者・感染疑いが多く集まっているのは、都市部だ。そうした人々を選別できる広い場所を確保し、その場所全体を検疫エリアとする。検疫エリアには治療用のテントを設営し、感染した人のレベルに応じて対症療法を行う。

その場所が、新宿御苑だ。大勢の老若男女が初詣の朝のように詰めかけているが、雰囲気はまったく異なる。問診、保険証、鼻腔粘膜採取と診断され、陽性と出た人はバスで国立競技場に運ばれる。そこで感染からの経過によってエリアが分けられ、感染経路や家族の有無が問診される。

感染初期のテントは騒がしい。絶望のあまり、逃亡者や自殺者が出るが、男性看護師と警官が何百人と待機しており、鎮静させる。感染より7日経過したテントでは……と続く。大勢の人を選別し、感染者に迅速な措置を施すためには、広くて分離できる場所―――スタジアム―――が有効だ(表紙参照)。

最悪シミュレーターとしてのSF

もちろん、こんな日常はありえない。荒唐無稽のお話だ。MM-88や冥王斑は、生化学的にはありえない振る舞いをするウイルスだろう。

では、実際に起きた歴史を振り返ると、どうだろう。1918年から翌年にかけて大流行したインフルエンザ「スペインかぜ」があった。だが、この出来事を現代のわたしの日常に当てはめるのは難しい。

あるいは、2003年に中国広東省からSARS(重症急性呼吸器症候群)が流行したが、原因の新型コロナウイルスは、わたしの生活圏にまで到達しなかった。どちらもあったことだが、日常がどう変わるか未知数だ。

だが、ありえない災厄が起きる時、日常がどのように浸食され、どんな異様な光景を見ることになるかは、SF作品からよく見える。言い換えるなら、いま目に映る光景がどれほど壊れているかを知りたいとき、そのバロメーターになるのが小説だ(冥王斑の物語は、人類がいかに差別的になれるかの、最悪の見本になる)。

科学は、そのウイルスがどんな振る舞いをするか、ある程度述べることができる。だが、それが社会や日常に、どのようなインパクトを与えるかは、政治経済や社会心理など、様々な要素が影響する。最悪シミュレーターとして、こうした架空の小説が助けになる。

ただし、事実は、しばしば小説を超えてしまうのだが。

Pandemi

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おっぱいに(科学的に)興味がある人必読 『哺乳類誕生』

おっぱいとは何か?

この問いに対し、人文科学からたどったのが『乳房論』だ。絵画、文学、宗教、政治、ファッション、医療、ポルノの斬り口から、[乳房をめぐる欲望の歴史]を描き出している。

いっぽう、自然科学からたどったのが本書『哺乳類誕生』だ。遺伝学、分子生物学、獣医学、生物工学、古生物学の斬り口から、乳房に至る進化の歴史を描き出している。

おっぱいで子どもを育てる哺乳類は、どのようにおっぱいを獲得したのか。乳はどのように発達し、どういったメカニズムで出て、生命維持にどのような役割があるのかなど、おっぱいの本質を学ぶことができる。

ワクワクしながらページを開く。第一章は「生命誕生」。

そこからか!

おっぱいまでの進化

遺伝子と有性生殖の仕組みを語り、アミノ酸から原生動物、魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類に至るまでの進化を丹念に振り返る。これが半分以上を占めており、なかなかおっぱいにたどり着けないのだが、面白いトピックが満載されている。

話題があちこち飛ぶため、散らかっているように見える。だが、そこに共通するものは、「いかに生き残るか」というテーマだ。「目の進化」や「耳の進化」といった器官ごとに焦点を当て、捕食者やライバルを出し抜く戦略や、そもそも敵がいない場所で生き延びるための工夫を見て取ることができる。進化とは、どのように生き残るかの試行錯誤の歴史なのだ。

さらに、鳥類から始まったとされる「子育て」に焦点を当て、卵生のメリット・デメリットと、それを克服する胎生のメカニズムを説明する。子孫を残すうえで、最も弱い存在が卵だ。動くこともできず、餓死や捕食の危険が非常に高い。多くの卵を残したり、親が卵を守ったり、胎内で大きくすることで、子孫を残すために有利になろうとする。進化とは、どのように子を生み、育てるかの試行錯誤の歴史なのだ。

全ては第三部の「進化の究極──乳腺と泌乳」への伏線になっている。乳腺とは、乳を分泌する腺で、泌乳とは、乳が分泌されることなのだが、著者曰く、おっぱいこそが進化の究極になる。

おっぱいの本質

いちばん驚いたのが、おっぱいの本質だ。

ほとんど味しないし、うっすら生臭いので、血液みたいなものなのだろうと思っていたが、わたしが浅薄だったことを思い知らされた。もちろん、血漿に含まれる成分と重なるところがあるが、おっぱいの本質は、脂肪を与える仕組みから分かる。

子どもを大きくするためには、大量の栄養―――特に脂肪を効率的に与える必要がある。だが、脂肪は、ほとんど水に溶けない。おっぱいは液体だから、脂肪を渡そうとしてもそのままでは難しい。どうするか? 

脂肪は乳腺細胞がつくり、細胞内の脂肪滴という形で存在する。これを乳に移行するときは、細胞膜を通らなければならないのだが、通過する場所がない。そのため、細胞膜を内側から押し上げ、細胞膜に包まれた状態(脂肪球)となって乳に移る。細胞膜そのものは水に混ざりやすい性質を持っているため、脂肪滴も親水性物質として振舞えるというのだ。

著者は淡々と説明しているが、これ、端的に言うと、何らかのパイプを通じて養分を与えるのではなく、自分の身(細胞)を削って脂肪を包んで乳にしていることなる。まさに身を削って乳を与えているといえる。おっぱいは、血というより肉の一部なのだ(面白半分に飲んでた自分を殴りたいorz)。

さらに、このメカニズムにより、水より油に溶けやすい(脂溶性)物質を効率的に届けることができる。ビタミンA、D、E、Kは脂溶性ビタミンと呼ばれており、その運び手として脂肪滴が用いられる。特に、カルシウムの吸収を助けるビタミンDは欠かせないという。

効率よく糖分を届けるメカニズム

また、脳や神経の発達に大量のブドウ糖を必要とするのだが、その渡し方がすごい。乳は、ブドウ糖ではなく、乳糖で渡す。これにもちゃんと理由がある。

つまりこうだ、ヒトの血中ブドウ糖は0.07~0.14%で維持されており、これを大幅に超えてコントロールできなくなると、全身に異常が現れる(糖尿病だ)。ブドウ糖は必要だが、正常範囲を超えたら毒になるのだ。

だが、効率的に栄養を渡すため、乳の糖分を高くしたいニーズがある。一方、ブドウ糖を乳で渡すのであれば、その濃度は体内の正常範囲に収めなければならぬ。このジレンマを解消するのが乳糖だ。乳糖は、体内では利用されず、高濃度にしても支障ないという(人の乳に含まれる乳糖は7%)。これにより、高い糖度のおっぱいを、母体内の糖度に影響を与えずに渡すことができる

これほど高度なメカニズムを持つおっぱいも、実は使い捨てなのだ。子育てが終われば乳腺は役目を終え、乳を作ってきた細胞の全ては破棄される。再利用するのは太い乳管のみで、次に妊娠すると一から構築しはじめる。これにより、細胞の老化を心配することなく、どの新生児にも最高の状態で乳を与えることができる。おっぱいは偉大なり。

初乳の重要性

冒頭で紹介した『乳房論』に出てくるのだが、いわゆる「母乳神話」説がある。

「子どもを母乳で育てなければならない」という主張で、アンリ・ルソーが流布したと言われている。だが、「母乳でなければならない」科学的根拠は無く、他の乳でも代用できるという説もある。「母乳vs.ミルク」論争は続いており、母乳の出にくい人からのお悩み相談が今でもある。

わたし自身、都合により使い分ければよいと思っていたが、本書を読んだ後は、「少なくとも初乳(最初のお乳)だけは必要かも」と考えを変えた。

というのも、初乳に含まれる免疫グロブリンの説明を読んだからだ。かいつまむと、こんな感じ……

……初乳に含まれる免疫グロブリンはG、A、Mの3種類ある。GとAは、細菌類の攻撃に対し、防衛機能を担う重要なグロブリンになる。胎盤を通じてグロブリンは受け取るが、それはGのみ。そのため、生まれたばかりで免疫機能が不十分な子どもには、できるだけ早く初乳を与えることが重要になる……

で、この後、牛の初乳の話が続くのだが、激烈といっても良いほどの違いが説明されている。初乳の必要性には、科学的根拠はあるようだ。

他にも、ヒトのおっぱいが2つある理由(乳頭と産子数との関係性)、牛乳を飲むとお腹を壊しやすい原因(ラクターゼ遺伝子)など、おっぱいを知れば知るほど、驚いて感嘆する。この興奮、『眼の誕生』に近い。イチから眼を実装しようとすると、あまりに高度に完成された機構に、「神が与えし器官」と言いたくなる。それと同じ、いやそれ以上に精密な器官がおっぱいだといっていい。

おっぱいは、子どもを育てるための試行錯誤を経てきた究極の姿なのだ。

本書は、おっぱいの碩学・骨しゃぶりさんのお薦めで知ったのだが、おっぱいの素晴らしさにうちのめされた(骨しゃぶりさん、ありがとうございます!)。

ちなみに、骨しゃぶりさんのおっぱい関連書籍の紹介は、以下の通り。次は『乳房の科学』読もうかな……

[おっぱいの本16冊]

[おっぱいの本17冊目『乳房の科学』は実用的かつ濃厚な読み応え]

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フェイク歴史を言ったもの勝ちになるいま、『なぜ歴史を学ぶのか』

Nazerekisi

フェイクニュースがまかり通り、「真実」が希釈化されるいま、歴史学は何ができるのか?

この疑問に答える手がかりは、アメリカの歴史学者リン・ハントが著した本書にある。

著者はまず、歴史の政治化という問題について、具体的に説き起こす。

ホロコーストを否認するメリット

たとえば、ホロコーストの否認だ。ナチス・ドイツが組織的に行った大量虐殺を「なかった」ことにする。それも、SNSや思想団体というレベルではなく、政府高官レベルでホロコーストを否認するところもあるという。

2005年12月、イランのアフマディネジャド大統領は、ホロコーストを「創り出された神話」だと発言した(※1)。ただし、核計画に対する国連の制裁を懸念し、イラン公式の報道機関は、この発言が最初からなかったかのように録画から取り除いている。

一つの歴史的事実について、なぜこのように発言するか。

それは、反イスラエル政策の一環として有効だと見なしているからだという。嘘も100回繰り返せば本当になる。2014年に行われた国際調査によれば、中東や北アフリカに住む人々のあいだでは、ホロコーストという言葉を耳にしたことがあり、事実だと認識する人はわずか8%に過ぎないという報告もある(※2)。

教科書に見る「都合の良い」歴史

過去の出来事を、自国に都合よく取捨選択するのは、初等教育の歴史の教科書が顕著だ。

日本では「新しい歴史教科書を作る会」による教科書の書き換えが問題視される一方、フランスの歴史教科書は、アフリカでの植民地統治がもたらした暴力や人種主義を過小評価しているという指摘がある。

合衆国やオーストラリアの教科書はもっと露骨だ。歴史の始まりは、コロンブスやジェームズ・クックから始まり、先住民であるインディアンやアボリジニの人々の長い歴史は、ほとんど無視されていた(最近では変わりつつあるらしい)。

中国の歴史家は、漢民族による支配を正当化するため、他民族を劣等な存在として描くものもいたという。二世紀あまり中国を支配した満州人は、野蛮で文字が読めない民族として描かれている。

顕著なのは香港の教科書。2012年に新カリキュラムが導入され、中国共産党を賛美する一方、文化大革命の暴力や天安門広場での弾圧については控えめにするように変わっている(何万人もの親たちによる反対デモがあったにも関わらず、政府は新基準を強制していった)。

歴史とは何であったか

なぜ、自国に都合の良い歴史を選ぼうとするか? 

「歴史学の歴史」を振り返ると、合点が行く。

かつて歴史学は、エリートのエリートによるエリートのための学問だった。すなわち、将来の政治家のため教養を伝授することが目的だった。そのため、俎上に据えられるものは古代ギリシアやローマの歴史であり、王と議会と戦争の政治史だった。

そして、大衆政治が誕生すると、シティズンシップの学校としての歴史が脚光を浴びることになる。すなわち、国民のアイデンティティとしての記憶を一つにし、想像の共同体を育むための歴史だ。ナショナリズムを涵養するための歴史だからこそ、インディアンやアボリジニは除外され、植民地での暴力は過小評価される。

さらに、高等教育がエリート層以外にも開放されると、労働者や女性・移民・マイノリティを迎え入れ、それらの社会史や文化史も叙述対象として拡大していく。それぞれの立場にあった歴史を語り始める。その結果が、現代の大きな不協和音の声だというのだ。

「エリートのための歴史学」の残滓は、よく見かける。「歴史学はエリートのため」という歴史が、「歴史を知っていればエリートのふりができる」というマウンティングへの訴求力につながる。Wikipediaの雑学を並べた「教養としての世界史」のような書籍や雑誌がまかり通るのは、その証左なのかもしれぬ。

それぞれの物語があるだけ?

では、自国に都合の良い教科書があるように、自説に都合の良い出来事や解釈があるだけなのだろうか。

著者は、慎重に説明する。「事実は1つ、解釈は無数」や、「それぞれの物語があるだけ」といった、よくある逃げに徹しない。互いに同意し合えない「事実」を巡って意見が対立するとき、事実と解釈を切り離すことで、落としどころを探ることもできる

だが、著者は、事実と解釈は表裏一体であり、どの事実を眺め、どの事実を強調するかによって解釈は変わるという。さらに、解釈という語りに一貫性を持たせるために事実を選択する必要も出てくる。

このとき、バイアスの罠が出てくる。

著者リン・ハントは白人で、アメリカで教育を受け、ヨーロッパ文化史とジェンダー論の専門家だ。過去の出来事について振り返るとき、こうした立場や視点からフリーになることは難しい。著者自身が「完全に客観的な解釈はできない」と述べている。たとえ歴史の専門家が下したとしても、その解釈が、バイアスを持ち込んでいないとは言い切れないのだ。

暫定的真実

それでも歴史家は、重要な事実と照らし合わせて、首尾一貫した解釈を論理的に提供できるかに気を配る。それでしか、自分が信じる物語に真実性をもたらすことができないからだ。

たとえ、自説に都合のよい出来事を検索してきても、それらは単なる寄せ集めでしかなく、事実としての一貫性も論理的な説明能力もないのだから。

そして、ある解釈が事実に立脚し、論理的に首尾一貫し、完全なものに整えられているときでさえ、その解釈の真実性は暫定的なものにとどまるという。なぜなら、後世に、新たな事実が発見されることもあるし、完全性の指標が変化するかもしれないからだ。

この考え方は、自然科学における仮説の扱いと似ていて面白い。

完璧な理論というものは存在せず、あらゆる理論や法則は、究極的には仮説だという考え方だ。19世紀末までニュートン力学は揺るぎない理論であったが、アインシュタインの登場によってその場を譲り、相対性理論における特殊な場合となっている。

それまでの理論よりも正確で、かつ論理的に過去の現象も首尾一貫して説明できるのであれば、その理論がとってかわる。一つの現象に一つの説明で満足するのではなく、あくまで仮説の一つに過ぎないと意識することで、思い込みや固定観念に囚われることを回避する。

本書では、実績のある歴史解釈を「暫定的真実」と呼んでいるが、これは自然科学における仮説といって良いのかもしれぬ。

固定化しないのが歴史

では、歴史について起きうる論争は、良いものなのだろうか。

歴史の民主化に伴い、日本や欧米で、歴史教科書について論争が繰り返されている。これは、かつての確固とした国民のアイデンティティが定まらない、不毛な弱さなのではないか?

この疑問に著者は、むしろ健全性の証だと答える。アイデンティティが最終的なものとして固定化することは決してないという。さらにこう加える。

歴史がそのことを証明している。歴史に関する論争は、政治体制が安定して、国民の過去を再考して再定式化することが可能な時に発生する。歴史的真実をめぐる議論を遮断することは、専制主義と手を携えて進んでいくことになる。

歴史のみならず、現代を広く見てみると、自国の歴史について議論が可能な国の方が、専制主義から遠いように見える。あるいは、歴史解釈や事実についてオープンな批判や議論ができない国の方が、より専制的だとも言える。

自分の主張に歴史的事実を添えたり、誰かの言説に過去の事例を参照したりするとき、わたしは、知らず知らず歴史家の仕事の恩恵にあずかっている。そして、歴史を学び、自分の解釈と照らし合わせ、批判的に検討することは、民主主義の実践そのものなのだろう。

※1

Karl Vick, “Iran’s President Calls Holocaust ‘Myth’ in Latest Assault on Jews”(Washington Post, December 14, 2005) [URL]

※2

Emma Green, “The World if Full of Holocaust Deniers”(The Atlantic, May 14, 2014) [URL]



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「知らない」を知る興奮と「知ってるはず」をもっと知る快楽が得られる『驚きの世界史』

歴史の面白さは、つながる快感にある。

知っていることと知らないことがつながるとき、強く快を感じる。歴史研究から得られた知識と、本や映画やニュースで感動した経験が接続されるとき、「エウレカ!」と叫びたくなる。

『驚きの世界史』は、こうした経験と知識を繋げてくれる。

History

 

「漢族」は人工的な民族集団

いちばん驚いたのが、漢族という概念だ。

本書によると、中国人の91%が漢族で、残りの9%が55の少数民族に分かれる。9割以上が同一の民族というのは、大きすぎやしないか? 北京語と広東語は英語とイタリア語ぐらい違うと言われるし、文化や風習もまるで別物なのに、漢族で括られる。

では、そもそも漢族とは何か? この解説が面白い。漢族とは、特定の文化や言語、風習、外貌とは関係がなく、長い歴史的過程を経て、様々な民族集団が政治的に統合された人工的な集団だという。そして、その核となるものが、「中華」という世界観になる。

そして、中国の歴史とは、この「中華」の拡大の歴史だというのだ。

すなわち、中華とは異なる存在を夷狄とし、夷狄を中華に同化させ、物理的に領土を組み込んでゆく。たとえモンゴルや女真に征服されても、むしろ異民族がこの世界観に同化される。征服や入植により、満州や雲南、台湾が中華世界の中に組み込まれ、チベットやウイグルが組み込まれようとしているのが、現代になるというのだ。

この解説で腑に落ちる。

チベットやウイグルを弾圧する中国政府は、テロの脅威を主張する。だが背景には、夷狄を中華世界に組み込もうとする行動原理があるのかも……と考えると、驚くとともに歴史とニュースが繋がる。

発射装置としてのピラミッド

自分が見聞きした経験と、本書のエピソードが繋がるのも快感だ。

先日、国立科学博物館の [ミイラ展] を見てきたのだが、本書で紹介されるエジプトのミイラとピラミッドの関係がまさにそれだった。

ピラミッドが建設された目的としては、王の墓説や公共事業説が有名だが、本書では、古代エジプトの死生観から解き明かす。

当時エジプトでは、死者の霊魂はオシリス神と合一し世界に秩序をもたらす存在となって復活すると信じられていた。そのための物理的な肉体として必要なのがミイラだという。

そして、異常気象や星辰の乱れを正すため、神と合一した霊魂を宇宙に向けて発射するための装置が、ピラミッドだというのだ。「ナマのミイラをこの目で見た」という興奮と、「ピラミッドは魂の発射装置」という学説がつながる。

キリスト教徒は狂信者?

さらには、シェンキェーヴィチの『クオ・ワディス』を読んだときの違和感について。古代ローマを舞台にした傑作&徹夜本だが、現世主義で現代的とも言えるローマ人に比べ、キリスト教徒が完全に頭のいかれた狂信徒のように描かれており、そのコントラストに目を奪われた。

キリスト教徒が迫害を受けたことは知っていたが、皇帝ネロのプロパガンダを差っ引いても、ローマの世論がそれを是としていたのはなぜだろうと疑問に感じていた。

これを、ギリシャ・ローマの「市民共同体」の流れから説明する。古代地中海では、まず共同体が第一であり、兵役や納税、お祭りや礼拝といった義務を果たし、自分たちの共同体を守る必要があった。

しかし、突如現れたキリスト教徒は、そうした義務や行事を、「神の名のもとに」拒否しはじめる。ローマ市民からすると、自分たちの社会を脅かす「異物」が増殖していくような恐れを抱いたかもしれない。その上、禁欲を誇り迫害されても喜んで殉教されたがるキリスト教徒は、享楽的なローマ人の理解を超えていたというのだ。

なるほど、だから小説ではあんな風に描かれていたのか! と腑に落ちる。夢中になって一気読みをしたときの興奮と、目の前の知識がガチリと繋がるのが楽しい。

知識どうしがつながる快感

自分の経験と、本書で得た知識が繋がる快楽に加え、本書の中でも知識同士がつながるのも楽しい。

古代から現代に渡り全50章で構成されているのだが、各章ごとにテーマが区切られたブツ切りではなく、それぞれがつながりを持つように構成されている。

古代ギリシャやローマ帝国の強さ、そしてキリスト教の始まりといったそれぞれの事象は、各章を跨る「市民共同体」という概念がつなげてくれる。歴史を学べば学ぶほどイギリスが嫌いになるのが常だが、本書ではイギリスの強さと悪賢さを、「国家に黙認された海賊」という糸口から解き明かしてくれる。あと、地域と時代に限らず広範に流通する富が「銀」であるのは興味深い。

こうした、地域や時代を横断して見る概念や視点を得られたのが嬉しい。「知らないことを知る」悦びと、「知ってることをさらに知る」快楽を得る一冊。

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物語に感動するとき、その力はどこから来たのか?『物語の力』

物語に魅了されるということは、どういうことか。「感動した」「心が震えた」と手垢にまみれた言葉があるが、その心を震わせる力はどこから来たのか? これが本書のテーマになる。

「心を震わせる力=物語の訴求力」として、どのようなときに訴求力が発生するかについて、物語論の研究成果を解説する。本書では詳細に分けているが、ざっくり以下の場合になる。

  • 回復と獲得の物語:自分が直面する問題に対する解決や、到達したいと願うゴールへの筋道が描かれているとき
  • 疎遠と帰属の物語:自分とは異なる価値観が提示され、自分の価値観が揺さぶられるとき

物語の役割

小説や映画における物語は、現代では消費されるものという意味合いが強いが、昔からの神話や民話の役割を担う側面もある。それは、物語を通じた、価値観や規範の伝達だ。

物語では、何か問題を解決したり、何かのゴールへ向かって進む。その背景にあるものは、「これは良くない状況であり、問題である」「これが良い状況であり、望ましいゴールだ」「解決にあたっては、このルール・設定を守るべきだ」といった、良い・悪い・望ましいといった価値基準だ。

そして、物語を聞く人は、物語の背景にある価値や規範を自らのものにし、物語で示されるモデルを模倣しようとする。

たとえば、「自己犠牲は望ましい」という価値基準があり、それが「皆のために戦いに行く物語」になる。この物語に感動した人は、共同体のために自分を犠牲にする行為を価値あるものだと考えるようになる。いざ他部族が攻めてきたとき、立ち向かってゆくだろうし、そのような気にさせる物語が、「良い」物語になる。

「回復と獲得の物語」で訴求力を上げる

では、どうすれば「そのような気」にさせるだろうか?

「回復と獲得の物語」では、「自己効力感」と「ホメオスタシス」で説明する。自己効力感とは「自分にはできると感じる自信」のことで、ホメオスタシスとは、元に戻ろうとする力になる。

つまり、何かのストレスがかかり、マイナスの状況になったとき、「自分にはできる」と信じて手を尽くし、マイナスから回復すると、大きな快を得るというのだ。このときの「自分にはできる」という動機と、マイナスから回復する方法は、強く学習される。

より大きな快を得るためには、マイナスの度合いを大きくすればいい。主人公は、自己効力感を持たせる前に、絶望的な状況に落とせばいいし、ライバルや障壁を設けることで、得られる快もさらに一層強いものになる。

本書で挙げられた作品だと、例えば『インデペンデンス・デイ』なら失われた力や権威を回復する王の帰還の物語になるし、『のだめカンタービレ』だと絆によるトラウマ克服の物語になる。回復と獲得の物語は、ストーリーの原型とも言えるので、他にもいくらでも思いつけるだろう。

未充足マーケティング

興味深い応用として、「未充足マーケティング」が紹介されていた(別名は、物語マーケティング、ダークサイド・マーケティング)。

つまりこうだ、消費者に対して、「あなたに欠けているもの」「あなたが喪失したもの」を提示することで、購買意欲を掻き立てる方法だ。テレビのCFでは、若さ、パワー、絆、魅力、お得感など、様々な「欠けているもの」が取りざたされている。

そして、これを買えば、失ったものが取り戻せる(だから買え)とダメ押しする。失ったものとの落差が大きいほど、そして、失ったことによるストレスが強いほど、買うことで得られる快も一層強いものになる。

脱線になるが、ネットでも未充足マーケティングが実践されていることに思い当たる。「あなたが失ったもの」として、機会や権利を声高に主張し、「あなたは騙されたんだ」と煽ることで衆目を集めるやり方だ。人は、失ったものに敏感なため、未充足マーケティングは悪い意味で有用だ。

「疎遠と帰属の物語」で訴求力を上げる

異なる価値観を提示し、読者や視聴者の価値観を揺さぶる物語は、もっと巧妙に訴求力を上げようとする。単に受け手とは違う価値観をぶつけようとしても、読者がどんな価値観を持っているか分からない。

そこで、登場人物どうしで、異なる価値観をぶつけ合う。つまり、相反する価値観を持つキャラを登場させ、それぞれの内面から物語を描き出すのだ。

本書では、『デスノート』のライトとエルが挙げられている。この作品は「信頼と疑惑」の対立構造を持っており、「この社会を疑って生きていく」ライトと、「この社会を信じて生きていく」エルとの対決構図だというのだ。

物語がライトに焦点化して(ライトの視点、思考、感覚から)描かれるとき、読者はライトの思考や感情に近づけて読むことになる。一方、エルに焦点化されるとき、読者はエルに寄り添って物語を理解することになる(これを内的焦点化と呼ぶ)。

このとき、読者が各人の思想に賛同するか否かは別問題だ。物語がライト(or エル)視点で描かれているのであれば、そこから理解する他は無い。

重要なのは、物語がライト、エル、ライト……と入れ替わる度に、読み手はそれぞれの思考や感情を行き来することになり、その結果、読者自身の思考や感情から、遠くに引き離されることだ。すなわち、物語世界の中に、どっぷりと浸っていることになる

思い返して欲しい。物語の中で、極端な思考を持ち出してくるキャラがいたはずだ。そして、そのキャラは、他のキャラと反発したりたしなめられたりしなかっただろうか。それは、読み手を「読み手自身の価値観」から引き離し、物語の中に引き込むための仕掛けなのだ。

『君の名は。』のラスト90秒が凄い理由

作者は、あの手この手で物語世界の内部へ引き込もうとする。

たとえば、描写するカメラ位置。

キャラクターや描写対象に対し、カメラ(描写主体)がどこにいるかという「距離」の問題だ。シーンがスタートした時点では、引いて写すのが多く、遠景→近景→内面描写に近寄っていくのが一般だ(これを自己移入という)。なぜなら、受け手はまだ、物語世界の「外」にいるから。

もちろんこれを逆手に取ったやり方もある。特定のキャラの内面からの描写で、その人物の耳目という限定された視座で物語に取り込むやり方だ(ただしもろ刃の剣で、語り口や描写に魅力がないと離脱されやすい)。

これらをハイブリッドにすると、「物語の中のカメラ」のピントをコントロールしつつ、「キャラの内面」とを交互に出しながら、登場人物が見ている情景を、読者が見ているかのように重ねる。

本書では、『君の名は。』が持つ強い訴求力を、その「写し方」の分析から解き明かす。

瀧と三葉のそれぞれの視点を焦点化して、交互に繰り返していくことで、観客を物語世界へ誘導していく(「疎遠と帰属の物語」の内的焦点化)。

そして、1時間37分~40分をショットごとに丁寧に分析していく。次々とシーンが移り変わり、四葉っぽい女の子が映った直後の暗転(1:38:38)までが自己移入の誘導路になる。この時点まで映画を観てきた人は、瀧への内的焦点化がなされた結果、誘導路で瀧が見る映像(写真集や風景)を、「自分自身が見ている」と感じ取ることができる。

そして暗転後、映画の冒頭の、行き交う電車や通勤のシーンが、もう一度繰り返される(微妙に変えてはいるけど)。

映画の最初の時点でこれを見た観客は、当然のことながら自己移入をしていない。物語の「外」から見る、誰でもないカメラから撮った映像として眺めるだろう。

しかし、キャラの内的焦点化が培われ、暗転までの誘導路を経てきた観客は、同じシーンであっても、「自分自身が見ている」映像として感じられるはずだ。

<ここからネタバレ反転表示>

そして、ここで視線の一致という技術が使われる。登場人物が見ている対象と、まさに見られている対象を重ねるのだ。三葉が瀧を見、瀧が三葉を見ることで、瀧の目を通して「自分自身が見ている」と感じる視聴者と、瀧自信の視線を一致させているというのだ。

『君の名は。』は、もともとは「入れ替わり」の物語だったが、この時点で、2人の双方からこの物語を見直すことになる。そして二人が見つめ合うとき、それぞれの内部で焦点化されていた視座が融合する。「君の、名前は」と重なり合う声とともに―――

<ネタバレ反転表示ここまで>

―――という分析だ。本書の第6章を読んだ後、もう一度『君の名は。』を見ると、キャラへの距離と内的焦点化を緻密に計算して撮っていることが分かる。

物語の訴求力を高める一冊

『君の名は。』だけでない。

西尾維新『刀語』における描写対象との距離の絶妙なつめ方や、レヴィ=ストロースが行ったシーケンス分析を『進撃の巨人』に当てはめた解説、さらにはスマホゲーム「モンスト」がシミュレートしているものなど、小説に限らず、映画やマンガやゲームも含めた、物語が持つ訴求力を知ることができる。

物語の訴求力は、読者・観客・プレイヤーを、現実から物語世界へ没入させ、登場人物に自身を移入させる力を持っている。本書は、その力が、具体的にどのような仕掛けで働いているかを見せるのだ。

そして、そうした仕掛けを分かったうえで、もう一度感動することができる。わたしの場合、本書を読んだ後、『君の名は。』のラスト90秒を繰り返し見て、視線誘導と感情移入の仕掛けを全部分かった上で、あらためて涙した。それは、種も仕掛けも分かっているのに、一流のマジシャンの手品を、繰り返し魅入るようなものだ。分かってても、すごい。

そして、「自分の心がどのように震えたか」が分かれば、「誰かの心をどのように震わせるか」も分かる。読む人・書く人・描く人……物語を紡ぐあらゆる人にお薦め。巻末の文献ガイドが充実しているため、本書を入口に、さらに専門性の深いところまで潜りたい人にも。



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