スピルバーグ『レディ・プレイヤー1』を通じて、物語を面白くする映像技術、共感手法、映像の力を語り合う

物語に夢中になったことはないだろうか?

小説やマンガ、ゲーム、映画や舞台など、素晴らしい作品に出会ったとき、あまりの面白さに、あっという間に時が過ぎる。お話が終わり、我に返った後、あらためて、なぜそれを面白いと思ったのかは、気にならないだろうか。

  • その物語の「面白さ」はどこから来たのか
  • なぜ、自分が、そこを「面白い」と感じたのか
  • その「面白さ」は一般化/再現できるのか

こうしたテーマを視野に入れ、古今東西の「面白い」作品について語り合う。これはという作品を取り上げ、物語を作る人、楽しむ人、広める人など、様々な視点から「面白い」について語り合うオンライン会が、「物語の探求」読書会だ(ネオ高等遊民サークルの分室)。

今回は、映画に詳しいどぶ川さんをゲストにお招きして、スティーブン・スピルバーグの『レディ・プレイヤー1』をテーマに語り合った。面白い物語をどうやって映像にするか? 映像をどう工夫すると、物語が面白くなるのかなど、レクチャーしていただいた。

(以下、『レディ・プレイヤー1』のネタバレがあります)


<目次>

  1. 『レディ・プレイヤー1』=王道✖最新
  2. 「おじさん・おばさん」は必要か
  3. 観客の感情を計算したカメラの位置
  4. デブの白人がいない理由
  5. ちょっと不完全な方が、映画は面白くなる
  6. 人は動いているものをどうしても見てしまう
  7. ワンカットとは、記録でありドキュメント
  8. 『レディ・プレイヤー2』の可能性
  9. オマージュの物語作法
  10. 敵が強くないのは理由がある

スケザネ:始めますかそろそろ。今回のゲストはどぶ川さんです。

どぶ川:映画だけにどぶ川として名乗らせてもらいます。

ネオ:簡単に自己紹介をお願いします。

どぶ川:元々映画が好きで、若い頃から映画館で働いてて、映画製作とかにも携わっていた時期もありました。ネオさんに映画のことを教えたりとかしてて、そんな中で今回、『レディ・プレイヤー1』について話してくれって言われたので、今回参加しました。

ネオ:『レディ・プレイヤー1観ろって言ったのもどぶ川さん。彼が働いていた映画館にも何度か足を運んでいたりして、一緒に映画を見に行ったこともあります。

スケザネ:ネオ民のマブダチということで。

ネオ:(笑)そうですね、映画を観る見識は確かなので、本日お越し頂きました。

一同:よろしくお願いします。

ネオ:画面共有のスライドを中心として、どぶ川さんに説明してもらいます。質問、コメントがありましたらチャットでお願いします。皆さん、映画は見ている前提でお話をしましょう。

 

1. 『レディ・プレイヤー1』=王道✖最新

どぶ川:『レディ・プレイヤー1』の面白さとしては、まずは題材でしょう。SNSのゲームで、たとえば『どうぶつの森』なんかが、レディプレイヤーワンの世界の先駆的なものなんかだと感じてます。

  • ゲーム(仮想空間)が現実に介入している。もしかしたら「あるかもしれない」未来
  • 「あるかもしれない」と思うことで、感情移入しやすい
  • ここをベースにして、世界を救うボーイ・ミーツ・ガールという鉄板の物語を展開している

いったん、「あるかもしれない」とリアリティを感じさせたら成功で、あとは共感とか納得できたら、感情が入りやすい。この世界をつくったあと、超・王道である「世界を救う」「ボーイ・ミーツ・ガール」という、アメリカ映画の超・鉄板をやっている。王道✖最新を掛け合わせている。それが題材としての面白さになる。

だけど、面白い題材と物語をどう撮影するか? どう映像にするか? それが映画なんですよね。だから、画面で何をしているか、どんな人物が、どんなふうに映っているか、それをポイントに話します。

まず、オープニングですね。世界観の説明で、2045年かな、縦に積まれたトレーラーハウスの街並みを映しながら、主人公のモノローグから始まります。

もう、これ自体でワクワクするでしょ、子どもの基地みたいで。この、ハリボテ感が崩れそうでドキドキ感があるから、見ちゃいますよね。子どもが高い所へのぼっていると、もう目を離せなくなる、どうしても見てしまう画面なんです。このオープニングから一気に、感情移入させているんです。

スケザネ:なるほど! このオープニングは凄く引き込まれました。緻密に描かれてて、どんな世界なのか説明できちゃっているので、男の子がごちゃごちゃ言わないで、この映像をクローズアップしてくれているだけで良かったんじゃないかな、と思いながら観てました。

どぶ川:確かにそうかも……なんでスピルバーグがそういう風に「緻密な映像+男の子のモノローグ」にしたのかなと考えると、おそらく、物語に早く入りたかったんじゃないかと。だから一気に説明したのかなと。

スケザネ:すごい説明してましたよね、序盤。

どぶ川:世界の説明は中だるみもするし謎解きでもないから―――謎解きはゲームの中であるからいいでしょって、僕もそこまで細かい設定は覚えていなくて、何となくでいいでしょっていうアメリカの大雑把な感じが出ているんじゃないかと。

 

2.「おじさん・おばさん」は必要か

スケザネ:でもこれ、結構要素が多いんですよ。主人公の家庭環境とか、おじさんとおばさんが出てきちゃった時点で覚えるところが多い印象でした。

どぶ川:おじさんとおばさん、一応は必要だけど、キーになってはいないですよね。

スケザネ:変にあのおじさん、キャラ立っちゃってて、もっと出てくるのかと思ってたら……ちゃんと死んでて。

ネオ:爆死しましたからね!

一同:www

どぶ川:たいしていい所もなく、死に際の何かもなく、爆死しましたからね。

スケザネ:絶対あのおじさん、後半のアバターの中で再登場すると、俺は信じてましたからね。ホントに死んだんかいって。

どぶ川:もしかしたら、脚本つくる上で色々考えたんだけど、時間やらなにやらで「もういいや!」ってなったのかも。スピルバーグは、そういうところがあって、結構残酷なんですよね、「人」に対して。

Dain:おじさん・おばさんの肩を持つわけじゃないんですけど、「世界を救うボーイミーツガール」という物語を作るうえで、絶対必要な要素―――試練―――というのがあって、それが「おばさんが死ぬ」という出来事だったんじゃないかな。

親代わりのおばさんが死んで、主人公は復讐として立ち上がらなければらない。しかも、おばさんの死をただ起こすだけでなく、何らかのひっかけ、トリックが必要で、それがおじさんだったんじゃないかと。

どぶ川:家庭内のやり取りで、おばさんだけだったら、何となく流しちゃうかもしれないけど、「嫌なおじさん」がいることで、結局爆死はするけれど、盛り上がるんですよね。

スケザネ:あの荒廃とした時代状況で説明がつくんじゃないかと。極端な話、親がいない、どこかの施設の鬱屈した少年でもできたんじゃないかな。で、現実の世界は嫌だ、だから俺はゲームの世界で生きるんだ、というので十分だったと思う派です。

どぶ川:物語の経済性とかも考えてみても、どちらに転んでもおかしくなかったんじゃないかと。スパイスとしてどんな味付けをするかという話じゃないかな。

スケザネ:このお話、舞台立てが違う、世界が違う、さらに主人公はこんな家庭環境です、とバンバン説明しないといけないし、それを(観客が)理解しなければいけない。なので、序盤はすごい大変です。

もし俺がこの物語をするのであれば、受け手側に少しでも情報量の負担を減らしてあげたいなって思うんです。なので、おじさんとおばさんの情報量を減らしてあげたいな、っていうのが一番です。

旅立つ理由として「おばさんの死」は分かるけれど、後半になっておばさんの「お」の字も言わないじゃないですか、「おばさんの仇だ!」とか「みんなの仇だ!」とか。なんで、本当に犬死にだったな。

どぶ川:それが映画の面白さにもなってて。ちょっと前のことをすぐに忘れて、常に「今」だけで「その場」だけで生きていくっていうのが、映画を面白くすることがあるんです。物語を語るものなら小説とかあるんですけれど、映画って不完全なものが面白がられたりするんで、そこが不思議なところなんです。でもやりすぎると情報過多になって、観るほうが付いていけない時も出てきますね。

Dain:この映画を観る人の入りやすさ、「共感」からすると、「トレーラーハウスに住んできた」世代になるんじゃないかと。裕福でない貧しい人々、家庭の事情でおじさん・おばさんに引き取られて暮らしてきた人なのかしらんと思ったり。

今は地面に並べているけど、未来は縦に積み上げられているトレーラーハウスに住んでて、現実逃避したい少年って、「俺じゃん」「俺が昔そうだったじゃん」ってなるのでは。未来の話だけど、今と繋がっているための装置としてのトレーラーハウスとおじさんおばさん。

 

3.観客の感情を計算したカメラの位置

どぶ川:IOIの社員がゲームやるシーンのあたりとか。スピルバーグの表現の一つとして、「ゲームをやる人の姿」を、引きで、客観的に撮ることで、間抜けに見せています。やってる人は必死だけど、冷めた目でみたら、これでしょって。人の愚かさとかが皮肉めいてて、見てて面白くて、楽しい気分になります。

スケザネ:言われてみれば……! 確かにそうですよね。

どぶ川:これ逆に、カッコよく撮ると、ダサいんですよ。すげーカッコいい俳優さんが、はぁはぁ言いながら、何もないところを空を切ってパンチするって、ダサいんです。

Dain:こんな風にゴーグルかけてやるVRゲームで、”Beat Saber” というのがあるんですけど、その実況を思い出しました。前から飛んでくるブロックを両手のコントローラーで斬っていくんです。で、ゲームの中の映像を見ると大迫力ですげーカッコいい。一方、それをプレイする人そのものを撮って実況しているのを見ると、おっさんが汗だくになってふうふう言いながらやってて、めちゃカッコ悪い。

どぶ川:やっぱカッコよく撮ると、現実とは別物になるから、感情移入しにくくなる。観客に入りやすくするために、最初は「ゲームの外」から「引き」で面白可笑しく撮っている。

逆に最後の方とか、ウェイドがみんなに呼びかけるシーンでは―――ウェイドはイケメンじゃないんですけど(笑)―――ゲーム内のウェイドで撮っている。そこはちゃんとシーンの目的に合わせて使い分けている。

結局、このシーンは物語上どんな位置づけで、どんな感情を呼び起こす目的なのかを考えて、カメラの位置ってものが変わってくるわけですから。

Dain:なるほど! カメラの「位置」なんですね、考えたこともなかった。本人は必死なんだけど、この踊ってるかのように見えるためには、引きで撮るための位置にカメラがあるんですね。これ、アップで撮るとまた別の印象になっちゃうから……

どぶ川:そうですね、これ、後の説明にも出てきます。でもその前に、主人公メンバーの話を……ウェイドといい、その仲間といい、主人公メンバーがイケていない。これがいいんですよ! ギャップがあって。またストーリーに没入しやすくなるって。

スピルバーグって、もちろんイケメンと美女の映画もあるんですけど、そうじゃない人を撮るのがめちゃくちゃ上手くて、僕そっちの方が好きなんです。なぜかというと、美男美女だと映画の邪魔になるんですよ。これが例えば、ディカプリオとかブラピとかジョニーデップなら、もう映画が成立しなくなっちゃう。なんでもない奴らが大活躍する、という。

ゴーグル付けてもカッコいいって、ないでしょ。めちゃくちゃアホな姿です。その辺のキャスティングが上手い。物語の邪魔をせず、「どこにでも居そうな」感がある人が活躍するというのは、共感があって見てて気持ちがいい。

 

4.デブの白人がいない理由/原作だと「ぽっちゃり」

Dain:ただ一つ、キャスティングに違和感があるんです。これ、「ゲームの世界」をテーマにした映画でしょ。そして、白人、黒人、アジア系、女性など、色々な属性を入れているけど、「デブ」がいない。

僕の中の「ゲームが好きな人」のイメージとして、ピザとかコーラが好きで、コンピューターに詳しいというのがあるんです。確かスピルバーグの作品で『ジュラシック・パーク』の最初に出てくる、エンジニアの人。あの印象が強烈で、ペプシが好きでピザが好きで、めちゃくちゃ太ってたんですよ。

一同:いたいた!

Dain:そいつが恐竜の胚か細胞を盗み出して道に迷って酷い目に遭うところも含めて、「あいつデブだったよな」と覚えてるんです。今のでこれ思い出して、『レディ・プレイヤー1』にデブの白人がいない、ということに違和感があって、ちょっとだけ評価が下がっているんです。ピザとコークが大好きなデブが大活躍する話だったら、手放しで絶賛してたと思う。

スケザネ:言われてみれば……あんまり、メインメンバー以外にも太った人いなかったような……やっぱりあのゲームが身体を動かすから?

どぶ川:一人いました。会社でゲームの研究者の人。ラストでキスしてた。あと、オープニングのボクシングやってるおばちゃんかな。ちょっと太っている。

でもなんで太った人が少ないんだろう……と考えると、やっぱり主人公メンバーって、最後にアクションするんですよね。だからじゃないかと。あと、悪役の会社の社員って、SPとかそういう立場だから、太った体形にしなかったのでは。

スケザネ:「貧しい人たちが現実から逃れるためにゲームをやっている」という設定だと、貧しいが故に、必然的に太れない。会社にいる研究員は、給料も沢山もらえてているから……という説明が付かないかな。

どぶ川:同じこと考えてました。それ、スピルバーグがインタビューで聞かれたときの後付けの答えかなと。僕としての答えは、単なる撮影上の制約で、最後のアクションシーン撮るときに太っていると大変なので外したんだと思います。

Dain:いまチャットで、ゆすもひさんが面白いコメントしてて。原作のウェイドは太ってて、見やすく寄せたことが批判されているってあります。ソースはネット情報なので不確かですが。

どぶ川:ですねー、その辺は映像化する上での印象が大事だから、色々あったんじゃないかなと。

Dain:「アメリカ人でゲーム好き」っていうと、太ってるという印象があるから、どこかで入れないと。

どぶ川:『ジュラシック・パーク』だと、コンピュータに詳しい人で、ほとんど動かない。そんな設定があって、彼のスパイスとして、ペプシとポテチが大好きというキャラクターが生きるんだけど、『レディ・プレイヤー1』に関しては、どこにどういう風に入れるかが、すごく難しい。たぶん、原作のウェイドをまんま映画にしてないんじゃないかな。

スケザネ:エイチとかは、車を運転するだけでアクション少ないし、ゲームだとアイアンジャイアントを動かすとか、ゆっくりどっしりとした動きだから、太ったという属性が生かされるキャラになると思う。

どぶ川:エイチ、僕も現実に出てくるまで太ってると思ってました。

スケザネ:そんな話してたじゃないですか、ゲームとは全然違ってて、現実だと体重〇キロのデブだったらどうする!? ってセリフ。むしろサマンサのビジュアルがどうくるのか、気になってましたね。

どぶ川:何千億とかかけてエンタメのビジネスとしてやるからには、あんまり現実に寄せすぎるのも……

 

5.ちょっと不完全な方が、映画は面白くなる

どぶ川:逆走するシーン。ここは外せないですね。絶対にクリアできないステージで、謎を解明して、発見する面白さや、ゲームのゲームの中身が見えてる、裏技のような感覚と、「やったぜ!」勢いを表現したスピード感とか。子どもの頃、スーパーマリオで、画面の上を走る感覚が思い出されて、主人公と一緒に必死になってやってて嬉しい気持ちと重なります。

スケザネ:逆走したら勝手にクリアするのかな? と思ったら、「下」を通るんですよね、これはびっくりしました。

どぶ川:恐竜が下から出てくるとき、床がせり上がるようなギミックとかね、ゲームの仕組みが全部見えてる。

ネオ:あれだけ苦労しててクリア不可能だったステージが、楽勝で走れる爽快感というか。

どぶ川:「楽勝感」ってのがいいよね。なんか共犯的な感覚。裏技って悪いことじゃないんだけれど、なんかズルしている感覚というか。生理的に共感できる。そこまで持っていかせるというのは、凄いことなんじゃないかと。

スケザネ:レースの尺って結構長いですよね。一回やって失敗して、もう一回やって、ただただひたすら面白いところ。でも世界の説明のところ、鍵がどうとか、サマンサと会って陰謀だとか詰めに詰め込んでいる。艶っぽいBGMが流れているので、そういう気持ちにさせたいのは分かるけれど、情報量が多すぎてちょっと付いていけてない。自分はシナリオ書く人間なので、観客をどういう気持ちにさせたい脚本なのか気にしながらみちゃうんですけど、ここは早くて感動できないなーと。

どぶ川:職業とか一切忘れて、もう一回観ましょう。

一同:www

スケザネ:観終わってから、これそういう目線で見る映画じゃないやって気づいて……

どぶ川:そうそう。さっき言った、映画ってその辺を中途半端にすることで面白くなるとか、辻褄を語る時間があるんだったら、そこは捨てて次に進んだほうが見てる方としては面白くなったりします。映画って多少不完全な方が面白くなったりするんですよね。

Dain:物語を語るところと、物語を見せるところが、スパっと分かれているのかなと思いました。この世界がどうなっているとか、どんな状況になっているとか、物語を説明するシーンと、ひたすらスペクタクルに魅せるシーンと、きれいに割れているのが、『レディ・プレイヤー1』なのかと。なので、また観る時は、このシーンはどういう「意図」で作られているのだろうという目線で見ちゃいそうな……

スケザネ:そうですね。1回目のときは考えながら観ちゃいましたけど、2回目はもう気にせず、ただただ楽しんで観てました、シャイニングのところとか特に。これだけ映像で見せるシーンで、横でごちゃごちゃ設定を説明したら台無しになってしまう。だから、あいだあいだで説明するしか。ただ、感情移入するには情報が多すぎるので、要素を削ったほうがよいかも……

ネオ:僕なんかは、ただただひたすら面白いと観たんです。一般的には、細かいところの辻褄とかより、このレースシーン「だけ」は皆覚えているんですよね。そしてこの映画が狙っているのはそこでしょう。

どぶ川:でしょうね。世界中の人にみせるものだし、誰が見ても面白いという映画をスピルバーグは目指しているから、こだわるところが違うのかもしれません。

 

6.人は動いているものをどうしても見てしまう

どぶ川:ウェイドとサマンサのアバターがダンスするシーン。自由なカメラワークで観てて気持ちがいいです。でもこれ、実写でやったら爆笑シーンになりますね。試しにアバターではなく、現実の誰かを当てはめてみると分かります。

この世界観でCGと実写を入り交ぜているからこそ、成立させていますね。

CGだけだと結構飽きるんです。なので実写だとこうなっているとか、飽きさせない工夫をしています。ゲームの中だと自由で、それこそ夢のような動きができるじゃないですか。それを成立させるために、現実の中での動きを考えている。

物語の構造として、ゲームの中での動きと、現実の動きの対比をキワキワで成り立たせている。これが凄いなと。一歩間違えれば、しょぼい作品にもなりかねないので。この対比が、『レディ・プレイヤー1』で一番チャレンジしたところじゃないかなと。

さっきの「物語の説明」シーンの実写のほうも全体的に、人が歩きながら芝居したり、カメラが動いたり、画面自体にアクションがあって観てて気持ちがいいですし、シーンの切り方も絶妙な感じで、何より観てて飽きません。人って、動いていると、どうしても見ちゃうんですよね。自然と見れるようにお芝居をつけて、撮っています。

あと、スピルバーグって、結構特殊なカメラワークをする人で、「今どんな風にカメラ動かしたの!?」というシーンもあって、しかもそこがすごく流麗なんです。

Dain:そのシーンで、「カメラがどこにあるのか?」「それがどう動いたのか?」って、気にせず観てました。次は、カメラの位置を考えながら観ますね。

どぶ川:ダンスのシーンとかで、カメラが360度パンとかしてて、けっこうこれ、めちゃくちゃな動きをしているんですけど、これはもちろんCGだからできるんだよなぁと感心しましたね。

 

7.ワンカットとは、記録でありドキュメント

どぶ川:次はクルマの中の格闘シーン。まず表情が面白い! でも、ここだけじゃなくって、クルマの中から転げ落ちるんですよね。そして、格闘から転げ落ちるまでワンカットなんですよね。皆さん、ワンカットって言って伝わります?

スケザネ:切らずにそのまま撮り続けるというやつ、画面を切り替えないやつ。

どぶ川:そうですそうです、例えば iPhone で録画するとき、ボタンを押して撮り始めて、次にボタンを押して停止するまで、これがワンカットです。

で、トラックから蹴落とされて地面へ転がり落ちるまで、これをワンカットで撮っているということは、編集でウソがないんですよね。かつ、「人が蹴とばされて落ちて転がる」というのが一つの記録になっているんです。ドキュメントなんです。

僕が映画を見る時に意識しているのは、ワンカットでどこからどこまで撮るかというところなんです。そもそもカメラとは「記録するもの」として生まれているから、ワンカットで撮っているところ=記録、ドキュメントになるんです

このワンカット、すごいことが起きているんですよ。人が蹴とばされてトラックから落ちて転がってるって。そういう記録なんです。そういうのをスピルバーグは、映像作家として入れてくる。映像の原理主義的なもので、「記録する」という観点から見ると、迫力があるんです、ウソがないから。観客は驚くんです、だって事故ですもの。事故が映っているんです。この顔も事故ですけど。

一同:www

どぶ川:だって映画じゃなくって、事故の映像とかあると見ちゃうでしょ。「世界の衝撃映像」みたいな番組やニュース。画面の力は強いから。だってこれ、こんな風に撮らなくたっていいでしょ。

Dain:その、「すっ飛ばされる一瞬」と、「転がっていく」というシーンを撮って、繋ぎ合わせれば、いわば安全にこの物語を進められるから? でもそうせずに、「飛ばされる→転がっていく」をワンカットで入れることで、これまでフィクションだった世界に、ノンフィクションっぽい迫力が出てくる……これが映像の力というやつ?

どぶ川:見ちゃいますからね、ワンカットだと。危ないとかそういったものはさておき、ここを割る人・割らない人が分かれてくる。で、割らない人の映画のほうが面白いと思う。

スケザネ:これだけ編集技術が進んでいるけど、やっぱりカットして繋げると、違和感とか起こるものなんでしょうか?

どぶ川:いや、違和感とかは残らなくて、昔から編集でできます。でも、割った時点で、カットとカットの間に、小難しく言うと、「見えない」時間が存在するんですよ。なぜなら、カットを割った時点で、時間が止まるから。そうすると、そのアクションというのは記録ではなくなってくるんですよ。

でもここはちゃんとワンカットの事故映像として意識的に撮ることで、迫力が違うんです。ワンカットを意識している監督というのは、映像の、画面の強さに対してすごく敏感になっているんです。そういう監督の映画は面白い

スケザネ:すごい勉強になります、これ意識してませんでした。

どぶ川:カットを意識してみれば、ちょっと映画の見方が変わってくるかもしれませんね。例えば、スピルバーグの『宇宙戦争』、これも実写とCGを織り交ぜてるんですけど、どこからどこまでがCGなのか、ワンカットで見せてくれて区別がつかない。カット意識して見てるけど、面白すぎて、途中からそんなことどうでもよくなってくる。

一同:www

どぶ川:『宇宙戦争』の最後のシーンのとこなんですけど―――皆さん良いですか、ちょっと触れちゃって。

Dain:どうぞどうぞ。

スケザネ:僕は全然大丈夫です。

どぶ川:『宇宙戦争』の最後のところで、ミサイルがエイリアンに当たるんです。それを引きで撮ってて、ヒューっとミサイルが飛んで行って画面奥の、ちょっとしたビルぐらいの巨大なエイリアンに当たるんです。それが、ワンカットなんですよね。

そのときに、「あ、当たった!」って感じがするんですよ。

これ、もし、「ミサイルを発射する」、「ヒューっと飛んでいく」、「エイリアンに当たる」と3つにしてもいいんです、ウルトラマンの特撮みたいに。でもそうしない。人が撃ったミサイルが飛んで行って、ビルぐらいの怪物に当たるんです。すると、「当たった!」て感じるんです。何気ないシーンなんですけど、いままで全然当たらなかった奴らに、当たったという感じが伝わる。

Dain:youtubeのこの辺? チャットにURL貼りました。映画観てない人はネタバレになるので注意して下さい。エイリアンって、あのトライポッドっていう三本足の奴ですよね。確かにワンカットで撮ってて、「当たった」って感じがします。

(開始2分あたり)

どぶ川:そうですそうです、ここだここ! 実はそれまで、一回も当たらないんですよ。エイリアンのある構造のせいで、今まで全く当たらなかった。ここで初めて当たるんですけど、ほんとこれ、何気ないシーンですけど、ここに拘っている監督は面白いです。

Dain:今のお話で、僕がなぜ、とある twitter の動画を見ちゃうのかな、という謎が解けました。何かというと、バスターキートンとかいう人の、昔のコメディというかアクションの動画なんです。トーキー時代の、音声も何もない白黒映画のシーンなんですけど、見ちゃう。

男の人が線路を走ってて、後ろから列車が追いかけてきて、危ない! って思ったら、ぴょんと飛び移ったり、ビルから飛び降りたりとか、昔の映画なんで合成でもCGもなくて、全部本人がワンカットでやってる。これを見ちゃうのは、ワンカットでやっている、ドキュメンタリーの映像の強さに惹かれているのかな、と思いました。

史上最高のスタントマン──バスター・キートンの物理学
https://wired.jp/2016/12/12/physics-greatest-stuntman/

どぶ川:そうです、キートンの映画は、そういった文脈で語られるんです。マスターニートンとはちょっと違いますね。

一同:www

ネオ:マスターニートンの動画も結構ワンカットで撮ってますねwww カットするのは何かトラブルとか、言えないこと言っちゃったときとかw 記録性ゼロw

どぶ川:で、ワンカットの力の話でオープニングに戻ります。映画が始まって、トレーラーハウスの住宅街の全景が映ってて、カメラが寄っていくんです。いつカットが切り替わるかなと見ていても、ずっと寄っていく。すると、あるトレーラーハウスの一軒から、少年が出てくるんです。いつ切り替えたの!? と思うんです。ぜったい切り替えたはずなんですけど、分かんないですよ。これをワンカットで撮ったスピルバーグって、やっぱ凄いです。画面の強さが一気に出ている。

トレーラーハウスの集合体はCGのはずです、でもそこへカメラが近寄って行って、そこのドアからなんでCGじゃない生身の人間が出てくるの? ってそれをやられたら、こういった世界なんだ、って思っちゃいますもの。ここミニチュアかもしれませんが、それでもどこかで切り替えているはずなのに分からない。これを開始数分でこのワンカットは凄い。スピルバーグって結構こういうことをするんです。

スピルバーグは、一番新しいものを映画の形で作ったな、と思いますね。

 

8.『レディ・プレイヤー2』の可能性

スケザネ:『レディ・プレイヤー1』2018年の作品ですね。これ、続編とか出るんでしょうかね、『レディ・プレイヤー2』みたいな。でもこれ、なんで、レディ・プレイヤー・「ワン」なんでしょうかね?

Dain:今ふっと思ったのが、昔のゲーセンに置いてあるアーケードゲームですね。英語で「Player One」「Player Two」とかあって、コインを入れると、「Credit」が増えて、スタートボタンを押すと「Ready」となってゲームが始まる。なので、『レディ・プレイヤー1』なんじゃないかな。

スケザネ:なるほど!

Dain:映画の中でコインを一つもらってライフが増えるというのは、あれは「Credit」の意味だったんですね。たぶん若い人はピンとこないかもしれないんですけど、100円入れるとピコーンとかいってクレジットが増えるんです。「コイン=クレジット=ライフ」なんです。ゲーセンに通ってコインをつぎ込んだおっさん向けのネタですね。

なので、『レディ・プレイヤー2』の物語をやろうとするなら、2人プレイの協力型か対戦型か分からないけれど、1人でやる話にならないかもですね。

 

9.オマージュの物語作法

ネオ:この映画って、パロディとかオマージュの形でいろんな映画やアニメやゲームが入っていますよね。バックトゥザフューチャーとかガンダムとか。ぼくはそれが大好きで、SNSやゲームの世界で、ありものを再現したり、まんがのキャラを自分のアバターにするって、まさに現実にあることをきちんと再現していると思います。自分の車をデロリアンにするとか。でも賛否両論ある。知らないとつまらないとか、内輪ネタになってるとか。そういう部分については皆さんどうお感じでしたか。

スケザネ:「元ネタを知らないと分からない」というシーンを作っちゃいけないでしょう。知らなくても楽しめるけれど、元ネタを知ることで、もっと面白くなるという感じ。続編を作るなら、一作目を見ていなくても最低限楽しめる。けれど、一作目を見ていると、もっと面白い作りにする。

『レディ・プレイヤー1』が秀逸なのは、元ネタを知らなくても大丈夫なように作られていることと、元ネタがストーリーに絡むとき、「元ネタを知らない人」が配置されているところ。

ネオ:『シャイニング』のとことか!

スケザネ:そうそう! あそこで全員が『シャイニングだぜ!』となったらダメで、あれはエイチが「シャイニング! 怖いの嫌いなんだよ」って言ってるのが良いんですね。知らなくても楽しめるし、知ってる人がニヤリとすればいい。

Dain:すごく細かいネタがあちこちにあって、『ターミネーター2』で親指立てて溶鉱炉に沈むシーンがありましたね。それだけじゃなく、細かすぎるかもしれないけれど、『ターミネーター2』で、主人公の男の子を引き取っているおばさんいましたよね? 最初のあたりで頭刺されて死んじゃうおばさん。あのおばさんが着ている服が、『レディ・プレイヤー1』で爆死するおばさんが着ている服と一緒だったんじゃないかな……違ってたらごめん。

スケザネ:それに気づくDainさんも相当変態だとwww

Dain:『バットマン』とか『ストII』とか、分かりやすいネタで楽しんでもいいし、もっと細かい、マニアックなネタもきっと散りばめられているはずで、そういうネタを探しながら観るのも楽しい、宝探しみたいな映画じゃないのかな。

スケザネ:『レディ・プレイヤー1』は、『スターウォーズ』とかメジャータイトルの形で何十年後までも残る映画じゃない、と個人的には思います。でも、数十年後にマニアの間では垂涎の的になる、未来のオタク向けの宝物ですね。

 

10.敵が強くないのは理由がある

Dain:あと、物語的なところで気になるのがあって。この場は、物語の面白さを探求する会じゃないですか。その観点からして、この映画でちょっと不満に思えるところがあるのです。それは、『レディ・プレイヤー1』は、「敵が強い」というセオリー通りになっていないところ。

物語を面白くするために、敵をとてつもなく強くする必要があります。それを打倒して世界を救うわけですから。なのに、敵のボス弱くね? と思っちゃうんです。簡単に言うと、「パスワードをそんなとこに貼っておくなよ」って。マヌケすぎる。

もっと冷酷無慈悲なやつとか、淡々と仕事するマシーンみたいな奴とか……と考えていくと、そんな「部下」がいたな! と思い出して。ドクロっぽいコスをしてた部下とか、最後にアクションしてた部下とか。たぶん、強さの属性を部下に分け与えたから、ラスボスが弱くなってしまったのかも……

スケザネ:これ、問題は「ボスを2つ設定したこと」かなと思います。結局これって、「カギを見つける謎解き」と、「世界を支配しようとしている敵を倒す」の、2つになっちゃってる。主人公としては、謎を解いて鍵を見つけたいという動機で動いているのに、悪人が邪魔をする。謎を解きつつ悪人を倒さなきゃいけない。

「悪人を倒す」ならガチンコで悪人にすればいいけど、謎を解くための尺が足りないから、パスワード貼り付けるようなマヌケにしないといけない。強すぎたら、倒すために時間が足りなくなる。謎と悪人、詰め込みすぎなんですよね。

もし、「敵を強くする」要素を盛り込みたいんなら、鍵の3つ目を門番とかにして、そいつを強くすればいい。物語を節約できる。

Dain:おお! この物語は2つの目標があったんですね。「謎を解く」と「悪人をやっつける」というゴールで思い出しました。大昔に観たやつで、少年少女が地図を見つけて宝探しをするというのと、宝を奪おうとする悪人をやっつけるのを、同時進行でする映画。

そのタイトルは、『グーニーズ』、たしかスピルバーグが作ったはず。冒険あり、謎解きあり、ロマンスもありました。

スケザネ:なるほど!

どぶ川:①世界を守る②ボーイ・ミーツ・ガールの王道ですからね。「悪人をやっつける」が①世界を守ることで、「謎を解く」が②ボーイ・ミーツ・ガールにつながる。やっぱり身体を張って好きな女の子を守るというので、最後はリアルで戦わなければならない……映画はそういう風にできているのかも……あれほどCG見せて、ラストはまさかの肉弾戦ですからね。そうすると、ボスをあまりに強くすると弊害が出てくる。

スケザネ:現実の世界の中にゲームがあるボーイ・ミーツ・ガール系で行くと、結末ってこうなっちゃうんじゃないんじゃないかな。ゲームの世界で頑張ることと、現実世界でどう生きるかのバランス取るのがとても難しい。ゲームの世界をあんなに頑張って守ったのに、週に2日もゲーム禁止してるんだって……

どぶ川:僕はわりとあのラスト好きですね。皮肉めいたユーモアが効いてて。ゲームばっかりやってないで、現実も大事っていう。ゲームばかりやってた主人公に恋人ができて、現実の良さにも気づいたというのが洒落てて良いですね、映画っぽくて。



100分に渡る長丁場で、どぶ川さん、スケザネさん、ネオさん、そして参加された皆様、ありがとうございました。

何といっても、映画に詳しい方の意見を伺えたのが大きい。自分が観た経験が、また違った角度から光を当てられ、「そうだったのか!!」と気づくのは、たいへん愉快な経験だった。撮影の仕方で、観客の感情が変わってくるところなんて、描写の仕方で読者の感情を揺さぶる小説と通じるものがある。これは、どぶ川さんのおかげ。

そして、物語を作る側の脚本家の方から、この『レディ・プレイヤー1』をレビューするという経験は、大変タメになった。映画を観てて、消化不良になっていたり、「ごちゃごちゃしている」という言語化しにくいフラストレーションの根っこは、物語の情報量の密度だったことが、スケザネさんのレクチャーのおかげだ。

さらに、こうした場を設けていただいたネオ高等遊民さんには感謝しかない。映画愛好家と脚本家のお話がいい感じでクロスして、思いもよらないタメになるお話が伺えたのは、ネオさんのプロデュースのおかげ。

この読書会の後、原作となった『ゲームウォーズ』(アーネスト・クライン)を手にしたのだが、展開が全然違ってて笑った。ウェイドもエイチもサマンサも、めっちゃ太ってた(予想通り!)。

そして、ネタが凝りに凝りっていた。「『卒業白書』でトム・クルーズが持て余してたクリスタルエッグみたいに」とか、「机の上にフォークト=カンプフ検査機があった」など、ページをめくるごとに80年代~00年代のネタがゴロゴロ出てくる。ラストの決戦では、ガンダムやメカゴジラだけでなく、エヴァ(たぶん初号機)や勇者ライディーンまで出すところなんて、おっさんどものツボを知りすぎているなり。

『レディ・プレイヤー1』の映画に「詰め込みすぎ」という印象があったが、原作を読む限り、めちゃめちゃスリムにしていることが分かる。

さらに、原作小説の続編も出ている。もちろんタイトルは、”Ready Player Two” で、「最後のイースターエッグ」を探す展開になりそう。紹介を見る限り、もっと強い敵が登場するだけでなく、人類存亡の危機になるという。

過去の「物語の探求」読書会はこちら。

第1回:面白い物語の「面白さ」はどこから来るのか? 『物語の力』を読み解く

第2回:物語を作る側の視点から『ズートピア』の面白さ、怖さ、凄さを語り尽くす

 

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「科学」と「正義」を混同すると、たいてい地獄ができあがる『禍いの科学』

アヘン、マーガリン、優生学、ロボトミーなど、科学的に正しかった禍(わざわ)いが、7章にわたって紹介されている。あたりまえだった「常識」を揺るがせにくる。

ヒトラーの優生学

たとえば、アドルフ・ヒトラーの優生学。

劣悪な人種を排除すれば、ドイツを「純化」できると信じ、ユダヤ人を虐殺したことはあまりにも有名だ。

だが、ガス室へ送り込まれたのは、ユダヤ人だけではない。うつ病、知的障害、てんかん、同性愛者など、医者が「生きるに値しない」と選別した人々が、収容所に送り込まれ、積極的に安楽死させられていった(『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』が詳しい)。

『禍いの科学』によると、ナチスの優生学は、ヒトラー自身が編み出したものではないという。出所は、『偉大な人種の消滅』という一冊の本で、ヒトラーが読みふけり、「この本は、私にとっての聖書だ」とまで述べたという。

『偉大な人種の消滅』はマディソン・グラントが書いたものだ。ニューヨーク生まれ、イェール大学を卒業し、弁護士として成功した後、自然保護運動で活躍する。バイソンやレッドウッドといった絶滅危惧種を救うことに尽力したとある。

グラントはそこで、「北方人種」の純血性を守れと主張する。茶髪か金髪の碧眼の白人こそが「純粋」で、米国人の遺伝子プールに劣等人種が入ってこないよう制限すべきだという。

この本は、科学専門書として扱われ、権威ある学術誌 ”Science” や ”Nature” 、”American Historical Review” で高く評価されるだけでなく、当時の大統領である、ルーズベルト、カルビン・クーリッジの両氏が絶賛したという。

現代の感覚だと非常識の極みだが、当時は真面目に採択され、1917年に、知的障碍者やてんかん患者の入国を規制する「移民制限法」が可決される。同年に公開されたハリウッド映画『黒いコウノトリ』は、欠陥のある者を抹殺し、国を救おうというメッセージが込められており、熱狂的なファンに支えられ、10年以上にわたって上映されたという。

さらに、医学会、科学界に支持され、強制不妊手術が合法化される。米国は断種合法化の先進国であり、知的障碍者、梅毒患者、精神障碍者、アルコール中毒者、てんかん患者に不妊手術が行われたという。

「人類進化を自己決定できる」という優生学は、より良い社会を作るために実行された。ナチスは、それを最悪の形で現実化したものだといえるだろう。

レイチェル・カーソンの欺瞞

もう一つ、わたしの「常識」が揺さぶられたのが、レイチェル・カーソンの欺瞞だ。

カーソンと言えば『沈黙の春』が有名だ。環境保護の重要性に目を向け、社会運動を起こした一冊で、20世紀の最重要100冊リストにも入っているのだが、本書は欺瞞に満ちているという。

『沈黙の春』というタイトルの理由は、下記の一節による。

かつて町では、夜明けとともにコマツグミ、ネコマネドリ、ハト、カケス、ミソサザイをはじめとするいろんな種類の鳥たちの声が響き渡っていたが、今では聞こえる音もなく、沈黙があたりを支配している。

なぜ鳥が歌わなくなったか。DDTを始めとする農薬のせいだ。DDTは鳥を殺す。鳥だけでない。元気だった子が具合が悪くなり、死んでしまう。女たちは不妊や早産に悩まされる。先天性異常、白血病、がん、肝臓病が増える―――と、環境汚染を警告する。

これ読んだ頃の時代の風潮なのか、アニメ映画『風の谷のナウシカ』や『複合汚染』(有吉佐和子)、『わたしの赤ちゃん』(日野日出志)のイメージと合わさり、わたしの中で、「DDT=猛毒」と結びついた。

『沈黙の春』は発売直後からベストセラーとなり、22カ国語に翻訳され、国際的な名声を博す。その影響は大きく、1970年の国家環境政策法を始めとし、様々な環境保護の法律を成立させ、環境保護庁、労働安全衛生局を設立させる。そして、ヤリ玉に挙げられていたDDTは禁止となった。

DDTの禁止は、最も恥ずべき行為の一つ

問題はここからだ。

世界各地でマラリア、黄熱、デング熱が大流行する。

DDTは、こうした病気を媒介する蚊に対して非常に効果がある。実際インドでは、DDT散布によって、年間マラリア発生件数は1億件から6万件に減少した(1952~1962)。ところが、DDTの使用停止によって、600万件に増加したというのだ(1970年代後半)。

他にも、ネズミ、プレーリードッグ、ジリスに寄生して感染症を媒介するノミにも効果があるという。こうした病気を事実上根絶できたことを踏まえて、5億人の命を救ったと推定されている。DDTは、歴史上のどんな化学薬品よりも沢山の命を救ったといっても過言ではないという。

DDTが禁止されることで、本来ならば死ななくても良い人(ほとんどが5才未満の幼児)が亡くなったという(『禍いの科学』p.208には「1972年以降、5000万人が命を落とした」とあるが、出典は書いていない)。

マイケル・クライトンは「DDTの禁止は、20世紀の米国において最も恥ずべき行為の一つだった」と書き、「私たちには多くの知識があったのに、そんなことはお構いなしに、世界中の人々が死ぬに任せ、気にも留めなかった」と述べている(同書p.209 ※1)。

さらに、カーソンの警告に反し、ヨーロッパ、カナダ、米国の研究により、DDTは肝臓病や早産、先天性異常、白血病の要因にはならないことが示されたとある(同書p.209)。

もちろん、カーソンがこうした追試研究を知る由もない。しかし、カーソンが知ってて伏せた統計情報が明るみに出されている。

カーソンは不都合な事実を伏せた?

それは、クリスマス・バード・カウント調査になる。年末年始にかけて行われ、ボランティアにより野鳥の数がカウントされる。1900年から毎年行われているイベントだ。

この調査によると、DDTが使用されていた期間は、全ての種類の鳥が増え続けていたという。カーソンは、ホシムクドリ、コマツグミ、マキバドリ、ショウジョウコウカンチョウが被害を被った事例に注目しているが、どの鳥も、5倍増えていたという結果になる。

レイチェル・カーソンは、全米オーデュボン協会の会員で、毎年のクリスマス・バード・カウントにも参加していた。だから、彼女が鳥の変化について知らなかったはずはない。にもかわらず、カーソンは、このデータを取り上げないことを選んだ(同書p.211)。

『沈黙の春』の文章は美しく、情緒豊かに強い説得力で、読者の心に訴えかけた。だが、それを支えるデータは少なく、誰かの目撃談や、具体的なエピソードに多くのページを割いているという。本書の結論はこうだ。

レイチェル・カーソンは科学者だと自称していたが、結局のところ、そうではなかった。彼女は、自分の偏った意見に合うように真実を捻じ曲げる論客だった(同書p.214)。

『沈黙の春』は、これまで見過ごされがちだった環境汚染に目を向け、社会を変える運動にまで変えていった。この功績は疑いようもない。その一方で、データよりも自説を優先し、助けられたはずの命を失わせた罪も大きい―――『禍いの科学』は、こう結論付けている。

「科学的に正しかった愚行」からの教訓

「科学的に正しい」として下された判断、実行された政策が、実は最悪の手だった―――歴史を振り返ると、そんな話が多々ある。

『禍いの科学』は、その原因を紐解き、教訓を探る。「データに基づいて考えよ」「時代の空気に流されるな」「毒も薬も量次第」など、有用なものも多い。これからの「科学的に正しい」判断を考える上で、役に立つだろう。科学的に正しいことと、それが正義であることは別なのだ。

だが、本書にも注文がある。レイチェル・カーソンの欺瞞を攻撃する根拠として、データの裏付けの乏しさをあげつらい、「データに基づいて考えよ」と説く。それにもかかわらず、本書でデータの裏付けが果たされていない。

『沈黙の春』の反証となる、様々な数値や研究成果が述べられているが、その出典が注釈に無い(※2)。かろうじて巻末に参考文献一覧があるが、本文のどこのエビデンスとしているか紐づけがされていない。データが全てというならば、隗より始めるべきだろう。

Wazawai

※1 本書に出典は明記されていないが、Michael Crichton ”State of Fear” (邦訳は『恐怖の存在』)に、類似した発言がある[URL]

"Since the ban [of DDT ], two million people a year have died unnecessarily from malaria, mostly children. The ban has caused more than fifty million needless deaths. Banning DDT killed more people than Hitler."

“[DDTが]禁止されてから、マラリアにより、死ななくていい人が毎年200万人も亡くなり、そのほとんどが子どもでした。DDTの禁止が、死ななくてもいい5000万人以上の死を引き起こしたのです。DDTの禁止は、ヒトラーよりも多くの人を殺したのです”

※2 注釈や出典が明記されていないのは邦訳版であるから……という可能性もある(翻訳の際、注釈を切り捨てる出版社も多々あるから)。原書は手に入らないが、Goodreadsのレビューに "there are no footnotes or source citations for Offit's facts" というコメントがあり[URL]、Offit(著者)の主張を支える出典やソースが存在しないことがうかがえる。

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諸星大二郎『美少女を食べる』を読むと、自分が食べているものが信じられなくなる

法外な会費をとり、秘密裏に開かれる「悪趣味クラブ」。不定期に開催される秘密の会合なのだが、そこで「美少女を食べる」という特別ディナーの席がもうけられる。

もちろん、リブロース(肩)やランプ(お尻)の肉を提供するのだから、少女の命はない。当然、料理人も、そのレストランも、罪に問われるだろう。そして、それを承知で食べるほうも犯罪に加担しているも同然だ。

しかし、そんなことがありうるのだろうか? いくら悪趣味だとしても、人を殺して食べるような外道が許されるのだろうか?

少女の写真やドレスが展示され、彼女が行方不明になったことを報じる新聞記事が回覧されるが、招待客は半信半疑だ。

これは、そういう雰囲気をつくり、思い込ませることで、「少女の人肉料理を食べる」という背徳感やスリルを楽しむ、一種の演出、悪趣味なショーなのではないか? と疑い始めるのだが……

……この話を聞いて、どう思われましたかな? と続く。

Bishoujo

これが非常によくできているのは、枠物語の構成であるところ。枠物語とは、一つの物語の中に別の物語を含む形式だ。物語を虚構とさせないために、その物語の中の人が「こんな話があってね……」と語らせる。

美少女を食べる物語を、「そのまま」描こうとすると、完全なフィクションとして成立させる他ない。

例えば、そのまま描いたのなら、森山塔の『デマコーヴァ』を思い出す。キッコーマン1本分を浣腸され、痒みと苦痛に身悶えする様はグロテスクで淫靡なり。だが、描くほうも読むほうも「物語=虚構」というお約束を成り立たせている。

だが、諸星大二郎が描く『美少女を食べる』は、物語と現実を、どこまですれすれにできるかという試みる。そして、この物語は、読み手によって、いくらでも残酷にも滑稽にもなりうる。

おそらく、美少女を食べるお話は、いま描こうとすると猛烈な反発を食らうだろう。だから、いったん「こういう話があってね」とフレームに入れる。そして、その外側で真偽の吟味を図る―――という物語で見せるのだ。

同様に、両腕のない女の話や、女の〇を切り落とす話など、一見、受け入れがたい素材を、一味違った形で料理する。その諸星大二郎アレンジが大変面白い。どこかで見たことのある話のような―――と感じたら、それは正しい。巻末に元ネタがあるので、一通り読んだら答え合わせをするといいかも。

淫靡で禍々しい料理をご賞味あれ。

Bishoujowo

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『君の名は。』の初期プロットと、グレッグ・イーガン『貸金庫』の関係

きっかけは、グレッグ・イーガンのこのツイート

“『君の名は。』を観ました(私の短編『貸金庫』にインスパイアされたらしいけど、プロットは全く違う)。ちょっと甘ったるい所もあるけれど、全体的に素晴らしく、美しいビジュアルでした。”

おお! ハードSFの巨匠が、『君の名は。』を観たのか! 一挙に湧いた親近感と、”あの”イーガンがtwitterで呟いている気安さも相まって、おもわずこんな呟きをした。

Dain(筆者):グレッグ・イーガンの『貸金庫』、読んでないのですが、肉体を持たず、一日ごとに宿主(人間)が変わる意識が主人公の物語みたい。おそらく、イーガン先生、『とりかえばや』『転校生』『おれがあいつであいつがおれで』みたいな、男と女が入れ替わる物語を知らないのでは?

すると、こんなコメントをいただいた。

T. Hashimoto:“こんにちは。『君の名は』を監督した新海誠さん自身がインタビューで「貸金庫」からの影響に言及しているんです。

マジですか! と、紹介いただいたリンク先に行く。『君の名は。』の公開直前のインタビューで、「新海誠監督オススメのSF作品は?」への回答として、グレッグ・イーガンをとり挙げる。

新海誠:「あり得たかもしれない自分」とか「こうではなかったかもしれない自分」、あるいは「災害などがなかったかもしれない日本」という言い方もできますけど、そういう並行世界的な想像力に貫かれた作品を初期の頃は書いていて、中でも短編集『祈りの海』に収録されている「貸金庫」という物語は、毎日、違う人になる話なので、少し影響があるかと思います。([FILMERS.2016.8.22]より)

なんと! 新海さん自らそう語っているとは。知らなかった……さらに、新海&イーガンで、エールの交換をしている。

新海誠:とても光栄です。あなたの『貸金庫』は、初期のプロットを作るうえで、インスピレーションを得た作品の一つです。目覚めるたびに違う身体になっているヒロインの物語です。
グレッグ・イーガン:ありがとう! あの物語があなたに強く印象付けたことを、光栄に思います。
新海誠:世界中の人たちと同じように、あなたの数々の作品によって、大きく心を動かされてきました。次の作品を楽しみにしております!

恥ずかしい……「イーガン先生、知らないんじゃね?」なんて言ってた自分が恥ずかしい。穴掘って埋まっていたい。T. Hashimotoさん、ありがとうございます。ご指摘いただかなければ、ずっと知らなかったままでした。

この会話で紹介されていたのが、『君の名は。』の最初期のプロット。

目覚めるたびに違う身体になっている女性が主人公で、「幼いころからくり返し見た夢。自分は知らない人間になっていて、知らない場所で、知らない友達がいて、言葉も通じず、最後は決まって、空にまばゆい彗星が見える」という物語だ。

『君の名は。』の最初期のプロットヴィジュアル
(
新海誠のツイートより引用)

Yourname

どうしても気になるのが『貸金庫』だ。

『君の名は。』と比べて、どこが似ており、どう違うのか? あの入れ替わりのアイデアの源泉を探るべく、読んた。そして、『君の名は。』のロマンチック・ラブではなく、「自分とは何か?」という根源的な問いに向き合う、切なすぎる物語だと分かった。

30ページと少しの、短い、ほんとうに短い小説だ。

自分の奇妙な人生をモノローグで振り返り、最後に、ある決意をする男の話だ。男は、目覚める度に別の身体になっており、その身体の「ふり」をすることが、「わたし」の日常になる。

この能力(?)は、何かのきっかけに生じたものではないようだ。なぜなら、最も遠い記憶でも、「両親」は毎日変わっていたから。

睡眠をトリガーとして発生することは、『君の名は。』と同じだ。だが、三葉と瀧のように特定の人と入れ替わるのではなく、同年代の人に毎日乗り移る感じ。また、岐阜と東京という距離間はなく、同じ街の人の身体になる。

身体の本来の持ち主を、「わたし」は宿主と呼び、宿主の特徴や住んでいる場所を、ノートに記録しはじめる。このノートを隠しておく場所が、「貸金庫」なのだ。

なぜ、こんなことが起きているのか、「わたし」とは一体誰なのか、こうした謎が、物語の終盤で明らかになとき、やるせない思いに胸が苦しくなる。そして、それでも、「わたし」が踏み出そうとしている、明日という日に、胸を撃たれる。

「わたし」とは何か、記憶とは何か、自分という存在を定義するものは何か? ややもすると、哲学的思弁に陥りがちなこうした問いに対し、ひとつの男の決断という形で、応答している。

イーガンの凄さを改めて知るとともに、揶揄していた自分が情けない。逆だったんだ。イーガンのこの短編が示した、「わたしとは何か?」への応答が、『君の名は。』になるんだ。

『祈りの海』に収録されている、『貸金庫』の冒頭を引用する。『君の名は。』のオープニングであっても十分なくらいだ。

ありふれた夢を見た。わたしに名前がある、という夢を。ひとつの名前が、変わることなく、死ぬまで自分のものでありつづける。それがなんという名前かはわからないが、そんなことは問題ではない。名前があるとわかれば、それだけでじゅうぶんだ。

 

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平和を欲すれば戦争に備えよ『戦争学入門 戦争と技術』

誰だって戦争は反対だ、平和がいいに決まってる。

しかし、

平和のことだけ考えていれば、争いごとは起きないのか? 世界中の武器を廃棄し、二度とそんなものを作れないようにすれば、戦争のない世の中になるのだろうか?

そんな疑問を抱えながら「戦争学」を紐解くと、戦争とは社会と緊密に結びついた事象であることが分かる。各時代の技術の発展と軌を一にし、戦争「だけ」を分離・根絶するのは難しい。今のところ、戦争を囲い込み、飼い慣らすしかないように見える。

では、どうすれば、戦争を囲い込むことができるか?

戦争を研究するしかない。

しかも、これまでの「軍事学」や「防衛学」、あるいは「安全保障学」のような軍事・地政学的なアプローチではなく、もっと領域を広げる必要がある。戦争とは、人類が営む社会的な事象なのだから。

『戦争と技術』は、技術の領域から戦争を考察する。どんな技術が戦争に利用され、それにより戦争がどう変化し、さらに戦争が技術をどう進化させてきたかを振り返る。

鐙が騎士を最強にする

たとえば、「鐙(あぶみ)」の戦争への応用が面白かった。

鐙は足を乗せて身体を安定させる馬具で、遊牧民族がルーツと言われている。ヒストリエの第6巻で知ったのだが、古代ギリシャや地中海沿岸では、まだ普及していなかったようだ。

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これが、中世の騎士にとっての技術革新となる。

鐙は、7~8世紀にヨーロッパに導入されたのだが、そのおかげで踏ん張りがきいて、槍に体重をかけて敵を撃破できるようになったという。鐙の導入だけでなく、重量のある鞍、蹄鉄の発達により、人馬そのものが衝撃武器と化した。馬のスピード&機動力と、重装甲・重装備の組み合わせは他を圧倒し、騎士は、戦場で無敵の存在となった。

騎士は戦争の主力となり、領主は騎士を抱えようとする。ところが騎士の装備は高価であり、馬の世話や従者など、サポート要員が必要だ。

そこで領主は家臣に土地を分け与え、家臣は土地からの収入で騎士を雇い、武具や装備を購入できるようにした。騎士は見返りに忠誠を誓い、軍役に就くことを約束する―――封建制の始まりである。

鐙の登場が、封建制度をもたらす触媒として働いたと考えると面白いが、本書ではもっと慎重に、「封建制度の説明に役立つ技術であったが、この制度をもたらしたものではない」と釘を刺している。

火薬が騎士を追い落とす

東洋で発明された火薬を、殺戮のイノベーションにまで高めたのは西洋だ。そして、火薬がもたらした変化は、城壁から社会制度まで多岐に渡る。

それまで、城塞の壁は、高さこそあれ、それほど頑丈なものではなかった。そのため攻城砲が登場すると、城壁は簡単に穴をあけられ、そこから歩兵が突入できるようになった。

攻城兵器のバリエーションとして、投石器で打ち込む、梯子をかける、破城槌など、さまざまなものがあった。だが、火薬革命が、遠距離攻撃の一つにイノベーションを生み出したのだといえる。

戦力の中心が、貴族が提供する騎士から、平民が運用する大砲になると、税収のリソース配分も変化してゆく。

領主は騎士よりも大砲を抱えるようになり、自前の歩兵隊を育成し、軍事力を独占する方針になる。家臣に分け与えていた土地を独占し、その課税による収入を、高価な大砲へ集中させるようになる。この過程を通じて、封建制→王政→絶対王政へと至るようになったというのだ。

同時に火薬は、銃手の地位を高め、騎士を追い落とすことになる。

それほど訓練を受けていない平民であっても、引き金を引くだけで遠距離から殺傷できるようになった。弓矢やクロスボウを防ぐために、甲冑はどんどん厚くなっていったが、銃の登場が無効化させることになる。結果、平民の地位を向上させ、貴族を危機にさらしたという。

「槍の穂先」のメタファー

さらに火薬は、兵站の重要性をさらに増すことになる。

これまでは、遠征の馬のための飼料が兵站の中心にあった。だが、大砲や銃器がメインとなると、弾薬や燃料、補修部品が格段に増えることになる。荷馬車のためのオーツ麦は行軍先にあるかもしれないが、大砲や銃の修理道具や交換部品は、遠征先で見つからないかもしれないからだ。

当然、遠征軍の補給線はこれまで以上に伸びることになり、敵勢力による格好の的になる。そして、そうさせないための警護や支援兵が増強されることになる。

つまり、火薬革命は、大砲や銃といった前線の火力だけでなく、その兵站も変えることになる。実際にダメージを与える兵器よりも、それを支える補給や非軍事技術のほうが重要になってくるというのだ。

本書ではこれを、「槍の穂先」で喩える。

最古の戦闘は、単純な武器である石や棍棒、槍、ナイフで始まり、支援はほとんど必要としなかった。しかし、時を経るとともに、防具、兵站、情報、通信、輸送、医療の支援こそが、勝利を左右するようになる。

すなわち、目標を攻撃する「穂先」よりも、それを支え・目標へ届ける「柄」の方がリソースを必要とするようになったのだ(21世紀では、「柄」に相当する要員や物資が、軍全体の90%を超えた)。

戦争を囲い込む:軍事用ドローン対策

わたしは、「軍事技術」という言葉から、銃器や核兵器といった「攻撃する技術」を思い浮かべる。だが、本書がくり返し強調するのは、そうした攻撃する技術を届ける「柄」の重要性だ。

たとえば、トレンドなら軍事用ドローンだろう。

本書の主張を適用するなら、施設や人を攻撃する「穂先」としてのドローンではなく、「柄」となる部分―――すなわち、それを生産し、現場まで届け、展開する輸送システムや、適切なタイミングで交代・充電させ、作戦を続行するプログラム、さらにこれらを統括するマネジメント要員―――これこそが、重要となる。

そして、軍事用ドローンに対抗する術としては、同じようにドローンを展開させるのではなく、相手のドローンの補給システムや電波リソースにダメージを与える方が、より効果的と言えるだろう。

したがって、ドローンの行動を阻害したり、誤判断させるジャミングや、目標そのものに電波的迷彩を施すといった技術を開発することで、「穂先」同士の戦争を抑止することにつながるかもしれない。

以上はわたしの妄想だが、戦争を支える技術は、社会を支える技術でもあるのだ。

 

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物語を作る側の視点から『ズートピア』の面白さ、怖さ、凄さを語り尽くす

物語に夢中になったことはないだろうか?

小説やマンガ、ゲーム、映画や舞台など、素晴らしい作品に出会ったとき、あまりの面白さに、あっという間に時が過ぎる。お話が終わり、我に返った後、あらためて、なぜそれを面白いと思ったのかは、気にならないだろうか。

  • その物語の「面白さ」はどこから来たのか
  • なぜ、自分が、そこを「面白い」と感じたのか
  • その「面白さ」は一般化/再現できるのか

こうしたテーマを視野に入れ、古今東西の「面白い」作品について語り合う。これはという作品を取り上げ、物語を作る人、楽しむ人、広める人など、様々な視点から「面白い」について語り合うオンライン会だ。

「物語の探求」読書会(ネオ高等遊民サークル

今回の課題作は、『ズートピア』。2016年に公開されたディズニーのアニメーションで、アニー賞やアカデミー賞を受賞しており、かなり話題になった作品だ。ご覧になった方も多いと思う。

注意:『ズートピア』と『トイ・ストーリー4』のネタバレあり

Zootopia

目次

  1. ストーリーは、たったの100分
  2. キツネ避けスプレー=内なる差別意識
  3. 【重要】ジュディとニックは可愛い
  4. 人間っぽくさせない動物で人間社会をやる
  5. 没となったディストピアな『ズートピア』
  6. 『トイ・ストーリー4』の本質=「〇の〇離れ」
  7. なぜベルウェザー副市長は陰謀を企んだか
  8. 『ズートピア』を現実社会の写し鏡にしなかったわけ
  9. 『ズートピア2』はトイ・ストーリー型かアナ雪型か
  10. 勇気を持って、マンネリ化
  11. 自分では気づかない自分自身の良さ、「成長感」
  12. ズートピアの普遍性は「可愛い」と「笑い」
  13. 禁断の技:ボイスレコーダー

 

スケザネ:物語の探求第2回、課題作はディズニー映画『ズートピア』ですね。よろしくお願いします。

他3名:よろしくお願いします!

スケザネ:早速Dainさんがご用意いただいたドキュメントの説明から、お願いします。

Dain:まず、「ズートピア・メモ」を作りました。話したいこと、皆さんから伺いたいことが沢山あるので、とりあえず全部書きました。これに遊民さんから追記いただいているので、これをベースに話ができればと思います。

また、「ズートピア・シーン一覧」を作りました。全部のシーンと印象的なセリフを一覧化したものです。「あの場面のあのセリフが~」というときの参考にしてください。

スケザネ:これ入力だけでも結構、ホントありがとうございます。めっちゃ大変だったと思います。

ネオ:絵を文字にするって大変だからね。

Dain:ありがとうございます! 「シーン一覧」を作ってて気づいたのが、プロットポイントです。『シド・フィールドの脚本術』(※1)を読んでたとき「いい映画にはプロットポイントが2つある」ということを教わりました。プロットポイントとは、「ストーリーのアクションを加速させ、別の方向へと行き先を変えるような事件やエピソード」(※2)です。ズートピアのプロットポイントに印を付けましたので、脚本に詳しい皆さま、後で採点してください(笑)。

あと進め方だけど、どうします?僕がやる収拾がつかなくなるんだけど。

スケザネ:誰がやっても収拾つかないんで。大丈夫です。

Dain:では第一印象から順に話しましょう。私だと、最初の「おもしろい!」というのに加えて、この物語ってどんな風に作られてるんだろう? ということが気になりました。脚本苦労したんだろうなとか、そっちの方が気になってしまい、あんまり良い視聴者ではなかったですね。

ネオ:作り手あるあるな感じかな。

 

1. ストーリーは、たったの100分

Dain:そうそう。物語世界の設定だと、みんな何食べるんだろう?っていうのが、一番引っかかりました。チョコレートケーキやドーナツ、アイスキャンディーとか出てくるんだけれど、でもこの世界って、肉食動物って何食べてんだろうなあ?って。ハンバーガー食べてるんだったら、ハンバーガーのその肉って何の肉なんだろう?って引っかかってました。あと、『ズートピア2』が制作されているらしいのですが、2ってどんな話になるんだろう? というのも気になります。次はスケザネさん行ける?

スケザネ:はい、了解です。最初、黒幕は誰なんだろう? という所が面白くて夢中になり、次は気になるシーンを集中的に観て、結局3回観たんですけど、これはアメリカならではというか、人種や差別の問題とか、深掘れるんだろうなと思います。

あと脚本家の職業病ってやつで、ズートピアという世界の作りが上手いな、と唸らされましたね。

例えば冒頭で、ジュディが特急列車でズートピアに上京(?)するところ。そこで列車が来た時に、ネズミ用のちっちゃいドアとか、大型動物用のドアとか、ああいうちょっとした芸が細かくて、色々なものと動物たちが世界観として有機的に連関して結びついているっていう構造は、相当手が込んでるなーと、そこばかりに目が行ってしまって。

おそらく、まず『ズートピア』という世界を作るのが最初で、その後にテーマを作り、具体的にシナリオ展開していったんじゃないかな、と勝手に睨んでいます。なので、どういう風にこの世界を作っていったのか、むしろ僕はそっちのほうに関心がありますね。

今日はこの辺りをお話できればと思います。ではタケハルさんにバトンタッチしますね。

タケハル:そうですね。二点あって、まず一点目はスケザネさんに近いんですけど、美術ですよね。さっきスケザネさんが言ったネズミ用の入口があるとかもそうだし、街の中、街そのものが手が込んでてかなり面白いんですよね。

細かい処までよく出来てて、例えばジュディが帰ってきて、ニックと再会するところ。橋をくぐったところにニックが寝そべっていて、そこで橋をくぐった陰にジュディがいて……とか当たり前にさらっとやっちゃっているんだけど、再会する場所でよくあそこを思いつくよな、みたいなことが結構あって。背景の力がすごく大きく、それが世界観を含めて、そのキャラクターを立たせるための街並みとかが、すげー凝ってるなっていうのが一つ。

二点目は、脚本です。クレジット見た時に脚本に携わってる人がめっちゃいるんですよね。ジブリも結構そうなんですけど。10人とか12人とか平気でいるんで、やっぱりこう話全体が水も漏らさぬ造りというか。

例えばこの「ズートピア・シーン一覧」見ると、これまずシーンが多すぎるだろ、とか思わない? 上映時間は108分、ラストの歌が8分くらいあるんで、ズートピアって、結局100分なんですよ、たったの。100分でこれ全部やってる上に、何なら一つ一つのシーンがもっと細かいわけじゃないですか。

最初に幼いジュディの学芸会のシーンがあったし、その後に親子で歩きながら職業の話をして、お前はニンジン屋になるんだって言った後に、いじめがあって。これだけでもう3分ぐらいで、ぱぱっとやっちゃう? みたいな。しかもこれ連発されていくんですよね。

聞いた話なんですけど、ピクサーって脚本が分業で、ギャグに強い人とか、シリアスが上手な人とか分けてるっていうんです。それぞれの得意を持ち寄って、全体として成果を挙げられるって言うのが、アメリカ的だなと思いましたよね。日本でここまで人集めてやる脚本って、そんなに聞いたことないので、その辺が最初の印象ですかね。

ネオ:「最初の印象」がもうレベルが高すぎるって言うのが僕らの感想です。

全員:wwwww

タケハル:用意してるのよ、これは。聞かれると思っているから、第一印象。

全員:wwwww

スケザネ:今のタケハルさんの、シーンが多いというのは、言われて確かにって思うし、テンポ早いですよね、だからわずか100分にもこれだけ詰め込めていて。で、そのシーンでの問題意識というか、シーンが向かっていく先っていうのが絞り込まれてシンプルなんですよね。だから、テンポ早くても、観てるこっちが全然混乱しないし。

この物語の中って、各シーンで起きている問題トピックがちゃんと絞られているんですよね。そこの制御とか、観客への伝え方っていうのが、結構テクニカルにうまくやられてるんだと思うので。

タケハル:本当ですよ。だってそれだけ節約した時間をナマケモノに使ってるんですからね。

他3名:www確かにwww

タケハル:あの時間があったらもう3シーンぐらい進められますよ。

スケザネ:隣の奴にギャグ言うシーン、いらねーだろ。

タケハル:ホントホント。あの5秒あればみたいなことなのに。

ネオ:でもナマケモノのシーンをみんな一番覚えてるよね。

タケハル:そうなんだよね。その勇気よ!

スケザネ:オチ持ってきてるからね。あれはね。

Dain:確かにオチだったwww

タケハル:ま、ま、そんなところで。

Dain:次はネオさん?

 

2. キツネ避けスプレー=内なる差別意識

ネオ:まず最初に『ズートピア』をテーマにしようって僕が言い出したので、皆に観てもらってありがたいです。映画館で観た時に、「なんという傑作だ」っていう印象があったんですけど。

で、すげーって思ったのは、主人公のジュディの意識のところ。自分は差別されている側っていう意識だったんだけど、記者会見するくらいのいいポジションが得られたとき、今まで意識されてこなかった内なる差別意識っていうのが、思いっきり出てきてしまったみたいなところ。僕の哲学的な関心って、そういう自分の内面を見つめるところにあるんだけど、そういう面からしても、面白かったなっていうのが、ひとつですね。

あと印象に残ったシーンとして、駐車違反を取締りまくりますよね。もう他人を蹴落として手柄をあげるって感じで、誰も喜ばないようなやり方ですよね、年末みたいにwww 。出世とか実績っていうには、やっぱり他者の犠牲が伴うんだなーと。他人に害を与えないと自分が手柄を立てられないということが、なんかわかるなあとか。

スケザネ:いやあこれはいいセレクトしていただきました。

タケハル:ホントに!

スケザネ:じゃ感想はこれで一通りって感じですかね。

ネオ:皆さんもコメントで感想あれば、チャットでも自分の感想を。

スケザネ:ちなみに、皆さんもご覧になったんですかね?

ネオ:見た方はぜひ手を上げておいてください。

Dain:(チャットより)Mr.深煎りさんが、「狐用のスプレーを手放せていないのが印象的ですよね」って話されてますね。

ネオ:それが差別意識の表れですかね。それもちょっと難しいんだけどね。現実の女性が護身用のベルみたいなの持ってたら、男性に対する差別なのかって話になっちゃうから。それは難しいんだけどね。

Dain:差別や偏見の眼差しからすると、誰でも被害者から加害者になりうる、という話ですよね。「ああそうだな」と僕も思いましたね、

ジュディが「警察学校を主席で卒業する能力があるのに、駐車違反の取り締まりみたいな仕事をやらなければいけないの」みたいな言い方をしていて、それって駐車違反の取り締まりみたいな仕事は能力がある人にふさわしくない、っていう。それって、そういう人への差別や偏見じゃね?とかいうようなツッコミがスルッと出てくる。

記者会見でジュディが、ニックを傷つけることを言ってしまうところ。「あんなやつらみたいな」「あなたはあんな奴らみたいなものではない」なんて言い方をしてて、ニックから「あんな奴らみたいなってどんな事?」て言われるところ。それって、肉食動物に対する偏見じゃね? って隠しているのか、隠れているのか分からないけれど、そうしたものがポロっと出てしまう。差別や偏見は嫌だとジュディは思っているし、そうありたくないと言っているんだけど、それでもやっぱり自分はそうしていることに、自分で気づくという……

ネオ:ニックのおかげで気づけるっていう。

Dain:そうそう、ニックのおかげで気づけるっていう。

タケハル:ありましたね。

ネオ:Dainさんの聞いて思ったのは、こんな仕事は私がやるべきことじゃない、って思えるからこそ、あれだけ容赦のない取り締まりができると言うか、良くも悪くもプロ意識というか、その辺がうまくつながってすげーよ『ズートピア』。

タケハル:ありましたねえ。

スケザネ:象徴的なのは、キリンの車に駐車違反の切符を入れる時に、キリンのところに届かないから、標識みたいなのを踏み台にジャンプして、スッと差すシーンとか、ああいうところで何か遊び心が定期的に入るんですよね。また視点が変わっちゃうんですけど、あれは好きでした。

タケハル:それ結構大事だと思いますよ。最後の最後、ジュディがモノローグで、受け入れるってのは簡単じゃないって話をしているとき。虎と草食動物の子供がサッカーしてて、ジュディが間を通り抜ける時に、ジュディがボールを取ってリフティングするんですよね。別に入れなくてもいいんだけど、あのリフティングが入ることで、ちょっと見てられると言うか。そういう細かいものが積み重なると、スムーズに見ていられる。その工夫を抜きにして伏線をひたすら回収するだけにすると、意図が見えちゃうというか。

ネオ:遊びとか余剰のところが、全体を自然にするというか、そういう感じ。

タケハル:そこで手を抜かないというかね。

スケザネ:本当は駐車違反のシーンなんてすげー退屈ですもんね。それだけ切符を切ってるだけだったら。

タケハル:下手すれば、ジュディ嫌いになるかもしれないからね。

スケザネ:確かに、確かに。

 

3. 【重要】ジュディとニックは可愛い

タケハル:その流れで差別の話にも繋がるんですけど、無自覚であるジュディの方が問題みたいなとことか、さらにそれに対して、いや別にジュディは女なんだからいいだろう、みたいなところも言い出したりとか。

ただ僕が面白いなと思ったのは、そうと言っても、みんな結局ジュディとニックが好きなんですよね。ジュディとニックは可愛い。そこについてはブレがない。

これ逆に言うと、ジュディとニックがウサギとキツネだったから可愛く見えたけれど、草食動物と肉食動物だったら、例えばロバとハイエナだったらどうなんだろ? あんまり感情移入できなさそうなサイズだったりすると、全く同じことしても、この議論に行く前に、そもそもこの議論ができないんだけど。ただそうなると、それも差別じゃないの? みたいに思ったりとか。

Dain:はいはいはいはい。

ネオ:なるほどね。

スケザネ:そうなんです、そうなんです、そうなんです。

タケハル:だってね、ウサギはあんな目をしてないからね。ジュディはある程度、可愛く受け入れられるようにデザインされているんだけど、逆に言うと、ロバとハイエナのコンビでも受け入れられるやつが、差別のない精神を持っているかと言われると、それはちょっと違和感があるというか。その辺いろいろ考えましたよ、差別について。

ネオ:確かに。この作品のキャラの差別意識だけじゃなくて、僕らの持っているそういう感情というか、無意識的な評価だよね。「ウサギ=かわいい」とか「キツネ=ずる賢い」とか。

Dain:それを逆手にとって、うまく引き込んでいるのかもね。ジュディをウサギにして可愛くしているから、ジュディがそういう差別的なことを無意識にやってて、それをイラっとするかもしれないけど、それでもウサギだし可愛いし。その、可愛いという思いにはなかなか勝てないということですよね 。

タケハル:可愛いは正義

Dain:可愛いは正義。

タケハル:これは結構根源的なものがあるよな、と思いましたよ。

スケザネ:ふむふむふむー。

タケハル:でもね人間的には、ルッキズムみたいなことで、よくオーバーサイズのモデルとかの話をするんだけど、あれに対するのも、ちょっと僕は個人的には……いてもいいと思うんですけど、違和感があるのはあるかなというのが本音としてはありますね。

スケザネ:ちょうどこのまえ、『カラスはずる賢い、ハトは頭が悪い、サメは狂暴、イルカは温厚って本当か?』(※3)って本が出たんですよ、まさに今の話で。

例えば綺麗な蝶って色んな糞に止まるから結構汚いという、そういう話が飛び出してきて。動物に対するイメージって、昔から我々が勝手に作ってきたイメージなんですよね

だから、最後にアイドルのガゼルが効いてくる、って思ってて。ガゼルって温厚なイメージもあるし、あの役どころって、本当にぴったりだと思うんですよ。アイドルで、博愛精神みたいなものを体現しているんです。あれメスのガゼルで、オスはツノが生えていたりとか、徒党を組んで身を守ったりして結構強いんですよね。だからガゼルに託した意味って何なんだろうな?っていうのはずっと考えてます。

ウサギとかキツネは完全にこれは商業的にこうせざるを得ないと思うんですよ。それこそさっきのロバとかにはできないんですよ。ガゼルを持ってきてるのは分かるんだけど、なんかここを攻めたんじゃないかな、と。

タケハル:なるほど。

スケザネ:ここは攻められるというか、ちょっと謎ですね。そういう印象です。

タケハル:なんかね、日本人と西洋人の印象が違いますよね。ガゼルとかいないもんね。

スケザネ:ピンとこないですね。

タケハル:ちょっとピンとこない。

 

4. 人間っぽくさせない動物で人間社会をやる

Dain:『ズートピア ビジュアルガイド』(※4)にリッチ・ムーア監督のコメントがあって、ガゼルのキャラクターを作るとき、シャキーラっていうトップスターを参考にしたんだって。シャキーラって分かる? 俺分からん。

(チャットより)ゆすもひ:シャキーラはエロティックなダンスで歌うプエルトリカンです。

Dain:そのシャキーラの流し目の仕方とかをモデルに、ガゼルの動きを作ったんだって。ズートピアにはいろんな動物が出てくるんだけど、このガゼルのところだけ、わざと人間の髪型にしてて……

タケハル:ああ!確かに髪生えてた!

スケザネ:ああー!確かに。

Dain:なので、なんかズートピアって、人間っぽくさせないように、人間に動物の着ぐるみを着せたようにはさせないようにしてるのに、でもガゼルだけは特殊な存在にしたっていうのは今、まさスケザネさんの攻めてるっていうのはそこなのかもと思いましたね。

スケザネ:なるほど。たしかに人間の髪型だわ。

タケハル:すげえな、やりすぎだよ、はっきり言って。作り手からすると、すごいなって尊敬する反面、勘弁してくださいよっていう気もちょっとする。

スケザネ:わかります。それはわかりますわかります。めっちゃわかる。もう、そんな作り込むかね、みたいな。

タケハル:ほんとほんと。なんで思いついたんだよそれ、みたいな。この悔しさ。

スケザネ:悔しいですよね、わかる……差別の話にちょっと戻すと、物語を作るときに、こういう現実の問題っていうのにどれくらい向き合うかっていう話が出てくる。前回の物語の探求にあった寓意の話にまで戻るけど、この塩梅、すごい絶妙だなって思う。難しいんですよね、これ。差別の問題とか、人種、あとセクシャルな問題って、すごくセンシティブで、下手にやると叩かれて終わるんですよ。それこそ下品なやり方なんですけど、これを「人間」でやったりなんかしたら、絶対に問題が起こるやつ

タケハル:大変なことになるっすよ

Dain:人間でやったら問題起きるね、これ。

スケザネ:そうそう、これを動物に逃すっていうまず発想が違うんですよね。例えば、最初の開始10分で、「この世界でキツネは差別されてる存在なんだよ」っていうのをばーっとやっちゃう。で、観てる方には、なるほど、この世界でキツネは差別されてるんだと伝わる。まぁ、我々の持っているイメージとそう遠くないからすんなり理解できる。で、ジュディが駐車違反の取り締まりをしているとき、アイス屋に入っていくニックを見て、「ん?あいつ怪しいぞ」って目をするんですよね。

タケハル:したした。

スケザネ:ここすごく大事なシーンで、ジュディもあの瞬間、「キツネだから」って偏見で追ってるわけですよね。で、追っかけて中入った後、「パパだからいい人」って判断を下すわけじゃないですか。

Dain:あー

タケハル:したした

スケザネ:「息子思いのパパ=いい人」、「それを迫害するゾウ=悪い人」みたいな公式でいくと、「キツネ=差別される人」という公式を、ジュディも持ってることが簡潔に表されているんで。観るほうも無理なく受け入れられるというか。あの情報制御のバランス計算が本当にすごい。変に説明しすぎちゃうかもしれないし、逆に説明がなさすぎて、なんでキツネってこういう風に思われてんだろうってなっちゃうかもしれないのを、ほんとここは現実とフィクションの世界のちょうど、こう上手いバランスがとれて、見てる側にスッと入らせる。

タケハル:すごい時間かけて書いてますよ、あそこ、それこそ。

スケザネ:大変だと思いますよ。何回もリテイクしてると思う。

 

5. 没となったディストピアな『ズートピア』

タケハル:「シナリオ400本捨てた」とあるけれど、なんだっけ、誰かが言ってたけれど、「長いシーンを書くのは比較的簡単で、短いシーンを作る方が難しい」みたいな話、どっかで利いたことがあります。しかもセリフなしですからねここ。この一連の流れ、映画的な文脈でやっちゃうってのは、かなり頭を使わないとできないです。

スケザネ:うんうんうんうん

Dain:シナリオ400本捨てたってやつ、たぶん400本のシナリオを書いて捨てたんじゃなくて、400回ぐらい書き直したって意味だろうから、まあ捨てたっていうのは言い過ぎかも。それでも、何回も書き直したことは、よくわかりますね。

スケザネ:そうですねー、たぶん実際捨てられたエピソードもいっぱいあると思いますね。ほんとはこんな動物がーとか、レインフォレストとか、いろんな地区あったと思うんですけど、言及されるだけで行かない場所とか、ああいうところ絶対話があったりしたけど、結局それ捨てられちゃったんだと思いますね。

Dain:そういや捨てられたエピソードで思い出したけど、ニックと一緒にいたスナギツネかなんかの…

スケザネ:あー、赤ちゃんのふりしてた

Dain:それ、赤ちゃんの格好してたんだけど実はおっさんっていうやつ。あの二人は、実はハンバーガーショップで働いてたっていう話があったみたい。スナギツネは店員をやってて、ニックは機械のメンテナンスみたいなことをやってるとか。『ズートピアビジュアルガイド』見ると、店の名前は「シェチーズ」で、経営者の顔も載ってる。チーズバーガーにチーズが何枚入っているとか、パテが何枚とか、メニューまである。

スケザネ:細けぇ~

Dain:それ見てて気づいたのが、やっぱこの世界でもハンバーガー屋がある。ってことはこのパテは何の肉なんだろうなという疑問が出てきて。時間的な制約から外したのと、やっぱり食べ物系を入れるとまずいので外したのかな。

スケザネ:すごいな、ボツのハンバーガー屋までそんなに作り込まれてたんですね。

Dain:そう。ボツ案もね。さっきのレインフォレストも、ズートピアのどのへんに位置してて、どういう生態系になってるかも、事細かにビジュアルも含めて作り込んでいるんですよ。なのに、映画はほんとにさらっと流れるっていう、ほんとのワンシーンなんだけどね。

タケハル:いやー、でもすげえな、やっぱエネルギーのかけ方が!

Dain:「ズートピアの都市設計」を見ると、ズートピアの都市設計だけで、デザイナーさん4人いるみたい、すごいわ。最初にタケハルさんおっしゃってましたけど、最初に世界を、ズートピア作って、その後にストーリーを作ったんじゃないかしらって思います。

スケザネ:なるほどなぁ!

Dain:ボツ案で凄かったのは、「ズートピアの削除シーン」で知ったんだけど、最初はニックが主人公だったというやつ。ジュディなんて影も形も無かった。んで、肉食動物と草食動物が共存するため、肉食獣には首輪が義務付けられていて、「肉を食べたい」という欲望が起きるたびに、首輪に電気ショックが流れる世界なの。どう見てもディストピア。

スケザネ:へぇ~

Dain:「肉を食べたい」欲求を我慢しながら、草食獣と一緒に過ごさなければならない。当然、ストレスが溜まる。で、ニックの役柄なんだけど、そういう世界で、ちょっといかがわしいお店をやってる。人間でいうとアダルト関連で、押さえつけられた肉欲を解放できるようなお店なの。そこでは、ミニチュアの草食獣を襲って欲望を発散させるの。本物の草食獣を襲ったら電気ショックが流れて犯罪になるから。ニックは、そういういかがわしいお店の経営者を目指すっていうストーリーだった……らしい。

スケザネ:へえぇ~!

タケハル:絶対ディズニー無理でしょ!

Dain:ところが、あのジョン・ラセターっていう、ピクサーでは神様のような監督に、ある程度出来たものを見せたら、「こんなの観たい? こんな辛い世界に誰が住みたい?」ってぶった斬って、作り直しになりました。普通こう、動く絵まで物語を作り上げているのに、もう一度戻そうとするって、英断というか、勇気がすごいなぁって。

タケハル:このエピソード、いろんな示唆がありますよね。さっき僕もいっちゃいましたけど、そんなのディズニー撮るわけねえじゃんって、外からみてれば思うんだけど、少なくとも企画書あげて、絵までつけてるんだから、作ってる最中はそれわかんないっていうことですからね。クリエイティビティっていうか、自由に作るとき、やり始めるとなんでもありになって、ディズニーだからいいとかダメとか考えず、思いつかないところまで一旦は振り切るみたいな。そこにやっぱり、ジョン・ラセターはやっぱりすげえって思うけど、彼は自分でも話作るだけじゃなく、それをこう、ジャッジできる目を持っているのは、特殊ですよね。

Dain:なるほど!

タケハル:しかも、これからもっとまずいの、ジョン・ラセター、いまディズニーにいなくなっちゃったっていうのが問題で、そこには別の問題ちょっとありますけど。

スケザネ:たしかに、企画がある程度までいってから戻すっていうのは、業界としてよく聞きますし、まあ珍しいことではないんですけど、こうやって聞くと、わ、そこまでやったんだってのは驚きですね。だって、テーマの設定とか、対象年齢の設定とかからもう一回やり直したんでしょうけど、ほんとに。ジョン・ラセターすごいな。

Dain:それって物語の完全な作り直しですよね、カットを変えるとかシーンの入れ替えってレベルじゃなくって、物語の設定とか背景とか、根幹から変えて、まあ主人公変えちゃってるっていう時点でそうだけど。

タケハル:たぶん、このボツ案のアイディアとかも、どこかで使ってて、完全な無駄って無いとは思うけれど、実際やってる側としては、今更変えないでくれよみたいなことが……あと、なんならもう一個誘惑としてあるのが、多分この、ディストピアバージョンでも、ある程度の正解はあるっていうか、別にディズニーだってことを抜きにすれば、好きな人にはハマるかもしれないし。そういう誘惑をすべて退けてやり直すっていうのは凄い。

スケザネ:現実問題として予算とか締め切りもありますからね。

タケハル:そうそう、怖すぎますよ。まあでもこれも、今回までかもしれないですけどね。ジョン・ラセターいないから。

スケザネ:なるほど。

Dain:ダメ出しできる人。

 

6. 『トイ・ストーリー4』の本質=「〇の〇離れ」

タケハル:そうなんですよ!若干ずれちゃいますけど、『トイ・ストーリー4』ご覧になりました?みなさん。

スケザネ:あー、4見てないですねー。

タケハル:あんま先入観持たせちゃいけないですけど、それでもいうと、4は違うんじゃないかと。今までのテーマはどこにいったんだとか、バズそんなやつじゃなかっただろみたいなことが、結構あるんですよ。で、それがちょうどラセターが、セクハラ問題でいなくなった後にできた最初の映画が『トイ・ストーリー4』だったんですよ。で、注目してたら、いややっぱりラセターいないとダメだみたいなかんじがあってですね。

Dain:うわあ……

タケハル:いま『2分の1の魔法』やってますけど、そんなにウケてないのは、コロナだからしょうがないよねって感じで流れちゃってるけど、違うんじゃない? それじゃすまない問題がピクサーに起こってるんじゃない? 大丈夫か? クリエイティビティ落ちていないか? という危惧はありますね。

スケザネ:これあんまり、盛り上がってないですね。

Dain:そもそもそんなのやってるの、全然知らなかった……

ネオ:俺もこれはじめて知った

タケハル:コメントでゆすもひさんから「4好きの意見を聞くとよく理解できた」ってお言葉があります。

Dain :ちょっと発言できます? 4好きの人の意見。

ゆすもひ:ゆすもひです。こんにちは。喋らないほうがいいんですかね、これ?

スケザネ:大丈夫です。

ゆすもひ:この話、「親の子離れ」の投影っていう見方で見ると、当てはまるっていうことらしくて。たしかに4でアンディが変わりますよね。キャラまったく変わるんですけど、あれはもう親心って目で見てあげないとダメみたいな話なんですね。そこらへん掘って探されると、なるほどっていう意見が見つかるかもしれないなと思ってコメントしました

タケハル:なるほどー。俺も親離れできてないのかな。

ゆすもひ:親離れの話、それで見るとすごいよくわかります。

タケハル:ちょっと探してみよ。

Dain:ここで言う親とは? 誰なの?

ゆすもひ:親はアンディです。

Dain:アンディが親。なるほど。

ゆすもひ:あと、フォーキーがゴミか、おもちゃか問題ですよね。そのあたりも結構納得できる、私もわかんなくていろいろ探ったんですけど、「親の子離れ」だと、結構納得できる意見で、なるほどと思いました。

タケハル:ちゃんと調べよ。いや、ありがとうございます。

 

7. なぜベルウェザー副市長は陰謀を企んだか

ネオ:そうですね。みなさんのチャットでも、このシーンとか印象的でしたとかいうのあったらね、ぜひぜひってかんじです。

Dain:じゃあ僕から。ここでみなさんいると思うんで、いろんな意見を聞きたいなあっていうので。それは、「なぜベルウェザー副市長は陰謀を企んだか」ってところ映画だから、悪役がいるかなーって、物語を作るほうからするとベルウェザー副市長は非常に物語あるある。最初は協力者だったけど、実は黒幕っていう、教科書みたいな。面白さからすると正解だと。

で、今度は物語に没入して楽しむ方からすると、なぜ彼女が陰謀をたくらまねばならなかったのかっていう動機を考えると、ひっかかってて。

そのヒントになるのがラストの博物館、クライマックスのところ。ジュディに向けたセリフなんですけど、「ちゃんと評価されず、いつも低く見られて、あなたもうんざりのはずよ」。草食動物で、力が弱く体も小さいからといって、低く見られて、いい仕事をもらえずに、能力的にはあるのかもしれない。ベルウェザーに寄せると、能力的にはライオン市長よりも上かもしれないけれど、副市長の立場に甘んじているみたいな。

これをなんとかしたかったんだっていう、そんな話なのかなって。で、なんでそれで羊だけが悪役にするのかなっていうのが分からなくて、ネットで意見を探してみたら、「もしジュディが、駐車違反の仕事ばかり延々とやらされて、ニックに出会うこともなかったら、おそらくベルウェザー副市長みたいになったんじゃないかしら」という呟きをみて、ちょっとぞっとしましたね。ベルウェザー副市長は、ニックに出会えなかったジュディなんだと。

タケハル:おお~

スケザネ:いや~そうっすね、結構時代もあったので、オバマと白人的なことをずっと思い出していまして。要は黒人というものが大統領になった、で、白人側からすると面白くない感触に追いやられた人もいると思うんですね。で、恨みを募らせたっていう恨みの募らせ方も、単純にその仕事ができるできない以上の複層的なものがあったんじゃないかと思うんですよ。当時の一部の白人には。

で、結果としてその時の膿とかっていうものが今トランプって形になっていると思うんですよ。それが、さっきのニックと出会わなかったジュディと実は結構重なるところがあって。オバマ的なものをなんとかして追い落としてやろう、あいつらは危険なやつらだ、昔から危ないやつだったじゃないかっていうプロパガンダで追い落としていくっていうのは、なんかすごく納得できるキャラ造形というか。

現実から逆算しちゃうんですけど、ベルウェザー副市長に落とし込むのであれば、もともと肉食動物っていう危険だったやつが今トップにいて、で、私は地下の狭苦しい汚いところで秘書みたいな仕事をさせられていると、私なんか票集めの道具ですよ、私の方がきっと仕事もできるのにと鬱屈してくる

だから、ジュディから仕事を任せてもらった時、すごい誇らしそうな、嬉しそうな顔になったりとかするのはそういうところだと思うんですよね。私はできるんだと。ジュディの「私は警察学校首席で出たし仕事ができる」っていう自意識は、たぶん同じものをベルウェザーも持ってるんじゃないかと。

しかも女性でってところもポイントだと思っていて、そういういろいろな恨みが彼女の草食民意識とか性意識とかいろいろなものが結構凝縮されて、復讐に走ったんじゃないか、陰謀に走ったんじゃないかっていうのは、自分の考えですね。

Dain:なるほどすごい! 納得っていうか、言われてみるとそうかつながるわーっていうとこあります。

ネオ:市長っていう地位も、女性を官僚につけるってことでイメージアップみたいなことが現実にもあったりするじゃないですか。これに利用されてるって自覚もベルウェザーはもってて、もう明らかに言葉でセリフとしてでてるから、そういうところでの鬱憤みたいなものはきちんと表現されてるなとは思いますね。

Dain:なるほどー。ありがとうございます、腑に落ちました。当時の政治の、あんまり生々しく描いちゃうと炎上する燃料になっちゃうから、黒人白人女性の話も、動物の形にして、まさに戯画化というか、比喩として寓話化してやってるんだなーっていうのも含めて理解できました。

 

8. 『ズートピア』を現実社会の写し鏡にしなかったわけ

ネオ:そうなんすよね。だから、スートピアのすごいところって、完全にまるっきり同じにはしてないんですよね。だから普通だと、黒人がちゃんと評価されず低く見られるって偏見があると考える方が自然じゃん。スケザネさんの説明だと、オバマ大統領が誕生して、なんか白人の鬱憤がたまったみたいになるけど、でもズートピア的に考えると、むしろベルウェザーは数で言えばマジョリティなんだけど、草食動物で、でもずっと差別されてたっていうような側だから、ズートピアって完全に同じじゃないっていうのがすごい。

現実社会とズートピアが、分かりやすいパラレルな関係にはなってなくて、必ず、ちょっと微妙に違わせてるっていう。だから、草食肉食がマイノリティ、マジョリティっていうふうにもわけられないんだよね。アメリカ社会の反映というか。だから数でいったら草食動物のほうが圧倒的に多いんだけど、アメリカ社会って白人の方が多いわけで、みたいな。そのへんがよく考えられてるなっていうか、すごいなって思うところ。

スケザネ:なるほどね!

ネオ:だから、逆にこの作品を見て、自分がすごい揶揄されてるとか思う人がいないんじゃないかなって気がするんですよね。

タケハル:そうね。言い方あれだけど、都合の良いところで感情移入できるようになっちゃうから。

Dain:確かに。

スケザネ:確かに、確かに。

タケハル:よくよく見ると違うんだけど。

Dain:そうか、これネオさんの言う通り、ストレートっていうか、現実を寓話化するときに示すほうと示されるほうが、本当リニアにというか、きれいにパラレルに移行しちゃうと、「揶揄されているのは自分だ!」ってすぐわかっちゃうから、そこはうまく作り込んでいる。微妙にずらしてたり捻ってたりしていると。

ネオ:まあそうなんじゃないかなあ。

Dain:なるほど。そのために、タケハルさん言う通り、自分ではなく他の人を表象しているがために楽しめる。楽しめるっていうか、自分のことは言われてないように都合よく受け取ることができるっていう。そこまで仕掛けられてるかと思うと、ちょっと恐ろしいぐらいの物語の作りようを感じますね。

ネオ:まさにそうしなかったら、動物に比喩した意味がないってことになりかねないですかね。動物に比喩するから、ある種他人事というか、そういうふうに見れるっていうところも関係あると思うんですよね。動物にしても自分のことだと思っちゃったら意味がないというか。だから、あと例えば最初に凶暴になった動物ってなんでしたっけ?

タケハル:カワウソ?

ネオ:カワウソ。そう、そういう微妙なところ!全然馴染みがない感じの。

スケザネ:肉食なんだあ、くらいの。

ネオ:ライオンが凶暴になったとかさ、オオカミが凶暴になったとかさ、ああってなるけど。え、カワウソ?みたいな。だから誰も揶揄されてるように感じないっていうのはあるかもしれない。

タケハル:そういやいま思ったけど、イヌとかネコっていたんだっけ?

ネオ:オオカミはいたよね。

タケハル:いなかったんじゃないかな。

スケザネ:いまパッと出ないですね、少なくとも。

Dain:『ズートピア』の全員が出てるビジュアル見てるけど、コアラ、シマウマ、ハリネズミ、リスとかいるけれど、イヌ・ネコはない。ないわー

タケハル:受付はチーターです。チーター。

スケザネ:これ本当に英断だと思うのが、絶対海外展開を考えてたはずなんですよ、ピクサーだし。っていうことは、アメリカに限らずいろんな国の人がピンとくる動物を選んでいると思うんですよ。よくちゃんと日本でも「ああ、あの動物ね」ってなったってのがすげえなって思ってて。裸のクラブの虫いっぱい集まっているあいつ、まあわかんなくはないけど、ぐらいでしたけど。あとほぼわかんないことなかったんで。あのへんって相当気を遣ってるはずですよね。

タケハル:あのハエたかってるのよく出したよね。結構ギリギリだと思ったけど。ウシ・ブタだったり…

Dain:そうそう。これ僕の謎にもつながるんですけれど、いない動物を言うとイヌ・ネコいないし、サルもいないし。

スケザネ:サルいないのかあ。

 

9. 『ズートピア2』はトイ・ストーリー型かアナ雪型か

Dain:たぶんサルは人間を彷彿とさせるからいないんだろうけど。あと、やっぱり食べ物を避けてるように思えてて。警察署長はアフリカ水牛ですけど、あれは肉用じゃないし。普通に食べ物を思い浮かべるウシ、ブタ、ニワトリっていうのはいないなあって引っかかったところなんで。『ズートピア2』やるんだったら、このへんの問題を明らかにしてくれるとおもしろいんだろうけれど。やり過ぎかも。

タケハル:こうなったら『ズートピア2』はあれですね、「植物からの抵抗」みたいなことがテーマに。動物は、当たり前のように植物を食べてるけど、私たちには進化する余地もない、みたいな展開で。それぐらいしないと、鳥とか海の動物とかだと予想ついちゃってる気がするんですよ。

ネオ:確かに、ディスニーで植物が主人公とかってあんまりないよな。

タケハル:木がしゃべるとかあるかもしれないけど、これぐらいやんないとね。ちょっと前に植物のほうもハマってた時期があって。植物は基本、食われる立場にいるけど、植物こそが生物を支えてる、みたいな話。雑草とかも、人の入らないところに生えたりとかして、文句言わないとか。なんか全然違う角度から攻めるっていうのはありかもしれないけれど、ヒットするかはわからない。

ネオ:植物の孤独を描くっていうのが。

タケハル:そうそう孤独ね。めちゃめちゃメジャーじゃないな、どうにも(笑)

ネオ:サボテン主人公にしてほしい。

タケハル:ちょっとおもしろそうだね。サボテンだったらね。

スケザネ:『ウォーリー』とかね。ちょっと植物をめぐる話だったりしたけど。

ネオ:『ウォーリー』はよかったなあ。

スケザネ:続編の話だけど、ピクサーとかディズニー系の続編でパターンがあると思ってて、アナ雪型とトイ・ストーリー型のどっちかがあるかなと思ってて。

トイ・ストーリー型は螺旋状で。『4』はちょっと横に置いておくとしても、基本的に上にやっていく型。いきなり新しい大事件がボーンと出てくるとか、進んでいる感じではないと思うんですよね。基本的には同じメンバー、同じ時代感、同じ感覚で、上に積みあげていく感じ。

アナ雪型は、時間が完全に進むんで。『1』で起きたこと踏まえて、今度こういう新しい事件が起きます、ボン、みたいな。これ本当に難しいんだと思うんですよね。こっちのアナ雪型は。『アナ雪2』ってそんなにいい評判聞かないし、『1』は俺好きだったんだけど、『2』はちょっと微妙だったんですよ。

『ズートピア』は、このアナ雪型にいくしかないんじゃないかという懸念が正直ありまして。もうおおむねのことが終わってしまった、このズートピアでもう一回お話を作るには、やりようはあるんだけれども、最近のピクサー的には新しい大事件――それこそ植物が反乱してくるとか――を起こすしかもうやりようないんじゃないかな。でも、個人的に観たいのは『トイ・ストーリー』みたいにそのズートピアでまた何か、その完結した中で新しい何かを起こすっていうほうが観てみたい気はするんですけどね。

 

10. 勇気を持って、マンネリ化

タケハル:アナ雪型になるのか。俺も個人的にはトイ・ストーリー型でやってほしいな。もうバディができたんだから。ニックとジュディっていう。もうドラマとかで、一話完結で街の事件を解決する程度とかね。いいんじゃないかなと思うんだよね。無理してがんばらなくてもいいんじゃないかな。っていうかもうがんばらないでくれもう、みたいに言いたくなっちゃう。

ネオ:『スター・ウォーズ』のアニメ版みたいな感じでいいと。

タケハル:そうそうそう、いいよいいよ。『マンダロリアン』でいいよ。『クローン・ウォーズ』でいいよ。

ネオ:確かにね。警察官のバディ、『相棒』でいいよってことか。

タケハル:『相棒』でいいの。毎回新しい犯人が出ればいいの。

Dain:それ言うとバディものの、刑事・警察ものの映画で『リーサル・ウェポン』ってシリーズで続いてたんだけれど、みんな知ってるかな? おっさんしか知らんかもしれん。

スケザネ:「1987 アメリカアクション映画」っていうのが出た。

Dain:そんな昔なんだ。確かね、『4』ぐらいまで出てたはず。

スケザネ:ほんとだ、続編ありますね。TVドラマシリーズも2016年から放送中みたいです。

Dain:知らんかった。デコボココンビのバディもので反りが合わないんだけど、無理やりバディにさせられちゃって。あとは次から次へと新しい事件が、新しい犯人がっていう、そんな話。もし『ズートピア』がそっちにいくんだったら、『ズートピア1』がバディ誕生で、『ズートピア2』がそのバディものっていう。昔からの映画のお作法を守っていけば、きっとずっと続けていけるだろうなあ。なんだけれど、それがおもしろいかっていうと、「普通におもしろいね」っていうぐらいかなあ。どうなるんだろう。

ネオ:タケハル先生の話を聞いて思ったのは、これ完成されたすばらしい世界じゃないですか。まさに「ユートピア」になったわけじゃないですか。その世界観をやっぱり壊しちゃだめだって思う。だから、まさにみんなが住みたくなるような世界での小さな出来事とかを扱っていけばよくて。それでだんだん進んでいくごとに、例えば草食動物がついに市長になるとか、そういうことがあってもいいかもしれないけど、根底の世界観としては安心できる「水戸黄門」みたいな続編でいいと思う

タケハル:ずいぶん草食動物的な発想になってきたけど。

ネオ:変に植物の反乱とか、やんなくていいような気がすんだよ。

タケハル:確かに、そう考えるといらないかもしれない。

ネオ:やりたいならもう別の世界でなんかこう。

スケザネ:『アナ雪』は別の世界に行っちゃったんだよな、だからな。

タケハル:偏見出ちゃうけど、白人のほうが狩猟型っていうかさ、次なる地平を求めるみたいなことで、新しいことやりたがるんじゃないかな。草食人物たちは、やっぱり「水戸黄門」なり「寅さん」なり、農耕生活になってんじゃねえかな。

Dain:おそらく『2』の企画書でも、バディものにしようって案があるはず。

スケザネ:あるでしょうね。

タケハル:なあなあ展開しようっていうのはあるでしょう。

Dain:せっかく「ズートピア」っていう世界があるから、そのなかで次から次へといろんな事件を起こせばっていうふうにすればってありだと思う。けれど、実際その物語に予算を割り当てる人が、本当にそれを選ぶかどうかになると、どうなんだろう? 安全すぎるとかって言うのかしら。投資としては安全だと思う。いま僕が思ったの深煎りさんがコメントしてくれて、「社会風刺が入るような」っていう感じが。バディもので、その時その時の社会風刺がチョロチョロっとこう入れているっていう。

ネオ:『ドクターX』でいいってことですね。あれは要所要所時事ネタでふざけてる。

スケザネ:最後、麻雀して終わる。

ネオ:「忖度」とか言い出すし。

タケハル:やっぱりこれ、勇気を持ってマンネリ化してほしいですよね

スケザネ:いやあ、それはいい言葉。

ネオ:すばらしい。

Dain:いい言葉だ。マンネリ化でいいとは言わんけれど、そうそう。

スケザネ:でも、これマンネリ化できるやつですからね。十分舞台がそろってるから。『アナ雪』は無理なんですけど、これはできるんですよ。

Dain:世界がすごいもん。「ズートピア」が。

スケザネ:まだまだ全然消化不良というか、描けてないところたくさんあるし、見てみたいところたくさんあるし。俺は幼なじみのギデオン・グレイとかけっこう気になってるんで。あいつの扱いってもっとけっこう重要な感じで出てくるのかなって思ったら、パイ職人やってんのかよって感じだったりとか、ああいうところとか気になるし

タケハル:確かに、ギデオン・グレイだけで1話作れるからね。

スケザネ:絶対できますよね。

タケハル:なんなら2話で。前後編とかで。

ネオ:いろんなことが起こっても不自然じゃないっていう世界観を構築できてるよね。だから、例えば『アナ雪』でなんか起こそうとしても、「別にいいよ」とかって思うかもしんないけど、ズートピアで全然知らない動物がなんかしだしたとなると、「へえ」ってくらいになる。

スケザネ:新しい動物出すっていうのは絶対映えるもん。おもしろい動物。

タケハル:両親が都会に来るだけでも1話。

スケザネ:確かに、あの両親おもしろそうだなあ。

タケハル:「市長、恋に落ちる」とかさ。

スケザネ:無限に出せるな。

タケハル:無限にできるだろ、これ。

ネオ:重たくも軽くもできるのは、異種類どうしの恋愛とか。キツネとウサギ、今のところそういう混血っていないと思うんだよね。『ズートピア』って。

Dain:ないね、うん。ないない。

ネオ:まあ生物学的に無理なのかも知んないけど、そうなるとどうなのかなあって当然考える。めっちゃ重たくなりそうだけど。

タケハル:たまにはスパイスと一緒の回があったりね。

スケザネ:明らかにとっ散らかるな。

ネオ:ナマケモノで1話作れるし。ほぼ進まない、みたいな。

Dain:『3』も出したらやばいかな。サルは絶対出さないだろうなって思うけれど。

ネオ:サルは悪者じゃねえかなあ。

Dain:うん。悪者で、なおかつ科学技術に長けてて、なおかつ宇宙とかを目指そうとしてって大きくなっちゃうな。

ネオ:それかもう、『おさるのジョージ』みたいなの出すっていう。

スケザネ:愛嬌ある感じね。ちょっとね。

ネオ:『おさるのジョージ』は来てもいいんじゃないかな。でももう、『おさるのジョージ』もいる場所ない。みんなジョージくらい頭いいからな。

Dain:ズートピア壊しちゃったらダメだろうなあ。沈めるとかっていうのもダメだろうし。

ネオ:どうして沈めるって発想が出てきたの?

Dain:ものができたから壊しちゃえっていう発想。オチは「ズートピアとは何か」って話にする。結局、ズートピアって建物とか道路とか施設じゃなくって、そこに暮らすみんなの多様性を認める共同体なんだ、みたいにすればできるかなあって思ったけど……それどっかで聞いたことあるなあって思ったら小松左京の『日本沈没』と同じテーマや。ちょっと飛びすぎ感ある。要するに、日本という土地が沈んでも「日本人」っていう文化なり考え方は世界中に散らばってという発想。

スケザネ:場所じゃないよっていう。

Dain:そうそう、場所じゃないよっていう。あと思ったのが、『ズートピア』観る前の想像からなんだけど、動物たちのユートピア=『動物農場』というやつ。ジョージ・オーウェルの小説が浮かんじゃって。もし風刺も絡めて、なおかつエグいところも入れてってやろうとすると、『動物農場』路線に行くのかしらんって思った。ストーリーをかいつまむと、とある農場で家畜たちが反乱を起こして、人間たちを追い出しちゃう。で、動物だけで平等なコミュニティを作ろうってまさに「ズートピア」みたいな場所を作ろうとする。だけど、ちょっと賢いブタが他の動物をこき使うようになって。でも他の動物たち、ウシやウマやニワトリたちは言われるがまま働いて、何でおれたちの生活こんなに苦しいんだろうって思っているんだけれど、前人間がやってたことと同じことをブタがやるようになってて、気づいたらブタが人間に成り代わっていましたっていうオチ。これを『ズートピア2』に入れて、ブタの代わりにサルを入れてなんだけど、もうあれだけ世界ができあがっちゃってるから難しいだろうなあ、なんてなことを妄想してました。

スケザネ:それやるなら『1』しかなかったかもしれないですね。

Dain:『1』だろうな。

スケザネ:今さら壊せないでしょうね、きっと。

Dain:壊せない、ちゃんとできてるから。

タケハル:ディズニーは『モンスターズ・インク』で前日談という手を使ったので、『(モンスターズ・ユニバーシティー』だったら『モンスターズ・インク』より前だから。前の話するというのであればありですね。

ネオ:『モンスターズ・インク』あったな。

スケザネ:確かに、前日談パターンあったな。

タケハル:まあ、でも今回しつこいくらいにもうジュディとニックが最後相棒になってるから、あれだけ警官になっといてやらんのかい、みたいな感じしますけどね。

スケザネ:今さら警察学校時代の話されても、みたいなところはありますよね。

 

11. 自分では気づかない自分自身の良さ、「成長感」

スケザネ:けっこう自分が思ったのは、動物がどうとか種族がどうとかっていうよりも、自分自身の成長感としていいところがたくさんあるなって。「自分自身のいいところって自分自身では気づけていない」ってこの1つの作品のテーマかなあと思ってて。

さっきの虫がいっぱいたかってるあいつの話ありましたけど、実はあいつが一番記憶力いいとか、あれってあいつわかってないじゃないですか。「象は記憶がいいね」とかって言ってましたけど、自分のこと気づけてないとか。

ニック、実は警察官としての能力が高いのを、ジュディが気づいて見込むわけですよね。「あなたに依頼しようと思ってたの」って言って、ニックはそこで「おれにそんな能力があるんだ。じゃあがんばってみようかな」っていう顔になってたりとか。みんな自分のいいところって、自分自身で気づいてなくて、自分自身で押さえ込んでしまっていて、人によって、人との出会いとかで、それを今度気づかせてもらうっていうか。この作品、人種とかそういう話がどうしても前面に出てきてしまうがゆえに忘れられがちというか、あんまり目を向けられていないのかなと思ったんですけど、これは大事なテーマなのかなと感じていました。

タケハル:かなり普遍的な問題でもあるからね。

ネオ:一緒にしていいのかわかんないけど、自分の差別意識には自分では気がつけないって話とちょっとつながるかもしれない。

スケザネ:ああ、確かに確かに。

タケハル:ひっくり返したらね。

ネオ:成長できるとか、見方が変わるとかっていうのは、自分じゃなくって他者を通してっていうことは全体にあるのかもしれない。

タケハル:成長は確かにテーマとしてあったよね。最初のセリフですげえおもしろかったけど、ジュディが「警官になりたい」とか言ったら、お父さんお母さんが「ニンジンはすごくいいぞ」「ニンジンでみんなのために役立とう」としか言い出して。でもお父さんお母さんは可能性に対して、ここは塞いどいてみたいなことしてるんだけど、ジュディだけは外を見てるみたいな。そのジュディですらいろいろ問題はあるんだけど、今のとこ普遍的な問題としてみんな思ってることだし、お父さんお母さんは善意だしってところはうまく入ってる。

スケザネ:お父さんお母さんは間違っちゃいないってところも、大事なポイントかもしれないです。

 

12. ズートピアの普遍性は「可愛い」と「笑い」

タケハル:ずっと思ってたのが、「ニックとジュディがやっぱり可愛い」っていう話で。

ちょっと話が飛ぶんですけど、よく美しさの基準は変遷するみたいな話あるじゃないですか。平安時代のおかめ顔とかみたいなこと言うんですけど、でも思うに、このジュディとニックに関しては、例えば100年後見てもまだ可愛いんじゃないかって思うんです。動物だし。もっと個人的なこと言うと、「美は変遷する」ってウソなんじゃないかって思ってて。なぜかというと、例えば『ミロのヴィーナス』、ぶっちゃけ今見ても美人だなって思うわけじゃないですか。時代時代によって多少の好みみたいなのはあるっちゃあるけれど、もうちょっと普遍的に可愛いとかっていうものって。

今のポリコレ的な見方とか色々あるけど、たぶんそれを乗り越えて通じる可愛いさというものは、『ズートピア』にはあるって思うんですよね。「可愛い」が存在しないことには共感がまったくできないようになっちゃうか、もしくはすごく心の広い人だけが共感できる映画ってことになっちゃうから、可愛いさの基準みたいなのはあったかなあって。

ネオ:それ見た目だけど、エピソードのカッコ良さみたいな、例えばストア派のセネカが紹介しているエピソードとかってやっぱり今聞いてもかっこいいとか男らしいとかって思ったりするからね。そういう普遍性っていうものはあるのかもしれない。

タケハル:差別意識とかで乗り越えられるとか、変わっていくほうもあるんだけれど、むしろ変わっていかないものをキャッチしつつ、変わっていくものに対してきちんと追いつくみたいなのはすごくよくできてるよな、意識してるのかなって

人間としても普遍的に反応しちゃう部分は抑えつつ、おそらく10年と言わず5年ぐらいしたら古くなっちゃうのかもしれないと思うけど一応入れる、みたいなこともどっちもやってるからレベル高えなとは思ったかな。

ネオ:それで言うと、笑いもそうだよね。前回の読書会にも出てきたけども。ナマケモノのあれってもう100%笑うよね。100年後でも。

タケハル:そうそう、100年経っても。逆に、羊のもふもふを叩くとか。アフロの人に対してアフロたたくの失礼みたいな話で。アフロの人は「たたいてもいい?」ってみんなに言われるらしいんだけど、それは本人すごく嫌だみたいなことで、それは羊も一緒ってなるけど。それはもしかしたら、100年後には無くなっているかもしれないね。

スケザネ:あれは、日本だとちょっとピンとこなかったですね。

タケハル:そうそうそうそう、わかんなかった。

ネオ:確かに、確かに。笑いに関して言えば、シェイクスピアとかモリエールで笑えるところはいまだに笑えるし。

タケハル:そうね。ネオに教えてもらった、モリエール『守銭奴』のやつ。文字通り守銭奴で金にがめついやつなんだけど、執事がやってきて、「お客様です」みたいな。それで守銭奴が「そんなの後にしろ!」みたいなこと言うんだけど、召使いが「いや、お金を持ってきているんですが」、守銭奴「すぐに通せ!」みたいに手のひらを返す。これは貨幣経済が続く限り、1000年くらいは笑える。

Dain:人間が生きている限り、貨幣経済は続きそう。

タケハル:ベーシックインカムが普及したらなくなっちゃうかもしれない。

スケザネ:電子マネーが普及してもそうかもしれないですね。

タケハル:もしそうなったら、モリエールを読んだ未来の人は、当時は人が現金を持ち歩いていること自体に驚くかもしれない

スケザネ:その話でいうと、もはやぼくらは、電話を自宅で受けることにピンとこない。みんな携帯だから。固定電話は古びる速度、結構早かったですね。

タケハル:電話で言ったら、電話が来てるよってジェスチャーがありますよね。手を受話器の形にして耳元で手を振るやつ。あれとかもう子供は理解できないみたいですね。

ネオ:ジェスチャーも変わるわけだね。

 

13. 禁断の技:ボイスレコーダー

スケザネ:ちょっと細かいところなんですけど、録音できるペン。ボイスレコーダー。出てきたとき、小道具の使い方として、しょぼいなと思ったんです。最初は、ニックをジュディがはめたところに出てきます。(詐欺師と呼んでくれる? ってシーン)

あれは、映画内エピソードとしては、めちゃくちゃしょぼいです。録音して、騙してってだけ。しかもそのボイスレコーダーの話を、「詐欺師って呼んでくれる?」っていうセリフまでつけて、何度も何度もこするんですよね。

それこそ最後の解決のシーンもそうですし、ジュディとニックが仲直りする時もボイスレコーダーやりましたし、3~4回ぐらいこすって、色んなセリフをそこに重ねている。これは作り手側のすごい意地悪な見方をすると、たぶん思いつかなかったんじゃないかなと感じます、ボイスレコーダー以上におもしろいシナリオが。この小道具が一番しょぼいと思うんだけど、他に思いつかなかったから、そのしょぼさを隠すために何度も重ねる。いろんなセリフを重ねて意味深く持たせるしかなかったかと思う。

ネオ:それは超重要だと思います。ボイスレコーダーってどんな作品、刑事ドラマにしてもなんにしても一番がっかりする仕掛け。しょうもなっ、みたいな。トリックの禁じ手の一つなんじゃないかな。

タケハル:クリシェですね。細かいところで、録音ペンのデザインを人参にしてみたりとか、何回も重ねるとか、なんとか見えないようにしてるけどもクリシェはクリシェかもしれない。

スケザネ:クリシェがゆえにとにかく色々つけてなんとかして。これ、作り手側の逃げ手法です。ほかにアイデアがない時に、それだけだと安っぽく見えちゃうから色々つけて、意味深く見せる。これだけこすったら許してやろうとは思うけど。

ネオ:これ今回一番聞いて、いい話だったなあ。

タケハル:素材は微妙でもソースがおいしいから許してやるみたいな。

Dain:生々しい話ですね。おそらく、肉食獣のディストピアの初期の案がボツになって、焦ったのではないかなと。こんなんじゃだめだとちゃぶ台返しされて、でもスケジュールは決まってて、そんな中でもなんとか物語を新しく作らないといけない。ものすごく当たり前なんですけど、映画作る時に最初にしなきゃいけないないことは、物語をつくるということで、それがボツになった。

じゃあもう一回、別の主人公で・・・どうする・・・って、でも作らなきゃいけない。そんなギリギリのところで、できる精一杯だったんじゃないかな。最後の副市長のベルウェザーのセリフをどうやってひっくり返すかとか、色々考えて、やっぱりボイスレコーダーだ! ってなったんじゃないかなあ。んで、ここだけでボイスレコーダーを使っても……ってなったら、じゃあニックのところで使おう! でも2カ所だけだと伏線が広がりすぎるから途中で入れた方が……じゃあニックと仲直りするところでも入れよう! そんな感じで最後のパズルのピースを埋めるためにボイスレコーダーが使われたんじゃないかと

スケザネ:まさにそうだと思います

タケハル:クリエイターたちの息切れが聞こえるよね

Dain:物語作家のね。ゴールだと思ってハァハァ言ってたら42.195km走ったのに、まだ走るよみたいな。もう1回って。しかもシナリオは最初に作んなきゃいけないから

ネオ:ボイスレコーダーを使ったら、必ずその前に何かしゃべらなきゃいけないよね。そこでペラペラしゃべるっていう不自然さがどうしても出てくる。刑事ドラマで犯人暴かれたらペラペラしゃべりだすみたいな不自然さが。

全員:それはあるなあー。

タケハル:絶対言っちゃダメなのに言うよね。

ネオ:ボイスレコーダーのがっかりさって、不自然なセリフを呼び起こさなきゃいけないっていうところにあるのかもしれないね。本当に悪いやつはそんなヘマしないで粛々とやる。だからボイスレコーダーを使うと、最終的に相手のドジによって解決する。

スケザネ:『相棒』でも「語るに落ちる」パターンで見せる回があるけど、何かしらひと手間加えた話の方が印象に残る。単純に言わせてしめしめではなくて、言わせるために導入を持たせたとか、小細工しといたとか、そういう工夫がないと物足りない

ネオ:そういう言質をとる系だと、例えばドラゴンボールでピッコロがセルと戦うときに左腕を吸収されて、もうこれでは勝負ついたと言ってセルにペラペラ語らせる場面があるんだけど、あれはまあまあ自然な気がするんだよ。でもあれもセルはドジってるんだけど、「気づかなかったとはドジだな」って言ってるし。まあ不自然かー。要するに問題点は、相手のドジに期待する脚本・プロットになっちゃうってことだよね。

タケハル:裏を返せば、そこまで分かってるのになぜ使っちゃうかってところ。それはやっぱり必要性があるわけで、ピッコロとセルの話でいえば、セルの設定がわからないとこの先読者がついていけないだろうっていう作る側の恐怖がある。まんがの場合は毎週連載するから説明しないと無理な気がするけど、映画に関しては勇気のある作家は説明しないよ。

その例でいくと、最近ですけど『テネット』ね。テネットは話がやたらややこしいんです。時間がひっくり返ったり。なんだけど説明全然しないんです。説明するとしても、グッとまとめてパパっとやる。映像とかの迫力で見てられるけど、たぶん家で観たら相当しんどいと思う。気が散ったら話わかんなくなっちゃうから。金曜ロードショーなら絶対無理。CM入ったらもう無理ですよ。何の話かわからなくなる。

Dain:『テネット』は見てないけど、物語の世界の中で物語をペラペラ説明されるとがっかりする。それがネタとして使われてて、しょっぱいなっていうのはさっきのボイスレコーダーにつながるのかな。物語の世界なんだから、説明のセリフではなくて行動のセリフとか絵で見せてほしいと。西暦何年、人類が絶滅に危機にーとか、映像を数秒流せばわかるじゃんって。高望みなのかもしれない。でもディズニーだったらやってくれって思う。

タケハル:これをさらに応用してるのはスターウォーズです。要は冒頭に文章でどかどか説明しますよね。あれは思いきりましたね。伝統芸能化してる。

スケザネ:あれやらせてもらえたら楽だなあ

タケハル:あれがなぜ許されてるんだお前らはって思うね。

ネオ:『アオイホノオ』というまんがで主人公がスターウォーズを「途中から始まって途中で終わる」と言ってるけど、まさに冒頭字幕はそういうことだね。

スケザネ:あと10分なので締めに入りましょうか。

Dain:前回の様子をブログで取り上げたとき、反応よかったです。スケザネさんやタケハルさんの物語のとらえ方が素晴らしいとか。

ネオ:ネオさんは何が素晴らしいとか言ってました?(笑)

Dain:ネオさんのことは特に何も(笑)

スケザネ:さてまとめに入りましょう。自分としても色んな視点を得られました。この会を通じて、見落としがたくさんあったことにも気づけて面白かったです。最初に戻ると、タケハルさんの「シーンが多いのにテンポがいい」とか、なるほどと思いました。ズートピアの続編の話とかも面白かったです。

タケハル:やってみて、Dainさんのレジュメあるなしではだいぶ変わりますね。これあるおかげでスムーズな議論ができました。シーン一覧もそうですし、資料の一覧も非常にありがたかったです。あとはスケザネさんのボイスレコーダー理論も納得でした。トイストーリーのことも勉強しないといけないなー。

ネオ:次回は『レディ・プレイヤー・ワン』でやろう。

 

※1 『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと シド・フィールドの脚本術』シド・フィールド、フィルムアート社、2009

※2 『シド・フィールドの脚本術』p.167

※3 『カラスはずる賢い、ハトは頭が悪い、サメは狂暴、イルカは温厚って本当か?』松原始、山と渓谷社

※4 『ディズニー ズートピア ビジュアルガイド』KADOKAWA


ちょうどこれを書いているときに、ズートピアのアニメシリーズ化が発表された。

ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオが制作し、『Zootopia+』(ズートピア・プラス)になるという。

シリーズものだから、おそらく、ジュディ&ニックのバディもので、ズートピアを舞台に、いろんな事件を解決していく展開になるのかと。「ズートピア」という世界観をいじらず、「勇気を持ってマンネリ化」した企画に拍手!

この楽しい場所を作りだしていただいた、ネオ民さん、スケザネさん、タケハルさん、ありがとうございます! そして、ご視聴&チャット参加いただいた「物語の探求」メンバーの皆さま、ありがとうございます! さらに、文字起こしをご協力いただき、ありがとうございます。

 

 

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美は進化の産物か

問題1:この女性、左と右、どちらが魅力的見えるだろうか。

Limbalring1

 

問題2:この男性、左と右、どちらが魅力的に見えるだろうか。

Limbalring2

注意が必要なのは、この画像が小さいこと(わたしは小さい画像で見てしまい、ピンとこなかった)。できればPCなどディスプレイで、実物大に拡大して見比べてほしい。

これは、顔を魅力的にさせる要素を研究したペシェクの実験(※1)で使われたものになる。被験者は2枚の写真を見せられ、より魅力的に見えるほうを選ぶように求められた。

結果は明白で、問題1も問題2も、右の顔を魅力的だとする被験者が多かった。

なぜか。

実はこの写真、フォトショップによって、一か所だけ加工されている。それは、リンバルリング(limbal ring)だ。

リンバルリングとは何か。

鏡などでよーく目を見てみよう。まず、目の中心に瞳孔があって、その周囲に虹彩(茶や青など色のついている円盤状の膜)があって、その外側に白目がある。この白目との境界に、虹彩を縁取るような暗い円があるだろうか。それがリンバルリングだ。

リンバルリングは若さと健康を示唆する

はっきりとしたリンバルリングは、その人の魅力を増す。ペシェクの実験では、左右反転した場合でも、写真をさかさまに見せても、リンバルリングのある方が魅力的だと判断する人が多かった。

株式会社メニコンはそれを熟知しており、虹彩模様を変化させることでリンバルリングのコントラストを強調するコンタクトレンズの特許を取っている(※2)。リンバルリングと白目の領域のバランスが、眼の美しさに影響を及ぼすという。

あるいは、ナショナルジオグラフィックの表紙で有名な「アフガンの少女」が、なぜ見る人をはっとさせるかは、ひょっとすると、この際立ったリンバルリングのおかげなのかもしれない。

Afgan

https://en.wikipedia.org/wiki/File:Sharbat_Gula.jpg

では、なぜ、リンバルリングが際立つと、魅力的に感じられるのか?

ドナルド・ホフマンは、進化心理学の観点から、解き明かす(※3)。

まず、リンバルリングは、若いほど厚く、はっきりとしているが、年齢とともに低下していく特徴があるという。加齢により角膜が白っぽくなる老人環は、リンバルリングを目立たなくさせる。

次に、はっきりしたリンバルリングは、健康をも示唆するという。緑内障や角膜浮腫などの疾病は、角膜を曇らせ、リンバルリングを不明瞭にする。つまり、顕著なリンバルリングは、その人が若くて健康であることの手がかりの一つになる。

白目から若さと健康を読み取る

ホフマンは、強膜(白目の部分)も、その人の美しさ、魅力に影響するという。

ヒトの白い強膜は、視線の方向を告知し、社会的コミュニケーションのツールとして機能すると言われている。だが、それだけでなく、当人の若さや健康も示唆している。

強膜は、細い血管を含む結膜に覆われており、アレルギーや結膜炎は、この血管を拡大させ、強膜を赤くする。また、肝臓病や老化は、強膜に黄色の色調を加えることがある。いっぽう、乳児の強膜は薄く、下層にある脈絡膜が青みがかったように見える。年齢を重ねるにつれ強膜は厚くなり、この青い色調は失われてゆくという。

言われてみると、思い当たる。子どもが幼いころ、その目をのぞき込むと、白目の部分が透き通った青色だったことを覚えている。また、二日酔いの朝、鏡をのぞき込むと、目を真っ赤にさせた不機嫌な顔がある。どう見ても健康そうに見えない。

つまり、青みがかった白目は、若さと健康の証になる。この仮説は、実験で検証されている(※4)。

  1. 被験者に一連の顔を見せる
  2. 被験者はスライダーを用いて、強膜の色を変えることができる
  3. スライダーを動かすと、青から黄色へと色調を変えられる
  4. 被験者は、それぞの顔が最も魅力的になるよう、スライダーを調整する

実験の結果は明白で、男性、女性ともに、強膜が青くなるように調節した。しかも、被験者が男性の場合、白目をより青くするように調節したという。

ハイライトの重要性

ホフマンは、目にハイライトを加える重要性についても力説する。

ハイライトは、目の中の輝きのことで、その人を魅力的に見せるという。

涙腺から分泌され、角膜と強膜を覆う涙の薄い層に光が反射して放たれる。年齢を重ねたり、シェーグレン症候群、関節リウマチ、甲状腺疾患などでこの膜は薄くなり乾いていくことになる。乾いた目はあまり光を反射しなくなり、ハイライトが目立たなくなるという。

プロの写真家はハイライトを熟知しており、「キャッチライト(瞳に移り込ませる光)」を用いて、目にハイライトを加える。丸いレフ板を使えばキャッチライトは丸になり、四角いレフ板を使えば四角になる。写真家だけでなく、フェルメールの『真珠の首飾りの少女』や、アニメやイラストのキャラクターなど、キャッチライトの応用はいくらでもある。

一方、その人の魅力を減らすために、キャッチライトを避ける例もある。映画製作では、悪役の俳優の目にハイライトを映り込まないようにする(もしくは、後で加工して消す)。要するに、黒目だけにすることで、極悪で生命感が欠如しているように見せるというのだ。

「美=生殖能」仮説

美とは何か?

「美は観察者の目の中にある」と言われる。美はその物自体の性質ではなく、それを見る観察者の心の中にしか存在しないことを意味する。ホフマンは、「なぜこの美の基準が、あの観察者の目のなかにあるのか?」という問いに置き換える。

そして、美とは、複雑で無意識的な計算に由来する知的判断だという。長い進化の過程を経て、慎重に選択されてきた手がかりは、たった一つのことを私たちに教えてくれる。生殖能だ。あの人は健康な子を生み、育てられるのか?

もちろん、私たちは通常、この問いを明示的に考えたり、判断を導く手がかりを意識しているわけではないという。そうではなく、判断そのものをさまざまな感情の形で経験しているというのだ。

美は、観察者の気まぐれなどではない。長い年月をかけて自然選択の論理によって構築された、観察者の脳内で生じる無意識的な推論の結果に生じる、観察者の感情こそが、目の中の美なのだという。

この推論を頻繁に間違える観察者は、健康な子を育てられそうにもない相手を好むこととなり、その結果として、間違った推論が次世代に受け渡される可能性は低くなるという。要するに、美を読み違える遺伝子は、情け容赦のない自然選択の論理によって淘汰されるというのである。

生殖の観点から男性の魅力を解いた「生理的に受け付けない男の正体」という記事を書いたが、ホフマンの主張は、その実証版になる。あるいは、ヒトの美意識の根底にある生存可能性を示した『美の起源』を見ると、わたしたちは適応の結果、あるものを「美しい」と評価するようになっているのかもしれぬ。

進化心理学からのアプローチは強力だ。なぜなら、いまある姿から逆算して、「それは進化の結果だから」という事後諸葛亮(後知恵)を自由に適用することが可能だから。これに注意しつつ、進化心理学のアプローチに加えて、『美の歴史』『醜の歴史』などの芸術からのアプローチからも、美を追いかけてみよう。

※1 ”Preliminary Evidence that the Limbal Ring Influences Facial Attractiveness”,Darren Peshek,Negar Semmaknejad,2011,[URL]

※2 虹彩模様の印象等を容易に調整することができるコンタクトレンズ

https://astamuse.com/ja/published/JP/No/2013250351

※3 『世界はありのままに見ることができない』ドナルド・ホフマン、青土社、2020

※4 ”Facial Attractiveness: The Role of Iris Size, Pupil Size, and Scleral Color”,Negar Sammaknejad,2012

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この本がスゴい!2020

今年の一年早くない?

トシ取るほど時の流れを早く感じるのは知ってるけど、今年は特に、あっというま感がすごい。恒例のこの記事、もう書くの!? と思ってる。

毎年、「人生は短く、読む本は多い」と能書き垂れるが、今年は、「人生は加速的に短く、読む本は指数的に多い」と変えておこう。

そして、昨年と比べると、世界はずいぶん変わってしまった。

基本的に外に出ない、人と会わないが普通になり、マスク装備が日常になった。オフ会や読書会でお薦めしあった日々は過去になり、代わりにZoomやチャットでの交流が増えた。

ポジティブに考えると、そのおかげで、読み幅がさらに広がった。わたし一人のアンテナでは、絶対に探せない、でも素晴らしい小説やノンフィクションに出会うことができた。お薦めしていただいた方、つぶやいた方には、感謝しかない。

さらに、今年は本を出した。

ブログのタイトルと同じく、[わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでる]だ。美味しいところだけを、ギュッと濃縮した一冊で、名著から劇薬本まで、お薦めを大量に紹介している。

すると、読者の方から「それが良いならコレなんてどう?」というフィードバックを大量にいただく(ありがとうございます!)。どれも独力では一生かけても出会えないスゴ本ばかりで嬉しい。

ここでは、この一年間に出会った本の中から、わたしにとってのスゴ本を選んだ。あなたの選書の手助けとなれば嬉しい。そして、あなたにとってのお薦めを伝えてくれると、もっと嬉しい。

 


コロナのおかげで出会えた傑作
『リウーを待ちながら』

 

3

2月上旬、新型コロナウィルスの感染拡大が懸念されていたころ、[ある記事]を公開した。

緊迫した現場の報道や、差別的な言動を目にして、世界が変わっていくのを感じたからだ。そして、このまま最悪の方向に進むのであれば、「日常がどう壊れていくのか」という観点で、小松左京『復活の日』と小川一水『天冥の標(救世群編)』を紹介した。

すると、お薦めをもらった。

これは、ある地方都市で新型ペストが蔓延する話だ。政府の緊急事態宣言、医療崩壊の現場、差別と悪意に満ちたネットと、それが現実化する世界を描いた、絵空事とは思えない生々しいコミックだ。

医療崩壊を象徴的に示す光景がある。

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渋滞の先にあるのは病院だ。まだ原因不明の段階で、発熱や悪寒の症状を抱えた人々が病院を目指す。病院は人手が足りない、ベッドが足りない、医療品が枯渇する。重篤化した患者が続々と死亡する。

さらに、街は外側から封鎖され、リソースの取り合いや、自己防衛という名の私刑の横行など、社会が壊れてゆく。そうした状況の下、絶望を、よりましな絶望に変えるべく、医師としての仕事を全うしようとするのが、主人公だ。

タイトルの「リウー」は、カミュ『ペスト』の主人公の名だ。カミュをリスペクトして描かれた作品だが、『ペスト』のようには終わらない。そして、こっちの方が、より現在に近いと考える。

なぜなら、ラストが違うから。

もう絶望しなくてもいいことが分かったとき、人々は花火を上げないから。カミュが描いたのは、戦争のメタファーだ。だから、脅威が街を去るとき、人々が花火を上げ、祝うのは当然だ。

しかし、リウーが来なかったこの街の人々は、祝わない。上書きされた災厄を抱えながら、日常を取り戻そうと平常のふりをする。このラストは、わたしたちの未来の日常に重なる。

2年後か、3年後か、新型コロナウイルスの影響が小さくなるとき、それは「ある日」をもって宣言されることはない。ゴールデンウィークみたいに、「コロナ明け」となる境目は存在しない。『リウーを待ちながら』は、そこまで予言的に描いた傑作だと言える。

日常がどのように浸食され、どんな異様な光景を見ることになるか、物語からよく見える。言い換えるなら、いま目に映る光景がどれほど壊れているかを知りたいとき、物語はバロメーターの一つとなる。

この傑作に出会えたのは、[はてなブックマーク]のhelioterrorismさんのコメントのおかげ。ありがとうございます! はてなブックマークは、コメントでお薦めしてくれる方がいるので、大変ありがたい。

 


科学が紐解く世界の面白さ
『銀河の片隅で科学夜話』

上質な科学エッセイ。

軽妙洒脱な語り口に引き込まれ、するすると読んでしまう。多宇宙論と文学の深い関係を語ったかと思えば、最小の労力で民主主義を壊す方法を紹介したり、倫理学のトロッコ問題を4,000万ものビッグデータでねじ伏せる。

いちばん面白かったのが、最小の労力で民主主義を壊す方法だ。セルジュ・ガラム博士の「世論力学」を使う。

利害が対立する中、互いの意見を出し合い、コンセンサスを形成していく―――このプロセスを数理モデル化したのが、世論力学だ。このモデルを色々動かすことで、集団は非常に興味深い振る舞いをすることが見えてくる。

まず、全員が浮動票―――つまり、みんな確固たる意見がない―――状態からスタートした場合、時間の経過につれて賛否のいずれかが優位になり、最後は全員賛成、もしくは全員反対になる。どちらに倒れるかは運しだいといったところだ。

だが、一定の固定票―――つまり、確固とした主張を持つ人がいる―――場合、賛否に与える影響は大きくなる。重要なのは、その主張の正しさ如何ではなく、どの程度の固定票がいるかになる。固定票が17%を超えると、無敵になる。残りの浮動票がどう動いても、最終的に固定票に収束する。

つまり、サクラを雇ってレビューを書かせたり、組織票をSNSにバラまいたり、切り取った「民意」をブロードキャストしたり、やり方はさまざまだが、その数が17%を超えると、合意形成を恣意的に操れるようになる。

言い換えるなら、集団の17%の声を揃えるだけの資源があれば、民主主義のルールに則りつつ、集団を乗っ取ることができると言える。

著者は量子力学の専門家なのだが、文学や歴史についても造詣が深く、世界の面白さについて、様々な分野から、縦横無尽に語ってくれる。寝る前に一話ずつ読むといいかも。

書評全文:世界はこんなにも不思議で面白い『銀河の片隅で科学夜話』

 


世界の「見え方」が変わる
『オーバーストーリー』

リチャード・パワーズの最新傑作。

読むと、木を、新しい目で見るようになる。いっぽん一本の違う木が「ある」のではなく、全体として木が「いる」ように感じられる。一つの木に焦点を当てて見るという感覚よりも、もっとカメラを引いて地表を覆う存在を想像するような……

この感覚、読んでもらうのが一番だが、このイメージで伝えたい。この長編小説に入り浸っている幸せなあいだ、わたしの心は、ずっとこの光景で覆われていた。

地上の目からすると、それぞれの木は独立している。だが、数十メートルの空からだと、互いの枝葉を譲り合いながら全体として森全体が蠕動しているように見える(樹冠が空間を譲り合う現象を、クラウン・シャイネスと呼ぶ)。そして、地面の下では、それぞれの幹から伸びた根が複雑に絡みあい、コミュニケーションを行っている。

『オーバーストーリー』も同じだ。前半は、8つの章に分かれた、9人の生きざまを追いかける、それぞれ独立した短編として読める。各人に象徴的な木が登場するのが面白い。

たとえば、一本の栗の樹を撮り続けたタイムラプスを持つ芸術家や、ベトナム戦争で撃墜されるも菩提樹に救われた兵士、王維の美術画を受け継いだ中国からの移民(扶桑)、世界をシミュレートするゲームを作り上げた天才プログラマ(ボトルツリー)など、それぞれの半生が線形に描かれている。

生きることの苦しみや、ままならなさを抱えており、少し読み進めるたびにグッと胸にこみ上げてくるものがある。ひとり一人の生い立ちや思想は異なるものの、突然の不幸や社会の逆風に揉まれる様は皆同じ、風に吹かれて揺れ動く木のようだ。

中盤、ばらばらに見えていた人生が重なり合ってくる。ある目的に向かって、つながりを求めようとする。もちろん、それぞれ価値観は異なるが、衝突したり譲り合ったりしながら、生きる範囲を変えていこうとする。その様は、数十メートル上空から眺めた樹木が織りなすクラウン・シャイネスそのままに見える。

物語のスピードに合わせ、ゆっくりと読み進めるうちに、わたしの時間感覚にまで影響が出てくる。木のスピードで見るならば、人の営みなんて、タイムラプスで早送りされた一瞬なのかもしれぬ。こんな風に。

人間は、時間は一本の直線だと思い、直前の三秒と目前の三秒だけを見ている。本当の時間は年輪のように外側を覆う形で広がっているのだということを人は知らない。”今”という薄い皮膜が存在しているのは、既に死んだすべてのものから成る巨大な塊のおかげだ。

『オーバーストーリー』は、ガイブン鈍器部の三柴ゆよしさんのおかげで手にした。ゆよしさん、ありがとうございます。

書評全文:世界の見え方を変える『オーバーストーリー』

 


全人類が共有できる世界史の可能性
『新しい世界史へ』

歴史は勝ったほうが書く。

だから、グローバル経済の覇者を名乗る欧米中心になるんだろうなぁ、と思っていた。バラバラで異なる歴史をもつ地域が、欧米が主導する戦争と経済により一体化されてきたのが、世界史のメインストーリーだと考えていた。

東京大学の東洋文化研究所である著者は、これに異を唱える。そして、全人類が共有できる世界史を構想する。

歴史認識の共有は、近隣国ですら(だからこそ?)難しい。にもかかわらず、人類で共有する世界史なんて可能だろうか?

著者はまず、必要性を訴える。日本の歴史、フランスの歴史、中国の歴史など、国民ごとの歴史では不十分だと主張する。

世界全体で、経済が一体化し、文化や価値観にも共通点がある。それにもかかわらず、国民国家の観点から共同体への帰属意識を強調し、その利害を第一に考えさせる「世界史」では、地球規模の問題に取り組めないとする。

帰属意識の先を、国家から地球に拡張する、地球市民が共有する知識の基盤―――そんな世界史が必要だという。いうなれば、日本でもフランスでも中国でも用いられる世界史だ。

そして、「地球人のための世界史」が可能であるなら、それはどのような形になるのかを検討する。

可能性の一つの方向が、グローバル・ヒストリーだという。

ヨーロッパ世界を相対化し、あつかう時間を巨視的に眺め、対象テーマと空間を地球規模で採り、異なる地域間の相互影響を重視する歴史だ。

その例として地球の初期設定から語りなおしたダイアモンド『銃・病原菌・鉄』や、砂糖に焦点を当て人々の活動のつながりを炙り出す川北稔『砂糖の世界史』、あるいは、海と周辺地域を一体のものと捉え、その空間内での人・モノ・情報の動きを描くブローデル『地中海』を紹介する。

これをさらに広げ、「法の支配」「人間の尊厳」「民主主義の諸制度」「自由市場」「国家間暴力の否定」といった価値を基準にした世界の見取り図を提案する。

ある時代の王国、政府、長を中心とする人間集団において、どのように社会制度が維持され、こうした価値がどのように扱われていたかを比較する。それぞれに共通する点を炙り出し、いわば人間集団の類型化を図るのだ。

これを読むことで、人類に共通する価値が、どのように世界の地域で共有され、受け継がれてきたかが明白になる。そして地球という共同体に生きる一人だと認識できるものになるだろう。

著者は、構想し、提案するだけでない。予算を立て、プロジェクトとして実行している。東京大学、プリンストン大学、フランスの社会科学高等研究院、ベルリン・フンボルト大学と連携し、新しい世界史認識を生み出す挑戦的なプロジェクトだ。2014年から続いているこのプロジェクトの詳細は、「グローバル・ヒストリー共同研究拠点の構築」にある。

この世界史は、読んでみたい。

本書はスケザネさんから教わって出会うことができた。スケザネさん、ありがとうございます。一緒にお薦めいただいた、大江一道『世界近現代全史』も読みます。

書評全文:全人類が共有できる歴史はありうるのか?『新しい世界史へ』

 


地球外の生命を立証する科学
『アストロバイオロジー』

昔は、地球こそが宇宙の中心とみなされていた。

神に選ばれた人が住まうこの地球こそが唯一無二であり、星々は地球の周りをめぐると考えられてきた。だが、そうではないエビデンスが続々と集まり、地球が中心ではないことが明らかにされた。

そして今、地球こそが、生命が誕生する唯一の場所と「みなしたい」人々がいる。この発想の裏側には、「神に選ばれし人」という宗教や「人こそが生命進化の究極の存在」という文化がある。

だが、そうではないエビデンスが続々と集まってきており、研究体系となろうとしている。それが、アストロバイオロジー(astrobiology)だ。宇宙を意味する接頭語「astro」と、生物学を意味する「biology」を組み合わせた造語で、日本語では宇宙生物学と訳される。

  • 生命は、いつ、どこで、どのように生まれたのか?
  • 地球以外の天体にも生命は存在するのか?
  • 生命が存在する惑星としての 地球は、どのくらい特殊で、どの程度に普遍的な存在なのか?

興味深いのは、生物学に限った学問領域ではないところだ。

たとえば、生命活動が可能な領域を探るためには天文学、惑星科学、地球物理学の成果が求められ、生命誕生にアプローチするために生化学、微生物生態学、地質学、海洋学の知見が適用され、単純な機構から複雑な生命へのプロセスについては分子進化学、地球化学が用いられる―――しかもこれはほんの一部なのだ

つまり、アストロバイオロジーとは、最新の研究成果を惜しみなく注ぎ込まれる総合科学、いわば「全部入り」なのだ。

本書では、アストロバイオロジーの知見とともに、集まった最新のエビデンスが紹介されている。

たとえば、探査機カッシーニが土星の衛星エンセラダスの南極から噴出されたプルームから採取したアミンや酢酸、アルデヒドなど有機物がある。これは、生命がいる(いた)傍証として有力だ。

さらにプルームに含まれるナノシリカと呼ばれる石英の粒子は、地下には90度以上の熱噴出孔があることを示唆している。地球の生命誕生のカギとなっている深海の熱噴出孔を同じくらい期待してもいい。

現在進行中のプロジェクト「たんぽぽ計画」も、結果が楽しみだ。超低密度のスポンジ(エアロゲル)を宇宙空間に曝し、宇宙塵を捕集することで、そこに含まれる生命誕生の鍵となる物質を探す計画だ。

もし地球低軌道(高度400キロメートル)で微生物が検出されれば、地球上の生命が他の惑星へと移動する可能性を示す。つまり、生命は一つの惑星に閉じた存在ではなく、たんぽぽが綿毛で種子をとばすように、星を渡り宇宙へ広がっていく証左となるのだ。

この計画の一環で、国際宇宙ステーションの外で1年間生き延びた微生物がいることが分かった[Yahooニュース]。宇宙空間でも生命が生き延びられる可能性を示唆している。

地球外の生命を確信できる一冊。

書評全文:銀河系の知的生命体の数は90『アストロバイオロジー』

 


清潔・不潔は文化だ
『不潔の歴史』

史上最も不潔なのは、キリスト教徒だという。ホント!? 入信の際の洗礼のイメージから、きれい好きと思っていたが、違うらしい。

たとえば、イエスを食事に招いたファリサイ派の人は、イエスが食前に身体を清めなかったことに慄いたとある(ルカ11:37-54)。手記や小説などで、キリスト教徒の汚さは相当なものだと紹介されている。

一方、ユダヤ教徒やイスラム教徒は、清潔でいることが教義としてルール化されていたという。つまり、身ぎれいにすること自体が宗教活動の一つだったのだ。

『不潔の歴史』を読むと、「きれい」と「きたない」は文化的なものであることが分かる。

現代の米国人にとっては、清潔とは、毎日シャワーを浴びてデオドラント剤を付けることだし、17世紀のフランス貴族にとっては、体は洗わず肌着を毎日着替えることが「きれい」になる。さらには、16世紀の医者の指導によると、疫病が入り込むから風呂は禁止されたという。

自分の価値観に照らし合わせて「うへぇ」と声に出しながら読んでいるうちに、その自分の価値観ですら、後の世からすると、「うへぇ」なのかもしれぬ、と思えてくる。

では、なぜそれが現代の衛生観念に近づいたか?

すぐに上下水道の整備や衛生観念の一般化が思いつく。

だが本書では、広告戦略の影響が大きいとある。マウスウォッシュのリステリンや、ボディソープの広告の歴史になる。「あなたは臭い。そしてその臭いにあなたは気づいていない」というメッセージを刷り込むことで、こうしたデオドラント商品は飛ぶように売れたという。

さらに、周囲の衛生観が変わることで学習し、体を清潔にすることがあたりまえになっていったという。

本書にはないが、最近ならマスクになる。

2002年にSARSがアウトブレイクしたとき、マスクをする日本人は、欧米人の嘲笑の的だったが、2020年のいま、欧米人も公共の場所でマスクをするのが普通になっている。

自分の感染予防というよりも、他人に感染させないためのマスクなのだが、この考えが一般化されたのだろう。周囲がしているから、するのが「普通」だから、マスクをする―――こういう風に、衛生観念は育っていくのかもしれぬ。

清潔/不潔は文化であり、文化は伝染することを考えさせられる一冊。

書評全文:きれいは汚い、汚いはきれい『不潔の歴史』

 


「おいしい!」と感じるとき、起きていること
『味覚と嗜好のサイエンス』

「味」は信号だが、「おいしい」は経験だ。

味覚は、食べ物が体に入ってくる時のセンサーになる。甘味はエネルギー源となる糖、塩味はミネラル、うま味はタンパク質、酸味や苦味は腐敗物の存在を感知する。

だが、塩何パーセント、砂糖何グラムといった味覚が最適化されれば、自動的に「おいしい」になるわけではない。料理の見た目やにおい、口に入れたときの食感やのどごし、風味の全てで、わたしたちは味わう。

これに加え、昔から食べ慣れているかも含め、いまの体感と過去に学習してきた記憶を総動員して、「おいしい」と感じる。ふだんの食生活で見過ごされがちだが、「おいしい」とは、結構複雑な結果なのだ。

本書は、この味覚と「おいしい」を手がかりに、食べるとは何かを探求したものになる。

たとえば、「コクがあっておいしい」の「コク」とは何ぞや?

コクを感じるものとして、フォアグラやウニ、生クリームやバター、イクラやアボカドが挙げられ、その共通項として、油脂や糖やうま味が想定される。

そして、油脂や糖やうま味が示しているのは、高カロリー、タンパク質、糖分だ。生きる上で必須のアミノ酸や糖分を豊富に含み、効率的に摂取することができるのが、「コクがある」食べ物になる。なるほど!

これを「コクの原型」と呼び、その周囲に「コクの第二層」があるという。

コクがある食べ物を口にし、においや食感、のどごしを学習し続けるうちに、コクを感じるようになるという。つまり、学習の結果、アミノ酸や糖分がなくても、その存在を感知させるだけでいいのだ。あんかけやとろみ、濃厚な香りは、その代表例だろう。

そして、その地域での食文化によって、好みが学習される。

食べ慣れたものを好ましく感じるのは、「食べたことがある」という味覚や風味は、食の安全の信号だからだという。親や家族が食べていたから、子どもも食べる。これが繰り返されて、嗜好ができあがるのだという。

たとえば、日本では海苔が好まれるが、慣れない米国人にとっては、「食べ物とは思えない」といわれる。日本の場合、周辺を海に囲まれ海苔が作りやすかったことと、海苔を食べる習慣が古くから伝わっていたことで、必要な栄養素を海苔に頼る文化になった。一方米国では、海苔の風味が栄養や食習慣と結びつかなかった。

つまり、「おいしい」は文化による学習の賜物なのだ。味という信号と、おいしいという経験の間にあるものを探求する一冊。

紹介してくれたのは、ふろむださん(ありがとうございます!)。食と文化とサイエンスは、本書に加え、[ライトノベルでの異世界の和食料理はどうでしょう? 味覚と民族料理]あたりを手がかりに、広げていきたい。

書評全文:「おいしい!」と感じるとき、何が起きているのか『味覚と嗜好のサイエンス』

 


マザコン+ラブコメ+ブルーマー
『大蜘蛛ちゃんフラッシュバック』

このマンガは、同級生のお尻を見てたら、ひっぱたかれるところから始まる。

Oogumo01

Oogumo02

Oogumo03

……このシーンは、主人公の実(みのる)の目線ではない。お尻を見てたのは亡き父で、その記憶が、折に触れて、実の脳内に蘇るのだ。

お尻の持ち主は、若かりし頃のお母さん(旧姓:大蜘蛛ちゃん)。つまり、母に一途な父の目線でもって、「女子高生のお母さん」の記憶が、息子にフラッシュバックされる。

そして厄介なのは、実は、お母さんに恋をしてしまっていること。女子高生のお母さん(細身で強気)と、今のお母さん(むっちり無防備)に煩悶する、マザコンラブコメ。

「お母さんに恋してる」なんて、ちょっとヤバくね?

その自覚はある。だから実は自問する。

だけど、お母さんとの日常に、父の過去の記憶が入ってくると、女子高生のお母さんの可愛いさに撃たれる。そして、(ここ重要)父がどれほど母を好きだったか、ということを、父の目線で思い知る。だから実は煩悶する。

父の高校時代をなぞる実は、そのまま行くと母と結ばれてしまうインモラルな展開になってしまうのだが、そこは作者・植芝理一先生の見せどころ、これでもかとばかりにフェチと変態と純愛とノスタルジックなネタと突っ込んでくる。

そんな実に興味津々なのが、同じクラスの一 一(にのまえ はじめ)。最初はぞんざいに扱っていた実も、彼女と話しているうちに、「高校生の母に話しかける父の記憶」がフラッシュバックされる。まるで、彼女が母で、自分が父かのようなデジャヴを味わう。そして実は煩悶する。自分は彼女の事が好きなのか、父の記憶の中の母を好きなのかと。

ラブコメを摂取するのは、なんにも無かった青春の記憶を上書きするため。だから読んでて、あまりの甘酸っぱさに「うわああああ」と叫びだしたくなるけれど、それでもニヤニヤを堪えて読む。

作者のこだわりは、ブルマーが包むお尻の微妙なカーブや、ぴっちりしたジーンズに浮き出るシワ、あるいは、自転車のサドルに座ったときのプリーツのよじれといった形で表現されている(刮目すべし)。

倒錯と純愛を、ノスタルジックにフェティックに描いた全6巻。第一話は[ここ]で読めるぞ。

書評全文:大好きなマンガが完結したので全力でお勧めする『大蜘蛛ちゃんフラッシュバック』(ネタバレ無し)

 


人は、ロジックではなく類推で考える
『類似と思考』

人は、どのように思考しているのか? これを認知科学の成果から深掘りしたのが、鈴木宏昭著『類似と思考』だ。

本書によると、人は論理学的なルールを、個々の問題に当てはめて演繹的に解いているわけではない。それはむしろ、レアケースになるという。また、問題に行き当たる度に、メリットは本当に利得なのか、前提条件は対価として妥当かを、いちいち深く考えているわけではないという。

代わりに、過去の典型的なメリットー対価状況と、目の前の問題状況がどれほど似ているかを判断することで、面倒で、非現実的な処理をスキップしているというのだ。これにより、確率からするとあり得ない方に従ったり、文脈や状況だけから正しい判断を下したりする。

この、非常に人間くさい思考を「準抽象化による類推」として、その理論をまとめている。

「人の思考は、規則やルールに基づいておらず、類似を用いた思考(類推)を行っている」が本書の結論だが、そこへ至るまでに、文学や科学、政治やビジネスで行われる類推の事例を紹介している。さらに、他の理論と斬り結びながら自説をブラッシュアップしているところが面白い。

  • 多重制約理論:キース・ホリオーク、ポール・サガード
  • 構造写像理論:デドリー・ゲントナー
  • 概念メタファー説:ジョージ・レイコフ
  • p-prim理論:アンドレア・ディセッサ
  • 漸進的類推写像理論:マーク・キーン
  • Copycat:ダグラス・ホフスタッター

並べると、「人はどのように思考しているか」それは「一般化できるか(≒コンピュータに任せられるか)」さらに、「人がどのように世界を理解しているか」まで議論が拡張することになる。カーネマン『ファスト&スロー』やロスリング『ファクトフルネス』が好きなら、ハマることを請け合う。

「人はどのように思考しているか」について、現在の見取り図を与える一冊。

書評全文:認知科学から見た、多くの人が論理的に考えない理由『類似と思考』

 


人生を<かなり>楽にするエピクテトス

人生で一番大事なことは、イチローから学んだ。

  コントロールできることと、コントロールできないことに分ける。
  コントロールできることに集中して、
  コントロールできないことには関心を持たない。

首位打者争いをしているとき、ライバル打者について話題が及ぶと、「相手の打率は、僕にはコントロールできません、意識することはありません」と打ち切ったという。

同じことを、松井秀喜も語っていた。成績が振るわず、マスコミに批判されたことについて質問されると、「記事はコントロールできません。気にしても仕方ないことは気にしません」と返したという[松井、イチローの言葉を就活に生かす]

初めてこの言葉を聞いた時、自分を苦しめているものがはっきりと見え、すっと楽になった。以後、手帳の見返しに書きつけ、毎日見返している。

わたしを苦しめているものは、「コントロールできないもの」を生み出しては抱えている、わたし自身なのだ。

もっと踏み込んだ言い方では、[二ーバーの祈り]がある。

  神よ、
  変えることのできないものを、
  静穏に受け入れる力を与えてください。

  そして、
  変えるべきものを変える勇気と、
  変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを、
  与えて下さい。

神学者ラインホルト・二ーバーが作者とされる祈りの言葉で、アルコールや薬物依存症に苦しむ人を支援する会でも引用されている。

この、「変えることのできないもの」をあれやこれやと生み出し、それに思い悩むのは、ヒトの思考の癖のように思える。放っておくと、そうした不安にばかり埋め尽くされ、悪い方へ悪い方へとしか考えられなくなる。

だが、不安とは、未来に起こるかもしれない不都合を、「いま」思い悩むことだ。「いま」を「未来」に変えられないのであれば、起きたときに悩めばいい。起きてもいない(起きるかどうかすら分からない)不都合について心配するのはナンセンスかもしれぬ。

この考え方を辿ると、エピクテトスまで至る。エピクテトスはローマ帝政時代の哲学者で、彼の言葉は、マルクス・アウレリウスからパスカル、夏目漱石にまで影響を及ぼし、今に至っている。エピクテトスの言葉は、『語録 要録』で触れることができる。

エピクテトスの原則は、「自分の権内と権外を見極めよ」になる。

  権内=コントロールできるもの

  権外=コントロールできないもの

だね。そして、権内か、権外か、両者が適切に区別できている状態こそ、人にとってもっとも幸福であり、われわれが目指すべき最善な状態だという。

そして、権内か、権外か、あらゆる心像についてこの基準をあてがってみろとアドバイスるする。権外であれば、捨て去れと断言する。なぜなら、人々を不安にするものは事柄ではなく、事柄に関する考え方なのだからだというのだ。

エピクテトスの言葉そのまんまは、少し解説が必要だ。だが、これを現代風にアレンジしているのが、『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね』だ。山本貴光さんと吉川浩満さんが対談しながら、人生を楽にするやり方を噛み砕いてくれる。

エピクテトスは、山本さんと吉川さんのこの本のおかげで出会うことができた(ありがとうございます!)。私淑する一人として、読み続けるつもり。

書評全文:変えられないものをスルーして、変えられるものだけに集中する

 


辺境と文明が逆転する
『遊牧民から見た世界史』

中国がなぜ中国かというと、世界の中心を意味するから。

中国皇帝が世界の真ん中にあり、朝廷の文化と思想が最高の価値を持ち、周辺に行くにつれ程度が低くなり、辺境より先は蛮族として卑しむ華夷思想が根底にある[Wikipedia:中華思想]

しかし、蛮族とされている遊牧民から見ると、舞台はユーラシア全体となる。遊牧生活によって培われた軍事力で圧倒し、スキタイ、匈奴の時代から、鮮卑、突厥、モンゴル帝国を経て、大陸全域の歴史に関わる。中心と周辺が反転し、中華は一地域になる。

視点を反転することで、いままで「常識」だと考えてきたことが揺らぎ、再考せざるを得なくなる。

たとえば、「モンゴル残酷論」を誤りとする。

モンゴル帝国といえば、暴力、破壊、殺戮というイメージが付きまとう。PS4ゲーム『ゴースト・オブ・ツシマ』やコミック『アンゴルモア元寇合戦記』に登場する蒙古は、血塗られた侵略者として描かれている。

しかし、これは歴史の書き手による願望であり、よほどの例外を除きモンゴルはほとんど戦っていないという。

仮に、敵とみれば殺したという伝説が本当だとすると、モンゴルは増えない。ヨーロッパから中国まで、ユーラシア大陸を横断する規模で拡張するためには、仲間を増やす必要がある。

モンゴルの優れた点は、仲間づくりの上手さにあったという。自らの強さを喧伝することで、戦わずに吸収することを目指す。モンゴルという仲間になれば、身の安全が保たれるという、一種の安全保障を提供することで、帰順させるのだ。

軍事力を背景としながらも前面に出さず、関税を撤廃して経済と流通を隆盛させ、ユーラシア・サイズの通商を実現できた事実と、暴力と破壊のイメージはかけ離れている。おそらくこれ、どちらかが本当という二択ではなく、イメージと実践を使い分けたプロパガンダなのではなかろうか。

なぜ遊牧民にマイナスのイメージがあるのか?

本書によると、遊牧民は「蛮族」というレッテルを押し付けられてきたという。その理由は、「遊牧民は、自らの歴史をほとんど残さなかった」ことにある。

一方で、記録する側は、自分たちを「文明人」だと考えて、遊牧民に対し誤解や曲筆の多い書き方をしたという。遊牧民に攻撃・支配された時代は、被害者意識を過大に記述するか黙殺し、記録する側が攻勢にある時期は、遊牧民に対し、蔑視や優越感が溢れる表現になる。

歴史を記す側は、正統性を主張し、覇道を唱えるため、残虐や非道ではないことを証明しなければならない。その仮想敵こそが匈奴・鮮卑といった外側の人々だというのだ。

内側と外側、辺境と文明が入れ替わる。歴史を複眼的に眺めるダイナミズムが面白い。その手がかりを与えてくれる一冊。

書評全文:辺境と文明が逆転する『遊牧民から見た世界史』

 


おっぱいの本質を学ぶ
『哺乳類誕生』

おっぱいとは何か?

この問いに対し、人文科学からたどったのが『乳房論』だ。絵画、文学、宗教、政治、ファッション、医療、ポルノの斬り口から、[乳房をめぐる欲望の歴史]を描き出している。

いっぽう、自然科学からたどったのが本書『哺乳類誕生』だ。遺伝学、分子生物学、獣医学、生物工学、古生物学の斬り口から、乳房に至る進化の歴史を描き出している。

おっぱいで子どもを育てる哺乳類は、どのようにおっぱいを獲得したのか。乳はどのように発達し、どういったメカニズムで出て、生命維持にどのような役割があるのかなど、おっぱいの本質を学ぶことができる。

この、おっぱいの本質には瞠目した。おっぱいを全くといっていいほど分かっちゃいなかったことを、思い知らされた。

おっぱいは、ほとんど味しないし、うっすら生臭いので、血液みたいなものなのだろうと思っていた。だが、血漿に含まれる成分だけでなく、脂肪や糖を効率的に与えられることが、おっぱいのすごいところなのだ。

まず脂肪は、ほとんど水に溶けない。母乳は液体だから、脂肪を渡そうとしてもそのままでは難しい。どうするか? 

そこで、おっぱいの登場だ。

脂肪は乳腺細胞がつくり、細胞内の脂肪滴という形で存在する。これを乳に移行するときは、細胞膜を通らなければならないのだが、通過する場所がない。そのため、細胞膜を内側から押し上げ、細胞膜に包まれた状態(脂肪球)となって乳に移る。細胞膜そのものは水に混ざりやすい性質を持っているため、脂肪滴も親水性物質として振舞えるというのだ。

淡々と説明しているが、これ、端的に言うと、体液の養分を与えるのではなく、自分の身(細胞)を削って脂肪を包んで乳にしていることなる。まさに身を削って乳を与えているといえる。おっぱいは、血というより肉の一部なのだ

さらに、糖を渡すメカニズムもスゴい。

赤ちゃんの脳や神経の発達に大量の糖分を必要とするのだが、ブドウ糖ではなく、乳糖で渡す。これにもちゃんと理由がある。

ヒトの血中ブドウ糖は0.07~0.14%で維持されており、これを大幅に超えてコントロールできなくなると、全身に異常が現れる(糖尿病だ)。ブドウ糖は必要だが、正常範囲を超えたら毒になるのだ。

一方で、効率的に栄養を渡すため、乳の糖分を高くしたい。このジレンマを解消するのが乳糖だ。乳糖は、体内では利用されず、高濃度にしても支障ないという(人の乳に含まれる乳糖は7%)。これにより、高い糖度のおっぱいを、母体内の糖度に影響を与えずに渡すことができる。

こんな感じで、おっぱいの偉大さをいっぱい知ることができる。おっぱいは、生命進化の究極の形だともいえる。

本書は、おっぱいの碩学・骨しゃぶりさんのお薦めで知った(ありがとうございます!)。次は『乳房の科学』に手を伸ばしてみよう。

書評全文:おっぱいに(科学的に)興味がある人必読 『哺乳類誕生』

 


美とは究極的には適応度のこと
『美の起源』

問題:次の①と②のうち、どちらが美しいと評価されるか。



Landscape1



Landscape2

おそらく、①を答える人が多いだろう。

しかし、なぜ①を選ぶのか?

その理由は、デニス・ダットンが解き明かしている。ダットンは、普遍文法や普遍道徳と同じように、「普遍美」があると仮定し、それは国や民族、地域や文化に関係なく、好ましいとされるものだと考えた。

そして、1993年、ケニアからアイスランドまで10か国におよぶ調査を行い、どの風景が好ましいか、そして好ましいとされる特徴を突き止めた。

  • 広い空間に丈の低い草と、藪や密生した木がある
  • 近くに水がある
  • 鳥や動物がいる
  • 植物が多様である

これは、ヒトが好む原風景は、アフリカのサバンナに似ているところから、「サバンナ仮説」と呼ばれる。ダットンは、この嗜好を、ヒトが進化の過程で獲得した可能性が高いと主張する。

つまりこうだ。開けた空間なら、敵や獲物を発見しやすい一方、丈の低い草で身を隠すことができる。水があり動植物が豊富だということは、それだけ食べ物にアクセスしやすいことになる。ダットンは、この特徴は風景画のみならず、公園やゴルフコースにも適用されているという

特定の景観を好ましく感じる美的判断の起源は、ヒト科の狩猟採集者の生存可能性を高める場所にあるのかもしれぬ。この観点からヒト共通の美しい色を探すなら、それは水の青か植物の緑になるだろう。

つまり美を感じさせる裏側には、生物が生き延びて子孫を残す適応度が隠されているというのだ。

しかし、その一方で、枯山水は水を使わず、石や砂で表現される。水墨画や山岳風景画で描かれる自然は、サバンナの景観とは程遠い。こうした美的価値観は、適応の結果ではなく、歴史や文化の洗練を経て、変わっていったのかもしれぬ。

美とは何か?

哲学者や芸術家、科学者たちが答えようとしてきた疑問に対し、進化から考えるのが、渡辺茂著『美の起源 アートの行動生物学』だ。

ヒトの美意識の基礎には進化的な基盤があるとし、その美意識を行動生物学の視点から解き明かそうとする一冊。本書は、読書猿さんのツイートで巡り合うことができた(ありがとうございます!)。

書評全文:「美しさ」のサイエンス『美の起源』

 


意味が分かると『しびれる短歌』

Sibireru

「意味が分かると怖い話」というのがあるが、それに近いものがある。

ほんとうはあなたは無呼吸症候群おしえないまま隣でねむる
鈴木美紀子

同室で枕を並べる夫婦なのに、少なくとも妻は冷めきっているのが分かる。

「ほんとうはあなたは」で、夫の寝息がおかしいことに気づいてから、結構な日数が経っている。おそらく、就寝中の夫の寝息がおかしいことに気づいて、ネットか何かで調べ、「無呼吸症候群」に辿り着いたのだろう。

放っておいたら、そのまま息をしなくなるかもしれない。それも織り込み済みで、「おしえない」。ずっと息をしないようなら、「おしえない」まま目を閉じて、朝まで待つのではないかと、ぞっとする(「教えない」と漢字にしないところに、淡々とした意志を感じる)。

夫婦はホラーだ。これなんかもそう。

湯上りに倒れた夫見つけてもドライヤーかけて救急車待つだろう
横山ひろこ

風呂上りのヒートショックで、夫が脳卒中を起こしたのか。

この場合、「おしえない」のは犯罪なので一応、救急車は呼ぶ。だけど、待っている間は髪を乾かす。寝かせるくらいしか応急処置はないからだ。冷静なのか非情なのか。性別逆転すると石を投げられそう。

東直子さんと穂村弘さん、二人の歌人が紹介する『しびれる短歌』では、ヒヤりとするような歌がいくつも出てくる。現代の短歌では、夫は粗大ゴミであり、ぬれ落ち葉として扱われるらしい。「断捨離で最も捨てたいのは夫!」なんて涙を禁じ得ぬ。

これなんて、ぞっとするだけでなく、物語を感じる。

家族の誰かが「自首 減刑」で検索をしていたパソコンがまだ温かい
小坂井大輔

この家では、パソコンを共用していることが分かる。さらに、「検索」という言葉から GoogleやYahoo検索のことで、いわゆる昭和の時代ではないことが分かる。

それだけではない。検索キーワードを知っているということは、履歴を開いたことになるし、「自首 減刑」という言葉から、「自首したらどれくらい減刑されるのか」という意図が、そして家族の誰かがそれを知りたいと思っていることが分かる。

何をしてしまったのか?

もちろん、興味本位で調べたのかもしれぬ。だが、「まだ温かい」という言葉は、犯行現場に残された証拠品から「犯人はそう遠くに行っていない」「犯行からまだ時間が経っていない」ことを示す慣用句だ。

この一行からざわつきが伝わり、それを言えない詠み人のもどかしさも感じられる。詠み人にやましいことがあるならば、自分の犯行が家族にバレた? と不穏な物語を広げることだってできる。

短歌の破壊力が凄い。一行が目に飛び込んでくるから、構える間もなく理解に達し、感性を撃つ。一行の物語に震えて痺れる。

しびれる短歌を、お試しあれ。

書評全文:意味が分かると『しびれる短歌』

 


世界文学の日本代表が夏目漱石ではなく樋口一葉である理由
『「世界文学」はつくられる』

世界文学全集を編むなら、近現代の日本代表は誰になる?

漱石? 春樹? 今なら葉子?

審査は、世界選手権の予選のようになるのだろうか。投票でトーナメントを勝ち抜いて、これぞ日本代表としてエントリーするのだろうか。

スポーツならいざ知らず、残念ながら、文学だと違う。春樹や葉子ならまだしも、漱石は予選落ちである。

なぜか?

『「世界文学」はつくられる』に、その理由がある。近代日本語の礎を築いたことで誉れ高い漱石でも、世界的に見た場合、西洋文学のコピーとして低く評価されているという。日本では有名な漱石も、海外に行くと知名度はうんと下がる。

たとえば、米国の大学生が学ぶ『海外文学アンソロジー』がある。古今東西の古典から近現代の作品を取り上げ、体系的にリベラルアーツを教授するために構成されたアンソロジーだ。日本人作家も多数取り上げられている(カッコ内は近現代の日本人作家の登場回数)。

樋口一葉(7)
川端康成(6)
谷崎潤一郎(4)
与謝野晶子(3)
芥川龍之介(3)
村上春樹(3)
三島由紀夫(2)
大江健三郎(2)

漱石は0である。漱石に限らず、尾崎紅葉や二葉亭四迷など、明治の文豪は軒並み苦戦しており、鷗外はかろうじて1回収録されているのみになる。どうやら米国では、漱石はマイナーどころか無名に近い。

対照的に、樋口一葉は『たけくらべ』『わかれ道』など、数多く収録されている。ノーベル文学賞という理由で川端康成が入るのは分かるが、彼を除くと、ぶっちぎり日本代表と言っていい。

なぜか?

『世界文学アンソロジー』の解説によると、漱石や鷗外といった明治期の文学者について、辛辣な評になる。フローベールやゾラ、ツルゲーネフといった同時代の西洋のリアリストを盲目的に(slavishly)真似た、と斬っている。

一方、一葉は、西洋文学の影響を受けなかったと言われている。一葉自身が英語を解さず、日本独自のリアリズムを発達させたとして、高く評価されているのだ。

それに加え、「世界文学」の扱い方に秘密がある。この言葉が、どのような意図で使用されているかに着目すると、見えてくる。

『海外文学アンソロジー』を用いるのは、北米の大学で教鞭を取る英文科の教員だ。主要顧客である彼らの目的は、自分たちのアメリカ文学が、いかに西洋の歴史と不可分かを教えることになる。

それゆえ、収録される作品は、聖書から始まりホメロス等のギリシャ・ローマの古典、中世、ルネサンス、西洋の有名作品が紹介されてゆく。あたかも世界史の史料を拡張したかのような構成になる。この時点で、かなりのボリュームになる。

これに多様性を加える必要がある。いわゆるカノン(正典)としての世界文学では、「ヨーロッパ」「古典」「白人男性作家」が多数を占める。バランスを取るために、「非ヨーロッパ」「女性作家」「マイノリティ」を選ぶ必要が出てくる(しかも限られたページで)。

こうした、「米国大学の教員にとっての世界文学」という文脈で考えると、樋口一葉がくり返し採択される理由が見えてくる。

まず一葉は、女性作家である。それだけでなく、近代日本(おそらく東アジアでも)最初期の職業的女性作家として挙げられる。次に、作品の短く、紙面が限られたアンソロジーに適しているといえる。

さらに、一葉はフェミニズムの文脈で比較文学させられている。『海外文学アンソロジー』の解説ページでは、一葉の『十三夜』は、スタントン&モットの『感情宣言』と比較して読まされる。

『十三夜』は、子どものために離縁を思いとどまる母を描いた作品で、『感情宣言』は離婚時に母親に親権を与える話だ。両者をフェミニズム的枠組みの中で解釈することが、授業の目的となる。

シェイクスピアやダンテといったヨーロッパ文学の中核ともいうべき男性作家を締め出すことはできない。さらに、ポーやメルヴィルといったアメリカ文学の伝統を作り上げた男性作家も入れなければならない。

その上で、全体の頁数を増やすこともなく、多様性や平等を実現しようとすると、どうしてもどこかで調整が必要となってくる。

世界文学アンソロジーを編むことは、あやういバランスの上になりたっている。日本代表を決めるのは、日本における評価や審査だけでなく、日本を外から眺めるとき、眺めたい方向に沿った形であることも、ポイントとなる。

世界文学(World literature)という言葉は曲者だ。世界陸上とか、ワールドカップといった、グローバルで評価されるニュアンスと、「世界文学全集」という出版物がつくりあげた正統性やカノンといった響きが発動する。

こうしたイメージが、「つくられたもの」であることを、本書は実証的に解き明かす。ゲーテから始まる「世界文学」の歴史を辿りながら、そこに潜むイデオロギーや恣意性を暴いた一冊。

本書は、著者である秋草俊一郎さんのセミナーを受講する上で知った。秋草さん、素晴らしい本にまとめていただき、ありがとうございます。

書評全文:「世界文学」の日本代表が夏目漱石ではなく樋口一葉である理由

 


大ヒットする映画の法則&作り方
『SAVE THE CAT の法則』

大ヒットする映画の法則と、それを適用する方法が書いてある。ベストセラー小説やゲームにおける、物語のベストプラクティスとしても使える。たとえば、

  • どんな映画なのか、一行(ログライン)で言えるか
  • 「マトリックス」と「モンスターズ・インク」は同じ映画
  • 全てのシーンに葛藤が必要な理由
  • 原始人でも分かる、原初的な感情や欲求に立ち戻れ

など、気づきが山のように得られる。目からウロコというよりも、見ていたはずなのに分かっていなかったことが、言語化されている。

映画のシナリオだけでなく、物語づくりの根幹にも届く。その原則はそのまま「人が一番面白いと感じるものは何か」につながる。

それは、「葛藤」だという。

人はもともと、葛藤している人を見るのが好きだという。人間同士の葛藤の最たるもの(殺し合い)を模したものが、レスリングやボクシングになる。

葛藤は、「欲しい」「嫌だ」という方向を持っており、原始的な感情や欲求に裏打ちされている。原始的な欲求とは、「生き残る」「セックスする」「愛する人を守る」「死への恐怖」といった、時代や文化を超えた普遍的なものだ。そうした欲求が阻害されるとき、葛藤が生まれる。

たとえば、「目の前に迫る危険 vs.死ぬのは嫌だ vs. あの人を守りたい」とか、「落ちこぼれの僕だけどあの子と仲良くなりたいのにライバル出現」、あるいは「キライなあいつがなぜか寄ってくる」のように、欲求とそれを阻害するもの、どちらを取るのか、ジレンマといった争いやもつれになる。

乱暴にまとめるなら、人は葛藤を見たいので映画を観る。主人公が葛藤を克服し、欲求を満たすとき、観客は、一番基本的なレベルで共感できる。これが映画の快楽になる。主人公の葛藤をドライブするのがストーリーといえるだろう。

だから主人公は、物語の中で一番葛藤し、最終的に一番大きく変化していなければならないという。シーンをまとめたカードには、必ず何らかの葛藤が入っていなければならない(どんなに出来が良くても、葛藤のないカードは捨てろとまで断言する)。そのために、わざわざ「葛藤」を示す記号まで作っている。それぐらい重要なのだ。

ここ、小説の創作技法と同じだ。カート・ヴォネガットの指南で、「たとえコップ一杯の水でもいいから、どのキャラクターにも何かを欲しがらせること」を耳にしたことがある。何も望まず、嫌わないキャラクターなら、最初から登場しなくても良いということか。

もちろん、こうした原則を守れば大ヒットすることが保証されているわけではない。監督や俳優など、ヒットを左右する様々な要因があるし、シナリオ通りに作られる保証なんてもっとない。

だが、大ヒットした映画のシナリオは、全てこの原則になっている。本書は、ヒット作のシナリオを理解・分解・再構築した、いわゆるリバースエンジニアリングによる指南本なのだ。

本書は長らく積読山に刺さっていたのを、ふろむださんの後押しで読んだ(ありがとうございます!)。映画に限らず、物語を作る&楽しむ上で、非常に役に立つ一冊。

書評全文:ヒットする物語の作り方『SAVE THE CAT の法則』

 


物語に感動するとき、その力はどこから来たのか?
『物語の力』

物語に魅了されるということは、どういうことか。「感動した」「心が震えた」と手垢にまみれた言葉があるが、その心を震わせる力はどこから来たのか? これが本書のテーマになる。

「心を震わせる力=物語の訴求力」として、どのようなときに訴求力が発生するかについて、物語論の研究成果を解説する。本書では詳細に分けているが、ざっくり以下の場合になる。

  • 回復と獲得の物語:自分が直面する問題に対する解決や、到達したいと願うゴールへの筋道が描かれているとき
  • 疎遠と帰属の物語:自分とは異なる価値観が提示され、自分の価値観が揺さぶられるとき

小説や映画における物語は、現代では消費されるものという意味合いが強いが、昔からの神話や民話の役割を担う側面もある。それは、物語を通じた、価値観や規範の伝達だ。

物語では、何か問題を解決したり、何かのゴールへ向かって進む。その背景にあるものは、「これは良くない状況であり、問題である」「これが良い状況であり、望ましいゴールだ」「解決にあたっては、このルール・設定を守るべきだ」といった、良い・悪い・望ましいといった価値基準だ。

そして、物語を聞く人は、物語の背景にある価値や規範を自らのものにし、物語で示されるモデルを模倣しようとする。

たとえば、「自己犠牲は望ましい」という価値基準があり、それが「皆のために戦いに行く物語」になる。この物語に感動した人は、共同体のために自分を犠牲にする行為を価値あるものだと考えるようになる。いざ他部族が攻めてきたとき、立ち向かってゆくだろうし、そのような気にさせる物語が、「良い」物語になる。

では、どうすれば「そのような気」にさせるだろうか?

「回復と獲得の物語」では、「自己効力感」と「ホメオスタシス」で説明する。自己効力感とは「自分にはできると感じる自信」のことで、ホメオスタシスとは、元に戻ろうとする力になる。

つまり、何かのストレスがかかり、マイナスの状況になったとき、「自分にはできる」と信じて手を尽くし、マイナスから回復すると、大きな快を得るというのだ。このときの「自分にはできる」という動機と、マイナスから回復する方法は、強く学習される。

より大きな快を得るためには、マイナスの度合いを大きくすればいい。主人公は、自己効力感を持たせる前に、絶望的な状況に落とせばいいし、ライバルや障壁を設けることで、得られる快もさらに一層強いものになる。

こうした物語の役割は『のだめカンタービレ』『デスノート』『インデペンデンス・デイ』など、具体的な作品を挙げながら解説されている。

また、『君の名は。』のラスト90秒が凄い理由を、視線誘導と感情移入の仕掛けを紐解きながら説明する。全ての仕掛けが分かったうえで、もう一度観ても、やはり感動する。それは、「なぜ人の心は震えるのか?」という謎に対する答えそのものだからだ。

そして、「自分の心がどのように震えたか」が分かれば、「誰かの心をどのように震わせるか」も分かる。読む人・書く人・描く人……物語を紡ぐあらゆる人にお薦め。

書評全文:物語に感動するとき、その力はどこから来たのか?『物語の力』

 


笑いはヒトとしての適応である
『ヒトはなぜ笑うのか』

犬、売ります:なんでも食べます。子どもが好きです。

意味が分かったとき、めっちゃ笑った。誤りに気づいて愕然とする男と、その傍らでシッポ振ってる犬まで目に浮かんで、笑いが止まらなくなった。

ひとしきり笑ったあと、可笑しかった理由を考えても、出てこない。「子どもが好きです」のダブルミーニングは分かるが、それが、どうして「あの」可笑しみを招いたのか、説明するのは難しい。

絶妙なネタが飛び込んできたり、とんでもない大失敗を目の当たりにしたとき、胸の奥・腹の底に、抑えようのない情動が沸き起こってくる。

このユーモアの情動がどのように引き起こされるのか、さらに、それをどうして愉快だと感じ、笑いにつながるのか―――認知科学者(ハーレー)、哲学者(デネット)、心理学者(アダムズ)の3人の共同研究『ヒトはなぜ笑うのか』が、この謎を解き明かす。

本書では、ユーモアの情動が発動するとき、そこに何らかのエラーの発見があることに注目する。私たちは、ある知識や信念に不一致を見出したとき、可笑しみを感じる。私たちは、何かがおかしいと分かったとき、それを可笑しいと感じる。

しかも、不一致であれば必ず可笑しく感じるとは限らない。いったん真だとコミットメントされた要素が偽だと判定されるとき、ユーモアが生じる―――これが「可笑しさ」のメカニズムだという。暗黙裡に当然視していたものが、一気に一挙にひっくり返る発見、これがカタルシスにつながる。

さっきの「犬、売ります」だと、掲示板かSNSのような場所に、犬の買い手を募集していることが分かる。続く「なんでも食べます」は、「(犬は)好き嫌いせず何でも食べる」と整合的に理解される。

そして、「子どもが好きです」が入ってくると、いったんは「子どもに懐きやすい犬」と受け入れられる。だが、その後、「なんでも食べる犬」という全体像と比べると、「好き嫌いせず子どもを食べる犬」と読み取ることができてしまう。

いったん受け入れた「子どもに懐きやすい犬」が偽だと判定されるとき、わたしは、可笑しみを感じる。もちろん、「子どもを食べる犬」というグロテスクな結論は偽なのだが、それも含め、この文章に促された誤読(おかしさ)の発見こそが、愉快なのだ。

この「愉快だ」というユーモア情動には、適応的な働きがあるという。この情動は一種の報酬であり、これを求める動機付けになるというのだ。

たとえば、私たちは果糖がもたらす感覚を「甘い」として心地よく味わう。それは、エネルギーたっぷりであるが故に、グルコースの摂取を求めるよう、「甘さ」が動機づけられている。甘い・美味しいという感覚は、グルコースを摂取した報酬になる。

それと同様に、「可笑しい」という感覚は、今まで当然だと思っていた知識や信念の中にに、首尾よくエラー(おかしさ)を見つけた報酬だという。私たちは、チョコやケーキを求めるように、ジョークやユーモアを求めているのは、こうした理由によるというのだ。

そして、こうした「エラーを見つける」ことを報酬にした理由を、メンタルスペースの概念を用いて明らかにしてゆく……人が「笑い」を手に入れたのは、ヒトとしての適応の結果なのだということが分かってくる。

笑いを探ることでヒトの本質に近づく一冊。

書評全文:適応としての笑い『ヒトはなぜ笑うのか』

 


人生の持ち時間は少ない、やりたいことは全部やろう。
『キミオアライブ』

Kimioa

病院のベッドで、ひたすらノートに書く少年。

大病を患い、未来に絶望しかない状況で、「やりたいこと」を書き続ける。リストには、たくさんの「夢」が並んでいる。

  • リコーダーを吹きたい
  • 風船の中に入ってみたい
  • 部屋中を使ってピタゴラ装置をつくりたい
  • 空を飛びたい ……

ささやかな願いから、とんでもない冒険まで、さまざまな夢がある。

わたしも、自分の夢をリストにしたことがある。行きたいところ、食べたいもの、やりたいことを綴った覚えがある。でもそれだけ。リストを作って「名前を付けて保存」しただけだ。

しかし、少年は違う。名前はキミオ、『キミオアライブ』の主人公だ。

  1. ノートに、やりたいことを書く
  2. 書いたことは、必ず実行する
  3. 実行したら線を引く

キミオは、律儀に、真面目に、一つ一つ、実行していく。

「リコーダーを吹く」は簡単にできるが、ピタゴラ装置はちょっと大変かも。さらに、「空を飛ぶ」のはもっと難しい。飛行機に乗ればいいのか?

キミオは、別の方法で「空を飛びたい」を実現する。

ここが、キミオとわたしの大きな違いだ。

わたしは、「やりたいこと」が浮かんだとき、まず、その「できない理由」を探し始める。お金が無いから、もっと時間があったなら、スキルが足りない、仲間が必要、そもそも法律で許されているの? なんて考えて「いつかやろう」になる。

一方、キミオはこう考える。「もしそれを実現できるなら、どんなやり方がある?」と考える。あるいは、「何が実現されたなら、『できた!』になる?」と考える。そして、できる方法を探し始めるのだ。

この発想力と企画力、そして実行力がすごい。

最初は呆れて馬鹿にしていた周囲の人も、だんだんとキミオに巻き込まれてゆく。

その一方で、キミオ自身も、自分のためだけではなく、仲間と一緒に企画して、知恵を出して実現する喜びを知る。さらに、「あの人の笑顔が見たい」という新たな「やりたいこと」を見出す。

そして、この喜び、楽しさ伝える、動画配信という方法があることを知る。動画配信は、「やりたいことで、生きていく」ための強力な武器になりえる。

後に、チャンネル登録数1000万人を超える youtuber となるのだが、それはまた別のお話らしい……

これ読んでて、2ちゃんねるのこれを思い出した。

  きっとお前は、二十年、せめて十年でいいから、
  戻って人生をやり直したいと思っているのだろう。
  今やり直せよ、未来を。
  十年後か、二十年後か、五十年後から戻ってきたんだよ、今。

本書は、コロナで書店が閉まっていた時期に発売され、全く知らなかった。だが、読書猿さんが呟いてくれたおかげで出会うことができた(ありがとうございます!)

作者は恵口公生さん。連載中に急逝したため、未完となっている。

人生の持ち時間は少ない。やりたいことは、全部やろう。

書評全文:やりたいことは全部やる『キミオアライブ』

 


この本がスゴい!2020ベスト
『独学大全』

独学の達人が書いた独学の百科事典。今年の一番であり、今後も何度も参照し、使っていく、一生モノの一冊。

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見りゃわかるが、はっきりいって鈍器だ。787ページ、1kgを超えている。使い倒してナンボなので、ここでは、本書の使い方を紹介する。

まず、最初に読むところ。

てっとり早く全体を掴みたい、という方のために、p.33~39に「本書の構成と取説」がある。この6ページを読むだけで使い方が分かるのだが、もっと切実な悩みを抱えている方もいるかもしれぬ。

  • どうやって調べればいいか分からない
  • 読むのが苦手
  • すぐ挫折して続かない
  • なんで学ぶのか分からなくなった ……等々

そんな具体的な悩みごとは、巻末の「独学困りごと索引」からダイレクトに引ける。

たとえば、私自身、自分の頭の悪さに腹が立つことがある。いくら読んでも分からなくて、もんもんとするか、開き直って飛ばしていたが、技法15「会読」が良いとある。要するに一冊の本をみんなで読むことだ。ゼミの輪読でおなじみだが、頭のいい人に巡り合える可能性は大いにある。

本書ではさらに踏み込んでくる。解釈が割れているところだったり、決着がつかない議論だったりする可能性もあるという。そこで、「分からないのは自分だけではない」ことを知ることが大事なんだという。

大事なのは「分からない」を自分で抱えるのではなく、表明することで外部に出す。極端な話、「みんな」がいなくったっても、一人でも会読できるとまで言う。一人で読んでレジュメを作り、「分からない」をまとめ、ネットに公開する。

誰か分からないけれど、誰かが見ているかもしれない事実が、継続を支えるという。この動機付けは強力で、「同じ書を読む人は遠くにいる」という言葉で伝えてくれる。わたしがブログを書き続ける理由も、まさにこれ。

この「外部に出す」ことの重要性は、様々な形を変え紹介される。

たとえば、技法13「コミットメントレター」

今週の学習予定を書き出して、家族や友人に渡す。受け取った人がチェックする必要はないが、それだけで強い動機付けになるという。なんならSNSに公開してもいい。自分との約束は破りやすいが、それを見せることで、社会的な縛めにするするというのだ。

あるいは、技法12「ラーニングログ」

何をどれだけ学ぶかの目標を決め、それに向けてどれだけ進んだかを記録する。ページ数や章・節、学習単元という積み重ねを、手帳やクラウド上に、一覧できる形で記録する。そして、記録を見返すことで、目標と現在位置を把握せよというのだ。

なぜ外部に出すのか? それは、人は弱いからだ。

人間は弱い。すぐ三日坊主になる。「やらない理由」を見つけ出すのが上手い。他の方法に目移りする。おそらく、読書猿さん自身が、自分の意志の弱さを思い知り、それを何とかするために足掻いてきたのだろう(生々しい記録が載っている)。

やろうとしていること、やってきたことを外に出す。「自分との約束」を誰かの視線にさらすことで、自分を律する。

この、コミットメントレターとラーニングログは、実践している。本書で紹介されている、『MD現代文・小論文』を毎日読み、進行状況を記録し、twitterで公開している。ラーニングログの場所は、ここだ。

わたしが実践しているのは2つだけだが、学ぶことを習慣化する仕掛けが、それこそ山ほどある。

不思議なことに、良い方法(ライフハック、アイデア、仕事術)を知ったとしても、実際に実行する人は 1% に満たない。そして、続ける人はもっと少ない。

だから、やろう。大丈夫、三日坊主や挫折しがちな人(=わたし)のために、沢山の手だてがある(技法9,10,11,12,13,14,55 あたりがお薦め)。

「学びたい」を抱えるあらゆる人の座右の書となる一冊。読書猿さん、素晴らしい本を書いていただき、ありがとうございます!

書評全文:『独学大全』はこう使う

 


スゴ本2021

時が速い。特に今年は、時間の流れが早すぎる。

わたしがトシとったからとも言えるし、世界の変化が大きすぎて、わたしが追い付けていないからなのかもしれぬ。

図書館の本を自分のものだと妄想するエア積読もさることながら、、Kindleのせいでクラウド積読が大変なことになっている。

冬木糸一さん猛プッシュで『HUNTER×HUNTER』は追い付いたけど、『バクマン』はジワジワ読んでる。R.R.マーティン『氷と炎の歌』はドラマと平行して進めているため、めちゃめちゃ濃密な読書になっている。これを超えたら、シュオッブかプルーストやな。

エリアーデ『世界宗教史』、大江一道『世界近現代全史』もガッツリ読みたいし、上原亮『実在論と知識の自然化』も読みたい! Bateson “Steps to an Ecology of Mind” とHossenfelder ”Lost in Math” がサクサク読めないので、回り道ながらAnkiと北村一真『英文解体新書』をやっている(これは読書猿さんのお薦め……超難しいぜ)。

「面白いとは何か」についても深めたい。「人はどういうときに面白いと感じるのか」というテーマで、認知科学における情動の研究や、進化心理学の適応の観点から、実際の文学や映画、絵画のテクニックや歴史を分析する。そうした分野を掘り下げていきたい(有斐閣アルマ『認知心理学』、東京大学出版会『進化心理学を学びたいあなたへ』あたりから探すつもり)。

「科学の限界」を描写する方法を考えたい。科学的発見の範囲は、その時代のテクノロジーの限界に依拠している(冥王星の写真の変遷が象徴的だ)。また、科学的知見の限界は、人の認識の限界に依拠している(これ以上分けられない概念としての”アトム”の内側に、量子力学の世界が内包されていた事実が象徴的だ)。これらを踏まえて、人の認知の限界から科学の限界を描画できないか、調べたい(『実在論と知識の自然化』から手を付ける)。

リアルな読書会ができない分、このブログやtwitter「ネオ高等遊民読書会」「面白文章力クラブ」で読書談義に耽るつもり。

これだけスピードが早くなると、人生の持ち時間は、加速的に少なくなる。やりたいことは、全部やるし、読みたい本は全部読む。「あとで読む」は後で読まない。「あとで読む」は後で読まない。いま読む、たとえ一頁でも一行でも。

これからも、これは! というものを発信していくつもりだ。そして、これ見たあなたが「それが良いならコレなんてどう?」なんてお薦めがあれば、ぜひ教えて欲しい。それはきっと、わたしのアンテナでは届かない、素晴らしい本に違いない。

なぜなら、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから。

 

 

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自分の死に方は自分で選ぼうと思っている『自殺学入門』

問題:自殺のリスクが大きいのは、AとBのどちらか?

A B
未婚、離別、死別 既婚
内向的 外交的
無職、収入無し 有職、収入あり

容易に想像がつくが、『自殺学入門』によると、結婚して収入のある女性よりも、無職で離婚した男性の方が、より自殺率が高いという。

さらに、

  • 太平洋・瀬戸内海沿岸よりも、日本海側
  • 平野部よりも、山間部
  • 日照時間が短く、積雪が多い地域

の方が、自殺率が高くなるという。注意すべきは因果ではなく相関の関係にある点だ。山間部で積雪が多い地域だと、他者の支援や病院に行く必要があっても、そのコストが大きいだろうし、人口が少ないことから、福祉などの社会資源に乏しいことは明白だ。

また、パートナーと別れる場合の自殺リスクも、男女で差が出てくる。離婚であれ死別であれ、配偶者を失ってより大きなダメージを受け、自殺リスクになるのは男だというのだ。

一方で、自殺未遂は圧倒的に女が多いという。これは、男の方が、自分の身体にダメージを与える能力が高いというのと、男の方がためらわず、より致死的な方法を選ぶ傾向にあるからだという。

どんな人が、何をきっかけとして、どういった方法で、自殺を試み、どれくらい上手くいくのか―――『自殺学入門』は、容赦なく分析してゆく。

そもそも自殺は「悪い」のか

自殺に関する書籍はたくさんあるが、本書はかなり変わっている。

ふつうは、精神科医が執筆し、ヒューマニティの立場から自殺を予防し、早期に気づいてケアすることを目的とした、「温かい」自殺学になる。「死にたい」と悩む人や、その周囲の人の心に寄り添うような書きっぷりだ。

だが、本書は、心理学者である著者自身が、「冷たい」自殺学だと述べている。

「そもそも自殺は予防すべきか?」「自殺は『悪い』ことなのか?」という出発点から、科学的な知見のみならず、宗教や文化的背景も交えて考察する。

さらに、経済的価値から自殺予防の費用対効果を見積もる。「死にたい」と言っている人を死なせないために、いくらなら払える? という発想は、類書にはないものだろう。

自殺対策コスト300億、メリット260億

年間自殺者3万人を超えたこともある自殺大国ニッポン。2006年に自殺対択基本法が制定され、国や地方自治体は自殺対策の責務があり、年間100~300億円の予算が組まれている。

こうした予算は、JRなど鉄道のホームドアの設置やアルコール依存症への対策に使われ、本来であれば自殺していた人たちを助けてきたといえるだろう。

では、こうした対策の経済的価値はどれほどになるか?

国立社会保障・人口問題研究所の試算によると、単年ベースで2兆7,000億円という莫大なものになる(GDP引き上げ効果は1兆7,000億円)(※1)。これは、ある年の自殺志願者が全員死なず、働ける間は働き続けた場合の生涯所得の現在価値(期待値)がこの額になるというのだ。コストが300億で、2兆7,000億の便益なら、充分以上の投資だろう。

著者はこれに疑義を投げる。

自殺リスクを抱える人が全員、自殺を思い留まるというのは無理があるのでは、と指摘する。また、うつ病を患っている人が自殺を思い留まった後、バリバリ働いて年収を稼ぐという前提に問題があるという。

これに加え、自殺が行われることによる便益が考慮されていないという。自殺したことで、その人にかかる医療費、社会保障等の費用はゼロになる。自殺の経済的効果は、こうしたコストを見積もる必要があるというのだ(※2)。

こうした観点から試算を見直すと、得られる便益は200~260億円になるという。投資効果は非常に大きいとは言えないだろう。

「死にたい」と言える文化

宗教や文化の観点からの考察も興味深い。

切腹や輪廻転生など、日本人は自殺に許容的だと言われている。日本文化と自殺の親和性は、日本語の語彙にある、といった研究もあるくらいだ(※3)。「花と散る」「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉には、死を選ぶ(選べる)文化があると言える。

こうした文化は、SNSでの「死にたい」という告白や、自殺を後押しすると批判されがちだが、著者は、否定的にとらえるべきではないという。

例えば、ヨーロッパ圏では、自殺者の大部分(9割以上)は、精神障碍の診断がつく、とされている(アジア圏では6割)。

これは、ヨーロッパ中世における「狂気(非理性)」の考えが背景にあるという。キリスト教の影響下、自殺を禁止する意識の強い文化圏においては、自殺を非難されないため、「自殺者=精神障碍者」である必要がある、という仮説だ。

イスラム文化圏では、もっと顕著になる。イスラム教徒が多い地域では、自殺率が極端に低くなる。コーランやハディースで自殺が禁止されている上に、自殺が法的な罰の対象となる国もあるからだ。

こうした文化圏では、人々は自殺をしないのかというと、違うという。不慮か故意か決定されない外因死が多いと指摘する。また、刑罰を免れるため、自殺が曖昧な形で処理される例もある。こうした文化では、「死にたい」という告白は、より一層重くなるだろう。

確かに、日本は自殺許容的かもしれない。だが、死にたくなったときに、「死にたい」と言えるような環境は、そうした人たちを見出し、ケアしやすいとも言える。

死にたいのに、「死にたい」と言えない(言いにくい)文化や、自殺したのに自殺とカウントされない国々より、自殺対策の整備がしやすいという。

メディアの問題

自殺対策としては、メディアの扱い方に重点を置いている。

「他人の不幸は蜜の味」「シャーデンフロイデ」「メシウマ」など、自分よりも不幸な人を見ることで、人は優越感に浸ったり、安心感を得ることができる。そのため、自殺はニュースバリューがあり、有名人であるほど、価値が出ることになる。

本書では、江戸時代の曾根崎心中、ゲーテの小説から社会現象となった「ウェルテル効果」、さらにはアイドルの上原美優(2011)、岡田有希子(1986)の自殺をメディアがどのように扱ったかを分析している。

同年代の若者たちが、同じ方法で自殺したことについて、テレビや新聞などのメディアの影響は大きいという(確かFRIDAYだったはずだが、岡田有希子の写真が衝撃的だったことを覚えている)。

さらに、2000年代の前半は七輪での練炭、後半では硫化水素による自殺が多くあった。特にピーク時の2008年には、年間1000人が硫化水素で自殺したとある。これは、ネット心中を報道したテレビの影響が大きいという。

2008年に内閣府が呼びかけ、警視庁による関連報道の削除要請があり、現在では沈静化している(Googleトレンドでも2008年がピーク)。こうした流れを受けて、厚生省ではメディア関係者に対し、自殺報道のガイドラインを示している(※4)。

  • 自殺の報道記事を目立つように配置しないこと。また報道を過度に繰り返さないこと
  • 自殺をセンセーショナルに表現する言葉、よくある普通のこととみなす言葉を使わないこと、自殺を前向きな問題解決策の一つであるかのように紹介しないこと
  • 自殺に用いた手段について明確に表現しないこと
  • 自殺が発生した現場や場所の詳細を伝えないこと
  • センセーショナルな見出しを使わないこと
  • 写真、ビデオ映像、デジタルメディアへのリンクなどは用いないこと

死に向かいあって生きる

本書は、いわゆる自殺防止やケアについての本ではない。

むしろ、「自殺学」を総合的に目指したものだといえる。そのため、「死にたい」と思い悩んでいる人には向いていない。もちろん、自殺対策についても書かれているが、「自殺=絶対悪」という見方ではない。

人はいずれ死ぬ。

その死に方が選べないかと検討している。その上では、本書は非常に有効だった。今すぐ、というわけじゃないが、いつにするか、どうやってするかは自分で決めて、準備しておくつもりだ。

言い換えるなら、それが決められないような死に方はしたくない。

生き方は、ある程度、選んできた(選べてこれた)。もちろん不本意なものもあるが、努力と運となりゆきで、ここまで生きてきた。生き方を自由に選べないように、死に方を完全には選べないはずだ。だが、その不自由さの中で生き方を選んできたように、時間をかけて、死を準備していく。

※1 自殺・うつ対策の経済的便益(自殺やうつによる社会的損失)[URL]
※2 Recalculating the Economic Cost of Suicide [URL]
※3 『日本人の自殺』スチュワート・ピッケン、サイマル出版会、1979
※4  厚生労働省:メディア関係者の方へ [URL]

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オデュッセイアを読むと何が起きるのか具体的に述べる

100年前、米国で刊行された世界文学全集で、「モテるための古典」「1日15分であなたも教養人に!」と謳っている(※1)。

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「人生を豊かにする教養」とか「必読の名著」といった教養を売り物にする本があるが、びっくりすほど何にもない。

書店でパラ見してみるがいい。どこからか引き写した簡単なまとめだけで、その名著とやらを読んで、本人の何がどう変わったのか、ほとんど書いていないから。せいぜい、アイスブレイクのネタになったとか、「多面的な視点」みたいなふわっとした言い回しが関の山だ。

『オデュッセイア』を読んで起きたこと

ここでは、反例として、わたしが古典を読んで、何がどう変わったかを述べる。できるだけ具体的に、ホメロス『オデュッセイア』を読んで起きたことを書く。

英雄オデュッセウスが故郷に帰る冒険譚で、行く手を阻む怪物や魔法使いを、知恵と勇気と女神様で乗り切る。ラストの、ライバルたちとの対決は、虐殺と言ってもいいほど一方的&圧倒的で、ドーパミンが出まくった。

この物語から切り出して、様々なエピソードやトピックが生まれている。翻案したり置換することで、元の話とは似ても似つかぬ、でも既視感のあるストーリーができあがる。

たとえば、『千と千尋の神隠し』で父母が豚になるところなんて、キルケ―の魔法を思い起こす。千尋(オデュッセウス)が豚になるのを免れたのは、あるものを食べなかったからだ。もちろん、『オデュッセイア』のエピソードがそのまま使われているわけではない。他の、様々な物語を介して伝播していったと想像すると、面白い。

あるいは、怪物に捕らえられたとき、自分の名前を「誰でもない」と告げるトンチ。オデュッセウスは怪物の眼を潰し脱出を図る。その一方で、怪物の仲間が「誰にやられた?」と尋ねても、「誰でもない」と返事する―――このネタ、まんが日本昔話で聞き覚えがあるほか、様々な場所で使われるだろう。

オデュッセイア=進研ゼミ

そして、ラストの1対多のバトル。

戦いの女神アテナの加護のもと、オデュッセウスは無双となる。俺の嫁に手を出す奴は絶対に殺すマンと化して、大勢の敵を、一射一殺の勢いで殺戮してゆく(読んでいるときは全身の毛穴が総毛立ち、マリオの無敵音楽が脳内をずーっと流れてた)。直前まで、自分の正体を隠し、プレッシャーがすごかったので解放感がハンパない。

このアドレナリン感覚は、スタローン主演の映画『ランボー/怒りの脱出』やスティーヴン・ハンターの小説『極大射程』の無双と酷似している。映画を観たのも小説を読んだのも、ずっと前だったのだが、『オデュッセイア』を読んだ途端、「あのときのアレはコレだったのか!」と完膚なきまで腑に落ちた。

そして、映画やゲームや小説で無双シーンに出会うと、『オデュッセイア』を思い出すことになる。要するに「これ進研ゼミでやった」状態になるのだ(『魔法少女まどか☆まどか』の覚醒まどかがそれだった)。オデュッセウスは無双の元祖、彼を観察することで、未来の作品のタネが見つかるだろう。ずっと正体を隠してきてラストで無双するところなんて、なろう系の元祖と言ってもいいかも。

では、こうした物語を楽しむ/作るエピソードを見つけることが、古典のメリットなのかというと、それだけではない。人間の仕様を理解する手がかりとしても使える。

オデュッセイアで人の仕様を理解する

読書猿『独学大全』によると、ヒトの意志は環境や状況に左右されやすい。強い意志を持っていても、周りの状況により変わってしまう。ヒトは、意志や理性の産物というよりもむしろ、それまでの自分を取り巻いてきた環境の産物だというのだ。

だから、意志を変えないように努めるよりも、むしろ、意志が変わっても努力が続くよう、自分の外側に理性をデザインせよと説く。その例として、「オデュッセウスの鎖」(※2)が登場する。

Draper-Ulysses and Sirens

Herbert James Draper, Public domain, via Wikimedia Commons

オデュッセウスの鎖とは、オデュッセウス自身が自らを縛れと部下に命じた鎖だ。なぜ自分を鎖で縛るのか? それは、セイレーンの歌声を聞きたいからである。彼女らの美声に惑わされ、船を岩に激突させた挙句、命を落とす船乗りは数多くいた。だからオデュッセウスは自分を縛らせ、耳栓をした部下に船を漕がせたのだ。

セイレーンの島に近づき、美しい歌声が聞こえてくると、オデュッセウスは鎖を解くよう叫び、身悶えした。だが部下たちは何も聞こえず、命じられたとおりに船を漕ぎ続け、海域を脱出することになる。

オデュッセウスは自らの意志を信じていなかった。だから自らを鎖で縛らせることで、意志の変化を乗り越えたといえる。読書猿は、このオデュッセウスの鎖を応用して、「コミットメントレター」「ゲートキーパー」という技法を編み出している。

オデュッセウスの鎖は、ヒトは環境の動物だということを思い知らせてくれる。大前研一はこれを逆手に取って、こうアドバイスする。

  人が変わる方法は、3つしかない。
  1つは、時間配分を変える。
  2つめは、住む場所を変える。
  3つめは、付き合う人を変える。

このアドバイスには続きがあって、人が変わる方法の中で、最も無意味なのは、「決意を新たにする」というやつだそうな。自分の意志という鎖がいかにアテにならないかは、わたしが一番よく分かっている。

オデュッセイアのリアリズム

『オデュッセイア』をリアリズムの道具として読むこともできる。

アウエルバッハ『ミメーシス』が好例だ。ヨーロッパ文学のテクストを比較しながら、現実がどのように描写されているかを分析する。『オデュッセイア』のリアリズムは、旧約聖書と比べて紹介されている。

描写に奥行きがなく、照明はくまなく当たっており、人物は心の裡を余すことなく語り尽くす『オデュッセイア』と、光と影が際立ち、暗示に満ちた表現や多様な意味の解釈を求める旧約を並べると、確かに対照的である。

『オデュッセイア』のフラットな書き方だと、読み手(観客)に秘密にされるものがない。時間は常に現在に焦点があたり、「語られたもの=現実の全て」で完結している。感覚的実在の快楽が全てであり、それを如実に伝えることが文学の目的だとされている(※3)。

ホメロスから数千年、わたしたちが普通の小説を安心して読めるのは、全てが隈なく説明される(はず)という確信があるからだろう。

あるいは、演劇の傍白を遡ると、オデュッセイアに至るだろう。傍白は、相手には聞こえないことにして、観客にだけ心中を明かすセリフだ。これが成り立つのは、舞台の上が現実の全てだという暗黙の了解があるから。

もちろん、これをフェイクにひっくり返すやり方もあるし、前提を裏切る叙述トリックだってある。だが、そうした手法が出来たのは、オデュッセイアのリアリズムがあったからといえる。

オデュッセイアは一冊ではない

このように、『オデュッセイア』について語ろうとすると、様々な経験や技法、教訓や素材、そして注釈が、次々と積み重ねられることになる。

たとえ、オデュッセウスの冒険物語のダイジェストに閉じて語ろうとしても、『オデュッセイア』に言及する様々な作品や注釈が、それを許さない。『オデュッセイア』は、決して、一冊だけでは成立しないのだ(岩波赤で言うなら、上下巻だけでは成立しない)。

読書猿『独学大全』では、もっとシンプルに、「古典とは、多くの注釈書が書かれてきた書物のこと」(※4)と述べている。元の古典テキストに加えて、積み重ねられてきた読み方もすら注釈書として残っているものが、古典になるというのだ。

これまでの様々な読みに加え、それまでの自分の経験が呼び覚まされる。そして、(創る方であれ、受け取る方であれ)未来の作品に向かい合う知恵を手にする。ホメロス『オデュッセイア』を読むということは、そういう経験だった。

※1 『「世界文学」はつくられる』秋草 俊一郎、東京大学出版会、p.68
※2 『独学大全』読書猿、ダイヤモンド社、p.176
※3 『ミメーシス』アウエルバッハ、筑摩書房、上巻p.17
※4 『独学大全』読書猿、ダイヤモンド社、p.280

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