女の子の匂いを再現する

 女の子の匂いをご存知だろうか?

 漂ってくる「匂い」というより、すれ違うときにクる「あの感じ」といったほうがいい。あるいは、部屋に入ったとき、女の子がいる(いた)空気のようなもの。大事なのはカッコ()の中で、視覚的ものではない。「さっきまで女の子がいた部屋」でも分かるし、建物内ならある程度たどるのは可能だ。

 最初は、私の変態的妄想力が産み出した幻臭かと思った。「女の子って、どうしてあんなにいい匂いがするのだろう」と悶々したことがある。が、同志の意見を総合し、私の経験を重ねると、どうやら妄想ではなさそうだ。

 それは、いわゆる「せっけんの香り」だろうか。石鹸そのものに限らず、中高生が滴らせているシャンプーやボディケア香や、デオドラントのメチルフェノール系の匂いなどが相当する。そうした、後付けの合成香料をもって、我々は「女の子の匂い」とみなしているのだろうか。

 たとえば、「ビオレさらさらパウダーシート せっけんの香り」を使ってみたところ、かなりの再現率で「女の子のいい匂い」が味わえる。

ビオレさらさらパウダーシート せっけんの香り」はマジで理想の女の子の匂いがすると聞いて実際買って嗅いでみたんだけど、本当に衝撃的なくらい女の子の匂いだこれ…[togetterより]

 だが、これは刷り込みに過ぎない。かつてキンモクセイの香りでトイレを想起していたように、上書きされた代替記憶なのだ。そうした後付けではなく、もっと内側からくる「匂い」である。

 鋭い人は、排卵日直前のヴァギナの匂いを思い出すかもしれない。バルトリン腺や皮脂腺、アポクリン腺から分泌される粘液のもつ、ココナッツに似た香りだ(と言われるが、私の経験では白桃を想起させる)。これは、『ヴァギナ』はスゴ本【全年齢推奨】で紹介したことがある。

 この匂いが独特であることに、特別な理由があるのではとにらんでいる。つまりこうだ。人類史のほぼ大部分、夜は暗闇だった。今は電気があたりまえになっているが、常夜灯が無かった時代のほうがはるかに長い。暗がりの中、パートナーが女であり成熟していることを確認する術は、匂いだったんじゃないかと妄想する。それに加え、食の嗜好や体質、健康状態は、体臭に表れるものもある。すなわち、闇の中でパートナーを嗅ぎ分ける匂いであり、その匂いに敏感なことに適応的になっているのではと妄想する。

 だが、この匂いは、そうしたイベントフラグ的なものではなく、もっと日常的に感じられる。上書き記憶された香料でもなく、イベントフラグでもないのであれば、「女の子の匂い」の正体は何なのか?ヒントはネットにある。

女の子の匂いは高級脂肪酸と安息香酸エストラジオールとのことなので、以前混ぜてみたら、本当に若い女性が歩いた後を通ったときに感じる「あの匂い」ができた[twitterより]

 この高級脂肪酸や安息香酸エストラジオールとは何か? 高級脂肪酸は、天然の油脂およびロウの構成成分であり、リノール酸や、オレイン酸などの仲間がある。また、安息香酸エストラジオールは最初に製品化されたエストロゲン医薬品である[Wikipedia:安息香酸エストラジオール]。製造方法は特許で守られており、キッチンで合成できるものではなさそうだ。化学系の研究室なら揃っていそうだが、縁のない私には入手困難である。

 捨てる神あれば拾う神あり。需要あるところに供給あり。

 プロモーションやイベントで、「匂い」を使った空間演出を手がけるZaaZ(ザーズ)という会社がある。同社が開発したディフューザーは、マイクロミストを放出し、必要な空間を匂いで満たすことができる。面白いのはオリジナルな匂いを作ることができ、「西麻布のお寿司屋さんで仕込んだすし酢の匂い」とか「夏祭りでおじさんが鉄板で作った焼きそばのソースの匂い」など、実にさまざまな匂いがある[ZaaZ Energy]

 その中に、「お風呂上がりの女の子の匂い」がある。sankeibizレポート「“風呂あがりの女子の匂い”が買える時代」によると、こうある。

「モワっとした温度と湿度、そしてほのかな石けんの香りと、フローラル系のかすかな匂い。匂い自体は強いものではないが、複雑に混ざりあい、お風呂上がりの空気を感じられた」

 いいね! 喜び勇んで通販元のDMMに行ってみる→「お風呂上がりの女の子の匂い」。香料と再生装置で10万超えるのか……業務用というだけに、ハードルが高い。

 だが、諦めぬ。もうすぐ、VRを用いた性愛シミュレーターや、性交渉機能に特化したセクサロイド市場が一般化するだろう。視覚+触覚に対し「匂い」が売れることは必然なので、近いうちに東京ゲームショウで見かける(嗅げる)だろうから、そこでお試ししてみよう。個室ビデオやリンリンハウスのオプションになる日も近い。

 未来は今だ! ZaaZが設立した新会社VAQSOが、VR外付け匂いデバイスを開発したらしい。Playstation VR、Oculus Rift、HTC VRなど、様々なデバイスに装着可能で、女の子の匂いにも対応しているらしい。VRコンテンツと同期して、たとえば「銃を撃って何秒後に火薬の匂いを出す」ことも可能とのこと(参考:『女の子の香り』がするVR、実現へ──PSVR・Vive・Oculus対応の外付け匂いデバイス登場)。心のノートに彫っておけ。

 もっと手軽に(≒安価に)再現できないものだろうか。答えは本にあった。『危ない28号』『アリエナイ理科ノ教科書』で有名な薬理凶室の新著『悪魔が教える願いが叶う毒と薬』である。

 本書は、サプリメントから処方薬、漢方薬から違法麻薬まで、願いごと別に集めて解説したものである。人の身体の代謝や反応は化学物質により引き起こされる。ということは、化学物質を用いることである程度コントロールできるという発想で、一般的な使用法から「裏の使い道」までを紹介してくれる。

 たとえば、リ●ップには「悪夢」の副作用を引き起こす、ミノキシジルという成分が含まれているという。これを、「死なない程度で悪夢を見る程度」服用する用量と方法が書いてある。あるいは、老いたマウスと若いマウスの血液を交換することで、老いたマウスが若返えったというレポートが紹介される。なんともジョジョの奇妙な実験だが、スタンフォード大学で2011年に実際に行われたものらしい。さらに、ひまし油を使った下痢チョコ(≠義理チョコ)のレシピが載っている。シャレにならないネタ満載だが、その中に、「女の子の匂いを合成する」があった。

 女の子の匂いの合成レシピは、2つ紹介されている。

 まず正式バージョン。匂い成分の元はカプリン酸とカプリル酸だという。これを1:1に配合した母液を用意して、そこにミルク香料とバニラエッセンスを加え、安息香酸エストラジオールを添加させることにより、再現できるらしい。

 さらにエタノールで希釈して散布することで、「部屋の中に女の子がいる」いい感じに仕上がるという。Playstation VRと非常に親和性が高そうだ。これをベースに「プチサンポン」を重ねがけすると、「お風呂上りの女の子」バージョンになるという。4DXやMX4Dと非常に親和性が高そうだ。

 ただ、一般家庭にない素材もあるため、本書ではもっと身近な食材を使った合成方法も紹介されている。材料はバターとバニラエッセンスの2つだけ。バターの低沸点揮発流分を分解するという。手順は次の通り。

  1. バターを試験管に入れてアルコールランプで加熱し、揮発したバターの成分をガラス管経由で氷水で冷やした試験管へ導き、液体として抽出する。抽出液は焼きたてのパンのような香ばしい匂いになる。
  2. 抽出液を透明な瓶に入れて、3~4時間直射日光に当てる。日光に含まれる紫外線によって適度な分解が起こり、バターの香りに少し鼻をつくようなツンとした匂いがプラスされる。
  3. 最後に、微量のバニラエッセンスを加えればできあがり。ツンと鼻をつくが、ほのかに甘い匂いで、女性の胸の谷間に分泌される芳香成分と非常に似ている
  4. さらにセッケン香水などを混ぜると、なかなか再現度の高い、女の子の匂いになる

 問題はステップ1。写真入りで分かりやすく説明してくれているが、試験管もガラス管もアルコールランプも持ってない。要するに、熱したバターの揮発成分を液体で集めればいいのであれば、蓋つきフライパンで事足りる。

Photo

 中の様子を確認するため、ガラスの蓋にして、とろ火で加熱しつつ蓋を水で冷やす(熱でビニールが溶けないように注意)。すると、蓋の内側に水滴が生じる。これを器に集めてラップして、あとはステップ2以降の通りに作るだけ。

 ひと嗅ぎしたら、プルースト効果に打ちのめされる。ほらあれ、『失われた時を求めて』の最初にある、紅茶に浸したマドレーヌの香りから、幼少時代を思い出すやつ。この「女の子の匂い」から、高校時代を思い出す。

 体育の後、女子は教室で着替えるやろ? 次の授業があるし男子は扉の外で待っているから大急ぎで着替える。8x4もそこそこに、女子全員が着替え終わった直後、まだカーテンも開けきっていない教室に足を踏み入れた瞬間の、「あの匂い」がそこにあった。「臭い」の二歩手前の、青い匂いである。懐かしさよりも恥ずかしさを思い起こさせる。

 私なりのアレンジとして、「クラブ ホルモンクリーム」をお勧めしたい。肌荒れを防ぐクリームで、女性ホルモンの一種であるエストラジオールが配合されている。

 これと、上で作成した「女の子の匂い」を配合させると、叔母さんの匂いそのものになった。私が小学生だから三十前半ぐらいだろうか。一緒のお風呂で、体を洗いっこしたっけ(めちゃくちゃ反応していたことを告白しておこう)。今となってはマドレーヌ並みに甘い思い出だが、これでいつでも呼び覚ますことができる。

 「奥さんがいるなら嗅がせてもらえばいいんじゃね?」というツッコミがあるだろう。そんなことは分かっている。だが問題は2つある。我が妻は、変態的行為には手段を選ばず、くんくんしようものなら容赦なく反撃してくる。そして、妻の匂いは「女の子」ではなく、女の匂いそのものになっているのだ。

 「ば~~~~~~っかじゃねぇの!?」というツッコミは、その通りだと思う。ただ、そういう方には、汚濁にまみれ悪臭の立ち込める18世紀のパリで、異様なまでに「におい」に執着した男の物語『香水』をお勧めしたい。匂いの天才が、至高の香りを求める、「におい」の饗宴を嗅ぎたまえ(映画版は『パフューム』)。

 匂いは言葉より強い。どんな意志より説得力をもち、感情や記憶を直接ゆさぶる。人は匂いから逃れられない。目を閉じることはできる。耳をふさぐこともできる。だが、呼吸に伴う「匂い」は、拒むことができない。匂いはそのまま体内に取り込まれ、胸に問いかけ、即座に決まる。好悪、欲情、嫌悪、愛憎が、頭で考える前に決まっている。

 だから、匂いを支配する者は、人を支配する。匂いで人を操る彼が求めた「究極の香りを持つ少女の匂い」とは、「女の子の匂い」の完全体だったのかもしれない。

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『石蹴り遊び』読書会が面白かった

 コルタサルの奇妙な小説『石蹴り遊び』の読書会に行ったら、目からウロコが飛び跳ねていった。主催のuporekeさん、ありがとうございました。

Isikeri02

 何が面白いかというと、様々な「読み」に会えること。一冊の小説から受け取ったものをお互いに見せ合って伝え合うのが良い。「そう感じたのはなぜ?」とか「ここからあれにつなげたのか!」などとおしゃべりすることが、なんと楽しいことか。たしかに読書は孤独な営みだが、小説というひとつの幻想を共有することで、慰められる思いがする。まるで、極寒の深夜に、焚き火を囲んでいるかのような高揚感と一体感を分かち合える。

 そして『石蹴り遊び』。作者はフリオ・コルタサル。わたしの場合、『南部高速道路』から入ったので、コルタサルは短篇の名手という第一印象だった(ちなみに『南部高速道路』は傑作なので読むべし)。600頁近い、ちょっとした鈍器並みの『石蹴り遊び』は、なかなか骨の折れる読書だった(感想は曼荼羅・パンドラ・反文学『石蹴り遊び』に書いた)。

 『石蹴り遊び』は物理的には1冊の本だが、実は2冊の本として読める。というか、作者そう読むことを推奨している。最初は1章から56章を順に読む。次は、第73章から始まり、作者が提示する「指定表」に従って読み進める(各章にはナンバリングがしてある)。こんな感じだ。

  73-1-2-116-3-84-4-71-5-81-74-6-7-8-93-68-.....

 よく見ると、...-1-2...-3...-4...-5... とあり、最初の1冊の間に他の章が挟み込まれる構成となっている。他の章は、著作ノートの断片や新聞のスクラップ、広告や引用など雑多な寄せ集めで、唐突だったり冗長な印象を受ける。

 ところが、2冊目を進めてゆくと仰天する。同じ『石蹴り遊び』という本に、違う書物が姿を現してくる。そこでは、1冊目で語られなかった理由が説明されていたり、脇役が実は極めて重要な人物だったり、宙ぶらりんの行動の「続き」が入れ子的に補てんされていたり、1冊目にはない可能世界を生きていたりする。

 そもそもこの『石蹴り遊び』は何なのか? わたしは、1冊目では脇役だった、ある人物が書いた小説なのではと考えた。そう仮定すると、その人物が書いた覚書、原稿、引用メモは、2冊目のあちこちに出現し、それをつないで読んでいくと、1冊目と2冊目が、ちょうど図と地をひっくり返すように入れ替わる。1冊目の中に、その人物が書いたノートを皆で読むというシーンがあるが、それこそが「読者を共犯者に仕立てる」この小説の臍ではないか―――と考えた。

 もちろん、読書会ではわたしの「読み」と同意見の人がいた(水声社版の解説がまさにそれだ)。だが、だからといって「正しい」とは限らないのが面白いところ。むしろ、わたしと違う「読み」の方が楽しい。『石蹴り遊び』が何と結び付けられているかに着目して、そのつながりから炙り出すような見方だ。構造的に似たものとしてパヴィチ『ハザール事典』が挙げられたが、ヘラー『キャッチ=22』もそうかも。「指定した番号の章を読む」手法は、いわゆるアドベンチャーブックから美少女ゲームへの系譜につながる。この辺は、keyの傑作『CLANNAD』を元に、わたしが熱苦しく語ってきた。

 そうしたつながり読みの中で、一番面白かったのは、「読者をコルタサルに仕立てる」というもの。これは三柴ゆよしさんから教えていただいた「読み」だ(ありがとうございます!)。1冊目では脇役、2冊目ではこの小説自身の「作者」としても読める、「ある人物」のことだ。実はこの人物は、コルタサルなのではないか、という仮説だ。

 え? 『石蹴り遊び』を書いたのはコルタサルだから、この小説の「作者」としてみなせる「ある人物」はコルタサルでいいんじゃないの? というツッコミは正しい。だがちょっと待ってくれ、事態は少し複雑だ。

 いったん『石蹴り遊び』から離れ、コルタサルの代表作を振り返ると、面白い共通点がある。それは、「他の存在に変身する」だ。たとえば、異なる二つの世界が同時進行する『すべての火は火』。最初は段落レベルで交代していたのが、緊迫度を増すにつれ、フレーズや言葉を契機として異世界に変わり、物語は驚くべき結末に向かって邁進する(これも傑作だから読むべし)。あるいは、意識が山椒魚に乗り移る男の話『山椒魚』に代表される変身譚でもいい。現実が重ね書きされるような非現実感が、コルタサルの魅力だといっていい。

 その上で『石蹴り遊び』を眺めると、2冊目に挟み込まれている雑多な文の断片は、「ある人物」が小説を書くために準備した、様々な素材に見えてくる。ちょうど撮影済だが未編集の映画のテープ群のように、作品のどこに差し込むかまだ決めかねている素材なのだ。1冊目で起きる運命により小説は未完となるが、登場人物たちがこれらの素材を発見し、吟味する場面が出てくる。2冊目に差し込まれる断片は、登場人物たちと共に、読み手(=わたし自身)が「ある人物」になり代わり編集することを誘っている。

 その一方で読み手は、コルタサルが示す「指定表」を元に、あっちの素材、こっちの素材に付き合うことになる。これは、『石蹴り遊び』のコルタサル版であり、ディレクターズ・カットなのだ。

 読み手は、行きつ戻りつしていくうちに、コルタサルの目で『石蹴り遊び』の素材を見るようになり、コルタサルの頭で『石蹴り遊び』を考えるようになる。そのうち、読者の目は炯々と輝き、眉間に縦皺が生じ、もじゃもじゃ髭が生えてきて、ついにはコルタサル自身に変身してしまう―――のかどうかは分からないが、「ある人物」≒コルタサルのつもりで『石蹴り遊び』を再編するなら、わたしの版だとこうなる。

 60-61-62-66-71-74-79-82-86-94-95-96-97-
 98-99-102-105-107-109-112-115-116-121-
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 「読者をコルタサルに仕立てる」という「読み」は妄想が捗る捗る。他にもユニークな読みが提示され、その度に目からウロコが飛び跳ねていった。小説に「正解」なんてないんだね。

 小説に「解答」があって、そこからの距離によって正しさが伸び縮みするのなら、それは小説である必要がなかろう。辞書でも読んでりゃいい。そうではなく、同じ一冊から、様々な「読み」が発生し、それに共鳴したり反発したりを繰り返すことで、その読み手が見えてくる。それが面白いんだ。そこに置かれた物としての一冊が面白いのではなく、そいつを生身の人間が「どう読んだか」が肝なのだ。

 いま、「読み手」と言ったが、別に第三者である必然性はない。過去にそれを読んだ自分自身と比較することもできるし、世界で最初の「読み手」である作者がどう読んでいたかを想像するのもあり。『石蹴り遊び』の風呂敷は、そこまで広げて遊べるくらい自由に読むことができる。

 小説は、読み手と同じ数だけ「正しさ」があってもいい。uporekeさんの読書会は、そういう懐の深さがある。世に、「大書評家」なる人が参加者の「読み」を採点するような読書会があるらしいが、not for me だね。あるいは、怖いもの見たさで覗いてみようか……

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死ぬことよりも怖いこと『ウインドアイ』

 死ぬのはそんなに怖くない。必然だから。せいぜい苦痛は避けたいとか、お別れや身辺整理の時間があればと願うのみ。

 しかし、私が私でなくなるのは怖い。肉体や精神の欠損だけでなく、肉体であれ精神であれ、私の容れ物から「私」が滲み出たりブレだすのは嫌だ。私が私を保ったまま遠ざかり、時間からこぼれ落ちてしまうのが恐ろしい。この離人症的な怖さ、うまく伝えるのは難しい。

 だが、ブライアン・エヴンソンの短編を読むと、嫌というほどよく分かる。そして、分からない方が幸せだったかも……と後悔することになる。前作『遁走状態』[レビュー]は怖かったが、今回も輪をかけて恐ろしい。どちらも甲乙つけがたいが、『遁走状態』→『ウインドアイ』の順に読むが吉かと。

 読み始めてすぐ違和感を感じ、読み進むにしたがって「ざわざわ」が増してゆき、物語の決定的なところで胸騒ぎが本物だったことを思い知る。しかも、予想の斜め上の、もっと嫌な予想外の場所に置き去りにされていることを知る。

 不条理な寓話はとてもカフカ的だが、そこで浮彫りにされるのは物語世界の不条理さではなく、世界の認識の仕方の不条理さである。世界は狂っていないと確信できていたのは、世界と同じくらい自分が狂っていたからであって、現実と乖離しはじめた今、おかしいのは自分か世界か両方なのかと幾度も自問させられるハメになる。結果、読書はすなわち毒書となり、世界が歪んでいくような感覚に抗いながら読まねばならぬ。たびたび「私の気は確かだろうか?」と振り返ることを余儀なくされる。

 哲学畑にお馴染みの「クオリア」ってあるじゃない? 「トマトの赤い感じ」「頭がズキズキ痛む感じ」といった主観的に体験される感覚質のことだ。そして、反応は普通の人と全く同じだけれど、このクオリアを持たない存在を哲学的ゾンビとする話がある。エヴンソンのどの短編にも、このテーマが潜んでいるように見えてならない。

 クオリアそのものの話ではないんだ。そして、恐ろしいのはここからなんだ。哲学的ゾンビの思考実験をする存在は「私」のはずだ。だって主観的とはいえ、「赤の感じ」「痛む感じ」を持っているから。だが、エヴンソンを読んでしまうと、思考実験の主体から客体へ、「私」が滑り落ちてゆくことが分かる。すなわち、私が私の「赤の感じ」「痛む感じ」に確信が持てなくなってしまう。現実とのチューニングが合わなくなるにつれ、あるはずの感覚質から「私」が零れ落ちてしまうのだ(死ぬことよりも、怖いでしょ?)。

 試しに読むなら、「ウインドアイ」「二番目の少年」「食い違い」あたりはいかが。25編もあるので、枕頭において毎晩お布団で一編ずつ読むのが効果的。きっと何らかの喪失感を抱き情緒不安定になりながら眠りにつくだろう。毎晩の悪夢を請け合う。

 わざわざ悪夢をみたいかって? そりゃ違うよ。覚めているときにこれを読むということは、そのまま「私」の現実からの遁走状態になることになるのだから。

 嫌でしょ? 現実が悪夢だったことに気づいてしまうなんて。

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『土と内臓』はスゴ本

 人体をトポロジー的に見ると、消化器官を中心とした「管」となる。もちろん胃や腸には逆流防止のための弁が備えられているが、位相幾何学的には「外」の環境だ。

 この見方を推し進め、内臓をぐるりと裏返しにしてみる。くつ下を裏返すように、内側を外側にするのだ(このグロい思考実験は、クライヴ・バーカーのホラー小説でやったことがある)。裏返しにされた小腸や大腸を見ると、そこに植物の根と極めてよく似た構造と営みを見出すことができる。「水分や栄養素を吸収する」相似だけでなく、そこに棲む微生物との共生関係により、健康や成長面で重要な物質がやり取りされている。根と腸は、微生物とのコミュニケーションや分子取引をする市場なのだ。

 本書の結論は、微生物を中心とした人体の腸と植物の根の相似型であり、これに頭をガツンとやられた。ばらばらに得てきた知識が本書で一つにまとまるとともに、わたし自身が囚われていた先入観がぐるりと―――そう、くつ下を裏返すようにぐるりと逆転されたから。

 マクニール『疫病と世界史』が人類と微生物の負の歴史なら、本書は正の歴史として双璧を成す。しかも、歴史だけでなく、進化生物学、医化学、分子生物学、植物生態学、土壌生物学の知見を取り込んだエビデンスベースドなものになっている。

 原題は "The Hidden Half of Nature" 「隠された自然の半分」になる。目に見えるものが自然(nature)の全てではない。小さすぎて肉眼では見えない微生物や、地面や体内に隠れている根や内臓に光を当てることで明らかになる本質(nature)こそが重要なのだ―――そんなメッセージが込められている。

 土に隠された半分として、「根圏」が紹介される。植物の根の分泌物と土壌微生物とによって影響されている土壌空間のことだ。そこでは、根細胞から糖質が豊富な化合物が分泌され、微生物の餌となる一方で、植物にとって有益なミネラルが微生物によってもたらされる。クローバーや枝豆の根にある根粒菌が微生物と共生し、窒素化合物を生産することは知っていた。これは『植物は「知性」をもっている』で知ったが、常識が書き換えられることを請合う。

植物は「知性」をもっている だが、最近の研究ではもっと多様な栄養素が供給されているという。例えば、植物にたどりついた微量栄養素のうち、リンの80%、亜鉛の25%、銅の60%は菌根菌が運んでいる研究が紹介されている。根は、単純に養分や水分を吸収するだけでなく、植物にとって不可欠なフィトケミカル(植物栄養素)を生産する場所でもあるのだ。

 体内に隠された半分として、「内臓」それも腸に焦点をあてると、驚くほどよく似た世界が現れる。そこでは、栄養分や水分を吸収するだけでなく、そこで一種の生態系を成している腸内細菌とのやりとりを通じて、生きていくために必要な栄養素を生成していることが見えてくる。小腸の内側は絨毛と呼ばれる繊維状の小さな突起で覆われており、植物の根毛のように表面積を何倍にも増やし、栄養吸収を大幅に向上させている。

 そして、同時にそこは微生物たちの餌場でありお花畑(腸内フローラ)なのだ。ヒトは食べたものを吸収しているだけでなく、「ヒトが食べたもの」を食べる微生物の代謝物をも吸収している。生体リズムや睡眠に重要な働きをするセロトニンは、脳よりも腸の微生物群で生成されるほうが多いと聞いたことがある。それだけでなく、腸内細菌は、ドーパミンや短鎖脂肪酸、各種のビタミンを合成している。これらは、健康にとって不可欠でありながら、ヒト単体では生成することができない。言い換えるなら、こうした微生物群をもひっくるめて、「わたし」なのである。

 では、どうしてそうした本質(nature)が半ば隠されてきたのか? もちろん、小さすぎたり覆われていたりして物理的に困難だったというのもある。だが、本書に描かれている人類と微生物の歴史を追いかけていくうち、「人は見たいものしか見ない」カエサルの箴言が浮かび上がってくる。

 たとえばコッホ。結核菌やコレラ菌を発見した近代細菌学の開祖であり、その功績は人類史に残る大きなものだ。病原体の特定の指針「コッホの原則」は教科書にも載っているし、細菌を培養する寒天培地やペトリ皿は、今日でも使われている。その一方、「微生物研究=培養できる微生物の研究」に限られてしまったという見方ができる。

 つまり、培地で殖やせない微生物は分類できず、したがってコッホの原則を用いて研究できない。コッホの細菌論が広く受け入れられたことにより、自然(nature)から切り取られた微生物が研究の中心となり、土や内臓に宿る生態学的な研究は後手に回ったといえる。

 あるいはスティーヴン・ジェイ・グールド。動植物の化石に着目したグールドは、微生物の融合に着目し、細胞内共生説を主張するマーギュリスの考えを一顧だにしなかったという。

マーギュリスは、遺伝子の水平伝播やゲノム総体の獲得(単一の遺伝子内で起きる小さな変異ではなく)が、生命進化の初期には決定的に重要だったと考えた。細菌のような単細胞生物が別の細胞と合体すると、ゲノムは2倍になる。一方、多細胞生物は、新しく細菌を獲得しても、全体として数多くの細胞に新しい細胞が1つ加わるだけだ。
(「第4章 協力しあう微生物───なぜ「種」という概念が疑わしくなるのか」より引用)

 今日では細胞内共生説はほぼ定説化しているといえる[Wikipedia:細胞内共生説]が、これも隠された本質(nature)の一部なのかもしれぬ。

 隠された自然の半分が明らかになるにつれて、その本質にどのような攻撃を加えてきたか見えてくる。人体への抗生物質の過剰投与により微生物の生態系が乱れ、免疫性疾患や代謝異常が起きている事象は、そのまま化学肥料の過剰投与により土壌微生物の生態系が乱れ、作物の生育に悪影響を及ぼしている事象とつながる。人体に焦点を当てたのが、ブレイザー『失われてゆく、我々の内なる細菌』なら、土壌に焦点を当てたのがモンゴメリー『土の文明史』になる。どちらもスゴ本なり。

 『土と内臓』は、このモンゴメリーが妻と共に著したもの。根と腸、科学と歴史、医療と病気、見えている半分と隠された半分が、「微生物」というキーで一気通貫する。世界の見え方をも変えるスゴ本。

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円城塔訳『雨月物語』が完全にジャパニーズ・ホラー

 雨月物語は、語り調子で畳みかけるように怖い石川淳『新釈雨月物語』が決定版だった。が、円城塔が上書きした! 硬い語りを残しつつ、きっちり小説に仕立ててある。こいつは怖いぞ嬉しいぞ。ジャパニーズ・ホラーの金字塔『吉備津の窯』はこれで読むと吉。

 ジャパニーズ・ホラーの最大の特徴は、「わけが分からない恐怖」だろう。殺人鬼とかウイルス感染といった物理的に対応できる原因が引き起こす欧米ホラーと違い、真相が分からない。わけが分からないまま恐ろしい思いをし、原因を探してみても、「呪怨」や「穢れ」といった言葉で示すしかない「なにか」で終わる。文字通り、この世のものではないのだから、物理的な対処は効かない。「なにか」が過ぎ去るまで震えているしかないのだ(あるいは、取り憑き殺されるまで)。

 たとえば、スゴ本オフで出会った『残穢』(小野不由美)なんてそう。「怖すぎて最後まで読めませんでした」「もう触るのもイヤ」という曰くつきで紹介されたのだが、"穢れ"が感染する話だ。主人公(≒著者)が身近に起きた怪異現象を調べるうちに……という話をドキュメンタリータッチで描いており、その"穢れ"が読み手にまで感染(うつ)りそうで怖い。

 物理的なウイルスや殺人鬼でない怨念だからこそ、時と場所を超えて聞き手に迫ってくる。上田秋成によって江戸後期に著された『雨月物語』は、そういう怖さを孕んでいる。

 それと同時に、その怨念に至る愛憎も詳らかにされる。その「なにか」が抱いている妄執や執着している人が分かるにつれ、さもありなんと思う。それだけ非道な目にあえば、その恨み晴らさずには成仏しきれなかろう。あるいは、それだけ執着しているものが失われれば、さぞかし心も乱れることだろう───と同情する。愛欲に心乱し生きたまま鬼と化した第8話の「青頭巾」なんてまさにそれ。

 
泣くにも涙は枯れ果てて、叫ぼうにも声がつまって、とり乱して嘆かれ続け、火葬にも土葬にもしようとしない。そのあとは、子供の死顔に頬ずりしたり、手を握り締めてすごしていたようなのですが、とうとう気がおかしくなられ、まるで子供が生きているように振る舞うようになり、肉が爛れていくのを惜しんでは吸い、骨を舐めてと、とうとう食べ尽くしてしまったのです。[円城訳]

 同じ件で石川淳の『新釈雨月物語』も載せておく。石川訳が最高だと思っていたが、比べて読んでしまうと、円城訳のほうが、よりおどろおどろしく、哀しい。

泣くに涙なく、さけぶに声なく、悲嘆のあまりに、なきがらを火に焼き土に葬ることもせずに、顔に顔をよせ、手に手をとりくんで日かずをすごされるうちに、さしもの阿闍梨、ついにこころみだれ、生前にたがわずたわむれながら、その肉の腐りただれるのを惜しんで、肉をすい骨をなめて、やがては食らいつくされた。[石川訳]

 その後、この人外は夜な夜な里に下りて墓を暴いては新しい死体を漁るようになるのだが、問題はここからだ。人外の気持ちに寄り添い、同じ涙を流すことで、その妄執が晴らされるかというと、ならない。めでたしめでたしの予定調和の斜め上を行く。うっかり同情すると、そのまま引きずり込まれる。自然現象のようなものなのだ(ただし、高僧により祓われることで仏の加護を説諭するオチもある)。

 圧巻なのは第6話「吉備津の窯」。様々なジャパニーズ・ホラーの源泉となっている、この美しくも哀しい悲恋は、円城訳で戦慄してほしい。面白いことに、以前の「吉備津の窯」とは読後感が違う。これまで、浮気性の夫のゲスっぷりが因果応報に見えていたのが、円城訳では見慣れない口上があり、物語そのものの印象をがらりと変えている。それは、こんな風に始まる。

「嫉妬深い女は面倒だが、歳を取ると有り難いこともあるものだ」などと言う者がある。妬婦というのは、おとなしいやつであっても、仕事の邪魔をし、物に当たって、隣近所の噂の種になること必至であり、はなはだしくは家を傾け、国を滅ぼし、天下の笑い者になる羽目に陥る。昔から、この種の女で身を滅ぼしたものの数は知れない。

 つまりこうだ。古今の因縁話を引いてきて、嫉妬深い女がいかに恐ろしいかを淡々と語っている。これにより、妻を裏切った甲斐性なしの夫という印象から、女の嫉妬が化けて出る怪談に変化する。石川訳にはこの口上がないので、比べて読むと受ける印象がガラリと変わる。

 怖さの向こう側に、同情してはいけない哀しさがある。そこで人外となったものたちの中にある「鬼」は、まさにわたしの中にもあることに気付いてしまうから。

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『人喰いの大鷲トリコ』と人工知能について

 ゆっくり時間をかけて『人喰いの大鷲トリコ』をクリアした。これ、控えめにいってゲーム史に残る大傑作で、PS4あるなら是非ともプレイしてほしい。人を喰らうという巨獣「トリコ」と、少年が紡ぐ、新たな神話を目にしてほしい。

 廃墟となった古代遺跡の中を、少年と大鷲が謎を解きながら探索するのだが、プレイヤーが操作できるのは少年だけ。身体の小ささで狭い穴をくぐったり細い柱を渡ることはできるが、いかんせん非力だ。「敵」が現れても倒すこともできず、捕まったら連れて行かれる(『ICO』の白い少女を思い出す)。

 いっぽう大鷲は、強く、巨大で、賢い。一撃で「敵」を薙ぎ払い、軽々と絶壁を飛び越え、少年の言うことに耳を傾ける。犬のような顔つきに、羽毛で覆われた身体、そして猛禽類の翼と肢を持ち、猫のようにしなやかだ。少年は、大鷲にしがみつきよじ登ることで、単独で行けない場所に行けたり、ギミックを動かせるようになる(『ワンダと巨像』を思い出す)。

 そして、大鷲との絆が深まるにつれ、少年はして欲しいことを伝えられるようになるのだが、これがなかなか難しい。行きたい方向やアクションを「伝える」まではできるが、トリコがその通りに解釈してくれるとは限らない。「跳ぶんじゃない!」「そっちじゃない」と何度叫んだことか。これ、意図的に不自由に作っているのだろう。少年が斜めにしか走れないことや、トリコに指示してからのレスポンスが一呼吸要するとか。意思疎通に慣れるまでの「もどかしさ」が肝となっている。

 だが、あるとき気付いた。トリコに指示を出すとき、少年(=私)から見える状況ではなく、「トリコがどう捉えているか」を基準に考えるようになった。例えば、高い所にある狭い隙間の場合、トリコの巨体では抜けられない。この場合、トリコに「進め」と指示しても分からないだろう。だが、ある操作をして隙間を広げることで「進め」を理解してもらえる。

 実際、隙間が広がるギミックが発動する際、トリコは反応し、あたりをうかがい、状況が変わったことを認識する。目の輝きと大きさ、耳や口が示す表情、緊張している様子が羽毛の逆立ちやその下に隠れている筋肉の動きで分かる。もちろんプログラムされた動きであることは百も承知なのだが、環境の変化に伴い次々と判断を下し行動を変えていく様子は、その異様な姿にもかかわらず、いかにも生き物くさく見える。

 『人工知能の作り方』(三宅陽一郎)によると、これは「知覚空間」と「作用空間」が重なり合う世界だという。動物は、世界からの情報を単純に知覚しているだけでなく、世界に対して行動(作用)するために無数の取捨選択をしているというのだ。すなわち、カメラのレンズのように入ってくる光線をすべて受容しているのではなく、「食べる」「逃げる」などの意思決定をするための情報の要求を行っているのである。そして、ユクスキュル『生物から見た世界』における環世界の概念を引きながら、「知覚空間」と「作用空間」が重なり合う世界を「視る」ことの本質を指し示す。

 トリコは、周囲を見回したり、匂いを嗅いだり、爪で触ったりすることで、「食べられる」「回せる」「乗れる」「入れる」など、様々な意味を見出す(ときにそれはヒントとなる)。この、環境から「意味」を見出そうとする行動は、いかにも知能を持っているかのように見える。

 この、環境が動物に対して与える意味のことを、アフォーダンス(affordance)と呼ぶ。『人工知能の作り方』によると、アフォーダンスは、オブジェクト(樽やギミック)に行動のリストとして埋め込まれたり、ゲームステージそのものに行動の可能性として表現されているという。そして、アフォーダンスは自分との関係性において成り立ち、身体性と不可分な存在になる。

 大鷲の場合は、その巨大な身体と長い尻尾がカギとなる。高い場所や遠いところ、脆くて崩れやすい箇所、強い力を要するものなど、「少年+大鷲」で世界を視なおすようになる。そして尻尾! あの尻尾が超重要だ。幾度となく助けられるだけでなく、詰まったとき、尻尾込みで考え直すことで活路を開くこともあった。このゲームは、最初は少年で始め、大鷲と心を通わすうちに一体感を醸成し、古代遺跡から得られるアフォーダンスと応答するゲームなんだね。

 大鷲とは何なのか? なぜ少年は遺跡にいるのか? どこに向かっているのか、大樽や鎧兵とは何か? そもそもこの遺跡は何なのか? さまざまな謎が明かされるとき、思わず声を上げ、体じゅうをかきむしり、涙が止まらなくなった。と同時に、少年とトリコは私自身となり、心の中で分かちがたく結びつくこととなった。

 大事なことなので、もう一度。『人喰いの大鷲トリコ』は、控えめにいってゲーム史に残る大傑作で、是非プレイしてほしい。人を喰らうという巨獣と少年が紡ぐ、新たな神話を目にしてほしい。そしてプレイしたら、『人工知能の作り方』を読んで欲しい。いかに緻密で巧妙に「人工知能としてのトリコ」が作られているかを知って、驚いて欲しい。

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ニック・レーン『生命、エネルギー、進化』は難しかった


 本書は、「生きているとはどういうことか?」をエネルギーの観点から解き明かした、大変興味深い生命科学の本なのだが、わたしにはかなり難しかった(3回読んだ)。高校~大学レベルの生物学の知識に加え、化学平衡や高分子化合物について理解していることを前提とする。

 著者は、自らの思考実験について丁寧に説明してくれるものの、そのプロセスに一切の手抜きはない。よくある途中を飛ばして、「要するに」とまとめたりしない。その説明がまだるっこしく、想像ではなく知識を要するため、本書の難度を上げている。前著『生命の跳躍』より数段ハードな読書となった。ビル・ゲイツをはじめ、本書を絶賛している人を尊敬する。

 本書のキモは次の通り。

  1. 生命は電動である
  2. 電動の単位はATP(アデノシン三リン酸)で示される
  3. ATPはエネルギーの貯蔵・供給・運搬を仲介する分子である
  4. ATPは膜を挟んだ電位差で生じる(プロトン駆動力と呼ぶ)
  5. 膜を貫きATPを合成する酵素があり、プロトン(H+)が電位差により酵素を通過する際、物理的にATPを作り出す

 いわゆる水力発電所のタービンのようにATP合成酵素が働き、水圧(化学浸透圧)によりタービンが周り、エネルギー(ATP)が生じる。これは、[ピーター・ミッチェル]によって理論・実証づけられ、これにより彼はノーベル化学賞を受賞している。

 すなわち、物理現象としての「生きていること」の本質は、膜電位があり電子やプロトンが流れ、ATPが絶えず生成されていくプロセスであり、生命は、エネルギーを放出する主反応の副反応なのだという。

 この基本原理を元に、レーンは、熱力学および物理的構造から思考実験を組み上げる。ATPを生成するための物理的最小条件として、岩石と、水と、CO2にまで絞り込む。さらに、「生命がどのようにできたのか」という生物学のブラックホールの中心にある謎を、アルカリ熱水噴出孔に見出す。薄い半導体の膜を挟んだ天然のプロトン勾配があり、有機物の生成を促す、天然の細胞だと仮説づける。

 さらに、このエネルギーの制約から進化を方向付ける統一的なストーリーを展開する。すなわち、真核細胞が複雑な構造をもつのはなぜか? なぜ二つの性がありるのか、なぜ生物は死ぬのか? さらには、宇宙のどこであれ、なぜ生命はそうなっているのか? についての理解を助ける仮説である。宇宙において、岩石と、水と、CO2が珍しくないように、生命も珍しくないことが実感できる。

 化学浸透圧説の基本原理から一歩も飛躍せず、物性物理学、熱力学、分子生物学の成果を用い、こうであるべき、こうでないならこんな制約が生じると行きつ戻りつを繰り返しつつ、仮説を組み上げてゆく。後半は前著『ミトコンドリアが進化を決めた』を基に、最新の研究成果でアップデートしてみせる。

 自論のストーリーに夢中になっている様子が、読んでるこっちにも伝染し、思わず知らず本を持つ手に力が入る。特に、地球外における生命体の可能性と、その生物的メカニズムのあるべき姿を語る件は、わたしにもハッキリと確信を持てるようになり、一緒になってテンションが上がる上がる。

 ただ、この本書を貫くキモの原理が難しい。観察した現象を是として「そうなっているから」と鵜呑みにするのは簡単だ(なんなら比喩で分かった気になってもいい)。だが、レーンは「なぜそうなっているのか」から説明しようとしているのだから、そこまで付きあわねばならぬ。


 このキモについて分かりやすいのが、フォーコウスキー『微生物が地球をつくった』になる。微生物の生命活動がどのような仕組みで働いているのかについて、化学浸透圧説を解説する。レーンの「水力発電のタービン」ではなく、「遊園地のメリーゴーラウンド」で例えるのが面白い。メリーゴーラウンドは膜を横断してシャフトに結びつき、プロトンがシャフトを物理的に回す。シャフトの回転によりメリーゴーラウンドの台が機械的に動き、120度回転するごとにATPを生成させるというのだ。

 そして、微生物の営みというミクロの視点から、地球の「生命のエンジン(Life's Engines)」というマクロの視点まで縦横無尽に駆け巡る。地球全体で見るとき、個々の生命がどうなっているかではなく、電子の流通をスムーズにし、その循環を維持するシステムこそが「生命」になる。微生物は、電子を提供したり(=酸化)電子を受け取る(=還元)ため、ガスなどの物質を交換することで、複合系の電子市場を維持管理しているのだ。

 いっぽう、自説を強調するあまり、他説(原始スープやパンスペルミア説、系統学的アプローチ)へ攻撃的になるレーンの態度が気になった。『生命、エネルギー、進化』の素晴らしいところは、生命をエネルギー論で説明し尽くしている点だ。すなわち、物理学・化学の面で議論したり実験による実証が可能だ。しかるべき条件が整ったら、熱力学的にそのような反応が起こるから必然性があると言えるのだ。

 しかし、「しかるべき条件」は仮説の積み上げであり、どれくらいのもっともらしさがあるのか、わたしには分からない。化学浸透圧説の膜を挟んだプロトン勾配と、熱水噴出孔の天然の膜構造との類似性により、その間を科学的に埋めたことは非常に面白いが、だからといって他説が棄却されることはなかろう。わたしは、熱力学や分子生物学の知識がないが、レーンが積み上げる「こうあるべき」のロジックの弱点を指摘することはできる。

 それは、議論の前提は「あるもの」で始めるという点である。レーンは、ある種の微生物の化石が今まで見つかっていないからといって、その種が「無いもの」とみなし、そこから議論を始めている(p.50連続細胞内共生説への論駁)。「無いこと」の証明は不可能で(悪魔の証明)、DNAレベルで微生物の化石が研究されるようになったのは、ここ数十年のことだろう。しかも、人類が手にする化石の大部分は、地球上の3割しか占めていない地表でしか得られていないのだ。

 つまり、「いま見つかっていない」のか「本当に存在しない」のかは分からない。だから、仮説を立てるなら「あるもの」の上にするべきだ。だが、「無いもの」という条件が挟まっているため、そこが弱く見えてしまう。

 だいたい、数十年前まで熱水噴出孔は生物には不向きとされていた。それが、多様な形態の生物社会の領域だと知られるようになったのは、つい数年前のことだ[熱水噴出孔]。同じ理由で、地下生物圏で完結している独立栄養生物群の世界[生命の起源]も外すことは難しいと考える。「無いもの」が「あるもの」に変わる可能性がある限り、「無いもの」を前提にした議論はどうしても弱くなる。

 本書を面白いと感じつつ、手放しで絶賛できないのは、わたしの知識不足による。生化学を学んでから4回目に挑戦したい。

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このエロマンガがエロい!2016

今年読んだえっちなマンガのベスト3を紹介する。

このエロマンガがエロい!2016

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料理上手は楽上手『小林カツ代のおかず道場』

 料理で大切なことは、「楽に」「楽しく」すること。どちらも必要十分に書いてある本書は、読むだけで腕を上げることができる

 おいしい料理を作るため、頼もしい味方となるのが小林カツ代。しかし最近、「小林カツ代」の看板に、完成品の写真を並べただけのカタログ本が出回っている。初心者向けなら必須のはずの手順毎の図解が無く、慣れてる人にはレパートリーが少なすぎ。

 だが心配無用、語りかけるようなカツ代節で、文庫一冊に74品を詰め込んだのが本書になる。一品あたり3分くらいで読めるエッセイと、「語り」を1頁に凝縮したレシピで構成される。慣れてる人向けだけれど、料理初心者もこんな語りならイメージが湧きやすいだろう。ノーベル賞級の発見「かゆくなりにくい里芋の剥き方」より引用する。

まず里芋をきれいに洗って、水をヒタヒタにして一回ワーッと煮立てるんです。フーッと噴いてきたら2~3分そのままに置いて、すぐ冷たい水に取ってから皮を剥くの。で、皮を剥いた里芋は冷たい水の中に入れておいてください。

 本書の特徴は、その料理を美味しくさせるために絶対に外せないポイントを絞っているところ。たとえば旬の白菜なら、「軸は繊維にそって縦に切る」とか「甘味を引き出す呼び甘味として砂糖を入れて」など、やってみると納得する。いっぽう、ポイント以外は適当に語っており、よくも悪くも作り手を信じていることが分かる。エッセンス部分を記しておく(太字化はわたし。エッセイ部分で絶対外せないポイントとして語られていた部分)

■鶏肉と里芋の四川煮(2人分)
 ・里芋300g(10個)
 ・鶏もも唐揚用200g
 ・煮汁
   水1/2カップ
   赤唐辛子1本
   豆板醤 小さじ1/4
   醤油 大さじ1
   みりん 大さじ1.5
 ・ごま油 大さじ1
 ・水1カップ

  1. 里芋は皮ごと5分茹でて水に取って、皮を剥き、大きければ2-3つに切る
  2. 煮汁の材料を煮立て、鶏肉を加えて蓋をして強めの中火で5-8分煮る
  3. 里芋と水1カップを加えて10~15分煮込み、竹串がスーッと通ったら、蓋をして火を消す。そのまま5~10分余熱で味をじんわりしみこませる
  4. 蓋を開け、ごま油を回しいれて全体をホワット混ぜ、器に盛り付ける

■豚肉の天ぷら(2人分)
 ・豚赤身薄切り肉200g
 ・塩コショウ 少々
 ・衣
   卵1個 + 水、合わせて3/4カップ
   小麦粉3/4カップ
   片栗粉 大さじ2~3

  1. 豚肉は長さを2つくらいに切って、塩コショウを振りボウルに入れておく
  2. 卵を溶き、水を足し、合わせて3/4カップにして混ぜる
  3. 卵液に1.をジャポーッと加えて、肉に絡ませる。小麦粉を加えてサクサク混ぜる。綺麗に混ざらなくてもいい
  4. 3.のシャラッとして衣に片栗粉を加えて混ぜる
  5. 揚げ湯を中温に熱し、豚肉に衣をたっぷり絡めて油に入れていく。カラリと揚がったら、油をよーく切って引き上げる。からし醤油が合う

■大根おろしの肉サラダ(2人分)
 ・牛しゃぶしゃぶ用薄切り肉200g
 ・大根おろし5-10cm
 ・レタス2枚
 ・ミニトマト5-6個
 ・貝割れ大根 1わ
 ・しめじ 小1パック
 ・レモン2きれ
 ・A
   ポン酢 大さじ4
   ごま油 小さじ1
   赤唐辛子輪切り 小さじ1

  1. 大根おろしは水気を切る。ミニトマトはヘタを取り、2つに切る。レタスは食べよくちぎる。貝割れ大根は根を切り落とす
  2. 湯を沸かし、塩を入れてしめじをさっと茹で、水気を切る
  3. 肉を次々にヒラリンヒラリンと入れて茹で、火が通ったら水気を切り、合わせたAに浸ける
  4. 器にレタス、トマト、貝割れ大根、しめじを盛り付ける
  5. 肉を盛り付け、大根おろしをのせる。レモンを絞って食べる

 そして、葉物や根菜や肉の種類を変えることで、いくらでもレパートリーを増やせる。おかず「道場」に入門して基本の技を会得したら、すぐ応用が利くという仕掛け。

 類書として、『小林カツ代のお料理入門』もあるが、家族向けというより、一人暮らしの自炊の味方となっている。ひとりだと、節約+満腹に目が行きがちだが、彼女のポリシーだと、「ひとりのご飯こそ贅沢においしく」になる。結果、料理のラインナップは、かなりユニークだ。[自炊の味方『小林カツ代のお料理入門』]を参考にしてほしい。

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『規則と意味のパラドックス』が超絶的に面白い

 今から奇妙なことを書くが、いったん真面目に受け取ってほしい。

 68 + 57 = 5 ……(1)

 いろいろ前提はあるが、(1)は正しいという。前提を聞くと、屁理屈にしか見えない。だが、いったん理解すると、論理的に正しいことが導かれる。これまでわたしが受けてきた「正しさ」が揺らぐ。そこから、ウィトゲンシュタインとクリプキを出汁にして、言葉と意味に内在するパラドックスを解き明かす。狂っているのに信じられる感覚が、超絶的に面白い。

 前提として、著者は生まれてこのかた、57より小さい数の計算だけしかしたことないという(普通もっと大きい数を計算しているだろうが、桁は議論の本質ではない)。

 そして「+」は和を示すプラスではなく、「クワス」という規則だと言い出す。クワスとはつまりこうだ。

 x と y がどちらも57より小さいとき
 x クワス y = x と y の和 ……(2)

 上記以外のとき
 x クワス y = 5 ……(3)

 ナゾナゾでもトンチでもない。だが、「+」を使う計算で、これまでにしてきたのは全て57より小さな数だけであるならば、「+」はプラスではなくクワスだとみなして悪い理由などないという。そして、次々と反論が繰り出される数学的な説明に対し、哲学的懐疑の立場から攻撃する。

 まず、足し算の規則を覚えているからという理由では十分ではないことを示す。さらに、合わせて数えるという足し算の原則からの反論や、加法の結合法則からの主張、そしてペアノの公理による反論も退ける。その理屈は共通している。すなわち、「x + y」を説明するどんな規則に関して、全く同じ問題が提起されるというのだ。

その規則に関してまったく同じ問題が提起されるからである。この規則は私はこれまで有限の回数しか用いていないはずである。そうした有限個の適用例のすべてと矛盾しない形で、この規則をクワス算のための規則と再解釈することができる。つまり、私の過去の行動は、私がこの規則をクワス算の規則として用いてきたという仮説と矛盾しない。

 つまり、演繹的に「すべて」を包括できる規則があったとしても、それを適用してきたのは有限回数だから、その「正しさ」を推論しているのは帰納的な経験(例えば、周囲に受け入れられた)に過ぎないことになる

 わたしが「+」を使ってきた経験が強固なため、クワス算は荒唐無稽に見える。だが、これを発展的に考えると面白い。本書では指摘されていないが、数学や科学の歴史を想起させられるから。

 たとえば望遠鏡。精度の高い望遠鏡により、「他の星の運行とは異なり、まるで惑っているように見える星」すなわち惑星が注目され、最終的に地動説の証明につながったエピソードは有名だろう。この場合は「望遠鏡」が「57」であり、「惑星」が「クワス」になる。数学なら無理数や虚数がそうだ。最初は荒唐無稽なものと扱われていたが、徐々に受け入れられ、今ではあたりまえのものとして教科書に載っている。

 著者はクリプキのウィトゲンシュタイン論から、さらに斬りこみ、「何が推論を正当化するのか?」と問うてくる。ある命題から命題を推論することと、その命題の「正しさ」を主張することは、根本的に別の問題である。したがって、推論の正当化は、命題の正当化とは根本的に異なるやり方で果たされなければならないという。例を示す。アリストテレスのこれだ。

  (a) 人はみな死ぬ
  (b) アリストテレスは人である
  (c) アリストテレスは死ぬ

 「人はみな死ぬ」があたりまえすぎるので見過ごされがちだが、「人はみな死ぬ」ことと、(a)と(b)から(c)が導けることは、根本的に別の問題だ。「人はみな死ぬ」命題が正しいからといって、(a)と(b)から(c)が導けることが「正しい」と考えるのは誤りだ。「アリストテレス」や「偶数の定義」を入れるから、正しいというバイアスがかかってしまう。だからいったん、これを抽象化させる。

  (a) PならばQ
  (b) XはPである
  (c) XはQである

上記の(a)と(b)から(c)が導かれる推論規則のパラドックスを導き出す。こんなふうに。

  (d) 上記の(a)(b)(c)が推論規則に当てはまる形をしているなら、
    (a)と(b)から(c)と結論してもよい
  (e) 上記の(a)(b)(c)は推論規則に当てはまる形をしている
  (f) したがって、(a)と(b)から(c)と結論できる

では、(d)と(e)の前提から(f)という結論に移行しているが、その移行はどうやって正当化されるだろうか? もちろん推論規則である。

  (g) 上記の(d)(e)(f)が推論規則に当てはまる形をしているなら、
    (d)と(e)から(f)と結論してもよい
  (h) 上記の(d)(e)(f)は推論規則に当てはまる形をしている
  (i) したがって、(d)と(e)から(f)と結論できる

 以後、無限に続く。推論規則が別の推論規則を必要とするのはおかしいし、わたしたちはどこかの段階で推論規則を止めて、自明のものとして扱う。問題は、そうやって推論規則を止めることではなく、止めたことに無自覚となることである。人であるかぎり、有限回数しか推論規則を当てはめることしかできないのだから。

 これは、人が言語を用いて意味を表す限り、けして抜け出ることのないパラドックスだと思う。なぜなら、人は言語を有限回しか意味に当てはめることをしてこなかったのであり、その正しさは演繹的ではなく、帰納的な経験(例えば、周囲に受け入れられた)に基づいているのだから。

 以下、自分メモ。クワイン『論理的観点から』における最も重要な文章の一つであり、『規則と意味のパラドックス』のエッセンスでもある。

われわれのもつ信念の全体から成る体系のどこか別のところで思い切った調整さえ行うならば、何が起ころうとも、どのような言明に関しても、それが真であるとみなし続けることができる。周縁部にきわめて近い言明でさえ、それにしつこく反するような経験に直面したとしても、幻覚を申し立てるとか、論理法則と呼ばれる種類の言明を改めることによって、相変わらず真であるとみなし続けることができる。逆に、まったく同じ理由から、どのような言明も改訂に対して免疫をもっているわけではない。排中律のような論理法則の改訂さえ、量子力学を単純化する一手段として提案されている。そして、こうした転換と、ケプラーがプトレマイオスに取って代わった転換、あるいはアインシュタインがニュートンに、ダーウィンがアリストテレスに、といった転換とのあいだに、原理的などういう違いがあるというのだろう。

 「68 + 57 = 5」が成立する理由が分かれば、超絶的に楽しめる。言葉と意味の隙間でもだえる一冊。

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