排他的家族主義の物語『平浦ファミリズム』

 「ラノベばかり読んでるけど国語で全国2位取った」という匿名さんに誘われて読んで驚いた。これ、すらすら読めてズシンとくる。パッケージがラノベなだけでラノベじゃない、「家族とは何か」をシニカルに愛情たっぷりに描いた家族小説なり。

 喧嘩っ早いキャバクラ嬢の姉。引きこもりでアニメオタクの妹。コミュ障でフリーターの父。そして、ほとんど高校に行ってない「俺」で構成される平浦家。世間的に見れば「普通」ではない家族が、寄り添うように暮らしている。

 日々の生活で明かされる、それぞれの過去がキツい。最初のページで分かるのだが、ベンチャー企業の社長だった母は、既に他界している。美人の姉はもと兄で、性同一障害に苦しむトランスジェンダーである。なぜ妹が引きこもりになったかのエピソードは、怒りのあまり目の前が真っ白になる。人付き合いが下手で、社会不適格者の烙印を押された父は、それでも家族を守ろうと奮闘する。

 社会的にはマイノリティとなる家族の生きざまに、不愛想でも温かな目を向ける「俺」。文武両道、高身長、高い知性と柔軟性というラノベの主人公らしからぬハイスペックゆえに(?)、達観したような、拗ねたような口調で淡々と「正論」が語られる。

 曰く、他人なんて信頼できない。頼れるのは家族だけ。学校、会社、地域社会が押し付ける都合の良い集団主義と同調圧力は糞くらえ。誰に迷惑をかけているわけでもないし、それなりの収入も得ている。おまえらが「俺」に向ける「心配」は、自分かわいさの自己憐憫の一種にすぎぬ―――ロジカルに展開される「正論」は、読み手の立場に応じて強い説得性を持つ。

 一方、その危うさも垣間見える。家族だって人間だ。人間だから変化する。歳を取り、成長し、嗜好も変わってゆく。なるべく社会とかかわらないようにしても、それでも他人は入ってくる。学校、会社、地域社会のなかで、そんな「俺」を本気で憂い、寄り添おうとする人も出てくる。家族で対処できないような問題が起きたならば、助けを求めねばならぬ。だが誰に? 誰を信用すればよいのか?

 そうした葛藤と交流のなかで、「俺」が徐々に心を開いていく。その姿を見ているのが楽しい。それは、「俺」とは似ても似つかぬわたしの中に、「俺」が抱いている嫌悪感と同じものを見、同じ葛藤を経、そして同じ結論に達しているから。

 最初は、「俺」が抱く社会への嫌悪感の理由を探しながら読む。そのうち、家族そのものへ行き当たることを知って愕然となる。なぜ家族がそうなっているか、そして母がなぜいないのかは、「俺」が社会を避ける理由の裏返しなのだ。

 さらに、家族を経由した他人とのつながりのなかで、母が遺した願いを通じて、人を信じようとする。少なくとも、まず人を知ろうとする。家族に向けるまなざしと同じあたたかさはないけれど、それでも、人の言葉を受け取ろうとする。章を追うごとに「俺」の口調の端々にそれが観て取れる。その変化が楽しい。

 同時に、穏やかだった日常が、思わぬ方向へ転がってゆく。前半の日常が破壊されてゆく様子は、そのまま「俺」が被っていた世間へのバリアーが壊されてゆくのと同期する。普通ではない家族が、普通に生きようとするのは、それだけ大きな代償を必要とするのか。

 読みながら、ジョン・アーヴィングを彷彿とさせられる。普通じゃない家族が普通の人生を歩もうとすると、どこかで滑稽な展開になる。

 そう、『ホテル・ニューハンプシャー』のことだ。家族のためにホテル経営を夢見て家族を犠牲にする父、ゲイの兄、輪姦され心を閉ざしレズビアンになった姉、小人症の妹、難聴の弟、そして「ぼく」―――それぞれに傷を負った、問題がありすぎる家族の、問題がありすぎる人生を、ユーモアとペーソスたっぷりに描いた家族小説だ。

 この小説の凄さは、「悲しい」と書かずにちゃんと悲しみが伝わること。もちろん "sorrow"(悲しみ) という言葉は出てくるが、誰かが死んで悲しいとか、何かを失って嘆くとかというときに、固有名詞のようにひょっこり顔を出すのだ。悲しみだけではなく、嬉しいこと、誇らしいこと、心地よいこと、腹立たしいこと、読むと、さまざまな感情が押し寄せてくる。

 その一つ一つがちゃんと計算されていて、ストーリーに翻弄されることを請け合う。長い長い物語なのだが、泣いたり笑ったりしているうちに、最後にはあたたかな気持ちになれる傑作だ。もちろん舞台もキャラも物語も違う。だが、あたたかな読後感覚が同じなのが面白い。両者とも、バットのフルスイングが重要なキーとなっているところまで似ているのが楽しい。

 パッケージはラノベだが、中身が違う。ライトノベル的なキャラクターやシチュエーション、展開はあるが、良い意味で裏切ってくれる。ひょっとすると、こんな「ラノベ枠を超えた文学」が流行っており、わたしが最近のラノベ事情に疎いのかもしれぬ。いずれにせよ、読んで楽しく・あたたかなひとときを過ごせた。本作を世に出した方と、縁を結んでくれたはてなの匿名さん、ありがとうございます。

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あまりにも無色透明な絶望『絶望を生きる哲学』

 理想主義がまぶしい。濁ったおっさんには青すぎて懐かしすぎる。

 これ、中学生でかぶれたら、一生治らないヒューマニストになっていただろう。池田晶子の著作から箴言を選り抜いているが、どの言葉も強く厳しく、主語がでかい。

時代が悪いというのなら、あなたが悪いのだ。何もかもすぐにそうして時代のせいにしようとするあなたのそういう考え方が、時代の諸悪のモトなのだ。なぜ自分の孤独を見つめようとしないのか、なぜよそ見ばかりをしているのか。不安に甘えたくて不安に甘えているくせに、なお誰に不安を訴えようとしているのか。(太字化はわたし)
自分の体験から語ろう、体験としての思想をもとうなどというのこそ、戦後民主主義の寝言なのである。体験からしか言えない人は、体験が逆ならば、逆の意見を言うだろう。だから個人の意見などいくら集めてもしょうがなのだ。

 第一印象は茨木のり子。それも「倚りかからず」を目指しているように見える。自分の感性くらい自分で守れというやつ。ブッダの思索やキリスト教、ソクラテスの名を借りたプラトン、あとはデカルトと良寛など、賢人たちの言葉を咀嚼して、アジテーションに変換する。絶対的・普遍的な「善」なるものは確かにあり、それを実現するために生きろと呼びかける。その、強くて正しい言葉が心地いい。勇敢に好戦的に全方位的に射撃しているので、そのうちの何かに撃たれるかもしれない。

 言っていることは「正しい」。たとえば、「便利になることで節約された時間を仕事に使うのなら、便利になることで仕事はより忙しくなっている」、「人生に物語を求めるとは、人生は何事でもないという自由に耐えられないから」、あるいは「未来への不安、過去への後悔は時間認識の誤り。なぜなら未来や過去に苦しむのは、いつだって現在なのだから」なんて箴言は、そのまま tumblr の「#名言」に突っ込みたくなる(実のところ、著者を tumblr で知った)。

 その「正しい」メッセージの中に、強烈な自己愛がそこかしこに突き出ており、思わず微笑してしまう。「わたし」は自分でモノを考え、生きている。何も考えず、世間や常識というやつに流されているその他大勢とは違う! 「わたし」の言葉は、哲人たちの思索から汲み上げた叡智を結集したものであり、その他大勢ではなく、まさしく「あなた」なら受け取れるはずなのだから―――いわゆる、刺さる人には刺さる。

 むしろ、タイトルの「絶望」という言葉にダブルスピークを感じる。役に立つタイミングからして死亡保険というべき「生命」保険。実質的にやってることは監視なのに「防犯」カメラ。タイトルの、絶望という言葉に希望を込めたいのではなかろうか。絶望という言葉で不安を煽って、その支えとなる「希望」を印象づけたいのではなかろうか。

 だとするなら、その絶望の深さはいかほどか。その痛みや不安はどれほどか。愛し子を喪い神へ問うたクシュナーの苦悩や、20歳で難病になった頭木弘樹の果てしない絶望を傍らに読むと、彼女の絶望は、あまりにも無色透明だ。彼女がどういう人生を歩み、どんな闇の淵を覗き込んでこの文章を書いてきたのかが、気になる。

 魂の濁り具合(もしくは絶望の透明度)を確かめるのに、最適な一冊。

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9/2(土)オフ会やります、テーマは「お金」

 オススメを持ち寄って、まったり熱く語り合う読書会、それがスゴ本オフ。

 読書会と言ったが、本に限らず、音楽や映画やゲーム、youtubeから展覧会なんてのもアリ。オススメの魅力を語ってもらい、「それが好きならこれなんてどう?」と皆で交流する。本を介して人を知り、人を介して本に出合う場なのです。

 次のテーマは「お金」。マネー、財、税、給料、遺産、富など、お金にまつわるものならなんでもOK。お金が絡むドロドロの人間関係を描いたドラマや、お金の人類史をガチで追いかけたノンフィクション、あるいはお金のない世界を舞台にしたファンタジー(SF?)、お金持ちになる方法を紹介する自己啓発本、タイトルに”Money”がある映画や音楽って、けっこうありそう。あなたのアイディア次第で、いくらでも膨らみますぞ。

9/2(土) 13:00-18:00、渋谷某所
参加費2000円
お申込はこちら→[スゴ本オフ「お金」]

 全体の流れはこんな感じ。午後いっぱいを使って、飲んだり食べたり、まったりしながらやってます。途中参加・退場自由・見学歓迎なので、お気軽にどうぞ。

  1. オススメ作品を持ってくる
  2. お薦めを1人5分くらいでプレゼンする ※twitterのハッシュタグは「#スゴ本オフ」
  3. 「それが好きならコレなんてどう?」というオススメ返し
  4. 本の交換会 ※交換できない作品は持ち主が回収


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生命をメタレベルで考える『生物圏の形而上学』

 これは面白かった。『生物圏の形而上学』は触媒となった一冊なり。

 ノンフィクションには、新たな知見を得られるものと、自らの知見と化学反応を起こすものがある。本書は後者寄り。「生命とは何か」について、より根源的でメタ的な視点より捉え直し、わたしの思考の倍率を上げ、妄想を煽り立て、アイディアの触媒となった。

 読みながら思い出したのは、街灯の下でカギを探すジョーク。深夜、街灯の下でウロウロしている男がいる。カギを探しているという。一緒に探してみるが見つからない。本当にここで失くしたのかと聞くと、「いや、失くしたのは向こうの暗がりです。あそこは暗くて見えないので、明るい所で探しているのです」というやつ。真に重要なところではなく、定式化できるモデルに固執する経済学を揶揄するために使われるジョークである。

 だがこのジョーク、「生命の起源は地球にある」と主張する一部の生物学者にも適用できそうで楽しい。というのも、彼/彼女らは、現在発見されているものが全てで、それ以外のものは存在しないものとして論考を組み立てているから。

 「生物とは何か」について、かつては、地表で容易に観察できるものから考察していた。だが、科学技術の進歩により、深海層や、岩盤層といった、人の目が容易に届かない場所で微生物の生態系を見出すようになった。また、高温や高圧、高アルカリといった極限環境で増殖する微生物の存在が明らかになるに従い、生物学の教科書は次々と書き換えを余儀なくされていった。生物とは、街灯の下だけでなく、暗がりにもいるのだ。「人知の及ばぬ環境で、まだ発見されていない生物がいる」と断言したところで、反論する者はいないだろう。

 しかし、街灯の明るみにあるものを全てとするあまり、暗がりにいる生物の可能性を切り捨てる人がいる。「生命の起源は地球にある」と主張する人々だ。もちろん、生命の起源を地球に求めるのは結構だが、だからといって宇宙に生命はいないとは言えないだろう。現時点でこれだけ多様な環境で沢山の種類の生命を見出しているのだから、どの暗がりにも「いる」可能性は否定できない。可能性の問題とするならば、街灯の下の「光が当たっている部分」よりも「目の届かない暗がりの部分」の方が、はるかに大きいのにね。

 なぜ、彼/彼女らは、「生命の起源は地球にある」ことに固執するのだろう。それは、科学が神に取って代わった(と信じる)ことで説明できるかもしれない。つまりこうだ、「生命を創造した神」に成り代わり生命の起源を説明しようとするならば、「神」の限界を引き継ぐことになるから。その「神」が創造した生命の範囲が、人知の及ぶ陸海空までなら、そこに成り代わった科学の(最初の)限界は、陸海空までになる。地下深層や成層圏、はては地球外の生命まで創造した想像力あふれる「神」ならば、代わりに立つ科学は、拡張された範囲まで説明することを試みるだろう。もちろん「最初の」限界と述べたのは、それを超えるエビデンス(極限環境の微生物等)が見つかるまでの話だ。

 ヒトが微生物を見るように、ヒトを見るような存在(例えば神的な存在)を考えてみよう。その存在からすると、ヒトはあまりにも微小でか弱い。だが微小ななりに工夫して生き延び、この地に繁栄している。夜になれば、ヒトの活動が「光」となってその存在の目に届くだろう。明るい場所にヒトが沢山いるから、ヒトはそこで誕生したのか? そんなことはない。ヒトの起源をアフリカに求めるのは、自然人類学における有力な説である。

―――ここまでが、わたしの妄想なり。宇宙・ヒト・微生物を俎上に、ミクロからマクロまで縦横無尽に駆け回る本書のおかげで、妄想がはかどるはかどる。

 「生命とは何か」を宇宙から問い直したり、生命をサイズから定義する試みは、読んでて大変楽しい。「なぜ微生物は小さいか?」についてここまで掘り下げた議論は、生細胞を物理的に見たシュレディンガー『生命とは何か』以来なり。「世界をやり直してもヒトは生まれるか?」や「海底火山と氷床下湖に地球外生命のカギを見つける」など、問いの立て方、発想の仕方が抜群に上手いのだ。

 たとえば、南極大陸の氷底湖であるボストーク湖を紹介する。厚い氷に覆われ、1500万年も外界から隔絶された湖で、3800メートルの氷床を掘削して得られた湖水サンプルのDNA分析から、未知の微生物が多数存在することが示唆されたという。著者はその目を空に向け、木星の第2惑星「エウロパ」を指さす。表面は氷に覆われているが、氷の殻の下に液体の水、すなわちエウロパの海がある。南極の氷床下湖の探査は、エウロパの氷床下海の前哨戦であり、宇宙生命探査にもつながっているというのだ。

 あるいは、2015年から始まっている国際宇宙ステーション(ISS)の「たんぽぽ計画」を解説する。東京薬科大学の山岸教授をリーダーとした宇宙微生物サンプリングのプロジェクトである。ISSの日本の実験棟の曝露部に微生物サンプラーを置いて、ISS軌道高度から採取しようというのだ。もし、地球外微生物が採れたら「世紀の大発見」だし、もし、それがダメで地球の微生物しか採れなくても、「生物圏の範囲の拡大」はやはり大発見になるという。2018年に予定されている最終回収が待ち遠しい。

 さらに、カリフォルニア大学バークレー校の研究チームが発表した、「0.0002ミリ以下の微生物」の紹介も興味深い。このバクテリア群はあまりに体が小さいため、ゲノムも小さくなっているという。その結果、増殖や代謝に必要な遺伝子を欠いているが、バクテリア同士が助け合うことで互いの不足を補っているというのだ。ここ近年で明るみに出てきた部分が「生物とは何か」の定義を書き換えようとしている。

 現在、地球にいる生物は、地球で適応した生物にすぎない。微生物のレベルで見るならば、宇宙には生命体が「うじゃうじゃ」いると考える。単に暗がりにいるだけで、わたしたちがまだそこを「見て」いないだけなのだ。そして、わたしたちが「見る」日は、思ったよりも近い。そんなワクワクを掻き立てる一冊。

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恋・宗教・格闘技・幽霊・SF・百人一首……「ハマる瞬間」が面白い

 好きな小説や音楽に「最初に」好きになったときを覚えているだろうか。

 それは恋に堕ちるような瞬間で、興奮のあまり上昇しているのか墜落しているのか分からず、首まで浸かってから底なし沼であることに気付く。そんな「ハマる瞬間」をテーマにして、さまざまな作品が集まった。

 面白いのは、オススメ作品だけでなく、それを語る皆さんの好きっぷり! どんだけそれが好きやねん! とツッコミを入れる一方で、好きが伝染する。それがスゴ本オフのいいところ。好きな本を持ち寄って、まったり熱く語り合う読書会なのだ。本に限らず、音楽、映画、ゲームなんでもあり。最新情報はここでどうぞ。

[ facebook「スゴ本オフ(Book Talk Cafe)」 ]

 まずはわたし、TVアニメ「月がきれい」を入口に、「好きな人が自分を好きになる」は奇跡の一つである話をした。『月がきれい』が好きな人は、『東雲侑子』を読むといいの圧縮バージョンやね。「こんなアニメのような(小説のような、映画のような)恋愛なんて、存在しない」というのは可能だ。だが、そんな作品が世に溢れているのは、なかったはずの青春時代の代償行為なのかもしれぬ(少なくともわたしにとってはそう)。

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 熱く(暑く?)ハマれるのは、同人誌界隈。ズバピタさんが紹介する同人誌の世界は、深く濃く広大で強烈なり。出版不況とは裏腹に、同人誌の世界はもの凄い勢いで広がっている。本が売れないと嘆く人は、出版社と流通の業界しか見ていないかもしれない。女子高生のセーラー服の構造を通じて幾何学を学ぶ『制服の幾何学』や、発砲できないように改造した銃の魅力を伝える「無可動実銃」など、見たこともない世界が広がっている。

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 自分の「身体」にハマれるのは、ボディワーク。柳生新影流をベースとし、身体の使い方を学び直す。タオルや物差しを用いて、力をかけるラインを意識しながらレクチャーを受ける。正直、教えられた通りに動かせているかどうか自信はないが、「力の通り道を自覚する」という感覚が面白い。コンピュータを動かす基本ソフトがOSで、その上で動くアプリケーションなら、このボディワークがOSとなり、剣道や空手や拳法がアプリになるという。あわせて教えてもらった、肩こり・腰痛に効く体操がありがたい。

 百人一首愛が凄かった。壇蜜さんに惹かれ、Eテレでやってた「恋する百人一首」を見てハマったという。コミック『ちはやふる』はもちろんのこと、それをアレンジした骨牌も出てくる。百人一首が好きすぎて、クッキー焼いてくるところが凄い。興味深いのは、同じく歌でも評者によって焦点が違っているところだそうな。田辺聖子『小倉百人一首』、白洲正子『私の百人一首』をお薦めされたが、比べて読んだらハマりそう。

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 不穏なハマりもある。村上春樹『アンダーグラウンド』、オウム真理教による地下鉄サリン事件の関係者のインタビュー集のご紹介。学歴や自意識の高い、いわゆるインテリがオウム真理教にハマる瞬間が丹念に描かれている一方で、なぜハマるか、読み手にとっては分からないままだという。宗教にハマる瞬間は「啓示」という便利な言葉が示す通り、主観的な体験だからなぁ…… 一緒に紹介された『約束された場所』も併せて読むといいのかもしれない。

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 自分がハマった作品だけでなく、ハマった誰かを描いた作品も。ハマる対象も、宗教、格闘技、動物の写真、SF、怒り、幽霊、女、忍法、介護、アニメなど様々。人生のショートカットから落とし穴まで、「ハマる瞬間」は、楽しいだけでなく、怖いものもある。ここで語り尽くせないトピックは、togetterまとめをどうぞ。

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 紹介された本のラインナップはこれ。漏れ抜けあるけどご容赦を。

  • 『東雲侑子は短編小説をあいしている』森橋 ビンゴ(ファミ通文庫)
  • 『東雲侑子は恋愛小説をあいしはじめる』森橋 ビンゴ(ファミ通文庫)
  • 『東雲侑子は全ての小説をあいしつづける』森橋 ビンゴ(ファミ通文庫)
  • 『錦繍』宮本輝(新潮文庫)
  • 『ルビンの壺が割れた』(新潮社)
  • 『もうひとつのワンダー』R・J・パラシオ (ほるぷ出版)
  • 『希望のごはん』クリコ(日経BP社)
  • 『85歳のチアリーダー』滝野文恵(扶桑社)
  • 『ちはやふる』末次由紀(講談社)
  • 『田辺聖子の小倉百人一首』田辺聖子(角川文庫)
  • 『私の百人一首』白洲正子(新潮文庫)(角川文庫)
  • 『恋する「小倉百人一首」』阿刀田高
  • 『片思い百人一首』安野光雅(ちくま文庫)
  • 『日本語の古典』山口仲美(岩波新書)
  • 『アンダーグラウンド』村上春樹(講談社文庫)
  • 『約束された場所で―underground 2』村上春樹 (文春文庫)
  • 『エドワード・ゴーリーの優雅な秘密』ウィルキン・カレン(河出書房新社)
  • 『みささぎ盗賊』山田風太郎(ハルキ文庫)
  • 『甲賀忍法帖』山田風太郎(講談社文庫)
  • 『ペン・オブ・クインシー』ザ・ソニー・スティット・カルテット
  • 『恐竜vsほ乳類』小林快次博士(ダイヤモンド社)
  • 『抑圧された記憶の神話』K.ケッチャム(誠信書房)
  • 『きょうりゅうをたおせ』たかしよいち(文研出版)
  • 『プリニウス』ヤマザキ・マリ/とり・みき(新潮社)
  • 『火星の人類学者』オリバー・サックス(ハヤカワ文庫)
  • 『LEAN IN(リーン・イン)』シェリル・サンドバーグ(日本経済新聞出版社)
  • 『野生動物カメラマン』岩合光昭(集英社新書)
  • 『人はなぜ格闘に魅せられるのか』ジョナサン・ゴットシャル (青土社)
  • 『グミ・チョコレート・パイン』大槻ケンジ(角川文庫)
  • 『ブルーシティー』星野之宣(MF文庫)
  • 『天冥の標』小川一水(ハヤカワ文庫)
  • 『ウイスキー検定公式テキスト』土屋守(SJムック)
  • 『私はどうして販売外交に成功したか』フランク・ベトガー
  • 『うらめしや~、冥途のみやげ展』全生庵・三遊亭圓朝(印象社)
  • 『アンダーリポート/ブルー』佐藤正午(小学館文庫)
  • 『十二国記 月の影・影の海』小野不由美(講談社文庫)
  • 『少女地獄』夢野久作(角川文庫)
  • 『制服の幾何学』こーわ
  • 『制服深層学習』こーわ
  • TVアニメ『月がきれい』
  • TV番組『恋する百人一首』(NHK)
  • ブルーレイ『Re:CREATORS』(アニプレックス)
  • DVD『評決』ポール・ニューマン主演
  • DVD『スクープ』ポール・ニューマン主演
  • CD『Song in the Key of Life』スティービー・ワンダー
  • CD『レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン』レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン

 次回のテーマは「お金」。マネー、収入、銭、財、信頼、回りもの。直球で経済から選んでもいいし、お金に憑りつかれた人間模様もあり。「お金のない世界」という視点から捉え直した作品も面白い。強奪されたり生みだしたり、与えたり奪ったり、君臨したり支配されたり、様々な切り口がある。「お金」をテーマに、あなたがお薦めする作品を紹介して欲しい。小説、ノンフィクション、マンガ、映画、音楽、ゲームなんでもあり。そういや、ある質問に、オスカー・ワイルドがこう答えていたな。

  Q:あなたが一番影響を受けた本は?
  A:貯金通帳です!

 最新情報はここ↓ twitter(@Dain_sugohon)でもつぶやくけれど、ここが確実ですぞ。

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ユニークな分析哲学入門『今夜ヴァンパイアになる前に』

 「ヴァンパイアになれるチャンスがある」思考実験から始まる分析哲学。

 もちろん「ヴァンパイアになる」はメタファーだ。結婚する、子をもつなど、見通しが不透明で、人生を劇的に変えてしまうような判断を指す。この決断を迫られたとき、どうすれば合理的な意思決定が導けるかを、徹底的に考え抜く。深くて濃くて、ユニークな一冊。

 象徴的とはいえ、「ヴァンパイアになる」は言いえて妙だ。あなたの友人の何人かは既にヴァンパイアになっていて、その生活形態や価値観について、色々と教えてくれる。人ではとても理解できない仕方で、この世界を理解することができるという。ただ、ヴァンパイアとしての理解を、人に説明することは、とてもできない。この充足感と万能感は、文字通り人知を越えており、それがどんなものであるかを知るには、ヴァンパイアになるしかない。

 問題はここからだ。この状況で、あなたは一体、どうやって十分な情報に基づいた選択を行えるのか、ということだ。ヴァンパイアになるまでは、ヴァンパイアであることがどういうことかは分からない。そのため、「ヴァンパイアである」ことから生じる実際の経験と、今の「人である」ことから生じる実際の経験を、比較することができないのだ。

 さらに、ヴァンパイアの友人の証言だけに頼って、未来を選ぶことも怪しい。なぜなら、もはや彼らは人間をやめた以上、彼らの選考はヴァンパイアとしての選考であって、人としての選考ではないからだ。

 「ヴァンパイアになる」に限らず、「結婚をする」「子どもをもつ」「大きな手術を受ける」「軍隊に入る」など、人生において、重大な決断を迫られることがある。その選択をすることで、あらたな経験をすることになる。その経験は、人生を(人性を)決定的に変えてしまう。

 しかし、そうした、変容的な経験をする/しないの決断をしなければならないのに、実際に経験をしないことには、「その経験をする」ことが何なのかが、分からないのだ。著者は、フランク・ジャクソンの思考実験「メアリーと白黒の部屋」を例示しながら、経験と意思決定を深堀りする。

 認識論について考えるなら、「メアリーと白黒の部屋」はたいへん興味深い。つまりこうだ、生まれたときから白黒の部屋で過ごしてきたメアリーがいる。彼女は、色というものを目にしたことがないものの、視覚の神経生理学について世界一の専門知識を持っている。光の特性、眼球の構造、視神経のつながりや、どんな場合に人は「赤い」「青い」というのかを、知っている。さて、メアリーが部屋を出て、初めて色を目にするとき、メアリーは何か新しいものを学ぶだろうか? という思考実験だ。

 これは、クオリアや唯物論、哲学的ゾンビの話につながっていくが、本書ではさらに捻っていて面白い。著者は、あくまで個人的な経験という立場から分析しようとする。メアリーが、自分の主観的な色の経験をするときのありようを想像の中で示すためには、それに先立って、関連する経験をしていなくてはならないというのだ。

 すなわち、「色を見る」ことを実際に経験しな限り、「色を見る」ことの知識をどんなに積み上げても、「色を見る」ことがどういう経験なのか、学ぶことはできない。他のどんなものにも還元されない、そんな経験があるというのだ。

 「メアリーの部屋」はシンプルな思考実験だが、「ヴァンパイアになる」も「結婚する」も同じだ。それに関する知識をどんなに積み上げても、実際に経験しないことには、「経験した」ときの主観的なありようを示すことができない。認識や経験が個人に属する以上、そして世界線を辿れない以上、避けることができない問題なのだ。

 古典的なら、標準的な意思決定論のモデルがある。選択により得られる価値と、実現する確率から導かれる期待値の大小によって、決断する方法だ。しかし、可能性のメリット/デメリットは経験により変容する「前」の評価軸であり、変容「後」とは別物である。主観的な価値が前例のない仕方で変わってしまうから、選べない。価値が不確実なのではなく、選択以前の自分では価値を割り当てられないからだ。

 あるいは、個人的な価値から離れ、三人称的な視座から判断する、という方法もある。つまり、科学や宗教や他の誰かの規範に沿った選択をするのだ。規範的で合理的な選択だけに固執するのは魅力がないという。なぜならそれは、自分の価値から自身を断ち切ることになり、他人の人生を生きることになるから。選択を通じて自分が何者になりたいかを実感することこそが、意味ある人生を生きることだから。「意思決定」と言うなら、誰の「意思」なのかという話やね

 合理的な判断も、客観的な決断もできない。ではどうするか?

 本書では、メタ的に視点を上げたモデルを提案する。著者は、全く新しい経験をして、認識を変容することを「啓示」と呼び、啓示込みで、それを選ぶかという議論にする。ヴァンパイアになること、結婚をすること、子をもつこと、それが主観的にはどういう経験なのかは分からない。だが、その経験により変化する自分を込みで、選びたいかと考えるのだ。どうあがいても合理的な意思決定ができない以上、啓示を受けて変わった自分も含めた合理的な判断をすべし、というモデルになる。

 わたしの知る限り、ほとんどの場合、「ヴァンパイアになる」かどうかは、本人の意思如何にかかわらず不可抗力のものである。唯二の例外として、『ダレン・シャン』の第一巻と、『ジョジョの奇妙な冒険』の第一巻だな……と思っていたら、まさに訳者あとがきで「俺は人間をやめるぞ!ジョジョーーーーーッッッ!!」が紹介されてて笑った。

 悔いなく生きたいという願いを、どう実践するか。分析実存哲学からの応答は、これだ。

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『すごい物理学講義』はガチで凄かった

 スゴ本とは「凄い本」の略だ。読前読後で世界が改変されてしまう本だ。

 もっと言うと、世界が変化するのではなく、世界を視る「わたし」が更新される。『すごい物理学講義』は、まさにそういう一冊。わたしが知っていた世界について、その理解を深めるとともに、知識や概念として知っていた枠組みを、一変させてしまった。

 本書の前半は、「世界のありよう」について歴史を振り返りつつ、アインシュタインの一般相対性理論と量子力学の統合について、徐々に焦点を当てていく。ここでの面白い指摘は、「目に見えている世界」ありのままに見ることを阻むものは、われわれ側の予断であること。著者は、世界の理(ことわり)を善悪の観点から理解しようとしたプラトンやアリストテレスを挙げながら、目的論的な見方を批判する。

 そして、ニュートン的世界観がどのように乗り越えられ、ファラデー、マクスウェルを経て、アインシュタインと量子力学で、時間と空間、場と粒子がどのように統合されていったかを解説する。それぞれの議論において、「世界がどうなっているか」と「世界がどうあってほしいか」の間で揺れ動いていたことが分かり、興味深い。

 本書の目玉は、「ループ量子重力理論」である。一般相対性理論と量子力学を統一させる理論として、超ひも理論が有名だ。「ループ量子重力理論」は、超ひも理論に匹敵するほど有力な理論とされているにもかかわらず、日本語で読める概説書はあまりないらしい。超ひも理論は、わたしにとって恐ろしく難解で、「たとえ話」のレベルに留まっていた。だが、空間を「空間の量子」から形成される重力場だとするループ量子重力理論は、本書のおかげもあり、すんなり親しむことができた。決して「分かった」とは言えないが、たとえ話で分かったフリをさせないようにしているのが良い。

 めちゃくちゃ刺激的だったのが、物理学と無限について。

 物理学の仮説は数式や実験で裏付けを得ようとする。そして数式や実験結果の完全性は、数学によって保証される(等式の性質)。しかし、数学は(数学のパラダイムにて)無限を扱うが、物理学で無限を仕える範囲は限られている(物質を無限に分割することはできない)。

 さらに、数学で完全に無視されている「時間」を解決しなければならないという問題が出てくる(等式の”=”の間には「時間」が存在している)。こうした、密かに抱いていた問題意識が、量子論でぼこぼこ俎上に上るのを見てワクワクする。第6章「空間の量子」、第7章「時間は存在しない」なんて知的興奮MAXとなった。相対論における、その象徴的な一文がここだ。

わたしたちは直観的に「現在」とは、宇宙で「今まさしく」起こっている全事象の総体を指すと理解している。しかしそれは、わたしたちの限られた視野がもたらす誤った認識である。時間の小さな感覚を知覚できないために、そのように思い込まされているにすぎない。

 つまり、宇宙のどこを探しても、「今」という瞬間に起きた出来事は見つけられないというのだ。なぜなら、わたしたちの「今」は「ここ」にしか存在しないから。「今、ここ」という言い方には意味がある一方で、「今」という言葉を使って、全宇宙で「今まさしく起こっている」出来事について語ろうとしても意味はない。なぜなら、それぞれの場所に「今」があるのだから。

 それはいわば、わたしたちの銀河の位置を知ろうとして、アンドロメダ銀河よりも「上にあるのか、下にあるのか」と問うようなもの。この質問には意味がない。なぜなら、「上に」とか「下に」といった言葉が意味を持つのは、二つの事物が地上に存在している場合に限られるからだ。宇宙のあらゆる事物にとって「上」「下」が存在するわけではない。同様に、宇宙で起こるあらゆる事象にとって、「先」「後」がつねに存在するわけでもないのだという。

 たとえ技術や理論の助けを借りたとしても、人は人のサイズでしか、物を考えることができない。この「サイズ」という言葉は、スケールという意味やスピードという意味も込めて使っている。すなわち、人の理解の範囲に翻訳できる規模や記法や速度や物量でしか、人は物を考えることができない。地上を基準とした「上」や「下」といった概念を離れ、時間を基準とした「先」「後」に囚われずに考えられるとしても、それらを認識する「人」から自由になることはない。

 物理学に限界があるとするならば、それを用いて世界を理解する主体が「人」であるところにあることが、ここでも裏付けられる。いわゆる、[科学の人間化]が、その境界やね。

 本書は、マルセル・プルーストの箴言が、そのままあてはまる。これだ「発見の本質とは、新しいものを見つけることではなく、新しい目で見ることだ」。わたしの目に映る世界は変わらないけれど、「目に見えている世界だけが世界ではない」という本書の原題が腹に落ちたとき、すべての事物は(わたしも含め)震え、揺らいでいることに気付く。

 世界を改変する最も良い方法は、世界を知ること、それも深く遠く知ることであることが分かる。

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いつ高齢者から運転免許を取り上げるか『高齢ドライバーの安全心理学』

 明らかに運転できていないドライバーがいる。一時不停止、信号無視、蛇行運転(ハンドルをちゃんと握れてない? わき見?)。運転席を見ると100%高齢者だ。こうした光景は毎週見かける。なぜ毎週か? わたしがサンデードライバーだからだ。

 いっぽう、 高齢者の交通事故がテレビや新聞をにぎわしている。認知症の高齢者が、歩行者をなぎ倒し、コンビニに突っ込むニュースはよくあるが、認知症に限らず、ほぼテンプレのように「アクセルとブレーキの踏み間違い」「高速道路を逆走」「何が起きたかよく覚えていない」というお決まりのパターンとなっている。

 自動車の運転に必要なスキルとして、「認知」「判断」「操作」が挙げられる。加齢に伴い、こうした能力が低下することは事実だ。認知能力が低下することで判断が遅れ、操作が間に合わなくなる。このとき、車は1トンの凶器と化す。何歳でどの程度の能力低下があるかはバラつきがあり、一概に何歳だから危険ドライバーだと断定するのは難しい。

 この「加齢」を「飲酒」に置き換えても成立する。飲酒により認知能力が低下し、判断が遅れ、操作が間に合わなくなる。どれくらいアルコールを摂取したら運転能力が低下するかはバラつきがあり、一概に酒を飲んだら危険ドライバーだと断定するのは難しい―――わけがない。お酒を飲んだら運転はできないことは、常識以前の問題だ。

 しかし、世の中は少し違うようだ。高齢ドライバーがいつ運転をやめるかは、本人の意思に委ねられている。もちろん、認知テストや高齢者向けの講習会などを通じ、加齢に伴う運転スキルの低下と危険性は伝えられる。だが、最終的には、ドライバー本人が「できる」と思ったならば、できてしまうのが事実である。これは、飲酒運転の危険を承知の上で、ハンドルを握っている人々と同じように見える。

 明らかに運転できていない、一時不停止、信号無視、蛇行運転のドライバーを見ると、「お前ら酒呑んでるのか?」と問いたくなる。飲酒運転は道交法違反だが、酒呑んでるとしか思えない危険運転をする高齢者は、取り締まる必要があるのではと思えてくる。

 こうしたわたしの考え方に対し、一部は認識を改め、一部は強く反発させられたのが、『高齢ドライバーの安全心理学』である。「18歳以上という年齢制限があるように、○歳以下という年齢制限を設けるべし」と考えていたが、その線引きは悩ましいようだ。

 筆者は、警察庁の科学警察研究所で交通安全について研究してきた交通心理学の専門家だ。医学、老年学、交通工学、交通事故分析の知見を援用し、高齢ドライバーの運転と事故の特徴を分析する。その上で、高齢ドライバーの運転の危険性がどこにあり、それを考慮した安全運転支援には、どのようなものがあるかを紹介する。「俺が運転したときに高齢ドライバーが危なかったから、免許を取り上げろ」という乱暴な議論ではなく、きちんとエビデンスと統計情報をベースに分析している。

 著者は言う、高齢ドライバーの「事故が多い」とはどういうことか? 「事故が多い」とは、実は2つの意味がある。一つは、「事故件数が多い」であり、もう一つは、「事故の危険性が高い」という意味である。

 前者の「事故件数は多い」は、高齢者の半数がドライバーであるという事実に裏付けられる。高度成長期・モータリゼーションの洗礼を浴びた世代で、免許保有率が高い特徴がある。実際、この30年間で高齢者人口は2.7倍になったが、高齢ドライバーの数は、10.5倍と桁違いの伸びを示している。高齢者の事故件数が多いのは、日本の高齢化に伴った現象であり、「高齢ドライバーが危険」に直接的には結びつかないという。

 また、後者の「事故の危険性が高い」については、一概にそうと言えないと論ずる。運転者の年齢層別に事故の発生率を見た場合、若者世代(16~20歳)がダントツに高いことを示し、60代では中年世代と変わらないことを示す。70代以上になるとぐんと上がるのだが、それでも若者世代の方が高いという。

 しかし、マスコミは、認知症の高齢者が起こす事故を取り上げ、「高齢ドライバーは危険」というメッセージを伝えようとしているという。さらに、高齢ドライバー危険論は、暗黙的に抱くエイジズム(高齢者差別)の表れではないかと指摘する。

 この指摘は、わたしにとって当たっている。「危険な運転者=高齢者」という個人的な体験と、ニュースでくり返し報道される「認知症の高齢者の事故」が結び合わされ、高齢者差別が頭をもたげているのかもしれぬ。だが、加齢に伴う運転スキルの低下は事実だ。著者自身、「75歳以上の高齢ドライバーは、人身事故・特に死亡事故を起こす危険性が高く、危険なドライバーと呼んでよい」と断定する。こうした運転スキルの低下を高齢ドライバーに気付かせ、それ補う支援は進んでいるのか?

 それに対し、著者は、全高齢ドライバーを対象とした日本独自の講習制度を紹介する。75歳以上のドライバー「全員」を対象とし認知機能検査や、指導員が同乗する実車による指導などで、自身の運転スキルを客観的に見てもらうようにしているという。

 しかし、本書によると、高齢ドライバーに運転スキルを客観視してもらうのは、難しいようだ。各世代ごとに自身の運転適正を自己評価してもらったところ、高齢になればなるほど優れていると判断する人が多くなったのが実情だ。指導員が同乗する指導であっても、信号や標識の見落としを認めたがらなかったという結果が残っている。仮に、強引に線引きをするならば、運転免許を規制すべき年齢は75歳になるだろう。

 客観的に運転能力は低下してきているのに、過大な自己評価をする高齢者。その自信(過信)はどこからくるのか? 著者は、加齢のパラドックス・幸福(ウェルビーイング)の逆説を紹介する。これは、高齢者特有の心理状態で、自分を客観的に見ることができなくなる。確かに「できていたこと」が「できなくなる」を認めることは、難しいことに違いない。だが、それが自身のみならず周囲を巻き込む危険を孕んでいるならば、なんとしてでも気づいてもらう必要がある。

 高齢者の全員が過信しているわけではないらしい。自身の運転スキルを鑑み、その低下を補うような運転をする傾向あるという(補償運転という)。老化と病気に悩まされ、自分の運転スキルの低下に自覚的になると、夜間や雨の日の運転をひかえたり、スピードを出さない無理をしない運転をすることによって、安全運転を確保しようとする。この補償運転により、高齢ドライバーにとって事故を起こさない歯止めとなっているという。

 補償運転がどの程度の歯止めになっているかは、本書には示されていない。だが、運転スキルの低下をどれくらい客観視できているかの最終判断を、当の高齢者に頼っている現状は問題ありだろう。「まだ酔っていないから大丈夫、先週も事故らなかったし」とハンドルを握る飲酒ドライバーと重なる。

これは、恒常的な飲酒ドライバーが、飲酒運転を止めるときと同じだ。致命的な事故を起こすまで―――どうか、そうなりませんように。

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徹夜小説『ウォッチメイカー』

 「屈辱」というゲームがある。本好きが集まって、未読の本を次々を告白するゲームだ。

 大事なのは、「みんなが読んでるのに、自分だけ読んでいない」作品だと、ポイントが高いところ。つまり、読んでて当然の本を読んでないと告白する「屈辱」を味わうゲームなのだ。

 この「屈辱」を、ミステリ好きの読書会でやったことがある。わたしが、「ジェフリー・ディーヴァーは一冊も読んでないんですよね」とつぶやいたところ、そこに居た全員(?)から、哀れむような目で見つめられた。そんな悲しい目で見なくても……と言ったら、「羨ましいんだよ!」と全員(!)からツッコミを受けた。

 ジェフリー・ディーヴァーを読んでいないミステリ好きは、「ミステリ好き」と名乗る資格があるかどうかは別として、幸せものらしい。なぜなら、これから絶対に面白い本にどっぷりとハマれることが保証されているから。

 そこで議論が百出する。やれ『魔術師(イリュージョニスト)』が良いとか『石の猿』が好きだとか。喧々囂々の末、ほぼ全会一致で「最初は『ボーン・コレクター』を読め。最高は『ウォッチ・メイカー』だから取っておけ」というご忠告をいただく。前半の忠告を実行した結果は、[『ボーン・コレクター』から始めなさい]に書いた(あまりの面白さに徹夜になる前に読み干してしまった)。

ウォッチメイカー上ウォッチメイカー下

 そして後半の忠告を守らず、さきほど読み切ったのだが、一徹で済んだと告白しておく。そして断言できる、これは面白い……というか、凄い! 「ページを繰る手が止まらない」という前評判通りで、めくるというより、ページを立てて読む勢いなり。ジェットコースターのように止められない止まらないと思っていたら……ガツン! とアタマを殴られる。

 え…? 今まで読んできたのは、いったい何だったの!? 先に進みたい欲望を抑え込み、いったん戻る。自分が追ってきたストーリーが、自分の目で見たまんまではなかったことに気付かされて叫びたくなる。鮮やかに、軽やかに、何度も何度も主人公を、読者を、そして犯人をも騙す。世界が塗り替わるような驚きと興奮にゾクゾクする、これは凄い!

 ストーリーに触れずに面白さを伝えるのはかなり難しいが、やってみよう。「ウォッチメイカー」と名乗る者が、残忍かつ精密な手口で犯行を重ねてゆく……対するは科学捜査の専門家リンカーン・ライム、四肢麻痺でベッドから動けない身体だが、現場検証のプロフェッショナルや、尋問のエキスパートとともにチームを組んで、微細証拠物件から犯人像を組み立て、仮説検証を繰り返し、徐々に追い詰めていく。。

その見えない駆け引きの「見える化」がとてもスリリングだ。一見バラバラに見える、複数の点と線がつながるとき、一種のカタルシスを感じるに違いない。

 だが、これだけでは半分も伝えていない。追うもの・追われるものの丁々発止だけでも徹夜を覚悟すべきだが、ガツン! と殴られるお楽しみはこれからだ。この、作者以外全員を騙す構造は、将棋の藤井四段に対する評が最も適している。これだ。

「性能の良いマシンが来ると聞きフェラーリが来ると思ってみてみたらジェット機が来たレベル」

 もうね、これ全力で殴りに掛かっている。かろうじて、わたしが気付いたのは、冒頭開始2ページ目。「ウォッチメイカー」の本名が出てくるし、相棒がいる。えっ? ふつう、このテの犯罪者は単独行動だろうに。予想を狂わすパラメータとなる要因の最大の存在───共犯者───なんて、ハナから考えないだろうに。しかもこの相棒、食欲・性欲魔人で、自分の行動を押さえることができない。ウォッチメイカーには絶対服従みたいだが、なぜ?

 ミステリ読み巧者なら、「その相棒は実はウォッチメイカー自身で、読者をミスリードさせる叙述トリック」を想定するが、早々と打ち砕かれる。ならばひょっとして……と予想してたのが、ある場面でドンピシャで思わず顔がほころぶ───と思いきや、次の瞬間、驚愕に歪む。目をまん丸にしたり、開いた口が塞がらなかったり、百面相する読書は、かなり珍しい。

 どうあがいたって驚かされることは確定なのだが、注目する方向を抽象化してお伝えする。

 それは、物語の構造だ。

 物語には、「はじまり」があり、そして「なか」があり、最後に「おわり」がくる。それぞれの間にはターニング・ポイントでつながり、因果関係で結ばれている。読み慣れている人は、それを意識しながら進めるので、途中で「あれっ?」と思うはずだ(なぜ「あれっ?」と思うかはお楽しみに。読んだ人なら絶対わかる)。この、ストーリー自体が構造に揺さぶりを掛けてくる興奮を、ぜひ味わってほしい。

 もう少し視点を近づけ、地の文に注意してみよう。会話じゃない文章ね。いろいろパターンがある。

  • いわゆる三人称の描写文で、「ライムは…」「後ろで物音が…」といった、登場人物にまつわる(ミメーシス)
  • 神視点の内面描写
  • 会話を引き取って次パートにつなげる
  • かいつまんで状況説明する(ディエゲーシス)
  • 著者の文
 問題は最後。「著者の文」って、あたりまえでしょ? この小説の全ての文章は著者・ジェフリー・ディーヴァーが書いているのだから。その通り! その通りなんだけど、違うんだ。さりげなく地の文に紛れ込んでいる、著者からの挑戦文なのだ。その証拠に、すべてが分かった後から読み返してみると、ああ、これは確かに著者自身が読者に向けてヒントのつもりで書いたことだと、浮かび上がってくるから。

 ピンとこない人には、アガサ・クリスティーのプロットを思い出してほしい。クリスティーのが物語に仕掛けるのは、「決め手となる証拠・証言は、予め書かれている」だ。ポアロやマープルが種明かしをする段階で、「あっと驚く新証拠」や「後から出てくる新証言」なんてものはない。もちろん、偽の手がかり、信頼できない語り手、ありえない被疑者といったプロットで読者を大いに惑わしてくれる。だが、既に出てきた、舞台上にある証拠と証言だけで、犯人を追い詰めているのだ。

 だから、二度読みすると、全てわかった人だけに分かる「著者から読者に宛てられた文」が見えてくる。この小説、ご親切にも要所要所で事件の「まとめ」が入る。犯行現場、被害者、犯人、手口、証拠物件を箇条書きにしたもので、捜査本部にあるホワイトボードの「写し」のような体裁になっている。全部読んだ上で見直すと、確かにそこにある。全てを見せた上で、徹底的に騙しにかかる。ご丁寧に、騙す手口まで登場人物の口を借りて白状ししている。ジェフリー・ディーヴァーの高笑いが聞こえてきそうだ。

 明日の予定がない夜にどうぞ。

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7/22(土)オフ会やります@渋谷

 好きな本を持ち寄って、まったり熱く語り合う読書会、スゴ本オフ。

 本に限らず、音楽や映画・ゲームなんでもあり。演劇や展覧会やブログの紹介なんてのもあったし、とにかく「私のイチ推し」を語ってほしい。あなたの「好き」が好きな人が、「それが好きならコレなんていかが?」とお勧めしてくるかもしれない。それは、高確率であなたの知らない「好き」になることを請け合う。

 本を介して人を知り、人を介して本に会う、そんな読書会なり。

 全体の流れはこんな感じ。

  1. テーマに沿ったお薦め作品を持ってくる
    テーマは「SF」や「食」「ホラー」など事前に相談して決める。お薦め作品は、本(物理でも電子でも)、映像(DVDの映画やYoutubeの動画など)、音楽、ゲーム(PS4からボドゲ)など、なんでもあり。並べて皆に見せびらかそう。

  2. お薦めを1人5分くらいでプレゼンする
    「ここが刺さった」とか「これは音読する」などやり方自由。なるべく前半に発表しておくのが吉。後半になるとヘベレケ&グダグダになり、ちゃんと聞いてもらえなくなる可能性大なので、恥ずかしがり屋さんは後半にするといいかも。プレゼンはtwitter班が実況する。ハッシュタグは「#スゴ本オフ」

  3. 「それが好きならコレなんてどう?」というオススメ返し
    自分の好きな本をプレゼンする人は気になるでしょ? その人に自分のお薦めを「オススメ返し」するのだ。これは観客のみならず、twitter実況のレスから来るときも。このリアルタイム性がスゴ本オフの嬉しいところ。プレゼンや本に優劣つけたり投票したりはないけれど、いわゆるベストセラーは「なんでそれなの?」というツッコミが入るかも。

  4. 放流できない作品は回収する
    ひととおりプレゼンが終わったら、回収タイムになる。「放流」とは本の交換会のことで、交換できない絶版本・貴重な作品は、ここで持ち主の手元に戻る。

  5. 交換会という名のジャンケン争奪戦へ
    回収が終わったら、作品の交換会になる。ブックシャッフルともいう。「これが欲しい!」と名乗りをあげて、ライバルがいたらジャンケンで決める。ゲットできた人は、2周目になるまで争奪戦を待ってもらう。皆に行き渡って、まだ作品が並んでいたら2周目になる。持ってくる作品の上限・下限はないので、「1冊持ってきて、誰かが持ってきた全集と交換」なんてこともある。

 午後いっぱいかけて、まったりとやってる。togetterやこのブログでまとめてるんだけど、楽しさの半分も伝え切れていない気がする。途中参加・退場自由・見学歓迎なので、お気軽にどうぞ。今回のテーマは「ハマる瞬間」、あなたがハマった瞬間を語ってもいいし、何かにハマった主人公を描いた作品を持ってきてもいい。

 [7/22(土)スゴ本オフ : ハマる瞬間]の参加はこちら

 今までのはこんな感じ。右側の「過去のスゴ本オフ」に全部載せてありますぞ。

読まずに死んだらもったいない
何が幸せか人に任せると辛い。「しあわせ」を再考させる本
「失恋」の実況togetter
この短編集がスゴい!

 イベント告知や最新情報は、[facebook : スゴ本オフ]をどうぞ。

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