この本がスゴい!2019

人生は短く、読む本は多い。

毎年この時期、自分のリストを振り返るのだが、読みたい本が尽きることはない。読むほどに、知るほどに、知識と理解と表現の不足を痛感する。

それでも読むし、ここに書く。読むことで豊かになり、書くことで確かになるというのは本当で、読んでいるときに何を知りどう考えていたかは、書くことでハッキリする。

つまり、自分で分かるために書いているのだ。フランシス・ベーコンは、話すことで機敏になるとも言ったが、わたしの場合、話すことで世界が変わった。[スゴ本オフ]や読書会、[冬木さんとのSF対談]や、読書猿さんとの知をめぐる対談[1][2][3]で、世界の見え方が変わった。

読書会や対談は今後もしていくが、そこで紹介された本や、2019年に出会った本の中から、わたしにとってのベストを選んだ。これが、あなたにとってのスゴ本となれば嬉しい。そして、このリストを目にしたあなたが、「それがスゴいなら、これは?」とお薦めしてくれるともっと嬉しい。

 


フィクション


 

『僕の心のヤバイやつ』桜井のりお(少年チャンピオン・コミックス)

今年いちばんニヤニヤした。

「厨ニ病こじらせ男子 × ぽんこつ美少女」のラブコメ。もうね、ずーーーっとニヤニヤしっぱなしなの。痛勤電車で心が折れてもこれ見るだけで接骨するの。

終始男子の目線で進むのだが、この男子、深夜にグロ動画を見たり、クラスの女子のリョナ絵を描くような陰キャ。「僕の心のヤバイやつ」とは、彼女に対する敵意だ。脳内では「美しいものを壊したい・汚したい」という欲望が渦巻いており、リョナ絵にしたり妄想するわけ。その、ネガティブな妄想の声が面白い。

彼女はスタイルの良い陽キャで、雑誌のモデルもやっている。クラスでも人気があり、スクールカースト上層だ(でも本人は天然なので無自覚)。で、「僕」は自分が最下層という自覚があるから、ひっそりと敵意だけは募らせている。

「ヤバイ」のは、最初は敵意のはずなのだが、だんだん変わってくるところ。彼女のことがキライなはずなのに、好意のようなものを抱き始める。

「好意のようなもの」と言ったのは、彼が気づいていないから。読み手からすると「どう見ても好きになっているじゃん」と見えるのだが、彼は「それ」が何であるか分からない。彼は「それ」を持て余し、困惑する。

そして、あるきっかけで、彼は気づいてしまう。彼女を好きだということに。めっちゃ痛々しい最中なのだが、このシーンはすごく美しく悶々とさせられる。

いっぽう、彼女のほうは自分の「それ」を分かっていたように思う。彼との距離を詰めようとするのだが、不器用で経験不足が故に「それ」は伝わらない。逆に彼のほうに不思議がられてしまう。背が低くてカースト下層の「僕」が、彼女と言葉を交わすだけでも結構けっこうなのに、なんでそんな態度を? と考えてしまう。

この絶妙な距離感・もやもや感がいい。細切れの twitter で見ているのとは違い、Kindle で通してみると気づく。二人の距離は、ほんとーにゆっくりと、徐々に(物理的に)近づいているのが分かる。まるで、野良猫に毎日声をかけてだんだん慣れていくように。

そのゆーっくりとした変化が、あるきっかけで気づいてしまう。自分が抱えていた「それ」が、いったい何であったか、「それ」を人は何と呼んでいたのかが、恋という言葉を使わずに、表情だけで伝える(雨の日のレインコートの話とか、溶けたチョコレートとか)。

恋なんて遠い日のエゴのシーソーゲームだったおじさんにとっては、心臓がキュンするぐらい初々しい。二人には絶対に幸せになってほしいし、この恋の行く末を見届けるまでは死ぬわけにゆかぬ、第3巻はまだか! という作品。

お試しは[僕ヤバ]からどうぞ。読んで悶えろ、ニヤれ、溶けろ。

 

『零號琴』飛浩隆(早川書房)

読むというより、体験する一冊。

これは、エヴァとゴレンジャーとプリキュアのパロディであり、ナウシカとシンゴジとシンフォギアのリスペクトであり、どれみとどろろとまどマギの同人であり、火の鳥と寄生獣と日本沈没のオマージュである。

好きな人ならいくらでも幻視できる怪物のようなSFで、どこを読んでも、何を切り取っても、どこかで観た・読んだ過去の作品とつながり、思い出し、いま目の前で進行する美麗で壮大で禍々しくもバカバカしい物語にオーバーラップする。

どっぷり漬かりながら、ふと気づく。これ、小説でARを実現した人類最初の作品ではないかと。AR、つまり拡張現実(Augmented Reality)をテーマにしたというのではなく、この怪作を読むという行為そのものが現実を拡張していることになるのでは……

つまりこうだ。物語のフレームは、曰くありげな音楽家とその助手が、とある惑星で開催される假面劇の演奏を任されるのだが、とんでもない目に遭う……という昔ながらの設定であるものの、そこで展開されるネタや物語構造、舞台設定、セリフの端々、視線の動き(カメラのパン)、見得ポーズ、小道具と大道具、そして上演される劇そのものが、未来なのに懐かしい。

物語で進行する劇は既に伝説となっていて、假面をつけた観客が、現実にオーバーレイされた演出で鑑賞すると同時に、劇の登場人物の一人となる。観る者と演る者が重なり合い、劇そのものを改変し、校正し、編纂する。同様に、わたしの中のエヴァやマギカやナウシカの経験に、この物語がオーバーレイされる。物語に登場するキャラやモチーフに、わたしの記憶が重ね書きされるのだ。

この小説を読むことは、スマホをかざして見るときだけに現れる光景を眺めるようなもの。『零號琴』を通して記憶をたぐるときだけに現れる、(わたしが経験した)虚構に重ね書きされた現実を味わうことになる。

いうなれば、『零號琴』は、拡張現実(AR)というよりも、むしろ拡張虚構(Augmented Fiction)であり、スマホでありHoloLensのようなデバイスなのである。本書を顔の前にかざし、その世界に没入することで、自分が経験してきた虚構が、鏡のように映し出され、多層化され、レイヤー結合された後、上書き保存される。

もちろん、知らないネタがあっても大丈夫。もう一度読めばいいのだ。これ、二回目を読むと、「一周目を読んだときの経験」が今度は地の虚構現実となり、そいつに二回目の虚構が拡張現実と化す。ネタバレを知っている自分をネタとして読める。

物語に重ね書きされた「現実」を味わうべし。

 

『うたえ! エーリンナ』 佐藤二葉(星海社COMICS)

命短し、うたえよ乙女。

古代ギリシアの女学校を舞台に、女の子の友情と成長を描いた百合マンガ―――という噂で手にしたが、控え目に言って最高だった。こんなに面白いのに、なぜか1巻完結なので、不思議に思って調べたら、涙が止まらなくなった。

詩人になることを夢みるエーリンナと、親友のバウキス。当代一の女詩人サッポーの女学校に入ることになる。乙女のたしなみや花嫁修業そっちのけで、歌や竪琴に夢中になる。

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女性の自由が制限されていた時代で、それでも歌への熱い情熱を胸に、元気いっぱいのエーリンナに思わず微笑む。さらにツンデレ気味のバウキスとの友情が尊い。当時の結婚適齢期は15才、それまで女学校にいるわずかな時間のことを、自由時間(スコレー)と呼んでいる(後の「スクール」である)。エーリンナは13~4才くらいだから、本当に短く濃密な物語になっている。

劇中での同性愛は甘やかというよりも友情に近く、後に「サッフィスム(レズビアニズム)」と呼ばれる女性同士の愛情はあまり前面に出てこない(一方で、少年愛はしっかり演出されている。この濃淡は何だろう?)

古代ギリシャ人の同性愛は、男性同士のものであれば寛容だが、女性同士となるとほとんど言及されていない。ただし、サッフォーの作品だけが例外的に扱われている。その結果、サッフォーがその出身地であるレスボス島に因んでレズビアニズムの代名詞のようになっているのだ。

短く濃密な自由時間は、『うたえ! エーリンナ』で読むことができる。その一年後を描いたおまけが付いて、1巻ものとなっているのだが、完璧に終わってしまっている。続きも読みたいという声がAmazonレビューにもあるし、わたしもそう思う。 

なぜ1巻で終わるのだろう?

疑問に思って、『ピエリアの薔薇』(沓掛良彦、平凡社)を手にする。ギリシア詞華集選で、大詩人の作品から無名の俗歌まで、さまざまな歌が収録されている。ホメロスやサッポーのような大詩人になるのを夢見て、あれほど努力してきたのだから、ひょっとすると、エーリンナの歌が残っているのではないか?

わたしの仮説は正しくて、エーリンナの歌は残っていた。そのタイトルを見た瞬間、涙で何も見えなくなった。実は『うたえ! エーリンナ』は全話無料で[ツイ4:うたえ! エーリンナ]から読める(有料版のオマケがまた泣かされるが……)。これ読んでから、その理由を知ってほしい[続きはこちら]

 

『20世紀ラテンアメリカ短篇選』 ガルシア=マルケスなど(岩波文庫)

ボルヘス、アレナス、カサ―レスに釣られて手を出したら、全部あたりのアンソロジー。岩波の短篇集はハズレなしというジンクスを再確認する。

マジック・リアリズムは、「見えないもの」をどう扱うかが、ポイントになる。人でない存在、見えるはずもないものを「見る」となると、普通の幻想小説と、マジック・リアリズムは大きく異なってくるのだ。普通の幻想小説の場合、この「見えるはずもないもの」、すなわち不可視の「存在」を特定し、名付けようとする。幽霊や妖精的な「なにか」を設定しようとする。さらには、物語に「なにか」を組み込もうとする。

ところが、マジック・リアリズムのばあい、「なにか」という存在を必ずしも必要としない。もちろん精霊的な「なにか」をモチーフにする場合もあるが、必要条件ではないのだ。最初は会話交じりでシーンを描写しているため、主人公だろうと思っていたら、いつの間にか、窓の外へ漂い出る「なにか」の目線になっている。地の文が、いつの間にやらシームレスに「なにか」になっている。

主客の逆転、喰い合い、異なる時空の主体との重なりが、さらっと書かれており、気づかずに読み流した場合、一種サブリミナル効果のように働く。読み手は通り過ぎながら、言葉にできない違和感を抱き続ける。

他にも、ドアの前を通る一瞬で、部屋の中を詳細に見て、あるものを「二十七」と数え上げるシーンも出てくるが、主体はキャラクターの一人なのに、そこには名付けようのない「なにか」が入り込んでいる(そして「なにか」は特別視も言及もされないし、彼は特別な能力を持っているわけでもない)。

つまり、後にカメラが主体を捉えたとき、ぜんぜん違った場所に置いてかれて愕然とするような、欧米ならそれだけで小説になる驚くべき現象が、ごく自然に受け入れられてしまう。このズレが、人工的な眩暈を引き起こすのだ。

さらに、あとで振り返ると異常なのに、それが淡々と描かれる。何の説明も無く(しかし確信をもって)酷い最期に至る話が続々とある。出来事の異常さそのものよりも、異常の何気なさのほうに不気味になる。この、何気ない異常の感覚こそ、マジック・リアリズムの本質だ。よく読むと明らかにおかしい。だが、登場人物や作者はおかしいと感じていないように描かれるのだ。

よくある「日常と非日常の境界が曖昧になる」というよりも、むしろ、もともと境界はないのだ。だから、小説に落とし込むときに生ずる、「異様の扱いが異常とされていない」ズレが、一種の人工的な眩暈を引き起こす。

異常の何気なさと、人工的な眩暈を、お愉しみあれ。

 

『沙耶の唄』大槻涼樹、虚淵玄(星海社FICTIONS)

見るものすべてが汚辱にまみれ、腐臭をただよわせ、耳障りな音を立てている。そんな世界で「正常」なフリを強要され、できるだけ早く・なるべく楽に死ぬ方法を考えているとき、美しい少女に出会った―――グロゲーに見せかけた純愛に、何度胸を潰されたことか。

そして今年ノベライズされたことで、さらに古傷を抉られることになる。

手塚治虫『火の鳥』に、交通事故で脳に障害を負った男の話がある。絶望視されていたものの、大手術により普通の生活ができるようになる。しかし、それは見た目だけで、男は認識能力に重大な問題を抱えていた。男の目には、人が石ころのような無機物に、機械のロボットが美女に見えるように見える。だから男は、人ではなくロボットに恋をしてしまう。男はどうするか?

『沙耶の唄』は、そのクトゥルフ版になる。主人公の目には、世界が当たり前に見えない。人は腐った汁を滴らせる肉塊であり、壁や床はミミズと豚の内臓に埋め尽くされている。会話は成り立たず、キィキィ喚く音から類推するほかない。

グロ描写は『インスマウスの影』を彷彿とさせるが、異形の者を「異形」と片付けられないのが辛い。彼の目にどう見えていようとも、この世界で「正常」なのは彼らの方であり、異常なのは自分の方なのだから。

そんな壊れた世界で出会った、たった一人の存在が、沙耶だ。彼にとって、どれだけの救いとなっただろう。透きとおる肌と、しなやかな肢体を白いワンピースに包み、深夜の病院を徘徊する。聞けば、お父さんを探しているという。

彼は、藁にもすがる思いで、手を握らせてくれと懇願する。「変な人。そんなこと言い出したの、あなたが初めて」と言いながら差し出す白い手に、壊れ物を扱うように、そうっと、やさしく手を重ねる。

こうして始まる、淫猥で残酷で哀しい関係を描いたのが、『沙耶の唄』だ。彼は、おぞましい世界で、彼女を守り抜こうとする。『火の鳥』と似ているのは入口だけで、後は全く違う方向へ転がり出す。そのエロとエグさは虚淵玄ならではの一級品。

ゲームの雰囲気は以下から。スクリプトの部分は小説とほぼ同じなので、"試し読み”にもなる。ただし、かなりSAN値が削られるので、耐性なき方は行かないように。

君と僕の壊れた世界でどう生きるか? 覚悟完了の上でどうぞ。

 

『エレクトリック・ステイト』 シモン・ストーレンハーグ(グラフィック社)

不穏な画集とディストピア小説が融合した一冊。

巨大な建造物と歩行機械がたたずむなか、少女と黄色いロボットが行く。なぜか懐かしい異形に浸食された、アメリカ合衆国の終わり(始まり?)を眺める。少女とロボットの行く先で、HMD(ヘッドマウントディスプレイ)を装着した人だったものや、信じられないほど巨大な伝送路、自家製ドローンを見る。アメリカの田舎の住宅街にそびえる歩行要塞は、不思議と似合う。

「こちらの」アメリカでは、人体器官に接続されたHMDを経由して、遅延なしでドローンを操作する技術が発達している(いわば有機的なジョイコン)。人の脳細胞どうしをつないで巨大な神経マトリックスを組み合わせ、そこから集合意識が生み出されている。さらに、集合意識が物理的な形態をとろうとして、ドローン操縦者(すなわち人)の生殖サイクルに干渉した未来が、これだ。

既視感あるディストピアは、様々な作品を思い出させる。集合意識が第三の主体を生みだす背景は『攻殻機動隊』を、二人が行く遠景は『The Last Of Us』やマッカーシーの『ザ・ロード』を、そして少女とロボットの関係性は『CLANNAD』の幻想世界を彷彿とさせる。

アメリカが舞台なのに、「エレクトリック・ステイツ(states)」ではなく、なぜステイト(state)なのかと考えて、ぞっとする。これ、状態のステイトであり、一つの国家「電気仕掛けの国家」としての意味も持つのだろう。

作者はシモン・ストーレンハーグ(Simon Stalenhag)。日常的な光景と不穏な異物を等価にした世界観で、ストーリー性の高い作品を描いている。

グラフィックの一部なら、[Simon Stalenhag Art Gallery]で見ることができるが、なぜ少女が旅をするのか、黄色いロボットは何なのか、そして、旅の果てには何が待っているのかは、小説を追ってほしい。

翻訳が山形浩生さんだから購入したのだが、大正解でしたな。わたしが知らないスゴ本は、山形さんが訳してたというやつ。ハリウッドで映画化されるとのことだが、これも期待。続編『ザ・ループ』も出ているが、未読。手に取られた方は、感想を聞かせてほしい。

 

『せんせいのお人形』 藤のよう(comico)

わたしが知らないスゴ本は、読書猿さんが推していた。

すごい勢いでtwitterでお薦めしていたので読んだらスゴかった。「せんせい」と漢字を開いたタイトルと、大人の男+放心した少女の表紙にいかがわしさを覚えたのだが、予想していたものと違っていた(心が汚れている自覚はある)。

少女の名はスミカという。ネグレクトされ、親戚中をたらい回しにされていたのを表紙の男(昭明)があずかり、マイフェアレディよろしく育てる。『うさぎドロップス』が頭に浮かんだが、ぜんぜん違っていた。誰からも愛されることなく、流されるがままに生きてきたスミカが、彼の元で心を取り戻していく過程の一つ一つが胸に響く。

たとえば、スミカが名前を呼ばれるところ。名前を呼ばれるとは、その一人の存在を認めること。名前を呼ばれたことすらないということは、「いない子=いらない子」としてずっと生きてきたこと。自分の存在を認めることがない世界で生かされてきたこと。それがあたりまえだったスミカが、自分の思いを、昭明に向かって、身を絞るように吐き出す。そのセリフだけで胸がいっぱいになる。

あるいは、「なぜ人は学ぶのか」のわけを、スミカが自分自身で見つけだすところ。最初の「知りたい」から始まって調べていくと、どんどん「知りたい」が広がってゆく。数学について調べていたら天文学になり、歴史になり、科学になる。

誰にも顧みられず、孤独の中で生きてきたスミカが、知が有機的につながっていること、その真ん中に「知りたい」と思う自分がいること、そしてその気持ちを持っている限り、決して一人ではないことに覚醒するシーンは、読んでるこっちが戦慄した。ここ、読書猿さんの至言同じものを読む人は、遠くにいると同じだ。

昭明の、「それは君が手放さない限り 君をどこまでも連れていくものだ」「ほかの誰にも奪えないものだ」という言葉が刺さる刺さる。これは、タイガーウッズの母が、子どもに向かって言い聞かせていたセリフと同じであり、わたしが、わが子に向かって言い聞かせているセリフと同じだ。

変わってゆくのはスミカだけではない。彼女に挨拶を教え、礼儀を教え、本を読むことを教え、知る方法を教え、約束を守ることを教えてゆくうちに、昭明自身が変化してゆく。スミカが初めて(おそらく、生まれて初めて)家に帰ってきて、「ただいま」というのだが、このシーンは何度見ても泣いてしまう。これはスミカの魂の再生だけではなく、昭明の心、ひいては読み手の心を溶かしてゆく物語でもある。

最初の2話は無料で読める。[せんせいのお人形]からどうぞ。

 

『ニックス』ネイサン・ヒル(早川書房)

狂おしいほど好き。めちゃくちゃ笑い、泣き、怒り、嘆き、途方にくれ、ハラハラ・オロオロ・ドキドキしながら夢中になって読んだ、ユーモアと切なさに満ちた最高の一冊。

自分を置いて家を出て行った母と、それから数十年が経過した後、調べ始める息子のサミュエル。この二人を軸にして、それぞれの過去と現在を行ったり来たりしながら、物語は進んでゆく。最初は復讐心に駆られていたが、次第に分かってくる母の半生は、サミュエルが長い間信じていたものとは、全く違う人生だった。

小説を貫くテーマは、エピグラフにもある、盲人が象を語る話だ。

目の見えない人をおおぜい連れてきて、象に触らせる。ある者は鼻を撫で、別の者は耳を撫で、またある者は尾を撫でる……といった風に。そして、「象とは何か」を語らせたところ、てんでバラバラの答えになり、盲人たちは殴り合ったという話だ。物事や人物の一面だけを見て、それが全てだと理解してしまうことを戒める説話だが、SNSで噴き上がっている「盲人」を見るにつけ、今こそ広めたい教訓だ。

しかし、2人の人生につきあってゆくと、ある重要な事実に気づく。

見過ごされがちなのだが、盲人と象の話において一人一人の説明は正しいという事実だ。一人一人は偽りの象を語っているわけでない。それぞれ偽りの「象」像によって隠された、「真の象」というものが存在するわけではない。

そうではなく、それぞれにとっての「真の象」―――つまり、これこそが「真の象」だという思い込み―――によって隠された、一つの大きな象がいるだけなのだ。サミュエルの母は、さまざまな側面を持つ。生真面目で、怖がりで、でも大胆で、妻であり母であり女である。ある一面が真実だと確信することにより、別の、より大きな真実を覆い隠す。

それぞれの人生を支えている、隠されているより大きな真実は何か―――何度もやってくる物語のうねりの中でこれに気づくとき、ほとばしる感情を留めることができなくなる。涙とか感動というよりも、むしろ、彼女がどういう気持ちでいたかが堰を切ったようにわたしの身体を走り抜ける。

そして、人を理解するとは、(より大きな象が支えている)それぞれの真実の中で生きていることをひっくるめて、理解することなのだ……という結論に至る。それぞれが持ち寄った真実を理解するか否かの話だ。理解することは、憎悪することよりも、難しい。

ジョン・アーヴィング絶賛との謳い文句で手にしたが、大当たり。平成最後の、最高の海外文学長編として、自信をもってお薦めする。 

 

『MONUMENT あるいは自分自身の怪物』滝川廉治(ダッシュエックス文庫)

わたしの3倍読んでいる妻は、あまり誉めない・勧めない人なのだが、そんな彼女が、珍しく「これを読め」とお薦めしてきたのがこれ。妻のお薦めはハズレが無いことはわたしが保証するのだが、想像を遥かに超えて面白い傑作なり。

読み終えて疑問が湧きあがる、なんでこれが1巻完結なの!?

そう、巧妙な伏線&物語構成、ストライクゾーンど真ん中のキャラクターによる、「物語を純粋に楽しむこと」と、もう古典名作と言っていい小説や映画を、上手くまぶした会話や描写による、「読み手の経験に呼応する面白さ」が、絶妙に混ざっている。この面白さ、もっと長く味わっていたいと思うものの、1巻で完璧に終わらせている。

これ、やりようによっては、もっと長引かせることもできたはず。特殊能力を持つイケメン主人公(中身は暗い過去を持つゲス野郎)が、巨額の報酬に釣られ、魔法学校に潜入するために下工作をするのだが、完全にナナメ上の展開になるところで、丸々1巻を費やしてもいいはず。

魔法が組み込まれた「この世界」―――読み手であるわたしたちが住む歴史に、魔法という概念が併設された世界―――この説明の語りだけでも、優に1章使ってもいいのに、エピグラフでさらりと触れているだけ。

人類が火を熾すよりも先に、発火の魔術に目覚めた世界。

あらゆる理論や法則に、応用として個人の魔力資質の差異が組み込まれている世界。

ソクラテスもプラトンも、ベートーヴェンもモーツァルトも、フロイトもユングも、ヒトラーもスターリンも、手塚治虫も藤子・F・不二雄も存在していたけれど、魔法がある世界。

不思議な力が存在しても、結局は似たような歴史を歩んできた世界の物語。あまりにもさり気なく書いてあるので、魔法の位置づけだとか、魔法という法則に基づいた社会制度や規格、物理的制約などの説明が、軽く扱われた気になる。

だって主人公やヒロインの能力、実質的に無双じゃないか! 「この世界」は、読み手であるわたしの世界とずいぶん違うのに、まるで同じ様相に見える。ハードSFが(そのSF内で通用する)科学的厳密さを追求しているように、魔法的厳密さも書き込んで欲しいものよ。

いや、これはライトノベルだから、そこは聞かないお約束でしょう。などと、いったんは納得したのだが、まさか、このエピグラフが伏線だとは思ってもみなかった。

主人公(ゲス野郎)の暗い過去、進行する事件が牽引する「謎」、ヒロインが抱える苦悩、そして魔法的厳密さの不在―――これらが、MONUMENTと呼ばれる魔法遺跡の探索の果てに交わるとき、一挙に、一気に、タイトルとともに分かるようになっている。

カタルシスとカタストロフが同時に味わえる。Amazonレビューがまさかのネタバレだから注意して。

 


ノンフィクション


 

『タコの心身問題』ピーター・ゴドフリー=スミス(みすず書房)

タコから見た心の哲学。

生物哲学の教授であり、一流のダイバーである著者が、タコとの交流を通じて「心とは何か」「心はどのようにして"生じる"のか」を考える。進化は「まったく違う経路で心を少なくとも二度、つくった」という主張は、言い得て妙なり。

まず著者は、タコの「目」について注目する。高度に発達しており、網膜、角膜などの構造は、ヒトの目と物理的に似ているだけでなく、視神経が網膜の前に突き出しているため、盲点がない。遠い祖先は海かもしれないが、そこから出て目を進化させてきたヒトと、海の中で目を進化させてきたタコが、結果的に近似した目を持つというのが面白い。

これを専門用語で収斂進化と呼ぶという。異なるグループの生物が、環境や食物に適応し、系統に関わらず身体的特徴が似通った姿に進化する現象のことだ。異なる系統である鳥とコウモリの「翼」が似ているのと一緒やね。

そして、タコの生態や実験を紹介しつつ、ある種の「心」があることを考察する。この件がたいへん面白い。集めた貝殻で自分の”庭”を作ったり、状況に合わせて姿形や色を自在に変化させたり、閉まった蓋を開けたり、タコを知れば知るほど、「賢い」と見えてくる。

たとえば、野生のタコがココナッツの殻をシェルター代わりに使っているレポートを紹介する。半分に割られた殻を持ち運び、危険を察知すると上手に中へ入り込む「道具を使うタコ」は、youtubeでも話題になっていた。他にも、貝や竹を使って入り込む様を見ていると、「ひょっとして、ヤドカリを真似ているのでは?」と思えてくる。

一方で著者は、安易にタコを「賢い」とする姿勢に慎重になる。動物の「心」について考えるとき、人はどうしても自分の心を前提にしてしまいがちだ。単純な生物の「心」は、人の心を単純にしたものだとか、人が「賢い」と考える実験でもって動物の知性を測るといった「擬人化の罠」である。

著者は折に触れてこの罠を指摘する。たとえば、タコの脳の大きさでもってタコの知性を測ろうとするのは誤りだという。まず「脳の大きさ」は、単純な比較ではなく、身体サイズに対する比でなければならない。その場合、タコは不釣り合いなほど巨大な脳を持っていることになる。さらに、タコはニューロンの大半(およそ3分の2)を、頭ではなく腕に持っている。

つまり、タコは身体サイズからすると異様ほど大規模なニューロンを持ち、しかも独自の身体性の下で、頭からの指令と、自律した腕とが協調し、「タコであること」が成り立っているのである。巨大脳と大規模なニューロンは、タコの「心」の存在を示唆している。

 この「心」のありようについて、翻訳者も慎重に言葉を扱っている。原著のタイトル ”OTHER MINDS” の ”MIND” が複数形になっていることに注意を促し、日本語訳にあたっては、原則的に “mind” に「心」、”intelligence” に「知性」、”consciousness” に「意識」という訳語を当てて訳し分けている。

ヒトの場合、「心」は、学習や意識といった、主に「頭脳」に結び付けられる精神活動を指す。しかし、頭足類の場合、そうした機能は必ずしも「頭脳」だけに限らず、わたしたちが「腕」や「脚」と呼んでいる箇所にも及ぶ。ヒトの言葉をそのままあてはめるなら、タコは腕で「考えて」いることになる。

では、なぜタコは巨大な脳とニューロンを発達させたのか?

著者は頭足類の歴史をさかのぼる。その祖先は、身体を保護する貝殻のようなものを進化させ、初期の捕食者となったという。その後、殻を捨てて遊泳を始めたのが頭足類となる。そして、殻を失ったことによる脆弱性を補うために、高い知能を発達させたというストーリーだ。

つまり、タコはヒトとは異なる経路で、別のデザインで知能を得ており、いわば「心」の収斂進化が、少なくとも2度起きたというのである。この指摘は、たいへん興味深い。

頭足類から心の問題を分析する試みに魅せられて、『イカの心を探る』(池田譲、NHKブックス)と『ふらんけんフラン』(木々津克久、秋田書店)を読む。面白いことに、「知性」を定義しようとすると、必ずそこにヒトの存在が求められる(ヒトがいないと知的か否かの判定はできないし、ヒトを超えた知性は文字通り”人知の外”になる)。

この3冊の考察は、[『タコの心身問題』『イカの心を探る』『ふらんけんフラン』で頭足類の「心」を考える]をどうぞ。

 

『会計が動かす世界の歴史』ルートポート(KADOKAWA)

「損と得」という視点から見た人類史。

そこらによくある「会計の世界史」ではない。本書の焦点深度はもっと広く、お金と人との関わり合いをドラマティックに描くだけでなく、それを通じて「お金とは何か」ひいては「価値とは何か」についても答えようとしている。

そして、誤解を恐れずに言うと、「お金」が人を作ったといえる。

逆じゃね? と思うだろう。壱万円札を作ったのは人だし、その紙に「壱万円分の価値がある」(ここ重要)と信じているのは人だから。なぜ壱万円に壱萬円分の価値があるかというと、壱萬円の価値があるとみんなが信じているから。この「みんなが信じる価値」がお金の本質である。

そんな「価値」みたいな概念ではなく、金や銀といった貴金属がお金じゃないの? という疑問が出てくる。本書では、お金と人の歴史を振り返りながら、「みんなが信じる価値」と「お金」の関係に迫る。

たとえば、スペイン帝国がもたらした価値革命の例をあげて、金銀はお金というよりも、お金を計るためのモノサシだと答える。植民地化した中南米から大量の銀が持ち込まれた結果、銀という通貨の供給量が増え、大規模なインフレが発生する。すなわち、ヨーロッパでの銀に対する「みんなが信じる価値」が下がったのだ。

あるいは、最古の金融バブルと呼ばれているオランダのチューリップ・バブルや、詐欺師ジョン・ローが引き起こしたミシシッピ・バブルの話をする。彼が作り出した「利子付きのお金」は、良い意味でも悪い意味でも応用が利くだろう。欲望が欲望を生み、「みんなが信じる価値」が膨らんで弾けた出来事だ。

面白いところをつまみ食いするだけなら、[ペペラのバブル物語]を読めばいい(めちゃくちゃ面白いゾ)。だが本書では、「なぜバブルが弾けたのか」という問いを立てる。よくある答えが、「みんなが現実に目覚めたから」だろうが、本書は、そこからさらに踏み込み、「なぜ現実に目覚めたのか」という視点から、生々しい理由を炙り出す(p.173の解説は、あらゆる先物取引(の損切タイミング)に応用が利くだろう)

本書は、簿記の歴史を紐解きながら、「みんなが信じる価値」の本質に迫る。その分析の中で、ヨーロッパで発達した複式簿記と、日本独自の簿記の構造の共通点―――勘定科目を借方と貸方に分けて記載し、貸借を一致させるところ―――に注意を向ける。

あたりまえだろ? 誰かにとっての「借り」は、その相手にとってみれば「貸し」になる。千円借りたら、千円返さないと。ここに時間の概念を入れると、利子や償却といった要素が必要になるが、簿記の基本は、「貸し」と「借り」が一致することにある。

しかし、この「あたりまえ」こそが、ヒトを人たらしめた原因だというのだ。

社会的動物であるヒトが、そのコミュニティの中でうまくやっていくためには、個体を分別し、その個体が自分にとって得となるか損となるか判断する必要がある。仲間だから協調する部分もあるが、食物や異性の取り合いとなることが出てくる。

つまり、裏切ったり裏切られたりする関係性を続けながら、うまく生き延びる必要がある。場合によっては、自分に有利なときでも、仲間に恩を売ったほうがトクになることが出てくる。この協力と裏切りの駆け引きの中で、知性すなわち脳は進化していったという。

そこで重要なのは、身近な仲間を判別し、それぞれの「貸し」「借り」を理解し、記憶していくためには、高度な知能が必要となる。現代では、お金を貸したとき「貸付金」として登録しているが、昔は「貸した人の名前+金額」で債権を記録していた(人名勘定)。つまり、簿記の基本構造の中に、知性の進化の秘密が隠されているというのだ。

誰かに「貸し」を作ったら、それを報酬として受け取れるのは、返してもらえると信用しているから。以前に「借り」たものを返すのは、それをしないとコミュニティでやっていけないから。

その共通尺度が、「みんなが信じる価値」すなわちお金になる。時代によって、それは貝殻だったり金銀といった貴金属、あるいはデジタルデータとして計られるが、その計られる対象である信用が、知性を進化させたのである。

会計という視点で人類史を斬ると、その断面にお金の本質が見える。そして、お金の本質を簿記の構造から見ると、人の本質が見える。伏線と謎解きを張り巡らした、極上のミステリのような一冊。

 

『ウンベルト・エーコの世界文明講義』ウンベルト・エーコ(河出書房新社)

知の巨人ウンベルト・エーコの、十余年にわたる講義録。

美と醜、虚構と陰謀、絶対と相対など、抽象的なテーマを俎上にのせ、美学、数学、文学、音楽、哲学、神学、天文学を渉猟しつつ、フルカラーの図版を通して、具体的に迫ってゆく。ニュースやメディアで馴染んだネタから、ネットを駆使して追いかける必要のある美術作品まで、知的に振り回されるのが楽しい。

たっぷり知的興奮を味わったあと、見知ったはずの世界にある、見知らぬ裂け目に気づいたり、まるで異なる時代なのに、そこを貫く原理原則があったことを発見する。世界はもっとつながり合っているし、時代はもっと重なり合っている。人の営みは、かくも美しく、かくも醜いことを、あらためて知って驚く。

たとえば、「美」について。

「美とは何か?」と概念で問われると、答えに窮する。イデアのように「美しさ」そのものを指し示されたとしても、それが(他の言葉でいう)何であるかなんて、分かるはずもない。せいぜい、わたしが美しいと感じるオブジェクトを挙げるしかない。このあたりの機微は小林秀雄が上手いこと言っており、「美しい花がある、花の美しさという様なものはない」がそれだ。

ところがエーコは、もっと具体的に「美」に迫る。

美しいと考えられるもの―――それは絵画や彫刻といった美術作品だったり、美的体験を伝える物語だったりする―――を具体的に挙げてゆき、そこに共通したものを見出す。すなわち、「美は変わる」ことだ。

「美」が絶対的で不変的なものであったことは一度だってなく、それは時代や国によって、複数の異なる顔を見せてきた。これはオブジェクトが、男や女や裸体や景色といった物理的な美しさに限らず、神やイデアといった形而上的な美しさも然りだという。

さらに、美にまつわる様々なテクストを通じて、美の中にある価値観を救い出す。「美しい」という言葉には、「優美な」あるいは「崇高な」「素晴らしい」といった形容が含まれることを指摘する。「美しいものとは、それがみられたときに喜びをあたえるもの」なのである。

あるいは、「醜」についての考察も具体的だ。

美と同様に、醜も相対的であることは変わりないが、面白いのは醜は「美との関係性」において捉えられている点だ。醜とはすなわち、「美女と野獣」の変化形であり、いったん美の基準が定められると、ほぼ自動的に対応する醜の基準も定めるのが自然だと考えられてきたという。完全性と不完全性、秩序と秩序を壊すもの、といった風に。

ただし、こうした相対性から離れ、美の理想にふさわしくない、という理由で醜いとされる対象もある。たとえば、アドルフ・ヒトラーが20歳のときに描いた花瓶の絵を挙げ、エーコはこれを醜いとする。[これだ]

反感や憎悪、恐怖や不安の反応を引き出す要素があれば、それを「醜」だと定義づけることができる。美人とされる姿かたちは、時代とともに変化する。だが、美人の腐乱死体は普遍的に醜い。『美』は文化的背景の価値観を反映し、『醜』はその先にある「死」の概念をまとう。

この辺りの考察は、『美の歴史』『醜の歴史』に詳しい。ほとんどの人が「美は文化なり」に賛同するだろうが、では醜は? と訊かれると窮するに違いない。『世界文明講義』で予習して、美と醜の歴史に浸るのもまたよし。

知的冒険の一冊を、堪能すべし。

 

『乳房論』マリリン・ヤーロム(ちくま学芸文庫)

乳房をめぐる欲望の歴史。

人類史を振り返り、西洋を中心とした乳房をめぐる欲望の歴史をたどっている。乳房に対する概念は一様ではなく、それを求める人や時代や文化によって尊ばれ・蔑まれ・弄ばれてきたという。

著者は、乳房に対する視線、すなわち乳房がどのように見せられ、見られてきたかという観点から振り返る。絵画や彫刻、映画やポスターに現れる、ビジュアルとしての乳房だけでなく、詩歌や論文、プロパガンダに現れるレトリックとしての乳房にも着目する。さらに、乳房がその時代や文化圏でどんな役割を果たしたかという機能面にまで掘り下げている。

その背景には、「おっぱいは誰のものか」という疑問がある。すなわち、乳房を求めるもの―――乳児、パートナー、画家、詩人、医師、政治家、ポルノ業者、商人、司法家、宗教家など、それぞれの立場によって、乳房は様々な役割を担わされてきたというのだ。

たとえば、絵画におけるモチーフとしての乳房の変遷が面白い。ギリシャ・ローマ時代の彫刻における女性の美しさの理想が、ルネサンスを機に俗世趣味的なものとなったという。授乳する聖母の乳房から宗教的な意味が剥奪され、乳房は、あからさまな男性の欲望の象徴になったと主張する。

そして、ルネサンス期に生まれた価値観が西洋文明に根強く残り、乳房は女性ではなく男性を性的に興奮させる意図で美術や文学に取り上げられ、鑑賞者や読者に愉しみを提供したという。乳房に手を置く男性図はルネッサンス美術によくみられるモティーフだが、乳房の所有権は自分たちにあると考えている証左だというのだ。

絵画だけではなく、「理想的な美しさ」という大義名分隠されてきた補正下着の歴史や、おっぱいの商品化を促す豊胸手術の技術史、乳がんをめぐる医師と女性たちの医学史、おっぱいに集める視線を政治的に誘導させるプロパガンダのポスター、おっぱいを売り物にするポルノの歴史など、さまざまな事例を紹介する。

どの視点どの立場からしても、「おっぱいは誰のものか」という問いに対する答えは明白だ。おっぱいの持ち主のものに他ならない。だが、乳房の持ち主である本人が、自分のおっぱいをどう扱うかについて自由にできないことが問題なのだ。

これらを打ち破るものとして、ディーナ・メッツガーの写真が紹介されている。乳がんで乳房が片方になってしまった姿を映した、美しい写真だ。裸になったメッツガーは両腕を広げ、左右非対称の乳房を太陽に向けてさらしている。片側には従来の乳房、もう一方には切除痕に施した入れ墨が見て取れる。わたしは、これほど自由で力強い乳房を見たことがない。


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Deena Metzger as the Warrior
(cite from Jewish Women's Archive)

Jewish Women's Archive. "Deena Metzger as the Warrior Poster." (Viewed on November 26, 2019) <https://jwa.org/media/warrior-poster>.

本書は、芸術作品を元に歴史・社会学的な視点だったが、進化生物学のアプローチからおっぱいの歴史をたどると、さらに興味深い分析ができるに違いない。

たとえば、人類の祖先が四足歩行から二足歩行に移り変わるとき、女性の成熟度のバロメーターがお尻から乳房に代替されたと言われる。また、大きく張りのある乳房を持つ女性を選ぶことで、自分の子孫を残す確率を上げることができる(より多くの赤ん坊を育てられると見込まれるから)という説もある。

こうした生物学的な観点から振り返ったおっぱいの本を探していたら、骨しゃぶりさんが[おっぱいの本16冊]から『哺乳類誕生 乳の獲得と進化の謎』(酒井仙吉、講談社ブルーバックス)を紹介してくれた。ありがとうございます、読みます。

 

『測りすぎ』ジェリー・Z・ミュラー(みすず書房)

ミスが無い仕事を目標にすると、ミスは確かに報告されなくなる。

だが、ミスが無くなったわけではなく、隠匿化されているか、「ミス」の定義が変えられているだけ。これは、全国テストの成績、犯罪発生率、論文の引用件数など、様々な「測りすぎ」に見ることができる。

テストの成績や犯罪発生率は、カウントできる。「数」という比較しやすい値を出せ、場所や時系列といった軸で表現しやすく、Excelやグラフとの親和性も高い。その結果、カウントしやすい(加工しやすい・グラフ映えする)数が重視される。バロメーターの1つであり、ひとつの判断材料にすぎない測定値が、目標にすりかわる

この、測定値という「手段」が、本来それを役立たせるべき「目的」になるメカニズムを描いたのが本書だ。

世間でまかり通る、こうした測定基準が、本来の役割(実態のバロメーター)から離れ、目標そのものと同一視されるようになる。さらに、目標を達成するために測定基準がゆがめられ、数字に振り回せされる顛末が、これでもかと書いてある。現場を見ずに数字だけを見る馬鹿マネージャーは、どこにでもいる。

ただし、馬鹿には馬鹿なりの理屈がある。本書は、その理屈を徹底的に掘り起こす。

マネージャーとして求められるものは、その成果になる。自分がそこに就いて、どれほどの実績を出せたかどうか、説明責任がある。この「説明責任」が厄介な問題だという。

説明責任(アカウンタビリティ)は、もともと「自分の行為に責任を負う」という意味のはず。だが、一種の言語的トリックによって、測定を通じて成果を示すことに変わっていったという。あたかも、大切なのは測定できる(カウントできる)ものだけであり、測定できないものは埒外と扱われるようになった。

成果主義の風潮と、短期に目に見える結果を出すプレッシャーにさらされると、「カウントしやすい」数値目標を追い求めるようになる。実態は複雑で、その成果も複雑なのに、簡単なものしか測定せず、その数値こそが実態を完全に表していると思い込む。

そして、その数値でもって報酬や懲罰、格付けの基準とみなすのだ。馬鹿マネージャーの思い込みは、下々のものへは「数値目標」という形で上意下達される。

すると何が起きるか? その数値―――テストの成績や、犯罪発生率、論文の引用件数―――だけを良くすることが仕事になってしまうのだ。

たとえば、学力の低い生徒を「障碍者」として再分類し、評価対象から排除することで、成績の平均を引き上げる。「犯罪率を20%下げる」という目標は、記録される犯罪件数を20%に減らすため、未満・未遂に格下げされる。

これらは、マネージャーが、一生懸命「仕事ごっこ」をしている結果である。そもそも何のために測定しているかをはき違え、温度計を温めれば凍えずに済むと思っているかのような行動をとる。こうした仕事ごっこの実体を紹介し、そこから抜け出すための方法を提案する。溜飲を下げつつ、どう取り組むと良いかを考える一冊。

 

『ウイルスの意味論』山内一也(みすず書房)

「ウイルスという先入観」を崩し、生命とは何かにまで迫る一冊。

それまでは、病原体という観点からウイルスを観察してきた。だが、研究が進むにつれ、それは歪んだ偏見に過ぎないことが分かってくる。本書は、ウイルスの驚くべき生態と共に、生命そのものの定義を書き換えていることを明らかにする。わたしたちは、ウイルスに囲まれ、ウイルスを内に保ち、ウイルスと共に生きている。これ、教科書が変わるレベル(パラダイムシフト)なり。

たとえば、ミミウイルス。1992年に発見され、「ウイルスは細菌より小さい」という常識を覆した巨大ウイルスだ。

そして、ひとたび「非常識な」巨大ウイルスが見つかると、ここ十年でラッシュのように巨大ウイルスが発見されるようになる。シベリアの永久凍土に眠っていた3万年前のウイルスから、セーヌ川、ビルの冷却水、ハエの複眼、コンタクトレンズの保存液など、そこらじゅうで「非常識な」巨大ウイルスが見えるようになる。

奴らは別に隠れていたわけでなく、われわれが「見て」いなかっただけなのだ。それは、病原体として研究してきたウイルスのサイズが、「ウイルスは小さいという先入観」を作り出していたにすぎない。

あるいは、メッセージをやり取りし、コミュニケーションをするウイルス。ウイルスは細胞に取りつき、増殖するだけの単純な存在だと見られてきたが、ファージ(細菌に感染するウイルス)同士でペプチドをやり取りすることで、細菌の生息密度を伝える集団感知システムが紹介される。枯草菌に感染したファージの数が一定数になると、細菌を溶かすようになるのだが、この溶かす/溶かさないを決定するペプチドを、ファージがメッセージとして放出しているというのだ。

他にも、ウイルスに寄生するウイルスや、致命傷を負っても、DNA部品をかき集めて損傷した自分自身を再構成するウイルスが紹介される。これまで、ウイルスを無生物のような単純なものと見たり、「生物と無生物のあいだ」的な存在として扱ってきたことが、「ウイルスという先入観」を生みだしていたことに気づかされる。そして、ウイルスという先入観が、生物の定義を限定的にしていたことが分かってくる。

なんのことはない、ウイルスを単純な存在だと見なしていたヒトこそが、見えてるものが全てだと思い込むくらい単純な存在だったのである。そして、それに気づくくらい「見える」ようになったのである。

ウイルスの興味深い振る舞いから始まり、「生命とは何か」の根幹に衝撃を与え、さらには世界の「見え方」が変わってしまうことを請け合う。

 

『現代の死に方』シェイマス・オウマハニー(国書刊行会)

現代医療の最前線から見た死に方。

死に方に良し悪しはあるのか? 本書は「ある」という。

上々の人生だったのに最悪の死に方をする人もいるし、悲惨な人生だったが最期は安らかだったという人もいる。総合病院の医者である著者は、さまざまな死を扱っているうちに、ある結論に達する。それは、「死に方を助言することは、生き方を助言するくらい難しい」である。

にもかかわらず、本書を著した理由は分かる。「悪い死に方」が多すぎるのだ。本書を手にしているあいだ、「あなたは、自分の死に方について、あまりにも楽観的すぎる考えを持っているのではないか?」と問われているように感じた。どういう風に死にたいかと、どういう風に死ねるかは、全く違う問題なのだ

たとえば、「普通の死」と言われて思い浮かぶのは何だろう。

事故死や殺害されるようなものではなく、老衰か、病気か。苦痛は無いほうがいいし、できれば自宅で、家族に囲まれ、友人に別れを告げて、惜しまれながら、穏やかに最期を迎える―――だが、現実は違うという。それは「理想的な死」であると考えたほうがいい。

現代医学は、死を表層から遠ざけようとし、死の好ましくない部分の隠蔽に成功したが、まさにそのことが現代人にとっての死を空想じみたものにしているという。

わたしは、終末期にどのような医療を受けるか(または受けないか)を記したリビング・ウィルがあればと考えていた。だが著者は、「死に方を自分で決められると思い込んでいると、結局は自滅する」と警告する。手筈通りに死ぬというのは、かくも難しいというのである。

著者はさらに、死の医療化に警鐘を鳴らす。意識が混濁した本人に代わって、「手を尽くしてください」と訴える家族のプレッシャーに押され、濃厚医療を施し、人生の最後の最後になって、無理やり生かされている状態である。生きているものは死ぬ。これはあたりまえのことなのに、死に近くなればなるほど、本来は医療問題ではなかったことが、医療として扱われ、治療の対象となってくるというのだ。

そして、胃ろうで栄養を与えるのは、患者のためというよりも、むしろ社会から死を隠すため、家族と医者の感情的&経済的な問題を解決するため……という結論をぶっちゃける。トドメに、死を前にしては、名声も、財産も、知性も、品位も、何も役に立たないことを、スーザン・ソンタグを始め、さまざまな哲学者や思想家の事例もとに暴き立てる。読者は、こうした「手に負えない死」の事例をつきつけられ、暗鬱となるかもしれぬ。

だが安心してほしい(?)。本書には、「医者が薦める良い死に方」というものが紹介されている。医者が薦める死に方というのは奇妙な物言いだが、仕事を通じて日常的に死に接している医者が、「自分ならどう死にたいか?」について、率直に答えているものだ。[ここ]にまとめたので、参考にしてほしい。

よい死に方で、よい人生を。

 

『戦争の世界史大図鑑』R.G.グラント(河出書房新社)

古来、歴史とは戦史を指す。人類の歴史が始まって以来、人は常に戦ってきた。

古代から現代まで、戦争の歴史を俯瞰する本書を眺めていると、どの時代であれ、必ずどこかで戦争が行われていることが分かる。戦争がない世界の方が例外であり、戦争が人間の常態なのだ。

本書は、記録に残っている各戦争の年月日に始まり、原因・経過・結果・影響を概説している。さらに、決戦が行われた場所の地図や戦術構成、兵力、戦闘技術、死傷者数といった基礎史料を網羅している。

本書が優れているのは、徹底的なビジュアルにこだわっている点にある。オールカラーで構成されており、の多彩な写真、絵画、地図、図解などを駆使して、多角的かつ斬新な視点から、戦争を捉えようとしている。

さらに、年代も場所も広範囲にわたって概説しているため、どんどんページをめくっていくことで、「いつ」「どこで」を取っ払って、「どのように」人は争ったのかに着目することができる。そして、時代を超えた視点から、全く別の時代の戦闘どうしの類似点やアイデアが浮き彫りになり、見るたびに発見がある。

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見ていると惹き込まれる日本刀

たとえば、優れた将軍は、時代を超えた特質を備えていると指摘されている。チンギス・ハン率いるモンゴル騎馬軍と、1940年春にフランスに侵攻した装甲師団との間に類似性を見出し、機動力が戦闘と決する事例として紹介されている。

あるいは、敵軍包囲という古来の戦法は、古代ローマの世界でも第2次世界大戦でも等しく奏功しているが、5千年分の戦略図を眺めていると、戦いとは畢竟「どのように敵を包むか」のせめぎあいであり騙し合いであることが見えてくる。

テクノロジーが変えた戦争も興味深い(ここが一番面白い)。

たとえば、古代ローマとカルタゴが争ったポエニ戦争。初期はカルタゴが制海権を握っており、陸戦が本業のローマ軍は、海戦での経験が圧倒的に不足していた。ローマ軍はコルウスという鉤の付いた乗船橋を開発し、カルタゴ軍のガレー船が近づくと、ローマ軍はコルウスを落とし甲板にめり込ませ、それを渡って軍団兵が大挙して乗り込んだのだ。

つまり、船を操る海戦を、ローマ軍が最も得意とする陸上に変えてしまったのだ。この件は、『ローマ人の物語 ハンニバル編』(塩野七生、新潮文庫)で予習していたが、本書で指摘されているのは、軍の凄さだけでなく、ローマ人の工学技術と発明の才能である。

小火器(火打石式銃からアサルトライフルまで)の変遷は、歩兵の役割の変化の歴史であることも分かる。銃はいわゆる「飛び道具」だから、弓兵のような立場だと考えていた。だが、銃器の精度や射程距離が伸びるまでの間は、弓兵よりも槍兵のような立ち位置であったことが分かる。

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ナポレオン時代の小火器

つまり、遠距離(弓)と至近距離(サーベルや刀)の間にある、ミドルレンジを槍兵が担っていたのだ。16世紀の欧州が境目で、マスケット銃で武装した歩兵が増えるに従って、槍兵の占める割合が低下したという。

同時に、銃器に対する防御効果がなくなったため、甲冑の人気が衰えていったのも興味深い。テクノロジーが装備を変えた顕著な例だろう。16世紀の伝記作家は、「戦争でこのような武器が使われるとしたら、騎士が武器を扱う腕前や、強さ、不屈の精神、規律はもはや何の役にも立たない」と嘆いたが、21世紀のドローンによる遠隔攻撃について、同じ嘆きが繰り返されているのかもしれぬ。

戦争は文明より古い。戦争の変化の歴史が、人類の歴史と、ぴったりと重なっている。人類の様々な創意工夫は、戦争によりきっかけを得、数多くのブレイクスルーにつながった。その変遷を本書でざっと見るだけでも、ブレイクスルーどうしの繋がり合いに目を見張るだろう。

戦争から人類を知るための一冊。

 

『不道徳的倫理学講義』古田徹也 (ちくま新書)

人は、行為と結果を結び付けたがる。善人には報酬が、悪人には報復が与えられ、災厄に見舞われた人には埋め合わせとする幸福が与えられると思いたがる。

だが、現実は違う。人は、善行・悪行に関係なく、「たまたま」良い目・悪い目に遭う。善悪と幸不幸が同期しない。現実は、むしろ運に左右される。この、「たまたま」が厄介なのだ。

だから、善悪を語る場から、運を排除しようとする。宗教や神話は、「神意」や「天命」と呼ばれる神の意志=運命を取り入れ、前世や来世の因縁で語る。善悪と幸不幸は同期しているが、それは前世からの報いであり、来世へ持ち越されるという理屈だ。

では、善悪を語る倫理学の場では、「運」はどのように扱われるのか?

「道徳と運」をペアで語れる哲学者は少ない。ほとんどは、運の要素に目を背けて、道徳の側面を語りたがる。

実際のところ、理想は道徳が支配し、現実は運に左右される。道徳を否定するものが運であり、運に抗うものが道徳である。「不道徳」とはすなわち「運」なのである。道徳と運は、いかにも相性が悪い。

『不道徳的倫理学講義』では、この食い合わせの悪い「道徳と運」に真っ向取り組む。タイトルの「不道徳」は「運」を指し、いわば「運」を倫理学で解く講義になる。確固とした道徳理論を語る哲学者たちも、「運」の要素から見ると、みな苦戦している(または見なかったことにしている)。

本書は、因果応報の神話を真実だとし、運の問題を回避したプラトンや、道徳をめぐる問題圏から運の要素をどこまでも排除しようと試みたカントを紹介しながら、「運とは何か」に迫る。

そんな中で異彩を放つのは、トマス・ネーゲルの「道徳的運」だ。

そもそも「道徳」の原理は、個人の自由意志に基づいて選択した行為に対し、責任を帰するところにある。一方「運」とは、個人の意志では制御できない偶然的要素であるが故、責任を帰せないことを指す。だから、「道徳と運」は排他的な存在なのかもしれぬ。運が通れば、道徳は引っ込むのだ。

ネーゲルは、道徳的な義務や責任を負うべきなのは、個人の意志で制御できる行動においてだけだとする。そして、個人で制御できないのだけれど、道徳的な判断の対象として扱われるものを、道徳的運と名づける。

「たまたま」良い結果になった・悪い目に遭った場合、いずれも個人ではどうしようもない。そうした運一般のうち、道徳的に責任が問われるものが、道徳的運という訳である。医療過誤や交通事故において、「注意義務違反」と呼ばれる行為を見ていくと、こうした個人ではどうしようもないが、悪い結果を引き起こしてしまう要素があるというのだ。

もし現実が、個人の意志で完全に制御でき、運の要素が一切入らない均質な世界であるのなら、行為が引き起こした結果を全て引き受ける責任が生ずるだろう。

だが、現実はそうではなく、個人ではどうしようもない状況が「たまたま」起きることがある。また、非難されることは一切していないにもかかわらず、起きてしまったことが「たまたま」悪いこともある。

だから、行為と結果の間には、完全な因果だけしか成り立っていないわけではなく、運の要素がついてまわる。現実は、均質な世界ではないのだ。これを無視して、「個人の意志で制御できたならば、悪い結果にならなかった」として、個人に責任を求めるには無理がある。ネーゲルの道徳的運という考え方は、現在は常識とされる現実の不均質な面を浮き彫りにしている。

道徳と運、ままならないものをどのように扱うかについて考える一冊。

 

『暴力と不平等の人類史』ウォルター・シャイデル(東洋経済新報社)

人類を平等にするのは暴力だということを、ファクトフルに証明した一冊。

貧富の差は拡大する一方。一向に格差の是正が進む気配はない。日本に限った話ではない。北米、南米、中国、東南アジア、アフリカ……世界中、至るところで格差は絶賛拡大中だ。格差の拡大は、人類社会の宿命なのだろうか?

古今東西の不平等の歴史を分析した、ウォルター・シャイデル『暴力と不平等の人類史』を読むと、これは事実ではないことが分かる。たしかに貧富の不平等はあるが、これを一掃する平等化が果たされる。人類の歴史は、不平等の歴史でもあるが、平等化の歴史でもあるのだ。

本書の目的は、この平等化のメカニズムを解明するところにある。データと史料とエビデンスでもって緻密に徹底的に分析する。

まず著者は、不平等は人間社会の基本的特徴だという。人類が食糧生産を始め、定住化と国家形成を行い、さらに世襲財産権を認めて以降、不平等が進むのは既定の事実だと述べる。なんとなくそうではなかろうかで済ませがちだが、著者はあくまでデータで示す。

著者は、この貧富の差を解消し、不平等を大幅に是正する存在があるという。

その最たるものが戦争だ。それも国家レベルで大量動員し、国土を焦土と化すほどの大規模なものだ。物理的な破壊のみならず、没収的な課税、インフレ、政府規制などにより、エリート層の富は消え去る。

著者は、戦争の規模とそれが平等化の是正に与える影響をデータでもって示してくれる。なかでもヨーロッパ史上最大の平等化装置となったのは、第2次世界大戦だという。

欧州だけでなく、日本における不平等も、太平洋戦争が解消してくれたと分析する。戦争が行われている間、政府規制、大量動員、インフレ、物理的破壊が、所得と富の分配を平準化した。戦後になると、財閥の解体による私有財産の再分配が行われ、農地改革による地主制度が根絶したという。これに加え、海外資産の喪失と金融の崩壊により、富は紙になった。

太平洋戦争を境に、日本のジニ係数は大幅に低下している。何百万もの人命と、国土に甚大な被害をもたらした戦争が、結果として、他に見られない独自の平等化をもたらしたというのだ。

ただ、あらゆる戦争が平等化をもたらすかというと、違う。近代以前の略奪と征服を特徴とする伝統的な戦争は、たいてい勝者側のエリートに利をもたらし、急激に不平等を拡大させていた。さらに、戦争規模が小さい場合、平等化は一時的なものにすぎないという。格差解消のために戦争を求める声もあるが、徹底的な破壊と大量の血が必要となりそうだ。

他にも、全国民を貧民にする「革命」や、「国家の破綻」、さらには「伝染病の大流行」を加え、「平等化の騎士」と名づける。読み手の主張が何であれ、どれだけ不都合であろうとも、いったんはファクトとして受け止める必要がある。

すごいすごいと読んで打ちのめされる一方で、どうしてもぬぐえぬ違和感があった。それは、「平等化」をジニ係数や上位1%で見る視点だ。

わたしは、「平等化」とは、富の分配の話だと考える。単純に、富める者から貧しい者へ、富を分配すればいいのに、人類はそれをするのが不得意だ。一方、平等化の四騎士は、極めて得意だということが、本書の主張である。

しかし、そこでなされていることは、「富の分配」ではなく、富の破壊である。戦争、革命、崩壊、疫病の現場において、エリートは奪われる富を持っていた。だが、貧乏人は奪われるといったら命しか残っていなかった。

生き残ったエリートは、富の大部分を失い、生き残った貧者は、生産設備に対する労働力の相対的な価値が上がり、賃金が上昇した。これを数字にすると、ジニ係数の低下になるが、死んだ人は「貧者」としてカウントされない(文字通り、死人に口なし)。違和感の正体はこれだ。

平等化の四騎士がやっていることは、富の破壊であるだけでなく、貧者の口減らしでもある。ジニ係数だけを見ていると、貧者が奪われるものを見失うだろう。

 


2019ベスト「フィクション」


 

『フラナリー・オコナー全短篇』フラナリー・オコナー(ちくま文庫)

ひとつひとつ読むたびに、重いもので殴られる感覚なので、感情が丈夫でないと辛い。それでいて、胸の奥まで抉り込まれた痛みが、一生刺さったままになる。O.ヘンリーの驚きと、ミヒャエル・ハネケの悪意の、幸福な結婚を味わえる。

最高に嫌になれる「善人はなかなかいない」は、人生で3回読んだが、3回とも感情が違う。わずか20ページと少しなのに、一生刺さったままになる。

「善人はなかなかいない」は、おばあちゃん、息子と妻と子の家族が、自動車旅行に出かけた先で、大変な目に遭う話だ。

最初に読んだときは、驚いた。これで終わりにできるのか、と唖然とした。なにかの間違いであってほしいと願った。だが、どんなに目を凝らしても間違いはなく、運命は無慈悲だ。

次に読んだときは、おばあちゃんに注目した。イエスキリストを信じ、自分を善なる存在だと疑わない。独善的という言葉がぴったりだが、そう言われても自分のことだと絶対に理解できない人間、いるだろ? まさにそれだ。

そんな人が信じるものが揺らぎ、崩れる瞬間を観察する。物語の最後になっても、おばあちゃんは変わらない。言葉によっても行動においても、完全に屈しているのに。この独善を、信心深い田舎者の愚かしさと見なすこともできる。

だが、おばあちゃんは馬鹿ではない。認めたくはないが、自分がした過ちは理解できている。しかもそれらは、自らが信じていたものと何の関係もなく、それでいて自分の運命を完全に変えてしまうことも理解できている。

それでも、信じていたものを信じていようと振舞う。やっぱり神様なんていなかったね。何度読んでも運命は変わらない。わたしが驚いたのは、そうした無邪気な愚かしさを、まんま信じていたからだろう。

そこに描かれる運命は、別に理不尽なものではない(「理不尽」として片づけたいけれどね)。おばあちゃんを通じて、わたしが信じ込んでいた世界とは違っていたから、唖然としたにすぎぬ。

そして、今回読んだときは、全く違った感情を抱いた。なぜなら、作者のこの言葉を目にしたからだ。

私の作品では、人物たちを真実に引き戻し、彼らに恩寵の時を受け入れる準備をさせるという点で、暴力が不思議な効力を持つ。人物たちの頭は非常に固くて、暴力のほかに効き目のある手段はなさそうだ。真実とは、かなりな犠牲をはらってでもわれわれが立ち戻るべきなにかである。

恩寵(grace)とは一般に、神のめぐみや慈しみのことだ。神を信仰する心こそが恩寵の賜物だから、これはおばあちゃんの信仰を試し、裏切られる話なのか? 恩寵を失う(fall from grace)話なのかも……と考えた。

しかし、わたしの考えは間違っていた。

もう一度読むと、ラスト2ページの数行を、完全に見落としていたことが分かった。ここだ「おばあちゃんはその一瞬、頭が澄みわたった。目の前に、泣きださんばかりの男の顔がある。男に向かっておばあちゃんはつぶやいた」。

次の瞬間、おばあちゃんは、完全に正しいことをする。偽善を被ってきた自覚すらなく、愚かな言動をくり返していたにも関わらず、おばあちゃんは、(おそらく)イエス・キリストがしたことと同じことをする。

もちろん、おばあちゃんは磔にされてなどいない。しかし、もしイエス・キリストがその場に立っていたならばしたであろう、まったく同じことを、おばあちゃんは口にして、行動する。

おばあちゃんは、自分が信じていたものが、これから自分に降りかかる運命に、何の関係もないことを知っている。どんなに信仰心が篤くても、何の役にも立たないことを、完全に理解している。その上で、恩寵を得る。

この瞬間にシンクロしたとき、世界が一変した。

何回読んでもおばあちゃんの運命は変わらないが、彼女は(神様抜きで)恩寵を得ており、赦してすらいるのだ。わずか一瞬なのだが、彼女が手にしたものに、ほとんど触れられるくらい近いところに居られる。これは、読むことでしか経験できない感覚だ。

読むことは経験することだ。ほとんどあらすじも示さず、わたしの「感情」だけを延々と吐き出したが、オコナーの小説はそうやって示すしかないと考える。

なぜなら、そうやってでしか経験できない作家だからだ。

作品にはテーマや書かれた理由があって、その「作品の意味」なるものを読み解く―――それは教室で読むには正しいが、このやり方だと、オコナーは「グロテスクと暴力で人の醜さを暴く作家」になってしまう。

もし、いわゆる読み屋がやる「あらすじ+意味=評価」のような読み方だと、きっとこの「感情」にたどり着くことができないだろう。いや、読み返すことすらしないに違いない。

しかし、オコナーは違う。説明的な言い換えに抵抗し、鈍器のように胸を打つくせに、感情の深いところまで刺しにくる。「善人はなかなかいない」の他に、この作品が刺さったまま。一生かけて読み直す。

  • 人造黒人
  • 田舎の善人
  • 強制追放者
  • ゼラニウム
  • すべて上昇するものは一点に集まる
  • グリーンリーフ
  • 森の景色
  • 家庭のやすらぎ
  • 障害者優先
  • 啓示

ずっと積読状態だったオコナーの短編集、読もうとしたきっかけは、三柴ゆよしさんの読書会だ。『聖書』や『黄金伝説』にまつわる説話が背景にあるという、キリスト教に詳しい人のコメントや、「ここぞ!」というときに色彩をぶっ込んでくる光景描写(エル・グレコみ)があるという指摘、共感性羞恥がある人にはキツすぎるなど、たいへん面白くタメになりました。まとめは、[フラナリー・オコナー『全短篇』(ちくま文庫)読書会まとめ]をどうぞ。

三柴さん、参加の皆さん、ありがとうございました! 2020年は筋力を鍛えて鈍器部に入ります。

 


2019ベスト「ノンフィクション」


 

『ヨーロッパ文学とラテン中世』E.R.クルツィウス(みすず書房)

[読書猿さんとの対談]がきっかけで手に入れたのだが、これに出会えて本当に良かった。

本書を一言で表すなら、「ヨーロッパについて語るときに我々の語ること」である。ヨーロッパとは、地理的な名称に閉じず、歴史と文化と伝統をひっくるめた、「ヨーロッパ的なるもの」の統一体になる。

私たちが知る「ヨーロッパ的なるもの」は、様々な形態を取る。ネットやメディアを通じて目にする姿や、そこで発信・受信される言葉や概念、あるいはヨーロッパが影響を与えた様々な事物といったものになる。私たちが話したり考えたりする言葉・概念も、自覚無自覚に関わらず、大なり小なり影響を受けている。

こうした「ヨーロッパ的なるもの」は一日にして成立したものではなく、昨日から始まり、先月、昨年、千年二千年以上前から受け継がれてきたものだ。

昨日から引き継がれたのであれば、ネット経由の情報かもしれない。だが、時代を遡るほどその引継ぎは変化してゆく。詩学や文学、韻文といった形態の変化や、音声や文字といった方式の変更、さらにはそれらを乗せるメディアも、書籍、手紙、口伝、祭りなどの媒体も変遷する。

この営みをまともにやろうとすると、百科事典になってしまう。ヨーロッパ百科事典だね。そして、一人の仕事ではとうてい無理な相談だ。世代を超えた大事業になってしまう。

しかし、著者クルツィウスは、これを文献学(フィロロギー)で成し遂げる。過去から脈々と引き継がれてきた知的遺産を掘り起こし、光を当て、それらが現代にどのように連結されているかを明らかにする営みだ。これを「ヨーロッパ」にまつわる言語と思考の全部でやったのが凄まじい。

しかも、抽象的なものではなく、すべて具体的な事例でもってくる。時間と空間を越えて、繰り返し表れてくる共通化された概念やイメージをすくいあげるのだ。ある連想や情念に結び付けられる定型的な表現をトポスと呼び、古代から現代に至るさまざまなトポスの網目を編集する。それは、レトリックや常套句だったり、コミュニケーションや表現の技術だったりする。

たとえば、「象徴としての書物」の章。書かれたもの―――書物が、どのような比喩で扱われてきたかを振り返ると、興味深い事例が見つかるだけでなく、今でもその比喩が生きていることが分かる。ギリシャ、ローマ、聖書、シェイクスピア、ゲーテ、ダンテ、自然という書物と縦横無尽に行き来しながら語り尽くす。

そこでは、ソクラテス「書かれたものは隠喩にすぎず、口頭による言辞こそが魂のうちに書き込まれる」といった話から、何かを記し、留めようとする行為のはかなさを「水の中に書き込む」という表現がある(今なら、「砂に書いたラブレター」だね)。

人間の顔を、そこから思想を読み取る一冊の書物のように喩えるのは、12世紀のアラヌスが最初だと言われているが、人口に膾炙したのはセッティメロの悲歌がきっかけだとし、その歌を引用する。「顔貌は内なる状態の書物であり、ページである」で終わる詩を読むと、「40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て」や「性格は顔に出る」といった寸言、あるいは『ジョジョの奇妙な冒険』のヘブンズ・ドアーを思い出すだろう。

あるいは、ガリレオの「自然という書物は数学の言葉で書かれている」にある、「自然という書物」について。この言葉の背景には、そもそも自然という存在が、語彙と文法を理解すれば読み解ける書物のような存在だという思考フレームが横たわっており、これもラテン由来だという。著者は、それを指摘したのが誰で、いつどのように広まり、誰がそれを改変していったかの歴史を、人名と作品と引用で埋め尽くす。

固有名詞に馴染みがなくても、そこで扱われているトピックはピンとくる。どれほど時代が変わろうとも、私たちの思考フレームは使い回されていることが分かる。それも、圧倒的な事例でもって分からせてくれる。

「ヨーロッパ的なもの」について読んでいくうちに、自分の思考の内側にあり、あたりまえすぎて気づかなかった思考ルーチンを、歴史的な事例で知る。そして、天の下に新しきものは無いことが分かってくる。

完全に新しい言語運用、ど新規の概念フレームワークなんてものはなく、わたしたちは、それまで積み上げてきたもののうち、互いに了解しあえるものを選び取った上で、話したり書いたりしているにすぎないことが見えてくる。その「あたりまえ」の背後に目を向け、自分を知り直すための本としても使えるのだ。

さらにはタネ本としても使える。ここで出てくるトピックを核にして、別のストーリー、プロットを生み出すことができるだろう。それらはきっと、見た目は新しかろうと、本質は変わっていない。だから、古来と変わらぬ魅力を持つに違いない。

読書猿さん、一生もののスゴ本を教えていただき、ありがとうございます。

Sugohon2019
この本がスゴい!2019ベスト

 


スゴ本2020


人生は短いのに、読みたい本が多すぎる。

「あとで読む」と積んでおいても、あとで読まない。これは真実だ。だからわたしは、いま読む。

とはいいつも、昨年からの持ち越しも山積みだ。Sabine Hossenfelder ”Lost in Math” とウィトゲンシュタイン『哲学探究』は絶賛放置中だし、ノース&ウォリス&ワインガスト『暴力と社会秩序』とナボコフ『アーダ』は積山だ。葦原大介『ワールドトリガー』は追い付いたけれど、林田球『ドロヘドロ』は追いかけている途中だ。

新たに積み上がっているのが、日向夏『薬屋のひとりごと』と小川一水『天冥の標』、そしてR.R.マーティン『氷と炎の歌』の巨大な山だ。読む前から絶対に面白いことは分かっているし、読んでる途中もやめられない止まらないことも実感してる。めったに誉めない嫁様が「『薬屋』と『氷と炎』はイイゾ!」と言うぐらいだから、間違いないことは分かっている。だが途中だ。

追い打ちで積まれるのが、ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』とルルフォ『燃える平原』、ストーレンハーグ『ザ・ループ』と大串夏身『レファレンスと図書館』、そして『マルセル・シュオッブ全集』である。どれもこれも、わたしが絶大なる信頼を寄せる方が、「これはスゴい」と推してくるのだから、外れるワケがない。そうそう、読書会鈍器部の課題図書になるパワーズ『オーバーストーリー』も読むぜ読むぜ。

書きたいことも多すぎる。政治と経済学の欺瞞について。高校における古文漢文の必要性とその度合いについて。語彙力と幸福度の相関について。科学への過大すぎる期待について。素粒子物理学の瑕疵の見つけ方について。数字が出たら客観的だと信頼してしまう理由について。面白い作品の「面白さ」の作り方について(そしてその実践作品)。お尻とおっぱいと匂いと臭いのフェティシズムと、それを裏付ける進化生物学的理由について。このブログで学んだことをまとめた「スゴ本の本」について(これは書きたい、じゃなく書いてる)。

やりたいことも多すぎる。本についてもっと語り合いたい。スゴ本オフで沢山の人と話したり、テーマを決めて対談や鼎談、座談会もやりたいし、[猫廼舎日曜読書会][BtoZ読書会][横浜読書会][SF読書会]にもっと参加してお薦めをうかがいたい。

これ、人生のネタバレなんだけれど、やりたいことは、今やらないと、絶対にやれない。「機が熟する」なんてことはなく、「いずれ」「そのうち」「ヒマになったら」なんて言ってるうちに人生終わる。

こうやって書いてたら、だんだん確かになってきた。フランシス・ベーコンは正しいね。

わたしがこうして読んだり書いたり聞いたり話したりするのは、それを通じて既知の世界を拡張することで、わたし自身が幸せになるため。なぜ知るかの答えは、幸せになるため。知ることは幸せになることなんだ。だから読んだり書いたり話したりする。

そして、あなたのお薦めがあったら、ぜひ聞かせてほしい。なぜなら、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから。



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おっぱいは誰のものか?『乳房論』

問:おっぱいは誰のものか?
答:それを持つ本人のもの

2行で終わるはずなのだが、『乳房論』を読むと、こんな単純なものではないようだ。この答えに至るまでに様々な紆余曲折があり、今でも続いていることが分かる。

本書は、人類史を振り返り、西洋を中心とした乳房をめぐる欲望の歴史をたどっている。乳房に対する概念は一様ではなく、それを求める人や時代や文化によって尊ばれ・蔑まれ・弄ばれてきたという。

著者はマリリン・ヤーロム、スタンフォード大学のジェンダー研究所の上級研究員である。

彼女は、乳房に対する視線、すなわち乳房がどのように見せられ、見られてきたかという観点から振り返る。絵画や彫刻、映画やポスターに現れる、ビジュアルとしての乳房だけでなく、詩歌や論文、プロパガンダに現れるレトリックとしての乳房にも着目する。さらに、乳房がその時代や文化圏でどんな役割を果たしたかという機能面にまで掘り下げている。

本書の背景には、「乳房は誰のものか」という疑問がある。すなわち、乳房を求めるもの―――乳児、パートナー、画家、詩人、医師、政治家、ポルノ業者、商人、司法家、宗教家など、それぞれの立場によって、乳房は様々な役割を担わされてきたというのだ。

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乳房はいつから性的に見られるようになったか

たとえば、絵画におけるモチーフとしての乳房の変遷が面白い。ギリシャ・ローマ時代の彫刻における女性の美しさの理想が、ルネサンスを機に俗世趣味的なものとなったという。授乳する聖母の乳房から宗教的な意味が剥奪され、乳房は、あからさまな男性の欲望の象徴になったと主張する。

乳房に手を置く男性図はルネッサンス美術によくみられるモティーフだが、乳房の所有権は自分たちにあると考えている証左だというのだ。本書では、ハンス・バルドゥング・グリーンの『老人と若い女』が紹介されている。老人は若い女の乳房に手を伸ばし、女は老人の財布に手を伸ばす構図だ[europeana:Ungleiches Paar]

そして、ルネサンス期に生まれた価値観が西洋文明に根強く残り、乳房は女性ではなく男性を性的に興奮させる意図で美術や文学に取り上げられ、鑑賞者や読者に愉しみを提供したというのだ。

絵画ではなく詩歌になるが、ルネサンスよりずっと前のヘレニズム期に、女性の胸を讃える歌があった([ギリシア詞華集選『ピエリアの薔薇』]の俗歌で見た)。この時代の男たちは、どちらかというとお尻を愛でていたが、乳房にも性的な意味は込められていた。おそらく「西洋画の歴史において」というカッコ付きの中で、おっぱいが性的に見られるようになった決定打がルネサンスなのかもしれぬ。

母乳神話はルソーが作った

「おっぱい」には母乳としての意味もある。乳児にとっては死活問題だが、これに男がからむと厄介なことになる。

著者は、その中核がエミールの『ルソー』だと主張する。それまでは、授乳は乳母がするものという慣習だった。だが、母親が自らのお乳をあげることで、社会は変革するとして、母乳育児とフランス革命をつなげたのがルソーだというのだ。

さらに、彼が与えた影響はフランス革命を超えて現代にまで繋がっているという。

ルソーが言うには、男性が女性の乳房を魅力的だと思うとしたら、それは究極的に種を残し、家族の絆を保存しようとするためである。社会的推進力としての母親の詩学と、平等主義者の母乳育児の裏に、西洋文化に深く根差した性差別的な世界観が潜んでいる。あまりにも根深いので、気づく人は少ない。

女性は生まれつき与え、愛し、自己犠牲的で、依存的な生き物であるというルソー主義者の理想が、理想的な母親のあり方という新思想の基本を形成し、200年にわたってヨーロッパと米国を支配する思想となった。

確かに、母乳神話は現代につながっている。どちらで育ててもいいのに、「おっぱい vs 粉ミルク」闘争は、今の時代でも目にするからだ。

たとえば、「母乳で育てるほうが赤ちゃんの健康にいいですよ」と主張する全米授乳キャンペーンがあるが、この動画には「粉ミルクで育てるおまえは、ロデオマシーンに乗る妊婦と同じぐらいリスキーだ」というメッセージが含まれている。母乳を神聖視する根っこをたどると、ルソーと、さらにその先にまで至る。

「赤ちゃんが生まれる前に危険なことはしないのに、生まれた後にするのはなぜですか」

「理想的なおっぱい」の商品化

おっぱいが何に覆われていたかを追いかけると、下着とファッションの歴史になり、ひいては「理想的なおっぱい」の歴史になる。

生まれたままの姿を美しいと崇めながらも、絵画や彫刻に描かれてきたのは、その時代における一般的な女性像ではない。どの時代の女性の乳房もたいして変わらないのに、それぞれの時代で、「リンゴのような」「魚雷のような」「ボウルのような」それぞれの形容詞を求められ、その求めに応じて「整え」られてきたというのだ。

乳房用下着はギリシャ・ローマ時代からあり、中世後期からコルセットは富裕層を中心に普及していたという。だが、すべての階層の女性にコルセットやブラが行き渡るようになったのは、19世紀半ばに広がった機械縫製による。そして、機械縫製による大量生産は、「乳房矯正」を強制的なものにする。

コルセット、ブラ、クリーム、ローション、シリコン注入、痩身プログラム、ボディビルといった乳房の商業化は、わずかここ百年のことだという。

1920年代のボーイッシュスタイルでは平たい胸がもてはやされ、女性たちは自分の胸を締めあげた。1950年代になると豊でセクシーな乳房が求められ、下から持ち上げるようなワンダーブラが競って買い求められた。そして、1970年代に一世を風靡したヌードモデルが、この風潮について決定的なコメントを残している。

「おっぱいが女性らしさの最高のシンボルのように強調されすぎている。おっぱいが大きくない女性たちに、自分は女ですらないと感じさせてしまうのは、とても良くないこと」

著者はこれを、身体イメージの問題だととらえる。その時代その場所に応じた理想的な身体イメージに適合していなければ、女性は自分の乳房を快く思うはずがない。「理想的な美しさ」というあいまいな規範に、大多数の女性が拘束されているというのだ。

ブラを焼く

著者は、西洋史の大部分を通じて、乳房を支配してきたのは男性だったという。

夫や愛人による個人的な支配であろうと、教会や国家、医学会など男性中心的な社会による集合的なものだろうと、おっぱいが支配されてきたことには変わりないという。

こうした支配に対抗するためのデモンストレーションとして、「ブラを焼く」という行為が、60~70年代に広まる。そもそも、女性の乳房が恥ずかしいものとして隠されたり、猥褻で邪なものとして見なされるのは、こうした男性支配による影響だとし、自由に胸をさらす権利を求める運動だ。

胸をさらす自由を求めるといえば、ラ・チチョリーナだろう。ある年齢層からだと思い出すかもしれない。

上半身裸で選挙活動を行ったチリョリーナはは、1987年にイタリアの国会議員に当選する。「おっぱい丸出し議員」として物議をかもしたぐらいしか覚えていないが、彼女の功績は本書で知った。性的開放を訴え、議員としての4年間で「囚人にセックスする権利を認める」「学校で性教育を行う」「国営娼館の再開」など、7つの法案を提出したというのだ。

デモンストレーションとしての乳房は、啓蒙運動にも用いられる。原子力発電所の建設反対デモで、乳房除去手術痕をさらしたレイヴン・ライトや、ディーナ・メッツガーの「Warrior(戦士)」が紹介される。

「戦士」は、乳がんで乳房が片方になってしまった女性を映した、美しい写真だ。裸になったメッツガーは両腕を広げ、左右非対称の乳房を太陽に向けてさらしている。片側には従来の乳房、もう一方には切除痕に施した入れ墨が見て取れる。わたしは、これほど自由で力強い乳房を見たことがない。

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Deena Metzger as the Warrior
(cite from Jewish Women's Archive)

Jewish Women's Archive. "Deena Metzger as the Warrior Poster." (Viewed on November 26, 2019) <https://jwa.org/media/warrior-poster>.

おっぱいから見た人類史

おっぱいの歴史は一筋縄ではゆかぬ。

絵画や母乳神話、乳房の商品化とそれに抗う運動と紹介してきたが、他にも、乳がんを巡る医学史や、第一次大戦のプロパガンダにおける乳房の役割、おっぱいをさらすことで搾取される/する女性とポルノ業者の歴史などが語られる。

おっぱいが持つ意味は、立場によって異なってくる。赤ん坊には生きる糧、男性にはセックス、医者は診察対象で、商売人にはドルマーク、宗教家には神聖なシンボルで、政治家にはプロパガンダに利用する。そして、歴史や文化によって、それぞれ何が良しとされ、何が避けられるかは変わってくるという。

どの視点どの立場からしても、「おっぱいは誰のものか」という問いに対する答えは明白だ。おっぱいの持ち主のものに他ならない。だが、乳房の持ち主である本人が、自分のおっぱいをどう扱うかについて自由にできないことが問題なのだ。

著者は言う。乳房についてもっと自由に振舞うこと認められれば、それだけ女性が自由になれる。公共の場で赤ん坊に自由に母乳をやることができる。トップレスで自由に泳げる。ノーブラで出勤してもとやかく言われない。そんな未来は不可能ではないという。

そして、百年前の女性の脚を引き合いにする。慎み深い女性は人前で脚など見せないとされていたが、今は違う。出したい人は出せばいいし、そうでない人は出さなくてもいい。乳房についても、同じ時代が来ると言うのだ。

わたしがその時代を見届けられるか、分からない。だが、メディアが喧伝する「理想的な乳房」「健康的なおっぱい」といった身体イメージから自由になれることは、全ての女性にとって幸せな未来であることは分かる。

人類の祖先が四足歩行から二足歩行に移り変わるとき、女性の成熟度のバロメーターがお尻から乳房に代替されたと言われる。また、大きく張りのある乳房を持つ女性を選ぶことで、自分の子孫を残す確率を上げることができる(より多くの赤ん坊を育てられると見込まれるから)という説もある。

本書は、芸術作品を元に歴史・社会学的な視点だったが、進化生物学のアプローチからおっぱいの歴史をたどると、さらに興味深い分析ができるに違いない。

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「哲学に答えは無い」という誤答

「哲学に答えは無い」という発言を目にする。

哲学者は、何千年も似たような問答を繰り返し、さまざまな理論を打ち立ててきた。だが、完全無欠の真実にたどり着いた理論もないし、完璧に誤りであると否定される理論もない、という主張だ。わたしもそう考えたことがある。しかし、哲学するようになって、この主張は浅く、一面的であることが分かった。

わたしたちは、様々な問題に向き合うが、以下のような問題は、哲学の範疇外になる。

  • 調べれば分かること(すでに誰かが解いた問題)
  • 人・カネ・時間など、リソースがあれば解ける問題
  • 今までのやり方で解けそうな問題

しかし、調べれば分かることでも、分かったことで見解や評価が対立する場合がある。または、調べ方が分かっていることでも、「それは本当なのか」と疑わしい点が出てくることがある。さらに、今までのやり方では行き詰まり、そもそも、その問いの立て方は正しいのか? と問題の定義に疑問を持つ場合もある。

哲学の出番はここからだ。

「それは本当は何か」について、さらに考える。それ以上に調べられないこと、調べ方そのものが分かっていない(確立されていない)ことでも、「自分で考える」ことができる。それが哲学だ。

「哲学に答えは無い」のではなく、哲学は、問題にまで立ち戻り、「そもそも”答え”とは何に対するものか」「(仮に答えなら)それを答えたらしめているものは何か」まで考える。その結果、最初の疑問が、別の疑問に置き換わったり、異なる方向性を持つ複数の問題に分岐したりする。このテの話になるときは、『愛とか正義とか』(平尾昌宏)のこれが的確だ。

「科学には答えがあるけれど、哲学は答えがない」と思う人がいますが、そうではありません。「科学には答えがある」のではなくて、「科学はただ一つの答えが決まるように手続きを定めてある」というのが正解です。だから、「ザ・科学」ができるわけです(逆に「科学は答えが一つに決まらないような問題を避ける」わけで、科学が避けた問題はどこに行くのかというと、これが哲学に行きます)。

科学は、リソースがあれば解ける問題、今までのやり方で解けそうな問題を解く営みだ。それは、技術の発展につながり、人の世界を豊かにする素晴らしい営みだ。だが、「全ては科学で解ける」「科学こそが答えに至る道」と言った瞬間、自己矛盾に陥ることになる。

「哲学に答えは無い」という発言が、浅く、一面的である理由は上記の通り。誰かが、「哲学に答えは無い」とドヤ顔で言う前に、この記事に出会えますように。

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東大シンポジウム「現代フィクションの可能性」まとめ

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東大教養学部で行われたシンポジウム「現代フィクションの可能性」を聴講してきたのでまとめる。twitter 実況は、@mizuno1982さんの[シンポジウム「現代フィクションの可能性」で語られた事まとめ]が凄く参考になる。

  1. シンポジウムの目的・背景
  2. 発表内容
    山本貴光「フィクションと人間の接触面で何が起きるか」
    松永伸司「手ごたえのあるフィクション:シミュレーションによるフィクションの特殊性」
    久保昭博「フィクションはどこにあるのか? フィクション理論の現在」
  3. 次のアクション

1. シンポジウムの目的・背景

シンポジウムのバックグラウンドは、「世界文学の時代におけるフィクションの役割に関する総合的研究」になる。

  2016.11.25 京都大学人文科学研究所
     現代フィクションの条件 ※
     円城塔、千野帽子、大浦康介、久保昭博

  2017.3.12 東京大学駒場キャンパス
     複数の言語、複数の文学
     ―――やわらかく広がる創作と批評
     温又柔、秋草俊一郎、中村和恵、都甲幸浩

  2018.11.28 東京大学駒場キャンパス
     現代インドで女性として書くこと
     アルパナー・ミシュラ、都甲幸浩、
     中村和恵、小松久恵、武田将明

  2019.11.1 東京大学駒場キャンパス
     現代フィクションの可能性   ← 今回
     山本貴光、松永伸司、久保昭博

※『早稲田文学』2017初夏号(フィクション特集)にまとめ有り

「フィクションの役割」については、以下の通りまとめられていた。

  • 現代日本語文学を世界文学の見地から考察する(共時的)
  • 近代文学の捉え方を変えるべき(通時的)
  • リアリティーのあり方の変化に対応したフィクション概念・フィクション論を構想する(理論的)
  • Post-truth
  • Fake news
  • Brexit : 2016.6
  • Donald Trump : 2016.11
  • Virtual reality, augmented reality
  • AI and singularity?

今回の「現代フィクションの可能性」は一連の研究の最終回。

情報化の進む現代において、フィクションの役割はどう変化しているのか? あるいは、こうした変化の中で、フィクションの可能性や危険性はどこにあるのか? ―――最新のフィクション論に触れながら、現代世界におけるリアルとフィクションの境界問題や、フィクションの役割について識者に語ってもらう……という目的で行われた。

2. 発表内容

登壇者1人につき持ち時間20分、3人で計60分の予定だったけれど、皆さんのスライドのボリュームがありすぎて大幅オーバーしてた。一人のお話だけでも充分以上の内容だった。

山本貴光「フィクションと人間の接触面で何が起きるか」

自著『文学問題(F+f)✙』のフレームを用いながら、フィクションを考える手がかりとなるQAを重ねてゆく。一つ一つの切り口が面白く、自ら例を挙げ答える一方で、他の登壇者や会場からの応答も誘うような問いかけになっている。

まず、「フィクション」と一言で述べても、様々な形をとる。そのため山本氏は、フィクションを実装と機能に分ける。実装はフィクションが取る形態で、文芸や音楽、映画・演劇、漫画、ゲームなどがある。一方、機能は実装に応じて変わってゆくが、完全に固定された一本道ルート(例えば小説)から、会話や行動の選択によって複数のシナリオが分岐する

(例えばゲーム)まで、様々になる。

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小説『PRY』の例。テキストをピンチアウトすると、
書き手が見ているものを共有できる

ここに「F+f」が重ねられる。「F+f」とは夏目漱石が文学を定義したもので、F は「認識されたもの」、そして f は「それによる心の動き」を指す。たとえば、Fは小説なら文章になるし、ゲームならグラフィックや音楽、コントローラーの振動なども含まれる。f はそこからもたらされる様々な感情や情緒になる(この「F+f」を文学とは感情のハッキングと名づけるセンスは素晴らしい)。

面白いのは、「フィクションと人との境界(ユーザーインタフェース)」から見ると、F に相当するものを並べられるという指摘だ。左端には一本道の小説であり、右端には極端な例として「No Man's Sky」を持ってくる。惑星を探索するSFアドベンチャーなのだが、対象となる惑星の数は1800京を超える。探索対象がこれだけだから、そこから得られる F はほぼ無限大であり、一生かかっても遊びきれない。

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印刷された(確定された)UIの小説から、
無限ともいえるパターンのゲームまで

山本氏は言う、我々は、一本道のフィクションから、ほぼ無限大のフィクションに囲まれた現在にいるのではないかと。いわばフィクションの銀河系と呼べるような状況におり、自分が読みたい本、やりたいゲーム、観たい映画を探しているだけで一生が終わってしまう。いわばボルヘスのバベルの図書館にいるのではないかと(ここ、絶妙なタイミングでこれが出てきたのでニヤニヤが止まらなかった)。

そして、作品の数がこれだけ膨大になると、f (それによる心の動き)を表現する共通的な言語が失われてゆく。

一本道の例として小説を挙げたが、印字された「同じ」小説を読む時代はとうに過ぎており、近い将来、パラメータを入れるだけで小説が自動生成されるようになるかもしれない(例えば、主人公の属性、ジャンル、読了時間を入力すると、自動で生成される)。

Fic04
Heaven’s Valut の例。制限時間付き選択肢や、
かかった時間によりシナリオは分岐する

このフィクションの銀河系では、互いの f が分からなくなる。なぜなら、あまりにも F がありすぎて、それを享受し f を共有できる人がいなくなるから。この現象を、夏目漱石の『猫』から引いてくる。

「個性の自由という意味はおれはおれ、人は人という意味だろう。その芸術なんか存在出来る訳がないじゃないか。芸術が繁昌するのは芸術家と享受者の間に個性の一致があるからだろう。君がいくら新体詩家だって踏張っても、君の詩を読んで面白いというものが一人もなくっちゃ、君の新体詩も御気の毒だが君より外に読み手はなくなる訳だろう。
(略)
そうだろう君のかいたものは僕にわからなくなる、僕のかいたものは君にわからなくなった日にゃ、君と僕の間には芸術も糞もないじゃないか」

「パックマンみたいなゲーム」と言っても、そもそもパックマンを知らない人には伝わらない。だから、まずパックマンを例に挙げたいときに、パックマンの説明が必要になるというのだ。

松永伸司「手ごたえのあるフィクション:シミュレーションによるフィクションの特殊性」

自著『ビデオゲームの美学』から、フィクションの一種としてのビデオゲームを俎上に乗せる。ビデオゲームはフィクション(虚構世界を描くもの)としての性格を持つ。そこで、ビデオゲームならではのフィクションのあり方とは何か、さらにはどんなフィクションが可能となるかを説明する。

言語、画像、映像はどれも表象方式であり、フィクションはそうした表象方式を利用している。小説なら言葉によるフィクション、映画なら映像と音声によるフィクション、漫画なら、画像と言葉に加え、コマ割りや吹出しを始めとする独自の方式によるフィクションになる。

ここでは、シミュレーションによるフィクション、なかでもRPGなどのシミュレーションゲームによるフィクションを代表とし、具体例で考えてみる。

たとえば、ここに一つのプログラムがある。

  • 変数Pの値が1以上のとき、”a”と”1”を続けて入力すると、変数Qの値が30増え、Pの値は1減る。
  • 変数Pの値が1以上のとき、”a”と”2”を続けて入力すると、変数Rの値が30増え、Pの値は1減る。
  • 変数Pの値が0のとき、”a”と”1”または”a”と”2”を続けて入力しても、何も起きない。

そういう分岐を書けと言われたら書けるけれど、人にとって見ればなんのことか分からない。聴講していた方のこのツイートが的確すぎる。

だが、変数や入力にラベルを付けることで、途端に見通しが良くなる。このラベルとは、意味のある名前のことだ。

  • 変数P : 薬草の所持数
  • 変数Q : 1人目のメンバーのHP
  • 変数R : 2人目のメンバーのHP
  • 入力”a” : 薬草を使う
  • 入力”1” : 1人目のメンバー

先のプログラムは、こうなる。

  • 薬草の数が1以上のとき、”薬草を使う”、”1人目のメンバーに”と入力すると、1人目のメンバーのHPの値が30増え、薬草の値は1減る。
  • 薬草の数が1以上のとき、”薬草を使う”、”2人目のメンバーに”と入力すると、2人目のメンバーのHPの値が30増え、薬草の値は1減る。
  • 薬草の数が0のとき、”薬草を使う”と”1人目のメンバー”または”2人目のメンバー”と入力しても、何も起きない。
Fic05
変数や入力にラベル(名前)を付けると、意味が生まれる

つまり、何が起きているのかというと、プログラムそのものは抽象的なシステムであり、ラベルを付けようが付けまいが、何も変わらない。ところが、ラベルを付けることによって、そのシステムが何か具体的なものに見立てることができる。この抽象→具体への見立てこそが、シミュレーションの本質なのだという。

Fic06
シミュレーションの本質は、抽象から具体への「見立て」

つまり、プログラムを直接的に見ることができないプレイヤーにとってのUI(ユーザーインタフェース)がラベルになる。そして、このUIを通じて、プレイヤーはシステムの状態のみならず、そのシステムを何に見立てるべきかを知ることができる。

次に、シミュレーションによるフィクションの特殊性について。

特殊性は2つあるという。

1つは、言語や画像による表象とは異なり、表象するもの/されるものとの間に、構造的な類似関係がある点だ。これにより、シミュレーションを使ったフィクションには、ある種の実態感、手応えを感じることができる(いわゆる、”バーチャル”と呼ばれるもの)。

2つ目、ユーザは表象するものを操作することができ、異なる操作による異なる反応、すなわち条件分岐による入出力の規則がある点だ。シミュレーションを使ったフィクションでは、そうした入出力の規則を通じて虚構世界上の規則を描くことができる。いわば、規則を使って規則を描いているのが、シミュレーションのフィクションになる。

この規則はプレイヤーによる試行錯誤を通じて虚構世界のあり方を理解する、という受容の仕方を可能にする。さらには、ゲームデザイナーが意図しなかったフィクションの内容が作り出されることもありうる。

そのシミュレーションならではの例として、September 12th が紹介される。ちょっと「遊んで」みればすぐに分かるが、これは市民の中に紛れ込んだテロリストを倒すゲームである。プレイヤーは、中東の街を徘徊するテロリストに向けて照準を合わせ、ミサイルを撃つことができる。

Fic07
目標をセンターに入れて、スイッチ

問題はここから。ミサイルは確かにテロリストを倒すことができる。だが、爆発は周辺の市民や建物を破壊する。殺された市民の傍らで家族や友人がひとしきり嘆き、泣く。そして今度はその人々がテロリストとなって街を歩き出すのだ。

いくらも経たないうちに、プレイヤーはこのゲームに「勝つ」のは不可能だと知る。テロリストを倒そうとする行為がテロリストを増やすことになるから。

久保昭博「フィクションはどこにあるのか? フィクション理論の現在」

訳書『なぜフィクションか?』(シェフェール)を用いながら、文学理論の古典的なアプローチを概説しながら、フィクション理論がもたらす可能性について説明する。

フィクションという文学はアリストテレスの時代から存在していた。しかし、フィクションのフィクション性について問われることはなかった。あくまで、物語の内部の修辞的なあれこれを批評するものに限られており、フィクションが指示するものや意味するものについては、自明であるとして、取り残されてきたという。

ところが、分析哲学や様相論理学(可能世界論)の議論の中で、テクストの「外部」を指示する「力」が注目されるようになってきた。いわば、文学理論がフィクションを「再」発見したようなもの。ここでは、その流れを3つ紹介する。

1つは、可能世界論を応用した意味論。トマス・パヴェルの「突出構造」や、マリー・ロール・ライアンの「実際の世界からテクストの世界への中心移動」、さらにケンダル・ウォルトンの「ごっこ遊び」がある。非実在の実体を、あるものに見立て(指示し)、その世界が立ち上がることが、フィクションの根底になる。

2つ目は、虚構指標(ハンブルガー)による統語論。ケーテ・ハンブルガー『文学の論理』を紹介しながら、テクストの上にはフィクション的なマーカーがあることを指摘する。例えば、過去を示さない過去形(明日はクリスマスだった)、三人称小説における直接表象(思う、信じる、あるいは自由間接話法)などは、発話行為の主体である「私=原点」の虚構化だという。

3つ目は、サールの語用論。単なるテクストでは、フィクションなのか、ノンフィクションなのかは、分からない。テクストのフィクション性を決定するのは、発話者(著者)の意図にあるという。フィクションの作者は、断定のふり(偽装、pretend)をしている。

こうしたアプローチの後、シェフェール『なぜフィクションか?』の、「現実の中のフィクション論」を展開する。シェフェールは、サール=ジュネットの語用論的枠組みを継承しながらも、フィクションと現実の関係性を問う前に、フィクションそれ自体も現実の中にあることを強調する(これはけっこう忘れられがち)。フィクションは現実の一種なのだ。

Fic08
フィクションが作る現実

フィクションは、文学や映像といった芸術が存在する前に存在するという。幼児が学習し、大人においても大きな役割を果たす、心的能力になる。その特徴は、「共有された遊戯的偽装」として表される。

  • 遊戯的:本気の対概念(現実にコミットしない)
  • 共有:(これはフィクションであるという)認識論的枠組みの共有
  • 偽装:ミメーシス(模倣)の一種

(この辺りは非常に難しく、私の理解が追いつかない。子どもがする「ごっこ遊び」や「〇〇のマネをする」ことを通じて、「これは〇〇ごっこなんだよ」という認識が共有される。この認識の共有こそが、フィクションという現実があるということを約束事とする……と理解した。おかげで「本当に」傷つくことなく悲劇に心を痛めることができる)。

Fic09
フィクション「が」作る現実と、フィクション「を」作る現実

3. 次のアクション

駆け足で紹介したが、書いてる自分が理解しきれていない所も多い。フィクションは約束で成り立っている現実の一つである、という考え方は、今後も利用していく。聴きっぱなしはもったいないので、ここで得られたことから次のことをするつもりだ。

  • シェフェール『なぜフィクションか?』を読む:かなり難しい高密度な本だが、関連図書も含めて挑戦してみよう。
  • 戸田山 和久『恐怖の哲学』の再読:もともとこのシンポジウムを聞いたのは、「人はなぜフィクションを楽しめるのか?」という問いの中に、フィクションの可能性があるかもしれない……という問題意識を持っていたから。QAタイムにこの問題をぶつけてみたら、久保氏から返ってきたのがこれなので、再読しよう。
  • 山本貴光『文学問題(F+f)✙』の再読:上記のQAで挙げられたので。第3部第3章「文学論再検討」あたりを中心に再読する。
  • Detroit Become Human のプレイ:シナリオ分岐の話で山本さんが出した例。積みゲーで、やらずに死ねないゲームなので、SEKIRO クリアしたらやる(梟強すぎ……)。

登壇された方、ありがとうございました。また、@mizuno1982さんの写真とツイートを利用させてもらいました(ありがとうございます!)。



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ノンフィクション100

Opa

すごいノンフィクションは、一冊で常識を一変させる。目から鱗を叩き落とし、世界の解像度を上げる。積み重ねた事実の上に立たせ、偏見という壁の向こうを見せてくれる―――ノンフィクションには、そんな力がある。

ここでは、常識をアップデートし、偏見をとっぱらい、世界をクッキリと見せてくれる、「これはスゴい!」というノンフィクションを100選んだ。

選んだベースは以下からだが、選んだのがわたしだから偏りと不足がある。だから、「それがスゴいなら、これなんてどう?」とお薦めいただけると嬉しい。消費物ではなく、何度も読み継ぎ、語り継げるようなノンフィクションに出会いたいんだ。

     
     

ノンフィクションは、「フィクションじゃない」という字義のため、射程はめちゃくちゃ広い。完全なる実録から、限りなくフィクションに近いノンフィクション・ノベルまで、さまざまだ。ここでは便宜上、次の4つのカテゴリーに分けた。無理やり分けているので、それぞれのカテゴリーは重なり合っている。

  I. ルポルタージュ(実録や体験記)
  II. サイエンス(SFのノンフィクション版)
  III. ジャーナリズム(政治や人物を描く)
  IV. アカデミック(専門知の応用や啓蒙書)

I. ルポルタージュ・ノンフィクション

現場を歩き、現場を見て、現場で聞くノンフィクション。そこにいないと分からない、現場の「臭い」を書いたもの。普通なら行けないところを旅し、珍しいものを見聞し、めったに食べられないものを口にする。旅行記、冒険記、体験記、潜入録など。

『オーパ!』開高健

ノンフィクションの一番。

一冊だけならこれ。ベスト・オブ・ベスト・ノンフィクションがこれ。釣り竿とペンを手に、南米の大河アマゾンを縦横する。肉食魚ピラーニャ、幻の巨大魚ピラルクー、黄金の跳魚ドラドを追い、釣り、食べ、呑み、そして書く。熱気と興奮と怠惰とユーモアが混じり合った裸の知覚がある。これは、文学であり詩であり箴言であり哲学であり告白なんだ。何事であれ、ブラジルでは驚いたり感嘆すると、「オーパ!」という。大判・文庫と何度も買い、数えきれないほど読み返しているけれど、今でも「オーパ!」とつぶやいている。未読の方は幸せもの、全員が全員にお薦めしたい、極上のノンフィクション。

『黒檀』リシャルト・カプシチンスキ

ルポルタージュの最高傑作。

「見たこと」を中心に据える著者は、その場所に飛び込んで、目撃者としての観察と経験でアフリカを点描してゆく。伝聞や噂よりは信憑性が高いだろうが、「点」にすぎないのでは? どっこい、個々のトピックは点にすぎないが、時間や場所の異なるいくつもの点を並べて、全体像が浮かび上がらせる手腕は見事という他ない。個人的な体験と庶民の視線を使い分けながら、より大きな問題、より全体的な問題が見えてくる。本人曰く「文学的コラージュ」と呼ぶ手法により、本質は細部に宿ることをルポルタージュで証明する。

『羆嵐』吉村昭

モデルは、1915年の北海道三毛別羆事件と言えば充分だろう。

人間の味を覚えたヒグマが民家を襲い、7名死亡、3名が重傷を負った日本史上最大規模の獣害事件だ。当時の現場は開拓村で、通信手段や交通手段が限られており、応援を呼んでもすぐに到着できない状況だった。この村を餌場として人を狩り、喰い切れぬ肉は持って帰ろうとする。さらに、犠牲者の通夜に押し入り取り返そうとする(羆にとっては獲物を取られたことになるから)。ここで、一生忘れられない一言が出てくる。母だったものを指して叫んだこれだ―――「おっかあが、少しになってる」。

『深夜特急』沢木耕太郎

旅の本の鉄板は、『深夜特急』。

デリーからロンドンまで、ひたすら陸路の独り旅。「バスを乗り継いでたどり着けるか」という友人との冗談から始まった賭けに本気になって、職も生活も放りだす旅は、無数の追随者を招き、一種の伝説となっている。出だしのウキウキ感は松尾芭蕉の「おくのほそ道」と一緒だし、ノリノリ感は米米クラブの「浪漫飛行」と一緒(と言ったら歳が分かるなぁ)。特に最初の1~2巻は感染力が強く、二十歳ぐらいのときにケルアック『オン・ザ・ロード』と併せて読むと、極めて危険。読めば一人旅したくなること請け合う。

『エンデュアランス号漂流』ランシング

絶望的な状況から抜け出す一冊。

1914年、南極踏破に向けて出発した「エンデュアランス号」は、氷に閉じ込められ→圧砕→沈没。28名は氷板の上で生き延びるも、破砕→漂流。食料不足、極寒の嵐、凍傷、病気… 次から次へとくる危機的状況に、真正面から立ち向かう。写真を見る限り、狂気の沙汰としか思えん。誰が死んでもおかしくない状況が続くが、リーダーであるシャクルトンはどうやって難局を乗り切るか? 彼の言動のエッセンスは、「自信とプライド」「リスクに気を配る」「何がともあれユーモア」であり、そのまま危機管理の金言集にもなる。

  1. 『オーパ!』開高健(集英社文庫)
  2. 『黒檀』リシャルト・カプシチンスキ(河出書房新社)
  3. 『羆嵐』吉村昭(新潮文庫)
  4. 『深夜特急』沢木耕太郎(新潮文庫)
  5. 『エンデュアランス号漂流』アルフレッド・ランシング(新潮文庫)
  6. 『ちょっとピンボケ』ロバート・キャパ(文春文庫)
  7. 『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル(みすず書房)
  8. 『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』米原万里(角川文庫)
  9. 『沈黙の春』レイチェル・カーソン(新潮文庫)
  10. 『チベット旅行記』川口慧海(白水uブックス)
  11. 『パレスチナ』ジョー・サッコ(いそっぷ社)
  12. 『世界屠畜紀行』内澤 旬子(角川文庫)
  13. 『コンゴ・ジャーニー』レドモンド・オハンロン(新潮社)
  14. 『何でも見てやろう』小田実(講談社文庫)
  15. 『アポロ13』ジム・ラベル(新潮文庫)
  16. 『アフリカの日々』ディネーセン(河出書房新社)
  17. 『アメリカの奴隷制を生きる フレデリック・ダグラス自伝』フレデリック・ダグラス(彩流社)
  18. 『旅をする木』星野道夫(文春文庫)
  19. 『人間の土地』アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(新潮文庫)
  20. 『イワン・デニーソヴィチの一日』ソルジェニーツィン(新潮文庫)
  21. 『「子供を殺してください」という親たち』押川剛(新潮文庫)
  22. 『なぜエラーが医療事故を減らすのか』ローラン・ドゴース(NTT出版)
  23. 『物乞う仏陀 』石井光太(文春文庫)
  24. 『地球の食卓―世界24か国の家族のごは』ピーター・メンツェル (TOTO出版)
  25. 『ロボット兵士の戦争』P・W・シンガー (NHK出版)
  26. 『垂直の記憶』山野井泰史 (ヤマケイ文庫)
  27. 『料理の四面体』玉村豊男(中公文庫)
  28. 『怒らないこと』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ)
  29. 『なぜ私だけが苦しむのか』H.S.クシュナー(岩波書店)
  30. 『現代の死に方』シェイマス・オウマハニー(国書刊行会)
  31. 『河童が覗いたインド』妹尾河童(新潮文庫)
  32. 『人間臨終図巻』山田風太郎(徳間文庫)
  33. 『言志四録』佐藤一斎(講談社学術文庫)
  34. 『戦艦大和ノ最期』吉田満(講談社文芸文庫)

II. サイエンス・ノンフィクション

SFのノンフィクション版。科学技術の進展に伴い、暮らしや社会は便利になる一方、科学の現場や成果はなじみの薄いものになってしまっている。その架け橋となるべく、研究の最先端で何が行われているかを分かりやすく解いたノンフィクション。

『パワーズ・オブ・テン』P・モリソン

センス・オブ・ワンダーを見える化した、稀有な一冊。

公園で昼寝をしている人の姿を真上から撮った写真。これがスタートで、10倍、100倍、1000倍と、どんどんカメラを引いてゆく。宇宙空間に出て、太陽系を越え、銀河を抜けて、最後は10億光年離れたところからの映像を見せる。いっぽう、逆に1/10、1/100、1/1000と、どんどん拡大していく。細胞を分け入って、分子の世界、そして素粒子レベルの世界を見せてくれる。スケールによって見える世界が変わってゆくのに、極大と極小が近似するという不思議さに撃たれる。世界の大きさと小ささを知る。

『火の賜物』リチャード・ランガム

結論を一言で述べるなら、「ヒトは料理で進化した」になる。

ヒトは料理した食物に適応したと主張する。体のサイズに比べて小さい歯や顎、コンパクトな消化器官、生理機能、結婚という慣習は、料理によって条件づけられてきたという。切って火を通すことで、澱粉がゲル化し、タンパク質が変性して軟らかくなり、消化・吸収しやすくなる。消化プロセスを外部化することで、美味しくなるだけでなく、代謝コストあたりの摂取エネルギー量を、実質的に増やしてくれる。さらに「火を囲む」「一緒に作り・食べる」料理という形態が、家族や社会といったヒトのあり方にまで影響したと指摘する。

『サイエンス・インポッシブル』ミチオ・カク

不可能とは、可能性だ。

記憶操作、物体の透明化、惑星破壊ビーム砲、世代間宇宙航行などを俎上に、SFの世界を現実にするなら、どんな課題が待ち構えており、どうすればクリアできるかを、徹底的に現実的に検証したのがこれ。本書を面白くしている視点は、「それを不可能とみなしているのはどの技術上の問題なのか?」という課題に置き換えているところ。「技術上の課題」にバラしてしまえば、あとはリソースやパトロンの話だったり、量産化に向けたボトルネックの話になる。SF世界の実現は、夢じゃなくて予算が足りないのかもしれぬ。

『失われてゆく、我々の内なる細菌』マーティン・ブレイザー

人体のマイクロバイオームの多様性を描いたのが本書だ。

マイクロバイオームとは、人体に常在し、ヒトと共進化してきた100兆もの細菌群のことだ。長い時間をかけてヒトと菌は共進化し、代謝、免疫、認識を含む体内システムを発達させてきた。しかし、抗生物質が大量に使われるようになり、常在菌の多様性が失われつつあるという。特に、20世紀後半に劇的に増加した諸疾患は、この多様性の喪失が主要因ではないかと指摘する。化学物質による環境破壊に警鐘を鳴らしたレイチェル・カーソンの『沈黙の春』の抗生物質版が、本書になる。

『不健康は悪なのか』ジョナサン・M・メツル

「健康」に潜ませたレトリックを暴く。

医療や倫理、法、フェミニズムの分野で、健康という言葉の背後にあるモラル的な風潮を「健康ファシズム」としてあぶりだしたのが本書だ。誰だって健康であるに越したことはないから、「健康」は、誰も反発できない中立的な善のように見える。しかし、誰も反対しないからこそ、「健康的な生活」「健康的な食事」という言葉に潜ませた価値観を押し付けることができる。「健康的な体形」は、それにそぐわない体形に烙印を押し、ダイエットやフィットネスといった健康マーケティングに容易に接続される。

  1. 『パワーズ・オブ・テン』フィリップ・モリソン(日経サイエンス)
  2. 『火の賜物―ヒトは料理で進化した』リチャード・ランガム(NTT出版)
  3. 『サイエンス・インポッシブル』ミチオ・カク(NHK出版)
  4. 『失われてゆく、我々の内なる細菌』マーティン・J・ブレイザー(みすず書房)
  5. 『不健康は悪なのか』ジョナサン・M・メツル(みすず書房)
  6. 『利己的な遺伝子』(リチャード・ドーキンス、紀伊国屋書店)
  7. 『ゾウの時間 ネズミの時間』本川達雄(中公新書)
  8. 『土と内臓』デイビッド・モントゴメリー(築地書館)
  9. 『土木と文明』合田良実(鹿島出版会)
  10. 『人体 600万年史』ダニエル・E・リーバーマン(早川書房)
  11. 『ヒトは病気とともに進化した』太田博樹、長谷川眞理子(勁草書房)
  12. 『ファスト&スロー』ダニエル・カーネマン(早川書房)
  13. 『音楽の科学』フィリップ・ボール (日経サイエンス社)
  14. 『生命の跳躍』ニック・レーン(みすず書房)
  15. 『系外惑星と太陽系』井田茂(岩波新書)
  16. 『がん‐4000年の歴史‐』シッダールタ・ムカジー(早川書房)
  17. 『フォークの歯はなぜ四本になったか』ヘンリー・ペトロスキー(平凡社)

II. ジャーナリズム・ノンフィクション

テレビや新聞、雑誌記者などのジャーナリズムの手法を採ったノンフィクション。より書き手が前面に出ており、インタビューとエビデンスを積み重ねることで、政治や社会に問いを突き付ける。あるいは、ある人物像に迫ることで、人間とは何かという問いに応答する。

『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』ギャラファー

「役立たずを安楽死させよう」という世の中になるなら、それはどんなプロセスを経るか?

これが嫌というほど書いてある。うつ病、知的障害、小人症、てんかん、性的錯誤、アル中……ユダヤ人だけでなく、こうした人びとが何万人も、ガス室に送られ、効率的に殺されていった。問題は、ナチスに限らないところ。優生学をナチスに押し付け断罪することで、「消滅した」という図式にならない。社会システム化された「安楽死」(というより集団殺人)は、びっくりするほどありふれて見え、そこだけ切って読むならば、陳腐なディストピア小説のようだ。健康が正義で、不健康は悪の世界は、隣り合わせであることが分かる。

『戦争広告代理店』高木徹

正義は買える。

ボスニア紛争の報道を追ったノンフィクションだが、「正義とは演出されるもの」であることが、怖いくらい分かる。セルビア人を悪者に仕立てるために、ボスニアと契約したPR会社の広報戦略がえげつない。「民族浄化」のキャンペーンににより、セルビア人が戦争犯罪者となり、世論の後押しによる空爆が実行される。人は「ストーリー」を信じたがる。原因が示されると、それを信じる性質がある。だからニュースは「正義のストーリー」に沿うよう「証拠」が集まり、編集される。「正義」は、演出したものが勝つ。正義は有料なのだ。

『冷血』カポーティ

極めて異常な事件を、淡々と丹念に描いた傑作。

11月の深夜、一家4人が殺された。父親と母親と息子と娘はロープで縛られ、至近距離から散弾銃で撃たれており、顔や頭を破壊されていた。感情や評価するような表現は排され、徹底的に事実を積み重ねている。犯行状況を時系列の外に置き、調書を取る対話で生々しく表現したり、「なぜ若者が犯行に及んだか」はズバリ書かず、手記や調書から浮かび上がるようにしている。「書き手である自分」を、地の文から取り除き、評価や判断は読者がせよ、というメッセージが読み取れる。

『消された一家』豊田正義

最高に胸糞悪い読書を約束する。

家族同士で殺し合い、解体し、少しずつ運び出しては処分する―――北九州・連続監禁殺人事件を丹念に追いかけるが、おぞましいのは、吐き気をこらえて最後まで読んでも、「なぜそんな事件が起きたのか」はぜんぜん分からないから。無抵抗の子どもの首にどういう風にコードを巻いて、どんな姿勢で絞めたか、といった行動は逐一知らされるが、「なぜ・どうして」は想像すらできない。人ではなく、悪魔の所業だというのはたやすい。だが、人と悪魔の境界が分からない。どこでどう間違えているのか分からない、つまり地続きなのだ。

『中国臓器市場』城山英巳

中国の臓器移植は、「早い・安い・うまい」である。

中国は、臓器移植の先進国だ。毎年1万人執行される死刑囚のドナーが「臓器市場」を支える。交通事故などの不慮の死とは違って、いつ・どこで臓器が手に入るか、分かっている。しかも事前検査をしっかり行っているため、新鮮で安全な臓器が安定供給されている。その結果、早くて1週間(遅くとも1ヵ月)、安くて半額(肝臓、腎臓の場合)の臓器移植が実現できる。さらに、腎臓の場合、年間5000例以上こなしているから、移植医療の技術は世界一レベルである。中国の移植ビジネスの現場は、極めて合理的に動いている。

  1. 『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』ヒュー・グレゴリー・ギャラファー(現代書館)
  2. 『戦争広告代理店』高木徹(講談社文庫)
  3. 『冷血』トルーマン・カポーティ(新潮文庫)
  4. 『消された一家』豊田正義(新潮文庫)
  5. 『中国臓器市場』城山英巳(新潮社)
  6. 『カラシニコフ』松本仁一(朝日文庫)
  7. 『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス(岩波文庫)
  8. 『百年の愚行』池澤夏樹、フリーマン・ダイソン他(Think the Earth)
  9. 『食品偽装の歴史』ビー・ウィルソン(白水社)
  10. 『「ニセ医学」に騙されないために』NATROM(メタモル出版)
  11. 『ピュリツァー賞 受賞写真 全記録』ハル・ビュエル (ナショナル・ジオグラフィック)
  12. 『凶悪―ある死刑囚の告発』「新潮45」編集部(新潮文庫)
  13. 『補給戦―何が勝敗を決定するのか』マーチン・ファン クレフェルト(中公文庫BIBLIO)

IV. アカデミック・ノンフィクション

学術機関における専門知から、時事問題に対してより深い分析を行ったり、最新の研究から新たな光を当てるノンフィクション。マイナーになりがちな研究成果そのものを、一般の人向けに分かりやすく啓蒙したり、学術史から現代を問い直す。

『ゲーデル、エッシャー、バッハ』ホフスタッター

読む前と読んだ後で、世界が一変する。

これは、天才が知を徹底的に遊んだスゴ本だ。不完全性定理のゲーデル、騙し絵のエッシャー、音楽の父バッハの業績を「自己言及」のキーワードとメタファーで縫い合わせ、数学、アート、音楽、禅、人工知能、認知科学、言語学、分子生物学を横断しつつ、科学と哲学と芸術のエンターテイメントに昇華させている。数学における意味と形を引き剥がす思考実験を通じて、「自分がいま考えているシステムの外側に出て考える」ことを実践し、システムに内在する矛盾を炙り出し、修復する。読んだら世界の「見え方」が変わるだろう。

『銃・病原菌・鉄』ジャレド・ダイアモンド

現代の富や権力の偏りが、なぜこのようになっているか?

その究極の答えがこれ。種としての民族・人種に優劣があるのではなく、おかれた環境・住んでいた場所が決定的な要因を果たしているという。遺伝学、分子生物学、進化生物学、地質学、行動生態学、疫学、言語学、文化人類学、技術史、文字史、政治史、生物地理学と、膨大なアプローチからこの謎に迫る。乱暴に一言でまとめると、「ユーラシア大陸が横長、アフリカ・アメリカ大陸が縦長だったから」になるが、これらを「病原菌」「鉄」「銃」から読み解いてゆくプロセスは、スリリングかつ徹夜レベルに面白い。

『美術の物語』エルンスト・H・ゴンブリッチ

美術の見方について、新しい目を得る一冊。

原始の洞窟壁画からモダンアートまで、西洋だけでなく東洋も視野に入れ、美術の全体を紹介する。最も長く、最も広く読まれている美術書はこれだ。よくある固有名詞と年代と様式の用語の羅列は、著者自身により封印されている。その代わりに、「その時代や社会において、作品がどのような位置を占めていたか」という歴史の文脈に焦点が合わせられている。たとえば、儀式を執り行うための呪術具であったり、文字の読めない人々に教義を説く舞台装置だったり、視覚効果の実験場といった時代性の文脈の中で美術が紹介されている。

『数量化革命』アルフレッド・クロスビー

西欧が覇者となった理由として、「現実の見える化」から応えた一冊。

定性的に事物をとらえる旧来モデルに代わり、現実世界を定量的に把握する「数量化」が一般的な思考様式となった(数量化革命)。その結果、現実とは数量的に理解するだけでなく、コントロールできる存在に変容させた(近代科学の誕生)……というパラダイムシフトを綿密に描いたのがこれ。複式簿記、地図製作・遠近法、暦法・機械時計・楽譜といった事例をふんだんに用いて、計量できない「量」や「時」そして「空間」を計測できるようにしてきた経緯を紹介する。数量化革命とはすなわち、現実の見える化の達成なのだ。

『戦争の世界史 大図鑑』R・G・グラント

歴史とは戦史であり、戦史とは最先端テクノロジーの歴史でもある。

記録に残っている各戦争の年月日に始まり、原因・経過・結果・影響を概説してある。さらに、決戦が行われた場所の地図や戦術構成、兵力、戦闘技術、死傷者数といった基礎史料を網羅している。特筆すべきは、徹底的なビジュアルにこだわっている点だ。オールカラーで構成されており、の多彩な写真、絵画、地図、図解などを駆使して、多角的かつ斬新な視点から、戦争を捉えようとしている。古代から現代までの戦争の歴史を俯瞰していくと、戦争は当時の最先端テクノロジーのしのぎを削る場所であることが分かる。

  1. 『ゲーデル、エッシャー、バッハ』ダグラス・R・ホフスタッター(白揚社)
  2. 『銃・病原菌・鉄』ジャレド・ダイアモンド(草思社文庫)
  3. 『美術の物語』エルンスト・H・ゴンブリッチ(ファイドン)
  4. 『数量化革命』アルフレッド・クロスビー(紀伊国屋書店)
  5. 『戦争の世界史 大図鑑』R・G・グラント(河出書房新社)
  6. 『金枝篇』フレイザー(ちくま文庫)
  7. 『オリエンタリズム』(エドワード・W・サイード、平凡社)
  8. 『金沢城のヒキガエル』奥野良之助(平凡社ライブラリー)
  9. 『思想のドラマトゥルギー』林 達夫、久野 収(平凡社)
  10. 『想像の共同体 : ナショナリズムの起源と流行』ベネディクト・アンダーソン(書籍工房早山)
  11. 『戦争の世界史』ウィリアム・H・マクニール(中公文庫)
  12. 『イメージ 視覚とメディア』ジョン・バージャー(ちくま文庫)
  13. 『性食考』赤坂憲雄(岩波書店)
  14. 『忘れられた日本人』宮本常一(岩波文庫)
  15. 『虚数の情緒』吉田武(東海大学出版会)
  16. 『数学の認知科学』G.レイコフ、R.E.ヌーニェス(丸善出版)
  17. 『マネーの進化史』ニーアル・ファーガソン(早川書房)
  18. 『世界システム論講義』川北稔(筑摩書房)
  19. 『誰のためのデザイン?』ドナルド・ノーマン(新曜社)
  20. 『隠喩としての病』スーザン・ソンタグ(みすず書房)
  21. 『数学の想像力』加藤文元(筑摩選書)
  22. 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』マックス・ヴェーバー(岩波文庫)
  23. 『科学革命の構造』トマス・クーン(みすず書房)
  24. 『デカルトからベイトソンへ』モリス・バーマン(文芸春秋)
  25. 『レトリック感覚』佐藤信夫(講談社学術文庫)
  26. 『100のモノが語る世界の歴史』ニール・マクレガー (筑摩選書)
  27. 『八月の砲声』バーバラ・タックマン (ちくま文庫)
  28. 『世俗の思想家たち』ロバート・ハイルブローナー (ちくま学芸文庫)
  29. 『千の顔をもつ英雄』ジョセフ・キャンベル(人文書院)
  30. 『転校生とブラックジャック』永井均(岩波書店)
  31. 『ヴァギナ』キャサリン・ブラックリッジ(河出書房新社)
  32. 『服従の心理』スタンレー・ミルグラム(河出文庫)
  33. 『暴力と不平等の人類史』ウォルター・シャイデル(東洋経済新報社)
  34. 『エンデの遺言「根源からお金を問うこと」』河邑厚徳(NHK出版)
  35. 『雇用・利子および貨幣の一般理論』ジョン・メイナード・ケインズ(岩波文庫)
  36. 『興亡の世界史 アレクサンドロスの征服と神話』森谷公俊(講談社学術文庫)

おわりに

「ノンフィクション」といっても、ルポルタージュやサイエンス、ジャーナリズムからアカデミックまで、その世界は広大で豊穣だ。ガチの手記から写真レポート、小説仕立てのノンフィクション・ノベルまで、汲めども尽きない叡智の泉だ。

ここでは、そのほんのわずかを紹介してきたが、全くと言っていいほど足りないことは承知している。だから、「これは!」というものを、ぜひ教えて欲しい。なぜなら、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから。

 

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刺さる鈍器『フラナリー・オコナー全短篇』

Okona

とつひとつ読むたびに、重いもので殴られる感覚なので、感情が丈夫でないと辛い。それでいて、胸の奥まで抉り込まれた痛みが、一生刺さったままになる。O.ヘンリーの驚きと、ミヒャエル・ハネケの悪意の、幸福な結婚を味わえる。

最高に嫌になれる「善人はなかなかいない」は、人生で3回読んだが、3回とも感情が違う。わずか20ページと少しなのに、一生刺さったままになるだろう。

「善人はなかなかいない」は、おばあちゃん、息子と妻と子の家族が、自動車旅行に出かけた先で、大変な目に遭う話だ。

初読の感情

最初に読んだときは、驚いた。これで終わりにできるのか、と唖然とした。なにかの間違いであってほしいと願った。だが、どんなに目を凝らしても間違いはなく、運命は無慈悲だ。

2回で変わる

次に読んだときは、おばあちゃんに注目した。イエスキリストを信じ、自分を善なる存在だと疑わない。独善的という言葉がぴったりだが、そう言われても自分のことだと絶対に理解できない人間、いるだろ? まさにそれだ。

そんな人が信じるものが揺らぎ、崩れる瞬間を観察する。物語の最後になっても、おばあちゃんは変わらない。言葉によっても行動においても、完全に屈しているのに。この独善を、信心深い田舎者の愚かしさと見なすこともできる。

だが、おばあちゃんは馬鹿ではない。認めたくはないが、自分がした過ちは理解できている。しかもそれらは、自らが信じていたものと何の関係もなく、それでいて自分の運命を完全に変えてしまうことも理解できている。

それでも、信じていたものを信じていようと振舞う。やっぱり神様なんていなかったね。何度読んでも運命は変わらない。わたしが驚いたのは、そうした無邪気な愚かしさを、まんま信じていたからだろう。

そこに描かれる運命は、別に理不尽なものではない(「理不尽」として片づけたいけれどね)。おばあちゃんを通じて、わたしが信じ込んでいた世界とは違っていたから、唖然としたにすぎぬ。

3回目で世界が違って見える

そして、今回読んだときは、全く違った感情を抱いた。なぜなら、作者のこの言葉を目にしたからだ。

私の作品では、人物たちを真実に引き戻し、彼らに恩寵の時を受け入れる準備をさせるという点で、暴力が不思議な効力を持つ。人物たちの頭は非常に固くて、暴力のほかに効き目のある手段はなさそうだ。真実とは、かなりな犠牲をはらってでもわれわれが立ち戻るべきなにかである。
「自作について」より

恩寵(grace)とは一般に、神のめぐみや慈しみのことだ。神を信仰する心こそが恩寵の賜物だから、これはおばあちゃんの信仰を試し、裏切られる話なのか? 恩寵を失う(fall from grace)話なのかも……と考えた。

しかし、わたしの考えは間違っていた。

もう一度読むと、ラスト2ページの数行を、完全に見落としていたことが分かった。ここだ「おばあちゃんはその一瞬、頭が澄みわたった。目の前に、泣きださんばかりの男の顔がある。男に向かっておばあちゃんはつぶやいた」

次の瞬間、おばあちゃんは、完全に正しいことをする。偽善を被ってきた自覚すらなく、愚かな言動をくり返していたにも関わらず、おばあちゃんは、(おそらく)イエス・キリストがしたことと同じことをする。

もちろん、おばあちゃんは磔にされてなどいない。しかし、もしイエス・キリストがその場に立っていたならばしたであろう、まったく同じことを、おばあちゃんは口にして、行動する。

おばあちゃんは、自分が信じていたものが、これから自分に降りかかる運命に、何の関係もないことを知っている。どんなに信仰心が篤くても、何の役にも立たないことを、完全に理解している。その上で、恩寵を得る。

この瞬間にシンクロしたとき、世界が一変した。

何回読んでもおばあちゃんの運命は変わらないが、彼女は(神様抜きで)恩寵を得ており、赦してすらいるのだ。わずか一瞬なのだが、彼女が手にしたものに、ほとんど触れられるくらい近いところに居られる。これは、読むことでしか経験できない感覚だ。

読むことは経験すること

ほとんどあらすじも示さず、わたしの「感情」だけを延々と吐き出したが、オコナーの小説はそうやって示すしかないと考える。

なぜなら、そうやってでしか経験できない作家だからだ。

作品にはテーマや書かれた理由があって、その「作品の意味」なるものを読み解く―――それは教室で読むには正しいが、このやり方だと、オコナーは「グロテスクと暴力で人の醜さを暴く作家」になってしまう(それはそれでエグいが浅い)。

もし、いわゆる読み屋がやる「あらすじ+意味=評価」のような読み方だと、きっとこの「感情」にたどり着くことができないだろう。いや、読み返すことすらしないに違いない。

しかし、オコナーは違う。説明的な言い換えに抵抗し、鈍器のように胸を打つくせに、感情の深いところまで刺しにくる。「善人はなかなかいない」の他に、この作品が刺さったまま。一生かけて読み直すだろう。

  • 人造黒人
  • 田舎の善人
  • 強制追放者
  • ゼラニウム
  • すべて上昇するものは一点に集まる
  • グリーンリーフ
  • 森の景色
  • 家庭のやすらぎ
  • 障害者優先
  • 啓示

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おかしな議論にごまかされないための『論証のルールブック』

『論証のルールブック』は、簡潔で説得力のある文章を書くためのルールが、50にまとめられている。1つのルールに1つの例文、1つの解説という構成で、この本そのものが簡潔さを目指している。

ごく基本的な常識レベルのものから、見落としがちな盲点まで、まんべんなく網羅されているのがいい。いくつか紹介する。

  • 主張には根拠が必要だ
  • 数字は他のエビデンスと同じような検証が必要だ
  • 長文の論証や、口頭で伝える際、サインポストを活用する

論点先取の見抜き方

「主張には根拠が必要だ」なんて、当たり前すぎて、なにを今さらと感じるかもしれない。確かにその通りだろう。だが、実際に、事実のフリをした意見や、根拠レスの主張に出会ったとき、即座に見抜けるだろうか。

たとえば、この主張なんてどうだろう。

  聖書に神は存在すると書かれているから、神は存在する

  聖書は神が書かれたのだから、正しい

これは、結論が前提に含まれた有名な例で、何も言っていないに等しい。通常は、一文目と二文目の間に、様々なレトリックが散りばめられ、分かりにくくなっている。だが、「前提→結論」の形にすると、論点先取はすぐ見抜ける。

 前提1 神が書いたのだから、聖書は正しい

 前提2 聖書には、神が存在すると書いてある

 結論 それゆえ、神は存在する

導こうとする結論(神は存在する)が、前提の中に既に含まれているのが分かる。証明しようとする事柄そのものを真実だと決めてかかり、根拠のない主張を通そうとする。神と聖書ではなく、地球温暖化やジェンダーの議論で見かけないだろうか。

数字を使った誘導

論証に出てくる数字は、特に注意を払う必要がある。著者は、統計情報の数字は、他のエビデンスと同じく、批判的に検討する必要があるという。問題は数字そのものというよりも、その使われ方だろう。

たとえば、次の主張の数字に注意してみよう。

スポーツ推薦で入学した大学生を、選手として使い物にならなくなったからという理由で退学させることで非難された大学もあった。それは過去のこと。多くの大学で、スポーツ推薦で入学した大学生の卒業率は50%以上だ。

この「50%」という数字に説得力があるか。「多くの大学」とあるが、そうでない大学もあることになる。そうでない大学を含めると、どう変わるのか? 「50%」は以前と比べて改善されているのか……といった検証が必要になる。

数字は、数えられるものを数えた結果であるがゆえに、明確・明白な印象をもつ。人は、数字が出てくると信頼しやすくなる傾向がある。

これを利用して、外挿(既知のデータから未知のことを推測する)による数字が出てくるとき、データの信頼区間が無視されていることがある。「数字は嘘を吐かないが、嘘吐きが数字を使う」のは、この外挿のタイミングになる。

サインポストの効用

「サインポストの活用」は、実際にやっている人には当たり前すぎるだろう。むしろ「サインポストって何?」と思うかもしれない。だが、やるとやらないとでは大きく違う。

サインポストとは、論証の道しるべとなる定型的な表現だ。

たとえば、前提が複数あるとき、こう述べるだろう。「前提は3つあります。第1に……、そして2番目に……、さらに最後に……」。この太字がサインポストになる。

これを使わずに、だらだらと前提を続け、いつの間にか意見も混ぜてくる人がいる。かみ合わない議論に陥るのを避けるために、対話の折り返しでこうまとめている「あなたの主張は〇〇ですね。そしてその前提となるものは4つあるとお見受けしました」。この太字もサインポストになる。

他にも、サマリーに戻るとき、「これが私の基本的な考え方です」で始めたり、話の最後で「これまでのポイントを3つにまとめます」と述べてから進める。そもそも、今から語ろうとしているのは、論証のどこに当たるのかを、予めて伝えておくのだ。

この応用としては、スライドを大量に使うプレゼンのとき、サマリーの全体像をサムネイル化し、各スライドの右上に配置して、どこを語っているかを赤枠などで強調する。「このスライドは、全体のここを説明してますよ」というサインポストである。

主張が受け入れられるか否かは別として、話の内容が一発で通る人とそうで無い人の決定的な違いは、ここにある。

常識を復習する

このように、当たり前すぎて見落としがちな原則が、わずか200頁にコンパクトにまとめられている。

特に面白かったのは、後半の「論証を誤らせるアンチパターン集」だ。原因でないものを原因にする「不当原因」や、人格や国籍・宗教を攻撃対象とする「人身攻撃」は聞いたことがあった。だが、経験的に罠だと分かっていたものに、名前が付いていたことを知って驚いた。

たとえば、「はい」と「いいえ」のどちらで答えても罠にはまる「君はもう、奥さんを殴るのをやめたのか?」という質問は、「複問」という名前があった(どちらを答えても「奥さんを殴った」ことを認めることになる)。

また、「きっとあなたはこんな迷信に惑わされる少数派ではないと思いますが…」という誘導的な前置きは、「井戸に毒を入れる」と呼ばれている(その後の主張の批判に対し、予めプレッシャーを与える常套手段)。

こうしたアンチパターンや詭弁集は、Wikipedia [詭弁] [論点のすり替え] にもあるので、ここから始めるのもいいかも。

知っている人には今更感この上ないが、常識を問い直すという意味で、復習してみるのもいいかも。類書と異なり、第5版までアップデートを重ねており、入門書として使うのもありだ。

ロジカルに伝えるための、薄くて強力な一冊。



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ナチスのデザイン『独裁者のデザイン』

ニュースに接するとき、心の中でアラームが鳴るものと、そうでないものがある。

Dokusaisha

アラームが鳴ったものは、後になって、ニュースを装ったプロパガンダだったり、意見誘導のために歪められた情報であることが判明することが多い。100%ではないものの、おおむね信頼できる。

アラームが鳴るものと、そうでないもの。この違いは何だろう?

うまく言語化できなかったが、『独裁者のデザイン』にあった。

本書は、ヒトラー、ムッソリーニ、スターリン、毛沢東といった独裁者に焦点を当て、プロパガンダを駆使してどのように大衆を躍らせ、抑圧していったかを、デザインの観点から見直したものだ。

独裁者のイメージ戦略

デザインそのものには、右や左といった政治色や、善や悪などの道徳的な属性は存在しない。デザインとは、あくまで図案であり設計であり道具といったニュートラルな存在である。

しかし、デザインを利用する側の姿勢によっては、「謀る」という意味も発生するという。デザインは、人の心を一定の方向に動かし、奮い立たせることができる。また、その本質を形や機能と一体化させることで見えなくさせ、人々の日常に溶け込ませることができる。

つまり、デザインの使い方によっては、独裁者の本音を隠しつつ、人心を誘導することも可能だ。その具体的なイメージ戦略がこれだ。

同じ言葉やアイコンを繰り返す

たとえば、「同じ言葉やアイコンを繰り返す」デザインだ。

同じフレーズやヴィジュアルを、何度も過剰なほど繰り返す。敬礼や行進の仕方、制服などのスタイルを統一させ、それを何度も反復して行う。巨大なポスターや垂れ幕を、大量に連貼りして同じメッセージを伝える。

繰り返されるメッセージも、バカにしているのかと思えるほどシンプルな言葉を連呼する。ヒトラーの連呼で定番なのは、「ひとつの民族、ひとつの国家、ひとりの総統」だという。また、ヒトラーだと、「Ja」を連呼し、ムッソリーニの場合は「Si」を連打したとある(どちらも、「イエス」を意味する)。

他にも、イメージが統一された制服や勲章や旗、同じことを称賛するポスターや記録映画、整然たる隊列と行進、そして画一的な敬礼が紹介される。この「同じことを繰り返す」は、様々な宗教や組織において、教理や信条を刷り込み、グループと一体化するため用いられる、古典的な手法だ。

この刷り込みの手法は広告でもおなじみだ。判で押したように商品名や常套句を繰り返すことによって、他のことを考えさせないようにする。商品名だけではなく、「今からでも入れる保険」や「過払い金の請求」など、概念の連呼も効果的だ。テレビやSNSで単純すぎるメッセージが幾度も出てくるとき、何を考えさせないようにしているかを考えたほうがいいかもしれぬ。

こちらを凝視する

特に計算されているのは、「こちらを凝視する」デザインだ。

人は視線に敏感だ。2つの点に「目」を感じたり、暗闇や背後に視線を感じるのは、捕食者の存在をいち早く知るために発達した認知能力だという。その結果、凝視を向けられるとき、人は、否が応でも注意を引き付けられてしまう。

本書では、「モナ・リザ」や、アルブレヒト・デューラー、レンブラントの自画像を用いながら目ヂカラの効果を説明する。そして、様々な映像表現で凝視の力を利用することで、大衆の注意を引き付け、戦略的に不安をプロデュースしたのが、ヒトラーになる。

まず、大衆の不満のはけ口を逸らし、責任を転嫁するために敵をつくる。そして、敵の脅威を繰り返し刷り込むことで、大衆の不安を煽る。この、人の注意を引き付け、不安を煽るには、独裁者がこちらを凝視する視線が強力に働く。

ヒトラーはもういないが、アイドルから政治家まで、この手法は現役バリバリだ。まず、こちらを凝視することで、見る人の注意を引き付けることができる。そして、アイドルならドキドキさせ、政治家なら「このままでいいのか!?」と不安を掻き立てることができる。

つまり、こちらを凝視しているポスターや映像には、ドキドキや不安を煽り、そこに付け込みたい意図が隠されている。注意しなければならないのは、凝視するデザインが悪というのではない(デザインに善悪はない)。

わたしが、凝視するデザインから情報を受け取るとき、何かが掻き立てられているはずだ。そのドキドキや不安は、計算されたものだということを意識して扱いたい。

女性や子どもの使いどころ

もう一つ、本書で目から鱗だったのが「女性や子どもの使いどころ」だ。

勇壮なアイコンとして、成人男性がモチーフになる。若者だと力やスピード、壮年だと経験や安心感といったイメージを伝える目的で使われる。これが、女性や子どもを使う場合、お金を無心する意図が隠されているという。

常に敵を作り出し、その敵をただすための戦争をしかける独裁者は、資金を必要とする。強制的に調達するのは最後の手段として、できるだけ国民が自発的にお金を提供する形にしたい。このとき、女性や子どもに寄付を募らせるというモチーフが採用される。

表向きは、父や兄(など戦える男たち)は出征しているから、女性や子どもは節約してお金を集め、戦時公債を購入しようというメッセージになる。その背後には、女性や子どもが率先して資金集めをしているのだから、(老若男女に関係なく)払わねば、という気にさせる。

「金をよこせ」という生々しい欲望を、女性や子どもという緩衝材で包む。本書ではドイツ少女団(ヒトラーユーゲントの女子版)の事例が紹介されているが、今なら募金キャンペーンのキャラクターが女の子である理由やね。政治的メッセージが女性や子どものアイコンを通じて伝えられるとき、その背後に「お金」を探した方がいいかも。

デザインは人を支配する

繰り返すが、デザインそのものに善悪はない。ナチスと同じ方法でデザインをしているから悪ということではない。ナチスは、デザインが人を支配することを熟知しおり、その効果的な手法を古今東西のアートから利用したにすぎない。服飾から空間デザインまで、政治と芸術を合体させたイメージ戦略を統一し、運用することに成功した。

わたしは、そこから「デザインはどのように影響を与え、人を支配するのか」というメカニズムを学び、自分のアンテナに付け加える。次にニュースに触れたとき、わたしの心にどんな影響を与えるかを意図して作られているかを、そのデザインから読み取るためである。

REDなお、ナチス映画を通じてヒトラーのデザインに焦点を当てたものが、同著者の『RED』。プロパガンダの実践を垣間見ることができる。未来の(あるいは現在の?)扇動者のデザインを予習するのに適している。

デザインは人を支配する。その力から逃れるのは難しいからこそ、メカニズムを理解し、その意図を知っておきたい。

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辛すぎることは、向き合うんじゃない、やり過ごすんだ。『胃に穴』

わたしを支える言葉に、「開いた窓の前で立ち止まるな」という警告がある。人生は悲哀に満ちており、生きるに値しないと思うときもあるけれど、それでも生きていくためにはどうするか? そのコツが、この言葉だ。

このセリフは、ジョン・アーヴィングの2番目の傑作『ホテル・ニューハンプシャー』で知った。苦しみや悲しみが大きすぎて、生きていくのが辛いとき、真正面から向き合うのは得策ではない。まともに対処しようとするうちに、たまたま開いていた窓から出て、人生から降りてしまうから。

辛すぎることは、やり過ごす

そうじゃないんだ。辛すぎることは、向き合うんじゃない、やり過ごすんだ。

この、やり過ごす方法を教えてくれるのが、フミコフミオ氏の『胃に穴』になる(本当のタイトルはもっと長い)。理不尽な仕事での「怒り」の扱い方や、「正義」を強要する人との向き合う心得、あるいは非人道的な仕打ちを受ける結婚生活のしのぎ方が、経験談とともに紹介される。どれもめっちゃ笑えるが、笑う瞼の内側では泣けてくる。

たとえば、帰るギリギリになって面倒ごとを投げてきて、タイムオーバーか、諦めの「もういいよ」というセリフを狙ってくる部下。これ、上司が怒れない性格だと知ってやる悪質なやつ。わたしならバーンと怒ってやるのに!……とちょっとだけ思うが、たぶんやらない(やれない)。

こういう怒りを溜めておくと、どんどん苦しくなることは、経験的に知っている。ではどうするか?(答:夜半に電柱に怒る)……これ、わたしもやったことがある。毎晩同じ場所でやるとパトロールが来るので、時間と場所を毎回変えるのがポイントだ。

あるいは、正義を強要する人。気に入らない人を常時ロックオンして「あいつサボってる!」と非難する。自分の正しさを証明するために非難するだけでなく、「あいつ、マジでヤバくない?」と周りを巻き込もうとする。

そんな、人の行動のいちいちが気になり大騒ぎする人をどうするか?(答え:露骨に無視する)……これは成功して無さそうだが、「正義」酔いして我と時を失わずに済む最良の方法だと思う。

開いた窓の前で立ちどまらない

悲哀にまみれたエピソードの一つ一つに大笑いするが、ひっそり埋め込まれた一言一言が、中年のおっさんの胸にグサリと突き刺さる。

  • 「結婚はいいものだ」と言ったのは、そう言わなきゃ結婚なんてやってられないから
  • 「正義は我にあり」と信じ切っている人ほど信じがたい行動に出る
  • 他人なんてどうでもいい。大事なのは、自分の人生のジャッジを他人に委ねないこと
  • 人生のすべてで勝つことはできないからやり過ごすようにしよう。やり過ごすための言い訳は武器だ。

どれもこれも突き刺さる。「きっつー」なんて揶揄して言わないと、大きすぎる苦しみと、まともに向き合うことになる。そのとき、開いた窓の前で立ちどまってしまったら、人生を降りることになる。

人生を立ちどまってもいい。そんなのしょっちゅうだ。だが、開いた窓、通過する総武線快速、新宿NSビルの吹き抜け、そこで立ちどまってはいけないのだ。

そうしないために、『ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。』をお薦めする。

Bokuha

 

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「読んでない本・観てない映画・積んであるゲーム」について語ろう

「読みたいのに読めない本」ってないだろうか? 

私はある。よさそうなのは分かってる。有名人がお薦めして話題作だし、新刊で買ったし、今でも積読山のてっぺんに居るし。

でも、なじみの薄いジャンルだったり、思ったより歯ごたえがあったり。一通り目を通してみたものの、イマイチ自分に合わなかったり―――そんな本や映画、ゲームがある(実はたくさんある)。

今回は、そんな「読んでない本・観てない映画・積んであるゲーム」について語ってみよう。本でもマンガでもなんでもOK、積みDVDだけ語るのも良し、あなたの「気になるけど未プレイ」を存分に語ってほしい。

いつもは、推しの本を持ち寄って、まったり熱く語り合うオフ会だけれども、ちょっと趣向を変えて、「これ読めていないけど、手を出しにくくて……でも読みたいんだよね。どうすればいい?」というテーマで語り合おう。

 日 時  11/10(日) 13:00~17:00
 場 所  渋谷某所
 参加費  2千円(軽食・飲み物を出します)
 テーマ  気になるけど読んでない(観てない)作品を紹介する

いろんな趣味の人が来るから、「それに手を出す前に、これ読んでおくと(観ておくと)入りやすいかも……」的なアドバイスが得られるかも。あるいは、「あるある! やっぱりそれ合わないよねー」みたいな慰め会になるかも。

というわけで、合わないけれど、気になる本、映画、ゲームを持ち寄って、皆でお薦めポイントを考えよう。

ちなみに、わたしは「ビル・ゲイツが絶賛する本」について語るつもり。「ビル・ゲイツ絶賛」といっても本人は読んでいない疑惑や、なぜ多くの人がビル・ゲイツ絶賛本を買うのかについてお話しする。

詳細と参加申し込みはスゴ本オフ:[合わない本をお勧めする]をどうぞ。facebookアカウントない人は、twitter [@Dain_sugohon]で参加表明してください。オフ会の雰囲気や流れは、[オフ会の流れ]か、右側の「過去のスゴ本オフ」をどうぞ。

Yondenai

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«「いま・ここ」から離れる『世界文学アンソロジー』