「知らない」を知る興奮と「知ってるはず」をもっと知る快楽が得られる『驚きの世界史』

歴史の面白さは、つながる快感にある。

知っていることと知らないことがつながるとき、強く快を感じる。歴史研究から得られた知識と、本や映画やニュースで感動した経験が接続されるとき、「エウレカ!」と叫びたくなる。

『驚きの世界史』は、こうした経験と知識を繋げてくれる。

History

 

「漢族」は人工的な民族集団

いちばん驚いたのが、漢族という概念だ。

本書によると、中国人の91%が漢族で、残りの9%が55の少数民族に分かれる。9割以上が同一の民族というのは、大きすぎやしないか? 北京語と広東語は英語とイタリア語ぐらい違うと言われるし、文化や風習もまるで別物なのに、漢族で括られる。

では、そもそも漢族とは何か? この解説が面白い。漢族とは、特定の文化や言語、風習、外貌とは関係がなく、長い歴史的過程を経て、様々な民族集団が政治的に統合された人工的な集団だという。そして、その核となるものが、「中華」という世界観になる。

そして、中国の歴史とは、この「中華」の拡大の歴史だというのだ。

すなわち、中華とは異なる存在を夷狄とし、夷狄を中華に同化させ、物理的に領土を組み込んでゆく。たとえモンゴルや女真に征服されても、むしろ異民族がこの世界観に同化される。征服や入植により、満州や雲南、台湾が中華世界の中に組み込まれ、チベットやウイグルが組み込まれようとしているのが、現代になるというのだ。

この解説で腑に落ちる。

チベットやウイグルを弾圧する中国政府は、テロの脅威を主張する。だが背景には、夷狄を中華世界に組み込もうとする行動原理があるのかも……と考えると、驚くとともに歴史とニュースが繋がる。

発射装置としてのピラミッド

自分が見聞きした経験と、本書のエピソードが繋がるのも快感だ。

先日、国立科学博物館の [ミイラ展] を見てきたのだが、本書で紹介されるエジプトのミイラとピラミッドの関係がまさにそれだった。

ピラミッドが建設された目的としては、王の墓説や公共事業説が有名だが、本書では、古代エジプトの死生観から解き明かす。

当時エジプトでは、死者の霊魂はオシリス神と合一し世界に秩序をもたらす存在となって復活すると信じられていた。そのための物理的な肉体として必要なのがミイラだという。

そして、異常気象や星辰の乱れを正すため、神と合一した霊魂を宇宙に向けて発射するための装置が、ピラミッドだというのだ。「ナマのミイラをこの目で見た」という興奮と、「ピラミッドは魂の発射装置」という学説がつながる。

キリスト教徒は狂信者?

さらには、シェンキェーヴィチの『クオ・ワディス』を読んだときの違和感について。古代ローマを舞台にした傑作&徹夜本だが、現世主義で現代的とも言えるローマ人に比べ、キリスト教徒が完全に頭のいかれた狂信徒のように描かれており、そのコントラストに目を奪われた。

キリスト教徒が迫害を受けたことは知っていたが、皇帝ネロのプロパガンダを差っ引いても、ローマの世論がそれを是としていたのはなぜだろうと疑問に感じていた。

これを、ギリシャ・ローマの「市民共同体」の流れから説明する。古代地中海では、まず共同体が第一であり、兵役や納税、お祭りや礼拝といった義務を果たし、自分たちの共同体を守る必要があった。

しかし、突如現れたキリスト教徒は、そうした義務や行事を、「神の名のもとに」拒否しはじめる。ローマ市民からすると、自分たちの社会を脅かす「異物」が増殖していくような恐れを抱いたかもしれない。その上、禁欲を誇り迫害されても喜んで殉教されたがるキリスト教徒は、享楽的なローマ人の理解を超えていたというのだ。

なるほど、だから小説ではあんな風に描かれていたのか! と腑に落ちる。夢中になって一気読みをしたときの興奮と、目の前の知識がガチリと繋がるのが楽しい。

知識どうしがつながる快感

自分の経験と、本書で得た知識が繋がる快楽に加え、本書の中でも知識同士がつながるのも楽しい。

古代から現代に渡り全50章で構成されているのだが、各章ごとにテーマが区切られたブツ切りではなく、それぞれがつながりを持つように構成されている。

古代ギリシャやローマ帝国の強さ、そしてキリスト教の始まりといったそれぞれの事象は、各章を跨る「市民共同体」という概念がつなげてくれる。歴史を学べば学ぶほどイギリスが嫌いになるのが常だが、本書ではイギリスの強さと悪賢さを、「国家に黙認された海賊」という糸口から解き明かしてくれる。あと、地域と時代に限らず広範に流通する富が「銀」であるのは興味深い。

こうした、地域や時代を横断して見る概念や視点を得られたのが嬉しい。「知らないことを知る」悦びと、「知ってることをさらに知る」快楽を得る一冊。

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物語に感動するとき、その力はどこから来たのか?『物語の力』

物語に魅了されるということは、どういうことか。「感動した」「心が震えた」と手垢にまみれた言葉があるが、その心を震わせる力はどこから来たのか? これが本書のテーマになる。

「心を震わせる力=物語の訴求力」として、どのようなときに訴求力が発生するかについて、物語論の研究成果を解説する。本書では詳細に分けているが、ざっくり以下の場合になる。

  • 回復と獲得の物語:自分が直面する問題に対する解決や、到達したいと願うゴールへの筋道が描かれているとき
  • 疎遠と帰属の物語:自分とは異なる価値観が提示され、自分の価値観が揺さぶられるとき

物語の役割

小説や映画における物語は、現代では消費されるものという意味合いが強いが、昔からの神話や民話の役割を担う側面もある。それは、物語を通じた、価値観や規範の伝達だ。

物語では、何か問題を解決したり、何かのゴールへ向かって進む。その背景にあるものは、「これは良くない状況であり、問題である」「これが良い状況であり、望ましいゴールだ」「解決にあたっては、このルール・設定を守るべきだ」といった、良い・悪い・望ましいといった価値基準だ。

そして、物語を聞く人は、物語の背景にある価値や規範を自らのものにし、物語で示されるモデルを模倣しようとする。

たとえば、「自己犠牲は望ましい」という価値基準があり、それが「皆のために戦いに行く物語」になる。この物語に感動した人は、共同体のために自分を犠牲にする行為を価値あるものだと考えるようになる。いざ他部族が攻めてきたとき、立ち向かってゆくだろうし、そのような気にさせる物語が、「良い」物語になる。

「回復と獲得の物語」で訴求力を上げる

では、どうすれば「そのような気」にさせるだろうか?

「回復と獲得の物語」では、「自己効力感」と「ホメオスタシス」で説明する。自己効力感とは「自分にはできると感じる自信」のことで、ホメオスタシスとは、元に戻ろうとする力になる。

つまり、何かのストレスがかかり、マイナスの状況になったとき、「自分にはできる」と信じて手を尽くし、マイナスから回復すると、大きな快を得るというのだ。このときの「自分にはできる」という動機と、マイナスから回復する方法は、強く学習される。

より大きな快を得るためには、マイナスの度合いを大きくすればいい。主人公は、自己効力感を持たせる前に、絶望的な状況に落とせばいいし、ライバルや障壁を設けることで、得られる快もさらに一層強いものになる。

本書で挙げられた作品だと、例えば『インデペンデンス・デイ』なら失われた力や権威を回復する王の帰還の物語になるし、『のだめカンタービレ』だと絆によるトラウマ克服の物語になる。回復と獲得の物語は、ストーリーの原型とも言えるので、他にもいくらでも思いつけるだろう。

未充足マーケティング

興味深い応用として、「未充足マーケティング」が紹介されていた(別名は、物語マーケティング、ダークサイド・マーケティング)。

つまりこうだ、消費者に対して、「あなたに欠けているもの」「あなたが喪失したもの」を提示することで、購買意欲を掻き立てる方法だ。テレビのCFでは、若さ、パワー、絆、魅力、お得感など、様々な「欠けているもの」が取りざたされている。

そして、これを買えば、失ったものが取り戻せる(だから買え)とダメ押しする。失ったものとの落差が大きいほど、そして、失ったことによるストレスが強いほど、買うことで得られる快も一層強いものになる。

脱線になるが、ネットでも未充足マーケティングが実践されていることに思い当たる。「あなたが失ったもの」として、機会や権利を声高に主張し、「あなたは騙されたんだ」と煽ることで衆目を集めるやり方だ。人は、失ったものに敏感なため、未充足マーケティングは悪い意味で有用だ。

「疎遠と帰属の物語」で訴求力を上げる

異なる価値観を提示し、読者や視聴者の価値観を揺さぶる物語は、もっと巧妙に訴求力を上げようとする。単に受け手とは違う価値観をぶつけようとしても、読者がどんな価値観を持っているか分からない。

そこで、登場人物どうしで、異なる価値観をぶつけ合う。つまり、相反する価値観を持つキャラを登場させ、それぞれの内面から物語を描き出すのだ。

本書では、『デスノート』のライトとエルが挙げられている。この作品は「信頼と疑惑」の対立構造を持っており、「この社会を疑って生きていく」ライトと、「この社会を信じて生きていく」エルとの対決構図だというのだ。

物語がライトに焦点化して(ライトの視点、思考、感覚から)描かれるとき、読者はライトの思考や感情に近づけて読むことになる。一方、エルに焦点化されるとき、読者はエルに寄り添って物語を理解することになる(これを内的焦点化と呼ぶ)。

このとき、読者が各人の思想に賛同するか否かは別問題だ。物語がライト(or エル)視点で描かれているのであれば、そこから理解する他は無い。

重要なのは、物語がライト、エル、ライト……と入れ替わる度に、読み手はそれぞれの思考や感情を行き来することになり、その結果、読者自身の思考や感情から、遠くに引き離されることだ。すなわち、物語世界の中に、どっぷりと浸っていることになる

思い返して欲しい。物語の中で、極端な思考を持ち出してくるキャラがいたはずだ。そして、そのキャラは、他のキャラと反発したりたしなめられたりしなかっただろうか。それは、読み手を「読み手自身の価値観」から引き離し、物語の中に引き込むための仕掛けなのだ。

『君の名は。』のラスト90秒が凄い理由

作者は、あの手この手で物語世界の内部へ引き込もうとする。

たとえば、描写するカメラ位置。

キャラクターや描写対象に対し、カメラ(描写主体)がどこにいるかという「距離」の問題だ。シーンがスタートした時点では、引いて写すのが多く、遠景→近景→内面描写に近寄っていくのが一般だ(これを自己移入という)。なぜなら、受け手はまだ、物語世界の「外」にいるから。

もちろんこれを逆手に取ったやり方もある。特定のキャラの内面からの描写で、その人物の耳目という限定された視座で物語に取り込むやり方だ(ただしもろ刃の剣で、語り口や描写に魅力がないと離脱されやすい)。

これらをハイブリッドにすると、「物語の中のカメラ」のピントをコントロールしつつ、「キャラの内面」とを交互に出しながら、登場人物が見ている情景を、読者が見ているかのように重ねる。

本書では、『君の名は。』が持つ強い訴求力を、その「写し方」の分析から解き明かす。

瀧と三葉のそれぞれの視点を焦点化して、交互に繰り返していくことで、観客を物語世界へ誘導していく(「疎遠と帰属の物語」の内的焦点化)。

そして、1時間37分~40分をショットごとに丁寧に分析していく。次々とシーンが移り変わり、四葉っぽい女の子が映った直後の暗転(1:38:38)までが自己移入の誘導路になる。この時点まで映画を観てきた人は、瀧への内的焦点化がなされた結果、誘導路で瀧が見る映像(写真集や風景)を、「自分自身が見ている」と感じ取ることができる。

そして暗転後、映画の冒頭の、行き交う電車や通勤のシーンが、もう一度繰り返される(微妙に変えてはいるけど)。

映画の最初の時点でこれを見た観客は、当然のことながら自己移入をしていない。物語の「外」から見る、誰でもないカメラから撮った映像として眺めるだろう。

しかし、キャラの内的焦点化が培われ、暗転までの誘導路を経てきた観客は、同じシーンであっても、「自分自身が見ている」映像として感じられるはずだ。

<ここからネタバレ反転表示>

そして、ここで視線の一致という技術が使われる。登場人物が見ている対象と、まさに見られている対象を重ねるのだ。三葉が瀧を見、瀧が三葉を見ることで、瀧の目を通して「自分自身が見ている」と感じる視聴者と、瀧自信の視線を一致させているというのだ。

『君の名は。』は、もともとは「入れ替わり」の物語だったが、この時点で、2人の双方からこの物語を見直すことになる。そして二人が見つめ合うとき、それぞれの内部で焦点化されていた視座が融合する。「君の、名前は」と重なり合う声とともに―――

<ネタバレ反転表示ここまで>

―――という分析だ。本書の第6章を読んだ後、もう一度『君の名は。』を見ると、キャラへの距離と内的焦点化を緻密に計算して撮っていることが分かる。

物語の訴求力を高める一冊

『君の名は。』だけでない。

西尾維新『刀語』における描写対象との距離の絶妙なつめ方や、レヴィ=ストロースが行ったシーケンス分析を『進撃の巨人』に当てはめた解説、さらにはスマホゲーム「モンスト」がシミュレートしているものなど、小説に限らず、映画やマンガやゲームも含めた、物語が持つ訴求力を知ることができる。

物語の訴求力は、読者・観客・プレイヤーを、現実から物語世界へ没入させ、登場人物に自身を移入させる力を持っている。本書は、その力が、具体的にどのような仕掛けで働いているかを見せるのだ。

そして、そうした仕掛けを分かったうえで、もう一度感動することができる。わたしの場合、本書を読んだ後、『君の名は。』のラスト90秒を繰り返し見て、視線誘導と感情移入の仕掛けを全部分かった上で、あらためて涙した。それは、種も仕掛けも分かっているのに、一流のマジシャンの手品を、繰り返し魅入るようなものだ。分かってても、すごい。

そして、「自分の心がどのように震えたか」が分かれば、「誰かの心をどのように震わせるか」も分かる。読む人・書く人・描く人……物語を紡ぐあらゆる人にお薦め。巻末の文献ガイドが充実しているため、本書を入口に、さらに専門性の深いところまで潜りたい人にも。



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ヒストリエを20倍楽しく読む方法『アレクサンドロスとオリュンピアス』

岩明均『ヒストリエ』は、噛めば噛むほど味がある。

ただ面白いだけでなく、予備知識をアップデートして読むと、伏線や演出が張り巡らされていることに気づき、もっと夢中になれる。あの瞬間の表情の理由、あの言葉の裏の意味……噛めば噛むほど楽しめる。

万が一、これを読んでいるあなたが、未読なら、羨ましい! ぜひ堪能してほしい。絶対に面白いと断言できる。

『ヒストリエ』を、もっと面白く読む方法がある[『ヒストリエ』を10倍楽しく読む方法]では、アレクサンドロス大王の予備知識を仕込んだが、ここでは、オリュンピアスに迫る本を紹介する(この記事ではネタバレ回避して書くのでご安心を)。

アレクサンドロス大王の母であり、フィリッポス二世の妻であるオリュンピアス。蛇を崇める密儀の狂信者であり、暗殺を企んだ残虐きわまりない悪女という噂と、智勇を備え王家の血統を守らんと奮闘した王妃という悲話と、両方が伝わっている。

どちらが真実の姿に近いのだろうか。

『ヒストリエ』では、才と美の二物を与えられ、息子を溺愛し、恐ろしく頭が切れる女として描かれている。11巻で身の危険が迫り、大変なことになってるが、『アレクサンドロスとオリュンピアス』を読むと、この後さらにスゴいことになることが分かる。

暗殺の首謀者オリュンピアス

本書は、男性優位の社会で自立しようとした女性に対するバイアスと格闘しながら、史料を読みほどき、オリュンピアスの歴史的実像に迫る。

たとえば、『ヒストリエ』ではこの後、暗殺事件が起きるのだが、その首謀者としてオリュンピアスが取り沙汰される。それが事実である理由として、暗殺者の遺体に冠を被せ、犠牲式を行い、暗殺に使われた短剣を神殿に奉納した、というオリュンピアス伝承がある。

しかし、これは信用できないとバッサリ斬る。あからさま過ぎるという。

そして、この伝承は、彼女の影響力を恐れた政敵が流したプロパガンダだという。さらにこの噂を、ワイドショー的な興味からローマの作家が伝記の形で定着させたというのだ(犯人は、ヘレニズム時代の作家サテュロスとまで名指しである)。言い換えるなら、それだけ大きな影響力を持っていたということになる。

ジェンダーバイアスまみれの史料

古代史料を丹念に史料を追うと、男女の違いが見えてくる。

男が残虐な行為をしても、道徳的な判断は少なく、淡々と書かれるだけだという。

カッサンドロス配下の将軍は、敵対する支持者500人を建物の中で生きながら焼き殺したとか、ペルディッカスは政敵50人(または500人)を象に踏みつぶさせたとあるが、非難めいた言葉は添えられていない。

一方、オリュンピアスは批判的に書かれている。

たとえば、ある赤ん坊を股にはさんで絞め殺し、その母親を自殺するように仕向けたことについて、残酷だと批判され、否定的な価値判断で書かれている。敵対していたアンティパトロスの遺言「女には決して王国を支配させてはならぬ」が現代にまで伝わっているのも、その証左だろう。

エウメネスとオリュンピアス

『ヒストリエ』愛読者なら、エウメネスが気になるだろう(実は、わたしがめちゃめちゃ気になっている)。本書では、エウメネスはこんな風に紹介されている。

  • カルディア出身のギリシア人で、前361年に生まれ
  • フィリッポス二世が彼の才能を見出して登用
  • アレクサンドロスも彼を信頼して遠征軍の書記官に任命
  • 大王の治世は騎兵部隊を指揮して軍事的才能を現わす
  • 大王の死後は小アジア北東部の総督領を割り当てられる
  • 後継者戦争においても王家に対する忠誠を守った

そして、オリュンピアスの手紙の中で、「エウメネスだけが最も信頼できる友人である」と述べられている。大王の死後、孤立感を深めるオリュンピアスにとってただ一人本心を打ち明けることのできる将軍だったというのだ。

!?

あ……ありえない! だって〇〇が△△されて✖✖になっちゃうんだぜ。エウメネスとオリュンピアスの関係は最悪になるだろう。にもかかわらず、オリュンピアスはエウメネスを「信頼できる」と断定するんだぜ。どんな魔法を使うんだオリュンピアス!

ネタバレ妄想

ここからネタバレ込みの妄想な(反転文字)。

<<< 反転文字ここから >>>

『ヒストリエ』のテーマとして、「歴史は繰り返す」がある。戦争や和平といった大きな営みだけでなく、たとえば「エウメネスが惚れた女は王が娶る」というパターンがある(パフラゴニアのサテュラ、アッタロス家のエウリュディケを思い出してほしい)。

そこで、「エウメネスは騙される」が出てくるのではないか? と妄想する(「よくもぼくをォ‼ だましたなァ!!」を思い出してほしい)。エウメネスが最も大切にする存在が、人質にされるのではないだろうか? 

彼が最も大切にする存在、すなわち、エウリュディケを生かしておく。その代わりに、大王に忠誠を誓えという展開が待っているのではないだろうか(エウリュディケとの関係が示唆されているため、オリュンピアスが股に挟んで殺す赤ん坊は、エウメネスの子でもある可能性……は考えすぎだろうか)。

そして、騙されたエウメネスはどうするか?

当然、復讐だ。

しかし、単に殺すだけでは飽き足らない。オリュンピアスを絶望の淵に叩き込むには、自分が最も期待されるときに、それを裏切るように仕向けないと―――と考えると、雌伏するほかない。

優れた軍事的手腕はあるが、血筋や財産を持っているわけではないエウメネスは、自身が将軍として軍団を任されるときまで待つ。そして、時が流れ、状況が変わり、オリュンピアスがエウメネスの軍が最も必要とするタイミングに、「寝返る」という形で復讐を果たすのではなかろうか(ハルパゴスの「ば~~~~っかじゃねぇの!?」を思い出してほしい)。

ハァハァハァ……妄想しすぎだろうか。もしこの与太話が(マンガの中で)現実になるのなら、エウメネスは、我が子の料理を食べることになるだろう。

<<< 反転文字ここまで >>>

与太話はここまでにして、『アレクサンドロスとオリュンピアス』は、妄想を捗らせてくれる。「誰が語ったか」を元に、どんなバイアスが潜むか炙り出し、慎重に吟味しながら事実を狭めてゆく、ミステリのようにも読める。

Alex




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世界の見え方を変える『オーバーストーリー』

リチャード・パワーズ『オーバーストーリー』を読むと、「木」に対する見え方が変わる。

Overstory

木ってあの木? そうだ、街並みや公園で見かける木であり、山を見るときに目に入ってくるあの木のことだ。

これを読むと、木を、新しい目で見るようになる。いっぽん一本の違う木が「ある」のではなく、全体として木が「いる」ように感じられる。一つの木に焦点を当てて見るという感覚よりも、もっとカメラを引いて地表を覆う存在を想像するような……

この感覚、読んでもらうのが一番だが、このイメージで伝えたい。この長編小説に入り浸っている幸せなあいだ、わたしの心は、ずっとこの光景で覆われていた。

地上の目からすると、それぞれの木は独立している。だが、数十メートルの空からだと、互いの枝葉を譲り合いながら全体として森全体が蠕動しているように見える(樹冠が空間を譲り合う現象を、クラウン・シャイネスと呼ぶ)。そして、地面の下では、それぞれの幹から伸びた根が複雑に絡みあい、コミュニケーションを行っている。

『オーバーストーリー』も同じように見える。その前半は、8つの章に分かれた、9人の生きざまを追いかける、それぞれ独立した短編として読める。各人に象徴的な木が登場するのが面白い。

  1. 一本の栗の木を、四世代に渡り撮影し続けた写真を相続した芸術家(栗)
  2. 中国からの移民の末裔で王維の美術画を受け継いだエンジニア(扶桑)
  3. ヒトという動物を観察しつづける心理学者(楓)
  4. 素人演劇で結ばれる恵まれた若いカップル(オーク)
  5. ベトナム戦争で撃墜されるも巨木に救われた空軍兵士(菩提樹)
  6. 世界をシミュレートするゲームを作り上げた天才プログラマ(ボトルツリー)
  7. 障害を抱えながら、樹木同士のコミュニケーションを発見する科学者(ブナ)
  8. セックスとドラッグに溺れたあげく感電死→蘇生した女子大生(銀杏)

幼少期から大人にかけて、線形に描写されたそれぞれの人生は、生きることの苦しみや、ままならなさを抱えており、ちょっと読むたびにグッと胸にこみ上げてくるものがある。ひとり一人の生い立ちや思想は異なるものの、突然の不幸や社会の逆風に揉まれる様は皆同じ、風に吹かれて揺れ動く木のようだ。

中盤、ばらばらに見えていたそれぞれが、集まってくる。

考え方は違っても、何かがおかしいと感じることは一緒。非常に長い年月をかけて大きくなった木を、ただ消費するために伐採する状況に異を唱える。それぞれの大切にする木は違っていても、「このままではいけない」と声を上げ、行動を起こす。

最初は、各人の行動はバラバラで、望む結果に結びつかない。むしろ、互いを知らないまま、意図せず足を引っ張り合ったりする。共通項といえば、アメリカ合衆国という場所で生きているだけで、それぞれの信ずるがままに動けばそうなるだろう。

それが集まるにしたがって、少しずつ譲り合い、協調して、全体として振舞おうとする。草の根レベルでつながって、同じ場所でコミュニティを形成する人々もいる。互いに面識はなくとも精神的紐帯を保ちながら、結果として連携している人たちもいる。

後半は、いわば数十メートルの空から、そうした譲り合いや連携を見る。互いの人生を譲り合いながら登場人物ひとり一人が全体として蠕動している、人のクラウン・シャイネスのようだ。反発しあう人、自己犠牲に殉ずる人、裏切る人……それぞれの振る舞いが急ぎ足で活写され、数十年がいっぺんに経過する。

木のスピードで見るならば、ヒトの営みなんて、タイムラプスで早送りされた一瞬なのかもしれぬ―――そして、それこそがまさに、9つの人生が伝えていることなのかも。この小説がいちばん変えたのは、わたしの時間の感じ方なのかもしれぬ。こんな風に。

人間は、時間は一本の直線だと思い、直前の三秒と目前の三秒だけを見ている。本当の時間は年輪のように外側を覆う形で広がっているのだということを人は知らない。”今”という薄い皮膜が存在しているのは、既に死んだすべてのものから成る巨大な塊のおかげだ。

めったにお目にかからないが、読む前と世界を違ったものにする作品がある。

世界というより自分が変わる。世界の「見え方」が変わる。いかに見えていなかったかが分かり、世界の解像度が上がる。プルーストが言ったように、新しい世界を見るのではなく、新しい目で見るようになる。

リチャード・パワーズ『オーバーストーリー』が、まさにこれだ。新しい目で、世界を眺めてみよう。

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萱野稔人・御田寺圭『リベラリズムの終わり』トークイベントまとめ

世界中で嫌われている(らしい)リベラリズムの限界と未来について、萱野稔人さんと御田寺圭さんが考察するというトークイベントがあったので聴いてきた。

トピックハイライト

  • 顔で選ぶと差別だが、頭で選ぶのは差別ではない
  • 男女平等が大事なら、激務で過労死寸前の職場に女性を送り込むの? と聞くと、「そんなことは議論していない」
  • SNSで偉そうな教授はCiNiiで検索される
  • リベラリズムでは財の再配分ができない理由 ≒ 仲間意識の限界 ←ここがリベラリズムの限界
  • 多様性を重視するなら「リベラルを拒絶する人」をリベラルは受け入れるべきだが、リベラルを拒絶する人が子どもをたくさん産んでいる(ex.フランスのイスラム教徒)
  • 日本は一夫一婦制ではなく、非同期型一夫多妻制
  • リベラリストとは「リベラルを共有できる社会を守りたいだけの集団」になってしまう
  • リベラリストへの信頼が失墜しても、リベラルを捨てないために今できること

リベラリズムの現状

リベラリズムへの風当たりが強まっているという。

個人の自由は尊重されるべきだし、フェアネス重要、宗教や表現の自由も言わずもがな。財の再分配を目指し、貧困を解消するのは理想的な思想のはずなのに、世界中で嫌われているらしい……なんて言われると、私なんぞ「ホント?」と疑ってかかってしまう。

のっけからテンション高いのは萱野さん。哲学者という肩書だが、力強い物言い、主張に事実を添える話法は、気鋭の実業家のようだ。

リベラリズムが嫌われるのは、リテラシーの問題だという。ある主張を「ヘイトスピーチだ!」と糾弾するリベラルな人がいるのだが、その人自身がヘイトスピーチを無自覚にしているのではないのか? と問いを突き付ける。

たとえば、「〇〇は人間じゃない」とまで言い出すリベラリスト。それ、〇〇に「黒人」や「オバマ」を入れたら一発アウトになるのではないかという。自分が攻撃したいものだけをヘイトスピーチと言って、自分がやっていることには目をつむる鈍感さ、これがリベラリズムへの風当たりを強くしている例だという。

それを受けるのは御田寺さん。SNSの論者として有名だが、めちゃめちゃダンディ&ハンサムなお兄さんだった。

リベラリストの受けが悪いのは、その線引きに恣意性があることによる、ダブルスタンダードへの反発なのだという。差別問題ひとつとっても、差別がいけないというなら、あらゆる差別はいけないというべきなのに、そうでないご都合主義が問題になるという。

たとえば、ミスコン。女性の容姿を序列化して順位をつけるというイベントはダメだというが、じゃぁ学力による序列化はいいのか? となる。序列化による選別を批判するのなら、顔はダメで頭がいいというのは都合が良すぎやしないか? とツッコんでくる。差別はいけないのであれば、学習障害や知的障害があるけれど、学問をしたい人を受け入れなければならない。

顔で選ぶと差別だが、頭で選ぶのは差別ではない

さすがにこれは極端な例だと思う。

教育というリソース(教育者や設備・環境)が限られている以上、そこを希望する人全員を受け入れることができないのであれば、何らかの基準による選別が必要になるだろう。「差別はいけない」という主張と「能力に基づく序列化」は、どこかで折り合いを付けなければならない。

しかし、「差別はいけない」を先鋭化していくならば、「顔で選ぶと差別で、頭で選ぶのは差別ではない」という主張は、ロジックとしておかしいことは分かる。おそらく、御田寺さんは極端な例をもってくることで、折り合いをつける必要性を訴えたいのではないかと考える。

どこまで男女平等にする?

リベラルなダブルスタンダードの例として、医科大学の男女差別の話が出てくる。

女子の合格者数を意図的に抑え、差別的な扱いをしていた東京医科大学の例だ。公正に行われるはずの大学入試が歪められたとして、マスコミ各社から盛大に批判されていた問題だ。

萱野さんは、その報道側に注意を向ける。就活における男女の能力差について、新聞社の中の人に尋ねると、圧倒的に女子の方が高いという。適性試験や面接での評価、どちらを合わせても男は女に劣る。そのため、単純にテストで決めるなら圧倒的に女性の割合の方が多くなる。

しかし、新聞社の新入社員の男女比はほぼ 1:1 だ。なぜか?

新聞社の人に直接尋ねるとと、(目線をそらせながら)「それは、いろいろとありまして……夜討ち朝駆けとか議員さんのお宅に深夜にお訪ねするとか、若い女性だとほら、問題あるでしょ?」とゴニョゴニョとなる。

御田寺さんは、「それはどこまで平等にするの?」という問いに集約されるという。医科大学の話は、「医療科を選ぶとき、女性は楽な科に行きたがり、キツいところは人手不足になる」という現場の声を反映した結果だという。

もちろん、男女平等は大事だ。だが、キツい汚い仕事も、男女比を合わせるのか? という話になる。激務で過労死寸前の職場に、女性を送り込むのか? となる。そう問うと、リベラルな人は、「そんなことは議論していない」と返してくるという。

キラキラした、うま味のあるところだけ焦点があたって、ジェンダーギャップがどうのこうの言っているのは欺瞞ではないか。普遍的なところで平等化を目指す、労働者のためのリベラリズムなのではないか? ……このように御田寺さんは考えるのだが、そこはスルーされている。能力のない人へのまなざしは厳しい。

本を書く人はネットでも発信するべき?

閑話休題。ここでエゴサの話になる。

萱野さんはSNSで情報発信をしていないそうだ。ニュースなどで誰かのつぶやきを目にして、「twitter という世界がある」という程度の認識だという。いっぽう御田寺さんは、twitter などで活発に発信している。

なぜ萱野さんはネットをやらないか? その理由が生臭くて良い。萱野さんが最初の著書を出したとき、その評判が気になったという。出版社からの反応ではよく分からないので、よせばいいのに2ちゃんねるを覗いてしまったそうだ。

案の定というか、専用スレが立てられていて、執拗に徹底的に、木端微塵粉になるまで叩かれていたらしい。以後、恐れをなしてネットは見ない誓いを立てたそうな。

それでも萱野さん、やはりネットに興味があるようで、SNS言論の猛者ともいえる御田寺さんに「どうですかね? ネットの評判って?」と水を向ける。返答がこれ。

「ネットで言われていることを、知らないほうがいいですよ。(私は)なりゆきでこうなってしまったけれど、なれるものなら真人間に戻りたい……」

SNSで偉そうな教授はCiNiiで検索される

ちょっと話が逸れて、「言論の担い手の変化」になるのだが、これまた面白い。

ゲンロンといえば、昔は知識人・思想人のものだった。言論「界」という名は体を表していたという。90年代は、職業的な知識人のものであり、例えば柄谷行人が大きな影響を与えていた。

だが、今や「よくあんな議論が成立していたなぁ……」と隔世の感だそうな。思い込みだけで「思想」しており、誰も説得できないゲンロンが成り立っていたらしい。

今やSNSで言論が形成される時代になっている。これは、言論の民主化ともいうべき、喜ばしいことでもあるのだが、一方で、Google によって、いくらでもどこからでも反論・反証が取ってこれる時代になったともいえる。

昔は、大学の教授なんてほとんどお目にかかることもなく、ましてやコメントをやり取りするなんて方法もなかった。だが、今や「上野千鶴子にリプライが送れる時代」になった。偉い先生に「嘘つかないで、違うでしょ?」とメッセージを送り、それが衆目に晒される。

そして、偉い教授から反論が来たり黙殺されたりすることで、マウントの取り合いとなる。偉そうな教授がドヤ顔していると、CiNii で検索される。ご想像どおり、twitter に入り浸っているような教授は、まともに論文書いていないのがほとんどで、「論文書け」とバッサリ斬られる。

こうした丁々発止の中で、言論が形成されてゆく。こうしたオピニオンの民主化は、リベラリズムの成果なのかもしれぬ。

財の再分配は、どこまでするの?

萱野さんが、踏み込んだ議論をする。曰く、「リベラリズムでは、財の再分配はできないのではないか?」という問いだ。

象徴的な例として、EUにおける極右の台頭や、Brexit の動きを挙げる。その背景に、「自分たちの税金は、自分たちで使いたい」という思いがあるというのだ。

つまりこうだ。EUに所属していくために重い負担金がかかる。そのうえ、自分たちの財政を自国のために使えない。本当は自国の福祉政策に使いたいのに、EU本部のエリートの一存で、移民政策に割り当てられる。国民主権の思想からするならば、税金をどう使うかは国民が決めるのに、そうではない現実が揺れ戻しを招いている構図だ。

他の例として、貧困の救済が挙げられる。リベラリズムをグローバルに考えるなら、貧困問題を解消するために、日本の税金を最も効果的に使う場所はアフリカの貧しい人々だろう、となる。それは極端ではないかと思うが、ロジックとしては成立してしまう。

いま私が感じた「極端さ」について、萱野さんはこう問うてくる。財の再分配する範囲を決めているのは、文化や歴史を共有しているグループ(≒仲間)意識ではないかと。そこを超えて再分配しようとすると、反発が生じるのではないかと。そして、ここがまさにリベラリズムの限界なのではないかという。

「リベラルを拒否する人」をリベラリストは受け入れられる?

これに対し、御田寺さんは、EUの揺れ戻しに着眼する。

個人の自由を尊重するならば、「リベラリズムを許容しない人」の自由も尊重することになる。西欧主義的・キリスト教的なリベラリズムと相いれない、たとえばイスラム教を信仰する人も、リベラリズムを信じる社会へ受け入れることになる。

欧州でイスラム教を信じる人々が一定のプレゼンスを持っているのは、こうした背景による。リベラリズムを信じて、広げよう広げようと努力するほど、リベラリズムを信じない人を受け入れることになる。

これを拒否するのであれば、結局リベラリストとは、「リベラルを共有できる社会を守りたいだけの集団」なのではないか、とツッコミが入ってしまう。これはキツい言い方だが、理屈を進めるとそうなってしまう。

リベラリズムは、批判したい相手を叩くのに便利だが、強烈なブーメランにもなることが分かる。

暗い予想図

リベラリズムが蔓延した未来がどうなるか? 

御田寺さんが描く未来予想図は暗い。めちゃめちゃ暗くさせられる。しかし、エビデンス付きで見せつけられると嫌でも考えざるを得なくなる。

結論を先に言うと、リベラリズムは滅亡する、になる。理由はシンプルで、子孫が増えないから。エビデンスは北欧の出生率を見よという(日本よりひどい、という発言があったと思ったが、今調べてみるとそんなことなさそう……聞き違いかも)

<追記ここから>

御田寺さんに尋ねたところ、聞き違いではなく、フィンランドの出生率は減少傾向になっており、2018年には1.4で日本と並んでいるとのこと(ご教示ありがとうございます!)。さらに探してみると、フィンランド統計情報があった。

これによると、2010年までは持ち直したものの減少傾向にあり、特にここ数年、急激に低下しており、2018年で1.41に至っているとのこと。減少傾向に地域差はなく、フィンランド全体として起きている現象で、最も激しいのは首都ヘルシンキ(1.23)になる。1900-2018までのフィンランドの出生率のグラフは以下の通り(Statistics Finland「Steep decline in the birth rate continued」より引用)

Total fertility rate in 1900 to 2018

またForbs「最高レベルの子育て政策も無駄? 急減するフィンランドの出生率」によると、フィンランドは、ヨーロッパの新しい日本になりつつある、と解説されている。

<追記ここまで>

個人主義を重んじる傾向が強くなると、産まない自由を選ぶ女性が増えるという。子どもを持つことよりも、個人としての幸せを追求する人が増える。「自分の人生を、子どもに左右されくない」という意思は、尊重されなければならないから。

子どもを産むということは、その子どもを育てるためにコミュニティの中に入り、そこで貢献することが必要になる。これは、個人の自由を目指すリベラリズムと、非常に相性が悪いという。

再生産する人口が続けられなくなるなら、そのコミュニティは消滅する。これは歴史が物語っている。

いくら人権意識がアップグレードされ、平等と公正が浸透したとしても、次の世代がいないのであれば、それは緩慢な自殺になる。リベラリズムの蔓延は、この致命的な欠陥があるが故、詰んでいるというのだ。

そして、この話をすると、反論のエビデンスとして、フランスが持ち出されてくるという。フランスはリベラルが支配しており、政府が支援する多文化主義政策が功を奏し、出生率が上がっていることが指摘される。

これに対し、御田寺さんはイスラム教の人口比を見よという。「リベラルを受け入れない人々」をリベラルが受け入れた結果、産めよ増やせよとなっているのは、イスラム教を信じる人々だというのだ。

萱野さん「生き延びることを重視する保守が最後には生き残るのかもしれない」

御田寺さん「そこにリベラリズムが勝利をおさめるかの分かれ目が、今なのです」

絶望的な未来で、めっちゃ嫌ぁな気にさせられたけれど、調べて、選んで、決めていかなければならない問題であることは身に凍みた。

質疑応答

60人くらい集まってたんだけど、QAがめちゃめちゃ熱かったなり。いわゆる信者乙ではなく、批判的なやり取りもあったが、お二方とも終始真摯に応対していた。全員の興味は、「問題があるのは分かったけれど、どうすればいいの?」だったように見えた。

Q1:「再配分の範囲は国民国家」という萱野さんの主張について。それはそのまま、国家間で資源の奪い合いという、いつか来た道になる。国家の税収は国家の軍隊は守る。一方で、国際社会での再分配も求められる。そのバランスをどうとっていけばいいのか?

A1:萱野さん。国際社会で再分配をしようとすれば、(良い悪いは別として)世界国家のような存在が出てくる。そんな存在を望んでいない、今の国家の枠組みを考えるならば……という前提で、例えば『永遠平和のために』がヒントになると思う。国家が自分勝手に振舞うとき、その振る舞いを正当化しようとする。そのとき、法や倫理に訴えようとするはず。自国の権利を認めて欲しくば、他国の権利を認めるしかないことになる。

御田寺さん。『暴力と不平等の人類史』『金持ち課税』がお薦め。分厚くて高い本だけど、要するに、暴力的な事件が起きたとき、富裕層に課税が起きてきた歴史を振り返ると、そこに大きなヒントがあるんじゃないかと。

『暴力と不平等の人類史』は今年読んだスゴ本だったけれど、これ、一言でいうならば、人類を平等にする最たるものは戦争だということを、徹底的なエビデンスで殴ってくるやつだった。これをさりげなくブッ込んでくるところに笑えたなり。

Q2:『リベラリズムの終わり』でモヤっとした。女性が男性を選べない一夫一妻制の方が、家父長的で女性差別的だと考えるが、どうお考えか。

A2:萱野さん。生涯未婚率を見ると、男性が高く、女性は低い。つまり、男性のほうが生涯独身である可能性が高く、女性は人生のどこかで結婚している。これが物語っていることは、特定の男が(時間差で)何度も結婚していることになる(御田寺さん「非同期型一夫多妻制」)。

御田寺さん。結婚制度が一夫一婦制だと、人口動態的にはどうしても暗い未来になる。だから、婚外子差別撤廃やシングルマザー支援、精子バンクによる結婚を経ない妊娠といった「リベラルな」対策があり、現にフランスで実施されている。

だが、歴史を振り返ってほしい。昔は一夫多妻制だったが、現代に近づくにつれ、一夫一婦制になってきた。それはなぜか? 一夫多妻制の場合、「夫」になれなかった男が、社会に協力しなくなるという事実があったから。男性にとっての生きがいとなる伴侶が得られない怨念はすさまじく、[カナダのインセルの事件]も記憶に生々しい。

一夫多妻制度よりも、遺伝子を残すという保証を与える社会の方に収れんしてきたことには、それなりの理由がある。そこを壊そうとすると、何が起こるかは、想像したほうが良いかも。

萱野さん。ライオンやサルの研究で、アルファ雄が雌を独占するハーレム型社会の場合、あぶれた雄はアルファを追い落とそうとする。この場合、外敵に対して、雄どうしで協力しあう可能性は少ない。

そこで、結婚というものは、男同士の連帯を強めるための制度でもあったという研究もある。つまり、家族の女性を交換しあうことで奪い合わずに済ますための合理的な手段だという側面もある。

Q3:ソーシャリズムについて。『リベラリズムの終わり』では、いったん自由主義への揺れ戻しがあった後、ソーシャリズムに行くのかと思っていたらそこで終わっていたので、ソーシャリズムについてどう考えているか聞かせてほしい。

A3:萱野さん。ソーシャル・ヨーロッパの話として考える。再分配の議論になったとき、どれだけの合意形成が得られるかは、分配先をどれだけ「仲間だ」と思えるかどうかによる。たとえば、トルコがEUに加盟できない理由があれこれ挙げられているが、結局のところ、ヨーロッパ精神的な紐帯と相いれない土壌だから(≒仲間ではない)ではないか。

リベラリズムの考え方(公平性や再分配)はある程度わたしたちの中に内面化されているが、ではどこまで再分配ができるか、自分のものをどれだけ分け合えるかは、問題として残っている(例:田舎に引っ越したら、ゴミ捨て場の管理など共同体の相互扶助の干渉が厳しい)。

御田寺さん。結局のところ、リベラルも相互扶助も「いいとこどり」をすることはできない。「除夜の鐘がうるさい問題」が象徴的で、再分配は受けたい、共同体の嫌な所はご免被るのは成り立たない。共同思想の良いところをとるのであれば、自分たちのリソースを供出する覚悟が必要になる。

Q4:男に生まれて女の心を持つトランスジェンダーについて。フェミニストからは、「お前らはしょせん、化粧したおっさんではないか」と非常に風当たりが強い。これは、リベラリズムへの反発の揺り戻しの一部ではないか? しかも、女に生まれて男の心を持つ人は、この議論の俎上にすら上がっていない。今後、揺り戻しが激しくなったとき、LGBTの特にTに相当する人は、批判を受けやすいことは明らかだが、生き残るためにはどうすればよいか?

A4:御田寺さん。「いいとこどり」と同じ。自分が肩入れしたいときにリベラルを振りかざし、都合が悪くなると掌を返し、「おまえはリベラルの仲間ではない、なぜなら……」と理屈を並べ立てる。それこそが、リベラルに対する信頼を失わせ、リベラリズムをゆっくりと死に至らしめる行為になる。

そうしないためには、公平性を持って、一人ひとりが声を上げていくしかない。都合よくリベラルを標榜する議論には、そのおかしな点をきちんと正していかないといけない。それは、うすらリベラルを攻撃してスカッとするためではなく、バックスラッシュが起きたとき、リベラリズムを捨てないようにするため

Q5:リベラルな中で、子どもを増やすにはどうしたらよいか。恋愛市場では魅力のある人が楽しい思いをし、そうでない人は辛い思いをする。たとえば「家族がいて子どもがいるのは楽しい」というロールモデルを広めるとか、どうすれば非モテ男性が生き延びていけるか。

A5:御田寺さん。人間の行動規範を変えるのは難しいが、テクノロジーが解決する場合もある。たとえば人工子宮や精子バンクという選択肢もある。ただし、遺伝子的な選別があるという課題を内包している。自由に選べる場合、能力の高いほうを選びたくなる。それはゆるやかな選民思想であり、ゆるやかな優性思想でもあるのだから。

まとめ

気づいたら2時間30分を超えていた熱いトークだった。萱野さん、御田寺さん、参加された方、そして蔦屋代官山スタッフの皆さま、おそろしく充実した時間をありがとうございます。

なるほど! と思う反面、それは言い過ぎかも……という点、調べてみないと鵜呑みはできないところもあった(特に北欧の出生率が日本より酷いという指摘)

お二人とも、リベラリストが嫌いなのだと思っていたが、どうやらそうではなさそうだ。リベラリズムには良い点、悪い点があり、どこまで進めていくべきか、折り合いを付けようという考え方だった。

特に御田寺さんが嫌いなのは、リベラリズムを便利な棒として振り回し、都合が悪くなると謎の言い訳をしだす人々なのだということも分かった。それは分かるが、リベラリストを詰めるために、極論を推し進めているようにも見えた(「顔」と「頭」を等価にしている点など)。

だが、その論法はまさにネットで見かけるリベラリストのやり方だ。リベラリストの皮をかぶった自己中心主義な論客に向かって鏡のように振舞うことで、古の2ちゃんねるのキャラクターのように言いたいのかもしれぬ。こんな風に。

    ∧_∧ 
  ( ´∀`)< オマエモナー

御田寺さんは結構キツい、絶望的なことを言っているものの、リベラリズムそのものに見切りを付けようとはしていないようだ。むしろ、そのフェアネスを重視するからこそ、フェアネスへの信頼を失わせるような人にキツくあたっているように見える(A4の結論)。

メモと記憶を頼りに書いているので、誤り等があったら全てわたしの責任になる。いずれにせよ、書籍を読んであらためて考える。

 

 

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ヒットする物語の作り方『SAVE THE CAT の法則』

『SAVE THE CAT の法則』 には、大ヒットする映画の法則と、それを適用する方法が書いてある。ベストセラー小説やゲームにおける、物語のベストプラクティスとしても使える。たとえば、

  • どんな映画なのか、一行(ログライン)で言えるか
  • 「マトリックス」と「モンスターズ・インク」は同じ映画
  • 全てのシーンに葛藤が必要な理由
  • 原始人でも分かる、原初的な感情や欲求に立ち戻れ

など、気づきが山のように得られる。目からウロコというよりも、見ていたはずなのに分かっていなかったことが、言語化されている

一行で心をつかむ

いちばん刺さったのが、「一行で言える?」である。どんなに優れたシナリオでも、説明するのが複雑すぎて、「一行で言えない」なら不合格だ。しかも、その一行でその気にさせなければならない

つまりこうだ。脚本であれ小説であれ、首尾よく書き上げたとしても、それを読んでもらわなければならない。そして、読んだ人が「これは傑作だ!」と思っても、それを他の人に伝えなければならない。さらに、伝えられた人が、読む気になってもらわなければならない。

映画や小説、アニメーション、ゲームなど、物語の媒体を作るには、大勢の人を巻き込む必要がある。商業ベースに乗せるには、さらに多くの人の手を経るだろう。それだけでなく、リリースした後は、その作品を楽しんでもらいたい観客がいる。

そうした人を動機付け、後押しするのがログラインになる。端的で魅力的なログラインのために、徹底的に考え抜けという。これ、物語だとキャッチコピーになるし、記事や論文ならリード文だね。小説やゲームのキャッチコピーを考えたり、記事や論文でリード文を練る際には、必ずログラインを何度も確認することになる。

さらに、創作が行き詰まり、キャラやシーンを扱いあぐねるときがある。増やすべきか削るべきか、あるいは変えてしまうべきかが分からなくなる。そんなとき、作者は必ずログラインに戻ってくる。ログラインは物語の背骨だ。「ログラインが無いと、物語にならない」とまで言っていい。

「マトリックス」と「モンスターズ・インク」の本質

衝撃を受けたのが、「マトリックスとモンスターズ・インクは同じ映画」のくだり。他にも、「エイリアンと危険な情事」や、「トッツィーとフオレスト・ガンプ」が同じ映画だという。キャラも設定も展開も違うように見えるのだが……

しかし、著者は、違うところを見ている。大量のタイトルが出回っていても、そのひな型となるものは限られている。見た目の違いに惑わされず、いつの時代でもストーリーテリングの本質は同じだという。紐解いてみると、昔ながらの使い古されたストーリーに、時代性が加わっているだけなのだ。

物語のひな型として、面白い名前が付けられている。「マトリックス」と「モンスターズ・インク」は、「組織のなかで」だという。つまり、新たな組織の中に入り、そこでの葛藤や成長を描いたものだ。「エイリアン」と「危険な情事」は、逃げられない状況で迫りくる危険として「家のなかのモンスター」と名づけられる。「トッツィー」と「フオレスト・ガンプ」は、「バカの勝利」なんだって。

もちろん、ひな型からはみ出る部分もある。だが、ある映画を観るとき、それは一体どんなひな型を元にしているのか? と考えると、「そのひな型をどうやってはみ出し、ひねりを加え、アレンジしているか」が見えてくる。この視点は盗みたい。

最重要なもの=葛藤

伝授してくれる様々な手法は、映画のシナリオだけでなく、物語づくりの根幹にも届く。

映画を構造化し、それぞれの要素を視覚的に表した「ビートシート」や、それぞれのシーンで何が起きてどうなるかを一枚にまとめた「カード」、キャラクターの設定で気を付けること、どの時点で何を伝えるか(あるいは伝えないか)、プロットの転換点はどう扱うかなど、非常に具体的で分かりやすい。

映画に特化しているものの、それぞれの手法において、ある1つの原則が貫かれていることが分かった。そして、その原則はそのまま「人が一番面白いと感じるものは何か」につながる。

それは、「葛藤」だという。

人はもともと、葛藤している人を見るのが好きだという。人間同士の葛藤の最たるもの(殺し合い)を模したものが、レスリングやボクシングになる。

葛藤は、「欲しい」「嫌だ」という方向を持っており、原始的な感情や欲求に裏打ちされている。原始的な欲求とは、「生き残る」「セックスする」「愛する人を守る」「死への恐怖」といった、時代や文化を超えた普遍的なものだ。そうした欲求が阻害されるとき、葛藤が生まれる。

たとえば、「目の前に迫る危険 vs.死ぬのは嫌だ vs. あの人を守りたい」とか、「落ちこぼれの僕だけどあの子と仲良くなりたいのにライバル出現」、あるいは「キライなあいつがなぜか寄ってくる」のように、欲求とそれを阻害するもの、どちらを取るのか、ジレンマといった争いやもつれになる。

物語を摂取する根本理由

乱暴にまとめるなら、人は葛藤を見たいので映画を観る。主人公が葛藤を克服し、欲求を満たすとき、観客は、一番基本的なレベルで共感できる。これが映画の快楽になる。主人公の葛藤をドライブするのがストーリーといえるだろう。

だから主人公は、物語の中で一番葛藤し、最終的に一番大きく変化していなければならないという。シーンをまとめたカードには、必ず何らかの葛藤が入っていなければならない(どんなに出来が良くても、葛藤のないカードは捨てろとまで断言する)。そのために、わざわざ「葛藤」を示す記号まで作っている。それぐらい重要なのだ。

ここ、小説の創作技法と同じだ。カート・ヴォネガットの指南で、「たとえコップ一杯の水でもいいから、どのキャラクターにも何かを欲しがらせること」を耳にしたことがある。何も望まず、嫌わないキャラクターなら、最初から登場しなくても良いということか。

ヒット作のリバースエンジニアリング

もちろん、こうした原則を守れば大ヒットすることが保証されているわけではない。監督や俳優など、ヒットを左右する様々な要因があるし、シナリオ通りに作られる保証なんてもっとない。

だが、大ヒットした映画のシナリオは、全てこの原則になっている。本書は、ヒット作のシナリオを理解・分解・再構築した、いわゆるリバースエンジニアリングによる指南本なのだ。

注意しなければならないのは、「メチャメチャ売れる映画」であること。個人的な好みは置いといて、映画としての出来も置いといて、「売れる/売れない」で判断すると、こうなる。

一行で心をつかむ、ひな型をアレンジする、葛藤をドライブするのがストーリーなど、映画に限らず、物語を作るうえで役に立つことが学べる。ずっと積読だったのを、ふろむださんに後押しされてで読んだら正解だった。ふろむださん、ありがとうございます。

ただこれ、読み込みすぎると、映画を観るときに分解する癖がついてしまうだろう。(ハリウッド)映画がもつ「面白さ」の完全なるネタバレ本でもあるので、もう二度と、あのワクワクするような気分で観れなくなるかもしれない。消費の側にいたいなら、手を出さない方が吉かも。

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「驚きたい」という欲望を満足させる『驚異と怪異』

不思議な生きものや、奇妙な出来事が好きだ。

未知の怪異に触れ、驚きたいという欲望が、わたしの中にあるのかもしれない。

異形や怪異を追いかけるうちに、自分の知っていることとのつながりが見えてくる。未知の中の既知に気づく瞬間、知的興奮はMAXとなり、肌が粟立つ。1000年前の伝説と、今年観た映画がつながるとき、人の想像性や認知の境界を撫でているような感覚に陥る。

想像界の生きものたち

『驚異と怪異』は、これを想像界の生きものでやったものだ。元は国立民族学博物館の特別展で、古今東西の想像上の異径のいきものを集成したものだ。

たとえば、「人魚」が面白い。人魚のミイラが出てくるのだが、これは江戸時代の見世物だった。上半身が猿で、下半身が魚の干物を接合させた作り物である。童話に出てくるマーメイドとは異なり、グロテスクで異様な姿をしているが、見るだけで運気が上がり、吉兆とされる妖怪だ[ググるとグロいで]

いっぽう、マーメイドは若く美しい女性の上半身と魚の下半身になる。ジュゴンがモデルとされているが、これは人の女性器そっくりのアソコを持つが故、血気盛んな船乗りたちが慰みものにしたからという説を耳にしたことがある。同じ人魚でも偉い違う。

他にも、龍、河童、天狗といったおなじみの(?)怪異から、ありえない霊獣・幻獣・怪獣、さらには、ファイナルファンタジーXVでデザインされた異形のクリーチャーや、五十嵐大介が描いた現代の異類までが一堂にひしめき合う。ページをめくるたび、異形に驚き、知的興奮を刺激されることを請け合う。

異形のバラエティ≒想像/創造力の限界

非常に面白いのは、こうした想像上の生きものを、古の人々がどのように造形化してきたかにある。絵画や彫刻にすることで、驚きを理解できる形にしようとする。未知のものを想像するためには、既知のものから類似した要素や構造を組み合わせて心象を描くほかない。

自分の知識と異形の姿を照らし合わせると、そうした表象の基盤が、ある程度パターン化されていることが見て取れる。地域や文化を超えて、人類共通の認知機能の限界というか、輪郭のようなものを垣間見ることができる。

たとえば、古今東西の合成獣(キメラ)の共通項を探したり、マレーシアの龍の精霊に日本の昔話を思い出すことができる。ラーマーヤナの鷲の王にイカロスの墜落を重ねたり、人間植物と呼ばれる古の絵に小野不由美『十二国記』や、西遊記の人参果を重ねて興奮する。

もちろんアイデアの拡散や伝承はあるのだが、ヒトの姿かたちが似通っているように、ヒトの認知機能も変わっていないのかもしれぬ。そして、それらを集めていくと、それが人の想像(創造)力の全体になるのかもしれぬ。

怪異=天からの警告

さらに面白いのは、日本における怪異の扱いだ。

平安時代の史料で「恠異(かいい)」として記録されたものは、神仏が送った危険信号だとしている。国が乱れるとき、その予兆として理解を超えた出来事が起きるという。出産異常や、怪物の出現、妖言の流行など、人知を超えた秩序「天」からの警告が、怪異だという考え方だ。

たとえば、奈良の大仏が水に濡れたり、寺社の大木が突然枯れたり、気味の悪いことが起こると、都に報告される。そこで卜(うらない)が立てられ、何かの予兆なのか、それとも問題ないのかが判断される。怪異だと認定されると、神仏にお詫びの使者が立てられ、天皇は一定期間の慎(謹慎)によって誠意を示す。

結果、神仏が予告した内乱や飢饉、疫病などの大惨事は「回避」される。つまり、神仏が発した警告を天皇が理解して社会を救ったことになる。これにより、権威が強化できる。

一方で、災いが起きたらどうなるか? その場合は、「まだこれだけで済んだ」「謹慎していなければもっと酷いことになっていた」と言い張る。世の乱れや災いを一身に背負って治める象徴的な存在は、どの時代でも語り継がれてきた(最近なら『天気の子』だね)。

行政ツールとしての怪異

重要なのは、この「大仏が濡れた」という現象を怪異として扱うところに、政治的な判断がなされている点にある。寒暖差から屋内の水分が結露したり、建材の水分が放出されることは時折あったはずだ。

これを「卜を立てる」ものと見なし、怪異として認定する背景には、都を飛び交う流言飛語や人心の不安があったのだろう。悪い噂が増えているからこそ、「水に濡れた」現象を怪異として認定し、それを治めるというリアクションをする。つまり、マッチポンプの行政ツールとして怪異を創出しているのである。

非科学的と言うのは簡単だが、「行政ツールとしての怪異」の構造は、現代のエコノミストがやっていることと、本質的に同じに見えてしまう。

ページをめくり、未知の怪異に驚き、既知とのつながりに気づいて楽しむ、知的興奮度MAXの一冊。

 

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GDPがどういう値なのか、ちゃんと理解できていますか?

数値化されるということは、標準化された手続きによって計測・集計できるから、そこに人の思惑や裁量が入り込む余地なぞ無い、と思っていた。

ところが、GDPについては違うらしい。

『GDP 小さくて大きな数字の歴史』を読むと、GDPがどういう数字なのか、実はちゃんと理解できていなかったことが分かる。

あまりにも馴染み深い言葉なので、皆その意味を考えてみようともしないという。「GDPとは何か」について聞き知っていても、「GDPがどうやってできているか」については、ほどんどの人は理解していないらしい。テレビで語っているエコノミストも然りだという。

本書によると、GDPは、国の経済状況の大まかな指標値ではあるが、国の面積や平均気温を測定するのとは訳が違うという。自然現象を測定するような客観的なものではなく、人の判断が入り混じった、思惑や裁量によって左右される数字だというのだ。

Gdp

 

恣意的なGDP

GDPとは何か? 国内総生産(Gross Domestic Product)の略で、ある年に国内で生み出された付加価値を合計したものだ。基本的な考え方として、「国内で使われたお金を全部足したもの」を元にGDPが計算される。

その定義と求め方は、国連が作成した国民経済計算体系(SNA)にある。それをExcelか何かで計算すりゃいいと思いきや、722ページという長大なものになる(プラス、解説とマニュアルが400ページ)。

なぜ計算がそんなに膨大になるのか? ここに着目すると、面白いものが見えてくる。計算する要素としては、売上高、輸送費やマージン、税金、輸出入、在庫増減、中間財、政府へ販売した分などがあるが、それをどう扱うかが、非常に複雑なのだ。

GDPのあいまいさ

たとえば、「消費」と「投資」の境界があいまいだという。一般人が10年使う車は「消費」だが、企業が2年使うソフトウェアは「投資」になる。在庫の増減は、意図的だろうと結果そうなったであろうと、「投資」扱い。

さらに、「国内で使われたお金を全部足したもの」から引くべき中間財の計算方法が厄介になる。インフレ率、季節変動の調整や政府支出など、それぞれ計算が違う。支出と収入は原則として一致するが、データの出どころが年次、月次、サンプルなど多種多様に異なっており、寄せ集めた結果が一致することは決してない。結果、統計的差異はかなり大きなものになる。

たとえば、貧しいと言われているアフリカの経済について。10年前の使い物にならないウェイト調整でインフレ率を計算していた例がある。正しいウェイトで計算しなおしたところ、実質GDPの値が跳ね上がったという。実は、サハラ以南のアフリカ経済は、ここ20年間、正式な値の3倍のスピードで成長していたというのだ。

なぜ、不正確なウェイト値を長いあいだ使い続けたのだろうか? 政府の単なるミスに帰着してもいいが、見かけより低いGDPは、「貧しいアフリカ」というイメージを演出する恰好のエビデンスとなり、援助機関からより手厚いサポートが得られるかもしれないと考える理由となったことは想像に難しくない。

あるいは、サービス分野が弱い点について。小売店からオンラインショップへの移行をどう計算するか、家事労働や政府支出、金融サービス、研究開発費はどこに含めるのかといった境界の問題が発生している。こうした境界をどこに引くかによって、GDPは数パーセント変わることもある。

[ロイターの世界こぼれ話]にある、売春や麻薬取引をGDPに含めるかという議論が面白い。EUの算出基準では、売春や麻薬取引をGDP計算に含めるよう求めているが、フランスは拒否し、イギリスとオランダは受け入れている。これにより、イギリスは1%、オランダは0.4%もGDPが押し上げられるという。

GDPの計算に何を入れて、何を入れないかという問題は、政府の思惑や恣意性が強く反映される。いつ定義を変えるかというタイミングも重要だ。GDPだけで比較することは、かなり乱暴な議論だというのは明らかだろう。

イメージ戦略としてのGDP

こうした不確定さに加えて、定義の変更が加わる。

サービス分野の弱点を補うため、GDPの計算において、商品の「質」の変化を入れたり、サービスにおける「生産」の定義を変えている。

たとえば、商品の「質」の変化については、ヘドニック指数による調整が紹介される。パソコンやカメラなどは、技術革新によって著しく性能が向上している。言い換えるなら、同じ性能のパソコンの値段が、昔と比べて下がっていると言える。価格だけで計算するなら下がってしまうため、性能などの質を考慮した計算方法が必要になる。

あるいは、サービスについて。そもそもGDPは物質的な生産を重視する考え方から始まっているため、サービスは例外的に扱われていた。ところが、サービス業の比重が大きくなるにつれ、無視するわけにはいかなくなった。

特に金融サービスで流通するお金は莫大で、2008年より生産的な活動として計上されるようになったという。あたかも、製造業者が原料から価値ある製品を生み出すように、銀行はリスクをとることでより高いリターンを「生産」しているという考え方だ。

こうした定義の変更により、面白い現象が見られる。もともと世界経済で傑出しているのがアメリカ合衆国だが、同時にこうした定義の変化をいち早く取り入れることで、諸外国に比べ、より有利な計算方法でGDPを算出している。

米国は2008年にこの制度を導入したことで、金融危機による世界経済の冷え込みの中、金融サービスがGDPを大幅に押し上げるという、矛盾した(でも正当な)結果になる。アメリカ経済の「強さ」は、こうした変化に柔軟に対応することで、自国により有利なイメージを見せる戦略にも裏打ちされているのだ。

MONIAC:コントロールできる経済

経済史を遡りながら、GDPの概念に潜む考え方を暴くのも楽しい。

1940年代の米国では、「政府は経済をコントロールできる」という風潮があったという。計量経済学モデルを用いて国内需要を管理し、金利と投資の関係を見ながら、増減税と財政支出を制御することで、あたかも自動車を運転するかの如く経済をドライブできるというのだ。

その象徴的なものが、MONIACというアナログ計算機である。沢山のタンクやパイプが接続されており、そこを流れる水は、銀行や消費者支出、貯蓄、外貨準備といった経済活動の様々な側面を現わしている。いわば、経済の視覚化とでもいうべきか。

Moniac

MONIAC
https://ja.wikipedia.org/wiki/MONIAC

タンクが一杯になりそうであれば、バルブをゆるめて水を逃がし、あふれるのを抑制する。循環する水はお金であり、バルブの開け閉めやパイプの接続を制御することで、望ましい流れにすることができるという仕掛けだ。

おそらく、コンピュータ黎明期の計算機ENIACを捩ったのだろうが、MONIACの意図は、「経済というものは適切な政策ハンドルさばきで、完全にコントロールできる」という考え方である。

この驕りがどんな結果になったか? 様々な経済モデルが次から次へと誕生し、その時々の経済政策に適用されてきた。失敗した政策は、環境その他のせいにされ、新たなモデルを生み出す動機となった。モデルは、経済学者の数だけ存在するのである。

経済モデルは複雑怪奇なものに化け、パラメータの関係性には「未来への期待」といった摩訶不思議なものまで組み込まれるようになった。さらには、複数の経済モデルを駆使しながら、経済予測という新たなビジネスが成り立つことにもなった。

MONIACは、今では骨董品として残されているが、経済を機械として考えるエンジニア精神は、今においても力強く支配し続けているという。

GDPは無意味か?

たしかに、経済を完全にコントロールすることなんて不可能だ。

同様に、完璧に計算されたGDPといったものも、やはり夢物語だろう。データの出所があいまいだったり、計算対象をどうするかなどの定義が変ったりで、GDPを厳密な測定値と言うのは難しい。

さらに、複雑な計算を経るため、その間違いに気づいたり、外からチェックするのはさらに難しい。そのため、数字を偽装していたギリシャや、まともなデータ収集すらしていなかったアフリカの一部の国の例もある。

まだ表立っていないだけで、お手盛りしまくり、見かけ上の経済成長を宣伝することで、外国からの投資を呼び込んでいる国もあるかもしれぬ。計算に使う要素が明確な分、そして、要素のほとんどが政府主導で収集する統計情報である分、より少ない良心で裁量を振るうことができる。

しかし、だからといってGDPが無意味かというと、そうでもない。本書では、幸福指数やダッシュボードなどの他の指標値について検討されるが、どれも一長一短で、GDPに成り代わりになりそうなものはない。しばらくはこの指標を使うのが続きそうだ。

だが、問題はこの数字を何らかの実体として錯覚してしまうことにある。GDPは数十年にわたり蓄積され、経済理論や政策判断の基盤としてあまりにも広く使われているため、あたかも「GDPという実体」がどこかに存在しているかのように思ってしまっている。そして必要なのは、その実体の測定精度をあげることだと勘違いしてしまっているというのだ。

著者は言う、GDPはただの概念に過ぎない以上、正確な測定というものは本来ありえない。これをわきまえた上で、条件づけて使うなら、これほど便利な数字もないといえる。21世紀の経済における急激なイノベーションやデジタル化されたサービスについては不得意かもしれない。だが、どれほど実際の経済が成長したかについては、GDP以外には適当な測定方法はないのだから。

 

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この本がスゴい!2019

人生は短く、読む本は多い。

毎年この時期、自分のリストを振り返るのだが、読みたい本が尽きることはない。読むほどに、知るほどに、知識と理解と表現の不足を痛感する。

それでも読むし、ここに書く。読むことで豊かになり、書くことで確かになるというのは本当で、読んでいるときに何を知りどう考えていたかは、書くことでハッキリする。

つまり、自分で分かるために書いているのだ。フランシス・ベーコンは、話すことで機敏になるとも言ったが、わたしの場合、話すことで世界が変わった。[スゴ本オフ]や読書会、[冬木さんとのSF対談]や、読書猿さんとの知をめぐる対談[1][2][3]で、世界の見え方が変わった。

読書会や対談は今後もしていくが、そこで紹介された本や、2019年に出会った本の中から、わたしにとってのベストを選んだ。これが、あなたにとってのスゴ本となれば嬉しい。そして、このリストを目にしたあなたが、「それがスゴいなら、これは?」とお薦めしてくれるともっと嬉しい。

 


フィクション


 

『僕の心のヤバイやつ』桜井のりお(少年チャンピオン・コミックス)

今年いちばんニヤニヤした。

「厨ニ病こじらせ男子 × ぽんこつ美少女」のラブコメ。もうね、ずーーーっとニヤニヤしっぱなしなの。痛勤電車で心が折れてもこれ見るだけで接骨するの。

終始男子の目線で進むのだが、この男子、深夜にグロ動画を見たり、クラスの女子のリョナ絵を描くような陰キャ。「僕の心のヤバイやつ」とは、彼女に対する敵意だ。脳内では「美しいものを壊したい・汚したい」という欲望が渦巻いており、リョナ絵にしたり妄想するわけ。その、ネガティブな妄想の声が面白い。

彼女はスタイルの良い陽キャで、雑誌のモデルもやっている。クラスでも人気があり、スクールカースト上層だ(でも本人は天然なので無自覚)。で、「僕」は自分が最下層という自覚があるから、ひっそりと敵意だけは募らせている。

「ヤバイ」のは、最初は敵意のはずなのだが、だんだん変わってくるところ。彼女のことがキライなはずなのに、好意のようなものを抱き始める。

「好意のようなもの」と言ったのは、彼が気づいていないから。読み手からすると「どう見ても好きになっているじゃん」と見えるのだが、彼は「それ」が何であるか分からない。彼は「それ」を持て余し、困惑する。

そして、あるきっかけで、彼は気づいてしまう。彼女を好きだということに。めっちゃ痛々しい最中なのだが、このシーンはすごく美しく悶々とさせられる。

いっぽう、彼女のほうは自分の「それ」を分かっていたように思う。彼との距離を詰めようとするのだが、不器用で経験不足が故に「それ」は伝わらない。逆に彼のほうに不思議がられてしまう。背が低くてカースト下層の「僕」が、彼女と言葉を交わすだけでも結構けっこうなのに、なんでそんな態度を? と考えてしまう。

この絶妙な距離感・もやもや感がいい。細切れの twitter で見ているのとは違い、Kindle で通してみると気づく。二人の距離は、ほんとーにゆっくりと、徐々に(物理的に)近づいているのが分かる。まるで、野良猫に毎日声をかけてだんだん慣れていくように。

そのゆーっくりとした変化が、あるきっかけで気づいてしまう。自分が抱えていた「それ」が、いったい何であったか、「それ」を人は何と呼んでいたのかが、恋という言葉を使わずに、表情だけで伝える(雨の日のレインコートの話とか、溶けたチョコレートとか)。

恋なんて遠い日のエゴのシーソーゲームだったおじさんにとっては、心臓がキュンするぐらい初々しい。二人には絶対に幸せになってほしいし、この恋の行く末を見届けるまでは死ぬわけにゆかぬ、第3巻はまだか! という作品。

お試しは[僕ヤバ]からどうぞ。読んで悶えろ、ニヤれ、溶けろ。

 

『零號琴』飛浩隆(早川書房)

読むというより、体験する一冊。

これは、エヴァとゴレンジャーとプリキュアのパロディであり、ナウシカとシンゴジとシンフォギアのリスペクトであり、どれみとどろろとまどマギの同人であり、火の鳥と寄生獣と日本沈没のオマージュである。

好きな人ならいくらでも幻視できる怪物のようなSFで、どこを読んでも、何を切り取っても、どこかで観た・読んだ過去の作品とつながり、思い出し、いま目の前で進行する美麗で壮大で禍々しくもバカバカしい物語にオーバーラップする。

どっぷり漬かりながら、ふと気づく。これ、小説でARを実現した人類最初の作品ではないかと。AR、つまり拡張現実(Augmented Reality)をテーマにしたというのではなく、この怪作を読むという行為そのものが現実を拡張していることになるのでは……

つまりこうだ。物語のフレームは、曰くありげな音楽家とその助手が、とある惑星で開催される假面劇の演奏を任されるのだが、とんでもない目に遭う……という昔ながらの設定であるものの、そこで展開されるネタや物語構造、舞台設定、セリフの端々、視線の動き(カメラのパン)、見得ポーズ、小道具と大道具、そして上演される劇そのものが、未来なのに懐かしい。

物語で進行する劇は既に伝説となっていて、假面をつけた観客が、現実にオーバーレイされた演出で鑑賞すると同時に、劇の登場人物の一人となる。観る者と演る者が重なり合い、劇そのものを改変し、校正し、編纂する。同様に、わたしの中のエヴァやマギカやナウシカの経験に、この物語がオーバーレイされる。物語に登場するキャラやモチーフに、わたしの記憶が重ね書きされるのだ。

この小説を読むことは、スマホをかざして見るときだけに現れる光景を眺めるようなもの。『零號琴』を通して記憶をたぐるときだけに現れる、(わたしが経験した)虚構に重ね書きされた現実を味わうことになる。

いうなれば、『零號琴』は、拡張現実(AR)というよりも、むしろ拡張虚構(Augmented Fiction)であり、スマホでありHoloLensのようなデバイスなのである。本書を顔の前にかざし、その世界に没入することで、自分が経験してきた虚構が、鏡のように映し出され、多層化され、レイヤー結合された後、上書き保存される。

もちろん、知らないネタがあっても大丈夫。もう一度読めばいいのだ。これ、二回目を読むと、「一周目を読んだときの経験」が今度は地の虚構現実となり、そいつに二回目の虚構が拡張現実と化す。ネタバレを知っている自分をネタとして読める。

物語に重ね書きされた「現実」を味わうべし。

 

『うたえ! エーリンナ』 佐藤二葉(星海社COMICS)

命短し、うたえよ乙女。

古代ギリシアの女学校を舞台に、女の子の友情と成長を描いた百合マンガ―――という噂で手にしたが、控え目に言って最高だった。こんなに面白いのに、なぜか1巻完結なので、不思議に思って調べたら、涙が止まらなくなった。

詩人になることを夢みるエーリンナと、親友のバウキス。当代一の女詩人サッポーの女学校に入ることになる。乙女のたしなみや花嫁修業そっちのけで、歌や竪琴に夢中になる。

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女性の自由が制限されていた時代で、それでも歌への熱い情熱を胸に、元気いっぱいのエーリンナに思わず微笑む。さらにツンデレ気味のバウキスとの友情が尊い。当時の結婚適齢期は15才、それまで女学校にいるわずかな時間のことを、自由時間(スコレー)と呼んでいる(後の「スクール」である)。エーリンナは13~4才くらいだから、本当に短く濃密な物語になっている。

劇中での同性愛は甘やかというよりも友情に近く、後に「サッフィスム(レズビアニズム)」と呼ばれる女性同士の愛情はあまり前面に出てこない(一方で、少年愛はしっかり演出されている。この濃淡は何だろう?)

古代ギリシャ人の同性愛は、男性同士のものであれば寛容だが、女性同士となるとほとんど言及されていない。ただし、サッフォーの作品だけが例外的に扱われている。その結果、サッフォーがその出身地であるレスボス島に因んでレズビアニズムの代名詞のようになっているのだ。

短く濃密な自由時間は、『うたえ! エーリンナ』で読むことができる。その一年後を描いたおまけが付いて、1巻ものとなっているのだが、完璧に終わってしまっている。続きも読みたいという声がAmazonレビューにもあるし、わたしもそう思う。 

なぜ1巻で終わるのだろう?

疑問に思って、『ピエリアの薔薇』(沓掛良彦、平凡社)を手にする。ギリシア詞華集選で、大詩人の作品から無名の俗歌まで、さまざまな歌が収録されている。ホメロスやサッポーのような大詩人になるのを夢見て、あれほど努力してきたのだから、ひょっとすると、エーリンナの歌が残っているのではないか?

わたしの仮説は正しくて、エーリンナの歌は残っていた。そのタイトルを見た瞬間、涙で何も見えなくなった。実は『うたえ! エーリンナ』は全話無料で[ツイ4:うたえ! エーリンナ]から読める(有料版のオマケがまた泣かされるが……)。これ読んでから、その理由を知ってほしい[続きはこちら]

 

『20世紀ラテンアメリカ短篇選』 ガルシア=マルケスなど(岩波文庫)

ボルヘス、アレナス、カサ―レスに釣られて手を出したら、全部あたりのアンソロジー。岩波の短篇集はハズレなしというジンクスを再確認する。

マジック・リアリズムは、「見えないもの」をどう扱うかが、ポイントになる。人でない存在、見えるはずもないものを「見る」となると、普通の幻想小説と、マジック・リアリズムは大きく異なってくるのだ。普通の幻想小説の場合、この「見えるはずもないもの」、すなわち不可視の「存在」を特定し、名付けようとする。幽霊や妖精的な「なにか」を設定しようとする。さらには、物語に「なにか」を組み込もうとする。

ところが、マジック・リアリズムのばあい、「なにか」という存在を必ずしも必要としない。もちろん精霊的な「なにか」をモチーフにする場合もあるが、必要条件ではないのだ。最初は会話交じりでシーンを描写しているため、主人公だろうと思っていたら、いつの間にか、窓の外へ漂い出る「なにか」の目線になっている。地の文が、いつの間にやらシームレスに「なにか」になっている。

主客の逆転、喰い合い、異なる時空の主体との重なりが、さらっと書かれており、気づかずに読み流した場合、一種サブリミナル効果のように働く。読み手は通り過ぎながら、言葉にできない違和感を抱き続ける。

他にも、ドアの前を通る一瞬で、部屋の中を詳細に見て、あるものを「二十七」と数え上げるシーンも出てくるが、主体はキャラクターの一人なのに、そこには名付けようのない「なにか」が入り込んでいる(そして「なにか」は特別視も言及もされないし、彼は特別な能力を持っているわけでもない)。

つまり、後にカメラが主体を捉えたとき、ぜんぜん違った場所に置いてかれて愕然とするような、欧米ならそれだけで小説になる驚くべき現象が、ごく自然に受け入れられてしまう。このズレが、人工的な眩暈を引き起こすのだ。

さらに、あとで振り返ると異常なのに、それが淡々と描かれる。何の説明も無く(しかし確信をもって)酷い最期に至る話が続々とある。出来事の異常さそのものよりも、異常の何気なさのほうに不気味になる。この、何気ない異常の感覚こそ、マジック・リアリズムの本質だ。よく読むと明らかにおかしい。だが、登場人物や作者はおかしいと感じていないように描かれるのだ。

よくある「日常と非日常の境界が曖昧になる」というよりも、むしろ、もともと境界はないのだ。だから、小説に落とし込むときに生ずる、「異様の扱いが異常とされていない」ズレが、一種の人工的な眩暈を引き起こす。

異常の何気なさと、人工的な眩暈を、お愉しみあれ。

 

『沙耶の唄』大槻涼樹、虚淵玄(星海社FICTIONS)

見るものすべてが汚辱にまみれ、腐臭をただよわせ、耳障りな音を立てている。そんな世界で「正常」なフリを強要され、できるだけ早く・なるべく楽に死ぬ方法を考えているとき、美しい少女に出会った―――グロゲーに見せかけた純愛に、何度胸を潰されたことか。

そして今年ノベライズされたことで、さらに古傷を抉られることになる。

手塚治虫『火の鳥』に、交通事故で脳に障害を負った男の話がある。絶望視されていたものの、大手術により普通の生活ができるようになる。しかし、それは見た目だけで、男は認識能力に重大な問題を抱えていた。男の目には、人が石ころのような無機物に、機械のロボットが美女に見えるように見える。だから男は、人ではなくロボットに恋をしてしまう。男はどうするか?

『沙耶の唄』は、そのクトゥルフ版になる。主人公の目には、世界が当たり前に見えない。人は腐った汁を滴らせる肉塊であり、壁や床はミミズと豚の内臓に埋め尽くされている。会話は成り立たず、キィキィ喚く音から類推するほかない。

グロ描写は『インスマウスの影』を彷彿とさせるが、異形の者を「異形」と片付けられないのが辛い。彼の目にどう見えていようとも、この世界で「正常」なのは彼らの方であり、異常なのは自分の方なのだから。

そんな壊れた世界で出会った、たった一人の存在が、沙耶だ。彼にとって、どれだけの救いとなっただろう。透きとおる肌と、しなやかな肢体を白いワンピースに包み、深夜の病院を徘徊する。聞けば、お父さんを探しているという。

彼は、藁にもすがる思いで、手を握らせてくれと懇願する。「変な人。そんなこと言い出したの、あなたが初めて」と言いながら差し出す白い手に、壊れ物を扱うように、そうっと、やさしく手を重ねる。

こうして始まる、淫猥で残酷で哀しい関係を描いたのが、『沙耶の唄』だ。彼は、おぞましい世界で、彼女を守り抜こうとする。『火の鳥』と似ているのは入口だけで、後は全く違う方向へ転がり出す。そのエロとエグさは虚淵玄ならではの一級品。

ゲームの雰囲気は以下から。スクリプトの部分は小説とほぼ同じなので、"試し読み”にもなる。ただし、かなりSAN値が削られるので、耐性なき方は行かないように。

君と僕の壊れた世界でどう生きるか? 覚悟完了の上でどうぞ。

 

『エレクトリック・ステイト』 シモン・ストーレンハーグ(グラフィック社)

不穏な画集とディストピア小説が融合した一冊。

巨大な建造物と歩行機械がたたずむなか、少女と黄色いロボットが行く。なぜか懐かしい異形に浸食された、アメリカ合衆国の終わり(始まり?)を眺める。少女とロボットの行く先で、HMD(ヘッドマウントディスプレイ)を装着した人だったものや、信じられないほど巨大な伝送路、自家製ドローンを見る。アメリカの田舎の住宅街にそびえる歩行要塞は、不思議と似合う。

「こちらの」アメリカでは、人体器官に接続されたHMDを経由して、遅延なしでドローンを操作する技術が発達している(いわば有機的なジョイコン)。人の脳細胞どうしをつないで巨大な神経マトリックスを組み合わせ、そこから集合意識が生み出されている。さらに、集合意識が物理的な形態をとろうとして、ドローン操縦者(すなわち人)の生殖サイクルに干渉した未来が、これだ。

既視感あるディストピアは、様々な作品を思い出させる。集合意識が第三の主体を生みだす背景は『攻殻機動隊』を、二人が行く遠景は『The Last Of Us』やマッカーシーの『ザ・ロード』を、そして少女とロボットの関係性は『CLANNAD』の幻想世界を彷彿とさせる。

アメリカが舞台なのに、「エレクトリック・ステイツ(states)」ではなく、なぜステイト(state)なのかと考えて、ぞっとする。これ、状態のステイトであり、一つの国家「電気仕掛けの国家」としての意味も持つのだろう。

作者はシモン・ストーレンハーグ(Simon Stalenhag)。日常的な光景と不穏な異物を等価にした世界観で、ストーリー性の高い作品を描いている。

グラフィックの一部なら、[Simon Stalenhag Art Gallery]で見ることができるが、なぜ少女が旅をするのか、黄色いロボットは何なのか、そして、旅の果てには何が待っているのかは、小説を追ってほしい。

翻訳が山形浩生さんだから購入したのだが、大正解でしたな。わたしが知らないスゴ本は、山形さんが訳してたというやつ。ハリウッドで映画化されるとのことだが、これも期待。続編『ザ・ループ』も出ているが、未読。手に取られた方は、感想を聞かせてほしい。

 

『せんせいのお人形』 藤のよう(comico)

わたしが知らないスゴ本は、読書猿さんが推していた。

すごい勢いでtwitterでお薦めしていたので読んだらスゴかった。「せんせい」と漢字を開いたタイトルと、大人の男+放心した少女の表紙にいかがわしさを覚えたのだが、予想していたものと違っていた(心が汚れている自覚はある)。

少女の名はスミカという。ネグレクトされ、親戚中をたらい回しにされていたのを表紙の男(昭明)があずかり、マイフェアレディよろしく育てる。『うさぎドロップス』が頭に浮かんだが、ぜんぜん違っていた。誰からも愛されることなく、流されるがままに生きてきたスミカが、彼の元で心を取り戻していく過程の一つ一つが胸に響く。

たとえば、スミカが名前を呼ばれるところ。名前を呼ばれるとは、その一人の存在を認めること。名前を呼ばれたことすらないということは、「いない子=いらない子」としてずっと生きてきたこと。自分の存在を認めることがない世界で生かされてきたこと。それがあたりまえだったスミカが、自分の思いを、昭明に向かって、身を絞るように吐き出す。そのセリフだけで胸がいっぱいになる。

あるいは、「なぜ人は学ぶのか」のわけを、スミカが自分自身で見つけだすところ。最初の「知りたい」から始まって調べていくと、どんどん「知りたい」が広がってゆく。数学について調べていたら天文学になり、歴史になり、科学になる。

誰にも顧みられず、孤独の中で生きてきたスミカが、知が有機的につながっていること、その真ん中に「知りたい」と思う自分がいること、そしてその気持ちを持っている限り、決して一人ではないことに覚醒するシーンは、読んでるこっちが戦慄した。ここ、読書猿さんの至言同じものを読む人は、遠くにいると同じだ。

昭明の、「それは君が手放さない限り 君をどこまでも連れていくものだ」「ほかの誰にも奪えないものだ」という言葉が刺さる刺さる。これは、タイガーウッズの母が、子どもに向かって言い聞かせていたセリフと同じであり、わたしが、わが子に向かって言い聞かせているセリフと同じだ。

変わってゆくのはスミカだけではない。彼女に挨拶を教え、礼儀を教え、本を読むことを教え、知る方法を教え、約束を守ることを教えてゆくうちに、昭明自身が変化してゆく。スミカが初めて(おそらく、生まれて初めて)家に帰ってきて、「ただいま」というのだが、このシーンは何度見ても泣いてしまう。これはスミカの魂の再生だけではなく、昭明の心、ひいては読み手の心を溶かしてゆく物語でもある。

最初の2話は無料で読める。[せんせいのお人形]からどうぞ。

 

『ニックス』ネイサン・ヒル(早川書房)

狂おしいほど好き。めちゃくちゃ笑い、泣き、怒り、嘆き、途方にくれ、ハラハラ・オロオロ・ドキドキしながら夢中になって読んだ、ユーモアと切なさに満ちた最高の一冊。

自分を置いて家を出て行った母と、それから数十年が経過した後、調べ始める息子のサミュエル。この二人を軸にして、それぞれの過去と現在を行ったり来たりしながら、物語は進んでゆく。最初は復讐心に駆られていたが、次第に分かってくる母の半生は、サミュエルが長い間信じていたものとは、全く違う人生だった。

小説を貫くテーマは、エピグラフにもある、盲人が象を語る話だ。

目の見えない人をおおぜい連れてきて、象に触らせる。ある者は鼻を撫で、別の者は耳を撫で、またある者は尾を撫でる……といった風に。そして、「象とは何か」を語らせたところ、てんでバラバラの答えになり、盲人たちは殴り合ったという話だ。物事や人物の一面だけを見て、それが全てだと理解してしまうことを戒める説話だが、SNSで噴き上がっている「盲人」を見るにつけ、今こそ広めたい教訓だ。

しかし、2人の人生につきあってゆくと、ある重要な事実に気づく。

見過ごされがちなのだが、盲人と象の話において一人一人の説明は正しいという事実だ。一人一人は偽りの象を語っているわけでない。それぞれ偽りの「象」像によって隠された、「真の象」というものが存在するわけではない。

そうではなく、それぞれにとっての「真の象」―――つまり、これこそが「真の象」だという思い込み―――によって隠された、一つの大きな象がいるだけなのだ。サミュエルの母は、さまざまな側面を持つ。生真面目で、怖がりで、でも大胆で、妻であり母であり女である。ある一面が真実だと確信することにより、別の、より大きな真実を覆い隠す。

それぞれの人生を支えている、隠されているより大きな真実は何か―――何度もやってくる物語のうねりの中でこれに気づくとき、ほとばしる感情を留めることができなくなる。涙とか感動というよりも、むしろ、彼女がどういう気持ちでいたかが堰を切ったようにわたしの身体を走り抜ける。

そして、人を理解するとは、(より大きな象が支えている)それぞれの真実の中で生きていることをひっくるめて、理解することなのだ……という結論に至る。それぞれが持ち寄った真実を理解するか否かの話だ。理解することは、憎悪することよりも、難しい。

ジョン・アーヴィング絶賛との謳い文句で手にしたが、大当たり。平成最後の、最高の海外文学長編として、自信をもってお薦めする。 

 

『MONUMENT あるいは自分自身の怪物』滝川廉治(ダッシュエックス文庫)

わたしの3倍読んでいる妻は、あまり誉めない・勧めない人なのだが、そんな彼女が、珍しく「これを読め」とお薦めしてきたのがこれ。妻のお薦めはハズレが無いことはわたしが保証するのだが、想像を遥かに超えて面白い傑作なり。

読み終えて疑問が湧きあがる、なんでこれが1巻完結なの!?

そう、巧妙な伏線&物語構成、ストライクゾーンど真ん中のキャラクターによる、「物語を純粋に楽しむこと」と、もう古典名作と言っていい小説や映画を、上手くまぶした会話や描写による、「読み手の経験に呼応する面白さ」が、絶妙に混ざっている。この面白さ、もっと長く味わっていたいと思うものの、1巻で完璧に終わらせている。

これ、やりようによっては、もっと長引かせることもできたはず。特殊能力を持つイケメン主人公(中身は暗い過去を持つゲス野郎)が、巨額の報酬に釣られ、魔法学校に潜入するために下工作をするのだが、完全にナナメ上の展開になるところで、丸々1巻を費やしてもいいはず。

魔法が組み込まれた「この世界」―――読み手であるわたしたちが住む歴史に、魔法という概念が併設された世界―――この説明の語りだけでも、優に1章使ってもいいのに、エピグラフでさらりと触れているだけ。

人類が火を熾すよりも先に、発火の魔術に目覚めた世界。

あらゆる理論や法則に、応用として個人の魔力資質の差異が組み込まれている世界。

ソクラテスもプラトンも、ベートーヴェンもモーツァルトも、フロイトもユングも、ヒトラーもスターリンも、手塚治虫も藤子・F・不二雄も存在していたけれど、魔法がある世界。

不思議な力が存在しても、結局は似たような歴史を歩んできた世界の物語。あまりにもさり気なく書いてあるので、魔法の位置づけだとか、魔法という法則に基づいた社会制度や規格、物理的制約などの説明が、軽く扱われた気になる。

だって主人公やヒロインの能力、実質的に無双じゃないか! 「この世界」は、読み手であるわたしの世界とずいぶん違うのに、まるで同じ様相に見える。ハードSFが(そのSF内で通用する)科学的厳密さを追求しているように、魔法的厳密さも書き込んで欲しいものよ。

いや、これはライトノベルだから、そこは聞かないお約束でしょう。などと、いったんは納得したのだが、まさか、このエピグラフが伏線だとは思ってもみなかった。

主人公(ゲス野郎)の暗い過去、進行する事件が牽引する「謎」、ヒロインが抱える苦悩、そして魔法的厳密さの不在―――これらが、MONUMENTと呼ばれる魔法遺跡の探索の果てに交わるとき、一挙に、一気に、タイトルとともに分かるようになっている。

カタルシスとカタストロフが同時に味わえる。Amazonレビューがまさかのネタバレだから注意して。

 


ノンフィクション


 

『タコの心身問題』ピーター・ゴドフリー=スミス(みすず書房)

タコから見た心の哲学。

生物哲学の教授であり、一流のダイバーである著者が、タコとの交流を通じて「心とは何か」「心はどのようにして"生じる"のか」を考える。進化は「まったく違う経路で心を少なくとも二度、つくった」という主張は、言い得て妙なり。

まず著者は、タコの「目」について注目する。高度に発達しており、網膜、角膜などの構造は、ヒトの目と物理的に似ているだけでなく、視神経が網膜の前に突き出しているため、盲点がない。遠い祖先は海かもしれないが、そこから出て目を進化させてきたヒトと、海の中で目を進化させてきたタコが、結果的に近似した目を持つというのが面白い。

これを専門用語で収斂進化と呼ぶという。異なるグループの生物が、環境や食物に適応し、系統に関わらず身体的特徴が似通った姿に進化する現象のことだ。異なる系統である鳥とコウモリの「翼」が似ているのと一緒やね。

そして、タコの生態や実験を紹介しつつ、ある種の「心」があることを考察する。この件がたいへん面白い。集めた貝殻で自分の”庭”を作ったり、状況に合わせて姿形や色を自在に変化させたり、閉まった蓋を開けたり、タコを知れば知るほど、「賢い」と見えてくる。

たとえば、野生のタコがココナッツの殻をシェルター代わりに使っているレポートを紹介する。半分に割られた殻を持ち運び、危険を察知すると上手に中へ入り込む「道具を使うタコ」は、youtubeでも話題になっていた。他にも、貝や竹を使って入り込む様を見ていると、「ひょっとして、ヤドカリを真似ているのでは?」と思えてくる。

一方で著者は、安易にタコを「賢い」とする姿勢に慎重になる。動物の「心」について考えるとき、人はどうしても自分の心を前提にしてしまいがちだ。単純な生物の「心」は、人の心を単純にしたものだとか、人が「賢い」と考える実験でもって動物の知性を測るといった「擬人化の罠」である。

著者は折に触れてこの罠を指摘する。たとえば、タコの脳の大きさでもってタコの知性を測ろうとするのは誤りだという。まず「脳の大きさ」は、単純な比較ではなく、身体サイズに対する比でなければならない。その場合、タコは不釣り合いなほど巨大な脳を持っていることになる。さらに、タコはニューロンの大半(およそ3分の2)を、頭ではなく腕に持っている。

つまり、タコは身体サイズからすると異様ほど大規模なニューロンを持ち、しかも独自の身体性の下で、頭からの指令と、自律した腕とが協調し、「タコであること」が成り立っているのである。巨大脳と大規模なニューロンは、タコの「心」の存在を示唆している。

 この「心」のありようについて、翻訳者も慎重に言葉を扱っている。原著のタイトル ”OTHER MINDS” の ”MIND” が複数形になっていることに注意を促し、日本語訳にあたっては、原則的に “mind” に「心」、”intelligence” に「知性」、”consciousness” に「意識」という訳語を当てて訳し分けている。

ヒトの場合、「心」は、学習や意識といった、主に「頭脳」に結び付けられる精神活動を指す。しかし、頭足類の場合、そうした機能は必ずしも「頭脳」だけに限らず、わたしたちが「腕」や「脚」と呼んでいる箇所にも及ぶ。ヒトの言葉をそのままあてはめるなら、タコは腕で「考えて」いることになる。

では、なぜタコは巨大な脳とニューロンを発達させたのか?

著者は頭足類の歴史をさかのぼる。その祖先は、身体を保護する貝殻のようなものを進化させ、初期の捕食者となったという。その後、殻を捨てて遊泳を始めたのが頭足類となる。そして、殻を失ったことによる脆弱性を補うために、高い知能を発達させたというストーリーだ。

つまり、タコはヒトとは異なる経路で、別のデザインで知能を得ており、いわば「心」の収斂進化が、少なくとも2度起きたというのである。この指摘は、たいへん興味深い。

頭足類から心の問題を分析する試みに魅せられて、『イカの心を探る』(池田譲、NHKブックス)と『ふらんけんフラン』(木々津克久、秋田書店)を読む。面白いことに、「知性」を定義しようとすると、必ずそこにヒトの存在が求められる(ヒトがいないと知的か否かの判定はできないし、ヒトを超えた知性は文字通り”人知の外”になる)。

この3冊の考察は、[『タコの心身問題』『イカの心を探る』『ふらんけんフラン』で頭足類の「心」を考える]をどうぞ。

 

『会計が動かす世界の歴史』ルートポート(KADOKAWA)

「損と得」という視点から見た人類史。

そこらによくある「会計の世界史」ではない。本書の焦点深度はもっと広く、お金と人との関わり合いをドラマティックに描くだけでなく、それを通じて「お金とは何か」ひいては「価値とは何か」についても答えようとしている。

そして、誤解を恐れずに言うと、「お金」が人を作ったといえる。

逆じゃね? と思うだろう。壱万円札を作ったのは人だし、その紙に「壱万円分の価値がある」(ここ重要)と信じているのは人だから。なぜ壱万円に壱萬円分の価値があるかというと、壱萬円の価値があるとみんなが信じているから。この「みんなが信じる価値」がお金の本質である。

そんな「価値」みたいな概念ではなく、金や銀といった貴金属がお金じゃないの? という疑問が出てくる。本書では、お金と人の歴史を振り返りながら、「みんなが信じる価値」と「お金」の関係に迫る。

たとえば、スペイン帝国がもたらした価値革命の例をあげて、金銀はお金というよりも、お金を計るためのモノサシだと答える。植民地化した中南米から大量の銀が持ち込まれた結果、銀という通貨の供給量が増え、大規模なインフレが発生する。すなわち、ヨーロッパでの銀に対する「みんなが信じる価値」が下がったのだ。

あるいは、最古の金融バブルと呼ばれているオランダのチューリップ・バブルや、詐欺師ジョン・ローが引き起こしたミシシッピ・バブルの話をする。彼が作り出した「利子付きのお金」は、良い意味でも悪い意味でも応用が利くだろう。欲望が欲望を生み、「みんなが信じる価値」が膨らんで弾けた出来事だ。

面白いところをつまみ食いするだけなら、[ペペラのバブル物語]を読めばいい(めちゃくちゃ面白いゾ)。だが本書では、「なぜバブルが弾けたのか」という問いを立てる。よくある答えが、「みんなが現実に目覚めたから」だろうが、本書は、そこからさらに踏み込み、「なぜ現実に目覚めたのか」という視点から、生々しい理由を炙り出す(p.173の解説は、あらゆる先物取引(の損切タイミング)に応用が利くだろう)

本書は、簿記の歴史を紐解きながら、「みんなが信じる価値」の本質に迫る。その分析の中で、ヨーロッパで発達した複式簿記と、日本独自の簿記の構造の共通点―――勘定科目を借方と貸方に分けて記載し、貸借を一致させるところ―――に注意を向ける。

あたりまえだろ? 誰かにとっての「借り」は、その相手にとってみれば「貸し」になる。千円借りたら、千円返さないと。ここに時間の概念を入れると、利子や償却といった要素が必要になるが、簿記の基本は、「貸し」と「借り」が一致することにある。

しかし、この「あたりまえ」こそが、ヒトを人たらしめた原因だというのだ。

社会的動物であるヒトが、そのコミュニティの中でうまくやっていくためには、個体を分別し、その個体が自分にとって得となるか損となるか判断する必要がある。仲間だから協調する部分もあるが、食物や異性の取り合いとなることが出てくる。

つまり、裏切ったり裏切られたりする関係性を続けながら、うまく生き延びる必要がある。場合によっては、自分に有利なときでも、仲間に恩を売ったほうがトクになることが出てくる。この協力と裏切りの駆け引きの中で、知性すなわち脳は進化していったという。

そこで重要なのは、身近な仲間を判別し、それぞれの「貸し」「借り」を理解し、記憶していくためには、高度な知能が必要となる。現代では、お金を貸したとき「貸付金」として登録しているが、昔は「貸した人の名前+金額」で債権を記録していた(人名勘定)。つまり、簿記の基本構造の中に、知性の進化の秘密が隠されているというのだ。

誰かに「貸し」を作ったら、それを報酬として受け取れるのは、返してもらえると信用しているから。以前に「借り」たものを返すのは、それをしないとコミュニティでやっていけないから。

その共通尺度が、「みんなが信じる価値」すなわちお金になる。時代によって、それは貝殻だったり金銀といった貴金属、あるいはデジタルデータとして計られるが、その計られる対象である信用が、知性を進化させたのである。

会計という視点で人類史を斬ると、その断面にお金の本質が見える。そして、お金の本質を簿記の構造から見ると、人の本質が見える。伏線と謎解きを張り巡らした、極上のミステリのような一冊。

 

『ウンベルト・エーコの世界文明講義』ウンベルト・エーコ(河出書房新社)

知の巨人ウンベルト・エーコの、十余年にわたる講義録。

美と醜、虚構と陰謀、絶対と相対など、抽象的なテーマを俎上にのせ、美学、数学、文学、音楽、哲学、神学、天文学を渉猟しつつ、フルカラーの図版を通して、具体的に迫ってゆく。ニュースやメディアで馴染んだネタから、ネットを駆使して追いかける必要のある美術作品まで、知的に振り回されるのが楽しい。

たっぷり知的興奮を味わったあと、見知ったはずの世界にある、見知らぬ裂け目に気づいたり、まるで異なる時代なのに、そこを貫く原理原則があったことを発見する。世界はもっとつながり合っているし、時代はもっと重なり合っている。人の営みは、かくも美しく、かくも醜いことを、あらためて知って驚く。

たとえば、「美」について。

「美とは何か?」と概念で問われると、答えに窮する。イデアのように「美しさ」そのものを指し示されたとしても、それが(他の言葉でいう)何であるかなんて、分かるはずもない。せいぜい、わたしが美しいと感じるオブジェクトを挙げるしかない。このあたりの機微は小林秀雄が上手いこと言っており、「美しい花がある、花の美しさという様なものはない」がそれだ。

ところがエーコは、もっと具体的に「美」に迫る。

美しいと考えられるもの―――それは絵画や彫刻といった美術作品だったり、美的体験を伝える物語だったりする―――を具体的に挙げてゆき、そこに共通したものを見出す。すなわち、「美は変わる」ことだ。

「美」が絶対的で不変的なものであったことは一度だってなく、それは時代や国によって、複数の異なる顔を見せてきた。これはオブジェクトが、男や女や裸体や景色といった物理的な美しさに限らず、神やイデアといった形而上的な美しさも然りだという。

さらに、美にまつわる様々なテクストを通じて、美の中にある価値観を救い出す。「美しい」という言葉には、「優美な」あるいは「崇高な」「素晴らしい」といった形容が含まれることを指摘する。「美しいものとは、それがみられたときに喜びをあたえるもの」なのである。

あるいは、「醜」についての考察も具体的だ。

美と同様に、醜も相対的であることは変わりないが、面白いのは醜は「美との関係性」において捉えられている点だ。醜とはすなわち、「美女と野獣」の変化形であり、いったん美の基準が定められると、ほぼ自動的に対応する醜の基準も定めるのが自然だと考えられてきたという。完全性と不完全性、秩序と秩序を壊すもの、といった風に。

ただし、こうした相対性から離れ、美の理想にふさわしくない、という理由で醜いとされる対象もある。たとえば、アドルフ・ヒトラーが20歳のときに描いた花瓶の絵を挙げ、エーコはこれを醜いとする。[これだ]

反感や憎悪、恐怖や不安の反応を引き出す要素があれば、それを「醜」だと定義づけることができる。美人とされる姿かたちは、時代とともに変化する。だが、美人の腐乱死体は普遍的に醜い。『美』は文化的背景の価値観を反映し、『醜』はその先にある「死」の概念をまとう。

この辺りの考察は、『美の歴史』『醜の歴史』に詳しい。ほとんどの人が「美は文化なり」に賛同するだろうが、では醜は? と訊かれると窮するに違いない。『世界文明講義』で予習して、美と醜の歴史に浸るのもまたよし。

知的冒険の一冊を、堪能すべし。

 

『乳房論』マリリン・ヤーロム(ちくま学芸文庫)

乳房をめぐる欲望の歴史。

人類史を振り返り、西洋を中心とした乳房をめぐる欲望の歴史をたどっている。乳房に対する概念は一様ではなく、それを求める人や時代や文化によって尊ばれ・蔑まれ・弄ばれてきたという。

著者は、乳房に対する視線、すなわち乳房がどのように見せられ、見られてきたかという観点から振り返る。絵画や彫刻、映画やポスターに現れる、ビジュアルとしての乳房だけでなく、詩歌や論文、プロパガンダに現れるレトリックとしての乳房にも着目する。さらに、乳房がその時代や文化圏でどんな役割を果たしたかという機能面にまで掘り下げている。

その背景には、「おっぱいは誰のものか」という疑問がある。すなわち、乳房を求めるもの―――乳児、パートナー、画家、詩人、医師、政治家、ポルノ業者、商人、司法家、宗教家など、それぞれの立場によって、乳房は様々な役割を担わされてきたというのだ。

たとえば、絵画におけるモチーフとしての乳房の変遷が面白い。ギリシャ・ローマ時代の彫刻における女性の美しさの理想が、ルネサンスを機に俗世趣味的なものとなったという。授乳する聖母の乳房から宗教的な意味が剥奪され、乳房は、あからさまな男性の欲望の象徴になったと主張する。

そして、ルネサンス期に生まれた価値観が西洋文明に根強く残り、乳房は女性ではなく男性を性的に興奮させる意図で美術や文学に取り上げられ、鑑賞者や読者に愉しみを提供したという。乳房に手を置く男性図はルネッサンス美術によくみられるモティーフだが、乳房の所有権は自分たちにあると考えている証左だというのだ。

絵画だけではなく、「理想的な美しさ」という大義名分隠されてきた補正下着の歴史や、おっぱいの商品化を促す豊胸手術の技術史、乳がんをめぐる医師と女性たちの医学史、おっぱいに集める視線を政治的に誘導させるプロパガンダのポスター、おっぱいを売り物にするポルノの歴史など、さまざまな事例を紹介する。

どの視点どの立場からしても、「おっぱいは誰のものか」という問いに対する答えは明白だ。おっぱいの持ち主のものに他ならない。だが、乳房の持ち主である本人が、自分のおっぱいをどう扱うかについて自由にできないことが問題なのだ。

これらを打ち破るものとして、ディーナ・メッツガーの写真が紹介されている。乳がんで乳房が片方になってしまった姿を映した、美しい写真だ。裸になったメッツガーは両腕を広げ、左右非対称の乳房を太陽に向けてさらしている。片側には従来の乳房、もう一方には切除痕に施した入れ墨が見て取れる。わたしは、これほど自由で力強い乳房を見たことがない。


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Deena Metzger as the Warrior
(cite from Jewish Women's Archive)

Jewish Women's Archive. "Deena Metzger as the Warrior Poster." (Viewed on November 26, 2019) <https://jwa.org/media/warrior-poster>.

本書は、芸術作品を元に歴史・社会学的な視点だったが、進化生物学のアプローチからおっぱいの歴史をたどると、さらに興味深い分析ができるに違いない。

たとえば、人類の祖先が四足歩行から二足歩行に移り変わるとき、女性の成熟度のバロメーターがお尻から乳房に代替されたと言われる。また、大きく張りのある乳房を持つ女性を選ぶことで、自分の子孫を残す確率を上げることができる(より多くの赤ん坊を育てられると見込まれるから)という説もある。

こうした生物学的な観点から振り返ったおっぱいの本を探していたら、骨しゃぶりさんが[おっぱいの本16冊]から『哺乳類誕生 乳の獲得と進化の謎』(酒井仙吉、講談社ブルーバックス)を紹介してくれた。ありがとうございます、読みます。

 

『測りすぎ』ジェリー・Z・ミュラー(みすず書房)

ミスが無い仕事を目標にすると、ミスは確かに報告されなくなる。

だが、ミスが無くなったわけではなく、隠匿化されているか、「ミス」の定義が変えられているだけ。これは、全国テストの成績、犯罪発生率、論文の引用件数など、様々な「測りすぎ」に見ることができる。

テストの成績や犯罪発生率は、カウントできる。「数」という比較しやすい値を出せ、場所や時系列といった軸で表現しやすく、Excelやグラフとの親和性も高い。その結果、カウントしやすい(加工しやすい・グラフ映えする)数が重視される。バロメーターの1つであり、ひとつの判断材料にすぎない測定値が、目標にすりかわる

この、測定値という「手段」が、本来それを役立たせるべき「目的」になるメカニズムを描いたのが本書だ。

世間でまかり通る、こうした測定基準が、本来の役割(実態のバロメーター)から離れ、目標そのものと同一視されるようになる。さらに、目標を達成するために測定基準がゆがめられ、数字に振り回せされる顛末が、これでもかと書いてある。現場を見ずに数字だけを見る馬鹿マネージャーは、どこにでもいる。

ただし、馬鹿には馬鹿なりの理屈がある。本書は、その理屈を徹底的に掘り起こす。

マネージャーとして求められるものは、その成果になる。自分がそこに就いて、どれほどの実績を出せたかどうか、説明責任がある。この「説明責任」が厄介な問題だという。

説明責任(アカウンタビリティ)は、もともと「自分の行為に責任を負う」という意味のはず。だが、一種の言語的トリックによって、測定を通じて成果を示すことに変わっていったという。あたかも、大切なのは測定できる(カウントできる)ものだけであり、測定できないものは埒外と扱われるようになった。

成果主義の風潮と、短期に目に見える結果を出すプレッシャーにさらされると、「カウントしやすい」数値目標を追い求めるようになる。実態は複雑で、その成果も複雑なのに、簡単なものしか測定せず、その数値こそが実態を完全に表していると思い込む。

そして、その数値でもって報酬や懲罰、格付けの基準とみなすのだ。馬鹿マネージャーの思い込みは、下々のものへは「数値目標」という形で上意下達される。

すると何が起きるか? その数値―――テストの成績や、犯罪発生率、論文の引用件数―――だけを良くすることが仕事になってしまうのだ。

たとえば、学力の低い生徒を「障碍者」として再分類し、評価対象から排除することで、成績の平均を引き上げる。「犯罪率を20%下げる」という目標は、記録される犯罪件数を20%に減らすため、未満・未遂に格下げされる。

これらは、マネージャーが、一生懸命「仕事ごっこ」をしている結果である。そもそも何のために測定しているかをはき違え、温度計を温めれば凍えずに済むと思っているかのような行動をとる。こうした仕事ごっこの実体を紹介し、そこから抜け出すための方法を提案する。溜飲を下げつつ、どう取り組むと良いかを考える一冊。

 

『ウイルスの意味論』山内一也(みすず書房)

「ウイルスという先入観」を崩し、生命とは何かにまで迫る一冊。

それまでは、病原体という観点からウイルスを観察してきた。だが、研究が進むにつれ、それは歪んだ偏見に過ぎないことが分かってくる。本書は、ウイルスの驚くべき生態と共に、生命そのものの定義を書き換えていることを明らかにする。わたしたちは、ウイルスに囲まれ、ウイルスを内に保ち、ウイルスと共に生きている。これ、教科書が変わるレベル(パラダイムシフト)なり。

たとえば、ミミウイルス。1992年に発見され、「ウイルスは細菌より小さい」という常識を覆した巨大ウイルスだ。

そして、ひとたび「非常識な」巨大ウイルスが見つかると、ここ十年でラッシュのように巨大ウイルスが発見されるようになる。シベリアの永久凍土に眠っていた3万年前のウイルスから、セーヌ川、ビルの冷却水、ハエの複眼、コンタクトレンズの保存液など、そこらじゅうで「非常識な」巨大ウイルスが見えるようになる。

奴らは別に隠れていたわけでなく、われわれが「見て」いなかっただけなのだ。それは、病原体として研究してきたウイルスのサイズが、「ウイルスは小さいという先入観」を作り出していたにすぎない。

あるいは、メッセージをやり取りし、コミュニケーションをするウイルス。ウイルスは細胞に取りつき、増殖するだけの単純な存在だと見られてきたが、ファージ(細菌に感染するウイルス)同士でペプチドをやり取りすることで、細菌の生息密度を伝える集団感知システムが紹介される。枯草菌に感染したファージの数が一定数になると、細菌を溶かすようになるのだが、この溶かす/溶かさないを決定するペプチドを、ファージがメッセージとして放出しているというのだ。

他にも、ウイルスに寄生するウイルスや、致命傷を負っても、DNA部品をかき集めて損傷した自分自身を再構成するウイルスが紹介される。これまで、ウイルスを無生物のような単純なものと見たり、「生物と無生物のあいだ」的な存在として扱ってきたことが、「ウイルスという先入観」を生みだしていたことに気づかされる。そして、ウイルスという先入観が、生物の定義を限定的にしていたことが分かってくる。

なんのことはない、ウイルスを単純な存在だと見なしていたヒトこそが、見えてるものが全てだと思い込むくらい単純な存在だったのである。そして、それに気づくくらい「見える」ようになったのである。

ウイルスの興味深い振る舞いから始まり、「生命とは何か」の根幹に衝撃を与え、さらには世界の「見え方」が変わってしまうことを請け合う。

 

『現代の死に方』シェイマス・オウマハニー(国書刊行会)

現代医療の最前線から見た死に方。

死に方に良し悪しはあるのか? 本書は「ある」という。

上々の人生だったのに最悪の死に方をする人もいるし、悲惨な人生だったが最期は安らかだったという人もいる。総合病院の医者である著者は、さまざまな死を扱っているうちに、ある結論に達する。それは、「死に方を助言することは、生き方を助言するくらい難しい」である。

にもかかわらず、本書を著した理由は分かる。「悪い死に方」が多すぎるのだ。本書を手にしているあいだ、「あなたは、自分の死に方について、あまりにも楽観的すぎる考えを持っているのではないか?」と問われているように感じた。どういう風に死にたいかと、どういう風に死ねるかは、全く違う問題なのだ

たとえば、「普通の死」と言われて思い浮かぶのは何だろう。

事故死や殺害されるようなものではなく、老衰か、病気か。苦痛は無いほうがいいし、できれば自宅で、家族に囲まれ、友人に別れを告げて、惜しまれながら、穏やかに最期を迎える―――だが、現実は違うという。それは「理想的な死」であると考えたほうがいい。

現代医学は、死を表層から遠ざけようとし、死の好ましくない部分の隠蔽に成功したが、まさにそのことが現代人にとっての死を空想じみたものにしているという。

わたしは、終末期にどのような医療を受けるか(または受けないか)を記したリビング・ウィルがあればと考えていた。だが著者は、「死に方を自分で決められると思い込んでいると、結局は自滅する」と警告する。手筈通りに死ぬというのは、かくも難しいというのである。

著者はさらに、死の医療化に警鐘を鳴らす。意識が混濁した本人に代わって、「手を尽くしてください」と訴える家族のプレッシャーに押され、濃厚医療を施し、人生の最後の最後になって、無理やり生かされている状態である。生きているものは死ぬ。これはあたりまえのことなのに、死に近くなればなるほど、本来は医療問題ではなかったことが、医療として扱われ、治療の対象となってくるというのだ。

そして、胃ろうで栄養を与えるのは、患者のためというよりも、むしろ社会から死を隠すため、家族と医者の感情的&経済的な問題を解決するため……という結論をぶっちゃける。トドメに、死を前にしては、名声も、財産も、知性も、品位も、何も役に立たないことを、スーザン・ソンタグを始め、さまざまな哲学者や思想家の事例もとに暴き立てる。読者は、こうした「手に負えない死」の事例をつきつけられ、暗鬱となるかもしれぬ。

だが安心してほしい(?)。本書には、「医者が薦める良い死に方」というものが紹介されている。医者が薦める死に方というのは奇妙な物言いだが、仕事を通じて日常的に死に接している医者が、「自分ならどう死にたいか?」について、率直に答えているものだ。[ここ]にまとめたので、参考にしてほしい。

よい死に方で、よい人生を。

 

『戦争の世界史大図鑑』R.G.グラント(河出書房新社)

古来、歴史とは戦史を指す。人類の歴史が始まって以来、人は常に戦ってきた。

古代から現代まで、戦争の歴史を俯瞰する本書を眺めていると、どの時代であれ、必ずどこかで戦争が行われていることが分かる。戦争がない世界の方が例外であり、戦争が人間の常態なのだ。

本書は、記録に残っている各戦争の年月日に始まり、原因・経過・結果・影響を概説している。さらに、決戦が行われた場所の地図や戦術構成、兵力、戦闘技術、死傷者数といった基礎史料を網羅している。

本書が優れているのは、徹底的なビジュアルにこだわっている点にある。オールカラーで構成されており、の多彩な写真、絵画、地図、図解などを駆使して、多角的かつ斬新な視点から、戦争を捉えようとしている。

さらに、年代も場所も広範囲にわたって概説しているため、どんどんページをめくっていくことで、「いつ」「どこで」を取っ払って、「どのように」人は争ったのかに着目することができる。そして、時代を超えた視点から、全く別の時代の戦闘どうしの類似点やアイデアが浮き彫りになり、見るたびに発見がある。

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見ていると惹き込まれる日本刀

たとえば、優れた将軍は、時代を超えた特質を備えていると指摘されている。チンギス・ハン率いるモンゴル騎馬軍と、1940年春にフランスに侵攻した装甲師団との間に類似性を見出し、機動力が戦闘と決する事例として紹介されている。

あるいは、敵軍包囲という古来の戦法は、古代ローマの世界でも第2次世界大戦でも等しく奏功しているが、5千年分の戦略図を眺めていると、戦いとは畢竟「どのように敵を包むか」のせめぎあいであり騙し合いであることが見えてくる。

テクノロジーが変えた戦争も興味深い(ここが一番面白い)。

たとえば、古代ローマとカルタゴが争ったポエニ戦争。初期はカルタゴが制海権を握っており、陸戦が本業のローマ軍は、海戦での経験が圧倒的に不足していた。ローマ軍はコルウスという鉤の付いた乗船橋を開発し、カルタゴ軍のガレー船が近づくと、ローマ軍はコルウスを落とし甲板にめり込ませ、それを渡って軍団兵が大挙して乗り込んだのだ。

つまり、船を操る海戦を、ローマ軍が最も得意とする陸上に変えてしまったのだ。この件は、『ローマ人の物語 ハンニバル編』(塩野七生、新潮文庫)で予習していたが、本書で指摘されているのは、軍の凄さだけでなく、ローマ人の工学技術と発明の才能である。

小火器(火打石式銃からアサルトライフルまで)の変遷は、歩兵の役割の変化の歴史であることも分かる。銃はいわゆる「飛び道具」だから、弓兵のような立場だと考えていた。だが、銃器の精度や射程距離が伸びるまでの間は、弓兵よりも槍兵のような立ち位置であったことが分かる。

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ナポレオン時代の小火器

つまり、遠距離(弓)と至近距離(サーベルや刀)の間にある、ミドルレンジを槍兵が担っていたのだ。16世紀の欧州が境目で、マスケット銃で武装した歩兵が増えるに従って、槍兵の占める割合が低下したという。

同時に、銃器に対する防御効果がなくなったため、甲冑の人気が衰えていったのも興味深い。テクノロジーが装備を変えた顕著な例だろう。16世紀の伝記作家は、「戦争でこのような武器が使われるとしたら、騎士が武器を扱う腕前や、強さ、不屈の精神、規律はもはや何の役にも立たない」と嘆いたが、21世紀のドローンによる遠隔攻撃について、同じ嘆きが繰り返されているのかもしれぬ。

戦争は文明より古い。戦争の変化の歴史が、人類の歴史と、ぴったりと重なっている。人類の様々な創意工夫は、戦争によりきっかけを得、数多くのブレイクスルーにつながった。その変遷を本書でざっと見るだけでも、ブレイクスルーどうしの繋がり合いに目を見張るだろう。

戦争から人類を知るための一冊。

 

『不道徳的倫理学講義』古田徹也 (ちくま新書)

人は、行為と結果を結び付けたがる。善人には報酬が、悪人には報復が与えられ、災厄に見舞われた人には埋め合わせとする幸福が与えられると思いたがる。

だが、現実は違う。人は、善行・悪行に関係なく、「たまたま」良い目・悪い目に遭う。善悪と幸不幸が同期しない。現実は、むしろ運に左右される。この、「たまたま」が厄介なのだ。

だから、善悪を語る場から、運を排除しようとする。宗教や神話は、「神意」や「天命」と呼ばれる神の意志=運命を取り入れ、前世や来世の因縁で語る。善悪と幸不幸は同期しているが、それは前世からの報いであり、来世へ持ち越されるという理屈だ。

では、善悪を語る倫理学の場では、「運」はどのように扱われるのか?

「道徳と運」をペアで語れる哲学者は少ない。ほとんどは、運の要素に目を背けて、道徳の側面を語りたがる。

実際のところ、理想は道徳が支配し、現実は運に左右される。道徳を否定するものが運であり、運に抗うものが道徳である。「不道徳」とはすなわち「運」なのである。道徳と運は、いかにも相性が悪い。

『不道徳的倫理学講義』では、この食い合わせの悪い「道徳と運」に真っ向取り組む。タイトルの「不道徳」は「運」を指し、いわば「運」を倫理学で解く講義になる。確固とした道徳理論を語る哲学者たちも、「運」の要素から見ると、みな苦戦している(または見なかったことにしている)。

本書は、因果応報の神話を真実だとし、運の問題を回避したプラトンや、道徳をめぐる問題圏から運の要素をどこまでも排除しようと試みたカントを紹介しながら、「運とは何か」に迫る。

そんな中で異彩を放つのは、トマス・ネーゲルの「道徳的運」だ。

そもそも「道徳」の原理は、個人の自由意志に基づいて選択した行為に対し、責任を帰するところにある。一方「運」とは、個人の意志では制御できない偶然的要素であるが故、責任を帰せないことを指す。だから、「道徳と運」は排他的な存在なのかもしれぬ。運が通れば、道徳は引っ込むのだ。

ネーゲルは、道徳的な義務や責任を負うべきなのは、個人の意志で制御できる行動においてだけだとする。そして、個人で制御できないのだけれど、道徳的な判断の対象として扱われるものを、道徳的運と名づける。

「たまたま」良い結果になった・悪い目に遭った場合、いずれも個人ではどうしようもない。そうした運一般のうち、道徳的に責任が問われるものが、道徳的運という訳である。医療過誤や交通事故において、「注意義務違反」と呼ばれる行為を見ていくと、こうした個人ではどうしようもないが、悪い結果を引き起こしてしまう要素があるというのだ。

もし現実が、個人の意志で完全に制御でき、運の要素が一切入らない均質な世界であるのなら、行為が引き起こした結果を全て引き受ける責任が生ずるだろう。

だが、現実はそうではなく、個人ではどうしようもない状況が「たまたま」起きることがある。また、非難されることは一切していないにもかかわらず、起きてしまったことが「たまたま」悪いこともある。

だから、行為と結果の間には、完全な因果だけしか成り立っていないわけではなく、運の要素がついてまわる。現実は、均質な世界ではないのだ。これを無視して、「個人の意志で制御できたならば、悪い結果にならなかった」として、個人に責任を求めるには無理がある。ネーゲルの道徳的運という考え方は、現在は常識とされる現実の不均質な面を浮き彫りにしている。

道徳と運、ままならないものをどのように扱うかについて考える一冊。

 

『暴力と不平等の人類史』ウォルター・シャイデル(東洋経済新報社)

人類を平等にするのは暴力だということを、ファクトフルに証明した一冊。

貧富の差は拡大する一方。一向に格差の是正が進む気配はない。日本に限った話ではない。北米、南米、中国、東南アジア、アフリカ……世界中、至るところで格差は絶賛拡大中だ。格差の拡大は、人類社会の宿命なのだろうか?

古今東西の不平等の歴史を分析した、ウォルター・シャイデル『暴力と不平等の人類史』を読むと、これは事実ではないことが分かる。たしかに貧富の不平等はあるが、これを一掃する平等化が果たされる。人類の歴史は、不平等の歴史でもあるが、平等化の歴史でもあるのだ。

本書の目的は、この平等化のメカニズムを解明するところにある。データと史料とエビデンスでもって緻密に徹底的に分析する。

まず著者は、不平等は人間社会の基本的特徴だという。人類が食糧生産を始め、定住化と国家形成を行い、さらに世襲財産権を認めて以降、不平等が進むのは既定の事実だと述べる。なんとなくそうではなかろうかで済ませがちだが、著者はあくまでデータで示す。

著者は、この貧富の差を解消し、不平等を大幅に是正する存在があるという。

その最たるものが戦争だ。それも国家レベルで大量動員し、国土を焦土と化すほどの大規模なものだ。物理的な破壊のみならず、没収的な課税、インフレ、政府規制などにより、エリート層の富は消え去る。

著者は、戦争の規模とそれが平等化の是正に与える影響をデータでもって示してくれる。なかでもヨーロッパ史上最大の平等化装置となったのは、第2次世界大戦だという。

欧州だけでなく、日本における不平等も、太平洋戦争が解消してくれたと分析する。戦争が行われている間、政府規制、大量動員、インフレ、物理的破壊が、所得と富の分配を平準化した。戦後になると、財閥の解体による私有財産の再分配が行われ、農地改革による地主制度が根絶したという。これに加え、海外資産の喪失と金融の崩壊により、富は紙になった。

太平洋戦争を境に、日本のジニ係数は大幅に低下している。何百万もの人命と、国土に甚大な被害をもたらした戦争が、結果として、他に見られない独自の平等化をもたらしたというのだ。

ただ、あらゆる戦争が平等化をもたらすかというと、違う。近代以前の略奪と征服を特徴とする伝統的な戦争は、たいてい勝者側のエリートに利をもたらし、急激に不平等を拡大させていた。さらに、戦争規模が小さい場合、平等化は一時的なものにすぎないという。格差解消のために戦争を求める声もあるが、徹底的な破壊と大量の血が必要となりそうだ。

他にも、全国民を貧民にする「革命」や、「国家の破綻」、さらには「伝染病の大流行」を加え、「平等化の騎士」と名づける。読み手の主張が何であれ、どれだけ不都合であろうとも、いったんはファクトとして受け止める必要がある。

すごいすごいと読んで打ちのめされる一方で、どうしてもぬぐえぬ違和感があった。それは、「平等化」をジニ係数や上位1%で見る視点だ。

わたしは、「平等化」とは、富の分配の話だと考える。単純に、富める者から貧しい者へ、富を分配すればいいのに、人類はそれをするのが不得意だ。一方、平等化の四騎士は、極めて得意だということが、本書の主張である。

しかし、そこでなされていることは、「富の分配」ではなく、富の破壊である。戦争、革命、崩壊、疫病の現場において、エリートは奪われる富を持っていた。だが、貧乏人は奪われるといったら命しか残っていなかった。

生き残ったエリートは、富の大部分を失い、生き残った貧者は、生産設備に対する労働力の相対的な価値が上がり、賃金が上昇した。これを数字にすると、ジニ係数の低下になるが、死んだ人は「貧者」としてカウントされない(文字通り、死人に口なし)。違和感の正体はこれだ。

平等化の四騎士がやっていることは、富の破壊であるだけでなく、貧者の口減らしでもある。ジニ係数だけを見ていると、貧者が奪われるものを見失うだろう。

 


2019ベスト「フィクション」


 

『フラナリー・オコナー全短篇』フラナリー・オコナー(ちくま文庫)

ひとつひとつ読むたびに、重いもので殴られる感覚なので、感情が丈夫でないと辛い。それでいて、胸の奥まで抉り込まれた痛みが、一生刺さったままになる。O.ヘンリーの驚きと、ミヒャエル・ハネケの悪意の、幸福な結婚を味わえる。

最高に嫌になれる「善人はなかなかいない」は、人生で3回読んだが、3回とも感情が違う。わずか20ページと少しなのに、一生刺さったままになる。

「善人はなかなかいない」は、おばあちゃん、息子と妻と子の家族が、自動車旅行に出かけた先で、大変な目に遭う話だ。

最初に読んだときは、驚いた。これで終わりにできるのか、と唖然とした。なにかの間違いであってほしいと願った。だが、どんなに目を凝らしても間違いはなく、運命は無慈悲だ。

次に読んだときは、おばあちゃんに注目した。イエスキリストを信じ、自分を善なる存在だと疑わない。独善的という言葉がぴったりだが、そう言われても自分のことだと絶対に理解できない人間、いるだろ? まさにそれだ。

そんな人が信じるものが揺らぎ、崩れる瞬間を観察する。物語の最後になっても、おばあちゃんは変わらない。言葉によっても行動においても、完全に屈しているのに。この独善を、信心深い田舎者の愚かしさと見なすこともできる。

だが、おばあちゃんは馬鹿ではない。認めたくはないが、自分がした過ちは理解できている。しかもそれらは、自らが信じていたものと何の関係もなく、それでいて自分の運命を完全に変えてしまうことも理解できている。

それでも、信じていたものを信じていようと振舞う。やっぱり神様なんていなかったね。何度読んでも運命は変わらない。わたしが驚いたのは、そうした無邪気な愚かしさを、まんま信じていたからだろう。

そこに描かれる運命は、別に理不尽なものではない(「理不尽」として片づけたいけれどね)。おばあちゃんを通じて、わたしが信じ込んでいた世界とは違っていたから、唖然としたにすぎぬ。

そして、今回読んだときは、全く違った感情を抱いた。なぜなら、作者のこの言葉を目にしたからだ。

私の作品では、人物たちを真実に引き戻し、彼らに恩寵の時を受け入れる準備をさせるという点で、暴力が不思議な効力を持つ。人物たちの頭は非常に固くて、暴力のほかに効き目のある手段はなさそうだ。真実とは、かなりな犠牲をはらってでもわれわれが立ち戻るべきなにかである。

恩寵(grace)とは一般に、神のめぐみや慈しみのことだ。神を信仰する心こそが恩寵の賜物だから、これはおばあちゃんの信仰を試し、裏切られる話なのか? 恩寵を失う(fall from grace)話なのかも……と考えた。

しかし、わたしの考えは間違っていた。

もう一度読むと、ラスト2ページの数行を、完全に見落としていたことが分かった。ここだ「おばあちゃんはその一瞬、頭が澄みわたった。目の前に、泣きださんばかりの男の顔がある。男に向かっておばあちゃんはつぶやいた」。

次の瞬間、おばあちゃんは、完全に正しいことをする。偽善を被ってきた自覚すらなく、愚かな言動をくり返していたにも関わらず、おばあちゃんは、(おそらく)イエス・キリストがしたことと同じことをする。

もちろん、おばあちゃんは磔にされてなどいない。しかし、もしイエス・キリストがその場に立っていたならばしたであろう、まったく同じことを、おばあちゃんは口にして、行動する。

おばあちゃんは、自分が信じていたものが、これから自分に降りかかる運命に、何の関係もないことを知っている。どんなに信仰心が篤くても、何の役にも立たないことを、完全に理解している。その上で、恩寵を得る。

この瞬間にシンクロしたとき、世界が一変した。

何回読んでもおばあちゃんの運命は変わらないが、彼女は(神様抜きで)恩寵を得ており、赦してすらいるのだ。わずか一瞬なのだが、彼女が手にしたものに、ほとんど触れられるくらい近いところに居られる。これは、読むことでしか経験できない感覚だ。

読むことは経験することだ。ほとんどあらすじも示さず、わたしの「感情」だけを延々と吐き出したが、オコナーの小説はそうやって示すしかないと考える。

なぜなら、そうやってでしか経験できない作家だからだ。

作品にはテーマや書かれた理由があって、その「作品の意味」なるものを読み解く―――それは教室で読むには正しいが、このやり方だと、オコナーは「グロテスクと暴力で人の醜さを暴く作家」になってしまう。

もし、いわゆる読み屋がやる「あらすじ+意味=評価」のような読み方だと、きっとこの「感情」にたどり着くことができないだろう。いや、読み返すことすらしないに違いない。

しかし、オコナーは違う。説明的な言い換えに抵抗し、鈍器のように胸を打つくせに、感情の深いところまで刺しにくる。「善人はなかなかいない」の他に、この作品が刺さったまま。一生かけて読み直す。

  • 人造黒人
  • 田舎の善人
  • 強制追放者
  • ゼラニウム
  • すべて上昇するものは一点に集まる
  • グリーンリーフ
  • 森の景色
  • 家庭のやすらぎ
  • 障害者優先
  • 啓示

ずっと積読状態だったオコナーの短編集、読もうとしたきっかけは、三柴ゆよしさんの読書会だ。『聖書』や『黄金伝説』にまつわる説話が背景にあるという、キリスト教に詳しい人のコメントや、「ここぞ!」というときに色彩をぶっ込んでくる光景描写(エル・グレコみ)があるという指摘、共感性羞恥がある人にはキツすぎるなど、たいへん面白くタメになりました。まとめは、[フラナリー・オコナー『全短篇』(ちくま文庫)読書会まとめ]をどうぞ。

三柴さん、参加の皆さん、ありがとうございました! 2020年は筋力を鍛えて鈍器部に入ります。

 


2019ベスト「ノンフィクション」


 

『ヨーロッパ文学とラテン中世』E.R.クルツィウス(みすず書房)

[読書猿さんとの対談]がきっかけで手に入れたのだが、これに出会えて本当に良かった。

本書を一言で表すなら、「ヨーロッパについて語るときに我々の語ること」である。ヨーロッパとは、地理的な名称に閉じず、歴史と文化と伝統をひっくるめた、「ヨーロッパ的なるもの」の統一体になる。

私たちが知る「ヨーロッパ的なるもの」は、様々な形態を取る。ネットやメディアを通じて目にする姿や、そこで発信・受信される言葉や概念、あるいはヨーロッパが影響を与えた様々な事物といったものになる。私たちが話したり考えたりする言葉・概念も、自覚無自覚に関わらず、大なり小なり影響を受けている。

こうした「ヨーロッパ的なるもの」は一日にして成立したものではなく、昨日から始まり、先月、昨年、千年二千年以上前から受け継がれてきたものだ。

昨日から引き継がれたのであれば、ネット経由の情報かもしれない。だが、時代を遡るほどその引継ぎは変化してゆく。詩学や文学、韻文といった形態の変化や、音声や文字といった方式の変更、さらにはそれらを乗せるメディアも、書籍、手紙、口伝、祭りなどの媒体も変遷する。

この営みをまともにやろうとすると、百科事典になってしまう。ヨーロッパ百科事典だね。そして、一人の仕事ではとうてい無理な相談だ。世代を超えた大事業になってしまう。

しかし、著者クルツィウスは、これを文献学(フィロロギー)で成し遂げる。過去から脈々と引き継がれてきた知的遺産を掘り起こし、光を当て、それらが現代にどのように連結されているかを明らかにする営みだ。これを「ヨーロッパ」にまつわる言語と思考の全部でやったのが凄まじい。

しかも、抽象的なものではなく、すべて具体的な事例でもってくる。時間と空間を越えて、繰り返し表れてくる共通化された概念やイメージをすくいあげるのだ。ある連想や情念に結び付けられる定型的な表現をトポスと呼び、古代から現代に至るさまざまなトポスの網目を編集する。それは、レトリックや常套句だったり、コミュニケーションや表現の技術だったりする。

たとえば、「象徴としての書物」の章。書かれたもの―――書物が、どのような比喩で扱われてきたかを振り返ると、興味深い事例が見つかるだけでなく、今でもその比喩が生きていることが分かる。ギリシャ、ローマ、聖書、シェイクスピア、ゲーテ、ダンテ、自然という書物と縦横無尽に行き来しながら語り尽くす。

そこでは、ソクラテス「書かれたものは隠喩にすぎず、口頭による言辞こそが魂のうちに書き込まれる」といった話から、何かを記し、留めようとする行為のはかなさを「水の中に書き込む」という表現がある(今なら、「砂に書いたラブレター」だね)。

人間の顔を、そこから思想を読み取る一冊の書物のように喩えるのは、12世紀のアラヌスが最初だと言われているが、人口に膾炙したのはセッティメロの悲歌がきっかけだとし、その歌を引用する。「顔貌は内なる状態の書物であり、ページである」で終わる詩を読むと、「40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て」や「性格は顔に出る」といった寸言、あるいは『ジョジョの奇妙な冒険』のヘブンズ・ドアーを思い出すだろう。

あるいは、ガリレオの「自然という書物は数学の言葉で書かれている」にある、「自然という書物」について。この言葉の背景には、そもそも自然という存在が、語彙と文法を理解すれば読み解ける書物のような存在だという思考フレームが横たわっており、これもラテン由来だという。著者は、それを指摘したのが誰で、いつどのように広まり、誰がそれを改変していったかの歴史を、人名と作品と引用で埋め尽くす。

固有名詞に馴染みがなくても、そこで扱われているトピックはピンとくる。どれほど時代が変わろうとも、私たちの思考フレームは使い回されていることが分かる。それも、圧倒的な事例でもって分からせてくれる。

「ヨーロッパ的なもの」について読んでいくうちに、自分の思考の内側にあり、あたりまえすぎて気づかなかった思考ルーチンを、歴史的な事例で知る。そして、天の下に新しきものは無いことが分かってくる。

完全に新しい言語運用、ど新規の概念フレームワークなんてものはなく、わたしたちは、それまで積み上げてきたもののうち、互いに了解しあえるものを選び取った上で、話したり書いたりしているにすぎないことが見えてくる。その「あたりまえ」の背後に目を向け、自分を知り直すための本としても使えるのだ。

さらにはタネ本としても使える。ここで出てくるトピックを核にして、別のストーリー、プロットを生み出すことができるだろう。それらはきっと、見た目は新しかろうと、本質は変わっていない。だから、古来と変わらぬ魅力を持つに違いない。

読書猿さん、一生もののスゴ本を教えていただき、ありがとうございます。

Sugohon2019
この本がスゴい!2019ベスト

 


スゴ本2020


人生は短いのに、読みたい本が多すぎる。

「あとで読む」と積んでおいても、あとで読まない。これは真実だ。だからわたしは、いま読む。

とはいいつも、昨年からの持ち越しも山積みだ。Sabine Hossenfelder ”Lost in Math” とウィトゲンシュタイン『哲学探究』は絶賛放置中だし、ノース&ウォリス&ワインガスト『暴力と社会秩序』とナボコフ『アーダ』は積山だ。葦原大介『ワールドトリガー』は追い付いたけれど、林田球『ドロヘドロ』は追いかけている途中だ。

新たに積み上がっているのが、日向夏『薬屋のひとりごと』と小川一水『天冥の標』、そしてR.R.マーティン『氷と炎の歌』の巨大な山だ。読む前から絶対に面白いことは分かっているし、読んでる途中もやめられない止まらないことも実感してる。めったに誉めない嫁様が「『薬屋』と『氷と炎』はイイゾ!」と言うぐらいだから、間違いないことは分かっている。だが途中だ。

追い打ちで積まれるのが、ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』とルルフォ『燃える平原』、ストーレンハーグ『ザ・ループ』と大串夏身『レファレンスと図書館』、そして『マルセル・シュオッブ全集』である。どれもこれも、わたしが絶大なる信頼を寄せる方が、「これはスゴい」と推してくるのだから、外れるワケがない。そうそう、読書会鈍器部の課題図書になるパワーズ『オーバーストーリー』も読むぜ読むぜ。

書きたいことも多すぎる。政治と経済学の欺瞞について。高校における古文漢文の必要性とその度合いについて。語彙力と幸福度の相関について。科学への過大すぎる期待について。素粒子物理学の瑕疵の見つけ方について。数字が出たら客観的だと信頼してしまう理由について。面白い作品の「面白さ」の作り方について(そしてその実践作品)。お尻とおっぱいと匂いと臭いのフェティシズムと、それを裏付ける進化生物学的理由について。このブログで学んだことをまとめた「スゴ本の本」について(これは書きたい、じゃなく書いてる)。

やりたいことも多すぎる。本についてもっと語り合いたい。スゴ本オフで沢山の人と話したり、テーマを決めて対談や鼎談、座談会もやりたいし、[猫廼舎日曜読書会][BtoZ読書会][横浜読書会][SF読書会]にもっと参加してお薦めをうかがいたい。

これ、人生のネタバレなんだけれど、やりたいことは、今やらないと、絶対にやれない。「機が熟する」なんてことはなく、「いずれ」「そのうち」「ヒマになったら」なんて言ってるうちに人生終わる。

こうやって書いてたら、だんだん確かになってきた。フランシス・ベーコンは正しいね。

わたしがこうして読んだり書いたり聞いたり話したりするのは、それを通じて既知の世界を拡張することで、わたし自身が幸せになるため。なぜ知るかの答えは、幸せになるため。知ることは幸せになることなんだ。だから読んだり書いたり話したりする。

そして、あなたのお薦めがあったら、ぜひ聞かせてほしい。なぜなら、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから。



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おっぱいは誰のものか?『乳房論』

問:おっぱいは誰のものか?
答:それを持つ本人のもの

2行で終わるはずなのだが、『乳房論』を読むと、こんな単純なものではないようだ。この答えに至るまでに様々な紆余曲折があり、今でも続いていることが分かる。

本書は、人類史を振り返り、西洋を中心とした乳房をめぐる欲望の歴史をたどっている。乳房に対する概念は一様ではなく、それを求める人や時代や文化によって尊ばれ・蔑まれ・弄ばれてきたという。

著者はマリリン・ヤーロム、スタンフォード大学のジェンダー研究所の上級研究員である。

彼女は、乳房に対する視線、すなわち乳房がどのように見せられ、見られてきたかという観点から振り返る。絵画や彫刻、映画やポスターに現れる、ビジュアルとしての乳房だけでなく、詩歌や論文、プロパガンダに現れるレトリックとしての乳房にも着目する。さらに、乳房がその時代や文化圏でどんな役割を果たしたかという機能面にまで掘り下げている。

本書の背景には、「乳房は誰のものか」という疑問がある。すなわち、乳房を求めるもの―――乳児、パートナー、画家、詩人、医師、政治家、ポルノ業者、商人、司法家、宗教家など、それぞれの立場によって、乳房は様々な役割を担わされてきたというのだ。

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乳房はいつから性的に見られるようになったか

たとえば、絵画におけるモチーフとしての乳房の変遷が面白い。ギリシャ・ローマ時代の彫刻における女性の美しさの理想が、ルネサンスを機に俗世趣味的なものとなったという。授乳する聖母の乳房から宗教的な意味が剥奪され、乳房は、あからさまな男性の欲望の象徴になったと主張する。

乳房に手を置く男性図はルネッサンス美術によくみられるモティーフだが、乳房の所有権は自分たちにあると考えている証左だというのだ。本書では、ハンス・バルドゥング・グリーンの『老人と若い女』が紹介されている。老人は若い女の乳房に手を伸ばし、女は老人の財布に手を伸ばす構図だ[europeana:Ungleiches Paar]

そして、ルネサンス期に生まれた価値観が西洋文明に根強く残り、乳房は女性ではなく男性を性的に興奮させる意図で美術や文学に取り上げられ、鑑賞者や読者に愉しみを提供したというのだ。

絵画ではなく詩歌になるが、ルネサンスよりずっと前のヘレニズム期に、女性の胸を讃える歌があった([ギリシア詞華集選『ピエリアの薔薇』]の俗歌で見た)。この時代の男たちは、どちらかというとお尻を愛でていたが、乳房にも性的な意味は込められていた。おそらく「西洋画の歴史において」というカッコ付きの中で、おっぱいが性的に見られるようになった決定打がルネサンスなのかもしれぬ。

母乳神話はルソーが作った

「おっぱい」には母乳としての意味もある。乳児にとっては死活問題だが、これに男がからむと厄介なことになる。

著者は、その中核がエミールの『ルソー』だと主張する。それまでは、授乳は乳母がするものという慣習だった。だが、母親が自らのお乳をあげることで、社会は変革するとして、母乳育児とフランス革命をつなげたのがルソーだというのだ。

さらに、彼が与えた影響はフランス革命を超えて現代にまで繋がっているという。

ルソーが言うには、男性が女性の乳房を魅力的だと思うとしたら、それは究極的に種を残し、家族の絆を保存しようとするためである。社会的推進力としての母親の詩学と、平等主義者の母乳育児の裏に、西洋文化に深く根差した性差別的な世界観が潜んでいる。あまりにも根深いので、気づく人は少ない。

女性は生まれつき与え、愛し、自己犠牲的で、依存的な生き物であるというルソー主義者の理想が、理想的な母親のあり方という新思想の基本を形成し、200年にわたってヨーロッパと米国を支配する思想となった。

確かに、母乳神話は現代につながっている。どちらで育ててもいいのに、「おっぱい vs 粉ミルク」闘争は、今の時代でも目にするからだ。

たとえば、「母乳で育てるほうが赤ちゃんの健康にいいですよ」と主張する全米授乳キャンペーンがあるが、この動画には「粉ミルクで育てるおまえは、ロデオマシーンに乗る妊婦と同じぐらいリスキーだ」というメッセージが含まれている。母乳を神聖視する根っこをたどると、ルソーと、さらにその先にまで至る。

「赤ちゃんが生まれる前に危険なことはしないのに、生まれた後にするのはなぜですか」

「理想的なおっぱい」の商品化

おっぱいが何に覆われていたかを追いかけると、下着とファッションの歴史になり、ひいては「理想的なおっぱい」の歴史になる。

生まれたままの姿を美しいと崇めながらも、絵画や彫刻に描かれてきたのは、その時代における一般的な女性像ではない。どの時代の女性の乳房もたいして変わらないのに、それぞれの時代で、「リンゴのような」「魚雷のような」「ボウルのような」それぞれの形容詞を求められ、その求めに応じて「整え」られてきたというのだ。

乳房用下着はギリシャ・ローマ時代からあり、中世後期からコルセットは富裕層を中心に普及していたという。だが、すべての階層の女性にコルセットやブラが行き渡るようになったのは、19世紀半ばに広がった機械縫製による。そして、機械縫製による大量生産は、「乳房矯正」を強制的なものにする。

コルセット、ブラ、クリーム、ローション、シリコン注入、痩身プログラム、ボディビルといった乳房の商業化は、わずかここ百年のことだという。

1920年代のボーイッシュスタイルでは平たい胸がもてはやされ、女性たちは自分の胸を締めあげた。1950年代になると豊でセクシーな乳房が求められ、下から持ち上げるようなワンダーブラが競って買い求められた。そして、1970年代に一世を風靡したヌードモデルが、この風潮について決定的なコメントを残している。

「おっぱいが女性らしさの最高のシンボルのように強調されすぎている。おっぱいが大きくない女性たちに、自分は女ですらないと感じさせてしまうのは、とても良くないこと」

著者はこれを、身体イメージの問題だととらえる。その時代その場所に応じた理想的な身体イメージに適合していなければ、女性は自分の乳房を快く思うはずがない。「理想的な美しさ」というあいまいな規範に、大多数の女性が拘束されているというのだ。

ブラを焼く

著者は、西洋史の大部分を通じて、乳房を支配してきたのは男性だったという。

夫や愛人による個人的な支配であろうと、教会や国家、医学会など男性中心的な社会による集合的なものだろうと、おっぱいが支配されてきたことには変わりないという。

こうした支配に対抗するためのデモンストレーションとして、「ブラを焼く」という行為が、60~70年代に広まる。そもそも、女性の乳房が恥ずかしいものとして隠されたり、猥褻で邪なものとして見なされるのは、こうした男性支配による影響だとし、自由に胸をさらす権利を求める運動だ。

胸をさらす自由を求めるといえば、ラ・チチョリーナだろう。ある年齢層からだと思い出すかもしれない。

上半身裸で選挙活動を行ったチリョリーナはは、1987年にイタリアの国会議員に当選する。「おっぱい丸出し議員」として物議をかもしたぐらいしか覚えていないが、彼女の功績は本書で知った。性的開放を訴え、議員としての4年間で「囚人にセックスする権利を認める」「学校で性教育を行う」「国営娼館の再開」など、7つの法案を提出したというのだ。

デモンストレーションとしての乳房は、啓蒙運動にも用いられる。原子力発電所の建設反対デモで、乳房除去手術痕をさらしたレイヴン・ライトや、ディーナ・メッツガーの「Warrior(戦士)」が紹介される。

「戦士」は、乳がんで乳房が片方になってしまった女性を映した、美しい写真だ。裸になったメッツガーは両腕を広げ、左右非対称の乳房を太陽に向けてさらしている。片側には従来の乳房、もう一方には切除痕に施した入れ墨が見て取れる。わたしは、これほど自由で力強い乳房を見たことがない。

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Deena Metzger as the Warrior
(cite from Jewish Women's Archive)

Jewish Women's Archive. "Deena Metzger as the Warrior Poster." (Viewed on November 26, 2019) <https://jwa.org/media/warrior-poster>.

おっぱいから見た人類史

おっぱいの歴史は一筋縄ではゆかぬ。

絵画や母乳神話、乳房の商品化とそれに抗う運動と紹介してきたが、他にも、乳がんを巡る医学史や、第一次大戦のプロパガンダにおける乳房の役割、おっぱいをさらすことで搾取される/する女性とポルノ業者の歴史などが語られる。

おっぱいが持つ意味は、立場によって異なってくる。赤ん坊には生きる糧、男性にはセックス、医者は診察対象で、商売人にはドルマーク、宗教家には神聖なシンボルで、政治家にはプロパガンダに利用する。そして、歴史や文化によって、それぞれ何が良しとされ、何が避けられるかは変わってくるという。

どの視点どの立場からしても、「おっぱいは誰のものか」という問いに対する答えは明白だ。おっぱいの持ち主のものに他ならない。だが、乳房の持ち主である本人が、自分のおっぱいをどう扱うかについて自由にできないことが問題なのだ。

著者は言う。乳房についてもっと自由に振舞うこと認められれば、それだけ女性が自由になれる。公共の場で赤ん坊に自由に母乳をやることができる。トップレスで自由に泳げる。ノーブラで出勤してもとやかく言われない。そんな未来は不可能ではないという。

そして、百年前の女性の脚を引き合いにする。慎み深い女性は人前で脚など見せないとされていたが、今は違う。出したい人は出せばいいし、そうでない人は出さなくてもいい。乳房についても、同じ時代が来ると言うのだ。

わたしがその時代を見届けられるか、分からない。だが、メディアが喧伝する「理想的な乳房」「健康的なおっぱい」といった身体イメージから自由になれることは、全ての女性にとって幸せな未来であることは分かる。

人類の祖先が四足歩行から二足歩行に移り変わるとき、女性の成熟度のバロメーターがお尻から乳房に代替されたと言われる。また、大きく張りのある乳房を持つ女性を選ぶことで、自分の子孫を残す確率を上げることができる(より多くの赤ん坊を育てられると見込まれるから)という説もある。

本書は、芸術作品を元に歴史・社会学的な視点だったが、進化生物学のアプローチからおっぱいの歴史をたどると、さらに興味深い分析ができるに違いない。

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«「哲学に答えは無い」という誤答