神話に一撃!「日本人のしつけは衰退したか」

日本人のしつけは衰退したか 家庭の教育力は低下している。そのため、青少年の凶悪犯罪が増加している。だから、家庭の教育力を高めることが、最も求められている。

 ホントだろうか?

 あるいは、「昔は家庭のしつけが厳しかった」とか、「最近はしつけに無関心な親が増えており、しつけは学校まかせ」といったイメージは、無条件に受け入れられているが、事実なのだろうか?

 リカセンセやウチダセンセあたりが放言してそな言説に、真ッ向から取り組んだのが本書。センセやマスコミが「常識」レベルで扱っている「家庭の教育力の低下」に思いっきりメスを入れる。「そもそも『教育力』って具体的に何?」からはじめ、戦前~現在にいたる文献・調査報告を集め、「しつけ」を立体的に解き明かす。

■ 「しつけ」の歴史的検証

 本書のメインテーマは、「しつけ」の歴史的検証。こんなカンジで展開する。

――もともと日本の伝統的な子供観は、「子供は自然に大きくなって一人前になるもの」だという考え方が支配的だったという。そのため、しつけや教育は家庭内よりも地域社会や学校に任せていたのが一般だったそうな。ごく一部の上流階級が、西洋風の考えを取り入れた幼少時の厳しいしつけや英才教育を施していたのが現実。

 それが昭和になり、中・高等教育が拡大していくとともに、経済構造の変容の中で、都市部を中心に新中間層が拡大してきた。この新中間層は、子どもを意図的な教育の対象とみなし、家庭を「教育する機関」として編成していったという。父親は外で働き、母親は家で家事・育児に専念するという性別役割分業が組み込まれ、なかでも母親こそが子どもの教育の責任を負っているという意識がうまれたのだという。

 いっぽうで、地域社会や村落共同体は、戦前期から子どもの社会化に対する影響力を弱めていき、高度成長期に最終的に消滅した。学校は立身出世機関として利用されてきた反面、「教育する家族」が広がる中で、相対的に影響力を失っていく――

 結局、「家庭の教育機能が低下している」のではなく、「子どもの教育に関する最終的な責任を家族という単位が一身に引き受けざるをえなくなっている」構図を描く。その中で、「昔は厳しかったしつけ」は一部の例外が拡大されている事例を追求し、「しつけの失敗→非行化」という物語がつくり出されていることを非難する。

■ セピア色の過去が暴かれていく過程が面白い

 いちばん面白いのは、常識の問い直しの過程で、セピア色のイメージの裏側が暴かれていくところ。いちいち資料や数字にあたりながら検証していくので、イメージだけで知ったかぶるセンセたちは恥かくかも。

 例えば、親ではなく、地域社会や丁稚奉公が教育的な役割を果たしていた、という主張の現実に目を向ける。一種のユートピアとしての村落共同体や、出世物語としての奉公制度のダークサイドを暴きたてる。

 たしかに、親がしつけなくとも祖父母、近所の人、若者組など、周囲の人々が人間形成機能を果たしていたことはあった。あるいは、丁稚・徒弟奉公や女中奉公の教育的な役割を否定することはできない。

 しかし、「村のしつけ」には差別や抑圧が組み込まれており、「目上」の人に礼儀正しいとは、忍従や卑屈さと表裏一体の関係であったことを指摘する。長男と次三男、男児と女児、家柄、家格の区別といった、微妙な差異付けの支配体系・隷属関係の上に成り立っていたことをあらわにする。

 また、奉公制度の教育的側面ばかりを強調するのは、あまりにも牧歌的だと返す。見ず知らずの他人の中に放り出され、低賃金で一日中酷使されてきたことや、雇う側は必ずしも教育的な意図を持っていなかったことを指摘する。さらに、過重な労働で病気になったり、虐待がしばしばおこなわれたことも検証する。

■ 本書の結論

 まとめると、こうだ。

 子どもを放任してたのはむしろ昔(高度成長期以前)で、今どきの親たちは、はるかに子どもに手間ヒマお金をかけている。現代の親たちは、「教育する家族」のマネージャーとして、しつけや教育の担当者、手配師、責任者の役割を果たしている。

 そして、童心主義・厳格主義・学歴主義の目標を同時に達成しようと奮闘する。つまり、子どもらしい心を持ち、礼儀正しく道徳的で、望ましい進学先に入学できるパーフェクト・チャイルドを作ろうとする。

 なぜなら、親たちは常に不安にさいなまれているから。「あなたの子が非行に走ったならば、すべてあなたの教育・しつけの失敗なのだ」という言説が、親を恫喝するストーリーとなる。子どもの人生の失敗 は、そのまま親としての無能さや人格上の問題を示すものになりかねず、親たちは、子育てに熱心にならざるをえなくなっている。

 著者である広田照幸氏は、御歳から察するに、サカキバラと同年代の子どもを育ててたようですな… ああ、なるほど。強い被害者意識はさもありなん。あのころは、子どもを扱うひと皆ハレモノに触る如しだった。マスコミが騒ぎ立てる「ストーリー」に振り回されたエネルギーが粛々と爆発する様を堪能できるぞ。

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整形中毒者の憂鬱「ビューティー・ジャンキー」

つやつやの肌 $5,000
すっきりしたくびれ $10,000
はちきれんばかりのオッパイ $50,000
    
    
    
your beauty priceless







ビューティー・ジャンキー 人は見た目が十割で、ブサイクは生きる資格すらないという強迫観念が、整形中毒者の不安を煽り、果てなき「美」への欲望が150億ドルの美容整形市場を生み出している――って、おまえらの「美」は医者が決めるんかい!

 「美」と「若さ」を求めて暴走する整形ジャンキーたちの最前線をレポートしている。

 脂肪吸引、豊胸、フェイスリフト、ボトックス注射の事例が実況中継さながらに紹介される。ピンと張った陶器のような顔、大きな頬骨と形の良い鼻、大きな胸とくびれた腰、まわり、すらりとしたツルツルの足… それぞれ、パーツを取り替えるかのように買い求める「ビューティー・ジャンキー」たちは、ドラッグ中毒患者と重なる。

 そして、ジャンキーたちは海を越える。バッグに現金を詰め込んで貧しい国へ飛び、手術台の安さにつけこんで「きれい」を目指す。アフリカへボトックス手術を受けにきたアメリカ女に、「そんな行為は典型的な『醜いアメリカ人』になった気がしませんか?」と問いかける著者。

 その答えがイカしているぞ。

たしかに比較的裕福なアメリカ人が手術費用の安さに乗じるというのは感じが悪いかもしれないけれど、経済的な視点で見れば、二人のしていることはよきサマリア人の精神で援助の手を差し伸べているとも考えられるのではないか。(中略)絶望的に貧しい南アフリカの経済にとっては、これだけのキャッシュが入ってくるのは歓迎されるはずだ。
 つまり、海外で整形バカンスとしゃれこむのは合理的だそうな。手術跡が消えるまで知り合いと顔を合わさずにすむし、なにしろ安上がりだ。本国に帰るころには見違えるようになっていても、「海外でリフレッシュしたの」と言い訳も立つ。南アフリカ、ホンジュラス、ジャマイカ、タイ、ブラジル、マレーシアをはじめとした受け入れ先は、外貨を落としてくれる大切なお客さまだ(数年おきに何度も受ける必要がある)。

 グローバル経済に組み込まれた「美」なんて、イカしてると思わないか?

 いっぽう、「おかしさ」も感じる。さっきから整形「美」をカッコ「」でくくっているのはそのせい。「脂肪吸引が必要です、充填剤を増やしましょう、フェイスアップはいかがでしょうか」―― 医者の営業トークと消費者の強欲から生み出される「美」は、かなり不自然だからだ。

 そう、完璧な美なんてあるはずもないのに、人はみな老いて衰える存在なのに、何かに抗うかのように「自分に投資」しつづける中毒者たちの生態は、笑っているうちに恐ろしくなる。「こんなアタシは私じゃない!」ってか? 自分探し一生やってろ(笑)とツッコむうちに、ああこれは未来の日本なのかも「アンチエイジング」なんて格好の餌になってるよホラ!

 いいや、もう輸入されてるよ。アメリカの人気TV番組に「Extreme Makeover」というのがあるが、日本ならフジテレビ「ビューティー・コロシアム」だね。要するに外見にコンプレックスを持つ一般人が、涙ぐましいダイエット+プチ整形+メーキャップを経て、「変身する」のだ。

 ポイントは、番組のあいだ「自尊心」という言葉が繰り返されるところ。コンプレックスと脂肪を取り除きさえすれば、自分を取り戻すことができるというストーリーだ。「ビフォー・アフター」の違いは、強烈なメッセージとしてお茶の間にとどいたことだろう、「美は善」だと(その反対の「醜は悪」も)。

 この考えに疑問が投げかけられることはない。「若者+笑顔+商品」がコマーシャリズムの王道だ。売りつけたい商品を善のイメージで包むために、(Photoshopを含め)広告会社はなんだってするだろう。「いやいや、高齢化社会を見越して老人も起用しているぞ」というツッコミには、奴らの顔をよく見ろといいたい。妙に白っぽく、シミ・シワも少なくないか? 中年顔に白髪かつらをつけた「エセ老人」ではないか? ってね。

 つまり、若さや美しさは「善」として流布され、その反対の「醜いことは悪だ」というメッセージは、強迫観念のように刷り込まれるのだ。

 だから、遅かれ早かれ、本書の「ジャンキー」たちがニッポンにもどんどん出てくるに違いない。見るたびに若返るタクヤくんや、頬骨の変形により別人なったユミコさん、ありえないオッパイをぶるんぶるんさせるキョウコ&ミカさまは、「まだ」向こう側だ。しかし、そのうち「プチ」で満足しなくなる「自分探し人」が増殖するんじゃぁないかと。「ルックスを良くすれば、モテる」なんてかなり強い惹句でしょうに。

へルター・スケルター そこでイヤでも思い出すのが、岡崎京子の「へルター・スケルター」。全身整形手術とメンテナンスにより、完璧な美しさを持つモデル「りりこ」が人気絶頂から転落していく物語。

「もとのままのもんは骨と目ん玉と髪と耳とアソコぐらいなもんでね、あとは全部つくりもんなのさ」
 いわば「みにくいあひるのこ」の偽物バージョン。醜かった彼女が美しく変身し、成功をおさめることで終わる話ではなく、そこから始まる物語なのだ。最初からりりこは美しく成功しているため、この先は破滅しか待っていないないイヤな予感が、爛熟した臭いとともに漂う。その腐っていく具合を、壊れていく過程を、彼女とともに「体験」できる恐ろしい作品だ。

 俗に言う整形の怖さというものとはチョト違う。むしろ、心の姿勢のほう。「美を善」とすることを完全に選択してしまったら、後ろは崖っぷちとなる。あともどりはできず、振り向くことさえ自己否定と化してしまう怖さを知った。

 どこまでが「プチ」なのか。過ぎたるは猶及ばざるが如しというが、どこまでが「過度」なのかのラインが変わってきているんだろうね。一昔前のブラックジョークに、「健康のためなら死んでもいい」があったが、今ならこうだろう、

 美しくなれるなら死んでもいい


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「石の花」はスゴ本

石の花1石の花2石の花3

 久々に徹マンした。これほどの濃度をもつ漫画は珍しい。「アドルフに告ぐ」級の傑作。

 1941年、ナチスによって寸断されたユーゴスラビアを舞台に、戦乱に巻き込まれてゆく少年を軸にした群像劇。アウシュビッツ収容所で、レジスタンスの戦場で、二重三重スパイの現場で、極限状況にありながら理想を求める生き様が生々しく描かれる。

 最初に釘刺しておく。読者がいちばん不満に思うのは、何らかのカタルシスが得られないだろう。というのも、善悪正邪の構図に片付かないからだ。悲痛な叫びもドス黒い血潮も、何も贖うことなく話は進む。

 もしも、単純に「ナチス=悪」を討つといったハリウッド的展開であれば、もっと分かりやすかったかもしれない。「『地獄の黙示録』を凌駕する山岳戦」といった惹句があるが、そういう見所はたっぷりあるからね。大義名分は決まっているので、戦争活劇のフレームに押し込んでしまうこともできる。

 しかし、7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つのユーゴスラビアを描くには、そんなにカンタンな構図で収まるはずもない。それぞれの側で苦悩があり、希望と絶望がないまぜになっている。それぞれの立場で自己欺瞞にもだえながら、終わらない地獄絵図を歩み続ける。

 いや、結局のところ、ナチスは滅び、ユーゴスラビアは解放されるのだから、そうした意味での区切りはあるといえる。あるいは、それぞれの運命が悲劇に終わったのか生き延びたのかによって終止符を打つことはできる。

 しかし、彼らの苦悩は宙ぶらりんになったままだ。あの残虐な飢えが、あの一方的な殺戮が、あの地獄が何だったのか? と問うてしまうと、読者も一緒になって答えざるを得ない、「何も!何も生み出さなかったのだ、何も変わっていないのだ!」とね。

 それでも、ギリギリのところでこう慰めてやってもいい。「生き延びること、命あっての物種なんだ」と。ラストの「石の花」の美しさは、それを見ている眼を通じて、生きていることのあたたかさを一緒になってこみ上げてくる。「石の花」とは、鍾乳石のメタファー。冷たい鍾乳石を「まるで花のように」感じられるのは人の眼だからだ。その石を現実として認めてしまったら、それまでなのだ。美しいと感じる心があるからこそ、生きていられる。

 坂口尚の入魂の遺作、「あっかんべェ一休」もスゴかったが、本作品はそいつを超えている(「一休」連載当時から伝説扱いされていたし)。

 圧倒的な物語は、ここにある。

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「妖女サイベルの呼び声」はスゴ本

妖女サイベルの呼び声 極上のファンタジー。キャラとイベントで物語を転がす濫製ファンタジーの対極にある。

 「ファンタジー」なんて、しょせん剣と魔法、光と闇の活劇でしょ? ――なんて、ファンタジーを見くびってた。誤ってた。謝る。

 予めお約束のコードがあって、そいつをどんなパラメーターでなぞるかでヴァリエーションを増やす。そんな固定化した観念がまるっきり見当違いだったことを思い知らされる。この物語はファンタジーでしか書けないし、テーマはファンタジーを、(少なくともわたしが勝手にファンタジーだと思いこんでた範囲を) 完全に超えている。

 かといって、テーマが深遠だとかフクザツだとかいうわけではない。魔法使いサイベルが、人の心と愛を知り、そしてそれゆえに苦悩し、破滅へ向かおうとする話。お約束の台本どおりに進まない心理劇を眺めている気分になる。

 かつて読んだファンタジーの記憶を刺激する一方で、オリジン(源)の匂いをかぎつけて嬉しくなる。黄金財宝を守るドラゴン、いかなる謎(リドル)の答を持っているイノシシ、黄金色の眼と絹のたてがみを持つライオンといった、どこかで見たイメージが交錯する。妖女サイベルは、いわゆる召喚士や幻術師が持つ能力を用いて、魅力的なケモノたちを操る。

 心理描写を幾重にも張り巡らすのに、肝心のサイベルの心情は外からしか分からないように書いてあるのが心憎い。登場人物の性格についてもほとんど説明がない。表情や動作のちょっとした描写や、唇や眉の微妙な動き、息遣いの変化が心理の動きをあらわし、読み進むにつれて各人の性格が生き生きとイメージされてくる。

 あまりにスゴいのでコミック化した「コーリング」(岡野玲子)を読む。これもスゴい。原作の持つ重濃的な幻想感覚をうまく絵にしている。美しいけれど氷の心を持つサイベルの表情に注目。最初は無表情だったのが、怒り、涙、愛を知り、微笑むようになる様が見事。そして、愛を知ったがために憎悪を秘めるようになった「眼」なんて、本当に恐ろしい。ほぼ原作どおりだが、セリフの片隅にちりばめたアレンジが愉しい。特に、ラストの妖獣たちのあやかしの場面がいい。アクションの少なさを補うかのようなスペクタクルに度肝抜かれた。

 読了後、ハヤカワFT(ファンタジー)文庫の第一作だったことを知って戦慄する。たしかに「大当たり」の傑作だ。そして、世界幻想文学大賞が創設された1975年、最初に受賞したのが本作だったことを知って納得する(世界幻想文学大賞リスト)。

 ちなみに、見つけてきたのは嫁さん。曰く、「呼ばれた」のだそうな。

Calling_

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人なら読むべき「夜と霧」

夜と霧・旧訳夜と霧・新訳

 受けとったものがあまりに重すぎて、へしょがれた。今でもへにょっている。

 「東大、京大、北大、広大の教師が新入生にオススメする100冊」のNo.10がこれ。

■ どんな本か

 これはホロコーストの記録。強制収容所に囚われ、奇蹟的に生還した著者の手記。限界状況における人間の姿が、淡々と生なましく描かれる。高校のときに手にした記憶がまざまざとよみがえる(「あの写真」があまりにも恐ろしく、読むことができなかったのだ)。

 目を覆いたくなるのは、その姿の痛々しさや残酷さだけではない。そんなことを合理的に効率的に推し進めていったのが、同じ人間だという事実―― このことが、どうしても信じられなかったのだ。

 でも大丈夫、今回読んだ新訳版では、「あの写真」はないから。だからといって、悲惨さはいささかも損なわれていない。丸刈り・個性の剥奪、強制労働、飢え、飢え、飢え、「世界はもうない」という感覚、ガス室、鉄条網へ向かって走る―― さまざまなメディアにコピられ、反すうされているから、隠喩としてのアウシュヴィッツのほうに馴染みがあるかも―― ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争での "ethnic cleansing" なんて最優秀コピーだろう。

 だから、さまざまな「物語」で知ったつもりになっている強制収容所の実態を読んで、一種の懐かしささえ覚えた(ホントのところは真逆で、本書を下地としてそうした「お話」が作られていたのだが)。

■ 苦しみの意義を問う

 むしろ、そんな狂気の状況で著者がたどりついた結論のほうに目が行った。それを紹介する前に、ひとつ質問したい。わたしが質問して、わたしが答えてみる。

   質問 : アウシュヴィッツのような極限状況では、何を目的とし、
       何を支えとすればいいのだろうか?

   回答 : 「生きる」ことそのもの。なんとしてでも生き延びることを
       第一の目的として、いつかは脱出することを支えとする

 もちろん、この回答は著者が出した結論と違う。宗教的価値観やイデオロギーのフレームワークが異なる、なんて片付けられればどんなに楽だろう。しかし、仮にそうだとすると、この書き手は、被収容者の大部分と、まるで違うところを見ていたことになる。

おおかたの被収容者の心を悩ませていたのは、収容所を生きしのぐことができるか、という問いだった。生きしのげないのなら、この苦しみのすべてには意味がない、というわけだ。しかし、わたしの心をさいなんでいたのは、これとは逆の問いだった。
 極限状態に陥ったとき、目の前の苦悩そのものの意味を問わない。わたしは、そこから逃れようとするだろうし、適わないのなら、次元を変えてでも達成しようとするだろう。つまり、物理的に逃げられないのなら観念の世界へ逃げるとか、外界をシャットアウトして自分を外在化してしまうとか。しかし、著者フランクルは違う。
すなわち、わたしたちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。もしも無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない。抜け出せるかどうかに意味がある生など、その意味は偶然の僥倖に左右されるわけで、そんな生はもともと生きるに値しないのだから。
 ここだけ読むと、まるで殉教者のようなものいいなのだが、その口は、「宗教」という枠から完全に離れたところで語っている。

 被収容者に「宗教」がどのような役割を果たしたのかについて紙面を割いている一方で、上記の発言は心理学者――むしろ、いち科学者としての観察結果だ。生きる目的を、脱出できる将来に託した人や、過去の思い出にしがみついた人を分析する。将来に頼った者は暫定的な状況に耐えられなかった。過去から離れようとしなかった者は現実と完全に縁を切った(肉体的にはしばらく"生きて"いたが)。

 ここで著者はニーチェの言葉を思い出させる――「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」。そして、人間とは何か、について彼のたどりついた結論をこう述べている。

わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とは何かをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。

■ アウシュヴィッツに収容されていた人は誰か

 「訳者あとがき」で気づかされるのだが、驚くべき事実がある。旧訳版には「ユダヤ」という言葉が一度も使われていないのだ。「ユダヤ人」も「ユダヤ教」も、ただの一度も出てこない。

 なぜだろうか?

 それは、この記録に普遍性を持たせたかったから、「ユダヤ」という色をつけなかったのだろうと、訳者は述べている。一民族の悲劇などではなく、人類そのものの悲劇として、自分の体験を示したかったのだろう。

 このメッセージ性の強い手記は、その人称の変化からも受け取れる。本作は、大きく三段階に分かれている。

   第一段階「収容」
   第二段階「収容所生活」
   第三段階「収容所から解放されて」

と三部構成となっている。そして、主語はこう移り変わっている。

   第一段階 「わたし」
   第二段階 「わたし」→「わたしたち」
   第三段階 「わたしたち」→「あなた」

 読み手は、彼の体験の聞き手から始まって、同じ被収容者として追体験し、最後には「わたしの」経験として受け取れるように配慮されている。もちろん、これほどおぞましく、無残な経験なんて想像することは難しい。しかし、再現の可能不可能よりも、そういう構図で本作が書かれていることに注目したい。この意図もやはり、この悲劇に普遍性をもたせる一助となっている。

■ 「ナチス」というラベル、「ユダヤ」というラベル

 わたしが知っているつもりの「ナチス親衛隊」とは違う側面も紹介されている。

 ナチス親衛隊員が全員冷酷で残酷な輩だったわけではない。彼らの中にも役割から逸脱し、人道的にふるまう者がいた。ある所長は、こっそりポケットマネーからかなりの額を出して、被収容者たちのために薬品を買ってこさせていたのだという。

 これには驚いた。多くの、非常に多くの「物語」で、ナチス親衛隊は冷酷で無慈悲で残忍な存在として扱われていたから。「夜と霧」の劣化コピーにおいて、このカリカチュアのプロパガンダは喧伝されていたが、ほかならぬ本作でその否定形を見せられるとは。

人間らしい善意はだれにでもあり、全体として断罪される可能性の高い集団にも、善意の人はいる。境界線は集団を越えて引かれるのだ。したがって、いっぽうは天使で、もういっぽうは悪魔だった、などという単純化はつつしむべきだ。
ラベル貼りにより相対化ができる。本書自身がラベル貼りを拒み、何らかのプロパガンダのプラカードと化することを拒絶していることがわかる。戯画・隠喩となった「ナチス」を見かけたら、もう一度本書に戻ってみよう。

■ 旧版と新版の違いについて

 旧訳版と読み比べたが、読みやすさはダンゼン新訳版。試みに旧訳版を引用する。読み比べてみよう。

すなわち彼は天に、彼の苦悩と死が、その代わりに彼の愛する人間から苦痛に満ちた死を取り去ってくれるように願ったのである。この人間にとっては苦悩と死は無意味なのではなくて… … 犠牲として… … 最も強い意味にみちていたのである。意味なくしては彼は苦しもうと欲しなかった。同様に意味なくしてわれわれは苦しもうと欲しないのである。

 また、底本が異なっており、旧訳版は1947年、新訳版は1977年の版を元にしている。それぞれかなり異同があり、興味深い。なかでも一番なのは、アメリカ軍と赤十字がついにやってきたとき、前出の「温情的なナチス親衛隊所長」を、被収容者がかばうところ。
これには後日譚がある。解放後、ユダヤ人被収容者たちはこの親衛隊員をアメリカ軍からかばい、その指揮官に、この男の髪の毛一本たりともふれないという条件のもとでしか引き渡さない、と申し入れたのだ。アメリカ軍指揮官は公式に宣誓し、ユダヤ人被収容者は元収容所長を引き渡した。指揮官はこの親衛隊員をあらためて収容長に任命し、親衛隊員はわたしたちの食料を調達し、近在の村の人びとから衣類を集めてくれた。
 ここで初めて、「ユダヤ人」が出てくる。ここまでずっと囚われていた人びとは「被収容者」と指されていた。また、宗教としても民族としても「ユダヤ」という言葉は一切使われていなかった。これは新訳にのみであり、旧版には無い。

 では、なぜ、ここで初めて「ユダヤ」という言葉が現れるのか?「訳者あとがき」で名推理が展開されているが、残念ながら、わたしにはそれほどの重みが感じられない。解説の是非はご自身の目でお確かめあれ。

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Google Earth のような人類史「銃・病原菌・鉄」

銃・病原菌・鉄上銃・病原菌・鉄下

 Google Earth が愉快なのは、バスケットボール大の地球を、文字通り「手玉に取る」ところ。数千キロをぐるりとまわし、見たいピンポイントをズーミング。バードビューからサテライトビューまで自由自在。

 この感覚で人類史を解説したのが本書。

 数千~数万年単位の歴史を、猛スピードでさかのぼり、駆け下りる。大陸塊を横長・縦長で比較しようとする巨大視線を持つ一方で、たった16キロの海峡に経だれられた文化の断絶ポイントを示す。時間のスケールを自在にあやつり、Google Earth をグルグルまわす酩酊感と一緒。地球酔いしそうだ。

■ 本書のテーマとアプローチ

 「東大、京大、北大、広大の教師が新入生にオススメする100冊」のNo.1がこれ。

 世界の富や権力は、なぜ現在あるような形で分配されてしまったのか? たとえば、なぜヨーロッパの人々がアフリカや南北アメリカ、オーストラリアを征服し、どうしてその逆ではないのか? この究極の問いをとことんまで追いかける。

 ひとつのやり方が、「民族間の生物学的差異」に目をつけることだ。この差が原因となって、民族によって異なる歴史の経路をたどったという説明だ。これを立証するために、民族の生物学的差異に優劣があることを証明しようとする科学者がいる。要するに、数世紀も前に征服されたり奴隷化された人々の子孫が、社会の最下層で暮らしているのは、そういう民族・人種だからである、という根拠だ。

 このような考え方に、著者は真っ向から反対している。種としての民族・人種に優劣があるのではなく、そのおかれた環境・住んでいた場所が決定的な要因を果たしていると主張している。そのフィールドは、遺伝学、分子生物学、進化生物学、地質学、行動生態学、疫学、言語学、文化人類学、技術史、文字史、政治史、生物地理学と、膨大なアプローチからこの謎に迫る。

 最初は違いがなかったはずだ。今から13,000年前、最終氷河期が終わった時点では、人類は世界各地でみな似たり寄ったりの狩猟採集生活をしていた。それが16世紀には、南アメリカ大陸のインカ帝国をユーラシア大陸からやってきたスペイン人が征服するまでになる(表紙にもあるとおり、インカ帝国の絶対君主であったアタワルパの捕獲は、ヨーロッパ人によるアメリカ大陸の征服を象徴している)。

 その直接の原因は、スペイン人が持ってきた「銃・病原菌・鉄」であった。銃で殺し、結核で殺し、サーベルで殺した血の歴史になる。だが、著者は地球を逆回転させる。「では、なぜ『銃・病原菌・鉄』を持てたのか? 紀元前11,000年から西暦1,500年の間で、何がおこっていたのか」を突き詰める。

■ 「銃・病原菌・鉄」謎解きのフレーム(いちばん面白いところ)

 そのフレームは以下の通り。それぞれの要素がどのように絡み合っているかを解きほぐし、指し示す。ミクロからマクロまで、距離と時間をカッ跳んで縦横無尽に説明する。謎解きの過程が非常にスリリング。

 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 ┃直接の要因
 ┠────────────────────
 ┃   馬
 ┃   銃・鉄剣
 ┃   外洋船
 ┃   政治機構・文字
 ┃   疫病
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   ↓    ↓    ↓    ↓    ↓    ↓  

    【 なぜ、銃・病原菌・鉄を手にできたのか? 】

   ↓    ↓    ↓    ↓    ↓    ↓  
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 ┃「銃・病原菌・鉄」をもたらした要因
 ┠────────────────────
 ┃   技術の発達
 ┃   人口が稠密で、定住している人々
 ┃   階層化された大規模社会
 ┃   余剰食糧、食料貯蔵
 ┃   多くの栽培植物と家畜の存在
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   ↓    ↓    ↓    ↓    ↓    ↓  

    【 なぜ、そのような社会になったのか? 】

   ↓    ↓    ↓    ↓    ↓    ↓  
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 ┃究極の要因
 ┠────────────────────
 ┃   適正ある野生種の存在
 ┃   種の分散の容易性
 ┃   東西方向に伸びる陸塊
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 ユーラシア大陸を「横長」、アフリカ大陸を「縦長」とみなす巨大な視点を持つ一方で、伝染病が家畜→人へうつるプロセスを丹念に追いかける微視的な視線も使いこなす。Google Earth でアフリカ大陸の家畜の分布図を眺めていたら、一気にズーミングして顕微鏡級になり、家畜が介在する伝染病の戦略を見せられる。

■ ユニークなところ

 まず、科学者が見た人類史であるところ。

 仮説と仮説をつなぎ合わせてストーリーができあがるから、「正しい」のではなく、必ず客観的データによって検証を行っている。仮説を裏付けるエビデンスのひとつひとつは、炭素年代測定法やDNA解析を用いた科学的手法に裏付けられており、強い説得力を持っている。

 石器を一個見つけただけでその年代は石器を使えた~なんて断言しない。「たまたま紛れ込んだかもしれないじゃないか」と、証拠に充分な量を求めるところなんて、いかにも「科学者」だ。

 このユニークさは、「文字」に依存しないところにも現れている。つまり、「書かれたもの」から抜け出た歴史なのだ。もちろん史実を追うために歴史書にあたることはあるが、その読み方も複数のソースから照射されるようにしている。その結果、征服者の視線でしか残されていない「書かれた歴史」は、必然的に重要視されないでいる。歴史とは、記録されたものを追いかけ、再構築するものだと思い込んでいた頭をふっとばしてくれる。

 さらに、人の限界を冷徹に見ている。天才や偉人の業績よりも、それを「業績」にならしめている社会や情勢の方に眼を向けている。鉄器時代にアインシュタインが生まれても、「業績」は残さないだろうというやつ。

 その反面、歴史学者トマス・カーライルは、歴史をこう定義している。

世界史、すなわち世界で人が成し遂げたものごとの歴史とは、根本的には、偉人たちが世界で成し遂げたものごとの歴史である
 つまり、歴史とはアレキサンダー大王、アウグストゥス、釈迦、キリスト、レーニン、マルティン・ルター、インカ皇帝パチャクティ、ムハマンド、征服王ウィリアム、ズールー王シャカといった偉人伝である。それぞれの業績はスゴいものがあるが、「その人」だけがスゴいのだろうか? と考えているところが面白い。アレキサンダー大王はスゴいが、その騎馬は家畜というウマがいたから成り立ったのであり、アウグストゥスがアクティウムを制したのはもちろん船舶が発明されていたことが前提。「あたりまえじゃないか」というのはカンタンだが、そうした「あたりまえ」があったからこそ、歴史のティッピング・ポイントに力が加わったのだといえないか。イノベーションが起こった後は、イノベーション自体が「前提化」してしまい、ひいては一般化・陳腐化するというパラドクスは、ここにも垣間見ることができる。本書を通じ、「何がイノベーションだったのか」という視点で人類史を眺めなおすことができる。

■ ツッコミどころもあるけれど

 いっぽうで、思わず首をかしげたくなるのもある。もちろんわたしの不勉強が招いている疑問なので、自分で調べれば事足りるのだが――たとえば、「文字」の存在について。

 著者は文字の存在をあまり重視していない。もちろん蔑ろにしているわけではない。以下の引用や、イギリス人 vs アボリジニの歴史で、文字を「持てるもの・持たざるもの」の象徴的な例として挙げている。

要するに、読み書きのできたスペイン側は、人間の行動や歴史について膨大な知識を継承していた。それとは対照的に、読み書きのできなかったアタワルパ側は、スペイン人自体に関する知識を持ち合わせていなかった
 しかし、記録や伝達などの文字の効用を詳説しながらも、上記のフレーム内での文字の役割は二次的になっている。文字そのものよりも、「その文字を読み書きする人」を養うだけのゆとりが生じている理由に注目している。すなわち、余剰食糧がある階層化された社会を「文字」の前提としているのだ。因→果のリクツはもっともだが、そのエビデンスは本書で提示されたものが全てだろうか? と、別の知的好奇心に火がつく。

 あるいは、「日本」の扱いには疑問を持った。日本人はカタカナやひらがなが「発明」したが、その元となった「漢字」を捨ててしまうほど受容されなかったと述べている。つまり、受容されなかった発明の要因として、社会的ステータスがあり、その事例として日本の漢字があげられている。

(受容されない発明がある要因として、効率性より社会的ステータスが重視されることがある)日本人が、効率のよいアルファベットやカナ文字ではなく、書くのがたいへんな漢字を優先して使うのも、漢字の社会的ステータスが高いからである。
 たしかに、平安から明治に渡る漢籍至上主義がもてはやされた理由は、支配階級のステータスの証なのかも。オトコもすなる日記というものを~というやつか。漢字の「漢」は「おとこ」とも読むからね。

 けれども、だからといって、漢字を捨ててもいいぐらいカナは「効率的な」コードとは思えない。漢字の効用として、パターン認識や速読性、文節の目印といった点があるぞ。アルファベットの民にはこの利点が見えないんだろうなぁ… もちろん、「習得する」という目的からすると、かなカナ漢字アルファベットが入り混じる日本語は、かなり効率が悪いコードであることは否めないが(自分のツッコミも反論充分だな)。

■ 巨視的な場所を手に入れる

 Google Earth に夢中になっているうちに、いつのまにか大気圏を突破していることに気づく。カメラを引いていくと、人々が生活する建物や橋サイズから、河川や山脈、そして大陸サイズ、そして大陸と海をカタマリとしてみることができる。

 このレベルで歴史を語ったものとしては、梅棹忠夫の「文明の生態史観」を思い出す。「東洋 : 西洋」の単純な枠組みから離れ、ユーラシア大陸をブロック分けし、日本と西ヨーロッパを対照的に再配置している。この文明観のスケールの大きさに驚くだろうが、もっとスゴいのは30年も前に著者が Google Earth の眼を持っていたことだろう。その大胆すぎるアプローチは、かなりの論争を巻き起こしたそうな。

 「生態史観」はユーラシア大陸における地理的な配置から比較文明論を展開しているが、本書はそれを上回る文字通りグローバルレベルで人類史を展開している。Google Earth を使って宇宙から地球を眺めるように、巨視的な場所から人類史を視ることができる。

 そういう視座を手に入れる頃には、本書の究極の目的である、「富や権力の格差の原因は、民族間の生物学的差異ではなく、地誌的・環境的なもの」であることが理解できる。

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手乗りタイガーは俺の嫁「とらドラ!」

とらドラ こんなところに俺の嫁が。

 ちっちゃくって、気性が荒くて、信じがたいほどドジで、そして自分のドジさを恥じて、落ち込んで、すぐ泣いて── おいしいものや甘いものに目がなくて、すごくヘンで、はた迷惑で、困った奴。

 怒りオーラを全開させるとスーパーサイヤ人と同等の殺気を放ち、罵倒文句のバリエーションはツンデレ女王いおりんに匹敵する。まさに無敵―― ちっこいけど。

 見事にツボにハマった。見かけは怖いけれど優しい男の子と、見かけは可愛いのに凶暴な女の子がくりだす、手に汗握る若葉マークが初々しい超弩級ラブコメを読んだのだ。

 ああ~これこれ~わかるわぁ~、終始ニヤニヤしっぱなし、頬が熱い。ほっぺたが流れ出るのを止められない、電車なのに。薄気味悪いリーマンでサーセン。思春期特有の自意識やコンプレックスがリアルに「お約束展開」へとろけており、もどかしいったらありゃしない。もちろん、あんな出来事やこーんな出会いとは縁遠かったけれど、あの頃の「甘ずっぱい気持ち」をビシバシ思い出させてくれる。

 慣れてくると脳内アニメ状態と化す。もちろん日野ちゃまとくぎみーの虎竜どつき漫才だ(これ以外はぶっちゃけありえない)。同級生を犬か下僕か奴隷扱いして、しかもそれが板についているのはくぎみーしか!以下、脳内キャスト。

高須 竜児 日野 聡
逢坂 大河 釘宮 理恵
櫛枝 実乃梨 豊口 めぐみ
高須 泰子 皆口 裕子
川嶋 亜美 ゆかな

 でもって、どうしてこんなにちっこいドジっ娘が好きでたまらないんだろうとふり返るとそこに嫁さんが。「何ニヤニヤしてんのよ!」叱責を浴びる。頭をくしゃっとやると猫のように(トラのように!?)目を細める。うんわかった、わたしは彼女が好きなんだな。

 まるっきり救いの見当たらない重苦しさを醸す「円環少女」や、どこまで騙すつもりか心配になる「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」と好対照。幸せな30分をありがとう、やっぱりラノベはこうでなくっちゃ。

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夫婦生活で学んだ7つの心得

 嫁さんと子どものおかげで、今のわたしがいる。

 これは冗談でもなんでもなく、わたしが死なずにこれたのは、嫁子のおかげ。かなりアレな人だったからね、わたしは。

 ここでは、いい夫婦を続けるために、わたしが身をもって学んだことを書く。ただし、子ども関連は省く。子ども因子はとてもデカいし、別シリーズで書いているので。最重要は「■1 感謝大事」に尽きる。これが欠けていると他に何をやってもダメ。忙しい人はそこだけ読めばOK。

■1 感謝大事

 「ありがとう」は魔法の言葉。ドラマや小説で手垢にまみれた「愛情」なんかより、「ありがとう」の一言がよっぽどリアル。あるいは、アイラブユーとサンキューは一緒。

 いや、斎藤一人のまわしものじゃないってば。流行のスピリチュアルや引きよせの法則じゃなくって、夫婦生活で実質的に使える。例えば口論で自分の主張を伝えたいときに言い添える。「△△をしてもらってて、いつもありがたいと思っているけど、○○をして欲しい」ってね。「ありがとう」を含む主張には批判・非難しにくくなる。あるいは、非難合戦に展開しそうな会話に穏やかに終止符を打つのが「ありがとう」のサイン(ウソだと言うなら、やってみるよろし、ただし捨て台詞でなくマジに)。

 ポイントは、△△に本当に感謝していることを入れる。思ってもないことを口に出すと一発で見抜かれる。さらに、日常的に感謝ポイントを探す。「ない」なんてことはナイ、気づいてないだけ。Lifehacker が好きな「気づき」の能力をフル活用すべし。ライフハックはここで使え。

 で、必ず見つかる「新たな」いい面は、必ず言葉で伝える。以心伝心? ありゃウソだ。敵意や怒りは無言で伝わるが、感謝だとか思慕の情はちゃんとコトバにしないと伝わらない。

 蛇足だが、「ありがとう」は伝染するぞ。怒りが伝染するのと一緒だ。

上手な謝り方■2 上手に謝れ

 これ知らない人が多すぎ。

 自分のちっぽけなプライドを満足させるためだけにぶつかるのはバカバカしい。そんなとこでとんがっても疲れるだけ。むしろ、ヒートアップしてやりこめたりやっつけたりしている「時間」と「エネルギー」が勿体無い。エネルギーは「感情」「労力」「アタマ」と読み替えてもいい。どれも有限だぞ。

 クダラナイいさかいで自分の時間やエネルギーをドブに捨てるよりも、(必要に応じ)上手に謝ってしまえ。人間関係の究極のライフハックはコレに尽きる。上手な謝り方は[ レビュー ]にまとめてある。

■3 趣味大事

 共通の興味を持つことは重要。子どもができれば必然的に子どもになるが、それ以外にも持っておくように。ないのなら、相手の趣味を好きになり、こっちの趣味になじんでもらうように。

 特に、「自分の趣味になじんでもらう」は時間をかけるべし。わたしの場合、綾波とハルヒと名雪を紹介するのに5年かけた。いおりんを理解してもらうのに1年はかかるだろう。

 また、相手の好みやスタイルに合わせるのも重要。「影響される」ってやつだね。相手の好きなものを好きになるのだから、簡単でしょ。かつて「本は買う派」だったわたしが、嫁さんの影響で図書館ヘヴィユーザーとなった[ 経緯 ]。いまじゃ、嫁さんの案内で不慣れなファンタジーを攻略してる。もちろん、読んだ本を誉めたりけなしたりする時間は、かなり楽しいコミュニケーション。

 コミュニケーションといえば、Wii-Fit がいいツールになっている。女性であればダイエットでしょ? 嫁さんにひきずられるように始めたが、けっこうハードだよ、フラフープなんて特に。Wii のコンセプトそのものがコミュニケーションなので、やっていると自然に会話が増える(測定やった?とか)。

 セックスと生活だけが会話のすべてなんて、まっぴらごめんだ。お互いを好きでいつづけるために、お互いが興味の持てるものを増やす。夫婦生活の正のフィードバックというやつ。

■4 罵倒もコミュニケーション

 犬も食わないやつだけど、ケンカは大事。夫婦といえど、他人との共同生活は多かれ少なかれ、ストレスがたまる。そいつを発散させないと。スピリチュアルじゃないけれど、ヘンな「気」のような、鬱屈したものが部屋に満ちてくる(気まずさ? 息苦しさ?)。

 むしろ、口論すらしなくなったら危ない。「こいつに言ってもしょうがない」と冷ややかな目で見る(見られる)ようになったらまずい。言ってもムダかもしれないけれど、ムダにならないような言い方(もしくは行動!こっちが大事)はないか考えろかんがえろ。

 ケンカは成立しないのが常。リクツで攻める男衆と、感情ベースの女衆で「論」が成り立つわけがない。だからホドホドにしておかないと死ぬまで傷つけあうことになる。最終通牒「あなたは何も分かっていない」と言われたときの対処→[ 女の言う「あなたは何も分かっていない」の正体 ]

 ケンカをするとき、とても大事なポイントが、ひとつある。「男の子ってどうしてこうなの」(スティーヴ・ビダルフ、草思社、2002)にこうある([ レビュー ]、太字化はわたし)。

結婚生活を維持していくためには、夫婦で顔を突き合わせ、おたがいに精いっぱいどなりあうことも時にひつようとなる。小さな行き違いによって溜まったうさが吐き出され、浄化されるからだ。ただし、女性はぜったいに安全だと感じない限り、男性とそのような正直で激しい言葉のやりとりをすることができない。自分が殴られないことを女性は知っている必要がある
つまり、相手から信頼されているからこそ、手ひどくヤられているわけ。罵詈雑言に耐えられそうもないときは、ここを思い出してくれ。それから、より高度なトレーニングを積みたい方は、「罵ってけ!へんたいたーれん」を視聴するといい([ 全歌詞 ])。ただし、かなり伝染性の高い動画だから、充分に注意して視聴してくれ。

■5 いっしょに欲求を満たす

 三大欲求「食欲・性欲・睡眠欲」を一緒に満たすべし。つまり、一緒にごはんを食べ、一緒にセックスをして、一緒に眠れ。

 まず食欲、一緒にゴハン重要。もっといいのは、ゴハンを作るところから一緒に――なんだけど、お互い忙しい身、手料理すらままならぬというのが実情かも。そういう場合は、一緒にお惣菜を選ぶといい。コンビニ弁当を一緒に選ぶのだっていい。一緒にゴハン食べていると、味方って気がしてくるから不思議だ。こんなトシになってようやく分かったんだが、デートでゴハン食べる(しかもそれを繰り返す)のは、本能に近いところのスイッチを入れるためだったんだねー

 次は睡眠欲。食べたり交わったりするのと同様に、無防備な姿でいられるように。心臓の音や慣れた体臭に包まれると、安心して眠れるもの(らしい)。そういや、週刊モーニングに連載中の「シマシマ」で、いっぷう変わったサービスがある。「女性のための添い寝」サービスだ。ホスト級の男性が、独り暮らしの女性のために「添い寝役」をするというもの。商売になるかどうかはともかく、ニーズはあるぞ。

スローセックス実践入門 それから性欲。セックスというスキンシップ・コミュニケーションも大事だけれど、たっぷり時間を使ってするのがポイント。がむしゃらにヤるのはもったいない。射精だけを目的としたあわただしいセックスはご法度。「スローセックス」は意識して行うように(自戒をこめて)。その結果、時間的余裕のない場合は、マッサージのようなスキンシップになる。セックスであれマッサージであれ、「肌を触れ合っている」のが大事。

■6 オナニー大事

 「結婚したらしなくてすむ、なんせタダだしwww」なんて独身のとき思っていた。もし同じようなこと考えてるヤツがいたら、次の言葉を贈る「タダほど高いものはなし」ってね。これは本当だ。そのときになって、身をもって知るよりも、今ここでもう一度読んでほしい→「タダほど高いものはなし」。

 つまりこうだ。新婚当初はケダモノだとしても、そのうち冷静になる。で、ちょっと「間」が出てくる。お互いの都合(明日の仕事だとか体調だとか気分)によって、ヤるタイミングが重要になってくる。

 それでだ、こっちがオオカミに変身できるとしても向こうはそうじゃない場合があるのよ、いろいろと。そんなとき、ガマンしてしまうのはまずい。

 なぜなら、ずーっとガマンしてしまうと、硬化能力が衰えるからね。だから昔なじみの左手にお世話になるわけ。オトコは定期的にツインストリーム☆スプラッシュを放つ必要がある。そうしていつでもスタンバっておく。ほら、葉隠にもあるでしょ、「今というときがいざというとき、いざというときは今というとき」ってね。ゆめゆめ準備はおこたるなかれ。

■7 愛の反対は無関心

 その最初の一歩が、「別に…」「何も…」だろう。疲れて帰ってきた顔に「お帰り、仕事どうだった?」なんて声をかけるとこんな返事が高確率で返ってくる。何を聞いてもこれしか返ってこなくなったらヤバイ。

 「別に」「何も」対策は次の通り。「質問」ではなく、「コメント」を伝える。自分が相手を理解しているメッセージを伝える。「やっぱり家に帰ってくるとホッとするよね」とか「たいへんな一日だったみたいだね」とか。

 これは育児書「子どもの話にどんな返事をしてますか?」で知った知恵[ レビュー ]

■ おわりに

 好きどうし結婚した場合、結婚直後が好きMaxなので、あとは幻滅するばかり。反対に、お見合い結婚だと、お互い何も知らないところからスタートするから、プラスマイナスしながら続けていける──あだち充の「みゆき」にそんな話があるが、それは結婚直後~倦怠期まで。それ以降は、そんなのカンケーネーッ!これらに気づくか気づけないかの違い。気づかないなら見合いだろうと恋愛だろうと同じ修羅の道。

 感謝ポイントを観察し、関心ポイントを共有し、スキンシップを絶やさない。けっこう大変かって? うん大変かも。ぶっちゃけ仕事より難しい。独身のころ、既婚連中が「家よりも職場のほうがくつろぐ」とガンガン仕事してたことを思い出す。そんなに大変なことをどうしてやってるのかって? そりゃあ、それを書いたらノロケでしょうに(///)

自分の小さな「箱」から脱出する方法 それから、人間関係で苦しい思いをしていたわたしに特効薬だったものが「箱」。まなめさんのおかげでこれを知ることができ、どんなに感謝しても感謝したりないぐらい。万能かどうかは知らんが、すくなくともわたしには強烈に効いた。思い返すと、自己啓発本や育児本を読んで→適用して→フィードバックすることで、わたし自身が成長していたような気が。そういう意味でも嫁さん子どもに感謝しないとね。

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エロゲで泣いて、人生充実するのか、おまえ

ドラマで泣いて、人生充実するのか、おまえ。 いきなり刺さる。肺腑をえぐるセリフに、たじたじとなる。ちなみに表題は本書のタイトルである、「ドラマで泣いて、人生充実するのか、おまえ」をアレンジ。

 1ページに、1セリフ。きわめてシンプル。余計な解説一切なし。

 読み手はストレートに読み干して、頷いたり呻いたり唸ったりする。大きな余白は、まるで反撃を書き込んでみろといわんばかりだ。ひとつのセリフに一晩かけて語りたくなる(もちろんアルコールの助けがいるくらいこっ恥ずかしい過去話ですけど何か)。

       人は失うことでしか、

       大事なものを確かめられない。

 メッセージ性の強い箴言といえば、岡本太郎の「壁を破る言葉」を思いだすが、ちょっと違う。太郎の「信ずるものをヤレ」といった放り出す感覚ではなく、「やれるもんなら、ヤッテミロ!」と激しく挑発的。反発したり頷いたり、読むアジテーション。

       社会に「出る」ことが、

       会社に「入る」ことであるというのは、

       おかしいと思わないか。

       表に出ろ。

 刺さる言刃に付せんを貼っていったら、付せんだらけになる。言葉って刃物だよな、と痛感させられる。「精神は鍛えるものではなくて広げるものだよ。」なんて、開高健の切れ味。あるいは、次のなんて、いかにもdankogai氏が言いそうではないか。

       楽しい生き方とは、

       楽しいことをして暮らすことではない。

       楽しくないことはしない、という生き方である。

 受け取るために多めの経験値を要する言刃もある。次の一句は、20代と今とでは、刺さる場所が異なってくる。あと、重さと熱さも。

       人を好きになることが最強のエンターティメントだ。

 そう、ひとつひとつの言葉が熱い。読み流すのを許されないよう、言葉と向き合う。いったん目に入ってきたら、自分の記憶の中で意味を立ち上げる、そんなセリフ群。昔を思い出してアツくなったり、好きな人をおもって背すじが伸びる、そんな詩文のような一冊。

 引用はすべて「深呼吸する言葉/著・きつかわゆきお/出版社・バジリコ」より。本書は、浅沼ヒロシさんの[ ドラマで泣いて、人生充実するのか、おまえ。 ]で知る。刺さる本を教えていただき、ありがとうございます。


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なぜ最近の老人はキレやすいのか?

キレやすくなっているのは老人であり、若者ではない。

もう一度いう、大人として成熟できず、我慢のなんたるかを知らず、ついカッとなって暴走するのは、20代ではなく、60代以上の年齢層において激増している。このエントリでは、事象の裏づけと、なぜ最近の高齢者がキレやすくなっているかについて考察する。なお、「高齢者」「老人」とは、60歳以上の日本人男女を指している。

最初に断っておくが、安易な結論「高齢化社会になったから」ではない。確かに高齢者は増えているが、老人の犯罪者はそれをはるかに上回るスピードで蔓延っている。もっとも、老人が老人に襲い掛かる老老犯罪が増えている文脈で「高齢化社会」を語るならまだ分かる。しかし、そもそもキレやすい老人が増えている事実を糊塗して「高齢化社会になったから」と、したり顔で全部説明した気になっているマスコミ、コメンテーター逝ってよし!

目次は次のとおり、長いデ。

  1. 激増する高齢犯罪者
  2. 老人が増えているからではなく、キレる老人が増えているのだ
  3. 平成老人事件簿
  4. 刑務所は老人天国
  5. あなたの隣の「暴走老人」
  6. かつて老人は子どもだった
■1 激増する高齢犯罪者

平成15年犯罪白書(※1)を元に、年代別犯罪者比率の変化を見てみよう。図1「犯罪者の年齢別構成比の推移」を見て欲しい。一般刑法検挙人員の各年代が全体に占める割合の変化を、1975年を100としてグラフにしたものだ。

他の年代の検挙人員の割合がほとんど変わらない一方で、5.5倍に達しているのは高齢者―― 60歳以上の老人である。特異的な要因がない限り、犯罪者の年代別構成比は、人口の年代別構成比におおむね従う。それでも年を追うごとに微増・微減の変化はあるのだが、60代以上の犯罪者だけが突出しているのは、一体どういうことか?

■2 老人が増えているからではなく、キレる老人が増えているのだ

もちろん反論はできる。日本社会における高齢者人口が増えているため、犯罪者の中での高齢者の割合が相対的に増加しているという理由は説得力がある。矯正協会付属中央研究所のレポート「公式統計からみた年齢と犯罪の関係について」(※2)はまさにこのテーマについて統計的な裏づけを元に分析している。

このレポートの結論は明白だ。老人犯罪は、高齢者が増えているから増えているように見えているだけ、という。いわゆる暴走する老人は話題性を高めているだけであって、実態ではない、という考えだ。

それでは、なぜ昨今老人犯罪が話題性を高めてきたであるが、それは、全犯罪者の中で、老人犯罪者の占める比率が、相対的に増加してきているからと解釈できよう。老人人口が増加するにつれ、老人犯罪者の数が増えていることは当然ともいえようが、犯罪者を扱う立場からすれば、犯罪者集団の中で相対的に老人の数が増えれば、その扱いを考えざるを得ず、それは自然の理といえよう
下の図2「60代以上の犯罪者の構成比と、65歳以上の人口構成比の変化」を見てほしい。1975年を100として、老人人口がどの割合で増加しているかを重ねてみた。統計情報元の関係上、65歳以上を「老人」としている(※3)。

これによると、たしかに高齢者人口は増えている。ただし、1975年から2002年で、2.6倍だ。高齢犯罪者比は5.5倍に増加しているというのにだ。高齢者は増えているが、高齢犯罪者はそれを上回るスピードで激増している。つまり、老人が増えているのではなく、キレる老人が増えている。もはやキレるのは若者の専売特許ではなくなっているのだ。

■3 平成老人事件簿

中央公論の「団塊を待ち受ける、奪い合う老後」(※4)によると、老人が老人を狙う時代に突入している。高齢ゆえに体力がないから、強盗をやるにしても人を殺すにしても、自分よりももっと高齢の人間のターゲットにする(若者を襲ったら返り討ちにあいかねないからね)。

  • 2005.3月、札幌豊平署は、73歳の妻の首を絞めて殺害したとして、83歳の無職男性を逮捕したが、「食事のおかずの品数について文句を言ったことから口論となり、かっとなって殺してしまった」と言う
  • 2006.1月、JR下関駅舎から爆発音とともに真っ赤な火炎が噴き上がり、一時、本州と九州を結ぶ交通網は完全に麻痺した。鎮火後に逮捕されたのは74歳男性、「ムシャクシャして、うっぷん晴らしのためにやった」とあっさり放火を認めた
  • 2005.5月、妻の頭を置物で殴り、ズボンのベルトで首を絞めて殺した容疑で74歳の男が逮捕されている。調べに対し男は「妻が高額の健康食品を買ったので口論となり、かっとしてやった」と話す
  • 2001.6月、福島県で起きた保険金殺人。被害者は77歳の女性で、主犯格は73女、他に77歳女、73歳女、62歳女、52歳男、63歳男が逮捕されている。この事件の特徴は、被害者も加害者も、そろいも揃って中高年であること。熟年パワーが炸裂した事件をいえる
いわゆる終の住み処、介護施設でも同様とのこと。老人が老人を殺す、老老殺人の舞台となっている。89歳のおばあちゃんが同じ入居者の70代の認知症の女性に首を絞められて殺されたり、70歳の男が73歳のほかの男性のささいな生活騒音に腹を立てて、ナイフで刺し殺したり。

あるいは、老人ホームは高齢男女の出会いの場でもある。老いの恋愛に花が咲くこともあるが、ひとたび問題がこじれると惨劇の場と化すこともある。2004.5月、愛知県安城市にある養護老人ホームで、入所者の68歳男が67歳女に絞殺された。度を越した恋愛行動を制限され、おもいあまった挙句、首を絞めたという。

ついカッとなって殺す、痴情のもつれから首を絞める、ムシャクシャして火をつける。年齢を重ねることと円熟とは全く関係ないことについて、わざわざ指摘するまでもない。しかし、「若気の至り」やら「若さゆえの過ち」と、完全に同等な結末を引き起こしているのであれば、それは「若さ」や「老い」とは関係のない、別の理由が存在することになるのではないか。

■4 刑務所は老人天国

では、ついカッとなった先にあるもの―― 刑務所はどうなっているだろうか。新潮45の2002.7月号の元刑務官のレポート(※5)によると、娑婆よりももっと深刻な問題が横たわっていることがわかった。

もっとも象徴的なのは、広島県にある尾道刑務所だそうな。2002.5.3フジテレビのスーパーモーニングで放映された、平均年齢73歳の入所生活である。

作業時間は1日6時間、一般受刑者の8時間との差2時間は、レクリエーションの時間に費やされる。体育館でカラオケ、卓球に興じている姿が映し出されていた。舎房は全員個室、トイレ、廊下、工場内通路には手すりが取り付けられていた。4年前に改築したという真新しい生活空間はバリアフリーで清潔そのもの。インタビューに応じた受刑者は「わしは、近畿の刑務所はみんな回ってきた。40年余りは刑務所暮らしになってしもうた。しかしここはまるで天国じゃ」
そこらの老人ホームの入居者より、よっぽど快適に生を楽しんでいるように見受けられる、衝撃的な映像だったという。同様な報道は、NHKクローズアップ現代でもあった。2004.5.31放送(No.1921)で、刑務所と更生保護の現場ルポを通して、高齢化が進む中さらに深刻化が予想される「老人犯罪」の現実と対策を探っている。

元刑務官のレポートによると、70%を越える老人囚は出所後の行き場がない。帰住地を更生保護施設と希望していても、実際には入れるかどうかわからない。これらのものに、公的年金について訊いてみると、もらえると答えたのは30%弱だったという。生活に行き詰まれば、また尾道に帰りたいと、犯罪に手を染める老人もいる(そのためのノウハウもある)。

福祉行政の失敗は、受刑囚の高齢化に拍車をかける。彼らには文字通り「帰る場所」がないのだから。わざわざ広島近郊へ出かけていって「ついカッとなって」しまう再犯、再再犯がいるのには、ちゃんと理由があることに目を背けている限り、刑務所の老人福祉施設化は止まらない。

計画的か否かは別として、増え続ける高齢受刑者が、過剰収容を全国レベルで押し上げていることは事実。1970年には60歳以上の高齢受刑者は1%だったにもかからわず、2000年には9%に達している(※6)。なんと9倍!だ。もちろん高齢者は増えているぞ、3.4倍程度だが(※7)www高齢者は増えているが、高齢受刑者はそれを上回るスピードで増えている。老人栄えて国滅ぶ例として年金制度が取り上げられるが、刑務所は常にその一歩先を行っている。

■5 あなたの隣の「暴走老人」

いわゆる犯罪にまでいたらなくとも、暴走する老人はいたるところで見受けられる。「暴走老人」「キレる老人」の実態は想像以上にひどい。週刊誌のアンケート(※8)によると、暴走老人の出没スポットは、(1)スーパー、(2)乗り物、(3)病院だという。そこでの目撃談によると…

  • 70過ぎの白髪のお爺さんがスーパーで商品のみかんを剥いて食べ始めた。店員が注意すると「試食しないと味がわからない」とわめいて、店員がひるんだら、「甘くないから買わない」と捨て台詞を吐いて立ち去った
  • 老人無料パスを見せてバスを降りようとした70歳くらいのお爺さん。運転手が「お客さん、それ女の人の名前だよ」と言われた瞬間、ダッシュで逃げた
  • 大阪の市バス内の出来事。70代後半の男性が運転手に「車内放送がよく聞こえなかったので、さっきの停留所で降りられなかった。引き返せ」と怒鳴りだした
  • 救急士の証言。「老人は気軽に救急車を呼んであたりまえという人が多い。とても急病人とは思えず、車内でもわがまま放題。トイレに行きたいから救急車を止めてくれといわれたときが一番驚いた」
「暴走老人!」にて藤原智美は、なかなか面白い分析をしている。要するに彼・彼女たちは「待てない」のだそうだ。歳を取るほど時間が早く過ぎていくという焦燥感が、予期せぬ「待たされる時間」に遭遇したとき、発火点となって感情爆発を引き起こすという。寛恕の心とか、「がまん」って言葉を知らないんだろうね。

あるいは、昔と異なり、「周囲から尊敬されなくなった」ことが理由としてあげられている。時間の流れがゆるやかだったときは、その経験が若者にとっても有益だったが、いまでは、老人が持っている知識・経験を下の世代がまったく必要としていないことが一因となっている―― そんな指摘もある。

また、「暴走老人!」では、「社会の情報化へスムーズに適用できていないこと」が原因だという。

逆に若い世代はメールやネットでオブラートに包んだコミュニケーションばかり取っていて、人間の感情がぶつかり合ったときに収める技術を、社会が失いつつある。
うーん… 「キレる若者たち」にも使える理由なので甚だしく「?」をつけたくなるが。本書自体がワイドショー的で印象だけをつづったエッセイだからなぁ… 「暴走老人!」の一番の読みどころをお伝えしよう。それは、あとがきにある。
テーマは「暴走する老人たち」ですが、私は老人批判をしたかったわけではありません
なんという逃げ口上。しかも「あとがき」に書くあざとさ。著者がチキンになるのは、「老人」たちの仲間へあと一歩の我が身かわいさか。

いずれにせよ、人生も終盤にさしかかると、枯れるとか悟るところがあるのかと思っていたが、完全なる幻想。せめては老醜をさらすことのないよう―― と自覚のある人ならいいが、そうでない人が暴走を繰り返しているのが現状だろう。

■6 かつて老人は子どもだった

ここで簡単に済ませることもできる。「社会の情勢の変化」だの「IT化」や「社会の閉鎖性」「心の闇」「核家族化」と、テキトーなキーワードを並べ立てて、訳知り顔で説明することは、可能だ。っつーか、それが王道だ。若者批判の常套句だ。

センセーショナルにあおりたて、口をそばめて指摘し、批判し、「だからなっとらん」と騒げば一仕事したかのような顔をする。そして提言としては「ちゃんと挨拶しましょう」「思いやりの心を持ちましょう」とかオマエは小学校の学級会かッ!と石ではなく岩をぶつけたくなるような『センセイ』がいらっしゃる(誰とは言わんが、な)。

もう一度、図2をみて欲しい。1986年前後が突出していることに注目。

なぜだろうか?

暴れる老人をいくら見ていても、分かるはずがない。彼・彼女らは「ルール」や「マナー」、あるいは「社会常識」というものを持っていないのだから。だから、それらを身に着けていないのであれば、その理由を探るために過去を見てみよう。

そもそも、そうしたルールをいつ身に着けるのだろうか?もちろん子どもの頃だ。ふつう、ものごころついたときから、社会に出るまでのあいだに「しつけ」られるものだ。年齢で言うならば、10-20歳にかけてだろう。言い換えると、この年齢でルールや常識が身についていないと、後の一生で社会的制裁という形で教育されることになる。

さて、1986年ごろに「暴れる老人」だった60-70代が、社会常識を身につけるべき10-20代だった頃は、何があっただろうか?

そう、戦争だ。1926-1946年ごろは、世界不況から太平洋戦争、終戦の混乱期だ。この時代にまともな「しつけ」を親に求めることは、香山リカから「最近の子はよくしつけられている」というコメントを引き出すことと同じぐらいの期待値だ。この世代が「現役」だった時代に、各年代の犯罪率を押し上げ、いわゆる高齢者世代に突入して一花咲かせたと見るのが自然だろう(1975年から若年犯罪率が一貫して減少していることにも注目)。20年ぐらい昔の「荒れる老人たち」の理由は、これで説明できる。

次に、1997年から現在にいたる老人犯罪の激増化を見てみよう。彼らの少年時代を遡ると――終戦から高度経済成長の入口(1955)あたりに「しつけ」られた人びとが暴れているのだ。あの当時は暮らしていくのに精一杯でそれどころではなかったという「仮説」が立てられる。

この仮説を検証するならば、老人犯罪者にインタビューしてみるといい、「わたしたちが若い頃は、なんにも楽しみがなかった、一所懸命働いた、結局見返りはこれっぽっち、やってらんねぇ」という恨み節が聞こえてくるに。そして、「親からはろくに面倒を見てもらってなかった」というカメラ映えする言質が取れるだろう(ホントの因果は逆なんだけどね)。

同じ根拠により、このうなぎ上りグラフはそろそろ沈静化するのではないかと予想している。「団塊の世代」の振る舞いだ。この連中、華々しく闘争して社会に迷惑をかけたワリには、就職と同時に転向する"ちゃっかり"したところがある。これは、社会的制裁を受ける/受けないギリギリのところを計算できるぐらいの常識を「しつけ」られていたのではないかと考えられる。

もちろん、団塊の世代は1947-1955年生まれと上述の「いまどきの暴れる老人」世代と被るところもあるが、日和組が残らず老人化する2015年ごろからはこのグラフはフラットに安定化する(もしくは減少する)はずだ。彼らも馬鹿ではないのだから。

そして、「しつけがなっていない」世代が死んでゆく2030年ごろからは、老人犯罪は過去話となるだろう。高齢化社会真っ盛りであるにもかかわらず、ね。「老人犯罪?ああ、『そんな時代もあったね』と、いつか笑って話せるさ。

何度でも言う。キレやすくなっているのは老人であり、若者じゃない。この事実に目を背けている限り、対策も後手に回り、問題は先送りされる。文字通り、「死ぬ」まで。

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注釈

(※1)平成15年犯罪白書p.7「1-1-1-5図一般刑法犯検挙人員構成比の推移」を元に作成
(※2)中央研究所紀要4号(1994)p.81-92「公式統計からみた年齢と犯罪の関係について」
(※3)日本の統計(総務省統計局)日本の統計2007第2章人口・世帯[URL]を元に作成
(※4)中央公論2006.5月号p.70-77
(※5)新潮45 2002.7月号p.82-90
(※6)同p.85
(※7)上記※3より
(※8)週刊文春2007.10.11p.42-44

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参考文献

エントリには載せられなかった文献もいくつか。糞本もあるが、糞のサンプルとして役に立つ。

■ 「老人栄えて国亡ぶ」(野末陳平、講談社、1997)

題名が老人批判、書き出しが老人批判と威勢がいいが、ラストで大ドンデン返しが。本書を老人批判のバイブルだと喜んでいる奴は202ページを読め。時間のない人は以下の2節でオッケー。

「まえがき」はこうだ。

このごろ高齢者ほど、平和ボケ・繁栄ボケの典型はいない。老人扱いはイヤだと口で言いながら、国の老人過保護政策にどっぷり浸りすぎ、わがままで、身勝手で、頑固で、わからずやで、要求過剰で、傍若無人で、無反省・無自覚で、謙虚さが不足で、どうにも扱いにくい存在だ。彼ら高齢者が国家財政を圧迫している不愉快な現実に、なぜ誰も起こらないのだろうか。
で、200ページぐらい使って世代会計から見た世代間格差を延々と論じて、ラストはこうだ。
若い人たちは生まれたときからいい思いしすぎてますよ。過保護に育てられ、うまいもの食って楽しい生活して、苦労らしい苦労もしないで人生の前半を送ります。この調子で人生の後半も遅れたら、話がうますぎませんか。

前半がよすぎたから、後半は少し苦労してもらって、平均すればそれで辻褄が合うんじゃないか。それでこそ親たち世代とそこそこに帳尻が合い平仄のとれる人生ってもんだ。ぼくたち高齢者仲間は苦労が先に来た世代、次の人たちは苦労があとにくる世代、これで不公平なし、可もなく不可もなし、みんな平等で文句なし、天下泰平めでたしめでたし、というオチですね。
このテの本は書店でレジまで持っていってもらったらオッケーなので、みんな騙されたんだろうね… 批判する奴すらいないのは、最後まで読まれていない証左。

■ 「死に花」(太田蘭三、角川書店、2003)

「老い先わずかだ。死に花を咲かせよう」と一念発起し、人生最後の大バクチに出ることを決意する。面白いのは、その「とんでもないこと」が老人をどんどん若がえらせてゆく。人生にゃ、目標が必要だね。エロ話が頻繁に登場してて、面白い。高齢者の性行為は(いろんな意味で)興味津々なんだが、楽しみどころは別様だ。人生の経験者の智恵と、老人パワーが文字通り炸裂する。

人生に必要なのは、エロと目標だね。

■ 「いい老人、悪い老人」(鈴木康央、毎日新聞社、2004)

何でも二分断して○×をつけたがり、「だから○○は…」のグチをひとくさり。「だから最近の若者は…」をそのまま老人にあてはめただけ。若者というだけで全否定が許されるが、相手は老人なので部分否定に走るのがチキン。著者は団塊の世代で、「わたしが老人になったら大事にしないと反乱するぞ」とオドしているところが文字通りコケオドシになっていて笑える。「馬鹿というやつが馬鹿」を地で行っている。

■ 「銀齢の果て」(筒井康隆、新潮社、2006)

老人人口を調節し若者の負担を軽減する大義名分のもと、日本政府は「シルバー・バトルロワイヤル」を実行する。要するに70歳以上の老人に殺し合いをさせようというもの。対象地区に選ばれたところは、のどかな町内から過酷な戦場と化す――ってアレのパロディやね。

結局は「自分たち若い者には優しくしてくれ。そのためにはあんたたち老人が死んでくれ」ってことなんだ。なあ。おれたちゃもっと強い世代だった筈だろ。もっと若いやつに嫌われて、恐れられてりゃあ、こんなことにはならなかったんだとおれは思うがね
がブラック過ぎてて笑いが引きつる。

■ 「暴走老人!」(藤原 智美、文藝春秋、2007)

エントリ内にも書いたが、一番の読みどころは「あとがき」。「ちかごろの若い奴は…」のノリで印象批判をダラダラ書いた後、ラストでこう逃げる。

テーマは「暴走する老人たち」ですが、私は老人批判をしたかったわけではありません
なんというチキン。しかも「あとがき」に書くあざとさ。そういや、冒頭で「老人犯罪検挙数」のグラフがあるが、その説明が「ホラ、右肩上がりでしょ?暴走老人は増えているんです」に噴いた。まさに老人人口が増えているからじゃん、というツッコミすら思いつかず、なんでも「社会のせい」にする思考停止っぷりは、ぜったい狙ってアオってるぞ。

中央公論2008.4「老人が今なぜキレる?」でも語っているが、対談相手は養老孟司。「老いたってエエじゃないか」と開き直る老人代表に振るシッポの角度が微笑ましい。

「老人栄えて国亡ぶ」といい、「暴走老人」といい、このテの「老人批判」もどきは、二重の意味で罪深い。威勢よく批判すると思いきやラストでひっくり返すのは、羊頭狗肉どころか羊頭腐肉。そして、重要な問題をクソ論理で語っているため、問題そのものの重要性を減殺してしまっていることは、恐ろしく罪深い。

つまり、うんこ主張なんてすぐに粉砕されるため、その前提の「暴れる老人」まで疑わしく見えてくる罠。これをジコヒハンと称して免罪符にでもするつもりか。すぐに馬脚の現れる論理を主張して、その批判を甘んじて受けることで、もともとの論理の前提を疑わせるテクニックは、(狙ってやっているのなら)かなり高度な技だぞ。意図しないならただの○○だがな。

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追記

このエントリを書く上で、意図的に省いた視点を追記する。「ちゃんとしつけられなかった子どもが、いまの暴走老人」というシンプルな話にするだけでもこれだけのボリューム。以下の視点を加えれば、さらに多角的な分析ができるだろう。しかし、リーマンが休日深夜にがんばるレベルを越えているのでカンベンな。

■ 「犯罪者の定年延長説」という視点

平均寿命が延びたため、社会的活動期間が延長され、したがって犯罪者としての活動期間も長くなっているのではないか、という説がある。この、「犯罪者の定年延長説」は西村春夫の論文にある(※1985 高齢者が犯罪にあう時、犯罪に出る時」The Japanese Council on Crime and Delinquency,33,2-11)。

「キレる老人」を犯罪発生率だけで断言するのには無理がある、というこのエントリのカウンターとして主張できる。つまり、プロの冷静な犯行が検挙された場合もカウントされるからだ。

10-40代までの犯罪者の比率は、男の方が女よりも高いが、50代、特に60代になると顕著に女性が高くなる。この傾向が犯罪者の定年延長説に説得力を与えている。

■ 「時代に取り残される老人」という視点

暴れる老人のキモチを弁解するとき、「時代のスピードについていけない」という看板を掲げる人がいる。前出の「暴走老人!」なんてまさしくこれに該当する。お爺さん、お婆さんの経験や知恵が蔑ろにされ、居場所を失っているというやつ。

一見もっともらしいが、本当だろうか?

「時代の変革スピード」を出生率や経済成長などの「見える数字」で表現する。そして、その「スピード」とやらの変遷と上のグラフの相関関係から読み解く。自分の数十年の記憶だけで物語っている連中より100倍ましかも。

おそらく、その「スピード」とやらは加速している、という結論に導ける。しかし、その調査の過程で、「それぞれの時代ごとに、変化についていけない高齢者」が沢山いた、という事実にぶちあたるだろう。そして、各時代で「お年寄りの知恵や経験が蔑ろにされている」と憤る老人たちの発言を追いかけることになる。

その最古の例は、[ 最も古い「最近の若者は…」のソース ]にある。

つまり、どの時代でも「変革スピードについていけない老人」はいた。そして、「自分の経験を肯定してもらいたがっている老人」も同じぐらいいた。Identity Crisis の防衛策としての「暴走老人」だ。この枠組みなら一定量の暴れる老人の説明はつく。ただし、どんな時代でも Identity Crisis に最も瀕しているのは老人ではなく、若者であることをお忘れなく(それこそ、オマエの若い頃を思い出してみろ、というやつだね)。

暴走する老人を「時代のせい」にするのは両刃の剣だろ。「そんな時代にしたのは、まさにお前らだろ」と切り返されてしまうから、被害者のフリをしようにも無理ある。「世の中が悪くなっている」とグチるのなら、「そういうオマエは何をしてきた?」とね。

■ 「刑事司法システムでの老人犯罪者の扱われ方」という視点

資料※2 で面白いヒントをもらった。日本の刑事司法システムでの老人犯罪者の扱われ方だ。検挙者数の人口比が少ないにもかかわらず、検挙→受刑までいたる老人の比率は、他の年代と比べると少なかったという。

これは何を意味するのか?

つまり、老人犯罪においては、微罪処分、起訴猶予処分が、他の年齢層に比べて多いことを示している。お目こぼしというやつやね。老い先短い身の上、お年寄りを大切に、という儒教的?(ヒューマニズム的?)心情がこうした数値になっているのかもしれない。

その一方で、老人受刑者の中の再入率は、極めて高いという。歳を取ると悔い改めなくなるのだろうか。これは、穏便に済まそうとしたら図に乗っている老人の姿を如実に現している。

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