問題を「発見」する方法

 読書猿『問題解決大全』はスゴ本で、以下の質問をいただいたので、回答する。

問題解決大全には問題発見のノウハウまでは載っていませんでしょうか? 問題発見のノウハウ本を探しているのですが、なかなか良いのが見つからなくて。世には問題解決の本は山ほどありますが、その割には問題発見のノウハウ本って少ない気がします。
(名無しさん@2017.12.11 21:58)

 まずお詫び。わたしの紹介文で、問題の解決方法「だけ」を扱っているかのような印象を与えてしまい、申し訳ない。

 そんなことは全然なく、むしろ逆だ。『問題解決大全』は、どのように問題をつかまえるかの本と言っていい。「どのような問いを立てれば、解に近づくことができるか」について、古今東西の知の巨人たちの力を結集したもの。「正しく問う」ことがどれほど難しいか、よく分かる。

 問題を正しく問うことができたなら、ほぼ解決したも同然と言ったら言いすぎだろうか。

 少なくとも、きちんと問題を問題化できたら、後は比較的機械的に行ける。すなわち、

 1. 問題を適切な大きさの課題に分割する
 2. それぞれの課題を達成するためのタスクを割り振る
 3. タスクに対し、時期と目標値を設定する
 4. タスクにリソース(人と時と金)を投入する
 5. リソースの消化と目標の達成状況を管理する

 この辺になると、そこら辺の問題解決本の範疇になる。世の中に山のようにある問題解決本は、正しく言い当てられた問題からスタートする。マネジメントの話や、リスクとリソースのコントロール、モチベーションと進捗管理の話になる。口当たりの良い、一読しただけで「問題」だと分かり、教科書の「問1」「問2」みたいな問題である。言い換えるなら、このやり方にはまらない「問題」は、そこらの問題解決本では問題と認識されない。

 でも、現実は違うよね。

 世の中、「これは問題だ」と誰もが明白に言えるような問題は、実は少ない。

 問題のように見えるのは一面からだけで、それは別の問題Bの原因だったりする(そして問題Bを解決することで解消する事象だったりする)。あるいは、その問題は別の人にとっては問題ですらなかったりする。さらに、その問題を問題視する人の価値観が変わったり、時の経過や状況変化によって「問題」にならなくなったりする。利害や因果や抽象度が入り組んでいて、問題が特定できなかったりする。その問題を解決するリソースこそが「問題」な場合や、問題視している人自身が「問題」の場合もある。世の中の問題は、「問題」の形をしていない。

 問題を「正しく」問うことそのものが、一番の問題なのである。

 これに応えたのが、『問題解決大全』になる。

 問題とは何か、本書の定義はシンプルに断言する。すなわち、「問題解決とは、"~したい"と思うことを実現すること」だという。読んでいくと、もっと素朴な例もある。「なんかイヤだ」と感じていることに言葉を与える。「~だといいのに」の対象をもっと具体的にする。その上で、そちらに向かうために、どういうアプローチをすれば良いかをガイドする。

 名無しさんの質問にある「問題発見」は、そこなんじゃないかなと思う。もやんとした「思い」に言葉と形を与え、自分自身も含めた誰かに伝えられるように可視化する。それに応えてくれる。つまり、『問題解決大全』は、問題を可視化し、「正しく問う」ためのガイドなのだ。

 では、どの技法が適しているか? 目次「問題の認知」で一発で分かる。

第1章 問題の認知
 01 100 年ルール The 100-year rule  大した問題じゃない
 02 ニーバーの仕分け Niebuhr's Assorting  変えることのできるもの/できないもの
 03 ノミナル・グループ・プロセス Nominal Group Process  ブレスト+投票で結論を出す
 04 キャメロット Camelot  問題を照らす理想郷という鏡
 05 佐藤の問題構造図式 Sato's Problem Structure Scheme  目標とのギャップは直接解消できない
 06 ティンバーゲンの4つの問い Tinbergen's four questions  「なぜ」は 4 種類ある
 07 ロジック・ツリー Logic Tree  問題を分解し一望する
 08 特性要因図 0 9 1 fishbone diagram  原因と結果を図解する

第 5 章 問題の認知
 27 ミラクル・クエスチョン The miracle question  問題・原因ではなく解決と未来を開く
 28 推論の梯子 The Ladder of Inference  正気に戻るためのメタファー
 29 リフレ ーミング Reframing  事実を変えず意味を変える
 30 問題への相談 Consulting the problem about the problem  問題と人格を切り離す
 31 現状分析ツリー Current reality tree  複数の問題から因果関係を把握する
 32因果ループ図 Causal Loop Diagram  悪循環と渡り合う

 「問題の認知」の技法として、第1章で8つ、第5章6つ、合計14の技法が紹介されている。

 なぜ、「問題の認知」が2つに分かれているかというと、それぞれ、「リニアな問題解決」「サーキュラーな問題解決」と2つのアプローチに分類されているから。

 リニアな問題解決とは、直線的な因果性を基礎に置く問題解決であり、理想と現状のギャップを何らかの形で埋めたり、より「上流」の悪原因を取り除くことを目的とする。解決者は、問題の外側から分析し、必要なリソースも問題の外から供給される。

 いっぽう、サーキュラーな方はより複雑だ。解決する人もまた、問題を構成する因果のループの中に組み込まれている。問題を問題たらしめている要素もまた、因果ループの中で再生産しており、必要なリソースも解決すべき問題として考慮しなければならない。

 本書では、2つのアプローチを使い分けながら「正しく問う」ことを目指す。名無しさんが求めている「問題発見」は分からない。だが、ほぼどんな時にも使えて、不慣れな状況でもオールマイティに使える技法は、「ニーバーの仕分け」だな。[ニーバーの祈り]を技法化したもので、変えることのできるもの/できないものを分けて数値化する。そして、「変えることができるもの」を問題として定義するわけだ。

 わたしはニーバーの祈りを実践するとき、「イチローのコントロール」と置き換えている。インタビューで、ライバルのバッターの成績と比較されたとき、イチローはこう答えたという。「全く気にしない。自分のコントロール外のことだから」。自分がコントロールできることと、コントロールできないことを分ける。そして、コントロールできることに集中する。あたりまえといえばあたりまえなのだが、わたしたちは、変えられないものを「問題」視することで、貴重なリソースを無駄にしがち。それなら、できることに集中しよう。

 ちょっと気をつけて欲しいのが、「問題の認知」の第1章、第5章で済まないところ。問題を構成する因果のループが入り組んでおり、問題が「問題」の姿をしていない場合がある(現実ではほとんどだ!)。この場合は、「サーキュラーな問題解決」のアプローチ全てが、「正しく問う」ガイドになる。

 たとえば、解決法を探究する行為そのものが問題の再定義化を促す「スケーリング・クエスチョン(技法33)」がある。あるいは、解決策を仮設定し、とにかく進んでみることで真の問題とのFit-Gapを可視化する「ピレネーの地図(技法36)」などは、「サーキュラーな問題解決」として紹介されている。問題が因果ループに取り込まれているのなら、「正しく問う」ために、そのループを回す必要がある。ループを回しながら、コントロールできる問題に「問題化」するのだ。

 「問題発見」とは、問題を正しく問うこと。そして、問題を正しく問うことができたなら、解決へ大きく前進したことになる。

 各章の扉には、簡単な紹介とレシピが載っている。書店でパラ見して、名無しさんの今の「~したい」に合いそうなものを選んでみるといいかも。そして、これは自信をもって言えるのだが、名無しさんの今の「~したい」にも未来の「~したい」にも必ず合うツールが、きっと書いてある。


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いきなり古典はハードル高い、「本の本」「100分de名著」をお薦めする

 「古典を読むべきか」という問いが面白かった。

[読書家の人は古典的な名著を読んできたのだろうけど]

古典は基礎体力のようなものだからやはり若いころに読むのがふさわしいのだろうけど、年齢を重ねてからでは読む価値が薄いという意見を聞くたびに、うるせえなじゃあ読まねえよなんて思ってしまう。読むのはせいぜいラノベなおっさんが古典を読む価値はあるのだろうか?ていうかそもそも読めるのだろうか?

 これへの応答[はてなブックマークコメント]がタメになる。説得力のある見解をコメントする人もいれば、答える形で優越感ゲームを仕掛ける人もいる。ここでは、わたしの考えをまとめてみる。

 まず、「古典は若いときに読んだほうがいい」という意見について。

 これは体力の話。ある種の勢いというか、読了したという自意識を求め、体力まかせのイッキ読みは、若いからできること。古典を読んだからエラいとかいう優越感(?)も、若いからもてるもの。では、トシとったら読めないかというと、そうではない。若さにまかせて読めないけれど、じわじわと読めばいい。むしろトシとって経験積んだ分、「わかりみ」が増してる。

 次に、「古典はトシとったら読む価値が薄い」という意見について。

 トシ関係ない。好きで読むなら価値のありなしはご自分で、と言うしかない。ただ、自信を持っていえるのは、人生は有限であること。ラノベに限らず、新しい本を新しいからという理由で追いかけるのは得策ではない。次から次へと出てきてキリがないし、新刊はあっという間に古くなるから。

 一方、古典なら、時間の洗礼を受けている分、それを受け継いできた人によって「価値あり」と判断されたと言える。その「価値あり」は、これから読もうとする人にとって「価値あり」かどうかは、やっぱり分からないけれど、試しに手に取るだけの価値はあると思う。

 また、これは文学に限るが、古典の名作のリストはアップデートされるということ。「世界名作全集」とか「読むべき名作」みたいなリストは、入れ替わりがある。時代の「価値あり」の変遷によって、日が当たったり陰ったりするのを見ても面白い。これがリベラルアーツだと話が違ってくる。プラトンとか四書五経とかのリストは変わらない。

 文学限定だが、別冊本の雑誌の『古典名作・本の雑誌』が最新にアップデートされた古典名作リストだ。これが良いのは、そのジャンルの最高の読み手に任せているところ。海外文学、国内文学、エンタメと、鉄板から掘り出し物まで、「これは!」というものばかりが並んでいる。ざっと見て、興味の湧いたものをまず図書館で借りてみるのがお財布に優しい。その上で、きちんと読みたければ買えばいい。

 書評の雑誌は、選書している「人」を選ぶ本でもある。わたしが好きな作品を紹介している「人」がお薦めしている、知らない本なら、きっと面白いだろう。まさに「わたしが知らないスゴ本を読んでいる人」を探す本になる。

 また、ラノベ読みならラノベから入るルートもある。モチーフから辿って『這いよれ!ニャル子さん』からラヴクラフトとか、テーマから辿って『紫色のクオリア』からボルヘスみたいな併せ読みをすると楽しいかも(kaienさんがやっていなかった?)。

 他に、Eテレの100分de名著シリーズがお薦め。古今東西の名著を、25分 × 4回 = 100分で紹介する番組だ。「読む」前に「観る」ことでウォーミングアップを図ったり、読み解きサポートやモチベを上げるのに良い。いまちょうど、スタニスワフ・レム『ソラリス』をやっているので、ぜひお薦め(初回からネタバレ炸裂しまくっているけれどwww)。

 最後に。「古典」といっても、いろいろある。「本の本」や「100分de名著」であたりを付けたら、図書館で試そう。これも自信を持って言えるけれど、あなたに合うものは必ずある。ただ、出会えていないだけなんだ。

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読書猿さんと対談した

 読書猿さんとお会いして、お話することができたので、さしさわりのない範囲でまとめる。

 濃厚かつ一瞬の2時間だったが、学ぶヒントや学び続ける勇気、そして大量のスゴ本を教えてもらえるという、かけがえのない時間でしたな。フォレスト出版さん、読書猿さん、ありがとうございます。ブログやってて良かった!

 自ら学ぶことを大切にしている人で、読書猿さんを知らない人はいないだろう。一言なら、哲人(てつじん)。すぐれた知性と見識の高さ、的確すぎる筆致と高高度な調査能力を駆使する、教養の化物である。古今東西のあらゆる本を吟味し玩味し紹介するブログ[読書猿]の中の人で、メルマガ[読書猿]を発行しており、『アイデア大全』『問題解決大全』というスゴ本を著している。

 お会いするまで、そんな人は実在しないと考えていた。読むのも書くのも質量ともども桁外れ、文献調査や公開情報を用いた分析が研究機関レベルで、得られた知見を、読み手に読者に「分かる」「できる(使える)」形に咀嚼してツール化して提供する。きっと「読書猿」とは一種のブランドで、中の人は何人もいて、役割を分担して運営されていると思っていた(「シェイクスピア」のように)。

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これが本当の「猿の手」

 しかし、お会いして分かった。「読書猿」はワンオペだ。中の人はチャーミングなおっさんで、笑った目が完全に子どもの瞳をしている。しかし、ひとたび知の話題になると、ロゴスとエビデンスの鬼と化す。ものすごい勢いで固有名詞と年代と方法論が出るわ出るわ。その一つ一つを、完全に覚えているのが凄まじい(後で聞いたところによると、「頭の中に図書館がある」らしい)。

■『アイデア大全』と『問題解決大全』の使い方

 この2冊、もとは一つだったらしい。

 最初にまとめたとき、2冊を合体させたよりも莫大になり、「このまま出すと厚さと価格がシャレならん」ことが明らかになったという。そのため、2つに分けるとともに、アプローチと構成を練り直したとのこと。すなわち、アイデアを求める人向けのアプローチと、問題解決を模索している人のためのアプローチである。

 さらに、アイデアを求める人向けに、「0→1にする」と「1→nにする」の2部構成に分けたという。ここが凄いところだと思う。いわゆる世のアイデア本は、「1→nにする」は大量にあるが、「0→1にする」については皆無といっていい。つまり、与えられた何かを元に膨らませる方法論は満ち溢れているが、そもそものとっかかりすらない状態からどうすれば良いかはほとんど無い。これに応えたのが、『アイデア大全』になる。

 同じことが、『問題解決大全』にも言える。「リニアな手法」と「サーキュラーな手法」の2部構成に分かれている。世の問題解決本は、「リニア」がほとんどである。つまり、理想と現実、原因と結果が直線的につながっており、その差を埋めたり原因をあれこれする方法だ。ビジネス書との親和性の高さから、腐るほどある。だが、「サーキュラー」は稀だ。問題を構成する因果ループの中に解決者が取り込まれており、「原因」「結果」が判然としない。さらに問題を解決するリソースもその中でやりくりしなければならない。これに応えたのが、『問題解決大全』である。

 現実を振り返ってみよう。なんとかしたいのに、何をどうすればよいか、アイデアどころか、手がかりすら分からずに困ってる方が多いのではないか? あるいは、問題と原因がぐるぐるして、しかもそのループに自分自身が入っていて途方に暮れている方が多いのではないだろうか? より根が深い、現実に近い、そうした状況に対し、適切なアドバイスが得られるのがこの2冊なのである。


 『アイデア大全』と『問題解決大全』を立てて見てみよう。こんな構成である。

       アイデア大全 ||    問題解決大全
0→1にする | 1→nにする || リニアな手法 | サーキュラーな手法


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コアの部分(「1→n」「リニア」)と、周辺の部分(「0→1」「サーキュラー」)


 両者が接しているコアの部分になる、「1→nにする」「リニアな手法」は、どちらかというと馴染みのある方法論だ。そして、このコアの両サイドに、より現実的な手法である「0→1にする」「サーキュラーな手法」が準備されているという構造だ。

 つまり、「どうしたらよいか」へのアプローチとして『アイデア』『問題』の2ルートがあり、さらに問題がある現実との親和性で、コアか両サイドかの2方向ある。どのように解決したいかという観点と、現実との親和性によって、使い方を変えることができる。ちなみにこの見方は、わたしが編み出したカスタマイズだ。辞書的に引いて使うのが主だろうが、並べて立てることで、より立体的に攻めることができる。

■頭の中に図書館を持て!

 世の中に「頭のいい人」がいる。1をいうと10伝わる人、頭の「回転」が速い人、いわゆる「地頭力」がある人、引き出しを沢山もっている人、緻密に語れる人、とっさに適切な一言が返せる人、知識がある人、勉強ができる人など、様々な言い方がある。

 もちろん読書猿さんも「頭のいい人」なのだが、上記のどれもうまく当てはまらない。知識があり、緻密に語り、回転が速いのは確かだが、そんな人は沢山いる。しかし、読書猿さんが凄いのはそんな即興的な所から離れたところにあることに気づいた。

 何か―――例えば「自転車」について調べるとしよう。わたしなら、辞書から意味を汲み、イメージされる分野を調べ始める。たとえば、「自転車の仕組み」や「自転車の歴史」といったテーマから始める。だが、読書猿さんは違う。調べたい「何か」について、図書館の十進分類表に放り込み、そこから照射しはじめるのだ。つまりこうだ。

 自転車の総記(00)
 自転車の哲学(10)
 自転車の歴史(20)
 自転車の社会科学(30)
 自転車の自然科学(40)
 自転車の技術・工学(50)
 自転車の産業(60)
 自転車の芸術・美術(70)
 自転車の言語(80)
 自転車の文学(90)

 十進分類表は、いわば、知りたいことへの「知り方」を分類したものだ。言い換えるなら、人類の知を分類したものだから、そこには必ず自転車について知りたいことへの道筋が存在する。読書猿さんの頭の中に、この十進分類表が入っており、そこから抽象度を徐々に下げてゆく。

 たとえば、文学(90)>英米文学(930)>小説(933)と行くと、きっとそこに「自転車」に言及した小説が見つかるだろう。あるいは、産業(60)>運輸・交通(680)>交通政策(681)と絞っていくと、間違いなく「自転車」に関する行政施策が見つかるだろう。重要なのは、数字の左に行くほど抽象度が上がり、右に行く抽象度が下がり具体性が増すところ。この抽象度を上げ下げを駆使することで、「自転車」を文学からも行政からも絵画からも調べることができる。

 そして、図書館に行くと、この抽象度の並び順に並んでいるのだ。十進表の通りに並んでいるのは知っている。でないとどこで何を知ることができるか分からなくなるから。重要なのは、抽象度の並びで書棚が構成されているのだ。だから、実際に図書館の書棚で、左へ目を向けると、より抽象度の高い本が見つかり、右を見ると、より具体性のある本が出てくる。何年も図書館に通い、何度も見てはいたものの、これは気づかなかった。

 読書猿さんの頭の中には、図書館があるという。十進分類を駆使して、抽象度の高いところから俯瞰したり、より詳しく知りたいときは拡大して具体的な目で見始める。頭の中の図書館で目星がついてから、やおら腰を上げてリアル図書館に行くという。やみくもにGoogleったり、図書館や書店に突撃するよりも、はるかに効率的・網羅的なり。いつでも図書館を召喚できるということは、いつでも知の巨人の肩に乗れることなのだ。

 読書猿さん自身は、もちろん博学だが、それだけではない。自分が何を知らなくて、どうすれば知ることができるのかを知っている。いわゆる、「知り方を知っている」という点で、頭のいい人なのだと思う。もっというと、スピード重視なのか、深さ重視なのかによって、「知り方」を使い分けながら図書館にアクセスできる。つまり、読書猿さんは、図書館という人類知を味方につけている人であり、知の巨人たちを自由に召喚できる人なのである。

■図書館では返却棚を見て!

 教えてもらうことばかりだったけれど、唯一、合致してたポイントがあった。「図書館で返却棚を見る」という所である。「きょう返された本」という掲示がされている棚やワゴンである。

 もちろんそこから借りていってもいい。その棚は、誰かが借り出しして、カウンターに返却された本であり、次に借り人がいなくて、いずれ本来あるべき棚に戻る前のバッファみたいなものである。

 ちょっと見方を変えてみよう(『問題解決大全』のリフレーミング)。その棚にある本は、いわゆる人気本ではない(そういうのは、予約が入っており、返却処理時に予約本として回される)。だが、世の中の人が何がしかの興味を持ち、「貸し出し」までして手に取ろうとした本である。その集積は、世の人の興味の集積になるのではないか?

 よくある、「書店に行って、面陳されている本のキーワードを見ているだけで、世間がいま何に興味を持っているか分かる」というライフハック(?)の、もっと生々しいものが、図書館にあるのだ。なぜなら、書店に並んでいる本は、「世間の興味」というよりも、出版社が「世間はこれに興味を持っているのだろう」もしくは「これに興味を持って欲しい」もので埋め尽くされている。いわばノイズが入っている状態である。図書館の返却棚は、そうしたノイズが自動的にフィルタリングされた、本当に興味のあるもので埋め尽くされているのだ。

 たとえば今行ってみるといい。「確定申告」と「介護」が必ずあるはずだ。前者は、年度末に向けて早めに準備したい人が借り出したものだし(年を越すと予約でいっぱいになる)、後者は特に近年顕著に見られるキーワードになっているから。

 図書館で世間を知るというこの技、読書猿さんと一致したのは大きい。

■読書猿さんの今年のスゴ本は?

 わたしの今年のNo.1は『アイデア大全』『問題解決大全』だけど、読書猿さんにとっての一番は? という質問をぶつけてみた。

 返ってきたのが、『愛とか正義とか』(平尾昌宏著、萌書房)。これは、読書猿さんが唯一、嫉妬した本だという。たとえば正義。「正義」と「正義についての主張」は異なるのに、両者を混交して議論するから迷走する。これは、両者の違いを、誰にでも腹に落ちるように、しかも厳密に書いており、ここまで書けるのは素晴らしいとともに悔しいとのこと。「正義」「愛」「自由」など、誰もが知っていて、誰もその正体を言い表せえないものを、『鋼の錬金術師』や『ライアーゲーム』で学べるらしい。

 速攻でゲットした(丸善ラスト1冊だったw)。読み始めてすぐに気付いたが、これ、倫理学の主要なテーマである自由意志、価値論、功利主義、認知主義、実在論、生命倫理学をものすごく分かりやすく書いている。そして凄いのは、答えを導くのではなくて、考え・プロセスを辿っているところ。考える行為そのものが哲学することが、分かるように書いている。「自分で考える」とは何かを、自分で考えさせることで伝える、読むことが実践になる一冊なり。

 4つ紹介したが、まだまだ足りない。他にも、本屋でオフ会や、読書会、本の「並べかた」についてのウンチク、調べかたのあれこれ、ホワイトボードで講義形式で聞きたかったですな。読書猿さんの次のテーマは、「図書館」だ。全裸待機して待ちます。

 最後にもう一度、読書猿さん、貴重で、濃密な時間をありがとうございました! またお会いしたいです。そしてじっくり(ホワイトボードを傍らに)お話を伺いたいです。

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この本がスゴい!2017

 人生は短いのに、読みたい本は多すぎる。

 生きてる時間ぜんぶを費やしても読みきれない本を抱え、それでも新しい本に手を伸ばそうとする愚者とはわたしだ。ただ「新しい本」というだけで、何がしかの価値があると思い込み、財布をはたく。エラい人が誉めてたという理由だけで、読むべき本だと思い込み、脊髄反射する。そして読まない。「あとで読む」とレッテルを貼って、あとで読まない。

 かくして積読山は高くなる。

 かつては本に囲まれた生活を何やら高尚なものだと考えて、「本に埋もれて死にたい」などとつぶやいたことがあるが、恥ずかしい。救いようのない馬鹿とはわたしだ。読書は趣味であり代謝であり経験だ。その候補だけを増やしても、何も、なにも変わっていない(ボクは沢山の本を持っているという自意識を除いて)。

 そんな山から発掘し、紹介してきたスゴ本(凄い本)のなかから選りすぐりをご紹介しよう。わたしの趣味と代謝と経験に照らした上で、「これはスゴい」と断言できるものばかり。

 ただし、あなたの趣味にあうかどうかは、分からない。だが、そんなあなたが「それがスゴいなら、これは?」と推してくる本は面白い本である可能性が非常に高い。なぜなら、わたしが薦める本を知った上で(必ずしも読んでなくてもOK)、それでもお薦めするのだから。

 実は、このリストの半分は、誰かにお薦めされて手にしたものなのだ。「自分のアンテナ+観測範囲」だと、どうしても偏読になる。偏読上等なんだけど、世界も狭くなる。これはもったいない。

 だから、このリストを見て、あなたの記憶を発火させる作品があったなら、それを教えて欲しい。なぜなら、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから。


フィクション


『冴えない彼女の育てかた』

丸戸史明
富士見ファンタジア文庫

冴えない彼女の育てかた 今年一番ときめいた&キュンキュンした&創作意欲を刺激された。

 ラブコメ好きなんよ。アニメでもゲームでも、出会って恋をして、成就に至るまでの七転八倒が楽しいんよ。不毛だった青春の記憶を、幸せな物語で上書きするために必須なんよ。なかでもこれは傑作なり。なぜならこれ、上書き保存する勢いで、読み手の創作欲をダイレクトに刺激してくるから。「この火照ったココロを形にしたい」という欲望が、わたしの中に確かにあることを、指し示してくれるから。

 二次元萌えオタクが三次元の少女に出会って一目ぼれする(お約束)。しかし、告白するでもなく、美少女との出会いをギャルゲにしようと決意する(反則)。そして、天才絵師(幼なじみ)と、天才ラノベ作家(先輩)を巻き込んで、同人ゲームのサークルを立ち上げる(お約束)。そしてゲームのヒロインとして、あの日に出会った子を誘うのだが、全くといっていいほどキャラが立ってないごく普通の女の子だった(反則)……という入口。

 キャラが立ちまくりの、ツンデレツインテールや毒舌才媛キャラなど、いわゆるアニメやラノベの約束ごとを並べ立て、そこへ「ごく普通の(押しに弱い)反応の薄い少女」を混ぜ込んでくる。ありがちな設定に混ざる、反則の展開が面白い。序盤、中盤それぞれで、物語のフォーマットを壊しては作り、壊しては作るのが面白い。ラノベ的な展開を先読みしていると、足元をすくわれる。

 そして、反応のうっすーい、押しの弱い、表情がフラットなヒロイン、加藤恵が大化けする展開が素敵だ。最初は、土下座して頼み込んだら「しょうがないなぁー」と言いながらぱんつ見せくれるんじゃね? と思えるくらい押しの弱い彼女が、だんだんと同人ゲームサークルの中に染まっていくのが嬉しい、微妙だったキャラが、徐々に見えてくるチラリズムが楽しい。

 そして、二人の関係が、スルリとうまくいってしまう(でも気づかない)のが志村後ろ的展開がよい、非常によい。知らないあいだに手をつないでしまっていたことに気づいて、そのときは何でもないのに、後になって一人で思い出して赤面するカップルは、未来永劫幸せになれ!というやつ。Skype越しに、自分の思いに気づいたことがバレてしまって、それまでフラットだった表情がフラットでなくなる瞬間なんて最高なり。恋に堕ちる瞬間の、胸の鼓動を感じとる。これは、一生の思い出になる感情なり。本を胸に抱いて部屋中をゴロンゴロンしまくった(今でも思い出すだけでニヨる)。

 さらに、小気味良い会話の掛け合いの端々に見える、業界あるある・創作あるある話がまたいい。「とにかく何も考えずに、まずは書け、とにかく量を書け、立ち止まるな」「推敲は全部書いてから、途中で戻ったりすると、いつまで経っても完成しないわよ?」(5巻、詩羽先輩)なんて何度も頷かされる。次の件なんて、大書きして額に入れるべきやね。

「一週間、なにも書けていないのと、一週間分のテキストを全部捨てるのって、一週間後から見てみれば、結果的には同じだろ? それどころか、書いたことで自分のスキルが上がってる。アドバンテージさえある。(11巻、紅坂朱音)
最後に一つだけ……オナニーしろ、少年。自分が思いっきり気持ちのいいオナニーを、皆が思わず見たいと思うようなオナニーを、そんなものすごく恥ずかしいオナニーを、思いっきり見せつけてやれ!作家なんて皆、変態だ、露出狂だ。自分の狂った頭の中を全世界の人間にさらけ出そうとする、とんでもないキ●ガイばっかりだ。あははははははははは(11巻、紅坂朱音)

 紅坂朱音という、クリエイターの化物みたいなキャラが出てくる。エキセントリックな言動とは裏腹に、言ってることは全クリエイター必聴。書く人であれ描く人であれ、おもわず背中を叩かれた気分になるに違いない。他にも、アーティストとクリエイターの確執(英梨々と朱音、詩羽と倫理君)、ミメーシスとディエゲーシスの黄金比(恵への定期報告メール)など、創作のヒントが随所に埋まっており、宝探し気分でも読める。

 アニメも素晴らしい。作者がアニメの脚本も手がけており、互いの違いに隠された「意図」を解きながら観るのも楽しい。なによりも英梨々かわいい。英梨々かわいい。英梨々かわいい。アニメだけの人へ。なにこれしゅごいことになっているので、ぜひラノベに手を伸ばして欲しい。そして、読む人、観る人、みんな幸せになってしまえ。

 お薦めしてくれたのは、[まなめ王子]のおかげ。ありがとう! わたしも最高に最高で絶叫しました。




『ゲームの王国』

小川哲
早川書房
レビュー : [これ面白い!『ゲームの王国』]

ゲームの王国上ゲームの王国下

  寝食わすれて読み耽った。ページが止まらないくせに、終わるのが惜しいとこれほど思った小説は久しぶり。「最近面白い小説ない?」という人に、自信をもってオススメ。というのも、次から次へと面白いネタをどんどんぶっ込んでくるから。

 建前(?)はSFだが、中身は盛りだくさん。ポル・ポトの恐怖政治と大量虐殺の歴史を生き抜く少年と少女の出会いと別れを横糸に、ガルシア・マルケス『百年の孤独』を彷彿とさせるマジックリアリズムあり、ウィトゲンシュタインの言語ゲームやカイヨワの「遊び」の本質を具現化したコンピュータゲームあり、貧困の経済学ありデスゲームあり、ともすると発散しがちなネタを、見事にひとつの物語にまとめあげている。

 優れた小説を読むときによくある、記憶の再刺激が愉しい。すなわち、どこかで見たことのある既視感と、よく知ってるはずなのに目新しく思える未視感が、むかし読んだ/これから読む作品を、芋づるのように引き出してくれるのだ。

 たとえば、4年間で300万人以上虐殺されたという現実は、映画『キリング・フィールド』の地獄絵図。自由意志は存在せず、人の行動の理由は後付けて作られる(受動意識仮説)の件は、ホラーで人間を理解させる『恐怖の哲学』の分析を再読するようだ。不条理すぎる現実に「こころ」を壊さないためのセーフティ・ネットとしての物語は、『人はなぜ物語を求めるのか』のナラトロジーが浮かんでくる。貧乏人は費用対便益の判断ができないのではなく、生活に追われるあまり、判断を留保(先送り)せざるを得ないという貧困の本質は、『貧乏人の経済学』を思い出す。

 これ、読み手によってはもっと沢山の別のノンフィクションが出てくるに違いない。本作は、「すこし過去」と「すこし未来」だけを描き、「現在」だけが存在しないSFだ。にもかかわらず、これほど生々しく感じられるのは、SFというより、サイエンス・ノンフィクションというべきなのかもしれない。

 これを教えてくれたのは、タカユキさんと[基本読書]の冬木さん。これほど夢中になれる作品を教えていただき、ありがとうございます。


『ウインドアイ』

ブライアン・エヴンソン
新潮クレスト・ブックス
レビュー : [死ぬことよりも怖いこと『ウインドアイ』]

ウインドアイ 現実が狂うのではなく、わたしが狂うのでもなく、現実とわたしがどんどんズレてゆく。

 私という「容れ物」から「私」という存在が、にじみ出る。私が私を保ったまま遠ざかり、時間からこぼれ落ちてしまう。この離人症的な怖さ、自己同一性の喪失の恐怖が、読者にだけ分かる短編集。

 読み始めてすぐ違和感を感じ、読み進むにしたがって「ざわざわ」が増してゆき、物語の決定的なところで胸騒ぎが本物だったことを思い知る。しかも、予想の斜め上の、もっと嫌な予想外の場所に置き去りにされていることを知る。

 不条理な寓話はとてもカフカ的だが、そこで浮彫りにされるのは物語世界の不条理さではなく、世界の認識の仕方の不条理さである。世界は狂っていないと確信できていたのは、世界と同じくらい自分が狂っていたからであって、現実と乖離しはじめた今、おかしいのは自分か世界か両方なのかと幾度も自問させられるハメになる。結果、読書はすなわち毒書となり、世界が歪んでいくような感覚に抗いながら読まねばならぬ。たびたび「私の気は確かだろうか?」と振り返ることを余儀なくされる。

 現実とのチューニングが合わなくなるにつれ、あるはずの感覚質から「私」が零れ落ちてしまうのだ。これは、死ぬことよりも怖い。これは毎晩、寝る前に、一編一編読みたいもの。現実が悪夢だったことに、うっかり気付かないためにも。


『雨月物語(日本文学全集11)』

上田秋成著/円城塔訳
河出書房新社
レビュー : [円城塔訳『雨月物語』が完全にジャパニーズ・ホラー]

雨月物語 『雨月物語』といえば、石川淳の名訳が有名だが、円城塔が上書きした! 硬い語りを残しつつ、きっちり小説に仕立ててある。こいつは怖いぞ嬉しいぞ。ジャパニーズ・ホラーの金字塔『吉備津の窯』を、もし読んでない幸福者がいたならば、この訳で読むと吉なり。

 ジャパニーズ・ホラーの最大の特徴は、「わけが分からない恐怖」だろう。殺人鬼とかウイルス感染といった物理的に対応できる原因が引き起こす欧米ホラーと違い、真相が分からない。わけが分からないまま恐ろしい思いをし、原因を探してみても、「呪怨」や「穢れ」といった言葉で示すしかない「なにか」で終わる。文字通り、この世のものではないのだから、物理的な対処は効かない。「なにか」が過ぎ去るまで震えているしかないのだ(あるいは、取り憑き殺されるまで)。

 物理的なウイルスや殺人鬼でない怨念だからこそ、時と場所を超えて聞き手に迫ってくる。『雨月物語』は、そういう怖さを孕んでいる。同時に、怨念に至る愛憎も詳らかにされる。

 その「なにか」が抱いている妄執や執着している人が分かるにつれ、さもありなんと思う。それだけ非道な目にあえば、その恨み晴らさずには成仏しきれなかろう。あるいは、それだけ執着しているものが失われれば、さぞかし心も乱れることだろう―――と同情する。愛欲に心乱し生きたまま鬼と化した「青頭巾」なんてまさにそれ。

泣くにも涙は枯れ果てて、叫ぼうにも声がつまって、とり乱して嘆かれ続け、火葬にも土葬にもしようとしない。そのあとは、子供の死顔に頬ずりしたり、手を握り締めてすごしていたようなのですが、とうとう気がおかしくなられ、まるで子供が生きているように振る舞うようになり、肉が爛れていくのを惜しんでは吸い、骨を舐めてと、とうとう食べ尽くしてしまったのです。

 本書には、さまざまな「鬼」が出てくる。もとは人だったのに、悲憎はげしくなるあまり、心を失った存在である。怖さの向こう側に、同情してはいけない哀しさがある。そこで人外となったものたちの中にある「鬼」は、まさにわたしの中にもあることに気付いてしまうから。


『あまりにも騒がしい孤独』

ボフミル・フラバル
河出書房新社
レビュー : [ブラック人生における光『あまりにも騒がしい孤独』]

あまりにも騒がしい孤独 シュールで、グロテスクで、滑稽で、美しい傑作。

 過酷であるほど、彼が大切に抱える光の愛おしさが伝わってくる。その輝きが、知的で美しい存在が、めちゃめちゃに潰されてゆくのを全身で感じる。本を読むのが好きな人ほど、苦痛と息苦しさを感じるだろう。なぜなら、彼の仕事は、運び込まれてくる本を圧縮機で潰し、紙の塊を作ることだから。

 本ばかりでない。食肉解体業者が運び込んでくる、蝿がたかった血まみれの紙も一緒に圧縮する。ゲーテと蝿、ニーチェと鼠が一体化された紙塊を、祭壇のように恭しく並べる。知的で美しいものと、醜怪でグロテスクなものが渾然一体となって、読み手の前に並べられる(ここで悲鳴をあげたくなる)。

 背景にはプラハの春がある。1968年にチェコスロバキアで起きた民主化運動で、ソ連の軍事介入により、文字通り「圧殺」された。大学教授をはじめとする知識人は職を終われ、言論の自由は奪われ、厳しい検閲と徹底的な統制を受けたという(この言論弾圧を「正常化」と呼んでいるのが最高の皮肉なり)。

 ブラック企業、ブラックバイトが現代なら、ブラック人生はこれだろう。価値あるものを(価値あるものだと分かっている人の手で)容赦なく潰す。そして、ブラック人生の中で光る、ささやかな抵抗や、大切な思い出が愛おしい。その描き方が、奇妙で興味深い。可愛い少女と人糞、肉蝿の黒雲とジプシー女のきれいな陰毛、憧れの人の生き方とその人の肉塊など、対照的な要素を並べることで、ビジュアル的に互いに引き立たせるように描いている。「絵にもかけない面白さ」とはこういうもの。この痛みと美しさは、小説でこそ堪能すべし。

 本書は、[キリキリソテーにうってつけの日]のowl_manさん、uporeke さんにお薦めされた一冊。素晴らしい本を教えていただき、ありがとうございました。また教えてくださいね。


『ウォッチメイカー』

ジェフリー・ディーヴァー
文春文庫
レビュー : [徹夜小説『ウォッチメイカー』]

ウォッチメイカー上ウォッチメイカー下

 未読の人は幸せ者の、徹夜小説。

 ミステリ好きの読書会で、「ジェフリー・ディーヴァー読んだことないです」と告白したら、憐れむような、羨ましいような目で見られつつ、これが最高傑作だとお薦めされた作品。ちなみに、最初に読むべき傑作は、『ボーン・コレクター』とのこと(レビュー : [『ボーン・コレクター』から始めなさい])。

 「ページを繰る手が止まらない」という評判は裏切らないジェットコースター・ミステリ。どんどん夢中に読み進めるうち、ガツン! とアタマを殴られる。

 え…? 今まで読んできたのは何だったの!? 先に進みたい欲望を抑え込み、いったん戻る。自分が追ってきたストーリーが、自分の目で見たまんまではなかったことに気付かされて叫びたくなる。鮮やかに、軽やかに、何度も何度も主人公を、読者を、そして犯人をも騙す。世界が塗り替わるような驚きと興奮にゾクゾクする、これは凄い!

 ストーリーに触れずに面白さを伝えるのはかなり難しいが、やってみよう。「ウォッチメイカー」と名乗る者が、残忍かつ精密な手口で犯行を重ねてゆく……対するは科学捜査の専門家リンカーン・ライム、四肢麻痺でベッドから動けない身体だが、現場検証のプロフェッショナルや、尋問のエキスパートとともにチームを組んで、微細証拠物件から犯人像を組み立て、仮説検証を繰り返し、徐々に追い詰めていく。

 その見えない駆け引きの「見える化」がとてもスリリングだ。一見バラバラに見える、複数の点と線がつながるとき、一種のカタルシスを感じるに違いない。

 だが、これだけでは半分も伝えていない。追うもの・追われるものの丁々発止だけでも徹夜を覚悟すべきだが、ガツン! と殴られるお楽しみはこれからだ。この、作者以外全員を騙す構造は、将棋の藤井四段に対する評が最も適している。これだ。

「性能の良いマシンが来ると聞きフェラーリが来ると思ってみてみたらジェット機が来たレベル」

 もうね、これ作者、全力で殴りに掛かっている。ボコボコにされ、物語にノックアウトされるべし。本書は[翻訳ミステリー大賞シンジケート]の読書会で強力にお薦めされた作品。ありがとうございます、『ボーン・コレクター』『ウォッチメイカー』どちらも徹夜小説でした!


『初情事まであと1時間』

ノッツ
KADOKAWA
レビュー : [エッチする直前こそが人生だ『初情事まであと1時間』]

初情事まであと1時間1初情事まであと1時間2

 pixivの[そんな夏休みを過ごしたいだけの人生だった]シリーズが、胸を抉る。大事なものが失われているのに、何もできずに見ているだけで、このままでいいのかというあせりと、このままでいいのだというあきらめと、本当に失われているのか、反対に手に入れているのではないかと思えてくる。

そんな夏休みを過ごしたいだけの人生だった by ノッツ on pixiv

 思い出とせつなさの琴線に触れまくる作者さんだなーと思っていたら、めちゃくちゃニッチなラブコメを出してくる。タイトルまんま「初エッチするまであと1時間」のカップルを描いた、シチュエーション恋愛オムニバス。ニヤニヤが止まらないまま進んでいくと、初々しさにほっこりしたり、健気さにほろりときたり、せつなさに撃ち抜かれる。

 これはいわゆる、倒叙型の亜種だね。ほら、『刑事コロンボ』のような、最初から犯人が分かっていて、探偵がアリバイやトリックを崩すやつ。こじらせ処女、腐らせ童貞、生命の危機など、エッチからほど遠い状況で、「あと45分」「あと9分」刻々と進むカウントダウン。2人が結ばれること、しかも「あと1時間」で初の一線を越えることが分かっている。

 そんな状況下で、どう着地させるか? どんなドラマがあるのか? 「あと1時間」という短い間に、2人の距離が揺れたり離れたり、意外な事実が明るみに出て、あれよあれよとくっついたり。手を変え品を変え、毎回楽しい。

 ぎこちなくて、かっこ悪くて、ちゃんとできないかもしれないエッチだけど、それでも真剣に向き合おうとする二人が良い。エッチはふたりでするものだし、お互いが協力しないとうまくいかないものだから。

 あるある・ないない・ドラマティックな「あと1時間」を堪能あれ。


『異形の愛』

キャサリン・ダン
河出書房新社
レビュー : [劇薬小説『異形の愛』]

異形の愛 これが一体、何の小説であるかに気づいたとき、二度と触れられなくなった。最初に本書を手にしたとき、まだ幼いわが子と重なってしまい、先に進められなくなってしまった。

 それから何年も経ち、ようやく読めるようになった。あのとき続きを読んでたら、致死性の毒にやられていただろう。

 これは、巡業サーカスの家族の物語。団長であるパパは、薔薇の品種改良に想を得て、わが子の品種改良を試みる。すなわち、子どもが「そのままの姿」で一生食べていけるよう、意図的に畸形を目指すのである。ママの排卵と妊娠期間中、コカイン、アンフェタミン、それに砒素をたっぷり摂り、殺虫剤のブレンドから放射線まで試す。

 そうして生まれてきたのは、腕も脚もないアザラシ少年(サリドマイド児)の兄、完璧なシャム双生児の姉、一見フツウだが特別な力を持つ弟、そして、アルビノの小人の「わたし」である。物語は「わたし」によって導かれ、過去と現在を行き来しながら、家族への愛が語られる。

 見世物のキャラバンでは、フリークスこそが望まれ、フツウは入れない世界なのだ。他にも、家族の外から入り込んでくる変人が現れるが、五体不満足を目指す動機が無残としかいいようがない(袋男のエピソードは強烈である。注意して読まれたし)。

 価値観は転倒しているにも関わらず、その愛は正当なものだ。歪んでいるのは、そう見ている読み手であるわたしであることに気づく。その身の捧げ方がいかに特別なものであっても、やっていることは狂気としかいいようのない行為であっても、名付けるとするならば、愛としかいいようがない。

 異形たちの愛にフツウの愛を感じるのはなぜか。自分は「大丈夫」だと信じたいのか? 読めば分かる。試すつもりで読むといい。

 きれいはきたない、きたないはきれい。闇と穢れの中を読み進め。


ノンフィクション


『土木と文明』

合田良実
鹿島出版会
レビュー : [『土木と文明』はスゴ本]

土木と文明 土木から見た人類史。めちゃくちゃ面白い。

 土木工学とその影響という切り口で世界史を概観する。テーマは、都市、道路、橋、堤防、上下水道、港湾、鉄道などに渡り、テーマごとに豊富な事例で紹介する。土木技術の発展なしには文明も発達せず、また文明の発展につれて土木技術も発達してきた。そうした土木工学と文明の関わりを歴史的に串刺しで見ることができる。

 大きなものから小さなものまで、人が手がけてきた土木事業は、それこそ星の数ほどある。それをどうやって整理するか。本書は、そのとき直面した問題(治水、防衛、流通、疫病対策等)と、利用できるリソース(人・技術・時間)、そして成し遂げられた結果(土木事業)という観点で整理しているのが素晴らしい。

 面白いことに、問題と対策という視点で眺めると、時代や地域を超えた普遍性が現れてくる。異なる時代・地域の人々が、それぞれに知恵を絞り、そのときに手に入るリソースを駆使した結果、きわめて似通った構造物ができあがる。

 人の営みの不変性が、土木事業の普遍性につながる。どの時代であれ、人は水や食べ物を確保し、便利で安全な生活を求め、より良いものを作ろうとする。当たり前のことなのかもしれないが、土木という共通面で見せられると、一種の感動すら覚える。

 たとえば、水道。紀元前の中国の王朝、秦国で建設された灌漑水路と、人類最古の水道として残されているカナートが、原理的に同じ工法である。すなわち、丘の上から何本もの竪穴を掘り下げ、指定した深さに達したところで左右に横穴を掘り進めて水路として連結させるのだ。こうすることで、複数のチームで同時にトンネルを掘ることができる。さらに、地下水路に崩れ落ちる土砂を浚うメンテナンスの通路にもなるメリットがある。この工法は、重力に対して水平になろうとする水の性質を上手に利用しているといえる。

 あるいは、都市の形。人類史のある時期まで、要塞都市は、半島の内陸部に巨大な城壁を建造し、海側を天然の守りとした「自然+人工」の構成となっていた。しかし、大砲を用いた遠距離砲撃技術の発達により一変する。15世紀、メフメト二世は、コンスタンチノープルの攻略戦に際し、前線に巨大な大砲を据え付け、砲弾の威力でもって大城壁を破壊してしまう。これは、城塞守備の常識を打ち砕く大事件であり、以降の都市設計が一変する。すなわち、要塞の平面形状を変えて要所要所に角部(稜角)を突出させ、そこに大砲を備え付け、攻撃側の大砲を撃破する構造になる。それまでの「自然+人工」ではなく、八角ないし円状に近い要塞都市を目指すようになったというのだ。

 文明は自然に抗いつつ従う。そのブレイクスルーが技術であることが分かる。土木から歴史を眺めると、人類レベルでの普遍性に気付くことができる。本書は、mitimasuさんのつぶやきのおかげ。素晴らしい本を教えていただき、ありがとうございます。


『旅をする木』

星野道夫
文春文庫

旅をする木 星野道夫のエッセイ。さらりとした筆致なのに、いつまでも心に残りつづける。

 いい本を教えあうサイト[シミルボン]で、「これ読んでいないなんて、人生損している」「この本を読まずに死んだらもったいない」という本を募集したところ、これが一番だった。

 なぜなら、幸せとは何か、知らずに死んだらもったいないことが、よく分かるから。このエッセイに触れているあいだの濃密なひとときは、得難い経験だから。アラスカの自然を、そこで暮らす人たち込みで淡々とつづった、遠い友人からの手紙のように読めるから。

 星野が語る場所と、わたしが生活するあくせくとした日常は、別の時間感覚が流れていることは分かる。だけど、面白いのは、そことわたしの居場所が、空間続きなところ。いわゆる「地続き」の延長だと思ってもらえばいい。大陸が離れていても、時間も違っていても、空間的につながっているのだ。

 ただそれに気付きさえすれば、「あくせくした日常」からふっと目を離し、心をそちらに放すことができる。沈む夕陽を見たり、山嶺を眺めたりしなくても、いつでも心は自由になれるという、あたりまえのことが分かるのだ。そして、これが触ることのできる幸福だと言っていい。

 幸福とは、いま生きていることをありありと実感することであり、それを、読み手の世界の延長上にある、異なる世界での生き様を見せることで伝えてくれるから。世界と「わたし」がつながっていることを、これほど端的に伝えてくれる一冊は珍しい。

 「読まずに死んだらもったいない」一番はこれだけど、ベスト5はこちらをどうぞ[読まずに死んだらもったいない]。これは、プロデュースしてくれたカトケンさんのおかげ。良い出会いをありがとうございます。

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『性食考』

赤坂憲雄
岩波書店
レビュー : [食う寝る殺す『性食考』]


性食考 食べること、セックスすること、殺すこと。これらは独立しているのではなく、互いに交わり重なり合っている。「食べちゃいたいほど、愛してる」という台詞を起点に、古事記と神話、祭りと儀礼、人類学と民俗学と文学を横断しながら、人の欲の深淵を覗き見る。ぞくぞくするほど面白い。

 著者は民俗学者。引き出しを沢山もっており、バタイユやレヴィ=ストロース、デズモンド・モリスや柳田國男などを次々と引きながら、性と食にまつわるさまざまな観点を示してくれる。おかげで、わたしの引き出しも次々と開かれることとなり、読めば読むほど思い出す読書と相成った。

 たとえば、入口の「食べちゃいたいほど、愛してる」は、センダック『かいじゅうたちのいるところ』から引いてくる。いたずら小僧のマックスが、罰として寝室へ追いやられるところから始まる夢と空想と「かいじゅうたち」の物語。その愛のメッセージを引いてくる。

 そして、食と愛が、実に近しいところにあることを示す。たとえば、人間行動学の『マンウォッチング』にある、食べるための唇とシンボルとしての唇の話である。つまりこうだ。直立歩行するヒトにとって、雌が成熟し発情しているかどうかを示すディスプレイ部位が、お尻や陰唇から、おっぱいや唇に成り代わったという話だ。甘噛みにも示されるように、愛情表現のキスとは、摂食行為の代替なのだ。

 さらに、古代中国の伝説を集めた『捜神記』から、ペニスをむさぼり喰らう、もう一つの秘められた口の話から、有歯女陰(ヴァギナ・デンタタ)の事例を世界中に探す。「女に飢える」や「性欲の渇き」という言葉や、愛の行為としての「甘噛み」、そしてキスなど、食べることと愛することは、重なり合っている。レヴィ=ストロースは「狂牛病の教訓」のなかで、世界のすべての言語がセックスを摂食行為になぞらえている、と書いていたという。やっていることは即ち、肉を喰らう肉であるため、文化を問わずそういう隠喩をまとうのだろう。

 種の保存行為としての食と性は、わたしたちの視床下部に隣り合っているだけでなく、文化の中にも、驚くほど交わりあっている。あたりまえのように感じていた行為や文化も、実はもっとプリミティブな動機があったことに気付かされる一冊。


『虚数の情緒』

吉田武
東海大学出版会
レビュー : [『虚数の情緒』はスゴ本]

 一言なら鈍器。二言なら前代未聞の独学書。中学の数学レベルから、電卓を片手に、虚数を軸として世界をどこまで知ることができるかを追求した一冊。

Kyosuu

虚数の情緒 「スゴ本」とは凄い本のこと。知識や見解のみならず、思考や人生をアップデートするような凄い本を指す。ページは1000を超え、重さは1kgを超え、中味は数学物理学文学哲学野球と多岐に渡る。中高生のとき出合っていたら、間違いなく人生を変えるスゴ本になっていただろう。

 ざっと見渡しても、自然数、整数、小数、有理数と無理数、無理数、素数、虚数、複素数、三角関数、指数、関数と方程式、確率、微分と積分、オイラーの公式、力学、振動、電磁気学、サイクロイド、フーリエ級数、フーコーの振り子、波動方程式、マックスウェルの方程式、シュレーディンガー方程式、相対性理論、量子力学、場の量子論を展開し、文学、音楽、天文学、哲学、野球に応用する、膨大な知識と情熱が、みっちり詰め込まれている。

 それも、教科書的な解説とは180度ちがう。日本の知力と品性を憂い、勉学の喜びを熱く語り、あらゆることに疑問を持ち、学び考えよと説く。「本書を疑い、自分自身を疑え」とまで言い切る。大上段な振りかぶりと、時折はさむオヤジギャグが鼻につくが、これほどエネルギッシュな独学書は初めてだ。

 電卓を叩いて表を作り、手計算で項をまとめ式変形をする。そんな実際的な計算を続けていくうち、虚数という存在や輪郭が、次第次第に明瞭なものとなり、手で触れるぐらいの近しいものとなってくるという仕掛け。数学と天文学と物理学の歴史を振り返りながら、人類が世界をどのように抽象化していったかを、きわめて具体的な計算によって炙り出す。それが、本書の狙いなのだ。

 ど真ん中が圧巻だ。全数学の合流点として、自然対数eの虚数乗を求め、虚数単位を指数で表す。虚数の虚数乗を求め、幾何学との関係を探り、三角関数を経てオイラーの公式につなげる。人類の至宝とも呼ばれるオイラーの公式eiπ=-1を、電卓で捻じ伏せるところなんて凄まじい。

 本書は、404 Blog Not Found の小飼弾さんの[伝われ、i - 書評 - 虚数の情緒]で俄然読む気になり、挑戦と挫折を繰り返し、よしおかさんの[虚数の情緒読了:バーチャル読書会やりたい]でブーストして、ようやく最後まで行けた。小飼さん、よしおかさん、ありがとうございます。こんなすごい本にめぐりあい、知る喜び(と苦しみ?)を味わうことができ、本当に感謝しています!


『神は数学者か』

マリオ・リヴィオ
ハヤカワ・ノンフィクション文庫
レビュー : [『神は数学者か』はスゴ本]

神は数学者か 科学の本質を、数学という断面で斬った一冊。

 刺激的なタイトルとは裏腹に、数学の本質について慎重に答えようとする。すなわち、数学とは「発見」されたものか、それとも「発明」されたものかという疑問に対し、数学と科学の歴史を振り返りながら接近する。

 まず、数学は「発見」されるものという立場から。人は世界を観察し、そこから一定の規則を見いだしてきた。抽象化された規則を記述するための言語が、「数学」である。惑星の運動に関するケプラーの法則や、ニュートンの力学方程式は、物体の運動を正確に示すことができる。人類の身長と体重、株式指数の年間利益率も正規分布に従う。世界の諸現象に対し、不条理なほど超越的にあてはまるのが、数学なのである。

 さらに、数学に対しプラトンのイデア論を挙げたり、「神は数学する」「宇宙とは数学そのものだ」と結論づける論者も登場する。こうした人々にとって、数学とはミケランジェロの「大理石の中のヴィーナス」や漱石の「仁王像を彫る運慶」のようなものかもしれない。数学は不変かつ究極的な存在であり、それは大理石という世界の中に埋まっている「美」ともいえるだろう。

 次に、数学は「発明」されたものとする考え方。非ユークリッド幾何学が誕生する経緯が象徴的だ。きっかけは、ユークリッドの第5公理を他の公理に置き換えるための試みだったという。しかし、その試みがことごとく失敗したため、幾何学者は公理の「正しさ」を疑い始め、別の公理体系を考え始める。そして、空間を記述する数学として、ユークリッド幾何学が唯一でないことに気づき、「非ユークリッド幾何学」を構築してしまう。

 世界を記述する唯一で必然の体系が、「ルールの一つ」だと認識されると、数学は、様々なルールを「選ぶ」ことで演繹体系を作り上げるというゲームのようなものになる。かつて、ユークリッド幾何学は自然界そのものだった。しかし、別のルール(公理)を選ぶことで別の幾何学を構築できるというのであれば、数学は世界から見つけ出すものではなく、人が決めた約束事にすぎなくなる。

 すなわち、数学は、ア・プリオリな直観でも実験的な事実でもなく、人の想像力が作り出した巧妙な発明なのだ。もし「神は数学する」とすれば、神はどの数学を選んだのか? と反問できる。

 さらに、マイケル・アティヤやジョージ・レイコフを引きながら、人が物質世界の要素を理想化・抽象化することで、数学を構築したという主張を紹介する。

 たとえば、「数を数える」という行為は自然なものに見えるし、「自然」数("natural" number)なんて、原始的な概念に思えるが、それはあくまで人にとっての話。不連続な量が発生する世界に身体を持つ存在にとって「自然」な行為なのである。「人は数学をどのように理解しているのか」に着眼すると、人が世界をどのように理解しているかが見えてくる。

 人は世界を理解する際に、モデル化・数式化するのに便利な言語として、数学というツールを選択的に用いている。微積分や確率・統計、幾何学といった数学的ツールは、適当に選ばれたのではなく、実験や観測の結果をモデリングできるよう、試行錯誤を重ね、意図的に選ばれている。その時代のパラダイムに適う数学が、「発見」されたり「発明」されてきたのが、科学の歴史だとも言える。

 だから、自然科学(特に物理学)が数学的に「正しい」のは、あたりまえのことかもしれぬ。ある意味、科学者たちは数学で解決できそう問題を選び出し、研究してきたのだから。そして、知りえない世界を発見するために、新たな数学を発明していくのだから。


『大人のための国語ゼミ』

野矢茂樹
山川出版社
レビュー : [事実のフリした意見を見抜く、隠れた前提を暴く、核心を衝く質問をするトレーニング『国語ゼミ』]

国語ゼミ きわめて実践的な論理トレーニング。

 「この仕様変更を2週間で吸収するけど、残業増か休出か、今日中に回答できる?」なんて質問がよくある。ありすぎるほどある。そして、仕事でワリ食ってる人は、これに「はい」か「いいえ」で答えている人である。

 なぜなら、この類の質問に潜む、「隠れた前提」に気付かないから。この質問に答える前に確認しておくべきことがある。それが隠れた前提だ。「変更を吸収する」「2週間で」「残業増か休出の2択」がそれにあたる。そもそもその変更に対応することが決定されたのか? なぜ2週間なのか? 人員増なり変更を分散する選択肢はないのか? 等など。

 これらの疑問がクリアになったうえで、ようやく「今日中に回答できるか?」について議論するべきなのに、そこをすっ飛ばして「はい」「いいえ」で答えようとしてはいけない。にもかかわらず、答えようとしているということは、これらの「隠れた前提」を受け入れたことにされてしまうのだ(自覚のあるなしにかかわらず)。

 議論を始めるにあたり共有すべき事実・考え方(前提)と、そこで論じるべきことがら(主題)があり、往々にして「主題」ばかりに目が行きがちである。狡猾な人は主題となるべき事柄を、さも前提のように語り、その土俵に乗ったという事実でもって、前提が受け入れられたとする。このやり方が、p.59にさらりと書いてある。

 本来は、単なる意見にすぎないことを前提に「まぶす」ことによって見えなくさせ、隠れた前提でもって土俵を作り上げる。乗ったら負け、という土俵なり。狡猾な人は、断定的に、自信満々に言い切る。そして、土俵に乗らない人を無知呼ばわりする。思い当たる人、ありまくり。

 では、どうすればよいか? p.62 「決めつけをはずす」に丸々一節を費やして、練習問題つきで書いてある。そう、本書は、問題集なのである。

 著者は野矢茂樹氏。スゴ本『論理トレーニング101題』を書いた人だが、より噛み砕き・丁寧にしたのが、『国語ゼミ』になる。論理力は感性ではなく訓練で身につく。「解説書なんかいくら読んだって論理の力は鍛えられない。ただ、実技あるのみ」のとおり、やればやった分だけ向上する。相手の立論を正しく読み取り、その論証を批判的に捉えるための、地道なトレーニングを具体化したのが、これである。

 本書の構造をまとめると、以下になる。

  1. 事実と意見を見分け、隠れた前提を見つける訓練(1-2章)
  2. 言いたいことを整理して、効果的に伝える訓練(3-5章)
  3. 「理由」「原因」「根拠」を分けながら、的確な質問をする訓練(6-7章)
  4. 論証の構造を明確化し、メリ/デリを示し、適切に反論する訓練(8章)

 ひたすら、楽しく、トレーニングしよう。100冊の解説書を読むよりも、1冊の本書を自分の手で解こう。今回はノート不要、直接書き込めばよろしい。エンピツだけを準備して、ひたすら解こう。なぜなら、論理力は感性ではなく訓練で身に付くのだから。


『勉強の哲学』

千葉雅也
文藝春秋
レビュー : [東大・京大で『勉強の哲学』が一番売れている理由「勉強するとキモくなる」]

勉強の哲学 「勉強とは何か?」を根源的に考えた一冊。一言なら「勉強とは変身だ」である。

 巷に数多のノウハウ本ではない。意識高い系の自尊心をくすぐる本ではない。勉強するとはどういうことか、勉強することで何が起きるのかを、言語と欲望の問題にまで踏み込み、掘り下げる。

 議論のバックグラウンドに、フーコーの権力システム、ドゥルーズ&ガタリの脱コード化、さらにウィトゲンシュタインの言語観をも引き込んでいるが、咀嚼しきった上で原理的に考え抜く、その知的格闘が面白い。

 勉強すると何が起きるのかを考える際、勉強する「前」はどうなっているかに着目する。自分が話す(=考える)言葉やコードは、そのときに自分がいる環境に依存しているという。半径5mの仲間や学校、家族、手元の端末のSNS、マスコミ、社会などから、「こうするもんだ」というコードにノッて話し、考え、行動する保守的な状態だという。

 それが、勉強することにより、慣れ親しんだ「こうするもんだ」から、別の「こうするもんだ」に移行する。集団的なノリに共感できなくなったり、あるいはそうであった自分を客観視するようになる。この「場」から浮いた感覚や言葉が自分をキモくさせるというのだ。

 勉強により、言葉が拡張する。今まで使っていた同じ言葉とは別の意味を持つことに気づく。この「違和感」が重要だと説く。言葉の手触りというか、透明度の違いのようなもの。わたしの例だと、「無限」だな。数学をやりなおして無限は計算できることを教わった(数学と数学論のあいだ『数学ガール/ゲーデルの不完全性定理』)。さらに、無限に大小があることを知った(大人のための数学『無限への飛翔』)。最初は、会話で使う形容的な「ムゲン」と数学的に定義された複数の「無限」の収まりの悪さを感じ、次に、そのズレを意図的に使い分けるようになった。勉強により、自分「が」キモく感じると同時に、自分「を」キモくさせていることに自覚的になる。

 勉強により、自己を言語的にバラす。これまで囚われていた環境のコードを疑って批判する(アイロニー)手法と、コードに対して意図的にズレようとする(ユーモア)手法により、自己破壊と拡張・メタ化を行うというのだ。その結果、発想の可能性を狭めていた環境のノリから離れ、別の環境、他の次元の発想が考えられるようになる。著者曰くこれが「賢く」なるということだ。

 勉強するとはどういうことか、勉強することで何が起きるのかを深く知れば、「なぜ勉強するのか」の答えは自ずと見つかる。勉強とは、変身だ。勉強しよう。


『土と内臓』

デイビッド・モントゴメリー
築地書館
レビュー : [『土と内臓』はスゴ本]

土と内臓 人体をトポロジー的に見ると、消化器官を中心とした「管」となる。もちろん胃や腸には逆流防止のための弁が備えられているが、位相幾何学的には「外」の環境だ。

 この見方を推し進め、内臓をぐるりと裏返しにしてみる。くつ下を裏返すように、内側を外側にするのだ(このグロい思考実験は、クライヴ・バーカーのホラー小説でやったことがある)。裏返しにされた小腸や大腸を見ると、そこに植物の根と極めてよく似た構造と営みを見出すことができる。「水分や栄養素を吸収する」相似だけでなく、そこに棲む微生物との共生関係により、健康や成長面で重要な物質がやり取りされている。根と腸は、微生物とのコミュニケーションや分子取引をする市場なのだ。

 本書の結論は、微生物を中心とした人体の腸と植物の根の相似型であり、これに頭をガツンとやられた。ばらばらに得てきた知識が本書で一つにまとまるとともに、わたし自身が囚われていた先入観がぐるりと―――そう、くつ下を裏返すようにぐるりと逆転されたから。

 原題は "The Hidden Half of Nature" 「隠された自然の半分」になる。目に見えるものが自然(nature)の全てではない。小さすぎて肉眼では見えない微生物や、地面や体内に隠れている根や内臓に光を当てることで明らかになる本質(nature)こそが重要なのだ―――そんなメッセージが込められている。

 土に隠された半分として、「根圏」が紹介される。植物の根の分泌物と土壌微生物とによって影響されている土壌空間のことだ。そこでは、根細胞から糖質が豊富な化合物が分泌され、微生物の餌となる一方で、植物にとって有益なミネラルが微生物によってもたらされる。

 たとえば、クローバーや枝豆の根にある根粒菌が微生物と共生し、窒素化合物を生産することは知っていたが、常識が書き換えられてゆく。というのも、最近の研究によると、窒素化合物だけでなく、リンの80%、亜鉛の25%、銅の60%は菌根菌が運んでいる報告がされている。根は、単純に養分や水分を吸収するだけでなく、植物にとって不可欠なフィトケミカル(植物栄養素)を生産する場所でもあるのだ。

 体内に隠された半分として、「内臓」それも腸に焦点をあてると、驚くほどよく似た世界が現れる。そこでは、栄養分や水分を吸収するだけでなく、そこで一種の生態系を成している腸内細菌とのやりとりを通じて、生きていくために必要な栄養素を生成していることが見えてくる。小腸の内側は絨毛と呼ばれる繊維状の小さな突起で覆われており、植物の根毛のように表面積を何倍にも増やし、栄養吸収を大幅に向上させている。

 そして、同時にそこは微生物たちの餌場でありお花畑(腸内フローラ)なのだ。ヒトは食べたものを吸収しているだけでなく、「ヒトが食べたもの」を食べる微生物の代謝物をも吸収している。生体リズムや睡眠に重要な働きをするセロトニンは、脳よりも腸の微生物群で生成されるほうが多いと聞いたことがある。それだけでなく、腸内細菌は、ドーパミンや短鎖脂肪酸、各種のビタミンを合成している。これらは、健康にとって不可欠でありながら、ヒト単体では生成することができない。

 つまり、「わたし」とは、こうした微生物群をもひっくるめて、「わたし」なのである。根と腸、科学と歴史、医療と病気、見えている半分と隠された半分が、「微生物」というキーで一気通貫する。世界の見え方をも変えるスゴ本。


2017ベスト


『アイデア大全』『問題解決大全』

読書猿
フォレスト出版
レビュー :
[読書猿『アイデア大全』はスゴ本]
[読書猿『問題解決大全』はスゴ本]

アイデア大全問題解決大全

 これ、「2017年ベスト」としたけれど、今年に限らず一生モノ。そして、読んだら終わりではなく始まり。じゃんじゃん利用して、ボロボロになるまで使い倒すツールだと考えたほうがいい。

 それも、過去の人類の知恵を結集した虎の巻になる。哲学、歴史、経済学、人類学、数学、物理学、心理学、生物学、文学、宗教、神話、そして学際研究の分野で培われ、「これなら使える!」レベルにまで噛み砕かれ、適用例と注意点つきで紹介されている。仕事や学業の現場から家庭や個人の範囲まで当てはめることができる。

 『アイデア大全』には、創造力とブレイクスルーを生み出す42のツールが紹介されている。本書を読むことで、いわば42の新しい目を手に入れることになる。本書が類書と違うのは、「アイデアの求められ方」によってツールを使い分けている点にある。

 すなわち、「0を1にする」プロセスと、「1をnにする」プロセスを分けている。更地の、何もないところから生み出す方法と、所与のコアから展開していくやり方と、明確に分けて構成されている。おかげで、抱えている問題について、どれくらい把握しているかによって、アプローチを切り替えることができる。アイデアツールは沢山あるが、闇雲に試行錯誤するより、ずっといい。

 さらに面白いのは、アイデアを生むノウハウだけでなく、その基底にある心理プロセスや思想的な背景にまで踏み込んでいるところ。認知科学からの裏づけや歴史的経緯を説明することで、「新しい目」の(科学的・歴史的)位置づけと方向性が見えてくる。

 つまり、いま抱えている問題について、「どうすべきか」という答えだけでなく、答えを導くアプローチを通じて、どう位置づけられ、「どうあるべきか」までを省みさせる目論見を垣間見ることができる。役立つだけでなく、ものすごく志の高いガイドブックなのだ。

 『問題解決大全』は、人が抱くあらゆる問題―――煎じ詰めれば「~したい」と思うこと―――を実現するための37の解決技法が紹介されている。著者は、問題に気づき、その解決のために自分の行動を計画し、実行することは、人の能力であり、同時に人が人たる条件なのだと言い切る。ここ痺れるところなり。

 よく生きようと努力することが、人の本質なのだと改めて思い知らされる(この、"よく"は、「善く」「良く」「好く」そして「欲」と、人によりけりだが)。どう生きるかは人それぞれだが、「よく生きる」ことは、あらゆる人の、どんな状況にも当てはめることができる「問題」なのだ

 さらに、本書が凄いと感じるのは、技法を大きく二つに分け、「リニアな問題解決」と、「サーキュラーな問題解決」にしているところだ。

 リニアな問題解決とは、直線的な因果性を基礎に置く問題解決であり、理想と現状のギャップを何らかの形で埋めたり、より「上流」の悪原因を取り除くことを目的とする。解決者は、問題の外側から分析し、必要なリソースも問題の外から供給される。

 いっぽう、サーキュラーな方はより複雑だ。解決する人もまた、問題を構成する因果のループの中に組み込まれている。問題を問題たらしめている要素もまた、因果ループの中で再生産しており、必要なリソースも解決すべき問題として考慮しなければならない。技法としては、因果ループにゆさぶりをかけるため、例外や逸脱を強めたり、逆説的に介入する手段が紹介されている。ここまで丁寧&簡潔にまとめているのは、本書が初だろう。

 『アイデア大全』と『問題解決大全』、どちらも強力にお薦めする。ただし、読んだら終わりではなく、始まりにすぎないことをお忘れなく。ここは、まなめ王子の金言を引く。本書は、誰にでもお薦めできる、数少ない「よい本」なのだから。

 よい本で、よい人生を


スゴ本2018

 来年は何を読む?

 「あとで読む」は、後で読まない。読みたい本、再読したい本、読まねばならぬ(と言い聞かせている)本がある。古井由吉をもっと読みたい。リチャード・パワーズ読書会の準備をせねば。ハッキング『数学はなぜ哲学の問題になるのか』、ノース&ウォリス&ワインガスト『暴力と社会秩序』を読みたい。宇宙に生命がいる前提で、『宇宙生命論』を読みたい。スプラトゥーン2オフしたい。オイラーの美しい式を理解したい。ナボコフ『アーダ』は読めるのか!? 人生は有限だから、いま読むべきものを読もう。

 そして、新しい本を、新しいからという理由だけで追いかけないように。時に淘汰されていない新刊本ばかりありがたがるのはやめよう。「新刊本しか読みません」ということは、「私は時間を信用していません」と一緒だ(でも思わず手にとってしまう性が憎い……)。

 他にも、[スゴ本オフ]もやりたいし、他の読書会にもっと参加したい。本が好きな仲間をもっと増やしたい。これを読んでいるあなたがそうだ。そして、あなたのお薦めを教えてほしい。ブログのコメントでも、twitter[@Dain_sugohon]からでも、歓迎します、ぜひ。

 なぜなら、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから。

この本がスゴい!2016
この本がスゴい!2015
この本がスゴい!2014
この本がスゴい!2013
この本がスゴい!2012
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この本がスゴい!2005
この本がスゴい!2004

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読書猿『問題解決大全』はスゴ本

 一生役立つ一冊。

 これ、言い切っていいと思うが、わたしが直面するあらゆる問題は、検討済みである。

 新しい問題なんてものはない。「問題」をどの抽象度で定義するかにもよるが、新しく「見える」だけで、分析してみれば、分解してみれば、裏返してみれば、再定義すれば、古今東西の人たちがすでに悩み、検討し、着手し、対処してきた問題であるにすぎぬ。

 ただし、対応する人にとってみれば、それは新しい問題である。または、初見の状況に直面することもある。だが、人や状況が違えども、問題そのものは、ほどいてみれば、既出なのだ。新しい状況下で、新しい人が、既出の問題を解き直しているといえる。

 そして、問題を解決するための方法もまた既出である。わたしが知らないだけで、古今東西の人たちがすでに考え抜いている。ある手法は学問分野になっていたり、またある方法はライフハックやビジネスメソッドになっていたりする。規制や法制度化され、社会常識やルールのように見えていても、それは昔の人が編み出した解決法が化けている場合もある。

 そんな先人の知恵を借りないわけがない。「自分のアタマで考えろ」と言う人がいるが、その方法は先人に学ぼう。車輪をもう一度発明する必要はない。ハードルを乗り越える/潜り抜ける/別のものに変えるツールは、既にある。

 そして、世にある有用なツールを集大成したものが本書である。

 哲学、歴史、経済学、人類学、数学、物理学、心理学、生物学、文学、宗教、神話、そして学際研究の分野で培われた問題解決技法が、37のツールに結集している。アイザック・ニュートンは、先人の研究に基づいて新たに発見することを「巨人の肩の上に立つ」と言ったが、本書を用いることで、「巨人たちの肩の上に立つ」ことができる。既に考え抜かれてきた技法を利用することで、新しい問題を、既出のものと扱うことができるのだ。

 本書が一生役立つ理由として、「問題解決」を分かりやすく定義していること。学問やビジネスの問題から生殺与奪の問題、夫婦喧嘩や心身の悩みなど、問題には、大掛かりなものから個人的なものまで沢山ある。だが本書ではシンプルに、「問題解決とは、"~したい"と思うことを実現すること」だという。

 問題に気づき、その解決のために自分の行動を計画し、実行することは、人の能力であり、同時に人が人たる条件なのだと言い切る。ここは痺れた。よく生きようと努力することが、人の本質なのだと改めて思い知らされる(この、"よく"は、「善く」「良く」「好く」そして「欲」と、人によりけりだが)。これは、一生のどのような状況でも当てはめることができる「問題」だ。

 また、本書が類書と大きく異なるのは、そうした技法を漫然と並べるのではなく、技法の各々が相互に参照・影響しあい、人文知を作り上げていることが立体的に分かるように書いてあるところ。歴史上のそれぞれの現場で問題に取り組んだ軌跡が、脚注の人物、書籍、キーワードのノードでつながり、さらに巻末の年表で時系列に通貫していることが、読めば分かるように構成されている。これは、著者である読書猿さんが、人文書を目指して書いている志の高さの現れだろう。

 さらに、本書が凄いと感じるのは、技法を大きく二つに分け、「リニアな問題解決」と、「サーキュラーな問題解決」にしているところだ。

 リニアな問題解決とは、直線的な因果性を基礎に置く問題解決であり、理想と現状のギャップを何らかの形で埋めたり、より「上流」の悪原因を取り除くことを目的とする。解決者は、問題の外側から分析し、必要なリソースも問題の外から供給される。

 いっぽう、サーキュラーな方はより複雑だ。解決する人もまた、問題を構成する因果のループの中に組み込まれている。問題を問題たらしめている要素もまた、因果ループの中で再生産しており、必要なリソースも解決すべき問題として考慮しなければならない。技法としては、因果ループにゆさぶりをかけるため、例外や逸脱を強めたり、逆説的に介入する手段が紹介されている。ここまで丁寧&簡潔にまとめているのは、本書が初だろう。

 37の技法は読んでくれとしかいいようがないが、きっと役に立つ技法が必ずある。

 なぜそう言えるか?

 なぜなら、わたしが、何年もかけて効果を出しているやり方が紹介されているから。わたしは、様々な本を読み、自分の痛い経験を通じて身につけてきたが、その技法に名前があることを、本書で初めて知ったから。

 その中から、ふたつ紹介しよう。

 ひとつめは、リニアな問題解決にある、「100年ルール」という技法。問題を前にしたとき、不安で仕方がないときに、「これは100年後も重要なことか?」と自問する方法だ。100年が極端なら30年や5年にしてもいい。本書では、「問題との距離をとる」ことが重要だと説く。

 わたしはこれを、リチャード・カールソン『小さいことに、くよくよするな』と、ランディ・パウシュ『最後の授業 ぼくの命があるうちに』で学んだ。イライラしたときのライフハックとして、あるいは、(主に仕事上の)悩み事から距離を置くために編み出した。ほぼ日手帳(文庫サイズ)を使う。

 まず、ほぼ日手帳を携帯する。嫌な事や悩み事が思考にまとわりつき、ずっとそのことばかり考え始めると、いったん手帳に書き出すのだ。不安の原因→結果の心配→さらなる不安のネガティブループを、そのまま吐き出す。そして、来年までこれで悩んでいるだろうかと自問する。一年経つと、一冊溜まることになる。

 そして、ほぼ日手帳を2冊携帯するのだ。「今年の手帳」と「昨年の手帳」を一緒に持ち歩く( 文庫本サイズである必要性はここにある)。そして毎日一度、昨年の手帳の「今日」を開いて、その時のお悩みを読み返してみる。「あんな時代もあったねと、いつか笑って話せる」には少し早いが、1年置くと、たいていの問題は無害化している。ほとんどが解決済み、もしくは取るに足らない問題でしかなく、極端なやつになると、何だったのか思い出せないものさえある。

 それでも、残り続けるものがある。形を変えて何年も何度も登場する。「残る」問題は課題化し手帳の見開きに転記している。ここ10年続けて、わたしのほぼ日手帳の第一ページに記された課題はこれだ→「まず体調。栄養と睡眠をとり、意識して体調を良くせよ」。毎日わたしが「問題」と感じるものの大半は、栄養と睡眠を意識的に取ったあとに相対すると、より問題化が和らいでいる。

 ふたつめは、サーキュラーな問題解決である「リフレーミング」。事実を変えるのではなく、そこから得られる意味を変えるという試みである。たとえば、ものは言いようというやつで、他者の評価を(自分の中で)変える言葉がある。あるいは、「よかった探し」や「ネガティブをポジティブに言い換える」というやり方だ。自分が、どのような認知に則っているかに、自覚的になる訓練だ。

  落ち着きがない→活動的
  デブ→(男)貫禄がある・(女)ぽっちゃり
  怒りっぽい→ 感受性が豊かな
  わがまま→妥協しない
  優柔不断→慎重
  しつこい→粘り強い
  協調性が無い→独立心が強い

 わたしは、このリフレーミングという手法を「妻の怒り」について適用していた。

 つまりこうだ。妻が怒り狂うとき、わたしは会話によってその原因を追求し、解消しようと努めていた。怒りの原因となるものがあり、それが怒りという結果を引き起こしているのだと信じていた。

 だが、それは間違っていた。いやむしろ、「怒りの原因を分析する」ことは、妻の怒りを劇化する一因となっていることに気付いた。「なぜ怒っているのか」「どうしたらその怒りの原因は解決するのか」について、ノートに詳細に洗い出し、分析し、論理的な対応付けしようとする行為そのものが、妻の怒りを増幅させる原因となっていることが、長期間のサンドバック状態を経て、ようやく分かった。

 そして、妻の「怒り」を再定義できないかと考えた。つまり、妻が怒っているとき、その怒りの原因の「何か」ではなく、別の感情が元にあり、その二次的な表出として「怒り」があるのではないかと仮定したのだ。たとえば、心配、苦痛、寂しさ、不安、残念、苛立ち、空腹といった感情や欲求不満的な状況が元にあり、それが「怒り」という形になっているに過ぎないと考えたのである。

 妻の「怒り」の意味づけを変えれば、対応が見えるようになった。怒りの予備動作の前に、妻がどのような状況なのかを判断し、その感情を増幅させるように相づちを打つのだ。すなわち、その怒り(の裏側にある感情)はもっともであり、もっと大げさに訴えてもいいものであり、そうなるのも当然だと同意するのである(たとえその矛先がわたし自身でも!)。妻は、怒りの因果ループにゆさぶりをかけられ、拍子抜けし、本当は何に対して怒っていたかに気付くようになる。

 つまり、怒りとは二次的な感情なのだ。そして、怒りをリフレーミングすることで、怒り→弁明を求める→弁明に対して激昂するという悪循環のループから逃れることができる。怒りに対処するのではなく、怒りの因果ループのエンジンとなっている一次感情を、怒りを再定義することで見つけ出すのだ。わたしは、スマナサーラ『怒らないこと』でこの技法を学んだが、『問題解決大全』ではわずか7ページでまとめている。

 もちろん、ここでわたしが紹介した本は、『問題解決大全』には出てこない。だが、本書を読むと、あなたの中でそれまで蓄えていた様々な知識とつながってくるに違いない。いっぽう、通読する脚注や巻末やエピソード紹介などから、「知りたい」がどんどん芋づる式に増えていく。これは、そんな知恵と知的好奇心のハブとなるような一冊なのだ。

 目の前の「問題」は違えども、わたしと同じ悩みに悩み、苦しみに苦しんだ証拠だといえる。歴史上の知の巨人たちの試行錯誤を見ていくうち、「わたしは一人ぼっちじゃないんだ」という気持ちになってくる。本書があれば、いつでも巨人たちを召喚できるのだ。

 巨人たちの数は135人。召喚せよ。そして好く生きよ。

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ゲームで子育て『スプラトゥーン2』

 「ゲームで子育て」シリーズの最終回。

 なぜなら、子どもにやらせたいゲームで、『スプラトゥーン2』を超えるものが、おそらく無いだろうから。父親になって十余年、子どもと一緒に、さまざまなゲームをやってきた。ポケモン、モンハン、レースもの、対戦もの、色々やってきたけれど、これが最高なり。

 ゲームは、現実社会の様々な事象を楽しめる形に抽象化したもの。現実より多めに報われるルールに則って、プレイヤーは楽しむためにプレイする。現実だと普通に直面する、見えないルールやチート術は、原則存在しない。

 子どもは、ゲームを通じて挑戦することを学び、安全に失敗を経験することができる。現代の日本では、「子どもが安全に試行錯誤できるという環境は、実は少ない。その希少な、かつ子どもが喜んでチャレンジする環境こそが、ゲームなのだ。ゲームは、子どもに必須といっていい。

 ただし、人生はゲームではないことに注意したい。人生をゲームに例える人がいるが、それは嘘だ。難易度は選べず、セーブポイントは皆無。1回こっきりでコンティニュー不可、パラメーター振分け不可、ランダム要素が多すぎ。攻略本は書店にあるが、全く役に立たない。一つだけ、人生とゲームの共通点があるとするならば、電源ボタンがあるところだな。

 人生はゲームじゃないが、ゲームは人生に役立つ。『スプラトゥーン2』は、その最高の一つである。暇つぶしに始めたのに、暇じゃない時間までが潰されていく中毒性の高いゲームだが、生きていく上で、重要なポイントを、知らず知らずのうちに学ぶことができる。ここでは、そんなポイントを解説する。

 ポイントは3つある。

■ポイント1 「集中力は有限だ」「ちゃんと寝よう」

 『スプラトゥーン2』はオンラインゲームである。ネットを介して4対4で戦うゲームである。水鉄砲のような武器でペンキを撃ちあう(というか塗り合う)ゲームで、マップを自陣の色に塗りまくれば勝利につながるゲームである。

 単純に塗って楽しんでもいいが、単なるアクションシューティングだと思っていると、いずれ「越えられない壁」にぶつかる。いわゆる「立ち回り」を考えなければならない。制限時間の中で、自分の武器と、自チームの武器・ランク、マップの特徴、相手チームの武器・ランクを考えながら、最適な戦い方を選びつつ、勝つために自分ができることを考える。敵を排除するのか、味方のサポートに回るのか、攻めて相手を撹乱するのか、瞬時に判断し、実行する。

 これが非常にアタマを使う。30分もプレイすると、ヘトヘトになる。テキトーにやってもいいが、テキトーな結果しか返ってこない(ここがゲームのシビアなところ)。無理を承知で続けると、集中力が続かない。ボコボコにされる。そこで学ぶのだ、「集中力は有限」であり「寝れば回復する」ことを。言い換えると、「ちゃんと寝ないとダメ」だという、おそらく人生で最も重要なポイントを学ぶことができる。

■ポイント2 「コントロールできること、できないことを、分けて考える」

 『スプラトゥーン2』は、「鬼ごっこ」と「かくれんぼ」を合体させたようなゲームである。

 ペンキを相手に当てれば倒せるが、射程距離がないので、自ずと追いかけっこになる。自分の武器の射程を考えて立ち回ることで、有利に相対することができる。また、ペンキを塗ったところはイカに変身することで「隠れる」ことができる。ここぞというポイントで隠れては撃つことで、自チームを有利にすることができる。あるいは、「やられた!」「ナイス!」など、仲間に合図を送ることができる。

 だが、自分にできることはそれまでだ。

 その武器を持っているなら、サポートして欲しいと思っても、その人がどう動くのか、自分にはどうしようもできない。いま、この状況で、「こうすべき!」ことが分かっていても、自チームに伝える術がない。もっと言うなら、どんなチームになるかは選べない。「どうしてこうしてくれないの?」「なんでそこで突っ込む!?」「使えねーこいつらwww」と自チームを罵っても始まらない。そうではなく、想像力を働かせて「その状況で自分に何ができるか?」を常に考えながらプレイすると、自然と、勝ちにつながる(ような気がする)。

 イチローの名言を思い出す。「自分がコントロールできることを、コントロールできないことを、分ける。コントロールできないことは放っておいて、コントロールできることに集中する」というやつ。あたりまえなのだが、チーム編成、相手の動き、自チームの動きは、コントロールできない。コントロールできないことに気に病んでも仕方ない。何のためにプレイする? 勝ちを目指すため! なら、コントロールできることに集中しよう。

 スヌーピーの名言でもいい。「配られたカードで勝負するしかない、それがどうゆう意味であれ(You play with the cards you’re dealt …whatever that means.)」というやつ。チームメイトに恵まれない状況のときは、これを思い出している。そこで全力を尽くすほかはない。

■ポイント3 「先達はあらまほしきことなり」

 『スプラトゥーン2』は「実践で学べ」というスタンスだが、何事にも”コツ”というものがある。武器とマップの相性とか、敵のランク配分に応じた立ち回りかたとか、もっと単純に言うと「この場所を塗っておくと、後で楽に攻められる」といった豆知識まで。

 もちろん、自分の経験を通じて、そうした知恵を学ぶことができる。だが、そのためにはそれなりの時間や労力を必要とする。そんな努力は無駄ではないが、もうちょっと効率よく進めることができるはずだ。でもそれは、「もうちょっと効率よく進めた後」でしか知ることができない。即ち、通り過ぎた後で、「ああしておけばよかった」というもの。後悔先に立たずとは、言葉の定義からして免れぬもの。

 ではどうするか? 先達に学ぶのだ。

 自分よりも少し上の人とフレンドになって(ゲームの中でつながりをもって)、その人と一緒にプレイをする。すると、そのプレイスタイルから学ぶことができるのだ。もっと言うと、リアルでも話し合えるといい。子どもに聞くと、「スプラの会」を作って、休み時間や放課後に攻略談義をしているようである。我が家では「ゲームは2日に1時間」というルールがあるため、実ゲーム時間は少ない。だが、ランクが上の人(先達)に立ち回りかたを聞くことで上達している。

 さらに、上手い人と一緒にプレイすることで、「引き上げて」くれることになる。わたしよりも遥かに少ないプレイ時間で、わたしよりも遥かにランクを上回っているのは、そのせいだ。この経験は、『モンスターハンター4』でしたことがある。上手い人と一緒にやっていると、自分も上達する。

これは、仕事をするチームでも一緒だ。優秀な人と一緒に仕事をしていると、自分も優秀になる。700年前に「先輩の言うことを聞くと、効率よく攻略できる」といったのは兼好法師。『スプラトゥーン2』においても、彼は正しい。

 というわけで、先達の皆さま、どうかわたしを導いてやってくださいまし。

フレンドコード : SW-3436-3723-4801

 休日早朝とかに出没中(普段は嫁様がマスターモードに精を出しているため)。

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『神は数学者か』はスゴ本

 九九の9の段を眺めていて、ささやかな「発見」をしたことがある。一の位と十の位の数を足すと9になる。九九に限らず、9の倍数の各桁の数の合計は、必ず9になるのだ。

 9,18,27,36,45,54,63,72,81,90,99,108,……

 気づいたときには驚いたが、何のことはない。

 「9の倍数」とは、「9を加えた数」のこと。そして「9を加える」ことは、「10を加えて1を引く」、つまり「上の桁の数に1を加え、元の桁の数から1を引く」操作にほかならない。元の数が9から始まるから、「上の桁の数に1を加え、元の桁の数から1を引く」操作を繰り返しても各桁の合計は「9+1-1」になる。これは、9という数が、桁上がりする一つ手前の数という性質を持つから。2進数なら1、16進数ならF、n進数ならn-1に割り当てられた数が相当する。

 一方、たまたま数え方が10進数だから、9の性質がそうなっているとも言える。なぜ10進数なのか? それは、数を数える必要に迫られたとき、ヒトは指を折って数えたからではないか。一つの指に、一つの対象を対応づける。ヒトは、10進数を「発明」したといえる。

 同様に、一周の角度が360度であることも「発明」されたのではないかと考えたことがある。暦日なんてなかった時代から、季節が一巡する期間が何日かかるか数えられ、それに対し、最も約数が多い360という値が約束として決められたのではないか。従って1年が686日である火星で発達した知性の場合、一周の角度は680度になるのだろうか。

 ここで、数学の根源的な疑問が出てくる。すなわち、数学とは「発見」されたものか、それとも「発明」されたものかという疑問だ。『神は数学者か』という刺激的なタイトルの本書は、この疑問に対し、数学と科学の歴史を振り返りながら、慎重に答えようとする。

 まず、数学は「発見」されるものという立場から。人は世界を観察し、そこから一定の規則を見いだしてきた。抽象化された規則を記述するための言語が、「数学」である。惑星の運動に関するケプラーの法則や、ニュートンの力学方程式は、物体の運動を正確に示すことができる。人類の身長と体重、株式指数の年間利益率も正規分布に従う。世界の諸現象に対し、不条理なほど超越的にあてはまるのが、数学なのである。

 さらに、数学に対しプラトンのイデア論を挙げたり、「神は数学する」「宇宙とは数学そのものだ」と結論づける論者も登場する。こうした人々にとって、数学とはミケランジェロの「大理石の中のヴィーナス」や漱石の「仁王像を彫る運慶」のようなものかもしれない。数学は不変かつ究極的な存在であり、それは大理石という世界の中に埋まっている「美」ともいえるだろう。

 次に、数学は「発明」されたものとする考え方。非ユークリッド幾何学が誕生する経緯が象徴的だ。きっかけは、ユークリッドの第5公理を他の公理に置き換えるための試みだったという。第5公理とは、「一本の直線とその直線上以外の一点が与えられたとき、その直線と並行でその点を通る直線が一点だけ引ける」というもので、直観的で自明に見える。

 しかし、その試みがことごとく失敗したため、幾何学者は面白い発想の転換を行う。「もし、第5公理が成り立たないとしたら?」そして、公理の「正しさ」を疑い始め、別の公理体系を考え始める。空間を記述する数学として、ユークリッド幾何学が唯一でないことに気づき、「非ユークリッド幾何学」を構築してしまう。

 そこでは、自明と考えられていた三角形の内角の和が180度にならない世界が広がっている。たとえば、ボールの表面では三角形の内角の和は180度を越え、鞍状の面の上では180度以下になる。しかし、こうした別の公理体系を用いても、ユークリッド幾何学と同じくらい正確に物理的空間を記述することができるのだ。

 世界を記述する唯一で必然の体系が、「ルールの一つ」だと認識されると、数学は、様々なルールを「選ぶ」ことで演繹体系を作り上げるというゲームのようなものになる。かつて、ユークリッド幾何学は自然界そのものだった。しかし、別のルール(公理)を選ぶことで別の幾何学を構築できるというのであれば、数学は世界から見つけ出すものではなく、人が決めた約束事にすぎなくなる。

 すなわち、数学は、ア・プリオリな直観でも実験的な事実でもなく、人の想像力が作り出した巧妙な発明なのだ。もし「神は数学する」とすれば、神はどの数学を選んだのか? と反問できる。

 さらに、マイケル・アティヤやジョージ・レイコフを引きながら、人が物質世界の要素を理想化・抽象化することで、数学を構築したという主張を紹介する。

 たとえば、「2」という数の抽象的な概念は、人が、2つの手、2つの目、2つの乳房を見続けるうちに生み出されたというのだ。「数を数える」という行為は自然なものに見える。「自然」数("natural" number)なんて、原始的な概念に思える。

 だが、知能を持つのが手、目、乳房を持つヒトでなく、深海に棲む孤独なクラゲだとしたら? 周囲にあるのは水で、個々の物体を相手にする機会はない。クラゲにとって、基本的な知覚データは運動、温度、圧力だけになる。このような純粋な連続体のなかでは、不連続な量は発生しないので、数えるものは何もない。

 つまり、「数を数える」という行為は、不連続な量が発生する世界に身体を持つ存在にとって「自然」な行為なのである。「人は数学をどのように理解しているのか」に着眼すると、ヒトが世界をどのように理解しているかが見えてくる。これを認知科学のアプローチから追求したレイコフ&ヌーニェス『数学の認知科学』[レビュー]である。

 数学そのものは抽象的で厳密だが、これを理解する人は具体的で経験的な存在だ。その間にあるのがメタファーであり、それは感覚-運動経験から推論様式を用いて取り込まれるという。そして、数学の厳密さの領域の外にある「人の抱く数学的概念」は、このメタファーを調べることで明らかになると仮説づける。

 では、結局のところ、数学とはヒトが「発明」した精巧なゲームなのか? 火星の知性では一周が680度になり、深海の知性では「自然数」という概念が発達しないのだろうか?

 著者は結論づける。数学は発見か、発明かという疑問は愚問だという。すなわち、わたしたちの数学は発明と発見の組み合わせだというのだ。

 ユークリッド幾何学の公理は、チェスのルールと同じように、概念としてみれば発明である。そして、三角形や円、黄金比など、発明された数々の概念が公理を補っている。一方、ユークリッド幾何学の定理は発見であり、発見はさまざまな概念を結び付ける道筋になる。つまり、概念は発明であり、概念から導かれ・概念どう結びつける定理は発見だというのだ。素数いう概念は発明だが、素数にまつわるあらゆる定理は発見であるという主張である。

 そう考えると、数学と実存を結ぶ新たな視点が得られる。ニュートンは微積分を発明したし、現代の数学者はひも理論の研究過程でトポロジーや幾何学のさまざまなアイデアを生み出しているといえる。あるいは、現在の研究を進めるにあたり都合の良い数学的形式を気づく(発見する)ケースもある。アインシュタインはリーマン幾何学を利用することに気付いたし、素粒子物理学は群論を応用することに気付いた。数学を、実存の究極の記述体系として崇めるのも誤りだし、数学を体系的なゲームとして扱うのも不毛である。

 「発見」か「発明」か? という問いかけは、自然科学(特に物理学)に向けられるべきかもしれぬ。科学の研究において、世界をモデル化する際に便利な言語として数学を選択的に用いていることに、もっと自覚的になるべきだろう。微積分や確率・統計、幾何学といった数学的ツールは、適当に選ばれたのではなく、実験や観測の結果をモデリングできるよう、試行錯誤を重ね、意図的に選ばれている(数を数える際には「自然数」を使い、水滴を用いないだろう、クラゲでもない限り)。その「発見」と「発明」の取捨選択の歴史こそが、科学の歴史なのだ。

 だから、自然科学(特に物理学)が数学的に「正しい」(その時代・その世界のヒトにとって正しい)のは、あたりまえのことかもしれぬ。ある意味、科学者たちは数学で解決できそう問題を選び出し、研究してきたのだから。そして、知りえない世界を発見するために、新たな数学を発明していくのだから。

 数学とは何か? という問いについて、一冊で知りたいのであれば、本書を推す。数学と科学の本質を考える一冊。

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『虚数の情緒』はスゴ本

Kyosuu

 一言なら鈍器。二言なら前代未聞の独学書。中学の数学レベルから、電卓を片手に、虚数を軸として世界をどこまで知ることができるかを追求した一冊。

 「スゴ本」とは凄い本のこと。知識や見解のみならず、思考や人生をアップデートするような凄い本を指す。ページは1000を超え、重さは1kgを超え、中味は数学物理学文学哲学野球と多岐に渡る。中高生のとき出合っていたら、間違いなく人生を変えるスゴ本になっていただろう。

 ざっと見渡しても、自然数、整数、小数、有理数と無理数、無理数、素数、虚数、複素数、三角関数、指数、関数と方程式、確率、微分と積分、オイラーの公式、力学、振動、電磁気学、サイクロイド、フーリエ級数、フーコーの振り子、波動方程式、マックスウェルの方程式、シュレーディンガー方程式、相対性理論、量子力学、場の量子論を展開し、文学、音楽、天文学、哲学、野球に応用する、膨大な知識と情熱が、みっちり詰め込まれている。

 それも、教科書的な解説とは180度ちがう。日本の知力と品性を憂い、勉学の喜びを熱く語り、あらゆることに疑問を持ち、学び考えよと説く。「本書を疑い、自分自身を疑え」とまで言い切る。大上段な振りかぶりと、時折はさむオヤジギャグが鼻につくが、これほどエネルギッシュな独学書は初めてだ。

 最初の動機付けとして何ページも費やし、なぜ勉強するのか、いかに勉強するのかを力説する様に触れているうち、よっしゃこの1000ページ、踏破してやろうじゃないのとヤル気になってくる。

 最もユニークなのは、「電卓を使え」と言うところ。中学生なら手計算を重視するという考えこそが有害で、電卓を駆使せよと命じてくる。単純計算でできる部分は電卓に任せ、手を使わなければならないところでは手を使えという。

 その理由は序盤ですぐに分かる。ピタゴラスの定理を扱うにあたり、無理数を電卓で計算させてくる。当然、普通の電卓では桁落ちが生じる。ここが重要だ。電卓に任せられる有効数字と、その先を知る必要があるのなら容赦なく手を使わせる。つまり、どこまで知りたいかによって、電卓で済ませるか、式変形で桁落ちを回避するか、戦略が生じてくる。その見極めがもの凄く上手い。

 そうやって電卓を叩いて表を作り、手計算で項をまとめ式変形をする。そんな実際的な計算を続けていくうち、虚数という存在や輪郭が、次第次第に明瞭なものとなり、手で触れるぐらいの近しいものとなってくるという仕掛け。数学と天文学と物理学の歴史を振り返りながら、人類が世界をどのように抽象化していったかを、きわめて具体的な計算によって炙り出す。それが、本書の狙いなのだ。

 ど真ん中が圧巻だ。全数学の合流点として、自然対数eの虚数乗を求め、虚数単位を指数で表す。虚数の虚数乗を求め、幾何学との関係を探り、三角関数を経てオイラーの公式につなげる。人類の至宝とも呼ばれるオイラーの公式eiπ=-1を、電卓で捻じ伏せるところなんて凄まじい。本書のクライマックスといってもいい。

 類がないユニークさと、具体性と面白さを兼ねている一方、疑問点も沸いてくる。

 たとえば厳密さ。式や計算について厳密さを求める一方で、自論の粗に気づかない。数学と文学が混交するテーマとして、「言葉はどれくらい存在するのか」という問題を取り上げる。言葉を文字数で分解し、それぞれ階乗との関係から調べてゆく。いろは歌が48文字だから、全ての言葉の数は次の合計となるという。

 1文字の場合 48語
 2文字の場合 48*47語
 3文字の場合 48*47*46語
 ……

 あれ? 「い」一つとっても、井、胃、異と大量にあるが、同音異義語を一つに丸めているのがいただけない。さらに、1語は1回限りの制限をかけ、濁音、拗音、撥音を無視している。数学的には厳密さを追求する代わりに、日本語への雑さが目立つ。遊びとしては面白いが、意味がなく、中途半端感だけが残される。

 あるいは、数学や物理学の実在性について。振り子やサイクロイドの振動から得られるデータを元に計算を重ねると、そこにπやiが登場する。その不思議さには、もう驚かない。なぜなら、円や方程式を扱い計算を重ね、一定の式に収束させる以上、円や虚数解を示すための何か(=πやiなどの記号)が必要だから。

 したがって、様々な物理現象を計算させ、どこかで見たことのある式が浮かび上がってきても、それは既に分かっていることの確かめ算にすぎない。物理学の本質は、観測対象のモデル化である。数学はそのモデリング言語である。

 だから、「観測できる」「計算できる」対象を抽出して式変形したものは、その過程が複雑であればあるほど不思議だが、驚きはない。薔薇を「薔薇」という言葉で「薔薇だ」と言っているに過ぎない。薔薇と「薔薇」の間には沢山の言い換えがあったとしても、指しているものは人に把握できる範疇のモデルなのだから。

 世界に対して人が把握できるものを選択し、観測し、形式化したもののうち、再現性のあり有用な(技術に活用できる・他のモデルと合併できる・過去のモデルを包含している)モデルが、物理学なのだ。つまり、物理学と数学への理解を深めることが、「人が分かることのできる世界」を拡張することになる。

 そんな自問自答を抱えながら、1000ページを駆け抜ける。実をいうと、後半はほとんど理解できていない。「電卓を叩け」と言っているが、痛勤員電車では無理というもの。計算結果がそうなるのかと確認する程度で、ヘトヘトになりながら、かろうじて最後までたどり着いたといったところ。

 たとえば、「光は波か粒子か」といった問いが出てくる。著者は、複素ベクトルを用いて波動方程式を説明し、ヤングの実験で示された結果を、波のベクトルとして式にする。本書をきちんと理解しながら読み、電卓を叩き、手を動かしてきた者であれば、難なく分かるだろう。だが、手を動かすのをさぼったわたしには、どこかで聞きかじった知識レベルでとどまっている。

 だから時を措いて再読しよう。試験もレポートもない。知はいつでも待っていてくれるのだから。

 最後に。本書は、404 Blog Not Found の小飼弾さんの[伝われ、i - 書評 - 虚数の情緒]で俄然読む気になり、挑戦と挫折を繰り返し、よしおかさんの[虚数の情緒読了:バーチャル読書会やりたい]でブーストして、ようやく最後まで行けた。小飼さん、よしおかさん、ありがとうございます。こんなすごい本にめぐりあい、知る喜び(と苦しみ?)を味わうことができ、本当に感謝しています。いつかこの本について、いろいろお話を伺いたいです。

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『ゲーデル、エッシャー、バッハの薄い本』が電子書籍で読めます

 知的冒険の書として『ゲーデル、エッシャー、バッハ』という本がある。タイトルが長いので、頭文字をとってGEBとしよう。

 GEBは、ダグラス・ホフスタッターという天才が、知を徹底的に遊んだスゴ本だ。不完全性定理のゲーデル、騙し絵のエッシャー、音楽の父バッハの世界を、「自己言及」のメタファーで縫い合わせ、数学、アート、音楽、禅、人工知能、認知科学、言語学、分子生物学を横断しつつ、科学と哲学と芸術のエンターテイメントに昇華させている。
 知的興奮に満ち溢れた一冊であり、わたしも大いにお薦めしているのだが、一言で言うと、こいつは鈍器である。700頁を超える大著であり、だいたい1kgで、サイズ的には大きめのレンガといったところか。GEBで殴り続けると人は死ぬ。

 この厚いGEBを緩く読もうという読書会があり(ゆるゆるゲーデル、エッシャー、バッハ、略してゆるげぶ)、ゆるーくやっている。ゆるーくやっている割には、じつにさまざまな人が参加しており、「この本から楽しんでやろう」という熱い思いに満ちており、いくら語っても語り尽くせない面白さにあふれている。主催者の白石さんよしおかさんの記事が楽しそう。

 そんな読書会から出てきたのが『GEBの薄い本』なり。要するにGEBの同人誌やね。

 断っておくが、これはGEBの要約本ではない。天才が知を自在にあやつり楽しんだ600ページの遊び場が、たかだか数十ページの薄い本にまとまるわけがない

 しかし、GEBを手にするものが、いかに知的興奮を刺激し、夢中になり、そして何よりも楽しめるかは、この薄い本を読めば充分に伝わる。なぜGEBが面白いのか、GEBにインスパイアされて何を思い出し、どんな思考がつむぎだされたかが詰まっている。早めぐり、コミカライズ、音楽方面からの再解釈、腐女子のためのBL化、味わいつくすための年表など、薄いわりにバラエティ豊かな同人誌なり。わたしは、GEBへの熱い思いを語ったインタビューと、「GEBの読前・読後にお薦めする本の紹介」で参加させてもらった(先月、アキバの技術書典という同人誌の即売会があったが、開始1時間以内で売り切ったらしい)。

 GEBの薄い本は、「読むとGEBを読んでみたくなり、GEBを読んだらまた読みたくなる」がコンセプトだ。これは、GEBを読む気にさせる(既読者には再読する気にさせる)呼び水のような、エンジンのような本なのだ。

 GEBは、もっと気軽に、楽しく読める。薄い本は、未読の方は情熱を焚きつけるとっかかりとして、既読の方は再読の呼び水として。

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人肉食の名著『カニバリズム論』

 古今東西のカニバリズムを取り上げ、縦横無尽に語りあかした名著。めちゃくちゃ面白い。

 メデューズ号の筏から始まり、ひかりごけ事件、韓非子や水滸伝などの中国古典、魯迅、フレイザー、ゴヤ、バタイユ、スウィフト、サド、谷崎潤一郎、夢野久作などを渉猟しつつ、カニバリズムの普遍性を炙り出す。

 そして、人が人を食う行為をタブー視し、絶対悪のように「あちら側のこと」切り離そうとする「良識」を笑い飛ばす。そんなものは絶対的な状況下では糞の役に立たず、むしろ「あちら側のこと」として思考停止することを批判する。猟奇的殺人の動機として、何も言っていないに等しい便利な言葉「心の闇」で評し、「私とは関係ない」と片付けている人には、その欺瞞を暴き立てることになるだろう。

 さらに、カニバリズムからエロティシズムに踏み込んでくる。肉欲の至高の表現は、愛するものを滅ぼし、これを食い尽くすことにありはしないだろうか? と問うてくる。性欲と食欲は重なり合う。上田秋成『雨月物語』の「青頭巾」にある、愛するものの死が信じられず、焼くことも埋めることできず、ぐずぐずしているうちにグズグズとなった腐肉を吸い骨を嘗め、ついには食らい尽くす様を引いてくる。究極の愛は、相手を食べることと、自分を食べてもらうことにあるのかもしれぬ(これは円城塔の完全なるジャパニーズ・ホラー訳で読んでほしい)。

 名著の特徴として、読めば読むほど、それまでに読んできた本が思い出される「引き出し」「のりしろ」があるが、本書もそう。カニバリズムとエロティシズムの関係は、赤坂憲雄『性食考』につながってくる。食べること、セックスすること、殺すことは独立しているのではなく、互いに交わり重なり合っていることを喝破し、古事記と神話、祭りと儀礼、人類学と民俗学と文学を横断しながら、人の欲の深淵を覗き見る、ぞくぞくするほど面白い考察だ[レビュー]

 屍体愛好の件では、ヴィットコップ『ネクロフィリア』が引き出される。屍体にしか性的興奮を覚えず、葬儀に列席しては墓地に通い、屍体を掘り出してきては「その形が分からなくなるまで」愛する男の話だ。どうやって愛し、どんな匂いを放ち、どのように崩れていくかが、観察日記のように綴られている。描写のひとつひとつは強い喚起力に満ちており、慣れない読み手に吐き気を催させるかもしれないが、たどり着いた結論は陳腐だ。すなわち、善や正義なんてものは多数決によって判定される程度問題に過ぎぬ。自分で線を引いて善や正義の側に立つ愚かしさをつきつけられる[レビュー]

 最も非常に興味深いのが、人肉を「食糧」と見るか「料理」と見るかの認識の違いについて。著者は『西遊記』の研究で有名な中国文学の教授であるが故、中国の事例が沢山出てくる。そこでは、人肉は単なる「食糧」としてではなく、「料理」の一形態として登場するというのだ。遭難などの危機的状況で、やむを得ず人肉を口にするのではなく、権力者の美食や薬膳として振舞われる。

 たとえば、陶宗儀の随筆である『輟耕録』を引いてくる。人肉一般は「両足羊」(二本足の羊)と隠語で呼ばれ、女の肉は「不羨羊」(羊よりうまい)、男の肉は「饒把火」(たいまつよりまし)だそうな。さすが、「翼あるものは飛行機以外、四つ足は椅子以外、二本足は両親以外を食べる」文化である。

 さらに、『水滸伝』の十字坡における人肉饅頭が出てくる。十字坡は居酒屋で、その女将は実は母夜叉という魔女で、旅人を殺してはその肉を饅頭にして売っていたという。著者は、人肉をこれほど具体的な食物に次々と料理した中国人の食品芸術を高く評価するが、必然的に『八仙飯店之人肉饅頭』を思い出すことになる。

 これはアンソニー・ウォン主演の映画で、ストーリーもビジュアルも凄まじくえげつない。借金のトラブルが原因で逆上した男が、「八仙飯店」に押し入り一家皆殺しにする。恐ろしいのかここからで、バラバラにした死体から肉を剥ぎ、それで饅頭を作って売り出し、それが非常に美味だということで繁盛してしまうという話。某殺人犯が観ていたとか、子どもの死体の解体シーンがエグいとかで有名な作品で、良い子は絶対に見てはいけない。

 他にも、デヴィッド・マドセン『カニバリストの告白』や、クライヴ・バーカー『ミッドナイト・ミート・トレイン』、ジャック・ケッチャム『オフシーズン』『襲撃者の夜』、岩明均『寄生獣』、『ネクロマンティック』(映画)などが次々と出てくる。『カニバリズム論』そのものは40年前の著作だが、そこで指摘される性と食の交わりは、全くといっていいほど古びていない。

 食べることは愛することであり、愛することは食べることなのである。

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