まとめ「中高生の進路選びに役立つ話」

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学校の先生は、大学と偏差値の話しかしない。
そのくせ、個性だ適職だと言ってくる。

だいたい、未来がどうなるかも分からないのに、
いま決められるわけがない!

どの時代の若者も、進路について悩んできた。

そんな悩める中高生のために、進路と生き方について、[スゴ本オフ]で、人生の先輩と話す会を企画した。様々なキャリアの人をお招きし、やって良かったこと、こうすれば良かったと後悔していること、あの頃に戻れるなら、どんな選択をするか等、いろいろ話してもらったので、ここにまとめる。

人を探せ・英語をやれ

最初はわたし。

やって良かったことは、「人」で進路を選んだこと。高校時代にハマった人に師事したく大学を選んだのだが、正解だった。この姿勢はいまにも通じる。興味のある方向の先にいる「人」を探し、私淑・親炙する(この方法は読書猿『アイデア大全』の「ルビッチならどうする?」に詳しい)。

しかし、「人」が分からない場合はどうする? 図書館のレファレンスサービスに質問を投げる。メールだけで完結し、なんといっても無料だ([東京都立図書館のレファレンス]が最強なり)。そして見つけたら、SNSでつながってしまおう。

一方、やっておけば良かったのが「英語」。受験や進路や転職など、ほぼ10年単位のインターバルで英語の壁が立ちはだかる。ほとんどが迂回したり諦めたりしてきており、今でも勉強中。

そこで、やすゆきさんと藤原さんからアドバイスが! お二方とも仕事道具として英語を使う方で、ポイントは「話す」にあるという。読み書きはある程度できても、しゃべれないと使えないから。そして、「話す」には実践が必要だ。

やすゆきさんがやってきた方法は、「通勤中に目に入る風景を心の中で英語で説明する」。できれば、同じことを3種類の言い方に置き換える。こうすることで、浮かんだことをパッと言葉にできるようになったという。

藤原さんのアドバイスは、「誉める」。とにかく誉める。髪型、ネクタイ、しゃべり方など、どんな些細な点でも見つけて、誉める。あるときなんて、履いてる靴下のセンスを誉めたという。誉め言葉からボキャブラリーを増やすのは面白いかも。

失敗する場としての学生時代

次は、編集者の傳さん。

まず、勉強について。遊ぶ時間を自分で決め、勉強の範囲を自分で決めることで、勉強の主導権を自分に取り戻す。ハードルを高く上げて、それで自分を追い詰めるやり方が有効だ。

そして、苦手なことをたくさんやっておく。「失敗する場」として学生時代は適している。社会に出てから失敗するよりも、学生時代に沢山失敗しておく。小さなリスクを負ってみる。例えば、自分の知らない食べ物屋に行って、馴染みのないものを注文してみるといったものからでもいい。学生時代は率先して失敗していきたい。

重要なのは、得られた経験からのフィードバックをたくさん・はやく回すこと。その意味で、もっと勉強しておけばよかった。社会に出ると、仕事に追われて、勉強する時間がなくなる。

お薦めは、『マンガの創り方』。なりたい職業に就いた後、そこに居続けるのは何十年とある。むしろ、その期間のほうがずっと長い。

だから、「なりたい職業についた「後」から逆算して、「今」すべきことを調べる。その職業に居続けるためにはで「技術」が必要で、この本には、マンガ家という職業に居続ける「技術」が書いてある(本書は、マンガ家に限らず、クリエイター職に通じる)。

いま見えている世界はとても狭い

次は、ほりもとさん。

紆余曲折を経たけれど、何がどこで役立つかは分からない。

というのも、人生の転機で「ワーキングホリデー」を選んだのは、そもそもそういう選択肢がある、ということを知っていたから。なぜ知っていたかというと、学生時代にそちらに向かう大人たちを見ていたから。そのときは、「後で役に立つ」なんて思いもよらなかったが、事実として今の自分を作り上げいる。

だから、学生さんに言いたいには、「いま見えている世界はとても狭い」ということ。これを前提として、自分と接点のない大人とたくさん接点を持つと、世界がひろがる。オープンキャンパスに行く、スゴ本オフに行くことで、そこにいる大人と話すといい。

全然ちがう大人の話を聞くことで、選択肢を広げるチャンスが得られる(そもそも、そういう選択肢があることを知ることができる)。興味をもつものが少なかろうと無かろうと、物事は繋がっていく。バイトから、部活から、先輩から、友人から、さまざまなチャンネルがある。意外なところから「やりたいなぁ」「知りたいなあ」が接点となる。

まず、フックになるものからスタートしてみる。

お薦めは、『仕事はもっと楽しくできる』。会社は、辞めるか、染まるか、変えるか。世の中には、凄い頑張っている。自分の環境・仕事をもっとよくしていこうと、頑張っている大人がいることが分かる一冊。

勉強は報われる

そして、曽我さん、東京大学→アイオワ州立大学→養豚業。

どこに行っても「なぜ養豚を?」「なぜここに?」と問われる異邦人だったけれど、人生のライフチャートのなかで、カッコいい方を選んできた結果が現在になる。

特にアイオワ州立大学の頃は、グリーンカード&高額サラリーのオファーが来たが、日本の養豚に貢献するほうがカッコいいという直感で戻ってきた。

勉強について。自分は勉強が好きだったし、今でも好き。あたかも「勉強ができる」ことがカッコ悪いかのような風潮があるが、『サマーウォーズ』を見て勇気をもらった(よろしくお願いしまあああぁぁす!!)。

『勉強の哲学 来るべきバカのために』によると、勉強をすると(一時的に)キモチ悪くなる。勉強することとは、違う視点・世界を手に入れること。その結果、いまいる環境との馴染みが悪くなり(ノリが悪くなり)、キモチが悪くなる。

できなくてもカッコ悪くてもいいから、勉強を続けていってほしい。ノリが悪くなっても、悪くなっても、勉強をしたほうがいい。知らない世界が一挙に広がる。今の勉強によって、未来は報われるかどうかはわからない。だが、過去の自分は確実に報われる

コミュニケーションをあきらめない

医療系コンサルタントの榊原さん。

患者さんをはじめ、利用者を助けるの医療系コンサルの仕事であり、人を救ってはいるものの、中身は年功序列の世界であり、内容は他の業界と変わらない。そうした状況を人事システムで変えていこうとしている。

そこで重要なのは、「コミュニケーションをあきらめない」こと。

コミュニケーションを行い、自分が思うような反応が返ってこなかったとしても、あきらめない。想像した行動をしなかったとしても、二度三度とやってみる。その時は自分のやり方を変えてみる。上手くいったら、「上手くいくやり方」を溜めていく。

お薦めとして、『あなたはなぜチェックリストを使わないのか』。やったかどうか、できているかどうかを「チェックリスト」という客観的な判断基準を設けることで確かにする。自分自身の目でいたとしても、認識しているものと、認識していないものがある。人の認知の限界を前提とし、自分の見えている範囲だけで世界を完結させないための道具がチェックリストになる。

選んだものを正解にする

広告会社のスナガさん。

共通の正解はない。あなたは一人であり、選んだものを正解にしていくしかない(DO THE RIGHT THING)。できない理由、やらない理由はいくらでも作れるが、自分が人生の主人公であることから目をそらさずに、ひとりで生きていくしかない。

糸井重里のゲーム『MOTHER』 や『萬流コピー塾』に感銘を受け、「広告は私達に微笑みかける死体」というベネトンの広告に影響されて広告業界へ。

お薦めの映画は、人類と人生の予行演習としてのB級映画『WALL・E』『IDIOCRACY』(26世紀青年)。(このまま行った先の)未来の人類は、食っちゃ寝のカウチポテトが行き着くところまで行くのかも。地球の歴史ではまだ一瞬の人類が絶滅しないで生きるためのヒントがあるのでは。

やりたいことをやれ

Webメディア編集者のズバピタさん、この企画の発起人でもある。

人生なにが起こるかわからない。だから、やりたいことをやれ! 一瞬先は闇だから、一番やりたいことをやろう。損得環境、時給いくらとかじゃなく、今何が面白いかという軸で判断する。

メインフレームのプログラミング(時代はPCへ)、雑誌の編集(紙からWebへ)、グルメサイト、ネットなど、栄枯盛衰を追いかけるように様々なことをやってきたけれど、意外なところから意外な仕事につながる。「まさかコミケが仕事になるとは!」未来は未確定なのだ。

だから、お薦めとしては、親や教師や上司の言うことを信じすぎないようにする本。直感を信じ、常識にとらわれないための本として『ファクトフルネス』を推す。

「恋」をしてほしい

UUUMでユーチューバーのマネージャーをやっているのSさん。

学生さんは「恋」をしてほしい。ドキドキするもの、笑えるもの、ココロを動かすもの、幸せになるもの。恋をする、好きになるということは、最高のエンタメ。

目標について。まず「ゴール」を設定しよう。高校生の今から「ゴール」までが進路。そのルートは一本でも一様でもないが、「ゴール」を決めない限り、進路を決めようがない。だから最初に「ゴール」を決める。

「ゴール」は職業ではない。「警察官になる」はゴールではない。「警察官になって〇〇をしたい」がゴールになる。(〇〇には、人を助ける、世の中をよくする等)。「警察官になる」はゴールではなく手段。

この「〇〇をしたい」を見つけることが、夢を見つけること。「〇〇という人間になりたい」こそが夢になる。

夢の見つけ方。「原体験」を探す。原体験は、自分の過去・現在、何にドキドキしているか(何に恋をしているか)にある。自分が好きなもの、熱くなれる原体験に、夢が埋まっている

誰かを好きになって、一歩を踏み出すのは、社会人に必要なスキル。すなわち「相手の気持ちを思いやる」スキル。これが最重要かつ最強。その人の立場に立って、それを望むとおりに行動するスキル。これを学ぶため『LOVE理論』をお薦めする。恋ではなく「愛」なら『北斗の拳』の17巻ラオウまで。兄弟愛、師弟愛、家族愛、友愛等、すべての愛がある。

自分の人生の主人公は自分

作家のRootportさん。

人生は偶然だ。自分は高校生よりも少し長生きしているだけで、人類600万年史から見たら誤差にすぎない。大人は過去の経験からアドバイスをしたがるが、大人の言う法則性は疑わしい。

たとえば七面鳥の話。毎朝決まった時間に餌が出てくるので、「この時間になると必ず餌がもらえる」という経験則が生まれるが、それはクリスマスイブの朝までしか通用しない。

あるいはハリポタの作者J・K・ローリング。シングルマザーとして生活保護を受けながら、コーヒーショップであの小説を書いたのだ。この挑戦は、大人の過去の経験からは導き出せない。

「ブラック・スワン」という言葉は、この世にありえないものを指すイデオムだったが、オーストラリアで実際に見つかってしまう。そして、同名の本がリーマンショックを予想していたかのごとくベストセラーになる。

他にも、911や311、自分自身が作家になったことも含めて、思いもよらないことが起きる。だから、誰かのマネをしたりアドバイスを間に受けてしまい、他人の人生の脇役にならないように……あなたの人生の主人公はあなた自身なのだから。

人生は偶然とはいえ、やり方はある。良い偶然が起こりやすい状況を増やし、悪い偶然を起こりにくくし、試行回数を増やすことで、より良い人生を手に入れることができる。

生き延びてさえいれば、あとはなんとでもなる

ラストは飛び入り参加の藤原さん。

最も伝えたいメッセージは、「生き延びてさえいれば、あとはなんとでもなる」

大学を卒業したけど、仕事がなかった。サウジアラビアの石油関係の仕事をしたあと、ロンドンに留学。アルバイトで電通に入ったけど、英文タイプの学校に通ってそこで、モトローラに紹介されて入社、紆余曲折を経てセミナーサービスの会社を起業し、現在は江戸のくずし字の講座をやっている。

紹介したいのは、『戦時中の暮らしの記録』。これ読むと進路で悩んだりするのが馬鹿らしくなる。生き延びていければ、あとはなんとでもなる。

紹介された本・映画

こんな感じで延々3時間、中学生・高校生に向かって大人が語った。ここではプレゼンの一部しかご紹介できなかったけれど、お薦めされた本の一覧は以下の通り。

『アイデア大全』読書猿(フォレスト出版)
『問題解決大全』読書猿(フォレスト出版)
『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』ふろむだ(ダイヤモンド社)
『怒らないこと』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書)
『せんせいのお人形』藤のよう(comico)
『河森正治 ビジョンクリエイターの視点』河森正治(キネマ旬報社)
『料理人と仕事』木沢武男(モーリスカンパニー)
『マンガの創り方』山本おさむ(双葉社)
『編集者という病』見城徹(集英社)
『シャンタラム』グレゴリー・デイヴィッド ロバーツ(新潮文庫)
『仕事ごっこ』沢渡あまね(技術評論社)
『マイクロソフトでは出会えなかった天職』ジョン・ウッド(ダイヤモンド社)
『仕事は楽しいかね?』デイル・ドーテン(きこ書房)
『仕事はもっと楽しくできる』ONEJAPAM(プレジデント社)
『「ない仕事」の作り方』みうらじゅん(文春文庫)
『勉強の哲学 来るべきバカのために』千葉雅也(文芸春秋)
『14歳からのケンチク学』五十嵐太郎(彰国社)
『代表的日本人』内村鑑三(岩波文庫青)
『戦闘妖精・雪風』『グッドラック』神林長平(早川署ぼ)
『アナタはなぜチェックリストを使わないのか?』アトゥール・ガワンデ(晋遊舎)
『広告は私たちに微笑みかける死体』オリビエーロ トスカーニ(紀伊國屋書店)
『素晴らしき哉、人生!』フランク・キャプラ監督
『WALL・E』アンドリュー・スタントン監督
『IDIOCRACY』(26世紀青年)マイク・ジャッジ監督
『ファクトフルネス』ハンス・ロスリング(日経BP)
『ブラック・スワン』ナシーム・ニコラス・タレブ(ダイヤモンド社)
『ファスト&スロー』ダニエル・カーネマン(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
『ハッカーと画家』ポール グレアム(オーム社)
『LOVE理論』水野敬也(文響社)
『君たちはどう生きるか』吉野源三郎(岩波文庫)
『北斗の拳』原哲夫(集英社)
『人体600万年史』ダニエル・E・リーバーマン(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
『心の仕組み』スティーブン・ピンカー(ちくま学芸文庫)

スゴ本オフ「初」の、ノンアルコール・ガチのプレゼンだった。いつもはビール片手にまったり熱く語っているので、なかなか新鮮な体験だった。ご参加いただいた方、プレゼンしていただいた方、ありがとうございました! またやりましょう~

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ネタバレについて哲学者がガチバトルする「ネタバレのデザイン」

ネタバレは悪か?

Ntabare

ネタバレは悪という人は、作品から得られる楽しみが減ってしまうからだという。作品を堪能する前に、結末が分かったら、面白くないでしょ? 2018年に南極で起きた殺人未遂の動機は、読んでる本のネタバレをされたからだという[参考]

一方、ネタバレ許容派は、「作品の理解が進む」とか「ハラハラせず安心して楽しめる」という。「野外コンサートでいつ花火が上がるか」知らずにトイレに行っていたという具体的な例が出てくる。

このように、ネタバレをめぐる様々な主張は、各人の芸術観や価値観により変わってくることが分かる。

こうした背景を受け、日本を代表する哲学者が、ネタバレについてロジックで殴りあう。リング外の観客も、のんびり見てられない。マイクを放られて、「言いたいことあるでしょ?」と煽られる。恐怖の前置き「素人質問で恐縮ですが」から始まる素人離れした知識に震える。

前回の議論は[「ネタバレの美学」が最高に面白い]で紹介したが、詳細なのは『フィルカル vol4.2』をどうぞ。

今回は、代官山のおしゃれな蔦屋書店で、「ネタバレのデザイン」と称し、ガチ度を上げてこの3名が闘った。

森功次さん
美学・芸術哲学の第一人者。ネタバレ許せん派。映画館の予告編も許せないので、トレーラーが流れている間は下を向いているとのこと(想像すると微笑ましい)。

松本大輝さん
倫理・分析哲学のプロ。ネタバレ許容派というより、ネタバレ不寛容が許せん派。学会発表レベルの緻密なハンズアウトを作ってきて無事タイムオーバー。

仲山ひふみさん
精鋭批評家。「デュオニソス的な秘密のアポロン的パッケージング」など、難しい言葉が頻出し、よく分からなかったが、分かる所は凄く面白い。

ネタバレは倫理的に悪

まず森功次さん。「ネタバレは倫理的に悪」という立場から、ネタバレ許容派を攻撃してくる。きちんと用語を定義し、前提を整理する。というのも、ネタバレ議論が発散しがちとなった前回の反省を踏まえてである。

「ネタバレ」という言葉には様々な意味が込められている。対象となる「ネタバレ情報」、それを暴露させる「ネタバラシ行為」、そして対象への接近が意図か事故かという「ネタバレ接触」と分ける。

その上で、作品を鑑賞する前に、ネタバレ情報に対し、自分から接触しに行くことは、倫理的に悪いと主張する。(1) 作者への敬意(リスペクト)を欠いており、(2) アートワールドを腐敗させるという(結果、芸術文化として重視された価値観を狂わせることになる)。

さらに、ネタバレ許容派の「豊かな作品の理解」なんて、要するに「効率的な鑑賞」の方便にすぎぬと斬る。2回目以降に批評を参考にして何回も見ればいいのであって、初めて作品に触れたときだけに味わえる「清新な感動」を捨てるのはおかしいというのだ。

非本質ネタバレならOK

一方、ネタバレ許容派の松本大輝さんは、ロジックの隙を衝く。

まず、ネタバレ接触を2種類に分ける。物語の結末など「それを味わわないと作品を鑑賞したとはいえない」本質ネタバレ接触と、それ以外の、演出上の工夫やオマージュといった非本質ネタバレ接触の2つである。

そして、本質ネタバレ接触については「ネタバレ=悪」を受け入れた上で、非本質ネタバレから、ロジックの切り崩しにかかる。

「豊かな作品の理解」のため、2回目以降は批評などネタバレOKにしているが、2回目以降だって、「発見の楽しみ」はあるのではないかと問う。そして、この楽しみがある限り、ネタバレに接触するのは悪という理屈が成り立ち、主張に一貫性がないというのだ。

さらに、「アートワールドを腐敗させる」というまさにそのアートワールドって、理想化しすぎじゃね? とツッコむ。現実として、その作品の全ての芸術的工夫を見出せる鑑賞者なんて、存在しない。何回も見ればいいというが、実際のところ、そんなに何回も見れるものじゃない。

むしろ、各人が発見した作品の「見どころ」を持ち寄って、みんなで共有するという分業こそが、現実のアートワールドじゃないかというのだ。

独力で作品を味わいつくすことは難しい

この指摘は非常に面白い。作品を100%「味わう」には、現実的には一人では不可能だから、分担する必要があるという視点だ。

たとえば、膨大なシナリオ分岐を持つゲーム(fallout等)だと、全ての分岐を一人でプレイすることは、現実的に無理だ。代わりに、いわゆる攻略サイトを見てルートを選ぶこともある。あるいは、初見殺しと呼ばれるゲーム(DARK SOULS等)もそうだ。ストーリーは一本ながら、独力クリアは至難の業だで、攻略法を「みんなで」持ち寄ることが前提のゲームだろう。

これらは、「見どころ」を共有することが前提の作品といっていいだろうし、ここでの非本質ネタバレが許容されないと、少なくともわたしは、一生かけてもクリアできない。

作品の全情報が得られるボタンを押すか?

これに対し、森さんは、「ネタバレ情報を知りたくて作品に触れるのではない」と反論する。作品から「情報を得たい」がために鑑賞するのではなく、ただその作品を「味わいたい」というのである。

要するに、おまえら「情報を得る」ことに重きを置きすぎだ、というツッコミだ。

その思考実験として、「このボタンを押すと、作品の全ての情報が得られるけれど、あなたは押しますか?」と問うてくる。その作品からの情報を効率的に得ることが目的ならば、ボタンを押すだろう。だが、「作品を味わうこと」が目的であれば、ボタンを押したら損なわれるものがあるだろう。

この思考実験は面白い。

「味わう」対象を料理にすると、もっと象徴的な問いになる。「このサプリを飲むと、料理から得られる全ての栄養が得られるけれど、あなたは飲みますか?」となるから。食べるという行為が、栄養を摂るだけでなく、料理を「味わう」ことも含まれるのであれば、サプリにより損なわれるものがあるだろう。

そこから、「味わう」の中に、見た目による楽しみ、(食べる前の)ただよってくる匂い、スプーンや箸、あるいは手づかみで得られる変化や感覚、咀嚼による舌ざわりの触感や、そのとき口中を支配する香りも含めると、栄養という情報と、それを「味わう」の間にあるものが見えてくるかもしれぬ。

作品から得られる「情報」と「経験」は異なる

森反論に対し、松本&仲山タッグで共闘する。

作品から情報を得ることと、作品を味わうことは必ずしも等価ではないものの、両者は密接な関連があると指摘する。すなわち、適切なタイミングでネタバレ接触(おそらく非本質的ネタバレ接触)しないと、真の鑑賞経験が得られないという。

さらに、そもそもネタバレ接触(こっちは本質的ネタバレ接触)で壊れるようなものなら、芸術的価値として下だという(その例として『シックス・センス』を持ち出して、あれ芸術としてどうなの? というツッコミに会場が沸く)。

そこへ森再反論が畳みかける。「芸術的価値」と「鑑賞経験」は違うと刺して来る。その「真の鑑賞経験」とやらはなんぞやと。「俺の」鑑賞経験が損なわれるのが問題だというのである。返す刀で、展覧会をハシゴしている批評家は、本当に「味わって」いるのかと斬る。

情報の非対称性と「ネタ」の変容

そこへ、場外からキュレーターの話が飛び込んでくる。

美術展に集まる絵は、ただ漫然と選ばれ・並べられているわけではない。テーマに沿って集められ、聖書や神話の基礎知識を持ったキュレーターが、なんらかの「ストーリー」を背景に並べているというのだ。

一方、これを鑑賞する側は、アトリビュート(描かれた人物を象徴するモノ)を読み解きながら、その「ストーリー」を追従する楽しみがあるという。ただし、鑑賞側は全員が豊富な知識を持っているとは言えないため、どうしても解説(ネタバレ接触)が必要となる。

つまり、基礎知識を持っている・持っていないといった、情報の非対称性により、ネタバレの「ネタ」は変容していくことになる。同じ作品でも、子ども向け・大人向け・時代のコンテクストによって、芸術的工夫(=ネタ)は変化してゆく。

こんな感じで、熱く濃く面白かったけれど、ネタバレがテーマであるが故なのか、さまざまな作品のネタバレをカマされる。『美味しんぼ』から始まって、『シックス・センス』『ユージュアル・サスペクツ』『カメラを止めるな!』『オリエント急行殺人事件』など、楽しみにしている人がいたら……とヒヤヒヤする。

これ、前回のような[sli.do]も流せれば面白かったかも。観客も巻き込んでニコニコ動画のようにメッセージをスクリーンに流し、そこからツッコミをもらう仕掛けだ(森さんが試してたようだが、これやるときは2スクリーン欲しいな……発表者スライド用とsli.do用で)。

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高校生の進路選びに役立つ話

将来に向けて、いま何をするのか? 

Koukouseino

わき目もふらずガリ勉してればいいのか。
資格なんかも取らなきゃダメなのか。

学校の先生は、大学と偏差値の話しかしない。
そのくせ、個性だ適職だと言ってくる。

だいたい、未来がどうなるかも分からないのに、
いま決められるわけがない!

どの時代の若者も、進路について悩んできた。

そんな悩める高校生のために、進路と生き方について、人生の先輩と話す会を企画した。様々なキャリアの人をお招きし、やって良かったこと、こうすれば良かったと後悔していること、いま高校生に戻れるなら、どんな選択をするか等、いろいろ話してもらう。他では絶対に聞くことができない話ばかりで、進路を考える上で、きっと役に立つはずだ。

7/13(土)13:00~16:00 都内某所でやります。高校生を中心とした学生さんだけでなく、その親御さんにとっても、良いヒントが得られる会にします。

詳細と申込はこちら。
[高校生の進路選びに役立つ話]

 

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死 ね な い 老 人

世界一の長寿国であるこの国は、人生100年の時代ともいわれている。

リタイアして、悠々自適の毎日を送る人がいる。趣味やレジャーや学び直しなど、第2の人生を謳歌する人もいる。(未来はともかく)今の高齢者は、高度な医療・福祉サービスを低負担で享受しており、年金をやりくりすることで、暮らしは成り立っている。

その一方で、自分の長寿を喜べない高齢者が増えているという。家族や周囲の人たちに「死にたい」と訴えながら、壁の向こう側で横たわり、生きることを強制される高齢者のことである。『死ねない老人』によると、望まない延命措置を受け、苦しみの中で人生を終える人々は、かなりの数にのぼるらしい。

著者は、高齢者医療に25年携わってきた医師だ。現場の生々しい声を聞いていると、いたたまれなくなる。

生きているのが申しわけない

本書によると、「死ねない老人」は2種類に分かれる。

ひとつめは、生きがいを見失い、家族に負担をかけたくないため、死にたい(でも死ねない)老人である。

死ぬ直前までピンピンしてて、突然コロリと逝く「ピンピンコロリ」を理想とする人がいる。だが、医療の進歩により、なかなかコロリ逝かせてくれない。むしろ、病気の後遺症による苦痛や不安・不調を抱え、介護やリハビリを受けながら生きなければいけない時間の方が長くなる。

たとえば、脳梗塞の後遺症で麻痺が残り、家族の迷惑をかけることが嫌になり、「いっそのこと、あのとき死んだほうがよかった」「生きているのが申しわけない」という言葉が出てくる。内閣府[高齢者の地域社会への参加に関する意識調査]によると、生きがいと健康状態は関係があることが分かる。生きる希望を持てずに死を願う「死ねない老人」がこれになる。

意思に反して強制的に生かされる

もう一つは、本人は治療や延命を望んでいないにもかかわらず、周囲の意向によって「長生きさせられてしまう」老人だ。

もちろん、親に長生きしてほしいと願うのは自然な思いだ。だが、一方で、人生の終わりである「死」を認めたくない家族が、本人の望まない最期を強いていることも事実だという。こうした事例を見ていると、本人の意思や苦悶を無視して、ひたすら強制的に生かそうとする行為は、治療なのか虐待なのか分からなくなる。

もっとシビアな例として、パラサイト家族が登場する。本人は「充分に生きた」「楽に逝きたい」と思っていても、家族はその年金をあてにして生活しているため、死なれると困るというのだ。この場合、本人の意思に関係なく、家族の意向が優先されるという。

長生き地獄から逃れるために

人生100年の時代、長い長い、長い老後の末、幸せな長寿を全うすることは、かくも難しい。生き地獄というより長生き地獄である。この2つの「死ねない老人」に対し、本書ではそれぞれの処方箋を考察する。

まず、生きがいを見失った「死ねない老人」に対しては、「誰かの役に立つこと」がカギとなるという。

[全国社会福祉協議会]を紹介しながら、通学路の巡回・見守りや、清掃・美化活動、いじめ相談など、さまざまなボランティア活動を紹介する。「高齢者=ケアされるお荷物」という偏見を壊し、ケアする側として何ができるか? という視点で考えようと促す。

次に、意思に反して強制的に生かされる「死ねない老人」については、諸外国の事例を紹介する。

欧米の安楽死の制度やサービス、終末期の治療方針について意思表示するPOLSTの例を紹介する。ただし、日本の場合の先行きは不透明だ。2008年に、後期高齢者の終末期に関する制度が設けられたが、マスコミから「高齢者に早く死ねというのか」と非難を浴び、3か月で凍結している。

死の制度化は、充分な議論が必要だろう。POLSTが制度化されることで、いま起きていることの逆転現象が生じる可能性があるからだ。つまり、現在、意思に反して生を強制される老人がいるように、将来、意思に反して死を強制される老人がでてくるかもしれないからだ。

こうした問題がクリアされるまで、「死ねない老人」は増え続けるだろう。ネットやコンビニで目にする元気なお年寄りではなく、「老人に死ねというのか!」とデモ行進をする高齢者ではない。「死ねない老人」は、壁の向こうで静かに横たわっている。

「死ねない老人」について、わたしは、むしろ自分の問題として考えたい。問題は現状のままで、自分の順番が回ってきたら―――その可能性は極めて高いが―――[苦しまないと死ねない国で、上手に楽に死ぬために]を参考にするつもりだ。

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大人もハマる子どもの新書

知らない分野をサクッと知りたいとき、新書が便利だ。

ところが、新書の中には、かなり難解で、入門書としては厳しいのも、けっこうある。

その点、子ども向け新書は、特に分かりやすく解説されている。だから、それを大人が読めば、「サクッと読める」という新書本来のメリットを得られる。

池上彰さんがブレークする前、子ども向けニュース番組を担当していたが、これ見ていた大人もかなり多かった。わたしも見ていたが、ポイントを絞って平易な言葉で伝えてくれており、非常に分かりやすかったことを覚えている。

だから、「子ども向け新書を、大人にも紹介する」という千代田図書館の企画は、知らない分野を広げるのにピッタリだろう。

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もちろん、子ども向け新書を読んで「簡単すぎる」と感じる場合もある。その場合、巻末の文献案内から進むことができる。偏りを減らし、網羅性を目指した知の入り口として、子どもの新書を使うのだ。

千代田図書館の企画[おとなもハマる‼こどもの新書]が斬新なのは、テーマごとにキーとなる新書を決め、そこから派生する形で紹介しているところ。一つに興味が湧けば、そこから芋づる式に引き出せる仕掛け。子ども向けの入り口から、どんどん深みにハマっていける。キーとなる本は「★」で示す。

たとえば、テーマでたどる歴史の新書だ。世界史といっても、深さも広がりも莫大だから、どこから手を付けていいやら分からない。だから、興味のあるテーマで歴史を貫いた新書で掴んだら、そこから派生する関連本に手を伸ばす。

  • 『パスタでたどるイタリア史』(池上俊一、岩波ジュニア新書)★
  • 『麺の文化史』(石毛直道、講談社学術文庫)
  • 『ヨーロッパがわかる』(明石和康 、岩波ジュニア新書)

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あるいは、『10代に語る平成史』で、平成を振り返る。まさにその時代を生きた自分からでは、「平成」は近すぎて客観視が難しい。おそらく、興味がある分野や社会風俗ばかりに目が行き、昭和との接続といった歴史的な観点や、グローバルな視点は曇りがちだろう。

『10代に語る平成史』は、消費税の導入やバブル経済の終焉、冷戦構造の崩壊からテロとの戦い、自然災害など、様々な視点から「平成」を浮かび上がらせようとしている。これをキーにして、以下の本が紹介されている。

  • 『10代に語る平成史』(後藤謙次、岩波ジュニア新書)★
  • 『財政から読みとく日本社会』(井手英策、岩波ジュニア新書)
  • 『平成史講義』(吉見俊哉、ちくま新書)

さらに、『正しいパンツのたたみ方』関連。

「豊かに生きるとは何か?」というテーマを、家庭科から答えた一冊になる。暮らしを整えるだけにとどまらず、現代で他者とともに生きていく力を身につけることを目指している。

あらためて「豊かに生きるとは?」と問われると窮する。だが、テーマを分けて置き換え「家族、消費、労働、性愛のスキルを上げる方法」で考えると、より具体的に見えてくる。「子ども向け」を謳っているが、ヒントが得られるかもしれぬ。

  • 『正しいパンツのたたみ方』(南野忠晴、岩波ジュニア新書)★
  • 『社会を生きるための教科書』(川井龍介、岩波ジュニア新書)
  • 『正しい目玉焼きの作り方』(森下えみこ他、河出書房新社)

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他にも、『めんそーれ!化学 おばあと学んだ理科授業』から化学を、『ハッブル 宇宙を広げた男』から宇宙論、『クマゼミから温暖化を考える』から地球温暖化問題など、新書を通じて様々な学問分野への入り口が見える。

全てのリストは[PDFファイル]をどうぞ。千代田区図書館にて8月下旬まで展示してるので、ぜひ立ち寄ってみてほしい。既知からは新たな発見が、未知の分野からは面白そうな入り口が、必ず見つかるはず。

※写真は許可を得て撮影・掲載しています

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秘密の悩みは、バーチャル師匠に相談せよ

精神的にヤバいとき、どうするか? 自分ではどうしようもできず、かつ、誰にも相談できない悩みだったら、どうするか?

そんなとき、バーチャル師匠を召喚する。いわば仮想的な師匠である。

バーチャル師匠とは

あらかじめ「人生の師」を決めておき、困ったときに相談する。師から直接、教えを受けてなくてもいいし、生きている必要すらない。師を模範として慕い、学んでいればいい。それこそ、マスター・ヨーダを師としてもいい。私淑と呼ばれる方法で、『アイデア大全』(読書猿、フォレスト出版)から学んだ。

700年前の詩人ペトラルカも、私淑を実践した一人だ。
Peto

彼は詩人としての名声を博してはいたものの、うつ病に悩まされ、精神的危機に陥っていた。自己欺瞞による惨めさと、絶対に叶うことのない恋と、欲情が生み出したドロドロの愛憎関係に悩まされていた。

誰にも言えない悩みだから、脳内で相談する。彼にとっての、バーチャル師匠はアウグスティヌスだった。『告白』を読み込み、写本に書き込み、ついには脳内で擬人化できるまでに至る。

彼は、このバーチャル師匠向かって、赤裸々に心情を吐露する。アウグスティヌスは霊的な存在として立ち上がり、雄弁に弟子を叱る。『わが秘密』は、この師弟問答の対話体で成り立っている。

不幸だという嘆きには……

たとえば、自分のことを不幸だ、惨めだという嘆きには、「死」を考えよという。絶対確実なのは死ぬことだから、死をひたすら省察えよと説く。落ち込んでるとき、不吉なことを考えない方がよいのではと思うのだが、アウグスティヌスによると、人はみな死を遠くに見すぎだという。そして、愛や名誉といった欲望によって、死への省察が曇らされることが、苦悩の原因だというのだ。

なるほど、死が確定的なことは分かる。だが、「まだ」死なないつもりでいる限り、真にやりたいことが先送りされる。結果、目の前の欲望に引きずられ、現実とのFIT/GAPを感じるというわけか。自分の意思で、自分の不幸を選び取るという感覚は、確かにそうかも。

脳内アウグスティヌスは、キケロの言葉を引きつつ、「死ほど確かなものはなく、死の時ほど不確かなものはない」と述べる。それは明日どころか、次の瞬間だってありうる。これをありありと実感できるのなら、「まだ」死なないつもりから生じるさまざまな苦悩も消えることだろう。代わりに、限られた時のなかで真にやりたいこと(すべきこと)が何かを探し、それを実行しようとするに違いない。

悩みごとで自分を壊さないために

笑ってしまうのが、バーチャル師匠に嘘をつくこと。自分の脳内の話だから、嘘なんてつきようがない。にもかかわらず、あえて嘘を言い、論破され、考えを改める。本音の自分を守りつつ、建前の自分に折伏される経緯を記すことで、自己欺瞞を表面化させる。

本音の自分の「昔の女が忘れられないけど、今の女が愛おしい」という告白に、バーチャル師匠は叱責する。それを「愛」という名で呼ぶこと自体が、神の愛への冒涜になる。恋人どうしが互いに掻き立てる感情を「愛」と呼ぶことで、宗教的口実を与えているというのだ。

アウグスティヌスにとって愛とは、神の愛しかないのだから、同じ名で呼ぶなという建前は分かる。だが、本人は、あまりにも俗物的な告白をする。このコントラストが非常に面白いのだが、本音 vs 建前でキャラを分けるのは、自分を壊さないための多重人格なのかも。

さらに、異なる人格どうしの対話を記すことで客観視できる。脳内でこれをやると、だんだんすごい勢いになって収拾がつかなくなる。いったん「書く」ことで、正しいか否かに関係なく、確定させる。その上で吟味できるから、暴走を押さえることもできる。

ペトラルカは本書を誰にも見せず、生涯にわたって何度も手を加えたという(『わが秘密』というタイトルにした所以はこれ)。

私淑の実践をお試しあれ。

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女の子の匂いを追い求めた男の話『香水』

目はそむけることができる。
耳は塞ぐことができる。
だが、息を止め続け、匂いを拒むことはできない。
匂いはそのまま体内に取り込まれ、胸に問いかけ、即座に決まる。好悪、欲情、嫌悪、愛憎が、頭で考える前に決まってしまう。

匂いは、どんな意志より説得力をもち、感情や記憶を直接ゆさぶる。人は匂いから逃れられない。

だから、匂いを支配する者は、人を支配する。
そんなことができればだが。

これは、そんなことを目指した男の物語である。

Perfume

男の名は、ジャン=バティスト・グルヌイユ。

超人的な嗅覚をもち、あらゆる物体や場所を、においによって知り、識別し、記憶に刻みこむ。におい(匂い、臭い)に対し、異常なまでの執着心をもち、何万、何十万もの種類を貪欲に嗅ぎ分ける。彼に言わせると、世界はただ匂いで成り立っている。

舞台は18世紀のパリ。

通りは汚濁まみれ、垂れ流しの糞尿が鼻を刺す。魚と屠畜の腐臭と、鼻を背けたくなる疫病の膿んだ臭い、死体の山から漂ってくるものは、目にクる。小便とカビと経血の臭いが入り混じり、日常的に街を覆う。バリの香水が世界一なのは、パリが世界一臭い都市だったからなのかもしれぬ。

このパリで、グルヌイユは「匂い」でのし上がろうとする。

においという、精緻で的確で膨大な「語彙」をもつがゆえ、人とコミュニケートする「言葉」の貧弱さを低く見る(というか興味がない)。さらに、においを組み合わせ、新しいにおいを創造することができる。私たちが言葉を操るように、いや、それ以上に、グルヌイユはにおいを操り、意思を伝えることができる。しかも匂いは言葉より強い。私たちは、匂いを拒むことができないのだ。

そんな彼が、究極の匂いを持つ少女を嗅ぎつけてしまったら?

鋭敏すぎる嗅覚を持つグルヌイユにとって、世界一臭い都市パリは、端的にいって地獄である。誰と会っても、どこへ行っても、ひどい臭いから逃げられない。そんな彼にとって、馥郁たる香気を纏わせる少女が、どのように感じられるか。

本書は、「臭い」に限らず「匂い」の描写が素晴らしい。食欲をそそる香ばしさ、情欲を招き寄せる生々しいにおいと、眠りを誘う芳香。危険を発するきな臭さと、もう手遅れとなった血腥さ。あらゆる「におい」がここにある。そして、においは強烈であればあるほど儚い。ページを繰る手を止めて、思わずくんくんする。

目を凝らすように、耳を澄ますように、鼻に集中する。グルヌイユの運命をたどることで、わたしの嗅覚も鋭くなった気がする。

匂いは言葉より強い。彼が追い求めた究極のにおい、ぜひ一緒に嗅いでほしい。

 

 

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映画『ニューヨーク公共図書館』を観たら、未来の図書館が見える

フレデリック・ワイズマン監督『ニューヨーク公共図書館』を観てきた。ニューヨーク公共図書館(NYPL)そのものを主役とし、そこに集う人々を丹念に描いており、ものすごく贅沢な3時間が、あっという間だった。

図書館を超えた図書館の姿を眺めているうちに、「図書館とは何か?」についての具体的な回答と、その回答から導かれる未来の図書館が見えてきた。

Nypl

図書館とは何か

「図書館とは何か?」について持っているイメージは、この映画によって覆るかもしれない。静謐な空間で賢そうな人が本に没頭するといった静的な姿がある一方、大盛況の就職セミナーや講演会、パソコン教室、低所得者への支援といった動的な面が際立つ構成となっている。

そうした営みを見ているうちに、図書館とは、ただ本を集めて貸し出すだけの場所ではない、ということに気づく。

NYPLに集う人は、様々な「知りたい」ことを抱えてくる。面接でどうふるまえば合格できるか知りたい、ネットの情報を手に入れたい、移民局の資料から祖先をたどりたい……そうした「知りたい」についてサポートする、それが図書館なのだ。本を集めて提供するのは、図書館の目的ではなく、手段なのである。

「図書館とは何か?」について、本編で明かされている。プロジェクト会議で建築デザイナーが、「図書館は人だ」と断言する。図書館は、ただ本を集めた書庫ではない。知りたいことについて一生かけて学ぶ場所だという。

本を集めただけでは、「知りたいこと」へたどりつける保証はない。「検索すればいい」というが、どの言葉を検索すればいいか、みんなが分かっているとは限らない。さらに、キーワードがおぼつかないのであれば、検索結果が正しいのか、検索結果が全てなのかすら分からない(ソクラテスの探求のパラドクスやね)。

「知りたいこと」へたどりつくためには、学ぶ人と、学びを手助けする人がいる。図書館には本が沢山あるが、本だけがある場所ではない。たまたま本というメディアが多いだけで、その本質は、「知りたいこと」と人を結びつける場所が、図書館なのだ。

インターネットと図書館

そして、いまやネットの時代だ。

「知りたいこと」のかなりの部分は、インターネットで手に入る。いや、ネットですべて完結し、本なんて開く必要すらないかもしれぬ。あるいは、デジタル化された本を自宅から「借りる」ことだってできる。建物としての図書館や、物理的な本は、ネットに浸食され、不要になるのではないか?

この疑問に対し、NYPLは明確に応える。

まず、「知りたいこと」と人を結びつけることが図書館であるなら、その手助けとなる電子本やネットはどんどん活用すべし、というスタンスをとる。

幹部会議で予算の割り当てが象徴的だ。紙の本とデジタルの本、どちらに重点を置くべきかが議論になる。「デジタルの本の貸出は前期の300%です」という報告を受けて、デジタルライセンスの購入に大きく割り当てる。

さらに、「ニューヨークの300万人はデジタルの暗闇にいる。その人たちにインターネットアクセスを広げる」と宣言する。具体的には、図書館のネット端末の充実はもちろん、低所得者へルータを格安で貸し出すところまでする。ネットを最も必要としている人は、ネットに接続できない人なのだ。

この試みが政治家の目を引き、福祉対策として評価され、NYPLの予算が増額され、継続的に行われるようになる。図書館が社会を動かした事例である(という話だったはず……違ってたらご教示ください)。

未来の人が知りたいこと

「知りたいこと」と人を結びつける場所が図書館であるなら、未来の図書館が見えてくる。すなわち、未来の図書館は、未来の人が「知りたいこと」と人を結びつける場所になる。

では、未来の人が知りたいこととは何だろう?

すでに起きている未来としては、超「超高齢化社会」だ。

そこでは、医療情報へのニーズがさらに増えるだろう。しかし、「がんが消える」エセ医学の氾濫により、正確な医療情報へのアクセスが難しくなっている。本だけでなくネットも同様だ。高齢者やその家族は、膨大な情報を前に途方にくれた挙句、SEO対策ばっちりのイワシの頭を拝まされることになる。

現在、図書館のリファレンスでは、医療関係の相談は不可となっている。直接的な質問への回答は難しいとしても、ライブラリーという形で見せるのはできないだろうか?

たとえば、医療機関に委託することで、良質な医療情報を「本のリスト」として示す。あるいは、そうしたリストの本を集めた書棚を展示するのもいい。本だけでなく、信頼できるネット情報も選んでもらう。情報はどんどん古くなるため、一定期間で更新をかけてゆく。

つまり、図書館に行くことで、スクリーニング済の情報が手に入るのだ。NYPLのように、図書館が単独で活躍する必要はない。図書館は、医療機関と連携して、「知りたいこと」と人を結びつける場所として振舞う。個人が行っている例としては、[一般市民も使える医学図書館]がある。このポータル的な役割を担うのだ。

未来の図書館

上記は、わたしのジャストアイデアにすぎぬ。だが、未来の図書館の一つとして提案したい。

映画を観ることで、図書館の本質が見えてくる。「日本にはNYPLがない」と徒に嘆くのではなく、「図書館は、知りたいことと人を結びつける場所」という本質から考えてみよう。すると、いま抱えている「知りたいこと」に応じて、さまざまなアイデアが湧き出してくるに違いない。

それこそが、未来の図書館なのだ。

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リアル君の名は。おっさんが女の子の匂いを買ってきて身につけたら、たまらない背徳感を味わえた

「女の子の匂い」をご存じだろうか?

「臭い」ではなく「匂い」である。

よく言われる、せっけんの香りではない。デオドラントや柔軟剤、コンディショナー、乳液、ハンドクリーム、化粧水、オーラルケア、ファンデなどの香料、フレグランスでもない。それらは、女の子から漂ってくる様々な匂いを構成する要素にすぎない。

そうした、外づけの化合物ではなく、女の子自身から発する匂いだ。ココナッツミルクや白桃を想起させる、何とも言えない、「匂い」というより、「あの感じ」といえば分かるだろうか。心地よく、はっとする感じ、あるいは身体的にオンになる感覚である。

これは、わたしの変態性が生み出した妄想にすぎぬ、と考えていた。しかし、優れた先人たちの研鑽と研究の末、「女の子のいい匂い」とは、以下の物質であることが判明している。

 ・高級脂肪酸と安息香酸エストラジオール
 ・ラクトンC10、C11

では、女の子の匂いを再現することはできるのだろうか?

結論からいうと、可能だ。[女の子の匂いを再現する]で解説した方法で、脂肪酸やアルデヒトの「匂い」を再現することができる。しかし、一般には入手困難な試薬であったり、実験器具を要するため、手軽さに欠けるところがあった。

しかし、今回ご紹介するやり方では、673円(amazon価格)で女の子の匂いを再現できる。ロート製薬が開発した薬用ボディクレンズ(商品名:デオコ/DEOCO)を使う。

ロート製薬の研究によると、女性には、「若いころに特有の甘い匂い」が存在し、それは加齢とともに減少することが解明されている。匂いの正体は「ラクトンC10、C11」であり、10代後半~20代の女性に特有で、30代半ばから減少するという[若い女性の甘いニオイの正体]

デオコを使うことで、この甘い香りまとうことができるという。

で、お試しで使ってみた。

Deoco

結果は、まちがいなく女の子の匂いだったことを報告する。普通のボディソープとして使ったのだが、シャワーで流したあと、全身が女の子の匂いになる。

身体はくたびれたおっさんなのに、目を閉じると若い女の子の匂いに包まれている。おもわず自分を抱きしめ、ありもしない胸をまさぐる。心と体が入れ替わるリアル「君の名は。」か、あるいはプリキュアに変身したかのようで、非現実感がハンパない。

ただし、匂いだから慣れる。しばらくすると、分からなくなる。

ところが、問題はここからである。

時間が経つにつれ、身体についた匂い成分が、汗で揮発する。自分の体臭に、女の子の香りが混ざった新たな匂いがわきあがる。「自分の汗+女の子の匂い」に脳がバグり、背徳感がハンパない。

最も危険なのは、お布団にくるまっているとき。お布団のなかから、むんむんと女の子の匂いがする(おっさんの汗なのに!)。ぶっちゃけありえない非現実感と、人としてダメになる背徳感に打ちのめされる。

このイリュージョン、体感してほしい。
(効果は個人差があります)

 

 

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「語りえぬもの」とは何か?『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考 』

「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』は、この一文で終わっている。

ウィトゲンシュタインは、この一文を証明するために『論考』を書いた。
すなわち、この一文が分かることは、『論考』が分かることに等しい。

何度も挑戦し、挫折し、さまざまな回り道をしてきたが、古田徹也氏が著した『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』で、ようやくたどり着いた。やっと「分かった」と言えるようになった。

しかし、本当に「分かった」のか? 独りよがりに陥っていないか?

それを確かめるために、自分の言葉で説明しなおす。「語りえぬもの」とは何か? なぜ沈黙しなければならないのか? 「語りえぬもの」について、わたしの理解を確かめたい。

「語る」とは何か

まず、「語る」について語ろう。ここで言っている「語る」とは、何か意味のあることを言葉で表現することだ。たとえば、

  • あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。
  • ない僕達はまだ知らあの日の名前を花見た。

最初の文は、意味が通るが、二番目の文は何を言っているのか分からない。「語る」とは、最初の文の、何事か意味のあることを言っていることだ。

そして、この語ることができるものを、どんどん積み上げてゆく。

  • あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。(経験の記述)
  • 火星のオリュンポス山頂にiPadが刺さってる。(想像上の話)
  • 運動方程式はm=Faである。(科学的知見)

日本語だけではなく、英語でもドイツ語でも「語る」ことができる。どんなに突飛な話でも、肯定文でも否定文でも、順序を入れ替えても、意味が通るのであれば、「語る」ことはできる。まだ発見されていない物質や物理法則も、「語る」に入れていい。

そうやって、語ることができることで世界を埋め尽くしてゆく。でも、未来のことや発見されていないことなんて、何て呼べば良い?

Katarienu

「究極の言語」で語りつくす

なので、『論考』は、「究極の言語」を提案する。語りえるものを最大限に拡張するため、古今東西の(未来も含めた)あらゆるものを語りつくすことができる言語だ。これなら、すべてのことが「語りえる」のだろうか?

『論考』によると、否、になる。

なぜなら、世界を語りつくしたとしても、その「語り」を保証する対応づけそのものは、語ることができないから。「語り」を保証する対応づけとは、語りを構成する文字列(音声)が、まさにその対象である、とわたしたちが信じていることだ。

たとえば「あの花」という文字列から、それがあの日見たまさにあの花であることは想起できるが、その関係性(「あの花」=「あの夏の日に見た花」のイコールの部分)は、語ることができない。わたしたちは、「あの花」と言われて、あの夏に見た花を思い浮かべるのみである。

「語る」に先立ち成り立っているもの

「言葉とその対象に対応づけがあること」なんて、わたしたちは当たり前すぎて見過ごしてしまうかもしれない。だが、わたしたちが意味のあることを語るに先立ち、それを意味あるものにするために、言葉と対象に対応づけがある。

そして、その対応づけは、語ることができない。世界を埋め尽くす「語ることができるもの」の中で、わたしたちは想起する他ないのだ。

では、「語りえぬもの」とは、語りを保証する対応づけだけなのか?

「視界=世界」という思考実験

これも、否、になる。

『論考』では、独我論者を攻撃することで、「語りえぬもの」が見えてくる。独我論者とは、自分にとって存在していると確実に言えるのは、自分だけだという立場である。つまり、自分の目に映るものだけが全て(=世界)であり、それ以外は疑いうる、と主張する。

つまり、彼の目には世界はこうなっている(視界=世界)。

Me

『論考』では、独我論者は間違っていると指摘するが、「言おうとしていること」は正しいという。

まず、この絵は正しいかというと、間違っている。仮に、「視界=世界」としよう。すると、この「目」は何なのか? ということになる。独我論者の世界の中に、独我論者自身のの目は存在しない。しかし、彼の目は確かに存在する。だから、この絵は間違っている。

私の限界=世界の限界

しかし、独我論者が「言おうとしていること」は正しい。確実に存在するといえるのは、自分という主体が認識する範囲が限界であり、それを超えたものは、あるかないか分からないという考え方である。最も目がいい人でも、視界が届く範囲が世界になるのだ。

これを言葉で置き換えると、言葉が届く範囲が「語ることができる」範囲になる。語ることができる最大最長の範囲なら、究極の言語を持ってくればいい。その究極の言語をもってしても、届く範囲は、主体が認識する限界を超えることができない。

究極の言語でもって最大限に語りつくした世界が主体なのであり、その向こう側は、語ることができないのである。

『論考』には、他にも「語りえぬもの」が出てくるが、ここでは2つの方向から「語りえぬもの」にアプローチした。

ひとつは、「語りえる」ことを語り尽くす前に、語ることそのものを成立させている対応づけであり、もうひとつは、「語りえる」ことを語り尽くした後に、それでも届かない限界になる。

語りえることを語り始めるに先立つ静寂、あるいは、語りえることについて語り尽くした後の沈黙、これこそが、「語りえぬもの」になるのだ。

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