単純化した構造で歴史を語る危うさ『グローバル・ヒストリー』

「開国」という言葉に違和感がある。

なぜなら、江戸時代は鎖国をしていたというが、オランダや中国、朝鮮や琉球、アイヌと交易を行っていたからだ。近代化に向けた啓蒙のニュアンスを感じるからだ。

確かに、鎖国方針の停止は大きな転換点だ。しかし、普通にあった西洋以外との交易を無視して、欧米との交易開始を、「国を開く」と強調することにもやっとしている。

ドイツの歴史学者・ゼバスティアン・コンラートによると、この「開国」というレトリックは、日本だけでなく、中国、朝鮮にも適用されているという。西洋以外とのつながりを無視し、欧米との関係の開始を際立たせるために用いられる表現になる。

コンラートは同様に、「国民」「革命」「社会」といった概念に注意を向ける。あまりに馴染んでしまっているので普通に見えるが、これらは、ヨーロッパの局地的な経験を、普遍的な理論として他の地域に押し付けるための用語になるという。

ヨーロッパ中心史観からの脱却

19世紀からの西洋のヘゲモニーの圧力の下で、ヨーロッパ中心史観が歴史記述を覆っているという。ウィリアム・マクニール『西洋の台頭』に代表されるように、ヨーロッパが独自に達成した成果が、周辺へと伝播する一方通行の世界史だというのだ。

この指摘は的を射ている。私が読んだのはマクニールの『世界史』だが、同じスタンスだったからだ。帝国主義を現金収支に換算したうえで、コスト/メリットが割に合わなかった(だから収奪という指摘は当たらない)という自己正当化は、ヨーロッパ中心史観による世界史の語り直しと言ってもいいだろう。

しかし、ヨーロッパが「ひとりでに」発展して近代社会が形成されたわけではなく、非ヨーロッパ世界との相互作用が決定的な役割を果たしているという。インドの歴史家のサンジェイ・スプラマニヤムはこう述べる。

近代とは、歴史的にグローバルに絡み合った現象であって、発生源から広がるウイルスのようなものではない。近代は、孤立していた社会を接続させる一連の歴史的プロセスのなかに位置づけられ、広範に及ぶさまざまな現象のなかに、その根を求めなければならない(※1)。

例えば、近代化の代名詞ともなっている「人権」という概念は、フランス革命を契機にヨーロッパから世界中に広まったと喧伝されているが、同時代のハイチでは権利の言説として普遍化されていたという(※2)。

「近代化」という用語それ自体も、西洋のヘゲモニーにあるといえる。これに取って代わる共通的な言葉が無いため、これからも使い続けられるだろう。だが、少なくともヨーロッパ中心的な価値観をまとっていることを自覚しながら使いたい。

ナショナル・ヒストリーの限界

一方で、近年の歴史学では、ナショナル・ヒストリーからの脱却も目指されている。

ナショナル・ヒストリーとは日本史、フランス史、ベトナム史といった国民史のことで、一国内だけで歴史的変化を説明するアプローチだ。

これは、教育のプロセスの中で、ナショナル・アイデンティティを形成し、国民国家を建設するプロジェクトとしては有効だったかもしれない。だが、イデオロギーや政治・経済活動、ウェブを基盤とするコミュニケーションの広がりが地球規模になっているいま、一国の歴史だけで自国を語るのは、現実的ではないだろう。

これを、無理やり統一的に語ろうとすると、羽田正『新しい世界史へ』で紹介されているような、奇妙な歴史記述になる。たとえば、中国における「漢民族による中華の統一と分裂」というStory(≠History)や、フランスにおける「自国史+植民地史」という「世界史」ができあがる。

現在、私たちの目に映る国境線で分けられた中の「国としてのまとまり」なんてものは、かなり人工的なもので、場所によっては恣意的とすら言っていい。言語や文化、民族と宗教、生物学的特徴、ライフスタイルから価値観といった、様々な重なりの結果にすぎない。

グローバル・ヒストリーとは何か

ヨーロッパ中心史観から脱却し、ナショナル・ヒストリーの限界を乗り越えるため、グローバル・ヒストリーが提案されている。

グローバル・ヒストリーは、研究対象ではなく、固有の視点だという。

例えば、グローバル・ヒストリーは、ある地域に着目して、その内因的な変化を追いかけたり、異なる地域を比較して、相似や異同を明らかにする歴史叙述ではない。代わりに、次のように述べている。

個人や社会が、他の個人や社会と相互作用する仕方にとりわけ注意をはらう。その結果、領域性、地政学、循環、ネットワークといった空間的メタファーが、発展、ずれ、後進性といった時間の語彙にとって代わる傾向がある(※3)。

この傾向は、必然的に、近代化を目的とした歴史叙述を否定するという。つまり、社会的な変化の方向は決まっており、古い伝統から、近代社会へ発展していく……といった観念を批判する。世界の全ては、ヨーロッパの歴史通りに経験していくという考えの否定である。

その実例は、コンラート自身が示している。

それは、「記憶をめぐる戦争」と名づけられた、日本の歴史教科書の問題だ(※4)。コンラートは1990年代の教科書の記述内容についての議論を俎上に、日本、中国、韓国と異なる場所で共時的に起きた構造を明らかにする。

冷戦の終焉に伴い、政治的・経済的な変容の中で、韓国や中国の犠牲者の声が日本で耳を傾けられるようになり、新しい政治的連携が国境を超えて生まれたという。これは戦争記憶の回帰ではなく、地政学的構造によって条件づけられた、新しいアジアの公共圏の到来だと示している。

ファシズムのグローバル・ヒストリー

一方で、ファシズムの歴史化を、グローバル・ヒストリーから試みる。

これまでの歴史家は、ファシズムを定義しようとし、カリスマ的リーダーや、大衆動員、あるいは超国家主義イデオロギーといった用語のリストを作り上げる。

だが、こうした特徴は、ヨーロッパが経験したファシズムに由来している。そのため、日本やアルゼンチンなどの事例を見ることを困難にしているという(できたとしても、ヨーロッパの劣化コピーになる)。

実際のところ、ドイツ国家社会主義(ナチズム)でさえ、イタリア・ファシズムによって据えられたモデルにしたがっているわけでもないし、その逆でもない。

だが、グローバル・ヒストリーからのアプローチの場合、ドイツやイタリアのモデルを踏襲して他の地域でファシズムが生まれたと考えるのではなく、ヨーロッパのモデルをどの程度着想の源泉としたかという観点から捉えなおすことができる。

その時代には、現代の歴史家が並べるファシズムの定義はなかった。当時の社会が共有していた情報の中で、各国政府は、自由主義と共産主義の間で第三の道を模索していた。こうした状況を踏まえ、物資や人民を動員するための新しい組織形態へと至らしめたものは何か……そこに焦点を当てて体系化することで、ファシズムについてグローバルな統合を図ることができるというのだ。

ビッグ・ヒストリーとの違い

グローバルな視点で歴史を捉えなおすなら、ジャレド・ダイアモンドやデヴィッド・クリスチャンの仕事が思い浮かぶ。

彼らの世界史は、戦争や革命など、人が関与する個々の歴史的事象を分析しない。代わりに、人類の営みを数千年スケールで捉えなおし、大陸を塊とした巨視的なレベルで分析する。地質学や疫学、進化生物学を援用し、科学的手法で歴史を記述しなおそうとする。

例えば、ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』なんて典型的だと思う。

「ヨーロッパがアメリカ大陸を侵攻できたのはなぜか?」という疑問に対し、武器や装備、文化や宗教、気質や独創性といったファクターから離れ、決定的な差異は地質学的なものだと指摘する。

すなわち、南北に広がるアメリカ大陸とは異なり、東西に広がるユーラシアの地塊では、気候的に似通った社会が数多く存在する。そのため、定住に必要な動植物がより速く伝播することになる。加えて家畜の伝播の副作用として、病原菌への耐性も培われていたというのだ。

これは、グローバル・ヒストリーではないのか?

コンラートは慎重に言葉を分ける。彼らの仕事は、ビッグ・ヒストリーまたはディープ・ヒストリーだというのだ。

もちろん、グローバル・ヒストリーは、ある世紀全体を描くような時間幅を持たせ、地理的に離れた地域で同時代に起こった共時性に着目した研究を行う。だが、そこで扱われているのは、個人や集団の「人」を視野に入れている。

一方で、ビッグ/ディープ・ヒストリーでは、人の役割は後ろに退き、歴史は匿名のマクロな力に動かされているイメージを伝える。地理や環境の力は絶大で、人の行為主体性や偶発性といったものは考慮されない。ダイアモンド曰く、「主題は歴史学であるが、アプローチ的には科学的手法」(※5)なのである。

コンラートは、こうした手法の危うさを指摘する。地理的な要素や環境条件は人の営為にとって重要だが、人の活動のすべてを決定するわけではないからだ。

ホロコーストは「人」の所業

これを考える事例として、ナチス・ドイツを挙げている。

ある短い時間枠にズームすると、特定の個人や集団の行為が浮上する。1933年のヴァイマル共和政や、1942年のヴァンゼー会議と、そこで検討されたユダヤ人の殺害のプロトコルが研究対象になる。そこでは、出席者の個々人の責任が問われることになるだろう。

この時間枠を広げると、特定の個人や集団は退き、より多くの匿名のファクターが登場する。19世紀以前からのドイツにおける反セム主義の役割や、ルターまで遡る権威主義的傾向が考慮に入ってくるというのだ。

空間的尺度についても同様だという。諸地域の学校の教師が、ユダヤ系の子どもたちをどのように扱ったか、その動機は何であったかに焦点を合わせた研究もある。ズームアウトすると、党エリートや官僚制内部の競合や社会制度の責任に焦点を当てることもできる。

コンラートは、こうした個々のアクターを退け、グローバルなファクターを特権化することに疑問を呈する。すなわち、ホロコーストがグローバルな諸力によって説明されうるなら、ナチスへの焦点がぼやけてしまわないか? という疑問である。

グローバル・ヒストリーの課題

この疑問は、グローバル・ヒストリーの課題となる。

時空間の尺度を広げることにより、起こったことが不可避であり、あたかも必然であったかのようにミスリードする危険性がある。そこでは個人や集団の役割が存在しないかのように描き出され、説明責任や罪の問題を外部化してしまう恐れが出てくる。

全てをグローバルで捉えようとすると、歴史の中から固有名詞が失われていく。十字軍を開始したのは誰か、太平天国の乱で苦しんだのは誰か、そしてヴァンゼー会議の議長は誰かといった「人」の行為主体性が失われることになる。

こうしたミスリードに陥らないためには、グローバルなファクターと、「人」の行為主体性とのバランスが重視されることになる。歴史を単純化した構造で語りたい誘惑は、常につきまとう。だが、その構造だけでは語ったことにはならない。なぜなら、歴史は人の営為であるのだから。

コンラート『グローバル・ヒストリー』は、歴史を語る、その語り方についての考察を深めてくれる。

※1  Hearing Voices: Vignettes of Early Modernity in South Asia, 1400-1750

※2  Laurent DUBOIS ,”Avengers of the New World: The Story of the Haitian Revolution” Harvard University Press,2009

※3  『グローバル・ヒストリー』 ゼバスティアン・コンラート、岩波書店 p.65

※4  Sebastian Conrad, Remembering Asia: History and Memory in Post-Cold War Japan

※5  『銃・病原菌・鉄』ジャレド・ダイアモンド、草思社、上巻 p.46



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ピンチョン『ブリーディング・エッジ』読書会が楽しすぎて時が溶けた

ありのまま、起こったことを話すと、読書会が始まったかと思ったら、いつのまにか終わってた。何を言ってるのか分からないかもしれないが、私も何が起きたのか分からない。

トマス・ピンチョンの最新作『ブリーディング・エッジ』のオンライン読書会に参加したら、時間が溶けた。みなさんのオリジナルな斬り口、読者目線、ネタ、面白解釈、論争発火点を次々と聞いているうちに、あっという間に4時間が過ぎた。


ウェブで死者と出会う意味

もちろんピンチョンだから、どこをどう料理しても面白い。

百科全書な小説で、神話や歴史から始まって文学、数学、物理学、暴力と陰謀とパラノイア、都市伝説と幻想怪奇、洒落と地口、メタフィクション、セルフパロディなど、いくらでも、どれだけでも話せる。

たとえば誰かが「ここ良いよねー」と言うと、皆でふむふむと読み直しながら、あーでもない、こーでもないと同意したりツッコんだり。オンラインだから各人の画面で見ているけれど、これ、同じ画面をスクリーンに映しながら検索結果や Youtube や GoogleMap を眺めながら話したら、無限に語り合える気がする。

しかも今回、『ブリーディング・エッジ』は2000年代のTech系(しかもウェイ系)を俎上に乗せているから、IT関連の皆さんからすると大好物だったかもしれぬ。

たとえば、ウェブで死者と出会うこと。

あの時代は、本人とアカウントが紐づいていた。匿名性を盾にネット人格を作る人がいる一方で、プロフィールに住所や連絡先をカジュアルに書く人も少なからずいた。だから、ネットで本人だといえば、向こう側に本人がいると考えるのが自然だった。

では、ネットの海の深~いところで、死んだはずの人が接触してきたら、どう考える? 物語の後半、主人公と深~い仲になったある男と話し合うところがある。そいつしか分からないような情報を持っているし、いかにも彼なら言いそうなセリフを吐く。

いまの感覚なら、なりすましやbotを疑う。

あるいは、パラノイア的に、彼女の偏執が生み出した妄想に過ぎないと考えることができる。一方で、ロマンティックなものとして読み取った方もいた。彼の魂じみたものがいっときとどまる場所として、ディープ・ウェブがあると考えると美談になる。私はここ、惑星ソラリスの「海」的なものを想起していたが、同じことを考えてる方がいて安心した。

パラノイア or ロマンティックと、どちらでも両義的に読めるように仕掛けてあるのが楽しい。

この「ディープ・ウェブ」、2000年代に物議をかもした「セカンドライフ」をモデルにしている(ような気がする)。ネット最大(?)という噂の仮想世界で、今でもサーバが生きてて驚いた。

ピンチョン・マゾヒズム度は低め

死者の痕跡を探すところで、昔の、フィルムノワールやスパイものの型を踏襲している、という指摘が鋭い。

シニカルな男の主人公、謎めいた女、冷酷な悪役が出てくる犯罪映画だが、その男女を逆転させている。

絶妙なタイミングで救いの手が差し伸べられたり、ドンピシャのタイミングで危機一髪を切り抜けるなど、昔のスパイ映画まんまなのだが、ピンチョンはこれを意図的にオーバーライドしているというのだ(確かにボンドガールを逆転させたような役回りのトミー・リー・ジョーンズみたいなキャラが出てくる……)。

ピンチョン「らしからぬ」物語構造への指摘も鋭かった。

ピンチョンといえば、ページをめくるたびに新しいキャラが登場し、今までの脈絡と無関係のエピソードが際限なく連なり、全く違う空間と時間で物語が展開されるなど、読者の鼻先を掴んで振り回すのが十八番だ(ピンチョン・マゾヒズムと呼ばれていたが、激しく同意するwww)。

しかし、『ブリーディング・エッジ』は主人公のマキシーンだけにライトが当たっていて、読み手は彼女だけを追いかけていれば筋が追えるようになっている。

新キャラがどんどん出てくるのは通常運転だけど、新キャラ登場→(マキシーン脳内の)回想シーン→新キャラとマキシーンの絡み→退場というシークエンスをきっちり守っており、分かりやすい。「これ誰?」にならずに読めるのは珍しい。さらに、現代のアメリカ合衆国を舞台にしているという点でも、世界に入りやすいと言える。

ピンチョン「にしては」読みやすいのも手伝って、本書は、ピンチョンの入門書としても良いかも、という意見もあった。確かにピンチョン未読の方に『メイソン&ディクソン』や『逆光』はお薦めできないなぁ……

ピンチョンの、ピンチョンによる、ピンチョンのためのセルフパロディ

ずっと引っ掛ってた謎に決着がついたのも良かった。

マキシーン、とある男に抱かれるのだが、あれほどシニカルでロジカルで辛口な彼女が、なぜ(分かったうえで)ノコノコと男の部屋に行くのが、どうしても理解できなかった。

だって、第一印象最悪だぜ? さらに某所で手に入れた情報によると、その男、南米で色々と後ろ暗いことをしていたらしく、(かつ既婚で)どう見てもお近づきにならないほうが良い経歴なのに、なぜ?

猛者たちに問うてみたところ、意外と惹かれている描写があったよとか、最初は嫌いなキャラが好きになるってマンガとかでよくあるよとか意見がもらえる。あるある、「こいつ、おもしれー女」とか、少女漫画に典型のパターンやね。

なかでもユニークなのは、恋愛モノの典型パターンを踏んだ上で、それをパロってぃるのではないか、という指摘だ。なるほど! これコミックとして軽く読んでもらうため、と考えると、その後の〇〇〇な展開が楽になってくる。物語を重くさせないための仕掛けなのかなぁ……

他にも、死ぬ死ぬフラグが立ちまくっているのに死なないキャラとか、(勃起するとミサイルが落ちてくるから)尿意が起きると情報が飛びこんでくるとか、現実と幻想の境目が分からなくなったとき、現実との錨となるのが家族といった、さまざまな視点を教えてもらう。

いわれてみると、確かにそう読める。同じ小説を読んでたのに、そう取るのか!? と何度も驚かされる。笑うポイントが微妙にずれてたり、ピッタリ合致してたり、いろいろあって楽しい。

読者の数だけ物語を成立させてみせる神技を、あらためて知らされる。たいへん楽しい読書会でした! 主催のふくろうさん、参加された皆さん、ありがとうございました。コロナ禍が落ち着いたら(これも常套句になりつつある)、酒盛りしながら本談義をしたいですね。

以下自分メモ。

ピンチョンwiki

https://pynchonwiki.com/

重力の虹wiki

https://scrapbox.io/GravitysRainbow/

ふくろうさんの『重力の虹』レビューが狂ってて好き。

https://owlman.hateblo.jp/entry/2019/12/30/192042

山形浩生さんの「トマス・ピンチョン東京行」、お手本にしたいくらい最高の嘘。

https://cruel.org/talkingheads/pynchon.html



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中学のとき国語でやった『最後の授業』は、中年になって世界史を学んだら解釈が変わった

中学のとき、国語の授業で、アルフォンス・ドーデ『最後の授業』をやった。

フランス領アルザス地方に住む少年の目を通して、ドイツに占領される悲哀を描いた短編だ。明日からフランス語は禁止され、ドイツ語で教わることになる。だから今日は、フランス語の最後の授業なのだ、という話だ。

先生はフランス語の素晴らしさを伝えながら、国語を守ることの大切さを説く。ずっと勉強をさぼっていた少年は恥じ入るが、やがて授業の終わりを告げる鐘が鳴る。先生は蒼白になりながらも、黒板に大きく、「フランスばんざい」と書く……

少年と同じくらいの年頃だったわたしは、いたく感動したことを覚えている。特に、先生の語る「ある民族が奴隷となっても、国語を守っている限り、牢獄のカギを握っているようなものだ」という一節は、長く記憶に残っている。

ところが、『詳説世界史研究』を読んだら、印象が変わった。

物語の舞台となったアルザス地方は、もともと神聖ローマ帝国の領土であり、言語的にはドイツ語圏に属していた。石炭資源が豊富なこともあり、フランスの侵略先となり、編入と割譲の歴史をたどっている。

アルザス地方における歴史的展開をまとめると、こうなる

  1. 中世以降、ハプスブルク領(神聖ローマ帝国領)によるゲルマン語派の言語が浸透(ドイツ化)
  2. フランス領となる(1648年ウェストファリア条約)。フランス革命を経て生活様式がフランス化
  3. ドイツ帝国領となる(1871年普仏戦争)。アルザス住民に国籍選択条項が適用され、フランス国籍選択者は退去(★)
  4. ドーデ『最後の授業』を発表(1873)

アルザス地方は、ドイツ圏とフランス圏の中間にあり、一種の緩衝地帯として成り立っていた。そのため、状況によってドイツ領となったり、フランス領となったりしていたのだ。

問題は3.★だ。

普仏戦争の結果、アルザス地方はドイツ領となる。住民は国籍の選択を迫られ、フランス国籍を選択した場合、退去することとなる。『最後の授業』をするアメル先生がまさにそうだ。だが、実際にフランス国籍を選択した人は、住民の9%だったという。

つまり、ほとんどの住民は、ドイツ国籍を選んだことになる。考えてみると、この少年、フランス語はダメで、まともに読んだり話したりできないといった一節があった。じゃぁ何語を話していたんだ? ということになる。作中では言及されていないが、少年の名前―――フランツ―――が全てを物語っているように思える。

ドーデが『最後の授業』を書いたのは理解できる。彼はフランスのブルジョア階級であり、愛国心を持っていたのだろう。普仏戦争の結果によるアルザス地方の割譲に危機感を抱き、書いたのだろう。

確かに、国語を守ることの大切さはその通りだ。同じフランス人である、エミール・シオランは、「祖国とは、国語だ」と言った。私たちは、ある「国」に住むのではなく、ある「国語」に住むのだというのだ。

だが、この物語はむしろ、その「国語」がイデオロギーによって歪められる好例として読んだ方がよいかもしれぬ。ドーデは彼なりの愛国心に従ってこの物語を書いた。だが、この物語が海を渡り、時を超え、「国語」の教科書に採択されることによって、美談は、欺瞞に変わったのだ。

『最後の授業』は、1985年を最後に、教科書から姿を消している。

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BRUTUS「大人の勉強案内」が良かった

なぜ勉強するのか?

わたしの場合、知りたいことを知ろうとしているだけで、「勉強している」という意識は少ない。それを知るのに英語が必要だから学んでいるだけだし、より深く知るために背景知識に当たっているだけ。

だから、より効率の良い学習法や、学びなおしが必要なジャンルを紹介されると、嬉しい。そんなわたしにピッタリの特集を、BRUTUSでやっていたのでご紹介。

好きなものを好きなだけ学ぶ(読書猿)

学ぶための動機付けから始まり、時間管理、資料の探し方、暗記術、継続して学ぶヒントなど、「独りで学ぶ」ためのあらゆる技法が詰まった『独学大全』(レビュー)。その著者の読書猿さんのインタビューが紹介されている。

『独学大全』は700ページを超える辞書並みのぶ厚い本で、その形状から「鈍器本」と呼ばれている。あまりのぶ厚さに敬遠している人は、この記事を読むといいかも。この記事そのものが、『独学大全』の良いイントロダクションとなっているから。

例えば、スキミングの技術。本は全部ちゃんと読まなくてもいいという。一冊の本、一つの文章から、必要な箇所だけを掬いとって(スキミングして)読む方法が紹介されている。だから、この記事を手がかりに、『独学大全』そのものをスキミングしてもいいわけだ(著者自身も推奨している)。

あるいは、「独学は挫折する」と言い切っているところ。「僕も毎日どころか10分ごとに挫折してますから」と苦笑ぎみに答えている。大事なのは、挫折も織り込んだ上で、失敗からの立ち直りを早くすること。今はダメでも、「未来の自分は今より賢い」という姿勢を保ち続けること。これは勇気づけられる。

『独学大全』の紹介だけにとどまらず、彼自身がやってきた失敗談も交えつつ、最終的には「なぜ学ぶのか」への実質的な答えが記されている。全面同意するが、ここでは書かないので、BRUTUSでチェックしてほしい。

対話で学びが深まる(山本貴光・吉川浩満)

そうだよなーと最近、実感しているのがこれ。一人で机に向かうだけでは限界がある。知ったことを誰かに話し、フィードバックを受けることで、さらに広げ・深める。

文筆家の山本貴光さんと吉川浩満のお二人の対談が紹介されているが、この記事がそのまま学びを深めるヒントとなっている。お二人は、古くからの友人であり、共著者であり、共に学ぶ仲間でもあるという。最近では、Youtubeで対談しつつ、まとまったものを著書にして出すというスタイルで活動している。

この記事では、お二人が対談しながら、「ドゥルーズ&ガタリ」や「荒川修作&マドリン・ギンズ」を例に、対談しながら学びを深めるエピソードが紹介されている。

「結論」が決まってるなら、そのまま書けばいい。だが、そこへ至るまでの紆余曲折やプロセス自体が重要な場合が出てくる。これを対談形式で進めることで、想定される反論を吟味したり、議論を修正することで、よりブラッシュアップすることができる。

例えば、共著である『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。』がそうだ。古代ローマの賢人・エピクテトスの教えを、お二人で読み解いてゆく。生きていく上で、悩ましいこと、煩わしいことが出てくる。どうすれば良いか? 結論を言うだけなら簡単だ。

コントロールできることと、コントロールできないことに分ける。そして、コントロールできないことには関心を持たない。

そんなことは分かっている。それができたら苦労はしない。じゃぁ、どうすればこの結論を活かせるか、が問題になる。本書では、新任の年下の女上司に対するモヤモヤや、電車遅延に怒鳴り込むオッサンを例に、対話しながら領域展開していく(レビュー)。

図書館司書から学ぶ検索術(小林昌樹)

図書館のレファレンスサービスをご存知だろうか。知りたいことはあるけれど、それをどうやって調べれば良いかが分からない場合、調べもののプロである司書が手助けしてくれるサービスだ。

ググればよい、という人。じゃぁ、「最近の若者はダメだというグチは、どれくらい古くからあるか?」という疑問をググってみるといい。エジプトの壁画など怪しげなネタを取り除くと、プラトン『国家』に行き着く。これ、わたしが書いた[この記事]を出所としている。そしてこの記事は、品川図書館のレファレンスサービスで調べてもらったものだ。

BRUTUSでは、図書館情報学の小林昌樹さんが、レファレンスサービスを紹介している。司書の目から見ると、ネットでは探せない情報が確実に2つあるという。

一つは、ネット普及以前の情報。1995年以前の事柄全般は、ネットには無い。あったとしても、それは何か(たいていは書籍)を元にした情報となる。もう一つは、Googleが情報収集していないデータベースの類いになる。そうした情報は、国会図書館のリサーチ・ナビから分野ごとのデータベースに列挙されている。

ネットは便利だが、調べ方によってノイズだらけになったり、エコーチェンバーになることもある。司書がネットをどのように使っているかは、『プロ司書の検索術』がよさそう。

他にも、松岡正剛編集『情報の歴史21』の紹介や、図鑑の図鑑、地球外生命体を探求する関根康人さんの話、Youtube大学、Wikipediaの歩き方など、もう一度学びたい人のための役に立ちそうな情報が集められている。優れた独学人を探す、「人のカタログ」としても有用なり。これ、シリーズ化してほしいなぁ……

 

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ピンチョン『ブリーディング・エッジ』を読むという異様な体験をした

ピンチョンの没入型小説。

相変わらず異様だ。めり込むように読む。どれだけ異様かというと、主な登場人物を見ると分かる。主役はマキシーン・ターノウ。

マキシーン・ターノウ ティレム・アンド・ネレイム調査会社の詐欺調査のエージェント。ホルスト・レフラーの「準元妻」。子どもはジギーとオーティス。アッパーウェストサイド在住。ベレッタを愛用。ユダヤ人。
ヴァーヴァ ジャスティンの妻。足元は基本の黒のスパイクヒールでキメている。ポモナ大卒、マイナードットコムで成功。娘はフィオーナで、クーゲルリッツに在籍。
ルーカス ジャスティンのビジネスパートナー。ディープウェブを探索する3Dバーチャルアニメ「ディープアーチャー(Departure/出発)」をジャスティンと一緒に開発。AKIRAのネオ東京、攻殻機動隊、メタルギアソリッドの影響が強く出ている。お気に入りのTシャツはDEFCONの「FBIみっけた(I spotted the fed!)」
デイトーナ・ロラン マキシーンの会社の受付。
ショーン 禅クリニックを経営。マキシーンのセラピスト。臨済宗の公案問答をする。サーファー。
アーニーとエレイン マキシーンの両親。オペラ大好き。
ブルックとアヴラム・「アヴィ」・デシュラー ブルックはマキシーンの妹。仲は微妙。アヴィはブルックの夫。イスラエルから到着。一年間キブツで暮らしてた。ハッシュスリンガーズはアヴィにオファーを出す。ウィンダストはアヴィに興味がある。Tシャツのロゴは「ALL YOUR BASE ARE BELONG TO US」
エマ・レヴィン ジギーのクラヴマガ(近接格闘術)の先生。恋人はナフタリ(元モサド)。
レッジ・デスパード ドキュメンタリー映画の制作者。ビデオ撮影を通じて交友関係が広い。コンピュータセキュリティ会社のハッシュスリンガーズに雇われている。マキシーンに助けを求める。エリックと一緒に、ハッシュスリンガーズのとんでもない不正を見つけてしまう
エリック・アウトフィールド コンピュータオタク。ハッキングが得意。足フェチ。レッグに雇われている。ロウワー・イースト・アベニューのワンルームに住む。Tシャツのロゴ「真のギーグはコマンドプロンプトを使う」。使っているマグカップには「CSS IS AWSOME」がプリントされている。
ハイディ・コズマック 高校時代からのマキシーンの親友。ポップカルチャーの教授。香水はプワゾン。
エヴァン・スチューベル ハイディの元婚約者。
ドリスコル・パジェット hwgaahwgh.comのWebグラフィックデザイナー。ウォッカスクリプトというバーで時々ボーカルをしている。
ホルスト・レフラー マキシーンとフレンドリーに分かれた元旦那。最近、世界貿易センタービルの百何階かを転貸しはじめた。
ゲイブリエル・アイス ドットコム億万長者で、ハッシュスリンガーズの最高経営責任者(CEO)。マキシーンはその金融取引に疑いを抱く。妻はタリス、子どもはケネディ。ディープ・アーチャーの買収をもくろむ。
タリス アイスの妻。ハッシュスリンガーズの代表。
ニコラス・ウィンダスト 五十歳ぐらい。ポリエステルの割合の高そうなトレンチコート。レイバンのパチもんのサングラス。あるいは、パープル・ドランク色のTシャツと鮫革のスポーツジャケット。政府と民間の回転ドアを出たり入ったりするネオリベ。十一番街のアパートに住む。
シオマラ ウインダストの最初の妻。グアテマラ国籍。
ドッティ ウインダストの2番目の妻。
マーチ・ケレハー タリスの母。マキシーンの友人でありご近所さん。ブロガー。コロンバス・アベニューとアムステルダム・アベニューの間に住む。かかとにサウンドチップが埋め込まれ、歩くたびに『ジョーズ』(1975)のオープニング曲が流れてくるスリッパを愛用。ブログ執筆は、キーライム色のiBookを使う。
シド・ケレハー 運び屋。優しそうなおじさん風情で、短めに刈り込んだ軍人カットにプレジデンテのロングネック。
フィリップス「ヴィップ」エパデュー ザッパー詐欺の一味。シェイとブルーノは友達。
フェリークス・ボインゴー 10代のカナダ人。アンチ・ザッパーのプログラマ。モントリオールとニューヨークを行ったり来たり。レスターのパートナー。派手なオレンジ系のダブルニットのスーツ。
ロックウェル「ロッキー」スレージャット ベンチャーキャピタリスト。アイスの新興企業に投資している。
コーネリア ロッキーの「WASP」妻。買い物依存症。
レスター・トレイプス hwgaahwgh.comの元従業員。アイスのマネーロンダリングから横領している。
イゴール・ダシュコフ 表向きはソビエト式のアイスクリームや違法飽和脂肪バターを扱う。スペツナズの顔役。ミーシャとグリーシャは手下。ロシアの高級リムジンZiL-41047に乗る。80歳。ブレジネフみたいな顔。『霧につつまれたハリネズミ』(1975)が好き。
チャンドラー・プラット 金融業界の大物フィクサー。ミッドタウンの六番街に法律事務所を構える。
コンクリング・スピードウェル 犬レベルの嗅覚を持つ「フリーランスの鼻のプロ」。ネイザー・ガンの発明者。ヒトラーの匂いを追い求めている。ハイディと付き合っている。
チャーズ・ラーディ 光ファイバーのセールスマン。タリスのボーイフレンド。アイスが雇ったタリスのお目付け役。ペニスが本体で、それに東テキサス人が付いている。
カーマイン・ノッツォーリ 第20管区の刑事。連邦犯罪者データベースのアクセス権限を持つイタリア男。アロハシャツが短すぎて腰の拳銃が微妙に見え隠れしている。マキシーンのことを助けてくれる。ハイディと付き合っている。
マーヴィン ピストバイク便のメッセンジャー。ドレッドヘア。オレンジのジャケットにブルーのカーゴパンツ。メッセンジャーバックもオレンジ。kozmo.comのロゴ。USBフラッシュメモリ、VHSテープ、彼が届けるブツは意外なヒントをマキシーンにもたらす。
ランディ 小柄でずんぐり、でも武器を持っているタイプ。赤い野球帽の後ろの穴からポニーテールが飛び出している。アイスの屋敷でマキシーンと一緒にワインを盗む。
ジャスティン シリコンバレー出身のプログラマー。ルーカスとはスタンフォード大学で出会った。
ロイド・スラッブウェル CIAの監査局。ワシントンDC勤務。コーネリアのいとこ。
イアン・ロングスプーン ベンチャーキャピタルの投資家。ジンジャーエールをチェイサーにして、フェルネット・ブランカを飲む。
エブラー・コーエン イカサマ臭い確定給付型退職金プランのやつ。
ユーリ 陽気なスポーツマンタイプ。1万5000千ワット出力の発電機を牽引するハマーを運転。

断っておくが、実際に出てくるのは100人を超える。ページをめくるたび新キャラが増殖し、好き勝手にしゃべりまくり、動き回る。ディープ・ウェブを徘徊する3Dインタフェース、戦闘少女サブカルチャーのスパイクヒール、バスケットボールの先祖となるマヤ文明の儀式、ヒトラーが愛用したアフターシェーブローション、誘拐した子どもをスパイに育てる施設、LSAが起動する創造性、「私を見ろ」と話しかけるペニス……ギャグ、挿話、エピソードトーク、戯れ歌、いいまつがい、百科全書的なネタの1割しか分からなくても、5分おきに笑わせられる。次から次へと奔流のように翻弄されながら、訳注や GoogleMap を頼りにストーリーをつかみとる。

主人公はマキシーン、おせっかい母ちゃんだ。小学児童2人を育て、円満離婚の<元>夫と付き合い、ベレッタをバッグに、詐欺調査のエキスパートとして働く。主役も脇役もキャラが入り混じる『逆光』『ヴァインランド』とは異なり、マキシーンだけ見てればいい。彼女が、次から次へと首をツッコみ、マンハッタンを駆け回り、事件と事故の目撃者となる様を見てればいい。

舞台は2001年のニューヨーク。春分の日から始まるから、同時多発テロの半年前。00年のドットコム・バブルが弾けた直後で、Google は IPO前、マイクロソフトが「悪の帝国」と呼ばれていた時代だ(懐かし―!)。会計検査士の資格を剥奪されたものの、不正を見る目は超一流のマキシーン。ひょっこり見つけた変なお金の流れから、アメリカの闇にうっかり踏み込んでゆく。

対する敵役は大金持ちのゲイブリエル・アイス。バブル崩壊に乗じて、膨大な量の光ファイバーケーブルとサーバを買占め、検索エンジン(Yahoo! だ!!)のクロールから隠れた深淵「ディープ・ウェブ」に進出して、巨万の利益を吸い上げる。秘匿していた情報を嗅ぎまわるマキシーンは邪魔っちゃ邪魔なんだけど、家族や会社も含めて入り組んだ妙な関係になってしまっているのが笑える。

プロットの奔流も様々で、後期資本主義の構造的な悪を糾弾する流れもあるし、インターネット監視社会を幻視するハードボイルドな光景も見られる。バーチャル・リアリティが、ミート・リアリティを浸食する怪談チックな演出も入っているし、洗脳装置としてのテレビジョンが定期的に浮上してきたり、やってることはドロドロなのに、妙にスタイリッシュな不倫とか、ワケが分からないよ(でも楽し―)。

デフォルメされ戯画化されたキャラ造形や、マキシーン完全ご都合主義的なストーリー展開、陰謀&パラノイア小説だと思っていたら、完璧な家族小説だったとか、臨界突破した伏線のせいで2回以上読む必要が出てくる物語構造など、規格外の異様な小説となっているが、ピンチョンならば平常運転やね。

これがピンチョンの最新作『ブリーディング・エッジ』の紹介だ。

ん? わけ分からんって?

それで合ってる。ピンチョンの小説を読むということは、説明できない体験をすることだから。

ピンチョンの小説体験に代わる何かを説明するのは難しい。ちょっと見てみな、ピンチョンの感想を語る人は、ピンチョンの他の作品を引き合いにあれこれ述べている。他の何かと比べられない、唯一無二の存在なのだ。ドストエフスキーのおしゃべりの響き合いと、千夜一夜のてんこ盛りエピソードと、白鯨の脱線と引用が交じり合い、足して割らない濃密な物語に揉みしだかれ、惑い、迷い、ビクつき、笑い、憤る。

そういう、異様な体験をした。

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『バイオハザード ヴィレッジ』の怖さを、ホラー作品で喩えてみる

何かに追いかけられている。

暗く、不慣れな場所で、どこへ行けばいいか分からない。闇雲に逃げ惑い、扉の鍵をガチャガチャやっているうちに捕まる。そして、死ぬよりもおぞましい目に遭うことになる。はやくGAME OVERにしてくれ、と死を願う。そんな悪夢を体感できる。

あるいは振り返り、その「何か」と対峙する。

試す価値はある。手持ちの火器をとっかえひっかえ叩き込む。「何か」を直視したくないが、攻撃が効いているかは観察しないと。さっき手に入れた武器が効いてるようだ。このまま倒せるかもしれない。期待と不安と高揚感が押し寄せてくる。

『バイオハザード ヴィレッジ』は、そういう恐怖と快楽の両方をいいとこどりしたゲームだ。


その「何か」は、さまざまな作品を彷彿とさせる。

たとえば、トビー・フーパ―監督『悪魔のいけにえ』。チェーンソーを掲げ、耳障りな大音響とともに、まっしぐらに駆け寄ってくるレザーフェイス。追いつかれたらひとたまりもなく切り刻まれ、絶命するまで絶叫しつづけるだろう(今ならアマプラで観れるゾ)。

または、スタンリー・キューブリック監督『シャイニング』。逃げるためには見通しの良いロビーを横切る必要がある。だが、見通しが良いということは、こちらの姿も目に留まりやすいということだ。すぐに見つかって、罵りながら向かってくる「何か」。かろうじてドアで締め切るが、進入してくるまで、時間の問題だろう。

あるいは、スティーヴン・スピルバーグ監督『ジョーズ』。水中を自在に動き回る「何か」の姿は捉えられない。水に落ちたらアウトなら、落ちなければいい……そう考えていると裏をかかれる。「何か」はずる賢いのだ。そして、ひとたび水に落ちると、ようやく「何か」を見ることができる。巨大な口に飲み込まれるまでのわずかな間だが。

もっとも怖いと感じたのは、自分が求めていたものが「何か」になって、逆に追いかけられるシーンだ。

自分が探索し、謎を解き、敵を倒す「理由」になっていた存在が、見知らぬ、おぞましい「何か」になって襲ってくる(『声』が同じであることが、怖さを何倍にもする)。ようやく出会えたはずなのに、悲鳴しかでてこない。変わり果てた姿に、それでもなお、面影を探してしまう。

この、怖さと悲しさが混ざり合うこの気持ちは、スティーヴン・キング著『ペット・セマタリー』で味わった。家族への愛と、よみがえりを描いた傑作だ。

 

著者のスティーヴン・キングが、「あまりにも恐ろしくて忌まわしいので、出版を見送ってきた」と述懐せしめるほどの作品である。半信半疑で手にした後、本当にそうだと納得した。愛するものを失う悲しみは、計り知れないものがある。

そして、失ったものを取り戻そうと足掻く姿は、どこまでが愛で、どこからが狂気か、判別できない。その意味で、『バイオハザード ヴィレッジ』は、『ペット・セマタリー』と深いところでつながっている。

もちろんゲームだから、やられっぱなしでは済まない。機を見て、謎を解いて、反撃しないと。自分が味わってきた、さまざまな怖さを反すうし、なおかつ、それぞれの怖さを斃す、そんなゲームなり。

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数学的に美しいと、科学的に正しいのか?『数学に魅せられて、科学を見失う』

科学実験から得られたデータというのは、ノイズだらけで、混沌としており、それらをきれいに説明する数式やモデルを作るのは簡単ではない。

そのため、データを説明する数式の候補をいくつか検討することになる。このとき、よりシンプルに実験を説明する、美しい数式の方が、正しいような気がする(オッカムの剃刀、という言葉があるくらい)。

しかし、数学的に美しいことは、科学的に正しいことを保証しない。ひょっとすると、数学的に美しくない数式やモデルの方が、科学的には正しいのかもしれないのだ。

にもかかわらず、数学的に美しい方が科学的に正しいとする誘惑に駆られ、それに合わせて実験データの取捨選択まで手を染める科学者がいる―――現役の物理学者である著者は、そう告発する。

『数学に魅せられて、科学を見失う』は、ザビーネ・ホッセンフェルダーの初の著書となる。フランクフルト高等研究所の理論物理学者だ。ちょっと変わったタイトルだが、サブタイトルは過激だ。”How Beauty Leads Physics Astray” すなわち、「美はいかにして物理学を迷走させるか」になる。

実証的でない物理学者

著者に言わせると、「美」という主観的な価値が、理論物理学者たちを迷走させていることになる。

にわかには信じがたい。

実験や観測によるエビデンスの裏打ちと、数学を用いた厳密で一貫性のあるロジックを何よりも重視するのが、物理学者ではないか? 都合の良い数字をつまみ食いして、それっぽい数式をひねり出し、仲間ウケする論文をでっちあげる夜郎自大とは対極の存在だと思っていた。

だが、それは私の思い込みらしい。

たとえば、CERNの大型ハドロン衝突型加速器(LHC)での実験について。高エネルギーでの物理現象から生じる粒子を観測する実験では、莫大なデータが捨てられているという。

実験では、毎秒10億回もの陽子-陽子衝突が起こる。これは、CERNの大型コンピュータをもってしても、全ての衝突データは保存できない。衝突が起きている間、リアルタイムで選別され、アルゴリズムが「興味深い」と判断したものが保存される。10億のうち、保存されるのは100~200だけだという(※1)。

著者はこれを、「悪夢のシナリオ」と呼ぶ。科学者の仕事を全て厳密にチェックするわけにいかないから、結果を信じるしかない。だが、この10年もの間、基礎物理学の鍵となるデータを葬り去ってきたのであれば、悪夢というほかはない。

あるいは、「微調整(fine-tuning)」という手法について。言葉とは裏腹に、「微」どころではなく、ガッツリ調整する。外れ値を除外するとかいうレベルではなく、何十乗も桁が違うものが、巧妙に打ち消し合えるようにチューニングする。

物理学者は、極端に大きな数字や小さな数字を嫌う。そのため、観測結果と理論の数字がかけ離れているとき、両者を適合させるために、モデルのパラメータを精密に調整する。この調整を非常に精密に行っているので、fine-tuning と呼んでいる(※2)。

でもそれって、不自然じゃないか?

その通り。物理学では、「自然」という特別な概念が登場してくる。私たちが考える、そのままの、という意味ではなく、「微調整(fine-tuning)していない」ものを「自然」と呼ぶ。

この「自然さ」という考えが厄介だ。

もし、パラメータを微調整をしないと、宇宙は、いま私たちが生きているような自然な状態にはならなかったという。だが、パラメータを微調整をしたものを物理学では「自然ではない」と呼ぶのである。

「美」が物理学を迷わせる

同様に、「美」も厄介だ。

物理学者が理論の素晴らしさを伝える際、必ずと言っていいほど「美」を強調する。この法則は美しいと。

ノーベル物理学賞を受賞したポール・ディラックは、「物理法則は数学的に美しくあるべきだ」という行動指針を打ち立てた。量子力学に絶大な貢献をしたヴェルナー・ハイゼンベルクはこう述べる。

もし自然が、素晴らしく単純で美しい数学的形式へと私たちを導くなら、そのような形式は「真」であり、自然の本質の一つを明らかにしていると考えざるを得ない

フェルミ国立研究所のダン・フーパーは、こう書く。

それでも、自然が超対称的に作られているという期待にストップをかける効果は無い。物理学者の多くにとって、超対称性はあまりにも美しく、あまりにもエレガントなので、私たちの宇宙の一部でないはずがないのだ。

「自然法則は美しい」と信じたいのは分かる。だが、美しいからといって、それが科学的に正しいかどうかは別だ。

新しい理論がどれくらい見込みがあるかを検証するとき、通常であれば、実験や観測で実証する可能性を考える。だが、理論物理学では、設備や予算の関係上、おいそれと簡単に実験できない。

時間の問題もある。ニュートリノの予測から検出まで25年、ヒッグス粒子の確認には50年、重力波の直接検出には100年かかった。いまや、新しい自然法則を検証するには、ひとりの科学者の人生には収まりきれないほど長い年月を要することだってありうる。

そのため、物理学者は、美しさ、自然さ、エレガントさを手がかりにして、新しい理論の見込みを検討する。この検討は、数学的にも「テクニカルな自然さ(technical naturalness)」として定式化されているくらいだという。

美しさ、自然さ、エレガントさ……それって主観的な基準ではないの? と著者はツッコミを入れる。客観的であるべし、という科学者の義務を恐ろしく逸脱しているのではないか、と危惧する。

そしてついには、「理論物理学者がみな、自分たちの非科学的な手法を認めたくなくて、集団的幻想に陥っているのではないか」とまで言い出す。

科学と技術は軌を一にして進む

どうなんだろう?

本書で解説される超対称性やヒッグス粒子の説明はかなり高度だが、それでも、今までのやり方で説明に行き詰まっていることは分かる。一方、多元宇宙論やループ量子重力理論など、様々な説明が生み出されている。

これは、物理学が豊かな証拠だと考える。

100年未来から振り返ると、いまは過渡期の一種であり、様々な理論が生まれては消えていく状態なのだ。自分の研究キャリアの間で、ブレイクスルーが起きていないからといって、物理学に携わる人々を科学でないと断定するのは尚早ではないか、と思う。他の学問領域を参考に、いまの物理学の営みを見直すということだってできる。

たとえば、何十桁も桁が違うパラメータの微調整は、そもそも当てはめるスケールが違う別モノを、同じように比較しようとしているからではないか? という問題には、経済学が参考になるかもしれない。

経済学では、同じ人の営みを、わざわざ「ミクロ」と「マクロ」に分けている。その理由は、それぞれで説明しようとしているものが、互いにうまく当てはまらないからだ。そのため、前提を変えて棲み分けを行っている。

また、テクノロジーの進展という観点から眺めると、もう少し長い目で見ても良いのではないか。いまある実験装置で観測できる範囲には限界がある。10億回の陽子衝突の100個しか保存できないのは、別に科学者の怠慢だからではなく、今の技術ではそれが限界だからだ。

たとえば「冥王星の写真の変遷」を眺めると、1996年のドット絵みたいな冥王星が、2015年には地表の浸食までがハッキリと見えるようになっている。これは観測技術が進んだからだ。同様に、量子の観測技術が進展し、LHCが時代遅れになる頃には、有効なデータが大量に得られるだろう。

科学は技術と軌を一にして進むものだから。


※1 Steinar Stapnes 2007 "Detector challenges at the LHC"  Nature 448:290–296
https://www.nature.com/articles/nature06078

※2 Wikipedia:fine-tuning
https://en.wikipedia.org/wiki/Fine-tuning

wikipedia:階層性問題
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8E%E5%B1%A4%E6%80%A7%E5%95%8F%E9%A1%8C

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受験英語【だけ】頑張った私に足りないのは語彙力『英語の読み方』

単語の意味、分かるだろうか? (私はほぼ全滅)。

 1. US China Trade Deal - BBC News より
  ceasefire
  reciprocal
  subsidize
  thorny
  truce

 2. China warned to show Taiwan respect - BBC News より
  decent
  reckless
  predecessor
  infurate

 3. Coronavirus whistleblower doctor is online hero in China - CNN より
  epidemiologist
  death toll
  detain
  quarantine
  whistleblower

受験英語よりは少しレベルが高いけれど、BBCやCNNのニュースによく出てくる単語ばかりだという。

ceasefire は映画かゲームで「撃ち方止め!」と知っていた。 whistleblower は笛を吹いて警告する人(内部告発者)かなと覚えていた。decent は「ちゃんとした」のはず……あとはさっぱりだ。

大学受験に求められる語彙力は、5,000~7,000語だという。『英語の読み方』(北村一真著) によると、ニュースで使われる語彙は7,500~15,000語レベルなので、圧倒的に足りない。

多読多聴で浴びるようにやればいいのだが、そんなに英語を頑張る気はない。SNSやgoodreadsがサクっと読めればいいだけなので、なるべく楽に、より楽しく学びたい。

本書を読むと、次に私がどうすれば良いかが分かる。

語彙力を底上げする

そこでお薦めされたのがこれ。

Merriam-Webster's Vocabulary Builder

単語をパーツに分けて、それぞれの意味を解説していく。語源や形を知ることで、芋づる式に単語が出てくるようになるという。

たとえば、bell という語。元は Bellona というローマ神話の戦争の女神から来ており、bell が付いていると争いに関連していると推察できる(ちなみに彼女の夫は Mars で、これまた古代ローマの軍神)。

antebellum : ante(前の)bellum (戦争)で、戦前という意味になる(英語だと第一次・第二次世界大戦前で、米語だと南北戦争前)

bellicose : ケンカ好き、好戦的。20世紀だと、ドイツのヴィルヘルム2世、イタリアのムッソリーニ、日本の東條によく使われる

こんな感じで増やしていく。ちょっとニヤっとしたのが、これ。

rebellion : 反逆、反乱。集団になった反逆者たちは、政府をも転覆することもある。アメリカ独立戦争は、イギリスの立場から見ると rebellion になる

これ、『リベリオン』やんけ!!

ガンアクションとマーシャルアーツが合体した映画で、めちゃめちゃカッコいい一方、ストーリーはキレイに忘れていた。ラストで民衆が蜂起してたので、なるほどだから「反逆」なのかと腑に落ちる。

語源や成り立ちから解き明かしているので、うんちくが溜まっていく。勉強というより雑学ネタを拾い上げる楽しみがある。

ネットの英語は癖がある

Yahoo ニュースの見出しは15文字までだから、より短い言葉に置き換えたり、助詞を削ったりしている。それと同様に、英語も短い言葉にしている。本書で解説されている中から、いくつか紹介する。

見出しの頻出 意味 一般的な単語
air 放送する broadcast
ban 禁止する prohibit
bar 妨害する prevent
eye 検討する consider
halt 中断する suspend
ire 怒らせる provoke
pry 調査する investigate
rule 支配する dominate

「ON AIR」から air の動詞は想像がつくし、SNSで「banされる」と見たことがある。だが、eye 「検討する」や bar 「妨害する」という意味は知らなかった。p.67の「見出しでよく使われる動詞」大量あるので、これだけ押さえておけば、もっと素早くニュースを掴めるだろう。

あるいは、語数制限があるtwitterでも、省略的な表現が出てくる。

So disappointed that #MarkZuckerberg values profit more than truthfulness that I’ve decided to delete my @Facebook account. I know this is a big “Who Cares?” for the world at large, but I’ll sleep better at night.

Mark Hamill 2020.1.13

https://twitter.com/HamillHimself/status/1216482695061966848

マーク・ザッカーバーグが真実よりも利益のほうを重んじるということにひどく失望したので、フェイスブックのアカウントを消しました。世間一般の人にとっては「それがどうした?」という話題であるのは承知ですが、おかげで夜は気分よく眠れます。

最初の文の頭に I was を補う必要がある。でないと主語と動詞がない形になってしまうから。いきなり So that で始まる文章は見覚えがあるので大丈夫だが、2つ目の that の使い方がポイントだという。

最初の that はdisappointed の理由を示す副詞節だが、2つ目の that は so に呼応して、がっかりした結果を示している。

他にも、ネットの英語は独特なので、SNSがスラスラ読めるようになりたい私は押さえておきたい。たとえばこんなの。

  • Are you dissing him? (彼をディスってんの?)
  • How many likes do you want to get? (いくつ「いいね!」が欲しい?)
  • friend/unfriend(facebookで友だちになる、友だちからはずす)
  • tweetable (ツイートする価値がある)
  • instagenic,instagrammable(インスタ映え)
  • go viral(バズる。もとはvirusウィルスという語から派生)

動画は宝の山

物理や料理の番組を youtube で観るけれど、ほぼ日本語に限られている。海外の番組も紹介されるけれど、言葉の壁を乗り越えるのは難しい。

ここからは、「あわよくば」私が観れるようになるといいなと期待するリンクを紹介する。

● Michael Sandel:What's the right thing to do? [URL]
「マイケル・サンデル:正しい行いとは何か?」『これからの正義の話をしよう』の動画版といったところか。50分

● The Tyranny of Merit: What's Become of the Common Good? [URL]
「マイケル・サンデル:能力主義の横暴」同名の書籍のダイジェストなのかも。9分

● Yuval Noah Harari: What explains the rise of humans? [URL]
「ユヴァル・ノア・ハラリ:人類の台頭はいかにして起こったか」サピエンス全史と一部重なる。17分

● Steven Pinker: Is the world getting better or worse? [URL]
「スティーブン・ピンカー:データで見ると、世界は良くなっているのか、悪くなっているのか」『暴力の人類史』が18分で紹介してもらえるとするなら、破格の効率だ。

こうした動画をきちんと理解して、紹介できるようにまでなりたい。

他にも、Google検索を使った英文チェックや、情報の流れや構造から読解する技法など、「使える英語が身につく」とはどういうことか、身をもって分かるようになっている。同著者の書籍は、『英文解体新書』を読んだが、『英語の読み方』の方が間口が広く入りやすい印象だ。

受験英語は頑張ったけど、いまいち英語が読めないという方にお薦め。というより私がもう一度読むべき一冊。

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レイ・ブラッドベリ『華氏451度』を物語を創る側から分析する―――第3回物語の探求読書会レポート

小説、漫画、映画、舞台、ゲームなどジャンルの垣根を越えて、「物語」について考えるオンライン読書会。

今回は、SFの古典レイ・ブラッドベリの傑作を俎上に、脚本家タケハルさん、文学系Youtuberスケザネさん、そして私ことDainでとことん語り合った。

書物を焼く意味とは? 本を殺す洗練されたやり方や、焚書に抗う究極の対策を始め、ブラッドベリの創作技法など、盛りだくさんでお届けする。

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以下、ブラッドベリ『華氏451度』の内容に触れており、ネタバレをしています。

<目次>

  1. 本を焼く者は、やがて人を焼くようになる
  2. 華氏451の根源「多様性を殺していく」
  3. 時代を超える本の条件:a passionate few
  4. 本の殺し方
  5. 本はカジュアルに焼かれてきた
  6. イマジネーションを喚起させるSF作家
  7. 焚書への究極の対抗策:暗記
  8. 他の芸術と比較した文学の強みとは
  9. 思想小説とサスペンス性
  10. この世ならざる世界にいかにして引き込むか
  11. 現実世界との架け橋をつなぐか
  12. 批評をするな、物語らせよ
  13. ブラッドベリの創作技法
  14. 終わりに&次回の課題図書

 

<動画>

https://youtu.be/zXwVgaKuaXM

 

<本文>

スケザネ:今回はブラッドベリ『華氏451度』についてお話しましょう。2月くらいに課題図書に決めたのですが、これ、Eテレの100分de名著『華氏451度』の2021年6月で紹介されるんですよね。びっくりしました。『華氏451度』はタケハルさんの提案だったのですが、どうしてこれを?

タケハル:ぶっちゃけ偶然です。課題図書を決めるとき、なんか小説にしようと思って本棚を見たら最初に目に入ったのがこれだから。ディストピアもので、予言的なものもあるかな、と思って。

スケザネ:久々に読み直してこれ、1950年代に書かれたのかよ、やべーなと何度も呟きました。

Dain:読んだ&映画観たのがすっごい昔で、ほぼ忘れてたので私も読み直しました。最初に読んだときの印象と、おっさんになって読むときの感じ方がかなり違ったので、その辺を話せたらと思います。

 

1. 本を焼く者は、やがて人を焼くようになる

Dain:最初に届いたメッセージはこれ、「本を焼く者は、やがて人を焼くようになる」ですね。ドイツの詩人でしたっけ、ナチスの焚書について言っていたと記憶しています。で、ナチスの焚書だと、本のリストの本(A Book Of Book Lists)というのがあって、そこで紹介されてます。

 <ナチスが焼いた本のリスト>

  • 武器よさらば(アーネスト・ヘミングウェイ)
  • いかにして私は社会主義者となったか(ヘレン・ケラー)
  • 野性の呼び声(ジャック・ロンドン)
  • 鉄の踵(ジャック・ロンドン)
  • 世界史概観(H.G.ウェルズ)
  • 理性に訴える(トーマス・マン)
  • ジークムント・フロイトの全著作

ナチスが焼いた本のリストを眺めていると、ナチスが何を嫌がってて消したがっているのかが透けて見える。

そしてこれ、インターネットの法則と合致しているのが面白いです。あれです、「消すと広がる」という法則。twitterとかでつい口が滑ってヤバいこと言ってしまい、謝らずに消すと、誰かが魚拓を取ったりしてて逆に広がってしまうやつ。

たとえばウェルズなんて宇宙戦争が有名なんですが、ナチスが焼いた本ということで、『世界史概観』が歴史に残り続けるんだろうなぁと。

スケザネ:確か岩波で出てますね、ウェルズの『世界史概観』。消すと広がる、皮肉なものですね。

Dain:はい。そして焼かれた本のリストつながりで、『華氏451度』で焼かれた本のリストを作ってきました。これです。

 <『華氏451度』で焼かれた本のリスト>

  • バートランド・ラッセルのエッセイ
  • ミレー(画家の?)
  • ホイットマン
  • フォークナー
  • ダンテ
  • スウィフト
  • マルクス・アウレリウス

文学が目立ちますが、このリストを見ていると、今度はブラッドベリが何を重要な本としているのかが透けて見えて面白いですね。

でもここに、マンガが無いんですよ。マンガは? と思っていると、こうある。

引き金を引いたのはテクノロジーと大衆搾取と少数派からのプレッシャーだ。おかげでいまはみんな夜も昼もしあわせに暮らし、政府お目こぼしのコミックと古き良き告白ものと業界紙を読んでいる。

p.98 より

ブラッドベリに言わせると、コミックは低俗なもので、人にものを考えさせないように、人をバカにさせるイメージがあるんでしょうか。

タケハル:1950年代っていったら、スパイダーマンすらいないですからね。スーパーマンがいたくらいかな。手塚? ディズニーはいましたね。

スケザネ:日本だったら水木しげるですかね。まぁ確かに1950年代のアメリカのコミックといったら俗悪という印象があるかも……

 

2. 華氏451の根源「多様性を殺していく」

Dain:『華氏451度』が突き抜けているのは、無差別なんですよね。昔の焚書は選んで焼いてた。ナチスは焚書のリストを作ったし、始皇帝は医学や占いや農学以外を焼くなど、選んでた。でも『華氏451度』では、本を読むと人は考え始めるから無差別に焼け、なんです。

人に考えさせないために、本は短くなるというのが面白いんです。本の内容は圧縮され、ダイジェストやタブロイドになり、最後は10行ぐらいの要約だけが辞書に残る。

『ハムレット』について世間で知られていることといえば、「古典を完全読破して時代に追いつこう」と謳った本にある1ページのダイジェストがせいぜいだ。保育園から大学へ、そしてまた保育園へ逆戻り。

p.92より

これで思い出したのが、『1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365』みたいなやつ。古典や名著のダイジェスト版です。よく間違われるのは「あらすじを知っている=教養がある」こと。そうではなく、「あらすじを知っている=教養のあるフリができる」んですよね……こういう本がガンガン売れるということは、華氏451度の世界に近づいているんだなぁと。

スケザネ:ホント、これ恐ろしくて、同じ92ページに、「そして大衆の心をつかめばつかむほど中身は単純化された」とあって、この作品全体の根源にある考え方として、多様性を殺していくところにあるんですよね

そして、そのあらすじですら多様性があるはずなんです。同じ作品を100人読んだら100通りのあらすじができるはずなんですよ。それすら1つに固定していく……そこすらも多様性を許さず、画一的なものにしていく。その先には、価値観を固定化していく世界まで、あと数歩のところの危ない状況なんですよね。

タケハル:いろんな予言的なシーンがあるんだけど、ここはピンポイントで当たっちゃったなぁ。

Dain:これ、予言的というより変わっていないといえるのかも。「これさえ読めば教養が身に付く」という宣伝文句で、世界文学全集が世に出たのが1950年代……じゃなくて1905年だった。これ、古典の抄録なんですよ。「1日15分読むだけでモテる」という売り文句で、50万セット売ったという。昔も今も一緒ですね。

スケザネ&タケハル:www 変わってない www

Dain:華氏451が予言的だな、と思う反面、1950年代と今と、なんら変わってないのかもしれませんね。

スケザネ:もっと暗澹たる話ですね。

 

3. 時代を超える本の条件:a passionate few

タケハル:確かに! 華氏451を下敷きに、これから頑張っていこうとかいう話じゃなくて、同じことがまた繰り返されるというオチwww これ、裏を返せば、最後のほうの、図書館のアーノルド・ベネットの話につながりますね。時代を超えて読み継がれる条件となる、a passionate few というやつ。

たとえばシェイクスピア。どうしてシェイクスピアが今でも残ってるのかというと、シェイクスピアを熱烈に評価する少数(a passionate few)がいたから。当時、シェイクスピアが世に出たとき、劇作家のクリストファー・マーロウは既にいた。だけど、マーロウではなくシェイクスピアが残っているのは、「シェイクスピアが好きだ」と延々と言い続ける人がいたから

だから、華氏451のラストで残るものは a passionate few がいる。プラトンとかはこの世界でも残り続けるんでしょうね。で、熱烈なファンがいない作品は消えていく……

スケザネ:そこでやべーなと思うのがゲーテ。ドイツ文学の大家だから、熱烈なファンがいるんじゃないかと思ってたら、ゲーテ、特にゲーテの小説を研究している人、日本に少ないんですよ。名前だけ大きくて存在感が大きいので、逆にa passionate few がいない。

タケハル:嘘でしょ!?

Dain:研究しつくされちゃったとか?

スケザネ:むしろ逆です。莫大な著作量で、しかも著作の幅も広い。一口にゲーテと言っても、小説だけじゃなく自然科学、戯曲集もあるし、文学家や政治家としての分野ごとの仕事があって、本国ですら全集が―――まだ、本当の完全なる全集が―――編まれていないんですよ。その中でも、ゲーテとかシラーの文学作品って、新しい翻訳がほとんどない。こないだ1冊だけ出たぐらい。(※追記:幻戯書房のルリユール叢書にて、シラーの新訳が出版されることが発表された。)

タケハル:そうそう、シラーの戯曲の新しいの、ホントに出てほしい。訳が古いとシナリオというより本を読んでる感じになってしまう。

スケザネ:古いやつだとシラーじゃなくて「シルレル」とか書いてありますもんね……脱線しまくってますねw

Dain:いやいや、今の新訳が出ないという話、華氏451につながります。当局側、つまり本の弾圧側に立つと、もっと徹底的なやり方があるんじゃないかと。「人々にものを考えさせない」ために、考える材料となる海外からの翻訳本を殺す。つまり、翻訳する人への補助金を止めるとかして、活動しにくくするんです。

 

4. 本の殺し方

Dain:もちろん華氏451は小説だから、「本を集めて焼く」というスペクタクルなシーンを入れる方がお話としては面白い。でも、そんなことすると、レジスタンスが生まれる。だから、そんな派手なことをせず、もっとサイレントに徹底的にやる。

そんなとき参考になるのが、オーウェル『1984年』です。ポイントは、「置き換える」です。ニュースピークと言われているやつ。good と bad じゃなくって、bad を ungood に置き換えたりして、どんどん言葉を減らしていく。そうすることで、本は、本質的な意味で、薄くなっていく。

スケザネ:そもそも、原本から薄くなっていく、ということですね。

Dain:そうそう。そして次に考えたのが、電子書籍への置き換えです。華氏451では、電子ペーパーや電子書籍といったものは無かったはず。でも、今の僕らはスマホやタブレットやPCで電子書籍を読んでる。

10年ぐらい前、電子書籍元年とか言われて、いろんな端末や本の規格がバーッと出ました。紙から電子への置き換えが進む一方で、沢山の種類の端末や版元が消えていったはずです。そのときは気にも留めなかったけれど、今考えると、「本を消す」のに上手いやり方ですね。

電子書籍への移行を優遇して、どんどん紙から電子に置き換えていって、こっそり消すんです。端末のアップデートしないとかして。

スケザネ:考えもしなかった……いま Kindle が無くなると消える本って、確かにありますね。いま、Kindle でしか出してない本ってあるから何割かはこのやり方で消せますね。

Dain:いまので思ったのが、ソシャゲ。ソシャゲのサービスが終了したら、何も残らないですね、当たり前ですけど。URLにアクセスしても、跡形もない。一方、カセットとかディスクとか何十年も前のが残っていて、今でも遊べる。それはモノとしてのメディアがあるから。だから Amazon は、Kindle のメディアを維持していくために、金よこせという話もあるかも。

タケハル:印刷するとか流通するとかのコストが無くなった反面、元を絶たれると一気に無くなるというリスクを追うことになるんですね。

スケザネ:近い時代では映画でこれが起きていますね。古い映画の何割かってもう観られないじゃないですか。これは意図せざるものもあるし、燃やされたというのもある。その波は既に起きているのかも。

タケハル:アリストテレスの著作が残っていないといっても、何百年単位で起きている話ですけど、映画についてはここ100年で起きてます。技術が発展する速度が上っていくにつれて、消える速度も上っていくという矛盾。

Dain:マングウェル『愛書家の楽園』のエピソードにつながります。イングランドの土地台帳で、千年前に作られた本です。これを電子化しようという動きがあって、3億円かけて文字・画像・動画を CD-ROM にしたのが1986年。でも CD-ROM って10年ぐらいでダメになるんですよね。16年後に読み出そうとしたら、データが劣化してて再生できなかったという話。

スケザネ:10年ってめちゃくちゃ耐久力弱いじゃないですか!

Dain:映画だとデジタル・リマスター版というのがあるじゃないですか。あれも、新しいメディアにアップデートしていく必要があるんです。

タケハル:デジタル化したから大丈夫だと油断していると、規格が変わったりとかするんですね。

スケザネ:ハードが進歩すればするほど、維持していくコストがどんどん増えていくんですね。昔はほら、洞窟に描いたらいまだに残っているじゃないですか、数千年前のものが。

タケハル:最強は石ですね!

スケザネ:最強は石、次は紙!

一同:www

 

5. 本はカジュアルに焼かれてきた

Dain:あと、フェルナンド・バエス『書物の破壊の世界史』を読むと、本って結構カジュアルに焼かれてきたことが分かります。

  • 記録抹殺刑:古代ローマで、反逆罪を犯したものに対し、ダムナティオ・メモリアエ(記録抹殺刑)→罪人が後世に名を残さぬよう、碑文、書物、記念碑などあらゆるものを破壊する
  • ボスニアの国立図書館の空爆:1896年創立した図書館、1992年8月25日夜、空爆の目標となり破壊された。軍事施設ではない図書館が標的になる理由→共同体と密着した文化財である図書館が、ある民族の象徴のひとつであるという事実の裏づけ
  • ナボコフは、メモリアルホールで600人以上の学生を前に、セルバンテス『ドン・キホーテ』を燃やすよう求めた
  • ボルヘスも『自伝風エッセイ』で初期の自著を焼却したことを語っている(数年前までは値段が高すぎなければ、自分で買い取って焼いていた)
  • 最近の本は、溶解されたり、圧縮される←ボフミル・フラバル『あまりにも騒がしい孤独』
  • プラトンがライバル視していたデモクリトスへの言及すら拒み、著作を集めて燃やそうとしていた(デモクリトスの哲学の入門書『大宇宙体系』がプラトンの著作と驚くほど似ていたから)

タケハル:ナボコフ、なんで『ドン・キホーテ』を焼きたかったんだろう?

スケザネ:『ナボコフのドン・キホーテ講義』というのがあって、そこでドン・キホーテをこき下ろすんです。そのくせ500ページぐらい使って説明するんです。この本の中では、焼くんじゃなく、ズタズタに破ったみたいなことが書いてある。

Dain:本を書くからといって、言論の自由にコミットしているわけじゃないことが分かるよね。

タケハル:プラトンにはそういうことしてほしくなかったなー

Dain:プラトンが焼いた、じゃなく伝聞ですからね。

タケハル:でもプラトンならそういうことやりかねない、って思われていたのかも。

スケザネ:「本を焼く」の定義をもう少し拡張して、破る、破壊する、発禁するとかにすると、実にいろいろ出てきますよね。

タケハル:聖書とか宗教的なものとかだとありますね。

Dain:サルマン・ラシュディの『悪魔の詩』を翻訳した大学教授が殺されたとか。あと、PTAの白いポストとか。自分に都合が悪い存在に対し、直接殴ったりするのではなく、その言説をまとめた「本」を攻撃する。本は、ターゲットとされやすい、攻撃されやすいものなのかも。

タケハル:確かに! 本を燃やしても犯罪にはならないですからね。

スケザネ:紙焼いているだけですからね。象徴的だと、国旗とかもありますね。

Dain:そう、このボスニアの国立図書館の空爆って象徴的です。図書館を空爆することは許されることではないけれど、ものすごく効果的だと思います。「おまえの国(言語、歴史)ってのは無いんだぞ」というデモンストレーションとして有効。

タケハル:精神的なダメージがありますね。

 

6. イマジネーションを喚起させるSF作家

タケハル:『華氏451度』に戻ると、イマジネーションに富んだ比喩が良かったですね。印象に残っているシーンとしてはこれ。

  • ジェット・カーから見える景色の話(p.22)
  • フェイバーの話「うつくしい氷の彫像が、太陽のまえに溶けていくような気持ち」(p.190)
  • 「床の上には、表紙をもぎとられ、白鳥の羽根と化したかれの書物が、なんら問題にする価値のない品となって散乱している。」(p.244)

高速道路をジェット・カーで走っているときの景色で、「緑のものが草になってピンクが薔薇になる」とか。これ、ちゃんとブラッドベリが頭の中に思い浮かべて、目で写し取っているなぁ、というのがあります。

瑞瑞しい表現が頻発されるので、ディストピアものなのに、『1984年』読んでる時よりは怖い思いをしない。

ブラッドベリは、SF作家として有名だけど、かなり文学よりのSF作家ですね。

 

7. 焚書への究極の対抗策:暗記

タケハル:あと、終盤に出てくる人間図書館。これ、実際にあった話で、アフマートヴァ『レクイエム』になります。ソ連の時代に詩人のアフマートヴァが危険思想家扱いになっちゃって、印刷を許されなくなった。作品メモを残すと、それすらも拘留の対象になってしまう。

そこで彼女は、自分の詩を友だちに暗記させるんですね、10人くらいに分けて。そしてスターリンがいなくなった後で、それを集めてくっつけて外国で出版する。暗記とは、本を燃やすことへの究極の対抗策なんですね。

スケザネ:暗記は昔からありましたよね、稗田阿礼とかホメロスとか。

タケハル:ただ、稗田阿礼やホメロスと違うのは、アフマートヴァの友だちは普通の人なんですよね。口伝のプロなら覚えるための訓練をしているし、ホメロスに至っては即興で句を入れ替えたりする。

でもアフマートヴァの友人は素人だからすげー苦労してた。そして、さらに厄介なのは、アフマートヴァがプロだということ。プロということは、覚えさせた後に、やっぱり改訂したいとか言い出すんです。

スケザネ&Dain:www

タケハル:専用の数字とアルファベットと数字も考えて、持ち回りで20年ぐらい暗記してもらってやっと出版できたという話。華氏451のラストでこれを思い出しましたね。

 

8. 他の芸術と比較した文学の強みとは

スケザネ:いまの話と一緒のエピソードがあります。辺見じゅん『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』です。ノンフィクションで、シベリア抑留された日本人の話。仲間の一人が病気になって死を覚悟するんです。

でもその人は、故郷の日本に残してきた人に、どうしても伝えたいメッセージがあるんです。遺書ですね。でも収容所では紙も無いしペンもない。だから何人かで、彼の遺志を暗記しようという話になるんです。みんなで一節ずつ暗記していって、どうにか日本に戻ってから、故郷の家族の前で一人一人暗唱していく。

タケハル&Dain:すごい……!

スケザネ:ホントここに、文学の営為みたいなものがあると感じさせられます。文学の強みって、ここにあると思いますね。他の芸術、たとえば美術や音楽は、絶対に道具が要ります。楽器がないとダメとか、絵具とかキャンバスが無いとダメとか。

でも、文学は道具がなくてもいい。極端いうと、身体一つあれば成立なる。だからこそ、共有体験ができるし、こういう極限状態でも成立する。

これ、さっきの岩に描いた話にもつながるけれど、ハードウェアがシンプルであればあるほど、耐久性が強いんじゃないかと。いろんなものが棄損されていく中で、最後の砦になった、というのが分かる。

タケハル:確かに、物語を通していろんなギミックが出てくるけれど、結局最後まで残ったものが暗記だった、という話ですね。石よりも強い暗記。

Dain:未来の世代に伝える最も確実な方法を思い出しました。遠い未来へ物語や危険を伝えたいとき、どうするか? 紙に文字の形で残すことはできる。だけど、さっきの CD-ROM と一緒で、そのうち消えていく。石に刻むのもいいけれど、言葉は変わっていくから確実ではない。

ではどうするか? 人類が持っている一番古い、シンプルな方法が、「祭り」なんです。一年のサイクルで同じ時期に集まって、皆でお祭りをする。何かに感謝する、踊るという方法で、伝えていく。

タケハル:なるほど、伝えることをイベントにしちゃうんですね。

Dain:お神輿は壊れますよね、木でできているから。でも毎年同じ時期に、皆で集まって飲み食いし、神聖なる「なにか」を抱えるんだ、という記憶は、どんな言葉であろうとも、たとえ書き言葉が無くなろうとも、伝え続けることができるという発想です。

スケザネ:式年遷宮ってのがあるじゃないですか。伊勢神宮の社殿を20年ごとに建て直すってやつ。これもお神輿のやつと同じで、壊しちゃう。20年に1回、同じものを立て直して元のものは無くなっていく。

物体としては別だけれど、存在という概念が同じものが作り直されていく。テセウスの船のように、そこに存在することが重要だと思います。存在としての価値が連綿とつながっていく。建物という「モノ」であれば壊れたり焼けたりするけれど、作り直していくという「行為」に託したが故に、式年遷宮はこれだけ長く続いているんじゃないかと。

Dain:なぜ遷宮が20年おきに行われるか、考えたことがあります。20年とか25年って、1つの世代、ワン・ジェネレーションじゃないですか。そして、同じ社殿を作り上げるために、木を切って、特定の形に加工して、組み上げる必要がある。そこには技術が必要で、当たり前だけれどその技術は人が担っている。その大工さんが現役として技術を習得し、次の世代に伝える間隔が20年なんです。

スケザネ:なるほど!

タケハル:これ、かなり腑におちますね。

Dain:これが40年だったら、遷宮に携わった人がいなくなり、技術が次に伝わらない。10年だったら、壊して作り直すコストのほうが高くつく。なので20年なのかなと。スケザネさんの「モノは残らないが、行為として残る」はこれかなと。

タケハル:面白いですね! ブラッドベリは人間図書館で、個人の身体性による話を目指したけれど、ここの話だと、行為として、イベントとして世代を超えて伝えていく結論になりそうですね。

スケザネ:華氏451のラストから何年か経ったら、モンターグの仲間たちが集まって、暗唱による朗読会とかするのでしょうかね。

タケハル:これやらないと次の世代に残らないですよね。この人間図書館のコミュニティを次々とつないでいくとチラっと言及してはいるけれど、途絶える恐れだってあるから、技術を作ることが重要かも。a passionate few が居れば解決する問題じゃなくって、さっきのゲームの話にもつながるけれど、(人間という)ハードウェアへの配慮がないと、人間図書館が途絶える可能性だってある

 

9. 思想小説とサスペンス性

タケハル:華氏451はディストピアものなんだけど、ビーティとの議論とか、「本」そのものとは何なんだろうとか、思想的な議論が多い。ビーティを燃やした後、今度はモンターグが追われる立場になり、サスペンス性は上る。けれども、彼がさらに人を殺すとか、ケガをするといった展開にはならない。主人公は大変な思いはしているけれど、「本」に対する議論が続く。

最近のドラマ『ウォーキング・デッド』と比較すると明らかで、ゾンビとの戦いとか、物理的な恐怖やドラマが原型にある。物語をつくるとき、サスペンス性を前面に出すのだけれど、華氏451はそれを使わず、思想性を出す。

物語作品でこうした思想的な議論が減っている。減っていることは別に悪いことじゃないけれど、でも、昔は結構あったけど、今は少なくなっている。ということは、物語を作る側が、サスペンス性を使いたいという魅力に勝てなくなっている。

物語作品に思想を込める「大きい作家」が少なくなっている一方で、サスペンス技術が進んだ結果、それを使わずにはいられなくなっている。

Dain:サスペンス性の方に、物語の重心が行っちゃっているということなんですね。

タケハル:というか、サスペンス性はパワーが強く、読者や視聴者にウケるから、使わざるを得ないという話なんです。心に訴える思想的な議論よりも、身体に訴えるサスペンス性の方が力が強い

スケザネ:そこ! 新訳でいうとp.96 の「民衆による多くのスポーツの団体精神を育み面白さを追求し……」とぴったり合っている。

タケハル:そうそう、作家ですらもうそれに敵わなくなっちゃっている。

スケザネ:小説というハードの中の話でありながらも、その中で比較しても、思想性よりもサスペンス性の方に傾斜してしまっているんですね、最近のは。

スケザネ:それに比べると、華氏451は冒頭からして動きありませんものね。60ページぐらいまで何の動きもなくて、どうやって読者を読ませるか。物語の序盤の駆動力としては、さっきタケハルさんが言ってた、言葉の美しさ、比喩の巧みさにあるんじゃないかと。これがないと、最初の5~60ページで投げ出す人がいたんじゃないかな。ブラッドベリはそこに自信があったと思う。

タケハル:俺が編集だったら序盤を書き直せって言ってるはず。誰が誰だか分かんないでしょwww

スケザネ:言う言うwww

Dain:華氏451って、1984と同じく、「名前は知っているけど読んでる人は少ない」作品ですね。物語として面白いか面白くないかというと、確かに最初の60ページで萎える人が多いと思う。ダルいし。

タケハル:クラリスが死ぬってところと、あとお祖母ちゃんが燃やされるってところぐらいまで行かないと、物語が動いていかない感じがする。

スケザネ:クラリス、変なキャラであんなに重要そうなのに、早々と退場しますもんね。

タケハル:クラリスを追いかける旅かと思ったらそうでもないし。

スケザネ:村上春樹だったら追いかけさせるね。なのに50ページぐらいで「クラリスが消えた」とかマジっすかwww そっから言及ほとんどないし。いわゆるエンタメの小説としては、構造的にガタガタなところがある。先見性とか希少性、思想の議論は抜群によくできているし、後半になるとモンターグ逃げ切れるかなとか、上司を燃やしちゃったよとか、面白いところがあるんだけれど、構造としては危ういところがある。

タケハル:イヤホン型のレシーバーとかのやり取りは結構面白いのにね。

Dain:もっと面白くできるのに、面白くさせていない。

タケハル:50年ですからね、エンタメ技術が発達していない可能性もある。

スケザネ:あの当時の小説としては前書きにあれくらい使うのは当然なのかも。もっと昔だと、100ページ200ページ助走にかけるのがあって、「こいつまだ本編始まらない」というのもザラ。そういうのに比べると短いけれど、現代から見るとまだ長い。

Dain:ディケンズの『荒涼館』、めちゃくちゃ面白かったけれど、物語が始まるまでめちゃくちゃ長かったことを覚えてます。

スケザネ:ディケンズ、助走めっちゃ長いんですよね。19世紀の小説ってみんなそうなんですよね。「ごめん、物語が始まるまでちょっと待って」みたいな。

Dain:現代の読者のほうが待てなくて、説明とか能書きはいいから、早く面白くしてくれ、早く物語を始めてくれってなってるのかも。

スケザネ:『ジャンプ』ですね!

タケハル:先見性もあるとともに、時代性も感じますね、華氏451は。最後核戦争っぽいので終わるし。あのときはリアリティがあったんですね。冷戦中だし……キューバ危機の前ですよ。

スケザネ:朝鮮戦争くらい。

タケハル:限りなくあったかい冷戦ですね。確かに、戦争が起きそうという小説の空気感は当時の人もあったんだと思う。

 

10. この世ならざる世界にいかにして引き込むか

スケザネ:SFとかファンタジーについてまわる課題なんだけど、この世ならざる世界に、いかにして読者・視聴者を引き込むか?

SFとかファンタジーが難しいのは、現実世界とは違うことを説明しないといけない。ところが、SFやファンタジーの人たちは、その世界の住人なので、「この世界はこうですよ」などとわざわざ説明してくれることはない。そこで当たり前に生活しているから。

なので、常套手段として使われるのは、「その世界に違和感を持っているやつ」とか、「その世界の外部からやってきた人」を設定する

たとえば『十二国記』、現代日本の世界から、異国の世界にやってきた女子高生の目で説明してくれる。人間の世界から魔法の世界へ行くハリー・ポッターの場合だと、ハリーの目でその世界が語られる。視聴者もなるほどね、という風に理解していく。

ところが、華氏451だと、違和感を説明してくれない。外側から来た人がいないから。だからクラリスが出てくる。クラリスはその世界の住民なんだけど、その世界に違和感を抱いている。だからクラリスは、モンターグに色々と質問をしてくる。「あなた昇火士だけど、昇火士の仕事どう思ってるの?」とか。

この質問には二重の意味がある。

  1. クラリスがこの世界に違和感を抱いていることを示す内在的な要求
  2. この世界を読者に説明するという外在的な要求

この2が無いと、読者は物語の世界に入っていけない。クラリスを通じて、読者はこの世界を知るんです。

Dain:確かにクラリスがいないと冒頭60ページがもっとわけわかんなくて離脱者がさらに増えるww クラリスって、主人公を体制側から反体制側へ連れていくトリックスター的な存在だと思ってた。「この世界ってなんなの?」ということを、主人公に質問することで引き出す役もあるんですね。

スケザネ:クラリスの奇行が目立つのは、そのせいじゃないかと。ほら、最初に雨飲んだりするじゃないですか。雨ってけっこう美味しいのよとか、急にタンポポ塗りたくってきたりとか。それに対してモンターグは、現実世界で考えても、普通に近い振る舞いをしている。でもクラリスは、言ってることや思想は現実世界に近いんですけど、行動は、やってることは奇行に近いんですよ。

これ、クラリスの行動が普通だったら、華氏451の世界の中で、逆に浮いちゃう。クラリスが奇妙な行動を取ることで、バランスを取っている。

タケハル:確かに、奇行をさせることによって、この世界にいるための重しをつけているような感じですね。

 

11. 現実世界との架け橋をつなぐか

スケザネ:それが、次の課題「物語世界と現実世界との架け橋をつなぐか、つながないか」という問題に接続されます。

たとえば、ハリー・ポッターだと、ハグリッドという巨人が迎えに来る。人間世界で生活しているハリーを、魔法世界へ連れていくために迎えに来るんです。読者に対して分かりやすく、現実世界と魔法世界をナビゲートする狂言回し的なポジションにいるんです。

でも、華氏451はその世界で閉じていて、現実世界から行く架け橋はない。だからクラリスという異質なキャラクターを用意して、限りなく現実世界に近い代弁者としていてもらう……そんな物語の建付けにしているんじゃないかと。

Dain:クラリス、それほど重要なキャラクターだったら、もっと引っ張ればいいのに、もったいない。

タケハル:外在的な役割なら、教授とかに引き継がれているのかも。モンターグ自体も、この世界に違和感を抱き始めるから、読者からも共感できるようになる。

スケザネ:映画だと、フランソワ・トリュフォーが監督していて、面白いことに、クラリスとミルドレッドは、同じ役者さん(ジュリー・クリスティ)がやっているんです。

これ、ブラッドベリは怒ってるんですけど、監督の気持ち、めちゃめちゃ分かります。クラリスは序盤でいなくなってしまうのに、そこにキャスティングを贅沢にできないという事情がある。

タケハル:ギミックとしてすげー面白い!

Dain:映画観たはずなのに気づかなかった……主人公にとってかけがえのないという存在だったという意味で、非常に示唆的ですね。

 

12. 批評をするな、物語らせよ

スケザネ:『ブラッドベリ、自作を語る』というのが晶文社から出ていて、インタビュー集なんですね。本作についても、「華氏451は社会批評の要素があるけども、それは冒険物語という全体の中に隠れてるんだ」と語っています。

これ、本についていろいろ議論している思想的な要素もあるのですが、基本は冒険活劇だと言っている。議論が多いぞ、とは思うけれど、もしブラッドベリが、1950年代に議論のところだけを精緻に書いていたら、今に至るまで残っていないかもしれない。

重要なのは、批評してはいけないという点。物語を作る人は、批評に対して批評で返すのではないと。代わりに、物語という具体的な世界の中で語らせることに意識的であってほしいという話です。

タケハル:確かに! トルストイ『復活』読んでてあったんだけど、ラスト100ページぐらいになって延々と思想的な話が出てくる。キリスト教徒としてはどうあるべきか的な。トルストイがそれ言いたいのは分かるけれど、今までの話の方が面白かったのに、答え合わせするみたいなのはやめてよ、と言いたくなる。

Dain:へー、『復活』読んでないから気になる……

タケハル:確かにいいこと書いてあるんだけど、それ言われちゃうと、今までの主人公たちの冒険はなんだったん的な気持ちになる。

Dain:ユゴーの『レ・ミゼラブル』を思い出した。『ああ無情』の短いのじゃなくて、全部だと何巻もあるんです。で、そこで丸々一巻を使って、作者がこの世界について延々と語るところがある。ジャン・バルジャンやコゼットの話を放り出して、ずーっと作者の思想に付き合わされる。

たぶん俺を同じことを考えた編集者さんがいて、ユゴーのおしゃべりを丸ごとカットして、ストーリーだけにした版もある。

スケザネ:ユゴー、そういうの好きで、『ノートルダム・ド・パリ』というのがあって、そこだと丸々一章使ってパリの街の歴史について語るところがある。19世紀は小説というジャンルが未熟というか独り立ちしていないところがあって、物語だけじゃなく色々なものが詰め込まれている。

典型的なのがメルヴィル『白鯨』で、18~19世紀の百科全書的な思想を注いで、物語という形式で世界全体を包含しようという試みがなされている。クジラの辞書を入れてみたりとか、格言集を作ってみたりとかしている。小説で何でもやってやるぜという意気込みが好きですね。

でも、物語として楽しもうというときには煩いですよね。

Dain:確か岩波文庫だと、最終巻の解説で、章分けしている。物語パートはこの章とか、クジラの辞書はこの章とか、それぞれ色分けしている一覧があったはず。もし、物語だけを楽しみたいのなら、この章だけツマめばOKというのが分かる。物語が「小説」という枠に飲み込まれている。

スケザネ:芥川賞作家の丸山健二が、そういう物語以外のところをカットして、物語部分を中心にリライトした『白鯨物語』というのがあります。あるいは、『カラマーゾフの兄弟』の父殺しの所だけをクローズアップした『ミステリー・カット版 カラマーゾフの兄弟』というのがあります。

Dain:もともと「小説」って、そういうものだったのかも。いま僕らが、物語を楽しむための形式を小説と読んでいるけれど、昔はそんなんじゃなくって、作者が言いたい何か―――思想とか主張とか批判とか―――があって、それをそのまま書こうとすると、さっきのブラッドベリじゃないけれど、それは作家の役割じゃないとなるから、それを「物語」に包んで伝える。

パリの街並みの美しさをそのまま語っても誰も読まない。だから、物語の舞台に設定することで、読んでもらう。読者は、物語の先を知りたいという欲求があるから、作者の主張も一緒に読んでいた。

けれども時代を追うにつれて、作者の主張というのが引っ込んでいって、読者の「早く物語に入りたい」というニーズに合わせていくうちに、今の物語主体の小説になっていったんじゃないかなと。

スケザネ:17~18世紀だと、逆に、物語が市民権を得ていないからこそ、「事実で物語を担保する」というのがあったんです。たとえば『ガリヴァー旅行記』『ロビンソン・クルーソー』や、書簡体小説、たとえば『ペルシャ人の手紙』とか、あの時代ですね。

あの時代って、まだ物語が良いものとされていなかった。だから、どういう風に読んでもらおうとしたかというと、「序文をつける」ことです。やたら序文がついてて、どこどこ女王からの序文とか、7個ぐらいついてる。で、権威があります、本当の話なんですとする。あるいは、これは誰かが書いた手紙です、本物なんですとする。事実を担保として物語を届ける、というやり方だった。

タケハル:フィクションということの価値が低かったんだろうね……

スケザネ:英語の辞典とか引くと、fact という言葉が出てきたのは、1600年代ぐらい、シェイクスピアの時代ですね。フィクションとかファクトという価値概念が無かった。17世紀、fiction とは何か、fact とは何だろうという区別が必要になって、こうした言葉が使われるようになったんじゃないかと。

タケハル:文学史やんないと! フィクションとかファクトとか、物語とは何かを、そうした文学史の流れの中で押さえたうえでないと、さっきのブラッドベリの発言が分からなくなっちゃう。

 

13. ブラッドベリの創作技法

スケザネ:『ブラッドベリ、自作を語る』には、創作技法が紹介されてます。ブラッドベリが物語を作るときに、どういうことをしているかを語っている。

まず、名詞のリストをつくって、そこからストーリーを思いつくと言ってます。ビン、桶、湖とか、ガイコツとか。

タケハル:なんか落語の三題噺みたいな?

スケザネ:そうそう、で、自分のキライなものを10個書き出せという。そして、キライなものを物語の中でやっつけていけという。それで物語が出来ていく。ブラッドベリは本を燃やす人が大嫌いで図書館が大好きだから、『華氏451』が出来上がった。本を燃やすような連中を貶して、図書館的なものを持ち上げる、それが原初だった。

じゃぁ、その10個ってどんな風に思いつけるか? ブラッドベリは、人間の頭の中には3つのことがあるという。

  1. 実体験(物理的)
  2. 実体験への感情や反応(心の中)
  3. 芸術体験

1つは、普通に自分が体験したこと自体。そして、その体験に基づいた自分の反応や感情が2つ目。そして最後は芸術体験だと。この3つを軸にして、10個を挙げて書いて見ろと。ホントにそれで書けるのかはどうかだけど、少なくとも書き出すことはできる。

タケハル:プロの違いは、自分を訓練する方法を思いつけるかにあるかも。創作するためのルーティーンといったら機械的だけど、イマジネーションを深めるための方法論を持っているか。漠然と、「何かアイデアないかな」だとやっていけない。

スケザネ:漠然と何か出すなんて無理で、頭の中から何かを出すのはすごく難しい。スタンバイ状態になっているメモを作るとかしないと。Dain さんブログ書いてるけれど、何かメモ的なものってやってます?

Dain:やってますよ。Googleドキュメントや、最近だったら Google Keep に読んだ本の感想や抜き書き、ボイスレコード、写真を残していってます。追跡が難しいので、いまやっているのが、スプレッドシートに読んだ本のトピックや参照文献をずらっと並べて一覧化してます。読書猿さんの『独学大全』で紹介されてるやつ。考えるタネみたいなやつ。

あと、いろんな名言というか、「そうか!」と心にキた言葉を集めています。たとえばこんなの。

“告白、0を1にするんじゃなくて99を100にする行為だと知ったのはだいぶ先の話”
— 元気になった焼肉みくさんのツイート

"SNSで精神を病む最大の方法は「嫌いなひとやものを逐一監視する」です。だいたいこれでおかしくなります"
via:tumblr

“責任感が強いからクラス委員に向いてるって、君はおっぱいが大っきいんだから水着を着てなさいって言ってるようなもんだわ。”
- ゴースト≠ノイズ(リダクション) 上 / 十市 社 (via k-quote)

“感情とは価値判断のショートカットだ。理性による判断はどうしても処理に時間を要する。というより究極的には、理性に価値判断を任せていては人間は物事を一切決定することができない。完全に理性的な存在があったとして、それがすべての条件を考慮したならば、なにかを決めるということ自体不可能だろう。”
— 伊藤計劃『虐殺器官』

クスっと笑ったり、「これはイイ!」と思った言葉を集めておいて、ときどき読み返したりしていますね。あと、自分のブログそのものを検索して、そこからネタを膨らませていますね。

タケハル:なんだかんだしても、結局作業にまで落とし込む必要がありますね。

 

14. 終わりに&次回の課題図書

Dain:やっぱり「本を焼く者は人を焼くようになる」というメッセージが強烈でしたね。焼くほうが焼かれるほうになるとか。あと、若いときに読んだときと、いま読み直すときとの反応が違っていたのが面白い。俺だったらこういうディストピアにするのに、という読み方ができて良かった。

タケハル:題材が本を焼く話だったので、物語を伝える側としては、物語を乗せるハードウェアに目が向きました。何を遺していくべきかだけでなく、何「に」残していくべきかという点です。あと時代の問題、小説がどのように変化してきたのか、勉強することが沢山あるなぁと思いましたね。

スケザネ:楽しかったです! こんなに話が広がっていくとは思わなかった。そして、世相的な意味で、いいタイミングで読めたのが良かった。100分de名著『華氏451度』の6月にもこれが俎上に乗るみたいだし。あとこれ、70年も前の作品なのに、メッセージが古びないのが凄いですね。

さて次回はどうします? 今回はタケハルさん推薦でしたが、Dain さん、あります?

Dain:次回というか、いま僕が興味があることで、感情、特に「恐怖」があります。怖いとは何かについて。僕はホラー映画や小説が好きなんだけど、怖いと分かっているのに、わざわざ読んだり観たりする。「怖い」とは、嫌だ、避けたいというネガティブな感情なのに、好んでそれを味わおうとするのはなぜか?

そういう疑問に答えてくれるのが、戸田山 和久『恐怖の哲学』です。具体的なホラー映画の作品を挙げながら、恐怖の正体に迫ります。物語の作り手側からすると、読者の感情をコントロールして、上手に恐怖を刺激するヒントが得られるかもです。

スケザネ&タケハル:了解です!

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文学の手法を取り入れた医療『ナラティブ・メディスン』

患者と医者はすれ違う。たとえばこんな風に。

医者「いつ頃から、お酒をたくさん飲むようになったのですか?」

患者「夫が亡くなってからです」

医者「それは何年前のことですか」

患者は腹痛を訴えており、医者は彼女のアルコール摂取量が多いことに気づいている。医者も患者も、腹痛と飲酒量の関係性を疑っているが、それをどのように聞こう/語ろうとしているのかが異なっている。

医者は深酒をしていた期間を聞こうとする一方で、患者は、なぜ深酒をするようになったかを、自分の人生の物語として語ろうとしている。

夫が生きている間は飲まなかったとか、夫の死後は苦労が重なったといった話をさえぎり、医者は、最終的に知りたいことを聞き出せるだろう。だが、患者が語りたいことは残されたままだ。

彼女は、自分のたった一つの身体に起きた異変に戸惑い、恐れ、不安に感じている。痛みや苦しみに耐えながら、なぜそれが、よりにもよって自分の人生に起きたのかを、なんとか説明しようとする。

医者はそれを、「病気だから」と片づける。そして病名を特定し治療を施すのが自分の仕事だから、質問に端的に答えることを求める。数ある症例の一つとして接し、医学的に意味のある情報だけを引き出そうとする。

ナラティブ・メディスンとは

医学的要素に還元された病歴、社会歴、身体所見、検査結果のどこにも、患者の人生は残っていない。痛みや苦しみを抱く感情は疎外されたままとなる。

『ナラティブ・メディスン』は、このやり方に異を唱える。患者の視点になり、患者の語ることに耳を傾けよと主張する。著者リタ・シャロンは医師であり、文学者であり、コロンビア大学のナラティブ・メディスン教育プログラムの創始者でもある。

「ナラティブ」とは「語り」のこと。語り手と聞き手、目的と筋書きを備えたストーリーとして定義づける。対話を通じて患者の物語を紡ぎ出し、全人的な診療を行うため、物語的な視点を取り入れる。

これに必要な能力のことを、ナラティブ・コンピテンス(narrative competence 物語能力)と呼んでいる。患者の病を物語として解釈し、その展開とともに患者の人生にとって何が起きるかを理解する能力だ。

そして、なぜその物語が生じたのかを、始め、なか、終わりの中で見定め、隠喩や修辞を用いて、出来事とのあいだにつながりをさがし、プロットを与える。

がんになった意味を見つける

例えば、ステージIVの乳がんを患う女性を考えてみる。

42歳で3児の母でもある彼女が、「どうしてこんなことが私に起こったのでしょうか?」と問うとき、それに答えられる人はいない。医学が答えられるのは、病気がどのようにして(how)起きたのかであり、なぜ(why)起きたのかではないから。

しかし、たとえ確かな答えがなくとも、彼女自身が自分の身に起きたことを理由づける物語を作り出すかもしれない。

過去の罪に対する罰と考えるか、不幸な偶然と見なすかによって、病の体験は全く違ったものになる。彼女は、病も含めて自分の人生を生き続けなければならない。そのために、人生におけるこの病の意味を見出さなければならない。

このとき、彼女に寄り添い、彼女自身の言葉を聞き、病を解釈するために、物語が必要になる。出来事を順序だてて述べ、登場人物の性格を描写し、起きたことの原因を探し、隠喩や修辞で意味を伝える。

彼女が、自分の人生の中で、病をどのように意義づけようとするか。それは彼女しか語れない。医師、看護士、ソーシャルワーカーは、彼女の物語に耳を傾ける必要がある。「聞く」という姿勢を見せない限り、語られることはないのだから。

医療に役立つ文学

では、どうすれば物語能力を身につけることができるか?

本書では、精読のスキルが必要だという。一つ一つの文章を、丁寧に精密に読むスキルだ。読書を習慣としている人なら、普通に身についているだろう。でも、なぜ精読がナラティブ・メディスンにつながるのか?

著者は、トルストイ『イワン・イリッチの死』やジョゼフ・ヘラー『キャッチ=22』を紐解きながら答える(どちらも死を扱っている)。

テクストの意味は、「それは何についてのものか」と、「それはどのように語られているか」の2つの問いの答えの相互作用で伝えられるという。文学理論では、いわゆる「内容と形式」で呼ばれるもので、前者が語られるお話そのもので、後者がその表現形式になる。

例えばトルストイの作品で言うなら、平凡な男が病魔に侵されて死んでゆくお話だ。自分の人生はこれからも続いてゆくと信じ、わが身に起きていることから目を背け、希望にすがりつこうとする。これが内容になる。

精読する人であれば、彼について語るナレーション(地の文章)の距離感に気づくだろう。小役人としての半生は、すこし離れた皮肉めいた語り口だが、彼の病が進むにつれて、視点が彼に近づき、寄り添い、ついには彼の「中」へ入り込む。これが形式になる。

さらに、物語がラストに向かうにつれて、各章が短くなってゆく。あたかも、彼の生きられる時間がどんどん短くなってゆくことを示すかのように。

こうしたテクストの構造やメタファーは、「イワン・イリッチが死ぬ」という内容からは得られない。一つ一つの文章を、丁寧に読み解くことで、気づくことができるのだ。

精読のスキルがある人は、患者が病を語るときの、「内容」のみならず、「形式」に注意を向ける。痛みや発作の内容だけでなく、それが何に似ているといった表現や、どのように受け止めているかという点を読み解こうとする。

同時に、プロットを理解するスキルも、精読で身につくという。E.M.フォースターの有名なプロットの定義が紹介される。これだ。

「王は死んだ。そして王妃も死んだ」がストーリー

「王は死んだ。そして悲しみのあまり王妃が死んだ」がプロット

出来事や現象を並べて告げるだけではなく、そこに意味ある因果関係を見出す。たとえ同じ出来事の組み合わせでも、語り手の視点や意図によって、対立するプロットも形作ることができる。

形式を把握し、プロットを理解し、時間軸に沿ってストーリーの内容を追いかける。まさに、文学を味わう人がやっていることだ。文学が医療に役立つだなんて、思ってもみなかった。

パラレル・チャート

精読だけではない。ナラティブ・メディスンの実践では、パラレル・チャートを書くことが求められる。

患者のカルテについて、何をどう書くべきかは決まっている。患者の主訴や検査の所見、治療計画などだ。

一方、がんで死に瀕した患者が、昨年同じ病で亡くなった祖父を思い出させること、診察の度に動揺することは、カルテに書くことはできない。だが、それはどこかに書かれる必要があるという。その場所が、パラレル・チャートだというのだ。

患者への愛着や、自分自身の無力感、病気の不公平さに対する怒りが、パラレル・チャートに記され、書いたことをグループセッションで読み上げる。自分の気持ちを率直に述べることで、患者の物語への気づきを得られるという。

パラレル・チャートで最も印象に残ったのは、30代の男性のHIV患者についてだ。

その男は移民で、7年前にHIV陽性を告げられたが、薬を服用することを拒んでいる。ガールフレンドとの間に子どもが生まれたばかりだ。ガールフレンドもHIV陽性で、男は、生まれたばかりの我が子のHIVの状態についは、知らない。

彼を診察した研修生のパラレル・チャートには、こう書かれている。

この患者について知れば知るほど、私は怒りがこみ上げきて、激怒さえしている自分に気づく。興味深いことに、強い怒りを感じていることに気づいているという事実によって、私は自分の感情を脇に置いて、患者を適切に扱うことができる。彼は自らの行動が彼自身と家族にもたらした結果について、全く自覚がないと思う。彼は要するに、生き延びる見込みのほとんどない子どもをこの世につれてきたのだ。

(中略)

私はこの男を気の毒に感じる。この男は30歳代にしてAIDSと生まれたばかりの子どもをもち、自分の病態については大きく否認しているが、身体の調子が悪いことは分っている。彼はおそらく自分の病気が悪いことに気づいており、終わりが近いことも知っている。私は彼を気の毒に思うが、共感からではなく憐れみからそう思う。これが、自分が彼の助けになりたいと思わせる感情である。

これを書いた研修生は、ナイジェリアから移民し、医療従事者として働きながらトレーニングをしている。そして、パラレル・チャートを書くまでは、自分が患者に向ける情動を説明できなかったという。

しかし、書くことで自分自身の専門家としての義務の重みと、患者が抱いている恐怖を想像することが可能になったと述べている。

心療内科との違い

患者の心に寄り添って、精神的なケアをするのであれば、心療内科と同じではないか、という疑問も残る。

だが、本書に通底する考え方からすると、「心療内科的ケア」は、患者の精神的な部分『だけ』をケアするという点で、「ナラティブ・メディスン」と異なると考える。

つまり、患者を分解して、病の部分(ハードウェア)と心の部分(ソフトウェア)に分けて、ソフトウェアのメンテナンスをするのが、心療内科的ケアになるという発想だ。この場合、ハードとソフトの分断は残り続ける。

一方、ナラティブ・メディスンは、患者ひとりを全人的に見るための方法になる。そのため、ハード担当/ソフト担当に関係なく、身につけることが求められるのだ。

人文学と医学を結び、患者と医者をつなぐ文学の、実践的な解説書。本書は、KyosaiKawanabe さんに教えていただいた一冊(ありがとうございます!)。

 

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