「古典は本当に必要なのか」討論会へ行ってきた

Kotennhahontouni

 古典不要派と必要派がガチで議論するシンポジウム「古典は本当に必要なのか」を見てきた。パネリストの紹介は[「古典は本当に必要なのか」シンポジウム]で、youtube や twitterまとめ([第一部][第二部])で見ることができる。

3行でまとめる+問題の本質

 長いので3行でまとめる。「高校の古典(古文・漢文)は必要か?」という議題に対し、

  • 不要派:古典は選択科目にして論理国語に注力すべき。あと現代語訳でおk
  • 必要派:幸せに生きるための古典は原文も一緒でないと
  • 会場の声:必要派が優勢だが、現場では現代語で教えてるのが実情

 そして、この問題の本質は次の通り。「古典は必要か?」と問われれば、必要に決まっている。問題なのは、どれくらい必要なのか? と問われていることに気づいていないことである

 そして、もっと厄介なのは、「これくらい必要」の「これくらい」は何を根拠にそう言えるのかを、示せていないこと。なぜなら、高校の有限なカリキュラムにおいて、他の「必要な」教科単元をさしおいて、古典が必要な「程度」を示すことが求められているから。センター試験国語200点のうち、古文50点、漢文50点である根拠と言い直してもいい。

ショートコント「ニュートン力学不要論」

 これ、古典必要派は、ピンとこないかも。

 会場に集まった人たちは、国語教育に所縁のある方が多かったせいか、古典肯定派がメインだった。問題の本質が見えてなさそうなので、前哨戦で見かけた、「ニュートン力学不要論」の回答を紹介しよう。岡目八目ともいうから、問題の深刻度が見るかもしれない。

問)古典不要というなら、現代物理学(相対論・量子力学)を学ぶ上で、古典物理学(ニュートン力学)は、不要ではないか? 絶対的な時空間を前提とし、光と重力の関係を無視しているニュートン力学は、相対論とは真逆の前提で、現代物理学を学ぶ上で、阻害となっているから。

答)ニュートン力学は、物理学の基礎であるため必要。古典物理学を不要という人は、そもそも古典物理学をちゃんと学んでいない人なのだろう。古典物理学をきちんと学べば、その重要性は自ずと理解できる。

 もちろん、ニュートン力学は高校で必須である。量子力学が一般化する20年後ならともかく、「基礎だから必要だ」がまだ通る。だが、真の問題は、古文・漢文の必要派は、こんな回答をしていなかったか、にある。「君は古典を(ちゃんと)知らないから、その重要性が分からないのだ」は答えになっていない。こんなコントみたいな理屈を主張してこなかっただろうか?

 まともな答えの一つは、ニュートン力学と高校数学(微積分、線形代数、ベクトル)の関連性を示し、そうした数学を元に現代物理学も成り立っていることを示すことだろう。ニュートン力学は独立した「単元の一つ」ではなく、数学や天文学、そして現代物理学との結びつきの上に成り立っているのだから、それだけ切り離せるものでもない。

 こうした答えを、古典必要派はしてきただろうか? 不勉強なわたしは、「まともな答え」を聞けるものだとワクワクしながら会場へ向かった。

箇条書き400字ぐらいでまとめる

 古典不要派の主張をまとめると、次の通り。「不要」といっても、失くしてしまえと息巻いているわけではなく、他に学ぶべきものとの優先度に応じるため、選択にしたらと提案しているとこがポイントだ。

  • 高校生の時間は有限であり、そこで学ぶべきことは多種大量にあるため、取捨選択が必要
  • 何をもって選択するか? 国益や個人の収入UPという価値観で評価すべき
  • その判断からすると、古典の優先度は下がるため、必須から選択にすべき
  • 反対に古典よりも、論理国語(企画、プレゼン、議論)を厚くすべき
  • 選択古典も、原文よりも現代語の方が効率がよい
  • 古典は、年功序列や男女差別を刷り込むツールとして有害な一面もあり
  • 教科とその学習量について、既得権と縦割りをバラして、最適化する必要あり

 いっぽう必要派の主張は、こんな感じ。徒然草の解説や、理系vs文系という対立構造では読み解けない江戸時代の医学書の話など、興味深いトピックが紹介された。

  • 古典は幸せに生きるための知恵を授けるもの
  • 古典への社会的敬意が低下しているからこそ、学校教育でその魅力を伝える必要あり
  • 例として、徒然草の紹介、連歌を用いた授業活動の提案
  • 近世の文献で翻訳されていない文献が多く、これらを解読して後世に残すのは納税者への責務
  • 古典を通じた文化交流もある

 つまり、噛み合っていないのだ。

 古典の重要性がどの程度かを判断するにあたり、経済性や実用性、コスパという観点から見る不要派と、人間形成や感性、教養といった観点から見る必要派という構図だ。そして、お互いに言いたいことを言い合って終わっている。

 これはもったいない。価値観の違う人が、わざわざ憎まれ役を買って出て、面と向かって言ってくれるのだから。議論を、しよう。

 議論とは、議題について異なる立場の人が話し合い、互いに妥協できる場所を探すこと。妥協点が見出せないなら、それぞれが主張する問題点を明確にし、それを解決するための課題が何かについて合意を得よう。問題点すら明確にならないなら、それを記述している言葉や事実を確かめよう。定義や認識、エビデンスの違いまでさかのぼれば、抽象度を上げることで問題点を重ねることができる。そして、重なったところでこれらの対話を繰り返そう。

 これが、議論だ。結果、妥協点を見いだせなくても、互いに何を問題視しているかを理解したり、事実認識や定義が違っていることを確かめることができる。その上で、「あれかこれか」ではなく、両論併記することで(抽象度の上げた)ゴールの可能性も考えられる。

むりやり議論を噛み合わせる(キーワード:幸せ)

 噛み合わない「議論」を、むりやり嚙み合わせるなら、「幸せ」がキーワードになるだろうか。不要派の「生涯年収」と必要派の「幸せに生きるための知恵」で、問題点・定義・認識を重ねることはできないだろうか。ほぼ思いつきに近いアイデアを、質問という形で、パネリストたちに投げてみた。

 ……残念ながら、有益な話を引き出せたとはいえなかった。

 古典を学ぶことが生涯年収UPに直結するかなんて、検証しようがない。それでも、日本で使われている言葉のうち、大和言葉や故事成語の割合を調べることはできる。仮に「古典の重要度」を数値化するなら、この割合が参考になるかもしれぬ。

 そして、こうした言葉が文字通り血肉となって自然に出てくることを示すことはできる。不要派のハンズアウトに、「餅は餅屋」「~すべき(強調の意味で)」という言葉があるのは、部分的とはいえ古典教育の証左だろう。「短い言葉で的確に伝えたい」という動機が、自ずとレトリックを選ぶのであり、その引き出しは教育如何による。

 しかし、当のパネリストから、「語彙が豊富だからといって幸せとする尺度は同意できない」という反論や、「アメリカは語彙を減らし簡略化することで移民受け入れが上手く行った」という事例が出され、議論はそこで尽きてしまった。そこから、「アメリカの母語簡略化に倣って漢字教育を廃止した韓国ではどうなっているか」という検証や、「簡体字にしたことで中国の古典伝承への影響はあったか(台湾と比較して)」というサブテーマに膨らませたら面白かったかも。

古典不要派の言葉を使って考える(国際競争力と国力)

 他にも、噛み合わせるポイントはある。

 このテの議論をするには、相手の言葉で語ることが重要だ。相手が使う言葉を掘り下げてみると、実は互いにつながりあっていたことが分かる場合もある。「古典は本当に必要なのか?(いや必要でない)」という言葉尻だけ捉えて、やれ焚書坑儒だ、華氏451だと批判するのではなく、テーマの範囲内で、相手の言葉をどうやったら建設的に使えるか? と考えるのだ。

 たとえば、不要派が重視する”国際競争力”の変遷を、古典からたどるアプローチはどうか。不要派が紹介したスライドで、20年前と今の大企業の一覧があった。GAFAに席巻されたグローバル経済を示し、変化に対応できる”国際競争力”が必要だという。

 これ、スケールが20年だから目まぐるしいが、200年、2000年ならどうだろう。その必要な技能は、「今だけ」なのか、200年来必要なのか。国力、経済力、軍事力、文化的影響、社会制度といった観点で、数百~数千年を振り返る歴史家の仕事になるが、その根拠となっている古典をカウントすることで、古典の影響力を測ることはできないだろうか。あるいは、他の発想が埋まっていないか、掘り起こしが可能だろうか。

 もっと生々しく”国力”への訴求性を求めるなら、歴史問題に踏み込むこともできる。たとえば領土問題として焦点の当たっている島嶼で、その歴史的根拠を探すなら、昔の文書を参照することになる。その有効度は状況によるが、「たしかにその場所について日本と由縁があった」証拠の一つとして挙げることができる。

 そして、その文書はただ一つ、単独で存在するのではなく、文書の存在を示す別の文書、その文書から引き出された(引用や言及、随想など)別の文書として、確実なものとなるということだ。その当時のネットワーク全体で、その文書が示す「確からしさ」が検証できる(ここ重要)。

 なぜ重要かと言うと、争っている相手から、「こちらの方が古いから有効だ」と出所不明・ネットワーク不在の文書が出されてくる可能性があるから。あるいは、相手が時間をかけて「ここは私の領土だ」と繰り返したり、詭弁や武力にモノを言わせて事実化する場合があるから。相手には相手の理屈があり、ストーリーがあるのだから、数十年から百年かけても、国策としてその主張を通そうとするだろう。

 詭弁や武力ではなく、エビデンスに基づいて問題を解決するのなら、文書ほど重要なものはないだろう。歴史問題についてエビデンスとなっている一次文書と、それを参照・言及している文書(相手が提示してくる「文書」も含む)、さらにその解読に携わる人をカウント・比較することで、古典の有用性を可視化することが可能だ。

 一例をあげるなら、[『沖縄は中国の属国だ』という主張が今更な感じがするのですが、どういうことなんでしょうか?]がある。この回答を支えている事実関係を示す一次資料は、それを参照・言及する文書のネットワークの中にある。これらを伝えていかない限り、時間をかけて辛抱強く繰り返される「沖縄は中国の属国である」主張へのエビデンスを手放すことになる。さらに、いま懸案となっている課題だけでなく、将来現れる新たな歴史問題を議論する準備として、古典を解析して維持していくことは、日本の「国力」につながる―――こうしたアプローチだと、古典不要派の「国力」と同じ視線で考えることができるかもしれない。

「認可的ワクチン」としての古典

 上記の例は、読書際さんの「認知的ワクチン」に関する一連のツイートから学んだ。

 「認知的ワクチン」とは、デマをウイルスになぞらえ、知識を教え学ぶことでその流行を防ぐことを指す。たとえば、化学を学ぶことで「水素水」や「コラーゲン配合」の流行を防ぐことになる。

 古典の場合、「水素水」や「コラーゲン配合」に相当するカッコに入るものは何になるか? 先の例だと「沖縄は中国の属国だ」だが、他にもあるだろう。一次資料ではなく、ネットに流れるトンデモ歴史を「事実」として本に書いたらどうなる? 鼻で笑われるだろうが、それがベストセラーになって大勢の人が信じたらどうなる? カッコに入るものは、結構ありそうだ

 そうしたものを数え上げることで、「古典は必要である」のうちの「どれくらい」かを、他と比較することができる。もちろん単純比較はできない。単なる数ではなく、代えのないものであれば、重みづけも考えるべきだろうね。そして、一次資料を読み解く人「だけ」が必要なのではなく、そこから引き出された知識を重視し、トンデモを鼻で笑うだけのマスが求められる。

 デマの拡散については、たとえば東日本大震災におけるデマをテーマにした論文[拡張SIRモデルによるTwitterでのデマ拡散過程の解析]がある。このSIRモデルを歴史認識に当てはめることで、古典教育の普及度とデマの拡散しやすさをシミュレートできるかもしれない。

古典の「効果」を可視化する

 古典は、言語や歴史といったアイデンティティに深く関わっているため、これを考えるわたしたち自身に内面化されており、その結果、見えにくくなっている。

 伝えたいという動機があるならば、そこに表現があり、レトリックがあり、古人がさんざんやってきたことなのだから、先例と踏襲と改変がある。

 パネリストから、連歌をおこなってきた先人たちの発想の集大成として歌語集を捉え、これと現代語の関わり合いを可視化するアイデアが出た。想いを伝えたい高校生にとってのLINEの一行を、図書室の歌語辞典から見つけてくる、というのはアリだろう。人は、それくらい、変わっていないのだから。

 ひょっとすると、わたしが気づいていないだけで、言葉の発想のつながり方を考えるなら、概念のかなりの部分は、古典によって準備されているのではないか、と思えてくる。ネットを行き交う言葉のうち、古文・漢文の影響を拾い出すことも、古典の可視化に一役買うだろう。

 さらに抽象度を上げて、行動様式としての影響を見るならば、わたしが何気なく撮ってSNSにアップする画像とつぶやきは、1000年前に紅葉を折り込んで詠んだことの現在形ではないだろうか。

 あるいは、映画「シン・ゴジラ」において発生した出来事を、時系列に沿ってリアルタイムで実況し、それに乗っかってツイッタラーがネタを広める[シンゴジ実況]なんて、インターネットを使った巨大な連歌は見えないだろうか。

 短い文章でつながっていく twitter において、普及度と特異な(?)使われ方を日本と他国で比較すると、そこに和歌や連歌の影響を可視化できないだろうか。

古典は「どれくらい」必要か?

 大事なことなので何度でも言う、古典は必要だ。

 だが、どれくらい、何をもってそう言えるのかについては、議論の俎上に上っていないものがある。なぜなら、言語や思考様式として内面化されているから。ニュートン力学が基礎としてあたりまえなように、古文・漢文も基礎としてあたりまえなのである。だが、両者の種類も程度も違う。それを測るための可視化が問われており、そうした検証の上で、議論が可能となる。

 噛み合わなくてもいい、という人はネットでうそぶいているがいい。リアルで、互いの最も重要なリソース・時間を使って議論をするのなら、最低でも「互いに問題視するものがあり、妥協ポイントは見いだせないにせよ、共通の問題は明確にできた」までは辿り着けないと。これは、(次回があるのなら)それまでの課題になるね。言葉の定義、立論を合わせ、当日までに議論ポイントとその検証までを準備しておく。

 それは「仕事とわたしとどっちが大事?」と訊くようなもので、異質なものをムリヤリ測ろうとするならば、どこかで歪みや偏りが出る。それは分かる。だが、議題に戻っていただこう。有限な「高校生の時間」というリソースをどうやって配分するかを考える上で、何らかの指標は、どうしたって必要なのだ。

 また、目的的行動の危うさについても分かる。「〇〇のために古典が必要」の〇〇なんて、時と場合により、そうした時と場合を超えて残り、普遍性を持っているのが古典なのだからね。それでも、その時とその場合による〇〇に対し、こういう面が応用できるという観点から訴えない限り、削られていくのみとなろう(そして、削られて残されたものが”古典”となる)。

 もう一度言う、古典は必要だ。

 だからこそ、その必要性を「伝わる言葉で」伝えないと。だが、内面化された古典の影響力を定量化するのは、かくも難しい。この件、もう少し続けてみる。国語のエキスパートたちのがどのように示してきたか、調べてみよう。かつて、古典は不要だ、全部ローマ字でいい、いや英語を公用語にしてしまえ、といった主張があった。

 知りたいのは、そこで「古典は必要だ」という人が、どんな主張をしてきたかにある。昔の古典必要派がフンショコージュの脊髄反射しかしなかったから、現在この体たらくなのか、あるいは、昔の古典必要派が体張って議論してくれたおかげで、この程度で済んでいるのか。議論が噛み合わないのは分かる(現在そうだから)。だが、そこで放置しないで、噛み合わせようとした努力は試みられたのか、知りたい。

 バトンは既に渡されている。わたしと、ここまで読んでしまった、あなたにも。

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『タコの心身問題』『イカの心を探る』『ふらんけんフラン』で頭足類の「心」を考える

Takonosinsin

 ヒト以外の存在について、「賢い」という言葉を使う際は注意したい。なぜなら、そこに擬人化の罠が潜んでいるから。「賢い」とは何か、「知性」とはどんな意味かを吟味したうえで使う必要がある。

擬人化の罠

 「擬人化の罠」とは、動物を観察する際、人に似た属性の有無を探し、人の基準で行動を評価すること。たとえ人に似た行動をしても、その行動を生んだ根源的なメカニズムまでが人と同じとは限らない。なぜなら、それぞれ異なる身体と神経系をもち、それぞれ異なる生息環境で生きているため、同じ行動原理であると考えるほうに無理がある。

 擬人化に偏って仮説を構築しようとすると、検証できる範囲が限定されてしまう。実験で上手に芸ができるから、「賢い」とする研究は、その動物と人との距離において、知的か否かを測ろうとする考えが裏側にある(あらゆる動物の最上位に人を据えた宗教の影響やね)。したがって、動物の「知性」とは、その動物にとってのコストパフォーマンスの最も良い行動原理を裏付けるものでなければならぬ。

 しかしながら、面白いことに、「知性」を定義しようとすると、必ずそこにヒトの存在が求められる(ヒトがいないと知的か否かの判定はできないし、ヒトを超えた知性は文字通り”人知の外”になる)。知的存在についてSF作品からのアプローチで、[SF読書会『ソラリス』×『ランドスケープと夏の定理』に参加したら読みたい本が激増した件について]に書いた。今回は、『タコの心身問題』『イカの心を探る』が楽しかったので、頭足類の「心」について考えてみる。

タコの心身問題

 一冊目、ピーター・ゴドフリー=スミス『タコの心身問題』について。生物哲学の教授であり、一流のダイバーである著者が、タコとの交流を通じて「心とは何か」「心はどのようにして"生じる"のか」を考える。進化は「まったく違う経路で心を少なくとも二度、つくった」という主張は、言い得て妙なり。

 まず著者は、タコの「目」について注目する。高度に発達しており、網膜、角膜などの構造は、ヒトの目と物理的に似ているだけでなく、視神経が網膜の前に突き出しているため、盲点がない。遠い祖先は海かもしれないが、そこから出て目を進化させてきたヒトと、海の中で目を進化させてきたタコが、結果的に近似した目を持つというのが面白い。

 これを専門用語で収斂進化と呼ぶという。異なるグループの生物が、環境や食物に適応し、系統に関わらず身体的特徴が似通った姿に進化する現象のことだ。異なる系統である鳥とコウモリの「翼」が似ているのと一緒やね。

タコに「心」はあるか

 そして、タコの生態や実験を紹介しつつ、ある種の「心」があることを考察する。この件がたいへん面白い。集めた貝殻で自分の”庭”を作ったり、状況に合わせて姿形や色を自在に変化させたり、閉まった蓋を開けたり、タコを知れば知るほど、「賢い」と見えてくる。

 たとえば、野生のタコがココナッツの殻をシェルター代わりに使っているレポートを紹介する。半分に割られた殻を持ち運び、危険を察知すると上手に中へ入り込む「道具を使うタコ」は、youtubeでも話題になっていた。他にも、貝や竹を使って入り込む様を見ていると、「ひょっとして、ヤドカリを真似ているのでは?」と思えてくる。

 一方で著者は、安易にタコを「賢い」とする姿勢に慎重になる。動物の「心」について考えるとき、人はどうしても自分の心を前提にしてしまいがちだ。単純な生物の「心」は、人の心を単純にしたものだとか、人が「賢い」と考える実験でもって動物の知性を測るといった「擬人化の罠」である。

 著者は折に触れてこの罠を指摘する。たとえば、タコの脳の大きさでもってタコの知性を測ろうとするのは誤りだという。まず「脳の大きさ」は、単純な比較ではなく、身体サイズに対する比でなければならない。その場合、タコは不釣り合いなほど巨大な脳を持っていることになる。さらに、タコはニューロンの大半(およそ3分の2)を、頭ではなく腕に持っている。

 つまり、タコは身体サイズからすると異様ほど大規模なニューロンを持ち、しかも独自の身体性の下で、頭からの指令と、自律した腕とが協調し、「タコであること」が成り立っているのである。巨大脳と大規模なニューロンは、タコの「心」の存在を示唆している。

  この「心」のありようについて、翻訳者も慎重に言葉を扱っている。原著のタイトル ”OTHER MINDS” の ”MIND” が複数形になっていることに注意を促し、日本語訳にあたっては、原則的に “mind” に「心」、”intelligence” に「知性」、”consciousness” に「意識」という訳語を当てて訳し分けている。

 ヒトの場合、「心」は、学習や意識といった、主に「頭脳」に結び付けられる精神活動を指す。しかし、頭足類の場合、そうした機能は必ずしも「頭脳」だけに限らず、わたしたちが「腕」や「脚」と呼んでいる箇所にも及ぶ。ヒトの言葉をそのままあてはめるなら、タコは腕で「考えて」いることになる。

 では、なぜタコは巨大な脳とニューロンを発達させたのか?

 著者は頭足類の歴史をさかのぼる。その祖先は、身体を保護する貝殻のようなものを進化させ、初期の捕食者となったという。その後、殻を捨てて遊泳を始めたのが頭足類となる。そして、殻を失ったことによる脆弱性を補うために、高い知能を発達させたというストーリーだ。

 つまり、タコはヒトとは異なる経路で、別のデザインで知能を得ており、いわば「心」の収斂進化が、少なくとも2度起きたというのである。この指摘は、たいへん興味深い。

海の霊長類・イカの心を探る

 『タコの心身問題』は、著者のタコ愛ゆえにタコに少々肩入れしすぎている。公平を期すため、そして、スプラトゥーンB帯から抜け出すため、イカの話も聞こうじゃなイカ……と手にしたのが池田譲『イカの心を探る』。著者は、イカ研究の第一人者で、イカやタコの行動科学を対象とした「頭足類学」を提案している。

 イカやタコといった頭足類は、精巧なレンズ眼、身体サイズに合わないほどの巨大脳、さらに体色模様でのコミュニケーションといった知的な振る舞いにより、「海の霊長類」と呼ばれているという。そして、イカの行動や社会性、アイデンティティーなど、イカの知性についての研究がまとめられている。『タコの心身問題』のイカバージョンといっていい。

 ところが、こと「知性」について考えるなら『イカの心を探る』の方が、より面白く、さらに深い考察まで進めることができる。そして、タコとは対照的な行動から、頭足類の進化について新しい仮説を立てることができる。

 まず重要な指摘は、イカやタコといった頭足類は、地球の全面積の7割を超える海洋において、完全に適応していることだ。一口に海といっても、浅瀬から深海、沿岸から沖合、熱帯から寒帯まで様々だが、頭足類は、どの環境でも種を繁栄させている。

イカは、鏡に映った「自分」を認識できるか

 次にユニークだったのが、「イカに鏡を見せる」ミラーテストだ。アオリイカに鏡を見せると、同じ仲間を見たときとは違った行動をとるのだ。そっと鏡に近づき、触ろうとするのである。これは、イカが「自分が分かる」ことを示しているのではないか?

 「鏡に映った自分自身を認識できるか?」を試験するミラーテストは、サルや犬猫、イルカなど、様々な動物において試されている。面白いのは、対象の動物に麻酔をかけ、普通では自分で見ることのできない場所にマーキングをする。目覚めた動物がそれを鏡で見つけて、触ったりなどすれば、「鏡に映っているのは自分である」と認識できたとするのである。これをイカでやったのである。

 本書や小論[頭足類の社会性と知性基盤](pdfファイル)によると、個体数が少なく、はっきりとしていないようだが、少なくとも「鏡に向かった”自分”には、同種個体とは異なる反応をする」ことは結論づけてもよさそうだ。ちなみにタコの場合、振る舞いに差は無かったそうである[ミラーテスト:タコ]

イカの巨大脳は、社会性と世代「内」学習の賜物

 では、イカの知的な振る舞いはイカに生じたのか? この問いに対し、たいへん面白い考えが示されている。著者は、問いを変えて、「なぜヒトの脳は大きいのか」「ヒトはどんな歴史的経路をたどって大きな脳を獲得したのか」というアプローチから、巨大脳と社会性を関連付ける。

 つまりこうだ、ヒトは様々な状況で、家族や友人、見知らぬ人とコミュニケーションを取る。そして、コミュニケーションを通じて情報を得たり、食べ物や欲しいものを手に入れている。上手くやりとりできた場合、自分に有利な結果を得ることができ、結果、生き残って子孫を残す上で有利にはたらくことになる。脳が大きいほうが「他者とのやりとり」に有利で、これが進化上の選択圧になったという仮説である。

 著者は、イカにもこの仮説を当てはめる。貝の仲間だったイカが、殻を捨て、遊泳という機動性を手に入れる一方で、自分の弱さを補うために群れで行動する。群れにおいて、あるいは繁殖という場面において、他の個体とコミュニケートしているように見えることから、イカの持つ「社会性」が巨大脳をもたらしたというのである。

 イカの社会性を考える上で、もう一つ面白い観点がある。それは「学習」である。孵化後に急速に発達する記憶や学習の能力を駆使して、生存に必要なスキルを学ぶ。巨大な脳はあれど、このスキルは誰から学べばよいのか。

 イカの寿命は1~2年と短く、子どもが親から学ぼうとしても親は既に死んでいる。それでは巨大な脳はコスト高ではないかと考えられるが、何も世代間で学習するだけではない。つまり、彼らは世代「内」で学習するという考えである。

 彼らの齢は年齢ではなく日齢になるが、すべてのイカが、一年間の同じ月、同じ日に産卵するわけではない。イカは年中産卵するが、メスごとに産卵時期が異なっている。早く生まれたイカほど早く成長し、少し長く生きている年上の個体が、「何か」を年下の個体に教える―――そういう可能性を指摘する。

 たとえば、レオ・レオーニ『スイミー』がそうだろう。スイミーの仲間たちは、みな同じ世代に見える。仲間の一部がマグロに食われても、残ったスイミーが知恵を絞り、隠れた仲間を集めて反転する。そのとき、「ぼくが目になろう!」と言ったように、何らかの知恵の伝承がなされているのではないか、という仮説である。

 翻って、タコの社会性はどうかというと、これはイマイチらしい。タコは単独行動が基本で、『タコの心身問題』では、タコが集まって生活するコミュニティ「オクトポリス」が紹介されているが、これは例外とのこと。

 しかし、これは本当だろうか? ヒトに比肩するレンズ眼を備え、体色の変化による威嚇や誘惑が可能であるということは、そのまま視覚によるコミュニケーションを過去にしていた証左にならないだろうか。

 すなわち、かつてタコはイカのような社会的な行動をとる戦略で、巨大脳を発達させてきたが、何らかの理由により単独化したという仮説である。現在における、人による観察の結果だけで判断するのは早急だろう。

頭足類のオーバースペックに対する一つの回答

 実というと、頭足類の巨大脳となったか、有力な説明が、既にある。

 なぜ、大部分のニューロンが腕に分散されており、無限関節での操作ができ、類推や考察ができるのか。異常なほど目が良く、視覚画像からパターン認識を行い、記憶と学習により道具が使えるのか。相手を見分けて、(反射的ではなく)相手に応じた擬態ができるのか。

 イカやタコは、できることが多すぎるのだ。

Furann2

 あくまでも―――あくまでも仮説なのだが、かなり魅力的だし、検証も可能である。

 結果は、つぎはぎだらけの人造美少女ふらんに委ねよう。ふらんとは、エロくてグロいホラー・コメディ『フランケン・ふらん』の主人公兼トリックスターで、改造手術を得意とする。第7巻のエピソード53.OCTOPUSで、「妹的生命体」をタコで作る話からの引用だ。

Furann3

 そして、この続きがおぞましい&素敵なんだな。気になる人は、確かめてほしい(グロいで)。 進化とは「現在」を頂点とした適応の歴史であり、現在、ヒトが頂点だと考えていることから陥っているバイアスを見事に覆した考察である。『タコの心身問題』と『イカの心を探る』のそれぞれの著者に、ぜひ見てご意見を伺いたいものである。

 頭足類に「知性」や「心」はあるか? あるとするなら、どのように実証できるか? これを考えてゆくと、「心とは何か?」「知性の検証にヒトは必須か?」につながってゆく。

 そして、ふらんの回答を見ると、知性の検証が必要なのは、反対にヒトの方なのかも……と思えてくるから、さらに面白い。知的生命体として、ヒトはまだ、ヒヨッコなのかもしれないからね。

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「古典は本当に必要なのか」討論会


 「社会に出たら三角関数なんて使わない」とか、「漢文は仕事の役に立たない」という議論が、ネットで繰り返されている。わたしの中では結論がついており、以下の寸言に集約されている。

「人生で必要なことは教科書に書かれてない」っていう奴、それお前が教科書ちゃんと読んでこなかっただけだろ(tumblrより)

他人のアラ探しをしてる間は自分の姿を見なくて済む(三島由紀夫)

 つまり、「〇〇が役に立たない」という人は、〇〇を使わない人生を選んできただけであって、それ以上でも以下でもない。あるいは、〇〇が理解できない貧しい想像力の持ち主か。それでいて、〇〇を貶めている間は自分の浅学を見なくて済む。

 ただし、これをリアルでやると面白い。それぞれの学問やビジネスの第一線にいるにもかかわらず、わざわざ出てくるのはすごい。専門を極めていれば自ずと知的な謙虚さが身につく―――というのはわたしの思い込みで、他の学問領域が見えなくなる専門バカになるのだろうか。

 そのイベントが、まさにこれ。たいへん楽しみにしている。

「古典は本当に必要なのか」
2019年1月14日(月・祝)14:00~17:30
明星大学日野キャンパス アカデミーホール(28号館204教室)
※入場無料、制限・予約無し

Kotennha

facebookイベントページ
公式発表ページ

第1部:パネリスト発表

〈否定派〉

  • 猿倉信彦(某旧帝国大学 某研究所 教授)「現代を生きるのに必要度の低い教養である古典を高校生に教えるのは即刻やめるべき」
  • 前田賢一(某大手電機メーカー OB)「古文・漢文より国語リテラシー」

〈肯定派〉

  • 渡部泰明(東京大学 教授)「古典に、参加せよ。」
  • 福田安典(日本女子大学 教授)「BUNGAKU教育を否定できるならやってみせてよ」

第2部:ディスカッション

ディスカッション司会:飯倉洋一(大阪大学 教授)
コーディネーター:勝又基(明星大学)

 こういう知的バトルは面白いはずなのだが、ゴミみたいな水掛け論と詭弁合戦にならぬことを危惧している。「古典」とは何か、「役に立つ」とは何かを定めず、やれTOEICやPISAのスコアだとか大学ランキングとか科研費の多寡という議論になるなら、ネットの焼き直しになる。

 リアルで、即興性があるのだから、絶妙な「返し」に期待している。たとえば、「たったいま、貴方が使ったレトリックの出典は、孔子が弟子の顔回を評したもの。知らないうちに身についていたのは古典教育の賜物ですね」と返す刀で斬ったりしてほしい。

 わたしは行くつもり。最前列でニヤニヤしてます。ネット中継もするみたいなので、イベントページや中の人のtwitterを要チェックや!

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『はざまの哲学』はスゴ本

Hazamanotetugaku

「哲学は何の役に立つのですか?」

 哲学をやっていて良いのは、メタ的に疑う目を養えることだ。

 たとえば、「哲学は何の役に立つのですか?」という質問が、どんな前提で発せられており、その前提が孕む別の問題に気づけるようになる。

 質問者は、「哲学は〇〇の役に立ちます」という回答を期待している。〇〇には、適当な言葉が入る。たとえば、「論理的思考」や「詭弁術」、あるいは「認知バイアスの明確化」「会議における論駁」など、いくらでもある。そこから質問者は、〇〇を身につけるには、別に哲学である必要はない、と言うことも可能だ。

 まさにここが問題になる。

 「哲学が〇〇の役に立つ(a)」からといって、「〇〇のために(b)哲学がある」わけではない。この(a)と(b)を混同させる発想が、質問の前提にあるのだ。いま哲学を槍玉に挙げたが、哲学に限らず、歴史、数学、文学など、学問分野は質問者の意図によって入れ替え可能である(最近だったら三角関数やね)。

 学問は、〇〇という、何らかの価値が予め存在し、そのためにやっているわけではない。それらは先人の成果であり、副産物である。にもかかわらず、あたかも〇〇に奉仕するかのように学問の存在意義を問うのであれば、学問の意義の空洞化だろう(大学の専門学校化といってもいい)。

 ふたたび哲学を槍玉に戻すなら、最初の質問に対し、「哲学は何の役に立つのですか?」という「役に立つ」とは何かを問う(問える)ようになる。そして、「役に立つ(=有用性)」を重視する考え方が、いったいどこから来たのかを考えられるようになるのだ。

学問の有用性が求められる背景

 『はざまの哲学』の「有用性とスローサイエンス」の章では、マンハッタン計画にそのモデルを求めている。第二次世界大戦中、ドイツの原子爆弾開発に焦ったアメリカ政府が、科学者・技術者を総動員して原爆を開発したプロジェクトである。計画は成功し、製造された原子爆弾は日本に投下され、数十万人を殺すことになる。

 プロジェクトの成功は、そのままビッグサイエンスの始まりにつながる。アメリカ政府は「全米科学基金(NSF)」を設立し、科学者に研究開発プロジェクトを請け負わせる形で財政援助を行うのだが、これは、戦時の科学者動員を平時化するものであり、同時に莫大な予算を必要とする「ビッグ・サイエンス」の始まりでもあったという。

 この指摘は、システム開発の現場において、プロジェクトマネジメントを適用しているわたしにとって、非常に腑に落ちる。なぜなら、開発・運用のサイクルを長期計画で見た場合、最重要なのはリソースの平準化だからである。予算と時間は成果物の品質とバーターだが、人的リソースの集中には限度があり、予算・時間・品質のすべてに影響を与えるからだ。

 請け負う側としては、研究資金を調達し、人員を組織して期限までにプロジェクトを達成する必要がある。必然的に科学者に求められるのは、「研究者」であるよりは「管理者」としての役割になる。一人の優秀な科学者がコツコツと研究を積み重ねる時代から、巨額の予算と設備投資を行い、チームとして成果を上げる時代に変わったともいえる。

 政府であれ企業であれ、出資者に対しては短期的成果を出す必要があることから、このタイプの科学研究を「ファストサイエンス」と呼ぶという(ファーストフードになぞらえて)。

 予算配分の現場において、この、ビッグサイエンス、ファストサイエンスの考え方が主流となり、有用性や効率性を掲げる市場原理に還元することを是とする風潮が、「その学問は役に立つのか」という問いにつながる。学問は、もともとギリシャ語のスコレー(閑暇)から発したものであり、市場価値や効率性とは離れたものだったが、いまやこの考え方は少数派らしい。

「〇〇は役に立つのか」そのものを疑う

 このような、「〇〇は役に立つのか」という発想そのものを疑うことは難しい。なぜなら、その発想が生まれる風潮を疑い、いったん離れて見る必要があるからだ。そして、自分が「正しい」と信じていたことに揺さぶりをかけ、質問の前提へ問い直しを行う。

 野家啓一の論文集『はざまの哲学』では、まさにこの問い直しを、さまざまな「はざま」で行っている。科学と哲学のはざまでは既知から未知への語り直しを提案し、プラトニズムのニヒリズムのはざまでは"真理"の構成的側面を展開し、近代と脱近代のはざまではフッサールのオリエンタリズムを例に示す。その一つ一つがたいへん興味深い。

 たとえば、"真理"の構成的側面について。「真理である」「虚偽である」とは、それを語る行為の文脈に深くかかわっているという。真理・虚偽は人から独立に定まるものではなく、言語行為が遂行される文脈の関数だという。そして、その意味で真理の成立には行為遂行の文脈が「構成的に」関与しているというのだ。

 この主張、たいへんウィトゲンシュタインしてて面白いが、そのまま科学理論へ斬り込む。つまり、真理を超越的ないし外在的なものと前提とした上で、それへの漸近として科学の進歩を語ることは不可能だという。あたりまえだ、それぞれの理論の中の文脈でのみ、「真理である」「虚偽である」を語ることしかできないのだから。

 その例として、ユークリッド幾何学の公理系とリーマン幾何学の公理系の「はざま」では、「三角形の内角の和は二直角である」の真理・虚偽は異なる。同様のことは、相対性理論以前と以後の物理学における「ガリレイ変換」についても然りだという。

 このあたりは、クーンのパラダイム論で学んだことがあるが、本書ではこれに加えて、オースティンの言語行為論、ブラウワーの直観主義(構成的数学)のアプローチで、人間的な真理を明らかにしようとする。

数学の”真理”も変遷する

 『はざまの哲学』では科学理論の”真理”について揺さぶりをかけているが、同様のアプローチは、イアン・ハッキング『数学はなぜ哲学の問題になるのか』でも展開されている[書評]。

 ハッキングは、数学の歴史を振り返り、証明についての2つの見方を指摘する。省察と学習ののち、全てを理解し、一挙に把握できるような「デカルト的証明」と、全てのステップが積み重ねられ、一行一行機械的なやり方でチェックされるような「ライプニッツ的証明」である。

 それぞれの証明の歴史を詳らかにすることで、ある事実に行き当たる。すなわち、「証明」のような概念ですら、特定の時代や文化に限定されおり、ある特定の推論スタイルのもとで初めて意義を持ちうるということである。

 かつては「ユークリッド幾何学」が数学の最高基準だったし、現在は「証明」がそうかもしれない。だが、これらは偶然的な歴史的事実に他ならない。数学の最高基準は時代や文化によって変化するのであるならば、証明のない数学の可能性まで考えることができる。

正しさの相対性の罠

 『はざまの哲学』のキーワードとなっている「はざま」は、何かと何かの間である「狭間」「間」という意味である。何かの片方におり、そこが全てだと考えているうちは、もう片側に気づくことすらない。本書では、正しさの相対性の罠(お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな)に陥らないよう、それでいてその「はざま」でどのような力が働いているかを振り返る。

 メタ的に疑う目を養える一冊(だからといって、本書の目的はそれではないことにご注意をw)。

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猫好きは本好きである『文豪の猫』

 猫が好きな人は本が好きである。

 これ、わたしの友人を通じて知ってた。猫を飼っていたり、飼ってはいないけど猫に寄ってこられる人は、必ずと言っていいほど本が好きなのだ。文筆業に携わっている人も猫率が高いので、都市伝説というより定説の一種だと考えていた。

Bungounoneko

 ところがこれ、実証されていたらしい。米国のfacebookユーザを対象に、2016年に行われた調査が、本書で紹介されている。自分のペットの写真を公開している16万人のデータを集計した結果、猫を愛する人が本好きであることが極めて多いという結論が導き出されている。

 この定説が、作家にも当てはまるのを示した写真集がこれ。古今東西の作家と猫のツーショットを集めた、猫愛あふれる写真集。猫好き作家といえば定番の人から、意外なあの人まで楽しませてくれる。

 面白いのは、作家と猫の関係性。おそらく猫と一緒のところを撮るからというリクエストがあったのだろう。イメージとかけ離れた甘い顔の作家と、なんだかイヤそうにしている猫の写真が多い(表紙はトルーマン・カポーティ)。

 たとえば、猫好きの定番といえばマーク・トウェイン。可愛がっていた黒猫が失踪すると、新聞各紙に尋ね猫の広告を出したというし、「ネコを愛する人となら、わたしは友人として、同士として付き合える。堅苦しい紹介などいらない」という言葉も遺している。彼の猫好きを知ったファンが、適当な猫を連れて押しかけたというエピソードも面白い。

 意外な組み合わせといえば、チャールズ・ブコウスキーと猫。猫と一緒に相好を崩す姿が微笑ましく、またブコウスキーを見上げる猫の表情がまた可愛い。「猫をたくさん飼う人ほど長生きできる。100匹いれば10匹いるより10倍は長く生きられる。1000匹飼う人が出てきたら、永遠に生きるようになるかもしれない」なんて、どれだけ好きなんや。

 また、スティーヴン・キングは大の猫好きで、『ペット・セマタリー』の猫が車に轢かれるエピソードは、彼の飼っていた猫が元になっていることを知って驚く。他にも、村上春樹、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、レイ・ブラッドベリといった大御所と猫の姿を見ることができる。作中の猫と重ね合わせて見ると、一層楽しめる。

 猫好き作家の写真集だと『作家の猫』があるが、こちらは日本の作家が中心となる。ポイントは、作家「の」猫であること。つまり猫に焦点が当たっているのである。「犬は?」という人は、姉妹本の『作家の犬』と比べてニヤニヤするといいかも。猫好きは本好きかもしれないが、本好きは猫好きと犬好きと両方とも好きがいるから。


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本に埋もれて本と生きる『本の虫の本』

 なりたくて本好きになったのでないから、止めたくて止められるものでもない。

Honnnomusi

 活字中毒という便利な言葉があるが、スマホに魅入るのとは違うので、本中毒なのかもしれぬ。本書によると、中毒にはレベルがあるらしい。

本好きのレベル(あるいは深刻度)

  1. 本好き 50冊ぐらい家にある
  2. 読書好き 100~200冊
  3. 書豚(しょとん) 千冊くらい(家の階段にも積まれている)
  4. 書狼(しょろう) 本を並べるためだけに家を買う
  5. 書痴(しょち) 世の中に5冊だけの本を全部買い占めて、4冊を破って捨てる

 よかった、まだ「読書好き」で済んでる。「階段に積んでる」「床が抜けた」という話も聞くが、本のために部屋を借りたり家を買うようになれば、書物狂といっていい。だが、それは読書の本というよりも、むしろ「資料」であり「在庫」なのかもしれぬ。

 これは、本が好きで好きでたまらない「本の虫」たちのエッセイ集。新刊書店、古本屋、装幀、ジャーナリズム、イラストレーションなど、活動領域は違ってても、本を食べ本で食べ本に埋もれて生きる様子を観察することができる。虫たちのラインナップはこんな感じ。

林 哲夫
能邨 陽子
荻原 魚雷
田中 美穂
岡崎 武志
赤井 稚佳

本好きあるある

 この本の虫たちが、本好きあるある話から、意外なネタ、調べたくなる薀蓄、お役立ちTipsなど、本の世界にまつわる様々なテーマを、自在に取り上げ、縦横無尽に紹介しまくる。どれも独立しており、どこから始めても、どこを摘まんでも面白く読めるような構成になっている。

 結構な分量だが、一気に読むのはもったいない。枕元かトイレに置いて、一度にふたつみっつが丁度いいかも。小口に一行、気になる言葉が記されており、さらにその飛び先の頁数が書いてある。ハイパーリンクを物理的な書物で実装しており面白い。こんなふうに。

  • 日々の生活の中で、背表紙が目に入る。それも読書の一部である
  • 聖書には本を食べるという話が二度出ています
  • しかし、本がある。どんなときにも読書というものがある。本好きにはそれを救いとすることができます
  • 「やる気が出るまで待つな」やる気が出るまで待っていたら仕事は終わらない
  • 読書量よりも、再読に値する本がどれだけあるか

 いくつか読むと、記事のつながり具合から想像が広がって楽しい。さらに、リアル書店に行きたくなること請け合う。

本屋に行くとトイレに行きたくなる現象

 たとえば、本屋に行くとトイレに行きたくなる現象を[青木まりこ現象]と呼ぶのは知っていた。書物に含まれる化学物質が匂いとなり、もよおすトリガーとなる説も耳にしたことがある。

 だが、その隣の記事は、匂いと結び付けたネタになっている。できたての本の匂いは「ゆまり」で、古本は「できたてのビスケット」のような香りなんだって。「ゆまり=おしっこ」に喩えたのは装幀家の間村俊一で、「ビスケット」みたいといったのはホルヘ・ルイス・ボルヘスとのこと。

 そこからロンドン大学の「古本の匂い」の研究が紹介されている。書籍に含まれているリグニンが時間と共に分解されてVOC(揮発性有機化合物)が放出され、その中のヴァニリンがチョコレート、ココア、アーモンドやヴァニラに似た芳香の原因であると考えられているんだって。

 さらに前小口から、厠上読書として岩波新書の『折々のうた』が紹介されている。古来から熟考に最適な場所として「馬上・枕上・厠上」があるといい、これを現代の読書にも置き換えると、「電車内、枕元、トイレ」になる。それぞれ滞在時間に適した長さが求められるが、トイレには『折々のうた』がちょうど良いそうな。

自分が死んだ後の蔵書を考える

 すこし寂しい話も出てくる。

 本人が「本好き」といっても、家族がそうでない場合がある。古本屋を営んでいると、ご年配の方が、けっこうな蔵書を一気に手放すことがあるという。訊いてみると、「家族は全く本に興味が無いから、自分にもしものことがあったらゴミにされてしまう。ならばいっそ今のうちに」……という話らしい。twitterで見かけた、仮面ライダーグッズを処分した男の話を思い出す。

もし自分が死んだらと考えたとき、
孤独死した男の仮面ライダーだけで埋もれた部屋だけが残り、
一つ一つ思い入れのある仮面ライダー達が、
無造作にゴミ袋に入れられていくのが耐えられなかった
それならば、自分は一切、何一つ残さず、一人で完結したい

 わたし自身、蔵書にこだわらない(こだわ「れ」ない)理由の一つがこれだ。すごい蔵書を誇る人がいるが、うらやましいものの、わたしがそうなりたいとはあまり思わない。準備する時間があるのか、突発的なのかは分からないが、わたしが不在となったとき、処分に困るほどの蔵書を残しておくのはやめておこう、という気持ちがどこかにある。

 もともと、わたしは、マイ本棚というものを持っていない。

 その代わり、嫁さんの書棚、子どもの学習机の棚、リビングの片隅などに間借りして、「わたしの本」を置かせてもらっているようなもの。もちろん「これ読んでもらうといいなー」という下心もあるが、一方通行の期待にすぎぬ。わたしが不在となった後も、わたしが選んだ本は、その片隅に残り続けることだろう。

やる気が出るまで待っていたら仕事は終わらない

 すごく刺さる言葉もある。これ→「やる気が出るまで待っていたら仕事は終わらない」。ヘイズ・ジェイコブズ『ノンフィクションの書き方』に出てくるという。わたしの経験に照らしても「ほんそれ」なのだが、かくいうわたし自身が実践し切れていないので、耳に痛い。

 すなわち、「書き続ける」ためには、修練を積まなければならないという。ヤル気を待っていたら、その日が時間切れとなってしまう。ヤル気がなくても手を動かしているうち、だんだん調子が出てくるというのは真だ。

 「書く」という行為を、規則的な習慣にしてしまわなければならない。毎日、同じ時刻に書き始め、同じ時刻に終えるという、決められた日課をこなすことが、「書き続ける」ことなのだ。たしか、レイモンド・チャンドラーも似たようなことを言ってたはず。

  • 毎日、決まった時間に、タイプライターの前に座る
  • 座っているあいだ、書いても書かなくてもよい
  • ただし、他のこと(本を読んだりとか)はしてはいけない

 ジェイコブズはさらに、「残業」についても語る。ライターは残業すべきか? と問われれば、「すべきでない」という。気分がノッて、どんどん「書ける」ときもあるが、その分の消耗も激しいものになる。結果、翌日は書くのが嫌になる。だから、決めた時間になったら終えるべきなんだって。

「読書家」の燃え尽き症候群

 ある種のプロに見受けられるが、いわゆる燃えつき症候群の弱音もきける。

 長年、本を読むのを生業としていると、「壁」にぶつかるという。読んでも読んでも収穫らしいものに行き着かず、自分が何を知りたいのか、そもそもなぜこれ読んでいるのか分からなくなり、惰性で読み続ける毎日になる。なまじ目が肥えているから、ちょっとやそっとでは満足しきれなくなるのだ。

 蒐集癖もそう。古本屋をハシゴしてまわった経験を引きずっており、見つけたときに買わないと次にいつ買えるか分からないという強迫観念に追われる。ところがある日、ネットを検索したら、探究書の大半は、お金さえあれば、ほぼ買えることが判明する。いままでの苦労は、一体なんだったのか、というやつ。

 前者のお悩みは、いわゆる「ジャンル読み」のマンネリズム陥らないことが肝心だ。好きの方向を深堀りするだけでなく、横に拡張したり、複数のジャンルを開拓することで脱出できるはず。「生業としての読書」と「楽しみのための読書」を割り切り、使い分けることだってできるだろう。

 後者は「仕入れ」と「読書」をごっちゃにしたから生じている悩みだ。本を「集める」のが目的なら、それは資金の続く限りの趣味か、もしくは仕事としての「仕入れ」でしかない。いっぽう、「読むためなのだ」と開き直るのなら、図書館も視野に入れるといいかも。

「おすすめ」を紹介するのは難しい

 「本好きなんでしょ? お薦めの本を教えてよ」というのが、いちばん難しい。その人の好みも、ジャンルも、ひいきの作家も聞かないで、いきなり答えられるわけでもない。

 ところが、万人ウケを狙える小説があるという。聞いてみたらああなるほどなのだが、これもまた、話者の周囲に集まる人というバイアスを通じた「万人」やね。あまり本を読まない人向けとして、男に薦めるなら吉村昭、女に薦めるならアン・タイラーが無難だという。値ごろ手ごろで妥当なのだが、「これ読んで本が好きになれないならお手上げ」は言い過ぎかも。「お薦め教えて」が社交辞令でないのなら、下の句で好きな映画、設定、昔読んだ本を教えてもらえるから。ノーヒントでお薦め教えろというのなら、後は察するべし。

 本を読みなれていない人にお薦めする入口として、面白い提案を教えてもらった。「場所」である。たとえば小説なら、その人にとっての「出身地」「青少年期を過ごした土地」「通った学校の近辺」「現在住んでいる町」など、馴染みの有る場所を挙げてもらい、そこを舞台にした作品を読んでみる、というアプローチである。

 この、土地と小説を結び付けて読むという発想が面白い。たとえば「東京」なら、[Wikipedia東京を舞台にした作品]でたくさん出てくる。いわゆるご当地小説やね。

 こんな感じで、本にまつわる苦労話、小ネタ、新しい斬り口などが詰め込まれている。同じようなテーマでも、書き手が違うと別の視点で新鮮に読める。紹介される本は400冊を超え、巻末の索引も充実しているため、本の本のブックガイドとして読むのも吉。ちびちびと読むのが楽しい。

 さっき、寝しなとかトイレに読むといいと書いたが、これ、読書のあいまのオヤツのように読むのもいい。本を読んでて疲れたら、気分転換にこれを読むのだ。

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良い死、悪い死、普通の死 『現代の死に方』

 死に方に良し悪しはあるのか? 本書の結論は「ある」になる。

 上々の人生だったのに最悪の死に方をする人もいるし、悲惨な人生だったが最期は安らかだったという人もいる。総合病院の医者である著者は、さまざまな死を扱っているうちに、ある結論に達する。それは、「死に方を助言することは、生き方を助言するくらい難しい」である。

Howtodie

 それにもかかわらず、本書を著した。理由は分かる、「悪い死に方」が多すぎるのだ。本書を手にしているあいだ、「あなたは、自分の死に方について、あまりにも楽観的すぎる考えを持っているのではないか?」と問われているように感じた。どういう風に死にたいかと、どういう風に死ねるかは、全く違う問題なのだ

普通の死

 「普通の死」と言われて思い浮かぶのは何だろう。

 事故死や殺害されるようなものではなく、老衰か、病気か。苦痛は無いほうがいいし、できれば自宅で、家族に囲まれ、友人に別れを告げて、惜しまれながら、穏やかに最期を迎える―――だが、現実は違うという。それは「理想的な死」であると考えたほうがいい。

 現代医学は、死を表層から遠ざけようとし、死の好ましくない部分の隠蔽に成功したが、まさにそのことが現代人にとっての死を空想じみたものにしているという。終末期にどのような医療を受けるか(または受けないか)を記したリビング・ウィルがあればと考えていたが、著者は先回りしてこう述べる。

事前指示書と合法の自殺幇助によって死ぬ時期と方法を自分で決められると思い込んでいると、結局は自滅することを読者に分かってもらいたい

現実の死

 では現実の死とは何か。

 長い慢性病の末に死ぬかもしれないし、慢性病は知力と意思疎通の力を奪うかもしれない。普段どおり動くこと(食事、着替え、トイレ)にも介助が必要な状態となる。自宅の可能性は少なく、ホスピスはさらに少ない。処置室などで知らない人間に囲まれるか、長い衰弱の後に死は突然訪れる。鎮静剤を与えられて苦痛はなく、意識もなく、家族や友人に別れを告げる機会はないかもしれない。食べる、飲むという楽しみは、遠い記憶となっている。

 「良い死」を扱った本として、緩和ケア医が書いた「死ぬときに後悔すること」といった本は両断している。あれは、「一括りされた」死だという。あるいは、キューブラー・ロスの死の五段階(否認、怒り、取引、抑うつ、受容)が有名だが、五段階の反応を見せた人がいたことはないとバッサリ斬る。

 「安楽死」や「尊厳死」はアテにならぬという。死にかかっている人はあまりに疲れ、消耗しており、「尊厳死」するほど「崇高」ではないという。生存本能は極めて強いため、元気なときは生きる価値がないと思った人生にしがみつくという可能性もある。「尊厳死」は、米国だと安楽死の婉曲表現になるし、英国だと自殺幇助の議論に出てくる。医者は、「良い死」の処方箋を書くとは限らないのだから。

悪い死

 分かりやすい「悪い死」は、トルストイが書いている。『イワン・イリイチの死』だ。

 イワン・イリイチは40代で、虚栄心が強く、裁判官として出世し、資産を蓄えて豊な生活を送ってきた。腹部に痛みを覚えて医者に見てもらうが、いろいろ診断してもらった結果、助からないことが判明する。

 問題はここからだ。家族や医者は、この事実を隠そうとする。全員が全員、それはただの病気で、死ぬようなことはなく、医者の言うとおりにしていれば必ずよくなると嘘をつくのだ。しかし痛みは激しくなり、どうすることもできない。死が待っていることは分かっているのに、みな嘘を吐き通そうとし、イワン・イリイチ自身にも「助かる」という嘘を強要する。

 嘘をつくのは「希望を失わせないため」善意からで、死が近い人間は芝居じみた虚偽の世界に住んでいる。その結果、「希望を失わせない」アリバイづくりのために無益な医療が押し付けられ、しなくてもいい苦痛を味わい、惨めな思いをしながら死んでゆく。

死の医療化

 意識が混濁した本人に代わって、「手を尽くしてください」と訴える家族のプレッシャーに押され、濃厚医療を施し、人生の最後の最後になって、無理やり生かされている状態である。まさに、[苦しまないと、死ねない国]の話である。

 著者はこれを、「死の医療化」と呼ぶ。人は生きて、死ぬ。これはあたりまえのことなのに、死に近くなればなるほど、本来は医療問題ではなかったことが、医療として扱われ、治療の対象となってくる。

 たとえば本書では、「胃ろう」が問題として提示される。高齢者にひとくちひとくち食べさせるという、手間と時間とお金(労働力)のかかる方法よりも、胃までチューブを通し、直接栄養分を流し込む方が、ずっと楽だ。しかし、著者は終末期患者への胃ろうに反対を唱える。

胃ろうは衰弱した終末期の高齢者の食事問題の解決に魅力的に見えるが、誤嚥性肺炎、下痢、チューブからの漏れ、感染症などの慢性的問題のほかにも、方法そのものの危険が大きい。さらに重要な点は、食べるという人間のごく普通の行為を医療介入に任せ、その単純な楽しみを患者から奪ってしまうことだ。

 そして、胃ろうで栄養を与えるのは、患者のためというよりも、むしろ家族と医者の感情的&経済的な問題を解決するためだという結論をぶっちゃける。医者の仕事は病気の治療なのに、社会から死を隠した結果、人生の扱いにくく解決不能なごたごたが押し付けられているという。著者はアイルランドの医者だが、同じ微妙な事情は日本でも同じだろう。

スーザン・ソンタグの「手におえない死」

 わたしにとって本書の最大の収穫は、スーザン・ソンタグの癌のエピソードだ。『隠喩としての病い』を通じて、わたしが受け取ってきたことは、事実のある面だけを見ているに過ぎないことが分かった。

 『隠喩としての病い』の中でソンタグは、病をとりまくテクストを読み解きながら、そこにひそむ権力とイデオロギー装置を解体する。病気は悪行への罰なりという先入観や、内的なものを劇化するための自己表現としての「病」を、ソンタグは次々と暴いてゆく。そこには実際の病ではなく、語り手から意味を付与され、喧伝されるための「隠喩としての病い」が白日の下にさらされる。

 そして、人体におきる「出来事としての病い」は、ひとまず医学にまかせるとして、それと重なり合って苦しめる病の隠喩、すなわち言葉の暴力から解放してくれる。「がんは、ひとつの病気だ―――とても重大な病気ではあるにしても、ひとつの病気にすぎないのだ―――呪いでも罰でもない、そこに「意味」などないのだ」というメッセージが、くりかえし伝わってくる。癌に対する態度として、そこに「闘い」などの意味をつけないで、「ひとまず医学にまかせる」ことが素晴らしいと思っていた。

 しかし、『現代の死に方』を読むと、ソンタグと癌の関係は、わたしが考えていたこととかなり違うことが分かった。

 ソンタグは1970年代、1990年代と二度癌になり、大手術と先進の免疫療法を処方してもらい、癌を克服した結果、科学的医療に揺るぎない信頼を抱いたという。そのとき彼女は、「死ぬかもしれないとき、医者のあらゆる予見を無視し、大きな困難や危険をものともせずに生きていれば、そこに何らかの意味を付け加えないではいられません」と述べている。著者は、この頃の彼女の言動から、癌とは「闘う」もので、生は勝ち取るものだというメッセージを読み取る。

 最後は骨髄癌になった。彼女の息子によると、最悪の知らせを理解したとき、ソンタグは悲鳴を上げたという。そして「医者のあらゆる予見を無視し」、幹細胞の移植、放射線療法、化学療法を施してもらう。71歳の高齢者に対する治療法としては、適切なものでなかったが、医療保険の支払いが拒否され、前払いで25万ドルが振り込まれた結果に実現した「治療」なのだ。

 ソンタグ本人は死を見つめることさえも拒絶し、最後の最後まで医者をシャーマンとして信頼しており、著者に言わせると「手におえない死」だったという。そこに「何らかの意味を付け加えないでいられ」たかは分からないが、死を前にしては、名声も、財産も、知性も、品位も、何も役に立たないことは痛いほど分かる。

哲学で「良い死」を学べるか

 著者は、『哲学者190人の死にかた』(サイモン・クリッチリー)を参考にしつつ、さまざまな哲学者や思想家の死を挙げてゆく。

 セネカ、ゲーテ、モーム、トルストイは、死と終末に深い洞察がありながら、一般大衆のような死を迎えたという。一方で、ヒューム、ウィトゲンシュタインの死に際のような美徳の組み合わせはほとんど無かったという。そして結論として、「良い死」を遂げる哲学者もいれば、そうでない哲学者もいるから、哲学は「良い死」と関係ないという。

 さらに、「哲学するとは、死にかたを学ぶこと」をエセーに掲げたモンテーニュの最期を考察する。彼は死を恐れないことについて多くの名言を残したが、人生の最後において、ベッドに横たわり、何日も苦しんで死んでいった。それは、彼が避けたかった死は、哲学的考察では防げなかったことであり、「死について参考になることは言っていない」と断ずる。

 これはおかしい。哲学者の人選に恣意性があり、著者の底意地の悪さを感じる。ソクラテスの最期が外されている時点で、推して知るべしだろう。さらに、最後の数日間の苦しみだけに焦点を合わせ、それまでの省察を断ずるのはフェアじゃなかろう。

 「哲学するとは、死にかたを学ぶこと」は、死ぬまでの数日間のふるまいについてだけはない。エセーでは、死を恐れることで、ちゃんと生きないことが問題だと言っているのに。

 たとえば、以下の一節は、死を恐れるあまり、死につながるあらゆる可能性を心配するあまり、ひきこもりの人生を選ぶこともある。死に対する不安によって、「いま」から実際に死ぬまでの間を臆病に過ごすことは、もったいないことだよ、と理解している。

「実際、あれこれの危険や危難は、われわれを死という最期に、ほとんど近づけはしないのである」(モンテーニュ エセー 第19章 哲学することとは、死に方を学ぶこと)

 哲学は、死ぬまでの数日間のためにだけるのではなく、学び始めたときから死ぬまでの全ての生のためにある、とわたしは信じる。死を学ぶことは、生を学ぶことなのだから。

医者がすすめる良い死に方

 最近のAmazonのパワーワードとして、「医者がすすめる」がある。「医者が教える」でもいい。下の句は「健康法」とか「食事法」とか「ダイエット」など色々あり。そんなに医者を頼りにするなら、医者がすすめる死に方があってもいい。

 では、医者がすすめる「良い死」とは何か?

 そして、非常に興味深いことに、本書で「良い死」として医者がすすめる死に方は、当の医者が患者に施している方法と、全く異なる。すなわち、医者は、自分に対してやってほしくない医療を、患者に対して行っているのである。

 医者の死に方は、ジョン・ホプキンス大学が2003年に実施した調査結果を見れば瞭然である。医者に対し、自分自身の終末医療に関し、なにを望むかについて調査したのである。まとめるとこうなる。

  • ほぼ全員が事前指示書を所持
  • 大多数の医者は、心肺蘇生、透析、大手術、胃ろうを希望しなかった
  • 全員が鎮痛薬、麻酔薬を希望

 カンサス州の病理学者エド・フリードランダーは、堂々と胸に「心肺蘇生はダメ」と入れ墨を入れいてるという。本書の著者は、医者として、積極的な安楽死には(個人的に惹かれつつも)反対を唱えているが、濃厚医療でムリヤリ「生かす」ことにも反対している。

生き方としての死に方

 「長く生きる」のが目的ではない。「よく生きる」のが目的なのだ。そして死は、よく生きる生き方そのものなのであり、生き方の延長にある死に方を選べるようにありたい(選べるうちに、選びたい)。

 『現代の死に方』を読みながら、2018年1月21日に、自裁死を実行した西部邁のことを考える。彼の「生き方としての死に方が、とくに家族とのかかわりをめぐって、正面から検討されはじめている」は、これから何度も考えることになるだろう。そして、健全で明朗で、平常心で自死した須原一秀のことも考えることになるだろう。

2018/12/28追記

note に重要な記事が上がっていたので、そこから引用する。引用元は「死ぬかもしれないから、言っておきたいこと。」、書いた人は幡野広志さんで、写真家で元狩猟家で、がん患者である。「生きる権利を、生きる義務にされてしまうと病気になったとき果たせないので、苦しくなる」というメッセージは、重要で、沢山の人に伝えたい。

患者が望む最後と、家族が望む最後は違う。
患者は苦しみたくないが、家族は悲しみたくないのだ、意見が一致するわけない。

そして医師が尊重するのは、家族が望む最後なのだ。
野次に負けた妻が人工呼吸器を使って延命してほしいといったり、心臓マッサージを希望すれば、医師はやる。なぜ医師がそれをやるかというと、それが医師の望む最後だからだ。

そして鎮静死、セデーションは医師の裁量で行うものなので患者が希望しようが関係ない。

患者の意見が尊重されない仕組みになっている、それが日本の医療の現実だ。
<中略>
生きる権利は誰にでもあり、保証されている。
死ぬ権利を持つと、びっくりするほど生きやすくなる。
生きる権利を、生きる義務にされてしまうと病気になったとき果たせないので、苦しくなるのだ。

そして死ぬことは悪いことではない。
死ぬことを悪いこととしていたら、人類全員バッドエンドだ。
自分の望む死をハッピーエンドにして、目指しましょうよ。

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SF読書会『ソラリス』×『ランドスケープと夏の定理』に参加したら読みたい本が激増した件について

 SFをこじらせると哲学になる。

 未来思想研究会の読書会に参加したら、おそろしく楽しかったので以下にまとめる。レジュメや板書は、[第22回読書会 テーマ:知性 『ランドスケープと夏の定理』高島雄哉×『ソラリス』スタニスワフ・レム]をどうぞ。開催された双子のライオン堂のブックセレクトが魅力的すぎて財布を守るのが大変だった(ここでオフ会したいですな!)。

Sf

『ソラリス』と『ランドスケープ』の違い

 『ソラリス』と『ランドスケープ』、違いを一言であらわすなら、「知性は多様か一様か」になる。「理解できない知性がある/知性は最終的に普遍性をもつ」と言い換えてもいい。わたしは、「知性に普遍性がある」というブッ飛んだ発想をボコるべく参加した。

 まずソラリス。惑星の全域を覆っている知性を持つと思われる海と、その調査に訪れた人を描いた作品だ。傑作の誉れ高く、オールタイムSFベストに挙げる人も多い。いっぽうタルコフスキー監督によって映画化されたほうは、レム自身が腐したこともあり批判する人も多い。それぞれ良いと思っていたが、「映画のほうがいい」という意見があり、理由が面白かった。曰く「”現実かソラリスか”の2分法ではないということが明らかになるラストがいい」という。

 そしてランドスケープ。世界や物理法則が共通である以上、あらゆる知性は共通的に収束するという「知性定理」がキーとなる。この「知性定理」を編み出した主人公を語り手に、天才科学者の姉が宇宙規模の途方もない実験をする。やたら説明的な語り口で、情感やエモーションが薄味なのも、小説というよりもむしろアニメのプロットみたいという指摘あり。

 どちらも哲学的なテーマを抜き出すと、全てを説明し尽くさない(説明できない)前提で、「人には理解できない知性が存在する」とするソラリスと、全ては理屈で説明できる楽観的な「知性を加速させることであらゆる知性は理解可能」とするランドスケープの違いは対照的なり。ソラリスをファンタジー寄りとするなら、ランドスケープは厳密に科学的考証された円城塔『Self‐Reference ENGINE』になるという。なにそれ気になる。嫁様の書架にあるはずなので、こっそり手に取ってみよう。

理解不能の他者をどう描くか

 注目すべきポイントとして、「理解不能の他者」をどう描くか(あるいは全く描かないか)という論点が指摘された。なんだかよく分からないけれど、凄い存在であることを、どうやって伝えるか? 上手いやり方は、気配や周辺情報だけを仄めかし、本体は「見せない」ことだ(あえてやっちゃったのが『正解するカド』だという意見あり)。

 ランドスケープの「理論の駕籠」は、この「見せつつ見せない」成功しているといえる。ありとあらゆる理論を命題群の形でマップした空間で、人が作り出し、あるいは見出した理論の繋がり合いをビジュアライズしたものだ。サッカースタジアムぐらいのサイズで、遠目には巨大な編みカゴのような外見なので、理論の駕籠というのである。人の知性がどのように発展するかの詳細に触れずに、その外見の巨大さでもって凄さを上手く表現している。

 「理解不能の他者」について、稲葉振一郎さんが興味深い書籍を紹介する(稲葉さんは社会倫理学を専門とする明治学院大学教授)。ともするとヒートアップしがちな場で、冷静かつ濃厚なお話を淡々と展開していただいたのはありがたい。持ってこられたのは、『見知らぬものと出会う』(木村大治/東京大学出版会)で、ファーストコンタクトにおけるコミュニケーションの成立条件を考察した小論集だ。これめっちゃ面白そう。目次からいくつか抜き出しておくので、刺さる人には奥深くまで行くはず。

  • 宇宙人表象の歴史的変遷
  • SETIにおける宇宙人
  • 言語は認識を決定するか?
  • シャノン-ベイトソンのパラドックス
  • ファースト・コンタクトSFを読む(『エンダーのゲーム』『ソラリス』『戦闘妖精・雪風』等)

エスノメソドロジーからのアプローチ

 そして、自分とは違う他者とのコミュニケーションを考える上で、鍵となる方法論として「エスノメソドロジー」を教えてもらう。エスノグラフィー? と思ったが違うものだった。わたしたちの日常生活は、暗黙の「あたりまえ」とする了解事項を元に成り立っているが、その了解事項がどのように「あたりまえ」として成立していったかを調べる方法論だと理解した。

 エスノメソドロジーは、要素還元的に社会現象を説明する方法を乗り越えようとする試みのように見える。ソラリスの海から採取した原形質をいくら分析しても手がかりをつかめないのなら、「お客さん」との会話の中で了解事項を築き上げていこうとするのだろうか(といっても相手は〇〇なのだが……)。

知性とは何か

 『ソラリス』と『ランドスケープ』を分析する上で重要な問いは、「知性とは何か」に収束する。理解不能の人知を超えた存在だが、何らかの理性を感じられる「海」と、どんなに異なる存在でも最終的に会話を成立させる「駕籠」を考えてゆくと、物理系や宇宙を超えた「知性」が定義できるのでは......というのは期待しすぎだろうか。

 「海」の支離滅裂な振る舞いを老衰 or 幼年論で説明する一方で、「駕籠」は物理学・数学・言語で構成されるのであれば、それらを創れる存在を知性と呼んでも良いのでは? というツッコミが入る。

 わたしの意見は「物理学・数学・言語は人の約束事の体系化したものに過ぎないから、そこで定義された知性は狭くなる(つまり、文字通り人知を超えたものは「知性」と呼べなくなる)」だ。

 だから、レイコフ『数学の認知科学』で証明される「人は数学をメタファーで理解できる」ことは、そのまま「どんなに頑張っても人が理解できる(伝達できる)限界はメタファー」になる。雑な議論が嫌いなら、「メタファー=公理」にすればいい。そして、メタファーは人の身体・環境から延長された概念となる。

知性と知能の違い

 「知性とは何か」の定義を上手く合わせられなかったので、議論があちこちに飛ぶ。

 読書会なのだから(結論に向けて摺り合わせるわけでないのだから)、議論の飛び具合が楽しい。曰く、タコに知性があるかとか(実証実験あり)、BEATLESSのAIが作った「部屋」はどうだとか、知性の有無に意識の有無が必要かとか(ピーター・ワッツ『ブラインドサイト』がこのテーマらしい、これは読む!)。認知症が進んで対話が成り立たなくなったらそれは知性があるのかetc...

 「数学ができる=計算ができる」のだから知性がある、というとき、ソラリスは数えることができるか? という問いになる人のマネをして、あたかも数えているように振舞うことはできるが、そこに「数えている」内面不要だよね(哲学ゾンビ)。

 いっぽう、ソラリスは軌道「計算」をしていないが、軌道計算した結果に沿った軌道に自らを変えられるという指摘が出てくる。そしてそれは、人が軌道計算「せずに」ボールを最も遠くまで投げることができることと実質的に同じであるという。確かに。計算しなくても(計算による)最適解を導くことができるなら、知性に計算は必要条件ではないことになるね。

 おそらく、知性と知能を一緒に考えたからのように思える。よく言われるのが、「問いを立てられるのが知性で、与えられた問いを解くのが知能」である。もしくは、「答えのある問題を解くのが知能、答えのない問題に取り組むのが知性」だね。「〇〇とは何か?」とか、仮説を立てるために必要な能力と、単に与えられた問題を解くための能力は違う、という議論だ。その意味で言うならば、「海」は知性の可能性があるし、「駕籠」は知能の集大成(カンペ?)になる。わたしの中での結論は、知性の埒外が『ソラリス』で、知性と知能は近似するのが『ランドスケープ』になる

「数学=約束事」の例

 「数学とは約束事である」について異論が出ていたので、例としていくつか挙げた(どこまで受け入れられたかは分からないが)。

例1 : 以下は同じイコール(=)でも意味が異なるが、「そういう意味にする」ことを自明もしくは約束事として用いている。

  • 2+3=5(プロセス:2に3を加えると5)
  • 5=1+4(要素:5は1と4から成る)
  • 4+1=2+3(関係性:4と1を加えたものと2と3を加えたものは同じ)

例2 : 「あたりまえ」と思っている数字の背後には身体性・環境性が横たわっている

  • 「10進数」←人の両手の指の数が10本
  • 「360度=円周」←1年の日数に近い約数(火星人なら680度)
  • 「1(イチ)という数」←離散的な世界にいるから

 したがって、ソラリスは「数える」ことができるかというと、「数えるフリはできる」になる。外見からは「海」の形態をしているので、連続的な存在になる。そこから(人が考える)数学が誕生するならば、連続的な数学からになる。もちろん「星」は見えるし、「ハリーという一個」は作れるから、離散的な存在と同じ振る舞いはできるだろう。だが、意味も分からずにやっており、ある数までは人と計算が合うという可能性は残る(ex.クワス算)。

人・モノ・それ以外

 お金を払ってまでも聴きたいお話が稲葉さんからレクチャーされる(上手に質問していただいた東京猫さんありがとうございます!)。質問はずばり「AIは人にとって理解可能か?」になる。前提として、自律的に情報を収集・取捨・選択し、仮説の立案・検証・反映ができる、物理的身体を持ったAIが、近い未来にいるとするならば......で考える。

 この、めちゃめちゃ難しい質問に、まじめに淡々と答える稲葉先生がカッコええ! (教え子の学生さんが羨ましい......)。曰くこんな感じ。

―――(AlphaGoとか)人を凌駕する知性を持つAIのニュースが流れる度に、その行き着く先として「人を超えた存在→神」のイメージが出てくる。これは、どうしても「人知を超えた(理解を超えた?)他者」を人格化してしまう思考パターンに陥っているから。さもなくば、「AIは道具(のちょっといいやつ)」にすぎないとする考え方。

 これに反対する例としてスピノザの仕事(たぶん汎神論)が挙げられるが、それ故にスピノザは嫌われることになる。だが、AIの行く末を考えるのにスピノザを参考にしてみるといいかも。つまり、「人かモノのどちらか」のイメージで捉えるのではなく、人でもモノでも(擬人化されたモノでも)ない、第3の存在と見なす。

 第3の存在は、個体として識別できない特徴を持つ。個性のあるなしというよりも、群として存在する。動物は個体が明確だが、植物・菌類は個体が明確ではない。他にも、法人、無形財産、遺伝情報などがある。

 人・モノに対立する形でのサブカテゴリ―が必要なのではないか? 作者がなく、鑑賞の対象で、かつ、動き回る存在だ。本格的な芸術鑑賞の対象は、今のところないが、今後はありうると見たほうが良い。作者がいない、勝手に自分を生成する、いわば「野性の詩」ともいうべき人工知能芸術だ。

 それを幻視する小説として、レム『虚数』のGOLEM による人類への講義とか、AIが文学作品を書き・批評する話がある。自律化・自己組織化がキーワードで飛浩隆『零號琴』がまさにそう―――

 ホントはもっとあちこち言及されているのだが、メモが追い付かない。このあたりの話は、人でもモノでもない第3のカテゴリに入るヒントとしての『ソラリス』という観点で読み直したら、面白い発想が得られそうだ。

AIがどのように現実を理解しているか/できるか

 稲葉さんのお話を伺っているうちに、三宅陽一郎さんの『人工知能の作り方』に思い当たる。ゲーム開発者である立場から、「面白いゲームはいかにして動くのか」というテーマで、「知能」について「認識」「身体性」「学習」「協調」の観点から考察する。

 その中で、(ゲーム内の)現実をAIはどのように理解しているかを解説している。もちろんプログラミングされた「思考」であるにもかかわらず、人間くさい動きをする。それはランダム性を入れたルーチンかもしれないが、ゲーム内の人が動かすキャラクターからフィードバックを受け、自律的に学習するレベルまで至っている。哲学ゾンビの言葉を使わなければ、これは「知性」と言ってもいいのかもしれぬ。

 他にも、領域を巡る縄張り争いによる現実の理解や、アフォーダンスモデル、信頼度を係数化することで自律的に「学習」するトピックなどが興味深い。稲葉先生の言う「第3のカテゴリ」に最も近いのは、ゲーム内AIなのかもしれぬ。

SFをこじらせると哲学になる

 とにかくネタだらけ。イーガンの『シルトの梯子』『ディアスポラ』、タルコフスキー『ストーカー』、チャールズ・ストロスのシンギュラリティもの全部、諸星大二郎『生物都市』、伊勢田哲治『動物からの倫理学入門』、津久井五月『コルヌトピア』等など、読みたい本、読むべき本を山ほどもらう。

 その全てが指しているのが、「知性とは何か」への応答であることが興味深い。反対に、この問いを抱えつつ読む・再読するならば、また別の解が得られるかもしれない。

 すさまじく面白いSF読書会でしたな。主催の@ohyatsuさん、ワクテカさん、参加された皆さま、ありがとうございました。濃い(濃すぎる)時間に感謝しております。

 次回はスペースオペラ! ということで、八島游舷『天駆せよ法勝寺』が課題図書らしい。「めちゃめちゃ面白く、小難しくないやつ」だそうな。読んでみよう。


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高度に発達した科学は音楽と見分けがつかない『零號琴』

 一気に読んだ。最初は座っていたのだが、そのうち立ち上がり、ぐるぐるして、最後は叫びっぱなしだった。

Reigoukin

何を見ても何かを思い出す

 これは、エヴァとゴレンジャーとプリキュアのパロディであり、ナウシカとシンゴジとシンフォギアのリスペクトであり、どれみとどろろとまどマギの同人であり、火の鳥と寄生獣と日本沈没のオマージュである。ただし、どれも知らなくても無問題だ(後で説明する)。

 これ、好きな人ならいくらでも幻視できる怪物で、どこを読んでも、何を切り取っても、どこかで観た・読んだ過去の作品とつながり、思い出し、いま目の前で進行する美麗で壮大で禍々しくもバカバカしい物語にオーバーラップする。

拡張現実から拡張虚構へ

 どっぷり漬かりながら、ふと気づく。これ、小説でARを実現した人類最初の作品ではないかと。AR、つまり拡張現実(Augmented Reality)をテーマにしたというのではなく、この怪作を読むという行為そのものが現実を拡張していることになるのでは……

 つまりこうだ。物語のフレームは、曰くありげな音楽家とその助手が、とある惑星で開催される假面劇の演奏を任されるのだが、とんでもない目に遭う……という昔ながらの設定であるものの、そこで展開されるネタや物語構造、舞台設定、セリフの端々、視線の動き(カメラのパン)、見得ポーズ、小道具と大道具、そして上演される劇そのものが、未来なのに懐かしい。

 こうやって書くと、劇中劇がオマージュ盛り合わせのように見えるが、違う。物語で進行する劇は既に伝説となっていて、假面をつけた観客が、現実にオーバーレイされた演出で鑑賞すると同時に、劇の登場人物の一人となる。観る者と演る者が重なり合い、劇そのものを改変し、校正し、編纂する。

 同様に、わたしの中のエヴァやマギカやナウシカの経験に、この物語がオーバーレイされる。もちろん、わたしが「リアル」に経験したエヴァとは違うが、この物語の中で発掘された首のない躯体は巨神兵として重ね書きされる。

 この小説を読むことは、スマホをかざして見るときだけに現れる光景を眺めるのと同じだ。『零號琴』を通して記憶をたぐるときだけに現れる、(わたしが経験した)虚構に重ね書きされた現実を味わうことになる。

 『零號琴』だけで恐ろしく面白いSFだが、これを手にする者のフィクションの経験分だけ、拡張される仕掛けとなっている。

 いうなれば、『零號琴』は、拡張現実(AR)というよりも、むしろ拡張虚構(Augmented Fiction)であり、スマホでありHoloLensのようなデバイスなのである。本書を顔の前にかざし、その世界に没入することで、自分が経験してきた虚構が、鏡のように映し出され、多層化され、レイヤー結合された後、上書き保存される。

 知らないネタがあっても大丈夫、これ、二回目を読むと、「一周目を読んだときの経験」が今度は地の虚構現実となり、そいつに二回目の虚構が拡張現実と化す。ネタバレを知っている自分をネタとして読めるのだ。

高度に発達した科学は音楽と見分けがつかない

 ストーリーの紹介は、首都全体に配置された古の巨大楽器「美玉鐘」が500年ぶりに鳴らされる……ぐらいで良いだろう。これは体験するものであるから、その作用を味わうほかない。

 ただ、この「美玉鐘」を楽器とみなし、それを鳴らそうとする人々は、わたしの感覚とはずれている。それを説明するために、わたしが子どもの頃に読んだ小話をご紹介しよう。マーチン・ガードナー『aha! Gotcha』で知ったもので、もちろん『零號琴』には出てこない。

 ―――宇宙の彼方から、異星人がやってきた。とても発達した科学技術をもち、たいへん友好的で、地球の人々と仲良くなった。日々は過ぎ、やがて故郷に帰るときがやってきた。異星人は、地球のことを知りたがったので、地球人は、百科事典をプレゼントした。

 ところが百科事典は大変重く、宇宙船には重量オーバーだった。あいにく記憶装置も満杯だ。さてどうする?

 宇宙人は慌てずに、一本の棒を用意した。その棒は丈夫なもので、折れたり曲がったり歪んだりしない。そして、百科事典に書いてある、文字の一つ一つに数字を割り当てた。

a...0001
b...0002
c...0003

 こんな感じ。アルファベットだけでなく、「+」「*」といった記号も同様に数字を割り当てた。そして、辞書に書いてある全ての文字を数字に置き換えたのだ。こんな風に。

cat → c(0003) a(0001) t(0020) → 000300010020
dog → d(0004) o(0014) g(0007) → 000400140007

 文字だけでなく、記号もスペースも改行も、全部数字に置き換えると、一つの巨大な数字列ができた。

000300010020000400140007...

 そして宇宙人は、数字列の先頭に一つ点を打つと、それは長大ではあるものの、有限な小数となった。

0.000300010020000400140007…

 次に宇宙人は棒の長さを正確に測り、その比がちょうど小数となるようになる箇所に、印をつけた。

|―――――|――――――――――|
   a       b

a/b=0.000300010020000400140007…

 あとはこの棒を運ぶだけ。故郷についたら、aとbの長さを測り、比を求めれば小数が復号できる。残りは百科事典を印刷する手間だけだという。

 わたしは、この棒を撥として無邪気に打って鳴らしているのが、人類のように見える。高度に発達した科学は魔法と見分けがつかないとクラークは言ったが、充分に発達した科学は音楽とも見分けがつかないのかもしれぬ。

 記憶にオーバーレイされた拡張虚構を堪能し、高度に発達した科学が鳴らす「音」を体感すべし。

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「ネタバレの美学」が最高に面白い

 ワークショップ「ネタバレの美学」が最高に面白かったので書く。ちなみに、togetterまとめは[ワークショップ「ネタバレの美学」2018年11月23日]にある。

「脚本・虚淵玄」でも観るか? だからこそ観るのか?

 いま読んでる推理小説の犯人、未見の映画のラストなど、楽しみにしている作品の肝心のところをバラされたら、どう感じるだろうか?

 気にしない人もいるけれど、ほとんどの人は腹を立て、バラした人に抗議するかもしれぬ。あるいは、誰かのつぶやきが目に入り、うっかりオチを知ってしまったら? いま読んでる本を落としてしまい、たまたま開いたページで犯人を知ってしまったら?

 もっと言うと、明らかにネタバレ(に見える)展開を、当の公式サイトで明かしているならば? 監督がノーランとか、脚本が虚淵と分かった時点で、「見えて」しまうから、一切の予備知識ゼロで作品に向かうことが「正しい」鑑賞なのか? でも完全に情報ゼロだと、そもそも観たい・読みたいとも思わない。

 ネタバレにまつわる意見は多々あれど、いまいち噛み合っていない。こうした対立を解きほぐす。そもそもネタバレとは何か、ネタバレの何が「悪」で、どのラインが許容されるのか(許容されないのか)、怒る人は何に起こっていて、擁護する人はどこを擁護しているのか、気鋭の哲学者たちが喧喧囂囂する。そんなワークショップが先日行われた。

 場所は大妻女子大学、わたしのようなオッサンにとっては完全にアウェイなところである。女子大という聖地におっさんが入り込む後ろめたさが半端なく、始まるまでは緊張しまくりでしたな。

「ネタバレの美学」の概要

 まず、ネタバレについて一家言持っている4人の哲学者が、それぞれの拠り所から、ネタバレの定義、ネタバレのアリ・ナシ、その根拠を30分で説明する。次に、会場から集めた質問をぶつけて、分析したりバトルする。教室が満員なのもすごいが、聴いている人からの反響もスゴかった。

質問を「紙」で集めたのと、sli.doのタイムライン化したのが良かった
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 タイトルと発表者は次の通り

  1. 「謎の現象学: ミステリの鑑賞経験からネタバレを考える」高田敦史
  2. 「なぜネタバレに反応するのか」渡辺一暁
  3. 「観賞前にネタバレを読みに行くことの倫理的な悪さ、そしてネタバレ許容派の欺瞞」森功次
  4. 「ネタバレは悪くて悪くない:ネタバレ論争折衷派」松永伸司

 最初に配られた資料が充実しており、それに沿って話が進む。オープンリーチで議論しているようなものなので、むりやり理論武装を借りてくる綻びや、例示の偏差といった弱点が見えてて面白い。

ネタバレしないでネタバレを語る

 めっちゃハラハラしたのが、高田さんの具体例。クリスティ『オリエント急行殺人事件』を例に、ミステリの鑑賞において、どのような能動的鑑賞が働いているのかを説明しようとする。高田さんはネタバレ反対派なので、ネタバレに気を付けているものの、抜き書きされている箇所が適切すぎてて、未読の人も推察できそう。ネタバレについてネタバレ抜きで語ることの難しさを実感する。

 もしネタバレに倫理的な「悪」があるとするならば、それは何か? という問いから切り込んだのが渡辺さん。これは主張そのものよりも、むしろ議論の進め方が面白かった。前提と定義の整理は当然として、「ネタバレ=悪」に対する懐疑論の主張を想定し、それぞれの主張について問答をシミュレートする。仮説検証のバトルロワイヤルみたいで楽しい。ネタバレから「悪」を抽出できないかという思考実験だ。

ネタバレが倫理的に「悪」である理由

 すこし気の毒に思えたのが、森さんの主張。「ネタバレは倫理的に悪である」とし、極端な立ち位置から、一切のネタバレを禁止すべきだという。そして、ネタバレ許容派の戦略を一つ一つ取り上げては、徹底的に追求する。その骨子は、「ネタバレ接触により、作品鑑賞は、作品が本来そなわっていた工夫を味わえない鑑賞に変えてしまうから悪い」である。

 たとえば、『オリエント急行』のようなミステリ。

 『オリエント急行』を楽しむ人は、ミステリ(謎)が解かれることを期待してページを繰るが、答え「だけ」知りたくて読んでるわけではない。謎を解く過程のドキドキ(情動)や、伏線が回収される鮮やかさ、謎が明かされるカタルシス(もしくはモヤモヤ感)を楽しむことが目的となっている

 この情動(ドキドキ・カタルシス)は、後から再現できない。いったん明らかになった謎を、知らないことにはできないからだ。ネタバレ接触により、ミステリが持つ工夫を損なってしまうのであれば、それはそのミステリという作品を正当に鑑賞したことにはならないからNGとなる。

 この、「作品鑑賞から工夫を味わいそこなう」「本来の鑑賞経験(作品を正しく価値づけるために必要な経験)を妨げる」という点から、あらゆるネタバレを禁止する。その作品に関するちょっとした情報もダメで、自分で好んでネタバレを探しに行くことなんてもってのほかとする。

ネタバレ絶対悪への反論

 主張は分かるのだが、「ネタバレ接触」が示す概念(結末だけでなく、演出上の工夫、作品のポスターetc)がめっちゃ大きいので、隙だらけになる。結果、質問者から例外が大量に出てくる。

 たとえば一回しかないライブフェスの演奏について。曲目や演出が予め分かっていないと、それを見逃すということになりかねない。「何曲目に大掛かりな仕掛け花火が打ち上げられる」ことを知らずにトイレに行っていたなんてことを回避するために、「ネタバレ接触する」のは悪か。

 あるいは、作品のポスターや「見どころ」すらNGなら、そもそもその作品に触れる気にならなくなるような…… 「脚本・虚淵玄」というだけでネタバレになる一方で、「虚淵作品なら観たい!」という人も出てくる。SNS等でのネタバレを前提とし、商業的にネタバレを構造化した作品もある。完全にクリアな「清新の驚き」というものは、存在しないのかもしれぬ。

 さらに、「本来の鑑賞経験」てなんやねん、というツッコミが入る。作品が「正しく」鑑賞されるためには、これこれこういう情報統制が必要で、それは作者や評論家といった「芸術を分かっている強者」が、「分かっていない弱者」を指導する必要があるものなの? など芸術の(ネタバレの)パターナリズムではないかという指摘だ。

ネタバレは悪くて悪くない

 発散しがちな情報を整理したのが、松永さん。「ネタバレは悪くて悪くない」という論点で、折衷案を見いだそうとする。

 ネタバレはアリやナシや? と問うてしまうと2択になってしまう。しかし、作品鑑賞の現場において、ネタバレ概念の分類や評価軸は複雑で多様だろう。ここはアリだがここはナシ、というような場合分けができるはずだし、その場合分けの中で論点を明確にする。

 具体的には、「ネタバレ接触が自発的か/非自発的か」「開示情報が意図的か否か」「鑑賞経験を妨害するかしないか」といった分類を行い、それぞれのパターンにそって各人のネタバレ論を整理する。

 この場合分けによるパターン化+重みづけ分析は、思考の技法として名前があるのだろうが、あまりにも自然に使っている。実務では、ベンダや技術を選定するスクリーニング法(パフォーマンスや最低要求といった評価軸ごとに重み付け)を使っているが、これ、元々哲学で培われた技法なのかもしれぬ。

全員のまとめを一覧にしたのがこれ
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 ほかにも、「ネタバレチート論」や「スポーツのネタバレ(試合結果速報)」「効率よく良作を鑑賞するための情報収集」など、興味深いテーマが山ほど出てくる。稲岡大志さんのモデレートやコメントが的確&面白くてネタが発散する一方、話をまとめるタイミングが的確だった。

 ネタバレを求める人にとっての「ネタバレの美学」をやったのなら、今度はネタバレをする人にとっての「ネタバラシの美学」をやってみようという提案には、「来年度予算が取れたら」とのこと。世知辛い現実なり。こういう哲学バトルこそ、お金を集めて興行すべき。

ネタバレの美学で配られた資料

 各論のイントロダクションと資料は、昆虫亀(ネタバレ禁止派の森さんのサイト)[【発表要旨追記】公開ワークショップ「ネタバレの美学」]にまとめられているので、ご覧あれ。

ハンズアウトの資料が充実してた上記リンクから入手可能
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 主催の皆さま、たいへん面白い時間をありがとうございました。次号のフィルカルでも掲載されるとのことなので、正座して待ちます。

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