この本がスゴい!2016

人生は短く、積読山は高い。

 せめては「死ぬまでに読みたいリスト」を消化しようとするのだが、無駄なあがき。割り込み割り込みで順番がおかしくなる。読了した一冊に引きずられ、リストは何度も書き直される。

 重要なのは、「あとで読む」は読まないこと。「あとで読む」つもりでリツイート・ブックマークしても読まないように、あとで読もうと思って読んだ試しはない。だから、チャンスは読もうと思ったそのときしかない。実際に手にとって、一頁でも目次でもいいから喰らいつく。勢いに任せて読みきることもあれば、質量と体力により泣く泣く中断する本もある。かくして積読山は標高を増す。

 ここでは、2016年に読んだうち、「これは!」というものを選んだ。ネットを通じて知り合った読書仲間がお薦めする本が多く、それに応じてわたしのアンテナが変化するのが楽しい。わたし一人では、数学や経済学や歴史学、進化医学や認知科学の良本を探し出せなかっただろう(これ読んでるみなさまのおかげです、ありがとうございます!)。

 特に今年は、生物学まで手を伸ばすようになり、地球科学と併せて学びたい知的欲望が高ぶっている。その一方で、「正しいとは何か?」という疑問の本質は、哲学と数学の合わせ目に解があるのではと踏んで、両方を深める議論に入りたい。徹夜小説に取り憑かれ、凄いマンガに殴られる。怒涛のリストをさあどうぞ。ご存知の作品があったなら、「それが好きならこれなんてどう?」とオススメしてくださいまし




フィクション


『メイド・イン・アビス』
つくしあきひと
まんがライフWIN/WEBコミックガンマ

メイド・イン・アビス1メイド・イン・アビス2メイド・イン・アビス3

 少年少女が地下洞を冒険する話と思って手にとったが最後、かわいい表紙とは裏腹に、濃厚怒涛の展開に呑み込まれる。萌絵と物語のギャップに心裂かれる。第二次性徴期の女の子の 魅力をデフォルメして描く一方で、過酷な運命に投げ込んでゆく。読み手の胸をえぐるためにやってるのか? と疑いたくなる容赦のない描写に、思わず引く。それでも先を読みたくなるのは、どうなるか本当に分からないから。

 誰も底を見たことがないと言われる巨大な竪穴「アビス」。そこに眠るロストテクノロジーや異形の生物を見ているだけでも興味深いのに、アビスが及ぼす「上昇負荷」という効果が一層おもしろくさせている。つまり、降りるのは問題ないが、上ろうとすると身体に変調をきたす。ダイビングの潜水病のようなものだと想像してたら、もっと酷い。上層部なら潜水病程度で済むが、深界へ行くほど酷くなり、戻ろうとすると死ぬ。つまり、還ってこれない旅なのだ。

 かわいいキャラに襲いかかるえげつない展開のミスマッチ、練りこまれた世界設定と全く見えない先行きに、読めば読むほど、どんどん面白くなる。ロリ・グロ苦手でなければお薦め

『グールド魚類画帖』
リチャード・フラナガン
白水社
[レビュー:『グールド魚類画帖』はスゴ本]

グールド魚類画帖

 傑作という確信が高まるにつれ、頁を繰る手は緩やかに、残りを惜しみ惜しみ噛むように読む。先を知りたいもどかしさと、終わらせたくないムズ痒さに挟まれながら、読み返したり読み進めたりをくり返す。そんな幸せなひとときを味わう。

 同時に、物語に喰われる快感に呑みこまれる。はじめは巧みな語りに引き込まれ、次に溶けゆく話者を見失い、さいごは目の前の本が消え、自分が読んできたものは一体なんだったのか? と取り残される。わたしが世界になったあと、世界ごと消え去る感覚。19世紀、タスマニアに流された死刑囚の運命が、猥雑で、シニカルで、ときにグロテスクな語り口で紡がれる。この傑作の読中感は、この本そのものに書かれている。

その混沌を要約するなら、決してはじまらず、決して終わらない物語を読んでいるような感じだった。変幻する景色を映し出す、魅惑的な万華鏡をのぞいているような感じ―――風変わりで、ときにもどかしく、ときにうっとりするような体験だが、良質の本がそうであるべきように、単純明快なものではまったくない。

 決して尽きず、終わることを物語は拒否する。すばらしい傑作を、いつまでも読み続けたい・読み返したい人にお薦め。

『この恋と、その未来。』
森橋ビンゴ
ファミ通文庫
[レビュー:最高のライトノベル『この恋と、その未来。』───ただし完結するならば]

この恋1この恋2この恋3
この恋4この恋5この恋6

 「恋とは幻である」これに賛同するなら、最高のライトノベルはこれだ

 恋とは、求めるものを投影した相手に惚れてから幻滅するまでのわずかな期間のことを指すか、または一生醒めない夢を見続けること。だから、叶った恋は恋でなくなるから、ホントの恋は片想いになる。「この恋」を、ずっと大事にしていきたいのなら、決して明かしてはならないし、露ほども表にしてはならない。そのためには、周囲を騙し、自分を偽る。恋の本質は、秘めた幻なのだ。

 性同一障害をテーマに、男でありたい女の子(未来)と、未来に恋してしまった男の子の、奇妙な共同生活を描いた青春物語。ライトノベルのパッケージだが、これっぽっちも「ライト」ではない。重く、切なく、苦しい恋なのだ。

 5巻一気に読んだときは、未完で打ち切りだった(大人の台所事情らしい)。ところが、ネット経由でじわじわと人気が出てきて、ついに最終巻(6巻)が刊行されるとの噂を聞きつけてしばし踊った。5巻まで読んだ「未来」予想図は[レビュー]に書いた。どんな未来にせよ、最後はどうか、幸せな記憶を。

『秒速5センチメートル』
新海誠
メディアファクトリー
[レビュー:『小説・秒速5センチメートル』の破壊力について]

 今年は邦画・アニメ映画の当たり年だった。『シン・ゴジラ』『君の名は。』『聲の形』そして『この世界の片隅に』と傑作ぞろいで、我が家の小さな液晶ではなく、劇場の大画面&大音量に圧倒されて濃密に観るべき作品ばかりだった。

 これまで、「最高のアニメーションとは何か?」という問いには、映画「秒速5センチメートル」と答えていた。3編にわたるオムニバス形式で、初恋が記憶から思い出となり、思い出から心そのものとなる様を、驚異的なまでの映像美で綴っている。ノスタルジックで淡く甘い展開を想像していたら、ラストで強い痛みに見舞われる。予備知識ゼロで観てしまったので、徹底的に打ちのめされ、この痛みにいつまでも囚われるようになる。

 この、映画「秒速5センチメートル」の呪いみたいな思い出を昇華してくれたのが、『小説・秒速5センチメートル』だ。映画と小説は相互補完的にできており、観た人は読みたくなり、読んだ人は観たくなる仕掛けになっている。

 嬉しかったのは、あのラスト、わたしが陥っていた喪失感から救われたように思えたこと。ここは意図的に違えて書いているのだろう、どうにもならない現実と、どうしようもない思い出と、なんとか折り合いをつけて生きている彼が前へ進めるような、そんなラストだ。お互いの「渡せなかった手紙」に書かれていたことからも分かる、たとえ渡さなくても、気持ちはすでに伝わっていたことに。

 映画「秒速5センチメートル」の呪いを解き、「最高のアニメ」の地位を譲るきっかけとなった一冊。映画は観たけど未読なら、ぜひ手にとってほしい。

『ハイペリオン』
ダン・シモンズ
早川書房

ハイペリオン上ハイペリオン下

 読まず嫌いな自分を蹴飛ばしたいリストがある。『ハイペリオン』がこのリストに加わった

 のめり込むにつれて、面白さと嬉しさとともに、「もっと早く読めばよかった!」という微後悔が混ざり合う読書がある。読まず嫌いで避けていたり、有名すぎるからと天邪鬼になってた自分が馬鹿だった。かつて、ル=グウィン『ゲド戦記』がそうであり、半村良『妖星伝』がそうだった。こんなに面白いものを、ずっと読まずにいたなんて! もったいない!

 長らく積読にしていたのは私の怠惰だが、ふと手にとらせてくれたのはuporekeさんのおかげ(ありがとうございます!)。ハイペリオン読書会やるという噂を聞きつけ、よっしゃと手にしたのが運の尽き、上下巻を一気に読まされる。これ、でっかい容れものを用意して、そこにゆうに長編一本書けるネタを6つ詰め込んで、読者の前にぶちまけてみたという感覚なり。ホラー、ラブストーリー、ファンタジー、戦争モノ、冒険活劇など、物語のあらゆる「面白い」要素がぎっしりと入っている、いわゆる枠物語だ。ラーメンや丼もので、「全部入り」というのがあるでしょ? あれだ。

 ご馳走ばかり延々と食べ続けていると疲れてくるのだが、これは尻あがり的に面白さが加速する。もちろん序盤も面白いのだが、後へ行けば行くほど止め時を失う。結局、ハイペリオン読書会には行けずじまいだったが、シリーズの残りは「読む前から分かってる絶対面白いリスト」に入れておく(ちなみにこのリストには、ジェフリー・ディーヴァー『ウォッチメーカー』、奥田英朗『邪魔』が入っている。いわゆる徹夜小説やね)。

 面白い物語を求める全ての人にお薦め。

『石蹴り遊び』
フリオ・コルタサル
水声社
[レビュー:『曼荼羅・パンドラ・反文学『石蹴り遊び』]

Isikeri02

 読むことで完成される、奇妙な小説。

 ふつう読者は最初のページから始め、一行ずつ読み進められる。最後のページに至ると、作者から提示されたものが終わることを意味する。そこで読書を終了してもいいし、気になるところに戻ってもいい。だが、最後のページから先を読むことはできない。

 こうしたお約束を、ぶっ壊したのが『石蹴り遊び』。2冊読むと、これまで読んできた、どんな小説とも異なる酩酊感を味わい、これから読むであろう、どんな作品にも似ていない目眩に襲われる。「2冊読むと」と書いたが、間違いではない。たしかに『石蹴り遊び』はゴツい1冊の本であるが、2冊の書物として読める。というのも、最初のページに「指定表」なるものがあり、作者自身、「読み方」を指定してくる。

 第1の書物
  ふつうに第1章から始まり、第56章で終わる

 第2の書物
  第73章から始まり、以下の指定の順番に読む
  73-1-2-116-3-84-4-71-5-81-74-6-7-8-93-68-.....

 第1の書物が終わった後の57章以降は、文学的断章、新聞のスクラップ、著作ノートの引用と、雑多なものが詰め込まれており、「読み捨ててもいい」と但し書きまでついている。第2の書物は、こうした断片を第1の書物に挟み込むにして構成されている。

 読み手は、第1の書物だけで済ませることもできる(総量の2/3)。第1の書物は、作家志望のボヘミアンの愛の物語と、その仲間たちの芸術談義、奇妙な三角関係が描かれている。回収されない伏線、思わせぶりな前フリを胸に、宙ぶらりんな気分で第1の書物が終わる。

 モヤモヤしながら指定表を繰り、第2の書物に取り掛かると、仰天する。同じ『石蹴り遊び』という本に、違う書物が姿を現してくる。そこでは、第1の書物で語られなかった理由が説明されていたり、脇役だと見ていた人物が、実は重要な役割を果たしていたり、宙ぶらりんの行動の「続き」が入れ子的に補てんされていたり、第1の書物にはない可能世界を生きていたりする。

 これは、読むことで完成する物語なのだ。楽譜だけでも音楽であり、暗がりでもダンスは踊れる、闇でもピカソはピカソだ。演奏され目の当りにされて初めて、芸術は美的に享受される。それを小説でやってのけたのが、『石蹴り遊び』の第2の書物なのだ

 出版社がAmazonに卸すのを拒んでいるので、本書はネットで高値がついている。だが、今なら、書店なら、定価で買える。急ぐべし。

『熊と踊れ』
アンデシュ・ルースルンド
ハヤカワ・ミステリ文庫
[レビュー:極上の犯罪小説『熊と踊れ』]

 500ページ超を、ほぼ一気に読む。極上の北欧ミステリ。

 「熊」は敵のメタファーだ。暴力で解決する「敵」と、どのように闘うか。力技だけでは勝てない。ヒット&アウェイを繰り返し、攻撃を集中・分散させれば、強大な敵でも倒せる。いじめられた息子を鍛えるため、父から伝えられる、暴力の扱い方である。

 母を殴る父を見ながら育った三人の兄弟は、やがて暴力をコントロールする術を身につける。軍の倉庫から大量の銃火器を盗み出し、完全武装した上で銀行強盗を企てる。このとき、「熊」は警察のメタファーとなる。

 生々しいのは、恐怖だ。“過剰な暴力”を振るう人の恐怖が、ほかに逃げ場のない強烈な悪臭となって、毛穴からにじみ出てくる。彼のこの体臭―――恐怖そのものが鼻に刺さるようにリアルなのだ

 さらにリアルにしているのは、カットだ。長くて一分間、短いと数秒の複数のシーンを重ねてくる。この演出のおかげで、追うものと追われるもの、暴力に満ちた過去と、暴力に満ちた現在が次々とつながり、ほとんど飛ぶように奔っていく。

 畳みかけるカットバックの中、“過剰な暴力”が制御不能となり、内側から蝕んでいく様子が、まるでスローモーションのように垣間見える。耳をふさぎたくなる悲鳴や、胸が裂かれるような痛みに苛まれつつ、読むことをやめられなくなる。

 振り落とされないように読むべし。

『またの名をグレイス』
マーガレット・アトウッド
岩波書店
[レビュー:「信頼できない読み手」へ導く極上の物騙り『またの名をグレイス』]

 「面白い小説とはセックスのようなもので、途中でやめるわけにいかない」と阿刀田高が言ってたが、まさにこの作品のためにある。

 抜群に上手い語りと、先を知りたい欲求と、語り手への疑惑が混交し、やめられない止まらない。ノッてる情交と一緒で、疲れたから続きはまた明日というわけにいかず、寝かせてくれない&寝かせるわけにいかない。いわゆる徹夜小説で、物語に夢中になっているうちに、溺れて沈んで目が覚めて、それでもまだ夢の中にいるような気にさせられる。後を引く展開がやめ時を失い、気づいたら朝。

 世界一信頼できるブッカー賞を受賞した、マーガレット・アトウッドの最高傑作と名高い『またの名をグレイス』をついに読んだ。150年前にカナダで起きた殺人事件を題材に、記憶や物語の信頼性やアイデンティティの揺らぎ、性と暴力といったテーマを織り込み、絶えず読み手の疑惑を誘いながら、物語沼へどんどん引き込む。

 語りの中心にはグレイス、表紙の女性がいる。類稀なる美貌と、極貧の生い立ち、教育は受けていないものの抜群の記憶力と語りのセンスに、思わず知らず引き込まれる。物語の最初、グレイスは二面性を持つかのごとく紹介される。一つは、殺人の実行犯を肉体で誘惑し、唆した悪女として。もう一つは、殺人犯に脅迫され、自分の身を守るため汚名を着せられた犠牲者として。

 これ、どちらの読み方でも成り立つが、凄いのは、彼女の独白も描かれているところ。普通なら三人称で隠しておき、決定的なところで一人称で暴くという手法だろうが、アトウッドは凄い。一人称の地の文で、グレイスの内心をあますところなく描ききり、三人称で時間軸を動かし、会話体で核心へ斬り込む。さらに、記事や手紙を駆使して外聞との乖離を示し、さっき読ませたストーリーへの信頼性を、あえて揺さぶりにくる。非常にリーダビリティーが高いくせに、油断できない読書になる。

 幾度も仮説を裏切られ切り抜けられ、おもわず彼女の言い分を呑み込みそうになる―――そこでわたしは気づくのだ。わたしこそが、「信頼できない読み手」になっているということに。

 極上の物騙りに、呑み込まれるべし。




ノンフィクション


『見えない巨人 微生物』
別府輝彦
ベレ出版
[レビュー:『見えない巨人 微生物』はスゴ本]

小さな巨人 微生物

 読めば世界と我が身を見る目が変わる、一冊で一変するスゴ本。

 肉眼では見えない微生物を、「巨人」と形容するのは変だな? と手に取ったのが運の尽き。「発酵」「病気」「環境」の三つの分野から一気に読ませる。地球の主を人類・昆虫・植物と持ち上げる論説は多いが、それは微生物を見ていないから。生物のなかで最古・最多・最多種で、最速で進化しつづけ、地球生命圏を支え・利用するだけでなく、地球という惑星そのものと共生する、「超個体」の生物とは微生物だということが、分かる。

 ミクロからマクロまで、自由に視点を動かしながら、地球草創期から未来まで、歴史を自在に駆け巡り、マリアナ海溝から宇宙空間を縦横無尽に行き来する。酒やパンといった身近なものから、宇宙からコレラを監視する技術、耐性菌のメカニズムを借用した最先端の遺伝子工学など、興味深い斬り口がたくさんあるので、いくらでも深く・広く読める。コンパクトなのに濃密で、微小なのに壮大な、知の冒険の世界へようこそ。

 著者の発想がすごいのは、微生物という小さなものを、巨大な目で捉えようとするところだ。たとえば、人体には、皮膚、口腔、腸管などに膨大な種類と数の微生物が常在している。これらを載せて共生している人体を、ひとつの生命圏とみなすことができる。これは、顕微鏡的な見方だ。

 その一方で、この人体を地球レベルにまで引き上げる。せいぜい100グラムにしかならない微生物が、ヒト一人分の呼吸をすることに着目し、微生物とは、サイズを小さくすることによって、高い代謝活性と増殖能力を手に入れた生き物であると考える。そして、バイオマスの観点から、炭素と窒素という地球の生命に欠かせない二つの元素の循環を担う、最大の生物であることを示す。

 40億年前に誕生して以来、地球という惑星の環境の変化に適応しながら進化する一方で、自らも地球の大気や元素循環に働きかけ、さらに他の生物と共生することによって進化を方向付け・加速してきた存在───それが微生物なのだという結論は、そのままタイトルへとつながる

『失われてゆく、我々の内なる細菌』
マーティン・J・ブレイザー
みすず書房
[レビュー:動いているコードに触るな『失われてゆく、我々の内なる細菌』]

失われてゆく

 プログラマの格言に、「動いているコードに触るな」がある。あるいは、チェスタートンの「なぜ柵があるのかを知らないうちは、柵を外してはならない」でもいい。

 問題なく動いているプログラムに不用意に手を入れると、思いもよらない不具合が出てくる(これをデグレードという)。冗長で無駄に見えて、よかれと思って直すと、関係なさそうな別の場所・タイミングで予想外の動きをするため、因果関係を見つけるのはかなり難しい。「なぜ上手く動いているか」が分からないまま改修するのは、非常にリスキーなのだ。

 人体に常在し、ヒトと共進化してきた100兆もの細菌群を「マイクロバイオーム」と呼ぶ。このマイクロバイオームの多様性を描いた本書を読むと、抗生物質の濫用により、人体システムにデグレードを起こしていることが分かる。コンピュータより複雑で、何年、何十年、ともすると次の世代から影響が出るため、因果を見つけるのはもっと難しい。ここ数十年で急増した、アレルギーや自己免疫性疾患、ホルモン・代謝異常という「病気」の一部は、人体システムにおける細菌の生態系が破壊されたことが原因だと見えてくる。それも、数十年前、ともするとその親の世代に、「治療」として投与された抗生物質によるジェノサイドが引き起こした人体のデグレードそのものなのだ

 たとえば、ピロリ菌。かつて、胃がんや胃潰瘍のリスクを上昇させる「悪玉」として考えられていたが、胃食道逆流症を抑制し、食道がんを予防することが明らかになっている。ピロリ菌は、ヒトを病気から守る一方で、ヒトを病気にもするのだ。あるいは、抗生物質。安易に過剰に使われ、何百万人の子どもたちが、罹ってもいない細菌感染症のために抗生剤で「治療」されてきた結果、耐性菌の問題や代謝や免疫の発達過程に悪影響を及ぼしているという。

 長い時間をかけてヒトと常在菌は共進化し、代謝、免疫、認識を含む体内システムを発達させてきた。しかし、ここ数十年で抗生物質が大量に使われるようになり、常在菌の多様性が失われつつある。人類誕生からすれば一瞬の出来事とし、著者は楽観的な見方をしている。だが、この教訓が遺されない限り、「なぜ柵があるのか」を考えない人々は喜々として柵を外し続ける未来がある。

『野性の知能』
ルイーズ・バレット
インターシフト
[レビュー:『野性の知能』はスゴ本]

 「知性は脳に宿る」という固定観念を破壊してくれる。むしろ知性は身体性や環境にあることが見えてくるスゴ本。

 本書はまず、動物を観察する際、擬人化の罠に囚われていないか問いかける。ヒトに似た属性の有無を探し、ヒトの基準で動物の行動を評価する。何かヒトに似た行動を取ったとしても、その行動を生んだ根源的なメカニズムまでがヒトと同じとは限らない。それぞれ異なる身体と神経系をもち、それぞれ異なる生息環境で生きているため、同じ行動原理であると考えるほうに無理がある。擬人化に偏って仮説を構築しようとすると、検証できる範囲が限定されてしまう。この擬人化のバイアスから離れると、動物はコストパフォーマンスの最も良い形で世界を「知覚」していることが分かる。

 たとえば、クモやコオロギの一見「賢い」迂回行動や求愛行動が、生体に備わった器官と環境に基づくシンプルなルールに則っているかが明らかにされる。さらに、お片づけロボットやルンバの行動原理を解説し、部屋の間取りや形状がプログラムされることなしに「認知」できてしまう理由を解き明かす。同時に、「認知」「記憶」「判断」を考える上で、いかに脳に囚われているかが見えてくる。

 認知プロセスを脳だけではなく、生体と環境全体まで含めて考えることで、認知科学に対するわたしの視界が一気に広がる。ユクスキュルの環世界、ギブスンのアフォーダンスから始まって、深いところまで行けるのが楽しい。ヴィトゲンシュタインはかつて、「人は眼鏡越しに見えるものと眼鏡そのものを同時に見ることはできないと指摘した。それと同じ、神経系と身体は世界に組み込まれている一要素であって、どんな生物であれ、世界をあるがままに「見る」ことはできない。ただ、それぞれに固有なやり方で経験するだけなのだ。

 世界に「存在する」には様々な方法がある。自分の身体ひっくるめて、世界を拡張する一冊。

『数学の認知科学』
G.レイコフ、R.E.ヌーニェス
丸善出版
[レビュー:『数学の認知科学』はスゴ本]

 人の思考のうち、最も抽象的で厳密なものは数学にある。だから、過去から現在に至るまでの人類の思考のマップがあるとするなら、その全体像の輪郭は、数学によって形作られている。つまり、数学を調べることで人の思考の構造と限界が分かる。

 一方、数学は具体的なところから始まる。「数を数える」なんてまさにそうで、10進数が一般的な理由は、10本の指で数えたから。xy座標でy軸が量、x軸が時空的な変化に結び付けられるのは、重力により増えるモノは積み上がり、移動するものは横方向だから。指は10進数の、デカルト座標は時空間のメタファーであり、数学を調べることで思考の身体的な拠り所が明らかになる。

 数学そのものは抽象的で厳密だが、これを理解する人は具体的で経験的な存在だ。『数学の認知科学』は、「人は数学をどのように理解しているか?」をテーマに掲げ、この具体と抽象のあいだを認知科学のアプローチで説明する。本書を貫く原則を一言でいうなら、「人はメタファーを通じて数学を理解する」になる。人の抱く抽象概念は、感覚-運動経験から推論様式(すなわちメタファー)を用いて取り込んでおり、数学の厳密さの領域の外にある。このメタファーを調べることで「人の抱く数学的概念」は明らかになると仮説立て、数学自身では明確にできない「数学的概念の本質」に迫る。「数学の説明」ではなく、「数学の理解の説明」なのだ。

 具体と抽象、感覚と公理のあいだこそが本書のキモであり、ぞくぞくするほど面白い。これまで読んできた数理哲学のピースが埋まっていくと同時に、数学の素晴らしさは人の思考の素晴らしさにそのままつながっていることに気づかされる。数学に対し、普遍的・絶対的なプラトニズムを勝手に投影していたが、むしろ数学とは、人の身体と脳、認知的能力、そして日常生活と文化を基礎としているのだ。

 「数学がやってきたところ」から思考の本質に迫るスゴ本。

『恐怖の哲学』
戸田山和久
NHK出版
[レビュー:ホラーで人間を理解する『恐怖の哲学』]

恐怖の哲学

 科学と哲学の二刀流で、ホラーから人間を探索する試み。最初は哲学的アプローチだったのが、次第に科学からの知見を取り込み、最終的に両者が手を携えて、「人はここまで分かっている」ことと、「ここからもっと(科学も哲学も)人間の深いところまで行ける」ことを指し示す。その知的探索がめちゃくちゃ面白い

 ざっくばらんな語り口で、「なぜホラーが怖いのか」から始まって、生物学的適応の説明や認知科学を経由しながら恐怖のメカニズムを解析し、最終的にその恐怖を"怖さ"たらしめている「恐怖の本質」まで降りてゆく。そこには、意識は科学で説明可能か? というとんでもなくハードな問題が待ち構えており、ラストは哲学的ゾンビとの対決になる。結末は、映画に出てくるリビング・デッドのようにはいかないが、ある意味『ゾンゲリア』のラストのようで皮肉が利いている(著者はホラー好きなくせに怖がり&痛がりなので、ダブルで効く『ゾンゲリア』は観てないはず)。

 特に、「なぜ嘘だと分かっているのに、ホラーは怖いのか」は目鱗だった。ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』で読んだ認知科学からのアプローチだろうなぁと予想してて、(その予想はおおむね合っているのだが)そこへ前段でさばいた恐怖の表象論をつなげてくる。恐怖というシステムは、表象(知覚によって得られた心象)の入力から始まる。はじめは蛇や炎など実在する表象だったものが、進化の過程でさまざまなものが表象としてアドオンされ、知覚表象以外も受け付けるようになったという。「嘘なのに怖さは本物」の理屈は、ここにある。

 ホラーをダシに寄り道しながら思考モデルを組み立てる。恐怖の本質と人工の恐怖の違いから、怖いという「感じ」そのものにアプローチする。ラストの哲学的ゾンビと対決は見ものだ。哲学的ゾンビとは、私たちと機能的には等価だが、意識を欠いた存在として登場する。私たちとそっくりの行動をとるが、そこに意識はないという思考実験の産物だ。ケガをしたら血が出て痛がってはいるものの、そこに痛いという「感じ」はない。著者はそれまでの思考を武器に、いったんはゾンビを退けるのだが……結末はご自身で確かめてほしい

 ホラーをダシに恐怖を哲学すると、人という存在がよく見えてくる。見えにくいところは、アプローチと検証方法まで分かってくる。恐怖「の」哲学というよりは、恐怖「で」哲学する一冊。

『マネーの進化史』
ニーアル・ファーガソン
早川書房
[レビュー:偉大なる愚行の歴史『マネーの進化史』]

マネーの進化史

 人類の偉大なる愚行の歴史が描かれている。貨幣の誕生から銀行制度の発達、債券と保険の発明、「信用」を売り買いするマーケットなど、4000年に及ぶ行状を眺めていると、つくづく人類は学んでいないことがよく分かる。どの時代でも新しい「信用」が様々な名前で生まれ、膨らみ、弾ける。

 あるときは権力と結びつき、自己増大化が目的となり革命や戦争を引き起こし、またあるときは知識を従えて、自己理論化し高度に洗練され新たな領域を切り拓く。同じ過ちをくりかえす人類とは裏腹に、金融は過ちから多くのことを学び、変化してきた。技術革新という突然変異を繰り返し、新企業の創出という種の形成を行い、金融危機と淘汰で方向付けられる断続平衡を経てゆく、壮大な実験の歴史なのだ。それは、「金融」という得体の知れないモノが、徐々に形をなし、人にコントロールされるフリをしつつ何度も期待を裏切ってきた進化史なのかもしれぬ。

 本書がユニークなのは、この狂乱を現代に投射するところ。ミシシッピ・バブルの首謀者だったジョン・ローから、エンロンの最高責任者ケネス・レイの経歴に結びつける。著者によると、「控えめに言っても」驚くほど似ているそうな。続々と暴かれる不正経理・不正取引の本質は、何百年たっても変わらない。

 マネーは、貨幣、債券、株、保険、不動産など、様々な形をとり、回転率とパワーを上げてきた。この信心こそが人類にレバレッジをかけ、モノとサービスを回してきた。本書に描かれるのは、マネーを信じる人々の熱狂や苦悩だが、その「信じたい」願望を逆手にとって翻弄してきたマネーそのものが主役だろう。

 人は判断力の欠如からマネーに熱狂し、忍耐力の欠如から失望し、記憶力の欠如からまた熱狂する。ちっとも歴史から学ばない人類をよそに、その思惑とは無関係に蠢くマネーの進化が、面白く恐ろしい。

『世界システム論講義』
川北稔
筑摩書房
[レビュー:『世界システム論講義』はスゴ本]

世界システム論講義

 「なぜ世界がこうなっているのか?」への、説得力ある議論が展開される。薄いのに濃いスゴ本。

 世界史やっててゾクゾクするのは、うすうす感じていたアイディアが、明確な議論として成立しており、さらにそこから歴史を再物語る観点を引き出したとき。「こんなことを考えるの私ぐらいだろう」と思って黙ってた仮説が、実は支配的な歴史観をひっくり返す鍵であることを知った瞬間、知的興奮はMAXになる。「世界システム論」を易しく紹介する本書を読みながら、そんな知的興奮を思う存分、味わった。

 世界システム論は、近代からの世界を、一つのまとまったシステム(構造体)として捉える。近代世界を一つの巨大な生き物のようにみなし、近代史をそうした有機体の展開過程としてとらえる見方だ。そこでは、世界的な分業体制がなされており、それぞれの生産物を大規模に交換することで、はじめて世界経済全体が成り立つような、有機的な統合体である。いわゆる南北問題は、「北」の諸国が工業化される過程そのものにおいて、「南」はその食料・原材料の生産地として「開発」される。経済や社会がモノカルチャーにバンドルされてしまうわけ。

 この観点から、帝国主義や北米大陸の位置づけ、ヨーロッパの優位性を論じる。世界史を学べば学ぶほど、イギリスはゲスな国家だという認識が強くなるが、それは本書でも同じ。だが、イギリスという「国」ではなく、ヨーロッパを中心とした経済のバケモノ(著者は成長パラノイアと呼ぶ)がその正体であることが分かってくる

 例えば、帝国主義。世界システム論からすると帝国主義は、地球上の残された「周辺化」可能な地域をめぐる、中核諸国の争奪戦であったと評価されている。したがって、地球全体が、ほぼこの近代世界システムに吸収され、「周辺化」できる場所がなくなったとき、つまり「世界」(ワールド)は、「地球」(グローブ)と同じ意味になったとき、大戦にならざるをえなかったという。この議論は、そのまま現アジアにおける経済開発の問題点を指し示す。日本や中国、韓国、マレーシアなどが追及している経済開発は、近代ヨーロッパ型の後追いでしかなく、「中核化」と「周辺化」の争いがどんな問題に突き当たるかは自明だというのだ。

 歴史を生き物のように見る、ひとつの視点が得られるスゴ本。

『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』
ヒュー・グレゴリー・ギャラファー
現代書館
[レビュー:『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』はスゴ本]

 「役に立たない人を安楽死させよう」という世の中になるなら、それはどんなプロセスを経るか?

 これが、嫌と言うほど書いてある。ヒトラーの秘密命令書から始まったT4作戦を中心に、医師が「生きるに値しない」と選別・抹殺していった歴史が緻密に書かれている。対象となった人は多岐に渡る。うつ病、知的障害、小人症、てんかんに始まり、性的錯誤、アル中、反社会的行動も含まれていた。こうした人びとが何万人も、ガス室に送られ、効率的に殺されていった。ユダヤ人の迫害にばかり目が行っていて、本書を読むまで、ほとんど知らなかった自分を恥じる。本書は、不治の精神病者はガス室へ『夜と霧の隅で』で教えていただいた(hachiro86さん、ありがとうございます)。

 問題は、ナチスに限らないところ。優生学をナチスに押し付け断罪することで、「消滅した」という図式にならない。社会システム化された「安楽死」(というより集団殺人)は、びっくりするほどありふれて見えて、そこだけ切って読むならば、ディストピア小説の一編のようだ。ハンナ・アレントが観察した、「悪の陳腐さ」そのもの。

 著者は主張する。欧米社会では伝統的に障害者を医療の枠でとらえ、「決して回復しない病人」とみなしてきた。異なるものへの恐れ、病人や障害者の持つ弱さへの憎しみ、完璧な健康、完璧な肉体への異常な衝動は、もともとそこにあり、ナチスドイツはこの闇を白日のもとにさらしたにすぎないというのだ。

 もちろん「健康」であることは望ましい。だが、「健康」を決めるのは医者だというのは少し変だ。そして、「健康」でない人は排除すべしという考えは全くおかしい。健康ジャンキーを揶揄する「健康のためなら死んでもいい」言葉があるが、ブーヘンヴァルト収容所の所長のこの言葉も負けず劣らず強烈だ「うちの収容所に病人は一人もいない。健康な人と死人だけだ」。そして、「健康か否か」の線引きが医者にのみ委ねられ、「健康か死か」という二択しかないのであれば、それは狂気の沙汰にしか見えない。

 優生思想は、歴史の彼方に封印されたものではないことを思い知らされるスゴ本。




2016ベスト


『科学するブッダ』
佐々木閑
角川学芸出版
[レビュー:理系に理解できない科学『科学するブッダ』]

科学するブッダ

 与えられたパズル解きこそ全てだと考える科学者は、自らが依って立つパラダイムを超える思考ができるか? その可能性を、量子論、進化論、数論、そしてブッダの思考に追ったのが本書だ。

 著者は、理系出身の仏教学者。一見、無関係に見える科学と仏教の共通性を示すことが本書の目的だが、共通点を並べるのではなく、科学的思考そのものがどのように変遷していったかを巨視的に捉えようとする。そのため、科学を科学たらしめている本質にまで掘り下げてみせる。この道筋が恐ろしくスリリングで面白い。

 仮に、実証性や合理性といった特徴をもって「科学的」とみなし、あたかも一枚岩の思想のように考えているのなら、本書によって足元が崩されるかもしれぬ。なぜなら、合理性の理(ことわり)を、どこに置いているのかといった分析や、人間存在に起因する不可知論、さらには矛盾の実証まで踏み込んだ議論を展開しており、「科学的であること」は、必ずしも一貫していないことが分かってしまうから。

 本書を貫くキーは、「科学の人間化」だ。それは、神の視点で語られていた世界の真理が、現実の観察により人の視点によって修正されていく過程のことを指している。この「神」も、いわゆる創造主としての神に限らず、我々の頭の中で納得できる、端正で美しい「完全性」としてとらえたがる思考も含んでいる。

 つまり、科学的アプローチによって詳らかにされた「世界はかくあるべし」というシンプルな姿が、さらなる科学的アプローチによって書き換えられたり、様々な例外や定数やモデルを必要とし、人に分かるように整理されて(理解の埒外は"複雑性"もしくは"確率の問題"と片付けられて)ゆく変遷が、「科学の人間化」なのだ。

 デカルトからニュートン力学、そして相対性理論を掘り下げることで、その根底に「神」ないし「私」という絶対的な存在を見いだす。その絶対的な存在が見ている世界は、誤りや曖昧さを含めずに記述可能である、という考え方が潜んでいる。そして、絶対存在から見た世界の客観的なありようを正しく記述することが科学の目的だ、ということになる。著者はさらに踏み込んでくる。物理学の視点が神→人に移るさらにその先に何があるか? ここでもっと恐ろしいことを言い出す。

もしも物理学というものが、現実世界のありさまを、最も一般化した形で記述することを目的にするなら、生物の認識システムの違いに左右されない、普遍的法則を探究すべきであろう。この立場から見ると、相対性理論にはまだ「人間を唯一の認識主体とする」という点で神の視点が残っている。

 そして、相対性理論に残された神の視点を取り去るため、物理学の普遍化を提案する。つまり、認識媒体として普遍の存在である、「光」を相対化して、認識媒体のパラメータの一つとして扱ってみてはどうかというのだ。

 世界の真の姿を求めて論理思考を繰り返すうちに神の視点を否応なく放棄させられ、次第に人間という存在だけを拠り所として物質的世界観を作らねばならなくなる。そして、その先にある、絶対者のいない法則性だけの世界で、自己のアイデンティティをどうやって確立していくかという話になると、それは仏教の話になる。

 ここが、『科学するブッダ』の肝になる。神なき世界で人間という存在だけを拠り所として、精神的世界観を確立するために生まれてきた思考こそが、ブッダの考えなのだというのだ。著者が夢見る「科学者するブッダ」は百年千年先かもしれない。だが、百年千年前からの「科学の人間化」は、確かに同じ思考を辿っている。

 百年先のパラダイムを創造するための一冊として、稀有なスゴ本。

『この世界の片隅に』
こうの史代
双葉社
[レビュー:なぜ『この世界の片隅に』を観てほしいのか]

この世界の片隅に上この世界の片隅に中この世界の片隅に下

 まだの方は、まず映画を観にいってほしい。あの世界の片隅に身を置いて、音と映像を体験してほしい。できれば、大切な人と一緒に観てほしい。感想などいらない。終わったら、何かおいしいものを一緒に食べて、「おいしいね」と言い合うだけでいい。映画を観たらコミックも読んでほしい。ムダが一切ないあの尺に、それでも入りきれなかったエピソードを拾って、映画のときと同じ気持ちになってほしい。

 舞台は、1944年の呉。絵の上手い、18歳の浦野すずが主人公だ。彼女が広島から呉に嫁いでくるところから、物語は動き出す。物資不足の中、すずは懸命にささやかな暮らしを守るが、戦争の影は次第に濃くなってゆく……というのがお話の入口だ。ちょっと(?)おっとりしたすずさんの言動がまた可笑しくて、ともすると暗くなりがちな戦争の影が、そこだけ緩やかになっているかのように見える。寂しい夕餉と楽しい笑い声に加え、「みんなが笑って暮らせるのがええ」というセリフが胸にくる。

 なぜなら、この戦争がどのようになるか知っているから。すずの場所がどのように壊れてゆくかを、わたしは過去の出来事として知ってるから。その笑顔が失われるようなことになっても、どんなに辛いことがあっても、「食べる」描写をやめない。それは、観る人を勇気づける。まったく違うお話なのだが、レイモンド・カーヴァー『ささやかだけれど、役にたつこと』 ("A small, good thing")のラストで、悲しみの底で焼きたてのパンを食べる場面があるのだが、そいつを思い出す。生きるとは、食べること。食べ続けることなのだ。

 もう一つは、物語の力だ。1944年で広島が実家で、20キロほど離れた呉が舞台というなら、どんな運命が待ち受けているか、わたしは「歴史」として知っている。しかし、この物語は、徹頭徹尾、彼女の場所を中心に描かれている。

 だから、誰かに伝えるための形容はない。「痛い」「辛い」「悲しい」「恐ろしい」といった感情表現は省かれ、出来事にまつわる解釈や主張もない。彼女の「痛み」をわたしの痛みとして感じることはできないが、彼女の身に何が起こっているかは痛いほど分かる。辛すぎる現実は、そのままの形で受け止められない。すずの身に起こった物語にすることで、ようやく触れることができる。それが、物語の力だ。

 この物語の力は、今年読んだ『原爆先生がやってきた』(池田眞徳・羽生章洋)を思い出す。小学6年生を中心にした、90分間の特別授業だ。原爆とイデオロギーを切り離し、一人の目から見た物語としてナラティブに伝えると同時に、原爆の科学構造や原理といった側面をも伝える授業だ。

 そこでは、「辛い」「悲しい」「恐ろしい」といった感情表現を廃し、身ぶり手振りや擬音もなくし、淡々と起きたことを口述する。原爆ダメとか反戦といった思い・解釈・主張も入れない。そこには、「平和」という言葉すら入っていない。イデオロギーを廃し、物語の形にすることで、ようやく飲み込むことができる。そこで何が起きたかは分かる。だが、どう思うかは、聞き手に委ねられている。

 読む/観ることで、あなたの中にあるものに反応する、そういう作品。

『クオ・ワデス』
シェンキェーヴィチ
岩波文庫赤
[レビュー:『クオ・ワディス』はスゴ本]

クオ・ワディス上クオ・ワディス中クオ・ワディス下

 面白い! 未読の方は幸せ者、読まずに死んだらもったいない。

 これは、最高に面白い小説になる。そして、誰にでもお勧めできる夢中小説であり徹夜小説であり試金石ならぬ試金本となる。これほど夢中になったのは、吉川英治『三国志』ぐらい。『クオ・ワディス』を凌駕もしくは匹敵する作品を教えてほしい。まさにその作品名は、検索できないものだから。

 舞台は頽廃の都ローマ、暴君ネロの治世。キリスト教徒の娘リギアと、エリート軍人ウィニキウスとの恋愛を縦軸に、粋なトリックスターであり審判役もするペトロニウスとネロの権謀術数、弾圧されるキリスト教が大化けして世界を変革する様相が、ドラマティックに描かれている。

 絶望と狂気、快楽と歓喜が、圧倒的に伝わる物語となっており、人の魂の最上級の姿と、人の欲望の最も醜い貌の、両方を同時に見ることができる。豪華贅沢三昧の宮廷イベントや、読むのをためらうほど身の毛もよだつ残虐シーンや、劫火と苦悩が異様な美を織りなす光景など、どんな映画よりもスペクタクルな場面が用意されており、これまた見てきたようにきっちり考証して事細かに書いている。

 根底に流れるテーマは、「変化」だ。肉欲から始まった恋が献身的な純愛に変わっていくプロセス、飽満が変態の一線を越える様、ただの権力者が人外になる変化が、幾重にも埋め込まれている。

 明日の予定がない夜にどうぞ。

スゴ本2017

 読まずに死んだらもったいない本が積まれているのに、新たに見つけてきては積んでゆく。賽の河原の石積みのように感じることもあるが、これを崩すのはわたし自身なり。これから年末にかけ、怒涛の読書が始まる。

 クルーグマンの国際経済学
 数学ガール(不完全性定理の復習)と虚数の情緒
 河出書房の日本文学全集(角田の源氏、古川の平家、円城の雨月)
 天冥の標シリーズ
 人喰いの大鷲トリコ

 あたりが目標だが、どこまで進められるか……

 [スゴ本オフ]もやりたいし、一冊決めてサイゼ飲みしながら読書会したい。[横浜読書会]行きたいし、[猫町倶楽部]を覗いてみたい。シミルボンに連載している[よりぬきスゴ本]を続けたい。何よりも、このブログを訪れる「本」の仲間を、もっともっと増やしたいですな。

 新しい本を新しいという理由だけで追いかけてるうちに人生が尽きる、そんなことにならぬよう、見極めながら読んでいこう。「あとで読む」は、一生読まない。いつ読むか? 今でしょう!

  この本がスゴい!2015
  この本がスゴい!2014
  この本がスゴい!2013
  この本がスゴい!2012
  この本がスゴい!2011
  この本がスゴい!2010
  この本がスゴい!2009
  この本がスゴい!2008
  この本がスゴい!2007
  この本がスゴい!2006
  この本がスゴい!2005
  この本がスゴい!2004

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「信頼できない読み手」へ導く極上の物騙り『またの名をグレイス』

 「面白い小説とはセックスのようなもので、途中でやめるわけにいかない」と阿刀田高が言ってたが、まさにこの作品のためにある。

 抜群に上手い語りと、先を知りたい欲求と、語り手への疑惑が混交し、やめられない止まらない。ノッてる情交と一緒で、疲れたから続きはまた明日というわけにいかず、寝かせてくれない&寝かせるわけにいかない。いわゆる徹夜小説で、物語に夢中になっているうちに、溺れて沈んで目が覚めて、それでもまだ夢の中にいるような気にさせられる。後を引く展開がやめ時を失い、気づいたら朝。

 世界一信頼できるブッカー賞を受賞した、マーガレット・アトウッドの最高傑作と名高い『またの名をグレイス』をついに読んだ。150年前にカナダで起きた殺人事件を題材に、記憶や物語の信頼性やアイデンティティの揺らぎ、性と暴力といったテーマを織り込み、絶えず読み手の疑惑を誘いながら、物語沼へどんどん引き込む。

 語りの中心にはグレイス、表紙の女性がいる。類稀なる美貌と、極貧の生い立ち、教育は受けていないものの抜群の記憶力と語りのセンスに、思わず知らず引き込まれる。物語の最初、グレイスは二面性を持つかのごとく紹介される。一つは、殺人の実行犯を肉体で誘惑し、唆した悪女として。もう一つは、殺人犯に脅迫され、自分の身を守るため汚名を着せられた犠牲者として。

 これ、どちらの読み方でも成り立つが、凄いのは、彼女の独白も描かれているところ。普通なら三人称で隠しておき、決定的なところで一人称で暴くという手法だろうが、アトウッドは凄い。一人称の地の文で、グレイスの内心をあますところなく描ききり、三人称で時間軸を動かし、会話体で核心へ斬り込む。さらに、記事や手紙を駆使して外聞との乖離を示し、さっき読ませたストーリーへの信頼性を、あえて揺さぶりにくる。非常にリーダビリティーが高いくせに、油断できない読書になる。

 そして、グレイスの聞き手である精神科医サイモンがいい感じに糞野郎で、「信頼できる聞き手」だと思わせるのは登場した束の間だけのこと。あとはどんどん彼女の語りに飲まれてゆき、同時に「物語の外」の生活世界も染められてゆく。特筆すべきは、グレイスの物語る力には、種も仕掛けもないところ。摩訶不思議な「何か」がそうさせたのではなく、グレイスの言葉はそのまま発せられ、伝わってくる。だから、読者も同じ力に魅入られ、心をざわつかせることになる。

 巧妙に嘘をついているのか、精神に異常があるのか、不幸な弱者なのか―――表面をなぞってゆくと、ある着地点へ導かれる。これを呑み込んでもいい(Amazonレビューアーなんて典型)。だが、長い間、信頼できない語り手と向き合ってきた読者には、容易に信用できず、ミスリードを誘っていると感じるだろう。そして、それこそがアトウッドの醍醐味になる。ひょっとして彼女は、その場そのときの騙りを編み出していたのではないかと、読み終わった後も引きずられることになる。こうしたわたしの「読み」よりさらに深く読むことができる。そこには、一筋縄でいかない、したたかな女性像が浮かび上がる。だがそれも、誤りだろう。

 幾度も仮説を裏切られ切り抜けられ、おもわず彼女の言い分を呑み込みそうになる―――そこでわたしは気づくのだ。わたしこそが、「信頼できない読み手」になっているということに。

 いま知ったのだが、Netflixでドラマ化されるらしい。メアリー・ハロンが監督を、デビッド・クローネンバーグが俳優として参加するらしい([映画.com速報 : デビッド・クローネンバーグ、Netflixドラマ「またの名をグレイス」に俳優参加])。

 極上の物騙りに、呑み込まれるべし。

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なぜ『この世界の片隅に』を観てほしいのか

 来た。観た。良かった。

 封切り直後の映画館は、半分くらい埋まっており、それが多いのか少ないのか分からなかった。可笑しいシーンでは笑い声が場内を満たし、一杯になった胸から心が溢れだす場面では嗚咽が交じる。明るくなると拍手が沸きあがり、観た人みんな良かったと思っているんだなぁと分かる。

 結論から言うと、すばらしい映画なので、たくさんの人に観てほしい。できれば、大切な人と一緒に観てほしい。

 小学校高学年の娘を連れて行った。『君の名は。』『聲の形』と、今年はアニメ映画の当たり年で、どれも劇場で観てよかったねと話してたので、否でも応でも期待は高まっていた。『君の名は。』とは異なり、中高年ばかりの客層に少し驚く。「アニメは子供のもの」なんて時代もあったね(ジブリのおかげ)。

 あの原作のあの絵が動く、というだけで嬉しいと思ったのは最初だけで、あとは夢中で観てて、気づいたら終わってた。冗長な描写は1秒たりとも存在せず、あの世界がそのまま、無駄なく、きっちりとアニメーション作品になっていた。あのうつくしさに音が、さえずりやにぎわいやうたごえや、砲声や轟音や号泣が入ったものだと言えば伝わるだろう。そう言えば、原作読んでる人ならまっすぐ観にいくだろう。

 だからここでは、原作を知らない人に、なぜ観てほしいかを伝えてみよう。

 舞台は、1944年の呉。絵の上手い、18歳の浦野すずが主人公だ。彼女が広島から呉に嫁いでくるところから、物語は動き出す。物資不足の中、すずは懸命にささやかな暮らしを守るが、戦争の影は次第に濃くなってゆく……というのがお話の入口だ。

 伝えたいことは二つある。一つ目は、生きることは食べること。海苔や砂糖、米やスイカや芋が、人と人を結ぶ縁となり、人を生かしていく。食べ物で人はつながり、生活していくというごくあたりまえのことが、あたりまえに描かれていることに気づく。食事のシーンが象徴的に使われているのがいい。配給がだんだん乏しくなって、食卓がどんどん寂しいものになるのに、食べられる野草を採ってきたり、嵩を増やそうとあれこれ工夫するのが微笑ましい。

 ちょっと(?)おっとりしたすずさんの言動がまた可笑しくて、ともすると暗くなりがちな戦争の影が、そこだけ緩やかになっているかのように見える。寂しい夕餉と楽しい笑い声に加え、「みんなが笑って暮らせるのがええ」というセリフが胸にくる。

 なぜなら、この戦争がどのようになるか知っているから。すずの場所がどのように壊れてゆくかを、わたしは過去の出来事として知ってるから。シーンの折々に日付が入るので、観客は「その日」に向かって物語が進んでいることが分かる。

 その笑顔が失われるようなことになっても、どんなに辛いことがあっても、「食べる」描写をやめない。それは、観る人を勇気づける。まったく違うお話なのだが、レイモンド・カーヴァー『ささやかだけれど、役にたつこと』 ("A small, good thing")のラストで、悲しみの底で焼きたてのパンを食べる場面があるのだが、そいつを思い出す。生きるとは、食べること。食べ続けることなのだ。

 伝えたいもうもう一つは、物語の力だ。1944年で広島が実家で、20キロほど離れた呉が舞台というなら、どんな運命が待ち受けているか、わたしは「歴史」として知っている。しかし、この物語は、徹頭徹尾、彼女の場所を中心に描かれている。最も狭い範囲は、すずの見ている暗黒であり、最も広い視点は、すずのいる呉に爆弾を落とす飛行機からの視線になる。アニメーションだから物語のような一人称で描けないが、これはすずが見た世界なのだ。

 だから、誰かに伝えるための形容はない。「痛い」「辛い」「悲しい」「恐ろしい」といった感情表現は省かれ、出来事にまつわる解釈や主張もない。すずが何を見、どう感じたかは、彼女が描いたかのようにデフォルメされた「絵」で伝えられる。

 それと音! 戦闘機のエンジン音や跳弾の音、炸裂した破片の音、ものが焼ける音は、すべて彼女の耳がとらえた音として扱われる。彼女の「痛み」をわたしの痛みとして感じることはできないが、彼女の身に何が起こっているかは痛いほど分かる。辛すぎる現実は、そのままの形で受け止められない。すずの身に起こった物語にすることで、ようやく触れることができる。それが、物語の力だ。

 この物語の力は、今年読んだ『原爆先生がやってきた』を思い出す。小学6年生を中心にした、90分間の特別授業だ[原爆先生の特別授業]。原爆とイデオロギーを切り離し、一人の兵士の目から見た物語としてナラティブに伝えると同時に、原爆の科学構造や原理といった側面をも伝える授業だ。

 そこでは、「辛い」「悲しい」「恐ろしい」といった感情表現を廃し、身ぶり手振りや擬音もなくし、淡々と起きたことを口述する。原爆はダメとか反戦といった思い・解釈・主張も入れない。そこには、「平和」という言葉すら入っていない。イデオロギーを廃し、物語の形にすることで、ようやく飲み込むことができる。そこで何が起きたかは分かる。だが、どう思うかは、聞き手に委ねられているのだ。

 生きることは食べること。そして、物語の力。これが、未読・未見の方に伝えたいことだ。わたしの娘に伝わったかは、分からない。だが、一緒に観ることができて、本当によかった。

 原爆の悲惨な面を拡大することで、戦争を引き起こしたことに対する「呪い」や「罰」のように刷り込む教育を受けてきた。「戦争→核兵器→忌避するもの」という連想で戦争反対を訴える人々を目にしてきた。その一面だけに固執するのではなく、「みんなが笑って暮らせるのがええ」生活を脅かし、それぞれの居場所をなくすものという戦争の姿を、それこそあたりまえのように描いている作品は、初めてなのではないか。少なくともわたしは、寡聞にして知らない。

 「この世界の片隅」は、すずさんだけではなく、わたしも住まう世界であり、わたしの子どもが住まう世界でもある。その世界に対し、イデオロギーとプロパガンダにまみれた「戦争反対」ではなく、この映画を示すことができて、本当にうれしい。

 大事なことなのでもう一度、『この世界の片隅に』は、すばらしい映画なので、たくさんの人に観てほしい。できれば、大切な人と一緒に。

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知の巨人たちが取り組んでいる問題はこれだ『いま世界の哲学者が考えていること』

 やり方が分かっているものは、哲学に向いていない。森羅万象の問題のうち、やり方どころか、そもそも「問題」とすら認識されていないところから始まるのが哲学である。もしくは、問題の背景や根本領域からメタに捉え直し、やり方そのものを生み出すのが哲学である。

 だから、哲学に取り組むことで、視野は拡張され、思考ツールが集まり、なによりも「問題」そのものを疑う目が養われる。

 たとえば、与件を「物理学の問題」や「経済学の問題」に落とすならば、物理学や経済学の「やり方」で考えるしかない。それは一定の成果を生む一方、それぞれの「学」の前提から離れることはできない。

 しかし、哲学なら、それぞれの学問領域の成果に加え、「問題」そのものを疑い、再定義することで、さらに深く・広く考えることができる。「〇〇とは何か」をその学問領域に囚われずに追求し、「〇〇からもたらされるものは、結局なんなのか」を新しい目で評価することができる。

 そこで他領域を必要とするならば取り込めばいいし、ひょっとすると、新たな「やり方」―――すなわち、新しい学問領域を生み出すかもしれぬ。どんどん専門化・先鋭化する領域に比べ、哲学は自由で面白い。取り組むにあたり、関係が複雑すぎたり、領域が大きすぎて、既存の学問では手に負えなかったり、そもそも問題と捉えられなかった「新しい」問題が並んでいる。

 ・格差は本当に悪なのか
 ・脳科学で道徳を説明する
 ・人類は人工知能によって導かれるか
 ・ヒトゲノムの編集はなにを意味するか
 ・性犯罪者を化学的に去勢する是非
 ・地球温暖化対策の優先順位は?

 こうした問題について、いま世界最高の知の巨人たちが、何を考えているかが一望できる、エキサイティングな一冊なり。ただ、一冊で俯瞰しようとしているため、どうしても浅瀬の紹介になってしまい、読み手の得意・好きな分野だと物足りなさを感じるかもしれぬ。私の場合、人工知能や脳科学、経済と環境、生命倫理あたりはおさらいだった。

 たとえば、「格差は悪か?」の議論は、ハリー・フランクファート『不平等論』の山形浩生の訳者解説が分かりやすいし、人工知能は三宅陽一郎『人工知能のための哲学塾』が広範だ。ちょっと笑ったのが、『不平等論』のamazonレビューにおける2人の評者。どちらも★を一つしかつけていないのだが、自分の見えている領域でしか問題を認識できていない。自分が依って立つ前提を疑えていない好例となっている(もしくは、間違った読者に届いてしまったんだね)。

 実入りが大きかったのは、マルクス・ガブリエルの「新実在論」に触れたこと。物理的な対象だけでなく、「思想」「心」「感情」「信念」さらには一角獣のような「空想」さえも、存在すると考える。精神を脳に還元してしまうような自然主義的傾向を批判し、実在とは物理的なモノやその過程だけではないとして、原理的な次元からの再考を試みるという。科学的実在論の不確実性に揺らいでいるところだったので、いい刺激をもらえた。

 いっぽう、さらに考える余白に気付いた分野もある。「バイオテクノロジーは優生学を復活させるのか」という章で、ナチス型の優生学と現代の優生学の違いについて述べている箇所である。ナチス型の優生学は、国家が主体となって、個人の意志に反し、隔離・断種・殺害した。一方で、現代のバイオテクノロジーは国家の強制がないため、ナチス型の優生学ではないという。あくまでも自由に選び取ることができるデザイナーズベイビーであり、子どもの遺伝子工学的教育に過ぎないという。

 しかし、『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』を読む限り、ナチスが行ったのは「役に立たない人を安楽死させよう」というプロセスを明るみにしただけであり、強制的な介入に仕立て上げたのは、当時のドイツの医療社会であり、ひいては健康を強いるモラル的な風潮である。ナチスと結び付け、葬ることで違いを強調されても、生命の合理化という抽象度では残り続ける。もちろん程度問題なのだが、どの程度を是とするかは、これからも議論する余地がある。

 いま、何が問題となっていて、どこまで議論が進んでいるかを概観できる一冊。

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最も信頼できるのはブッカー賞『世界の8大文学賞』

 ノーベル文学賞や芥川賞、ブッカー賞などの受賞作品から「これは!」というものを選び、作家や翻訳家、書評家が全部読んだ上で実現した鼎談。おかげで積読山がさらに高くなる一方、わたしの偏見が解消された。

 というのも、常々思っていた「芥川賞って新人賞なのに勘違いしている人いる?」が喝破されてたから。日本最高の文学賞みたいに考えてる粗忽者は少なからずいる(ただし、これ読んでる人は該当しないはず)。だが、芸術性の高い作品に与えられる賞だと考えていると、本書で足元をすくわれる。最近の傾向は変わってきているようだ。

 普通なら、芥川賞は芸術性、直木賞はエンタメだと考えがちだが、東山彰良『流』をぶつけてくる。これは日本語で書かれてはいるけれど、日本になじみのない世界が描かれている。中国語を使ってポリフォニックな雰囲気を演出しつつ、言語的越境のような冒険が試みられているらしい。そういうものが平気な顔をして受賞して、なおかつ日本で沢山売れている。直木賞のほうがより芸術性の高い、激しいものを生み出しているというのだ。

 「フランス文学やイギリス文学みたいなものを日本語で書こうとしている人を誉めてあげる」芥川賞と、「日本から見た日本だけではなくて、アジアから見た日本というアジア的な感覚がある」直木賞は、面白い視点なり。純文とエンタメという硬直的な分けしかしてこなかったので、いい刺激になった(さり気なく芥川賞をdisっているのが笑えた)。

 そして、ノーベル文学賞。これも世界最高の文学に与えられると勘違いしてる人いるんじゃ……と思っていたら、見事にツッコミが入ってた。世界の文学賞っぽい雰囲気を出してはいるものの、ヨーロッパの主要言語しか読めない人が選考委員で、北欧の作家だとさらに有利。これに該当しない作家なら、翻訳に恵まれているのが必須となる。本書では、「ノーベル文学賞を獲ったにもかかわらず、別の理由でいい作家」としてマンローやパムクを紹介している(さり気なくノーベル文学賞をdisっているのが笑えた)。

 真打はブッカー賞だ。バラエティに富み、統一感がないのに「当たり」率が極めて高く、どれ読んでも満足したという記憶しかない。選考委員は大学教授から文芸評論家、引退した政治家、文学好きな芸能人と種々雑多で、毎年委員が変わるそうな。タコツボ的な癒着や、いかにも選考委員の好みに合わせた作品を書く……なんてことに無縁らしい。メッセージ性が強く出るノーベル文学賞とは対照的に、「実力で勝負」しているのがブッカー賞だろう。

 本書の収穫は、「ブッカー国際賞」を知ったこと。英語圏で書かれたブッカー賞を補完するために2005年につくられた賞だという。基準は、世界文学に大きな功績のある作家で、なおかつ作品が英語で読めること(翻訳も含まれる)。これ、ノーベル文学賞に真っ向勝負を挑んでいるが、受賞作家を見る限り、要チェックなり。翻訳の場合、原著者と翻訳者の共同受賞(賞金山分け)というシステムもいい。翻訳の業績はもっと評価されるべきだから。

 イスマイル・カダレ(アルバニア)
 チヌア・アチェベ(ナイジェリア)
 アリス・マンロー(カナダ)
 フィリップ・ロス(アメリカ合衆国)
 リディア・デイヴィス(アメリカ合衆国)
 クラスナホルカイ・ラースロー(ハンガリー)
 韓江(韓国)

 本書がいいのは、鼎談形式だから、発言者の「名前」が見えるところ。気になる本を推している人、気になるコメントをしている人をチェックして、その人の書いたもの―――書籍だけでなくtweetやブログなど―――を追いかける。わたしが知らないスゴ本をきっと読んでる面々ばかりだが、主催者の都甲幸治をはじめ、宮下遼、江南亜美子あたりが、特にツボだった。

 それぞれの賞ごと(章ごと)に、今後受賞してほしい人を挙げているのがまたいい。ノーベル文学賞の候補に多和田葉子を推しているのを見て激しくニンマリしたし、ボブ・ディランを挙げたのは大正解だった(9/23発行だから、鼎談はそのずいぶん前)。その次はグギ・ワ・ジオンゴ(ケニア)か……

 基本は、自分が気になる作家・作品を読んでる人を探し、その人が推してる(かつ自分の知らない)作家・作品を読む。これこそが、「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」極意なり。その「あなた」を探すガイドブックとして。

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生きるのが痛い人に『拳闘士の休息』

 暗闇の中で手渡されるように巡ってくる本がある。

 作家も書名も覚えてて、大事なものになる確信めいた予感を孕みつつ、積読山に埋もれている。それが、何かのはずみで、ふと、浮上する。人に倦んだり、生きるのに疲れたり、仕事がしんどいとき(ネガティブばっかりw)、救いのように目に留まる。

 それが、トム・ジョーンズ『拳闘士の休息』だ。O.ヘンリー賞を受賞しているが、名作というよりも、むしろ生きるのに必要な糧のような一冊。畳み掛けるように饒舌で、叩きつけるような一人称の文体は、舞城王太郎やジム・トンプスンを思い出す(舞城氏は次作『コールド・スナップ』を翻訳している)。主役は露悪的に振舞っているだけで、語られているのはいつも「痛み」だ。生きるのが辛いとき、生きるのに必要な痛みが伝わってくる。

 ただし、摂取タイミングによる。この短編集、登場人物がことごとく、イカれてたり壊れたりしている。うつ病、末期がん、脳障害、ぐずぐずになった骨など、自分ではどうしようもない病苦に悩まされ、回復する術などなく、痛みと向き合うしかない人生を見せつけられる。読み手の内に痛みがあればあるほど、呼応するように読める。

 どの短編、どの作品を読んでも、きっと、引っかかってくる一文がある。表題でもある「拳闘士の休息」では、作者自身が傾倒したショーペンハウエルの、"人生とは何と虚しく不実なものであることか。その与える喜びの、何と欺瞞に満ちていることか" を引いてくる。その視線でもって、自身の暗い内側にある、敵意や憎悪を貯水池のように喩える件があって、まんま『ファイト・クラブ』を思い出す。さもなくば、『冷たい熱帯魚』のラストの叫び「生きるってのはな! "痛い"んだよ!」がこだまする。

 いちばんぐっときた「蚊」では、ここだけ引いたら陳腐に見えるが、読んでる途中は、分かる、分かるよと呟きたくなる。ここに出てくる「俺」は救急外科医であり、人体の壊れやすさを嫌というほど知っているから、太く短く刹那の喜びに賭ける。そんなことをおくびにも出さずに、ただ行動に移す。生きるのは"痛い"ってことを、知っているのだ。

たとえ俺がろくでなしだとしても、これだけは言える―――この人生、欲しいものは自分から行って手に入れたほうがいい、今のこれこそが唯一の旅、たった一度の旅なのだから。

 むろん感覚なんて主観的なものだから、彼・彼女の痛苦は想像するほかない。わたしの痛みはわたしのものでしかないことと一緒。それでも、逃げまわり、タフに立ち向かい、打ち倒され、のたうちまわっている姿から分かる。人生は痛みでできており、そうでないわずかな、ごくわずかな時間だけを大切に抱えることで生きていけるのだと。

 わたし自身、楽に死ねると思っていない。統計的にがんで死ぬんじゃないかな、と感じている。死ぬときではなく、死にいたる過程で痛みを感じるとき、この短編を、ふっと思い出すような気がしている。

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本好きあるある『吉野朔実は本が大好き』

 もちろん、好きな本を読むことは楽しい。だが、好きな本について語り合うことは、もっと楽しい。

 読書は孤独な行為かもしれないが、書を語るのはもっとオープンになると嬉しい。オフ会を開くのはそのため。好きな本を持ちよって、ああだこうだと語り合うのは至福のひととき。11月26日に「失恋」をテーマにオフ会をやるので、ご興味のある方は[スゴ本オフ]をどうぞ。

 本を読んでいるときも、「これ、あの人に薦めたらこう読むだろうな」とか、「これとあの本を合わせたら、面白い化学反応になるだろうな」などと妄想をたくましくする。書を措いて友に会おう。面白い本が、もっと面白くなる。

 これは、リアルで知り合ってなくてもいい。作品について楽しく語るエッセイやブログ主と、一方的に友達になればいい。吉野朔実はそんな読み友達の一人で、『少年は荒野をめざす』『ECCENTRICS(エキセントリクス)』を通じ、少女の不完全性について学ばせてもらった。そんな彼女が「本の雑誌」に連載していた読書エッセイコミックが、一冊になった。今までの以下の「吉野朔美劇場」シリーズの単行本にプラスアルファして、オールインワンになった。読み応えあるデ。

  1. お父さんは時代小説が大好き
  2. お母さんは「赤毛のアン」が大好き
  3. 弟の家には本棚がない
  4. 犬は本よりも電信柱が好き
  5. 本を読む兄、読まぬ兄
  6. 神様は本を読まない
  7. 悪魔が本とやってくる
  8. 天使は本棚に住んでいる

 まさに、本好きの、本好きによる、本好きのための一冊で、どこから読んでも楽しい。「出先で読む本が尽きたとき」「上・下巻はまとめて買う派」「誰にとっても面白い本はあるか?」「いちばん人に贈った本」など、あるあると頷きながら読むことになる。

 いちばん頷いたのは、「星の王子さまに関する二、三の秘密」のくだり。読んだ本を手元に置いておこうという執着心は薄いというが、私もそう(物理的な制約もある)。その奇妙な例外が、『星の王子さま』になる。あちこちに分散して3、4冊はあるはず。というのも、人にあげまくるからだ。年齢立場に関係なく、無条件に「読んで」と渡せるもの。

 面白いことに、「読んだことある」という人のたいていは「あんまり…」「イマイチ」という感想だ。わかる。名作だということで押し付けられて(義務的に)読んでも、初読ではピンとこない(はず)。しかし、時を経て再読すると、化けるんだ。自分が変化していることが、確実にわかる。

漫画家になって、実家を出て、ひとりで暮らすようになった20代にも読んでみました。この時初めて凄いと思い、いろんな人が、人にあげたくなったり、大事にしたいと思うのがよく解りました。

私が感動したのはたぶん表現力です。形の無いものや、目には見えないものを説明する能力。毎日毎日漫画を描いていた私が、一番欲しいものでした。

 『星の王子さま』は、読んだその時に「いい本」に思えなくても、再読のときに「いい本」になる稀有な本。それを知っている人が、一人で何冊も買っては贈り、買っては配りしているので、いつまでたってもベストセラーなんだろうね。

 客の趣味や傾向とかのリストつくって、本を紹介する商売のネタが出てくる。「けして私が読みそうにないけれど私が好きそうな本」ありませんか?と問いかけるところがあるが、まさに「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」まんま。

 読書友達には恵まれていたみたいで、互いにお薦めしあったり「これ読め」と送りつけあったりするやりとりが楽しい。そのとき、「いかに相手に興味を持ってもらうか」を工夫する様が、そのままレビューになり、紹介になる。漱石の『こころ』のクライマックスで、ちょっとだけ開いた襖を示し、「サイコミステリー」だと評したり、『その女アレックス』を「証人が出てくるたびに善玉悪玉が入れ替わる裁判モノみたい」と紹介する手腕はさすが。既読作品はもう一度読みたくなるし、未読はやっぱり読みたくなる。これ一冊で積読山がさらに高くなるデ。

 本好きあるある、頷きながら、耽読すべし。

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水樹奈々に寝かしつけてもらう『おやすみ、ロジャー』

 ここ数年、なかなか寝付けなかったのが、一瞬で眠れた。

 もちろん、あれこれ試してきた。昼間は日光を浴びるとか、寝る前はブルーライト避けるとか。しかし、横になって目を閉じても、雑事や悩みが頭をめぐり、なかなか眠りに入れない。体が眠りたいのに、頭がそうさせてくれぬ。悶々してるうちに朝が来たことも幾度かある。

 それが、一発で眠れた。

 だがこの眠り、まったく理解を超えてた……ありのまま、起こったことを話そう。「私は、水樹奈々の朗読を聞き始めたと思ったら、いつのまにか朝になってた」。何を言っているのか、分からないと思うが、自分も、何されたのか分からない。快眠CDだとかチャチなものじゃなく、もっと恐ろしいものの片鱗を味わった。

 それが『おやすみ、ロジャー 朗読CD』である。もとは「魔法のぐっすり絵本」と呼ばれており、小さな子どもの寝かしつけのために研究された絵本だ。喚起されるイメージや、音節のリズムを考慮した言葉で構成されており、リラックスさせる工夫が随所にある。それを、声優が朗読してくれるのだ。

 その危険性は、説明書きにある。「車、バイク、自転車など、あらゆる乗り物を運転中に聞いたり、運転している人に聞こえる大きさでCDを流すことは、絶対におやめください」と警告している。

 これは、一種の催眠術のようなもの。兎の子どものが、寝かしつけてもらうというだけの単純なお話に、「だんだん体が重くなる…」「気持ちが楽になってゆく」といった語りかけを混ぜ、足先→脚→胴→腕→頭の順番に力を抜いてゆき、イメージにより身体を温かくしてくれる。

 水樹奈々の朗読が素晴らしい。耳元に、ささやきかけるように話してくれる。プリキュアやシンフォギア、最近だったら『この美術部には問題がある!』のOPテーマにある「強くて可愛い」イメージが、完全に覆される。ゆったりとした、柔らかくて温かい語り口が快く、イヤホンで聞くと吐息すら伝わってくる。

 ただ、彼女の言うとおりに、楽にしていくだけでいい。「ゆっくり、ゆーっくり」「くたくたになってくる」と文字列だけだと表現しづらいが、実際に聞くと、こっちの思考のペースが緩慢になり、重くなる。話の継ぎ目に入れてくる、彼女の「あくび」が猛烈に可愛い。普通なら覚醒するはずなのだが、その「声」に抗えぬ。ファンタジーや伝奇モノで「声で支配する」能力があるが、まさにそれ。

 結局、その兎の子がどうなったのかは知らないまま、落ちる。そう、墜落するように眠れる。普段なら、のどが渇いたり、ちょっとした物音で何度も目が覚めてしまうのだが、それもなかった。まるで、スイッチを切るように眠れる。

 目覚めると、拭ったように明晰だ。こんなクリアな感覚は久しぶりだ。いつもは、どんよりとした意識で一日が始まるのに、まるでない。最初に考えたこと「腹へった」←これも数年ぶり。

 そして今、完全に覚醒しているのだが、彼女の朗読を思い浮かべるだけでリラックスしてくる(「あくび」なんて脳汁が出るくらい)。おっと忘れるところだった、中村悠一ver.もある。魔法科高校の司波達也や、痛いナルシス・カラ松のイメージは完全にない。声はソレなのに、まるで違うのだ! 声優すごい。声に眠りを支配される喜び(?)を知るべし。

 眠るのが下手な人にお勧め。スゴ本オフにも持っていくので、お試ししたい人は教えてね。

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『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』はスゴ本

 「役に立たない人を安楽死させよう」という世の中になるなら、それはどんなプロセスを経るか?

 これが、嫌と言うほど書いてある。ヒトラーの秘密命令書から始まったT4作戦[Wikipedia]を中心に、医師が「生きるに値しない」と選別・抹殺していった歴史が緻密に書かれている。

 対象となった人は多岐に渡る。うつ病、知的障害、小人症、てんかんに始まり、性的錯誤、アル中、反社会的行動も含まれていた。こうした人びとが何万人も、ガス室に送られ、効率的に殺されていった。ユダヤ人の迫害にばかり目が行っていて、本書を読むまで、ほとんど知らなかった自分を恥じる。本書は、不治の精神病者はガス室へ『夜と霧の隅で』で教えていただいた(hachiro86さん、ありがとうございます)。

 問題は、ナチスに限らないところ。優生学をナチスに押し付け断罪することで、「消滅した」という図式にならない。社会システム化された「安楽死」(というより集団殺人)は、びっくりするほどありふれて見えて、そこだけ切って読むならば、ディストピア小説の一編のようだ。ハンナ・アレントが観察した、「悪の陳腐さ」そのもの。

 著者は主張する。欧米社会では伝統的に障害者を医療の枠でとらえ、「決して回復しない病人」とみなしてきた。異なるものへの恐れ、病人や障害者の持つ弱さへの憎しみ、完璧な健康、完璧な肉体への異常な衝動は、もともとそこにあり、ナチスドイツはこの闇を白日のもとにさらしたにすぎないというのだ。

 確かにこの計画は、ヒトラーが承認し、第三帝国の下で実行されたのは事実だ。だが、計画を生みだしたのは医者であり、遺伝学や生理学の権威が、科学的正当性のもとで推進したものだ。そこには、「善意」すらあったという。リハビリ可能なものはリハビリで「治癒」し、「治癒不能」なものを抹殺することで、民族の浄化に貢献すると信じていた。

 ヒトラーが署名したのは、治癒不能の重い病気を抱える患者に対し、十分慎重な診察のもと、安楽死がもたらされるよう、特定の医師の権限を拡大する命令書だ。当初は、苦しみから解放するという建前だった。社会の幸福のため、科学的正当性のもと、社会を合理化しようとしたというのだ。結果として狂気の沙汰が生まれたからといって、始めた人は狂人とは限らぬ。その見極めはどうすればできるのか?

 ひとつの斬り口として、「健康」というマジックワードが挙げられる。

 戦力増強という目的があったものの、ナチスほど国民の「健康」に執着した組織はなかったという。タバコとアルコールの追放運動を大々的に行い、飲酒運転には高額な罰金を課した。結核の早期発見のためのX線検査、学校での歯科検診、身体検査を制度化したという。全国的なキャンペーンが行われ、栄養のある食事、運動、新鮮な空気、適切な休養が啓発された。決められた「健康」を満たせない者は「役に立たない」とみなされる。つまり国民は、「健康」を強要されたのだ。

 もちろん「健康」であることは望ましい。だが、「健康」を決めるのは医者だというのは少し変だ。そして、「健康」でない人は排除すべしという考えは全くおかしい。健康ジャンキーを揶揄する「健康のためなら死んでもいい」言葉があるが、ブーヘンヴァルト収容所の所長のこの言葉も負けず劣らず強烈だ「うちの収容所に病人は一人もいない。健康な人と死人だけだ」。そして、「健康か否か」の線引きが医者にのみ委ねられ、「健康か死か」という二択しかないのであれば、それは狂気の沙汰にしか見えない。

 「健康」は、一見、中立的な善に見える。誰だって病や苦痛を避けたいから、健康に異を唱える人などいない。だが、誰も反対しないからこそ、「健康」をレトリックとして、先入観を押し付けることができる(この場合は第三帝国のイデオロギーだ)。

 このレトリックは、第三帝国が無くなっても感じることができる。若々しい男女や、はつらつとしたお年寄りが宣伝する、「健康食品」や「健康的な体」というメッセージの背後にある、「健康への強迫観念」を、確かに感じることができる。

 「健康」の背後にあるモラル的な風潮をあぶりだしたレポートとして、『不健康は悪なのか』がある。ヘルスケア用語に隠された肥満嫌悪や、「ポジティブであり続けること」を強要される癌患者、新薬を売るために創出される精神疾患など、「健康」という言葉に隠されたイデオロギーが、グロテスクなまでに暴かれる。「不健康な人は排除される」世の中が来るのなら、その途中経過はここにある。

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人工知能=科学∩技術∩哲学『人工知能のための哲学塾』

 人工知能を実現するための、哲学的な手がかりとなる一冊。

 人工知能は、科学、技術、哲学が交錯するところにある。「知能とは何か?」を問うのが哲学であり、この問いを探索するのが科学であり、実現するのが技術になる。最近の人工知能ブームでは、科学と技術に目が行きがちだが、本書は根本のところから応えようとしている。新しく見えるだけの場所から離れ、現象学や認識論を俯瞰することで、現在の人工知能の限界が逆説的に見えてくる。

 ブームに乗っかって、たくさん本が出ているが、わたしが求める「本質」は無い。たいていの人工知能本は、「考える」が本質であるといい、意思決定用のモジュールを積めばよしとする。「考える」とは何かという問いは保留され、おなじみの「入力→処理→出力」ルーチンに落とし込まれる。

 そして、意思決定のためのデータを機械学習で増やしたり、アルゴリズムに動的にフィードバックさせる話になる。プロ棋士に勝つソフトウェアや、自動運転、人間そっくりの受け答えをするAIは、たしかに凄いのだが、なにか違う。

 わたしが求める本質とは、「考える」とは何かという問いかけに向かうもの。認知科学を齧ると、ヒトは脳以前に「考える」に近似した処理をしていることが分かるし([野性の知能])、分析哲学を読むと、「考える」基となる言語には身体的なメタファーが付いて回っていることに気づかされる[レトリックと人生]

 コンピュータに喩えるなら、データは環境に埋め込まれており、それを取得する方法に既に一定の意味が付いてくる。その「意味」は、いま解決したい問題によって解釈が変わってくる。同じクラスでも、状況によって異なるインスタンスが生成される(鉛筆がマドラーになったり武器になったり)。さらにいうなら、問題によって何をデータとみなすのか? という問いすら変わってくる。

 こうした問題意識に対して、以下の演目で応えてくれる。次に進むべき領域が見える議論もあれば、わたしが見落としていた観点もあり、積読山がさらに高くなる。

 第一夜 フッサールの現象学  現象学と人工知能の関係性
 第二夜 ユクスキュルと環世界 キャラクターの主観世界
 第三夜 デカルトと機械論   デカルト的な世界観
 第四夜 デリダ・差延・感覚  予測と感覚
 第五夜 メルロ=ポンティと知覚論 知性と身体性の関係

 実は、第零夜にあたるオーバービューは無料で公開されている([改めて知りたい、人工知能とは何か?:「人工知能のための哲学塾」第零夜])。ほとんど本書のまとめみたいになっており、10分で概観を知ることができる。なお、資料一式も無料で公開されており、[人工知能は、いつ主観的世界を持ち始めるのか?]から参照できる。

 ありがたいのは、単純に知性に関する哲学の議論を並べているだけでなく、それがAIの議論にどのように関わるかを深めているところ。

 たとえば、ギブソンのオプティカルフローの概念。「眼」はカメラに喩えられるが、生物の眼はそれほど精緻にはできていないという。ぼんやり明るい/暗いが分かる程度で、生物が移動することで明暗が変化し、周囲の光の配列が変わっていく(オプティカルフロー)。近くのものは速く動き、遠くのものは変わらない。それによって自分の位置や姿勢、周囲の情報を得ている。つまり、生物の「眼」は漠然と見るのではなく、自分の身体がどうなっているかを確認する機能として働いているというのだ。この概念から、ロボットや人工知能の「眼」は細かく世界を見すぎているのではないかという疑問が示されている。

 あるいは、現在のゲームキャラクターのAIに欠けているものとして、「身体感覚」を挙げる。ある程度までは自律的となっているものの、キャラクター自身が内部の身体感覚(自己感)を持っておらず、リアリティを感じにくくさせている。人の身体保持感覚は、所与のものではなく、身体を動かすたびにフィードバックされ(遠心性コピー)、それ故、「この身体は自分自身のものだ」と思い込ませているというのだ。著者は、メルロ=ポンティを引きながら、能動的主体としての行動の志向性を述べる。即ち、何ができるかということが意識の根本にあり、最初は「我思う」ではなく、「我能う(あたう)」というのだ。

 「人のような」は、人マネでもなく、人のふりをするという意味でもない。それは、「主観的な世界」を持つということであり、身体性と共にあることが分かる。「主観的な世界を考える」を意思決定モジュールに任せるのではなく、絶えずフィードバックを受けながら自身を確認する身体感覚と共に実装されなければならないことも見えてくる(たとえポリゴンの中の世界であろうとも)。

 哲学から人工知能に迫りながら、「知能とは何か」の本質へ掘り下げてゆく一冊。

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«いい音楽・映画・文学は、私の経験になり、あなたの記憶となる(スゴ本オフ「音楽」まとめ)