生きのびるための狂気に自覚的であること『杳子』

 電車の窓から眺めていると、自分が動いているのか、世界が流れているのか、分からなくなるときがある。特に駅に停まっているとき、向かい側の電車が動き出すとき、まるで自分の車両が発車したかのような錯覚に陥る。いまいる場所をむりやり認識しようと、軽い吐き気とともに自分を再起動する。

 古井由吉の短編『杳子』の導入部が、まさにそうだった。「杳子は深い谷底に一人で坐っていた」から始まる、精神を病む女子大生と青年との異様な出会いの場面である。深い山中から、ふいに開けた谷に出るとき、眼前の岩という岩が(静止しているにもかかわらず)流れ落ちるように見えるときがある。

 視界を覆い尽くす山の圧力を直接受け取るいっぽう、自身の卑小な重さと相対化し、身体が浮き上がような、さもなくば岩がのしかかってくる感覚だ。もちろんこれは錯覚なのだが、平衡感覚を取り戻そうと、軽いめまいとともに自分を再起動する必要がある。これ、山に入ったときにしかありえない経験だと思っていたが、文章で追体験させる技量がすごい。

 杳子は立てなくなり、たった独りで谷底に坐り込むことになる。そこへ、やはり一人で登山をしている青年が現れるのだが...... これラブストーリーなのかね。杳子も青年も大学生で、性も愛もあるのだが、生々しくも薄暗く描かれている。「杳として行方知れない」のヨウで、杳い(暗い)子という意味でもあるのだが、外見は明るく奇矯に振舞うときすらある。杳子は「病気」であると診断されるのだが、躁うつ病、今なら双極性障害になるのか。

 たとえば、「食べる」という何でもない行為を極端に恥じたり、立ったり歩いたりといった日常的な動作を徹底して意識的に行う。自分の躰(からだ)のありかが、分からなくなってしまう。これは、自らをとりもどそうとあがきながら、後に明かされる血の運命によって、世界に対して立ちすくむ少女から女への物語としても読める。

 対する青年の呑み込まれ方が面白い。肉体的な深まりにとともに、自分の存在が彼女の病気を後押ししているのかと悩み、ときに引っ張りだそうとしたり、あるいは共振したりする。杳子からすると、精神的ひきこもり状態だったのが、男性経験をトリガーとして、病として追認されたのではないかと。

 この杳子のふらつきは、精神的な病すなわち狂気として扱われているが、その事実そのものが面白い。杳子の発言やふるまいは、「病気」には見えぬ。エキセントリックな言動は、世界が流れているのか、自分が動いているのか分からなくなり、自分を無理やり再起動させているようにも見える。そして、自分の記憶や身体の不確かさを受け入れ、自律的に動いていることを再確認しながら「自分の外側を保つ」ことは、現代では至極あたりまえのことだから。

 古井由吉が著した『杳子』が世に出たのが1970年、およそ半世紀前になる。この作品に貼られた「内向の世代」というレッテルには、社会の葛藤から目を背けて私生活ばかりを追求する批判を込められていた。だが、今読むと、ものすごく「今のいま」を示しているように見える。杳子が訴える、「自分」というものが、身体の内側から滑り落ちるような感覚、これは、今のいまこそ、切実に求められている。内在する「狂気」に自覚的でいる杳子のほうが、「今のいま」から見ると、よっぽど「健全」である。

 古いのに新しい、生きのびるための狂気を見つけよう。

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デジタル・ヒューマニティーズの講演が面白かったのでまとめる(追記あり)

 デジタル・ヒューマニティーズ(digital humanities)とは、人文科学に対しコンピュータを積極的に応用すること。歴史、哲学、文学、宗教学や社会学の研究において、テキスト分析技術や統計処理、地理情報システム、シミュレーション技術を適用し、新しいアプローチを見出す方法論だ。最近だと「AIが書いたハリポタ」「シェイクスピアの”中の人”は何人?」が有名やね。

 講演は秋草俊一郎さんの「文学とコンピュータが出会うとき」というテーマだ(訳すのは「私」ブログ で知った)。文学におけるデジタル・ヒューマニティーズの最新事例や、面白いアプローチをしている研究者が、つぎつぎと飛び出してくる。特に、「本を読まずに文学する方法」や、「統計分析から得られたベストセラーの法則」、「文体を決めるのは時代やジェンダー」が興味深いトピックだった。1時間30分が一瞬に感じるくらい、めちゃめちゃ面白かったので、ここにまとめる(記事化は許可をいただいてます)。

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 ポイントは、文学を「読む」ほうに主眼をおいているところ。「読む」のはヒトの仕事だろ? なんて思ってると、カルチャーショックを受けるだろう。

 まずは、「本を読まずに文学する方法」。フランコ・モレッティ『遠読』を中心に、世界文学への挑戦ともいえる「新しい読み方」が紹介される。それは、「いかに読まないか」を追求する読み方である。

 つまりこうだ。いわゆる正典(カノン)を精読することから生じる文学には限界があるという主張だ。崇め奉られている「世界文学」といっても、要するに欧米という地域を中心に、文を生産・消費する商業システムで生き残った作品群にすぎぬ。そしてその量もハンパではなく、原典を「精読(close reading)」していてはそれだけで一生終わる。

 だから、「精読」の対義語として「遠読(distant reading)」が提唱される。要素だけを抽出して読んだり、原典ではなく翻訳を通じて読むのもあり。コンピュータや統計手法を用いたデータ解析を行い、文学を自然科学や社会学のモデルでとらえ直すのだ。これにより、テクスト自体が消えてしまってもいい。「テクストをいかに読めばいいかは分かっている、さあ、いかにテクストを読まないか学ぼうではないか」と煽ってくる。

 わたしのレビューは、[本を読まずに文学する『遠読』]にまとめたが、この講義では「シャーロック・ホームズが生き残った理由」や「ハムレットのネットワーク相関図」、さらに世界文学空間の歴史的生成と支配構造を解析したパスカル・カザノヴァ『世界文学空間』が紹介される。究極の支配は言語(≒思考・思想)の支配だという考えに立つと、それに抗うための『遠読』という捉え方をしても面白い。

 次に、「統計分析から得られたベストセラーの法則」として、マシュー・ジョッカーズ『ベストセラーコード』が紹介される。ある本がベストセラーになるかを判断するためのアルゴリズムを開発する話だ。2800種以上の小説の特徴(文体、プロット、テーマetc)をインプットとし、膨大な小説を機械学習させることで、ベストセラーになる小説を(そうなる前に)予測可能とするのだ。

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 面白かったのは、プロットラインのグラフ。ストーリーにおける喜怒哀楽をプラス、マイナスに分けて、小説の各場面で、プラスの方向、マイナスの方向にどれぐらい振られているかを視覚化する試みだ。『ダ・ヴィンチ・コード』と『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』のそれぞれの解析結果を重ねると、プロットラインの起伏がいかに似ているかに目を奪われる。昔から「三幕構成」といわれるが、読者の感情を緻密にコントロールすることが売れることの秘密なのかもしれぬ。

 そして、「文体を決めるのは時代やジェンダー」については、マシュー・ジョッカーズ『マクロアナリシス』が紹介される。これは、「文体は何によって決まるか?(作家、時代、国、ジェンダーetc...)」を計量文献学的にアプローチしたものだ。

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 コンピュータを使ったテクスト分析(テキストマイニング)をすることで、「文学作品を読む」ことから離れたところから新たな発見を得ることができる。19世紀英国の小説を読み込ませ、「教養小説」「ゴシック小説」などのジャンルを自動分類させたり、使用語句におけるジェンダーの差異があるかの仮説を検証する。さらには文章からジェンダーを当てるといった試みがなされる。結論からすると、文体に影響を与えるのは、「作家」「時代」「ジェンダー」が大きい一方、「国」「ジャンル」は低いらしい。

 イメージとしては、GoogleのコンコルダンスのNgram Viewerが近いかも。これまでに出版された全書籍のおよそ4%にあたる500万点以上の書籍データから約5000億もの語句を追跡することで、時系列に観た言葉の使用頻度の推移を可視化する仕組みだ。この横軸(時間)に相当するものをあれこれ変えることで、新しい読み方ができそう(もはや、「読み」ですらないのだが)。

 こうした紹介のなかで、面白い学会の変化を知った。それは、「文学との違和感」だという。昔は、文学をするということは、一人で作品を読み、一人で論文を書くやり方だった。しかし、今では一人ではなく、「チーム」になっているという。つまり、方向性を考えデータを解釈をする文学者(統計学者?)と、その方向性をコードで実装しデータ化するエンジニアで構成されている。学会の発表者も、昔は一人だったのが、今は一人が発表し、技術的な質疑にはエンジニア(チーム)が答える風景になっているという。「文学は一人でするもの」ではなくなっているようだ。

 以上、3つのトピックスを紹介したが、他にも興味深い話が大量にある。わずか165行のコードと地名の外部ファイルを元に生成された小説『ワールド・クロック』の話や、計量文献学として村上征勝『シェークスピアは誰ですか?』やベン・ブラッド『ナボコフの好きな色は藤色』(Ben Blatt ”Nabokov’s Favorite Word Is Mauve”)、「同じ雑誌・同じ号に載った詩人=強い相関」という判断で文学世界のコミュニティのネットワーク図を構築するホイト・ロング『霧と鉄』の研究、何がハイク(≠俳句)かを大量データ分析によりパターン認識させる試みなど、どれも楽しそうな遊びばかりなり。

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 もちろん、デジタル・ヒューマニティーズについて、批判もあるという。ビックデータ解析といういわゆる流行に乗って、教授のポストやテニュア(終身雇用資格)、研究資金を確保するための方便なのではという批判や、単なるデータの寄せ集めと「知」の混同をするのではないかという懸念などだ。

 講演を聴講して良かったのは、わたしが抱いている疑問、メタ・デジタル・ヒューマニティーズの可能性についてもヒントが得られたことだ。あるデジタル・ヒューマニティーズの成果をAIに読み取らせ、別の方向性を探る方法だ。

 たとえば、古典文学をAIに食わせ、コピーされた作家性から「古典の新作」を著す試みがある。スタニスワフ・レム『ビット文学の歴史』では、ドストエフスキー・シミュレータからドストの新作が書かれ、それを読んだAIが評論を書き、さらにその評論を別のAIが読み討論する世界が描かれている。そんな可能性を質問したところ、レムの『一分間』に想を得て、『ワールド・クロック』の小説を書くコードのアイデアが生まれたのだというお返事をいただいた(おそらく『主の変容病院・挑発』所収の「人類の一分間」のことだと思う、ぜひ読んでみたい)。デジタル・ヒューマニティーズの可能性は、SFにありそうだね。

 何千年も営々と続けられてきた、作品を創造する、それを受け取る行為の根底に、何か無意識の構造があって、それを上手くすくいとり、可視化することで、「人間とは何か」に迫る。そのためのアプローチとして、デジタル・ヒューマニティーズは、これからもっと面白くなっていきそうだ。

 最後に。秋草さん、たいへん面白くためになる講演をありがとうございました。おかげで読みたい本がさらに積み上がりそうです。

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2018/01/17追記
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有益な情報をいただいたので、以下に追記する。読書猿さんを始めとしたtwitterの皆さま、BLOGOSでコメントいただいた皆さま、ありがとうございます。特に読書猿さん、ちょっと聞いただけでこの物量をサクっと返してくるこの凄さ。むしろ読書猿さんを講師に、このお題でお話を伺いたい......


デジタル・ヒューマニティーズにまつわるtweet








情報知識学会


マシュー・ジョッカーズについて
Matthew Jockers(Google Scholar)
Text Analysis with R for Students of Literature


(読書猿さん、yuekichiさん、たくあんさん、ありがとうございます)


レンブラントの絵をディープラーニングさせ、レンブラントの新作を描く


クローズアップ現代「進化する人工知能 ついに芸術まで!?」
レンブラントの絵をディープラーニングさせて、その技巧やモチーフを抽出し、「レンブラントの新作」をAIに描かせる試み
http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3837/1.html
(BLOGOSコメント 大久保陣太さん、ありがとうございます)


AIが音楽にスコアを付けて、それに基づいてレコード会社がデビューを決めている


すでに米国では、AIが音楽にスコアを付けて、レコード会社がそれに基づいてデビューを決めている。
結局、人間も過去の経験で 「売れそうな曲のパターン」 を判別している。
それなら、AIの方がずっと上手く判別できる。
次のステップはAIによる作詞・作曲。 
5年後くらいには、随分変わっているかも。
(BLOGOSコメント SUZUKIさん、ありがとうございます)

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もしソクラテスが現代に転生したら『新哲学対話』

 「よい/わるい」に客観的な基準はあるのか? AIと人の決定的な違いとは何か? 何かを「知っている」とはどういうことか? 現代に蘇ったソクラテスと仲間たちが対話する。

 現代の風潮に染まり、日本語をしゃべるソクラテスが、ユーモアまじりで語りかける。面白いだけでなく、哲学の本質が「語り」の中から浮かび上がってくる。哲学の本質は、名詞ではなく動詞であり、独白ではなく対話である。

 たとえば、アガトンの章。「よい/わるい」について。「いいワインとは何か」という問いから、相対主義の問題に踏み込む。プラトン『饗宴』の続きの体裁をとりながら、なぜか現代で議論しているのが楽しい。

 いま飲んだワインを「おいしい」「おいしくない」と感じるのは、飲んだ人でしかありえないから、結局のところ、ワインの良しあしは主観的にしか判断できないのか。あるいは、ワインを「おいしい」と感じるまでに飲んできたワインや銘柄を教えてくれた先達者に左右されるのか。さらにワインをめぐる人的・文化的・社会資本的なネットワークが指し示す「いいワインとはこういうもの」(≒ワインの値段)に還元されるのか……といった議論が展開される。

 面白いのは、「よい/わるい」議論はワインに限らないところ。本書では芝居にも言及されるが、絵画や映画、小説や音楽など、あらゆる「評価される作品」に通じるものがある。ひとつの結論としては、相対主義の一つの極点「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」が提示される。

 もう一つの方向性として「そうは言っても、多くの人に高く評価される作品を”よい”と定義する」がある。この方向から「よい」の定義の議論を始めると、「よいは多数決か?」というツッコミが入り、「売れているものが良いものなら世界一うまいラーメンはカップラーメンになっちゃうよ」という話になる。

 もちろんこのソクラテスは、『少女ファイト』も甲本ヒロトも知らない。だが、「自分は知らない」という立場から、巧みに相手から話を引き出し、議論を形作り、「本当にいま知るべきはなにか」を示す。ソクラテスは答えを持っているのではない(したがって、”絶対的な答え”なるものに至らない場合もある)。「その仮定を厳密に積み上げると、どこに到達するのか」を知ろうとする人なのである。

 コンピュータが「計算する」ことへのいかがわしさを明確化したケベスの章。思考は計算に還元できるのかというチューリングの議論から始まって、計算機すなわちコンピュータが「計算する」というときと、人が「計算する」というときに、違いがあるのかという話に展開する。ウィトゲンシュタインの哲学を経験した人もそうでない人も楽しめるよう、間口は広く、奥深く設定されている。

 ソクラテスはまず、「計算する」とは行為なのか、それとも別の何かなのか? と問いかける。対話相手のケベスは少し考えたのち、「行為だと思います」と答える。次にソクラテスは、「行為というものは、どれほどバカげたものだったとしても、何らかの理由があってなされるもの」という定義を認めさせる。そして最後に、計算機が「計算する」ことで何かの結果を出したとして、計算機にそうしたことをする理由があるのかという問いを突き付ける。

 もちろん、計算機そのものには、その「計算をする」理由などはない。「計算する」ことが行為であり、行為の主体たりうるには理由を帰属させる必要があるならば、計算機そのものではなく、その計算機を使う人こそが「計算する」と言うべきだという。対話者自身に外堀を埋めさせた後にトドメを刺す、この論法はソクラテスそのものなり。

 したがって、ソクラテスの狙いによると、コンピュータが「計算する」というのは誤りになる。あくまでコンピュータを使う人間が「計算する」のであって、コンピュータそのものに、結果を出す理由がないためである。コンピュータが「計算する」のは、メタファーの一種にすぎないことになる。しかし、コンピュータを「計算機」と呼び続けている歴史がある以上、このメタファーに気付くのは難しい。あたりまえすぎて気づかない”常識”に揺さぶりをかける、「哲学する」醍醐味はここにある。

 コンピュータが動作して、その中で何らかの電気的な変化が起き、何かが表示される。そのそれぞれの変化に「計算をした」と意味付けを与えることはできる。だがその意味付けは、何通りでも可能である。無数にある意味付けの中から、「計算をした」と意味を与えられるとするならば、それは誰か? すなわち、計算機の中の状態変化を「計算」とみなす、人でしかありえない。

 計算は記号を操作することであるが、その記号を解釈する誰かがいなければ、それは「計算」たりえないというのである。人工知能がどんなに「進化」しようとも、その結果を解釈し、意味づけを行う人から離れることができない。

 これは、本書には出てこないが「誰もいないところで木が倒れたら音がするか?」問題や、「順列組み合わせで名句(名曲、名作)ができるか」問題につながる。前者は、「”音”を受け手の可聴範囲の空気の振動と定義するなら、”受け手”と”空気”が前提となるため、受け手不在であれば”音”は成立しない」という話になる。後者は、「古池や蛙飛びこむ水の音」と「くぁwせdrftgyふじこlp」の価値判断をするために人が不可欠という話になる。

 そこからさらに、AIの臨界があるとしたら、それはどこか? という議論に拡張できる。本書では、ネタ元としてウィトゲンシュタインの言語ゲームにおける「意味と経験」が示されるが、G.レイコフの意味と経験を結び付けるメタファーとしての身体性の話につなげると捗りそう。

 他にも、「知者のパラドックス(the paradox of the knower)」から導かれるゲーデルの不完全性定理が見事なり(自己言及は鬼門)。なによりも、コーヒーを嗜み、フェミニストたちの主張に理解を示すソクラテスなんて想像するだに面白い。

 本書をきっかけに、対話が生まれる。別に一人でもできる。脳内にソクラテスを見立てて、「いかにもソクラテスならこう言いそうだ」という会話をシミュレートする。問答の積み重ねである哲学を実践できる一冊。

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危険な読書

 読書は毒書だ。読前読後で変わらないなら、読む意味がない。ヒマつぶしなら、もっと有用なのがあるだろ? わざわざ時間とアタマ使うくらいだから、響いたり刺さったりしないと。

 BRUTUS「危険な読書」の特集を読んだ。イイのを選んでいるライターさんもいるのだが、全体的にぬるい。というか甘い。わずかに夏目房之介・島田一志の対談と、町田康のインタビューが良い感じで、あとは表紙のいかがわしさに値しない狗肉が並んでいる。ファッション誌である所以、読書を「ファッション」として見なすビギナー向けなのかも。

 もっと「読んだことを後悔するような劇薬小説」とか、「世界観を絨毯爆撃するようなマンガ」とか無いの? 一読したら、二度と立ち直れないような作品が欲しいのに。カフカは言った。どんな本でも、僕たちの内の凍った海を砕く斧でなければならないと。本当に「危険な読書」とは、脳天への一撃となる本なのだ。

 ここでは、そんな「斧」となる作品を選んだ。きわめて致死性の高い劇薬小説であり、トラウマを引き起こすトラウマンガである。成人向きのエロス、悪心を引き起こすものも入れたのでご注意を。そして、ここ重要なのだが、これからわたしが紹介するものがぬるいなら、もっとキツいのを教えて欲しい。なぜなら、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから。

 読みたくない人のために、タイトルと著者のリストだけを置いておく。怖いものが見たい人は、その先をどうぞ。そして、もう一度警告するけれど、これらは、あなたにとって、本当に危険な読書になる可能性が高いので、まずは見ない(読まない)ことをお薦めしておく。この先を読んで「気分が悪くなった」を苦情をもってこられても困るから。また、「危険」の方向に文句がある人には、予め「では、どんな方向性とその最高となる作品を教えて欲しい」と伝えておく。ぜひ読んでみたい。




◇ ◇ ◇ 「危険な読書」リスト ◇ ◇ ◇


Level1 : まずはウォーミングアップ

  『告白』(町田康)
  『イワン・イリイチの死』(トルストイ)
  『悪魔が教える願いが叶う毒と薬』(薬理凶室)

Level2 : この辺からヤバい

  『ファイト・クラブ』(チャック・パラニューク)
  『ウルトラヘブン』(小池桂一)
  『寿司 虚空篇』(小林銅蟲)

Level3 : この辺からエグい

  『ザ・ワールド・イズ・マイン』(新井秀樹)
  『死にかた』(筒井康隆)
  『獣儀式』(友成純一)
  『隣の家の少女』(ジャック・ケッチャム)
  『児童性愛者』(ヤコブ・ビリング)
  『ブラッドハーレーの馬車』(沙村広明)
  『四丁目の夕日』(山野一)
  『夜のみだらな鳥』(ドノソ)

Level4 : ここからアカン

  『城の中のイギリス人』(マンディアルグ)
  『バージェスの乙女たち』(蜈蚣Melibe)
  『デス・パフォーマンス』(スチュアート・スィージィー)
  『死体のある光景 デス・シーン』(キャサリン・デューン)
  『ソドムの百二十日』(マルキ・ド・サド)
  『ジェローム神父』(マルキ・ド・サド)

Level5 : ただ狂え

  『〇〇とぼくらの。』(クジラックス)
  『真・現代猟奇伝』(氏賀Y太)
  『ラブレターフロム地獄』(早見純)
  『ネクロフィリア』(ガブリエル・ヴィットコップ)
  『消された一家』(豊田正義)


◇ ◇ ◇ ◇ ◇

Level1 : まずはウォーミングアップ

 まず、比較的安全に飛べるやつから。とぶクスリがあるように、飛ぶ本がある。flyよりもjumpだから、跳べる本というべきか。どこから? もちろん常識から。どこへ? もちろん非日常へ。たとえば、因習にしばられたムラ社会から逸脱した完全屠畜のフリーダムへ。あるいは人生から非人生へ。



告白

町田康

 一言で表すなら、読むロック(8beat)。幸いなことに(?)予備知識ゼロで読んだ。真黒なラストへ全速力で向かっていることをビクビク感じながら、まさかこんなとんでもない「事件」とは露知らず。

 テンポのいい河内弁でじゃかじゃか話が進む。この一定のリズムは音楽を聴いているようで心地よい。中毒性があり、ハマると本を閉じられなくなる。読み進むにつれ、朦朧とした不思議な感覚に包まれる。

 「告白」の名の通り一人称でずっと進むと思いきや、妙なトコで冷徹に三人称で書いたり、同じ一人称でも著者がしゃりしゃり出てきたり、誰? だか分からないツッコミが入ったり。読み手の気持ちピッタリなので、とりあえず「わたしの代わりにツッコミ」だと思いつつ進む。ドツボにはまる男を憎めないのと、彼の苦悩(周りに分かってもらえない)に同調しつつ、どんどん感情移入してゆく。

 カタストロフの直前、男が被る獅子舞の内側から見た世界が最も恐ろしい。全世界から疎外される男の苦悩は、脳内をエコーしまくるだけでちっとも外へ出てこない。出るとしても切れ切れの思考の欠片だけで意味をなさない。獅子舞を被ったトンネル越しの世界、これこそ男の世界そのもの。河内弁なんざかなぐり捨てて現在用語でもって全力で語られる。

 男と読み手が一直線に貫かれる瞬間を見計らって、殺戮が始まる。河内十人斬のビート(ホントにこのCDがある)が腕を這い回る、知らないはずなのに踊れるぞジョジョォォォーーッ!彼にしてみればとても明々白々。正義を成し善を遂行するために完全無欠に必要な行動を順番に実行する。やっている行為の一つ一つは輝くほど明白なのだが、思考の断絶がフラッシュのように入り込む。大量殺人者にいたるまでの思考をシミュレートしたんだから仕方ないか。

 ところが読み手であるわたしと極限までシンクロしちゃっているんで、執行シーンでは体を(心を?)もぎ離すのに苦労する。わたしの心に告白が、しっかりと喰い込んじゃっているから、今やめるとこの体は叫び出す。何て叫ぶって? もちろん人間停止ッ!、人間停止ッ!!

 本書を「キ印シミュレーター」と名付けてもいいが、どこから狂っているのかが分からないトコロが素晴らしい。正気と狂気の境目は、グラデーションになっているのだ。



イワン・イリイチの死

トルストイ

 トルストイを昔話として読んだらもったいない。「人生が空っぽだったことに気づいた男の惨めな死にざま」とか、舌なめずりしながら読むべし。

 ほら、あれだ、ムカつく奴は3歳の幼児か、100歳の老人と考えろ、というやつ。その自己中心的な行動も、ワガママな発言も、哀れみと慈しみの生暖かい目で見ることができる(かもしれない)から。

 その応用だ。毒舌を上等としている礼儀知らずや、ケチつけると自分が上がると思い込んでる輩を、「人生の最後になって、人生が空っぽだったことに気づいた」というシチュエーションに突き落とす。楽しいぞ、絶望の中で死んでいくしかなく、誰もその声を聞くこともないことを、痛いほど自覚させるのは。そのモチーフとして最適なのがこれ。「一人称で死んでいくことのシミュレーター」なのだ。

 成功人生を送ってきたが、病を得、どんどん篤くなっていく主人公。家族の冷淡な様子や、ひとりぼっちで惨めな思い、そして、自分の人生がまったくの無駄であったことを徹底的に思い知らされる。恐れ、拒絶、戦い、怒り、取引、抑うつ、そして受容といった典型的な(?)段階を経ながら、死と向かい合う心理的葛藤を容赦なく暴きたてる。死とは他人にだけ起きる事件だとタカくくっていた順番がまわってきたとき、どういう態度をとるのか。

 自分の人生を生きてこなかった彼が、死を自覚することで、ムリヤリ向き合わされる。そして、もう、とりかえしはつかない。もちろん自分と重ねると、絶望感の予告編となって楽しいし、嫌なアイツにあてはめると、この上もなく自分がゲスな野郎に思えてくるのでさらに吉。

 あなたは死ぬし、わたしも死ぬ。だから、これで自分の死をなぞってみよう。



悪魔が教える願いが叶う毒と薬

薬理凶室

 BRUTUSの「危険な読書」特集がぬるいのは、いわゆる「文系」に偏っているから。小説であれマンガであれ、アタマの中であれこれイジって完結しているのがぬるい。もっと、アタマの外に出ようぜ。読んだら行動しようぜ。

 打ちのめされて身動き取れなくなる読書もいいが、読んだら材料を買いに行きたくなり、合成したくなり、塗布したくなり、服用したくなる。世界と自分自身に対して、具体的に働きかけたくなるような衝動を引き起こす本を読もう。たとえば、毒物や爆発物の製造方法を詳細に紹介する『アリエナイ理科の教科書』がいいが、もっと手軽にいけるこいつをお薦めする。

 本書は、サプリメントから処方薬、漢方薬から違法麻薬まで、願いごと別に集めて解説したものである。人の身体の代謝や反応は化学物質により引き起こされる。ということは、化学物質を用いることである程度コントロールできるという発想で、一般的な使用法から「裏の使い道」までを紹介してくれる。

 たとえば、リ●ップには「悪夢」の副作用を引き起こす、ミノキシジルという成分が含まれているという。これを、「死なない程度で悪夢を見る程度」服用する用量と方法が書いてある。あるいは、老いたマウスと若いマウスの血液を交換することで、老いたマウスが若返えったというレポートが紹介される。なんともジョジョの奇妙な実験だが、スタンフォード大学で2011年に実際に行われたものらしい。さらに、ひまし油を使った下痢チョコ(≠義理チョコ)のレシピが載っている。シャレにならないネタ満載だが、その中に、「女の子の匂いを合成する」がある。

 本書を参考に、実際に女の子の匂いを合成した結果は、[女の子の匂いを再現する]にまとめた。「女の子の匂い」ぐらいならカワイイものだが、毒を安価に合成するレシピは大変タメになるだろう。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇

Level2 : この辺からヤバい

 このへんから危険度の高めを紹介していく。フツーに書店に置いてあるやつだが、人によっては起爆装置そのものだったり、別の扉をあけちゃう鍵になるから。相性のいいやつ(悪いやつというべき?)だと、簡単に法を超えることができる。背中を押すというよりも、背中をドンと突いてくれるやつ。



ファイト・クラブ

チャック・パラニューク

 精神去勢された男どもに贈る爆弾。読め(命令形)。

 生きてる実感が湧かないなら、自分が何なのか見失ったら、そしてあなたが男なら、強力に切実にこれを薦める。長いこと絶版状態だったのだが、ようやく新版が出た。やっと安心して言える、読め、とね。

 わたしは、「良い子」から「良い大人」になるように育てられてきた。受験もスポーツも就職も、周囲の期待に応えることばかりに費やされてきた。両親や教師、ひいては上司の期待に応えるために、「わたし」そのものを費やしてきた。良い子、良い社会人、良い夫、良い父、理想のパラメタとの FIT/GAP を埋めるための努力だけが、「努力」だと思い込んできた。そこには「わたし」なんてない。パラメタ化された外側だけしかない。

 この主人公「ぼく」がそうだ。生きている気がせず、不眠症の頭を抱え、ずっと宙吊り状態の人生に嫌気がさしている。そんなぼくと出会ったタイラーはこう言う、「おれを力いっぱい殴ってくれ」。そしてファイト・クラブで殴り合うことで、命の痛みを確かめる。

 最初から最後まで、名前を持たない「ぼく」は、読み手自身を重ね合わせ、注ぎ込むための器だ。そして、「ぼく」を殴るタイラーは、剥き出しの欲望そのものだ。これは、「わたし」だ、精神的に去勢された「わたしの物語」なのだ。この器に注ぎ込まれたアドレナリンは、読み干すそばから体内で沸々と滾っていることに気づくだろう。

 大事なことだからもう一度、読め(命令形)。人生の持ち時間がゼロになる前に。



ウルトラヘブン

小池桂一

 読むドラッグ、しかも「最上級のペーパー・ドラッグ」なり。謳い文句に偽り無し。酔って読むとダイレクトに作用してくるので、かなり危ない。アルコールは感情や感覚の増幅器にすぎないから、飲みながら読むとバッド・トリップになること請合う。呑んでジェットコースター乗っちゃダメのと同じだし、アルコール入りセックスが深いのと一緒。

 近未来――多種多様なドラッグの発明によって、好みの精神世界を体験できるようになったはいいが、違法ドラッグの危険性も桁外れになっている。「人間やめますか」どころじゃない、人間じゃないナニカにまでなろうとするのね。

 見所というか酔いどころは、究極のドラッグを求める主人公のトリップシーン。皮膚の表裏の区別がつかなくなり、体そのものが裏返しになる感覚や、メタ現実を時系列に、しかも何層にもわたって知覚するイメージ群がすさまじい。主人公だけでなく、読んでる自分までもが微分されてる気分になってくる

 さらに、知覚とは、脳により咀嚼されたデータにすぎないことが、よく分かる。あるシーンで、「情報未処理」の状態である赤ん坊そのままの世界を「視」る。遠近感デタラメで、全体は部分を構成しており、平衡感覚は完全に喪われている。一瞬一瞬が妙にクッキリとして、まるで高精密映像のパラパラマンガで現実が成り立っているような、そんな感覚を「理解」できる。

 つまり、ホントはそこまで「解析」できるにもかかわらず、通常の脳だとそこまで追いつけないのだ。だから、無数の諸相の最大公約数的なところをパターン認識して誤魔化している――そんなことを、主人公と一緒になって「理解」する。

 たとえば、いわゆる麻薬中毒と似ているかも。疑似体験として、視界が脈打っているような錯覚なら、↓のyoutubeで確認できる。最後まで画面を見つめた後、モニタの「外側」を眺めてみよう(視聴注意!気分が悪くなったらすぐ止めること)。

 これは、脳による映像情報の処理をいじったもので、網膜に映っているけれど「視」ずに見たことにして補っている部分がうねっているのだ。『ウルトラヘブン』は、これと同じ体感を得ることができる。

 使用上の注意をよく読み、用法・用量を守り、覚悟をキメてご使用ください。



寿司 虚空篇

小林銅蟲

 (たぶん)世界初の、巨大数論マンガ。

 寿司屋を舞台に理不尽な設定から数論が展開される。「大きな数」といえば、無量大数(10^68)、グーゴル(10^100)あたりを知っていたが、そんな「書ける」レベルでないことがすぐに分かる。だが本書はそんな奴を軽々と超えてゆく。

 最初のあたりは懇切丁寧にページを割いて説明してくれるが、グラハム数、フィッシュ数、S変換、SS変換、s(n)変換、m(n)変換、m(m,n)変換と、ざっくりと”巻き”で加速してゆくにれ、わたしのアタマがついてこれなくなる。たぶん作者、理解はしているものの、初心者に対し、何をどう説明すればいいか分かっていないのかもしれぬ(ここはわたしが自学するべきだろう)。

 巨大数を「書き表す」というよりも、それを示す数式がものすごい勢いで再帰・インフレ化する。大きくなるというよりも、爆発するというイメージ。「イメージをイメージで超えていけ」というアドバイスがないと放り出しそう。ちゃんと読んだら頭がおかしくなる。でもおかしくなりたい人が読むべき。

 面白いのは、このイメージを保ったまま、この宇宙に目を向けると、とてつもなく小さく見えること。ラストのこの会話なんて、まさにそう。

 「この宇宙の年齢が138億年ぐらいだろ
  しかし もっとずっと遠い過去や未来はどうなっている?」

 「宇宙誕生よりも前の時間を考える意味はないですよ」

 「この宇宙だけならそうだ」

 「宇宙たくさんあるかもしれないだろ
  というか
  この宇宙がもっとなんかこうビッグな次元の
  ”影”みたいなものだとしたら
  ビッグな時間みたいなものも
  ありそうなもんだろ」

 「そのビッグ巨大ホワットが仮に
  有限だが異常な大きさを持ち
  わしらが扱うような巨大数のオーダーに
  迫るものだったとしたら
  この宇宙そっくりなやつが100個あるレベルの偶然くらい
  アホほど起こりそうなもんではないか」

 「我々のスケールの時間と空間を
  ものっそい細かく分割した部分から世界を眺めたとき
  たとえば
  ふぃっしゅ数バージョン1の逆数のオーダーから見た
  この”原宿”という世界が......
  むしろ”原宿”として知覚される方が
  難しいのではないか?」

 「世界は無数の蛇足からできているのだ」

 これは、ループ量子重力理論を解説した『すごい物理学』と同じ場所に立っている。逆なんだ。「ここ」から積み上げ分けて分かろうとするのではなく、アタマが擦り切れるぐらいのイメージをイメージで超えた場所から、「ここ」を見る行為だ。

 世界の理(ことわり)を目的論的に観ようとしたり、ニュートン的世界観を超え、ファラデー、マクスウェルを経て、アインシュタインと量子力学で、時間と空間、場と粒子が統合されていったプロセスを追いかけていくと、科学は、「世界がどうなっているか」と「世界がどうあってほしいか」の間で揺れ動いていたことが分かる。巨大数は、これらが見通せる場所に立たせてくれる。

 アタマを本質的に変えてしまうマンガ。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇

Level3 : この辺からエグい

 そろそろグロ系も混ぜようか。

 どんなに高尚な思想や理想を持っていようとも、われわれは歩く糞袋であり、消化器官に手足が生えた存在にすぎない。このシンプルな事実に目を向けるためには、時に強力な暴力を必要とする。人身事故の現場を見てみるといい(グモとかゴアのキーワードを混ぜると良い)。血液は線路の茶褐色と同化するが、キムチをばらまいたような内蔵がきれいだから。電車に飛び込むのは大変迷惑だから、小説や漫画で代替しよう。



ザ・ワールド・イズ・マイン

新井秀樹

 「デビルマン」級、これ以上の評を持たない。それが分かるなら、そして本書を読んでいないなら、幸せモノ。読め(命令形)。あらすじやら考察は無用、素のまま手に取って読め。ただし猛毒。



死にかた

筒井康隆

 グロ系でも比較的マイルドな、筒井康隆の「死にかた」なんていかがだろう。

 これは、突然オフィスに鬼が現れ、うろたえる人たちを次々と殺していく話。鬼を無視する人、責任転嫁する人、説得を試みる者、色仕掛けで篭絡しようとする女、逃げようとする人など、さまざまな人が撲殺されてゆく。

 突然、理不尽な状況に追いやられた人間の小賢しさが笑えるし、そんな様子を唖然と眺めていた主人公が最後の一人となり、鬼と向き合ったとき、どういう運命になるのか? オチが面白いやね(後味が悪いという人もいるが)。

 さまざまな死にかたがあるが、死んでしまえば肉塊にすぎぬ。そこまであがくのが人間なのであり、いったんそれに気付いてしまったのなら、人生なんて死ぬまでのひと踊りやね。



獣儀式

友成純一

 「死にかた」をスケール&グレードアップしたのがこれ。「鬼たちが冥土から溢れてこの世界に出現して以来、はや一ヶ月になる」から始まる、読む地獄。人間なんて、糞袋。まさに劇物。まさに毒書。バカバカしさを暴力エロスでねじ伏せる、奇書というより狂書。

 こんなにエロくてグロくて血みどろで、腐肉とウジ虫たっぷりの、酸っぱい胃液と激しい勃起に悩まされたやつはない。いろいろ読んできたつもりだけれど、これほど鬼畜劣情な小説は、ない。スプラッター小説なら、クライヴ・バーカー『血の本』シリーズや、綾辻行人『殺人鬼』、あるいはリチャード・レイモン『野獣館』有名だが、本書はこれを悠々と超えている。

 どんな内容か? まあ見てくれ。

怪鳥めいた叫びが、口から洩れた。
だが洋子の耳には、自分の悲鳴も聞こえなかった。激痛に、意識が遠のいていた。
徒労にも全身を踏んばってしまう。そのせいで顔が上向いた。口と目が、大きく開いた。
腰が杭を飲み込む動きを見せた。猟鬼が両足首をひっぱり、その動きを加速する。洋子は反射的に括約筋を絞めていた。それがいっそうの激痛をもたらした。
括約筋もすぐに裂け、使い物にならなくなった。体重のせいで杭が突き入る自然な動きに、身をゆだねるのみ。杭の侵入に合わせて鈍痛が体内を揺する。
ブツン、ブツンという異様な震動がこみあげてくる。
「あは、あはは」
痙攣的な笑いだった。内臓の破れる反動で笑いの声質が微妙に変化する。杭を飲みこむようすを、洋子は全身でばかりなく、声でまで表現しているのだ。

 何されてるのかというと、地面から突きでた、とがった杭の上に、洋子さんが肛門から串刺しにされているの。もちろん女の体重じゃちゃんと入らないから、鬼が、彼女の両足をつかんで引き下ろす。洋子さんは既に発狂しているので、「肛門ではなく膣口に刺して」と腰をグラインドさせるが叶わず、残念無念。

 んで、うまい具合に、肛門→直腸→横隔膜→咽喉、と順々につき破って、最後は口から先端が出てくる。「ブツン、ブツン」は、横隔膜の破れる音なんだって(映画「食人族」のアレね)。「食人族」と違うのは、一本に一人ではなく、先端が出てきたら、その上に次の人を肛門から… を繰り返しているところ。

 さらに、さっきまで洋子さんとヤりまくっていた彼を通り抜けた杭の上に彼女がまたがっている。だから、彼の死に際は壮烈な眺めだよ。なんせ自分の口から突き出た杭に彼女の肛門が迫ってくるわけなんだから。そして、彼女の内臓液を口いっぱい頬張りながら絶命していくわけだから。もちろん彼の「下の人」もいるにはいるが、ずいぶん前なので、ぐじゃぐじゃのデロデロに腐った人塊てんこもりになっている。すっごーい!

 だけど、こ れ が 序 の 口 な。乱歩、澁澤、サド、筒井と、ジョージ・ロメロとダリオ・アルジェントの作品をこねくり回し・突き混ぜて、出てきた赤黒い何かを煮込んだものを飲み込む感覚。読者を気分悪くさせようとするサービス精神旺盛で、オエッて気分を口一杯に味わえるぞ。強い磁力を持っており、読後、自分の倫理パラメーターが狂うことをを請けあう。



隣の家の少女

ジャック・ケッチャム

 自分の肉体を強烈に自覚する手っ取り早い方法は、ナイフで切り裂いてみることだ。傷つき、血があふれ、痛みを感じたところが「肉体」だ。同様に、心がどこにあるか知りたいなら、『隣の家の少女』を読めばいい。痛みとともに強烈な感情――吐き気や罪悪感、汚されたという感覚、ひょっとすると快楽――を生じたところが、あなたの「心」だ。この小説はナイフだ。これを読むことで、あなたの心に刃筋を突き立て、どこから痛みが生じているかが(どこからが”痛い”か)分かるようになっている。

 あらすじは単純だ。主人公は思春期の少年。その隣に、美しい姉妹が引っ越してくる。少年は姉のほうに淡い恋心を抱きはじめるのだが、実は彼女、虐待を受けていた……という話。少年は目撃者となるのだが、「まだ」子ども故に傍観者でいるしかない。しかし、「もう」おとな故に彼女が受ける仕打ちに反応する。

その反応は、罪悪感を伴う。「読むのが嫌になった」「恐ろしくなって頁がめくれない」が"正常な"反応だろう。だが、背徳感を覚え始めたところが、彼の、そして読者の心のありかだ。そして、その感覚に苛まれながら、生きていかなければならなくなる。

 読書が登場人物との体験を共有する行為なら、その「追体験」は原体験まで沁み渡る。地下室のシーンでは読みながら嘔吐した。その一方で激しく勃起していた。陰惨な光景を目の当たりにしながら、見ること以外何もできない"少年"と、まさにその描写を読みながらも、読むこと以外何もできない"わたし"がシンクロする。見る(読む)ことが暴力で、見る(読む)ことそのものがレイプだと実感できる。この作品を一言で表すなら「読むレイプ」

 見ることにより取り返しのつかない自分になる。文字通り「もうあの日に戻れない」。しかし、既に読んで(見て)しまった。それどころか、出会いそのものを忌むべき記憶として留めておかなければならない。わたしたちは、読むことでしか物語を追えない。作者はそれを承知の上で、読むことを強要し、読む行為により取り返しのつかない体験を味わわせる。ここが毒であり、「最悪の読後感」である所以。

 さらに、これは終わらない。酷い小説を読んで気分が悪くなった。でも本を閉じたらおしまいで、現実に戻れる?待てよ、現実のほうが酷いんじゃないのか? そもそもこれ、実際に起きた[バニシェフスキー事件]を元に書かれたものだ。ゲームが陰惨化し、陵辱がどんどんヒートアップし、最後には……という実話は、恐ろしいことに、珍しいことではない。

 読むレイプを、ご堪能あれ。



児童性愛者

ヤコブ・ビリング

 もとは[劇薬小説を探せ!]という企画で、皆さまのオススメを片端から読んできたのがきっかけなり。怒り、恐れ、憎しみ、悲しみ……負の感情を与える、特に読後感がサイアクの気分を味わえる、そういう小説を探してきた。読むだけで嫌悪感、嘔吐感、恐怖感を掻き立てる、後味最悪の、イヤ~な気分にさせる小説だ。「感動した」「勇気をもらった」小説なんていらね。

 その暫定一位が『隣の家の少女』なり。たいていの小説はこれより下か、うんと下になる。だから、皆さんに問いかけるのも簡単だった。「『隣の家の少女』よりサイアクな作品を教えてください」って言えばいいのだから。

 ところが、「隣の家の少女」を上回る劇薬を教えてもらった。それがこれ。『隣の家』は読んでる途中で猛毒に気づくが、本書は読みきった後にジワジワとクる。ニュースで"そういう事件"に出くわすと、たとえようもない絶望感に天を仰ぎたくなる。時間が経てば経つほど毒に蝕まれる。読むことが悪夢の始まりであり、呪いとしかいいようがない。

 エログロは無し。残虐シーンも無し。「読むスプラッタ」は楽しく読めたのに、本書は気分が悪くなった。特に、ある写真の真相が暴かれる場面は、予想どおりの展開であるにもかかわらず、読みながら嘔吐…で、ラストは絶望感でいっぱいに。

 「小さな子どもと仲良くなること」を生涯の目標にしている男たちがいる。柔らかくハリがある小さな体を自由にしたい欲望を抱いている。バレると糾弾されることを承知しているが故に、ひた隠しにし、表面上は普通の生活を送っている。男たちは、これは「嗜好」であり、おっぱい星人だとかアナルファックが好きだとかいうのと同列に考えている。

 したがって、男たちはおっぱいオバケやアナルを好む女と同様に、自分の嗜好を満足させてくれる子どもがいると本気で考えている。ただし、バレないようにしなければならない。

 同様に、彼らは自分を「世間から偏見を受けている者」とみなし、「自分の嗜好を表現する権利」を主張している。さらに、子どもとの性愛が悪いという社会の偏見を除くべきだとも主張している。それが、デンマークの児童性愛協会という団体。

 1999年、この児童愛好家団体は、結社の自由を盾に公然と活動をしており、児童性愛者(ペドファイル)を「変質者」とレッテルを貼る社会に抗議し、カウンセリング等による「治療」は無意味だと主張する。それは「嗜好」なのだから。

 本書を書いたのは、デンマークのTVジャーナリスト。実際にペドフィリアの取材の過程で得た体験が小説仕立てになっている。

 著者自らが児童性愛者になりすまし、その会合に潜入取材をはじめる。ジャーナリストである身分を隠しながら、「児童性愛を隠す一般人」を装う必要がある。二重の意味でバレないように細心の注意を払う。その甲斐もありグループにとけ込み、ペドフィリアたちと親しく交際するようになる。

 そこで明らかにされる実態は、極めて普通で異常だ。普通な点。彼らはペドフィリアという一点を除き、とても普通。老いも若きも、金持ちも貧乏も、高い教育を受けた人も無学な者もいる。そこには、殺人鬼もいなければ虐待する親もいない。そして、異常な点。彼らの主張はどうしても首肯できない。延々と展開される言い分(?)を要約すると、「なぜ児童性愛だけが排斥されるのか?」に尽きる。

 10才の男の子とヤリたいだって? 変態だ! と指差し、異常だ病気だと寄ってたかって「治癒」しようとする。なぜ?  ゲイとどう違うのか? ノンケでなければ「病気」なのか? 一部の国ではゲイは市民権を得ているではないか? ペドだって同じだ。われわれが匿名なのは世間が許さないからだ…云々。

 著者は嫌悪しながらも同化しなければならない。バレないためにも。読み手はさらに嫌悪感を募らせるはず。著者の嫌悪のみならず、潜入現場のペドがグループ向けに発言する論理に付き合わされるから。

 さらに、言っていることはロジカルに正しいため、よけい腹立たしくなる。読み手の倫理基盤が揺らぐことはないだろうが、ペドフィリアとの決定的な溝が"ない"ことがイヤというほど見せ付けられる。彼らを「異常」とレッテルを貼り、排除しようとすることが本質的におかしいことがよく分かる(←だからといってペドフィリアを認めるわけではない)。

 これらを否定することは簡単だ、目をふさいで耳を閉じればいい。あるいは、最初から読まなければいいのだ。これはネタではない。文字通り、冗談じゃない。

 しかしわたしは読んでしまった。もっと酷いのは、ラストで思い知らされたことだ。目を背け、耳をふさいでいたかった事実を注入された後に、結局、出発点に放り出されたのだ。何一つ変わっちゃいない。こんなに惨い性暴力禍を知った後、どうすることもできないことを思い知らされる。こんな事実なら、知らなければよかった……痛いぐらいに後悔している。

 これが「物語」ならよかったのに。



ブラッドハーレーの馬車

沙村広明

 「赤毛のアン」を陵辱する、読み手の心を引き裂く話。Wikipediaによると、「赤毛のアンのような作品を描きたい」という作者の希望により連載が開始されたそうだが……

 はじまりは、孤児院。身寄りのない少女たちの憧れは、ブラッドハーレー歌劇団。1年に1度、容姿に恵まれたものが選ばれ、資産家・ブラッドハーレー家の養女として迎えられる。貴族としての生活や、歌劇団で華々しく活躍することを夢見る少女たち。

 本気で読む気なら、予備知識はこのくらいで。ただし、「劇薬注意」とだけ添えておく。帯の説明は地雷なので、外しておこう。沙村広明版「キャンディ・キャンディ」のつもりで扉を開いた。おかげで、こうかはばつぐんだ。

 第一章を読んだだけで、みるみる顔色が変わっていくのが自分でわかる。血の気が引いて、戻ってこない。体が冷たくなってくる。どうやったって「おもしろがって」読めないし、フィクションだよね、ネタなんだよねとつぶやきながら見る・観る・視る――目が張り付いて離れない。陵辱の陰惨さだけでなく、よくぞこんな話をつくりおったとため息がとまらない。



四丁目の夕日

山野一

 BRUTUS「危険な読書」特集で、山野一『混沌大陸パンゲア』が紹介されていた。未読だったので喜び勇んで読んだのだが、安定の山野一だったなり。貧困と差別、暴力と狂気というモチーフが、繰り返し繰り返し丹念に描かれることで、異常がフツウになる。と同時に、普通であることのありがたみが身に染みるようになる。『パンゲア』は絶版状態で高値がついてしまっているので、ここでは比較的手に入りやすい『四丁目の夕日』をご紹介。

 昔を美化して懐かしむのは勝手だ。脳内妄想タレ流し与太は馬鹿の特権だから。だが、「だから今はダメだ」の偽証拠にしたり、嘘目標にするのは、馬鹿を通り越して犯罪だ。レトリックに騙されないために、『四丁目の夕日』を思いだそう。

 「走る凶器」という言葉を思いだそう。ピーク時は年間一万六千人が交通事故で命を失い、交通戦争という名にふさわしい時代だった。車の残骸とアスファルトの黒い染みの写真が社会面を飾っていた。「登下校の集団に突っ込む」「轢いたことに気づかず走行」「反対車線に飛び出し正面衝突」は、今だと華々しく全国ニュースになるが、当時は日常茶飯事だったことを思いだそう。

 「四大公害病」、覚えているよね。あの頃は、土も水も空気も汚染されていた。どれも悪質で悲惨な「公的犯罪」だったが、当初は「ただちに影響はない」と切り捨てられていた。鮮明に覚えているのは、泡立つ多摩川のヘドロと畸形魚。今と比べると、同じ惑星とは思えない。

 「通り魔」を思いだそう。包丁や金槌で、主婦や子どもを狙う「まじめでおとなしい人」を思いだそう。住宅街の路面に点々と滴る跡を舐めるような映像を飽きるほど見た。今のように、同じ事件をくり返し流すのではなく、違う殺人事件が連続して起きていた。ニュースが別の通り魔を呼び寄せていたのだ。「カッとなって人を刺す」が動機の常だった。

 「昔は良かった」補正を外し、目を背けていたセキララ実態を無理矢理ガン見させるのは、『四丁目の夕日』だ。工場労働者の悲惨な現実と絶望の未来は、読めば読むほど辛くなる。絵に描いたような不幸だが、これがあたりまえの現実だった。読むことはオススメできない劇薬だ。人によるとトラウマンガ(トラウマ+マンガ)になるかもしれぬ。



夜のみだらな鳥

ドノソ

 愛する人をモノにする、究極の方法をご存じだろうか。

 それは、愛するものの手を、足を、潰して使えなくさせる。口も利けなくして、耳も目もふさいで使い物にならなくする。そうすれば、あなた無しではいられない身体になる。食べることや、身の回りの世話は、あなたに頼りっきりになる。何もできない芋虫のような存在は、誰も見向きもしなくなるから、完全に独占できる―――「魔法少女マギカ☆まどか」で囁かれた誘いだ。

 悪魔のようなセリフだが理(ことわり)はある。乱歩『芋虫』の奇怪な夫婦関係は、視力も含めた肉体を完全支配する欲望で読み解ける。彼女がしたことは、「夫という生きている肉を手に入れる」こと。早見純の『ラブレターフロム彼方』では、ただ一つの肉穴を除き、誘拐した少女の穴という穴を縫合する。光や音を奪って、ただ一つの穴で外界(すなわち俺様)を味わわせる。

 感覚器官や身体の自由を殺すことは、世界そのものを奪い取ること。残された選択肢は、自分を潰した「あなた」だけ。愛するか、狂うか。まさに狂愛。

 ドノソ「夜のみだらな鳥」では、インブンチェという伝説で、この狂愛が語られる。目、口、尻、陰部、鼻、耳、手、足、すべてが縫いふさがれ、縫いくくられた生物の名だ。インブンチェは伝説の妖怪だが、小説世界では人間の赤ん坊がそうなる。老婆たちはおしめを替えたり、服を着せたり、面倒は見てやるのだが、大きくなっても、何も教えない。話すことも、歩くことも。そうすれば、いつまでも老婆たちの手を借りなければならなくなるから。成長しても、決して部屋から出さない。いるってことさえ、世間に気づかせないまま、その手になり足になって、いつまでも世話をするのだ。

 子どもの目をえぐり、声を吸い取る。手をもぎとる。この行為を通じて、老婆たちのくたびれきった器官を若返らせる。すでに生きた生のうえに、さらに別の生を生きる。子どもから生を乗っ取り、この略奪の行為をへることで蘇るのだ。自身が掌握できるよう、相手をスポイルする。

 読中感覚は、まさにこのスポイルされたよう。「夜のみだらな鳥」は、ムディートという口も耳も不自由なひとりの老人の独白によって形作られる……はずなのだが、彼の生涯の記録でも記憶でも妄想でもない独白が延々と続けられる。話が進めば理解が深まるだろうという読み手の期待を裏切りつづけ、物語は支離滅裂な闇へ飲み込まれるように向かってゆく。

 呑まれて帰ってこれなくなる悪夢。肉体・精神の双方に対してダウナー系ダメージを喰らわせてくれる。生きた迷宮をさまようような、誰かの悪夢を盗み見ているような毒書になる。おぞましい傑作。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇

Level4 : ここからアカン

 もうやめたほうがいい。戻ってこれなくなる。人が狂わずすんでいるのは、余計なことを考えないから。既に先人が考え抜いて、「人の範囲」をある程度踏み固めてくれたから。欲望であれ好奇心を満たすために、その範囲を超えるのは、自分で考え始める必要がでてくるから。それは、やってもよいことなのかと。



城の中のイギリス人

マンディアルグ

 エロとグロと悪意を煮詰めた、最高のポルノグラフィ。「できるだけ残酷で、破廉恥で、エロティックな物語を書きたい」というのが作者の意図なんだが、見事に成功している。

 例えば、生きのいいタコがうじゃうじゃ蠢く水槽に少女(13歳処女)を投げ込んで、体中に貼り付かせる。タコとスミまみれの彼女(顔にもタコべったり)を犯す→鮮血とスミと白い肌のコントラスト。その後、ブルドックに獣姦。犬のペニスは根元が膨張するので、ムリに抜くと穴が裂けるんだが、ちゃんと再現してる。ぜんぶ終わったらカニの餌。

 あるいは、氷でできたペニス(長さ39cm、亀頭周囲25cm)を肛門にねじ込む。この描写がイイ、感動的ですらある。暖かい臭いを感じた素晴らしいシーン。

肛門と割れ目の窪みに油をそそいでから、私は潤滑油でしとどに濡れた人差指を近づけた。するとなんたる不思議であろう、今度は氷塊ではなく、人間の肉が近づいてきたことを察したのか、薔薇の花はただちに拡がり、口のように開き、指の圧力にたちまち屈したのである。いや、というよりもむしろ、私の指をくわえこんだのである。

 食糞飲尿あたりまえ、悪趣味、倒錯、陵辱、苦痛、加虐性欲の極限。大切なものをいちばん残忍なやり方で破壊する(ラストの"実験"はマジ吐いた)。性の饗宴というよりも、むしろ性の狂宴。正直、そこまでせにゃ屹立しないなんて、異常!→しかし、この「異常性欲」は城の主にとってみれば最高の美辞。

 鋭利なカミソリで皮脂まで切られ、果物のようにクルリと皮を剥かれた顔を眺めながら、女は濡れるし、男は立つ。吐きながら屹立してることは否定しようがない。城の主のセリフが刺さる。

 「エロスは黒い神なのです」



バージェスの乙女たち

蜈蚣Melibe

 ナボコフ『ロリータ』の「生きた肉鞘」を彷彿とさせる。あるいは、『家畜人ヤプー』でもいい。「バージェスの改造乙女」と呼ばれる少女たちが、いったい何をどのように改造したか? これを知ったとき、怖気を震うとともに、生きた肉鞘とは彼女らのことだと腑に落ちた。

 四肢切断やら内臓性交といったエグい系に慣れていても、この発想は無かった。ある意味ワンアイデアの一発モノとはいえ、そのアイデアがスゴすぎる。タイトルの「バージェス」は、5億年前のカンブリア期におけるバージェス頁岩動物群に由来する。

 既存の生物相の枠組みには収まりきれない、奇妙奇天烈動物のオンパレードなんだが、メタファーになってない。よくぞ考え付いたといえば誉め言葉になるが、エロスのためなら「なんでもあり」で許される範囲を凌駕している(やりすぎ)。

 汚物愛好と人体改造の極北に『家畜人ヤプー』があるならば、そのさらに北にあるのが本書なり。一切の予備知識なしに開いたとき、思わず目を背けましたもの。パートナーとのプレイに首輪を装備させる延長に在るかと思うと、自分で自分にゾッとなる。わたしが何が好きかを知って。



デス・パフォーマンス

スチュアート・スィージィー

 命がけのオナニー・レポート。

 「危険な自慰」や「身体改造」を追求した結果、死亡したり重い後遺症になった事例を、検証写真つきで再現している。もとはメディカルレポートや検死報告を元にしており、淡々とした筆致が異常性を際立たせている。

 快楽を追求するあまり自慰死に至った話は、おぞましく、こっけいで、かなしい。たとえば、32歳の男性。3児の父で、ベッドの上で死亡しているのを11歳の娘が見つけた事例だ。発見時、ストッキングと女物のセーター、ブラジャーを身につけていたという。やわらかいベルトで両手を縛り、口の中には生理用ナプキンを含み、頭と口にはピンクのブラジャーが巻きつけられていた。丸出しになった陰嚢にはタバコの火が押し付けられ、腫れあがっていたとある。

 他にも、ドアノブやクローゼットにロープを引っ掛けて「擬似首つり状態」で"ハイ"になりながら自慰をしているうちに、戻ってくるタイミングを逃し、文字どおり「逝ってしまった」事例がたくさん出てくる。

 首つりオナニーだけでない。トラクターや掃除機を使った斬新な方法が提示され、その犠牲者が語られる。古典的なコンニャクや、カップヌードル、ポッキーならチャレンジしたことがあるが、可愛いものだ。これは限度を超えている。トラクターにロマンティックな感情を抱いた男が、女装して油圧シャベルに逆さ吊りになっている最中にバケット操作を誤り、圧死した事例。掃除機を使った自慰+テーブルの足を抜き取って肛門に差込み、全裸+パンスト状態→うつぶせになって感電死しているところを妻に発見された事例。

 何ヶ月もかけてゆっくりと自己去勢した男の話や、自宅でドリルで頭蓋貫通することでニルヴァーナを目指す女、自分で眼球を摘出してしまった少年の話をきいていると、わたしの想像力もまだまだだな、と思えてくる。

 命を賭けたオナニーが、ここにある



死体のある光景 デス・シーン

キャサリン・デューン

 カリフォルニアの殺人捜査刑事が個人観賞用に収集した膨大な「死体のある風景」のスクラップ。趣味とはいえ、モロ出し死体画像の鑑賞は、ずいぶん変わっておりますな。

 ページを繰る。

 こちら(カメラ)を向いてはいるものの、もう命がない顔を、まじまじと見る。

 見られることを意識しなくなった体と、そこに刻まれた痕を見る。メッタ刺しにされた挙句、深深と抉られた売春婦の腹部と、剥き出しにされた陰部を見る。若く美しい女の裸が、森の中で宙吊りになっているのを見る。爆発した上半身と、意外にちゃんと付いている足を見る。はみ出した大腸を見る。はみ出た脳を見る。首吊り自殺現場を見る。ショットガンで文字通り蜂の巣となった痕を見る。

 カラーじゃなくて、よかった。

 これだけ大量の異常死体を執拗に見つづけると、いつしか慣れてくるものだ―― というのは激しく間違っており、絶対に慣れることはないし、吐き気もおさまらない。ただ、実にさまざまな死に方で人は命を奪われるのだなーと感慨深い。まだ経験が無いので、わたしは死を象徴的に語りたがるが、ここの死体はとても具体的。

圧死、焼死、爆死、轢死、縊死、壊死、煙死、横死、怪死、餓死、狂死、刑死、惨死、自死、焼死、情死、水死、衰死、即死、致死、墜死、溺死、凍死、毒死、爆死、斃死、変死、悶死、夭死、轢死、老死、転落死、激突死、ショック死、窒息死、失血死、安楽死、中毒死、傷害致死

 まさに死のオンパレード、無いのは「過労死」ぐらいやね。被写体として、「本」というオブジェクトに納められた死体を、生者という絶対的に優位な立場から見る。ちょっと吃驚したような顔を見る。本来隠されている(べき)ものが白々と暴かれている。腐った体は、腐った肉でしかない。

 優越感? いや、いずれわたしも死ぬ。こう撮られるようになるかは分からないけどな。それでも、選べるものなら、もっと穏やかな死にしたいもの。いま自分が生きているありがたみを、死体を通じて思い知らされる一冊。



ソドムの百二十日

マルキ・ド・サド

 上には上がいる。しかも、かなり上で。一言なら、「読む拷問」。男色、獣姦、近親相姦。老人・屍体に、スカトロジー。読み手にとてつもない精神的ダメージを与え、まともに向かったら、立てなくなる強烈な兇刃に膾にされる。イメージを浮かべながら読むと、想像力が絶叫する読書になる。

 鼻水吸引や髪コキ、愛液フォンデュ、ミルク浣腸は序の口で、真っ赤に焼けた鉄串を尿道に差したり、水銀浣腸で腸内をごろごろする感触を楽しむ。抜歯や折骨を趣味とする男の話や、女の耳や唇を切断したり、手足の爪をムリヤリ剥がす話が喜喜として語られ、実践される。眼球を抉ったり、乳首や睾丸を切断したり、嗜虐趣味極めすぎ。

 彼らにとって他者とは、壊す対象になる。犯しながらノコギリでゆっくり首を切断したり、恋人同士を拉致して、彼女の乳房や尻を切除して調理して彼氏に食べさせたり。母に息子を殺させたり、塔の上から子どもを突き落とす『遊び』や、むりやり膣に押し込んだハツカネズミや蛇が娘の内臓を食い破る様を眺めるなど、よくぞ想像力が保つなぁと感心する(同時に、ちゃんと読んでる自分がたまらなく嫌らしい)。

 本書は、性倒錯現象の集大成ともいえる。自己愛、同性愛、小児愛、老人愛、近親相姦、獣姦、屍体愛、服装倒錯、性転換といった現象を、露出症、窃視症、サディズム、マゾヒズム、フェティシズムといった性手段で果たそうとする。では、完全なる狂気から成っているかと思うと、そうではない。極端は異常性欲を、極めて冷静沈着に書いているからね。

 想像力が凶器となる読書。目を疑え、そして自分を壊せ。



ジェローム神父

マルキ・ド・サド

 『ソドム』は質量ともに大容量なので、正直食傷するかもしれぬ。もっと手軽に「危険」を味わいたい。そんな人にはこれを薦める。澁澤龍彦=マルキ・ド・サドと、幻想画家・会田誠の恐ろしいコラボレーション。ふつうの人は避けたい挿絵とストーリー。

 たとえば表紙。ポニーテールの少女(全裸)が、アッケラカンとした笑顔で見上げている。ただし両手足は切断されており、ぐるぐる包帯からにじむ血肉が生々しい。あるいは挿絵。少女の腹を指で押すと、割れ目からイクラがぽろぽろと出てくる「とれたてイクラ丼」は目を見張る。

 もちろんサド・テイストも凄まじい。冒頭、恋人どうしの若い男女を人気のないところへ連れ出し、まず男を射殺。そして女を姦するのだが、ただじゃすまないのがサド節。小枝やトゲのある蔓で女の柔らかい場所を刺したり痛めつける。男の死体を切り裂いて、そこから心臓を抜き取り、娘の顔を汚す。あまつさえ心臓の幾片かを無理やり娘の口のなかに押し込んで、噛んでみろと命令する…

おれは手に短刀を握っていたが、いよいよ完頂の瞬間までは彼女を殺すまい、と思っていた。おれの完頂の神聖な溢出と、おれの相手の女の断末魔の吐息とが混ざり合うことを思うと、ぞくぞくするような愉悦を覚えずにはいられなかった。

彼女がこの世のもっとも残酷な瞬間を経験するであろうとき、おれはこの世のもっとも甘美な瞬間を味わうのだ、と考えた。

 で、胸といわず下腹部といわずメッタ刺しにするわけだ、自分がイク瞬間に。悶死する肉体の収縮が、えもいわれぬ恍惚感をひきおこすそうな。

 可憐な少女をたぶらかし、文字通り「獲物」として扱うジェローム神父。中2の脳内自己中ではなく、徹底的に考え抜き、むごたらしい実体を伴う。彼が、「おれが地球上の全人類を、もっぱらおれの快楽に奉仕すべき存在としてしか認めていないことは申すまでもあるまい」と言い切るとき、戦慄するよりも感心するばかり。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇

Level5 : ただ狂え

 「一期は夢よ ただ狂え」は閑吟集の句なのだが、団鬼六のほうに引っ張られる。人生はひと夢のどきごとなり。没頭せよ、ハマれ、集中せよ。何に? そりゃ、我を忘れられる何かにだ。読むことは狂うことであり、読書は毒書よ、ただ狂え。



○○とぼくらの。

クジラックス

○○とぼくらの。 社会的倫理的にアウトであり、最低で最悪ながら伝説となっている傑作。

 ひと夏のあいだ、特定年齢層の女の子を凌辱しながら全国を旅するクズ2人組の話や、便所飯→便所行為with幼女に至る話、盲目の男と少女のふれあい、裁判のプロセスで行為を厳密に再現させるディストピアなど、読んだあともイヤ~な気にさせる気満々なのが良い。読んでるうちの背徳感にヒリヒリさせられるのと、うっかりこれで抜こうものなら、後味の悪さがハンパなくなる。

 これ、SFにしたりファンタジーにすることで、「逃げ」ることもできたのに、真正面に日本社会に突きつけているのが悪趣味なり。エロマンガというフォーマットで「消費」させないように物語を先回りさせており、手にする人は、相応の覚悟が必要かと。



真・現代猟奇伝

氏賀Y太

真・現代猟奇伝 読・む・な。まさしく毒書となることを約束する。マンガだから「どくいりマンガ」。まず、読んだことがある、というだけで性格を疑う。ましてや「大好きだー」なんていうやつぁ、イカれているよ、わたしは好きだけど。

 おかげで、内臓ファックやら顔面崩壊といったワザを知ることになった。腹を裂いてヤるなんて、おかしいよ。吊り・焼鏝・股裂・食糞・腹腔ファック・串刺・正中切開・脳姦・解体刑…あらゆるキチガイが詰まっている逸品。

 女子高生コンクリート詰め殺人事件は、ページをめくるのが恐くてたまらなくなった。描写や展開が恐いのではなく、ページをめくろうとする自分の壊れっぷりにおののいたのだ。「おかしい」自分を充分に意識して、読んだ。食人社会ネタはブラックユーモアだと誤解して、ゲタゲタ笑った自分が恐ろしい。壊れやすいのは人体ではない、わたしだ。読めば”おかしく”なれるマンガなり。



ラブレターフロム地獄

早見純

ラブレターフロム地獄 リョナ系劇薬マンガ。人の営みとしての性行為があり、子孫が存続していくにもかかわらず、ルールや束縛によって欲望を押さえつける。押さえつけられた欲望はどうなるか? を徹底的につきつめると、こう爆発することがわかる。

 屍体を相手に思いを果たす話であれば、江戸川乱歩『蟲』や上田秋成『雨月物語』の「青頭巾」を思い出す。だが、欲の深さ業の黒さは、これが遥かに上回る。動機は性欲なのに、「歪んだ」ものではないことろがポイント。ピュアすぎる、まっすぐすぎる欲望が、あらゆるルールや束縛を突破して、「ぜったいにやってはいけないこと」を思う存分果たす。

 たとえば、ただ一つの穴を除き、誘拐した少女の穴という穴を縫合する。光や音を奪って、ただ一つの穴で外界(すなわち俺)を味わえというのだ。感覚器官や身体の自由を殺すことは、世界そのものを奪い取ること。残された選択肢は、自分を潰した「あなた」だけ。愛するか、狂うか。



ネクロフィリア

ガブリエル・ヴィットコップ

 道徳も反道徳も、単なる程度問題じゃね? 善なんて量的に見て外野が判定するものじゃないか――といった、陳腐な結論に至る。だからといって書いてあることを実行しようなんて気は起きないけれど、それでも自分のリミッターカットができて満足しちゃう読書に相成る。

 ここで描かれるのは、「愛」。ただし屍(しかばね)を愛する男の話。彼は屍体にしか性的興奮を覚えず、葬儀に列席しては墓地に通い、屍体を掘り出してきては愛するのだ、その形が分からなくなるまで。日記体で淡々と描かれる"非"日常は、すべて屍体の話題ばかり。どうやって愛して、どんな匂いを放ちつつ、どのように崩れていくかが、観察日記のように綴られている。描写のひとつひとつは強い喚起力に満ちており、慣れない読み手に吐き気を催させるかもしれない。

 異常なのは主人公で、読み手は「正常」であると安心しているとあぶない。屍体愛好者は心の断絶を選び取ってしまっており、その情欲は説明できないところへ超越している。いきおい読み手は、日記――彼の独壇場だ――に寄り添いながら進めていくほかない。相手が抵抗力を持たないオブジェであるだけで、サディズムや暴力主義とは離れた、ただ対象へのひたむきな姿がそこにある。あきらかに腐っている少年の体とともに熱い湯船で戯れる様子なんて強烈だ。

少年の身体は刻一刻とやわらかくなり、腹は緑色になって崩れ、匂いのきつい腸内ガスでパンパンに膨れ、そのガスが湯船の中で巨大な泡となって弾ける。なお悪いことに、顔が崩れ、元々の少年とは似て似つかぬ風貌になってしまった。私のかわいいアンリとは、もうとても思えない。

 ポイントは、どんなに耐え難い臭気を発していても、必ず「匂い」としているところ。翻訳者か主人公の心意気を感じるね。描写のコントラストも素敵。主人公は死者だけでなく、生者とも性交しそうになるシーンがある。(生きている)中年女の股ぐらからしたたり落ちる白濁液と、死姦しようとした少女がゴボゴボと吐き出す黒い液体は、フラッシュバックのように記憶に残るに違いない



消された一家

豊田正義


 最高に胸クソ悪い体験を味わえる一冊。

 これ以上気分が悪くなりようのないぐらい嘔吐感を味わう。おまけにこの酸味、読んだ後いつまでも引きずっていられる。

 こんな人間が「存在する」ことはよく理解できた。この人間を悪魔だの人でなしだの呼ぶのはたやすい。しかし、彼を悪魔とみなすことで思考を止めたら負けかな、と思いながら読み続けた。父親の解体の場面で身体が読むのを拒絶した。しかし、なぜそんな事件が起きたのか、どうすれば回避できたのか、知りたくて最後まで読んだ。

 今から考えると、そこで読むのを止めておけば良かったのに、と思っている。

 それが、「消された一家―北九州・連続監禁殺人事件」

 最悪の読後感を味わえるのは、最後まで読んでも、「なぜそんな事件が起きたのか」はぜんぜん分からないから。無抵抗の子どもの首にどういう風にコードを巻いて、どんな姿勢で絞めたか、といった行動は逐一知らされるが、「なぜ・どうして」は想像すらできない。

 これを著者の筆力不足に帰するのは、あまりに気の毒。一人称で書けないルポルタージュの限界なのか。「事実は小説よりも奇」とは、たしかにその通り。しかし、事実を理解することができない。虚構でもいいからこの出来事を理解したいと願うのならば、小説にするしかないのか。

 最もいやらしいのは、この天才殺人鬼が「指示」に徹するところ。一家をマンションに監禁し、「殺す者」と「殺される者」を指示するのだ。彼らは抵抗も逃亡もせず、互いを殺し合う。遺体はバラバラに解体され、周到な準備の末少しずつ捨てられ、ついに一人を残し、家族は消滅した。七人が抹殺された“史上最悪”の密室事件は、「なぜ」という疑問を拒絶する。

 事実は小説よりもおぞましい。なぜなら、「なぜ」を拒絶するから。物語にさせないから。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 さて、脳天への一撃となる作品を紹介したが、いかがだろうか。こうした劇薬小説やトラウマンガは、あらゆる人生にとって必須と考える。なぜなら、人生は不条理であり、不都合にまみれ、時に暴力的だから。「都合が悪いのは現実だけで充分、なぜ酷い話を好んで読むのか」という意見もある。だが、現実がまだマシであることを痛感し、そんな酷い話でなくてよかったと胸をなでおろすには、やっぱり毒書が必要だからである。

 もちろん見たくない人は無用の「避けるべき本」(避け本)リストとして活用すればいい。ただ、人生ノーミスクリアはありえない。致命傷を負ったとき、それが致命傷なのかを確認するために、元気なうちに読んでおくという活用法もあることを、知っておいてほしい。

 最後にもう一度。わたしが紹介したものがぬるいなら、もっとキッツいのを教えて欲しい。なぜなら、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから。

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リチャード・パワーズ『囚人のジレンマ』はスゴ本

 読んでる時より、思い出してる時のほうが心を震わせた傑作。

 不器用だけど思いやりあふれる家族の物語に、「ひとりの個人が世界と向き合うとき、どれだけの意味があるのか」という問いが折り込まれている。

 ポストモダン文学の旗手、リチャード・パワーズはこれが初体験なのだが、素晴らしいとしかいいようがない。読中「?」と感じていた沢山の小話や言及が、後半になるにつれ絡み合い、収束しつつも微妙に食い違い、発散してゆく。複数の視点が交替し、ぐんぐん読んでいったら、実は伏線だらけ、相互言及飛ばしまくり、入れ子と多層と複合された物語構造だったこと気付き、ゾクゾクする。

 そして、ラストの「カラマイン」の章の構造的どんでん返しが凄い。今まで読んできたものが何だったのか瞠目し、読み返しを促す。再読すると、世界がぐるりと裏返る。初読時は、父・エディが子どもたちに伝えたいことを、「囚人のジレンマ」をキーに探すように読んでいたのだが、読み返すうちに、そんな隠されていたものなんてないことが分かる。父は、最初から、その生き様からして、子どもたちに示し、諭し、教えていたのだ。

 どのページにも父のメッセージが、愛が、言葉が折り畳まれ、散りばめられいたことが分かる(全てのページにだ!)。これに気づいたとき、その愛のあまりのつよさにくらくらときた。これ一冊つかって、この世界でどうやって生きるのかが力強く歌われているのだ。

 この構造に気付く人は少ない(読書メーターに2人、Amazonレビューは皆無)。なので、ここでは、その読み解きも含めて記したい。巻末の「訳者あとがき」がヒントになる。訳者・柴田元幸氏がネタバレを巧妙に回避しているのが優しいが、ここではネタバレ書いちゃうのでご注意を。また、これはパワーズ読書会に向け、物語構造まで突っ込んでおり、未読の方は回避したほうが吉だと思う。

 物語は、大きく3つの形式をとっている。

 まず、ホブソン一家の物語。「1」「2」といった章番号がつけられ、現代(1970-80)を三人称で語られている(a)。次に、「1940-41年」など年号が章題になっており、第二次世界大戦中のアメリカを舞台とする出来事が語られる(b)。これは、細い明朝体が使われているため、見た目からして判別できる。そして、「なぞなぞ」「主要時制」といったフレーズを章題とする、ホブソン家の息子が一家の暮らしを回想し、父の過去を再構築する物語がある(c)。これも、細い明朝体が使われている。

 基本的に以下のa、b、cが交互に折り重なるように並んでおり、読み手は、順に追いながら、家族のそれぞれが抱えている悩みは何か、その焦点となっている父の病の正体は何かを探しながら読むことになる。このあたりは「訳者あとがき」の通りだ。

 aは時系列に並んでおり、父の病をめぐる家族のやりとりがあたたかい。いっぽうbは、読み進めるにつれ、一種の偽史であることが分かる。たとえば当時、膨大な数の日系アメリカ人を「敵性外国人」とみなし、強制収容所に入れたことは歴史の通りだが、そうした日系人をウォルト・ディズニーが救い出そうとする話は、語り手の創作だ(ではその騙り手は?)。そしてcは「誰」が父について語っているかが謎になる。「僕」という一人称から兄(アーティ)か弟(エディ・ジュニア)しかないのに、そこに登場するアイテムや会話が、aと微妙に違う。

 さらに、cはaと大きな食い違いが見えてくる。例えば、「なぞなぞ」や「カラマイン」で子どもの数は5人なのに、aでは4人である。最初は、わたしの誤読かと思いきや、全部読むと、作者の仕掛けであり、その食い違いも含めてどう読むかが委ねられていることが分かってくる。

 読み進むにつれ、bはさらに、「ホブズタウン」という場所を舞台にした、テープに吹き込まれた物語に重ねられていることが見えてくる。もちろん、録音主は父である。家族はこれを、「映画の脚本」「現実逃避のファンタジー」と見なすが、後半にさしかかるにつれ、「ファンタジー」が現実と微妙にシンクロしはじめる("微妙に"というのが重要で、けっして両者は一致しない)。

 a、b、cそれぞれの物語は、パワーズがマーキングした糊代によってつながってくる。ざっと挙げると、

  • 有刺鉄線に囲まれた収容所(bの舞台ホブズタウンとaの舞台イリノイ州ディカルブ)
  • 一票の恐るべき力(ミッキーマウスとフォン・ブラウン)
  • カラマイン(父と息子)
  • いまどこにいるのかは、どうやってそこにたどり着いたのかによる(a、b、c)
  • タイムカプセル(b、c)
  • 人間誰にでも、誰もが思っている以上のものがある(a、c)
  • きみが戦争だ(a、b、c)
  • 僕がどこまで自由なのか教えてよ、父さん(a、c)
  • 囚人のジレンマ(a、b、c)
  • それは五月のなかばの、二度とくり返しようのない日で、まだ家に残っている者たちはみな夕食の席につく

 最後の、「それは五月のなかばの......」は重要なヒントになる。「V-J」の章(c)で父(エディ)が口述録音し、ラスト近くの「カラマイン」の章(c)で続きが明かされ、「1979年」の章(b)に引き継がれる。すなわち、cにも父の「ファンタジー」が入り込んでおり、読み手は最後の最後になって、息子の誰かが亡き父を回想しているというc自体が虚構なのではないかと気づかされる仕掛けになっている。

 そして、その目で見るならば、cの「カラマイン」の章の矛盾(長男が法律ではなく医学を専攻していること、息子が2人ではなく3人いること、弟が四大ではなく短大に行くこと)が、冒頭の「なぞなぞ」の章(子どもが5人いること、父がほとんど何も残さなかったこと)とaとの食い違いの証拠になる。つまり、「カラマイン」や「なぞなぞ」はaと矛盾しているのではなく、父の口述が入り込んでいるのだ。

 どの時点で父が録音したかは分からない。だが、父がこうあってほしい、こう伝わってもらいたいという思いが、長男アーティや次男エディ・ジュニアの回想とシンクロし、まさに父が望んだように考え始めていることを、読者にだけ分かってもらえるように、パワーズは仕込んでいるのである。

 これに気付いたとたん、バーっと小説世界が拡張する。父が遺した多くの言葉が、思い出が、小説全体の中に散らばり落ちていることに気付く。何気なく読み流していた一言半句、しぐさ、表情が、大きな愛をもって伝えられることを求められていたことが分かる。それはここだ。

いまどこにいるのかは、どうやってそこにたどり着いたのかによる―――それが父の話のポイントだ。最新見出しのすぐ裏側、国際趨勢のすぐ内側で、あらゆることが意味をもって浮かび上がる。父は何の教科書も使わない。使うのは、僕らがその中に放り込まれている、アメリカンライフによって無視されるよう意図された教科書だけ。物事は起こるのだということ。物事は大事なのだということ。われわれこそ現在の戦争なのだ。

 父が遺した書類フォルダを元に、アーティが回想する「もしも過酷な一分間を」の章である。父の願望として読んでもいいし、まさに父がそう感じて欲しいと思った通りに(b)アーティが感じ、考えた章として読んでもいい。これと同じように読み手が、パワーズの期待通りに感じるかどうかは、読み手に委ねられている。

 ただ、読み手の自覚いかんにかかわらず、個人の生が世界の中で持ちうる重さについて、事実は変わらない。人生ひとつが、世界に対して違いを生んでいるとするのなら、それは生の持ち主がどこまで信じていられるかによるという事実である。「訳者あとがき」で引用されている『ナイン・インタビューズ』におけるパワーズの発言と、本書のエピグラフがその証左である。

「個人というものがどれだけ重みをもつのか、私はいまも迷っている。正しい方向に押せば、相当に重みをもつと思っている」T.E.ロレンス

「どこかの次元で、人生一つひとつが、世界に大きな違いを生んでいるのだと、今でも信じています。ただその信じ方は、若いときと違っています」『ナイン・インタビューズ』より

 自己の利益を求めるあまり他者を蔑ろにした結果、互いに破滅の選択肢を選ぶという、いわゆる「囚人のジレンマ」は、様々な変奏・輻輳を経て、ウォルト・ディズニーが結論づける。これを「実行」したのが、父・エドワード・ホブソンの人生だったのだといえる。わたしは、パワーズを、エディを信じるほうを、選びたい。

世界は無数の人間ではない。一人、一人、一人、その足し算である。それら一人ひとりが放棄しはじめるまでは、袋小路にはならないのだ。そして、もし彼らが、ほかの人たちとの善意とつながりを保つなら、放棄する必要も生じはしない
(中略)
「一人の人生、きみの人生が、それに触れる人生すべてをいかに変えるかを示すんだ。見た目にしたがってではなく、信頼にしたがって歩むかぎり、ゲームをつづける価値があるってことを証明するんだ」

 最後に。全体の章を以下にまとめる。カッコ()内は、主な話者やトピック。

  • なぞなぞ(アーティ)
  • 1(アーティ)
  • 2 
  • ホブズタウン 1939年(バド・ミドルトン)
  • 3(リリー)
  • 4(囚人のジレンマ)
  • 主要時制(アーティ?エディ?)
  • 5
  • 1940-41年(ミッキーマウス)
  • 6(リリーとレイチのタイプライター会話)
  • 7(アイリーン)
  • 1942年 春(エディ、ウォルト・ディズニー)
  • 8(アーティ)
  • 9(エディ)
  • 目には目を(アーティ)
  • 10(レイチェルとアーティ)
  • 1942年 秋(ウォルト・ディズニー)
  • 11(エディ・ジュニア)
  • 12(リリーから隣人に宛てた手紙)
  • 1943年(ウォルト・ディズニー)
  • 13
  • もしも過酷な一分間を(アーティ)
  • 14
  • 1944年(エディとウォルト・ディズニー)
  • 15(エディ・ジュニア)
  • 16(リリーとアイリーン)
  • 17
  • 1945年(エディとウォルト・ディズニー)
  • 18(アーティ 父のテープ)
  • 網目を破る(アーティ?エディ・ジュニア?)
  • 19(父のテープ)
  • V-J(エディ・ジュニア)
  • 20(エディ・ジュニア)
  • 21
  • カラマイン(エディ・ジュニア)
  • 1979年

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このエロマンガがエロい!2017

愚息を幸せにしたえっちなマンガのベスト3を書いた。
このエロマンガがエロい!2017

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古井由吉『槿』はスゴ本

 わたしぐらい上級者になると、服は意味をなさない。

 服から露出し見える部分(顔、首、胸元、手足)で肌感を把握し、服に隠された部分は想像で創造できる。体にフィットした服でなくても、カラダのかたちは脳内で再生できる。なぜなら、歩いたり振り向いたりする瞬間の、衣服と身体のコンマ何秒かのずれを変換することで、かなりの再現度により脳内で露出可能だから。

 ほら、元はアイドルの水着姿で、肌のあらわな部分を残して切り抜いた画像があるでしょ。切り抜かれた部分は水着であることは分かっているのに、あたかも全裸であるかのように見えてしまう。これは、見えていない部分を補完する認知能力の変態型だといえる。

 こうなってくると、肉付きよりも、むしろ骨格や姿勢が重要である。弾性、におい、しっとり感が優先される。おっぱいなんていくらでもスケールアウトできるパラメーターにすぎない。高い再現性を誇る視覚よりも、嗅覚や触覚のほうが、より直裁に刺激的である

 だから、裸体よりも体液のほうが刺激的である。大事な生々しい汁なんて簡単に拝めるものではないので、涙や唾液、鼻水になる。吐瀉物なんてごほうびやね。漫画のレトリックで、女の子の吐くのがキラキラしているでしょ? あれ真理だと思う。『ぼくのヒーローアカデミア』『ハルシオン・ランチ』なんて宝物以外の何ものでもない。

 そういう変態御用達が『槿』なり。何気ない仕草や所作の内に、生々しい体臭と肉体温度を感じ取る描写がすばらしい。女が吐く姿を「喉を細く、はてしもなく絞る」なんて最高なり。あからさまなエロティックではない。一人で部屋にいるときの無防備な表情や動作から、素の、生の、女のすがたを露わにする。服は意味をなさない。そういう視線を引き出してしまう人はいるし、そういう視線をしてしまう人がいる。

やがて女がゆっくりと脚をおろし、遠くを眺めて靴をはき、みぞおちを窪めて腰をあげたとき、杉尾はあらわな、裸体の動作を感じた。女は杉尾のほうへ輪郭の奇妙に鮮明な、遠い記憶像の味のする横顔を向けて、人に見られている意識はなく、ほんのしばらく完全に静止した。それからすっと、歩き出した。

 献血を終え、向かいのソファーに座った女の様子を、さっと撫でるように描いているのだが、その書きっぷりがいい。目がひらききり、潤み、感情の色はない。パブリックなところでくつろぐようすが場違いでえっちだ。このえっちは、本来の意味でHなり(性行為を「Hする」というが、”Hentai”(変態)の頭文字からすると、まったくもって変態行為ではない)。

 くまなく心理を叙述したり、きちんとピントを当てていない。情景をひきとるキーアイテムを配置し、語りと併走させるテクニックを味わい、見えていない部分を補完する。放火サイレンや、槿(あさがお)の鉢、白いキャリーバッグなど、それぞれの場面の鍵となるものと人のやりとりを介して話を進める。キーアイテムをあてつけに、感情と妄想を差し繰りしていくうち、情欲が絡み合い匂い立ってくる。

 結果、話の向かう先があいまいとしていく。主人公が自らを省みている文章なのに、主体を見失う。過去を振り返った今なのか、今、昔の声と重なっているのか、分からなくなってくる。自分を観察者としているような、世界のあいまいさを味わい続けることになる。それでいて、狂っている(といったら言い過ぎなら、逸脱している)のは誰だろう? と考えると、いつまで経っても「信頼できない語り手」の罠から抜け出せぬ。まさに変態向けの小説といえる。

 他者との関係性の中で、記憶をたぐり寄せながら、かろうじて自分を守っているかのような気がしてくる。いわゆる「意識の流れ」に注意しながら追っていくと見失う。同時に、自身が自分の身体の内側からすべり落ちるような感覚に見舞われる。自分の記憶が信じられないなんて、ホラーだぜ。寓話寄りにすると、ブライアン・エヴンソン『遁走状態』になるが、『槿』はもっと近しい親しい狂気(というか現実との乖離)になる。

 じっさい、291頁に魂が動く「離魂」なる言葉が出てくるが、この作品を象徴的に言い表している。離人症というと病気扱いされてしまうが、元来、人は「自分」とそんなに重なり合って生きているものではない。桜の白さ、遠くのサイレンの音、やりかけの仕事、追いついてくる過去に囚われ、呑み込まれようとする。そうなるまいと引き戻したり、ときに思い出に遊ばれるがままに放置したりする。むしろ、そうした引き寄せや遊ばせをしているそのものが、「自分」なのかもしれぬ。

 ひとりの男と、ふたりの女を描いた小説なのだが、「性愛」とか「情事」といった言葉をあてはめてよいものか、分からなくなってくる。露出している描写が全てだと思って読んでいると、思わず知らず迷うこと請け合う。

 離魂のたゆたいの中で心を遊ばせ、服に隠された部分を妄想で補うように読むうち、男女の深いところを触りあてる。とことん読書は贅沢だと感じ入る一冊。

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問題を「発見」する方法

 読書猿『問題解決大全』はスゴ本で、以下の質問をいただいたので、回答する。

問題解決大全には問題発見のノウハウまでは載っていませんでしょうか? 問題発見のノウハウ本を探しているのですが、なかなか良いのが見つからなくて。世には問題解決の本は山ほどありますが、その割には問題発見のノウハウ本って少ない気がします。
(名無しさん@2017.12.11 21:58)

 まずお詫び。わたしの紹介文で、問題の解決方法「だけ」を扱っているかのような印象を与えてしまい、申し訳ない。

 そんなことは全然なく、むしろ逆だ。『問題解決大全』は、どのように問題をつかまえるかの本と言っていい。「どのような問いを立てれば、解に近づくことができるか」について、古今東西の知の巨人たちの力を結集したもの。「正しく問う」ことがどれほど難しいか、よく分かる。

 問題を正しく問うことができたなら、ほぼ解決したも同然と言ったら言いすぎだろうか。

 少なくとも、きちんと問題を問題化できたら、後は比較的機械的に行ける。すなわち、

 1. 問題を適切な大きさの課題に分割する
 2. それぞれの課題を達成するためのタスクを割り振る
 3. タスクに対し、時期と目標値を設定する
 4. タスクにリソース(人と時と金)を投入する
 5. リソースの消化と目標の達成状況を管理する

 この辺になると、そこら辺の問題解決本の範疇になる。世の中に山のようにある問題解決本は、正しく言い当てられた問題からスタートする。マネジメントの話や、リスクとリソースのコントロール、モチベーションと進捗管理の話になる。口当たりの良い、一読しただけで「問題」だと分かり、教科書の「問1」「問2」みたいな問題である。言い換えるなら、このやり方にはまらない「問題」は、そこらの問題解決本では問題と認識されない。

 でも、現実は違うよね。

 世の中、「これは問題だ」と誰もが明白に言えるような問題は、実は少ない。

 問題のように見えるのは一面からだけで、それは別の問題Bの原因だったりする(そして問題Bを解決することで解消する事象だったりする)。あるいは、その問題は別の人にとっては問題ですらなかったりする。さらに、その問題を問題視する人の価値観が変わったり、時の経過や状況変化によって「問題」にならなくなったりする。利害や因果や抽象度が入り組んでいて、問題が特定できなかったりする。その問題を解決するリソースこそが「問題」な場合や、問題視している人自身が「問題」の場合もある。世の中の問題は、「問題」の形をしていない。

 問題を「正しく」問うことそのものが、一番の問題なのである。

 これに応えたのが、『問題解決大全』になる。

 問題とは何か、本書の定義はシンプルに断言する。すなわち、「問題解決とは、"~したい"と思うことを実現すること」だという。読んでいくと、もっと素朴な例もある。「なんかイヤだ」と感じていることに言葉を与える。「~だといいのに」の対象をもっと具体的にする。その上で、そちらに向かうために、どういうアプローチをすれば良いかをガイドする。

 名無しさんの質問にある「問題発見」は、そこなんじゃないかなと思う。もやんとした「思い」に言葉と形を与え、自分自身も含めた誰かに伝えられるように可視化する。それに応えてくれる。つまり、『問題解決大全』は、問題を可視化し、「正しく問う」ためのガイドなのだ。

 では、どの技法が適しているか? 目次「問題の認知」で一発で分かる。

第1章 問題の認知
 01 100 年ルール The 100-year rule  大した問題じゃない
 02 ニーバーの仕分け Niebuhr's Assorting  変えることのできるもの/できないもの
 03 ノミナル・グループ・プロセス Nominal Group Process  ブレスト+投票で結論を出す
 04 キャメロット Camelot  問題を照らす理想郷という鏡
 05 佐藤の問題構造図式 Sato's Problem Structure Scheme  目標とのギャップは直接解消できない
 06 ティンバーゲンの4つの問い Tinbergen's four questions  「なぜ」は 4 種類ある
 07 ロジック・ツリー Logic Tree  問題を分解し一望する
 08 特性要因図 0 9 1 fishbone diagram  原因と結果を図解する

第 5 章 問題の認知
 27 ミラクル・クエスチョン The miracle question  問題・原因ではなく解決と未来を開く
 28 推論の梯子 The Ladder of Inference  正気に戻るためのメタファー
 29 リフレ ーミング Reframing  事実を変えず意味を変える
 30 問題への相談 Consulting the problem about the problem  問題と人格を切り離す
 31 現状分析ツリー Current reality tree  複数の問題から因果関係を把握する
 32因果ループ図 Causal Loop Diagram  悪循環と渡り合う

 「問題の認知」の技法として、第1章で8つ、第5章6つ、合計14の技法が紹介されている。

 なぜ、「問題の認知」が2つに分かれているかというと、それぞれ、「リニアな問題解決」「サーキュラーな問題解決」と2つのアプローチに分類されているから。

 リニアな問題解決とは、直線的な因果性を基礎に置く問題解決であり、理想と現状のギャップを何らかの形で埋めたり、より「上流」の悪原因を取り除くことを目的とする。解決者は、問題の外側から分析し、必要なリソースも問題の外から供給される。

 いっぽう、サーキュラーな方はより複雑だ。解決する人もまた、問題を構成する因果のループの中に組み込まれている。問題を問題たらしめている要素もまた、因果ループの中で再生産しており、必要なリソースも解決すべき問題として考慮しなければならない。

 本書では、2つのアプローチを使い分けながら「正しく問う」ことを目指す。名無しさんが求めている「問題発見」は分からない。だが、ほぼどんな時にも使えて、不慣れな状況でもオールマイティに使える技法は、「ニーバーの仕分け」だな。[ニーバーの祈り]を技法化したもので、変えることのできるもの/できないものを分けて数値化する。そして、「変えることができるもの」を問題として定義するわけだ。

 わたしはニーバーの祈りを実践するとき、「イチローのコントロール」と置き換えている。インタビューで、ライバルのバッターの成績と比較されたとき、イチローはこう答えたという。「全く気にしない。自分のコントロール外のことだから」。自分がコントロールできることと、コントロールできないことを分ける。そして、コントロールできることに集中する。あたりまえといえばあたりまえなのだが、わたしたちは、変えられないものを「問題」視することで、貴重なリソースを無駄にしがち。それなら、できることに集中しよう。

 ちょっと気をつけて欲しいのが、「問題の認知」の第1章、第5章で済まないところ。問題を構成する因果のループが入り組んでおり、問題が「問題」の姿をしていない場合がある(現実ではほとんどだ!)。この場合は、「サーキュラーな問題解決」のアプローチ全てが、「正しく問う」ガイドになる。

 たとえば、解決法を探究する行為そのものが問題の再定義化を促す「スケーリング・クエスチョン(技法33)」がある。あるいは、解決策を仮設定し、とにかく進んでみることで真の問題とのFit-Gapを可視化する「ピレネーの地図(技法36)」などは、「サーキュラーな問題解決」として紹介されている。問題が因果ループに取り込まれているのなら、「正しく問う」ために、そのループを回す必要がある。ループを回しながら、コントロールできる問題に「問題化」するのだ。

 「問題発見」とは、問題を正しく問うこと。そして、問題を正しく問うことができたなら、解決へ大きく前進したことになる。

 各章の扉には、簡単な紹介とレシピが載っている。書店でパラ見して、名無しさんの今の「~したい」に合いそうなものを選んでみるといいかも。そして、これは自信をもって言えるのだが、名無しさんの今の「~したい」にも未来の「~したい」にも必ず合うツールが、きっと書いてある。


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いきなり古典はハードル高い、「本の本」「100分de名著」をお薦めする

 「古典を読むべきか」という問いが面白かった。

[読書家の人は古典的な名著を読んできたのだろうけど]

古典は基礎体力のようなものだからやはり若いころに読むのがふさわしいのだろうけど、年齢を重ねてからでは読む価値が薄いという意見を聞くたびに、うるせえなじゃあ読まねえよなんて思ってしまう。読むのはせいぜいラノベなおっさんが古典を読む価値はあるのだろうか?ていうかそもそも読めるのだろうか?

 これへの応答[はてなブックマークコメント]がタメになる。説得力のある見解をコメントする人もいれば、答える形で優越感ゲームを仕掛ける人もいる。ここでは、わたしの考えをまとめてみる。

 まず、「古典は若いときに読んだほうがいい」という意見について。

 これは体力の話。ある種の勢いというか、読了したという自意識を求め、体力まかせのイッキ読みは、若いからできること。古典を読んだからエラいとかいう優越感(?)も、若いからもてるもの。では、トシとったら読めないかというと、そうではない。若さにまかせて読めないけれど、じわじわと読めばいい。むしろトシとって経験積んだ分、「わかりみ」が増してる。

 次に、「古典はトシとったら読む価値が薄い」という意見について。

 トシ関係ない。好きで読むなら価値のありなしはご自分で、と言うしかない。ただ、自信を持っていえるのは、人生は有限であること。ラノベに限らず、新しい本を新しいからという理由で追いかけるのは得策ではない。次から次へと出てきてキリがないし、新刊はあっという間に古くなるから。

 一方、古典なら、時間の洗礼を受けている分、それを受け継いできた人によって「価値あり」と判断されたと言える。その「価値あり」は、これから読もうとする人にとって「価値あり」かどうかは、やっぱり分からないけれど、試しに手に取るだけの価値はあると思う。

 また、これは文学に限るが、古典の名作のリストはアップデートされるということ。「世界名作全集」とか「読むべき名作」みたいなリストは、入れ替わりがある。時代の「価値あり」の変遷によって、日が当たったり陰ったりするのを見ても面白い。これがリベラルアーツだと話が違ってくる。プラトンとか四書五経とかのリストは変わらない。

 文学限定だが、別冊本の雑誌の『古典名作・本の雑誌』が最新にアップデートされた古典名作リストだ。これが良いのは、そのジャンルの最高の読み手に任せているところ。海外文学、国内文学、エンタメと、鉄板から掘り出し物まで、「これは!」というものばかりが並んでいる。ざっと見て、興味の湧いたものをまず図書館で借りてみるのがお財布に優しい。その上で、きちんと読みたければ買えばいい。

 書評の雑誌は、選書している「人」を選ぶ本でもある。わたしが好きな作品を紹介している「人」がお薦めしている、知らない本なら、きっと面白いだろう。まさに「わたしが知らないスゴ本を読んでいる人」を探す本になる。

 また、ラノベ読みならラノベから入るルートもある。モチーフから辿って『這いよれ!ニャル子さん』からラヴクラフトとか、テーマから辿って『紫色のクオリア』からボルヘスみたいな併せ読みをすると楽しいかも(kaienさんがやっていなかった?)。

 他に、Eテレの100分de名著シリーズがお薦め。古今東西の名著を、25分 × 4回 = 100分で紹介する番組だ。「読む」前に「観る」ことでウォーミングアップを図ったり、読み解きサポートやモチベを上げるのに良い。いまちょうど、スタニスワフ・レム『ソラリス』をやっているので、ぜひお薦め(初回からネタバレ炸裂しまくっているけれどwww)。

 最後に。「古典」といっても、いろいろある。「本の本」や「100分de名著」であたりを付けたら、図書館で試そう。これも自信を持って言えるけれど、あなたに合うものは必ずある。ただ、出会えていないだけなんだ。

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読書猿さんと対談した

 読書猿さんとお会いして、お話することができたので、さしさわりのない範囲でまとめる。

 濃厚かつ一瞬の2時間だったが、学ぶヒントや学び続ける勇気、そして大量のスゴ本を教えてもらえるという、かけがえのない時間でしたな。フォレスト出版さん、読書猿さん、ありがとうございます。ブログやってて良かった!

 自ら学ぶことを大切にしている人で、読書猿さんを知らない人はいないだろう。一言なら、哲人(てつじん)。すぐれた知性と見識の高さ、的確すぎる筆致と高高度な調査能力を駆使する、教養の化物である。古今東西のあらゆる本を吟味し玩味し紹介するブログ[読書猿]の中の人で、メルマガ[読書猿]を発行しており、『アイデア大全』『問題解決大全』というスゴ本を著している。

 お会いするまで、そんな人は実在しないと考えていた。読むのも書くのも質量ともども桁外れ、文献調査や公開情報を用いた分析が研究機関レベルで、得られた知見を、読み手に読者に「分かる」「できる(使える)」形に咀嚼してツール化して提供する。きっと「読書猿」とは一種のブランドで、中の人は何人もいて、役割を分担して運営されていると思っていた(「シェイクスピア」のように)。

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これが本当の「猿の手」

 しかし、お会いして分かった。「読書猿」はワンオペだ。中の人はチャーミングなおっさんで、笑った目が完全に子どもの瞳をしている。しかし、ひとたび知の話題になると、ロゴスとエビデンスの鬼と化す。ものすごい勢いで固有名詞と年代と方法論が出るわ出るわ。その一つ一つを、完全に覚えているのが凄まじい(後で聞いたところによると、「頭の中に図書館がある」らしい)。

■『アイデア大全』と『問題解決大全』の使い方

 この2冊、もとは一つだったらしい。

 最初にまとめたとき、2冊を合体させたよりも莫大になり、「このまま出すと厚さと価格がシャレならん」ことが明らかになったという。そのため、2つに分けるとともに、アプローチと構成を練り直したとのこと。すなわち、アイデアを求める人向けのアプローチと、問題解決を模索している人のためのアプローチである。

 さらに、アイデアを求める人向けに、「0→1にする」と「1→nにする」の2部構成に分けたという。ここが凄いところだと思う。いわゆる世のアイデア本は、「1→nにする」は大量にあるが、「0→1にする」については皆無といっていい。つまり、与えられた何かを元に膨らませる方法論は満ち溢れているが、そもそものとっかかりすらない状態からどうすれば良いかはほとんど無い。これに応えたのが、『アイデア大全』になる。

 同じことが、『問題解決大全』にも言える。「リニアな手法」と「サーキュラーな手法」の2部構成に分かれている。世の問題解決本は、「リニア」がほとんどである。つまり、理想と現実、原因と結果が直線的につながっており、その差を埋めたり原因をあれこれする方法だ。ビジネス書との親和性の高さから、腐るほどある。だが、「サーキュラー」は稀だ。問題を構成する因果ループの中に解決者が取り込まれており、「原因」「結果」が判然としない。さらに問題を解決するリソースもその中でやりくりしなければならない。これに応えたのが、『問題解決大全』である。

 現実を振り返ってみよう。なんとかしたいのに、何をどうすればよいか、アイデアどころか、手がかりすら分からずに困ってる方が多いのではないか? あるいは、問題と原因がぐるぐるして、しかもそのループに自分自身が入っていて途方に暮れている方が多いのではないだろうか? より根が深い、現実に近い、そうした状況に対し、適切なアドバイスが得られるのがこの2冊なのである。


 『アイデア大全』と『問題解決大全』を立てて見てみよう。こんな構成である。

       アイデア大全 ||    問題解決大全
0→1にする | 1→nにする || リニアな手法 | サーキュラーな手法


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コアの部分(「1→n」「リニア」)と、周辺の部分(「0→1」「サーキュラー」)


 両者が接しているコアの部分になる、「1→nにする」「リニアな手法」は、どちらかというと馴染みのある方法論だ。そして、このコアの両サイドに、より現実的な手法である「0→1にする」「サーキュラーな手法」が準備されているという構造だ。

 つまり、「どうしたらよいか」へのアプローチとして『アイデア』『問題』の2ルートがあり、さらに問題がある現実との親和性で、コアか両サイドかの2方向ある。どのように解決したいかという観点と、現実との親和性によって、使い方を変えることができる。ちなみにこの見方は、わたしが編み出したカスタマイズだ。辞書的に引いて使うのが主だろうが、並べて立てることで、より立体的に攻めることができる。

■頭の中に図書館を持て!

 世の中に「頭のいい人」がいる。1をいうと10伝わる人、頭の「回転」が速い人、いわゆる「地頭力」がある人、引き出しを沢山もっている人、緻密に語れる人、とっさに適切な一言が返せる人、知識がある人、勉強ができる人など、様々な言い方がある。

 もちろん読書猿さんも「頭のいい人」なのだが、上記のどれもうまく当てはまらない。知識があり、緻密に語り、回転が速いのは確かだが、そんな人は沢山いる。しかし、読書猿さんが凄いのはそんな即興的な所から離れたところにあることに気づいた。

 何か―――例えば「自転車」について調べるとしよう。わたしなら、辞書から意味を汲み、イメージされる分野を調べ始める。たとえば、「自転車の仕組み」や「自転車の歴史」といったテーマから始める。だが、読書猿さんは違う。調べたい「何か」について、図書館の十進分類表に放り込み、そこから照射しはじめるのだ。つまりこうだ。

 自転車の総記(00)
 自転車の哲学(10)
 自転車の歴史(20)
 自転車の社会科学(30)
 自転車の自然科学(40)
 自転車の技術・工学(50)
 自転車の産業(60)
 自転車の芸術・美術(70)
 自転車の言語(80)
 自転車の文学(90)

 十進分類表は、いわば、知りたいことへの「知り方」を分類したものだ。言い換えるなら、人類の知を分類したものだから、そこには必ず自転車について知りたいことへの道筋が存在する。読書猿さんの頭の中に、この十進分類表が入っており、そこから抽象度を徐々に下げてゆく。

 たとえば、文学(90)>英米文学(930)>小説(933)と行くと、きっとそこに「自転車」に言及した小説が見つかるだろう。あるいは、産業(60)>運輸・交通(680)>交通政策(681)と絞っていくと、間違いなく「自転車」に関する行政施策が見つかるだろう。重要なのは、数字の左に行くほど抽象度が上がり、右に行く抽象度が下がり具体性が増すところ。この抽象度を上げ下げを駆使することで、「自転車」を文学からも行政からも絵画からも調べることができる。

 そして、図書館に行くと、この抽象度の並び順に並んでいるのだ。十進表の通りに並んでいるのは知っている。でないとどこで何を知ることができるか分からなくなるから。重要なのは、抽象度の並びで書棚が構成されているのだ。だから、実際に図書館の書棚で、左へ目を向けると、より抽象度の高い本が見つかり、右を見ると、より具体性のある本が出てくる。何年も図書館に通い、何度も見てはいたものの、これは気づかなかった。

 読書猿さんの頭の中には、図書館があるという。十進分類を駆使して、抽象度の高いところから俯瞰したり、より詳しく知りたいときは拡大して具体的な目で見始める。頭の中の図書館で目星がついてから、やおら腰を上げてリアル図書館に行くという。やみくもにGoogleったり、図書館や書店に突撃するよりも、はるかに効率的・網羅的なり。いつでも図書館を召喚できるということは、いつでも知の巨人の肩に乗れることなのだ。

 読書猿さん自身は、もちろん博学だが、それだけではない。自分が何を知らなくて、どうすれば知ることができるのかを知っている。いわゆる、「知り方を知っている」という点で、頭のいい人なのだと思う。もっというと、スピード重視なのか、深さ重視なのかによって、「知り方」を使い分けながら図書館にアクセスできる。つまり、読書猿さんは、図書館という人類知を味方につけている人であり、知の巨人たちを自由に召喚できる人なのである。

■図書館では返却棚を見て!

 教えてもらうことばかりだったけれど、唯一、合致してたポイントがあった。「図書館で返却棚を見る」という所である。「きょう返された本」という掲示がされている棚やワゴンである。

 もちろんそこから借りていってもいい。その棚は、誰かが借り出しして、カウンターに返却された本であり、次に借り人がいなくて、いずれ本来あるべき棚に戻る前のバッファみたいなものである。

 ちょっと見方を変えてみよう(『問題解決大全』のリフレーミング)。その棚にある本は、いわゆる人気本ではない(そういうのは、予約が入っており、返却処理時に予約本として回される)。だが、世の中の人が何がしかの興味を持ち、「貸し出し」までして手に取ろうとした本である。その集積は、世の人の興味の集積になるのではないか?

 よくある、「書店に行って、面陳されている本のキーワードを見ているだけで、世間がいま何に興味を持っているか分かる」というライフハック(?)の、もっと生々しいものが、図書館にあるのだ。なぜなら、書店に並んでいる本は、「世間の興味」というよりも、出版社が「世間はこれに興味を持っているのだろう」もしくは「これに興味を持って欲しい」もので埋め尽くされている。いわばノイズが入っている状態である。図書館の返却棚は、そうしたノイズが自動的にフィルタリングされた、本当に興味のあるもので埋め尽くされているのだ。

 たとえば今行ってみるといい。「確定申告」と「介護」が必ずあるはずだ。前者は、年度末に向けて早めに準備したい人が借り出したものだし(年を越すと予約でいっぱいになる)、後者は特に近年顕著に見られるキーワードになっているから。

 図書館で世間を知るというこの技、読書猿さんと一致したのは大きい。

■読書猿さんの今年のスゴ本は?

 わたしの今年のNo.1は『アイデア大全』『問題解決大全』だけど、読書猿さんにとっての一番は? という質問をぶつけてみた。

 返ってきたのが、『愛とか正義とか』(平尾昌宏著、萌書房)。これは、読書猿さんが唯一、嫉妬した本だという。たとえば正義。「正義」と「正義についての主張」は異なるのに、両者を混交して議論するから迷走する。これは、両者の違いを、誰にでも腹に落ちるように、しかも厳密に書いており、ここまで書けるのは素晴らしいとともに悔しいとのこと。「正義」「愛」「自由」など、誰もが知っていて、誰もその正体を言い表せえないものを、『鋼の錬金術師』や『ライアーゲーム』で学べるらしい。

 速攻でゲットした(丸善ラスト1冊だったw)。読み始めてすぐに気付いたが、これ、倫理学の主要なテーマである自由意志、価値論、功利主義、認知主義、実在論、生命倫理学をものすごく分かりやすく書いている。そして凄いのは、答えを導くのではなくて、考え・プロセスを辿っているところ。考える行為そのものが哲学することが、分かるように書いている。「自分で考える」とは何かを、自分で考えさせることで伝える、読むことが実践になる一冊なり。

 4つ紹介したが、まだまだ足りない。他にも、本屋でオフ会や、読書会、本の「並べかた」についてのウンチク、調べかたのあれこれ、ホワイトボードで講義形式で聞きたかったですな。読書猿さんの次のテーマは、「図書館」だ。全裸待機して待ちます。

 最後にもう一度、読書猿さん、貴重で、濃密な時間をありがとうございました! またお会いしたいです。そしてじっくり(ホワイトボードを傍らに)お話を伺いたいです。

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