現実も幻覚の一つであることが見えてくる研究『幻覚剤は役に立つのか』

LSDやサイロシビンなど、危険ドラッグと呼ばれているものは、持ってるだけで重罪だ。依存性があり、自分の意志ではやめられなくなる恐れがあると言われている。

だが、毒か薬か量による。

専門家の監督下で、正しい用法・用量を摂取することで、うつ病や不安障害といった精神疾患や、末期ガン患者に対し、驚くほどの効果が期待できるという。そして、著者自らが幻覚剤を体験することで、治療薬としての可能性を追求したのが、『幻覚剤は役に立つのか』である。

幻覚剤の効果

幻覚剤の体験で特徴的なものが、「子どもの目で世界を見る」である。

大人の場合、「見る」という行為ひとつとっても、「それは見たことがある」「あれに似ている」など、過去の経験や知識に基づいた見方をする。

だが子どもは、(経験が少ない分)そうした影響を受けにくい。見たもののを、そのままダイレクトに受け取ろうとする。

たとえば、緑色の点がフラクタルなパターンで視界に入れば、大人は「木の葉だろう」と考える。なぜなら、過去に何千何万回と見てきたため、ただそのパターンだけで推測してしまう。そうすることで、時間とエネルギーを節約しているのだ。

LSDを使用すると、そうした短絡的な知覚モードが遮断される。あたかも生まれて初めて目にするかのように、生々しく「葉っぱだ!」と感じ取る。大人になるにつれ失われてきた、センス・オブ・ワンダーを取り戻すというのだ。

また、意識の境界がぼやけて拡散することも特筆されている。主観的な「私」の感覚が崩壊し、どこまでが主観的な事実で、どこからが客観的なものか、分からなくなるという。

この辺りの感覚は分かる。いい感じにお酒が入ったり、瞑想が上手くいったとき、あるいは性行為の際、こうした経験がある。

周りの全てが生々しくなり、自分が溶ける。肌理と輪郭と細部と全体が一体となり、位置的に見えないはずの上や反対側からも見える。見るというより「ある」ことを受け入れるような、視覚と触覚が混ざったサイケデリックな経験だ(泥酔はしておらず、意識はクリアなのが怖い)。

サイケデリック体験のメカニズム

幻覚剤が、どのようにサイケデリック体験を引き起こすのか。

本書では、DMN(Default Mode Network/デフォルト・モード・ネットワーク)の観点から説明する。

DMNとは、「話す」「走る」など意識的な活動を行っていないときの脳内の神経活動のことを指す。ワシントン大学のマーカス・レイクル教授によると、DMNは、脳の各部に対しトップダウンに働きかけ、全体を整理する役割があるという。

そこでは、過去の出来事に思いを巡らしたり、未来に漠然と不安を抱くといった意識が流れており、DMNの活動が強すぎる場合、統合失調症やうつ病に関連している可能性もあるという(※1)。

幻覚剤を使用している被験者の脳内をfMRIで観察すると、ちょうど被験者が自我の消失を訴えるあたりから、DMNの活動が急激に低下することが報告されている(※2)。幻覚剤は、DMNのを抑制する働きがあるのだ。

DMNがオフラインになるとき、脳内のコミュニケーションの状態が大きく変わる。脳磁図と呼ばれる画像技術を用いてマッピングしたものが下記になる(※3)。左側が通常の脳で、右側がサイロシビンを使用している脳になる。

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通常では、各部のネットワーク内でのみ交流し、一部の経路のみコミュニケーションが密となっている。

だが、サイロシビンの影響かにある脳では、新しい繋がりが無数にでき、通常ではほとんど交流しない遠方の領域ともリンクしてる。

この脳内ネットワークの一時的な再編によって、精神活動に影響が出てくる。

たとえば、感情を司る領域が、視覚情報を処理する領域と直接交流するようになれば、恐怖がそのまま視覚に影響を与えるようになる。知覚情報が混交し、色が音になったり、音が触感になることもありうる。記憶が視覚に変換されて、鏡に映った自分の顔が祖父に見えたりする。

幻覚剤は、「自己」を形作るため抑圧的に働いていたDMNのくびきを外す。見慣れたものに新たな意味を見出し、創造的なひらめきや、斬新な視点を得ることができる(※4)。さらに、DMNの働きを一時的にせよ弱めることで、統合失調症やうつ病への効果も期待できるというのだ。

私たちは管理された幻覚に生きている

なぜDMNがこれほど抑圧的に働くのか。

この問いに、興味深い仮説が提示されている。答えは単純で、「効率」による。

脳は複雑な予測マシンであって、外部環境を「ありのまま」知覚しているわけではない。視覚ひとつとっても、非常にデータ量が多く、全てをいちいち処理していたら判断が追い付かない。そのため、過去の経験や他の感覚からの信号に基づいた推測を行って、最小限の情報だけを受け入れるというのだ(予測符号化※5)。

感覚器を通してボトムアップに入力される「フラクタルな緑色の点」と、過去に何百何千回と見てきた「木漏れ日」からトップダウンに予測する誤差を最小化するように、脳は情報処理を行うのだ。

言い換えるなら、私たちが外界を知覚するとき、それは「ありのまま」の現実を転写したものではなく、知覚器官から得たデータと、過去の経験に基づいたモデルを結びつけ、整合的に組み合わされた幻覚だと言える(本書では、「管理された幻覚」と表現されている)。

日常の生命維持を容易にするよう、知覚は最適化されている。だが、それが崩れるとき、あらためて脳はそれを学習しようとする。

たとえば、私たちが「顔」らしきものを認識するとき、それは凸面であると脳は予測している。なぜなら、過去に何万何億回と、現実と予測のマッチングテストを行ってきたから。

しかし、以下のような錯視を目の当たりにすると、「このT-Rexは例外だ」と学習する。何度も見ているのに、それでも騙される。それぐらい管理された幻覚は強力なのである。

https://youtu.be/A4QcyW-qTUg

幻覚剤は、現実と認知情報の強固な結びつきを壊す。

脳は、どっと流れ込んできたローデータをなんとか処理しようとする。いつもの予測符号化が役に立たず、現実の予測が追い付かない。脳は必死に新しい現実予測を作り始め、過去の経験と大量のデータを無理やり結びつけようと試みる。その結果、ありもしないものを知覚するようになる。

幻覚剤は、幻覚を見せるのではなく、私たちが現実だと思っていた世界も幻覚の一つであることに気づかせてくれる。


※1  Default Mode Network Activity and Connectivity in Psychopathology

https://www.annualreviews.org/doi/abs/10.1146/annurev-clinpsy-032511-143049

※2 The entropic brain: a theory of conscious states informed by neuroimaging research with psychedelic drugs 

https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/fnhum.2014.00020/full

※3 Psychedelics: Lifting the veil | Robin Carhart-Harris | TEDxWarwick
https://youtu.be/MZIaTaNR3gk

How do psychedelics work?
http://goodmedicine.org.uk/stressedtozest/2019/01/recent-psychedelic-research-how-do-they-work

※4  真逆のレポートもある。DMNが活性化すると、創造性が高まるというレポートだ。
The Importance of the Default Mode Network in Creativity—A Structural MRI Study

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1002/jocb.45

※5  予測符号化 (predictive coding) とは何か
https://omedstu.jimdofree.com/2018/08/17/%E4%BA%88%E6%B8%AC%E7%AC%A6%E5%8F%B7%E5%8C%96-predictive-coding-%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B/

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人はなぜ遊ぶのか『遊びと人間』

じゃんけんからサッカー、コスプレからワルツまで、古今東西、老いも若きも、人は様々な遊びを楽しんできた。「遊ぶこと」それ自体を目的とする行為を、なぜ人はするのか。

この疑問に対し、ロジェ・カイヨワが、神話や文化人類学、歴史学や社会学から解きあかしたのが『遊びと人間』だ。

「遊び」といってもその範囲は膨大だ。一人でするもの、複数でするもの、人数が決まっているものや、道具の有無、時間や場所が指定されているもの、厳密にルール化されているものから、自由度の高いものまで、つかみどころがない。

これを捌いていく手際が鮮やかだ。

まず、遊びを定義することで、外堀を埋める。つまり遊びとはこういうものなのだ。

  1. 強制されず、自由な活動
  2. 生活から隔絶され、予め決められた時空間に制限される
  3. 展開が決まっておらず、創意の工夫が残されている
  4. 富を生み出さない、非生産的な活動
  5. ルールがあり、そのルールだけがその場で通用する
  6. 非現実であり、虚構の活動である意識がある

次に、個々の遊びに共通する性質を示し、類型化する。さらに、この「共通する性質」こそが人を遊びに駆り立てる動機となり、遊びを通じて文化が生まれてきたのだと主張する。


分類


共通する性質・動機



アゴン
競争


ルールのある競争において、自分の能力だけで勝利を得ようとする


運動競技、玉突き、サッカー、チェス


アレア


意志を捨て去り、運命の判決を不安と受け身で待つ


じゃんけん、ルーレット、宝くじ


ミミクリ
模擬


他人の人格を装い、自分を他者であると想像し、虚構の世界を作り出す


人形遊び、仮面、コスプレ、演劇


イリンクス
眩暈


身体の安定と平衡感覚が狂わされるのを楽しむ


ぶらんこ、ワルツ、スキー、登山

そして、遊びから制度化・慣習化されたものを検証してゆく。法律から行政制度、祭り、仮面からダンスパーティまで、社会の諸現象に湧き出ている遊びの精神を見出す。壮大な文明論まで拡張される風呂敷が面白い。

遊びは富を生まない?

その一方で、現代に合わなくなっている点もある。定義の「4. 富を生み出さない、非生産的な活動」がそれだ。

例えば「宝くじ」は当選したら莫大な儲けを生み出すではないか、というツッコミに、著者は、トータルでは富は変わらないと説く。

たしかに胴元がいてカネを集め、アレア(運)に選ばれたものが大金を手にするかもしれない。だが、それは宝くじという遊びの中のカネの所有権が移動するだけであり、遊びの外から富を引き出してはいない、というのだ。

しかし、Youtube のゲーム実況を見ていると、遊びそのものが富を生み出しているように見える。

いわゆるプロゲーマーを指しているのではない(それはプロボクサーと同じ「仕事」だろうから)。ゲームが上手なわけではなく、ただ楽しそうに遊んでいる様子を実況する。動画を見に来る人への広告が収益となる、という構造だ。この場合、確かに遊びが富を生み出していることになる。

例えば「しゅうゲームズ」は典型で、あつ森やマリカーを遊んでいるのだが、独り言やセルフツッコミが面白く、登録者が80万人を超えている人気チャンネルとなっている

あるいは、クレーンゲーム実況なんてもっとエゲつなくて、人気フィギュアを総取りしてメルカリに売る「クソ転売ヤー生活」を動画にし、アップロードしている。転売+実況広告というメタな収益化を図っている。ネットを通じた遊びの見世物化が、遊びの定義を変えたといえるだろう。

本書は半世紀も前の名著とされているが、アップデートされた目で読み直すことで、遊びが拡張されているのが分かる。

人はなぜ遊ぶのか

遊びを定義・分類し、社会や文化に現出している「遊びの精神」を検証する―――こうした行為を通じて、「人はなぜ遊ぶのか」という疑問に答えようとしている。

だが、この疑問に対し、明確に答えている箇所を見出せなかった。強いて言うなら、第4章「遊びの堕落」p.107の以下のあたりになる。

遊びの原理はまさしく強力な本能(競争、幸運の追求、模倣、眩暈)に応じたものである。しかし、これらの本能が積極的、創造的に満足させられるのは、時と場合により遊びの規則が指示するところの、確定された理想的諸条件の中でしかないことは容易に理解できよう。

(中略)

遊びは本能を訓練し、それを強制的に制度化する。遊びはこれら本能に形式的かつ限定された満足を与えるが、それは本能を教育し、豊かにし、その毒性から魂を守る予防注射をしているのだ。同時に本能は、遊び(の教育)のおかげで、文化の諸様式の豊富化、定着化に立派に貢献できるものとなる。

回りくどい言い方だが、要するに「人は、競争、幸運の追求、模倣、眩暈を求める本能があり、それに衝き動かされて遊ぶ」という主張である。そして、その本能を訓練し、制度化するものを遊びと呼んでいる。

「遊びは本能」と明確に言い切ってしまうと、なんだ、「本能」というそれ以上説明できない言葉に逃げているではないか、というツッコミが入ってしまう(今だと生得的モジュールとか適応と言われていそう)。

オオカミの仔がじゃれ合う「遊び」は、成長した後に必須となる狩りの予行演習である。誰に教わったわけでもないのだから、それは本能である。

この観察結果を人に当てはめ、その社会・文化的活動の予行演習に相当するものを遊びと定義するならば、「人はなぜ遊ぶのか」という問いへの答えは、結果的に「本能」になるだろう。

 

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怖いと分かってるのに、なぜホラー映画を観るのか『感情の哲学入門講義』

怖いと分かっているのに、ホラー映画が観たくなるときがある。

不可解なことが次々と起こり、その原因が見えてくるにつれ、背筋が寒くなるような展開になり、あまりの怖さに、「観なきゃよかった……」と後悔するようなやつ。

昼間なら大丈夫だろと、うっかりアマプラで『残穢――住んではいけない部屋』を観てしまい、いま後悔している(怖いというより、嫌あああってなっている。観ると部屋にいたくなくなるので、引きこもりには不適)。

怖いなら観なきゃいいのに……というツッコミに同意する。

心臓がバクバクして、イヤな汗が出てきて、呼吸もせわしなくなり、そこから逃げだしたくなる。なぜなら、「怖いもの=危険なもの、生命を脅かすもの」だから、それを避けようとするのが普通だから。

「怖いものから逃げたい、避けたい」という欲求は、本能に刷り込まれているレベルだろう。例えばヘビやライオンを怖いと思うのは、私の生命に危険があるから。

もちろん、ヘビやライオンを怖がらなかった人もいただろう。だが、そんな人は、生き残って私の祖先にはならなかっただろう。

怖いと分かっているのにホラー映画をわざわざ観るのは、なぜだろう?

順番に考えてみる。

  1. ホラー映画を観ると怖くなる
  2. 「怖い」というのは避けたい・逃げたい、という感情だ
  3. ホラー映画を観るのは避けたい(1と2から)
  4. ホラー映画を観る人はそれなりにいる(事実)
  5. 上記3と4は矛盾する

うん、自分でも矛盾していることは分かる。避けたいはずなのに観たい。

『感情の哲学入門講義』では、この矛盾を紐解いてゆく。

ホラー映画は(実は)怖くない

まず1を否定してみる。ホラー映画を観ても、本当は怖くなんてないんだと。

確かに、映画の中の怪異は、「映画の中」だから、観ている私には影響がない。映画の中の登場人物が次々と酷い目に遭っても、私が殺されることはない。

私は、映画の外側という安全な場所から、物語を楽しむことができる……と私は知っているのだ(もちろん例外はある。安全なはずの映画の「外」を舞台にした『デモンズ』や『REC/レック』ほか色々ある)。

とはいえ、とにかく私は視聴者として安全なはずだ。それを確信しているからこそ、ホラー映画を楽しむことができる。

そう、ホラー映画を「楽しむ」のであって、怖いのではない。実は怖がっているフリをしているだけなのだという人もいる(※1)。いわゆる「ごっこ説」と呼ばれており、ホラーで怖がる「ごっこ」をしているだけなのだという。

鬼ごっこをする子どもたちは、鬼に襲われると本気で思ってはいない。だけど、鬼に追いかけられると、悲鳴をあげて逃げるだろう。そしてタッチされるとき、ドキドキしたり、身体がこわばったりするかもしれない。このときの身体の状態は、本当に危険が迫っているときと同じであり、後に振り返ると、「ああ怖かった」というだろう。

これと同じで、映画はフィクションであり、現実の自分に危険が迫ることはないと確信している。そして、映画の中の登場人物が襲われているとき、自分も襲われているフリをすることで、ゾクゾクするようなスリルを、安全に楽しむことができるのだ。

なるほど……と納得しかけるのだが、やっぱり「怖い」と感じる心は否定できない。なぜなら、映画を観た「後」のいまでも怖いから。ふとしたはずみで出てくる「思い出し笑い」のような、「思い出し恐怖」は、確かにある。

恐怖を超える快楽がある

次は、2に反論する。1の「ホラーを観ると怖くなる」は認めるが、それを上回るなにかがあるために、「避けたい」とは感じなくなるのではないか、という主張だ(本書では、補償説と呼んでいる)。

まず、1を「ホラーは恐怖だけを生み出す」と読み替える。すると、本当にそれだけ? という疑問が生まれる。怖いという感情の他に、ドキドキしたり、日常では味わえないスリルを感じることができる。

これはむしろ、「避けたい」のではなく、味わいたい感覚じゃないだろうか。つまり、恐怖も感じるが、それを乗り越える快楽があるから(補償するから)、ホラーを観たくなるという理屈だ。

これはしっくりくる。

『バイオハザード7』をクリアしたときの感じがそれで、「生き延びた!」という達成感は、それまで何度も何度も何度も死んできた恐怖を凌駕して、脳汁ドバドバあふれ出していた。この快楽も強烈に刷り込まれていて、「思い出し笑い」のような「思い出し快感」は、ふとしたはずみで出てくることがある。

恐怖という激しい情動は、大脳辺縁系の活動に直結している。扁桃体にて価値判断が行われ、視床下部に伝えられ、自律神経とホルモン分泌が反応し、心臓の拍動が早くなり、胃腸の動きも変化する。同時に扁桃体から中脳へ伝わった情報は、すくみ上がるといった行動が引き起こされる(※2)。

「恐怖」のドキドキと「好き」のドキドキを取り違える

恐怖を感じるときの身体状態(発汗、心拍数と呼吸の増大、アドレナリン、感覚器の感度上昇)は、そのまま「生きのびる」ことに直結したものになる。恐怖を感じた後、物語の最後までたどり着き、実際の生き延びたのであれば、身体が準備した反応が成功したことになる。

ホラー映画では、少なくとも主人公(その物語の目撃者なり、語り手)は、映画のラストまで生きている(はず)だ。

だから、ホラー映画を最後まで観るということで、生き延びた、という達成感を味わうことができる(もちろん例外はある。『ゾンゲリア』とか『ファイナル・デスティネーション』とか)。この「生き延びた」がカタルシスを生み、その快感が恐怖を上回っていると考えられる。

この仕組みは、吊り橋効果に似ているかもしれない。ゆらゆらする吊り橋や、ドキドキするジェットコースターのような場所で一緒に過ごした異性のことを好きになってしまうやつ。不安や恐怖からのドキドキと、恋愛感情のドキドキを取り違えてしまうという理屈で、デートの定番が遊園地なのは、この理論の表れなのかもしれぬ。

矛盾した感情を説明する

本書では、こうした感情の矛盾を説明している。

例えば、嫌いな人やものを逐一監視する人がいる。SNSでおかしくなる人は、だいたいこれで病んでゆく。

なぜ、見たら怒りを感じるような人やものを、わざわざ見に行くのか?

これも、補償説で説明できる。

もちろん、見たら怒りを感じ、嫌悪感を掻き立てられるだろう。だが、怒りと同時に、「こいつは非常識なやつで叩かれるべきだ」という義憤も沸き上がってくる。

そして、その言動を断罪する自分のほうが、人として優れているという優越感も味わうことができる。さらに、こいつは非常識なやつだと拡散することで、自分はそいつを非難できる良識があると仲間にアピールして、連帯感を育むことができるというのだ。

こうした優越感や連帯感といった正の感情が、怒りや嫌悪といった負の感情を上回るため、「嫌いなものをわざわざ見に行く」という行動を取るというのだ。

哲学に限らず、心理学や脳神経科学、文化人類学、進化生物学など、さまざまな分野での感情研究を紹介した一冊。


※1  ケンダル・ウォルトン 2015「フィクションを怖がる」『分析美学基本論文集』勁草書房p.310-334

※2 恐怖する脳、感動する脳
http://www.brain-mind.jp/newsletter/04/story.html

恐怖の情動から考える大脳辺縁系の機能
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jrn/11/0/11_20110102/_pdf/-char/ja

 

 

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「30秒で描いた絵に100万ドルは高すぎる」と非難されたピカソは何と答えたか?

「ピカソの30秒」という小話がある。

ピカソが市場を歩いていると、ある婦人が呼び止めた。彼女はピカソの大ファンで、絵を描いて欲しいという。

快諾したピカソは、さらさらと絵を描き上げた。婦人は喜び、いくらなら絵を譲ってもらえるか尋ねた。ピカソはこう言った。

「このスケッチは100万ドルです」

婦人は驚き、高すぎると言った。たった30秒で描いた絵が、どうして100万ドルもするのか尋ねた。するとピカソはこう答えた。

「いいえ、30秒ではありません。私は、これまでに30年もの研鑽を積んできました。だから、この絵を描くのにかかった時間は、30年と30秒なのです」

「30年」が「40年」だったり、「100万ドル」が「5,000フラン」だったり、様々なバージョンがあるが、出所が見当たらない。都市伝説みたいなものだと思っていたが、出典を見つけた。

ただしピカソではない。

ピカソの30秒の元ネタ

該当の絵はこれだ。ホイッスラーの「ノクターン」(1877年)になる。

James McNeill Whistler - Nocturne en bleu et or.jpg

Wikipedia:James McNeill Whistler より

ホイッスラーはこの絵に200ギニー(およそ1,000万円)という値段をつけた。

ところが、批評家のジョン・ラスキンは「この絵に200ギニーを要求するとは、実にあきれた話だ」と盛大にこき下ろした。ホイッスラーは名誉毀損で訴え、裁判となった。

法廷の反対尋問にて、「たった2日間だけの仕事」に対して、どうしてあんな途方もない額を要求しているのか、と追求された。ホイッスラーはこう答えた。

「とんでもない。生涯をかけた研究成果に対して200ギニーを要求しているのです」

このエピソードの出所は、E.H.ゴンブリッチ『美術の物語』(PHAIDON出版、ポケット版) p.406 になる。

ドラゴンクエスト「序曲」の作曲にかかった時間

同様のことを、すぎやまこういち氏が述べている。ドラゴンクエストの「序曲」のメロディを作ったときのことを、こう語る(※1)。

「序曲」のメロディに関しては出来上がるまでに5分かからなかったかな。

30年前の曲で、今再び人気の「亜麻色の髪の乙女」のメロディは車で運転中に急に浮かんだメロディなのです。それでよく著作権に関して「たった5分で出来た曲にしては、ずいぶん稼げていいね。」と言われるのですが、これは5分ではないのです。

ドラゴンクエストの「序曲」を作ったとき、僕は54歳の時です。ですから、「序曲」が出来上がるまでには「5分+54年」と考えてください。つまり、僕の54年間の人生が無ければ、あの「序曲」は出来なかったわけです。

クリエイター界隈で、「降りてくる」と表現される現象がある。作品のコアになるアイデアを思いつき、形を成す瞬間のことを指す。「序曲」が降りてくるのは、5分だったのかもしれない。

だが、そのメロディが降りてくる状態になるためにかかった時間は、54年になるのだ。

5万ドルのチョーク代

これらは、絵や音楽に限らず、何かを創造する人には必ずついて回る話だろう。

プロフェッショナルが楽々とこなす仕事は、そこに至るまでの勉強と経験の積み重ねの上に成り立っているのであり、目に見えているその場限りのものではない。この、「退職したエンジニア」のエピソードが象徴的だ。

ある優秀なエンジニアがいた。給料で折り合いがつかず、会社を辞めてフリーランスになった。

数年後、もといた会社から依頼がきた。数億ドルする機械が動かなくなったという。いろいろと手を尽くしたものの修復できず、彼に頼ってきたのだ。

彼は丸1日かけて機械を調べあげた後、ある部品にチョークで✕印を付け、そこを交換せよと指示した。その部品を交換すると、機械は正常に動作するようになった。

後日、彼は5万ドルを請求した。

会社は高すぎるとクレームをつけ、たかがチョークに5万ドルはおかしいと、料金明細を要求した。

彼が提示した明細は、次の通り。

チョーク代 1ドル
どこに✕印するか知っていること 49,999ドル

料金は全額支払われたという(※2)。


※1 やさしい著作権のお話:すぎやまこういちを囲む会にて

※2 コンピュータージョーク:エンジニアを理解しよう

 

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原文で読むからこそ味わえるヘミングウェイの文章の味『ヘミングウェイで学ぶ英文法』

正直に告白すると、ヘミングウェイは苦手だった。

簡潔で、説明不足で、ぶっきらぼうな文体だったから。

しかし、この本を読んで、考えが変わった。

例えば、”Cat in the rain” における、雨宿りをしている子猫を見かけた妻が、夫に告げるシーンだ。

I’m going down and get that kitty,” the American wife said.

I’ll do it,” her husband offered from the bed.

“No, I’ll get it. The poor kitty out trying to keep dry under a table.”

本書の解説で、「現在進行形(I’m going)と will の違いが分かりますか」と問いかけられる。

え? be going ~って、結局、『~するつもり』だから、will と一緒でしょ……と思うのだが、実は違う。この、妻の be going と、夫の will の違いこそが重要なのだ。

どちらも未来にすることを指すが、現在進行形は、「もうその行為や状態に向かいつつある」という意味になるという。つまり、妻の気持ち的には、「猫を捕まえにいく」という行為は既に始まっているのだ。

対して夫の “I’ll do it,” は、話し手の意志を示す。「僕がするつもり」なのだが、ベッドの中から(from the bed)答えている。「するつもり」と言ってるだけの可能性が高く、とても信頼できない。

だから妻は、“No, I’ll get it.” と、夫の提案を拒絶し、「どうせやらないから私がやる」とハッキリ告げているというのだ。

ヘミングウェイは形容詞を使わない

わずか3行で、夫婦のすれ違いが浮き彫りにされている。

ここに限らず、あちこちで会話がかみ合っていない。別に罵り合っているわけではないが、何かがズレている。読み進むうち、「この2人、何かわだかまりを抱えているのではないか……?」と不穏に思えてくる。

しかし、ヘミングウェイは「険悪な空気」とか「妻は怒った」と書かない。猫を欲しがる妻と、ベッドで読書をする夫の会話が続くだけ。さらっと読むと、なんてことなく、2人が何を考えているのか、分からなくなる。形容詞や感情を示す言葉がないのだ、ヘミングウェイには。

『ヘミングウェイで学ぶ英文法』では、英語学の専門家とつきっきりで、原文を読み込む。要所に下線を引き、「なぜその文型なのか」「どうしてその冠詞なのか」と問いかけてくる。

作品を英語で味わうのが目的だから、最初に全訳を読んで、ストーリーを把握できる。その上で、原文→解説の順になっているのが嬉しい(いきなり原文だとハードルが高いからね)。

そして解説に導かれ、原文を生(き)のままで読み直すうち、登場人物の感情が浮かび上がってくる。

そこには、目に見える会話や行動とは別に、水面下で別の感情が渦まいており、それらが時に暴発し、物語にさざ波をもたらす。わたしは、水面だけを眺めて、「たいしたことが起こらない」とか、「何を考えているか分からない」で片づけていたのだ。

何気ない一言や、ほんとうに些細な行動を、わざわざ書き記しているといことに、意味があるんだ。見えている部分から、見えていない物語を推察し、両義的な世界を感じる―――これが、ヘミングウェイがやりたかったことなのかもしれない。

文章は形容詞から腐る

「文章は形容詞から腐る」と言ったのは開高健か。

描写対象をデコレートし、書き手が伝えたい「情報」を与え、意味づけを行う―――それが形容詞だ。生き物に喩えるなら、まず眼や内臓や花弁、つまり最も美味な箇所から腐ってゆくように、小説も飾った場所から衰え、腐り、崩れてゆく。

そして、完全に腐り落ちたあと、残るのは骨だ。ヘミングウェイが時代を経て評価されているのは、そうした骨のある文章だからといえるだろう。

形容詞を排し、動作と会話だけで構成された小説は、極めて少ない。

わたしの知る限り、ヘミングウェイの衣鉢を継ぐのは、コーマック・マッカーシーや、ジョン・ウィリアムズだろう。かくも美しくも残酷な物語を、「美しい」も「残酷」も使わずに表現してくれる。「悲しい」と書かずに悲しさを伝えてくれる作家だ(『ストーナー』はいいぞ)。

おそらく、マッカーシーもウィリアムズも、生(き)で読むと、もっと面白いに違いない(”Augustus” あたり読めるだろうか?)。読めるようになりたい……

本書は、読書猿さんのお薦めで出会った。ありがとう、読書猿さん。

 

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リングフィットアドベンチャーで一番えっちな運動はどれか?

引きこもりによる運動不足を解消すべく、リングフィットアドベンチャーを続けている。だいたい100日で腹が割れてきて、150日で引き締まった身体になった(体重は変化なし)。

継続は力は本当だが、続けるためにはモチベが要る。

やせたいとか、腹をへこませたいとか、そんな動機だと、いずれそのうち心は折れる。

たとえ1日20分でも、効果が出るには時間がかかる。長期的な成果の前に、より短期的な動機付けが必要なのだ。

だから、えっちな運動を提案する。

リングフィットでは、自分の動作を主人公のアバターが真似をする。つまり、えっちな運動を選べば、その通りにアバターは動く(ここ重要)

えっちなポーズで静止して主人公さんを眺めたり、運動してる自分の姿を鏡に映して見ることで、ニコニコしながらフィットネス。折れた心は元通り。エロスは全てを解決する。

このゲームには、実に60種類以上ものフィットネスが用意されている。「うで」「はら」「あし」の部位を重点的に鍛えたり、体幹を鍛える「ヨガ」など、簡単なものからキツいものまで様々だ。

ここでは、独断と偏見で選んだ、わたしのモチベを刺激する運動を紹介する。

第10位:チョウツガイのポーズ

上体を前に倒し、片方の腕をゆっくりと上げ下げする。

お尻鑑賞エクササイズ。重要なのは、テレビに映る主人公さんのお尻を見ながら、自分も同じようにお尻を突き出しているんだ、と想像すること。見る自分=見られる自分と重ねることで、動機付けがUPする。

第9位:ヒップリフト

床に背中を付けて寝そべり、腰を浮かす。

ヒップアップの効果があるというが、やってることがヒップアップである。「やだ、腰が浮いちゃう!」とかつぶやきながらプレイすると、動機付けが上ること請け合う。おっさんがリビングでするようなポーズではない。

第8位:ベントオーバー

身体を前に倒し、リングコンを左右に持ち上げる。

ただ持ち上げるだけなのだが、腕をまっすぐにキープするのがキツい。主人公さんが突き出す形の良いお尻がえっちである。こういうお尻になりたいという理想の形である。上目づかいで鑑賞するため、ことさらゆっくり動作している。

第7位:バンザイモーニング

リングコンを頭上に持ち、前へと倒す。

これもお尻がよい。そろそろお気づきになられたであろうが、モチベを刺激するにあたり、お尻に重点が置かれている。起き上がるとき、主人公がぴょこんと起立するのが可愛い。マネしたらギックリ腰になった。

第6位:折りたたむポーズ

リングコンを、背面から前へと、ゆっくり倒す。

リングフィット屈指の丸見えポーズである。むっくりさらけ出される股間をじっくり眺めながら、ゆっくり起き上がる。安全が確保されている状態を見計らって全裸ですると、かなりの動機付けとなる。全裸でリングフィット、これは効きます。

第5位:バンザイスクワット

リングコンを頭上に持ち、スクワットする。

スクワット系は良い。スクワット、ワイドスクワット、バンザイスクワットの順でキツくなるが、同時にお尻の形も良きものに見えてくる。少しでも長く鑑賞するために、しゃがみキープを続けることで、脂肪燃焼にも効く。

第4位:椅子のポーズ

腰を落とし、リングコンを上下にゆっくりと動かす。

一見、地味なポーズだが、ゆっくりやればやるほどキツい。いわゆる「空気椅子」である。私見だが、この運動をするときのお尻の形が最も良きものに見える。お尻から足全体が火照るのをシンクロしながらプレイしている。

第3位 アシパカパカ

足を上げた状態で床に座り、両足を大きく開く。

とても人様には見せられない、あられもない恰好である。足を開いたまま静止すると、主人公さんも開きっぱなしになるので、モチベーションがさらに上る(ただし、そのうちお腹がぷるぷるしてくる)。

第2位:プランク

両ヒジを床につけ、腰を上げる。

完全に正常位である。あるいはダイナミックな床オナである。めちゃくちゃキツいが、「これは腹斜筋を鍛えるアクロバティックな性行為なんだ」と自分に言い聞かせることで、続けられる。想像力は全てを解決する。

第1位:スーパー腹筋ガード 

リングコンを強くお腹に押し付け、足を大きく開き、膝も曲げ続ける。

実はこれ、通常の技ではない。ボス戦にて特定の条件を満たした場合にのみ、発動する。通常の腹筋ガードよりも長く、スクワットも維持する必要があり、かなりキツい。でもこれ、ボスの攻撃を堪えているとき、お尻がぷるぷると震えるのだ!

全裸でリングフィットアドベンチャー

このゲームはよくできている。

ともすると単調になりがちな運動を、様々なミニゲームに置き換え、「運動をする」のではなく「冒険をする」ことで続ける気にさせてくれる。

だが、それでも飽きる。にんげんだもの。

キツい運動しているとき、ふと我に返り、「どうしてこんな変なポーズやらされているだろう?」と自問することがある。

そうしたものを乗り越えて、先に進むためにはどうするか?

そう、想像力だ。

主人公さんとシンクロしつつ、「こんなはしたない恰好させられてる!」と自分自身を脳内に浮かべることで、動機付けがマシマシになる。

「キープ!」というメッセージが出ているとき、主人公さんの使われる筋肉の部位がオレンジ色に輝く。その部位を自分の身体で意識しながらトレーニングすると、なおよい。

さらに、人目のない安全が確保されていれば、全裸プレイが最強だ。テレビを前に、鏡を横に配置して、主人公さんを観察しつつ、横目で自分も眺める。

たとえばスクワットするとき、自分の筋肉がどんな風に動いているか目視できる。あるいは、腹筋ガードで「腕じゃなくお腹に力を入れる」とは何か、実際に確かめることができる。全裸だから。

旅の途中で心が折れた方、あるいは、これから挑もうとする冒険者たちは、この記事を参考に、リングフィットアドベンチャーの奥深さを探求して欲しい。

想像力とエロスで、どこまでも行こう!

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コンピュータは創造性を持てるか?『レンブラントの身震い』

「コンピュータは創造性を持てるか?」という問いを目にするたびに、この「俳句」を思い出す。

かかかかかかかかかかかかかかかかか

俳句は五・七・五の定型詩だから、十七音になる。濁音などもあるが、日本語を五十音とすると、俳句の全ては50^17(50の17乗)首になる。

その解は、7.62939453×10^28という途方もない数字である。字余り・足らず・自由律も考えるとさらに膨大になるが、組み合わせはコンピュータの得意技だろう。一つ一つ見てゆくと、膨大なデタラメの中に、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」だってある。冒頭の「俳句」は膨大な中の一首だ。

問題は、「かかかかか」から「法隆寺」を選び取ることにある。そしてそれは、人にしかできない。

もちろん、優れたコードであれば、季語を判断したり、言葉として成立している組み合わせに絞れるかもしれない(実際ある※1)。

だが、そこから、創造的な、良い句を選び取ることは、最終的に人になる。AIが詩を書いたとか、絵を描いたというニュースを目にするたびに、傍らに控えている人に目が行く。

コード自ら創発的なアウトプットを出せるのではなく、人が介在して初めて、創造的に振舞っているように見えるのだ。

人工知能がレンブラントの「新作」を創る

マーカス・デュ・ソートイの『レンブラントの身震い』は、このテーマに真っ向から斬り込む。

もし、AIがレンブラントの作品を学習したならば、レンブラントが描いたであろう次の作品(Next Rembrandt※2)を創ることができるか? その「新作」は見るものを感動させることができるのか?

まず、レンブラントの肖像画346作品をスキャニングし、モデルの性別、年齢、顔の向き、顔のポイントとなる幾何学的分析する。

次に、レンブラントが次に描いたであろう典型的な人物のモデルを設定し、特徴的な光の使い方や目鼻、口を描く際のアプローチを踏襲していく。油絵のため、立体的な絵具の重ね方や凹凸もデータとして取り込み、学習していく。

死後347年の時を経て、AIが描いたレンブラントの「新作」はこれになる。

美術評論家は「味気なく、無神経で、魂のない茶番」と酷評で、レンブラントの作品に向き合ったときに人が感じる、「レンブラントの身震い」は引き出せなかったという。

貧困や老齢といった、レンブラントをレンブラントたらしめ、その芸術をかくあらしめた人間的な出来事を経験すべきだと断じている。だが、そうした経験が彼の作風にどのような影響を及ぼしているか、パラメータやタグとして定義できない限り、コードにすることは不可能だろう。

AIは「創造」ができるか

絵画、音楽、数学、文学、そして囲碁など、さまざまな角度から、この問題に迫ってゆく。

単なる模倣と組み合わせではなく、人が驚き、素晴らしいと感じられるような作品を創りだせるか?数多くの事例から面白そうなものをピックアップしてみた。

分野 名称 創造的なポイント 評価・感想など
絵画

アーロン
AARON

模倣や分解ではないアルゴリズムで抽象画を描く。色や線を選び取る意思決定プロセスに乱数を入れることで、自立的な振る舞いに見せる。 なぜこの配置のほうが別の配置よりも面白いのか、という選択は行われない。出力されたものを取捨選択するのは人。
絵画 ペインティング・フール ギャラリーを訪れた人の肖像画を描くプログラム。当日の新聞記事の単語から「気分」を決め、それに沿ったスタイルで描く。 「創造的」というものは存在せず、創造的なふるまいをするという方針。悲観的な記事が描かれた場合、意気消沈して絵を描かずに来訪者を追い払うことも。
絵画

ネクスト・レンブラント

レンブラントの絵画をスキャンし、タッチや色使い、レイアウトの特徴などをAIに学習させ、レンブラントの「新作」を再現する。 美術評論家の評「味気なく、無神経で、魂のない茶番」。レンブラントの作品に向き合ったときに人が感じる、「レンブラントの身震い」は引き出せなかった。
音楽
ディープバッハ バッハが作曲した352曲の讃美歌のハーモニーを学習し、バッハのスタイルで讃美歌を生成する。テストとして、実際にバッハの曲か、ディープバッハが作ったものか、判別してもらう。 被験者の半数が、ディープバッハの作品を、バッハの真作だと判断した。ただし著者は、「これじゃない」と異を唱える。
音楽

コンティニュエイター

ジャズ演奏者のリフを学習させ、ある音を加えたときの次の音の確率をマルコフ連鎖を用いて計算し、演奏を続けていく(コンティニューしていく:continuator) ジャズ・ミュージシャン「私が自分で演奏したはずのアイデア、といってもそれを思いつくのに何年もかかったはずのアイデアを見せてくれる。私の何年も先を行っていて、それでいて、これが演奏するすべてが紛れもなく私のものなんだ
音楽 Jukedeck(現在はサービス終了) キーワードや選択肢からAIが音楽を自動生成

「まぁまぁ」「ひどくはない、まぁ聞ける」「安価・大量にあるのがよい」など。著者は、「モーツァルトのサイコロ遊びのようなもの」。

数学 ミザール数学図書館 数学の証明を検証するプログラム。数学の証明の図書館を作成することを目的とする。人間が一切関わらなくて済んだ証明が全体の56%を占めている。ディープマインドは図書館のデータを用いて機械学習に訓練させ、新たな定理証明アルゴリズムを作成 人間が関わらなくて済む証明の割合を、56%から59%に拡張した(コンピュータだけで辿り着ける証明が3%増えた)。著者曰く、「だから何なのか。その3%に、息をのむような証明が含まれているのか。数学をするうえでのポイントを外している
文学 イライザELIZA 人と会話するセラピストプログラム。相手のキーワードを判断し、それに応じた反応を示すオウム返し 広がりに欠けていて柔軟性が乏しく、それまでの会話を覚えていない可能性もある。
文学

サイバネティックポエット

シェリーやT・S・エリオットの完成された詩人の作品から、言葉の一部を入れ替え、換骨奪胎することで新しい詩を生成する。 チューリングテストで、人間の判定者たちをほぼだましおおせた。著者曰く、出力結果の解釈をヒトに任せたから、多少謎めいていても、人が書いた作品として通用した。
文学

ボットニック

ハリポタ全巻学習させて、使われている単語や言い回し、筋書きを入れ替えることで、新しいハリーポッターを創造する。

著者曰く、プロットに欠け、3ページ以上ドラマを展開できるとは思えない。

文学

シェヘラザードIF

ジョージア工科大学によって開発された、既存の物語から学習して、読み手とインタラクティブに対応しながら新たな物語を作成するプログラム。

初期プロットから選択肢が示され、選ばれた選択肢からさらに別のストーリーが生成される。いわゆるアドベンチャーブックの自動生成版。優れた物語を見つけるのは至難の業

囲碁

AlphaGo

Google DeepMindによって開発されたコンピュータ囲碁プログラム。プロ棋士を打ち破ったことは世界に衝撃をもたらした。

囲碁韓国チャンピオンのイ・セドルとの第2局目の黒37手は、それまでの囲碁の慣例を覆した「創造的」な一手とする。AlphaGoにより、全く新しい戦略が研究されるようになった。

面白いことに、「AIは創造性を持てるか?」という切り口で眺めると、「創造性とは何か?」と問われているように感じられる。

創造性とは何であるかが定義できるのであれば、そいつを引数にコードにしたり、タグづけして学習させるデータセットを用意できる。だが、事実、そうでないからこそ、この問いに立ち返ってくるのだ。

「創造性がある」と言わしめるためには、人をあっと驚かせ、既存とは違う印象を与えるだけでなく、それを「良い」「素晴らしい」と感じさせる必要がある。そこには、必ず人のフィードバックを必要とする。なぜなら、「良い」は予め定義できないから。

フィードバックが早いほど創造的になれる

音楽のAI「コンティニュエイター」が良い証拠だ。

ピアノやギターであるリフを弾くと、そのその演奏を学び、次のフレーズを返すAIだ。ただ返すだけでなく、新たな領域を探りながら即興で創りあげ、演奏を続けていく(continuator)。

例えば、子どもがデタラメに鍵盤を叩けば、AIもデタラメに(でもちょっと違った風に)返してくる。プロのギタリストが即興で速弾きすると、負けじと素早いフレーズで追いかけてくる。

AIのインタラクトにはマルコフ連鎖が用いられていると解説されるが、聞いているほうにとってみれば、「もう一人のプレイヤーが応えて弾いている」ように見える。

コンテンポラリー・ジャズを専門とするベルナール・リュパは、コンティニュエイターを試した後、大いに感銘を受け、作曲スタイルを変えたという。

私が自分で演奏したはずのアイデア、といってもそれを思いつくのに何年もかかったはずのアイデアを見せてくれる。私の何年も先を行っていて、それでいて、これが演奏するすべてが紛れもなく私のものなんだ。

AIは「自分が弾いたかもしれないリフ」を提案し、それに沿って行くか、それとも異なる方向に変えていくかを、人がフィードバックする。文字通りの「セッション」を重ねていくことで、プレイヤーにとっての「良い」を学習していくことができる。

本書を通して読む限り、AIが創造的に見えるとしても、「選ぶ」という行為は人に残り続ける。なぜなら、何をもって「良い」とするかは、時代や文化により違ってくるから。

 


※1 「AI一茶くん」というプロジェクトで、既存の俳句と適切な風景画像の組み合わせを学習させ、任意の風景画に対して新たな俳句を出力させる。

https://www.s-ail.org/works/aihaiku/

※2 「ネクスト・レンブラント」というプロジェクトで、ディープラーニングでレンブラントの作品の特徴を分析し、3Dプリンターを使って“レンブラントらしさ”を再現する。

https://www.nextrembrandt.com/

 

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「ジャンプ最高のマンガ」がバラバラになる理由『好き嫌い 行動科学最大の謎』

「週刊少年ジャンプで最高のマンガは?」

この答えは、必ずといっていいほど割れる

気持ち的にスラムダンクを推したいが、やはりドラゴンボールだろうか。だが、ワンピこそ最高という人、完結さえすればH×Hだという人、売上的にも鬼滅という人、様々だ。

面白いことに、学生時代の友人だと被るのに、若者と話すと違ってくる。たしかに呪術やヒロアカは凄いけど、それを「ジャンプ最高傑作」と言われると違う気がする。

老害承知で「ドラゴンボールって知ってる?」と尋ねると、「知ってはいますが、読んでません」とにべもない。さらに、「あれ好きな人って、マンガだけでなく、ゲームやアニメで何度も目にしているから好きなんでしょ?」と畳みかけられる。

ううむ、確かに……

ドラゴンボールがジャンプ最高傑作である理由

私のモヤモヤは、『好き嫌い 行動科学最大の謎』で解消される。

何度も目にしたキャラや、あちこちで耳にした音楽が好きになる。これは、単純接触効果という名前がついている。くりかえし触れることで、そのキャラや音楽を学習し、認知が容易になるためだという。

つまり、認知処理が容易であれば心地よく、それが刺激そのものに対する感情に移し替えられるというのだ。なるほど、「オレンジ色の道着」というだけで想起できるぐらい、わたしの認知処理は馴染んでいるのかもしれぬ。

ただし、何度も接触すれば好きになるかというと、そうではない。

これは、テレビのCMやネット広告でよくある。何度も触れているうちに、キライになる場合もある。

なぜか? この疑問にも、本書は答えている。

ポイントは、最初に意識された印象によるという。特に肯定的でも否定的でもなく、単に目新しい、という条件であれば、接触を繰り返すことで好みを高める。

だが、初めの感情がわずかでも否定的だった場合、接触が繰り返されることで、キライが積み重なっていく場合があるという(※1)。

「第一印象が最悪だったけれど、会っていくうち好きになっていく」というラブコメの王道パターンは、ファンタジーなのかもしれないね。

「ジャンプ最高傑作」が割れる理由

そうはいっても、接触効果だけで説明がつくのだろうか?

よく売れていて、馴染みがあるものが、自動的に一番になるのだろうか。ほんとうに、「売れてるものが一番なら、世界で一番おいしいラーメンはカップ麺だ」なのだろうか?

本書では、その秘密にもメスを入れる。

ホルブルックとシンドラーの研究によると、人は、23.5歳のときに聴いた音楽を、最も好む傾向がある(※2)。この時期は、人生で最高感度の臨界期であり、コンラート・ローレンツの「刷り込み」のように、ここで聴いた音楽が長く耳に残るというのである。

これの傾向は、レミニセンスピーク(レミニセンスバンプ/Reminiscence bump)という言葉でも説明される(※3)。

記憶に残るほど衝撃を受ける出来事や変化は、青年期~若年成人期に起こるというのだ。この頃に聴いた音楽は、記憶の中に残りやすいことになる。

Lifespan Retrieval Curve.jpg
Reminiscence bump より引用(Public Domain, Link

過去の「良い」と感じた音楽だけが、記憶の中で残り続ける。だが、現在は、「良い」と感じた音楽も、そうでない音楽も耳に入ってくる。過去だけが、自分の良いと感じたものを再生できるというのだ。

記憶とは、自分の聴きたい曲だけを流すラジオ局のようなものだ。好きな音楽のことを考えて多くの時間をすごしたなら、その音楽を聴けばいまでもすぐに思い出があふれてきて、快感をくすぐられるのは当然なのである。

なるほど、私がスラムダンクやドラゴンボールを最高だと思うのは、それを若いころに読んだからだということになる。フライングで買えるコンビニまで30分自転車こいだ記憶や、深夜のテンションで友だちと回し読みした思い出も込みで、「最高」と感じているのかもしれぬ。

そして、自分が若いころに読んだ/聴いた作品がスペシャルになるが故に、「ジャンプ最高」は割れるのだろう。

他にも、作品が賞を受賞すると、Amazonの★評価が大きく下がる理由や、フィギュアスケートや音楽コンテストで、後の演者の方が得点が高くなる理由など、興味深いトピックが紹介されている。

行動科学の観点から「好き/嫌い」を探ることで、自分の「好き」がいかに不確かでバイアスにまみれているかが明らかにされる。

本書は、骨しゃぶりさんのお薦めで出会うことができた。骨しゃぶりさん、ありがとう!


※1 Richard J Crisp and Bryony Young “When mere exposure leads to less liking”

https://www.researchgate.net/publication/5308635_When_mere_exposure_leads_to_less_liking_The_incremental_threat_effect_in_intergroup_contexts

※2 「モリス・ホルブルックとロバート・シンドラーの研究」とあるが、論文名は原注がないため特定できず(『好き嫌い』p.171)

※3 Howard Schuman and Jacqueline Scott “Generations and Collective Memories” American Sociological Review Vol. 54, No. 3 (Jun., 1989), pp. 359-381 (23 pages)

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東大教養学部の集中講義『歴史学の思考法』

高校日本史の教科書で、鉄砲伝来の記述として正しいのはどちらか?

  1. 1543(天文12)年、ポルトガル人の乗った船が、九州南部の種子島に漂着した。
  2. 1543(天文12)年、ポルトガル人を乗せた中国人倭寇の船が、九州南部の種子島に漂着した。

答えは、どちらも正しい。Aは、1980年代の記述で、Bは近年のものになる。

だが、イメージが違ってくる。Aだと、ポルトガル人を乗せた西洋の船が漂着した、と想起されるが、Bの場合だと、橋渡し役として倭寇が登場する(※)。

なぜ、記述が変わったのか? 新たな史料が発見されたのか?

新しい史料が発見されたわけではない。南浦文之『鉄砲記』とガルヴァン『新旧発見記』とで、漂着した年に差はあるが、根拠となる史料は変わっていない。

同じ史料に基づいているにもかかわらず、昔の教科書では「中国人倭寇の船に乗って」いなかったのはなぜか?

史料を読み取る側の変化

東大教授陣の『歴史学の思考法』によると、変わったのは、史料を読み取るわれわれの側になる。

潮目は、1990年の前後。

それまでは、歴史学者の間で「国家の枠組みを前提とした歴史」が主流だった。だが、戦後体制の崩壊やグローバル化の世界情勢の中で、「国家の枠組み」の限界が強く意識されるようになったという。

そして、国境をまたぐ「東アジア海域」全体の歴史像をとらえようとする研究視角が生まれ、この視角からの研究が盛んになる。そこでは、倭寇を単なる「荒くれもの」とせず、地域間の交流や商業を担っていたという側面に目が向けられるようになる。

教科書の記述が変わったのは、こうした背景による。

新たな視角による歴史像の再解釈のなかで、今まで注目されていなかった事実(ポルトガル人は中国人倭寇の船に乗ってきた)の重要性がクローズアップされた結果だというのだ。

歴史とは現在と過去との対話

歴史は過去を扱うから、歴史学は「確定したもの」に対する学問だと思っていた。新たな史料が出てこない限り、「確定したもの」は変わらないと考えていた。だが、この考え方は違っていたようだ。

本書p.27にこうある。

歴史学の営みが行われるのは、現在(いま)である。現在を生きる人間が、その時代の価値観や情勢を背景に、ある問題について関心を持ち、そこから過去に対する問いを立てる。その意味では、歴史学は現在がなければ存在しない、現在と不可分の学問なのだ。

そして、現在の情勢はゆるやかに、時に急速に変わってゆく。そうなると、その時点から、「現在」は過去になるため、過去はさらに問い直されることになる。

「ポルトガル人が鉄砲をもたらした」という史実は変わらないが、それをどう評価するかは、現在のわたしたちの価値観によって変わる。変わるたびに過去は問いなおされ、フィードバックされるのだ。E.H.カー「現在と過去との尽きることを知らぬ対話」という言葉は、まさにこれを指しているのだろう。

世界史 ≠ 各国史の総和

自分の盲点に気づいたのが、「各国を合わせると世界になるが、世界史は各国の歴史の総和ではない」という点だ。

たとえば地図帳を開くと、国別に色分けされた世界地図が目に入る。現代の世界は国家を単位として構成されているから、世界とは各国の総和だという考えは自然に思える。

だが、この思考法に基づいて世界史を思い描くことは、問題だという。

では、どのような問題があるか。

もし、「世界史=各国史の総和」だとすると、このように構成できるだろう。

世界史 東洋史 東アジア史 日本史
中国史
朝鮮史……
東南アジア史 ベトナム史
タイ史
フィリピン史……
西洋史 ヨーロッパ史 イギリス史
フランス史
ドイツ史……
アメリカ史 アメリカ合衆国史
カナダ史……

だが、上記のように構成させると、様々な問題が出てくる。

まず、各国の歴史が孤立的、単線的に扱われてしまうという。各国に閉じた中で、互いに影響しあうことなく、個別が展開していくという、ありえない歴史像になるという。

次に、歴史的に見て、「国家」という政治単位は、特定の時期に形成されたものであるにもかかわらず、固定的にとらえてしまうおそれがあるという。そして、固定的な見方から遡及して、過去を切り取ってしまうことになる。

その結果、現在の「国家」によって歴史を分断したり、現在「国家」でないものを切り捨てることになる。たとえばチベットは、固有の言語、文字、信仰をもつ独自のまとまりをなしてきたにもかかわらず、現在国家をもちえないために、抜け落ちてしまう。

さらに、「国家」の内実の重層性をすくいきれなくなるという。ある空間における住民と言語、文化、風俗習慣との組み合わせや重なりは多様なはずで、ピッタリとは重ならない。この重層性・多層性の見え方が抜け落ちてしまう。

たとえば、かつてユーゴスラビアと呼ばれた「国家」は、7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字を持っていた。それぞれが絡み合い、分断されていた。坂口尚のコミック『石の花』でユーゴスラビアの複雑な状況を知ったが、上記の構成では、どこにも記載できないだろう。

あるいは、アニメ映画『もののけ姫』では、「国家」から分断された人々が登場する。大和に敗れた蝦夷の末裔であるアシタカの民や、城塞都市のごとき自治組織で、製鉄・加工プラントを運営するタタラの人々がそうだ。もちろん『もののけ姫』は物語だが、そのモデルとなった人々は実在した。そうした人たちを無視した歴史を記述しようとすると、「日本」の多層性・重層性は抜け落ちてしまうだろう。

歴史学の思考法

むしろ、これらの問題を逆転させると、歴史学の思考法が見えてくる。

すなわち、各国は互いに影響を及ぼしながら歴史は展開してゆくものであり、現在(いま)目に見える国家で過去を遡及的に切り取ることは危うい。

さらに、空間における人、言語、文化の組み合わせの「ずれ」にこそ、目を向ける必要がある……これが、歴史学の思考法になるのだ。

他にも様々な方法で、歴史学の思考法がどんなものであるか、学ぶことができる。12講座12章のテーマで、特に気になったのがこれ。

  • 気象変動と歴史(歴史は人間が作るといわれるが、気象変動にも多大な影響を受けてきたことを、海水準変動から説明する)
  • 「帝国」の見直し(均質性を求める国民国家より、多様性を認める帝国を再評価する動き)
  • サバルタン(権力構造から疎外された人々)の歴史は語ることができるかを追求する
  • 文学として歴史学のテクストを書くこで、実用的な過去としての歴史学を追求する。歴史の書法(エクリチュール)の可能性

東大駒場の教養学部で行われる連続講義をまとめた一冊。

※『歴史学の思考法』では「倭寇」と表現されているが、「密貿易商」という表現もある。下記参照。

鉄砲を伝えたとされるポルトガル人は、おそらく1542(天文11)年、シャム(タイ)から中国人密貿易商の王直の船に乗って種子島に着いたものとみられる。
山川新日本史 改訂版(2017文部省検定済)p.143

ちなみに、日本で宣教を行ったフランシスコ・ザビエルも、倭寇の船で来日したとのこと。

 

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インドでメシ食ったら人生大逆転した『今日ヤバイ屋台に行ってきた』

470万回再生されているこの動画、たまご300個でスクランブルエッグ作っているんだけど、語彙力を失うヤバさで、何度も魅入ってしまう。

バケツ一杯の玉ねぎと、トマト40個刻んだやつに、笑うしかない量の油と、土俵入り3回分の塩、チリパウダーとパクチーとトウガラシは親の仇くらい盛る。

[これ]

これらが直径1メートルの円い鉄板にぶちまけられ、火力MAXで焼かれてゆく。ダイナミックに撹拌されるチリパウダーの粉塵が、蒸気に乗って店内に充満してゆくのが見える(せきと涙にまみれながら撮影したそうだ)。

他にも、牛肉バーガー300人前を一気に作るとか、ドライカレー100人前とか、ヤギを一匹丸ごと使ったビリヤニ(炊き込みごはん)とか、屋台ではありえない物量を豪快に作る。

持ち込みを調理してくれるのもアリで、日本から持ってきた「サッポロ一番塩らーめん」「ペヤング超超超超超超大盛やきそばペタマックス」を元に、オリジナリティが如何なく発揮され、原型を留めていない一皿を作ってくれる。

撮っているのは著者自身で、登録者数60万人を越えるYoutuber、坪和寛久さんになる。インドの屋台を撮った動画で有名になり、再生数100万回を越えるのもザラで、「サッポロ一番塩らーめん」なんて今見たら427万回というお化けコンテンツなり。

インドでメシ食って人生が変わった男

その書籍化が、[今日ヤバイ屋台に行ってきた]

著者は、インドと縁もゆかりもなかったそうな。

卒業して、就職して、5年ほど働いたのだが、どうも会社人としての立ち回りが下手なほうで、「うだつのあがらない社会人」だったという。悶々としていたときに、インドで働く知り合いから声をかけられ、海を越えることになる。

人生を変えるきっかけは、屋台メシだった。

削りチーズにより埋没した「1kgサンドイッチ」なるものを口にして、そのあまりの美味さにのけぞったという。そして、屋台街に入り浸るようになる。

どの店も開放的で、調理している様子の一部始終を観察できる。交渉すれば撮らせてくれるところもあるし、観光客向けの「映え」を意識した店もある。そして見ているだけで面白い。

慣れた手つきで小気味よく動くけど、大雑把でテキトーな感じ。調理法は独創的だけれど、衛生面では絶望的になる。こぼれまくる食材、鍋にこびりついた残飯らしきブツ、周囲を行き交うハエなどモノともせずに、果敢に火柱を上げる。

日本人の衛生観念だとドン引きだろうが、出てくる料理は美味しそうなものばかり。iPhone の画面ごしに、香ばしさや辛旨さ、暴力的なカロリーが伝わってくる。

そんな動画が日本の深夜番組で紹介されたのをきっかけにバズり、あれよあれよと、押しも押されぬ Youtuber となってしまう。塞翁が馬じゃないけれど、何が起こるか分からない見本みたいな人生だ。

「おおらか」は伝染する

撮るほうなので、ほとんど画面に映らないけれど、料理している人とのやり取りで、めちゃくちゃ楽しんでるのが分かる。そして、旨味と辛みとカロリーに殴られながら食べているのも伝わってくる。

観てて(読んでて)面白いのは、インドの「おおらかさ」は著者にも伝染しているところ。鍋にこびりついた残飯は「思い出」と命名され、周囲を飛び回るハエは「黒い妖精」として大目に見られる。

そんなぶっ飛んだ価値観に、わたしが後生大事にしている感覚も相対化されてゆく。多少のことも「ま、いっか」と許せるようになってくる。とりあえず、狂気のごとく味の素を入れているのを見て、私の料理でも解禁することにした。

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«ボーイズラブには葛藤があるべきか、「普通の」ラブストーリーとは何か、BLの主役はネコなのか、アニメ『同級生』をテーマに2時間語り合ったことを8000字ぐらいでまとめる