不治の精神病者はガス室へ『夜と霧の隅で』

 きっかけはこのツイート。

 北杜夫といえば『どくとるマンボウ』や『楡家の人びと』しか読んでいなかったが、こんな重い話を書いていたなんて。しかも、これで芥川賞を受賞していたなんて。hanpozenshinさん、ありがとうございます。

 そして、読んだら頭を殴られた。これは、治る見込みのない精神病患者を「無益な人間」として安楽死(本文では安死術)させる話。知能に障碍を持つ子どもが次々とバスに乗せられる冒頭は、映画そのもの。どこか空想上のディストピアではなく、第二次大戦時のドイツだ。ナチスは「遺伝病子孫防止法」を1933年に制定し、一年間で5万6千を超える遺伝性精神病者の断種手術を遂行する。

 国家による精神病者の安楽死、正気の沙汰とは思えないが、(当時の)科学的に正しいという名のもとに行われていたという。V.E.フランクル『夜と霧』[レビュー]にこうある。ブッヒェンワルト収容所の章だ。『夜と霧』の初版が出たのが1956年なので、冒頭のシーンはここに想を得たのかも。

リムブルクから約八キロのハダマールの小さな町に……ここ数ヵ月、安楽死を組織的に遂行している機関があります。週に数回、このためにかなりの犠牲者を乗せたバスがハダマールに到着しますが、田舎の小学生はこの車の事を知っていて「また殺人箱がやって来た」と申します。

 静謐な文体で淡々と描かれる狂気は、生真面目さを通り越して一種の黒いユーモアさえ感じられる。ナチスから患者を守ろうとする医師が主人公なのだが、彼がやっていることは「正しい」ことなの? と読み手に疑義を抱かせるような書きっぷりが興味深い。

 なぜなら、よかれと思ってやる医師の行動が、次第に常軌を逸してくるから。そのまま穏やかな治療を続けるならば「治る見込みなし」としてガス室に送られてしまう。ならば一か八かの賭けに出て、思い切った施術で患者を救おうとする。電気ショック療法や頚動脈注射、ロボトミーまがいの不慣れな開頭手術を強行し、陰惨な結果を引き起こす。「科学的に正しい」という確信のもとに、患者を「救うため」、結果的に強制収容所での人体実験と変わらないようなことになる。

 次々と失敗する「治療」の中で、ほとんど唯一といっていいほど上手くいっている患者がいる。ユダヤ人の妻をめとった日本人で、彼の不安定な内面を詳細に描くことで読み手に気を持たせ、物語の駆動力とさせている。この日本人といい、医師といい、狂気の中で正気を見分けるのは難しいことを痛感させられる。

 Wikipediaの[ニーメラーの言葉]にも「不治の病の患者」があった。ここに引いておく。

 ニーメラーの言葉

 ナチスが共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
 私は共産主義者ではなかったから

 彼らが不治の患者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
 私は不治の病の患者ではなかったから

 彼らがユダヤ人たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
 私はユダヤ人ではなかったから

 そして、彼らが私を攻撃したとき
 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった

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曼荼羅・パンドラ・反文学『石蹴り遊び』

Isikeri02

 コルタサル『石蹴り遊び』が復刊されたぞ。
 コルタサル『石蹴り遊び』が復刊されたぞ。

 本を読むとは扉を開けること。異世界であれ現実の別ver.であれ、向こう側に行くことだ。表紙を開くと文字通り扉があり、その向こうには知や異や現実を象った世界が広がっている。

 ふつう物語は、「はじめ」「なか」「おわり」で構成され、この順で読者は世界に触れる。読者は最初のページから始め、一行ずつ文字列を追いかけて二次元的にページを把握し、そこから空間(三次元)・時間(四次元)を含めて物語を再創造する。最後のページに至るとは、作者から提示されたものが終わることを意味する。そこで読書を終了してもいいし、気になるところに戻ってもいい。だが、(物語の終了の如何にかかわらず)最後のページから先を読むことはできない。

 こうしたお約束を、ぶっ壊したのがフリオ・コルタサル『石蹴り遊び』である。2冊読むと、これまでに読んできた、どんな小説とも異なる酩酊感を味わい、これから読むであろう、どんな作品にも似ていない目眩に襲われるだろう。ただし、フラッシュバックは強烈で、悪酔いするかもしれぬ。しかも、最悪なことに、3ループ、4ループと何度も繰り返し読むハメになるかもしれぬ(わたしは4ループで止めた)。

 さきほど「2冊読むと」と書いたが、間違いではない。たしかに『石蹴り遊び』はゴツい1冊の本であるが、2冊の書物として読める。というのも、最初のページに「指定表」なるものがあり、作者自身が、次のような「読み方」を指定してくる。

 第1の書物
  ふつうに第1章から始まり、第56章で終わる

 第2の書物
  第73章から始まり、以下の指定の順番に読む
  73-1-2-116-3-84-4-71-5-81-74-6-7-8-93-68-.....

 頭おかしいと思うだろ? わたしもそう思った。しかも、第1の書物が終わった後の57章以降は、文学的断章、新聞のスクラップ、著作ノートの引用と、雑多なものが詰め込まれており、「読み捨ててもいい」と但し書きまでついている。第2の書物は、こうした断片を第1の書物に挟み込むにして構成されている。

 読み手は、第1の書物だけで済ませることもできる(総量のおよそ2/3)。第1の書物は二部構成となっており、第一部はオラシオ・オリベイラという作家志望のボヘミアンと、ルシア(ラ・マーガ)との出会いから別離までの愛の物語と、その仲間たちとの芸術談義が続いている。そして第二部では、失踪したラ・マーガの幻影を追って故郷に戻ったオリベイラと親友トラベラー、親友の妻タリタとの奇妙な三角関係が描かれている。

 主人公オリベイラは、いい感じのエゴイスティック・ゲス野郎で、内省や思索は深いものの口だけ達者で行動しない。夏目漱石『それから』の代助に似ているなぁと思ってたら、同じことを考えている人がいて嬉しくなる[漱石とコルタサルの男性人物について : 『それから』と『石蹴り遊び』における三角関係の恋]

 このゲス野郎、酷い目に遭えばいいのにと思ってたら、精神に異常をきたし、悲劇的な運命へ墜ちていく。予定調和と思いきや、何かおかしい。第1の書物を注意深く読むと、知るはずのないことを知っていたり(ネタバレ反転表示:ラ・マーガ以外の皆が赤子の死を知っていたこと)、言及されなかった内省(ポーラの病に関するオリベイラの思索)、交わされなかった会話(トラベラーとオリベイラを断絶させる決定的な言葉)などが残される。回収されない伏線、思わせぶりな前フリを胸に、宙ぶらりんな気分で第1の書物が終わる。

 モヤモヤしながら指定表を繰り(作者の思う壺)、少なくとも第1-56章は2度読むのかと思いながら第2の書物に取り掛かると、仰天する。同じ『石蹴り遊び』という本に、違う書物が姿を現してくる。そこでは、第1の書物で語られなかった理由が説明されていたり、脇役だと見ていた人物が、実は重要な役割を果たしていたり、宙ぶらりんの行動の「続き」が入れ子的に補てんされていたり、第1の書物にはない可能世界を生きていたりする。

 この仕掛け、テキストアドベンチャーゲームを思い出す。チュンソフト『街』のザッピングや、Key『Kanon』のイベントフラグをご存じだろうか。システムは違うが、本質は反転であり逆転である。読み手は同じ物語を追っているのに、視点・因果・世界がぐるりと入れ替わる。『石蹴り遊び』の第2の書物は、第1-56章は同じであり、同じ時間軸を廻っているのに、まるで違う相貌を誘発させる。解説にこうある。

ウンベルト・エーコが「開かれた作品」を世に問い、「一つの所与の構造的方向で再生され理解されることを求める完成した作品としてではなく、解釈者によって美的に享受されるその瞬間に完成される開かれた作品」としての芸術作品を扱う

 これを体現したのが、『石蹴り遊び』になる。指定表で示された順に、あっちの章、こっちの章とジグザグに惑い進めていくうち、読者は共犯者に、作者との旅の道連れに、仕立てあげられてゆく。この本がどんな本であるか? 実はその肝が第79章にある。第1の書では脇役だったある人物が書いたもので、それが誰であり、『石蹴り遊び』が一体どんな存在なのかを知って、二度仰天する。そこに、こうある。

読むことが読者の時間を廃止してそれを作者の時間に転位させるであろうからには、読者を同時存在たらしめること。こうして読者はついに小説家が経てゆく経験を、同時にしかも同じ形で共有し共に悩む者となることができるだろう。

 これは、読むことで完成する物語なのだ。楽譜だけでも音楽であり、暗がりでもダンスは踊れる、闇でもピカソはピカソだ。演奏され目の当りにされて初めて、芸術は美的に享受される。それを小説でやってのけたのが、『石蹴り遊び』の第2の書物なのだ。

 さらに、1冊でありながら2冊の書物として読めるだけでなく、他の可能性をも残している。なぜなら、第2の書物の末尾は「...77-131-58-131-」と無限循環になっているので、形式的には終わりのない小説になっている。何回目のループで止めるかは読み手次第というわけ。まるで、読み方を試されているようだ。わたしはループを脱出するため、ある人物の覚書をもとにして、第3のルートを捻出した。そこにオラシオは、ほぼ出てこない。だが、この順に読むことで、『石蹴り遊び』の秘密が解ける。

 60-61-62-66-71-74-79-82-86-94-95-96-97-
 98-99-102-105-107-109-112-115-116-121-
 124-136-137-141-145-151-152-154-155

 忙しい人、途中で投げた人のために、最短にしてみた。

 79-109-141

 しかし、500ページを超える巨大な作品を、たった3章で読んだことにしてしまってはもったいない。ぜひ、あっちへ行ったり、こっちへ惑ったりしながら、読むほどに酔うほどに冴える体験をしてほしい。

 曼荼羅のようなパンドラのような反文学を、お愉しみあれ。

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ファンタジーだった『聲の形』

 映画観てきた。これは素晴らしいファンタジーだ。

 『聲の形』は、『シン・ゴジラ』『君の名は。』よりも、荒唐無稽だった。前者は「ゴジラ」、後者は「入れ替え」が虚構だが、『聲の形』の"ありえなさ"は、ほぼ全編にわたる。いじめの描写が辛すぎて、原作は1巻しか読んでいない。そのため、この感想は的外れかもしれない。だが、このモヤモヤを溜めると体に悪いので吐き出す。

 『聲の形』は、聴覚障碍者の女の子と、彼女をいじめる主人公とのボーイ・ミーツ・ガールの話だ。彼はいじめたことを後悔し、暗転した人生を送るわけなのだが、数年の時を経て、再び彼女に会いに行く。彼の救われなさが、「×印を付けられた他者」や「水底からのような音声」に表象されており、要所で主観世界がドラスティックに変化するアニメ的な仕掛けは良くできている。特に、「その音を感じているのはどのキャラクターか」によって、わたしの「聴こえ」を使い分けているのが凄い。

 また、「映されなかった描写」が素晴らしい。全7巻を2時間の尺にするため、削らざるを得ないエピソードがあったはずだ。読んでないわたしには想像するしかないが、主人公たちを取り巻く友人や家族の間で、さまざまな軋轢があっただろう。本来なら口も利きたくない相手のはずなのに距離が縮まっていたり、異質な視線や口調によって、シーンの隙間に、「何かあったな」と感じ取ることができる。そこに、映画に映らない葛藤や時間、会話があったことが分かる。そういうまくり方は上手いので、原作を読みたくなる(友達のエピソードがかなり盛り込まれているのではないか)。

 そうした監督の技量は素晴らしいのだが、ストーリーに入るのに苦労した。トラウマレベルで後悔しているとはいえ、会いに行くだろうか? 贖罪の話にしても、そこから先の恋愛になるだろうか? つい親の視線で見てしまうのだが、二度と、顔も、見たくない男が、再び娘にかかわってきたら、母親は、"その対応"だけで済むのだろうか?(映画に描かれていないだけ?)。

 わたしの疑問を見透かしたように、「おまえは、自分を満足させるために、会いにきたのか?」とか「イジメてた奴とトモダチ? 何ソレ? 同情?」「トモダチごっこのつもり?」など、批判・揶揄するキャラが出てくる。言葉のトゲは、グサグサ刺さっているように見えるのだが、きちんと相対するでもなく流れていってしまう。隠れたテーマである「友達とは何か」への返歌が成されているものの、一般論で済まされているように見える。

 触れられるような声や、微妙な距離感が伝わってくるシーンは生々しいが、展開が現実離れしている。唯一、植野直花という女の子がリアルだ。小学生の頃から主人公に密かに恋心を抱き、いじめに加担し、物語の後半ではヒロインと最悪の形で向き合う。もう一度観るとき(または原作を読むとき)は、彼女を中心にしたい。

 ヒロインは耳が不自由なだけで、素直で、芯が強く、優秀で(映画館で配布された小雑誌で知った)、はっとするほどの美少女に描かれている。だれも近づいてこないの? お邪魔虫を追っ払う身内がいたからかもしれないが、他の友達の存在が皆無で、しかもよりによって自分を苛めていた男に(あえて?)向き合うなんて、おかしいだろ……

 次々と浮かんでくる疑問に、考えるのをやめた。これは、「そういうお話」なのだ。聴覚障碍やいじめを入口にした、ボーイ・ミーツ・ガールであって、そこにわたしのリアリティラインを持ち込むべきではない。そう考えると楽になって、あとは楽しめた。これは、ファンタジーなのだ。東京を蹂躙する大怪獣の話や、思春期の男女の心と体が入れ替わるお約束と一緒で、わたしが慣れていないだけなんだ。

 あるいは、映画に描かれなかったエピソードに、その答えがあるのかもしれない。一緒に観てた娘が帰るときに言った「お父さんは現実とアニメの区別がついていない」が刺さる。曰く、背が低くてヘンな頭の男子は出てくるけれど、かわいくない女の子が出てきてはいけない。西宮硝子(しょうこは、ガラスとも読めると教えてくれたのも娘)が、もし可愛い子でなければ、会いに行ったのかな? それは考えてはいけないのかな?

 この疑問に、答えられなかった。原作を読むと分かるのだろうか。Kindleだと第一巻が無料で読めるみたいだが、いじめ描写が相当キツイ(経験ある方にはトラウマを呼び起こすかも)。未読の方は気をつけて。


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恐怖を科学する『コワイの認知科学』

 怖いとは何か? 怖さを感じているとき、何が起こっているのかを、脳内メカニズム、進化生物学、発達心理学、遺伝子多様性からのアプローチで概観した好著。

 喜びや悲しみ、怒りなど、人の心は様々な情動に彩られている。なかでも「恐怖」は根源的なものであり、より生理的に近いように思える。怖いものをコワイと感じるから、危険や脅威から身を守り、生き残れてきたのだから。こうした漠然とした認識に、科学的な知見を与えてくれるのが本書だ。「怖いもの」に対する脳内での反応や、恐怖の生得説・経験説の議論、怖さの種類や抑制メカニズムを、研究成果を交えながら解説してくれる。

 たとえば、「ヘビはなぜ怖いのか?」の研究が面白い。もちろん、ヘビ大好きという人もいるにはいる。だが、一般にヘビは「怖い」ものと嫌われている。

 いきなり「なぜ(why)」と問いかけると、聖書の原罪における役割や、ヤマタノオロチ伝説など、文化や哲学のアプローチになる。本書では、「どのように(how)」という切り口で、ヘビを見たときに脳内で起きていること、ヘビの何に反応しているか、幼児/赤ちゃん/サルでもヘビを嫌うのかといった研究を紹介する。そして、how から得られた成果から考えられる why への仮説を説明する。

 結論から述べると、人やサルは、自然環境の中でヘビの姿をいち早く見つけることができる(視床枕に縞模様によく反応する神経細胞がある事実とも合う)。そして人は、ヘビのあの縞模様に、本質的な怖さを感じるという。これは、長いあいだ樹上生活を送っていたヒトやサルの祖先の天敵としてはヘビしかいなかったからだという。

 そして、ヘビへの恐怖は生得的なものであり、進化の産物だと主張している。一度も噛まれたことがないのに、ヘビを怖がるのはなぜか? この疑問に対し、マーティン・セリグマンが提唱した「準備性(preparedness)」の概念を紹介する。あるもの(ここではヘビ)が、無条件に恐怖を引き起こすように生まれつき決定されているというのだ。

 これは、「怖いからコワイ」という循環論に陥るのではと思うのだが、バランスを考慮してか、学習による恐怖も扱われている。人工的な環境で生まれ育ち、ヘビを一度も見たこともないサルは、ヘビを怖がらない。にもかかわらず、見たこともないヘビを異質なものとして発見する視覚システムは有している。そして、ヘビを怖がる仲間のサルの様子をみると、ヘビを怖がるようになるというのだ。同様に考えるなら、自分が噛まれたこともないヘビを怖いと思うのは、神話や物語を介した代理学習の結果だともいえる(ヘビの"怖がり度"が文化によって異なるのはそのせい)。

 他にも、怒り顔に素早く反応するのは、「怒っている人には社会的に服従しようとするシステム」が働くメカニズムを分析したり、「幼少時の虐待が、恐怖の抑制機能を弱める」といった報告を紹介する。携帯電話を持たずに外出したときの恐怖である nomophobia (ノモフォビア、no mobile phone phobia)の研究は面白かった。

恐怖の哲学 「どのように(how)」恐怖を感じるかという、恐怖の科学的なメカニズムを理解するうえで、『コワイの認知科学』は良い入門書だと思う。一方、「なぜ(why)」恐怖を感じるのかについては、哲学的なアプローチとして『恐怖の哲学』がいい。ホラー映画を手掛かりに、情動と意識の問題を紐解き、認知科学の知見も踏まえて心の哲学の本質に迫る。あわせてどうぞ。

 恐怖が分かると、人間が見えてくる。

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女子高生の身体と入れ替わる夢を見る方法『よく眠るための科学が教える10の秘密』

 現実が辛いなら夢に限る。ここでは、『よく眠るための科学が教える10の秘密』にある、好きな夢を見る方法をご紹介。

 どんな夢でもいい。いきなり空飛ぶ夢でも、ひたすら寿司食う夢でも、女子高生の身体と入れ替わる夢でも、お気に召すまま。ただし、ご注意いただきたいのは、あくまで見たい夢を見る方法であって、「夢の中で女子高生と入れ替わる方法」ではないこと。夢と現実を取り違えるなかれ。

 人は毎晩夢を見る。だが、どんな夢だったか忘れてしまっていることがほとんどだ。たまに、夢の中身を覚えていたり、夢の「続き」を見ることがある。ひょっとすると、夢の中で「これは夢だ、私は夢を見ている」と自覚していることがあるかもしれない。この、“夢であることが自覚された夢”のことを明晰夢(めいせきむ、Lucid dreaming)という。

 明晰夢を見るメカニズムには、海馬と前頭葉が深く関わっている。海馬は空間認識や短期記憶、前頭葉は思考や意識・長期記憶を司っている。覚醒時に得られた情報を整理し記憶するプロセスが「夢」であり、なかでも明晰夢は、前頭葉が半覚醒状態のときに見るものだと考えられている。

 では、明晰夢を見るにはどうすればよいか? 映画『インセプション』では、主人公が「外側から」眠っている人の無意識に入り込むことで夢を操作した。いっぽう本書では、スティーヴン・ラバージやターダス・シュタンブリスの研究に基づき、眠る人自身が「内側から」夢を作り出す方法を紹介している。

日中にすること:時計の針を読む。毎日5-10回時計を見て、文字盤を正確に把握する。「時計観察」を習慣づけることで、夢の中でも実行し始める。次に、理想的な明晰夢を思い描く。毎日5分ほど横になり目を閉じて、夢の中でしたいこと、会いたい人を思い描き、想像の世界を膨らませる。

ベッドに入った後:枕元に紙とペンを用意し、「夢が終わったら目を覚まそう」「夢の内容を思い出そう」と暗示をかける。実際に見たら、(明晰夢であろうとなかろうと)内容を書き出す。その後、「これから自分は夢に戻る」と言い聞かせる。目覚まし時計をセットして、いつもより1時間早起きする。目が覚めたら、頭に浮かんだものをメモしたりして30分ほど過ごし、また眠り直す(睡眠の中断)。

明晰夢を見たとき:いま見ている夢が明晰夢かどうかを判断するためには、鏡を見る(あいまいな影しか映らない)、明かりを消す(光の明るさが変わらない)、時計を見る(見えにくい)などの方法を試みる。自分が明晰夢を見ていることに気付いた興奮で、夢を途切れさせてしまうことがあるが、リラックスした状態を保つように。明晰夢が終わりかけたら、手をこすり合わせたり、体を回転させたりすると、戻ることができる場合が多い。

 まとめると、レム睡眠時間帯を狙い、自己暗示をかけ続けることで明晰夢に近づくことができる。昔わたしが実践したのが、[好きな夢を見るための10の方法]だ。訓練のおかげで好きな夢を見ている。女子高生と身体が入れ替わる夢も見たが、創造力(想像力?)が足りないのか、あれこれ触るくらいで飽きた(快楽天のほうが想像力豊かだ)。わたしのお気に入りは、「構造的な夢」と呼んでいる。ポンピドゥー・センターや地下鉄渋谷駅、スペースマウンテンなどの巨大で複雑な建造物の内部を、同時・複数視点で探索する。

 『よく眠るための科学が教える10の秘密』は、睡眠に関する研究成果を紹介しつつ、眠りのメカニズムや熟睡のためのノウハウ、時差ボケ解消の方法といった眠りのトリビアを解説している。このテの話に興味がある人なら、知っている話も多かろう。

 たとえば、目覚めを爽やかにするには、睡眠時間を90分の倍数にするとか(眠りのサイクルは90分)。睡眠学習よりも眠る直前の学習の方が記憶の定着率が高いとか(短期記憶から長期記憶への移行は寝ているとき)。一日のうち1/4を寝ているということは、一生の1/4を眠っていることになる。眠りを改善することで、1/4生を良くすることができる。

 よい眠りで、よい人生を。

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極上の犯罪小説『熊と踊れ』

 Q:なぜ熊に勝ったという証言ばかりなの?
 A:負けた奴は皆死んだ

 ニュースで聞く「ばったり熊と出遭ったが撃退した」という武勇伝は盛っており、実は警戒した熊が逃げたのではないかと踏んでいる。人と熊が闘ったら、勝てるわけがない。ところが『熊と踊れ』では、熊に勝つための方法が伝授される。

これはな……熊のダンスだ、レオ。いちばんでかい熊を狙って、そいつの鼻面を殴ってやれば、ほかの連中は逃げ出す。ステップを踏んで、殴る。ステップを踏んで、殴る! たいしたパンチに見えなくても、何度もやられれば相手は疲れてくる。混乱して、不安になってくる。ちゃんとステップを踏んで、ちゃんとパンチを命中させれば、おまえは熊にだって勝てる!

 もちろん、「熊」は敵のメタファーだ。暴力で解決する「敵」と、どのように闘うか。力技だけでは勝てない。ヒット&アウェイを繰り返し、攻撃を集中・分散させれば、強大な敵でも倒せる。いじめられた息子を鍛えるため、父から伝えられる、暴力の扱い方だ。母を殴る父を見ながら育った三人の兄弟は、やがて暴力をコントロールする術を身につける。軍の倉庫から大量の銃火器を盗み出し、完全武装した上で銀行強盗を企てる。このとき、「熊」は警察のメタファーとなる。

 生々しいのは、恐怖だ。“過剰な暴力”を振るう人の恐怖が、ほかに逃げ場のない強烈な悪臭となって、毛穴からにじみ出てくる。彼のこの体臭―――恐怖そのものが鼻に刺さるようにリアルだ。たいていの小説家は光景や音声を描写しようとするが、本書では上手いタイミングで嗅覚が刺激される。というのも、人が自分の臭いに気づくのは、我に返る瞬間だから。緊張の只中から冷静さを取り戻し、暴力をコントロールできる状態になるとき、自分の酷い臭いに気づく。すなわち、自分の悪臭に自覚的になるということは、いま直面している恐怖に自覚的になるということなのだ。

 さらにリアルにしているのは、カットだ。長くて一分間、短いと数秒の複数のシーンを重ねてくる。この演出のおかげで、追うものと追われるもの、暴力に満ちた過去と、暴力に満ちた現在が次々とつながり、ほとんど飛ぶように奔っていく。読み手は、振り落とされないように追うしかない。耳をふさぎたくなる悲鳴や、胸が裂かれるような痛みに苛まれつつ、読むことをやめられなくなる。

 畳みかけるカットバックの中、“過剰な暴力”が制御不能となり、内側から蝕んでいく様子が、まるでスローモーションのように垣間見える。リーダーのレオの心が(描写とは裏腹に)飲み込まれていくのがわかる。

 年齢が近いせいなのか、レオに人の殴り方を教える父親に共感する。そして、自分の中にそんな暴力性があることに気付かされて、愕然となる。欲しいものを手に入れるために、他人を支配するために、ためらうことなく拳を振るう父親像を眩しく思い、そんな自分に吐き気を感じる。と同時に、わたしの内側からにじみ出ている恐怖の臭いに自覚的になる。

 熊を相手にして、勝てるわけがない。熊は、闘うのではない。ステップを踏んで、殴る。ステップを踏んで、殴る。暴力と恐怖を抱えながら、ともに踊る相手なのだ。前代未聞の展開に仰天しながら、次はどうなる?  彼はどうする? 夢中になってページを繰っているうちに朝になる。

 今年のピカイチ・ミステリ。明日の予定のない夜にどうぞ。


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魅力的なキャラを創る11の方法と99の属性『性格類語辞典 -ポジティブ編- 』

 どうすれば面白いキャラクターができるだろう? 小説や映画、ドラマやアニメに登場する魅力的な人物を創るには、どうしたらよいか?

 作家、漫画家、脚本家……物語をつくるあらゆる人のお悩みに効く一冊。「キャラが立つ」「キャラに深みがある」と言うけれど、どうすればそうなるのか、具体的な11の方法と閃きを促す99の属性がカタログ化されている。素材と手順がセットになったキャラのレシピ集として拾い読みしてもいいし、魅力的なキャラを設計するデザインパターン(虎の巻)として通読するのもあり。

 たとえば冒頭。読者をすばやく強力に引きつけるには最初が肝心だが、その手法は沢山ある。主人公の苦難を描いたり、一か八かという瞬間で始めてもいい。ミステリアスな幕開けで、何が起こるのか興味をかきたてるようにしてもいい。重要なのは冒頭の「次」を読んでもらうことであり、そのために早い段階で読み手とキャラクターの間に絆を作る必要がある。それには、ポジティブな面から見た主人公の性格を明らかにしてやれという。

 この「性格を明らかにする方法」にもパターンがある。最悪手は、地の文で細かく説明するのは知っているが、どうすればいいか? 答えは、「言わずに、示せ」になる。キャラクターの性格を明かすには、態度や行動で示すのが望ましいやり方だ。態度や行動を通じて、その人物が大切にしているモラルや価値観が明らかになり、読み手はキャラクターの真の姿を知ることになる。

 優れた書き手は、示したいもの隠す。隠して顕されたものは、読者は自分で見つけたと思って大切にしたがることを知っているから。他にも「周囲との関係を通じて表現する」「サブキャラを使って代弁させる」「危機的状況での選択で表す」「主人公の思考で示す」など様々なテクニックが紹介されるが、キモは「隠せ」だ。

 そして、読み終わった人に「面白い」と言わせるため、キャラの心の成長を予め仕込んだ属性づくりをせよとアドバイスする。すなわち、物語の最初と最後を比べたとき、キャラが反対の姿を映し出しているように属性を仕込んでおけというのだ。物語の初期段階で、何かの行き詰まりを引き起こす原因となる欠点や恐怖・ネガティブ属性を主人公に抱えさせ、事態をややこしくさせろという。

 この欠点はキャラの過去に由来する。主人公を頑なに、または無力にしている原因となった出来事や場所を予め設定しておくのだ。そこで重要なのは、心の傷そのものよりも、むしろ傷を負ったせいで主人公が信じ込むことになった「嘘」なんだという。たとえば、親に捨てられた子どもは、自分が愛されるに値しないという「嘘」を信じるようになるが、貴種流離譚にアレンジしたいキャラ設定だろう。

 この「嘘」をコアにして主人公の傷をつくり、そこから想定される属性と感情・反応をデザインする。物語をドライブする、主人公が達成したい目標とその障壁は、ここでデザインされた主人公の属性から導き出される動機と傷(ひいては「嘘」)をバックグラウンドとしている。

 主人公とは何かを求める存在である。主役を出したら、たとえ一杯の水でも欲しがらせろと言ったのはモームだったかキャンベルだったか。この「なぜ欲しがるのか」を説明づけるのが属性になるのだ。このように、物語をリバースエンジニアリングすると、「嘘→傷→ネガティブ属性→障壁→目標」になる(わたしたちが目にする物語は、その逆順になる)。

 さらに、悪役(主人公の敵対者)に注力せよと忠告する。この悪役、主人公の目標に立ちはだかる人物であって、かならずしも倫理的な「悪」とは限らない。そして、悪役にこそポジティブな属性を設けよと強く主張している。悪役も、自分が信じ込んでいる「嘘」に基づいた動機によって動かされている。そして、悪役が成功するポジティブ属性をもっともらしく描くことで、可能な限り強力に仕立て上げよという(主人公が困難になればなるほど、物語は面白くなるから)。

 そこでダース・ベイダーが浮かぶ。彼は現場をきちんと見て回る有能な上司だ。会議室や専用席でふんぞり返って命令するボスと違い、最前線まで出張し、部下と共に闘う。戦闘機の扱いだけでなく一対一の接近戦にも優れており、部下としてはこれほど心強い上司はいないだろう。ベイダー卿が強力であればあるほど、それを乗り越えるカタルシスは相乗する、そういう仕掛けだったんだね。

 このように、魅力的なキャラを創るための様々な手法が紹介されている。大量の映画や小説から例を挙げているため、知っているキャラクターを応用として脳裏に浮かべながら読むと効果的かも。他にも、ゼロからのキャラクター創造手法(プロット重視なら出来事や状況を考えた後、それに最悪なキャラを創る/キャラ重視なら性格・属性を考えた後、そいつにとって最悪な出来事を創る)や、アンチパターン(現実離れ/つじつまの合わない心の成長/足りない危機感/オリジナリティのなさ/一面的)を回避する技術、「ひねり」の加え方などが、惜しみなく開陳されている。

 そんな下準備をした上で、99の属性を眺めると、既知のキャラから未知のキャラが重なるように見えてくる。そこでは、キャラが持ちうる属性のポジティブ面を列挙し、要因、行動や態度、セリフ、由来する感情類語、プラス面とマイナス面、作品例、さらにはその属性が試されるシナリオまで詳細に解説されている。

 物語をつくる上でものすごくタメになるのは、属性に対する「試されるシナリオ」だ。ある属性があるキャラに試練を与えたり成長を生み出すために、物語をどっち方向にダイナミックにすればよいかのヒントがもらえるから。本書をキャラが物語に構造を与えるデザインパターンとして使うには、この属性カタログから作品を参照し、そこから「試されるシナリオ」を抽出することで可能となる。

 たとえば、「情熱的」という属性を試されえるシナリオとして、「情熱を注いでいる対象と社会・家族との対立」や「仕返しをしたい(感情に任せたい)が、道徳的な葛藤」が挙げられている。その作品例として『ロミオとジュリエット』のロミオや、『レミーのおいしいレストラン』のレミー、『いまを生きる』のジョン・キーティングが分かりやすい。新米作家は、これらを観るなり読むなりして、属性vs試練の行方を追いかけたあと、そいつを参考にしてオリジナルの試練を考えればいい。キャラは勝手に物語をドライブしているように見えて、実は計算づくでやっているわけなのだ。

 本書は表現者のために作られているが、もちろん受け手にも有益だ。わたしは一人の読者として、演出家の舞台裏を覗くつもりで読んだ。「面白がる」プロセスをリバースエンジニアリングしているようで非常に興味深い。もちろん、レシピがあることと、レシピを再現できることは別物なので、次の傑作も楽しめること間違いない。むしろ、素材と手法が分かっている分、より深く創意工夫を堪能するだろう。姉妹編として『ネガティブ編』があるが、属性を相対しながら掘り下げると、より面白く読める/書けるかも。

 より深く物語を楽しみ、より広く物語を描くための一冊。

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「君の名は。」の重要な疑問(ネタバレ)

 映画観てきた。すばらしくよかった。「男女が入れ替わる」古典的なネタから、よもやこんなにも美しい物語を見せてくれるとは。「シン・ゴジラ」が濃厚な庵野ワールドなら、「君の名は。」は適度な新海マイルドだな。いつもと違うと思ってたら、このつぶやきで納得。

 観た人のつぶやきを見ると、各々の興味が透けて面白い。「彗星の軌道がおかしい」「電車の音がおかしい」「その地形でヤマビコは出ない」「トイレはなぜ○○だけ?(ジェンダー的な問題)」「X68000」など、ツッコミどころが各人のリアリティラインになるのかも。実写よりも生々しく美しい映像を眺めていると辛口になるのは分かる。けれど、もっと基本的な一点が抜けてないか? 以下ネタバレ全開で書く。

 (マウス反転でネタバレ表示)それは日付。身体が入れ替わったとき、なぜ「今日はいつなのか」を考えないのだろうか? 瀧も三葉も、同じタイミングで入れ替わっているという認識でいる(「デートが終わる頃には彗星が見えるね」というメッセージが象徴的だ)。二人のリアクションを画面分割/同時並行に描くことで、時間のズレをミスリードさせるなんて、上手い叙述トリックだと感心する一方、観終ってから後を引く。学校の準備やバイトの予定など、入れ替わった「一日」を維持していくために、カレンダーは必須かと(三葉の部屋にあった…はず)。iPhoneみたいな端末で日記をつけるのなら、否が応でも日付は目に入るはず。

○「曜日」だけで「年」まで見てなかったのでは?
→ありうる。学校もバイトも曜日だけで事足りる場合が多かろう。でも「月日」まで見落とすことはないだろう。「月日+曜日」が一致していたと仮定しても、最短6年かかる([参照])ので、「3年のズレ」とは計算が合わない。

○「忘れてしまったのでは」
→大いにありうる。入れ替わっていた間の記憶は飛んでいるので(夢を見ているのと一緒)、たとえ年のズレに気づいたとしても、覚えていないという仕掛け(糸守という地名を忘れてしまうように)。観客をミスリードする演出の一環だともいえる。それでも、アプリの日記やノートなどで相手に「伝える」ことはできる。入れ替わったというだけでも大事件なので、そこまで気づけなかったのかも。

 『時間SFの文法』決定論/時間線の分岐/因果ループを描いた『時間SFの文法』[レビュー]によると、「歴史改変型-異時間通信」パターンになるが、そこを伏せて「入れ替え話」から入っているのが上手いね。ループ話を伏せて、魔法少女モノとして入っているアニメを思い出す。定番で隠した定番の組合せ、これからも傑作に出会えそうだ。

 謎を抱えて、原作小説にあたってみよう。

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上達の科学『「こつ」と「スランプ」の研究』

 スポーツや演奏で上達するときに何が起きているか? この疑問に、身体知の認知科学から迫る。

 なにか上手くなりたい目標がある人にとって気づきがあるかも……と思ったが、本気で練習しているなら誰だって知ってる「身体知」の話だ。「体で覚える」とか「腑に落ちる」というやつで、"Don't think! Feeeel!"といえばピンとくるかも。

 お手本をコピーするだけでなく、その時の周囲の状況や身体の各部位に意識的になり、ことばと身体の両方で「分かる」ところに持っていくことだ。本書が面白いのは、研究者自らが実験台となり、バッティングの練習に取り入れて実際に上達しているところ。様々な身体知研究の紹介をする一方で、自らの経験に基づいた実感が溢れ出ている。

 本書の姿勢はこうだ。これまでのスポーツ科学では、運動力学研究により、身体各部位の動作を要素還元的に分析し、「モノ」としての身体のあり様を明らかにしてきた。運動力学は、イチローのバットのスイングがどのようなメカニズムで成り立っているかを説明してくれる。

 しかし、身体とは、他者や計測機器によって客観的に観察される存在であると同時に、本人が内側から体感する主観的存在でもある。周囲の環境や身体の動作について本人が感じ取っている「コト」に焦点をあてない限り、そのそのスイングがなぜヒットになっているかを説明することはできない。「説明できるヒットが欲しい」というイチローの言葉にこの両面性があるとして、本書では後者、すなわち身体知の方向からアプローチする。

 たとえば、ボウリングの習得プロセスの事例がある。9ヶ月ボウリング場に通い、999ゲームをこなしながら、身体知の言葉と実践へのフィードバックを書き綴った研究である。興味深いのは、言葉とスコアにある相関が生じているという指摘だ。習得過程で意識している言葉は様々だが、身体の詳細な部位について言及している時期は、いわゆるスランプに陥っており、逆に大雑把な、ほとんど擬態語に近い言葉に収束するとき、パフォーマンスが向上するという結果が得られている。

 これは、わたしの空手の稽古の経験に則しても同じだ。新しい形(かた)を習得する際、手足の細かな動きに気を取られている間は試行錯誤をしており、そうした一連の動作がスムーズに(意識せず)できるようになるとき、その動きをまとめて一言で表せるようになっている(心の中でボッとかグイッと言っている)。

 そして、重要なのはむしろ、この「スランプ」にあるという。身体と環境に意識的になるときに生まれる違和感や気付き、問題意識をことばにする際、主観的に取捨選択しているという。この模索が、ジェームズ・ギブスンのいう身体知の変数を増やす作業になる。後にもっと大きなことばに収束するが、環境と身体における文字通りパラメータが増えることになるのだ(hoge(x,y) が hoge(x,y,z) になる感じ)。

 さらに、網膜上の写像の面積(タウ)を用いた外野手の守備能力の「視覚情報タウ」研究や、オーケストラにおける「まだ聞こえていない音」にどうやって音を合わせられるのか(『あいだ』木村敏)など、身体知とパフォーマンスの興味深い事例を紹介している。

 本書は研究寄りのため、ハウツー本として読むと肩透かしを食らうかもしれない(そんな方々がネットに散見された)。よりノウハウ的なものを求めるなら、『上達の技術』がある。練習しているのに伸び悩むのは才能がないからではなく、「努力の仕方」が間違っていると断言する。スランプの時期にやる気が出ないのは「上達する手応え」が得られにくいからだと言う。かけたコスト(努力と時間)に対して最高のパフォーマンスを得るための方法が紹介されている。

 たとえば、結果を出せる練習の技術として、「分習法」と「全習法」を解説する。課題を部分に分けて、順番に練習するのが分習法で、それぞれ結合して行うのが全習法になる。最初は分習法で、技能水準が上がるごとに全習法にしていくのがセオリーだという。なぜなら、練習のテーマを決めて、一つ一つクリアしていくことで上達効率が上がり、さらにモチベーションが高められるから。カエサルは分割統治といったが、トレーニングでも同じことが言えるね。

 また、反復練習の究極の目的は、最高のプレーを高い確率で、しかも省エネで再現できるようになることだという件は、『「こつ」と「スランプ」の研究』にも通じるところがある。以前のレビューは努力の最適化『上達の技術』に書いたが、お試しあれ。


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『数学の認知科学』はスゴ本

 人の思考のうち、最も抽象的で厳密なものは数学にある。だから、過去から現在に至るまでの人類の思考のマップがあるとするなら、その全体像の輪郭は、数学によって形作られている。つまり、数学を調べることで人の思考の構造と限界が分かる。

 一方、数学は具体的なところから始まる。「数を数える」なんてまさにそうで、10進数が一般的な理由は、10本の指で数えたから。xy座標でy軸が量、x軸が時空的な変化に結び付けられるのは、重力により増えるモノは積み上がり、移動するものは横方向だから。指は10進数の、デカルト座標は時空間のメタファーであり、数学を調べることで思考の身体的な拠り所が明らかになる。

 数学そのものは抽象的で厳密だが、これを理解する人は具体的で経験的な存在だ。『数学の認知科学』は、「人は数学をどのように理解しているか?」をテーマに掲げ、この具体と抽象のあいだを認知科学のアプローチで説明する。著者はジョージ・レイコフ、言語活動のみならず思考や行動にいたるまで、人の営みのあらゆるところにメタファーは浸透しているという名著『レトリックと人生』が有名だ。

 『数学の認知科学』を一言でいうなら、「人はメタファーを通じて数学を理解する」になる。人の抱く抽象概念は、感覚-運動経験から推論様式(すなわちメタファー)を用いて取り込んでおり、数学の厳密さの領域の外にある「人の抱く数学的概念」は、このメタファーを調べることで明らかになると仮説立てる。そして、数学自身では明確にできない「数学的概念の本質」に迫る。「数学の説明」ではなく、「数学の理解の説明」なのだ。具体と抽象、感覚と公理のあいだこそが本書のキモであり、ぞくぞくするほど面白い。

 なぜなら、いままで感じてきた、数学に騙されているような感覚が明らかになっているから。数学の「正しさ」について、ずっと抱いてきた疑問がどこにあるのか分かったから。例えば、無限の話に出てくるこれ。

 0.999…… = 1  ――― 式1

 左辺は小数点以下、ずっと9が並んでおり、尽きることはない。これと1が等しいことに、「正しさ」を感じられない。もちろん表面上は分かっているフリをすることはできる。

 0.333…… = 1/3  ――― 式2

 式2は「正しい」。そして式2の両辺に3を掛けると式1が成立するから「正しい」と自分を納得させることもできる。しかし、ずっと続く左辺と、値が確定した右辺を、等式で結ぶことそのものに違和感がある。0.999... が1に限りなく近づくことを示すなら「=」ではなく「→」じゃないのかと考えていた。

 あるいは、導関数にしても然り。xがaからbまで変化するときの関数y=f(x)の平均変化率を求め、この平均変化率においてbを限りなくaに近づけた値が式3になる。

 f′(a)=lim(b→a) f(b)-f(a)/b-a ――― 式3

 図形的には点A(a,f(a))と点B(b,f(b))があり、点Bが点Aに限りなく近づくとき、点Aにおける接線に近づき、最終的に関数y=f(x)の点Aにおける接線の傾きになるという説明だ。

 しかし、点Aにおける接線の傾きということは、点Bは点Aと一致しており、すなわち「b=a」のため、式3はゼロで割っていることになる。ゼロ除算を回避するため「b=a」ではなく、(限りなく近づくという意味で)「b→a」と表現する一方で「0.999…=1」と記述する。どちらかを「正しい」とするならば、もう一方は「正しくない」ことになる。

 「それ定義の話だから」←知ってる。正しさを完結させる一連のロジックにおいて、その前提のところで頭を抱えても仕方がない。中学高校は「数学は暗記科目」と割り切って駆け抜けたけれど、やり直してみればみるほど、わたしの頭の悪さ加減に慄然とする。大きさを持たない「点」が数直線を「埋め尽くす」ことなんて可能なのかとか、数の本質は countable なものか、それとも measurable なのかなど、知れば知るほど定義以前のところで分からなくなっていた。

 もちろんこの悩み、わたしが人類初ではない。本書では、デデキントの切断を介した実数の概念や、ニュートンやライプニッツの流率(導関数)の計算法を紹介しながら、ここに無限のメタファーが用いられていると指摘する。すなわち、際限なく進行し続けるプロセスが、終わりと究極的な結果を持つプロセスとして概念化されたメタファーだとする。

 人は未知のものを既知のもので理解する。「同じもの」を見わけて、集まりをいくつか「数え」、集まりの大小を見わけたり、その最小単位(1)を判別する概念は、人は生まれながらにして持っている。味覚や視覚のような数学的感覚「数覚」についてはスタニスラス・ドゥアンヌ『数覚とは何か』が詳しい。「1」の1らしさ、「2」の2らしさ、そして「3」の3らしさは、実際に数えることなく計算できる認知的量だという。そして生得的な感覚として、数字や文字の視覚的認知が頭頂・側頭領域に特殊化されているという。数覚はかなり生臭い、アナログ的なものであることが解説されている。

 この、数学以前の身体的で直観的なメタファーをブレンドしながら、数論、集合論、代数学、幾何学、微積分など、数理哲学の奥深いところまで潜る。そこで説明されるのは、それぞれの分野の数学的な解説ではなく、たとえば集合論なら「集合論をどうやって理解されるのか」という正しさのメカニズムなのだ。定義以前の「分かり」から出発した、認知メカニズムだといっていい。

 最終的にはオイラーの式「eπi=-1」を、概念メタファーを用いて説明する。「ネイピア数をπi乗するとはどういうことか」という壁で力尽きていたわたしは、全く異なるアプローチでその壁を迂回することができ、ほとんど感動に近いものを得られた(ただし、分かった気になっているだけなので『オイラーの贈物』で学びなおすつもり)。

 恥を忍んで告白すると、この概念メタファーからのアプローチで、イコール(=)の多義性に気づかされた。数学に騙された感があるのは、等式に(暗黙裡に)含まれる様々な意味に翻弄されていたことに、ようやく気付いたのだ。例えばこうだ。

 3 + 5 = 8 ――― 式4

 8 = 5 + 3 ――― 式5

 3 + 5 = 4 + 4 ――― 式6

 簡単な等式だが、式4は3に5を加えた結果「生じる」ことを示し、式5は左辺は右辺に「分解できる」(積なら因数分解できる)ことを示し、式6は左辺と右辺が「同値結果となる」ことを示す。連立方程式なら、これを解くことで「得る」という意味を持ち、対数式なら「対応づける」になる。結果、状況、対応など、数学的文脈によって「=」は様々な意味を持つ。わたしは計算結果を示すもののように捉えていた(対数の件で混乱したことがあったが、「同値」と「対応づけ」を取り違えたせいだと考える)。

 たとえば「0=φ」と定義した瞬間に、概念上の多義性は発生しているのだが、それでも混乱せずに数学者が自分の数学に没頭できるのは「定義の話だから」だけではなく、そこにメタファーが作用しているのを直感的に理解しているからではないかという指摘は鋭い。「0」は決して「φ」ではないし、そう「約束ごと」しているだけでなく、「空っぽの器」というメタファーが背後にあるからこそ「=」でつなげることができるのだ。

 かつて、数学の「正しさ」について大いなる欺瞞を抱いていた。

 もちろん数学は「正しい」。だが、そこにおける「正しさ」とは予め決められた定義や公理の組み合わせから外れていないこと、(もしくは新たな概念を導入する場合)元の体系との整合性がとれていることになる。この世界にいる限り、その「正しさ」は疑いようもない。だが、この世界を知らない人は、どうやってその「正しさ」を理解するのだろうか……そんな疑問を抱きながら加藤文元『数学の想像力』を読んだ。

 そこでの結論は、数学の正しさの「規準」は明快だが、正しさの「根拠」は極めて非自明だという。そもそも「正しさ」に根拠などというものがあるのか? この疑問への明快な解には至らないにせよ、そこへのアプローチにより、数学の「正しさ」が少しも自明ではないこと、そしてその非自明性が数学を柔軟性に富んだものにしている―――そして、この「非自明性」を説明づけているものこそが、『数学の認知科学』でいう概念メタファーになる。

 『数学の認知科学』のおかげで、これまで読んできた数理哲学のピースが埋まっていくと同時に、数学の素晴らしさは人の思考の素晴らしさにそのままつながっていることに気づかされた。数学に対し、普遍的・絶対的なプラトニズムを勝手に投影していたが、むしろ人の身体と脳、認知的能力、そして日常生活と文化を基礎としていることが分かった。

 数学は、人の思考がもつ美しさ、豊富さ、複雑さ、広範さ、重要さの壮大な実例であり、わたしは概念メタファーを使って、いつでもそこへアクセスすることができるのだ。

 「数学がやってきたところ」から思考の本質に迫るスゴ本。

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