ユニークな分析哲学入門『今夜ヴァンパイアになる前に』

 「ヴァンパイアになれるチャンスがある」思考実験から始まる分析哲学。

 もちろん「ヴァンパイアになる」はメタファーだ。結婚する、子をもつなど、見通しが不透明で、人生を劇的に変えてしまうような判断を指す。この決断を迫られたとき、どうすれば合理的な意思決定が導けるかを、徹底的に考え抜く。深くて濃くて、ユニークな一冊。

 象徴的とはいえ、「ヴァンパイアになる」は言いえて妙だ。あなたの友人の何人かは既にヴァンパイアになっていて、その生活形態や価値観について、色々と教えてくれる。人ではとても理解できない仕方で、この世界を理解することができるという。ただ、ヴァンパイアとしての理解を、人に説明することは、とてもできない。この充足感と万能感は、文字通り人知を越えており、それがどんなものであるかを知るには、ヴァンパイアになるしかない。

 問題はここからだ。この状況で、あなたは一体、どうやって十分な情報に基づいた選択を行えるのか、ということだ。ヴァンパイアになるまでは、ヴァンパイアであることがどういうことかは分からない。そのため、「ヴァンパイアである」ことから生じる実際の経験と、今の「人である」ことから生じる実際の経験を、比較することができないのだ。

 さらに、ヴァンパイアの友人の証言だけに頼って、未来を選ぶことも怪しい。なぜなら、もはや彼らは人間をやめた以上、彼らの選考はヴァンパイアとしての選考であって、人としての選考ではないからだ。

 「ヴァンパイアになる」に限らず、「結婚をする」「子どもをもつ」「大きな手術を受ける」「軍隊に入る」など、人生において、重大な決断を迫られることがある。その選択をすることで、あらたな経験をすることになる。その経験は、人生を(人性を)決定的に変えてしまう。

 しかし、そうした、変容的な経験をする/しないの決断をしなければならないのに、実際に経験をしないことには、「その経験をする」ことが何なのかが、分からないのだ。著者は、フランク・ジャクソンの思考実験「メアリーと白黒の部屋」を例示しながら、経験と意思決定を深堀りする。

 認識論について考えるなら、「メアリーと白黒の部屋」はたいへん興味深い。つまりこうだ、生まれたときから白黒の部屋で過ごしてきたメアリーがいる。彼女は、色というものを目にしたことがないものの、視覚の神経生理学について世界一の専門知識を持っている。光の特性、眼球の構造、視神経のつながりや、どんな場合に人は「赤い」「青い」というのかを、知っている。さて、メアリーが部屋を出て、初めて色を目にするとき、メアリーは何か新しいものを学ぶだろうか? という思考実験だ。

 これは、クオリアや唯物論、哲学的ゾンビの話につながっていくが、本書ではさらに捻っていて面白い。著者は、あくまで個人的な経験という立場から分析しようとする。メアリーが、自分の主観的な色の経験をするときのありようを想像の中で示すためには、それに先立って、関連する経験をしていなくてはならないというのだ。

 すなわち、「色を見る」ことを実際に経験しな限り、「色を見る」ことの知識をどんなに積み上げても、「色を見る」ことがどういう経験なのか、学ぶことはできない。他のどんなものにも還元されない、そんな経験があるというのだ。

 「メアリーの部屋」はシンプルな思考実験だが、「ヴァンパイアになる」も「結婚する」も同じだ。それに関する知識をどんなに積み上げても、実際に経験しないことには、「経験した」ときの主観的なありようを示すことができない。認識や経験が個人に属する以上、そして世界線を辿れない以上、避けることができない問題なのだ。

 古典的なら、標準的な意思決定論のモデルがある。選択により得られる価値と、実現する確率から導かれる期待値の大小によって、決断する方法だ。しかし、可能性のメリット/デメリットは経験により変容する「前」の評価軸であり、変容「後」とは別物である。主観的な価値が前例のない仕方で変わってしまうから、選べない。価値が不確実なのではなく、選択以前の自分では価値を割り当てられないからだ。

 あるいは、個人的な価値から離れ、三人称的な視座から判断する、という方法もある。つまり、科学や宗教や他の誰かの規範に沿った選択をするのだ。規範的で合理的な選択だけに固執するのは魅力がないという。なぜならそれは、自分の価値から自身を断ち切ることになり、他人の人生を生きることになるから。選択を通じて自分が何者になりたいかを実感することこそが、意味ある人生を生きることだから。「意思決定」と言うなら、誰の「意思」なのかという話やね

 合理的な判断も、客観的な決断もできない。ではどうするか?

 本書では、メタ的に視点を上げたモデルを提案する。著者は、全く新しい経験をして、認識を変容することを「啓示」と呼び、啓示込みで、それを選ぶかという議論にする。ヴァンパイアになること、結婚をすること、子をもつこと、それが主観的にはどういう経験なのかは分からない。だが、その経験により変化する自分を込みで、選びたいかと考えるのだ。どうあがいても合理的な意思決定ができない以上、啓示を受けて変わった自分も含めた合理的な判断をすべし、というモデルになる。

 わたしの知る限り、ほとんどの場合、「ヴァンパイアになる」かどうかは、本人の意思如何にかかわらず不可抗力のものである。唯二の例外として、『ダレン・シャン』の第一巻と、『ジョジョの奇妙な冒険』の第一巻だな……と思っていたら、まさに訳者あとがきで「俺は人間をやめるぞ!ジョジョーーーーーッッッ!!」が紹介されてて笑った。

 悔いなく生きたいという願いを、どう実践するか。分析実存哲学からの応答は、これだ。

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『すごい物理学講義』はガチで凄かった

 スゴ本とは「凄い本」の略だ。読前読後で世界が改変されてしまう本だ。

 もっと言うと、世界が変化するのではなく、世界を視る「わたし」が更新される。『すごい物理学講義』は、まさにそういう一冊。わたしが知っていた世界について、その理解を深めるとともに、知識や概念として知っていた枠組みを、一変させてしまった。

 本書の前半は、「世界のありよう」について歴史を振り返りつつ、アインシュタインの一般相対性理論と量子力学の統合について、徐々に焦点を当てていく。ここでの面白い指摘は、「目に見えている世界」ありのままに見ることを阻むものは、われわれ側の予断であること。著者は、世界の理(ことわり)を善悪の観点から理解しようとしたプラトンやアリストテレスを挙げながら、目的論的な見方を批判する。

 そして、ニュートン的世界観がどのように乗り越えられ、ファラデー、マクスウェルを経て、アインシュタインと量子力学で、時間と空間、場と粒子がどのように統合されていったかを解説する。それぞれの議論において、「世界がどうなっているか」と「世界がどうあってほしいか」の間で揺れ動いていたことが分かり、興味深い。

 本書の目玉は、「ループ量子重力理論」である。一般相対性理論と量子力学を統一させる理論として、超ひも理論が有名だ。「ループ量子重力理論」は、超ひも理論に匹敵するほど有力な理論とされているにもかかわらず、日本語で読める概説書はあまりないらしい。超ひも理論は、わたしにとって恐ろしく難解で、「たとえ話」のレベルに留まっていた。だが、空間を「空間の量子」から形成される重力場だとするループ量子重力理論は、本書のおかげもあり、すんなり親しむことができた。決して「分かった」とは言えないが、たとえ話で分かったフリをさせないようにしているのが良い。

 めちゃくちゃ刺激的だったのが、物理学と無限について。

 物理学の仮説は数式や実験で裏付けを得ようとする。そして数式や実験結果の完全性は、数学によって保証される(等式の性質)。しかし、数学は(数学のパラダイムにて)無限を扱うが、物理学で無限を仕える範囲は限られている(物質を無限に分割することはできない)。

 さらに、数学で完全に無視されている「時間」を解決しなければならないという問題が出てくる(等式の”=”の間には「時間」が存在している)。こうした、密かに抱いていた問題意識が、量子論でぼこぼこ俎上に上るのを見てワクワクする。第6章「空間の量子」、第7章「時間は存在しない」なんて知的興奮MAXとなった。相対論における、その象徴的な一文がここだ。

わたしたちは直観的に「現在」とは、宇宙で「今まさしく」起こっている全事象の総体を指すと理解している。しかしそれは、わたしたちの限られた視野がもたらす誤った認識である。時間の小さな感覚を知覚できないために、そのように思い込まされているにすぎない。

 つまり、宇宙のどこを探しても、「今」という瞬間に起きた出来事は見つけられないというのだ。なぜなら、わたしたちの「今」は「ここ」にしか存在しないから。「今、ここ」という言い方には意味がある一方で、「今」という言葉を使って、全宇宙で「今まさしく起こっている」出来事について語ろうとしても意味はない。なぜなら、それぞれの場所に「今」があるのだから。

 それはいわば、わたしたちの銀河の位置を知ろうとして、アンドロメダ銀河よりも「上にあるのか、下にあるのか」と問うようなもの。この質問には意味がない。なぜなら、「上に」とか「下に」といった言葉が意味を持つのは、二つの事物が地上に存在している場合に限られるからだ。宇宙のあらゆる事物にとって「上」「下」が存在するわけではない。同様に、宇宙で起こるあらゆる事象にとって、「先」「後」がつねに存在するわけでもないのだという。

 たとえ技術や理論の助けを借りたとしても、人は人のサイズでしか、物を考えることができない。この「サイズ」という言葉は、スケールという意味やスピードという意味も込めて使っている。すなわち、人の理解の範囲に翻訳できる規模や記法や速度や物量でしか、人は物を考えることができない。地上を基準とした「上」や「下」といった概念を離れ、時間を基準とした「先」「後」に囚われずに考えられるとしても、それらを認識する「人」から自由になることはない。

 物理学に限界があるとするならば、それを用いて世界を理解する主体が「人」であるところにあることが、ここでも裏付けられる。いわゆる、[科学の人間化]が、その境界やね。

 本書は、マルセル・プルーストの箴言が、そのままあてはまる。これだ「発見の本質とは、新しいものを見つけることではなく、新しい目で見ることだ」。わたしの目に映る世界は変わらないけれど、「目に見えている世界だけが世界ではない」という本書の原題が腹に落ちたとき、すべての事物は(わたしも含め)震え、揺らいでいることに気付く。

 世界を改変する最も良い方法は、世界を知ること、それも深く遠く知ることであることが分かる。

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いつ高齢者から運転免許を取り上げるか『高齢ドライバーの安全心理学』

 明らかに運転できていないドライバーがいる。一時不停止、信号無視、蛇行運転(ハンドルをちゃんと握れてない? わき見?)。運転席を見ると100%高齢者だ。こうした光景は毎週見かける。なぜ毎週か? わたしがサンデードライバーだからだ。

 いっぽう、 高齢者の交通事故がテレビや新聞をにぎわしている。認知症の高齢者が、歩行者をなぎ倒し、コンビニに突っ込むニュースはよくあるが、認知症に限らず、ほぼテンプレのように「アクセルとブレーキの踏み間違い」「高速道路を逆走」「何が起きたかよく覚えていない」というお決まりのパターンとなっている。

 自動車の運転に必要なスキルとして、「認知」「判断」「操作」が挙げられる。加齢に伴い、こうした能力が低下することは事実だ。認知能力が低下することで判断が遅れ、操作が間に合わなくなる。このとき、車は1トンの凶器と化す。何歳でどの程度の能力低下があるかはバラつきがあり、一概に何歳だから危険ドライバーだと断定するのは難しい。

 この「加齢」を「飲酒」に置き換えても成立する。飲酒により認知能力が低下し、判断が遅れ、操作が間に合わなくなる。どれくらいアルコールを摂取したら運転能力が低下するかはバラつきがあり、一概に酒を飲んだら危険ドライバーだと断定するのは難しい―――わけがない。お酒を飲んだら運転はできないことは、常識以前の問題だ。

 しかし、世の中は少し違うようだ。高齢ドライバーがいつ運転をやめるかは、本人の意思に委ねられている。もちろん、認知テストや高齢者向けの講習会などを通じ、加齢に伴う運転スキルの低下と危険性は伝えられる。だが、最終的には、ドライバー本人が「できる」と思ったならば、できてしまうのが事実である。これは、飲酒運転の危険を承知の上で、ハンドルを握っている人々と同じように見える。

 明らかに運転できていない、一時不停止、信号無視、蛇行運転のドライバーを見ると、「お前ら酒呑んでるのか?」と問いたくなる。飲酒運転は道交法違反だが、酒呑んでるとしか思えない危険運転をする高齢者は、取り締まる必要があるのではと思えてくる。

 こうしたわたしの考え方に対し、一部は認識を改め、一部は強く反発させられたのが、『高齢ドライバーの安全心理学』である。「18歳以上という年齢制限があるように、○歳以下という年齢制限を設けるべし」と考えていたが、その線引きは悩ましいようだ。

 筆者は、警察庁の科学警察研究所で交通安全について研究してきた交通心理学の専門家だ。医学、老年学、交通工学、交通事故分析の知見を援用し、高齢ドライバーの運転と事故の特徴を分析する。その上で、高齢ドライバーの運転の危険性がどこにあり、それを考慮した安全運転支援には、どのようなものがあるかを紹介する。「俺が運転したときに高齢ドライバーが危なかったから、免許を取り上げろ」という乱暴な議論ではなく、きちんとエビデンスと統計情報をベースに分析している。

 著者は言う、高齢ドライバーの「事故が多い」とはどういうことか? 「事故が多い」とは、実は2つの意味がある。一つは、「事故件数が多い」であり、もう一つは、「事故の危険性が高い」という意味である。

 前者の「事故件数は多い」は、高齢者の半数がドライバーであるという事実に裏付けられる。高度成長期・モータリゼーションの洗礼を浴びた世代で、免許保有率が高い特徴がある。実際、この30年間で高齢者人口は2.7倍になったが、高齢ドライバーの数は、10.5倍と桁違いの伸びを示している。高齢者の事故件数が多いのは、日本の高齢化に伴った現象であり、「高齢ドライバーが危険」に直接的には結びつかないという。

 また、後者の「事故の危険性が高い」については、一概にそうと言えないと論ずる。運転者の年齢層別に事故の発生率を見た場合、若者世代(16~20歳)がダントツに高いことを示し、60代では中年世代と変わらないことを示す。70代以上になるとぐんと上がるのだが、それでも若者世代の方が高いという。

 しかし、マスコミは、認知症の高齢者が起こす事故を取り上げ、「高齢ドライバーは危険」というメッセージを伝えようとしているという。さらに、高齢ドライバー危険論は、暗黙的に抱くエイジズム(高齢者差別)の表れではないかと指摘する。

 この指摘は、わたしにとって当たっている。「危険な運転者=高齢者」という個人的な体験と、ニュースでくり返し報道される「認知症の高齢者の事故」が結び合わされ、高齢者差別が頭をもたげているのかもしれぬ。だが、加齢に伴う運転スキルの低下は事実だ。著者自身、「75歳以上の高齢ドライバーは、人身事故・特に死亡事故を起こす危険性が高く、危険なドライバーと呼んでよい」と断定する。こうした運転スキルの低下を高齢ドライバーに気付かせ、それ補う支援は進んでいるのか?

 それに対し、著者は、全高齢ドライバーを対象とした日本独自の講習制度を紹介する。75歳以上のドライバー「全員」を対象とし認知機能検査や、指導員が同乗する実車による指導などで、自身の運転スキルを客観的に見てもらうようにしているという。

 しかし、本書によると、高齢ドライバーに運転スキルを客観視してもらうのは、難しいようだ。各世代ごとに自身の運転適正を自己評価してもらったところ、高齢になればなるほど優れていると判断する人が多くなったのが実情だ。指導員が同乗する指導であっても、信号や標識の見落としを認めたがらなかったという結果が残っている。仮に、強引に線引きをするならば、運転免許を規制すべき年齢は75歳になるだろう。

 客観的に運転能力は低下してきているのに、過大な自己評価をする高齢者。その自信(過信)はどこからくるのか? 著者は、加齢のパラドックス・幸福(ウェルビーイング)の逆説を紹介する。これは、高齢者特有の心理状態で、自分を客観的に見ることができなくなる。確かに「できていたこと」が「できなくなる」を認めることは、難しいことに違いない。だが、それが自身のみならず周囲を巻き込む危険を孕んでいるならば、なんとしてでも気づいてもらう必要がある。

 高齢者の全員が過信しているわけではないらしい。自身の運転スキルを鑑み、その低下を補うような運転をする傾向あるという(補償運転という)。老化と病気に悩まされ、自分の運転スキルの低下に自覚的になると、夜間や雨の日の運転をひかえたり、スピードを出さない無理をしない運転をすることによって、安全運転を確保しようとする。この補償運転により、高齢ドライバーにとって事故を起こさない歯止めとなっているという。

 補償運転がどの程度の歯止めになっているかは、本書には示されていない。だが、運転スキルの低下をどれくらい客観視できているかの最終判断を、当の高齢者に頼っている現状は問題ありだろう。「まだ酔っていないから大丈夫、先週も事故らなかったし」とハンドルを握る飲酒ドライバーと重なる。

これは、恒常的な飲酒ドライバーが、飲酒運転を止めるときと同じだ。致命的な事故を起こすまで―――どうか、そうなりませんように。

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徹夜小説『ウォッチメイカー』

 「屈辱」というゲームがある。本好きが集まって、未読の本を次々を告白するゲームだ。

 大事なのは、「みんなが読んでるのに、自分だけ読んでいない」作品だと、ポイントが高いところ。つまり、読んでて当然の本を読んでないと告白する「屈辱」を味わうゲームなのだ。

 この「屈辱」を、ミステリ好きの読書会でやったことがある。わたしが、「ジェフリー・ディーヴァーは一冊も読んでないんですよね」とつぶやいたところ、そこに居た全員(?)から、哀れむような目で見つめられた。そんな悲しい目で見なくても……と言ったら、「羨ましいんだよ!」と全員(!)からツッコミを受けた。

 ジェフリー・ディーヴァーを読んでいないミステリ好きは、「ミステリ好き」と名乗る資格があるかどうかは別として、幸せものらしい。なぜなら、これから絶対に面白い本にどっぷりとハマれることが保証されているから。

 そこで議論が百出する。やれ『魔術師(イリュージョニスト)』が良いとか『石の猿』が好きだとか。喧々囂々の末、ほぼ全会一致で「最初は『ボーン・コレクター』を読め。最高は『ウォッチ・メイカー』だから取っておけ」というご忠告をいただく。前半の忠告を実行した結果は、[『ボーン・コレクター』から始めなさい]に書いた(あまりの面白さに徹夜になる前に読み干してしまった)。

ウォッチメイカー上ウォッチメイカー下

 そして後半の忠告を守らず、さきほど読み切ったのだが、一徹で済んだと告白しておく。そして断言できる、これは面白い……というか、凄い! 「ページを繰る手が止まらない」という前評判通りで、めくるというより、ページを立てて読む勢いなり。ジェットコースターのように止められない止まらないと思っていたら……ガツン! とアタマを殴られる。

 え…? 今まで読んできたのは、いったい何だったの!? 先に進みたい欲望を抑え込み、いったん戻る。自分が追ってきたストーリーが、自分の目で見たまんまではなかったことに気付かされて叫びたくなる。鮮やかに、軽やかに、何度も何度も主人公を、読者を、そして犯人をも騙す。世界が塗り替わるような驚きと興奮にゾクゾクする、これは凄い!

 ストーリーに触れずに面白さを伝えるのはかなり難しいが、やってみよう。「ウォッチメイカー」と名乗る者が、残忍かつ精密な手口で犯行を重ねてゆく……対するは科学捜査の専門家リンカーン・ライム、四肢麻痺でベッドから動けない身体だが、現場検証のプロフェッショナルや、尋問のエキスパートとともにチームを組んで、微細証拠物件から犯人像を組み立て、仮説検証を繰り返し、徐々に追い詰めていく。。

その見えない駆け引きの「見える化」がとてもスリリングだ。一見バラバラに見える、複数の点と線がつながるとき、一種のカタルシスを感じるに違いない。

 だが、これだけでは半分も伝えていない。追うもの・追われるものの丁々発止だけでも徹夜を覚悟すべきだが、ガツン! と殴られるお楽しみはこれからだ。この、作者以外全員を騙す構造は、将棋の藤井四段に対する評が最も適している。これだ。

「性能の良いマシンが来ると聞きフェラーリが来ると思ってみてみたらジェット機が来たレベル」

 もうね、これ全力で殴りに掛かっている。かろうじて、わたしが気付いたのは、冒頭開始2ページ目。「ウォッチメイカー」の本名が出てくるし、相棒がいる。えっ? ふつう、このテの犯罪者は単独行動だろうに。予想を狂わすパラメータとなる要因の最大の存在───共犯者───なんて、ハナから考えないだろうに。しかもこの相棒、食欲・性欲魔人で、自分の行動を押さえることができない。ウォッチメイカーには絶対服従みたいだが、なぜ?

 ミステリ読み巧者なら、「その相棒は実はウォッチメイカー自身で、読者をミスリードさせる叙述トリック」を想定するが、早々と打ち砕かれる。ならばひょっとして……と予想してたのが、ある場面でドンピシャで思わず顔がほころぶ───と思いきや、次の瞬間、驚愕に歪む。目をまん丸にしたり、開いた口が塞がらなかったり、百面相する読書は、かなり珍しい。

 どうあがいたって驚かされることは確定なのだが、注目する方向を抽象化してお伝えする。

 それは、物語の構造だ。

 物語には、「はじまり」があり、そして「なか」があり、最後に「おわり」がくる。それぞれの間にはターニング・ポイントでつながり、因果関係で結ばれている。読み慣れている人は、それを意識しながら進めるので、途中で「あれっ?」と思うはずだ(なぜ「あれっ?」と思うかはお楽しみに。読んだ人なら絶対わかる)。この、ストーリー自体が構造に揺さぶりを掛けてくる興奮を、ぜひ味わってほしい。

 もう少し視点を近づけ、地の文に注意してみよう。会話じゃない文章ね。いろいろパターンがある。

  • いわゆる三人称の描写文で、「ライムは…」「後ろで物音が…」といった、登場人物にまつわる(ミメーシス)
  • 神視点の内面描写
  • 会話を引き取って次パートにつなげる
  • かいつまんで状況説明する(ディエゲーシス)
  • 著者の文
 問題は最後。「著者の文」って、あたりまえでしょ? この小説の全ての文章は著者・ジェフリー・ディーヴァーが書いているのだから。その通り! その通りなんだけど、違うんだ。さりげなく地の文に紛れ込んでいる、著者からの挑戦文なのだ。その証拠に、すべてが分かった後から読み返してみると、ああ、これは確かに著者自身が読者に向けてヒントのつもりで書いたことだと、浮かび上がってくるから。

 ピンとこない人には、アガサ・クリスティーのプロットを思い出してほしい。クリスティーのが物語に仕掛けるのは、「決め手となる証拠・証言は、予め書かれている」だ。ポアロやマープルが種明かしをする段階で、「あっと驚く新証拠」や「後から出てくる新証言」なんてものはない。もちろん、偽の手がかり、信頼できない語り手、ありえない被疑者といったプロットで読者を大いに惑わしてくれる。だが、既に出てきた、舞台上にある証拠と証言だけで、犯人を追い詰めているのだ。

 だから、二度読みすると、全てわかった人だけに分かる「著者から読者に宛てられた文」が見えてくる。この小説、ご親切にも要所要所で事件の「まとめ」が入る。犯行現場、被害者、犯人、手口、証拠物件を箇条書きにしたもので、捜査本部にあるホワイトボードの「写し」のような体裁になっている。全部読んだ上で見直すと、確かにそこにある。全てを見せた上で、徹底的に騙しにかかる。ご丁寧に、騙す手口まで登場人物の口を借りて白状ししている。ジェフリー・ディーヴァーの高笑いが聞こえてきそうだ。

 明日の予定がない夜にどうぞ。

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7/22(土)オフ会やります@渋谷

 好きな本を持ち寄って、まったり熱く語り合う読書会、スゴ本オフ。

 本に限らず、音楽や映画・ゲームなんでもあり。演劇や展覧会やブログの紹介なんてのもあったし、とにかく「私のイチ推し」を語ってほしい。あなたの「好き」が好きな人が、「それが好きならコレなんていかが?」とお勧めしてくるかもしれない。それは、高確率であなたの知らない「好き」になることを請け合う。

 本を介して人を知り、人を介して本に会う、そんな読書会なり。

 全体の流れはこんな感じ。

  1. テーマに沿ったお薦め作品を持ってくる
    テーマは「SF」や「食」「ホラー」など事前に相談して決める。お薦め作品は、本(物理でも電子でも)、映像(DVDの映画やYoutubeの動画など)、音楽、ゲーム(PS4からボドゲ)など、なんでもあり。並べて皆に見せびらかそう。

  2. お薦めを1人5分くらいでプレゼンする
    「ここが刺さった」とか「これは音読する」などやり方自由。なるべく前半に発表しておくのが吉。後半になるとヘベレケ&グダグダになり、ちゃんと聞いてもらえなくなる可能性大なので、恥ずかしがり屋さんは後半にするといいかも。プレゼンはtwitter班が実況する。ハッシュタグは「#スゴ本オフ」

  3. 「それが好きならコレなんてどう?」というオススメ返し
    自分の好きな本をプレゼンする人は気になるでしょ? その人に自分のお薦めを「オススメ返し」するのだ。これは観客のみならず、twitter実況のレスから来るときも。このリアルタイム性がスゴ本オフの嬉しいところ。プレゼンや本に優劣つけたり投票したりはないけれど、いわゆるベストセラーは「なんでそれなの?」というツッコミが入るかも。

  4. 放流できない作品は回収する
    ひととおりプレゼンが終わったら、回収タイムになる。「放流」とは本の交換会のことで、交換できない絶版本・貴重な作品は、ここで持ち主の手元に戻る。

  5. 交換会という名のジャンケン争奪戦へ
    回収が終わったら、作品の交換会になる。ブックシャッフルともいう。「これが欲しい!」と名乗りをあげて、ライバルがいたらジャンケンで決める。ゲットできた人は、2周目になるまで争奪戦を待ってもらう。皆に行き渡って、まだ作品が並んでいたら2周目になる。持ってくる作品の上限・下限はないので、「1冊持ってきて、誰かが持ってきた全集と交換」なんてこともある。

 午後いっぱいかけて、まったりとやってる。togetterやこのブログでまとめてるんだけど、楽しさの半分も伝え切れていない気がする。途中参加・退場自由・見学歓迎なので、お気軽にどうぞ。今回のテーマは「ハマる瞬間」、あなたがハマった瞬間を語ってもいいし、何かにハマった主人公を描いた作品を持ってきてもいい。

 [7/22(土)スゴ本オフ : ハマる瞬間]の参加はこちら

 今までのはこんな感じ。右側の「過去のスゴ本オフ」に全部載せてありますぞ。

読まずに死んだらもったいない
何が幸せか人に任せると辛い。「しあわせ」を再考させる本
「失恋」の実況togetter
この短編集がスゴい!

 イベント告知や最新情報は、[facebook : スゴ本オフ]をどうぞ。

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東大の科学がスゴい『科学の技法』

 東大の理系は、一年生から「科学の技法」を叩き込まれる。

 『知的複眼思考法』を読んだとき、批判的に読み・考えるトレーニングを徹底させる東大の文系が羨ましいと思った。『科学の技法』を読んだいま、科学の技法をゼミナール形式で学べる東大の理系が羨ましい。

 東大で始まった新しい試み「初年次ゼミナール理科」が凄い。

 理系の一年生は全員必修で、1クラス20名の少人数を、教師+TA(ティーチングアシスタント)できめ細やかに指導する。学術的な体験(アカデミック体験)を通じて、サイエンティフィック・スキル(科学の技法)を修得することを目的としている。

 この科学の技法が羨ましい。前半が「基礎編」で、あらゆる研究をする上で基礎的となるだけでなく、仕事にも必須なスキルが紹介されている。後半が「実践編・発展編」で、研究チームを意識できるようなゼミを「ラボ」として開講し、そこで基礎的な演習を行う(垂涎だらけなり)。

◆基礎編◆

 「基礎編」のカリキュラムの骨子はこんな感じ。

1.文献検索方法の習得
2.研究倫理の理解
3.科学研究手法の理解
4.科学論文の構成と体系の理解
5.論文読解能力
6.プレゼンテーション能力
7.レポート・論文執筆能力
8.グループによる協同学習

 普通やんと侮るなかれ。「文献検索」などググるだけだと高くくってると驚くだろう。一般的な検索は、学ぶ材料(キーワード・概念)を集めるための下地にすぎぬ。本書では、図書館のOPACサイトで検索し、必要な図書を学内外から取り寄せる基本から、様々な学術データベースの扱う方法が紹介されている。

 たとえば、国立情報学研究所のCiNii Articlesはお世話になっているが、科学技術振興機構[J-STAGE]や、アメリカ国立医学図書館の[PubMed]、ロイター[Web of Science]、コーネル大学図書館の[arXiv]といった、人類の知の宝庫が惜しげもなく紹介されている。特に最後のarXivは、アーカイヴ:archiveに掛けていてニヤリとさせられる。物理学、数学、コンピュータサイエンス、定量生物学、計量ファイナンス、統計学の論文が公開されており、投稿も閲覧も無料という文字通りの宝の山だ。

 しかし、知的好奇心を満たすためだけに宝の山に分け入ったら、おそらく一生戻ってこれないだろう。だから、効率的に求める情報にアクセスするための方法が紹介されている。学術論文の性格の違い(入門書、専門書、学術論文、総説など)を理解し、ざっと知りたいだけなのか、入口から最先端までを通したいのか、深く潜りたいのかを選択する。

 さらに、学術論文の構造を把握し、必要な情報を素早く読み取る方法がある。慣れている人ならあたりまえかもしれないが、アブストラクトから概観を把握して、引用文献リストから関連論文を拾い上げるためには、論文の「どこ」を見れば良いかは、初学者には必須の知識だろう。

 そして、アウトプットにあたり、文献の引用方法を徹底的に教え込んでいる。レポート・論文執筆において、やってはならないこととして、他人の論文の盗用(剽窃)、データの捏造・偽造を掲げる。研究倫理の重要性についてしつこいほど説明し、意図しない盗用をしないためのテクニック(参考論文と引用箇所の一覧化や引用の表現方法)を解説する。『理科系の作文技術』にある、「事実と意見は分けて書け」が耳にタコができるくらいに書いてある。すなわち、論理性と客観性、そして対象読者を考慮した書き方が求められている。啓蒙的に科学を伝える技術として、『サイエンスライティング』も参考になったが、『科学の技法』はそのエッセンスが詰まっているといっていい。

 こうしたテクニック寄りのトレーニングだけでなく、本質的な議論が展開されているのがいい。最も重要なのに見過ごされがちな「研究とは」を、こう定義する。

真理を探究して新たな知を創造することに他なりません

 すでに明らかになっていることを元に、まだ明らかになっていない知を「問い」の形で発見し、それに向かって計画的にアプローチすることが研究活動になる。この姿勢は、研究活動以外でも充分に必要とされている。現状から未解決の問題を「具体的で検証可能な問題」という形で見出し、解決していく能力だから。

 したがって、どこまで明らかになっていて、どこからが未知なのかを見極める必要が出てくる。そのための先行研究の調査であり、そのための文献検索になるのだ。そして、「具体的で検証可能な問題」を明らかにするための仮説と研究目的を立てる───これが最も重要だと力説する。そこから何をどのように調べていけばいいかを逆算しながら研究計画を立てることで、必要なスキル、設備、資料、予算が見えてくる。これは、プロジェクトマネジメントそのまんまやね。

 先行研究を扱う上で起きるのが不正行為。本書では、「なぜ研究倫理を守らなければならないのか」という基本的なところから説く。多大な労力が無駄に費やされる社会的な損失が発生するだけでなく、本人ならびに、所属する研究室・学部・研究機関や大学、ひいては科学活動全般への信頼が失われることになる。研究活動とは科学コミュニティの中で行われていることを念押しする一方で、「倫理の正否が判断できないときは、指導教員や先輩に相談してください」と添え書きする。エビデンスを残せ、困ったら相談せよというメッセージは、研究員の卵には心強いだろう。

◆実践編・発展編◆

 科学の最先端をいかに大学一年生に体験してもらうか? 研究テーマの紹介の仕方が凄く工夫されている。ブルーバックスやハヤカワノンフィクションの棚を見ると興奮する人にとっては、垂涎の的だろう。

 たとえば、「数学・物理をプログラミングで考える」や「スポーツや音楽演奏のスキルと熟達化について考える」「酒になれなかった水のはなし」は、そのまま本のタイトルにして間違いなく面白いテーマになっている。さらに、「時空のさざ波,重力波をとらえる」は重力波の直接検出の競争の話で、アメリカの重力波望遠鏡(LIGO)に敗れた後も残された課題の考察が得られるし、「始原の微生物代謝を垣間見る」はニック・レーン『生命・エネルギー・進化』の知見を、かみ砕いた形で得ることができる。

 特に興奮したのが、「ヒトが光合成できるようになるには」(増田建教授)の紹介だ。新井素子『グリーン・レクイエム』(あるいは弐瓶勉『シドニアの騎士』)まんまやん! と笑った。だが、これは、本気で人の光合成を目指すなら、先行研究はどこまで進んでおり、その先にはどんな課題があり、具体的にどのようなアプローチが有効かが、こと細かに記されている。いわば、「ヒトの光合成プロジェクト」の見取り図といっていい。

 先行研究は、ウミウシで行われている。ウミウシの仲間には、藻類を食べて、その葉緑体だけを自分の細胞に取り込み、その葉緑体による光合成を利用して生きるものがいる。藻類から葉緑体の強奪であり、盗葉緑体と呼ばれているが、どのようなメカニズムなのかは分かっていない。

 この、盗葉緑体の仕組みを理解する上での常套手段として、盗葉緑体ができなくなるような薬剤や変異体を探すことが最初のアプローチになるという(遺伝子のノックアウト)。その上で、盗葉緑体が起こる際にどのようなタンパク質や遺伝子が働くのかを丸ごと解析するような分析手段を提案する(オミックス解析というらしい)。

 また、「性差は科学できるか」(坂口菊恵准教授)も興味深い。ジェンダーアイデンティティの個人差に着目した研究で、ジェンダーの可塑性を示唆している。なかでも、進化における同性愛の位置づけは、これからもっと面白くなりそうだ。

 つまりこうだ。繁殖行動において役に立たない特徴は切り捨てられるはずの進化のプロセスで、同性愛の性行動がなぜ保存されているのか? これは、ヒトだけではなく、ボノボ、ニホンザル、バンドウイルカ、ハシリトカゲなどで同性間の性行動を観察することができる。同性同士の性行動では、子孫を残すことはできない。にもかかわらず、同性愛の性行動が保存されている理由について、体系的な研究は途上中だという。

 一時期は、ハチやアリなどの真社会性と呼ばれる生物のワーカー個体のように、親族の子育てを助けることで自分の遺伝子のコピーの普及を促しているのではないかという仮説(血縁淘汰)が提唱されたという。だが、同性愛者に対する差別がある現代の西洋社会では支持されなかったそうだ。

 近年有力になっている「多面発現による平衡淘汰」が紹介されている。同性間の性行動は、直接的には繁殖率を上げることはなくても、同性の仲間との結びつきを高めて集団内での自らの社会的地位を保持するための、生存戦略としての役割を果たしているという考えかたである。これは、読書猿さんから教えてもらったこれと同じ研究のようだ。

 このように、基礎から実践、演習をひととおりこなすことで、たとえ小規模であっても「学術的な体験」をこなすことができる。科学の技法を学ぶ上でも、近年の研究分野の先端を触れる上でも、有用な一冊。

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猫町倶楽部の読書会『利己的な遺伝子』

 日本最大の読書会「猫町倶楽部」が楽しかった。

 課題図書を読んできて、グループディスカッションで交流する。2006年に発足し、東京、名古屋、京都で月例会、5000人超の参加者、商業的なランキングと一線を画し、硬めの本を俎上に、本と人・人と本との出会いをプロデュースしてきた。好きな本を持ち寄って、まったり熱く語り合う読書会「スゴ本オフ」とは偉い違う。

 参考になるかなーと思いながら興味半分・視察半分で参加してきたんだが、これがまためっぽう面白い&タメになる。主催の方、運営の方、ボランティアの方、お疲れ様でした、大変勉強になりました。

 さて、行ったところが、六本木のシスコシステムズ。広~いトレーニングルームに100名超が集まって、1グループ8名ぐらいに割り振られる(美男美女ばかりで、うだつの上がらぬオッサンは私一人だったことを報告しておこう)。そして課題本(ドーキンス『利己的な遺伝子』)について150分語り合い、後は希望者で飲み会という寸法。ディスカッションにはただ一つのルールがあり、それは、「人を批判しない」こと(これ重要)。各グループにファシリテーターがついており、ブックトークの方向づけやタイムマネジメントをしてくれる。

 初対面なので、自己紹介→参加のきっかけ→アイスブレイクで一巡する。医療、IT、広告業界、金融と、さまざまな人たちと交流できるのが良い。わざわざ読書会に来ることもあって、みなさん「本好き」「読書好き」ばかり。文学クラスタの人もちらほらおり、ちょっと話しただけで、めちゃくちゃ読み込んでいることが分かる。レベル高けぇ!

利己的な遺伝子 さて、お題の『利己的な遺伝子』。偉い学者が書いた大ベストセラーということで、無批判に信じている人がけっこういて驚く。つまり、「利己的な遺伝子」という存在が生物をコントロールしているという前提で語られる。我々は遺伝子の乗り物であり、私たちの考えや判断すら支配している、という理解だ。それはまさに、ドーキンスがミスリード(misLead)させようとした仮説であり、「分かりやすさ」と引き換えにミスリード(misRead)した罠だ。

 詳しくは[分かりやすさという罠]に書いたが、ドーキンスの主張をまとめると、「生物のあり方や行動様式を説明するとき、遺伝子の自己複製というレベルからだと整合的に理解できるよ」となる。どうしてそんな特徴をもつ生物がいるのかという疑問に対し、「そんな特徴をもっている奴が生き残ったからだ」と説明できる。

 この「そんな特徴を持っている" 奴 "」がクセモノだ。人でないものを人のように扱う”擬人化”により、理解しやすくなる。その代償として、仮説をムリヤリあてはめることで、上手く説明できないハミでる部分が出てくる。社会や歴史、文化や宗教から派生する多様性であり、それは本書では「ミーム」としてまとめられる。「ミーム」の章の取って付けた感は、ディスカッションでもツッコミが入り、信者 v.s. アンチの様相になって話が湧きたつ。

 わたし自身は、アンチ・ドーキンスの役をやったほうが面白かろうと思って、ユクスキュル『生物から見た世界』や、バレット『野性の知能』から絡め手で攻める。[動物を観察する際、ヒトに似た属性の有無を探し、ヒトの基準で動物の行動を評価する擬人化の罠に陥っていないか?] という方向から援護射撃をする。

 そこからの議論がめっぽう面白かったなり。遺伝子を最大化させる戦略の話から、子育ての肉体的・精神的コストから見た男女の差の話になり、「可愛がっていた子が実は血がつながっていなかったことが分かったら?」という議論になり、倫理や規範を度外視したフリーライダーへの淘汰圧の話となり、そこからレイプを是とする人は淘汰圧により無くならないのか? という話へ飛ばす。[レイプは適応なのか?(人はなぜレイプするのか)]という、初めて会った人同士では危険すぎる議論を吹っ掛ける。紆余曲折の末、めっちゃ常識的な結論(適応かどうかは置いといて、全体としてバランスを取ろうとしているんじゃないの?)に落ち着く。

 さらに、遺伝子の生存戦略を囚人のジレンマに置き換ると、『ライアー・ゲーム』で学べるよという貴重な情報を賜る(ありがとうございます! 読みます!)。また、適応(生き延びられるか否か)という観点から、進化と適応のミスマッチである病気の本質(『病気はなぜ、あるのか』)になったり、ある種の病気は必要悪であるという進化医学の最先端『ヒトは病気とともに進化した』に飛んだり、好き放題に拡散していく。

 そうこうしていると、吉川浩満さんご本人が降臨する。すごいよ猫町倶楽部! 先のドーキンスの胡散臭さを吹っ掛けると、打てば響くのが楽しい。短い時間だけれど、濃密なお話を伺うことができた(ありがとうございます!)。特に、ドーキンスの隠喩の指摘が鋭い。「遺伝子は不滅です」というとき、そう発言する/発言を聞く人は、”生きている”のだから、そこに至るまでの遺伝子の生存戦略を経てきて、”生き残っている”のは事実である。一方で、”不滅”という未来永劫、生きているのかと問うならば、それは嘘であるという話になる。さらに「不滅」という極めて宗教色の強いメタファーを駆使するのがドーキンスだよ、と釘を刺してくれるのが嬉しい。

 というわけで、脱線しまくり話飛びまくりの犯人は、わたしです。話かき混ぜすぎてごめんなさい。ドーキンスをボコボコにしてすみません。でも、『利己的な遺伝子』のおかげでこの世界の面白さを知り、あちこち渉猟するようになったのは事実。そして、最初に付けられた題名『生物=生存機械論』なら、きっとこれほど売れなかっただろうし、わたし自身も手にしたかどうかあやしい。

 最後に、このブログの宣伝と、最近のイチオシ『冴えない彼女の育てかた』について全力で語らせていただきました。また参加したいですな。

 冴えカノ読書会もええなぁ……

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胃がん100万、乳がん200万、肺がんだったら300万『がんとお金の本』

 がんになったときの、「お金」関連がまとめられている。検査や治療の明細、公的医療費助成制度の活用法、収入や生活の不安を支える公的制度など、「生きる」費用対効果を考える上で、有用な一冊。国立がん研究センター監修。

 タイトルはもちろん乱暴だ。がんの発生場所、病期(ステージ)、治療方法、入院期間などによって、まるで違う。「がん」という名前だけで、全然別の病気に見える。例えば、胃がん100万の事例は、「ステージI期、腹腔鏡下幽門側胃切除術のみ、11日間入院」の場合。大動脈リンパ節転移で切除不能だと化学療法のみとなり、46万と半額になる。ステージが進むほどやれることが限られてくる傾向がある。

 問題は、がんになるか、ならないかではない。問題は、「いつ」がんになるかということと、「どの」がんになるかである。

 日本人の2人に1人はがんになるのなら、がんに罹ることを前提としたほうがいい。問題は、それがいつ発見できるのか、そして、どの部位で見つかるのかを想定して、準備をしておいたほうがいい。

 そして、罹患部位ごとの5年生存率を見ながら、どこまでの治療を選ぶかを考えておく。そのために、どの段階でどのような治療が標準的なのか(そしてそれはいくら位なのか)、押さえておく必要がある。「できるだけの治療」を目指すなら、いくらでもお金を注ぎ込むことができる。標準治療からかけ離れた、「ニセ医療」に全財産を取られることだってある。

 たとえ予後が良くても破産したら意味がない。お父さんが助かっても、家族が地獄を見るならば、何のための「お父さんの命」か。生きているだけで幸せと言えるのは、そう言ってもらうために、先立つものがあってこそ。

 わたしが5年生き延びるためにかかる費用が、ある一線を越えそうなら、治療の方向を変えよう。わたしの残機を念頭に、残りの人生の品質を最大化するためのケアに切り替えるつもりだ。これは、わたしの決定であり、他人は知らぬ。「金かかるから諦めろ」とは、自分には言い聞かせられても、他人には言えぬ。

 そのために、どの部位のがんに罹り、どの時点で発見されると、いくら掛かるのか、予め知っておきたい。これ、いざ宣告されたなら、ショックのあまり検索してしまうから。そして、「自分で治す」「切らずに治す」「医者に頼らない」といった宣伝に、うっかり引っかかること必至だから(「お金があまりかからない」の暗喩にすぎぬ)。

 がんになる人がそれだけいるということは、そうした人々を支える助成制度が準備されている(この点、日本はすごいと思う。金の切れ目が、命の切れ目である国と比べて)。高額療養費制度は知ってはいたが、高額介護療養費と合体した制度があることは知らなかった。

 他にも、高額医療費の貸付制度や、収入に不安がある場合に頼れる制度が紹介されている。上手く活用することで、命の切れ目の上限額ラインを引き上げることは可能だ。緩和ケアに保険が利いたり、ロボット手術支援システム「ダビンチ」の手術に保険が使えることを知ったのは、新たな発見なり(ただし、手術部位による)。

 金の切れ目が、命の切れ目にならぬように。

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劇薬小説『異形の愛』

 「劇薬小説」というジャンルがある。心をざわめかせ、脳天を直撃し、己を打ちのめすような小説だ。憎悪、歓喜、憤怒、悲嘆、さまざまな感情を爆発させる猛毒だ。

 怖いもの知らずで聞いて回り([人力検索はてな:最悪の読後感を味わいたい])、エロもグロもゴアも手当たり次第に読んできた。10年かけて渉猟してきたベスト(ワースト?)5はこれ→([劇薬小説ベスト])。

 しかし、『異形の愛』は読めなかった。

 正確には、序盤までだった。予備知識ゼロで手にとって、これが一体、何の小説であるかに気づいたとき、二度と触れられなくなった。最初に本書を手にしたとき、まだ幼いわが子と重なってしまい、先に進められなくなってしまったのだ。

 これは、巡業サーカスの家族の物語である。団長であるパパは、薔薇の品種改良に想を得て、わが子の品種改良を試みる。すなわち、子どもが「そのままの姿」で一生食べていけるよう、意図的に畸形を目指すのである。ママの排卵と妊娠期間中、コカイン、アンフェタミン、それに砒素をたっぷり摂り、殺虫剤のブレンドから放射線まで試す。

 そうして生まれてきたのは、腕も脚もないアザラシ少年(サリドマイド児)の兄、完璧なシャム双生児の姉、一見フツウだが特別な力を持つ弟、そして、アルビノの小人の「わたし」である。物語は「わたし」によって導かれ、過去と現在を行き来しながら、家族への愛が語られる。

 見世物のキャラバンでは、フリークスこそが望まれ、フツウは入れない世界なのだ。他にも、家族の外から入り込んでくる変人が現れるが、五体不満足を目指す動機が無残としかいいようがない(袋男のエピソードは強烈である。注意して読まれたし)。

 価値観は転倒しているにも関わらず、その愛は正当なものだ。歪んでいるのは、そう見ている読み手であるわたしであることに気づく。その身の捧げ方がいかに特別なものであっても、やっていることは狂気としかいいようのない行為であっても、名付けるとするならば、愛としかいいようがない。この小説に「結論」というものがあるのなら、それはここになる。

強いのは愛する側なんだという思いを引きだした。愛されるなんてはかないもの。お返しに愛されたからって、それがなんになる? そうわたしは自問した。暗闇で背骨を暖めるため? わたしの愛など、アーティには関係のないことだ。それは秘密の切り札、恥毛の下に彫った青い鳥の入れ墨か、ケツの穴に隠したルビーのようなものだ。

 言葉にできないものを言葉を通じて知ることがフツウの文学ならば、言葉にしてはいけないものを言葉を通じて知るのが本書である。笑える&泣ける家族のエピソードを散りばめつつ、残酷な運命に向かって平凡な日常を続ける現代のおとぎ話は、ジョン・アーヴィングの傑作『ホテル・ニューハンプシャー』を思い出す。アーヴィングを読んだ人に対しては、『異形の愛』とは、フリークス版の『ホテル・ニューハンプシャー』だと言えば上手く伝わるかもしれぬ。

ホテル・ニューハンプシャー上巻ホテル・ニューハンプシャー下巻

 やっていることは、商品としての赤ちゃん「デザイナーベビー」に連なる。遺伝的に劣位な胚を除外する生殖補助、肌・目・髪の色や遺伝特質を予めセットアップするサービス、亡くした子どもの代わりにつくられる生物学的に同一のレプリカントなど、ベビービジネスは巨大な市場になっている。にも関わらず、そこに異質を感じるのはぜか。さらに、異形たちの愛にフツウの愛を感じるのはなぜか。自分は「大丈夫」だと信じたいのか? 読めば分かる。試すつもりで読むといい。

 きれいはきたない、きたないはきれい。闇と穢れの中を読み進め。

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『女の子が生きていくときに、覚えていてほしいこと』(西原理恵子)は、娘の幸せを願う全ての親に伝えたい

 これは重要な一冊。これを娘に伝えられるかどうかが、娘の幸せを左右することだから。年頃の娘を持つ全ての親に渡したい。

 中身はいつものサイバラ節と、ちと違う。「母」という立場から反抗期の娘に宛てた手紙のような、それまでの半生を振り返って「いろいろあった」とつぶやくようなエッセイなり。さらりと書いてあるくせに、幸せの勘所というか、不幸を避ける考え方のようなものがきっちりとまとめられている。

 過去作を読んできた方には、目新しいものはないかもしれぬ。だがこれは、西原理恵子が伝えてきた「金の話」「男との関係」「幸せへの近づき方」の、いわばエッセンスを凝縮したものになる。一番重要なところを引用する。

大事なのは、自分の幸せを人任せにしないこと。そのためには、ちゃんと自分で稼げるようになること。

 そのために、最低限の学歴は確保する。できれば、資格もとって、スキルアップしておく。結婚するときは、夫に内緒の貯金を持っておく。「今は離婚できない」と「いつでも離婚できる」では人生大ちがいだという。理不尽な暴力(肉体的なものに限らず、言葉や態度も含む)を振るう人は、相手が逃げられない状況になってはじめて本性を現す。

 もちろん、そんな人だと分かっていたら、一緒になったりしない。だが、「そんな人ではない」と思っていても、リストラされたり、アルコールにはまったり、環境が変われば人も変わる。そんな人の具体例がこれまた生々しく、どす黒い。そうなる前に、逃げろという。「逃げる」という選択肢があることを、そうなる前に予め知っておき、それを選べる自由を持てという(それが金であり、金になる手に職なのだ)。

「自分さえ我慢すれば」は間違い。まず自分がちゃんと幸せにならなくってどうする。自分をちゃんと大切にできるって、女の子にとってすごく大事なこと。

 「いい子」になるなという。「優しい子」になるなという。そういう、優しくていい子は、自分の幸せを後回しにして、人に譲ってしまうから。譲られた人は感謝なんてせず、次からは当然になるというのだ。この件は、内田春菊のケーキの喩えを思い出す。

 ある女が手間暇かけて美味しいケーキを焼いた。それを一切れ、気になる男に差し上げたとしよう。男はうまいうまいと食べ、もっと欲しいと言い出す。女は躊躇するのだが、男は「一切れくれたのなら、全部くれても一緒だろう」と腹を立てるというエピソードだ。

 ケーキは肉体関係を指しているのだが、これは「やさしさ」にも通じる。最初の一切れは彼女の好意や優しさかもしれぬ。だが、それを当然視してもっとよこせという男に対し、我慢してつきあう必要はない。

 他にも、「女の一途は幸せの邪魔」「自由ってね、有料なんですよ」「人生は我慢くらべじゃない」など、名言だらけなり。娘の幸せを願う全ての親に、ぜひ読んで欲しい。そして、わたしの娘にも読んで欲しい一冊。

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