ブラック人生における光『あまりにも騒がしい孤独』

 過酷であるほど、彼が大切に抱える光の愛おしさが伝わってくる。その輝きが、知的で美しい存在が、めちゃめちゃに潰されてゆくのを全身で感じる。

 「なんでもあり」が小説だが、この苦痛は耐えがたい。本を読むのが好きな人ほど、息苦しさを感じるだろう。なぜなら、彼の仕事は、運び込まれてくる本を圧縮機で潰し、紙塊を作ることだから。

 本ばかりでない。食肉解体業者が運び込んでくる、蝿がたかった血まみれの紙も一緒に圧縮する。ゲーテと蝿、ニーチェと鼠が一体化された紙塊を、祭壇のように恭しく並べる。知的で美しいものと、醜怪でグロテスクなものが渾然一体となって、読み手の前に並べられる(ここで悲鳴をあげたくなる)。

 背景にはプラハの春がある。1968年にチェコスロバキアで起きた民主化運動で、ソ連の軍事介入により、文字通り「圧殺」された。大学教授をはじめとする知識人は職を終われ、言論の自由は奪われ、厳しい検閲と徹底的な統制を受けたという(この言論弾圧を「正常化」と呼んでいるのが最高の皮肉なり)。

 ブラック企業、ブラックバイトが現代なら、ブラック人生はこれだろう。価値あるものを(価値あるものだと分かっている人の手で)容赦なく潰す。

 もちろん、そうした経緯をそのまま書くわけにはいかぬ。だからフラバルは、下水道の鼠の争いや蝿、潰されてゆく膨大な量の本に仮託する。ナチズムとスターリニズムが重なりあう過酷な生き様を、ときに滑稽に、ときにメランコリックに描く。

 ブラック人生の中で光る、ささやかな抵抗や、大切な思い出が愛おしい。その描き方が、奇妙で興味深い。可愛い少女と人糞、肉蝿の黒雲とジプシー女のきれいな陰毛、憧れの人の生き方とその人の肉塊など、対照的な要素を並べることで、ビジュアル的に互いに引き立たせるように描いている。

 たとえば、少女と人糞。主人公が、初恋の娘と踊る場面だ。彼女の髪を飾る長いリボンに付いた人糞が飛び散るシーンは、夢に出るほど強烈だった。そして、そのシーンが美しく切ないほど、くるくると回転する彼女がまき散らす人糞の生々しさが、しかめっ面で見守る若者たちの目線が、彼の思い出の中で一層の輝きを増す。真っ黒な人生のうち、目を背けようもないほどの存在感を放っている。

 絵にも描けないおもしろさ。シュールで、グロテスクで、滑稽で、美しい傑作。ご堪能あれ。

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「正しい政策」がないならどうすべきか→コンセンサスの重なりを泥臭く探す

 運転免許の年齢制限をするべきだ。

 18歳未満という制限があるように、ある年齢以上にも制限を設ける。強制返納、保険料の加算、速度制限つき車などのオプションを準備し、「高齢者の運転」がない社会をつくる―――そんな話を妻とする。

 飲酒運転の厳罰化のように、制度化されるまでに大勢の犠牲者が出るのだろうねとか、いやいや「多数」はまさにその高齢者なのだから、無理じゃないかしらね、といった話に落ち着く。しかし、我が家にとっての「正しい政策」は、別の家庭にとって「正しい」とは限らない。

 『「正しい政策」がないならどうすべきか』は、そんなわたしにとってドンピシャの読書になった。原題は"Ethics and Public Policy"(倫理と公共政策)なのだが、まさにタイトルどおり、「正しい政策」がない場合どうすべきか(どうしてきたか)が書いてある。

 急いで補足しておかねばならないのだが、本書で取り上げるテーマは以下の通りで、「高齢者の運転」は含まれていない。そして、イギリスにおける政策問題の事例のため、日本とは事情が異なってくる。

 ・動物実験
 ・ギャンブル
 ・ドラッグ
 ・安全性
 ・犯罪と刑罰
 ・健康
 ・障碍
 ・自由市場

 それでも得るもの大なのは、現実で直面する政策課題に対し、哲学者がどのように取り組んでいるか、生々しい側面とプラグマティックな「落としどころ」が整理されているから。どのような価値に基づき、どんな利益をめぐって対立が生じているかを泥臭く手際よく分析し、哲学、歴史学、社会学、科学的なエビデンスを用いながら、一定の解決策を導く手腕は鮮やである。

 たとえば、健康の章で、「皆保険の導入→健康の平等」とは真逆のエビデンスと検証をする。国民保健サービス(NHS)が導入された結果、高い階級の人はさらに健康になる一方、それ以外は改善されていない報告を紹介する。皆保険制度は、病気やケガへの「心配」を低減するメリットがあるが、健康の決定要因の一つに過ぎないという。

 そして、健康セキュリティという概念を用い、健康を取り戻すべく医師の指示通り「休む」ための家族のサポートや社会的なセーフティがないことが大きな原因であるという仮説を示す。つまり、皆保険は人生の質を向上させるかもしれないが、それは部分的に過ぎないというのだ。

 面白いのは、哲学者が自ら哲学の限界を認識しているところ。哲学そのものではなく、哲学と政治をつなぐときに生じる限界である。わたしたちの価値観は沢山の源泉があり、文化的・宗教的な伝統に由来する。そうした価値の対立に対し、理路整然と秩序づけることは、不可能だという。道徳的価値の多元性に基づくならば、「正しい政策」など存在しない。

 そのため、「正義の原理」といった道徳原理を定め、そこから「正しい社会への処方箋」を書くといったこれまでの政治哲学者の役割に対し、本書は懐疑的な立場をとる。

 たとえば、ピーター・シンガーの「すべての動物は平等である」という主張や、ジョン・スチュアート・ミルの自由原理に基づく議論が俎上に上るが、これらを「小奇麗に」公共政策に適用したとしても、何も解決しないという。「もし哲学者が真実は発見され、論争は終わったと言い張るのなら、彼または彼女は論争が自分抜きで続いていくのを知ることになるだろう」とまで言い切る。

 では、どうするのか。自分が正しいと考える原理から出発するのではなく、現在の政策と国民が広く抱いている感覚から出発することを強調する。対立状況を把握し、哲学的な一貫性が無いという批判を覚悟しつつ、多くの人が歩み寄れる境界線を見いだすべく検討せよという。

 価値が多元化した現代において、「重なり合うコンセンサス」を模索する社会的合意を重視するアプローチは、泥臭く複雑である。しかし、絡まりあったロジックを解きほぐし、価値と利益対立の関係を質し、すり替えられがちな論点の焦点を合わせ、各人が判断すべきトレードオフを評価する。哲学者抜きで議論が進んでいかないよう、こうした仕事にこそ、哲学者が汗を流すべきなのだろう。カール・マルクスの墓石には、こう刻まれているという。

「哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきただけだったが、大事なことは世界を変えることだ」

 わたしが「正しい」と考える「運転免許の年齢規制」という政策は、さまざまな価値判断と利害関係を孕んでいる。本書に従うなら、これもコンセンサスを得るため、さまざまなディレンマ・トレードオフを経た「手を汚す」仕事になるに違いない。

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『タンパク質の一生』はスゴ本

 物質がいかに生物になるか、その精妙なプロセスを垣間見ることができるスゴ本。

 ヒトの体には、60兆個の細胞があり、それぞれ80億個のタンパク質を持っているという。本書は、細胞というミクロコスモスで繰り広げられるタンパク質の、誕生から死までを追いかけると共に、品質管理や輸送のメカニズム、プリオン病やアルツハイマー病といった構造異変による病態を紹介する。今までバラバラだった知識がつながるとともに、既知で未知を理解することができて嬉しくなる。

 いちばん大きな収穫は、DNAの遺伝情報から複雑なタンパク質ができあがる仕組みを知ることができたことだ。タンパク質を構成する要素は、アミノ酸だ。アミノ酸は、アミノ基(-NH2)とカルボキシル基(-COOH)を持った化合物で、わずか20種類でタンパク質を構成している。

 では、どうやってアミノ酸を並べることで複雑な機能を持つタンパク質ができあがるか? 本書を読むまで、DNAに書いてある通りにアミノ酸を並べれば、タンパク質が勝手にできあがるものだと思っていた。これは半分しか合っていない。

 もちろん、DNAの遺伝情報が指定するのは、アミノ酸を一列に並べる、まさにその順序だけである。DNAの情報をmRNAとして読み出し、tRNAとリボソームによって一個一個のアミノ酸との対応付けをして並べる。DNAがヒモだから、そこから転写されるアミノ酸もヒモであり、アミノ酸が並べられたものも、ヒモ状になる(ポリペプチドという)。

 だが、並べればそれで終わりではない。コラーゲンのような細胞構造を担ったり、酵素のように代謝に直接関係するためには、ヒモ状では不十分で、それぞれの機能を果たすため、立体的な構造をとる必要がある。ヒモができれば、あとは勝手に折れ曲がったり編みこまれたりするわけではない。

 そこで、分子シャペロンというタンパク質が登場する。シャペロンはフランス語で介添え役のことで、いわば「分子の介添え役」という意味だという。本書では、分子シャペロンを電気餅つき器にたとえ、ポリペプチドから三次元構造を作るメカニズムを説明する。ヒモ状のポリペプチドを取り込んで、蓋をして中で折りたたんだ後、必要としている場所で蓋を開けて取り出す。アミノ酸を並べたモノを生命の要素に変える、その精妙なメカニズムにうなるほかない。

 他にも、できあがったタンパク質を輸送する方式について、葉書や小包に喩えて解説したり、タンパク質の品質管理システムを工業製品に喩えて説明する。また、現在の細胞生理学ではどうしても説明のつけられないプリオン病は、「いま解っていること」「解っていることから説明できないこと」の境目に迫っている。

 著者は、人間社会のアナロジーを細胞世界に持ち込むことに慎重になりつつも、理解の助けになるときには大胆にあてはめてくれる。おかげで、「ここは研究で解明されている」点と、「ここはその喩え」に分けて知ることができた。

 「どのようにそうなっているか」は、「なぜそうなっているのか」を考える便であり、未知を既知で知る驚きと喜びが潜んでいる。

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痛みの科学『痛覚のふしぎ』

 ディズニー映画『ベイマックス』の好きなセリフに、「今の痛みを1から10段階で言うと、どれくらいですか」がある。

 主人公ヒロの「痛い!」という言葉に反応し、スキャンして体温や脈拍など定量的な数値から健康状態を把握するのに、「痛み」だけは自己申告してもらうしかないところが面白い。ベイマックスがロボットだからではなく、痛みは主観的なものだから。

 だが、分子生物学の進歩に伴い、痛覚に関連する機能分子や遺伝子の構造が明らかになってきている。また、fMRIを始めとする脳のイメージング技術の進展により、脳の活動部位や神経回路網を可視化することで、脳における認知の理解が急速に進みつつある。

 その結果、「外部の刺激がなぜ痛みを引き起こすのか」「刺激がどのように脳に伝えられて"痛み"として認識されるのか」といった痛覚のメカニズムが分子レベルで電気生理学的に説明できるようになっている。興味深いことに、「痛み」が熱さ・冷たさ、味覚と密接に結びついているが、これは哺乳類の進化の過程での最近の出来事らしい。

 さらに、単純な「刺激→認知」の直線的な構造ではなく、情動的・感情的要因に「痛み」が影響を受けていることも明らかになっている。外部刺激がない慢性痛が、「痛み」として脳で処理される仕組みを見ると、著者の「痛みとは記憶である」主張に頷きたくなる。ヒロが負った心の傷の「痛み」は、思い出から来るものだから。

 最も興味深く感じたのは、トウガラシの"辛さ"を感じるカプサイシン受容体を解析して明らかになった、痛みとは熱であり味であるという研究だ。カプサイシン受容体は「熱」の侵害受容器でもあり、カプサイシンそのものだけでなく、熱の侵害刺激でもTRPイオンチャンネルが開き、電気信号が脳に伝えられ、「熱い」と感じる。TRPイオンチャンネルは、その構造から複数の刺激に対応しているという。

 受容体  活性化する温度   刺激例
――――――――――――――――――――――――
 TRPA1    15℃      大根、生姜、ワサビ
 TRPM8    12℃      ハッカ
 TRPV3    30℃      樟脳
 TRPV1    43℃      トウガラシ
 TRPV2    52℃      炎

 つまり、熱くて「痛い」と感じる刺激も、冷たくて「痛い」と感じる刺激も、共通の基本構造は同じであり、その刺激は脳の共通の入り口である"視床"を通って大脳で知覚・記憶される。痛みとは熱であり味に結びついた経験なのである。

 痛いとき、痛みに注意が行くと強まり、気がそれると弱まることはないだろうか。虫歯の治療中に、歯科助手から柔らかいものを当ててもらい、痛みが和らいだことがあった(後に、それはクッションだと知った)。あるいは、憂鬱なときに、より「痛み」を強く感じることはないだろうか。この主観的な痛みは、中脳における水道周囲灰白質(PAG)という細胞集団の働きだという。

 PAGは、侵害情報を脳に伝える門番の役割を担っており、主観的な痛みをもたらす痛みの司令塔ともいえる存在らしい。そして、PAGを中心として視床に分布している受容体こそが、モルヒネの受容体になる。つまり、モルヒネは主観的な痛みそのものに効くからこそ、強力な鎮痛作用があるといえる。

 そして、痛みとストレスは密接な関係があるという。大事な面接や分娩時といったストレスがかかるとき、体内でβエンドルフィンと副腎皮質刺激ホルモンが産出される。前者はモルヒネ受容体と結びつき、鎮痛作用があり、後者はストレスを和らげる作用がある。この産出が不十分だと、ストレス耐性が低下するのみならず、痛みへの感受性が上がることが予想される。

 つまり、外的な刺激を「痛み」として認知するには、記憶や気分にされる。この性質を利用して、痛みの記憶を「上書き」することで和らげたり、手術ができない膵臓がんの患者に対し除痛することで延命するといった研究が紹介されている。

 痛みの科学の最新成果を眺めているうちに、主観的な「痛み」のメカニズムも見えてくる。未来のロボットは、「今の刺激は5ですが、あなたの痛みは7ですね」と答えてくれるようになるかもしれない。

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読まずに死んだらもったいない48作品

 「こんなに面白いのに、読んでないのは損してる」という本がある。「面白い」のところには、「タメになる」「心が洗われる」などが入る。徹夜保証の小説だったり、良く生きるための教養書だったり、完結するまで死ねない漫画だったりする。

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 5/8締め切りで、シミルボンの[「本とワタシ」選手権]で募集している。わたしが選考するので、楽しみでならないのだが、待ちきれなくてスゴ本オフのテーマにした。スゴ本オフとは、お薦め作品をまったり熱く語り合う読書会なのだが、まさに「読まずに死ねるか!」級の、とっておきが集まった。

 まずわたしから。読書猿『アイデア大全』を強力に推す。考えるヒント集みたいな顔つきだが、今晩の献立から一生を賭すに事業学業の進め方まで、なんにでも応用できる。これは、問題解決のための人類の叡智を結集したもの。即効を謳う安直なサプリメントのような本ではない。すぐ効く本はすぐ効かなくなる。そうではなく、現実を捉え直す新しい「目」と「手」が手に入る。

 たとえば、対立関係にある相手に問題ありとする構造(me vs you/problem)から、ホワイトボードに問題を可視化することで、問題と私たち(problem vs us)にする手法がさらりと書いてある。わたしは自分の経験から学んだが、これ読めば苦労しなくて済んだのにと思うと、声を大にして言いたい、「読め! あなたが楽しく楽するために」と。

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『アイデア大全』は紹介用と布教用で3冊持ってきた!


 「読まずに死んだらもったいない」の「読まずに死ぬ」が自分でなかったらという、すぎうらさんの指摘にハッとする。そして、親の最期の看取りの際、追われるように読み始めたという、深沢七郎『楢山節考』を紹介してもらう。因習に閉ざされた棄老山伝説を小説に昇華した名作で、死への社会観念が変化しているいま、もう一度読まれるべきなのかもしれない。

 そして、自分が死ぬまでに読むべき本は沢山ある一方で、誰かが死ぬ前に読むべき本もあるのではないか、という視点は、確かにその通りだと思う。親が死ぬことに向き合い、保険になるような一冊が、『楢山節考』なのだ。

 「読まずに死んだらもったいない」作品は、すでに世の中に出ており、自分がまだ読んでないだけという前提でいたが、「いま連載中で、最終回になる前に死にたくない」という発想もあることを、sngkskさんに教えてもらう。


 その通り! 自分だけでなく、作者も含めて最終回まで死ぬなよ、と祈りたくなるような確定傑作。『グイン・サーガ』を終わらせられずに逝った栗本薫のことを考えると、『ワンピース』や『ヒストリエ』はそうなりませんように……と祈りたくなる。sngkskさんの激推しは原泰久『キングダム』、史実に基づいているので、最後は秦の始皇帝になるはずなのだが、とてもそう思えない逆境が続く。「読まずに死ねるか」級の、命をつかんで離さない確定傑作。これは読む!

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読まずに死ねるか!『キングダム』

 「読まずに死んだらもったいない」を、「仲直りせずに死んだら後悔する」と考えたのが、よしおかさん。そして、数学と仲直りするためのベストな一冊、吉田武『虚数の情緒』をお薦めする。思い返せば、三角関数を習ったあたりから、数学を避けてきたという。仕事や生活で、直接三角関数を扱うことがないけれど、それは表立って出てこないだけで、3DCGや力率など、数えきれない裏側を支えていることは分かっている。

 だからこそ、数学を学び直したい。数学と和解したいという。この本を読んだからといって数学と仲良くなれるとは限らないけれど、1年前に読んでから、数学に対する苦手意識が随分減ったという。よしおかさんは「虚数の情緒読書会」を主催し、読みたい人、読んだ人、読んでいる人でゆるゆると語り合っているので、興味のある方はぜひどうぞ。かくいうわたしは、200ページのあたりで挫折中なので、この機に再開してみようかと。

S02

数学と仲直りするための『虚数の情緒』

 「読まずに死んだらもったいない」のド直球、こんなに面白い本を知らないなんて、人生損している! と断言できるのが、やすゆきさんが持ってきた『シャンタラム』(グレゴリー・デイヴィッド・ロバーツ)、oyajidonさんお薦めの、『背教者ユリアヌス』(辻邦生)。どちらも、予備知識ゼロでいいから(むしろネット検索しないでと言いたい)とにかく読め、という徹夜小説であり夢中小説でありスゴ本。『シャンタラム』は読んだけれど([『シャンタラム』はスゴ本])、『ユリアヌス』は凄い凄いと聞いているので、読む!

シャンタラム1シャンタラム2シャンタラム3
背教者ユリアヌス1背教者ユリアヌス2背教者ユリアヌス3

S01

『背教者ユリアヌス』は徹夜小説

 おそらく、ケン・フォレット『大聖堂』、中島らも『ガダラの豚』、古川日出男『アラビアの夜の種族』といった、四の五の言わず読め、面白いことを保証するから。そして、万が一にも、これより面白いものがあるならば、教えて欲くれ、という傑作なんだろうなぁ……

S05

ドーキンス『進化の存在証明』は読みたい

 以下、集まった「読まずに死ねない」マスターピースばかり。皆さんのお薦めは、[読まずに死んだらもったいない]で募集中ですぞ。ぜひ、教えて欲しい。

  • 『アイデア大全』読書猿(フォレスト出版)
  • 『侍女の物語』 マーガレット アトウッド(ハヤカワepi文庫)
  • 『チャイナ・メン』マキシーン・ホン キングストン (新潮文庫)
  • 『楢山節考』深沢七郎(新潮文庫)
  • 『虚数の情緒』吉田武(東海大学出版会)
  • 『ニューロマンサー』ウィリアム・ギブスン(早川書房)
  • 『流転の海』宮本輝(新潮文庫)
  • 『女生徒』太宰治(新潮文庫)
  • 『寄生虫なき病』モイセズ・ベラスケス=マノフ(文藝春秋)
  • 『源氏物語』谷崎潤一郎訳(中公文庫)
  • 『国をつくるという仕事』西水美恵子(英治出版)
  • 『幸田文の箪笥の引き出し』青木玉(新潮文庫)
  • 『この世の美しきものすべて』ヤロスラフ・サイフェルト(恒文社)
  • 『背教者ユリアヌス』辻邦生(中公文庫)
  • 『誘拐』本田靖春(ちくま文庫)
  • 『本当に生きるための哲学』左近寺祥子(岩波書店・岩波現代文庫)
  • 『BUTTER』柚木麻子 (新潮社)
  • 『紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている』佐々涼子(早川書房)
  • 『トーマスのほん』
  • 『キングダム』原泰久(集英社)
  • 『ふたりからひとり ときをためる暮らし』つばた英子 つばた秀一(自然食通信社)
  • 『シャンタラム』グレゴリー・デイヴィッド・ロバーツ(新潮文庫)
  • 『くらやみの速さはどのくらい』エリザベス・ムーン(ハヤカワ文庫)
  • 『アルジャーノンの花束を』ダニエル・キイス(ハヤカワ文庫)
  • 『マーリー 世界一おバカな犬が教えてくれたこと』ジョン・グローガン(ハヤカワ文庫)
  • さくら学院6th アルバム『約束』
  • 『読んでいない本について堂々と語る方法』バイヤール,ピエール(ちくま学芸文庫)
  • 『学習の図鑑LIVE植物』
  • 『小説 言の葉の庭』新海誠(角川文庫)([柏大輔『88』]を聴きながら読むと良いとのこと)
  • 『全国アホ・バカ分布考―はるかなる言葉の旅路』松本 修 (新潮文庫)
  • 『花の慶次』隆慶一郎/原哲夫(ジャンプ・コミックス)
  • 『種の起源』チャールズ・ダーウィン(岩波文庫)
  • 『ビーグル号航海記』チャールズ・ダーウィン(平凡社)
  • 『進化の存在証明』リチャード・ドーキンス(早川書房)
  • 『烏に単は似合わない』阿部 智里(文春文庫)
  • 『獣の奏者』上橋 菜穂子(講談社文庫)
  • 『東方の夢―ボナパルト、エジプトへ征く』両角 良彦(講談社文庫)
  • 『オイラーの贈物』吉田 武(東海大学出版会)
  • 『コインロッカー・ベイビーズ』村上龍(講談社文庫)
  • 『ドラえもん』藤子不二雄(小学館)
  • 『勇午 ロシア編』赤名 修/真刈 信二(講談社漫画文庫)
  • 『キラリと、おしゃれ―キッチンガーデンのある暮らし』津端 英子/津端 修一(ミネルヴァ書房)
  • 『南アルプス山岳救助隊K-9 レスキュードッグ・ストーリーズ』樋口明雄(山と渓谷社)
  • 『るろうに剣心』和月 伸宏(ジャンプ・コミックス)
  • 『新平家物語』吉川英治
  • 『私の生きた証はどこにあるのか』H.S.クシュナー(岩波現代文庫)
  • 『冴えない彼女の育て方』丸戸史明(富士見ファンタジア文庫)
  • 『不在の騎士』イタロ・カルヴィーノ(白水Uブックス)

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『勇午』は面白いぞ!

 次回のスゴ本オフのテーマは、「ハマる瞬間」。恋でも趣味でも運命でも、なにかにハマる瞬間、墜ちるトキメキがテーマですぞ。その瞬間が描かれた作品そのものを持ってきてもいいし、その作品にハマった自分自身について語ってもよし。本でも音楽でも映像でもゲームでもなんでもOK、6月に渋谷でする予定です。

 最新情報は[スゴ本オフ]をチェックしてくださいませ。

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生きるための保険『私の生きた証はどこにあるのか』

 自殺した人が遺す言葉は、「死にたい」というよりも「生きたくない」が多いと聞く。

 死にたい理由が100あっても、生きる理由が1つでもあれば生きる。何のために生きるのか分からなくなったら、たった一つの死にたい理由に背中を押されてしまうのか。そんな背中に、アンパンマンのマーチは深々と刺さる。

何のために生まれて
何をして生きるのか
答えられないなんて
そんなのは嫌だ

 そんなとき、生きる理由を探すのは危険だ。なぜなら、自分にとって目標としてたもの、夢、愛する人や何かを一つ一つ思い浮かべても、一つ一つ消していくだろうから。生きる理由「だったもの」を拾い上げては捨ててゆく、そんな悲しい作業となるだろうから。

 だから、そんなときは、いきなり解答を見よう。『私の生きた証はどこにあるのか』に書いてある。しかも、最初の章にまとめてある。

 ほら、難しい数学の問題を解くことを考えてみよう。うんうん悩んで試行錯誤して「解」に到達することも尊いが、まずは解答と解説を見てしまって、自分のチカラで解けるかどうかを逆算するのだ。制限時間が限られているときほど、効率がいい(特に、死にたくなったとき)。

 何のために生きるのか? 富か、友か、知恵か、名誉か、妻子か。答えのエッセンスは、聖書の中の最も変わった聖書と言われている「コヘレトの書」にある。ここだ。

「さあ、喜んであなたのパンを食べ、気持ちよくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れてくださる。……太陽の下、与えられた空しい人生の日々、愛する妻と共に楽しく生きるがよい。……何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。いつかは行かなければならないあの陰府(よみ)には、仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ」
コヘレトの言葉 9章7-10節

 序章のここを読んだとき、正直、分からなかった。これがどうして「生きる意味」になるのか。本書はこの解答の「解説」だといっていい。コヘレトの言葉にまつわる物語や、同じ悩みに苦しみ乗り越えた古今東西の人々のエピソードを紹介しながら、著者は、この疑問に一冊かけて答えてくれる。

 たとえば、オスカー・ワイルドの言葉を紹介する。

「この世には、二つの悲劇がある。
一つは人が望むものを手に入れられない悲劇である。
もう一つはそれを手に入れた悲劇である」

 成功することにどれほど頑張ったにせよ、成功が私たちを満足させることはないという。ペシミスティックな、ともすると無常観を漂わせながら、幸福の追求は間違った目標だと説く。何が幸せかを他人任せにすると、誰かが定義した「幸せ」を、一生涯かけて追い続けることになると警告する。

 幸せは蝶のようなもので、追いかければ追いかけるほど、遠ざかり隠れてしまうという。追いかけることをやめ、虫取り網を捨て、満足できる人生とは何かという大きな答えではなく、ささやかな多くの答えを大切にせよと説く。

 あるいは、ノーベルの死亡記事のエピソードを紹介する。

 アルフレッド・ノーベルは、生きているときに自分の死亡記事を読むという、めずらしい経験をする。ノーベルの兄が死んだにもかかわらず、新聞記者が間違えて、アルフレッドの死亡記事を掲載してしまったのだ。そこでは、ノーベルは、戦争を効率化するダイナマイトを発明したことで巨万の富を築いた人物と描かれていた。

 自分が死と破壊の商人として記憶されることに衝撃を受けたノーベルは、自分の財産を元手にして、賞を設立することにした。物理学、化学、生理学・医学、文学、平和という分野で、顕著な功績を残した人物に贈られる賞である。いまや彼は、大量破壊・殺人兵器で大金持ちになった人ではなく、設立した賞ゆえに記憶されている。

 もっとも印象深かったものは、「コヘレトの言葉」の物語だった。

 著者は、富、名声、ハーレムの美女などすべてを持っていた。充分な教養を持ち、人生に取り組んでいた。生きる意味を追い求め、長い年月をかけて探し求めたが、「○○○を手に入れることで人生の諸問題を一挙に解決する」その○○○を見つけることはできなかった。代わりに、一つの大きな解答を見つけようとしても無駄だということに気づいたという。人生は瞬間の連続であり、その一つ一つを精一杯生きることが幸せになるということなのだ。

人生を、見返りや喜びを探し求めるための時間であると考えていると、生きていることが何を意味するのかを完全に誤解してしまいます。躍起になって欲求不満をつのらせながら、人生を価値あるものにするであろう成功や見返りを日々、年々くまなく探し求めることは、明らかな答えを見逃し続けていたようなものです。自分がいかに生きるべきかを学ぶことができれば、人生そのものが見返りとなるのです。

 そして、「人生は、私に何を用意してくれるのか?」と問うのをやめて、「私は人生で何をするのか?」と問いはじめよと言う。逆だったんだね。人生から何か価値を受け取るつもりで生きるのではなく、人生に何か価値あるものを渡せるか? という姿勢で今を生きよというのだね。

 人生を微分すると今になる。今の、一つ一つの瞬間こそ人生なのだ。これは、そんな人生の保険となる。文字通り、生きるための保険だ(世にある「生命保険」は定義上「死亡保険」である)。著者は『なぜ私だけが苦しむのか』のクシュナーだ。こちらは、人生を二分するような酷い運命に苛まれるときに、思い出してほしい。

 『私の生きた証はどこにあるのか』『なぜ私だけが苦しむのか』は、タイトルだけでも覚えておきたい。「死にたい」というよりも「生きたくない」ときに、思い出すために。

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物語は、騙られるときにのみ存在する『不在の騎士』

 これは面白かった!

 中世の騎士道物語のフォーマットに則りつつ、ユーモアたっぷり、ちょっぴりエッチ、ハラハラドキドキさせられる。わずか200ページの中で、読み手を大いに笑わせ、泣かせ、驚かせながら、「存在するとはどういうことか?」という物語的実在論ともいうべき深い問いまで突きつけてくる。

 主人公は、白銀に輝く甲冑を身にまとったアジルールフォ。剣は一流、勇猛果敢、教養深く弁も立つ。15年前、とある淑女を悪漢から救い出して以来、数々の武功を立ててきた騎士の中の騎士である。ただし、鎧の中は空っぽだ。肉体を持たず、意思の力だけで存在する「不在の騎士」は存在するのか。

 そこで、おっさん世代なら『銀河鉄道999』の車掌さん、若い人なら『鋼の錬金術師』のアルフォンス・エルリックを思い浮かべるかもしれぬ。面白いことに、それ、正解なのだ。

 車掌さんが制服の下が空っぽなのを告げるのは、「車掌」という役割がもう必要とされなくなる物語のラストになる。また、アルフォンスが鎧を必要としなくなるのは、「肉体を取り戻すための」エルリック兄弟の冒険が終わるときだ。

 その役割や目的が(失われたり達成されることで)なくなると、それを担っていた制服や鎧が、なかったことにされる。言い換えるなら、その役割や目的といった"存在意義"のために、外殻が必要とされるのだ。

 では、最初から肉体を持たず、"存在意義"だけで存在する「不在の騎士」はどうだろう? 王に仕え、貴婦人に献身する、騎士道精神を具現化した存在で、自分が何者であるかを充分にわきまえている。その最初の武勲「15年前に救い出した処女」の処女性が疑われ、騎士の資格を問われることになる。かくして自分の存在意義の証を立てるべく遍歴の旅に出る。

 その旅は、ドン・キホーテやオイディプス王、ミュンヒハウゼン男爵の冒険を彷彿とさせつつ濃密に(なにしろページが足りない)"巻き"で進行する。漫然と物語に身を任せても楽しめるのだが、そこに仕込まれた寓意に気付くと地雷だらけになっていることが分かり愕然とする。

 即ち、「物語は、語られるときにのみ存在する」という事実だ。これは、自分の武勇伝を誇張して吹く武人たちや、この「"不在の騎士"という物語」を語る修道尼のエピソードに埋設されている。フィクションをフィクションたらしめているのは、それを語る人が「お話」として扱っているから。

 その語り手の次元は、語られたフィクションからすると"ノン"フィクションになる。語り手が物語りを「騙る」のは、武勇を大きく見せたいとか、修行の一環であるといった動機が必要だ。

 騙る動機が(失われたり達成されることで)なくなると、それを担っていた物語が、なかったことにされる。言い換えるなら、その動機のために、外殻すなわち物語が必要とされるのだ。メタフィクショナルな展開に驚きつつも、この物語における「不在」の二重性に舌を巻く。これは凄い

 著者は文学の魔術師イタロ・カルヴィーノ。架空の都市の見聞録を描いた『見えない都市』に触れたときも、銀河鉄道999とつなげて読んだ→[『見えない都市』と銀河鉄道999]

 物語は、騙られるときにのみ存在する。メタで濃密で極上の物騙りをどうぞ。

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形が進化するとはどういうことか『形態学』

 「動物の形が進化するとはどういうことか」という問題に取り組んだ生物学の歴史を振り返りながら、形態学を体系的に説明してゆく。面白いのは、形態学の歴史に、体の構造と形に対する観念の変遷が垣間見えるところ。

1. どのようにそんな形になってきたのか(仕組みの問題)
2. なぜそのような形になっているのか(意味の問題)

 「どうしてそうなっているのか」という問いかけには、二つの問題が潜んでいる。1.の仕組みやメカニズムを問う、"how"と、2.の理由や意味を問う"why"である。科学者は、観察や実験を経て1.を分析するとともに、一貫性のあるストーリーで2.を説明づけようとする。

 "how"の答えと"why"の答えの間に恣意性や当時の観念が入り込み、話をややこしくする。分けて考えることで議論はシンプルになるにもかかわらず、"why" に答えたい欲望が科学を推進させる。科学の見方にキリスト教的な観念が入り混じる。そこが面白い。

 たとえば、「個体発生は系統発生を繰り返す」ヘッケルの反復説が紹介される。胚の形が受精卵から成体の形へと複雑化することと、自然史における動物の複雑化との間に並行関係を見出したものだ。魚、カメ、鶏、ヒトの初期の胚の画像を並べた図を見たことがあるだろう。成体へのプロセスは、進化のプロセスを辿り直しているという主張だ。

 実例として、初期に形成される鰓裂は、哺乳類では使用されることなくすぐにふさがってしまうから、哺乳類が魚類を経て進化した証拠が挙げられる。


[Wikipedia:反復説]

 この画像は、当時観察されたことのないヒトの初期胚を、見てきたような体で描くだけでなく、意図的に単純化されたものだという。

 「下等な」動物から「高等な」動物へと並べる系列をつくると、それは個体発生過程のアナロジーになる。だが、「下等」「高等」といった評価は、人間の主観による不正確な概念でしかない。体の形は、その生物が適応してきた結果にすぎず、環境が変われば形が変わるのは当然であり、そこに上も下もない。

 そこで単純に進化を辿り直しているわけではなく、祖先において存在した前駆体をベースとして、それぞれの環境に合わせ、派生的な特徴が加わったり、二次的に変形・消失することによって適応しているというのだ。

 反復説のエビデンスとして挙げられる「哺乳類の発生初期の鰓裂」は、次のように解説される。エラが不要だからふさがるのではない。エラに分化する前の段階から、エラでないものに分化していく。具体的には、咽頭弓(鰓に分化する前段階である)から、顎、中耳、口蓋扁桃、胸腺、副甲状腺に分化する。

 これは、咽頭弓から発生する組織構造の多様化にもあてはまる。すなわち、顎口類(サメなど)の「顎」、陸上脊椎動物における音を伝える「耳小骨」、カメレオンやキツツキの長い舌の運動を支える「支持骨格」、エリマキトカゲが威嚇に用いる「エリ」などがそれにあたる。

 これらの器官は、水中での呼吸とは関係のない機能を果たしているが、その基本構造は、咽頭弓ができ、そこに神経堤細胞が流入し、さらには発現のスイッチを入れるホメオボックス遺伝子Dlxが発動し、そしてやっと動物ごとの独特の変形を加えることができるという。

 エリマキトカゲのエリを作り出しているのは、トカゲ独特の発生プログラムだが、それが働くためには、脊椎動物の基本的な咽頭弓の発生プロセスがまず遂行されなければならない。仮に発生中に咽頭弓ができなければ、高度な器官構造も発生できない。言い換えるなら、咽頭弓ができなくなるような変異は、淘汰を通じて消えてゆく。

 いまあるものをベースに、構造を使いまわし再利用してゆかざるを得ない。生きている体というのは、航海中のノイラートの船団のようだ。うまく行かないからといって陸に上げて一から作り直すわけにはいかない。進化のプロセスの中で、少しずつ改善してゆくしかないのである。

 発生も進化も、時間軸に沿って形態パターンが複雑化、組織化されてゆくプロセスであり、両者に平行性を見出すのは、自然な発想だという。だが、人を動物の上位に置く価値観が、仕組みの問題(どのようにそうなのか)を、意味の問題(なぜそうなのか)として応えようとしている動機が見える。

 ゲーテの観念論的形態学にも、同様の動機が透ける。ゲーテは、動物がとる様々な形に、「理想像」あるいは「原型」を当てはめようとしたが、プラトンのイデア論を生物学に適用したものだろう。

 観察者の思考に浮かび上がる「原型」というイメージは、理解のための良いアナロジーとはなるものの、何ら実体をともなったものではないという。事実上、それは動物や植物が発生の初期に成立させる、一次的な原基の配置や分節パターンのなす一般形態であり、最初のノイラートの船にすぎない。ここにも、仕組みの問題の背後に意味の問題が隠れている。

 形の後ろに意味がある。その意味を探すと、さらに面白く読める。

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メタファーから解く時間論『時間の言語学』

 時間とは何か? 言語学からの腑に落ちる解答。「時間」について思考の奥底で抱いていた認識が暴かれる一冊。

 アウグスティヌスは、この問題の本質を端的に語る。「時間とは何か。人に問われなければわかっているが、いざ問われると答えられない」。「時間論」といえば、これまで物理学や天文学、哲学や心理学、社会学からのアプローチがあった。それぞれの分野での見解はあるのだが、著者はこれに疑義を呈する。

 つまりこうだ。どの学問領域であれ、時間の「流れ」や「進行」を口にしながら、その方向を当然のように過去から未来へと想定している。ビックバンをはじめとして、時間の「矢」は未来へと向かっている―――ここから疑い始めている。そして、「時間とは何か」に直接答えるのではなく、「時間をどのようなものとして捉えているか」という観点から、時間の本質に迫る。

 著者はレトリックを専門とする言語学者。日本語と英語の豊富な事例を駆使しながら、時間に関する私たちの認識を炙り出す。その強力な武器は、メタファー(隠喩)になる。「AはB」というとき、A(未知の概念)をB(既知の概念)を通じ、その類似性に基づき理解しようとする。

 メタファーは、単なる言葉の飾りではなく、本質をどのように言換え・捉えているかを知る視点であり認識範囲なのだという。あたりまえのように使っているため気にも留めないが、それゆえに、思考回路を牛耳っているのがメタファーだというのだ。

 たとえば、「時は金」。これは、近代からの概念だという。1903年の小学校の教科書が初で、"Time is money"「時は金なり」という語呂のよさから成立した比喩であり、それが我々の思考回路を方向付けているというのだ。その究極の現れは「時間給」。すなわち、「働き」を成果や見返りではなく、時間で測るという考え方だ。

  • 時間を(お金のように)使う
  • 時間を(お金のように)浪費する
  • 時間を(お金のように)大切にする

 もちろん、時間は価値があるものだという点は大昔から変わらない。だが、それが「お金のようなもの」と刷り込まれることで弊害が出てくる。「人月」なんてまさにそれで、「お金で時間を買う」ことが可能だという考えが導かれる。妊婦を十人集めれば一ヶ月で赤ちゃんが出てくるわけではないのに、ソフトウェア業界だと本気でできると信じてる人がいるから驚きだ。正しくは「お金で買える時間もある」だが、「時は金」というメタファーは「時と金は交換できる」というバイアスを助長させる。

 意味と認識の仕組みであるメタファー思考に注意を促し、認識の偏りを炙り出す。本書は、様々な学問分野で当然のように使っている、時間の「流れ」そのものにバイアスが潜んでいると指摘する。時間は、「過去から未来に向かって流れてゆく」という表現が促す思考は、実は、錯覚だというのだ。

 この錯覚を明らかにするため、2つのキーワード「動く時間」と「動く自己」を提起する。

 「動く時間」とは、自分が留まっていて、未来が自分に向かってやってくるというイメージである。動く歩道の上に自分(=いま)が立っており、世界が通り過ぎてゆく感覚だ。この場合、過去は「以前」のものであり、未来は「以後」にやってくる。

  • 今後ともよろしくお願いします(今後=未来)
  • 以前の会議の議事録(以前=過去)
  • Spring has come(春が来た:春=冬の後に来る未来)
  • two years ago(2年前:2年もすっかり過ぎてしまって)「すっかり」を示す強意"a" + "go" の過去分詞 "gone"行ってしまった

 「動く自己」とは、自分が未来に向かって進んでゆくイメージである。過去は後ろにあり、未来は前に広がっている。世界はそのままそこにあり、それを認識する自分が、一瞬一瞬進み具合を更新してゆく感覚だ。この場合、過去は「後」にあり、未来は「前」に横たわっている。

  • 前途洋々(前に広がる=未来)
  • 昔を振り返る(振り返る後ろ=過去)
  • look back(過去を振り返る)
  • be going to (人を主語にして、決まっている予定をこれから行う=人から見た場合、未来は進む先になる)

 「動く時間」と「動く自己」、認識の仕方によって時間の向きが逆になる。両者を時間が過去から未来に向かって流れるという発想は、この「動く時間」と「動く自己」を混同しているところから生じる錯覚だというのだ。

 認識の仕方によって振る舞いを変える。このメタファー思考は非常に面白い。ただ、他の分野、例えば物理学で扱われる「時間」が錯覚だという主張は頷けない。

 自然科学での時間概念は、パラメータや物理量の一つとして扱われている[wikipedia:時間]。『時間とは何か (別冊ニュートン)』によると、時間の進む「向き」は問題として扱われていない。「過去から未来へ」といった表現は、あくまで一般向けに説明するための言い方であり、物理学そのものとしてはどちらでもよいというのだ。

 たとえば、ニュートン力学における時間の「向き」について、こんな思考実験が紹介されている。太陽系外で見つかった、未知の惑星の公転運動の記録フィルムがある。フィルムをある方向に再生すると、惑星の軌跡は右回りになる。フィルムを逆に再生すると、左回りになるが、どちらの映像も不自然さはない。

 これは、惑星の公転運動を支配するニュートン力学が、時間の向きを区別しないためにおきる現象になる。そして、ニュートン力学に限らず、マクスウェル電磁気学、アインシュタイン相対性理論、量子論はいずれも、時間の「向き」を区別しないというのだ。

 時間の「向き」が生じるのはこうした物理学を私たちに説明する際のメタファーに潜む。ここに着目すると、ジュリアン・ハーバーの見解が紹介されている。そのメタファーが面白くなってくる。

 曰く、時間とは量子論であらわされる宇宙の中にいる存在が経験する錯覚であり、物理学では創発的(emergence)な存在だという。創発的とは、本質的(fundamental)な何かから生み出されたものだという考え方である。

 たとえば、「温度」は創発的な性質を持っている。温度そのものは本質的なものではなく、分子と分子間の相互作用の結果、「温度」という概念が創発的に生まれてくる。

 一つ一つの分子の運動量は測定できないが、その統計値を我々は便宜上「温度」と呼ぶ。温度は、それを受け取る主体によって振る舞いを変える。体温計で測るならば、「(体温が)熱い」「熱が出た」というが、温度計で測るなら「暑い一日」になる。

 「熱い」は、熱源が主体の外側にあって、熱を受け取る感覚であり、焦点は熱源に当たっている。一方「暑い」は、熱源は主体の外側にあるものの、熱を感じている主体に焦点が当たっている。「温度」をどのようなものとして捉えているかによってメタファーが変わる。だが、それは創発的な概念を我々がどう表現するかという議論なのであり、ことさらその相違を強調しても詮無かろう。むしろ、その差異から、メタファー思考の偏りに気付くほうが、よほど面白い。

 言語学の時間論からメタファー思考を学ぶ一冊。

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文学の一つかみの砂金『文学理論講義』

 「なぜ学ぶのか?」に対する太宰治の回答が、なかなか素敵だ。

学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。
太宰治『正義と微笑』

 学問分野は様々だし、知はアップデートされる。だが、それでも残り続ける砂金というかエッセンスは必ずある。ネット検索に任せて学びを止めるのは、もったいないことだ。

 ピーター・バリー『文学理論講義』は、文学における一つかみの砂金に相当する。これは、文学に携わる人にとってのご褒美のような一冊で、文学理論のエッセンスがぎゅっと濃縮されている。これまでの教科書だったイーグルトン『文学とは何か』になり代わる、新しいスタンダードだといえる。

 あらゆる知と同じく、文学も守破離のプロセスを経る。すなわち、先達から学び、そこに疑いを抱き、独自の路を打ち立ててゆく。面白いのは、先達が踏んでいると批判したまさに同じ轍に後進が陥っているところ。理論は参照する/されるネットワークの中に浮かび上がるのであり、歴史や文化から独立した完全なる理論なんてものはない。文学におけるイデオロギーとして、理論が成り立っているのだ。

 まず、リベラル・ヒューマニズムが槍玉に挙げられる。「良い」文学作品とは、それが書かれた時代や文化の個別性を超え、人間性の普遍的な部分に語りかけてくる。「良い」文学作品は、一つの時代のためだけの作品ではなく、すべての時代のための作品、ニュースであり続けるニュースなのである―――なんてことは大嘘で幻想にすぎない、というところから理論は始まる。

 この伝統的な「良い」文学の前提を疑うことから、構造主義、脱構築、フェミニズム批評、新歴史主義、ポスコロ等が続々と繰り出される。その文学的イデオロギーが生まれた背景と、理論が乗り越えようとしたもの、そして実際にその理論に則った"読み"が解説される。

 だいたい、「良い」とは何か? 文学全集にある文学作品か? カノンとして長い時代を読み継がれているものか? それは、ある価値観に沿って高い評価を得たに過ぎず、その価値観は社会的・政治的な背景に依存している。

 それは、特定の人種・ジェンダー・階級の組合せの規範に「人間性」というラベルを貼って普遍性を醸しだしているだけなのだ。実際のところ、それはヨーロッパ中心主義で男性中心主義なものに他ならない(その例として、あえて女性作家ジェーン・オースティンの作品に潜む父権主義・帝国主義を炙り出すのが憎い!)。

 したがって、「人間性」という言葉で作品を偉大だと訴えかけることは、実際にはそこで語られていない―――女性や白人でない人々の集団を周辺化し、無視し、否定することになりかねない。あらゆる規範から独立した絶対的な価値観なんてないように、「偉大な」作品を絶対視することを疑ってかかる。文学を用いて前提となる常識を疑う。この姿勢、自分に潜むバイアスを抉り出されているようで面白い。

 典型的なのが、フェミニズム批評。男性主義に異を唱えるフェミニズム批評は、当時の風潮の後押しもあり、多大なる成功をおさめる。結果、「フェミニズム批評」という理論が制度化され、急進性を失う。その中でレズビアン研究者たちが自分の立場の急進性を主張し始める。

 つまりこうだ、フェミニズムは、人種や文化、セクシャリティの差異を考慮するのが難しくなり、「都市に住む白人」「中流階級」「異性愛」の女性のみ対象として普遍化する傾向が強まる。結果、「田舎住まい」「黒人」「同性愛」の声や経験は排除される。フェミニズムの中から、父権制度"もどき"を再生産しているという批判が現れる。そして、フェミニズムから袂を分かち、ゲイと手を携え「クィア理論」が生まれてくる。

 価値観の前提を疑う―――この姿勢自身もひとつの価値観なのだが、自らのバイアスを自覚しているのとしていないのとでは大いに違う。いるよね、勉強してきたことにしがみつき、それを金科玉条のごとく崇め奉り、それを脅かすものを蛇蝎の如く憎む輩。いわゆる「公式見解」こそが全てであり、他の解釈を聞き入れない―――すごくもったいない。

 作者の手から離れた作品を、どう料理するかは読み手に委ねられている。「作家の気持ち」なんてものは、いったんは考慮した読みをするものの、それだけに縛られて読むのは愚の骨頂なり。もっと自由に読んでいいのだ。

 たとえば、意味の多義性を求め、矛盾や対立、欠落を探す「木目に逆らって読む」方法が、ポスト構造主義の章で述べられる。テクストに逆らってテクストを読む。そこから得られる発見と喜びが、無上に素晴らしい。「俺の"読み"で合ってたんだ」と思う一方、その"読み"をひっくり返す理論に出会い、「いままで私は何を読んできたんだ!」と身もだえしたくなる。

 本書が優れているのは、それぞれの理論の"読み"をシミュレートしてくれているところ。ポー『楕円形の肖像』の全文が巻末にあり、それぞれの理論が、どう料理しているかが分かる。本文を読まずに、いったん自分の解釈をメモっておき、しかる後に理論へ踏み込んでいくと、自分の"読み"の傾向が浮かび上がってくるので楽しいかも(一方、もっと面白い"読み"に出会えるかも)。

 イデオロギーから離れ、テクニカルな手法を解説する「文体論」「物語論」も多くの発見があった。語りの手法で読み手の感情をコントロールするやり方が解説されている。ある文に接し、なぜあんな気分になるのか、どうしてこういう印象が得られるのか、手にとるように分かる。

 たとえば、ハーディの『テス』を俎上に、テスがいかにしてアレックに屈服するかは、テクストで描写されている内容だけでなくその形式にも現れるという。本書では、レイプシーンの文法構造それ自体によって示されているというのだ。アレックが肉体的・社会的な力を持っていることは、彼(または彼の属性)が文の主語になっていることが強調される。「彼は(主語)彼女に(目的語)触った」「彼の指は(主語)彼女のなかに(目的語)沈み込んだ」といったパターンをとることで分かる。

 あるいは、ミメーシスとディエゲーシスという語りの「モード」を例に、物語の焦点と緩急を解説する。ミメーシスは、「見せること、示すこと」であり、出来事がシーンとして具体的に再現され、直接見聞きしているような錯覚を与える。ディエゲーシスは、「告げること、述べること」であり、概観的あるいは要約的に語られ、必要な情報だけがかいつまんで伝えられる。

 語り手は、読者と登場人物の双方から何かを「隠す」。そいて、ミメーシスとディエゲーシスを使い分けながら、隠されたものを明らかにしてゆく。物語の本質は遅延(情報伝達を遅らせること)であり、良い小説を書くための秘訣は、「読者を笑わせ、泣かせ、かつ待たせる」ことだという。

 わたしが物語の何に心を動かされ、どのように「待たされ」ているかが、見えてくる。一種の種明かしを聞かされているようで、不安になるとともに、自分の「こころ」が透け見えて楽しい。

 これまで読んできた小説を通し、わたしの中に残っている「砂金」を確かめると共に、まだ手付かずの部分があることに気づき、嬉しくなる。

 文学は、楽しい。それは、バイアスを映す鏡であり、世界の見方を変える立ち位置であり、何よりも人生に隠された芳醇さを味わう舌だ。生きて読むことの喜びを、あらためて教えてくれる、得難い一冊。

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